2013年07月31日(水) 「子よ。あなたの罪は赦されました」マルコ2:5
「子よ。あなたの罪は赦されました」マルコ2:5
ある父親が仕事だけに生きて来て、家庭を顧みることが無かった。子供が非行に走り、警察沙汰を起こした。全く子供に関わって来なかった自らの罪を、心から神の前に悔い改めた。心砕かれ、くずおれた。辛い苦しい刈り取りをして行った。ハードな仕事の上に、子供のための時間を作り、迷惑をかけた方面へ謝罪して回った。物品の損失をすべて償い、できる限りの事をした。 もう精神的、時間的、体力的に限界ぎりぎりだった。数年間の苦しみは並大抵のものでなく、子供の心のいやしをひたすら祈り続けた。親自身が悲痛なまでの苦しみの中で変えられた。今までの自己本位な歩みの間違いを正され、心砕かれ、神に従うように導かれた。主のあわれみは尽きず、切なる祈りは聞かれ、数年後、子供は立ち直る事ができた。その間、質的にも量的にも子供と十分に関わり、初めて心の通い合いが与えられた。 主のあわれみにより、破壊的な事態が益とされた。自らは裁かれて当然のひどい罪人だ、しかし、その裁きを、主は十字架上で代わりに受けて下さった。罪は完全に赦され、罪無しとして下さった。罪が赦されたという事実こそが、苦しい刈り取りを成し遂げさせてくれた。罪が赦されるとは、何にも代え難い恵みであり、何という心 の安堵だろう。 ---------- 誰に赦されても、神様に赦してもらわなくては本当の罪の解決はない。失敗し、罪を犯した者を「子よ」と、赦しに招いて下さり、心から悔い改める者に罪からの癒しを下さる。なんと慰めだろう。
2013年07月30日(火) 「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる『立ち返って静かにすれば・・救われ、落ち着いて、信頼すれば・・力を得る。しかし、あなたがたは、これを望まなかった」イザヤ30:15
「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる『立ち返って静かにすれば・・救われ、落ち着いて、信頼すれば・・力を得る。しかし、あなたがたは、これを望まなかった」イザヤ30:15
信仰生活で、全く予想していない、突如の事態に見舞われる事がある。事故や、けがや、病気の発覚、突然の経済的必要や、対人関係の問題かも知れない。その時に、即、何とかしなければとの思いが働く。思いばかりが巡って、パニックになってしまう。主が飛んでしまって、右往左往するので、すべて自分の肩にかかり、非常に重い荷物となる。しかし、自分で何とかしなければと、動き回る。 「あなたがたは言った『いや、私たちは馬に乗って逃げよう・・私たちは早馬に乗って』」、自分の知恵を巡らして、対応策をあれこれ考える。自分の力でやってみるがうまく行かずに行き詰まる。又、試練の中で、なかなか先が見えない時に、いつまで続くのか、永遠にこのままではと、状況に飲み込まれてしまい、気力が萎えてしまう。失望落胆に陥ってしまう。神は何もしてくれないではないか。神に頼っていても、どうなるものか。ひたすら落ち込むばかりだ。 又、自分で何とかしようとするが、どうにもならない。主が飛んでしまっていることが問題だ。「立ち返る」こと、「静かにする」こと、「落ち着いて信頼すること」が鍵だ。状況と自分だけを見ている目を、主に向けて、主に立ち返ろう。そして動くこと、思いを巡らせることをストップして、主の前に静まろう。ことごとくを主に告げて、主の御声を聞こう。主は導いて下さる。 ------------- パニックになると早く何とかしようと心も身体も騒ぎ始めるがその時にこそ静まって主に祈ることから始めよう。落ち着いて、信頼すれば力を得えるとの御約束に頼ろう。
2013年07月29日(月) 「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」ヤコブ1:21
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」ヤコブ1:21
まず御言葉を聞く前に、すべての汚れやあふれる悪を捨て去る必要がある。怒り、汚れ、悪が心にあると、御言葉が入らない。罪がシャットアウトしてしまう。主の十字架のもとへ行こう。「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます」。そして、神が私たちを創造した時に、人格を持つ者として造られた。つまり、自由意志が与えられている。 ロボットなら、自由意志が無いので、罪を犯すことはない。そして、所有主の意のままに動かすことができる。しかし、そこには心が無い。心と心を交流し、愛や喜びを共有することもない。愛は、自発的な、自由な意志に基づく。強制に、愛は無い。主は、自発的、自由意志で、主のもとに来て、仕えることを求められる。強制されることはいっさい無い。「だれでもわたしについて来たいと思うなら・・ついて来なさい」の通り、自由だ。 御言葉は種であり、私たちの心は土地だが、土地が種を受け入れるかどうかは、私たちに任せられる。素直に御言葉を受け入れることもできるし、拒否することもできる。自由だ。自由な意志により、素直に受け入れた御言葉が、心に深く入り、御霊が働かれ、みわざがなされる。様々な困難な状況の中で、御言葉により生かされ、指針が示され、力が与えられ、救いを経験する。 ----------- すなおに受け入れれば良いだけなのに、固くなった土地には簡単に御言葉が入って来ない。すなおに御言葉を受け入れようとする人は、罪にも敏感でいられる。御言葉を受けとり、心新しく耕されよう。
2013年07月28日(日) 「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6
信仰生活の中で、様々な試練に会う。そんな時、不平不満でいっぱ いになるだろうか。「神様信じているのに、何でこんなひどい事に なるのか」「神が愛なら、どうしてこんな状況を許されるのか」 「何で、何で」・・。 試練は主から来るが、試練の時は、同時にサタンも強く働く。機会 を捕らえ、主から離そうとし、不信仰に陥らせようとする、その事 をわきまえていよう。「神が愛ならこんなはずはない、愛されてな どいない」とささやいてくるサタンに耳を貸してはならない。 「行く所どこにおいても」どんな状況であろうと、「主を認めよ」、 そこに主を認めて行くこと、それは信仰だ。その時にサタンの足場 を崩してしまう。ヨセフは、波瀾万丈の人生だった。兄たちの妬み で、隊商に売られエジプトへ。 しかしそこで、主人から好意と信任受け、全財産を任されるほどに。 しかし、又もや順境から一転、無実の罪で、奴隷以下の囚人に。し かし、厳しい逆境から今度は総理大臣に。ヨセフは父親から離され、 頼るものが何もない中で、主だけが頼りで、主に拠りすがり、信仰 が培われて行ったのではないか。 アップの時もダウンの時も、良い時も悪い時も、苦しみの時、困難 の時も、そこに主を認めて行った。辛く苦しい砕きの御手も認め、 だからこそヨセフは大いに祝福され、豊かな実を結んで行った。 「どこにおいても、主を認めよ」、主を認めて委ねて行く時、状況 にかかわらず、平安を与えて導いて下さる。目の前の出来事に、主 を認めよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・ 信仰者にとって、偶然は無く、不運は無く、サタンにほんろうされ ているのではない。主が何かを教えたくて、目の前に一つ一つの事 柄や状況を置いておられる。主を認め行く時、主を新たに知り、成 長へと導かれる。
2013年07月27日(土) 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを 聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信で す」Tヨハネ5:14
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを 聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信で す」Tヨハネ5:14
ある女性が、身体の事で、医師から甘い物を制限されていた。ス ウィーツの店を前方に見た時に、こんな祈りをした。「主よ、ケー キを買う事が御心でしたら、駐車場が空いていますように。御心で なければ空いていませんように」店に来ると駐車場が空いていた。 笑い話のようだが、これに似たような事を私達もしていないだろう か。自分の思いがあり、プランがしっかり決まっていて、主よ、御 心示したまえと祈る。しかし心ではすでに答えは決まっている。定 まっているなら、無意識にそれに反する御言葉は排除する。 わかってするなら、とがめが来るが、無意識にするので自分でも気 づかない。自分に都合の良い御言葉を自分で取ってしまう。間違っ た方向に進まないためには、自分の願いを一旦、主に明け渡す事だ。 その意味は、御心なら成し遂げて下さい、御心で無ければ閉ざして 貰って構いませんということになる。 主のもとに置く時、それが真に主からのものであれば、返って来る し、そうで無ければ戻らない。そしてその方が良い。もし、主から のものであれば、揺るがない平安と共に返って来る。確信を与えら れて前進して行ける。 私たちの祈りは、「私は・・」「私の・・」「私、私」だろうか。発想 を転換して「主は」私に何を願い、何を求めておられるのか、それ こそ御心にかなった主の喜ばれる祈りだ。その祈りは必ず聞かれる。 ・・・・・・・・・・・・・・ 主は、私に何を求めておられ、何を喜ばれるのだろう。主の望まれ ることを祈り求める時、その祈りは御心にかなっているので、答え られる。主が、私に、求めておられることは何ですかと、祈ってみ よう。
2013年07月26日(金) 「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」ヨナ1:17
「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた」ヨナ1:17
ヨナは、ニネベへ行けとの神の命令に従うのが嫌で、反対方向のタルシシへ向かった。神の御顔を避けたのだ。すると、神は大嵐を起こされた。自分のせいだとわかっているヨナは、嵐を静めるために、自分を海に投げ入れるようにと言う。海に放り出されたヨナを、神は大きな魚に飲み込ませられた。ヨナは魚の腹の中で祈り、悔い改めた。 悔い改めは方向転換だ。思考が変わり、行動が変わる事だ。魚から出されたヨナは、今度は神の命令に従った。ニネベへ行き、言われた通りに神の言葉を伝えると、人々は悔い改めた。それで神は災いを思い直された。しかしヨナは面白くない。すねて、怒り、神に不満をぶつける。ヨナの思いでは、神は味方を守り、敵は滅ぼすべきだ。そうしない神に不満で一杯だ。私達も、自分の思いが強い時、神が自分の思うように動かれないと、いら立ち、不平不満、不信感が募る。しかし、それはあくまでも、自分の思いの神だ。実際の神とは違う。自分の思い通りの神像を造り上げている。 しかし、神は、そんな、だだっ子のようなヨナをなだめ、どこまでも忍耐深い。お前のような預言者はだめだ、とは言われずに、ヨナの気持ちを受け止め、とうごままで備え、忍耐し愛をもって教え導かれる。ヨナと同様、私達の気持ちも受け止め、愛し、導いて下さる。不満も怒りも何もかも、まず神に告げよう。今、不満や怒りがあるだろうか。ことごとく主に打ち明けよう。 ------------- 右往左往するヨナに慰められる。すぐに動揺しペースを乱されてしまう弱い者だが常に側に神様はいて下さり、とうごまの葉を傾けて慰め回復させて下さる。
2013年07月25日(木) 「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4
信仰生活において、自分の力でなく、御霊に導かれて歩んでいるなら、一つ一つの事柄が、決して重荷とはならない。辛く感じない。なぜなら、律法の下にはいないからだ。何か重苦しくて、しんどくて、イライラしているなら、肉によって歩んでいる。御霊の中ではなく、肉の中にいる。何かが違うと感じるだろう。そんな時は立ちまって、主の御前に出て、祈ろう。心を打ち明けながら、主と交わろう。自分の力で歩んでいると気づいたなら、そのつど主に明け渡して行けばよい。 すでに古い人は十字架でキリストと共に死んでいる。しかし、自分の思いと自分の力で歩む時、律法の下に自分を置く事になる。その度に、主を見上げるなら、再び律法ではなく、御霊の導きのもとに自分が置かれる。ある婦人は家事に育児に仕事にヘトヘトだった。しかしどうしても、庭の草取りが必要で、それは子供の昼寝の時間しかない。うんざりだが、それを主との交わりの時間にした。 イライラした心の内をことごとく告げ、心配事や思い煩いを告げ、気持ちを話し、一つ一つ委ねながら、草取りをしていると、心に平安が広がって行った。終わる頃には、庭は綺麗になり、自分の心も感謝と喜びに溢れていた。そのつど、主を見上げ、交わり、明け渡して行く時、御霊のもとに置かれる。今、自分の力で歩んでいるなら、そのままの状態を主に告げよう。新たにされる。 -------------- 自分の可能性に立っているので上手く行けばたかぶり、そうでなければしんどくなり、やっと自分が自分のためにしていたと気づく。主を見あげ、主の助けを信じて主にある喜びによって歩みたい。
2013年07月24日(水) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:16
信仰生活で、自分とそりが合わない、何かぎくしゃくする相手と出会す。職場、学校、近、親戚・・なるべく顔を合わせたくない。そしてどうしても嫌なら、環境を変えることになる。職場を変えたり、引っ越したりする。しかし、不思議にも、次の職場で、又、近隣で、同じような相手に出会う。どうしても、うまく行かない相手がいる。何度も繰り返した後、やっと相手でなく「もしかして自分の問題?」だと気づく。 これがなかなか気づけない。自分は正しく、相手に問題があるとしか見えないからだ。しかし、自分の問題だと、気づくと解決に向かう。御霊の働きだ。目に見えるところ、状況しか見ていなかった目が、神に向いている。真の問題は、自分の高ぶりだ。相手を裁いてしまうが、実は、自分の心の内にも、プライドや虚栄心や妬みが潜んでいる。相手が悪いと決めつけてしまっているので、自分の心は見えない。 自分の内にある裁く心、見下す心、敵対心、・・それを認めて、悔い改める時、解決が来る。まず自分の心が平安になり、安堵が広がり、喜びが来る。ある人が、ずっと相手に受け入れてもらえないと、悩んで、苦しんでいたが、主に向いて行った時に、実は、相手を受け入れずに、拒否していたのは自分のほうだと気づかされた。その時から、心が変えられた。本当の問題が見えた時に、解決へと導かれる。 ------------- 気づきが与えられ、悔い改めてまた御霊に従って歩めることは感謝だ。思いはまず目に見える所に反応してしまうが、私たちには御霊の助けがある。従って行きたい。
2013年07月23日(火) 「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。『主は生きておられる。あれは殺されることはない』」Tサムエル19:6
「サウルはヨナタンの言うことを聞き入れた。サウルは誓った。『主は生きておられる。あれは殺されることはない』」Tサムエル19:6
サウル王はダビデを妬み、殺害しようと追い回していたが、ヨナタンや家来全員にダビデを殺す事を宣言した。しかし、ヨナタンは、ダビデを愛していて、何とか助けようとする。愛する父親と、愛する親友との二人のはざまでヨナタンはどんなに、苦しく辛く悲しかった事だろう。父親が敵とするダビデのことを、父親にはっきりと進言する事は、勇気が要ったろう。しかし、ヨナタンはその事が言える位置、立場にいた。 エステルもユダヤ人殺害の法令が発布された時に、王に嘆願できる位置にいた。他の誰も取って代わる事ができない。その時、その場所にその人物を置かれたのは神だ。ヨナタンは、ダビデの事を誰よりもよく知るゆえに、サウルに執りなした。ヨナタンは自分にできる事をし、自分の使命を果たした。エステルも命をかけて使命を果たした。私たちも、それぞれ現在、置かれている場がある。あなたの位置と立場だからこそ、できる事がある。それは、あなたにしかできない事だ。 置かれている意味を捕らえて、自分に与えられた使命を果たして行こう。又、ダビデにとれば、ヨナタンは真実な心底信頼できる友であり、良き助けであった。ずっと死と隣り合わせにいたダビデに、ヨナタンの存在はどんなに救いであり、慰めであったろう。まさに神の備えであった。あなたにも慰め手、助け手がいるなら、それは神からのものだ。 ----------- 置かれた立場、ポジションは神様からのものであるなら、必ず祝福も恵みもそえて注がれている。自分に与えられた使命しか目の前にやって来ないと、感謝を持ってまごころから向き合って行きたい。
2013年07月22日(月) 「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい・・」』マタイ4:6
「悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい・・」』マタイ4:6
「石がパンになるように命じよ」との最初の誘惑で、主は自分の思いと力ではなく、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と神の言葉によって立ち向かわれた。すると、次はサタンもそれに乗って攻めて来た。「では、神殿の頂から下に身を投げても、神が御使いを遣わし支えると書いてあるではないか」と。御言葉を自分に都合良く勝手に解釈する誘惑だ。これに対しても、主は、同じく御言葉を用い「神を試みてはならない」と退けられた。 詩篇91:11、12と比較すると「すべての道で」が抜けている。 神の御旨に従い御心の中にいるなら守られるとの意味だ。自分勝手な、わがままな事をして守られる保障はない。サタンは、私達を誘惑して、御言葉を都合の良いように解釈させようとする。つまり、御言葉を使って、自分の思いや願望を正当化させようとするのだ。それが御言葉なので全く気づかない。実は神の御心でなく、自分の思いだ。 サタンの罠がある。よく気をつけなければ、自分の思いが強いと、自分の思いがフィルターとなり、御言葉を読み込んでしまう。神の御声と勘違いする。ここにも悪魔が働いて来る事をわきまえ、自分の思いを神に明け渡す事が大切だ。どうであれ、御心に従いますの態度に立つ時、正しく導かれる。サタンに足場を与えない。 ---------- 御言葉だけがサタンに打ち勝つ武器だ。正しい御言葉で上書きしなければ、いくらでも紛らわしいサタンの声を聞いて行く。こうした方が良いに決まってるとの思いも、今一度、御言葉の前で吟味してみよう。
2013年07月21日(日) 「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころにな ると、悪いものを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今 まで取っておきました」ヨハネ2:10
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころにな ると、悪いものを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今 まで取っておきました」ヨハネ2:10
ぶどう酒は、当時の結婚式に必需品であり、無くてはならぬ、特別 なものであった。盛大に溢れるばかりに振る舞われ、人々はこの時 には、ぶどう酒を大いに楽しみ喜びを分かち合った。そのぶどう酒 が途中で無くなるなどとは、あってはならぬ事態だ。まさに結婚式 が、ぶち壊しであり、新郎新婦の面目まるつぶれだ。後々まで言わ れる事だろう。 私たちの人生も同様だ。突然に不測の事態が起こる。順風満帆の、 幸せのさ中に、突然の出来事が襲う。思いがけない苦しみが起きて、 悲しみに暮れる。病気、けが、リストラ、倒産、経済的苦境、家庭 の崩壊、喜びと楽しみの源であったものを突然失ってしまう。大き な喜びと楽しみをもたらす、ぶどう酒が無くなってしまう。 かけがえのないものを失い、悲しみのどん底に突き落とされる。落 胆して、とても生きて行けないと思う。しかし、主はそのところで、 奇跡をされ、水をぶどう酒に変えられた。味気ない水を、それも更 に上質のぶどう酒に。 私達が失ったものに、更にまさる良きものを与えて下さる。あなた も今、ぶどう酒が無くなっただろうか。主に向かって言おう「ぶど う酒がありません」。 そしてそこで一つ一つ御霊の示しに従って行く時、主は、みわざを し、あなたに喜びと希望を返し、更にまさる上質のぶどう酒を下さ る。私達の水のような人生を、潤い豊かな喜びに満ちたぶどう酒に 造り変えて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 味けないものを、香り高い、味わい深いものに変えて下さる。問題 を、まず主に告げよう。そして、御声を聞き、示しを受け取り、一 つ一つ示された事に従って行こう。そうするなら、みわざが成され、喜びを与えて下さる。
2013年07月20日(土) 「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しの けてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪 い取ってしまった」創世記27:36
「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しの けてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪 い取ってしまった」創世記27:36
イサクは、長子エサウに祝福を与えようと、料理を持って来るよう にと言った。それを聞いた、母リベカは、ヤコブにその祝福を横取 りしようと画策し、料理を作り、視力の衰えているイサクをだまし た。よく見えないイサクは、ヤコブをエサウだと思い、祝福を与え た。 そこにエサウが戻り、事の次第を知った。イサクは激しく身震いし、 エサウは大声で泣き叫んだ。企みを知ったエサウは恨みと怒りとで、 ヤコブを殺そうとした。それでヤコブは家におれず、叔父のもとに 身を寄せることになった。 家族が傷つけ合い、皆が不幸だ。どこに問題があったのか。イサク は「兄が弟に仕える」と、神の御心が示されているに関わらず、自 らの思いでエサウを偏愛した。リベカもヤコブを溺愛し、神を信じ、 神ご自身がそのようにされる事を待ち望むのでなく、自らの肉の力 で祝福を横取りした。 ヤコブも神の計画を信じ、委ねるのではなく、父をだまし、母と共 謀し、自力で奪い取った。夫婦の間もおかしくて、機能不全家庭だ。 エサウは長子の権利を豆の煮物と引き換えた。「長子の権利を売っ た俗悪な者」とあり、彼は長子の権利を軽んじた。皆が神を仰ぎ、 神に従うのではなく、自分の思いで動き、招いた結果だった。 主は大きなご計画の中で、これらすべてを益として行って下さった が、ここで学ぶ事ができる。自分の思いで動くのでなく、主の主権 を認めて、へりくだり、主を待ち望み、委ねて歩む事がいかに大切 であるかを。 ・・・・・・・・・・・・・ 自分の力で、自分の欲しいものを手に入れ、欲望を満たそうとする。 しかしそこに平安も喜びも無く、秩序は壊れ、混乱して行く。肉で なく、主の御声を聞き、御霊のほうに従って行く時、自分にも周囲 にも祝福とされ、神の栄光が現わされて行く。
2013年07月19日(金) 「私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく・・パンは知恵ある人のものではなく・・愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11
「私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく・・パンは知恵ある人のものではなく・・愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11
「すべての人が時と機会に出会う」成功のためには、どうしても必要なものがある。それは「時と機会」だ。どんなに頑張っても必ず成功するとは限らない。時と機会が必要だ。競走は足の早い人が勝つとは限らない。転ぶかも知れないし、その日が体調不調かも知れない。オリンピックのために、何もかもを犠牲にし、調整してきた選手たちが、緊張ゆえのミスであえなく敗退したりする。 努力したから必ず出世するわけではない。横からコネが入り、自分より後の者が昇進する。能力と共に様々な要因がからまるが、そこに「時と機会」が不可欠だ。そして、これを握っておられるのが神だ。すべての事が、寸分違わず神の計画のもとにある。それゆえ、主に従って歩む歩みが祝福の秘訣だ。ルツは神に従い、ナオミと人生を共にする決心をした。 モアブからナオミと共にベツレヘムに戻ったのが、丁度大麦の刈り入れの時だった。糧のために落ち穂拾いを始めた場所が、丁度ボアズの畑だった。又、丁度その時、ボアズがやって来た。ルツが神に従おうと決心した時に、すべて神の計画の中で、神の主権のもとにある「時と機会」に出会い、ボアズと巡り会った。自分の画策や自分の思いでなく、神に従って歩む時に、私達にもピッタリの「時と機会」が備えられている。 ---------- 主の与えられる時と機会を見極めることは難しく、結果的に今ではなかったと知らされることも多い。早急にことを行いたいと思う時こそ、よく祈っただろうか、御心を尋ねて来ただろうかと確認して行きたい。
2013年07月18日(木) 「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」ルツ3:18
「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」ルツ3:18
ルツは神に従い、故郷を離れ、ナオミについて異国の地にやって来た。ナオミは、そんな嫁ルツの今後について、よく祈り考えていた事だろう。ルツに目をかけてくれているボアズは親類だ。立派で、誠実な人柄であり、ボアズこそがルツにふさわしいと考えた。ナオミは、ルツに、買い戻しを願いボアズの足もとに寝るように指示を与えた。ルツは、姑ナオミの言う通りに従った。 ボアズはルツに配慮を持って対応してくれ、更に近い親戚がいるので、その人が権利を放棄するなら、自分が買い戻すと応答した。更に近い親類がいたが、ナオミは必ずボアズがルツを買い戻すこと、それが神のみこころであり、成就することを信じた。だから、この事が、どうおさまるかわかるまで待つようにと、確信を持って言えた。背後に神が働かれることを信じた。それゆえ、成り行きを見守っているようにと。 私たちも、神に示されたことをして、あとは神が成し遂げて下さることを待つような、状況に置かれる事がある。ルツはナオミに言われた事を、「私におっしゃることはみないたします」と従順にその通りに従った。だからこそ、あとは神に全面的に委ねることができた。安息し、待てば良かった。そして、神は環境を支配し、ボアズが買い戻すようにされた。示された事をし、後は、神が働いて下さることを信じて待とう。 ----------- するべきことを果たした後も、あれで良かったのか、こうすれば良かったのかと心は行ったり来りで落ち着かないことがある。御心を確信し行った後は、神を信じて後は静かに御わざを待とう。
2013年07月17日(水)
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」伝道3:1 アブラハムは「わたしが示す地に行け、大いなる国民とする」との示しに従い、75歳の時に生まれ故郷を出た。しかし、サラとの間になかなか子供はできず、100歳で、妻のサラに子供が与えられた。25年間待った。その間、数々の失敗もし、苦しみを通りながら、神の訓練を受けた。 ヤコブは、父もエサウもだまして、家におれなくなり、逃げるように遠方の叔父のもとへ身を寄せた。そこで、神の御手により厳しい訓練を受けた。叔父にだまされ、ラケルをめとるのに14年をかけた。だましたヤコブはだまされた。20年間、暑さ寒さの中で苦しい労働をした。「あなたをこの地に連れ戻す。約束したことを成し遂げるまで決してあなたを捨てない」約束通りに、神の時に連れ戻された。 ヨセフは訓練に次ぐ訓練であった。兄たちに、隊商に売られてエジプトへ、エジプトでは全くの無実の罪で牢獄へ。神が正義なら、なぜこんな事に?ヨセフへの訓練であった。苦しい歳月であったが、宰相へと導かれた。境遇を通して、ヨセフは、主の御手により砕かれ、練られ、鍛えられ、築き上げられた。 ダビデは、サウル王に命を狙われ続け、つけ回され、常に死と隣り合わせであった。逃亡を続け、その恐怖、不安はいかばかりだったろう。この恐怖、この状況がいつまで続くのかと訴えている。訓練は、辛く悲しく苦しいが、主の器と造り変えられて行く。そして、その渦中では、苦しみが永遠に続くように思えるが、主は「時」を定めておられる。「私の時は、御手の中にあります」。神の時に、事態は動き、成就して行く。 -------------- 神様は目的もない導き方はされないので、痛く苦しい時が、本当に感謝であったと後に思えるよう、目の前の時や営みのすべてを信仰の目で見ていこう。神様が握り支えて下さっている。
2013年07月16日(火) 「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20
「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:20
光の中にとどまる人は、決してつまずくことがない。なぜなら、光は、常に、「罪」を照らし出すので、その示された罪を悔い改めることができる。そして、悔い改めた罪は、完全に赦されるので、いつも光の中におり続けることができる。それが真理を行なう者だ。光の中にいる人とは、罪を決して犯さない人ではなく、悔い改めて、悔い改めて、罪赦されて赦されて生きる人だ。 人がつまずくのは、光の中にとどまらないからだ。やみの中に入ると、真っ暗闇で、罪が見えない。罪が見えないので、悔い改めることができない。赦しを受けることがない。そして、罪が見えないので、常に自分が正しいと思っている。それは罪を認めたくないからだ。人への憎しみ、非難、裁きがあるなら、やみの中にいる。しかし、理由づけをし、自分を正当化するので、悔い改めがない。悪いのは相手で、自分は悪くない。相手のせいで、自分はこんなにも苦しい。 しかし、自分が相手を裁いていることは、認めたくない。主の御心は愛することで、愛したくないから、苦しいのだが、気づかない。しかし、真理を行なう人は、愛したくない自分を認める。愛せないのではなく、愛したくない。憎んでいたい自分を認めて、悔い改める。その時、御霊から愛が与えられる。だから、光の中に、おり続けることができる。 ---------- ★ご承知と思いますが、13日分御言葉の箇所が“だれが、あなたがたにまことの富を任せるでしょう”の書き間違いで、申し訳ありませんでした。続けて祝福をお祈りしています。
2013年07月15日(月) 「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」ヨハネ8:36
「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」ヨハネ8:36
この世の言う「自由」は、本当の自由でなく、肉の性質が思う、好きなことだ。肉の思い通りであり、自分中心に思う心地良いことだ。放蕩息子は自由なりたくて、父親のもとを去った。何の邪魔もされず、干渉されず、自分の好き放題をして生きる、それが自由だと、はき違えた。しかし、それはわがままであり、放蕩であり、それは自由ではなく、「罪」だ。 責任の伴わない自由などあり得ない。自由には責任が伴う。肉の欲望に誘惑されて行き着く先は死だ。肉で生き、肉を発散させる事は、決して自由なのではなく、罪の奴隷だ。大事な事は、自分の好き放題が自由なのでなく、真理である御言葉に従うことから、自由は来る。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする」。 御霊の自由は御言葉に基づく。嫌な相手に対し、肉はむしろ憎んでいたい、憎む事が心地良い。しかし、新しい自分は違う。憎む事は不自由だ。平安が失せ、苦しく辛い、悶々状態に陥る。御言葉に従って、主に心を明け渡し、御霊の支配に自分を委ねて行く時、愛する事を選び取る。実は愛する事が自由なのだ。 心は喜びで溢れる。憎む時、心はがんじがらめだが、愛する時、解き放たれ、平安が満ちる。真理に従えば従うほど、私たちは自由にされ、平安にされる。今、心が苦しいなら、御霊の導きに従おう。解き放たれ自由にされる。 --------- 争うより平和をと主の御言葉に従いたいと心を向けるだけでギクシャクした肉から解放された主の平安が心に満ちる。肉の思い通りにとしか見ない時の、なんと不自由なことか。
2013年07月14日(日) 「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなっ たら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自 身のうちに塩けを保ちなさい」マルコ9:50
「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなっ たら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自 身のうちに塩けを保ちなさい」マルコ9:50
料理に塩は無くてはならないものだ。美味しく味つけする。塩気の 無い料理は、まずくて、食べられたものでない。又、防腐剤にも使 われ、腐敗を防ぐ。主は、私たちは地の塩だと言われ、塩の役割を 願っておられる。家庭や職場、学校で塩の役割を期待されている。 塩けがなくなるとは、どんな姿だろう。御言葉に従うのではなく、 自分のご都合主義で、御言葉を曲げて、自分に合わせる。この世に うまく合わせ、衝突しそうな時は、御言葉を引っ込める。波風立て たくない。誰ともうまくやって行こうとする。そのため信仰を出さ ない。八方美人になってしまう。 問題が起こらないようにしているから、事態はスムーズに行く。し かし、妥協に妥協を重ねる事になり、何の塩気も無くなってしまい、 証しが立たなくなってしまう。塩が塩けをなくしたら、何によって 塩けをつけるのかとあり、どうしようもなく、何の役にも立たなく なる。 又、塩が強過ぎると、あわれみも愛も無い律法主義になってしまう。 完全に正しいのだが、そこに愛が無いと、人を苦しめ、自分も苦し くなる。相手に要求し、相手を責めて裁いて行き、自分も常に基準 に達する事はないので、苦しいばかりだ。 そこに愛がないので間違っている。御霊に従って歩む時、それは愛 の歩みであり、且つ、自然に塩けのある歩みとされる。自分を主に 渡して、御霊に導かれて歩もう。 ・・・・・・・・・・・ 御霊に導かれて生きて行く時、平安や喜びがあり、生き生きと生き て行ける。その時、心に塩けが与えられている。塩けを保って歩め る。御霊の示しに、一つ一つ従って行こう。今、目の前に示された ことに従おう。
2013年07月13日(土) 「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあ なたがたに、まことの富を任せるでしょう」ルカ16:11
「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあ なたがたに、まことの富を任せるでしょう」ルカ16:11
管理人が主人の財産を乱費していた事が発覚した。それで、解雇を 言い渡され、会計報告を出せと言われた。そのため、彼は債務者を 次々呼んで、借金を減額にしてやった。そうすれば、解雇された時 に、彼らが自分に有利に取り計らってくれると踏んだのだ。 主人は臨機応変な、この抜け目のなさをほめた。主はこのように 「不正の富」で自分のために友を作れと言われた。ここでの「不正 の富」というのは、悪事で得た富の事ではなく、「この世の富」と いう意味だ。永遠との対比での、この世のことだ。不正=この世、 の意味であり、この世の富を忠実に、御心通りに使って、天に宝を 積めという事だ。 この世にいる間に、この世の富を用いて、天に予め投資ができる。 そうするなら、天に帰った時に、大いなる報いを受ける。神から任 された、この世の富を御心通りに、賢く使うようにとのことだ。会 計報告を出すのは、所有者でなく、管理人だからだ。所有者なら自 分の物であり、どう使おうと自由で、出す必要はない。 しかし、管理人は主人に報告の義務がある。私たちもこの世の富は 管理であって、所有ではない。主人に喜ばれるように、主人に御心 を尋ねながら使う責任がある。富は容易に偶像になる。富に執着し、 振り回される。富の主人でなく、奴隷になってしまう。 「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはでき ません」。神と富に仕えるなと言われたのでなく、仕える事は出来 ない、不可能だと言われた。任されたものを祈りつつ、御心に従い、用いて行こう。喜び与えられ、そして天で豊かな報いを受ける。 ・・・・・・・・・・・・・ 与えられたものに執着し、握りしめてしまうと、主が見えなくなる。 自由や喜びが失せてしまう。主に渡して、委ねて行く時、主と共に 任されたものを管理し、喜びもって生き生きと歩める。そして、絶 えず、天につなげて、今を生きて行ける。
2013年07月12日(金) 「サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。『ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ』」Tサムエル9:17
「サムエルがサウルを見たとき、主は彼に告げられた。『ここに、わたしがあなたに話した者がいる。この者がわたしの民を支配するのだ』」Tサムエル9:17
サウルがイスラエルの王とされるために、完璧な導きがなされることを見る。まずサウルの父親のロバがいなくなった。そのため父親が、サウルに若い者を連れてロバを捜しに行くよう言い渡す。サウルは若者と共に出かけ、山地をあちこち巡って捜す。しかし見つからない。それで、巡り巡ってツフの地まで来た。その時、サウルは父親が心配するからもう帰ろうと言った。その時、若者が、丁度この町に神の人がいるから、預言者に行くべき道を尋ねに行こうと言う。そして町へ行くと、丁度その日、そこにサムエルが来ていた。 サムエルは前日に、主に、サウルをイスラエルの王として油注ぐよう告げられていた。ロバがいなくなった事、ツフの地まできた事、若者が預言者がいる事に気づいた事、丁度その時そこにサムエルがいたこと。一連のどれが欠けても成就しない。「丁度」「丁度」と、時ピッタリに、一つ一つが欠け無く必要な、不思議な導きだ。 私たちの人生も同様だ。振り返ると、あの時の、この時の、あれとあれが、これとこれがつながって・・あれがあって、これがありと、必ず経験している。一つとして偶然は無い。又、現在も、今後も同様だ。今、あなたが、今の場所にいること、今、目の前の人々、出来事、すべて主の完璧なご計画と配剤だ。今わからなくても、後にわかる。感謝して、委ねて歩もう。 ------------- 神様のご計画を見ることがないなら何とストレスの毎日だろう。この場所と環境は神様からのものだと、そう信じて見て行くなら、恵みと支えも共に備えられていることを信じて歩める。
2013年07月11日(木) 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:39
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:39
マルタは、テキパキと家事をこなせる、有能な人であり、主を歓迎したいがために、懸命に主をもてなそうとした。まず片付け、掃除から始まり、料理の献立は最高のものを用意した事だろう。大奮闘だ。思いのほか手間取り、段々夕食の時刻も迫って来る、焦って、イライラし始める。ふとマリヤを見ると、何もしておらずに、座っているではないか。そんなマリヤに腹を立てた。しかし、マリヤは何もしていないのではなく、主の言葉を一言も聞き漏らすまいと、じっと真剣に耳を傾けていた。 私たちも多くのなすべき事があり、責任がある。又、楽しみや喜びがあり、又、多くの対人関係がある。勉強、仕事、家事育児、リクレーションやレジャー娯楽があり、それらは良いものであり、罪ではない。しかし、その「良いもの」が、「どうしても必要なもの」を、圧迫して来る。「どうしても必要なものは一つだけ」と言われた。「ベター」が「ベスト」を追いやっていないだろうか。本末転倒になってしまう。 仕事は良いものだが、主との交わりが持てないほどに、忙しければ、それは問題だ。罪でないだけに気づかずに流されてしまう。一つだけの必要なものは、頭ではよくわかっているのだが、それができないだろうか。忙しさの問題でなく、交わりを持たずともやって行けるという、心の問題なら、その事も主に告げよう。主は助けて導いて下さる。 ----------- どうしても必要なものは一つだけだと本気で信じているだろうか。目の前の人、目の前の仕事に仕え、大切な主との個人的な交わりを後にまわしていないだろうか。まず主の前に座ろう。
2013年07月10日(水)
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか・・それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった」マタイ2:3 東方の博士たちが、星に導かれて遠い道のりをやって来て、とうとうエルサレムに着いた。そこでヘロデ王に、ユダヤ人の王の生まれた場所を問うた。それを聞いたヘロデは恐れ惑った。新しい王が誕生するなら、即、自らの地位が危うくなる事であり、恐れ惑うのはわかる。が、「エルサレム中の人も王と同様であった」。 なぜ人々が恐れ惑うのか。彼らは別にヘロデなど、どうという事なく、逆らえば、身に危険が及ぶから言うことを聞いているだけだ。脅威でも何でも無かった。しかし、新しい王の誕生は脅威であった。恐れと不安を抱いた。神から遣わされたなら、ヘロデごときでない本当の王であり、自分たちは真に従わなくてはならない。又、今の生活が成り立っている以上、余計な混乱は迷惑だ。 私たちは、古い罪の性質がある。それは自分が王であり、主人だ。自分の上に「王」を置く事が嫌なのだ。ヘロデになら形だけ従っているのであり、心では、自分が王だ。しかし真の王は違う。自我を砕いて従わなくてはならない。私たちはどうだろう。古い自分は変わりたくない。変化を嫌う。痛い、しんどい思いをしたくない。今のままでよい。安穏な楽な人生を歩みたい。御子のかたちに変えられたいなどと思えるのは、主のみわざだ。新しい性質だ。新しい性質は、砕かれて、人生の王に従って行くことを求める。御心を行なうことを求める。 ------------ 自分が王であるのは限りなく自由に思えるが、真の平安は来ない。主を主と認め、信頼して従い変わって行く度に、知らなかった平安の領域は拡がる。豊かな主との関係を感謝しよう。
2013年07月09日(火) 「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし・・」ヘブル2:14
「これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし・・」ヘブル2:14
サタンはオールマイティではない。主に許可された範囲内でしか働けない。ヨブ記を見てわかるように、「持ち物はいいが、身に手を伸ばしてはならない」次にサタンが挑んで来た時には「身はいいが、いのちには触れるな」。神は限度を定めておられる。12弟子の一人であるユダは、主を裏切り、銀貨30枚で主を売ってしまった。その結果、主は捕らえられた。「サタンがユダの心に、主を売ろうとする思いを入れた」ので、主を裏切り、主は十字架にかかられた。 主は、サタンを阻止する事は可能だが、サタンが働く事を許され、そのサタンすら、主の御旨成就のために用いられた。主は全知全能であり、主が天でも地でも、全主権を握っておられる。サタンは、主を十字架の死に追いやったが、結果的に、その十字架は人類のあがないという金字塔を打ち立ててしまった。確立してしまい、もう後に戻れない。サタンも、もうどうする事も出来ない。 又、ペテロもサタンにやられてしまった。自分の弱さを知らず、自信満々で、命を捨ててでも、主に従って行けると思っていた。しかし、保身に走り、主を否定してしまった。だが、主はそれもご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられた。「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」。ユダは悔い改める事なく、ペテロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを知った。サタンは働くが、主はその上におられ、勝利へと導かれる。 ------------- サタンは幾重にも誘惑しに来るが、主の許しの範疇であると思うと、主と共に必ず勝利できると力が出て来る。自分の弱さや不信仰を思い知らされるがその度、主を見あげサタンを恐れず進もう。
2013年07月08日(月) 「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」マルコ7:21
「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」マルコ7:21
この世の価値観では、外から入るものが、人を汚すと思われている。そのため、犯罪者の環境や成育歴が、問題にされる。生い立ちが不幸で、親の育て方が悪い、社会が悪い、だから罪を犯すと。それで、環境が良くなれば、社会が良くなれば、人間は良くなるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。つまり、人間は生まれつき善人であるが、環境が悪かったので、罪を犯したとなる。 しかし、聖書は正反対のことを言う。人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから、罪を犯す。「義人はいない。ひとりもいない」と。外側からのものではない。環境ではなく、人の内側から出て来るものが、人を汚す。「悪い考え、不品行、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。心が喜びで満たされた人が、突然、殺人などしない。殺人の前に、心が強い憎しみ、欲求不満、劣等感、妬み・・で、許容量越えとなっている。内側から湧き出て来る。泉のように抑えても〃湧き上がる。自分の「罪」の問題だ。 これはどうにもならない。又、自分の罪だと認めることは、非常に痛いので、したくない事なので、環境のせい、社会のせい、人のせいにしておきたい。そうすれば自分を見なくて済む。しかし、そこに何の解決も無い。主は、その「罪」の解決のために、十字架で血を流して下さった。自分の罪を認め、責任を取ることが、「悔い改め」ることだ。その時、全く新しい歩みが備えられている。 ------------- 示された罪をどれだけ主の前に正直に認めて行くかは、信仰生活の大切なポイントだ。主の十字架の赦しを自分の事として知り、また人の罪にも寛容にされる。罪を曖昧にしてくり返すより一歩一歩、主に頼る歩みへと変えられたい。
2013年07月07日(日) 「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」マタイ5:37
「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです」マタイ5:37
目の前のことを、強いられているように感じ、嫌々、しぶしぶ行な っているだろうか。日常の様々な誘いや、頼まれ事・・「ノー」が言 えなくて、嫌なのに引きうけてしまう。本心は、「ノー」なのに、 良い顔をして「イエス」と言う。段々、心が辛くなり、重荷になっ て来る。強いられて嫌々している。何の喜びも無い。断わるべきだ ったと後悔する。 そして「ノー」が言えない自分に自己嫌悪となる。又、喜んででき ない自分も責める。そして、恨みと怒りが相手に向かう。憎しみに まで増幅して行く。辛い思いをするのは自分だ。問題は何か。人に 嫌われたくない、良い人だと思われたいから「ノー」が言えない。 又、相手が嫌な思いをするのではないか。それを自分が受け入れら れない。「嫌々、強いられて」、相手の機嫌を取り、表面上問題は 無くても、そこに愛がない。喜びが無く、自分の心も虚しい。「嫌 われなくない、良く見られたい者です」と、あるがまま主に告げて、 「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさ い」、そうできるよう祈ろう。 1日は24時間であり、何もかも引きうけていたなら、自分に与え られた御心を行なう時間が無い。主は、際限無く押し寄せる、目の 前の事柄のすべてに対応されたのでなく、父の御心を行なわれた。 ・・・・・・・・・・・・・・ 良く見られたい、嫌われたくない、そんな動機で、嫌々、強いられ て行なっている事があれば、気づけるように。主のもとへ行き、心 の内を打ち明けよう。解き放たれ、御心を行えるようにして下さる。
2013年07月06日(土) 「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタ イ11:30
「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタ イ11:30
くびきとは、板に穴が二つ開いていて、二頭の家畜の頭部を入れる ものだ。二頭の家畜を同じ方向へ進ませ、農耕ができる。くびきが 無ければ、二頭は別々の方向へ向かう。くびきは同じ方向へ進ませ てくれる。 主も私たちに「わたしのくびきを負え」と言われる。「わたしのく びきは負いやすく」とは「身体に合って快適、心地良いこと」だ。 くびきは、その穴にきちんと首を入れると、快適で心地良いが、そ れを嫌がって、もがくと首が締め付けられる。 くびきを嫌い、逃れようとするなら、そのくびきに締め付けられ、 痛くて辛いものとなる。これさえ無ければと、自分を苦しめるもの でしかない。あなたにとって、くびきはどちらだろう。 自分に与えられたくびきを「受け入れる」時、そのくびきは平安と 御霊の喜びをもたらしてくれる。しかし、受け入れず、もがく時、 それはきつく首を絞める。ただ辛く苦しいばかりだ。 受け入れる事が難しければ、そう出来るよう、主に祈ろう。こんな 話がある。人の十字架が良く見えて、自分のは見劣りがする。目移 りして、捨てては、別のものを負うが、どれもしっくりこない。と うとう最適のものを見つけたら、最初に捨てた十字架だった。 自分に与えられたくびきを受け入れよう。「わたしのくびき」と、 それは主が負って下さっている。そこに溢れる恵みがあり、学びが 与えられる。主を新たに知れる。 ・・・・・・・・・・・・・ くびきを受け入れる事が、なかなか出来ない。難しい。しかし、受 け入れるなら、平安になる。どんな苦しい状況でも、心に平安を下 さる。「受け入れられません」と、まず主の助けを求めて祈ろう。 負えるように助けて下さる。
2013年07月05日(金) 「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27
「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27
日常生活で、次々と悩みや問題に出くわす。心配、不安、悩みは尽きない。しかし、主は、その心配事の解決法を教えて下さる。とても簡単だ。「何も思い煩わないで」、一つ〃目の前の問題について、「願い事を神に知っていただきなさい」具体的に祈れと。思い煩う事をストップして、主に告げよと。その問題を主に委ねよと。 非常に単純で簡単だ。しかし、どうだろう。これをしないで、心配と不安で、くよくよと思い煩うのが現状だろうか。主は、渡せと言われるのに、決して渡さずに、自分が握っていて、自分で何とかしようと思う。が、どうにもならないので、思い煩い、落ち込み、悶々状態だ。自分で何とかしようとしている事が問題だ。だから思い煩う。その間、主には手出しが出来ない。「何も」思い煩うなと言われる。目の前のその重荷を、主に一つ〃打ち明け、手放すようにと。 ある人が将来を考えると、どっと大きな不安に襲われた。その思いが来ると心暗くなり、苦しくなった。すると、将来ではなく、今この時、平安も喜びも無く、気力も失せ、なすべき事ができず、周囲にも何の証しにもならない。その事に気づかされた。そして「心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができるか」心配して事態が好転する事は無いと、しっかり入り、思い煩いを止める決心をした。主に委ねた時に「人のすべての考えにまさる神の平安」を経験した。 ------------ 今日の不安や心配は、明日も明後日も続くように思うが、ずっと続くというネガティブな思いを今日捨てよう。今の不安を今、主に告げ、一日分の恵みや慰めを主から受け取ろう。主が新しい展開を用意して下さることを喜んで待てるよう心が変えられる。
2013年07月04日(木) 「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜこのうえ先生を煩わすことがありましょう。イエスは、その話のことばをそばで聞いて・・『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:35
「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜこのうえ先生を煩わすことがありましょう。イエスは、その話のことばをそばで聞いて・・『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:35
ヤイロは、娘が危篤であり、必死な思いで、主のもとへ来てひれ伏し願った。どうか家に来て、娘の上に手を置いて癒して頂きたいと。主は、一緒に出かけて下さった。ヤイロは一刻も早く、主をお連れしたい。娘が死んでしまう。気が気でない。しかし、一刻の猶予もない、そんな時に長血の女性が現れた。主は配慮をもって対応され、手間取ってしまった。 何でこんな時に、心は焦り、早く、早くお連れしなければ、その時間がどんなに長く感じられただろう。その時に、家から使いの者が来て、娘が亡くなった事を告げた。もう先生を煩わすことはない、もう手遅れだと。ヤイロはどうだったろう。茫然自失。心が停止してしまったのではないか。何がどうなったのか、パニックになり、考える事もできなかったのでは。 その瞬間、主がヤイロに言葉をかけられた。「恐れないで、ただ信じていなさい」。別訳では、「イエスは、その話している言葉を聞き流して」とある。主は、使いの者の言葉を聞き流された。私たちも、聞き流す必要のある言葉がある。様々な問題に対して「もうだめだ」「手遅れだ」「不可能だ」、ネガティブな言葉、不信仰な言葉は聞き流し、無視しなければならない。状況でなく、人の言葉でなく、主の言葉をしっかり受け入れ、握り、信じて行く時、御言葉の通りに成し遂げられる。 ------------ 「駄目だ、できない」の思考が、主にあっては「必ずできる」に変わらないだろうか。私たちを力無しにしてしまう言葉を信じるか、「恐れないでただ信じていなさい」との主を信じるか。信仰に立ちもう一度、状況を見てみよう。
2013年07月03日(水)
「ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は、イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった」ルカ8:43 この長血の女性は12年間もの病の中にあり、どんなにか苦しみの中にあった事だろう。12年は長い。律法によると不浄であり、礼拝にも出られず、疎外されていた。治療のために財産を使い果たし、無一文となり、これから先どうすればよいのか。お先真っ暗であり、何の望みもなく、身も心もぼろぼろであったろう。 ぎりぎりの瀬戸際であり、救いを求めていた。そんな時、主の噂を聞き、せめて主の着物にでも触れば必ず直ると思い、もうその一心であった。病気の身であり、大勢がひしめく中に、もまれて、どんなに大変だったろう。しかし、必死の思いで何とか近づき、触った瞬間、ひどい痛みが直った。驚き、誰にも知られず、その場を去りたかったが、主が「触ったのは誰か」と聞かれた。 後方で隠れ潜んでいたが、隠しきれないと思い、震えながら進み出た。「イエスの前に出」たのだ。どんなに勇気がいった事だろう。「すべての民の前で」イエスに触った理由と、癒された次第を話した。自分を卑しめ、こそこそと身を潜めていたのが、主に導かれ、従う事により光の中へと入れられた。 心の内の、あるがままを告白できた。その事によって心も癒された。主は「あなたの信仰が」と信仰を認め「安心して行きなさい」と、もう恐れる事も怯える事もないと、全き平安を下さった。病により深く傷ついた心をも癒して下さった。主のもとへ行こう。 --------- 大きな問題に直面し不安や恐れを抱えながらも、私達にはあるがままを聞いて、心配して下さる主がいる。必ず益となるので悲しまなくても良いという信仰が病や問題の中で心を健やかにしてくれる。
2013年07月02日(火) 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4:15
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません・・すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」ヘブル4:15
主を信じて以来、私たちは古い性質と新しい性質が、絶えずあらがっている。霊と肉の戦いの中にある。再臨の時に私達のからだは変えられる。それまで私たちに、肉の弱さがある事を主はご存じだ。この肉体は往々にして、疲れ果てるし、病気にもなる。主は肉体をとって地上に来られたので、この事をわかって下さっている。主は、あなたの弱さをご存じだ。良き理解者だ。そして、主のゆえに、いつでも恵みの御坐に行く事ができる。 私達は力と勢いに溢れている時は、主のためにどんどん働き、主に近いと感じる。逆に弱さを覚え、無力の時は、主を遠く感じる事が無いだろうか。「お前のような、役に立たない者はだめだ」サタンの声が聞こえて来る。罪を犯してしまうと「同じ失敗ばかり繰り返している」「全然成長がない、自分はだめだ」その声に乗ると、ますます主から離れる。 御言葉はどう言っているだろう。「あわれみを受け、恵みをいただいて、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」恵みの御坐に近づける根拠は「あわれみを受け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と「恵み」だ。自分の功績にはいっさいよらない。立派な行ないによらない。主からの一方的な愛顧だ。主のあわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果てた状態でも、御前に行ける。綺麗になって行くのでなく、あるがまま。もし御言葉を信じるなら、どんな状態でも恵みの御坐に行く。そして新たにされる。 -------------- 自分の状態や環境が自分の信仰生活を支えているのではなく、ただ主のあわれみによる。いつでも大胆に主の御前に近づけるとは何と感謝なことか。今日も慰めを受け、また新しくされる。
2013年07月01日(月) 「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩篇1:3
「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩篇1:3
広大な砂漠の中に、川がある。その川のそばには緑の木々が生えている、かんかん照りの中で、厳しい砂漠の中で、しかし、水路のそばの木々は青々と葉を茂らせている。「水路のそばに植わった木」は、どんなに厳しい試練の嵐の中でも、その葉は決して枯れない。なぜなら「水路のそば」に植わっているからだ。水路から絶えず水分が回り、葉を瑞々しく茂らせて行く。その葉は枯れることがない。 木の問題でなく、どこに植わっているかの問題だ。私達も水路のそばに植えられた木だ。常に豊かないのちが、主から溢れ流れて来る。御言葉に根ざして、御言葉を喜びとし、絶えず口ずさむ。そこから力と喜びが来て、それによって瑞々しく生かされて行く。「その人は、何をしても栄える」、「栄える」というのは、商売繁盛、五穀豊穣、家内安全といった御利益ではない。何でも自分の思い通りになり、利得となる人生ではなく、御言葉を喜びとする人の願いは、神の栄光を求める。 神によってきよめられて行き、神のみこころにかなった願いを願う。それゆえ叶えられる。人生に、肉の欲望でなく、神の御心を求めて行くから、祝福されて行く。結局、人生の土台を何にするかだ。主のおしえか、自分のはかりごとか。主の教えを喜び、主に頼るのか、自分の力に頼るのかだ。 -------------- 根っこを主にしっかりと支えられ、主から与えられる養分を豊かに吸い上げて緑豊かな人生を歩んで行こう。思い通りに歩む道はとても快適に見えて来るが、根が肉に植わっていれば、いつも渇く。