2013年08月31日(土)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまり ます・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできませ ん」ヨハネ15:4

 

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」枝は、ぶどうの木
に含まれていて、いのちを共有している。主がぶどう木の幹で、わ
たしたちは枝という意味ではない。それなら別々になる。ぶどうの
木と枝はひとつだ。「わたしにとどまりなさい」とは、「わたしの
内に住みなさい」の意味だ。

素晴らしいホームが提供されている。家庭とは愛と安らぎ、親しみ
に満ちた場所だ。最高にリラックスでき、緊張から解かれて、安堵
できる。ストレスからも心配事や不安からも守られる。自由に食べ
て飲んで、休んで、お喋りし、泣いたり笑ったりして、憩える場所。

そこでは、あるがままに全面的に受け入れられていて、何より愛と
信頼がある。放蕩息子が父の家に帰ったが、これが救いだ。喜びと
安心、休息、憩いを取り戻した。家は、安堵と休みの場所だ。恐れ
とは対極にある。

主イエスにとどまるとは、全き平安と喜びの中にいる事だ。もし、
恐れや不安、心配、思い煩いがあるなら、ホームから離れて迷い出
ている。主にとどまるとは、御言葉にとどまる事、御言葉を信じる
事だ。鍵は御言葉だ。

「あなたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたにとどまるな
ら」とあり、信仰はオートマチックではない。常に「目の前の状
況」と「主の言葉」の二つが目の前にある。信仰とは、御言葉の方
を選び、握って行くことだ。

・・・・・・・・・・・・
思い煩ってしまう深刻な事態が目の前にあり、御言葉は「思い煩う
な」と言う。この時、主にとどまるとは、御言葉にとどまること、
「思い煩うな」を選び取ることだ。その時、平安の中に守って下さ
る。


2013年08月30日(金)

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」詩編23:1


ダビデは勝利に次ぐ勝利で進軍していた。そんなダビデを女たちは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と。それを笑いながら、繰り返し〃歌った。サウルは激しい妬みで、ダビデの命をつけ狙った。ダビデは逃げ回り、常に、いつ殺されるか知れない恐怖の中で、死と隣り合わせだ。

敵の執拗な攻撃、身体も弱り、その上、信頼していた親しい者の裏切りと、四方八方からの苦難が襲いかかり、身も心も壊れるばかりの苦しみにあった。詩編の様々な箇所で、その苦しみ、悲しみ、嘆きを、心の内を、率直に神にぶつけて、訴えている。気持ちをそのまま神に告げよう。


又、同時に、ダビデの素晴らしさは、失ったもの、無いものに目を留めるのでなく、有るもの、与えられているものに目を向け、溢れるばかりの感謝を献げて行った事だ。ダビデの信仰だった。四面楚歌で、失望と絶望のどん底のような中で、いつも命が守られている事、すべての危機から救って下さっている事、心に霊の喜びと平安を下さる事を感謝した。どんな状況でも「信仰」により「乏しい事は無い」を選択し、そこに立つからこそ、恵みが見えて来る。

「私は乏しい」に立つと、あれも無い、これも無い、何も無い、無い状態に陥る。それが御言葉に立つことを選択すると、不思議に隠れて見えなかった恵みと感謝が見えて来る。あなたはどうだろう。どちらに立っているだろう。「私は乏しい」だろうか、「私は乏しいことがありません」だろうか。
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主と共に歩む人生の初めから天に帰る日まで「乏しい事は無い」を選択して歩んでいたなら、どれだけ多くの思い煩いから守られた事だろう。私は決して乏しくないと感謝して生きたい。


2013年08月29日(木)

「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにはならない」詩編33:16


常識的な考えでは、戦いに勝利するのは兵士の数による。千人と一万人では、一万人が有利に決まっている。戦いの常識であり、普通は多い方が勝つ。それが、詩編記者は、勝利は兵の数によるのではないと言う。普通の考えや常識と正反対の事を言われると、私達は非常に戸惑う。常識によって生きているからだ。

神の言葉と信仰と言いながら、実際は常識や、自分の考えで生きているだろうか。信仰と言いつつ、現実生活では、利得計算高く、頭でソロバンをはじきながら生きていて、軍勢の多い少ないで判断している。つまり自力だ。これなら自分の力の範囲内で行ける、これは無理と。頭の中で計算し処理していないだろうか。五つのパンと二匹の魚の箇所で、ピリポが、主から、群衆にどうやってパンを食べさせようかと言われた時に、持ち金では足りません、無理ですと答えたように。不可能と結論を出してしまう。そこに神の入る余地がない。

しかし、詩篇記者は、勝利は兵の数ではなく、神によると言った。神に信頼し、神の指揮によって進むなら、問題が問題ではなくなってしまう。兵の数=自分の力や、様々な障害や困難だが、それは問題でない。ただ一つ、神の御心かどうかだけが問題だ。軍勢の数で頭が回っていないか。救いは軍勢ではなく神による。御心が示されているなら、主を信頼して前進しよう。
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常識ではなく主を信じ、前進し始める時さらにはっきりと主による展開が見えてくる。幼子のような素直さで恐れや不安も主に告げながら進もう。


2013年08月28日(水)

「そして見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた『・・わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える・・』」創世記28:13 




父イサクと兄エサウを欺いたヤコブは、激怒した兄エサウの殺意に、家におれなくなり、叔父ラバンのもとへ向かうことになる。一人で家を出て、遠く野山を旅した。しんしんと孤独感、寂寥感に襲われたことだろう。歩き続けて、日が沈み、野で一夜を明かすことにした。石ころを枕にして、その場で横になった。ヘトヘトで、心身疲労こんぱいであった事だろう。家族と離れ、誰もいない所で、一人っきりの野宿、地面は固く、惨めで、不安や恐れもあったろう。

うとうとし夢を見た。はしごが天と地の間に立てられ、御使いが上り下りしていた。そして、主がヤコブのかたわらに立っておられた。そして「横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。子孫は地のちりのように多くなり・・」「わたしはあなたと共にあり、どこに行ってもあなたを守り、この地に連れ戻そう」と。眠りからさめて「まことに主がこの所におられるのに、それを知らなかった」と言った。

ヤコブは孤独で、先行き不安で、恐れのどん底にあった、まさにその時に、全能の主に出会った。私たちも、真に主に出会うのは、どうにもならない、行き詰まった、人生のどん底の時だ。実は、人生の行き詰まりは、大きな祝福だ。砕かれた心が主に出会い「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」と言うことができる。
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見るべきなのは、変わらず私たちのかたわらに立っておられる主だ。それは困難な逆境でも順境の時でも変わらない。自力の限界を知り状況を見ず主を見あげる時すでに祝福の中にいる。


2013年08月27日(火)

「・・彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:16



私たちは、すでにキリストによって、心のおおいは取り除かれている。すでにおおいは取り除かれているのに、自分が、心におおいを掛けている。救われた後も、新しい性質と共に、古い性質がある。その古い性質に従うと、古い思いのまま、この世の価値観に従うことになる。それは、新しいぶどう酒を、古い皮袋に入れていることになる。

私達のおおいとは、まず自分軸に物事を考える事だ。生活のあらゆる所に浸透している。軸が自分であり、信仰の世界は、神中心なので、自分軸で捕らえると、全く見えずに、わからない。又、状況しか見ていないなら、目の前の状況に飲み込まれてしまう。状況がおおいとなって、何も見えなくなってしまう。そのため、何かがある度に「何で!どうして!」「どこが愛?神はひどい!」になってしまう。

しかし、主に向いて、神視点に立つ時、見方が180度変えられる。
「愛されている」「ご計画がある」「災いはない、平安と将来と希望のためのもの」「益とされる」「成長のため」と信じて行く。又、御言葉も古い価値観で取る時、自分の力で行なおうとしてしまう。すると、出来ないので悩み、落ち込み、落胆してしまうことになる。しかし、主に向く時、「できません。助けて下さい」と、求めればよいことがわかる。そして、御霊が助けて下さることを経験して行く。
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何で!どうして!と自分で納得しようとして自分軸の見方からなかなか離れられない。ことが起こる前に日毎に「神様の見ているように見せて下さい」の祈りをして行きたい。


2013年08月26日(月)

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し・・わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ」イザヤ55:11


私達は信仰生活で、ああ、意志が強ければと思うだろうか。意志さえ強ければ、色々な物事を達成できるのにと。デボーションが大切だとわかるが、続けることができない。続ける意志さえあれば、もっと成長できるだろうにと。又、祈り続ける意志があれば、もっと答えられるのにと。しかし、人の意志の力が、物事を達成させるのではない。意志は弱く、力は無い。

「わたしの望む事を成し遂げ」人の意志ではなく、神の意志が、物事を成し遂げる。では、どうすればよいのか。自分自身の意志が、「わたしの口から出るわたしのことば」である、主の御言葉に従う事を選択して行く時、神の力が、物事を成就させて行く。意志は不必要なのではない。神は、私達に意志を与えて下さっている。その自らの意志を、神から離れて自分で主張して行くのでなく、神の意志に合わせて行くことが大切だ。

神の御心は、一見困難に見え、臆してしまう事がある。しかし、主が語られた事は、「必ず主が成し遂げられる」と信じて、一歩を踏み出そう。これが信仰であり、ここで意志を働かせる事だ。そうする時、不可能が可能になり、道無きところに道が出来るのを見て行く。「手を伸ばしなさい」「起きて床を取り上げ歩きなさい」との主の言葉に、意志を向けて応答した時に、主の癒しの力が働いて奇跡が起きた。意志を向けて、目の前の、神の言葉に従おう。そうすれば「わたしが成し遂げ」られるのを、見て行く。
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最初の一歩を踏み出すまでは、不安と恐れで足がすくむような状況も主を頼りに前進すると自分の力をはるかに超えた祝福の結果にたどり着いた経験をする。出来ない自分から、主の御約束に置きかえ進もう。


2013年08月25日(日)

「そこで、民は出て行き、アラムの陣営をかすめ奪ったので、主の ことばのとおり、上等の小麦粉一セアが一シャケル・・で売られた」 列王記U7:16

         

エリシャは「主の言葉を聞け」と預言した。「あすの今頃、サマリ
ヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シ
ェケルで売られる」。子供をも食べるほど苛酷な飢饉での、その言
葉に、侍従が「たとい主が天に窓を作られるにしても、そんな事が
あるだろうか」と言った。

エリシャは「あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べる事は
できない」と答えた。その後、神が奇跡をされ、アラム陣営に戦車
の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは
敵の来襲と恐れ、陣営をそのままにして逃亡した。

どうせ餓死するのだからと、らい病人たちがアラム陣営に入り込ん
だ時、それらを見つけた。誰もいない中、食料が丸ごと残っていて、
何とエリシャの預言通りになった。そして、その侍従は、門の管理
に当たっていて、大勢が食料目がけて殺到したため、門で踏みつけ
られ死んだ。

彼は神の言葉を信じなかったので、恵みにあずかる事ができなかっ
た。神の言葉でなく、自分の思いを信じたからだ。今まで培われた、
自分の思いがあり、彼の思考では絶対にあり得ない事だった。あく
までも自分が基準であり、神の言葉は合えば受け入れ、合わなけれ
ば捨てた。

その結果、彼は自分の正しさで滅んでしまった。私達はどうだろう。
自分の思いを捨てて、主の言葉に従うことを教えられる。

・・・・・・・・・・・
御言葉と自分の思いが正反対の時がある。そして、自分は正しいと
思っているので、御言葉を捨ててしまう。まだ見ていない主の約束、
語られる言葉を信じて行こう。見える状況が正反対でも、御言葉の
ほうを選択して、信じて行こう。


2013年08月24日(土)

「ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないで ください』・・『もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の 関係もありません』」ヨハネ13:8 

       

主は夕食の席から立ち上がって、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
そして、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰の手ぬぐい
で、ふき始められた。ペテロの番になった時、ペテロはそれを拒否
した。「決して私の足を洗わないで下さい」と。

当時、道路に舗装はなく、サンダルのような履き物だったので、足
はほこりで汚れきった。ペテロには、自分の師に、ほこりまみれの
自分の汚い足を洗ってもらうなど、畏れ多い、とんでもない事であ
った。

しかし、そのほこりまみれの、汚れた足とは、誰にも見せたくない、
知られたくない、自分の中の一番醜い、汚い部分、隠しておきたい
部分の事だ。あなたにもあるだろうか。醜い、自己中心な自分だ。

この世の師弟関係は、上下関係であり、師に徹底して仕え、師から
学び、習得し、身につけて、師から認めてもらう関係だ。しかし、
主との関係は全く違う。主に、自分の最も醜い汚れた部分を差し出
すなら、洗って下さる。そして、きれいにされる。完全に赦される、

もし、汚い部分を隠すなら、又、洗って頂くことを拒否するなら、
そのままだ。洗って頂く度に、主との関係がどんどん深められて行
く。心の一番の奥底の汚れを、主に洗って頂く事を拒否していない
だろうか。

もし洗わなければ、あなたはわたしの何の関係も無いと言われる。
主は日々の汚れを洗い、洗い続けて下さる。主に洗って頂こう

・・・・・・・・・・・・
日々に罪を犯してしまう。足が汚れる。しかし、何度も何度も、
繰り返し〃洗い続けて下さる。畏れ多いと思うが、洗わないなら何
の関係も無いと言って下さる。汚れを、醜さを差し出し、主に洗
っていただこう。赦されて〃生きるとは何という恵みだろう。


2013年08月23日(金)

「・・また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」ピリピ2:16



私達は、ほとんど皆、無名で、有名人ではないし、影響力はない。しかし、毎日の繰り返しの中で、単調な同じ仕事の中で、信仰を実践して行く事ができる。同じ事を繰り返す、平凡な毎日だろう。しかし、いのちの御言葉をしっかり握って、日々、キリストと共に生きて行くなら、キリストを現して行ける。何と光栄なことだろう。

御言葉を握って、従って行くなら、キリストの発想や、態度、考え方、行ないが、日常の平凡な生活の中に現われ、周囲に影響を与えて行く。置かれている場所がどんなに小さくても、目立たない場所でも問題ない。仕事がどんな種類であれ、それも問題ない。どんな中でも、用いて下さる。今いる場所で、御言葉に忠実に従って行くなら、主が、必ずあなたを輝かせられる。自分で輝くのではなく、主が、輝かせて下さる。

又、その場がどんなに暗くても、構わない。光は、周囲が暗ければ暗いほど、明るく輝く。「見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き」、今いる環境は難しく、問題が多いかも知れない。そのような中で、あなたは、御言葉を握って、御言葉に従おう。思考、行動、判断が御言葉によってなされる時、必ず周囲に証しとされて行く。今、示されている御言葉があれば、従おう。
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いつか、ここぞという時には日頃の信仰を使って証ししようと思っていても多くの日が平凡な毎日の連続だ。ほぼ自分と家族だけのためのクリスチャンで満足している。「彼らの間で」はどうだろう。


2013年08月22日(木)

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」U歴代16:9



ダビデは、主から、主の心にかなう者、主と一つなる者と言われていた。しかし、そのダビデは完璧だっただろうか。そうではない。彼は罪を犯した。バテシバとの姦淫、更にその隠ぺいのため、バテシバの夫であるウリヤ殺害という大罪を犯していた。それがどのように、主と一つだったのか。ダビデの素晴らしいところは、自らの罪を示される度に、主の前に、罪を認めて、悔い改めた事だった。

それゆえに、主と一つであるという事は、完璧に主の御心に従い、決して罪を犯さないという事ではない。そんな事を出来る者は誰もいない。人間の弱さゆえに、主の御心を痛め、罪を犯してしまう事がある。しかし、御霊はその罪を指し示され、悔い改めに導かれる。その時に、心を頑なにせず、無視せず、拒否せず、逃げずに、神と、自分に正面から向き合うことだ。そして、罪を認め、悔い改める事だ。悔い、くずおれる者に、完全な赦しがすでに備えられている。

そして、それこそが、主と一つである事だと言われる。心砕かれて、悔い改めて、悔い改めて、歩もう。そしていつも、主の御声と、サタンの声、肉の声がある。サタンと肉の声を拒み、捨て、主の御声を選択して、従う時、主と一つだと言われる。御声に耳を傾け、聞くだけでなく、従おう。その人に、主の御力をあらわして下さる。
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肉の声、サタンの声に引かれてくり返し失敗する。そして主に頼らなければすぐに躓く者であることを学ばされる。主の御声のみを頼り、主と一つにされている者の幸いをもっともっと経験したい。


2013年08月21日(水)

「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです」ヨハネ8:44



サタンは偽りの父であり、嘘つきだ。真理がないのだから、黒を白、白を黒と、何でも自由自在だ。絶えず偽りに誘惑し、攻撃して来る。間違った動機を正当に、良い動機を間違ったものにと混乱させる。サタンの誘惑は、自分の欲望にピッタリと合って来るので、自分の思いと一つになっているので、なかなか見分けられない。気づかない。自分のしたい事なので、サタンからだとなどは、決して思わない。

エバが見事に誘惑に引っかかってしまったように。「善悪の知識の木から取って食べてはならない。それを食べる時、必ず死ぬ」と言われていたにかかわらず、サタンから「あなたは決して死にません」と正反対の事を言われた。が、嘘を見抜く事ができなかった。サタンの嘘に引っかかってしまった。又、自分の思い、自分の肉の偏見が底にある時、ものの見方も歪んでいて、自分の目には、正しいとしか見えない。

つまり、心に偏見がある時、物事を正しく見る事が出来ない。サタンが働いている。自分は正しく見ているつもりだが、実際は歪んでいる。サタンは偽りを真理に見せかけ、常に欺こうとする。こういう誘惑と攻撃をよく踏まえて、自分は間違いやすい者だと認識し、自分に頼らず、常に主に頼り、主の判断を仰ごう。主の助けにより、サタンの偽りから守られ、神のお心へと導かれる。
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黒がだんだん灰色に見え、そのうち白にしか見えなくなるように思いに来るサタンの声は巧妙だ。自分では決して真っ直ぐに歩めない。正しく導き返して下さる主の御言葉で照らし合わせよく吟味しよう。


2013年08月20日(火)

「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう・・ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実を持って愛そう・・」Tヨハネ3:16



ある女性、若い時に結婚し、夫の転勤で海外へ。言葉もよくわからず、生活習慣も違い、色々な事をどうしてよいかわからず、途方に暮れていた。そんな時、クリスチャンたちが助けてくれた。時間と労力を献げて、生活に必要な、煩雑な事柄を教えてくれて、親身になり手伝ってくれた。その親切が身にしみた。

神を求める心など全く無かったが、親切が真に有難く、そのお礼のつもりで教会へ行った。すると、驚いた事に、語られる御言葉が、ぐいぐい心に入って来た。そして主を信じた。今では高齢の喜び溢れるクリスチャンだ。元はと言えば、周囲のクリスチャンの親切のゆえだった。

ある婦人は、夫の海外転勤が決まり、英語を少しでも身につけたかった。それで、クリスチャンではなかったが、教えてもらいたくて、すぐ近くの宣教師宅を訪ねた。すると、宣教師夫妻は、暖かく応対してくれた。多忙に関わらず、貴重な時間を割いて、親切に教えてくれた。その交わりの中で、福音を聞き、主を信じるに至った。

主は行ないと真実を用いられる。ことばと口先だけでない対応には、必ず時間と労力という犠牲が必要だ。犠牲無くして、献げることはできない。祭司もレビ人も関わりたくなくて、倒れた旅人の反対側を通り過ぎた。今、誰かのために犠牲を払うよう御霊から示されているだろうか。行ないと真実を持って愛して行こう。
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関わられたくないのでは・・との思いが来て、勇気をもって声をかけられない人がいる。よく祈り主が示されたことを実行したい。御言葉の知識だけがあっても具体的に愛を現すことをしなければ力ないクリスチャンだ。


2013年08月19日(月)

「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく・・真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:22 

  
私たちが周囲に心遣いし、人々に仕える事は、主に喜ばれることだ。しかし、人々に仕える時、心の底はどうだろう。報いを求め、見返りを求めるだろうか。相手に親切な行ないをして、感謝が全く無かったなら、心の内はどうだろう。心騒ぐだろうか。「なんと非常識な」、「どういう人なのか」腹立ちか、こんなはずでは無い思いが出て来るだろうか。その時の動機は何だろう。

又、人に仕える時、仕事をする時、何かをする時に、「ねばならない」の義務感で、又、嫌々していると、必ず疲れて来る。心がしんどくてたまらなくなる。経験あるだろうか。油の切れた機械のように、疲れ果てて、続けて行くことが出来なくなる。その事は一体誰のためにしているのだろう。

ある人が、クリスチャンと一緒にバイトをした。すべて下働きで、重い荷を倉庫から運び、掃除をした。その人はそこまでしなくてもというほど丁寧に一生懸命に働く。それを見て、自分は一体何のために、誰のために働いているのかと心探られた。主のために働く時、どんなに小さな仕事にも、どんなに退屈な仕事にも、光が与えられる。

主のために、主に喜ばれるためにするなら、そこには喜びがある。自分の現状を、ありのままの姿を主に告げて、主に対して心からできるよう祈ろう。御霊が助けて下さり、御霊によってそのように出来る。
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人に仕える心遣いの動機がいつも人の気持ちが対象になってしまう。主に対してするように、を覚えるなら誰も通らない道の掃除ひとつにも、今日この道を主が通られるならと心がこもる。


2013年08月18日(日)

「あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しい からではなく・・また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤ コブになさった誓いを果たすためである」申命記9:5



主が、イスラエルを祝福されたのは、彼らが良いものであったから
ではなく、あくまでも、主が誓われた契約を果たされるためだとあ
る。このところは大切で重要だ。全能の主でさえ、契約に拘束され
ておられる。契約に反する事を断じてお出来にならない。

私達が罪赦され、神の子とされるのは、私たちが高価で尊いからで
はない。私達が良いからではない。私達の側にはよらない。これは
何という平安であり安堵だろう。もし、事が私たちによるなら、誰
一人、神に従って行ける者などいない。律法を行なえる者などいな
い。

即、皆、滅ぼされてしまう。そうではなく、神が御子を遣わされて、
御子を罪とされたゆえに、私たちを罪しないと定められた。これが
新しい契約であり、私達はこの契約の中にいる。私達がどうこうで
はいっさいなく、神がご自分の契約により、私達をご自分の子供と
されている。

何があっても、絶対に、神はご自分の契約をほごには出来ない。こ
こに私たちの全き平安の土台がある。あのずる賢くて、父も兄も欺
いて祝福を横取りしたヤコブは、兄の殺意のゆえに逃亡。野宿する
ヤコブに神は「あなたを守り、この地に連れ戻す。約束を成し遂げ
るまで決してあなたを捨てない」と。

その神の約束のその通りに、約束ゆえに、あの狡猾なヤコブが、大
きな祝福を受けて、故郷に戻された。神は、約束を決してほごにさ
れない。

・・・・・・・・・・・・
事が自分によるなら、うまく行っている間は良いが、つまずいた途
端に、拠って立つ所が無くなってしまう。自分による事でなく、神
によるとは、何と安堵なことだろう。神は約束を成し遂げて下さる。
信じていよう。


2013年08月17日(土)

「私はこのようなことをして、大きな罪を犯しました。今、あなた のしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことを しました」T歴代21:8             

         
ダビデは人口調査をして罪を犯した。「サタンが、ダビデを誘い込
んで、人口を数えさせた」とあり、サタンの誘惑だった。部下のヨ
アブが王に進言した。なぜ、そんな事をして罪過ある者となられる
のかと。しかし、王はヨアブを説き伏せ、人口調査を実施させた。

それは神の御心を損なった。この事のゆえに神はイスラエルを打た
れた。主のなされたわざを、自分の功績のように思った高ぶりの罪
であった。ダビデは大きな罪を認め、罪の赦しを求めた。そして3
日間の疫病という主の懲らしめを受け入れた。あわれみ深い主の手
に陥ることを選んだ。

私達はどうだろう。主の御手から逃げようとしないだろうか。主の
懲らしめを甘んじて受けるという態度でなく、誰かのせいにし、誰
かを責めて、言い訳し、自分を正当化するだろうか。又、主に向か
ずに、ひたすら自分を責めるだろうか。

サウルは自分のした事を後悔はするが、主のもとへ行かず、霊媒の
ところへ行き、最後は自殺してしまった。しかし、ダビデは、主の
もとへ行き、主の手に陥りたいと願い、主に委ねた。私たちもダビ
デに見習おう。

失敗した時、罪を犯した時、隠れたり逃げたりせず、どんな時も主
のもとへ行き、悔い改め、主に委ねよう。そしてまたそこから主に
従おう。主のあわれみは尽きず、深いのだから。

・・・・・・・・・・・・
ダビデには大きな失敗があったが、罪を認め、悔い改めた。主に完
全に赦されたからこそ、懲らしめを受け入れることができた。赦さ
れるとは、何と安堵と平安に満ちることだろう。赦されて赦されて
いつも平安の中を生きて行ける。何というあわれみだろう。


2013年08月16日(金)

「・・人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15:5 

       
私達は、誰しも充足感が欲しい。心満たされたいがために、何かをして、走り回っていないだろうか。「自分の力で」仕事や勉強に没頭し、趣味に走り、又は、奉仕に忙しくする事によって、心満たされようとしているなら、満たされないばかりか、ますます渇くことになる。私達は、何かを行なうことによって、心が満たされるようには造られていないからだ。

主以外のもので、心を満たそうとするなら、更に心が渇くことになる。そうでなく、「わたしにとどまり」とあるように、主にとどまる事によって、初めて心が満たされる。これは大切だ。世は、自分の能力をフルに発揮する事にやっきになる。それが心満たされる道だと考える。

しかし、私達は違う。自分で人生をやり繰りする事を、明け渡した時に初めて、神の下さる深い安堵を経験する。自分の力で何かをして、充足感を得るのではない。自分で出来るなら、神に頼る事はない。それが「わたしを離れては、何もすることができない」ということだ。

しかしそれは、能力が不要という意味ではなく、一旦主に明け渡す時、主はその能力をきよめて用いて下さる。モーセは使い慣れた杖を地に投げると、蛇に変わった。その尾をつかむと、再び杖に戻った。その杖は神の大きな力を示す道具と、用いられた。あなたの持てるものを一旦明け渡す事が必要だ。その時、それをきよめて、神のご用のために用いて下さる。多くの実を結んで行く。
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自分の経験や知恵を頼ると、すぐにサタンが御約束を奪い去ろうと焦りや不安を持って来る。私達は主を離れては何もすることがでない者だが、主にいったん明け渡したなら、豊かな実を結べる。


2013年08月15日(木)

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです」Tヨハネ2:16


「肉の欲」とは、自分の知恵と自分の力で、自分の思い通りに生きて行こうとすることだ。自分の必要を、神によってではなく、自分の力で、自分の手で満たそうとする誘惑だ。「神のみこころは?」「主はどう思っておられるのか?」という、主のお心を問い、求めて、主とひとつに生きるのではない。

神に関係なく、これがどうしても欲しい、絶対に手に入れたいという肉の欲望だ。主がどうあろうと、どうあっても欲しい。どうしても手に入れないと満足できない。荒野で、主は悪魔から誘惑を受けられた。40日の断食の後、非常な空腹の中で、自分で石をパンに変えて食べよというものだ。

御父に尋ねて、御父のお心はどうかでなく、御父から離れて、自分で行動して、自分でパンを得よとの誘惑だ。そうできる力があるのだから、そうすればよいと。主の御心はどうかでなく、自分の思いが第一だ。

又、悪魔は私達の足らない部分に目を向けさせる。祈っていないで、自分で不足を満たせばよいと。祈りは必要無い。神にしてもらわずとも、さっさと行動すれば、自分で満たせると。問題は、サタンの誘惑を受けていて気づかない事だ。

どうしても欲しい、強い欲望にはくれぐれも要注意だ。その願望を一旦、主に明け渡そう。そうするなら、安全に正しく御心の道へと導かれる。
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強い欲望には祈って対処できるはずと思っていても、日常の些細な目の欲、肉の欲、暮らし向きの自己満足には、わりと無抵抗でいる。目に見えるものに刺激を受け、主が見えない時はすぐに気づけるよう祈っていたい。


2013年08月14日(水)

「その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒た ち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた」使徒 8:1


時に、私たちの信仰人生に、思いもよらぬ事が起こる。一見、非常
事態であり、大きなマイナス要素だ。それは、突如の病気発覚や、
けが、リストラや倒産、経済的苦境、別離や対人関係の悩みかも知
れない。

当時のクリスチャンたちにも大きな試練が臨んだ。激しい迫害が起
こり、離散を余儀なくされた。ユダヤとサマリヤの諸地方に散って
行った。彼らは突如、大きな苦難に遭遇した。命に危険の及ぶ、辛
く、苦しい出来事だ。

しかし、この辛い出来事、迫害が、取りも直さず、神の新しい働き
のために、福音の拡大のために用いられた。エルサレム、ユダヤ、
サマリヤの全土、地の果てまで証人とされる、との御旨の通り、福
音がエルサレム以外の地で、宣べ伝えられ始めた。

教会の新しい働きは、突如始まった。迫害は、痛い、苦しい、不都
合な事だが、振り返る時、神の御旨の成就であったとわかる。同様
に、すべてを見通す神の目からは、御旨の成就である事が、私達に
とっては悩み、困難、問題の形で現れる。

激しい迫害が、実は地の果てまで証人とされて行く、御心の成就で
あったように、今、あなたにとって、「何でこんな事が?どうし
て?」と理解出来ないその事態が、実は神の目からは、正しく事が
進んでおり、素晴らしい結実が待っている。今は、理解できないが、
主が最善を備えておられる事を信じて歩もう。

・・・・・・・・・・・・
苦しい、悲しい、辛い、迫害という事態が、実は全世界に福音が伝
えられる御旨の成就であった。私たちも、目に見える所は、苦しく
辛い状況が、実は大きな祝福へと結実して行く。今は理解できなく
ても、主を信じ、待ち望もう。


2013年08月13日(火)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、 雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22 


信仰生活は、主に聞き従うことが大切だ。どんなに誠実で、献身的
で、一生懸命であっても、主の御声に聞き従わなければ、何にもな
らない。例えば、この世界でも、会社で上司から命じられた事を無
視して、自分のしたいようにしたらどうだろう。それで、自分は、
どんなに誠意を持って一生懸命やったと主張しても、無意味で、的
はずれだ。

サウルは、サムエルから「アマレクを打ち、そのすべてのものを聖
絶せよ。容赦してはならない」と、主の命令を受けたにかかわらず、
最も良いものを惜しみ、聖絶せず、つまらない値打ちのないものだ
けを聖絶した。

そして、サムエルに問いただされた時に、「民は、最も良いものを
惜しんだ。主にいけにえをささげるため」と言った。民がした事と、
民に責任転嫁し、更に「主にいけにえをささげるため」だと取って
つけて言い訳した。

「主の言葉を退けたので、主もあなたを王位から退けた」と。聞き
従わない事は、小さな事ではなかった。主の御声や御霊の促しを聞
き流していないだろうか。主に聞き従わず、自分の思い通りにやる
事は、自分を神の上に置くことになる。神より自分の方が偉いとい
う事になる。

ペテロは、「深みに漕ぎ出て網を下ろせ」と言われた時、自分の思
いと正反対だった。しかし、主の言葉通りに網を下ろした時に、大
漁を見た。破格の祝福にあずかった。今、示しがあるなら従おう。

・・・・・・・・・・・・・
御霊の示しや、促しがある時には、必ずサタンの妨害があり、肉の
思いが出て来る。自分の考えや経験、常識の方がもっともらしく思
える。従わなくてもよいように思える。妨げが来る事によく心して、
祈って、目の前の御霊に示しに、御言葉に従おう。


2013年08月12日(月)

「しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜 をそのまま野に残した」出エジプト9:21



「真に聞く」ということは、「従う」という事とセットだ。本当の意味で聞くなら、必ず従うという行動が伴う。単に物理的に耳に聞こえている事と、心の耳でしっかり聞いて行動を伴う事は、全く別のことだ。例えば、緊急地震速報が出たらどうだろう。今から数分内に大地震が起こるので、身の安全を確保するようにと言われたら、真剣に聞くのではないか。そして直ちにそのように行動するのではないだろうか。それが真に聞くという意味だ。

主の御言葉を聞く時に、真に聞くなら、必ず行動が生じる。従うことが無ければ、真の意味では聞いていない。物理的に耳で聞いているだけだ。だから行動を起こす事はない。モーセは主から示され、エジプトに激しい雹が降るから、すべての家畜を避難させるよう告げた。でなければ野にいる人も家畜もみな死んでしまうと。その時に、主の言葉を恐れた家臣たちは、しもべと家畜たちを避難させた。

しかし主の言葉を恐れない家臣たち、心に留めなかった者たちはしもべや家畜をそのまま野に残した。そして言葉の通り、極めて激しい雹が降り、野にいるすべてのものを打った。明暗がはっきり分かれた。真に聞いた者は行動を起こし、物理的にだけ聞いた者は行動を起こさなかった。生死を分けた。日々、御言葉を真に聞いているだろうか。物理的にだけ聞き、何の影響も受けないだろうか。
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御言葉も信仰を持って聞かなければ、ただの流れて行く世の言葉と同じように扱っている。すなおに従いますの態度で、畏れをもって主の御言葉を聞こう。必ず豊かな実を結ぶ。


2013年08月11日(日)

「・・それぞれ自分自身の働きに従って、自分自身の報酬を受ける のです」Tコリント3:8



ここでパウロは、「それぞれ自分自身の働きに従って、自分自身の
報酬を受ける」と言っている。御言葉によると、自分のなした行為
に対してだけ、神に責任を負うことになる。ある婦人の夫は、ギャ
ンブルに飲み込まれていた。生活費をギャンブルに注ぎ込むので、
現実問題、生活が困るので、夫婦喧嘩が絶えなかった。

何とかギャンブルを止めさせようと、必死であり、そうなればなる
ほど、口論になり、逆に夫は更にギャンブルにのめり込む結果とな
った。彼女は苦しんだ挙げ句、教会へ行き、悩みを聞いてもらい、
聖書の学びを始めた。その学びを通して、教えられた。

今まで、何とか夫のギャンブルを止めさせようと、夫を変えようと、
不毛の戦いをして来たが、それは方向性が違うこと。自分自身が、
この問題に対して、どう応答して行くのか、祈り、御言葉に聞いて
行くこと、そして自分が主の示しに従って行くこと、神と自分の問
題であることを知った。

御言葉から、自分がいかに夫を見下し、軽蔑し、裁いていたかを示
された。夫のプライドを傷つけていて、ますますギャンブルに追い
やっていた事がわかった。心底自分の罪を悔い改め、夫にも自分の
高慢を詫びた。自分の心から裁きが消えて、平安が満ちた。

夫の長所がどんどん見えて、こんなに良い人だったことに驚かされ
た。自分が変えられ、夫も変わった。自分自身の事として、神に向
き合い、事態に向き合った時に、解決が来た。

・・・・・・・・・・・・・
対人関係において、人がどうあろうと、目の前の問題は、神と自分
の間のことであり、「自分の問題」と受け止めた時に、解決が来る。
相手ばかりを見ているので、いつまでたっても何も変わらない。目
を転じて行こう。


2013年08月10日(土)

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要 なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与 えなさい」エペソ4:29 



職場、学校、近隣・・どこでも人の集まる所、悪口と噂話で満ちてい
る。罪の性質は、悪口、噂話が好きで心地良い。「陰口をたたく者
のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下って行く」と御言
葉にもある通りだ。肉には美味しい食べ物のようだと。そうでなけ
れば、これほど悪口が、まんえんする事はない。

そして「心に満ちていることを口が話す」とあり、口が話す前に、
心に罪の思いがある。「妬みや敵対心のあるところには、秩序の乱
れや邪悪な行ないがあり」、悪口が出る心に、隠れた妬みや憎しみ
が存在する。主に思いを打ち明け、御霊に探ってもらい、悔い改め
よう。相手への妬みや憎しみが、相手への祝福の思いに変えられる
なら、どんなに平安なことだろう。

又、悪い言葉、不信仰な言葉は伝染する。カナンに斥候が遣わされ
た時、カレブとヨシュア以外の10人は、肉の目に見える現実のみを
信ずるところとして告白した。攻め上れない、民は自分たちより強
い、自分たちがいなごのようだと。
その不信仰な言葉は民に伝染し、大きな影響を与え、全会衆が恐れ、
不信仰に陥った。泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した。

しかし、目に見えないもう一つの現実がある。主に視点を置いて、
御言葉に立ち、他者を生かし、建て上げる、信仰の言葉が語れたな
ら、どんなによいだろう。心に満ちていることを口が話す。主との
交わりにより、自分自身がまず満たされよう。

・・・・・・・・・・・・・
言葉が出る前に、心が大切だ。心が御霊に導かれる時に、主にかな
った言葉が出て来る。心の目が、どこを見ているだろう。不満や愚
痴なら、その言葉が出て来る。信仰の言葉が口から出るよう、主を
見上げていよう。


2013年08月09日(金)

「すべての事について感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18


風邪をひいて、高熱で寝込む時、歯痛や、胃痛に襲われる時、又、けがをした時、普段の健康の有難みがよくわかる。しみじみと有難いと思う。ある人も、子供に病が発覚し、長期入院を余儀なくされた。その時に初めて、家族が一緒に暮らせることの幸せ、健康の恵みを思い知らされた。しかし、普段にどれほどの感謝があっただろうかと、考えさせられた。恵みを恵みとして受け取れずに、当たり前でしかない。愚痴や不満ばかりで、何と感謝のない生活であったろうと。

様々な災害が起こる度に、神がどうしてこんな事を、神などあるものか、神はひどいと憤まんやるかたない。しかし、災害が無い平常に、その恵みを神に感謝したことがあるのだろうか。「すべての事について感謝しなさい」「感謝のいけにえを神にささげよ」「あふれるばかり感謝しなさい」。感謝をささげて行こうとする時、視点が神に向く。状況と自分だけを見ている目が、神に移される。

下を向いていた目が、上を向く。主に視点が移った途端に、見方が変わる。主の目を通して、御言葉を通して現状を見る。主は愛していて下さる。主は益として下さる。主にはご計画がある。意図と目的がある。無駄な事は一つもされない。信仰的見方に変わる。そして、感謝して行く時、サタンの足場を崩してしまう。ネガティブ思考の攻撃をシャットアウトしてしまう。
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暑い暑いと不平が口をつく毎日で、感謝を忘れていることに気づく。秋には秋でもの悲しいとため息だ。感謝して行く時、本当にネガティブな心が前向きに変わることを経験する。すべてのこと、と意識し感謝をしながらまず今日一日を歩んでみたい。


2013年08月08日(木)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩篇55:22


ダビデは、敵からの激しい攻撃、迫害があり、極度の苦しみの中にあった。「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいている」「死の恐怖が襲っている」「恐れとおののきが臨み、戦慄に包まれている」と告白し、窮地にいた。そして、更に辛い事態が臨んでいた。同輩、親友がダビデを裏切って、去ったのだ。どんなに沈痛の極みだったろう。死と隣り合わせの恐怖の上に、背信、孤独に襲われた。

しかし、すべての事態は「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」の通り、主の御手の内にあり、主の目的と意図がある。この辛い試練を通り、ダビデは「あなたの重荷を主にゆだねよ」に行き着いた。「主が、心配して下さるから」と。私たちはどうだろう。一つの深刻な思い煩いが来ても、心は沈んで苦しくなり、真っ暗になってしまう。更に最悪のシナリオを描いて、冷静さも失ってしまい、四六時中、その悩みに捕らえられてしまう。

誰しも経験があるだろう。その解決法は「重荷を主にゆだねよ」ということになる。今、深刻な悩みを抱えているなら、主に委ねられないから、悩まされている事になる。「委ねることができない」が問題点なら、そのまま祈ろう。主が委ねられるように助けて下さる。結局、ダビデは大変な苦しみを通ったが、「主に委ねる」ということを学ばせられるためであった。あなたの今の苦しみも、そのためだろうか。
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簡単に委ねられることもあれば、委ねたと思う先から、また思い煩いが来るという心配事もある。「委ねられません」だ。主に祈りながら、主が用意して下さっている展開を期待して待てるよう、一時も早くあらゆる心配事を主にお渡し出来るようになりたい。


2013年08月07日(水)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」詩篇51:17



人は思うようにならないと、環境のせいにし、人のせいにしてしまう。自分を見なくて済むからだ。親が悪い、社会が悪い、職場が悪い、学校が悪い。しかし、問題の無い環境などあり得ない。完全な社会は無いし、完全な親などいない。どこにいても、必ず何かしらの問題がある。環境を責めていれば、自分に向かなくて済む。自分を掘り下げて行くのは、痛みを伴う。親を責めていれば、楽だ。

しかし、どう逃げ回っても、つけは必ず回ってくる。現実にしっかり向き合い、自分に向き合う事だ。確かに環境は悪いし、親も間違うが、では、自分に問題は全く無いのか。神が見ておられるように、見せて下さいと祈ろう。今まで決して気づかなかった、自分のプライド、虚栄心、妬み、隠れた高慢、自我に気づくかも知れない。

又、自分には、人に知られたくない弱さがある。決して認めたくないが、それらを、主の御前で認めて行くことが解決の道だ。認めて初めて、主のみわざが始まり、自分自身が変えられて行く。成長させられて行く。相手のせい、環境のせいにしている限り、自分の本当の姿が全く見えない。それならいつまでも、何かあると人のせいにし、責任転嫁して行く一生だ。思い通りにならなければ、店の前でひっくり返って大泣きする幼児のようなクリスチャンのままだ。御霊は心の内を照らし出し、成長へと導いて下さる。
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なぜ平安になれなのだろう、なぜいつも裁いてしまうのだろう、受け入れられないのだろうと、変わりたいですの思いで、神様に取り扱われているところを尋ねていこう。次の祈りの課題を示して下さる。


2013年08月06日(火)

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」ヨブ1:21


ある男性が、目の病気にかかり、手術をした。かすかに視力を取りとめることができた。しかし、仕事はもう無理で辞し、勿論、運転も出来なくなった。第一線でバリバリと、先頭に立って成績を上げていた有能な社員だった。幾らでも悲観的になり、落ち込むことができた。しかし驚くべき事に、彼はそうしなかった。ネガティブな思いを拒否し、信仰により、祈りによって、自分に与えられた状況を受け止めた。祈りに祈り、平安が与えられていた。

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」。今まで与えられていたものも、主からであり、それを取られるのも、主によるのであり、どうであれ自分はこれからもずっと、主を礼拝して生きて行く人生でありたいと。心は安らかであった。この事態により、更に主との深い関係に入れられる、恵みとして受け止めた。「なぜ、どうして」と、神を恨み、心を屈折させることもできたが、そうしなかった。彼の選択であった。周囲に素晴らしい神の栄光を現して行った。

ある高齢になった男性も、身体の機能が徐々に衰えて行き、もはや人の手を借りなければ、礼拝出席も難しくなった。それを主からの事と受け止めた。若い時の自分であれば、人の助けを受ける事は苦痛以外の何でも無かったが、生活のサポートの手を、これも主からのものと、感謝して受けた。「有難う」と受け取ることを学ばせられた。そして、心に何にも替えられない平安が満ちていた。
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主は豊かに与えまた、主の時に取り去られる。与えられた幸いなものを主にお返しする日が来たとしても主のなさること。悲しみはあっても抗わず受け入れたい。


2013年08月05日(月)

「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか」Tサムエル15:19



サウル王は、アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよと、主から命令を受けた。しかし、命令に従わずに、最も良いものを惜しみ、聖絶するのを好まず、つまらない、値打ちの無い物だけを聖絶した。それがサムエルに発覚し、サムエルに追求されると、サウルは、民がした事と、民に責任転嫁をして行く。又、良いものを取っておいたのは、主にいけにを献げるためだと、言い訳し、自分を正当化した。エデンの園のアダムとエバそのままだ。

これらの誘惑はいつも私たちにも来る。自分のせいではない、状況が悪かった、相手が悪い、相手のせい、自分は疲れていた、自分は悪くない・・。しかし、自分のした事を認めずに、逃げたり、ごまかして行くなら、そこに欺きが入り、主との「真実な」関係が持てなくなる。これが致命傷だ。都合の悪い事は、すべて環境や相手のせいにし、自己正当化する。常に自分は正しい。自分は間違っていない。プライドが罪を認めない。

「もし罪はないと言うなら、自分を欺いており、真理は私たちの内にない」。御霊が私たちの罪を示す時に、もし自分が正しいと言い張るなら、神が間違っていることになる。「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです」。その時、「神のみことばは私たちのうちにありません」。一番恐ろしいぎまんの状態に陥ってしまう。間違いは率直に認めよう。主の血潮がある。絶えず血潮により、赦され、きよめられる。そして成長して行ける。
--------------
頭でわかっていても、実際には言い訳やごまかしを自分に許してしまってはいないだろうか。自分と主との関係は真実なものだろうか。御霊の促しにいつも敏感に呼応したい。真実な態度で主の前にいよう。


2013年08月04日(日)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心の ゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテ ロ2:19



相手から攻撃を受けた時、又、不当な扱いを受けた時、自分を守り、
反撃するのは、この世では普通の事だ。しかし、侮辱を受けても、
穏やかに対応するなら、ののしられても、ののしり返さないなら、
それは主の対応だ。

私達は相手に、そのまま反応するのではない。それなら温度計だ。
相手がヒートアップし、激するなら、こちらも感情的に激し、相手
が冷ややな対応なら、こちらも冷ややかであり、相手が暖かければ、
こちらも暖かく対応する。

相手の温度を、こちらもそのまま正確に表わす。これなら相手にコ
ントロールされている事になり、相手にコントロールされた、相手
次第の人生になる。そして、冷ややかな、又、腹を立てる相手が悪
いことになる。相手が冷ややかなでなければ、自分はそういう反応
はしないと、相手のせいになる。そして自分の悪い態度は認めず、
自分を正当化して行く。

そこに自分が変えられる事も、成長も無い。そうではなく、私たち
は、相手に反応するのではなく、神のみこころを行なうのだ。相手
が親切であれ、冷淡であれ、こちらは親切を表わし続ける。自分の
力ではできない。そんな事は不可能だ。できない事を主の御前に認
めて、主の助けを求める時、主ができるようにして下さる。そこに
超自然の働きがある。

・・・・・・・・・・・・
自分には出来ない。絶えず反応するばかりだ。しかし「人にはでき
ないことが、神にはできる」。自分に出来ないことを認めて、明け
渡して行こう。御霊が導いて下さり、御心を行なえるよう助けて下
さる。


2013年08月03日(土)

「人の怒りは、神の義を実現するものではありません」ヤコブ1: 20                            


怒りがすべて罪なのではない。正しい怒りがある。主はパリサイ人
の偽善に怒り、又、神殿で商売がなされている事にひどく怒られた。
悪や罪を憎まずして、主を愛する事は出来ない。神を愛するとは罪
を憎む事だ。怒りに二種類あり、正しい怒りと自我から出る怒りが
ある。

では、肉の怒りはどのように対処すればよいのか。まず、自分の怒
りをきちんと認める事だ。腹を立てているのに、怒っていない振り
をしてはいけない。怒っているのに、怒りは良くない事と、抑え込
む。しかし、封じ込められた怒りは、無くなるのでなく、心の底に
存在する。溜め込んで行く。

自分はクリスチャンだからと、自分の怒りを認めない事がある。そ
うではなく、怒っている事実をまず認める事だ。次にその怒りの原
因をよく考えてみる。なぜ怒っているのか。自分の何に触れるのか。
プライドか、虚栄心か、自分の名誉、メンツが損なわれるのか。

次に、その怒りはそのまま表現してはならない。感情的なままで人
に対応すると、相手を傷つけ、自分も傷つき、必ず後悔する。怒り
に任せてしまい失敗した経験が何度もあるだろう。

自分の怒りを抑え込む事も、爆発させる事もよくない。まず人では
なく神の御前に行き、怒りを神に告げよう。ことごとく心の内を告
げて、そして、十字架のもとへ行き、豊かな赦しを受け取ろう。

・・・・・・・・・・・
何で怒っているのか冷静に考えてみよう。義憤か、単に自分に都合
の良い正義か。又、自我に触れるなら、どの部分なのか。主とよく
交わり、必要なら悔い改め、そして主にお委ねしよう。又、この事
で、主に近づけていることを感謝しよう。平安へと導いて下さる。


2013年08月02日(金)

「こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」ヘブル10:19


私たちはどうだろう。主に喜ばれる事を行なおうと決心するが、何度挫折した事だろう。日毎に、聖書を読むことが良いとはわかっているが、なかなか読めない。祈りが大切だと知っているが、何度も失敗する。朝、バタバタして、時間に追われ、つい御言葉と祈りをパスしてしまう。祈りが大切だと知らなくて、祈らないのではない。御言葉に従って生きる事の大切さを知っている。わかっているが、出来ない。

しかし、そこで落ち込んで、自分を責め、落胆するのでなく、だからこそ主がおられることを覚えよう。もし自分の力で、日々デボーションができて、良い行ないができるなら、主は必要無いことになる。あなたも「〜ねばならない」で心が縛られているだろうか。主を信じて、休息するのでなく、返って重荷にあえいでいるだろうか。ありのまま来なさいと言われているのに、良い行ないで御前に出ようとするだろうか。

祈り聖書を読み、御心に従っている事によって、大手を振って御前に出るだろうか。そうなら罪を犯すと、途端に出られなくなる。こういう状態だろうか。これなら、主によってではなく、自分の功績によって御前に出ている事になる。そうでなく、自分の状態に関係無く、イエスの血によって大胆に恐れなく、御前に出る事ができる。今日も、今も、自分のわざによってでなく、主イエスの血のゆえに、今のままで御前に受け入れられている。血によって御前に行ける。
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主の十字架の血潮が、良心の呵責から解放してくれる。ああすれば良かった、こうしなければ、の思いもそのまま持って24時間いつも主の前にいられる。


2013年08月01日(木)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


ある女性が、職場で大役に抜擢された。部下も持ち、仕事の能力と共に、的確な判断力も必要とされる立場であり、自分にはとても無理と尻込みし、辞退したかった。しかし、とにかく祈ろうと、主の御心を求めて祈った。主の御前で、聖書を広げ、心を静め、この事について自分の思いをことごとく打ち明けた。

仕事内容が高度であることの不安、管理職であり、人を使って行くことの不安、やって行けるのだろうか、心の内を告げて、十分に祈った。そして御言葉を求めて、御心を尋ねて行くと、「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」との言葉が臨んだ。その時、あれほど不安と恐れが失せて、すうっーと心が平安になった。信仰が与えられ、受諾出来た。

又、ある人も、新しい職場への不安と恐れに飲み込まれそうだった。主の御前に切に祈った。その時に「インマヌエル・神は私たちとともにおられる」の御言葉が力強く臨んだ。「主がともにおられる」その御言葉がいのちとなり、心の大きな不安、ざわつき、揺れがピタリ!と止んで、なぎになり、心がすっぽり平安におおわれた。主が、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた時に、風はやみ、大なぎになった通りに。御言葉には神の霊といのちが宿っている。
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不安や思い煩いを一新できるのは、いのちの御言葉だけだ。主から与えられた御ことばがあるから、状況に流されそうな時も主にある自分のペースに守られる。御言葉を蓄えたい。