2013年05月31日(金)

「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5


ヨセフは、父親から特別に可愛がられたがゆえに、兄たちからひどく妬まれた。妬みは憎悪となり、兄たちに隊商に売られ、奴隷としてエジプトに連れて行かれた。一人、親族から切り離され、異国の地で、どんな思いであったろう。しかし、エジプトで仕えた主人に認められ、何もかも任されるほど信頼を得るが、主人の妻の悪意により無実の罪で牢獄へ。奴隷から更に悪い囚人となった。

そこで10年の苦難を経た後、パロの夢を解き明かし、一転、総理大臣となった。そんな中、深刻な飢饉に、エジプトの穀物を求めて兄たちが来た。兄たちにはわからなかったが、ヨセフは一目で兄だとわかった。ヨセフは兄たちを試す。すると、以前自分を売った兄のユダが、今、目の前で、自分がベニヤミンの身代わりになると言う。自分が奴隷となるから、ベニヤミンを老いた父のもとへ帰して欲しいと。このユダを見た時に、ヨセフは自分を抑えきれずに号泣した。

そして自分はヨセフだと名乗った。ユダをここまで変えた神のみわざを見て、ヨセフは兄たちに売られたのでなく、神が自分をエジプトに派遣したのだと言った。赦しと愛が湧き上がった。それは、あなたがたの命を救うためと。この悲しみ、あの苦しみ、その時は辛いばかりで意味がわからない。しかし、信仰により待ち望む時に、ああ、このためだったと、神のご計画が現れた時、言いようのない感動と喜びが湧き上がる。
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神様が備えていて下さる祝福をどれだけ見逃しているだろう。辛い、痛いとしか思えない中を信仰の目をもって歩んで行くなら、必ず益として下さる祝福の答えをいくつも受け取ることができる。


2013年05月30日(木)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


職場、学校、家庭、近隣・・人が集まれば、必ずと言っていいほど問
題が起きる。対人関係で、もめて悩む。なぜ、いさかいが起こるの
か。人は、皆、罪を持っているからだ。罪の性質があり、自我があ
るから摩擦が起きる。

教会内でも同じだ。クリスチャン同士でも、まだ肉の性質があるの
で、争いが生じる。自己を主張するなら、ぶつかって当然だ。しか
し教会の交わりは、この世の交流会と全く異なる。目的が違う。そ
れは、クリスチャンの交わりは「イエス・キリストを中心にした」
交わりだ。どこまでも主が中心だ。

自分たちの好み、楽しみでなく、趣味でなく、主の栄光のための交
わりだ。「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を
現わすためにしなさい」と。キリストが接点であり、一人一人が主
を求めて行く時、秩序と調和があり一致がある。

そこが、ぶれてしまうと、「主は、主のお心は」ではなく、「自分
が、自分が」となり、「自分の気持ち、自分の意見」が通らないと、
不一致が生じ、分裂となって行く。主はどうであったか。神が人と
なり、すべての特権を放棄された。神が人となられた、これほどの
へりくだりがあるだろうか。
自分を卑しくし、人に仕え、十字架の死にまで従順に従われた。自
分を捨てられた。このお心に従う時に、へりくだって、互いに人
を自分よりもすぐれた者と思える。

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交わりの中に、自己中心と虚栄が入ると、分裂が生じてしまう。「
自分が」「自分の」になって行く時、皆、バラバラだ。しかし、
「主は」「主の」となる時、一致する。主は一つ、御霊は一つだか
らだ。「自分は」を「主は」に変えて考えてみよう。


2013年05月29日(水)

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」ヘブル13:5


信仰生活の中で、主を遠く感じる事があるだろうか。なぜかわからないが、いつもと感じが違う・・。もし、罪があるなら、すぐ悔い改めることが必要だ。罪は、主と私たちの間を遮断し、平安を奪う。「あなたの咎が、あなたの神との仕切りとなり、あなたの罪が御顔を隠させ」の通りに。御霊に心を探って頂こう。

しかし、罪や自分の問題でなく、信仰の試み、訓練として与えられる事がある。私たちが、感覚がすべてで、感覚だけに頼らないように、時に、「感じ」を取られる。誰しも経験する。信仰の成長のためには、どうしても必要だ。見える所だけを見ると、見捨てられているように感じる状況かも知れない。しかし、そんな時こそ、感情に依存しない事を訓練される。何の感情も無く、何も見えずとも、主を信じ続けて行くこと、それこそが真の信仰であり、真の礼拝へと導かれる。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。主が喜ばれるのは感情でなく、信仰だ。人はどうしても感情に依存しがちなので、時に主が取り扱われる。そんな時は神の不変のご性質に思いを馳せよう。神の愛は決して変わらない。神の真実も変わらない。「私たちは真実でなくても、神は常に真実である」。詩篇記者も神に近く感じる時と遠く感じる時を通った。「主よ。なぜ、遠く離れてお立ちなのですか。苦しみの時に、なぜ、身を隠されるのですか」。そんな時は、記者のように、あるがままの気持ちを主に訴える事ができる。
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いつも曖昧な「感じ」に陥るが感覚を重視するなら信仰を支えているのは自分の感情ということになる。環境や感情を見ず、この約束の御言葉にしっかりと立ち、今朝も真っ直ぐに神様を見て行こう。


2013年05月28日(火)

「イエスは、弟子たちに質問された。『道で何を論じ合っていたのですか』マルコ9:33


弟子たちが論じ合っていた事は、「誰が一番偉いか」という事であった。そのため、主から「何を論じ合っていたのか」と問われて、答える事ができなかった。人は絶えず比較の中に生きているが、弟子12人の中でも、比較し合っていた。自分の価値を量る基準が他者であり、人と比較して、自分の価値を決める。つまり他人と比較しなければ、自分の価値が量れない。神無しの世界では、人と人の間でしか、量りようがないからだ。

弟子たちの間にも、そんな古い価値観があった。人より上に立ちたい、優っていたい。競争で負けるなら、自分は劣っている事になる。より先を行き、勝ちたい。それが自分の価値になる。勝ち負けの世界であり、この世の価値観だ。しかし御言葉は言う「自分たちの間で自分を量ったり、比較しているのは知恵のないこと」と。人により自分の価値が左右され、アップダウンするなどおかしい。

私たちは、他者ではなく、神によって自分の価値を量る。その神は「あなたは高価で尊い」と言われる。人がクリスチャンになったから、自分もクリスチャンになったのではない。主と自分の関係のみに基づいて信仰が始まった。ここに比較からの解決があり解放がある。横を見ている目を天に上げて、主と自分の関係に立とう。そして、主との交わりを深めて行く時に、御霊の喜びと平安に支配され、自由にされる。気づく度に目を上に持って行こう。
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この世界でたった一人であるかのように、神は私を尊い者と愛を持って見て下さっているのに、つい横の人を見てしまう。私の人生は神との間だけの問題だ。人が羨ましくなったら上を見よう。


2013年05月27日(月)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩篇55:22


「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩篇55:22
                 
信仰生活で、目の前に問題が起きると、あなたはどうするだろう。一番の問題は、パニックになり、主が飛んでしまう事だ。まず自分で何とかしなくてはと、頭が回る。それには、どうすればよいのか、ああでもない、こうでもないと思いが巡りに巡る。そして、心は暗く、重苦しくなり、悶々状態になり、落ち込んで行く。又、イライラピリピリして、周囲に当たり、害毒を流してしまう。

それは、自分の力で何とかしようとしているからだ。すべてが自分の肩にかかって来る。どうにも出来ず、しんどくて疲れ果てる。もしこれがしょっ中なら、いつも欲求不満で、満たされず、イライラ状態になる。平安と喜びに溢れた信仰生活を送るためには、何も思い煩わずに、主に信頼するように、常に目の前の問題を主のもとに持って行き、委ねるようにと言われている。

委ねるというのは、自分の願望を置いて、主の御心が成りますように、自分の願望が成らなくても構いませんとの態度だ。主がして下さる事が最善だとの信頼だ。なぜ思い煩ってはいけないのか。思い煩いとは、神を信頼しない高ぶりであり、思い上がりだからだ。主を無視して、差し置いて、自分が出て、事態を引きうけ解決しようとする事だ。そうではなく、主に拠り頼むことを喜んで下さる。愛し、慈しみ、心配していて下さる主のもとへ、今、目の前のその問題を持って行こう。
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繰り返し祈りながらも、少しも荷が軽くなったと思えないのは、主にお任せできない、明け渡せない自分が邪魔をしているのかもしれない。思い通りの結果が欲しい自分の心を、まず主に正直に祈ってみよう。


2013年05月26日(日)

「ダビデはヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍を戦いに出 した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデは エルサレムにとどまっていた」Uサムエル11:1 


全イスラエル軍が命がけで戦闘している中、王ダビデはエルサレム
にとどまり、夕暮れに、床から起き出すような、ダラダラした生活
をしていた。油断がある時に、サタンに、つけ込むスキを与えてし
まう。バテシバを見て、誘惑がダビデに臨んだ。

ダビデは、その瞬間に主を仰ぎ、主に頼り、誘惑を拒否すべきだっ
た。しかしそうする事をせず、欲望にままにバテシバと罪を犯して
しまった。その罪を隠そうとして、夫ウリヤ殺害という、罪に罪を
重ねてしまう。バテシバとの罪をすぐに悔い改めていたなら、ウリ
ヤ殺害は免れたであろうに。

理不尽に命を狙われたサウル王を、どんなに攻撃されても、決して
殺さなかったダビデだが、忠実な何の罪も無い部下を殺してしまう。
自分はトップであり、誰も何も言えない。自らの罪を隠ぺいした。
しかし、神は、何もかも一部始終を見ておられた。

「思い違いをしてはいけない。神は侮られるような方ではない」蒔
いた種を刈り取る。預言者ナタンにより、ダビデの罪は白日の下に
暴かれた。ダビデの素晴らしいところは、言い訳、弁解をしなかっ
た。バテシバのせいにしなかった。

「私は主に対して罪を犯した」と罪を率直に認めた。人々の手前、
王が罪を認める事は容易でない。しかし、その瞬間に、赦しが臨ん
だ。「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」。ダビデに心
底の平安と安堵が戻った。これは、何ものにも代えられない平安だ。
私たちもいつでも主のもとに赦しがある。

・・・・・・・・・・・・・・・
ぼおっとしている時、油断している時に、サタンの誘惑が来ている。
そしてそれに気づかない。この世にいる間は、霊の戦いであること
を忘れてしまう。今、主に目を向けよう。そして、誘惑が来た時、
まず「わたしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。


2013年05月25日(土)

「そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王 マオクの子アキシュのところへ渡って行った」Tサムエル27:2



サウル王に妬まれ、命を狙われていたダビデは、常に死と隣合わせ
であり、恐怖に襲われ、いつかは殺されるに違いないと思った。そ
れで自分を救うべく策を巡らし、ペリシテの地へ逃れる事を考えた。
そうすれば敵国であり、サウルは捜す事を諦めるだろうと。

「ダビデは心の中で言った」とあり、祈ったのではなかった。ダビ
デは、どんな時も祈り、主に導きを求め歩んで来た。しかし、ここ
では祈らずに自分の思いで決めた。恐怖と思い煩い、不安に飲み込
まれてしまっていた。

アキシュの所へ行ったが、自分の思いで進んだ結果、アキシュのも
とで、嘘に嘘を重ねる事になり、更に、アキシュと共に、同胞イス
ラエルと戦争するはめに陥ってしまう。サウルやヨナタンと戦う事
になってしまう。しかし、そこに神が介入された。ペリシテの領主
達が、ダビデが裏切るのではと参戦させないよう言って来た。

アキシュはそれを受け入れ、ダビデは同胞との戦争を免れた。最悪
の事態から、神が守られた。「人を恐れるとわなにかかる。しかし
主に信頼する者は守られる」。人を恐れる時、サタンの罠にかかっ
てしまう。

エリヤもイゼベルを恐れて逃亡し、えにしだの木の陰で死を願った。
人や状況や自分にあるその視点を、主に移そう。自分で動かず、主
に信頼を置こう。自分で自分を守るのでなく、主が守って下さる。
サタンの罠から守られる。

・・・・・・・・・・・・・・
主を見ている目を、状況に移した途端、恐れや不安に飲み込まれる。
すると、主が飛んで、自分で自分を救おうとしてしまう。思いを巡
らし、見た目の、肉の最善に走る。今、どうだろう。目を主に向け
て、主に状況を告げて行こう。


2013年05月24日(金)

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」マタイ6:33


ある人が、極めて多忙な日が続いていた。難しいプロジェクトに取り組んでいて、早朝出勤、深夜帰宅の日々だった。仕事量も多く、又、その企画が思うように進まず、対人関係においても多大なストレスが重なった。とうとう過労で倒れ、入院静養になった。しかしひと息つくと、仕事が気になって仕方がない。イベントの日も迫り、気が気でない。即、退院をと思うが、ドクターストップをかけられる。

ただベッドの上で、何もどうにもならなくなった時、やっと主に心を向けることができた。余りにも忙しく、デボーションの時間も無く、主が飛んでしまっていた状態だった。久し振りに聖書を開き、心を静めて祈った。何の邪魔もない、静かな時間に、現在の心の焦り、心配、思い煩い、すべての心の重荷を一つ一つ主に打ち明けた。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」から、遠くかけ離れた日々であり、主から離れ、自分の思いで生活していた事に気づかされた。

何のための仕事か、本末転倒になっていた。悔い改め、目の前の仕事を主に委ねた時に、心がすーっと平安にされた。仕事ではなく、主を第一に生きて行きたいと思った。プロジェクトも主が最善をして下さると信じる事ができて平安だった。すると、不思議な事にイベント前に、医師から退院許可が出た。
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私達には御言葉もあり祈ることも出来るのに、主に求めず、尋ねずつい自分の力で自分を満たすために動いてしまう。今の生活の優先順位はどうだろう。主の備えて下さるものだけを求めているだろうか。


2013年05月23日(木)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩篇139:1


     
ある人が中学の時に、いじめに会っていた。しかし、絶対に誰にも知られたくなかったので、誰にも言わなかった。親にも知られたくないので、一言も言わなかった。プライドのゆえだった。自分がいじめられている事が惨めで、認められない。それを知られるなど、更に惨めで耐えられない。そのため、傷ついていない振りをした。実際は、ひどく傷ついているに関わらず、そうでない振りをする。

しかし、主の御前では、そうであってはならない。主は、そのままのあなたを受け入れて下さっている。主の前では、振りも、繕う事も、隠す事も必要ない。すでに惨めで、あわれな自分自身を何もかもご存じで、愛して下さっている。プライドが妨げている事を認め、実際は深く傷ついている事、どうしようもなく惨めである事を認めよう。その時、初めて主の取り扱いを受け、心が癒されて行く。

平安にされる。神は常に真実であられる。しかし、こちらが正直でなければ、交わりが成り立たない。本当の私を受け入れて下さっているので、振りをした、繕った私は私ではないからだ。神との交わりが何かベールがかかり、実感が無いのは、自分が正直ではないからではないか。ダビデは、死と隣り合わせの苦悩の中で、恐怖、思い煩い、不安、嘆き、惨めさも何もかもを神にぶつけた。そうでない振りをせず、率直に、正直に神にぶつけ、いつも御霊の喜びと平安に変えられた。プライドが自分を妨げていないだろうか。
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ダビデは「憎しみの限りを尽して彼らを憎む」と心のありのままを訴えて驚くほどだ。「許せますように」と建て前で祈らず、その前の正直な思いを飾らず主にうちあけ「傷のついた道があるか」を尋ねていこう。


2013年05月22日(水)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8


ある人の証しだ。同期で入社し、ずっと良い関係で、共に歩んで来た友人がいた。その友人が一番に昇進した。自分の方が仕事が出来て、むしろ助けていた同僚だった。自分は、営業成績も秀でてトップであり、同期で一番だと信じて疑わなかった。余りのショックで、目の前が真っ暗になった。プライドがひどく傷ついた。心が痛くて、こんな気持ちで、その友人にどんな顔で会えばよいのか、接することもできない。心が悶々状態で、昼休憩に、屋上に上がり、隅で、主と交わりの時を持った。

心の内をさらけ出し、落ち込み、羨望、妬み、失望落胆・・ぐちゃぐちゃな気持ちをことごとく主に告げて行った。心をすべて打ち明けていると、自分自身のプライド、高慢が見せられた。仕事の成果もすべて自分に栄光を帰していた事、自分を誇り、高ぶっていた事、優越感で、同僚を見下していた事、主の御前にことごとく悔い改めた。その時、悶々であった心に平安が来た。

「自分はどうしましょうか」と祈ると「喜ぶ者といっしょに喜び」の御言葉が来て、その同僚を祝福することができた。自分の心も平安と喜びで満ちた。優越感の喜びでなく、真の御霊の喜びだった。自分にとって極めて辛い状況が益とされて、砕かれて、御霊の喜びを経験する時とされた。主が自分の避け所だと知れた。どんな時も、主のもとに行き、主に向き合おう。必ず導いて下さる。
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自分で悶々としていては前に進めない。すぐに避け所である主に告げよう。主との霊の交わりの中で、聞いてもらえたとの平安がくる。示しや導きのお答えを知れると、主にあってまた心低くされる。


2013年05月21日(火)

「御霊で始まったあなたがたが、いま、肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3


アブラハムは、子どもを与えるとの約束を受けていた。しかし、時は過ぎるが、実現しない。それで、アブラハムとサラは、彼ら自身の思いと方法で、力で、主の約束を実現させようとした。サラは、奴隷ハガルによって、子どもを得る方法を提案した。自分たちで何とかしようと考えた。アブラハムはサラの考えを受け入れ、ハガルによってイシマエルを得た。つまり、イシマエルとは、人間の計画や力で、主の御心を実現させようとした時に、産み出されるものだ。

そこに神の関与はなく、すべて人間が自分の力で成し遂げたものだ。人間が、御座を支えようとする時、自分の努力で、神を助けようとする時、イシマエルを産み出してしまう。「神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません」。

私たちも約束の言葉を受けると、何とか自分の努力で、実現できないものかと思ってしまいがちだ。主は、何を求めておられるのだろう。「確信を投げ捨ててはならない。それは大きな報いをもたらすもの」「神の御心を行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」。「奇跡」は「不可能」という土壌でのみ現れる。

主は、肉が尽きるのを待たれ、そこでみわざをされる。神のみによって成された事が明らかにされるために。自分でどうこうせず、じっと信じて待ち望もう。その時、主の栄光のみが輝かされる。
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自分の内に何の手立てもなくても、長く待たされるとイシマエルを生み出してしまう肉が私達にもある。長く祈らされている祈りは、肉の尽きるのを待たされている時かもしれない。今一度、心のうちを探ってみたい。


2013年05月20日(月)



「『もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して・・危害と大きな損失が及ぶと、私は考えます』と言った」使徒27:8

「良い港」に着いた時、もう冬に向かうので、パウロは「この航海は危険」とはっきりと人々に注意した。冬の地中海は大荒れになり、航海を続行すれば、船体は壊れ、命にも危険が及ぶと。「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」。彼らはプロであり、その道の専門家であり、素人のパウロに何がわかるとの態度だったろう。

又、この港は冬を過ごすのに適していないと思えたため、大多数の者は、クレテの港まで行って、冬を過ごしたいとの意見だった。その方が妥当に思えたので、見える所に従い、先に進んだ。しかしこれが霊的に致命傷であり、大暴風に巻き込まれ、悲惨な事になった。船は風に逆って進めず、仕方なく吹き流されるがままになった。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」。専門家が良いと言い、状況も良さそうに見える。自分も良いと思える。それで進んで失敗したという経験を持つだろう。一番大切な事は主の御心であり、御言葉の指針だ。御言葉は羅針盤だ。でなければ、暴風にほんろうされ、世に流されるがままになってしまう。

今、主と御言葉が吹き飛んで、目に良く見える、肉の方向に流されていないだろうか。それなら「この航海は危険」だ。御声に耳を傾けよう。又、御霊に示されたなら、パウロのようにはっきりと「私は〜考えます」と言う事も大切だ。
------------
世の人の姿や、目の前の言葉に私達も影響され生きているが、聞くべき御言葉を与えられ、問うべきお方が共にいて下さる事はなんと感謝だろう。順境にも逆境にも、御言葉からの確信を得て「私は考えます」と言いたい。


2013年05月19日(日)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられた のだから」Uサムエル16:11       


ダビデはこの時、非常に辛い状況にあった。実子アブシャロムに歯
向かわれ、攻撃を受けたダビデは息子と戦わず、ただただ逃げ回る。
どんなに心痛んだ事だろう。又、信頼しきっていた側近のアフィト
フェルの裏切りに会い、彼がダビデからアブシャロムに寝返る。

心はずたずたに裂かれて、涙と心痛の苦しみの中、シムイという男
にのろわれる。彼は盛んに呪いの言葉を吐いた。「出て行け。血ま
みれの男。よこしまな者」と。部下が、首を跳ねさせて下さいと、
進言したほどだ。

しかし、ダビデは「彼にのろわせなさい。主が、彼に命じられたの
だから。主が彼の呪いに代えて幸せを報いて下さる」と。ウリヤ殺
害の罪が思われただろう。だがダビデは、すべてを主に委ねていた。
だから受け止%


2013年05月18日(土)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりして いるのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12


私たちは、主を知る以前は、自分を量る物差しが無いので、他人と
の差異で自分を量って生きて来た。だから、無意識にも、常に他人
との比較の中で生きて来た。そして、意識せずとも、優越感と劣等
感を行ったり来たりしながら。人より上位に立てば優越感、劣れば、
劣等感・・。いつも焦りや不安、恐れ、思い煩いに襲われる。

信仰を持った後も、根深く培われた比較に生きてしまう。平安が全
く無い。喜びが無い。それは比較から来ている。サウルは、女たち
が笑いながら、繰り返して「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ
た」と歌った事で、激しい妬みにかられた。

「サウルは千」だけならどうも無かったが、「ダビデは万」である
ことに、それを比較された事に我慢がならない。激高した。以後、
ダビデへの妬みが憎しみとなり、殺害のためにつけ回した。ある人
が言った「ただ単に幸せになりたいなら、それは簡単に実現できる。
ところが私たちは、他人よりも幸せでありたいのだ」。

エデンの園で、サタンからの、神のようになれるとの誘惑に乗り、
善悪の知識の木の実を食べた。罪を選択した。その時より、神にな
りたい、人より上に立ちたい、負けたくない、それが肉の性質とな
って巣くっている。

その古い人が十字架で死に、新しくされた私たちは、御霊の助けに
より、御霊の導きの方を選択できる。ただ単に幸せなら、現在の自
分をそのまま認め、与えられている恵みを数えて行けばよい。そこ
に喜びと平安がある。

・・・・・・・・・・・・・
比較による、思い煩いや妬み、競い合う心を認め、いつも主の前に
持って行こう。妬んでいます、思い煩っていますと、そのまま主に
告げよう。しっかり認めよう。その時、主が働き、助けて下さる実
際を知って行ける。


2013年05月17日(金)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Tヨハネ3:18


どうしても好きになれない人がいるだろうか。いつも悪口や噂話ばかりする人、短気ですぐに怒る人、自慢ばかりの人、人の批判ばかりの人、不満と愚痴しか言わない人・・。好きになるのは無理と思うかも知れない。しかし、聖書は、一言も相手を好きになれとは言っていない。「好きになれ」でなく「愛しなさい」と言っている。

愛する事は、好きになる事ではない。好きでなくとも愛することはできる。だから、御言葉は実行する事ができる。聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」だ。感情の愛ではない。愛と言うと、感情的なものを連想するが、そうでなく、意志で愛することだ。感情はコントロールできないが、意志はコントロール出来る。そう造られている。愛するとは祈ること。まず祈ろう。

又、日常生活で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事をし、自分の持っているものを与えることができる。自分に出来る事をすればよい。それが愛するという事だ。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざす者に、どうして神の愛がとどまっているだろう」現実では、実際の命を捨てるほどの大きな事は起こらないだろう。しかし、困っている人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出来ることをする事、それなら出来るのではないだろうか。御霊に示されている事があれば、愛する事を実行しよう。
------------
愛せないのではなく、愛さないのかもしれないとの心をもって苦手な人や隣人を見てみよう。何か祈れる事がある。愛を実行していく中で、自分自身の霊も主によって豊かに養われて行く。


2013年05月16日(木)

「もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです 」マタイ18:15

             
対人関係での、問題の解決の仕方が示されている。まず「ふたりだけのところで責めなさい」と。責めるべき当の相手でなく、まず関係の無い第三者のもとへ行き、当事者をあれこれ批判し、罪に定めていないだろうか。その結果、それが巡り巡って当事者の耳に届く事になる。そうすると誤解が生じ、感情の糸がもつれて、余計問題がややこしくなる。

当時、罪を犯した人は、大勢の人々の前で責められた。姦淫の現場で捕らえられた女性も、大勢の人々の前で断罪された。しかし、主は、彼女に一対一で向き合われた。「ふたりだけのところで責める」とは、第三者を入れず、相手の人格を尊び、大切に扱うことだ。それが罪を指摘することができる、信頼関係の土台となる。人前で責められると、まず心を閉ざしてしまう。そして責める目的は「兄弟を得たのです」兄弟を得るためだ。

単に断罪し、裁くためでなく、関係を建て上げ、培い、深めて行くためだ。罪を責める動機はどうだろう。愛によらず、単に自己正義、義憤だけなら、更に関係を悪化させてしまう。経験あるだろうか。主の動機はどこまでも「愛」だ。「もし誰かが過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」御霊に導かれて、愛によって語る時、その言葉は用いられて行く。
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相手の罪を責めるには、愛を持って語る責任がいる。ただ罪だけを責め立てるような無責任な噂話しや、また心で裁いてしまったり、祈り、愛によって直接語れないなら、人を裁くこともやめよう。


2013年05月15日(水)

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」Uテモテ2:13


ヤコブは、兄エサウから長子の権利を奪い取り、父からの祝福をも奪い取った。父も兄も欺いた。その結果、家から出なければならなくなった。叔父ラバンのもとへの途上、野宿し、石を枕に横になった。その時に、主がヤコブのかたわらに立たれ、驚くべき事を語られた「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり・・地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。

見よ。わたしはあなたとともにあり・・あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」と。人を押しのけ、自分の利得のために、自己中心に生きて、孤独で、寂しく、惨めな状況になったヤコブ。そのヤコブに、主は驚くほど恵み深く、尚も将来も大きな恵みと祝福を備えていると。これは主の一方的な愛顧であり、主権であり、私たちにも同様だ。

私たちがどんなに自己中心で、ひどい者であっても、そんな事はわかった上で、愛して下さっている。だから、主の前で良い人の振りをして、取り繕う事も、本当の自分を隠す事も無い。すべてご存じで、愛して下さっている。そして私たちの人生を大いに祝福し、喜びに満ちたものにしようとしておられる。この主のご愛を受け取り、信じよう。主の愛を堅く信じて、何があっても、そこから動かずに歩む時、目に見える光景が違って来る。
------------
どのような者でも決して見放さず「あなたをこの地に連れ戻そう」と約束して下さる神様のご愛で、私たちの信仰生活は導かれている。感謝するとともに、常に自分自身も真実な態度で主に向き合っていたい。


2013年05月14日(火)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:23


ある人が、どうしても欲しいものがあった。祈って、切に祈って、主に願った。祈りを積み上げた。しかし、なかなか与えられなかった。絶対に欲しい。尚も、祈り続けた。しかし、どうしても与えられず、その祈りの中で、動機を探られた。自分の事のみで、主のみ思い、主の栄光、主のことが全く無い事に気づき愕然とした。

そして主から、何が何でも奪い取ろうとするような態度、更にそれさえ手に入るなら、主でなくてもよい、恐ろしい心がある事に気づき、心底涙ながらに悔い改め、明け渡した。その時、主は平安を下さった。心が主に触れ、平安で満ちて、もうその事はどうでもよくなってしまった。しかし、その後、そのものが、何と上から与えられたのだった。ただただ驚き、主の御名を崇めるばかりだった。私たちも、しばしば、祈りにおいて、動機がきよめられる必要があるかも知れない。

ある人は、進みたい方面を、周囲から反対された。しかし、自分自身は、主の御心だと信じている。祈りの中で、余りの反対に、反発し、意固地になっている自分に気づかされた。御心だから進むというのは建前で、実は頑なな自我を通している事を示された。心から悔い改めて、進路を委ねた。進むも退くもOKですと、祈った時に、主が門を開いて、御心を成し遂げて行って下さった。
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右でも左でもと主に委ねられないのは何故だろう。祈っていても思い煩い不安になるのは何故だろう。主との交わりの中で、真に自分が求めているものの正体を知ろう。そこからまた新しい祈りが与えられる。


2013年05月13日(月)


「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか」ヨハネ5:44

人には、人に愛されたい、受け入れられたい、評価されたい、認められたいという思いが、根深くある。主に従い、主に喜ばれたいと、主に向くのではなく、人からよく思われたい、人の評価が欲しいという肉の思いがある時、方向を間違ってしまう。神と反対方向に向いて行ってしまう。様々な弊害が出て来る。

例えば、親が子供に過剰期待をする時、子供は親の期待に応えようとする。自分の気持ちはありながら、自分とは別の親の期待に一心に応えて行く。その時に、底には自分の思いがあるが、ずっと抑え込むので、いつしか自分の気持ちがわからなくなる。自分を見失って行く。自分で自分がわからなくなる。良い人を演じている場合も同様だ。周囲から良い人と思われたいがために、ひたすら周囲の期待に合わせて行く。そして、自分がわからなくなって行く。

その場合、よく見られたいがために、本当の自分を隠すので、自己欺瞞に陥り、自分でも、自分がわからなくなる。平安と喜びが無い。そして、御言葉はどう言っているかでなく、人にどう思われるかと生きて行くので、神が見えない。もしこの状態なら、主は救い出して下さる。人から良く見られたい、それをきっぱり捨てることだ。人にどう思われても良い。そこから離れて、主の御声に従う決心をし、一歩〃従うことだ。主は必ず真の平安へと導いて下さる。そう出来ない自分を、御前で認めることから始めよう。
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目に見える人を鏡にして、私達は反応しがちだ。だんだん自分を見失い平安がなくなる。神様が見えていると自分の姿もはっきりと見える。み言葉を読みながら自分の本当の姿を知り、その私を変わらず愛して下さる主を確認し、主にあって自立した人生を生きよう。


2013年05月12日(日)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑される のです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコ ブ1:14



私たちは信仰生活で、必ず試練や誘惑に会う。「試練」と「誘惑」
の違いは何なのだろう。御言葉によると、信仰の「試練」は、金よ
りも尊いもので、主の現われの時に称賛と光栄と栄誉に至ると。試
練は良いものであり、神から来るものであり、信仰の成長とされ、
天での報いとなる。神に近づけられる。

しかし、「誘惑」は神からではない。「誰でも、神によって誘惑さ
れたと言ってはならない。ご自分で誰も誘惑なさることはない」。
私たちの内にある「欲望」に従って行くので、神から離れることに
なる。「人は、自分の欲に引かれ、おびき寄せられ、誘惑される」。

誰のせいでもなく、自分の欲望から来る事であり、自分のせいだ。
サタンはその欲望に狡猾、巧妙に誘惑をしかけてくる。罠にかから
ないためには、どうすればよいのか。何より大切な事は、自分は弱
いと、自らの弱さを認めることだ。

いつも誘惑を受ける箇所は同じであり、その弱い所をよく自覚し、
誘惑の状況をよく把握し、普段から祈っていることだ。サタンが来
た時に、御霊が気づかせて下さり、拠り頼むことができる。又、誘
惑になる事態や場所を避ける事も大切だ。誘惑になる状況から「逃
げる」ことだ。その場に身を置かない。

試練は忍耐するが、誘惑は忍耐するのでなく、即、逃げることだ。
拒否する。誘惑から逃げずに、拒絶せずに、心の中でみごもると罪
を犯してしまう。御言葉は力だ。自分の思い、自分の気持ちでなく、
御言葉に従う時、御霊の助けがあり、誘惑に勝利できる。

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試練は受け入れ、忍耐する時、主のかたちへと変えられて行く。誘
惑は受け入れてはならない。拒否し、逃れることだ。誘惑になる状
況を避け、足を踏み入れず、サタンに機会を与えないよう、そして
心して祈っていよう。


2013年05月11日(土)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御 前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8

 

信仰生活では、様々な事が起きる。すべての人は、喜びの時、悲し
みの時、苦しみの時を通る。喜びの時、楽しみの時は、主に感謝す
ればよい。しかし、苦しみの時にはどうすればよいのか。

詩篇記者は、「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は我らの
避け所」とあるように、詩篇の様々な箇所で、感情を、気持ちを主
に吐き出している。苦しみ、嘆き、怒り、悲しみ、焦り、失望、落
ち込み、いら立ち・・何もかも率直に赤裸々に、「御前に注ぎ出」し
ている。

弱さをありのまま、正直に注ぎ出して行く時、そこで主に触れる。
そこで御霊が働かれ、心が変えられて行くことを経験する。そして、
「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって・・願
い事を神に知っていただきなさい」とあるように、「感謝をもっ
て」「感謝」には不思議な主の力がある。今までどうであったろう。

苦境の時、絶体絶命の時、主はどのようにして下さっただろう。必
ず助け出して下さったから、今がある。では、今回も助けて下さら
ない事があろうか。

主は愛していて下さる。主はご計画を持っておられ、「ご自分では、
しようとしていることを知っておられる」。「益として下さる」そ
れゆえ感謝をもって、主に信頼しよう。「民よ。どんなときにも、
主に信頼せよ」。主はその感謝と信頼を喜んで下さる。

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詩篇記者は、嘆きも苦しみも悲しみも、怒りも率直に隠さず、あり
のまま主に訴え、聞いて頂いた。心の何もかもを打ち明けて、注ぎ
出し、そして明け渡して行く時、不思議に心が平安にされる。自分
で抱え込まずに、目の前の問題をことごとく主に打ち明けよう。


2013年05月10日(金)

「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために、私の口に口輪をはめておこう」詩篇39:1

ダビデは体調も思わしくなく、心身共に苦しみの中で「なぜ、どうしてこんな目に会うのか」との不満が鬱積していた。しかし、「舌で罪を犯さないために、口に口輪をはめておこう」と。しかし、ひたすら沈黙を守っていると、ストレスが高じて、どうにもならず、鬱積し爆発しそうだった。それを、我慢して抑えつけるのでなく、又、人に言うのでなく、「そこで、自分の舌で言った。主よ〜」主にそのまま叫び、ぶつけた。

心の中の気持ちを吐き出し、洗いざらいを主に告げた。自分の一生は、主の前では、無いも同然であり、人生は、はかなく虚しい。人は、盛んな時でも虚しいもので、人は積み蓄えるが、それも虚しいと。心の内を吐き出した時に、信仰が戻って来た。この虚しい人生で望みをかけられるのは何かと、見上げた時に、主を見い出した。

「私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。そして、気持ちを告げた後は、「私は黙し、口を開きません」と。同じ口を開かないだが、最初とは全く違う。「あなたがそうなさった」と、主の主権を認め、ご計画がある事を認め、それを受け入れ、すべてを御手に委ねた。心の内をことごとく主にさらけ出したゆえに、状況を受け入れることができた。私達も奥底の気持ちを、神に告げて、初めて、神のご計画を受け入れる事が出来る。
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口を開けば鬱積した苦しみが噴出し、黙していれば虚しさに押しつぶされる。そんな苦しみの中の希望は、聞いて下さる神が側におられることだ。つぶやきも神と語れば祈りになる。神と語り続けよう。


2013年05月09日(木)

「サウルはいつもダビデを追ったが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった。」Tサムエル23:14 

サウル王は、ダビデへの妬みのために、ダビデを殺そうと、執拗に追い回した。しかし、この御言葉によると、サウルはダビデを追うが、そこに神が関与され、ダビデを守られたとある。背後に神が、主権を持って関わっておられる事を見せられる。ダビデだけでなく、私たち一人一人の信仰人生をも、支配しておられるのは、実際は神であるという事だ。私たちには、理解できない、わけがわからない、不条理な、様々な状況を通るが、偶然でなく、たまたまではなく、すべて神の深いご計画の中にある。

ある時、ダビデは、ペリシテに襲われているケイラの町を救った。しかし、サウルは、ダビデがケイラにいる事を知ると、ケイラの町を破壊しようと討伐をしかけて来た。ダビデが主に祈ると、ケイラの住民は、自分たちを守るため、ダビデをサウルに引き渡すと示された。そのためダビデと部下たちは逃亡。ダビデは、命を狙うサウルを恐れた。しかし、ダビデの命は、主の主権の中にあり、素晴らしい友であるヨナタンを備え、ダビデを力づけられた。

ダビデは、常に命を狙われ、死と隣り合わせの恐怖にいた。主が主権者なら、サウルをどうにかする事も出来たのでは。しかし、主は深い御心により、ダビデに痛みや悲しみ、苦しみ、恐れをあえて通された。それにより民を治める次の王として、神に信頼する事を身をもって学ばせ、ふさわしく整えられて行った。今、問題があるが、主の主権の中であり、深いご計画がある事を覚えよう。
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私達も、主が守っていて下さるなら一刻も早い解決をと望んでしまう。問題解決しか見ていないなら、苦しさに耐えられないだろう。なぜ、今ここを通らされているのか、いつもそこを見つめて主を信じていよう。


2013年05月08日(水)

「・・互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13 


 
私たちにとって、最も難しい事の一つ は「人を赦す」事かも知れない。人を赦さない心ほど、苦しいものはない。経験した事があるだろうか。頭では赦すべきだとわかっているのだが、赦すことができない。そして、苦しいのは相手ではなく、本人だ。赦さない心は、自由の無い、暗い牢獄の中であり、自分から牢獄に入ることになる。絶え間なく、心は苦しく、がんじがらめだ。いつも赦せない相手のことを考え、相手に支配されている状態だ。

自分の心も、人生もコントロールされて、解放されることがない。楽しい時も、楽しくなく、幸せなはずの日々が、真っ暗だ。実際、赦さない事を選択している、自らの頑なな心による。いつしか人格を損ない、歪めてしまう。このような一生を望むだろうか。「私たちはサタンに欺かれないため、サタンの策略を知らないわけではない」。

赦さない心に、サタンが働いている。そして、クリスチャンが赦さない事は、サタンの策略にはまってしまうことになる。そこにサタンに足場を与えてしまい、憎しみ、敵対心、怒り、高慢へとサタンに攻撃を許すことになってしまう。サタンに影響されてしまう。主に、あるがままの心を、率直に、打ち明けよう。「赦したくありません。助けて下さい」主は、赦せるように助けて下さる。赦す力は主から来る。ただ、そうしたいとの決意は自分サイドだ。
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赦さない自分の罪をサタンはすり替え、もっと赦せないようにと続けて煽ってくる。「赦したくない」自分の思いを認め、しっかり主に助けを祈ろう。平安と喜びの穏やかな心で一日を過ごしていたい。


2013年05月07日(火)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え・・夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多いからだ」イザヤ54:1




ある人が、神学校を卒業し、田舎伝道を志し、高齢になった牧師の教会を引き継いだ。まだ若く、経験も全く無く、熟年の人々を導くのは難しかった。する事がことごとく、うまく行かず、信頼関係がなかなか築けなかった。ある問題が起きた時、皆の意見がバラバラであり、対立し、争いとなってしまった。苦しい、辛い日々であった。自分の未熟さのせいと、自分を責めた。どうしてよいかわからなかった。そんな中、中心的な人物が去り、皆が大きな打撃を受けた。それに続く人々も出た。

状況もどうにもならず、ますます悪循環になるばかりだった。まさしく窮地であった。落ち込んで、気力も失せて行った。鬱ではないかと思うほどに、何をする気にもなれなかった。御言葉を読む気力も無く、ぼうっ〜と日を過ごしていた。家族や友人たちが、心配し、ずっと祈り続けてくれていた。祈るともなく、嘆きか、祈りかわからないような中で、心に語りかけて来る御声を聞いた。

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え」。「子を産まない不妊の女よ」、まさに自分のことだった。その通りであった。だが、「喜び歌え」と言われる。「あなたの天幕の場所を広げ・・」「あなたは右と左にふえ広がり・・」と。沈んだ心に、「喜び歌え」との御言葉は、ふっと目を上げることができた。御霊の力だった。そこから再び立ち上がって行くことができた。周囲の執り成しに感謝した。どんなどん底でも、主は引き上げて下さる。
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苦しみのどん底にあって、ただじっとしているしかない時もある。嘆きやうめきを祈りに持って行きつつ、少しでも光がさす方へ顔を向けてみよう。自分の感情ではあり得ない「喜び歌え」の御言葉を神様は用意していて下さる。


2013年05月06日(月)

「肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら・・肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9


ある人が、小さい時からずっと、周囲の皆に「良い子」と言われて来た。良い子に見られたかったし、そう言われる事は嬉しかった。良い子であろうと、懸命に頑張り、自分でも良い子だと思っていた。大きくなっても、良い人に見られたいので、頑張っていた。

しかし、そんな時、本当の自分の姿があらわにされたのが、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」だった。自分に、決して出来ない事であった。人の幸せが、羨ましくて妬ましい。人の幸せを喜ぶ事ができない。悲しむ人と共に悲しめない。むしろ自分の幸せに安堵してしまう自分、心に潜む罪の現実を見せられた。

ある人は、入試に不合格だった。失望落胆し、心重く沈んだ。その時、友人の合格がどうしても喜べない。「祝福できない。言葉もかけられない。助けて下さい」と主に祈った。すると、心は重いが、主が喜ばれるなら、一言祝福を送ろうと心が変えられた。祈りの答えだった。そして従うと、不思議に平安になった。相手は非常に感銘を受けたと、証しと用いられた。

ある人は、同じ病状で、後で入院して来た人が、どんどん回復して行く事に、共に喜べない。心には妬みが渦巻いた。自分の醜さにショックだったが、主に近づけた瞬間だった。自分では出来ない事を認め、主に拠り頼んだ時に、御霊が導いて下さることを経験する。
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肉の思いに従いたくないと思える事がまず大きな感謝で、すでに御霊の導きの中にいる。自分には何も出来ないが主が助けて下さる。信じて祈り、御霊に従ってみよう。


2013年05月05日(日)

「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩 して湯水のように財産を使ってしまった」ルカ15:13


兄と弟息子がいたが、弟息子は父に、財産の生前分与を要求した。
父は財産を与えるならどうなるかは、すべてわかっていた。与えず
に、拒否することもできた。
しかし、父はわかっていて、弟息子の意志による選択を受け入れた。
したいようにさせてやった。自分でやってみないとわからない、通
らないとわからない事を、父は知っていた。

息子は大喜びで、遠国へ。父のもとにいるのは窮屈であり、父から
自由になりたかった。息子は財産を湯水のごとく使った挙げ句、と
うとう使い果たしてしまった。働かなければ、食べる事ができない。
どうにもならない所へ、追い詰められて行く。

豚の番人をするが、食べ物は貰えず、餓死寸前だ。とうとう行き詰
まり、我に返った。父のもとに帰る決心をした。その間、父は、息
子を連れ戻しにも行かず、叱りにも、説教しにも行かず、しかし放
任ではなく、じっと見守った。息子が帰るのを、ただ待ち続けた。

息子が自分で戻るのを待った。これが父の愛だ。そして、父は息子
を見つけるや、走り寄り、彼を抱き口づけした。一言も責めること
なく受け入れた。この時に、息子は真に父の愛を知った。父が阻止
していたなら、息子はどうだろう。不満タラタラ、反抗心を秘めた
うわべだけの親子関係だったろう。以後、息子の父への気持ちは、
愛と信頼に変えられた。

・・・・・・・・・・・・
「私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛し・・ここに愛があ
るのです」、神を愛そうと頑張るから、愛して下さるのではない。
受け入れてもらおうと努力するから、受け入れられるのではない。
神は今も、主の十字架のゆえに、このまま愛して下さっている。


2013年05月04日(土)

「・・私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造 られた主から来る」詩篇121:2 

        

都上りの歌となっていて、エルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。
「山に向かって目を上げる」は、前に立ちはだかる困難な険しい
山々だ。苦難が予想される行く手の山々に、助けがあるのだろうか。
非常に切実だ「私の助けはどこから来るのか」。

エルサレムは遙か彼方であり、山々が行く手を固く遮っているかに
見える。無事に行けるのかもわからない。しかし、巡礼者は、その
時、立ちはだかる山々よりも、更に高い所に目を注いだ。尚もその
上におられる主だ。

祈りが立ち上って来た。「私の助けは、天地を造られた主から来
る」!計り知れない困難はあるが、その山々を造られたのは主だ。
すべての状況も主が御手で治めておられる。「助けは主から来る」、
人からでも、自分からでも無い、助けは主から来る!

私たちも、巡礼の旅をしているようだ。険しい山々があり、荒野が
あり、様々な危険にも遭遇する。今、行く手を阻む困難の山がある
だろうか。それは、突然の病気、けが、経済的苦境、苦しい対人関
係、又、誰にも言えない悩みだろうか。

まさに「私の助けはどこから来るのか?」。「天地を造られた主か
ら来る」。自分の力や人の力、物に頼っているなら、天地の創造主
である主のもとへ行こう。目の前の事態を、まず主に祈ろう。必ず
主から助けが来る。

・・・・・・・・・・・・
目の前の難題も、主の支配の中だ。助けは主から来る。難題を通し
て、いろんな事を学ばせ、砕き、成長へと導いて下さる。何よりも
主に頼ることを培って下さるためだ。主に助けを求めよう。助けが
来る。


2013年05月03日(金)

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ・・」創世記3:6 

        
エデンで、サタンがエバに誘惑をしかけて来た時に、エバは御言葉をうろ覚えだった。園の中央にある木の実について、「それに触れてもいけない」とは言われておらず、「死ぬといけないからだ」とも言われていない。「必ず死ぬ」だ。エバの足もとはグラグラだった。主から御言葉を直接聞いたのは、アダムだった。エバは、はっきりしないなら、アダムに聞けば良かった。御言葉に立っていないなら、サタンは恐いものは無い。

「あなたがたがは決して死にません」とずうずうしくも断定して来た。「必ず死ぬ」と「決して死なない」は正反対だ。普通なら、ここで気がつきそうだが、サタンの声を聞いて行くと、欲望のとりこになって行く。だから、むしろ「決して死にません」が望むところとなってしまう。心の底では、そうしたい。「大丈夫だ。食べても、決して死なないよ」。

更にサタンはたたみかける。それを食べるなら、神のようになることを、神は知っている・・。あたかも、神は人間を自分に隷属させておきたい、神と等しくなられるのが嫌なのだ、神は人間を愛してなどいない・・偽りを吹き込み、神観を歪める。そういう思いが心に吹き込まれて、木の実を見るなら、もう抗する事はできず、取って食べるのを待つばかりだ。サタンは、常に疑いを起こし、融和し、罠にかけようとしている。「・・と書いてある」主のように御言葉に立ち、祈っていよう。
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欲望に合致しているのでサタンと語るなら黒はいかにも白に見える。いつも来る欲望とサタンに敗北する所はどこか、よく知っておこう。対抗する御言葉を準備し、サタンに備えたい。



2013年05月02日(木)

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神はほんとうに言われたのですか」創世記3:1



サタンは「試みる者」と言われ、そして「一番狡猾」だ。サタンが常に使う手段は「疑い」だ。神の言葉を疑うように、誘惑して来る。サタンはエバを誘惑するのに「神は、ほんとうに言われたのですか」とささやいた。「神は」と、まず神を認める。無神論者や敵対者が近づいて来たなら、警戒する。しかし、神を出して来るので油断し、対話を始めてしまった。そして、サタンの攻撃が「本当に?」だった。

神が言われたのですね。「でも、本当に?」心に疑いを起こさせる。「語られた御言葉は本当?」「その約束は本当?」疑いが入ると確信が揺らぎ、土台がグラグラになる。「神は本当に愛してくれているのか?」神は愛していると言われた。御言葉の真理に反するものは、すべてサタンからだ。今、あなたの心にも、ささやきかけているか。

「その御言葉は本当に?」「その導きは本当?」狡猾な敵に気づこう。対人関係にもサタンが働く。疑いを吹き込み、不信感を起こさせるなら、即、一致を乱せる。心を疑心暗鬼にする。疑いの目で見るなら、些細な事にまで不信感が生じ、ひびが入り、信頼関係が壊れて行く。サタンは背後でほくそ笑んでいる。今、心に、サタンからの疑いが来ていないか。自分でなく、サタンからだ。サタンの攻撃をよく見張ろう。
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サタンは、絶えず揺さぶり疑いをもちかけ、混乱させ、破壊させ神様から離れることに勇気をくれる。なにか心にざらつきを覚えるとき、御言葉はどう言っているか、確かな御言葉で確かめてみよう。


2013年05月01日(水)

「すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18


ある人が、不況の折り、会社が倒産、職を失ってしまった。妻子を抱えて、蓄えもそんなに無く、懸命に次の仕事を探した。探せど、探せど、なかなか次の仕事が見つからなかった。だんだん蓄えも底をついて来た。不安と思い煩いがどっと来て、御言葉を与えられるよう、祈りに祈った。その時に「すべての事について感謝しなさい」と語られた。それで、現状を憂うのでなく、感謝することを決心した。

どんなに探しても仕事が無かった事を感謝した。又、現在、もう貯えが無い事も感謝した。しかし、今まで守られた事や、今、食べる事が出来ている事も感謝した。一つ一つ感謝していると、不思議な事に、不安や恐れ、思い煩いが消えて行き、心が平安に満たされて行った。そして、今は理解はできないが、今の状況も、主の最善だと信じることができた。仕事も無く、経済的にひっ迫していて、現状は、最悪であるのに、心が平安であることに驚かされた。

「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」との状況に関係無い、「主の平安」であった。このような主を知れた事に、主の御名を崇めた。そんな時、知人を通して、仕事の誘いがあり、良い給料も提示され、主の備えに驚き、感謝した。見える所、苦しい状況の中で、主を見上げ、感謝を献げて行った時に、主の御心の場所へと導いて下さった。
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完璧な環境で気力も体力も万全であるならいつでも喜んでいられるだろうか。どんな中でも感謝する事で、いつも主を認めていられる。信じきれる主が共におられると知る事が平安の唯一の源だ。