2013年10月31日(木)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13



「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます」何年、何十年ク
リスチャンであったとしても、肉にある時には、怒りを爆発させ
たり、攻撃的になったり、人を傷つけてしまう。妬みや、恨み、
貪欲、虚栄心でいっぱいになる。どこがクリスチャンかと思える
状態だ。救われているが、肉にある時は、生まれつきの性質その
ままが出て来る。リトマス試験紙で、検査する時のように、肉に
従っている時には、肉の反応がそのまま出る。

裁く心、批判、憎しみ、優越感、高ぶり、妬み・・が出ている。
又、心配、不安、思い煩いで悶々状態になる。この肉は、自分の
力ではどうする事も出来ない。そのまま主に持って行こう。「今、
妬んでいます」「憎んでいます」とそのまま主のもとへ行こう。
その自分を主に明け渡して行く時、御霊に導かれて行く。

「御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考える」、御霊の
支配下にある時、自然に主に従って行きたい、従うにはどうした
らよいかと考えるようになる。主を愛したい、人を愛したいと思
う。愛さねばならない、〜ねばならないではなく、自発的に、自
由意志で愛したいと思うようにされる。そして主を信頼して行こ
うと思える。

どうやっても肉で出来なかった事が、出来るようにされる。これ
は御霊の働きだ。自分には出来ない事を認めて、明け渡して行く
時、思いが変えられ、自分が変えられ、御霊の力を経験して行く。
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信仰生活が長くなると肉の反応をそのまま表には出さないように
出来るが、思いは依然として肉の奴隷だ。我慢できず「主よ!」
と叫べる日は感謝だ。全ての肉の思いを主に渡し、主に導かれる
開放感に満たされて行く。




2013年10月30日(水)

「律法が、『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めに よって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました」ローマ7:7



主イエスを信じたばかりの頃は、クリスチャンとは立派な善行に歩む人と思いがちだ。善い行ないに励もうとするが、やがて、善行ができない、御言葉を実行しようとするができないという現実にぶち当たる。善行をしようとしていない時は、何も感じないが、しようとした途端、出来ない。更に出来ないというより、したくない自分に行き着く。

誰しも自分はそこそこ良い人間と思っている。しかし御言葉を実行しようとする途端、良い人間でない事を知る。「貪ってはならない」と言われると欲しくなる。「見るな」と言われると見たくなる。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです」禁止されると、むくむくとしたくなる。神に反抗する性質があり、これが罪の性質だ。そしてこの性質はどうにもならない。私たちは罪の奴隷だ。

普通、自分を良い人だと思っているが、「私の肉のうちには善が住んでいない」、全く善が住んでいない事を知る。内側にある罪による。「いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」。葛藤を通して、いのちの御霊の歩みへと導かれる。自分の力でしていた事を委ねる事により、御霊によって成し遂げられる事を知る。
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自分でしようとすると必ず出来ない自分にぶつかり、また出来るとすぐに自己満足も感じる。この性格はどうにもならない。だから、主よ助けてください、憐れんでくださいとの祈りが、切に必要だ。


2013年10月28日(月)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるに時があり、死ぬのに時がある」伝道3:1



「何事にも定まった時期があり」とあり、何事にも、時が定められていると語られているが、それは宿命のような冷ややかな感じのものではない。神が目的をもって選ばれた、そのものに最もふさわしい「時」という意味だ。「すべての営みに時がある」すべての事に、それぞれにふさわしい時がある。主が御心とされる最善の時だ。その時が必ず来る。この信仰に立つ時、そして、この主に委ねて行く時、平安、安堵が来るのではないだろうか。

弱い私たちは、「待つ」ことが一番難しい。なかなかできない。目の前の状況が不安で不安でたまらなくなり、そのため祈って、待ち望むことをせずに、自分の力で、肉で動き出してしまう。神が、アブラハムに、サラとの間に与えると約束された、イサクを待つことができずに、女奴隷ハガルにより、イシマエルを産み出してしまった。肉で動いてしまった。それは神の秩序を乱し、大きな悩み、問題となって行った。

じっと待とう。目の前だけを見ていると、状況が動くなどとは、とても考えられない。しかし、全く微動だにしなかったものが、神の時になると、不思議に事態が、状況が動いて行く。今までにも経験しただろうか。「神の時」を待とう。そして、時が満ちて、神の示しが臨んだなら、祈りの座から立ち上がり、ぐずぐずせずに、すぐに従おう。
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神様の時を待てないでいると、思いの中に様々な策が浮かび、また失敗もする。自分の思いも時も委ねながら忍耐して神の時を待ち望もう。一番良い時が備えられていること、感謝だ。


2013年10月27日(日)

「『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐 れて、隠れました』」創世記3:10


アダムとエバが、蛇の誘惑により、善悪の知識の実を食べた時に、
罪が入り、神との関係が遮断されてしまった。裸なので、恐れて隠
れたと。以前は、神の御前に裸で、ありのままおれた。それが一変、
喜びと楽しみであった神の御声に怯えて、隠れた。

その時、自分たちの身体を隠す、腰おおいを作り、更に、木の間に
身を隠した。罪を犯した人間が第一にした事が「隠れる」という行
為だった。エデンの園には、アダムとエバしかおらず、腰おおいで
隠すという事は、夫婦間で、互いに互いを隠し合うことだった。

罪が入った時、もはや裸で、本当の自分でいる事ができず、自分を
隠し合うようになってしまった。ありのままの自分を隠さなくては
生きて行けない。人の顔色を見、人によって態度を変えて生きて行
く。罪の結果であった。

そして彼らは、自分を正当化し、責任転嫁するようになった。自分
は決して悪くない。人のせいにし、環境のせいにして、生きて行く。
罪の性質だ。神が御声をかけ、悔い改めの機会を下さった時に、ア
ダムが「ごめんなさい。私が罪を犯しました」と認めたなら、どん
なに良かっただろう。

エバも「いえ、私が先に罪を」と続いた事だろう。「・・恐れて、隠
れました」。なぜ、自分を隠すのか。「恐れる」ゆえだと。本当の
自分を出すと拒否され、受け入れてもらえないと思う。「愛には恐
れがありません」主の十字架の愛を知る時に、その恐れが取り除か
れる。

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神の愛と喜びと楽しみの中にいたのに、罪を犯した結果、神を恐れ、
隠れるようになった。責任転嫁せず、自己正当化せず、自らの罪を
認めて悔い改める時に、喜びと楽しみの中に返される。自己正当化
していないか、御霊に心を探っていただこう。


2013年10月26日(土)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったまま でいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペ ソ4:26  



クリスチャンは、何があっても怒ってはならないと、腹の中は煮え
くり返っていても、顔ではニコニコしているだろうか。しかし、
「怒る」ことと、「罪を犯す」ことは、別だ。主は、宮の境内で商
売する者を見られ、激しく怒られた。細なわでむちを作って、羊や
牛を宮から追い出し、両替人の金を散らし、台を倒された。

祈りの家を強盗の巣にしていると、主はひどく怒られたが、しかし、
主は罪を犯されなかった。正しい怒りが無ければ、悪を憎むことが
できない。「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」、怒
りをいつまでも引きずり、持ち越してはならない。

対人関係の問題で、もし、きちんと自分の気持ちを相手に伝える必
要があるなら、祈って言葉で伝えよう。誤解があるかも知れない。
自分の気持ちを表現できたなら、おさまって行く。又、今すぐ、ど
うにもならない問題なら、まずその問題を主に委ねよう。そして祈
りの時を持とう。主はその事態を御心のように導いて下さる。

「悪魔に機会を与えないようにしなさい」そのままにしておくと、
悪魔に機会を与えてしまうからだ。吠えたけるライオンのように、
食い尽くすべきものを捜し回っているサタンだ。どんなスキも狙っ
て食いつき襲いかかって来る。

サタンは怒りを激しい憎しみに増幅させてしまう。復讐の鬼にして
しまう。悪魔に機会を与えないよう、怒りをまず「怒っています」
と認めて、主のもとに持って行こう。主は正しく導いて下さる。

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ネガティブなほうの怒りは、サタンに足場を与えてしまう。怒りは
更に怒りを招き、そして激しい憎しみへと増幅して行く。サタンが
そこに働いて来ている。平安が全く無い。すぐにそのまま主のもと
へ行こう。現状を認め、助けを求める時、いつも主のわざを見る。


2013年10月25日(金)

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない」イザヤ40:31


主を待ち望む者は「新しい力」を得る。そして「鷲のように翼をかって上ることができる」と。待ち望むとは、忍耐が含まれる。
鷲は、その強さや大きさ、飛ぶ速さで、鳥の王者だ。鷲は、大きく、大変重いため、自力で飛び上がる事ができない。じっと風の音を聞いている。

風の音を聞き分け、風が吹いた時に、崖から飛び降り、翼を広げて、上昇気流をつかみ、空高く舞い上がる。移動する時も、風の力を生かして、舞い上がる。風の音をじっと聞き、常に機会を待っている。「時」が来た時に、翼をかって大空高く上ることができる。

私たちも、「神の時」を待つことが大切だ。鷲が風の音を聞き、風を待つように、私たちも祈りつつ、じっと主の御声に耳を澄ませていよう。風が必ず吹くように、時が来ると、神の言葉が臨み、心に平安が与えられ、道が開かれて行く。導きが臨む。まず、祈りつつ忍耐して導きを待とう。待つ期間こそが、まさに信仰の成長の時だ。主を待ち望まずして、信仰が成長することはない。

現代はとにかく忙しい。自販機にお金を入れて、すぐ飲み物が出て来る。待つ事なく、すぐに答えが欲しい。しかし、信仰は待つ事により熟成されて行く。又、風が来ると即、鷲が風に乗るように、導きが来たなら、ぐずぐずせずに、すぐに従おう。大きな祝福が備えられている。
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祈れば安心で、その後の導きに目を凝らしていない事がある。主は様々な方法で導きを与えて下さっているのに。祈りの後の導きを一心に見張り、その時を得て舞い上がろう。


2013年10月24日(木)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10


主は戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。そして「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と。「力を捨てよ」「静まって」主がもたらされた勝利を、敗北した敵の姿、その様子、主の戦勝の品々を見よと告げられている。そして、主が戦われ、主が勝利をおさめられたという事実を。

「やめよ」とは、神によらない、人間の力による、人間的な知恵、方法による肉の様々な、はかり事をやめよということだ。肉の力、人間的なもので戦うのではなく、その肉に、自分に死んで、御霊に支配されて、御霊の導きに従って行くのが信仰生活だ。「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる」神は都の真ん中に臨在され、その都はゆるがない。

神は私達一人一人のただ中に臨在されるので、私たちは何があっても揺るがない。不安でたまらない事柄や思い煩う事態、恐れに襲われる事、様々な事態が生じるが、その時こそ「わたしこそ神であることを知」れる時だ。「やめよ」自分で思い煩い、あれこれ動き回るのは止めて、神に祈り、神を信じよう。

「神はわれらの避け所、力、そこにある助け」だ。「主のみわざを見よ」今までどんなに良くして下さっただろう。必ず折りにかなった助けがあり、奇跡があり、幾度もみわざを見た。今、新たに主に信仰を献げよう。 
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恐れや恐怖で神様が見えなくなる。その時、最も暗い闇に落ち込む。自分で戦うことをやめ、神様に全て明け渡せるように祈ろう。祈り交わる中で心は落ち着き、暗やみの中で新しい展開を待ち望める。


2013年10月23日(水)

「あなたがたは・・奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」ローマ8:15


ある人が小さい頃から、弟や妹の面倒をずっと見て来た。両親が働いていた事もあり、親代わりに世話をして来た。親も疲れ果てて帰宅する毎日に、親にも甘えるどころか、親の親になっていた。自分の気持ちを抑え込み、良い子でなければならず、良い子でずっと生きて来た。信仰を持ってからも良い子クリスチャンだった。

自分では全く気づかなかったが、神の前でも良い子でいようとする。だから主と何か距離があって、神の愛が頭でしかわからなかった。実感が無かった。本心を隠したまま、自分の本当の気持ちなど、決して出せなかった。ところが度重なる試練に、八方塞がりで追い詰められ、行き詰まり、良い子を演じる余裕など無くなり、限界状態で、ついに本心を神にぶつけた。怒りだった。これまで従って来たのに、散々な状況に怒りが爆発した。

しかし、その本心を神にぶつけた時、初めて主から答えを得た。主との生きた交わりを経験した。主に何でも心の内を言っていい事がわかった。今まで言えなかった。心が心底楽にされ、喜びが湧き心底の平安、安堵を初めて経験した。本心を隠したまま、良い子で主の前にいないだろうか。その本心を受け入れて下さっている。「アバ、父=お父ちゃん」と、子供になって素直に御前に出てみよう。
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初めに神様が私たちを愛してくれているから、ありのままでも親しく近づいて行ける。神様に個人的に触れると喜びがあふれて来て、まさにお父ちゃん!だ。内側から自分が大きく変えられる。


2013年10月22日(火)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


ある人が、仕事の事で、難題を抱え、どうしてよいかわからず、苦境にいた。八方ふさがりで、途方に暮れて、神に祈っていた。尚も、祈りつつ試行錯誤していた時に、部下が「こういうプランはどうですか」とアイデアを提案して来た。あっと、良い案だと思ったが、決断できず、ぐずぐずして見送った。何だか心重く帰宅し、主の御前に祈りの時を持った。御前に静まり、心を注ぎ出し、自分の思いも状況も何やかやと、主に告げながら、祈っていた。

その中で「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして」「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われ」御言葉が臨んだ。部下からの提案は、きっとずっと祈っていた祈りの答えであったのに、部下からという事で、素直に受け入れる事ができなかった。それは、自分のプライドのためであった事に気づいた。

悔い改めて、そして部下の提案を取り入れたところ、神は祝福して下さり、難題に素晴らしい解決を見た。しばしば、主は高ぶった私たちにへりくだりを求められる。水は低い方へと流れ、恵みは低い、へりくだった者へと溢れる。今、どうにもできないプライドがあるなら、十字架の主を仰ごう。むち打たれ、身体が砕かれ裂かれ、血まみれになり、身も心もぼろぼろになり、何もかもを捨てて下さった方を見続けよう。
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主のへりくだりの愛を見ることによってどうしても一番になりたい自分、謙遜になれない自分の罪を知る。へりくだりの愛は決して弱さではない。人はどうであれ、自分自身は主のへりくだりの愛に習って生きて行きたい。


2013年10月21日(月)

「ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、『主よ。助けてください』と言った」マタイ14:30



主の「来なさい」との言葉で、ペテロは水の上を歩くが、主から目を離し、風を見た途端、沈んでしまった。御言葉と状況が正反対なのだ。主は「来なさい」と言われ、しかし現状はと見れば、常識では水の上など歩けるわけがない。御言葉を握り、歩もうとすると、御言葉と正反対の逆境に会ってしまう。どうすれば良いのか。

ある男性の会社が倒産してしまった。貯えもなく、家族を抱えて、恐れと不安で途方に暮れた。次の就職先がなかなか無い。とにかく祈ろうと、主に導きを切に祈っていると「すべての事について感謝しなさい」と語られた。この状況を「感謝せよ」と。見える所は感謝などではない。何の当ても無い、厳しい荒野であり、どこが感謝なのかと思える現実だ。

しかし、主の示しに従おうと思った。現状を受け入れ、今の状況を感謝し、そして仕事が無いこと、貯えが無い事を感謝した。すると不思議が起きた。不安と思い煩い、恐れでいっぱいの心に平安が臨んだ。現実は何も変わらないが、心が変えられた。その後、職が与えられた。別の人は、就職試験を幾ら受けても不合格の現実に落ち込んだ。与えられると信じているが、目の前の風を見るとブクブクと沈んでしまう。

御言葉ではなく、目に見える状況を選択し、信じている自分に気づかされた。結局、御言葉を否定する不信仰になってしまう。自らの不信仰を認め、悔い改めた時、自分が変えられた。御言葉を信じて行こうと思えた。今、揺らいでいるなら、まずありのままの心を主に告げよう。主は導いて下さる。
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現状に目がふさがれそうになったら祈ろう。そして、主は近くおられることを思い起こそう。主の最善を見つめて、感謝できない時に感謝していこう。


2013年10月20日(日)

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのよう にしなさい」マタイ7:12



「自分にしてもらいたいこと」とあるが、自分にしてもらいたい事
は、人によって違う。ある人は悩みの時、そっとしておいて欲しい。
煩わしくて干渉されることを嫌う。又、ある人は関わってもらいた
くて、放っておかれると冷たく感じる。人によって様々だ。

自分の肉の思いを、そのまま他人に適用するなら、的はずれになっ
てしまう。つまり自分を中心にした思いで、判断するのでは無いと
いう事だ。自分のメガネで判断して行くと、自分の思いを相手に押
しつけるばかりで、的はずれになり、大きなお世話になってしまう。

御霊の導きを求め、自分の価値観でなく、御言葉の価値観である、
神のお心に照らし合わせて考えて行く。つまり主の御心をもって、
相手に対応して行く。御霊に導かれた自分をベースに考えて行くこ
とだ。

御霊に導かれて相手にした事が、必ずしも喜ばれない時があるかも
知れない。しかし、それは真に相手の益のためであり、その結果を
見守っていると、時を経て、必ず御霊の実を結ぶ。神の栄光が現れ
る。つまり、「自分にしてもらいたいこと」とは、「神の御心」を、
ということだ。

私たちの真の願いは、それであるはずだ。その前の御言葉の関連に
よると、「求めなさい。そうすれば与えられます」と、何が神の御
心かを祈り求めるなら、必ず正しい判断、識別を与えて下さり、他
の人に対してそのようにして行ける。

・・・・・・・・・・・
人に何かをする時に、祈って、主の御心を求めて、対応する時に
御霊に導かれて、ふさわしい対応ができる。自分が一番して欲しい
事は、主がしようとして下さることだから。


2013年10月19日(土)

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからで す。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメ ン」ローマ11:36

 

綿密に立てたプランや予定が、思い通りに進まなくて、イライラし
たり、又、がっかり落胆して、落ち込んだ経験があるだろうか。目
の前に障害や妨害が出てくるのだ。時間をかけて計画を立て、様々
な事を想定し、段取りし、着々と準備を進めて行く。すると目の前
に不測の事態が生じて、プランを断念せねばならなくなる。

情熱とエネルギーを注いだ分、もうがっくりする。そして、やる気
が失せてしまう。これは「自分が」「自分が」と、余りにも自分が
出て、プランと自分が一つとなってしまって、「自分の」計画、
「自分の」所有になってしまう。余りにも思い入れが強いため、う
まく行かなかった場合に、ひどい落胆となる。

「自分が」「自分の」でなく、「神は」「神の」と主語を変えよう。
「自分が」神のために何をするかでなく、「神は」私の人生に何を
計画し、何を求めておられるのか。「自分が、自分が」となると必
ず行き詰まる。

祈り一つにしても、願いの祈りのみとなる。ああして、こうしてと、
神への願いのみだろうか。ところが「神は」私に何を?となると、
神のみ思いを知らなくてはならない。必然的に御心を求めるように
なる。

神の御声を聞く事から始まる。「初めに神」だ。「神から発し」た
ものだけが、神によって成り、神に至る。人から発したものが、神
によって成る事も、神に至る事もない。まず、「神が私に何を求め
ておられるのか」から始めよう。

・・・・・・・・・・・・
自分の思いで、肉の思いで、始めた事は、途中で頓挫してしまう。
しかし、神に導かれて始めた事は、どんな障害も乗り越えて、成し
遂げられて行く。そして神のみわざを見て行く。「神から発し」が
大切だ。御心を求めて、御霊に導かれて、従って行こう。


2013年10月18日(金)

「わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ」エレミヤ2:13



イスラエルの行なった二つの悪とは、湧き水の泉である神を捨てた事と、水をためることのできない、多くの壊れた水ためを掘ったことだった。神が「湧き水の泉」であり、神以外のものを、「こわれた水ため」と言っている。泉と水ためは、大きな違いがある。

泉は、それ自体が源泉なので、絶えず水が湧き出て、無くなる事が決してない。ところが、水ためは、人の手で作られた貯水槽で、雨水を溜めたり、付近の水源から水を引いて来る。溜めた水は無くなってしまう。私たちは神をないがしろにし、「多くの水ためを」掘り、様々な神以外のものを求める。それによって、心を満たそうとするが、それは「こわれた水ため」だ。

水は流れ出てしまい、心満たされる事は無い。私たちが「湧き水の泉である神を捨てて」しまうところから来る。人は、自分の力で渇きを満たそうと、神以外の水ためを自分のために掘る。しかし、どこにも湧き水は出て来ない。堀り方が足らないのではと、場所を変えれば良いのではと、更に頑張って掘るが、決して湧き水は無い。心を満たすものは無い。

ある人が、自分の壊れた水ためは何かと、心探り考えた。信仰者ながら、金銭であり、安定した生活だと気づかされた。いつしか気づかない内に、神ではなく、金銭に依存していることを示され、神の国のために生きて行きたいと、方向変換できた。私たちも「こわれた水ため」を掘っていないだろうか。
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こわれた水ためが干からびて初めて、永遠に湧き出る神様の泉に気がつく。渇きは感謝だ。神様がすべての源であり他にはない。真の心の渇きが満たされ、疲れを癒して下さる。


2013年10月17日(木)

「彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。『あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって・・なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか』」民数記16:3


コラとその共謀者達が、250人のイスラエルの人々と共に、モーセとアロンの権威に反抗した。「なぜ集会の上に立つのか、分を越えている」と。モーセは主にひれ伏し、祈った。すると、神自ら、この反逆に決着をつけられた。地面が割れ、反逆する人々は飲み込まれた。神がさばきをされた後、明白なしるしを与えられた。12部族にそれぞれ、1本づつ杖を持たせ、神が選ぶ者の杖は芽を出すというものだった。すると、アロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、アーモンドの実を結んだ。神が民の不平を静められた。

私達もそれぞれに割り与えられた、分をわきまえる事は大切だ。神が、今の場で、一人一人に与えられた分がある。それぞれの立場や役割は、神からのものだ。分を越えていたのは、コラや共謀した人々の方であった。今いる場所で、立場、役割において、他の人々への羨望や妬みはないだろうか。不満や自己憐憫はないか。他の立場や役割への嫉妬は、恐ろしい罪へと発展して行く。妬みから陰険な邪悪な行ないが生まれる。

あなたを今の場に置かれたのは、神だ。偶然でも、たまたまでもない。神のご計画だ。「自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた」のがサタンだ。分をわきまえ、今、与えられている立場と役割を感謝しよう。主を畏れ、感謝して受け入れる時、神はその所で豊かに祝福される。あなたを主の栄光のために用いられる。
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主が置かれている所に不満があるなら、主に告げ、妬みや憎しみからのものなら明け渡せるように祈っていこう。環境に関係なく主に磨かれ、主の栄光のために用いられたい。


2013年10月16日(水)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40    


  

ガリヤラ湖を渡り、向こう岸へ行こうとしていた小舟が、突然、嵐に襲われた。主は「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われ、必ず向こう岸へ着くのであり、それまで眠っておられた。それで、弟子たちで嵐に対応していたが、舟は波をかぶり、水でいっぱいになった。プロの漁師である弟子たちは、嵐をよく知っているからこそ、恐れを抱き、危険を感じた。このままでは舟は沈没し、自分たちは溺れて死んでしまうと、彼らは慌てふためいて、パニックになった。

そこで主は、と見ると、この非常事態の中で、平然と眠ったままだ。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と不満気に主を起こした。主は向こう岸へ渡ると言われる。しかし目の前の現実は、向こう岸に渡るどころか、沈没寸前だ。御言葉と見える所と、どちらを信じるのかと試される。

弟子たちは主に従った結果、嵐に会ったように、私たちも信仰生活で、嵐に会う。嵐によって信仰が試される。御言葉「向こう岸へ渡ろう」と、目の前の状況である「嵐」が相反する。その時に、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」のように、どこまでも主と御言葉を信じて行けるよう祈ろう。

「信仰はどこにあるのですか」。真の問題は、嵐ではなく「信仰」だと言われた。信じることが出来ないことを、まず主に告げて行く時、落ち着いて信頼できるよう助けて下さる。
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どんな嵐の中でも主と共に安心して眠っておれたらと思うが信仰は揺れ、必ず祝福になることを忘れ「主よ、早く何とかして下さい!」と祈る。必ず主の栄光を拝する時が来る。落ち着いて信じていよう。


2013年10月15日(火)

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」箴言16:9



人は誰しも「自分の道を思い巡らす」。全く見えない先の事だが、予測をし計画を立て、段取りをする。信仰によってというなら別だが、そうでなく無計画で、行き当たりばったりの人生は、ほめられた話ではない。だが一応の予測はするが、その通りにならないのが人生だ。明日、何が起こるかわからず、思い通りには決してならない。

ある人の家族が人生途上で事故に会い、障がいを負ってしまった。驚き戸惑い、パニックだった。全く予想もしていない、思いを越えた事であった。「しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主」との通り、祈り込む中で、心が整えられ、その現実を受け止め、受け入れる事ができた。

主を見上げ、主を信じて歩み出した時に、素晴らしく益とされ、家族の絆が強められ、信頼し合え、その信頼は更に深められた。愛し合うことを学ばせられた。くびきをしっかり負ったので、沢山の事を学べて、主の愛や真実を日々に体験し、平安に導かれた。「幸せです」と言うことができた。

主は何が起きようと、「ご自分では、しようとしていることを知っておられる」。主に、行き当たりばったりは無い。その事にご計画があり、意図があり目的がある。突然の事態に出くわした時、「その人の歩みを確かなものにするのは主」であり「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる」通り、主の目の前での事であり、心を配っていて下さる。
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心配が来ると、まず先のことを思いめぐらし、まだ見ない明日のために最悪の結果を想定、そして心の準備をして行く。このいつもの不信仰のパターンが来たら、すぐに主を呼ぼう。主がこの事態を導いておられる事に目を転じ、信じていこう。


2013年10月14日(月)

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしであ る。わたしがあなたを遣わすのだ」出エジプト3:12 


荒野で羊飼いをしていたモーセが、突然主から召し出される。イス
ラエルの民をエジプトから救い出すための、リーダーとして立てた
というのだ。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。
わたしの民イスラエルをエジプトから連れ出せ」と。突然の大きな
難題に向かう時、誰でもとてつもなく不安であり、恐れを抱く。

モーセは「私はいったい何者なのでしょう。民をエジプトから連れ
出さなければならないとは」と答える。何で自分が、そんなとんで
も無い事をしなければならないのか。身のほど知らずの事だと。
モーセは80歳であり、又、以前40歳の時に、民を救出しようと
して失敗している。年老いた老人に今さら何を?今の自分には
何の能力も無い。

だが、主は、尻込みするモーセに「わたしはあなたとともにいる。
これがあなたのためのしるしである」と約束され、たたみ込むよう
に説得して行かれる。「わたしがあなたと共にいること」が「しる
し」だと。「しるし」とは、証し、証拠であり、保証だ。これ以上
の保証は無い。これが事実であり、現実であるとは、何と力強い事
だろう。

私たちのクリスチャン人生も同様だ。「わたしがあなたを遣わすの
だ」の通り、あなたがするのではなく、わたしがあなたを遣わして、
わたしがすると。主が、私たちはをそれぞれ家庭、学校、職場、近
隣に遣わされている。たまたまそこにいるのでなく、神から遣わさ
れて、そこにいる。その場での使命がある。

・・・・・・・・・・・・
「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わす」自分が何かを
するのでなく「わたしが遣わす」と言われる。無力のままでよい。
不安の中「わたしはあなたとともにいる」との絶対的な保証がある。
従えるよう祈ろう。


2013年10月13日(日)

「だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないよう に気をつけなさい。『きょう』と言われている間に、日々互いに励 まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしな さい」ヘブル3:12



「不信仰になり神から離れないように」、そのために「今日」が強
調されている。出エジプトの民のようにならないため、明日でなく、
「今日」すぐ神に立ち返るようにと。「今日」は大切だ。悔い改め
るべき事があれば、明日に延ばさず「今日」悔い改めよう。

サタンは誘惑する。「今でなくていい。後で、悔い改めたらよい」
サタンに聞いて行くと、悔い改められなくなる。決心が示されてい
るなら、「今日」すべきだ。サタンが「今でなくてよい。もう少し
考えてからでも遅くない。いつでも出来る」と妨げる。明日しよう
と思うと、明後日となり、来週となり、ついに決心をやめる。

御霊の示しがある時に、ぐずぐず延ばしてしていると、その気持ち
が消えてしまうのだ。御心が行なえなくなる。取りこぼしてしまう。
経験があるだろうか。サタンは、「今日」神に近づけないよう、な
すべき事をさせないようにと、妨害する。主に近づこうとする時、
必ずサタンが働いて来るのは驚くほどだ。

祈りや聖書を読む事、デボーションする時にも妨げが来る。何度も
経験あるだろう。「今、聖書を読むように」「今、祈るように」と
の御霊の促しを感じつつ、先延ばしてしまう。その内に、どんどん
世に流されてしまう。霊的食欲が減退して行ってしまう。
「今日」は大切だ。御霊に示されている事柄に、今、従おう。心が
固くなる前に。そこに大きな祝福が用意されている。

・・・・・・・・・・・・・
日々、御霊が促し、御声をかけ、導かれる。今日、御霊の促しを感
じているだろうか。御霊の励ましに、導きに従おう。促しに従う時、
主のみわざを見る。今、ないがしろにしたり、無視したりしていな
いだろうか。今日、従おう。


2013年10月12日(土)

「民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日 にお見えにならず・・私はまだ嘆願していないと考え、思い気って全 焼のいけにえをささげたのです」Tサムエル13:12 


サウルは、サムエルから、先にギルガルに下るように、自分が着く
まで7日間そこで待つように。なすべき事を教えるからと命じられ
た。だがサウルの目の前に、緊急事態が生じた。戦車に騎兵に、海
辺の砂のように多いペリシテの民が攻めて来たのだ。この戦いを前
に、主に嘆願しなくてはならなかった。

しかしサムエルは到着しない。約束の日から7日間待ち続けたが、
しかし、尚もサムエルは来なかった。民は恐れて、もうサウルから
離れ、散って行こうとした。それで、サウルは自分で全焼のいけに
えを献げた。しかし、これが決定的に、取り返しのつかない「愚か
なこと」だった。

サムエルにより「あなたは愚かな事をしたものだ。主が命じた命令
を守らなかった。今は、あなたの王国は立たない」と。一応サウル
には理由があった。敵を目の前に、抜き差しならない、にっちもさ
っちも行かない状況なので、こうするしか仕方がないではないか、
主に従わなくても良いのではと思った。

現状と主の言葉を見る時、御言葉に反してでも事態を何とかしなけ
ればと。どうにもならないではないかと、自分を正当化してしまう
ので、罪意識が失せる。主に従わなくても良いと思ってしまう。

私たちも、そのような状況に陥った時に、サウルに臨んだ、自分を
正当化してしまう誘惑に気をつけよう。サウルになってしまう。主
は主の御声に聞き従うことを、全焼のいけにえよりも喜ばれる。従
わないことは偶像礼拝の罪だと。御言葉に従えるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・
サウルは示された通り、待っていれば、主は必ずみわざをされた。
御言葉と状況が相反する時、目に見えるところに大きく影響受けて
しまい、見えるところがすべてに思えてしまう。しかしそんな時こ
そ、御言葉のほうを選択し、御言葉に従おう。


2013年10月11日(金)

「あなたの判断がほめたたえられるように。また、きょう、私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに誉れがあるように」Tサムエル25:33



ナバルという非常に裕福な実業家がいた。彼は「頑固で、行状も悪かった」。ダビデがナバルの羊飼いたちを野でガードしていたので、ナバルに食糧を分けてくれるよう願った。しかしナバルは、恩を仇で返した。自己中心で、ダビデの世話になった事など無いものとし、侮辱して来た。

ダビデは、善に代えて悪を返したナバルに「あしたの朝までに、あれのもののうちから小わっぱひとりでも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰せられるように」と復讐のために出ようとした。アビガイルが急いで、沢山の贈り物を用意し、ダビデのもとに行き、地に伏して、復讐をとどまるようにと願った。

ダビデは、アビガイルを通して、主が自分の復讐を止めさせて下さったことを知った。アビガイルのお陰で、主のみこころを思うことができた。そしてダビデはアビガイルの願いを聞き入れた。「安心して、あなたの家へ上って行きなさい。ご覧なさい。私はあなたの言うことを聞き、あなたの願いを受け入れた」。

ダビデは聞く耳を持つ人であった。神に視点が向いたなら、謙虚に従った。この時、アビガイルの立場であるがゆえにできた、速やかで且つ的確な対応であった。私たちも、今の遣わされた場、今の位置、立場は主によるものだ。あなたの場で、あなたにしか出来ないことがある。主の示しがある時、「急いで」「すぐに」信仰もって従おう。
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生活のあらゆるところから聞こえて来る神様からの導きに耳を傾け今、自分にしか出来ないことがあるなら従おう。神様を知っているからこそ出来る進言、励まし、慰めなど、用いていただこう。


2013年10月10日(木)

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」ヨハネ7:17


神を懸命に求めているのだが、出会っているという実感が無いだろうか。祈ってるが、祈りが届いているのだろうか?聞かれている気がしない、わからないという人々がいる。求めているのにどうして?と。求めよ、そうすれば与えられると言われ、求める者には答えて下さるのではないのかと。

求めているが、神が何だかよくわからないという時、自分に都合の良い神を求めている場合がある。自分に心地良い神を求めている。自分のイメージ通りの、自分の思う神が欲しい。しかし、そんな神は存在しないので、どう求めても出会いようがない。神がわからないという時、的がずれていないか。神を求めているのではなくて、自分に都合の良い偶像を求めていたりする。

それは、ただ愛してくれるだけの神であったりする。癒しを求めるばかりで「愛されている」事だけがすべてだ。罪やさばきは聞きたくない。又、自らの真の状態を見せられる事、訓練や鍛錬、試練は要らない。成長にも関心がない。神の御心より、自分の思いを優先していないだろうか。「神の御心を行おうと願う」時、心をおおっているおおいが取り除かれて行き、心の目がはっきり見えるようにされる。本当に大切なものがわかるようにされる。
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御心に従おうとする時、自分の思いは捨てて行く。その時に神様ははっきりとご自身を現して下さる。神様の御約束を信じ、頼って従う事実に何度も直面し、神様を新しく知って行きたい。


2013年10月09日(水)

「ダビデは心の中で言った。『私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう・・こうして私は彼の手からのがれよう』」Tサムエル27:1


「ダビデは心の中で言った」とあるが、主に向かい、祈ったのではなく、心の中で自分に向かって言った、自分で思った。祈らなかった事で、失敗してしまった。ダビデは命をつけ狙うサウルを恐れて、ペリシテの敵地に逃れるよう決断する。アキシュのもとに身を寄せたが、イスラエルと戦わなくてはならない状況に陥り、神の介入で守られはしたが、大失敗だった。

その前は違った。ダビデは、ペリシテ人がケイラを攻めているという知らせを聞き、「そこでダビデは主に伺って言った」。まず判断を主に求め祈った。「行ってペリシテ人を打つべきですか」と。主は、行ってケイラを救えと言われた。示しに従った時に、ペリシテ人を打ち、大損害を与え、ケイラの住民を救うことができた。そして次に、ダビデがケイラに行った事がサウルに伝わった。サウルは民を集め、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようと動く。

それを知ったダビデは、主に祈った。「ケイラの者たちは私と部下をサウルに渡すでしょうか」と。すると主は「彼らは引き渡す」と答えられた。ダビデは命をかけてペリシテ人と戦いケイラを救ったのだから、普通考えるなら、それを裏切るはずはないと思ってしまう。しかし、自分で判断せず、主に尋ねたので、逃亡を図ることができた。

当然に思い、祈りもおろそかにしてしまう事柄に要注意だ。何の問題も無いと思えても、常に、主に祈りつつ生活する事の大切さを学ぶ。自分の思いで進もうとしているなら、まず祈ろう。
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祈らずにしてしまったことの代償は大きいと、この箇所から学ぶ。自分の判断で多くの部下達も迷わしたダビデがまた主によって奮い立たされる。なんと励まされることか。主が最強の砦だ。


2013年10月08日(火)

「・・彼らは『わかりません』と言った・・そこでイエスは彼らに『わたしも何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがに話すまい』と言われた」マルコ11:33 



祭司長、律法学者、長老たちが、何の権威によってしているのかと、主に詰め寄ると、主が逆に問いかけられた。「ヨハネのバプテスマは天から来たのか、人から出たのか」と。天からと答えるなら、ではなぜ信じないのかとなり、人からと言えば、群衆は預言者だと思っているので、どう思われるかが恐い。それでどちらの側にも立たず、「わかりません」に、逃げ込んだ。結局、真理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われるか、自分の立場を守ることが判断基準であった。

時々、祈っているのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないだろうか、心探ってみよう。態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。突き詰めず、あいまいのままにしておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、こっちにも良い顔をし、人に良く思われたい。どちらも手に入れたい。

しかし、時に、はっきり迫られる。「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかりません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。「わかりません」と逃げないで、「人が恐いです」「中途半端な者です」「犠牲を払いたくありません」と、ありのままの自らの姿を認めよう。そして「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。そうするなら、主は話して下さり、必ず御心へと導いて下さる。
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あいまいにして逃げている問題を主に告げた時、祈りの中でじっくり主が向き合わせて下さった。恐れの正体も見せられ、向き合うために具体的に祈りが与えられた。主の真実の中に歩みたい。


2013年10月07日(月)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩篇39:7




イスラエルの民は、乳と蜜の流れる約束の地を目指して前進し、神を信じて来た。そのカナンの地に入れば、信仰は必要無いのかというと、そうではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」「あなたの神、主を心に据えなさい」と。神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的だからだ。

ある人が、どうしても欲しいものがあり、祈りに祈っていた。何が何でも欲しい、余りにも強い願望に、ある時、神からもぎ取ろう、奪い取ろうとしている自分の姿を示され、悔いくずおれた。これなら目的さえ果たされるなら、手段は何でも良くなってしまう。「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」と誘惑して来るサタンでも、いいことになってしまう。心から悔い改めて明け渡した。

しばしば間違ってしまう。信仰を、自分がより良く生きるため、又、何かを手に入れるための手段にすると、何もかもが的はずれになる。自分の生きがいの手段、喜びを得るための手段、問題解決の手段、それなら、自分の思い通り、期待通りにならない時に必ずつまずく。神に失望落胆し、離れる事になる。又、実質も、実感も無い、形だけの信仰になる。何かを与えられようと、与えられまいと、神ご自身を信じて、礼拝して生きる事、神を喜ぶ事、これが目的だ。
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目的達成が信仰の目的なら、カナンの地にてまた私達は渇くだろう。与えて!与えて!の信仰ばかりではなく、カナンの地にて神を仰ぎ、日々、神に自分自身を献げながら歩んで行きたい。


2013年10月06日(日)

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがた の心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4 :7



ある人が、突発事態が起きて、パニックになってしまった。対応す
るにも、もう何をどうして良いかわからない。心は波風さかまき、
怒濤のようで、心臓がバクバクする。どうすれば良いのか、しかし、
誰にも言えない。一人で悶々状態だ。

いつも学んでいるように、「わたしを呼べ」とにかく祈りに持って
行った。主のもとへ駆け込み、今の苦しい、心騒ぎ、混乱した状況、
そして、気持ちを訴えまくった。心の内を告げて、告げて、吐き出
していると、時間と共に、混乱した気持ちが段々落ち着いて来た。

その時に、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさ
い」との御言葉が浮かんで来た。そして、主にゆだねるべく、祈り
続けていると、「何も思い煩わないで・・あなたがたの願い事を神に
知っていただきなさい」との言葉が浮かんで来た。

「あらゆるばあいに」とあり、この場合も有効だ。そして、「神に
知っていただきなさい」という事は、つまり、ゆだねた祈りを神は
知って下さった、という事であり、祈り続けていた時に、「神に知
っていただいた」と確信できた。神に知っていただいたなら、もう
それで良い。十分だった。

どう導かれるにせよ、最善をして下さるからだ。その時、あんなに
大嵐であった心が、すうっ〜と、なぎになっていた。心は軽くなり、
平安になった。御言葉その通りに、その身に成った初めての恵みの
体験だった。

・・・・・・・・・・・・・・
「何も思い煩うな」は、何と力強い御言葉だろう。単なる気休めで
なく、主が責任を持ち、根拠をもって語って下さっているからだ。
すべての道筋に心を配り、心配し、最善をして下さる方が共におら
れる。「何も」思い煩わなくて良いのだ。


2013年10月05日(土)

「あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖を もって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことで した」エペソ4:24


古い人とは、生まれつきの肉であり、肉は、神を神とも思わず、自
分の思い通りに生きて行く。自分が神であり、自己中心な虚しい状
態だ。新しい人とは、主を信じ、新生し、主との交わりが回復され、
生き生きと生きて行く、神の性質が与えられている状態だ。

主を信じた時に、古い人は脱ぎ捨てられ、新しい人を身に着た。主
の十字架のゆえだ。しかし、古い性質は、まだ残っていて、弱さの
ゆえに罪を犯してしまう。だが、その罪は悔い改めるなら、赦され
る。生涯、赦されて赦されて歩んで行ける。

自分、自分と、古い性質が出て来る度に、「自分の古い人はキリス
トとともに十字架につけられた。十字架で罪のからだは滅んで、キ
リストとともに新しい人が生きている」と、信仰によって受け取っ
て行く歩みだ。すでに「古い人は十字架につけられた」と信じ、御
言葉にとどまって行く歩みだ。

罪を犯さないのではないが、主の目には、キリストを信じ受け入れ
た者は、すでに古い人は十字架につけられ、脱ぎ捨てられ、新しい
人を身に着ている。そして更に日々新たにされて行く。「心の霊に
おいて」=「心の底から」「心の深みまで」新たにされて行く。

信仰はハウツーやテクニックではない。表面的なものでなく、心の
深みにみわざがなされ、心の底から変えられて行く。自分でどうに
も出来ない古い部分が変えられ、新たにされて行く。奇跡であり何
と嬉しい事だろう。

・・・・・・・・・・・
今朝も、主の十字架のゆえに、「私は、キリストと共に十字架につ
けられました」と信じて歩むことのできる大きな恵みに感謝だ。弱
さのゆえに罪を犯してしまうが、悔い改め〃従って行く時に、赦さ
れ〃、新たに、新たにされて行く。何と感謝だろう。


2013年10月04日(金)

「彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた」ヨシュア5:13

ヨシュアは、あの偉大なモーセの後を継ぎ、これからイスラエルの民を率いて、先頭に立って、戦って行かねばならない。どんなに荷は重く、恐れでいっぱいであった事だろう。難題のエリコに近づいた時、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って立っていた。ヨシュアは驚いた事だろう。「あなたは、私たちの味方か、敵か」と尋ねた。

私たちはどうしても、自分軸に考えるので、「自分の」味方か、敵かが一番の関心事だ。しかし、「いや、わたしは主の軍の将として、今、来た」と。つまりヨシュアに「わたしが軍の将だ、あなたが軍の将ではない」と告げられた。神がヨシュアを導くのであり、神が真のリーダーだと。普通なら「では、私たちを助けて下さい」と言いそうだが、ヨシュアは伏して「わが主は何を告げられるのですか」と聞いた。すると「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」と。

自分で何とかしようとする事が、主を脇に置く高慢であり、それを脱ぐように、そして、このヨシュアが立っている場所は、主が共におられる「聖なる所」だと。私たちも、目の前に、難しいどうにも出来ない問題がエリコの城壁のように、立ちはだかっているだろうか。「そこで、ヨシュアはそのようにした」。導きの通りに従った時に、エリコ攻略の具体的示しが臨み、エリコが陥落を目の当たりに見た。今、あなたの前に、主の軍の将としておられる。示しに従おう。
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目的に向かって苦闘している時は、どうしても主を自分の味方にと祈り、また思う。事のリーダーは主だ。主が働かれることを信じて落ち着いて主に御心を求め、従おう。


2013年10月03日(木)

「立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられる父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25 

      
信じて祈る時、素晴らしい約束を与えて下さっている。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります」と。しかし、次に言葉が続いていて、誰かに恨み事があれば、赦してやりなさいと、赦す事が強調されている。赦さない心は、祈りを妨げる。神があなたを完全に赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しなさい、と。

私たちは、しょっ中、失敗する者だ。しかし神は豊かに赦し続けて下さる。罪を犯さないのではなく、罪は犯すが、赦されて〃、赦され続けて生きている。それゆえ、私たちも赦すべきだと。まず恨み事や、憎しみや赦さない心があると、祈れなくなってしまう。心にとがめがあり、主とへだたりができてしまう。すると、確信もった祈りができない。

ある人が、非常に切実な必要があり、神の御前に出て祈っていた。しかし、祈り続けるが与えられない。祈りの中で、ある人の仕打ちに、恨みと敵意、苦々しい思いを持ち続けている事を示された。これが祈りの妨げになっている事がわかり、その場で悔い改めて、その相手を赦した。その後、見事に祈りの答えが来た。

赦さない心は、祈りをシャットアウトしてしまう。祈りの答えを受け取るために、自らに密かな恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に探って頂こう。妨げが取り除かれる時、心は平安になり、「自分の心に責められなければ、大胆に御前に出ることができ、求めるものは何でも神からいただくことができる」。
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神には常に赦され「求めるものはすでに受けたと信じなさい」と言っていただきながら、自分は人を恨み続けたままとは、なんと自分勝手でおかしな話だろうか。そんな至らない者をなお赦して下さろうとされる神を仰ごう。


2013年10月02日(水)

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば・・あなたがたを悪人呼ばわりしていても、そのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります」Tペテロ2:12



信仰者は必ず試練があり、苦しみを受ける。それは訓練と成長のために、主が与えられるものだ。しかし、自分の至らなさゆえ、欠点ゆえ問題を引き起こし、周囲に迷惑をかけ、自らに苦しみを招くならそれは別物だ。それはトラブルメーカーであり、これは迫害ではなく、信仰ゆえの苦難ではない。信仰には関係の無い苦難だ。誰でも、失礼な態度や、他人が不快に感じる事をするなら、怒りを招き非難される。それはキリスト者以前の問題だ。

しかしそうではなく、個人の落ち度でなく、キリストゆえに苦しみを受ける事がある。迫害され、不当な苦しみを受ける。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今の私達なら、信仰ゆえに悪口を言われ、仲間はずれにされ、嘲笑や、無視の対象になり、理不尽な目に会う。しかし、キリストゆえの苦しみなら、恥じる事はない。かえってその事のゆえに神を崇めるようにと。

そして、忍耐が必要だ。神の御心を行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐であるから。苦難の時は忍耐を培われる時だ。忍耐とは我慢する事でなく、どんな状況の中でも、神が必ず良くして下さる事を、積極的、前向きに信じて行く事だ。この忍耐を働かせる時に、信仰者として成長して行く。ヤコブ1:4 
そしてどんな時にも確信を決して投げ捨ててはならない。その確信は必ず報われるのだから。
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信仰のゆえに世の人とは違う歩みがあり、世から受け入れられない現実も経験する。そこで世に限りなく近づくより、主に勇気をいただき置かれた所で、前向きに、喜んで御霊の実を結んで行きたい。


2013年10月01日(火)

「・・あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。お前が来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう」創世記27:33


ヤコブは、父イサクと兄エサウをだまして、祝福を奪い取った。
まるで詐欺だ。それが発覚した時に、イサクは激しく身震いして
「彼を祝福してしまった。彼は祝福されよう」と言った。エサウ
は大声で泣き叫んだ。「私を、私も祝福して下さい」と。

しかし、イサクは、ヤコブが姑息な手段で奪い取った祝福を認め
たのだ。それは、実はイサクは、「二つの国があなたの胎内にあ
り、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民
より強く、兄が弟に仕える」と言われた主の御心を知っていたか
らだった。エサウがヤコブに仕えるというのが、主の御旨であっ
た。

「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成
る」「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計った
とおりに成就する」。人の思いや考え、感情は様々あるが、主の
御心だけが成る。エサウもエサウで、霊的資質に欠けていた。
お腹がすいて死にそうな時に「長子の権利など、何になろう」と
豆の煮物のために、何と売り渡してしまうのだ。「こうして長子
の権利を軽蔑した」と。

ヤコブもヤコブで、狡猾な詐欺行為をせずとも、主を信じて委ね
ておれば、主が働かれ、主の御心が必ず成し遂げられて行くのを
拝する事ができたはずだ。イサクも、やはり主のご計画が成る事
を悟っただろう。祝福を自分で奪い取るのでなく、主を信じ委ね
て行くことが最善だ。
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振り返ると主に委ねず突っ走っている時には、必ず何処かに支障
が現れ、遠回りであったと知らされる。自分の思いを主に委ねて
行こう。状況に関係なくいつも主が共におられる平安があり、結
果は感謝で終わる。