2013年09月29日(日)

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての 良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばか り与えることのできる方です」Uコリント9:8 



ある牧師が、特別な出費がかさみ、経済的に極めて苦しい月があっ
た。祈っていると全く想定外の収入があり、祈りの答え、主の導き
と心から感謝した。すると、自分のひょんなミスから弁償する事に
なったり、思いがけない修理の必要が出て、その収入のほとんどが、
またたく間に消えてしまった。

祈りの答えと喜んだのに、違ったのだろうか?これはどういう事な
のか?主の御前に静まり、御心を求めて、祈りの時を持った。心に
ある思い、疑問も、何もかもを、主に告げて祈っていた。その時に、
「与えなさい」との御言葉が臨んだ。

「でも、自分が困っているのに?」しかし、「献げなさい」との、
はっきりとした主の示しだった。決心して、貧しい中から、信仰に
よって主に献げものをした。すると、不思議が起きた。指定献金が
献げられて、又、想定外の収入があり、必要がすべて溢れるばかり
に満たされた。

イサクも飢饉の時に種を蒔いた。信仰による種蒔きだった。すると
百倍の収穫を得た。飢饉の時など、土地は荒れて、収穫など絶対に
望めない。まず種が無駄になり、種すらすべて失ってしまう。状況
を見るなら、恐れてとても献げられない。しかし、信仰によって献
げる時に、百倍の収穫を得る。

御霊に導かれる時に、恐れて蒔かなければ、収穫も、神を知る喜び
も無い。私たちは何のために生きているのだろう。貯えるためか、
それとも主の御声に従い、愛であり、全能であり、真実である主を
親しく知って行くためだろうか。そして神の栄光のためだろうか。
御声があれば、御霊の導きに従おう。大きな祝福にあずかれる。

・・・・・・・・・・・・・
御霊の導きに従って、献げて行く時、「常に」「すべての事に」
満ち足りて、「良いわざにあふれる」者として下さる。祝福の上に
更に祝福を経験する。従ってみなければわからない。御霊の示しに
従おう。心が喜びに満ちる。


2013年09月28日(土)

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6 :7


「蒔いたものは刈り取る」これは変わる事のない法則だ。法則だか
ら、例外が無い。必ずそのようになる。神は決して侮られる方では
なく、自分の歩みと生き方には、必ず責任が問われるという事にな
る。自分の蒔いたものは、すぐにではなくても、時期が来れば必ず
刈り取る。

二種類の種蒔きがある。肉のための種蒔きと御霊のための種蒔きだ。
肉のためとは、肉の欲望を満たすためであり、又、表向きは善い行
ないであっても、それが自己満足や自己顕示欲や、自分を喜ばせる、
自分に栄光を帰する動機から出ているなら、肉の種蒔きだ。苦しみ
や悲しみ、痛みを刈り取る事になってしまう。

御霊のためとは、自分を主に渡して、御霊の導きに従い、神の愛に
応えるための種蒔きだ。具体的には、御霊の導きにより、自分の労
力や時間やお金を使う事だ。これは自我があるのでなかなか難しい。
欲があるし、自分を愛しているので、葛藤が生じる。だが、すぐに
諦めたり、止めないで、まず「自分には出来ません」と主に祈ろう。

自分の姿を認める時、そこに御霊が働かれ、不思議なみわざをされ
る。「したく無い者です。助けて下さい」と祈っていると、御心を
行なえるように変えて下さる。まさに自分の力でなく御霊の働きだ。
気づくと、従いたいと思うように、心が変えられている。

・・・・・・・・・・・
肉の欲があって、自分の力では、御霊に蒔く事はできない。「自分
には出来ません」と、ありのまま祈って行こう。その時、御霊が働
いて、御心を行えるようにされる。喜びと平安を刈り取り、更に主
を喜びもって知って行ける。


2013年09月27日(金)

「『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい』」ヨハネ21:22 


おおかたの人が、心密かに、自分に無いものを求めていると言われる。「自分も○○のようであればよいのに」、違う境遇や、違う成育歴、違う才能や性格を求めていると。普段、意識しないので、無意識になされているかも知れない。しかし、それなら今の自分を否定することになってしまう。バラが百合になりたい、足の裏が目や口になりたい・・と。それらに優劣は全く無い。

一流レストランは高級料理の、下町食堂はおふくろの味の、それぞれでなければならない良さと特質がある。比較ができない、比較にならない。いつも学んでいて、頭ではその通りだとよくわかるのだが、心の底はどうだろう。人と比較し、人を羨んでいるなら、まず比較している事を認めよう。無い振りをせず、あいまいにせず、自分の羨望や妬みを認めよう。そこから新しい歩みが始まる。

自分が誰それのようになろうとするのでなく、人を真似るのでなく、主が、独自なものとして創造して下さった自分を生かして行くことを、祈り求めよう。代わりが無い。神が創造されたという事は、二つとして代わりがないという事だ。

人を羨み、人のようになるという意味では、自分を変える必要はない。与えられた賜物が更に磨かれ、品格が更に主に近づけられて行くという意味では、変えられて行かなければならない。視点が違うなら、御霊に軌道修正して頂こう。真に喜びをもって生き生きと、主が与えて下さった自分を生きて行ける。
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人と自分とは全く違うと知って来れたことが神様を知った大きな喜びの一つだ。「あの人」のようでなく、それぞれが神様に示された道を伸び伸びと歩んで行けば良い。何と平安で幸いな人生だろう。


2013年09月26日(木)

「まず、わたしのためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい・・主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」T列王17:13


ケリテ川で養われたエリヤだが、川が枯れた時、次にツァレファテへ行くように命じられた。そこで、やもめ女に命じて養うと。主の言葉に従い、その町へ行くと、まさにやもめ女に出会った。それで、水とパンを求めたが、彼女は何とも悲惨な状況にあった。大金持ちではなく、極貧の中にいて、かめに残った最後の一握りの粉でパンを作り、母子で、最後の食事をして死のうとしていた。

何という事だろう。エリヤはどう思っただろう。目の前の人物は、人を養う事など、とても不可能な状態だ。しかし、主の示しにより、助けを求めなければならない。人間的に考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、とても言えたものではない。しかし、エリヤは目に見えるところでなく、感情でなく、自分の思いでもなく、主に従い、御声に従った。信仰に立った。

まず私に小さなパンを作り、その後に、あなた方のために作るように。そうするなら、飢饉が終わるまで、粉は尽きず油は無くならないと。人の思いや情は、神のみわざを妨げる。神の思いと人の思いは大きく異なるからだ。エリヤは御言葉に立った。そして、彼女はその言葉に従った。

すると、やもめ女と子供は飢饉の間中、豊かに養われる事になった。神を第一にする時、奇跡のわざを見る。自分の思いや感情、見えるところが反対方向を向いていても、神の言葉を選択し、従おう。その時、神が責任を取って下さる。
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主の示しを確信し、その後の祝福を一心に見つめていなければ、主に従い通すことは出来ない。状況と御心が大きく違うことはいつもだ。祈りによって主の確信をいただき、従おう。


2013年09月25日(水)

「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます」ヤコブ1:23


聖書が与えられている目的は「十分に整えられた者となるため」、人格が造り上げられ、整えられるためだ。単に知識のためでなく、人格形成のためだ。それには、行動が変えられる必要がある。まず「心に植えつけられたみことばを、素直に受け入れ」、主は御言葉を植えて下さるので、私達は「素直に」受け入れる事が必要だ。

御言葉を聞くと、同時に様々な思いがよぎる。「そんな事無理だ、自分にはできない」「本当に信じるだけで大丈夫なのか」と、肉の思いが出て来て、素直に受け取らない。疑いや恐れの方を選んでしまう。そして、御言葉は聞くだけでなく、「実行すること」が重要だ。実行しない限り、自分が変わることは無い。

どうすれば実行できるのか。それは御言葉を「一心に見つめて離れない」とあるように、御言葉を一心に思うなら忘れない。思考は行動へと進む。自分が変わらないのは、聞いても「実行」が欠けているとある。実行しないなら、聞いた事もすぐに忘れる。そして何も無かったことになってしまう。

せっかく御言葉の鏡に映し出された、生まれつきの自分の姿も、無かったことになる。それは自分を欺く事だ。今、あなたに示されている事を「実行」しよう。具体的に従おう。事を実行する人は、その行ないによって祝福される。自分が変えられて、成長して行ける。
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鏡に映し出された顔が汚れていたなら、拭わずにはおられないのに御言葉を読みながら映し出された本心は、すぐに忘れてしまいたくなる。主の前に認め、変えられ整えられたいと祈りたい。


2013年09月24日(火)


「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:3

ある男性が第一線でバリバリ仕事をしていた。営業成績も常にトップを走っていた。ところが、体調を崩し、仕事にも行き詰まり、退かねばならなくなった。その時に、ひどく落ち込んだ。成績を出していた時は、自分が価値のある者と思えていたが、何も出来なくなった今、自分の価値を認められなくなったのだ。

自分が無価値に思える。苦痛であり、受け入れ難い事であった。
様々な言い訳で、自分を繕おうとするが、無駄だった。仕事上の失敗を認める事ができず、人のせいにしようとしている自分、人を赦せない自分に苦しんだ。主の御前に出て、醜い自分、弱い自分、心の内の何もかもを打ち明け、心注ぎ出し祈った。祈っていた時に、十字架が迫った。

「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」主の祈りが、まさに自分のためである事がわかった。自分のための十字架であり、主の赦しの愛を全身に受け取った。そして、主は完全に赦して下さっているのに、自分が自分を赦していない事を示された。

主に自分を明け渡した時に、自分を赦し、人も赦す事ができた。
何かをしたからでなく、何が出来なくとも、このままの存在を受け入れて、愛して下さっている主の愛に癒された。自分を裁く事を止めた時、人を裁かなくなった。
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自分を計るはかりが、人の目であったり自分自身であった所から、神様の目にはどうであるかに自分の価値を置く人生に変えられるなら挫折も祝福だ。神様は変わらず愛をもって追いかけて下さる。


2013年09月23日(月)

「待ち望め。主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め。主を」詩篇27:14


        

主を待ち、主の時を待つことは大切だ。しかし、待つ事ほど難しい事はない。私達はどうしても動いてしまう。待つより、動く方が簡単なのだ。自分で目の前の問題をどうにかしようとする。アブラハムは待てないで、大失敗をした。神から約束を受けながら、時を待てずに、奴隷ハガルによりイシマエルをもうけた。その蒔いた種で、今、現在まで悲惨な争いが続いている。

自分で動くなら、イシマエルを生み出し、苦しい刈り取りをする事になる。サウルも、サムエルが来る「神の時」を待てないで、全焼のいけにえを自分で献げてしまった。これは小さな事ではなかった。このためサウルは王位を失った。主を待つ必要があるのは、主が動かれる「時」があるからだ。「今こそ、主が事をなさる時です」、主の時があり、主がその事態に介入される「時」がある。

早くも遅くもなく、その時には、主ご自身が動かれ、みわざをされる。自分で動かず、その時を待つことが大切だ。全く動かなかった事態が、時が来れば、大きく動いて行く。今、悩み、苦しみの中にいるだろうか。自分で立って動き回るのではなく、静まって主を待とう。自分の思いを置いて、主が動き、介入される時まで待とう。必ず主の時がある。あなたの今、なすべき事は、主を信頼し、「待つ」ことではないだろうか。
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自分の手ですぐに出来ることを、主に委ね待つのには忍耐だ。動くためでなく、いっさいを主に信頼し、動かずじっと主の時を待ち望むために御言葉は「雄々しく、心を強くせよ」と励まして下さる。


2013年09月22日(日)

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、ま ずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物 をささげなさい」マタイ5:24

          
     
ある人が、対人関係において失敗をした。相手をひどく傷つけてし
まったのだ。自らの自我ゆえの事だった。自己正当化したいがため
に、相手を攻撃した。御霊に示され、悪気が無いのではなく、故意
である事が否めなかった。周辺の人々にも嫌な思いをさせ、すべて
自らが引き起こした事だった。

御霊は語りかけられ、その罪の恐ろしさを示され、自らの罪を認め
て、謝罪するよう促された。自分の愚かさ、失態を認め、謝る事は
プライドが傷つく事だ。恥ずかしい、どうしても出来ない、したく
ない事だった。自我は謝りたくないが、御霊は迫られた。

逃れる事ができず、悔い改め、傷つけた相手、嫌な思いをさせた一
人一人に謝る決心をした。赦してもらえなくても、仕方の無い事だ
った。思いきって謝罪した時、当の相手は気持ち良く赦してくれた。
他の人々も同様だった。

赦される喜びと平安に心が満ち満ちた。天にも上るような喜びであ
った。もし、赦しを拒否されたら、その人々の交わりから出なくて
はならなかった。傷つけた自分自身も傷を持ったままだったろう。

主は謝罪を大いに祝福され、その当人とは不思議にも親友になって
しまった。素晴らしく益とされた。あなたも、謝るべき相手が思い
浮かぶだろうか。御霊が示しておられたら、実行しよう。素晴らし
い祝福を経験する。

・・・・・・・・・・・・
真の礼拝を献げて行くとは、自分の非を認め、悔い改め、仲直りす
ることだと教えられる。自分は正しいと思っている限り、怒りは消
えず、心は苦しく、何も見えないことになる。御霊に示されたなら、
悔い改めよう。


2013年09月21日(土)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったまま でいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペ ソ4:26


日常生活で怒ったり、イライラしたりする。私達はどんな時に怒る
だろう。自分のパタンがあるはずだ。自分の内にあるものに触れて
来る時だ。プライドが傷つけられた時、余計なお節介される時、自
分の考えを否定される時、したい事を妨害された時、色々あるだろ
う。

なぜ怒るのだろう。それは自分の大切にしているもの、宝としてい
るものに触れられた時だ。偶像となっているものに触れられる時に、
反応しているだろうか。どんな時に怒るかで、自分の大切なものが、
偶像が何かがわかる。生活を振り返ってみよう。「怒っても罪を犯
すな」と言われている。

これは、怒りも認めている事だ。自分の利害のためでない、正しい
怒りもある。主も宮きよめの箇所で怒られた。正義のための怒りも
ある。自分の怒りはどんなものか、考えてみよう。なぜ、あの時、
怒ったのか。その底にあるものは?自分の何にひっかかったのか。

考える中で、自分の姿が見えて来る。自分の問題点や弱い所が見え
て来る。それを認めよう。憤りをそのままにするなら、サタンがそ
こを足場にどんどんつけ込んで来る。怒りから憎しみへと増幅させ
る。疑心暗鬼となり、対人関係も悪化させてしまう。すぐに解決し
た方が良い。
怒っていない振りをせず、自分の怒りを認め、主の御前に祈ること
だ。主のもとへ持って行こう。あるがままの気持ちを主に告げよう。

・・・・・・・・・・・・・
「人のした悪を思わず」とあるが、繰り返し〃しっかり思ってしま
い、サタンに足場を与えてしまう。怒りは憎しみに増幅して行く。
まずそのまま、その怒りも、思いも、ことごとく主のもとに持って
行こう。主に告げよう。主が働いて、心を助け、導いて下さる。


2013年09月20日(金)

「その人は・・と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、 その所の名をペヌエルと呼んだ」創世記32:29 



ヤコブは名のごとく「押しのける者」だった。神に従うのではなく、
神も人も押しのけて、狡猾な知恵と力で生きて来た。そのため父と
兄を欺いた。ずっと罪のとがめがあったろう。その罪から目をそら
せ、逃げて来たヤコブであったが、いつかは向き合わねばならない。

私たちも、考えたくなくて、先送りして来た問題があるだろうか。
どれだけ先延ばしにしても、必ずいつか正面から向き合わざるを得
なくなる。ヤコブも、とうとうエサウとの対面の時が来た。知恵を
絞り、思いつく限りの方策を取るが、恐怖と不安は消えない。

そこでヤコブは祈った。苦しい時の神頼みだ。そして、なだめの贈
り物を用意し、兄の機嫌を取ろうとした。しかし尚も恐怖は無くな
らない。どうやっても、ますます恐れは増すばかり。その時、神が
ヤコブをつかまえられ、ヤコブは神と格闘した。これも、ともかく
も祈った祈りの答えだった。

ヤコブは、20年前、家を出て野宿した時に、神から約束が与えられ
ていた。「地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって
祝福される」「あなたをこの地に連れ戻す」。祈るが、約束を信じ
ることができない。それでも、尚かつ、そのまま祈る祈りを、主は
答えて下さる。

ヤコブは変えられた。イスラエルに生まれ変わり、その所をペヌエ
ル(神の御顔)と言った。神と顔と顔を合わせ、神との深い交わり
に入れられた。これこそが真の祝福であり喜びだ。主の御心を求め、
御心に歩む人生が、真に祝福された人生だ。

・・・・・・・・・・・・・・
ヤコブは最大の窮地で、主の取り扱いにあずかり、真の平安の人生
へと変えられた。行き詰まりは大きな祝福だ。そこで真に神と交わ
れ、成長へと導かれる。行き詰まるたびに、一段階〃成長して行け
る。いつも希望がある。


2013年09月19日(木)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてく ださい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころ のように、なさってください」マタイ26:39 


「みこころのままに成りますように」との祈りは、私たちの意志を
放げ捨てる事でなく、我慢し抑え込む事ではなく、私たちの意志と
神の意志とが一つとなるために苦闘することだと、ある著者が言っ
ている。

祈りなくして、みこころのままにと、委ねることはできない。それ
は諦めではなく、祈りの内に、自らの意志を、主の意志に合わせて
行くことだ。受け入れ難い状況、事態に直面した時には、祈ろう。

受け入れられないという、自分の感情や気持ちを、おおい隠したり、
ごまかしたり、抑え込むのでなく、まず正直にありのまま、主の御
前に告げよう。受け入れたくない、そのままの思いをことごとく告
げて、主と交わろう。

祈りの中で、頭では「みこころがなりますよう」と思っているのだ
が、心は「私の願いがなりますように」だと気づく。気持ちを底の
底まで、十分に告げて行く時、主が働かれ、受け入れられるように
助けて行って下さる。

主ご自身も「深く恐れもだえ」「悲しみのあまり死ぬほど」と、血
の汗を流して、正直な気持ちをそのままに「この杯をわたしから
取りのけて下さい」と祈られた。できれば十字架を回避したいと。
しかし「わたしの願うことではなく、みこころのように」と。

そして「どうしても飲まずに済まされぬ杯でしたら、みこころの通
りに」と。祈りの中で、自分の願いを押し通すのでなく、主の御心
に思いが変えられ導かれて行く。まず、正直に思いを主に告げて祈
ろう。

・・・・・・・・・・・・
まず自分の気持ちや思いを、告げて、受け止めてもらえるからこそ、
軌道修正して行ける。自分の思いを献げて、明け渡して行ける。抑
え込むのでなく、主に、ありのままの気持ちを告げて行こう。御心
へと導いて下さる。


2013年09月18日(水)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わ たしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」詩篇32:8



会えば愚痴ざんまいで、口を開けば、不平不満ばかりという人がい
るだろうか。そんな人は、どんな環境にいても不満が出て来る。
「あの嫌な隣人さえいなければ、私は平安なのに」「何でこん
なに忙しい、もっと時間さえあれば、気持ちに余裕が持てるのに」
「相手さえもう少し配慮してくれれば・・相手が悪い」

「身体が弱くさえなければ、もっと働くのに」「もう少し経済的に
余裕があれば、献金するのに」・・あれが無い、これが無いと、無い
ものを探し出しては不平を言う。しかし、完璧な環境にいる人など
一人もいない。状況のみを見るか、神に焦点を当てて、神を通して
状況を見るかで、天と地の差が生じる。

神に焦点を当てる時、神が見えて、この状況はご計画の中にあり、
神が教えようとされていることがあると、神のメッセージを探し出
して見い出す。そして、愚痴と不満に終始するのでなく、神が与え
られたこの状況の中で、自分にできることをしようとして行ける。

なぜなら、神に依存しているのであって、状況には依存していない
からだ。あなたはどちらに依存しているだろう。どんな時にも、恵
みはあなたに十分だと言われる。

今、あなたの前に、苦しい状況があるなら、必ず乗り越えて行ける。
耐えられない試練は無いし、脱れの道も備えられている。この中で、
主のメッセージは何ですかと祈ろう。悟りを与え、行くべき道へ導
かれる。

・・・・・・・・・・・・・
苦しみの中で、状況と自分の思いに飲み込まれてしまうと、真っ暗
になり、身動き取れなくなってしまう。「状況と自分」から「神
は」へと視点を変えよう。まず心が変えられて来るから不思議だ。
みわざが現れて来る。


2013年09月17日(火)

「主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か』彼は答え た。『杖です』」出エジプト4:2 



モーセは40歳の時に、自分こそはと思い、イスラエルの民を救出し
ようとして失敗した。荒野に逃れ、その後、荒野での遊牧生活40年
を経て、今や80歳になっていた。そのモーセに、出エジプトの指導
者として、神から召しが臨んだ。

「今、行け。あなたをパロのもとに遣わす」と。モーセはどんなに
戸惑った事だろう。今さら何を?かつて王子であった時の、満ち溢
れた自信、野心、名誉心も何もかも失せていた。平凡だが穏やかな
日々、家庭も持ち、それなりの幸せも感じていただろう。このまま
静かに生を全うしたい。

かつての地位も、栄華も、影響力も何もない。ただの羊飼いに何が
できよう。しかし「神の時」であった。時が満ちた。40年前の何も
かもを持ったモーセではなく、今のモーセこそがふさわしい。40年
の歳月、神は荒野でモーセを砕かれ、訓練し整えられた。人の思い
と神の思いは異なる。

困惑し尻込みするモーセを、説得して行かれる。そして、羊飼いの
杖を、「この杖を手に取り、しるしを行なうよう」に言われた。と
うとうモーセは神に説得され、手に「神の杖」を持ち、エジプトへ
帰った。主は、羊飼いの杖を神の杖として用いられる。普段モーセ
が使っていた杖だ。

神は、すでにあなたの手にあるものを用いられる。その杖で神は奇
跡をされた。今あなたの手にあるものを、神の栄光のために用いて
下さる。あなたと手にあるものを神に献げよう。きよめて、神と人
のために大いに祝福して用いられる。

・・・・・・・・・・・・・・
王子のモーセには地位も、力も、人脈も、富もあり、多大な影響力
を持っていた。しかし、主はそのモーセではなく、老齢の羊飼い
モーセを用いられた。羊飼いの杖を用いて、奇跡をして行かれた。
手にあるものを、お献げしよう。用いて下さる。


2013年09月16日(月)

「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。 主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、そ れが・・われわれを敵の手から救おう」Tサムエル4:3



偶像礼拝とは、ただ単に金や木や石で像を作り、像にひれ伏す事で
はなく、神を自分の願望、欲望のために利用しようとする事だ。自
らを砕いて、御前にへりくだるのではなく、自分の幸福や、利得の
ために、どこまでも自分のために、神を持って来ようとする態度だ。

だから、自分はきよめられる事なく、何一つ変えられる事も、正さ
れる事もなく、神は、ただ自分の欲のための手段となる。神を自
分のために、引きずり回し利用する。イスラエルの民は、ペリシテ
との戦いで敗北した時、主の契約の箱をかつぎ出して来た。箱をか
つぎ出して来さえすれば、勝てると思った。

しかし、契約の箱を持ってくれば、神をかつぎ出せるのではない。
そもそも、自分達の都合のために、神を動かそうなどという考えが、
根本的間違いであった。イスラエルは打ち負かされ、箱まで奪われ
た。

神は箱を奪われるがままにされた。神が守る事が出来なかったので
なく、神が敗北させられた。裁きであった。主の箱の中を見た、ベ
テ・シェメシュの人々を激しく打たれた。神を畏れ、崇め、ひれ伏
すのでなく、好奇心と興味でのぞいた。

自分の欲望充足のために、神をかつぎ出し、自分に仕えさせる。そ
うでなく、神を神として崇め、御前にへりくだって自らが仕えて行
く、これが方向変換であり、悔い改めだ。神の喜ばれる態度だ。そ
うする時に、神は豊かに祝福して下さる。

・・・・・・・・・・・・・
主の御前にへりくだって、主に従い、主を崇めて歩むことが、本来
の姿であり、そこに初めて真の心の満たし、平安、喜びがある。自
分、自分、になっていないか、心照らされ、目の前の御心に従って
行こう。


2013年09月15日(日)

「私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりませ ん。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わして くださったのです」創世記45:5 

  

ヨセフは、父親の偏愛により、兄達から妬まれ憎まれ、エジプトの
隊商に売られた。ヨセフにとれば、どんなに苦しい、理不尽な事だ
ったろう。異国の地で、家族と引き離され、一人で恐れと不安のど
ん底だったろう。しかし、主は、エジプトの地で、主人の厚意と信
頼を得るようにされた。主が、主人に働かれた結果だった。

しかし、主人の妻から濡れ衣を着せられ、無実の罪で投獄に。何と
波乱の人生だろう。長期に渡る牢獄生活、しかしそこでも、やけに
なったのでなく、模範囚として仕えた。夢を解き明かし、やっと釈
放かと希望を持つと、忘れ去られて、尚も獄中のまま。

神に忘れ去られ、見捨てられているのか。しかし、実際はこのよう
な厳しい、苦難の中で、ヨセフは砕かれ、その信仰は練られ、鍛え
られ、強められて行った。ヨセフは、運命や偶然にほんろうされて
いるのではなく、神の御手の内であり、計画だと見ていた。すべて
は必ず最終的に益とされる、摂理の神を信じていた。

やがて兄達と再会した時、背後に神の計画を見ていたので、「あな
たではなく、神がそうされた」と赦す事ができた。自分中心の視点
なら、どこまでも兄達への募る恨みと憎しみだけだ。しかし、自
分視点でなく、神の視点で見た。そのため「あなたでなく、実に、
神」と言えた。

あなたの対人関係はどうだろう。嫌いな人を見るなら、恨みと憎し
みだけだ。しかし、そこに神を見る時、あなたを訓練し、砕き、成
長させるために、神がその人を送られている。「あなたでなく、実
に、神」であり、新しい恵みに立てる。

・・・・・・・・・・・・・・
ヨセフは摂理の神を信じた。辛い、苦しい、悲しい事は、ご計画の
内であり、最終的には益となり、祝福とされる。偶然でなく、運命
でなく、たまたまでなく、「実に神」であり、神の支配を認めた。
状況の背後の神を見て行こう。まず心が変えられる。


2013年09月14日(土)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで あなたのおきてを学びました」詩篇119:71 


信仰人生で、神に一番近かったのはいつだったろう。厳しい試練の
時ではなかったか。全身で主をあがき求めたのではないか。問題の
ない安穏な環境では、人は神を求めない。自分の好きな事に心が奪
われ、熱中してしまう。神ご自身に慰めや喜びを感じるのは、困難
のさ中で、自分ではどうにも出来ない時だ。

それは真に神を体験できる時だ。神の癒しを知るのは病気の時、、
経済的満たしを受けるのは、困窮の時だ。神の慰めが身にしみるの
は、深い悲しみに沈む時だ。苦しみの時、心は張り裂けるばかりだ
が、しかしその時にこそ神の言葉が何かを知る。

御言葉を信じるしか道の無い瀬戸際で、御言葉によって生きる事を
経験する。苦しみの中で、神の臨在に触れ、頭の理解でなく、真に
神を知る。神ご自身の深い喜びを与えるために、神は私たちに様々
な悲しみ、苦しみを通される。

ある婦人は子供を事故で亡くし、悲しみのどん底で「御翼の陰」を
初めて経験した。主の臨在におおわれ、主ご自身から慰められて、
心は平安に満たされた。補償金が入り、祈りの中で、子供の死は一
粒の麦と示され、近隣の子供達に福音を伝えたいと願った。そのお
金で子供のための集会所を作った。
牧師と教会スタッフに来てもらい、そこで沢山の子供達が救われ、
大人も救われて行った。大きな慰めを受けた。主ご自身の慰めを受
けて、満たされているので、今は「本当に心の底から感謝しかな
い」と。

・・・・・・・・・・・・・
様々な悩みや問題に会うが、後に、「苦しみに会ったことは、しあ
わせでした」と言えるとは、なんと大きな希望があることだろう。
今の、目の前の問題も必ずそうされる。主ご自身を知って行ける。
主を信じて歩もう。


2013年09月13日(金)

「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった」ルカ22:3


 
        
「ユダにサタンがはいった」とあり、サタンはユダに入り、ユダは主イエスを裏切ってしまった。サタンは勝手に入る事はできない。自動的に入ることは不可能だ。ユダがサタンに心を開き、ユダの意志で受け入れた結果だ。ユダの抱いていたメシヤ観、価値観が、主イエスとは相容れない事が明らかになって行ったのだろうか。又、「彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、盗んでいた」とあるように、ずっと以前から、サタンに足場を与えてしまっていた。

主は、ユダを愛し通され、ユダに何度も悔い改めの機会を与えられた。主が「あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります」と言われ、まさか私ではと言ったユダに、はっきりと「そうだ」と言われた。あなたがたは全身きよいが、みながそうではない、とも言われた。悔い改めのチャンスだった。主の愛による悔い改めの促しにも、ユダは決して応じなかった。主を裏切った後も、悔い改める事はなかった。

そこが同じように裏切ったペテロとの決定的な違いだった。悔い改めは大切だ。どんな罪も悔い改めるなら、帳消しにされ、完全な赦しが与えられる。何という恵みだろう。罪を見くびってはならない。サタンに足場を与えてしまう。日々、これぐらいとおろそかにしている罪はないか。聖霊が悔い改めを促しておられないか。罪を重ねて行くと、やがて取り返しのつかない重大な事態に至ってしまう。日ごとに悔い改めよう。サタンに足場を与える事から守られ、喜びと平安に心が守られる。
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くり返し罪も犯し失敗もするが私達は赦しが備えられている。ユダのように逃げず意志をもって主のもとに行き、しっかりと悔い改めをしよう。またそこから主と歩もう。


2013年09月12日(木)

「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである」創世記26:12


「この国にまた飢饉があった」とあり、飢饉のまっただ中で、イサクは種を蒔いた。土地は荒れ果てていて、作物が育つどころか、どんどん枯れて行く状況だ。収穫など期待できない。全然雨の降らない中での種蒔きだ。外面的に見ると、全く不可能な状況であった。なぜ、何のために蒔くのか。蒔いても種が無駄なだけではないか。更に貴重な種をも失う事になってしまう。

普通なら蒔かない。しかし、あえてその地に種を蒔いた。イサクには神を信じる信仰があったからだ。見た目の状況ではなく神を信じた。そうでなければ、種を蒔くことなど出来ない。見えるところは、種も無駄、労力も無駄だ。しかし、結果的には、百倍の収穫を得た。なぜ百倍の収穫を得たのか。その理由が「主が彼を祝福してくださったのである」とある。

ただただ主のゆえだ。更にイサクは富み、ますます栄えて、非常に裕福になったとある。飢饉の中にあって、イサクは栄えた。飢饉の中でイサクを栄えさせた、同じ主が、私たちと共におられる。私たちも信仰の種、言葉の種を蒔くことが大切だ。どんな言葉を蒔いているだろう。信仰の言葉だろうか、不信仰の言葉だろうか。「飢饉の中で種を蒔く」、「主にはできる」「主に不可能は一つもない」。困難の中で、信仰の言葉を蒔こう。豊かな刈り取りを見る。
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御言葉の学びを重ねても、実際の生き方において信仰の種や言葉を自分のものにしているだろうか。目に見えるものに反応せず主に呼応し、周囲の人に、また自分自身に信仰の種を蒔き続けよう。


2013年09月11日(水)

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21



     
エサウとヤコブの双子の兄弟が生まれた時に、「兄が弟に仕える」と、神の御心が示された。アブラハムに約束された祝福は、弟ヤコブにより成し遂げられて行くと。兄弟が成長して行く時に、父はエサウを、母はヤコブをそれぞれ偏愛した。兄弟も霊的な事柄に対する、それぞれの心が違っていた。兄のエサウは、長子の権利などよりも、すぐ目の前の、自分を満たすものが大事であった。

そのため、お腹がすいて死にそうなら、今、お腹を満たすものが重大であり、そんな時に長子の権利など何の価値も無かった。
しかし、ヤコブは違っていた。ずる賢くて、計算高い人間だが、神に関する事に心が向き、価値を見い出していた。そのため、その長子の権利も祝福も欲しかった。母リベカと共謀して、父と兄を欺いた。

間違いは、神がヤコブに与えられるものを、自分の力とで策略で、肉で奪い取ったことであった。イサクも、兄が弟に仕えるという神の御心をわかっていたのに、自らが偏愛するエサウに祝福を与えようとした。それもまた肉によるものだ。アブラハムとサラが女奴隷ハガルによって子供を持った事と同じだ。

家族皆が、主を認め、主の御心に従うのでなく、自分の思いを遂げるために動いて行った。家庭崩壊で、皆が不幸せになり、ヤコブは家におれなくなった。
どんなに人のプランを成し遂げようとしても、全主権を持たれる主のご計画が成る。結果的に、ヤコブが祝福を受け継いで行く。主の御心が成就するが、信仰を持って、従順に従うならどんなに良いだろう。
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最善に見える計画でも主の御心でなければ必ず主は示され閉ざされて行く。いつも主の御心の中を安心して歩んで行きたい。強い思いがあればよく祈り、まず主に明け渡そう。


2013年09月10日(火)

「そこで、イスラエル人は海の真ん中のかわいた地を、進んで行った。水は彼らのために右と左で壁となった」出エジプト14:22

                          
    
モーセとイスラエルの民は、絶体絶命の窮地に追い込まれた。エジプトの戦車の大軍が後ろから追跡してきて、前は紅海の断崖絶壁だ。どうすれば良いのか。進む事も、戻る事もできない。まさに絶体絶命だ。ここで全員、命を落としてしまうのか。あなたもこんな窮地に陥った事があるだろうか。

ある婦人は異国の地で、女手一つで子供を育てていた。車が故障し動かない。現地では車無くして生活不可能だ。お金が無かった。途方に暮れ、なすすべなく、涙が溢れ泣いていた。泣きながら主に祈った。すると丁度その時、その車種が欠陥品である事が判明し、大手メーカーから無料修理の大々的呼びかけがあった。車は修理されて戻された。主のみわざであり、何よりも主が共におられる事に、喜びが満ちた。

ある時は、突如、家主の事情で、1ケ月先に家を出るよう言い渡された。当ても全くなく、突然真っ暗闇に放り出されたような、大きな不安と恐れに襲われ、声を上げて大泣きした。主にすがり、祈り続けていると、クリスチャン老夫妻からの申し出があった。一緒に住んで助けてもらえないかと。祈り、主の導きを確信できた。そこは教会のすぐ近くであり、すべてが備えられ、主の山の上に備えありを経験した。

私たちも、行き止まりに見える事があるが、全能の主は、道の無い所に、道を造られる。主によって造られた道を歩んで行ける。何という喜びであり、感謝な歩みだろう。
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大きな問題に出会うともう駄目だと神様が飛んでしまう。代わりに不安がどっと押し寄せる。神様を見上げよう。窮地も神様の許しの中だ。海に道を備えられた方が私達にも脱出の道を用意しておられる。落ち着いて救いを待とう。


2013年09月09日(月)

「そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです」ヤコブ3:15


知恵、思いには、「上から来たもの」と「地に属するもの」がある。神からの思いと、生まれつきの肉の性質から来る思いがある。すべてが神からの思いではない。特に「苦い妬みと敵対心」が心にあるなら、それは古い性質から出た思いだ。見分けることが必要だ。心の内をよく探ってみよう。

「上からの知恵」なら心に喜びがあり、平安だ。そして、妬みや敵対心、憎しみは、「悪霊に属するもの」だと言っている。悪霊に足場を与えてしまう。それは「秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがある」と。つまり、人々が集まる中に、争いや分裂がある時、そこには、隠れた「妬みや敵対心」が潜んでいることになる。自分を正当化し、自分は悪くないと思いたいが、争いや分裂があるなら、心の底に苦いものが無いかを探ってみよう。

「苦い妬みと敵対心があるならば、自分を誇ってはいけません」自分が正しいと思っているなら、必ず自分を誇る。生まれつきの知恵は、地からのものなので、自分が正しいとしか思えない。しかしそれは「真理に逆らって偽る」ことになる。悔い改めて、捨てて行くこと、拒否して行こう。

上からの知恵は、へりくだっていて、さばきが無い。「あわれみ」に満ちている。「あわれみは、さばきに向かって勝ち誇る」の通りに。あわれみが無い時、まず御霊に心をよく探っていただこう。
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自分の今の思いは、上から来たものか、生まれつきの肉の思いだろうか。無意識に人と接し口に出した言葉を後で御霊に示され反省する事がある。思いをよく吟味されて主の平安の下で口が用いられるよういつも祈っていたい。


2013年09月08日(日)

「愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御 前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくこと ができます・・神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっている からです」Tヨハネ3:22 

    

神は祈れと言われる。必要を求めよと。しかし、あれをして欲しい、
これも欲しい、こちらから貪欲に求めるのみで、神のみ心など、全
く意に介さなければどうだろう。交わりが生じようがない。ご利益
宗教と同じで、ただ自分の欲しいものをガンガン祈り倒して、手に
入れたいだけだ。

しかし、相手の心はどうなのだろう。主は人格的交わりを求めてお
られる。主のみ思いと、私たちの願いが一致する必要がある。その
時にみわざが成される。何よりも主とひとつである喜びにあずかれ
る。
そのために、私たちの切なる願いを、大胆に確信を持って祈ろうと
するなら、普段から、主のみ心に従っている必要がある。

「神の命令を守り、神に喜ばれることを行なう」ことが大切だ。す
なわち、前節にあるように、人の事を思いやり、人が困っている時
には、その必要に仕えることが大事だ。世の富を持ちながら、兄弟
が困っているのを見ても憐れみの心を閉ざすなら、自分自身が困っ
た時に、どうして心責められずに、大胆に御前に出る事が出来よう
と。

「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答え
られない」。人の苦しみには耳を閉じ、自分が困ると求めるのは、
自らの心がとがめ、御霊によって祈る事が出来なくなる。心にとが
めがあるなら、それが妨げとなり、どれだけ祈っても無駄だ。

祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前に出られるように、
悔い改めつつ、普段、御霊に示される事に、一つ一つ従おう。そう
する時、とがめが無いので大胆に祈れ、求めるものを神から頂くこ
とができる。   

・・・・・・・・・・・
心にとがめがあれば、大胆に求めることができない。罪があれば悔
い改め、御霊の示しをなおざりにしたり、拒んでいないか、心探り、
一つ一つ従って行こう。その時、主とひとつであり、求めるものが
与えられる、


2013年09月07日(土)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2

  

ある人が、問題無く、順調に行っていた歩みが、突然うまく行かな
くなった。仕事で失敗し、その上、体調を崩し、経済的苦境にも見
舞われた。自分の思うように動けないし、又、状況が全く思い通り
にならない。この先どうなるのか、不安でたまらない。

しかし、このような経験を通して、うまく行っていたのに、問題だ
らけになった、と思うことを考えた時に、「人生うまく行くことが
善、良い事」との価値観がある事に気づかされた。

又、自分の思い通りにならない状況に、いら立ち、落ち込む事に対
しても、「自分の思い通りになる事が善」との価値観に気づかされ
た。又、「どうしてこういう事になるのか?」と思う自分に、信仰
すれば、万事順調に行くはずとの、思いがあった事にも気づかされ
た。

私たちも、想定外の様々な出来事を通して、今まで決して気づく事
のなかった底にある価値観に気づく。それは古い肉の価値観だ。普
段は気づかないままに生活している。様々な事態を通して、御霊は
気づきを与えられる。

そこに気づくからこそ、新しくされる。成長して行ける。御霊の気
づきが成長の始まりだ。古い価値観を御言葉に替えて行くことで、
私たちは思考を変えられて行く。思考が変わると行動が変わる。

・・・・・・・・・・・・・
救われた後も、根深く、古い価値観は残っている。御言葉の鏡に映
し出される時に、古い、肉の価値観に気づける。御霊の与えて下さ
る気づきが感謝だ。気づく度に、それを御言葉の価値観、神の価値
観に変えて行こう。そちらを選択して行こう。


2013年09月06日(金)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ4:4


   
ある人々は、聖書を読むと責められるように感じて、辛くなって、余計落ち込んでしまうという。「隣り人を愛し、敵を愛せよ」「迫害する者のために祈れ」とても出来ないからだ。完全でなければ失格と思ってしまう。しかし、それは律法主義だ。律法は私達を責めて追い立てる。これで十分という事が決して無い。

「今のままの自分ではダメだ、もっともっと〜」「あれもこれもしなければ」「自分は足らない」「休むな」「もっと頑張れ」「頑張りが足らない」「する事は山をなしている。早く、早く」心は焦り、荷は山となし、追い立てられ、常に自分は足らない。全く平安は無く、喜びも無い。辛く苦しいばかりだ。信仰することが苦しい。

これは律法主義に陥っている。自分が立ち上がって背負うので、自分の肩にすべての荷がかかってくる。それは、何かをする事によって、神に認められようとしている。それならキリストから離れていると言われる。恵みでなく律法のもとにいる。恵みはこうだ。「私」は何一つする事ができない。だからこそ十字架があり、すべての義務から解き放たれている。内に住まれている「主」が一つ一つ成し遂げて下さる。

私はその主を信頼し、安堵し、喜びつつ、その主と共に一つ一つあずかって行く。それを喜びとされる。一つ為すごとに共なる主を知れ、更に喜びを味わう。素晴らしい恵みの歩みだ。まずあるがままの自らの状態を主に告げて行こう。導いて下さる。
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あれも出来ない、これも出来ないと責めるのは主ではなく自分だ。ひとつ、ひとつ主に助けを求めながら喜び溢れる信仰生活を歩んで行こう。


2013年09月05日(木)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34 


人間はどうしてもネガティブに向かう。心配が来ると、不安や恐れに飲み込まれてしまう。不安は不安を呼び、幾ら大丈夫だと思い込もうとしても、不安が泉のごとく湧き上がる。あなたも経験があるだろうか。周囲から、大丈夫だからと慰められ励まされても、どうしてもだめなのだ。自分でわかっているのだが、どうにもならない。

主はそれもご存じで、明日はとにかく置いておいて、この日、「今日」を考えてごらんと言っておられる。今、何か不足があるか?今、とりあえず飢えていない、身体も守られている、今日の必要は与えられている。そして、常に、「今日」は、目の前の必要が与えられている事に気づかないだろうか。その「今日」の連続が一生だ。

果てしない明日を心配し恐れるより、今日、満たされている事に感謝してはどうだろう。その感謝は、信仰と喜びを引き寄せる。感謝する時、視点が神に向く。その時、平安が戻る。「明日」が目の前に来る時には、常に「今日」に名前が変わっている。だから、永遠に「今日」があるばかりだ。今、感謝しよう。

ある婦人は、経済的に厳しい状態にあり、身体も弱く、仕事もあったり無かっりだ。しかし、御言葉の通りだと思い、今、感謝する事を始めた。今日、飢えていない。今日、身体は守られている、今日、仕事がある。感謝していると、不思議が起きて、心に喜びが溢れ、全き平安に守られた。思い煩いが失せて、主の平安を経験した。ずっと感謝を献げ、その平安に守られ続けている。
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感謝する時には主を見あげている。今を感謝し続け主の平安の中にとどまっていたい。先のことの心配、今の不安は来るが、今を感謝し、主を待ち望む希望に変えられて行きたい。


2013年09月04日(水)

「しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです」ローマ8:13  

 

日々の信仰生活で経験あるだろうか。御霊は促したり、平安を与えたり、取り去ったり、御言葉を思い起こさせたりしながら、日常生活を導いて下さる。祈っている時に、ふっと、この事はこうすればよいとの導きが臨む。又、とっさの判断が必要な時に、心で祈ると、御言葉が浮かんだりする。日々の生活で、御霊が導いて下さっている。

私たちはどう応答しているだろう。一人の静かな時間ができると「今が祈りの好機。祈る時だ」と御霊の促しを感じるが、肉は「疲れた。今は休もう。テレビを見たい、雑誌を読みたい」と言う。それらは良いことだが、御霊の促しがある時に、肉が邪魔をする。御霊に従うと、必ず大きな祝福を経験する。サタンはそれを奪ってしまいたい。サタンが肉に働いて、神から離そうと常に働いている。

不測の事態が起きた時に、御霊は「すべての事について感謝しなさい」と語りかける。しかし肉は拒み、「良い事があった時には感謝できるが、不都合な事に感謝などできない。どこが感謝だ」と言う。そして良い事があった時には、らい病を癒された9人のように感謝ではなく、それは当然であり、大喜びで自分の道に向かって行く。

自分中心に生きる肉の性質が、絶えず頭をもたげて来る。サタンは肉に働いて来る。常にわきまえて、祈っていよう。祈っている時、御霊の導きがわかる。御霊の促しに応答し、従おう。必ず従って良かったと思う。自分が従うと、周囲にも神の栄光を現して行く。
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感情は暗く下向きでも、御霊は感謝しなさいと言われる。御霊に従うには必ず意志がいる。意志で御霊に従おうとするその思いも御霊の励ましと感謝し促しを大切に応答していこう。


2013年09月03日(火)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21


信仰生活において、なぜ日々みことばが必要なのだろう。この世に生きている私達は、日毎にこの世の価値観に襲われ、さらされ、攻撃を受けている。意識するとすまいと凄まじい影響下にいる。全く正反対の価値観だ。この世は、地のものを目指し、自らの判断と知恵を根拠に、自分軸で、自分の栄光のために生きる。自己実現、を目指し、自己満足、自己貫徹だ。どこまでも自分のためであり、自分追求だ。

しかし、私達は天を目指し、御言葉を根拠に、この世では寄留者であり、天に宝を積むために、神の御心を行ない、神のために生きる。目指すところは、神の栄光だ。御言葉により思考し、御言葉により判断して行く。それが価値観だ。サタンは価値観の部分に影響を与え、巧妙に誘惑を仕掛ける。価値観にさえ働けば簡単に行動を操作できる。

御言葉や祈りから離れると、クリスチャンもすぐ自分の損得、自分の賞賛、自分の欲望、自分の都合、自己防衛のために生きてしまう。根深い古い性質がある。御言葉がどう言うかでなく、自分の肉の判断で行動してしまう。しかし、御言葉はいつも鏡となり、自らの自我や肉の判断に日々気づかせてくれる。そして軌道修正してくれる。鏡が無ければ、自分の本当の姿がわからない。日々御言葉の鏡に映し出され、又、御言葉により指針が示され、主に喜ばれる御心の道に歩んで行ける。
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少しでも御言葉から離れると、ぐいぐいと生まれたての自分が出てくる。弱い者だからこそ、今の自分のいる位置、受け続ける世の価値観を示される御言葉を求めよう。思いを御心に書き換えていこう。


2013年09月02日(月)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです・・世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか」ヤコブ4:3


「欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをする」とある。「うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりする」と。つまり、欲しがったり、うらやんだりする事から、争いや戦いが起きている、と言っている。争いが生じる時、私たちは、自分を正当化して、様々な理由や言い訳や弁解をする。しかし、御言葉は、自分の欲望から来ていて、相手をうらやんでいるからだと言う。

自分の欲しくてたまらないものを相手が持っている。相手の才能、地位、人気、境遇・・自分が欲しくても手に入れることができないものだと。そして、それを羨み、妬むのは、主に祈り、願い、主に向くのでなく、自分の力で手に入れようとしているからだと。

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないから」だと告げている。自分で、どうこうしようと考えるばかりで、神が抜け落ちている。私たちはどうだろう。自分で手に入れようとしないで、ことごとく神に祈れと言われている。心に妬みや敵対心、争いの思いがあるなら、よく心を調べてみよう。

又、願っても受けられないなら、「自分の快楽のために使おうと、悪い動機で願うから」と。自分は祈っているのに、聞かれてないというなら、動機が間違っているかも知れない。間違った動機とは、実は心密かに世を愛している事による。心を御霊に点検して頂こう。きよめて、御心にかなう者へ、御心の祈りへと軌道修正して導いて下さる。
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神に祈り求めないでしてしまう事の中に、祈れない動機が心をしめている事がある。祈らずに、また祈れずにやってしまう。まず、先だって祈り、御心をなして下さいの態度で動き始めたい。


2013年09月01日(日)

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」マ タイ6:10 

            

普段の祈りで、私達は何を願っているのだろうか。主よ、あれを下
さい、これを下さい、主よ、あちらに行って下さい、こちらに来て
下さい、主よ、あれをああして、これはこうしてと、何とも忙しい。
自分の願望と、自分の思いで一杯だろうか。

自分の思いで、主をあちらにこちらに、動かそうとしているだろう
か。しかし、間違ってはいけない。「私の心が天で行なわれますよ
うに」ではない。自分の思いが天になるのではなく、天のみ思いが
自分の思いになる。

そして、天で行われるみこころが、自分を通して、地で行われる。
自分の思いでなく、神の思いが成りますように。自分の計画でなく、
神のご計画が成し遂げられますように、という事だ。神を越えて、
自分の思いを通す事がないように、「みこころが天で行われる通り
に、地でも行われますように」これは大変重要な祈りだ。

私たちは肉の性質があるので、すぐに自分を中心に物事をとらえて
しまう。すべてが自分のためにあり、自分のために回っている。地
球が宇宙の中心で、天の方が回っている天動説のようだ。

そうではなく、天が中心だ。自分の肉の思いを捨てて、神の思いに、
自分を合わせて行く時、神と一つだ。今日、捨てるべき自分の思い
があるだろうか。肉の思いを捨てる時、神のみ思いへと入る。 

・・・・・・・・・・・・・
自分の思いを、まずあるがまま告げよう。その時、委ねたつもり、
献げているつもり、ではなく、本当の自分を認識できる。委ねられ
ない、献げられない自分がわかると、そうできるように助けを求め
て祈ることができる。そして、御心成りますようにと祈って行ける。