2013年04月30日(火)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3



信仰生活には、様々な辛い事も起こる。人から言われのない批判や非難を受けて、腹が立ち、悩んだり、又、納得の行かない出来事に、イラ立つ。そして弱さのゆえに、保身に走ってしまう。目の前の状況に対し、自分のせいではないと、自分を正当化し、人のせいにしたり、責任転嫁してしまったりする。そんな時は、自分自身が最も苦しい。自分の弱さを認めないので、心は疑心暗鬼になり、疑いや怒り、不信感で、自分の心は辛くなる。悶々となり、どうにも出来ない。

こんな時はどうすれば良いのか。まず、そのままの気持ち、思いを、「わたしを呼べ」と言われる主に告げて行くことだ。誰にも言えない思いを、心の内をあるがまま、正直に主に打ち明けよう。その気持ちを受け止めて下さる。そして、自分にはどうにも出来ない、どうにも動かせない、その問題を、主に委ねよう。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。

ある人が、経済的苦境でパニックになり、主に祈ることも、頼ることもなく、安易に消費者金融から借金し、大変な刈り取りをする事になった。主に祈らず、頼らなかった結果、厳しい訓練を受けた。後の日になって、主に頼り、委ねていたなら、必ず主は与えて下さったと確信できた。主は助けて下さる。苦境には、自分で立って、動き回らず、まず第一に主に呼ばわり、主に告げよう。
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「わたしを呼べ」といわれる神が私達の側におられる。考えたり悩んだり動き回る前に、まず主よ!と助けを求めよう。必ず主が事をまた私たちの心を動かして下さる。


2013年04月29日(月)

「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ』と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます」詩篇27:8


人は、順風満帆の時、物事がうまく運んでいる時は、なかなか主を求めない。主に頼らなくても、自分で歩んで行けるので、主が飛んでしまっている。何かに行き詰まった時に、物事がどうやってもうまく行かない時、失敗したり、挫折したり、健康を損なったり、災難に会った時に、主を求める。主を求めるのは、試練の時だ。

又、強い願望がある時、受験や就職試験の合格や、どうしても進みたい進路があったり、何かがどうしても欲しい時に、主を求める。しかし、欲しい物を手に入れると、又、主を忘れる。物をもらう手段になってしまう。荒野のイスラエルのように、「苦しい時の神頼み」で、問題が過ぎ去ると「順調な時の神離れ」になる。苦しい時に、主に頼るのは良いが、そこにとどまるのでなく、「時が良くても、悪くても」晴れの日も、雨の日も、絶えず主と共に歩む、真の喜びへ導きたいと願っておられる。

ある婦人は孫を可愛がり、とても愛していた。しかし、孫が連絡をして来るのは、お金が必要な時だけだった。その他の時は、いっさい連絡は無かった。彼女は孫と会いたいし、いろんな話を聞き、交わりたいと悲しくてならなかった。私たちも、御父のもとへ行くのは困った時だけだろうか。そうではなく、御父は日毎にあなたの声を聞き、語りかけ、交わりたいと願っておられる。交わりを待っておられる。「あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい」と。
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苦しい時、困った時だけの求めではなく、常に主の御顔を仰ぎ慕い求めていたい。些細なつぶやきも喜びも主に語り、主と共に歩んでいる実感を味わっていたい。


2013年04月28日(日)

「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わ します」詩篇142:2


信仰生活で、苦しい時、辛い時、悲しい時を、必ず経験する。そん
な時、どうすればよいのか。その心をどこに持って行けばよいのか。
聖書に答えがある。

「主よ。いつまでですか」「私を永久にお忘れになるのですか」
「いつまで御顔を隠されるのか」「主よ。黙っていないで下さい」
「私のたましいは御前で絶望しています」「主は、いつまでも拒ま
れるのか」「神はいつくしみを忘れたのだろうか」「私の心には1
日中悲しみがあります」・・

ダビデや詩篇記者は、赤裸々に、自分の嘆き、苦しみ、辛さ、悲し
み、怒りを主に訴えている。問題の無い振り、大丈夫な振りをしな
いで、又、隠さずに、ネガティブな事だと否定してしまわずに、率
直に、あるがまま、そのままの心の内を告げている。

詩篇を見て行くと、心の嘆き、叫び、募る思いを、ことごとく主に
告げて行った後、後半が賛美と感謝に変化している。一体、いつま
でこの状況が続くのか、と訴えた後には、「私はあなたの恵みに拠
り頼み、私の心はあなたの救いを喜びます」「主に歌を歌います」
と心が変えられている。

不思議だが、主に叫び、主に訴えて行くことで、正直に主に心を告
げてゆくことで心が変えられ、成長して行ける。とにかく主に向か
う事が大切だ。自分の内に悶々と、とどめるのでなく、主に向かお
う。心が変えられることを経験する。

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詩篇では、率直に嘆きを不安を、怒り、苦しみをそのまま主に訴え
た後、後半が讃美に変わっている。主に聞いて頂いて、受け止めら
れた時に、心が平安に変えられる。主は受け止めて、最善をして下
さる。今の苦しみをことごとく打ち明けよう。


2013年04月27日(土)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは 大きな報いをもたらすものなのです」ヘブル10:35



主は、アブラムに、子孫が天の星のようになると語って下さった。
彼は、その約束を信じていた。しかし、待てども、待てども、なか
なか実現しない。当時は、夫婦に子供が無い場合、奴隷により跡継
ぎを得ていた。自分たちはどんどん年をとって行く。忍耐ができな
かった。

それで、サライが、主が産めないようにしておられるのだから、女
奴隷によって子供を持とうと提案した。アブラムはサライからの申
し出であり、奴隷ハガルのもとに入った。しかし、この時アブラム
は祈らず、主の御心を求めなかった。

サラの言葉を受け入れ、自分の思いで行動してしまった。肉は、一
見良い考えに思え、万事うまく行くように思えるが、必ず大きな問
題を招く。妊娠したハガルは、子供のないサラを見下すようになり、
サライはハガルをいじめた。家庭内に不和と混乱が生じた。イシマ
エルは後々まで根深い問題を生じた。

その後、時を経て、アブラムの人間的な力が絶えた時に、イサクが
与えられた。約束のものを得るために必要なのは忍耐だ。肉の知恵、
肉の力で動かずに、主が動かれる時をじっと待つことが忍耐だ。必
ず「神の時」に、みわざは成される。

忍耐は簡単には身につかない。教えだけでは身につかない。主は待
つことを通し、私たちに実際に忍耐を培って下さる。神の御心を行
なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐だ。

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主を待たずに、自分の思いで行動すると、イシマエルを産み出して
しまう。主を待つという過程を通らずして、忍耐が培われようがな
い。もし今、待つ時であれば、肉で動かず、主を信じてじっと待と
う。主が動かれる。


2013年04月26日(金)

「私のたましいを御手にゆだねます。真実の神、主よ。あなたは私を贖い出してくださいました」詩篇31:5



ダビデは、サウル王に代わって、主から選ばれた器だった。サムエルが主から、エッサイのもとに遣わされ、羊飼いの少年ダビデに会った。ダビデはサムエルから油注ぎを受け、主の霊が、ダビデの上に激しく下った。イスラエルの王と定められていたが、その過程には、長い厳しい下積み時代があった。ダビデは忠実に、主と、サウル王に仕えた。

ゴリアテを倒したまでは、サウルの愛顧を受け、良かったが、ダビデの勝利に次ぐ勝利で、サウルの妬みをかう事になってしまった。女たちが笑いながら、くり返し「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌った。これがサウル王を激怒させた。「サウルは千を打ち」だけなら良かったが、「ダビデが万」がサウルのプライドをひどく傷つけた。結果、サウルはダビデをつけ狙うようになった。

ダビデは槍を投げつけられ、追い回され、命を狙われた。常にいつ殺されるかわからない、死と隣り合わせの日々だった。どんなに恐怖で不安だったろう。しかしこの期間により、ダビデの忍耐と信仰は練られ培われた。自分の手で、サウル殺害のチャンスがあったが、いっさいを主の御手に委ねた。

自分でどうにかせず、ただじっと主を待ち望んだ。この厳しい苦しい時を通る事により、委ねる生き方が身についた。私たちも時に、極めて厳しい状況を通る。それは委ねる生き方が、自分のものとされるためだ。これは実地訓練であり、通らなければ、決して身につかない。
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もう委ねるしかないと追い詰められるまで、なかなか主に渡せない。ゆだねて、主の御わざを拝し、心からへりくだり感謝する経験は辛くても幸いな訓練だ。自分の手の届かない心配の中も必ず主が良くして下さると信じ祈って行ける。


2013年04月25日(木)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩編73:28




ある人に、次から次へと立て続けてに試練が臨み、極めて厳しい状況だった。余りの心労に、心がふさがれるようで、辛く苦しくて、聖書を開く事も、祈る事も出来なかった。神がおられる事はよくわかっているのだが、自分は祝福されていないと思った。周囲の人々が楽しそうで、幸福そうに見えて妬ましかった。何で?自分だけがどうして?自分だけが不幸に思える。皆はいいよねと、反発心まで出て来る。

冷静に考えるとそうではないのだが、心に余裕が無いので、目の前の状況に振り回され、落ち込むばかりだった。そんな中、自分は祈れないが、牧師夫妻や、信仰の友人たちが心配し、懸命に祈ってくれていた。友が訪ねてくれるが、突っ張って素直になれない。でも、もう一つの心は、こんな反発する自分をわざわざ訪ねてくれて有難いと思う。そんな中、立ち直れたのは、周囲の祈りとやはり御言葉だった。

頑なな心があり、しかし全く平安は無く、これでいいはずはないと思う。そんなぐちゃぐちゃな心を主に向けていた時に、ふっと御言葉が臨んで来た。その直後に、牧師夫人が送ってくれた御言葉が全く同一の言葉だった。その時主を膚で感じ、主が働いておられる事を感じた。その御言葉から、光が来て、頑なな心を悔い改める事ができた。そして、信じて行こうと思えた。主から離れていて、主との関係が正しくなかった事がわかった。平安が戻り、喜びが溢れた。
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いらだつ時も、不安な時も、ふと主を見あげると心にすーっと平安が戻り、自分中心の見方から御霊に導き返されるのがわかる。神の側にいることが、いつも幸せの源だ。


2013年04月24日(水)

「葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた」マルコ11:13 


当時、道に生えた野生のいちじくは自由に食べていた。主がいちじくを食べようとしたが、葉のほかには何もなく、実がなかった。「いちじくのなる季節では無かった」ので、当然と言えば当然だが一つの実も無かった。いちじくはイスラエルの象徴であった。エレミヤ書でも「この良いいちじくのように、わたしは・・良いものにしようと思う」「わたしは、良くするために彼らに目をかけ」と。

立ち返るようにと熱い愛を注がれたに関わらず、「葉のほかに何もない」と、ユダヤ人への嘆きだった。宗教指導者たちが、メシヤを受け入れない事への警告であり、さばきであった。細かい儀式は、きっちり行なうが、その心は神から遠く離れている。形式はあるが中身がない。葉ばかり茂って実がない。祈りの家が強盗の巣になっている。イスラエルの現実であり、生きた信仰がない事実を教えようとされた。

そして「神を信じなさい」と、信じるなら、山をも動くと、生きた、真に実を結ぶ信仰について語られた。山は不動のものであり、動くわけがない。しかし、主を信じ、祈りが聞かれると信じて行く時、私たちが不可能と思っている、絶対に無理、どうにもならないと思っている、その目の前の山が動くと。あなたの山は何だろう。その時に、「赦さない心」が大きな妨げとなる。赦さない心があるなら実を結ぶことができない。赦すべき相手があれば、御霊に助けていただこう。
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祈っていて心に赦せない裁く思いに気づいたら「赦せますように」と祈ろう。主よ、主よと祈るが祈りの時が実のない習慣ではなく、真実に自分自身を主に明け渡せるよう、信仰を献げて祈りたい。


2013年04月23日(火)

「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」ローマ12:19 



            
攻撃されたり、傷つけられたり、裏切られたりすると、憎しみが湧き、仕返しがしたい、復讐したくなる。むしろ復讐が正しいことのように思えてしまう。又、傷つく言葉が投げられると、言い返したいと思う。一言言い返せば、すっきりする。ここで言わなければ、相手は図に乗ると思う。これは肉から来ていて、言い返すなら、争いになり、険悪になり、必ず平安が失せる。やられたら、やり返し、これはとどまる事がない。

しかし、主は「自分で復讐してはいけません」と言われる。「神の怒りに任せよ」と。「復讐はわたしがする」と。この事が信じられないので、神は何もしてくれないだろう、と思うので、神に任せておけないと、自分で仕返しをすることになる。それは、主の前に、自分が立ちはだかり、主のみわざをとどめることになってしまう。悪に対する怒りを、主に委ねることだ。神の怒りに任せることだ。完全に正しい方が、正しい裁きをして下さる。

更には、攻撃して来る相手に、愛で立ち向かえと。「もしあなたの敵が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませよ」と。悪に悪で報いるのでなく、親切をもって報いよと。そうするなら、彼の頭に燃える炭火を積むことになる。愛で返す事によって、相手は良心のかしゃくに、罪を示される。悪に負けるな。善をもって悪に勝てと言われる主は、私たちが明け渡して、拠り頼むなら、そうできるよう助けて下さる。
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悪を受けると、相手に対する裁きや憎しみは勢いよく燃え上がる。心の中でいつまでも攻撃していたいが「悪に負けるな、善をもって悪に勝て」これが私達の戦い方だ。主に祈り、怒りを主に渡そう。


2013年04月22日(月)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩編55:22

       

ある人が、時間をかけて祈りに祈った上で、導きを確信して、神学校に入学した。主の導きであるので、経済的な必要は、必ず備えて下さると信じての入学だった。当座は貯えから生活していたが、突然の不意の出費や、様々な必要が生じて、途中で、貯えが尽きてしまった。進級時に、授業料が払えなくなった。授業料が払えなければ退学だ。必要が与えられるよう必死に祈りに祈った。御心を確信して来たはず、主は必要は必ず与えて下さるはず、祈りに祈ったが与えられなかった。奨学金の道も開かれなかった。

「導きを信じて、職も捨てて、郷里から出て来たのに、なぜ?」と、尚も祈ったが、与えられなかった。祈り抜いた結果なので、これが神の御心と受け止め、学校を辞めて帰ろうと思った。なすすべなく、最後に自分自身も将来も明け渡して、今後の事も主に委ねた。すると、不思議な事に、それまでの不安や、思い煩い、様々な思いでいっぱいだったが、その時、心がすうっーと、なぎになり、平安で満ちた。そして、そのすぐ後だった。自分宛に無名の献金が届いている知らせを受けた。

授業料と生活費に必要な額だった。その事を通して教えられた。祈る事は祈るのだが、自分の力で、御心を行なおうとしていたことを。委ねる意味も頭でしか、わかってはいなかった。窮地の取り扱いを通して、初めて委ねることの実際を知った。今、あなたも委ねる事を教えられているだろうか。
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委ねようと祈った先から心配事がわいて来て、また思い巡らす。少しも委ねきれていことがある。本当の心配事は何なのか、自分でもわからない不安や焦りの正体も祈りの中で示される。一つ一つ預けていこう。


2013年04月21日(日)

「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその 事は、すでにかなえられたと知るのです」Tヨハネ5:15


祈りが聞かれないと思っているだろうか。「求めなさい。そうすれ
ば与えられます」と。神は求めに答えて下さるお方だ。だから、私
たちは求める必要がある。何もしなければ何も来ない。「あなたが
たのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」

しかし、心しておくべき事は、神は私たちが求めたものを、その通
りに与えられるとは限らない。2歳の子が、母親の真似をしたいと
包丁を欲しがっても与えないし、又、配慮無く高価な物を与えたり
しない。調理出来る年齢に包丁を与え、ふさわしい時期に高価な物
を与える。

親は、常に子供にとっての最善を考えて与える。天の御父も同様だ。
「どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありまし
ょう」と、願った通りのものではなく、「良いもの」を与えて下さ
る。「良いもの」だ。

神は私たちよりも、私たちにとって、何が良いのかを知っておられ
る。そのため、祈った結果、来たものをことごとく感謝することが
祝福だ。神が下さるものは、常に「良いもの」だからだ。

「求めなさい」には、「求め続けよ」の意味がある。すぐに答えが
無いからと諦めないで、祈り続けよう。忍耐持って祈る中で、動機
を探られる。何のために求めているのか。「自分の快楽のために使
おうと悪い動機」なら、神の御心にかなう祈りへと、祈りを軌道修
正して下さる。

実際、私たちは何が自分に最善であるのかを知らない。御霊は、御
心にかなった祈りへと導いて行って下さる。そして御心に適った祈
りは、すでにかなえられた事になる。

・・・・・・・・・・・・・
主は常に最善をして下さり、良いものを下さる。しかし、自分の思
う良いものと、主が思われる良いものが異なる事を覚えよう。自分
の強い思いが、受け取る事を妨げる。祈った結果来たものを、感謝
して受け取る時、平安が来る。受け入れられるよう祈ろう。


2013年04月20日(土)

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにあ る」箴言11:2


箴言には、人からの助言に耳を傾ける事についてよく出て来る。自
分は高慢かどうかが、わかる事柄がある。それは、人の助言を聞け
るかどうかだ。高慢な人は、人からの助言が聞けない。

へりくだっている人の特徴は、他者の言う事に耳を傾けられるので、
どんな人からでも、教えを受ける事ができる。プライドがあると、
人の言う事は聞けない。自分が一番正しいと思っているので、人の
意見は聞くに価しない。

又、比較の根には高慢があり、高ぶっていると、常に人と比較し、
人はライバルになるので、決して自分の弱みは見せられない。どこ
までも強い自分でありたいので、弱みは知られたくない。だから、
真からの交わりができない。本当の姿は見せたくないので、当たり
障りのない会話しかできなくなる。

弱みを隠したままでは、うわべの対人関係しか持てない。しかし、
まず主は、弱いままの、あるがままの私たちを愛し、すでに受け入
れて下さっている。弱いまま受け入れられいるが、自分のプライド
が、自らの弱さを認めたくない。惨めで認められない。

しかし、プライドを砕いてへりくだる時、自分が解き放たれる。素
直に、あるがままでおれるとは何と自由だろう。弱さを隠す必要が
ないので、対人関係が楽しくなり、生きる事が喜びとなる。人から
の助言が素直に聞けるようになる。

・・・・・・・・・・・
高ぶりは、人の良いものを見ない、見えない。認めようとしない。
又、自分の弱さを見ようとせず、認めない。だから、神が見えない。
光の中にいるのに、自分が目をつぶっている状態だ。自分の弱さを
認め、へりくだって行く時、光が射して来る。


2013年04月19日(金)

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしが・・与えようとしている地に行け」ヨシュア1:2 


            
新しいリーダーヨシュアと民の目の前に、とうとうと流れるヨルダン川が立ちはだかる。特に、この時期は、雪解け水や、春の雨で、一年中で最も増水していた。私たちの信仰人生にも、ヨルダン川が置かれている。今、目の前に、どうにもできない難問題が、立ちはだかっているだろうか。自分では何も、どうにもできない。経済的困窮だろうか。家庭や職場、近隣での対人関係の深刻な悩みだろうか。健康の問題、進路の問題だろうか。

先行きも見えず、恐れと不安でいっぱいだ。そんな中、リーダーのヨシュアは「あなたがたの身をきよめよ。主が不思議を行なわれるから」と言った。私たちにも、立ちはだかる問題を前にして、まず「身をきよめよ」と言われる。主との交わりの中で、御霊に心を探っていただいて、示される罪を悔い改めよう。頑なな心、自己中心、赦さない心、わかっていて従わない不従順・・告白して、心を整えていただこう。

祭司たちが契約の箱をかつぎ、先頭に立って渡るよう示されたが、その通りに従った時に、岸一杯に溢れたヨルダン川は、完全にせき止められた。民は全員渡った。私たちも、難しい状況の中で、身をきよめて、主の示しに従おう。その時、その問題のまっただ中にあって、主の不思議を経験する。生ける主が、共におられ、主こそ神であることを知る。
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渡るべきヨルダン川を前にして自分を見るならどうだろう。主を信じきれず無力に後退するか、自分を頼りに踏み出すだろうか。私たちの行く所にどこまでも主が共におられる事はなんと感謝だろう。今、主が示される事はなにか、いつも耳を傾けていよう。


2013年04月18日(木)

「こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです」ガラテヤ4:31 


アブラハムとサラは、神から子供を与えるとの約束を受けていた。が、長い間、何の兆候も無く、それでサラは、奴隷ハガルにより子供を持つよう、夫に提案した。アブラハムはそれを受け入れ、奴隷ハガルとの間にイシマエルが生まれた。そのイシマエルが後に与えられたイサクをからかっていた。それを見たサラはその子を追い出すよう夫に迫った。

アブラハムはイシマエルも自分の子であり、非常に悩んだが、主により奴隷の女とその子どもを追い出すよう示された。奴隷の女の子どもは、相続人になってはいけないと。すでに主がはっきりと言われていた。奴隷が跡を継いではならない、あなた自身から生まれて来る者が跡を継がねばならないと。奴隷でなく、子供が跡を継ぐ。

あなたの信仰生活は決して奴隷なのではない。神の子供であって、自由の女の子だと。イシマエルは肉を表わし、奴隷には自由が全く無いように、すべてが「ねばならない」の世界だ。善行が必要で、良い行ないによって、天国を勝ち取り、神の愛顧を勝ち取る。私たちはどうだろう。

聖書を読まねばならない、礼拝出席せねばならない、人を愛さねばならない・・自由の無い奴隷であり、しんどい窮屈な信仰生活だろうか。私たちは約束の子であり、自由と恵みの中にいる。主の十字架ゆえに、愛されて嬉しいから、愛する方の御声を聞きたくて聖書を読む。そして礼拝する。もし、そう出来なかった時も、神の愛は全く変わらずに、受け入れられ、愛されている。だからこそ、心からの安心を持って主に近づける。
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まず神様が私達を愛して下さり私たちがどうであれ恵んで下さっている。ああしなければ、こうしなければと思うとき、そこに立ち返ろう。自分発の愛と感謝で神様に向かっていよう。


2013年04月17日(水)

「神へのいけには、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17


カインとアベルの兄弟がいて、カインは作物を作り、アベルは羊を飼っていた。それで、それぞれ主に献げものを持って来た。アベルの献げものは受け入れられ、カインのものは受け入れられなかった。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」何かが正しくなかったのであって、主に問うて、献げ直せば良かった。

しかし、カインの激しい怒りと妬みは、弟アベルへと向かい、アベルを憎悪し、殺してしまった。主は「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われた。「知りません」と、自分は弟の番人ではないと、答えようとしない。主は悔い改めの機会を与えられたのであり、そこで「私が殺しました」と告白することができた。罪を犯したアダムにも、同じように「あなたはどこにいるのか」と御声をかけられ「食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と悔い改めの機会を与えられた。

あわれみ深い主は、いつも主のほうから悔い改めのチャンスを与えて下さる。御霊の促しが臨むなら、心素直に従い、悔い改めよう。その御声に従わないなら、更に罪に罪を重ねて行ってしまう。肉は、カインやアダムと同じだ。聞きたくないし、「知らない、弟の番人か」とうそぶく。そして、肉は、自分は悪くない、自分を正当化し、責任転嫁して行く。「私は主に対して罪を犯した」とダビデのように悔い改めよう。姦淫と殺人の大罪をも、主は赦して下さる。主の深いあわれみは尽きない。
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肉はいつも悪くない、謝りたくないと自分を通し一歩たりとも引く事はできないが、私達は繰り返し失敗する者だ。罪を示されることも愛ある神様の導きだ。悔いた心をいつも神様に献げよう。


2013年04月16日(火)

「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女が、あなたの妻であることを、告げなかったのか」創世記12:18 



カナンの地に入ったアブラムは、激しいききんに会い、そのききんを避けるために、エジプトに下った。「あなたの子孫に、この地を与える」と言われたに関わらず、安易に約束の地を離れてしまった。その時に、エジプト人は、美しいサライを見て、自分を殺すだろうと恐れた。それで、サライに、自分の妹だと言うようにと、策を講じた。そうすれば自分は生き延びられると。

異母妹ではあるが、故意に妻であることを隠すのであり、嘘をつくことであった。そうすればサライはどうなるのか。我が身を守るだけの、何よりも身勝手で、卑怯な保身であった。案の定、サライはパロの宮廷に召し入れられた。パロは、サライのゆえにアブラムを特別待遇とし、沢山の羊、牛、ろば、奴隷、らくだを与えた。しかし、主が介入され、パロとその家をひどい災害に遭わせられた。

サライは守られ、難を逃れ、アブラムと一族は送り出された。後に信仰の人と言われたアブラハムにも、このような失敗があった。飢饉という危機に際して、主に祈らず、自分の思いで、自分の判断で動いた結果、エジプトへ下ってしまった。又、そこで主を見上げる事が無かったので、罪を犯してしまった。まず肝心なことは、問題が起きた時に、第一に祈ることだ。主を見上げ、主に頼ろう。その時、主が進むべき道に導いて下さる。
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問題の早い解決だけを焦ると、祈りながらもいかにも良い方法が浮かんだら飛びついてしまう。御心を尋ねながら主からの確信を待とう。自分で動くと大きな遠回りをしてしまう。


2013年04月15日(月)

「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11


神の御心は、しばしば、自分の願いや期待とは異なる。自分の心からの願いである道を祈り求めるが、切なる願いに関わらず、目の前で道が閉ざされることがある。その時は、願いが断ち切られたようで、辛く悲しい。「何で?どうして?」と思ってしまう。しかし、神が下さるのは「良いもの」だ。必ず更に良い道、ふさわしい道が備えられている。

今まで、振り返ってみてどうだろう。願いが断たれたが、更に良いものを与えられて来たし、これからも与えて下さる。又、病気のいやしを求めて祈る時に、それが御心なら、いやして下さり、又、御心なら病気のいやしでなく、心に平安を与えて下さる。その病の中で、御霊の平安と喜びが与えられ、感謝しつつ生きて行けるようにされる。心に奇跡のわざをして下さる。

パウロとシラスは、捕らえられ投獄された。主は、投獄を免れさせる事もできた。しかし、鞭の上に、投獄という苦しい状況の中で、状況を変えるのでなく、彼らの心に喜びと平安を与えられた。「パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていた」。その事で、周囲に大きな証しとなり、看守家族の救いへと導かれた。

私たちの思いと神のみ思いは、時に異なるが、わかる事は、常に最善のものを与えて下さることだ。そして、神は愛であり、善い方だ。良いことしかされない。神のお心を信じて行こう。その時、自分の思い通りでない事態を受け止めて行ける。
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自分を中心に見ていると現状は混乱と思い煩いばかりだ。今わからないけれど神様が最善の物を与えて下さらないわけがない。今はその途上だと信仰にたって見ていよう。やがてはっきりわかる時が来る。


2013年04月14日(日)

「そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。『私 たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよく ありません』」使徒6:2



初代教会に問題が起こった。ギリシャ語を使うユダヤ人たちのやも
めが、毎日の配給で、なおざりにされているというものだった。不
満が起きて、苦情が申し立てられた。

そこで12使徒は、弟子たち全員を呼び集めて言った。この問題の
解決を考える時に、神のことばを語ることが一番大切で、最優先で
あることを伝えた。つまり、神のことばを教えることを後回しにし
て、食卓のことに仕えるのは良くないと。

神のことばの奉仕を第一にすること、そして、全員一致して、問題
の解決に当たりたいと。その結果、御霊と知恵とに満ちた、評判の
良い人たち7人を選び出して、この事に当たらせることになり、ペ
テロたちは御言葉の奉仕を優先することができるようにした。

この解決は、全員の承諾を得るところとなり、一致の中で行なえた。
皆に平安があった。問題に良い解決が与えられた結果、「こうして
神のことばは、ますます広まって行き」「弟子の数が非常に増えて
行き、多くの祭司たちが次々に信仰に入った」。

問題解決だけでなく、更に素晴らしい結実が与えられた。私たちに
も、問題は起きる。その時に、「もっぱら祈りとみことばの奉仕に
励み」の通り、まずよく祈り、神のことばに聞いて行く時、問題解
決に導かれて行く。問題には、祈りと御言葉が大切だ。

・・・・・・・・・・・・
問題が起きた時、各自の思いを言い出したなら、十人十色でバラバ
ラだ。自分の思いではなく、主の御心を求めて行く時、主の御心は
一つなので、一致する。問題が起きたなら、まず祈り、御言葉に聞
いて行こう。


2013年04月13日(土)

「そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるの が聞こえたので、『あなたは、読んでいることが、わかりますか』 と言った」使徒8:30


              
女王カンダケに仕えるエチオピア人の高官がいた。彼は、礼拝の
ためエルサレムに上り、今、エチオピアへ帰る途上だった。馬車の
中で、イザヤ書を読んでいた。その時、御霊がピリポに「近寄って、
あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。

そこでピリポは御霊に従い、馬車に近寄り、並んで走りながら、
「あなたは読んでいることがわかりますか」と声をかけた。彼は
「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と答え、馬車に乗
って、一緒に座るよう頼んだ。

ピリポはこの箇所からイエスのことを彼に伝えた。た。彼は、書い
てある意味がわからなかったが、主を求めていた。だから、イザヤ
書を読んでいた。この箇所によると、求めがあれば、必ず主を知る
ことができる。求めるなら、与えられる。求める者は受ける。

必要な導きが与えられる。高官にピリポが備えられていたように、
あなたにもふさわしい導き手が備えられている。そして、喜びに満
ちる。主は、「求め」を求めておられる。あなたに「求め」がある
なら、必ず主がわかるようにして下さる。

又、ピリポは、御霊の導きに、素直にすぐに従った。ぐずぐずして
いたなら、高官は行ってしまった。主の働きに用いられる恵みにあ
ずかった。あなたも御霊の導きがあるなら、すぐ従おう。主のみわ
ざのために用いられる。

・・・・・・・・・・・・
主に求めるなら、必ず与えて下さる。求めがあるなら、答えられる。
御霊が教えて下さり、又、必要な導き手も与えて下さる。それほど
強い求めが無いことが問題だろうか。主は、求めを喜んで下さる。
求めるなら、答えられる。


2013年04月12日(金)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18


感謝する事について、私たちは日頃どのようだろう。目の前の状況が思い通りに行っていれば、感謝できるが、目の前の現実が厳しければ、どうだろう。現在の自分の環境が不満であり、受け入れたくない状況であれば、感謝することができない。信仰人生、思い通りに行く時だけの感謝だろうか。あとは、不満や思い煩い、イラ立ちで過ごすのだろうか。一つでも思い煩いがあれば、気持ちがふさぎ、落ち込んでしまう。心重く暗い気持ちになる。

しかし、主は「すべての事について感謝せよ」と言われる。こんなに状況が厳しいのに、なぜ感謝できるのだろうか。私たちは、摂理の中に生かされていて、人生に起こる出来事は、神の深い配慮と計画の中にある。神に行き当たりばったりは無い。すべてが神のみ思いの中で動かされている。創造主であり、愛である主が、ご自身の明確な意志によって私たちの人生を導かれ、万事益となるように働いて下さる。

思い通りではない、苦しみにも、神の深いご計画がある。兄たちの妬みで、売られたヨセフが、結果的にエジプトの宰相となり、飢饉の際に父や兄たちの命を救う事になる。「私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」。あなたがたでなく、神だと言った。ここに摂理があり、間違いの無い神の計画がある。だから見える所は、あたかも刺繍の裏側のようで、ぐちゃぐちゃでも感謝できる。
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感謝する事により、思い通りでない中にある様々な神様の備えや恵みが見えてくる。そして、まだ見ていない祝福もまた信じ喜んで今を豊かに生きて行ける。主にあって今日も喜び、ことごとに感謝して歩んでみよう。


2013年04月11日(木)

「あなたが繁栄しているときに、わたしはあなたに語りかけたが、あなたは『わたしは聞かない』と言った」エレミヤ22:21


                           
「わたしはあなたに語りかけた」主の側では語り続けて下さっている。メッセージをずっと聞いているのに、なぜ自分の事として聞こえないのか。物理的に、音としては耳に聞こえているが、心の耳には入って来ない。拒否しているわけでなく、聞きはするが、心に御言葉の種が落ちる前に、悪魔に奪われて行く。右から左に流れて行く。なぜ入らないのか。それを本気で受け取る気がない、つまり、従うつもりが無い。

聞く事は幾らでも聞き、良いお話と思うが、犠牲を払うつもりは無いから、心が受け取らない。無意識に御言葉を除けてしまう。責任を取りたくない。御言葉が心にぐいぐい迫る時は、本気で御言葉に向き、聞き従おうとしている時だ。どうであれ、自分が変わろうとの思いがある時、御言葉が心に強く響いて来る。主の言っておられる事がわかる。種蒔きの例えの土地の通り、自分の側の心の態度は重要だ。

心の奥では拒んでいないだろうか。無意識かも知れない。うすうす感じているかも知れない。あなたの心はどうだろう。実は聞こえては困るのだろうか。成長は気づきから始まる。気づきは御霊の働きだ。本当の姿に気づく時、ありのままの心で、主に向かおう。御声を本気で聞こうとしていない事を、主に告げよう。その時、主が働かれ、私たちは必ず変えられて行く。
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拒否などしてないと思っていても、御言葉から何の影響も受けず、ただ聞いて、御言葉を右から左へ捨ててしまっていないだろうか。信仰生活を漫然とした習慣にせず、今一度、御言葉を自分の事として受け取っていこう。


2013年04月10日(水)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25


生まれながらに私たちは、人との比較の中で生きて来た。神無しの世界では、人との差異によって自分を量る。それしか方法が無く、無意識にも常に人との比較に身を置いて来た。人にどう思われるかが、最大の関心事で、絶えず人を意識し、それなら人が神となってしまう。人にどう見られるか、どう言われるか、人の目ばかりを気にし、人が自分の行動基準になってしまう。一生が人にコントロールされている事になる。

良い人に思われたい、人からの評価、賞賛が欲しい、人に嫌われたくない、そんな思いが、御心をそれさせる。人の顔色ばかりを見るなら、正しい事ができなくなる。自分だけ異なった行動は取りたくない。どう思われるかが、不安でたまらない。カメレオンのように、人に合わせてコロコロと自分を変えて行く事になる。
又、対人関係で、快い対応をされなかったらどうだろう。自分はどう思われているのか、不安と恐れで一杯になる。疑心暗鬼になり、人を恐れると罠にかかる。

そんな時は、人の態度に反応することを止めて、自分は御心を行なってゆくことだ。自分のなすべき事をして行く。例えば、相手が挨拶を返してくれなくても、自分は挨拶をして行く。人を恐れずに、主に信頼して、御心を行なってゆく。主に信頼して行く時、どんな状況でも、心に平安を与えられて守られる。今、主に信頼するよう促されているだろうか。
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人の言葉や態度で傷つくと、人の思惑を恐れ、誰からも良く思われたいと学習してしまう。長い間培ってきた習慣だが、心は主が守って下さる。主に信頼し御心を誠実に行っていこう。主にあって心は健やかでいたい。


2013年04月09日(火)

「イスラエル人に、引き返すように言え・・海辺に宿営しなければならない」出エジプト14:2


モーセに導かれたイスラエルの民は、苦役のエジプトを出た。その時に、主は、約束の地に導く時に、近道であるペリシテ人の国には行かせず、「荒野の道」へ向かわせられた。民が戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返さないようにであり、主のご配慮であった。ペリシテや敵との戦いが恐くて、恐怖の余り引き返してしまうだろう。そのため、あえて回り道を行かせられた。

私たちも、楽な道、平らな道へ行きたい。しかし、主は近道ではなく、あえて荒野の道を通される。神が困難な道を通されるのだ。そして、荒野の端のエタムに来た時に、主は「引き返せ」と言われた。引き返すならエジプトに近づいてしまい、しかも目の前は海であって、袋小路の状況だ。案の定、エジプト軍が追って来た。民は非常に恐れた。「主に向かって叫んだ」のは良かったが、すぐに目に見えるモーセに不平不満をぶつけた。

主が雲の柱、火の柱で、昼も夜も導いて下さっているのに、エジプトに帰りたいと不信仰に陥った。しかし、「パロとその軍勢を通してわたしの栄光を現わす」ためであった。主は超自然のみわざをし、民を救い、栄光を現された。今、窮地にあるだろうか。前は海で、後ろからエジプトの軍勢、前進も後退もできない。絶体絶命だ。失望落胆だろうか。しかし、主が戦って下さる。そして主の栄光を現わされるためだ。主を信じよう。
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平坦な道ではない所で何度も主に助けられたはずで、また今通っている道もあえて通らされている主のご計画の何処だ。わからないけれど益と信仰と希望をもって歩もう。


2013年04月08日(月)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6 


「何も思い煩わないで・・願い事を知っていただきなさい」と言っている。「思い煩うな」「祈れ」と。それも「あらゆるばあいに」、例外無くすべての時に、思い煩うな、祈れと。この主の言葉に従うためには、思い煩いを「ストップ」させる事が必要だ。煩い続ける事を「止め」なければならない。「止め」て、「祈る」ことだ。これは練習だ。繰り返し、繰り返し、そうする事で身について行く。

放課後、生徒たちがテニスや卓球のクラブで、よく素振りをしている。延々同じ動作を繰り返している。バレエなども同じだ。基本を繰り返し〃練習する事で、身について行く。「思い煩い」が来たなら、「祈り」へ。これを日々繰り返そう。なぜ問題が起きると、思い煩い、辛く苦しくなるのか。それは自分で何とかしよう、何とかしなくては、と思うからだ。全重荷が自分の肩にかかってくる。しかし解決どころか、自分の容量を越え、どうにも出来ないので、恐れと不安に飲み込まれる。

又、自分が握っているので、主に渡さないので、主もどうする事も出来ない。祈りによって、主に持って行き、明け渡して行く時に、主が働いて下さる。状況が変わるかもしれない。又、状況が変わらずとも、忍耐する力を与え、平安を与えて下さる。どちらにせよ、そこに主が働かれる。「思い煩い」が来る度に「祈り」に持って行こう。そうすれば、まず主の平安で、心が守られる。
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悩む前に祈ろう。これが最善であるのに、わかっていても、いつの間にか自分でじっくりと考え込む。考える前にまず祈ろう。主に明け渡せないところも、祈りながら示されて行く。


2013年04月07日(日)

「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道で す」Tテモテ6:6



「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、愚かで、有害な多
くの欲に陥る」とある。富を得ても、幾ら得ても、決して満足する
事がない。飽くことなく、更に求める。これは富ではなく、「貪
欲」という肉の欲望に陥っているからだ。

必要が満たされても、決して満足する事がない。どこまでも富を渇
き求めて行く。「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ』と
言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって
『もう十分だ』と言わない」。果てしなく「くれろ、くれろ」と言
い、欲望には際限がない。

「金持ちになりたがる」とは、富だけでなく、名誉、地位、人から
の賞賛、野心、人の上に立ちたいとの欲だ。ここに誘惑とわながあ
ると。いつも隣人のものを欲しがり、比較しては、満たされない心
で、絶えず欲求不満に陥る。しかし、主を見上げる時、どうだろう。

私たちは何一つ持たずに来て、何一つ持たずに去る。今、生かされ
ている事が感謝ではないだろうか。主は、何も、いっさい思い煩う
なと言われる、主の愛に囲まれ、必要は必ず備えられ、日々に生き
る喜びと平安が与えられている。満ち足りる心は、主からしか来な
い。

自分の欲望を満たすことが幸せだと思ってしまうが、そうではない。
決して満たされず、ますます渇くばかりだ。主に自分を明け渡して
行く時、御霊に満たされる。その時、真に心の満たしを経験する。

・・・・・・・・・・・
満ち足りる心とは、何と喜びだろう。「世が与えるのとは違う」
「わたしの平安」で満ち足らわせて下さる。状況にかかわらず満足
が与えられる。反対に貪欲は、どんなに持っても、決して足りる事
が無く、悲惨だ。


2013年04月06日(土)

「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は 御霊に属することをひたすら考えます」ローマ8:5



アナニヤとサッピラは持ち物を売り、使徒たちの足もとに置いた。
しかし、一部を取っておき、全部の振りをした。その前に、バルナ
バが畑を売り、代金を持って来て、人々が賞賛したのを見ていた。

聖霊が力強く働き、皆が心と思いを一つにしていた時だった。主を
力強く証しし、大きな恵みがすべての者の上にあった。誰一人その
持ち物を、自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

そこに偽りが入った時に、ペテロはサタンに心を奪われ、聖霊を欺
いたと言った。人ではなく神を欺いたのだと。アナニヤが息絶えた
時、すべての人に非常な恐れが生じた。夫婦で一つとなった確信犯
だった。

つい嘘をついてしまったという類ではなく、計画的だった。日頃、
罪を悔い改めないまま行くと、いつしか罪に鈍感になってしまう。
そして人の評価、人の目だけを気にし、人にどう見られるかで行動
し、神の目を意識する事から離れて行く。アナニヤとサッピラは肉
に従った信仰生活だった。

皆が聖霊に満たされて、心から喜びに溢れて、感謝をもって献げて
いるのを知らず、神への献げ物を、自分の賞賛のために利用した。
いつも目の前に肉と御霊の二つの選択がある。例えば、腹が立つと、
肉はすぐ相手に応酬しようとし、御霊は「まず祈れ」と言う。

この肉に従い続けると、いつしか霊的に鈍感になってしまう。目の
前の一つ一つに御霊のほうを選択できるよう祈ろう。主はあわれん
で助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
何を考えているかは重要だ。思い煩いや、恨み、怒りをずっと考え
ていたなら、小さなものをも増幅させ、自分がモンスターにしてし
まう。御霊に属することを「ひたすら」考えるなら、どんなに日々
が違って来るだろう。肉を拒否し、御霊に従おう。


2013年04月05日(金)

「こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てられたので、彼は死ぬほどつらかった」士師記16:16


サムソンは力の賜物を与えられたナジル人であった。しかし、デリラによる誘惑に勝てなかった。誘惑は少しづつ、しかし執拗に欲望に働きかけてくる。最初は、少しなら大丈夫と油断してしまう。アル中やギャンブル依存、薬物依存の人も、少しならどうという事ない、何の影響もないと思い、段々と深みにはまって行く。デリラは、ペリシテ人の領主たちに、サムソンの力の秘密を探るよう頼まれた。それでサムソンに力の秘密を尋ねるが、3回もだまされ、しつこくサムソンにせがむ。

毎日同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、サムソンは死ぬほど辛かった。デリラを失う事がこわいサムソンは、とうとう力の秘密を明かしてしまう。髪の毛をそり落とされ、ペリシテ人に捕らえられてしまった。「毎日、しきりにせがみ」私たちもどうだろう。毎日しきりに執拗に聞く言葉が、肉の言葉、サタンの言葉であればどうだろう。

サムソンがデリラの誘惑に負けてしまったように、行為へと進んでしまう。そして「彼は主が自分から去られたことを知らなかった」、何と悲しい事だろう。反対に、主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむなら、どんなに祝福だろう。「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」その時、御霊に満たされ、主の御心に生きて行ける。
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しきりに執拗に来る思いや言葉がつらいのなら、心に平安がないのは何故だろうと主に尋ねて行こう。惑わされやすい者だからこそ、やがて誘惑が結実しないよう、祈り、主のみ言葉を求めて行こう。


2013年04月04日(木)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです」ヤコブ1:14


「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられる」誘惑の底にあるのは「欲望」だと言っている。人の思いがあり、欲望があるから、その欲望に引かれて行き、誘惑されると。エバはサタンの誘惑に会ったが、善悪を知る木の実が魅力的で、素晴らしいものであったことが問題なのではない。問題はそれに対するエバの思いであった。

「まことに食べるに良く、目に慕わしく、賢くする」と誘惑された。魅力的で、賢くなりたいとの欲望があった。神のようになりたいと、好きなように生きたいとの思いがあった。その欲望を満たそうとした時に、サタンの誘惑に陥った。そして、罪を犯してしまった時、アダムとエバは、神である主の御顔を避けて、園の木の間に隠れた。

神の言葉に従わない時、人は神を避けて、隠れるようになる。神から離れてしまう。サタンが誘惑するのは、人を神から離すためだ。人は、やすやすとサタンの誘惑に陥ってしまう。それは、その人が一番欲しいものを、目の前に持って来て誘惑するからだ。咽から手が出るほど欲しいものを持って来る。魚釣りで、餌をつけて魚を釣るようなものだ。願望と合致しているから、誘惑だと気づかない。

誘惑は決して神からではない。神は悪に誘惑されることの無い方だ。誘惑や問題が来たなら、まず主の御前に差し出そう。祈りにより、御言葉を与えて下さり、誘惑に勝利させて下さる。
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巧みに来る誘惑に気づく時、心を神様に向けて祈ることができますように。欲望は尽きることはないがその度に神様に渡して行く時に試みは恵みに変えられていく。


2013年04月03日(水)

「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ」イザヤ40:6


対人関係でギクシャクし、心が辛く苦しくなる事があるだろうか。人からのちょっとした言葉が、ひどく気になり、不安になり、又、面と向かって攻撃されたり、責められる事があるかも知れない。心暗くなり、沈み、立ち上がれなくなってしまう。よく考えてみて、もし自分の側に、落ち度があるなら、悔い改めること、相手に謝ることが必要だ。

しかし、幾ら考えても、自分に落ち度が無いなら、御言葉に目を向けて行こう。心暗くなり、落ち込むのは、自分の中で、人の言葉が第一になって、最も重きを置いているからではないか。神の言葉と人の言葉と、どちらが大切なのだろう。御言葉でなく、人の言葉に振り回されていた事に気づく時、平安が戻る。

御言葉を受け取り、御言葉を握っていよう。御言葉を通して、人からの批判や目の前の状況を見る時に、神視点で人の言葉や状況を見ることができる。心に平安が無いなら、心が辛く苦しいなら、神の言葉を脇に置き、人の言葉のほうを受け入れている。

「すべての人は草・・」人の言葉は草のようだと。草は枯れてしまう。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」。今、心が辛く平安が無かったなら、自分の言葉や人の言葉に目を向けていないだろうか。御言葉に向けよう。心に平安が来る。
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行き詰るのは、いつも人の言葉や目の前の状況にのまれている時だ。御言葉はどう言っているだろう。御言葉に帰り「思い煩うな」と言われれば「はい」と従おう。


2013年04月02日(火)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36


信仰生活の中で、特に難しい事が「待つ」事だと言われている。約束の成就をなかなか待てない。待つことは、大変厳しい試練だ。すぐに目に見える結果が欲しい。すぐに祈りの答えを手にしたい。アブラハムは「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない」、天の星を数えられるなら、数えてみよ。「あなたの子孫はこのようになる」と、子供を与えると言われた。

しかし、なかなか子供は与えられなかった。アブラハムは待つことができず、サラの申し出を受け入れ、女奴隷ハガルにより、イシマエルを得た。主は子供を与えると約束されたが、アブラハムは、幾ら待っても、待っても、与えられないので、自分の力で何とかしようとした。アブラハムは86歳であり、まだその力があった。そして、尚も待つ時を経て、アブラハムは100歳になり、自分のからだが死んだも同然になった時に、神の奇跡によってイサクが与えられた。

約束は必ず成就する。しかし、それは自分の思う「時」ではなく、「神の時」だ。自分の思い通りではない。祈りの答えられる時、「神の時」を、人が決めることができない。今すぐして上げようとは言っておられない。「神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐」そして、「あなたがたの確信を投げ捨ててはならない」と言っておられる。確信を投げ捨てるなと。それは大きな報いをもたらす。忍耐して待ち望もう。
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長く祈り続けている祈りが、早く叶えられたならどんなに良いか。今か今かと自分の時を計ってしまう。いつも忍耐を学ばせられる。神様の定められた時が必ず来ると希望を持って祈り続けたい。


2013年04月01日(月)

「弟が父に、『おとうさん、私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった」ルカ15:12


弟息子は父に、財産の分け前を要求した。父は与えたならどうなるかは、わかっていた。与えないで拒否することもできた。しかし、父はあえて、弟息子の選択を受け入れた。したいようにさせてやった。自分でやってみないとわからない事を、父は知っていた。案の定、息子は財産を湯水のごとく使い、とうとう使い果たしてしまった。

仕事をしなければ、どうにもならない。生きて行かねばならない。豚の番人をするが、食べ物は無く、餓死寸前だ。とうとう行き詰まった時に、我に返った。父のもとに帰る決心をした。その間、父は、放蕩三昧の息子を連れ戻しにも行かず、説教しにも行かず、だからと言って放任ではなく、じっと見守り、息子が帰るのを、ただただ「待ち」続けた。息子が自分の意志で戻るのを忍耐して待った。これは愛だ。

そして、父は戻った息子を見つけるや、父のほうから走り寄り、彼を抱き口づけした。一言も責めることなく受け入れた。この時、息子は、真に父の愛を知った。父は初めから、息子がどうなるかわかっていた。しかし、それゆえ阻止していたなら、息子はどうだろう。欲求不満と反抗心を底に秘めたうわべだけの親子関係であったろう。あるがまま丸ごと受け入れられたことで、以後、息子の父への気持ちは、愛と信頼と変えられた。
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頭だけの信仰から、自分の信仰へと私達も通って見なければわからない道程がある。その最中であっても父なる神は変わらぬ愛を持って、待ち続けていて下さる。ずっと見守られているのだ。