2013年06月30日(日)

「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」ヘブル12:6

小さな子供に危険がある時、親はどうするだろう。例えば、幾ら叱
ってもストーブを触ろうとする時、手をバシン!と思いきり叩くだ
ろう。触ると痛いという事を身をもって教える。又は、あえてほん
の少し触らせて、痛みを身体で知らせ、二度と触らないようにする。

これは子供が憎いからではない、子供を愛しているからだ。危険か
ら守るためだ。主も時に、私たちに同じ事をされる。幾ら言われて
も、聞かない時に、主は私たちを愛するゆえに、痛い思いをさせら
れる。

最初は頭コツンで、気づかずに、尚も心頑なにしていると、げんこ
つが来る。それでも気づかなければ、むちが来る。あなたもかつて
経験した事があるだろうか。痛みが来て初めて心砕かれて、御心に
従おうとし、従って来ただろうか。

御言葉を聞いて、素直に従う事ができればよいのだが、どうしても
従えない、従おうとしない。頑なな心がどうにもならない。懲らし
めは私たちへの愛だ。懲らしめによって、御心に従うことができて、
大きな祝福を体験して来た。

又、自己中心に、自分の思いで歩んで失敗する。祈らないで、事を
行ない失敗する。しかも、何回も同じ事を繰り返してしまう。手痛
い失敗を通して、主に従うことの大切さを身をもって教えられる。
懲らしめは、真の危険から私たちを守るためだ。放っておかれたな
ら、どうなっていたかわからない。

・・・・・・・・・・・・・・・
愛といえば、ほんわか暖かい心地良いものを連想する。痛い、辛い
事が愛の概念とリンクしない。しかしまず懲らしめは大きな主の愛
であることを認めて、受け入れよう。この価値観から変えられて行
くよう祈ろう。


2013年06月29日(土)

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたが たの間ではそのような心構えでいなさい・・キリストはご自分を無に して、仕える者の姿をとり・・」ピリピ2:4 

     
     
信仰生活で、色々な問題にぶつかるが、対人関係の悩みにしばしば
直面する。職場でもトラブルは、仕事そのものより、対人関係によ
るものが多いと言われている。その対人関係で問題が起きた時に、
こじらせて泥沼となり、どうしようもない困難な状況にしてしまう
事がある。

それは相手を責めて、悪いのは相手であり、相手を変えようとする
時だ。相手は反発し、心を閉じて、ますます頑なになる。争いが根
深くなるばかりだ。相手を変えようとして、相手が変わる事は決し
てない。相手を裁くのは、相手がどうのより、自分の思い通り、期
待通りでないことに我慢できないからだ。

どうすれば良いのか。相手を変えようとしない事だ。相手を変える
のでなく、自分が変わろうとするなら、確実に問題解決へと向かう。
争いの原因は、人の内にある欲望であって、自分中心にその欲を満
たそうとするところにある。人格的、信仰的未熟さによる。未熟は
未熟で構わない。問題ない。これから成長して行けばよい。

しかし、問題は自分が未熟だと思っていない事だ。相手は未熟だが、
自分は未熟ではない。自分の未熟さを認める以前に、気づいていな
い。しかし成熟した信仰者なら、そういう事態にはならない。主に
向かい、そこを認める時、問題解決の糸口を見出した事になる。

自分の内側を御霊に探っていただくなら、様々な気づきが与えられ、
平安へと導かれる。そしてへりくだって示しに従う時、御霊の喜び
へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・・
目の前の対人関係は、主から来ている。主からの取り扱いだ。そこ
に主を認める時、色々な気づきが与えられ、成長へと導かれる。自
分が変えられ、大きな祝福とされて行く。まずそこに主を認めよう。


2013年06月28日(金)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5 


時間と労力を提供して、働いて得た報酬は給料だ。だが、全く働かずに給料が与えられたらどうだろう。それは労働していないのに、与えられる一方的なプレゼントであり、それが「恵み」だ。行ないがあって、義と認められるなら、当然だが、行ないが無いどころか、不敬虔な者を義と認めて下さっている。「私たちがまだ弱かった時・・不敬虔な者のために死なれた」「罪人であった時、キリストが死んで下さった」「行ないによるのではない。誰も誇ることのないためです」。

ぶどう園の労務者の箇所で、主は、5時から働いた労務者に、早朝から働いた労務者と同じように、1タラントを支払った主人のことを話された。主は、このようにあわれみ深く、驚くべく気前の良い方だ。放蕩息子の箇所もその通りだ。父からもらい受けた財産を湯水のように使い果たしてしまった、弟息子が、我に返って、父のもとに立ち返った時、父は、浪費した財産ことは一言も無く、尚も与える。最上の着物を着せ、指輪を、靴を与え、最上の子牛をほふり、祝いの宴会を開く。与えて、与えるばかりの父だ。

主は「弱い者」「不敬虔な者」「罪人」を愛される方だ。正しい事ができない私たちを愛し、赦し、受け入れ続けて下さる。何というあわれみ、慈しみ、恵みだろう。感謝が溢れる。働きのある、敬虔な者、霊的な、立派な人が愛されると勘違いしていないだろうか。
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信仰に立ち御心を行おうとする時、出来ない自分を見る。それでも主にあって義とみなされていることを思うと感謝が溢れる。主の十字架が5時からの者にもしっかりと備えられている。


2013年06月27日(木)

「彼は、恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った・・主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」T列王19:3


          
エリシャはバアルとの戦いで、神経すり減らし、心身消耗しきった。その直後、イゼベルの使者により、24時間以内にエリヤ殺害を告げられた。すると恐れに支配されてしまい、恐怖におののいた。エリヤは、まさに信仰の勇者であった。しかし、アハブとイゼベルは更に頑なになり、あれだけバアルと戦ったのに、何も変わらないとの深い挫折感に襲われ、気落ちし、性根尽きた。

アハブの車の前を、自分の足で全速力で走り、イズレエルまで行ったので、体力も尽きていた。又、主に従うのは自分一人だけと偏った思いの中にいた。そこで神に頼るのでなく、自分を救うために逃げ出した。目の前が真っ暗で、極度の恐れと不安で絶望状態だ。死を願うエリヤに、主は慈しみを施される。責めることも、叱ることもせず、食物を与え、休ませられた。エリヤには何よりも心身の休息が必要であった。

神は休ませて下さる。しっかり食べさせて、ぐっすり眠らせられた。休息で、力を得たエリヤは立ち上がる事ができた。極度の緊張状態が続いたり、過労の時はまず休息が必要だ。状況も正しく判断できず、ネガティブにしか受け取れない。神はエリヤに御声をかけ、間違った情報を正し、新たな使命を与えられた。主は慈しんで下さっている。どんな状態の時も、受け入れ導いて下さる。それを受け取ればよい。今のありのままで主の前に出よう。
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エリシャのような大きな働きをしなくても私達は疲れる。自分のネガティブな感情が主の御声をふさいでしまい、疲れ落ち込んだ自分の声ばかり聞いているような日は、主の元で静かに休もう。


2013年06月26日(水)

「ルツは言った『あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です』」ルツ1:16 


         
ベツレヘムに厳しい飢饉が臨んだ。エリメレク夫妻は、神の約束の地にとどまって忍耐し、主に頼りつつこの危機を乗り越えるか、それとも、食物が豊富にあり、何の心配もないモアブに移住するか、どちらかを選ぶことができた。結果的に、夫婦はモアブ移住を選び、約束の地を離れてしまった。家庭の幸せのため、家族を守るためであったろう。苦しい飢饉から逃れ、当初は豊かさを楽しんだ。しかし、それは長く続かず、夫と二人の息子が死んでしまった。

どんなに辛かっただろう。神の御心を離れ、家族の幸せを求めて、異教の地に移ったはずが、辛い刈り取りをする事になった。苦労に苦労を重ね、やがて、故郷が豊作になった事を聞き、神のもとに帰ろうと、帰郷の決心をする。その時に、嫁ルツも、ナオミの背後に、まことの神を見て、その神に従いたいと、ナオミに従う決心をする。ルツにとれば何一つ知らない異国の地だ。故郷を捨て、大変な決意だったろう。ルツの信仰だった。

帰郷し、ナオミは人々に出会った時、主は自分を卑しくし、辛い目に合わせられたと言った。だが、神に立ち返ったナオミは大いに祝福された。何より信仰を持ったルツが与えられ、又、ルツとボアズの結婚で、家は再興、素手で帰った手で孫を抱き、その孫からダビデが出、主キリストに連なることになる。神のあわれみは尽きない。どんな時にも、立ち返るなら、赦し、豊かに祝福して下さる。
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失意の帰郷を神は多くの祝福を備えて待っていて下さった。モアブにあっても神は帰っておいでと呼びかけておられただろう。いかに神から離れても、神は見放さずにいつも追いかけていて下さる。


2013年06月25日(火)

「私は衰えています。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています・・いつまでですか。あなたは」詩編6:2

 

ダビデはサウル王に妬まれ憎まれ、命を狙われる。槍を投げつけられ、危機一髪の場面もあった。又、自分の実子アブシャロムからも狙われ、病にも陥り、身も心もボロボロの、非常なる苦しみを受けた。ダビデこそは、神の心にかなった人だった。信仰者になると悩みが無くなるのではない。この世の宗教は、家内安全、商売繁盛、無病息災と、問題が無いことが善だとする。

しかし、まことの神は違う。私たちには、問題は必ずやって来る。苦しいので、とにかく問題が去る事を願う。しかし、苦しみの時こそ、神が神である事を身をもって知る。ダビデは「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべなく泣いて泣いて嘆いた。その嘆きをそのまま神に持って行った。苦しみの中でこそ、神との深い交わりに入れられる。「主よいつまですか、あなたは」と、ありのままの気持ちを、率直に正直に神にぶつけている。

順境の時には絶対に経験出来ない。自力で何とかしようともがき、走り回らず、心の内を、問題をすべて神に持ち出そう。自分で当たると空回りだ。ますます落ち込み、不安、恐れ、思い煩いに沈んで行く。心を注ぎ出し、気持ちを神に告げ、神に拠りすがりつこう。辛さと苦しみの中でこそ、神との近い交わりを経験する。心からの叫び、切なる願いを神は受け止めて下さる。「主は私の泣く声を聞かれた」祈りは聞かれる。
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ダビデでさえボロボロの弱音を主に訴えている。なんと励まされることだろう。不安や苦しみの騒がしい内なる声との会話をやめて、主と語ろう。祈れるから主の慰めも敏感に受けとることが出来る。


2013年06月24日(月)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18



御霊に導かれて、御霊の支配の中で生きる時、私たちは自由で、平安と喜びがあり、感謝がある。生きていることが嬉しい。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、信仰生活は非常に息苦しくなる。重い荷をずっしり背負うように辛くてしんどい。心に自由がなく、ふさがれる。神は恐い方で、罰を与え、常に強いられ、要求されていると感じる。

一タラント預かったしもべのように、神はひどい方で、蒔かないところから刈り取る、厳しい方だと思う。主が恐ろしい方になり、主に従う事が辛い事になる。そこに喜びなど全く無い。関わらないで欲しいが、正しい方であり、恐いので逃れられない。今、あなたはどうだろう。辛い信仰生活だろうか。それならどこかがおかしい。神観が間違っている。又、自力で頑張っているかも知れない。

憎しみ、怒りが湧き上がる時、これは良くない事と、心に抑え込むだろうか。抑え込んだものは、無くなるのでなく、ずっとそこにある。許容量を越えると、必ず爆発する。抑え込むのでなく、「怒っています、憎んでいます。誰にも言えないこの思いを、あなたはご存じです」と一つ一つ、主に告げる事が大切だ。隠さず、ごまかさず、無いことにせず、ふたをせず、主に言い表して行く。その時、主が助けて下さる。絶えず主を呼び、言い表わし悔い改め、助けを求めて行く時、その思いが消えて行く。思いが来た時、まず「主よ」と主を呼び求めよう。助けが来る。
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良いことも肉によって出来るので、ねばならない!と頑張ってしまう。喜びの無い時、肉に突き動かされているのかどうか、祈りによって自分自身をよく吟味していこう。肉の思いではなく、御霊によって生き生きと歩んで行きたい。


2013年06月23日(日)

「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じまし

私たちの日々の信仰生活はどうだろう。目に見えるところに大きく
影響されてしまい、状況だけを見て、すぐに神の約束から目を離し
てしまう。経済的苦境、病気、苦しい対人関係、仕事の問題・・目の
前の問題で、悩みと思い煩いでいっぱいになってしまう。

家族や親族が救われるなど、いつの日か、あり得るのだろうかと疑
ってしまう。そんな時こそ、主の語られる御声に耳を傾けよう。祈
りの中で、主と交わる時に、語りかけて下さる。アブラハムは100
歳の時に「サラによってひとりの男の子を与える」との約束を受け
た。

しかし、自分は100歳であり、サラの胎もすでに死んでいた。それ
でイシマエルがそのようにと言うと、「いや。来年の今頃、サラが
男の子を産む」と。その時、アブラハムは、目の前の状況と相反す
る主の約束を受けた。彼は、主の御言葉のほうを信じることを選択
し、感謝することを選択した。

そして主が忠実であることを感謝し続け、主は無いものを有るもの
のようにお呼びになる方であること信じ、約束を必ず成し遂げられ
ることを信じた。見えるところでなく、主の約束だけに目を留め、
感謝し続けて行った時、信じるようになって行った。

私たちも自分がどう見えて、どう感じるかでなく、約束の御言葉に
目を留め、主がどんなに真実で忠実なお方かをよく考えよう。思い
を馳せよう。そして感謝することを「選択」しよう。その時、信じ
るようにされて行く。

・・・・・・・・・・・
目に見えるものの影響力は凄まじく、目に見えないものが飲み尽く
されてしまうようだ。主がどんなに真実で、愛であり、変わる事の
ないお方であるかを覚え、交わりを地道に深めて行く時に、主への
信頼が御霊によって培われて行く。


2013年06月22日(土)

「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、 はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができま す」マタイ7:5   

       

「梁」とは大きな丸太であり、屋根を支えるために、柱と柱の間に
渡した横木のことだ。「ちり」は微少のもので、目にすらよく見え
ないものだ。他人の極小のちりはよく見えるが、自分の目にある丸
太は見えないとある。

人のあら探しをし、裁く思いが丸太であり、その思いは、目をさえ
ぎり、見えなくしてしまう。人を裁く思いがある時、正しくものを
見ることができず、相手を見ることができない。相手には確かに何
かの不足があるかも知れないが、自分の裁く心に比べるなら、相手
のものはちりみたいなものだと。

主は「見なさい。自分の目には梁があるではないか」と、自分に相
手を裁く心があることを認めよと言っておられる。それは心の中で、
自分は正しい、自分の方が相手よりましだと思っている。自分は相
手よりも寛容で、思いやりがあり、立派な人間と勘違いしているの
で、相手の弱さを裁き、責める。

又、例えば、私たちが、良く思っていない相手について、悪い情報
を耳にした時、 どうだろう。心密かに喜ぶ思いを少しでも持つな
ら、裁くことになる。嫌いな相手、妬ましい相手が失敗した時はど
うだろう。快感を感じるなら、それも裁くことになる。

相手のちりを見る、自分に梁があることになる。「まず自分の目か
ら梁を取りのけなさい」気づいて行く時に、裁く自分の姿を見せら
れ、へりくだらされる。そして主の赦しにあずかれて、相手のちり
を取り除くために用いられる。

・・・・・・・・・・・・
御霊に教えられないと、裁いていて気づかない。自分は正しいと思
っているからだ。どれほど裁いているだろう。主との関係が、さえ
ぎられてしまう。御霊が気づかせて下さる事が大きな感謝だ。悔い
改めて〃、赦されて〃歩める幸い。人の同じ弱さもわかって行ける。


2013年06月21日(金)

「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい・・『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする』と主は言われる」ローマ12:19  



ある人が、対人関係で傷ついて、「相手に悪いことが起こればいい」と、傷つけられた相手を憎む思いを持ってしまったと。しかし、主は言われる。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。悪に負けてはいけません。善を持って悪に打ち勝ちなさい」と。

生まれつきの罪の性質は、必ずやられたら、やり返したい。それも何倍にもして報復したい。復讐せずにはおれない。しかし、主は自分で復讐するなと言われる。復讐するなら罪を犯してしまうことになる。主が復讐すると言われている。神に任せるようにと。主が何もかもご存じでいて下さる。又、相手を憎むなら、相手に自分の人生をコントロールされる事になり、自分の人生が相手の手に握られてしまうことになる。

そんな人生送りたいだろうか。常に自由がなく、相手に拘束されていて、いつも心は辛く、苦しい。目の前に相手がいなくても、思い出す度に心は重く、牢獄の中だ。相手を憎むことは、自分で牢獄に入ることだ。しかし、牢獄から出ることができる。主は解放し、自由にして下さる。今の自分の正直な状態を認め、相手を赦せるよう助けを求めよう。主は助けて下さる。赦す時に、相手から解放される。赦しは自分のためだ。
--------------
神が怒り、神が御心の時に報いをされる。だから怒りを明け渡してしまおう。御心である善を持って悪に対する時、その行動を祝して下さる。自分自身が変る。


2013年06月19日(水)

「エリは、主がこの少年を呼んでおられるということを悟った。それでエリは言った・・今度呼ばれたら『主よ。お話ください。しもべは聞いております』と申し上げなさい」Tサムエル3:9


なぜサムエルは、さやかに主の御声を聞けたのだろう。それは、サムエルの主に対する姿勢にあったのではないか。主から呼ばれた時に、2度「はい、ここにおります」と答え、自分の師であるエリのもとへ行った。エリが自分を呼んだと思ったからだ。3度目に同じ事が起きた時に、エリは、主がサムエルを呼んでおられると悟った。それで次に呼ばれた時は、「主よ。お話し下さい。しもべは聞いております」と応答するよう助言した。

そして、次に呼ばれた時にその通りに答えた。これは「私にはお従いする準備ができています」ということだ。大事な事は、サムエルは、「何でもお従いします」との姿勢でいたからこそ、主の御声を聞くことができたということだ。私たちはどうだろう。自分の聞きたい事、都合の良い事を聞きたいとの態度だろうか。それなら、主がどれだけ語りかけていても、こちらの側でシャットアウトしてしまう。

欲しい御言葉でないなら、捨ててしまう。それが意識せずに、なされていたなら、「御心がわからない、わからない」になる。私たちに強烈な願望、すでに心に決めた事柄がある時、無意識にそれ以外の言葉に耳をふさぐので、聞こえない。サムエルのように「主よ。お従いします」の態度で、どのような導きでもOKですと、まず自分を明け渡そう。その時、必ず主の導きを悟ることができる。
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いつも主の御心を聞く心の態勢が整っているかと問われたらノーだ。だから朝のひと時や夜の静かな時間を聖別し、心を主に開いて「従います」の姿勢で御言葉を聞いて行きたい。その時間が増えていけば感謝だ。


2013年06月18日(火)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12



悪魔は「策略」を持って誘惑し、攻撃して来る。「通り道に罠がある」と知らせてしまえば、警戒され、効果が失せてしまう。罠にかけたければ、絶対に言わない。「悪魔の策略」とあるからには、相当の策略があるという事で、警告を受けているのに、気にも留めず、ぼおっと過ごしているだろうか。悪魔は私達の「感情」に訴え、働く。

「あんな事を言われてなぜ黙ってる。赦せない」思いに上る度に怒りがわく。感情をコントロール出来ない。ある人は、それで犯罪にまで至る。私達は、感情はどうも出来ないが、意志はコントロール出来る。自由意志で、主の御前で相手を赦すことを祈れる。赦しを選択できる。怒りがわく度に祈る。主は赦せるようにして下さる。

悪魔は私達の「感情」に攻撃して来る。対人関係が、常に好き嫌いに振り回される。そして落ち込み、平安を失う。覚えていよう。感情はコントロールできないが、意志はコントロールできる。意志を向けて赦したり、愛したりできるようにされている。意志で選択する時、主が力を与えて下さる。

対人関係で問題がある時、悪魔が背後で巧妙に働いている事に心していよう。相手しか見えないが、実は、相手への裁き、憎しみ、敵対心、妬みを起こさせ、私たちに罪を犯させようと、悪魔があおっている。私たちは一生涯、血肉、人間とは戦っていない、背後に働く悪魔に気づこう。
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悪魔は御霊の実を結ばないように、神様に従わないように、背後から勇気をくれる。欺かれ力無いクリスチャンにされないよう目を覚ましていよう。感情の背後にいるサタンに警戒しよう。


2013年06月17日(月)

「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」創世記3:19 


主は、罪を犯したアダムに、悔い改めの機会を与えようとされた。が、アダムは罪を認めず、エバのせいにし、更にそのエバを与えた神が悪いとした。私たちも同じ事をしてしまう。目の前に、どうも相性の合わない相手がいるだろうか。うまく対応できずに、イライラしたり、思い煩ったり、落ち込んだりする。そんな時に、相手の態度が悪いから、自分は心を乱されると思い、どうしても相手のせいにしてしまう。

相手のせいで、自分は不愉快なので、自分の平安を奪う相手を、更に嫌い、裁く。しかし、相手が悪いとするなら、堂々巡りで、平安も喜びも無く、何も変わらない。心の辛さが全く変わらないので、段々、「もしかして、自分への訓練では?」と思い始める。そこから変化が出て来る。相手でなく、状況でなく、「私」を変えて下さい、教えようとしておられる事を、学ばせて下さいと祈って行くと、次の展開があり、導かれて行く。

主は、自分自身の頑なな心を砕こうと思っておられる。そのために、あえてうまく行かない状況や、相性の悪い相手を目の前に置かれる。でなければ、自分自身は決して変わることがない。ずっと環境や相手のせいにして、相手を責めて行くばかりだ。状況や相手が変わるように祈りたいところだが、まず、目の前の事態を受け入れられるよう祈ろう。そして、自分が変えられるよう祈るなら、まず心が変えられ平安を経験する。
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受け入れがたい人や環境だけが悪いのだろうか。自分がこの事態を通して、主と共に御心に立って行けるよう祈ってみよう。自我が示されるなら自分が変わる方を選びたい。


2013年06月16日(日)

「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに 行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」マタイ28 :10



週の初めの日の明け方、女性たちは、墓に葬られた主を見に行った。
するとそこで御使いに会い、主がよみがえられたことを告げられた。
更に、弟子たちにガリラヤへ行くよう伝言を頼まれた。そこで主に
会えるからと。

彼女たちは恐ろしくはあったが、大喜びで、弟子たちに知らせに走
ると、その時、主に出会った。主からも「わたしの兄弟たちにガリ
ヤラへ行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです」と言
われた。

なぜ、女性達にはご自身を現わされたのに、使徒たちには、ガリラ
ヤで会うと言われたのか。彼らの故郷だからか。そうではなく、彼
らが初めて主に会った場所だからだ。彼らが主に召され、献身した
所だった。彼らの信仰の原点であった。

主を裏切り、自分に失望している彼らを、もう一度原点に立ち返ら
せようとされた。私たち一人一人にも、それぞれのガリラヤがある。
主との個人的関係の原点であり、いつでも立ち帰れる所だ。
失望落胆した時、行き詰まった時、もう立ち上がれないと思う時、
信仰がわからなくなった時、私たちも自分のガリラヤに、信仰の原
点に立ち帰ることができる。

「そこで、わたしに会えるのです」主に真に会った所に、そこに立
ち帰る時、もう一度主に会うことができて、霊がよみがえり、新た
にされる。

・・・・・・・・・・・・・
信仰人生の中で、時に行き詰まり、これ以上前に進めないと思う時
がある。落胆して、主が見えなくなってしまう時もある。そんな時、
主と真に出会った、自分の信仰の原点に戻ってみよう。そこで再び
主に会えて新たにされる。


2013年06月15日(土)

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげ を与えられました」Uコリント12:7



パウロは、「肉体のとげ」に苦しめられていた。どんなとげなのか、
具体的な事は記されていないのでわからないが、激しい痛みにさい
なまれていた。パウロはその事を祈りに持って行き、肉体のとげを
去らせて下さるようにと、真剣に、必死に祈った。

そしてパウロが願った通りにではなかったが、祈りの答えが来た。
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力
は、弱さのうちに完全に現われるからである」と。はっきりと御心
が示された。

パウロの具体的願いに対しては「ノー」が答えであり、肉体のとげ
がある方が、主の力が現され、主の栄光が現されると。それはパウ
ロが「高ぶることのないように」とのとげであった。そのゆえにへ
りくだらされ、謙虚にされ、主に拠りすがり、「キリストの苦しみ
にあずかることを知」り「キリストの復活の力を知る」ことができ
るものであった。

誰しも、苦しみに会いたくないが、深く主を知って行くことができ
る大きな恵みだ。パウロの答えは「ノー」だったが、高ぶりから守
られることであり「わたしの力は弱さの内に完全に現れる」、それ
がある限り、主の臨在がずっとあるということで、更なる恵みであ
った。
主は良い方であり、良いものしか与えられない。自分の願いとは異
なっても、いつも更に良いものを下さっている。

・・・・・・・・・・・・・
パウロは、とげについて祈ったから、「ノー」の答えがわかり、更
に素晴らしい主の御心がわかった。まず目の前の事態を祈りに持っ
て行こう。自分の思いの通りでなくとも、更に良いものを備えて下
さっている。


2013年06月14日(金)

「こうして彼らは・・すべて王が命じた通りにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」Uサムエル21:14


ダビデの時代に3年間続いて飢饉があった。そこでその事で、ダビデが主の御心を求めた。すると、主はその原因を示された。かつてサウルとその一族に、ギブオン人との誓いを破り、彼らの血を流した罪があると示された。そこで、ダビデはその事を対処しようとした。ギブオン人たちに、どうすればよいのかと問うと、サウルの子たち7人を引き渡し、さらし者にするようにというものだった。ダビデは相手の言い分を聞き、苦渋の決断を迫られる。

しかし、誓いを破ったものであり、主の御心をそれている事であり、その要求を受け入れた。ギブオン人たちはその対処に納得した。そして、さらされた7人の骨を、サウル、ヨナタンの骨と一緒にサウルの父の墓に丁寧に葬った。主の示しに従った時に、「その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」。

飢饉に対して、ダビデは飢饉が去るようにと祈ったのでなく、主の御心を求めた。私たちも、思い通りにならない状況、祈りが聞かれない状況で、自分の思い通りになるよう祈り続けるのでなく、その事で、主の御心を求める事が必要だ。そうすれば、主のみ思いを知ることができる。祈りが聞かれない時は、あるいは、何かが御心からそれているのかも知れない。そこを軌道修正する時に、再び祈りが聞かれる。
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祈りの答えばかりを求めるが、聞かれない祈りの中に、主の御思いがあるのではないか。主が良いと思われたらそのように、そうでないなら御心に従えるよう、御心を主に尋ねていこう。


2013年06月13日(木)

「もし、あなたが、はしための祈りを顧みて、私を心に留め・・男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」Tサムエル1:11



不妊であったハンナの悩み、苦しみは大きかった。そこにハンナに嫉妬するペニンナのいじめが加わり、又、不妊は、神に祝福されていないからとの周囲の目に苦しめられた。主の御前に行き、感情をさらけ出し、激しく泣いた。祈りは言葉にならず、うめきであった。祭司には、まるでハンナが酔っているように見えた。ハンナは心底の憂い、いらだち、心の思いの何もかもを、主にぶつけて、注ぎ出した。

私たちも同じようにできる。不安、思い煩い、焦り、怒り、悲しみ、苦しみ、惨めさ・・何もかもを主に注ぎ出せばよい。感情もさらけ出せばよい。主が受け止めて下さる。そして、ハンナは「もし男の子を授けて下さるなら、その子の一生を主にお献げします」と誓願を立てた。献身の祈りだった。ハンナは自分自身を全く主に明け渡し、自分の最も大切なものを、主に献げた。

あなたが握りしめているものは何だろう。固く握って放さない宝は何だろう。それが主のもとに渡る時に、主は自由に働かれ、あなたは用いられる。ハンナは、すべての思い煩い、重荷、自分自身も主の御手に渡した。エリから「安心して行きなさい。あなたの願いが叶えられるように」との言葉を受け、平安が満ちた。もはや以前の顔ではなく、心すっきりし、帰って食事ができた。そしてサムエルが生まれ、暗黒時代を導く、霊的指導者として用いられた。
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握っている心配事、平安にならない思いは何に起因しているのか。ハンナのように全てを主に訴えながら主と密に交わろう。あれほど望んだ子を主に献げること言えたように、主が新しい展開を私達にもして下さる。


2013年06月12日(水)

「そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」マルコ8:25 



人々が盲人を連れて来て、主に癒しを願った。主は盲人の目につばをつけ、両手を彼に当てられた。すると彼は「人が見える、木のように見える」と言った。はっきり見えず、人が木のようにぼんやりとしか見えなかった。そこで、主がもう一度両手を目に当てられた。そして彼が見ていると、すっかり直り、すべてのものが見えるようになった。主に直接触れられた時に、鮮明に見えるようになった。

ある人が、自分だけが不幸、自分だけが辛くて、人は皆は幸せそうと、殻にこもり自己憐憫に陥っていた。そんな時は、自分の事しか見えない。自分を中心にしか物事を見ていない。神に視点が向かず、自分と状況のみを見て、心を屈折させる。主の恵みに全く気づかない。しかし、喜びも平安も全く無く、余りに苦しいので、主に助けを求めた。目を、自分と状況から離して、主を見上げた。その瞬間、主が見え、神視点で状況が見えた。すると視点が変わった。

試練の中で守られていた事、実は家族に支えられ、又、多くの励ましを受けていた事、主がずっとかたわらにいて下さった慈しみが見えた。主は決して変わる事なく愛し、慈しみ、支え続けて下さっている。主に向かないなら、焦点が合っていないなら、その現実は決して見えない。主を見つめよう。はっきりと見えるようにして下さる。
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物事が暗く光が見えないように思う時がある。すぐにネガティブな方に流される。喜びも平安もない心の状態のままを主に祈ろう。主を見る時、主が触れて下さり不思議に心が変えられる。


2013年06月11日(火)

「ダビデは、『アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している』という知らせを受けたが、ダビデは言った『・・アヒトフェルの助言を愚かなものに』」Uサムエル15:31 

    
アヒトフェルはダビデの議官であったが、ダビデの息子アブシャロムの謀反に荷担しているとの知らせが来た。その時にダビデは祈った。ダビデがそう祈ったのは、アヒトフェルが知恵に満ちた助言をするからだった。当時、その助言は、人が神の言葉を伺って得る言葉のようであり、ダビデにもそのように思われた。アヒトフェルは、アブシャロムに次のように助言した。

ダビデのそばめの所に入るなら、父に憎まれるような事をしている事になり、従う民は勇気を出すと。それを聞き入れ、アブシャロムは全イスラエルの前で、父のそばめ達の所に入った。ダビデの姦淫の罪が赦されたが、これは厳しい痛い刈り取りであった。「白昼公然と、あなたの妻達と寝るようになる。あなたは隠れてそれをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、この事を行おう」と。

続けてアヒトフェルは作戦をアブシャロムに告げる。今夜、ダビデを襲い、王だけを打ち殺し、すべての民を連れ戻すと。しかし、アブシャロムはフシャイの意見も聞いた。フシャイはアヒトフェルの作戦に反対し、ダビデに良いようにうまく計った。アブシャロムは、フシャイの作戦を取り入れた。これは神がダビデの「アヒトフェルの助言を愚かなものにして下さい」の祈りの答えだ。

主が彼の優れた謀り事を、打ち壊そうと決めておられたからだ。私たちも窮地に立つ時、まず祈ろう。祈りには何よりも大きな力があり、神は働かれる。
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人のプランも策略も主のご計画の前には何の力も無い。絶体絶命の中で頼るのは主だ。ダビデのように、主に尋ね、主に祈り、失望せずに望みを主に置こう。


2013年06月10日(月)

「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそイスラエルの王となり・・」Tサムエル23:17


サウルは、女たちが笑いながら「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌った事で、激怒しダビデをひどく妬んだ。妬みは憎しみへと増幅し、執拗に命を狙った。そんな時、ダビデはケイラの人々をペリシテの手から救った。サウルがそれを耳にし、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようとした。ダビデは、ケイラの人々がダビデを裏切り、サウルの手に渡す事を、神より告げられ、再び荒野に逃げる。

ダビデの逃亡を知ると、サウルは討伐を止めた。サウルは執拗にダビデを追うが、神が、ダビデをサウルの手に渡されなかった。ダビデは荒野に潜伏し、いつ殺されるかわからない、まさに死と隣り合わせの恐怖だ。サウルは王であり、ダビデは僅か600人の部下がいるだけだ。いざとなればサウルは国民全体をも招集できる。しかしその時、ヨナタンがダビデのもとへ来て「神の御名によってダビデを力づけた」。「恐れることはない。父の手があなたの身に及ぶことはない。あなたこそイスラエルの王となる」と。神がダビデをサウルの手に渡されないと。

ヨナタンは目の前の状況ではなく、神の約束を見ていた。王の息子が、ダビデに「あなたこそが王で、自分は次に立つ者」と言った。ヨナタンの素晴らしい信仰だ。「神の御名によって力づける」とは、神の約束と御心に基づいて、力づけることだ。神の御旨のみが成就する。見える所、どんなに危機的状況であっても、それは神の主権と支配の中だ。平安でおれる。
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弱った状況から力づけられ、強められるのは、肉の言葉ではなく主の確かな御言葉の約束や主と交わりから来る霊的な励ましだ。どんな状況でも主の言われた言葉を聞いていこう。


2013年06月09日(日)

「ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人 の幸いをこう言っています・・不法を赦され、罪をおおわれた人たち は幸いである」ローマ4:8 



ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯して、隠ぺいしていた。王であり、
自分の意のままだ。誰も何も言えない。しかし、神はすべてを見て
おられ、介入された。預言者ナタンを遣わされた。

ナタンはダビデに告げた。貧しい人が大切にしていた一匹しかない
子羊を、富んだ人が取り上げ、自分の客のために調理した。ダビデ
は「そんな男は死刑だ」と叫んだ。ナタンは「あなたがその男で
す」とずばり指摘した。ダビデは、真っ直ぐな断罪に打ちのめされ
た。

「私は主に対して罪を犯した」と罪を認め悔い改めた。ダビデはト
ップであり、全権力を持ち、その力で、すでにウリヤを殺害してい
る。ナタンなど簡単に打ち首にできる。しかし、ダビデは悔い改め
た。王が、人々の手前も関係無く悔い改めた。

その瞬間ナタンの言葉が臨んだ「主もまた、あなたの罪を見過ごし
て下さった」。主は真実だ。どんな罪も、悔い改めるなら赦して下
さる。「人は蒔いたものを刈り取る」通りに、ダビデも刈り取った。
実子アブシャロムが歯向かい、戦いをしかけて来た。家族間の争い
や、多くのごたごたに、苦しい刈り取りをした。

しかし、ダビデは取り返しのつかない過失に関わらず、赦され、義
とされた。私たちも同様だ。罪を抱えたままなら、平安を失い、苦
しくてたまらない。隠すなら、嘘の上に嘘を塗り重ねて行く。その
まま主のもとへ行き、告白しよう。「不法を赦され、罪をおおわれ
た人たちは幸い、主が罪を認めない人は幸いである」。

・・・・・・・・・・・・・
「私が罪を犯しました」と認める時、「主もまた罪を見過ごして」
下さる。悔い改める時、心がすっきりし、平安になり、もやが晴れ
る。赦しを経験し、その度に主の愛を知る。赦されて〃生きて行け
る幸いを知る。


2013年06月08日(土)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じ るなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5


御言葉によると、神は不敬虔な者を義と認めて下さる。敬虔な者で
なく、不敬虔な者だ。何と驚くべき事であり、有難い事だろう。こ
の世の根深く培われた価値観では、敬虔な者が義と認められるので
あり、頑張ることが良いことであり、品行方正な者が良い者であり、
それらが正しい事なので、全く相容れない。

頑張る事が正しいので、結果が出ないなら、頑張っていない事にな
る。ますます頑張らなければならず、極めて辛く苦しい歩みになる。
しかし、不敬虔というのは、罪深い状態であり、いかに自分が醜く、
汚れ、自己中心で、良いものが何も無いと知る状態だ。それを認め
る時に、神は働かれ、義しいとして下さる。これは一方的に主の側
の豊かさによることだ。

ぶどう園の労務者の箇所で、早朝から12時間働いた者と、夕刻に
1時間働いた者が、同じ1タラントが支払われた。これは、早朝か
らの者は、きちんと主人と契約を交わして働いたのであり、正当な
支払いだ。ただ溢れるばかりに、あわれみと恵み豊かな主は、夕方
少し働いた者にも同じように与えたかった。

主の驚くばかりの「気前良さ」のことを言っている。同様に豊かに
与えて下さる主は、不敬虔な者を豊かに赦して下さる。しかし、ど
うしても自分で良い人になろうとする。良い人でいたい自分がいる。
不敬虔なまま受け入れられているとは、何と驚くべき事であり、喜
び溢れることだろう。

・・・・・・・・・・・・・
主の十字架のゆえに、罪しか犯すことのできない者が、受け入れら
れている。行ないによってではなく、信じることによって義と認め
られる。何という測り知れぬ安堵だろう。何と嬉しい事だろう。た
だただ感謝しかない。


2013年06月07日(金)

「しかし、もし、わたしのとりでにたよりたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい」イザヤ27:5

               
ある人が、職場で、皆の前で面と向かって、批判され、きつい言葉で攻撃された。それが、自分サイドの思いは違っていて、理不尽で、なぜそんな事を言われなければならないのか。納得が行かず、ひどく傷ついた。更に、人々の面前でもあり、プライドも傷つき、赦せない思いで一杯になり、怒りと憎しみが湧き上がった。しかし、赦せない思いは、相手でなく、苦しいのは自分だ。苦しくてたまらない。心が重く暗く、悶々状態だ。

しばらくして、部署替えがあり、その相手は目の前からいなくなり、顔を合わす事も全く無くなった。しかし、目の前にいなくなっても、憎しみは無くならならず、苦しく、辛くてたまらなかった。それなら赦せば良いのに、赦せない。忙しい時は紛れているが、空いた時間が出来ると、ふっとよみがえり、心に影を落とす。楽しい時も楽しくなく、囚われの身のようだった。

追いやられるように、主の御前に行き、何もかも心のありのままを打ち明けた。苦しくてたまらない事、赦せない事、しかし、自由になりたい事・・このままではいたくない。葛藤はあったが、赦すことを決意した。赦します。助けて下さいと、主に意志を向け、明け渡した。すると不思議が起こり、心の苦しさが消えて、楽になり平安になった。嬉しくて感謝でならなかった。赦さない心は、相手でなく、主との間に隔たりをつくっていた事に気づかされた。
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問題はいつも自分と主との関係だ。気づきを与えられたら、変わりたいとの祈りを主に献げて行こう。主が内側から私たちを変えて行ってくださる。今日も主の道を平安に歩んでいこう。


2013年06月06日(木)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです」ヘブル11:6




ある人が、経済的苦境にあった。様々な支払いの必要があり、祈りに祈る中、支払い期日はどんどん迫る。しかし与えられない。尚も、祈り続けるが、与えられず、不安が募り、段々恐れとなって来る。どうすれば良いのか。更に祈るが与えられない。しかし、御言葉は「何も思い煩うな」「キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たす」と言う。だが不安でたまらない。焦りと思い煩いで一杯だ。心が落ち込んで行く。

そんな時、知人から電話があった。主から示されたので、献げものを振り込んだとの事だった。それは、すべての必要が満たされる額であった。与えられた事に大喜びし、心から感謝した。しかし、その時にふっと思った。知人からの送金は、すんなり信じている。微塵も疑わない。振り込まれたという言葉を信じきっている。まだ事実確認もしていないのに、大喜びしている。それに引き替え、主の言葉はどうだろう。

主は「思い煩うな」「満たす」と言われるに関わらず、どうしても信じられなかった。人の言葉は信じることができて、主の御言葉は信じられない。自分の不信仰を示され、悔い改めた。主は信仰を喜ばれる。まず、信じられないなら、「御言葉を信じられません」と、その事を主に正直に告げて、行こう。主が信仰を与えて下さる。
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目に見える状況や環境に平安を見い出したいが、主の御約束にまだ見えていなくても必ず光がある。主は必ずよくして下さると与えられた御言葉に固く立ち、不安に押し流されないで信じていよう。


2013年06月05日(水)

「この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、大声で、『自分の足で、まっすぐに立ちなさい』と言った」使徒14:9 



ルステラに、生まれながらの足なえの男性がいて、一度も歩いた事がなかった。パウロが御言葉を語っていた時に、その人が丁度そこに座っていて、耳を傾けていた。彼は生まれつき歩く事ができず、自分の足に関して、何もどうする事もできなかった。どうやっても歩く事は不可能だ。完全無力の状態だった。自分で何もする事ができない。

だからこそ、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」とのパウロの言葉にすがった。すがりつけた。彼にはこの言葉しかなかった。何もかもの、望みを託して信じて賭けた。この言葉がすべてだった。自分が完全に無力だからこそ、そうできた。その信仰に、神の力が働き、奇跡が起きた。かつて一度も歩いた事のない彼が、飛び上がり歩き出した。

私達も自らの徹底無力を知る時が、信じる時だ。何の方策も無く、何もどうにも出来ない。信じるしか道がない。その時に初めて信仰が働く。自分の力、方法に頼っている限り、自分を信頼している限り、神への信仰は無い。信仰半分、自分の力半分という事はあり得ない。幾ら御言葉があっても、必ず自分の力、方法でやって行く。そこに信仰の入る余地はない。

信仰とは、御言葉だけを頼りに、自分を任せて行く事だ。それゆえ、自らの無力を知る事が大きな祝福であり、幸いだ。無力に落ち込む事など無い。
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いつも先が見通せて安心していられることを望むが、神を信じるしか術がない状況を経験する度に、神様の真実な愛や恵みや導きを、しっかりと受けとる。今の平安は信仰半分、自分半分から来てはいないだろうか。


2013年06月04日(火)

「イエスはこのことを聞かれると、舟でそこを去り、自分だけで寂しい所に行かれた」マタイ14:13

人は皆、人生の中で、孤独を感じる時がある。主を信じる以前は、罪により主から断絶されているゆえに、孤独で虚しく生きる目的もわからなかった。主のもとへ帰った今、時に主は、私たちに孤独を与えられる。家族から離れての一人住まい、又、誰も知らない地への転居・・しかし、その孤独は悪いものではなく、むしろ良いものだ。それは、私たちを神に近づけてくれる。

時に、神は私たちの目を、ご自身に向けさせたいがために、孤独を送られる。特別な神からの取り扱いだ。寂しさの中で、真に心が神に向く。神のみに向けられ、望みが神だけになる。又、自分自身を深く見つめる事ができる。主との深い交わりを経験する。人からの裏切りに会い孤独だろうか。親しい人が自分のもとを去っただろうか。主も十字架上で御父に捨てられた。又、ゲッセマネの園で弟子たちが眠る中、深い孤独の中で祈られた。そして、主が極みまで愛された弟子達は、我先にと逃げ去ってしまった。

誰よりも孤独を知り、わかって下さる同伴者だ。主を見捨てた弟子たちへの言葉が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」だ。主は決してあなたを離れず、見捨てられない。主は時に、孤独を送られる。世の騒がしさから離れ、人の交わりからもしばし離れ、主にのみ心を向けさせるために。そうでなければ、人で満足してしまって主のもとへは決して行かない。孤独が来た時、主と交わり、主で満たして頂こう。
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寂しさを埋めるものは世にはないと知っているから感謝だ。孤独を感じたなら主にしっかりとしがみつき離れず、御言葉を読み祈ろう。エマオの途上の弟子達のように、主が近づき心を熱くして下さる。


2013年06月03日(月)

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され・・彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」イザヤ53:5


ある父親の信仰体験談だ。ある頃、どうも子供の様子がおかしく、もしやいじめに会っているのではと思えた。持ち物が無くなり、服が汚れていたり、普通ではなかった。その内、腹痛で寝込み、食欲失せ、そして不登校になった。父親は子供に良い成績を望み、学習を強いた。悪い成績だと、自分が受け入れられず、子供に怒鳴り叱りつけた。子供は心が荒れて、鬱積が爆発した。怒りが父親に向かい、暴力を振るった。家の中は物も壊れ、滅茶苦茶だった。

父親は職場でも責任ある立場にあり、仕事量も多く、重圧で瀬戸際だった。どうにもならず、飲酒に逃げた。少しの間でも、現実を忘れたかった。考えたくなかった。そんな時、親しい知人から聖書カウンセリングを勧められた。八方塞がりであり、聖書の学びを受けようと思った。学びの中で、自分の姿が見えて愕然とした。

余りの苦悩に、この子さえいなければとの思い、仕事人間で、家庭の事など頭に無かった、子供と話した事もなく、自分のプライドや虚栄心、世間体、ただ自分の思いを押しつけて来た・・涙ながらに、心から悔い改めた。十字架が真に自分のためである事がわかり、赦しを受け取れた。子供に心から詫びた。父子のわだかまりが溶かされて、暖かいものが流れた。自分が変えられた時、子供の心も癒されて行った。
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自分の内にある傷痕や簡単に人を傷つける罪、その深い闇を癒し、思いを鎮めてくれるのは主の十字架が間近に迫って来た時だ。自分の内には何もないが、主のみがそこを満たして下さる。


2013年06月02日(日)

「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者 はなかったのですか・・わたしもあなたを罪に定めない」ヨハネ8: 10


当時、姦淫は石打ちの刑であった。律法学者たちは、主のもとに、
姦淫現場で捕えた女性を伴い「律法では石打ちの刑だが、あなたは
何と言われるか」と問うた。しかし、それは正しい事を行なうため
でなく「主を告発する理由を得るため」だった。

主が赦せと言われるなら「律法では石打ち刑を命じている」と、罪
に定めよと言われるなら、主の説く愛は、罪の赦しはどうなるのか
と問いつめられる。彼らは、この女性に関係無く、ただ、主を告発
する理由を得たかった。

主は何も答えず、指で地面に書いておられた。彼らが問い続けるの
で、「罪の無い者が、彼女に石を投げよ」と。罪の無い者とは、罪
を犯した事の無い者だ。主は彼らの想定外の、第3の答えをされ
た。彼らは、とがめにより年著者から出て行き、全員去ってしまっ
た。

女性は逃げず、動かず、そこにそのままいた。主はその女性に「わ
たしもあなたを罪に定めない」と宣言された。女性は死刑の身であ
り、もう死を覚悟していただろう。それが、「あなたを罪に定めな
い」とは、何という驚くばかりの恵みだろう。主の十字架の犠牲が
あればこそであり、罪の無い血潮が流されたゆえだ。

「今からは決して罪を犯してはならない」この驚くべき主の愛、あ
われみに触れて、女性は変えられ、新しく歩んで行ける。主は世の
光であり、従う者は決して闇の中を歩まず、いのちの光を持つから
だ。

・・・・・・・・・・・・・
皆、主の光に照らされた時に、向き合おうとせず、逃げた。しかし
女性は逃げなかった。そのため、主の罪の赦しの宣言を受ける事が
できた。私たちも、逃げずに主に向く時、「わたしはあなたを罪に
定めない」との御声を聞き、新たに生きて行ける。


2013年06月01日(土)

「神よ。私を探り・・私を調べ、私の思いを知ってください。私のう ちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導 いてください」詩篇139:23 


対人関係では、人が相手なので、どうしても様々な行き違いが起こ
る。機械でなく、それぞれが感情や、気持ちを持っているからだ。
時に、傷つけたり、又、傷つけられたりする。特に、傷つけられる
と、赦すことがなかなか難しい。心は乱れ、悶々状態になる。赦す
には赦すが、もう決して交わりたくない、となったりする。

そんな時、人に聞いてもらい同情して欲しい。こんなに自分は被害
者なのだと、どんなに苦しく辛いかをわかって欲しい。しかし、本
当の心の底はどうだろう。自分は悪くない、自分は正しい、この不
仲の原因は自分にはない。つまり悪いのは相手であり、それをわか
って欲しい、同意して欲しい。そんな古い自分が根深くあるだろう
か。

そうなら、周囲のみこころに沿ったアドバイスや、提示してくれる
御言葉は、全く入らない。聞きたくないからだ。求めているのは、
自分を正当化してくれる言葉だけになる。しかし平安は全く無く、
心は辛く苦しい。仕事をしていても、家事や勉強をしていても、実
は苦しくてたまらない。

平安が無いからには、相手の問題でなく、何か主と自分の間がギク
シャクしている事になる。人は全く関係なく、主と自分の関係がう
まく行っていれば、人がどうであろうと、平安だからだ。
まず主に心を向けて祈ろう。余すところなく気持ちを告げて行こう。
何が問題なのかを、御霊は教えて下さる。御霊の示しに従って行く
時、自分が変えられる。喜びと平安が戻る。

・・・・・・・・・・・・
人も、状況も、関係なく、主との間が正しければ、心の底に平安がある。
平安が無いのは、人のせい、状況のせいではなく、自分と主との
間にあるので、御霊に探っていただこう。自分の内側にあるものを
示し、気づきを与え、軌道修正して下さる。状況に関わらず、心に
平安を与えて下さる。