2013年11月30日(土)

「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で 一番偉い人です」マタイ18:4 

   

弟子たちが主に質問をした。「天の御国では、だれが一番偉いので
しょうか」弟子たちはどんな答えを想定していたのだろう。世の価
値観なら、最も能力がある人、最も主のために働いた人、最も善行
をした人、多くの部下を持ちトップに立つ人だろうか。

その時に、主は小さい子どもを呼び寄せ、子どものようにならない
限り、天の御国に入れない。子どものように、自分を低くする者が
一番偉いと言われた。子どもの一番の特徴は無力だ。子どもは自分
が全く無力な存在だと知っている。

親無しには、生きて行くことができず、食べる事もできないことを
知っている。完全に親に頼っている。大人は自分で生きて行けると
思っている。自分の力で何でも出来ると。大人は高慢だ。

又、弟子たちは内心自分が一番偉くなりたいと思っている。一番重
要人物でありたい。一番が良いとの価値観だ。弟子たちのそんな考
え方を「あなたがたも悔い改めて、子どものようにならない限り、
御国に入れない」と。

価値観、考え方自体が問題で、「悔い改め」は向きを変えなさいと。
子どものようになるとは、自らの無力を認め、自分を低くする、へ
りくだることだ。実は無力を知ること、弱さを知ることこそが、最
大の恵みだ。無力を知っている人は神に頼る。子どもが完全に親に
頼りきって全き平安でいるように、主に頼りきって平安だ。無力や
弱さは神と結びつく。

・・・・・・・・・・・・・・
「誰が一番偉いか」という価値観を悔い改めて、方向変換すること
が自分を低くすることだ。へりくだらなければ、主の御心の一つも
実行できない。自分には出来ないこと、無力であることを認めて、
主に拠り頼む時に、主の力によって御心が成し遂げられて行くこと
を見る。


2013年11月29日(金)

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった」T歴代10:13


サウルは、ペリシテとの戦いの事で不信の罪と言われたが、しかしその前にやはり主に従う事をしていなかった。アマレクとの戦いで「すべてのものを聖絶せよ」との主の命令に、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。主の言葉に従わず退けたので、主もサウルを王位から退けられた。サウルは罪により主との関係が絶たれてしまった。

サウルは「罪を犯しました、しかし、私の面目を立てて下さい」と言った。これは罪の悔い改めではない。自分の体裁、体面を守るためのものでしかなかった。私たちも、罪とは人前で面目を失う事と考えていないか。それなら人前で面目を保てば良しとなる。そうではなく、人は関係なく、罪とは神と自分との間のことだ。サウルはペリシテとの戦いで、主に伺ったが、主はいっさい答えられなかった。それで霊媒へと向かった。まず主との関係が第一に重要で大切だ。その関係が修復されていないのに、悔い改めが無いのに、伺いを立てても、答えが無いのは当然だ。

主との関係が、損なわれてしまっているのに、自分勝手に願ってもどうにもならない。「主に尋ねなかった」と言われ、つまり尋ねた事にならないと。神との関係が何よりも大切だ。ダビデは姦淫、殺人の重罪を犯したが、真に悔い改めた。しかしサウルにはいっさい悔い改めが無かった。悔い改めにより、神との関係は回復される。あなたと神との関係はどうだろう。
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主よ、主よと言いながらも、深いところで主との繋がりがなければ、迷い、目の前のわかりやすい導きに飛びつきたくなる。主は悩みも罪も全て聞いて豊かに赦し導いて下さる。主との関係を深く保とう。


2013年11月28日(木)

「あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ・・しかし、ヨナは主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:2




ヨナはニネベに宣教に行くよう神の命令を受けた。しかし、ニネベは敵国であり、ヨナの気に入らなかった。神に従わずに、丁度渡りに船で、反対方向の船があり、タルシシュに向かい逃亡した。まさに「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう」だ。ヨナの自我が御霊に逆らう。しかしそんなヨナに、神の愛は決して変わらず、見捨てられなかった。

神は大嵐を起こし、その結果ヨナは海に投げ込まれる事になった。神は大きな魚にヨナを飲み込ませ、神がヨナの命を救い守られた。この後もヨナはニネベの人々が悔い改めると、機嫌を損ねる。これぞ肉、自己中心、わがままだ。あなたも思い通りにならない事にすねていないか。ヨナは自分の姿だろうか。そんな自分を明け渡す時に、御霊に従って生きる事ができる。

3日3晩その魚の腹にいた。すべてが神のご計画の内であった。神はヨナを魚の腹に隔離され、そこで一人きりであった。神の御前に置かれた。私たちも余りに多忙で祈る時間、考える時間すら無くなると、世の凄まじい勢いに飲み込まれ、自分を見失ってしまう。神の御声を聞けなくなる。主のための時間が無いほど、忙しいなら要注意だ。又、今、御心に従いたくなくて、御顔を避けようとしてるだろうか。ありのままの気持ちを主に訴えよう。受け止めて下さる。従えるよう助けて下さる。
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主にあって歩んでいる時は平安で喜びが共にあるが、肉の思いを見て行くと、とたんに様々なストレスでいっぱいになる。一人で全てを背負ってしまっているかのようだ。ヨナのように逃げ出したい日は、主が共にいて受け止めて下さっていることを思い出そう。


2013年11月27日(水)

「見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます」マタイ7:4



 対人関係において、問題が起きた時、確かに相手に非があったかも知れない。しかし、「あなたが悪い。あなたの間違いだ」と相手のちりを除こうとすると、問題は大きくなり、悪化し泥沼になる。経験ないだろうか。相手のちりを見つけた時にこそ、まずこちらがへりくだることだ。自分をよく吟味し、自分にも間違いがなかったか、反省すべき点がないか、よくよく御前に静まって、御霊に照らされる事が大切だ。

「自分の目にも梁がある」と主は言われている。「誰でも、立派でもない自分を何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いている、おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい」。自分を省みて、悔い改めるべき事は悔い改め、「まず自分の目から梁を取りのけ」るなら、その時はっきり見えるようになる。そして、へりくだって、愛によって、相手のちりを取り除く助けができる。

目のようなデリケイトな箇所は、触れようとした瞬間、相手は閉じる。不用意に祈りもなしに、こちらの霊的整えもなしにできる事ではない。梁は大きな材木、ちりはほんの微少のほこりだ。まず批判的な心自体が大きな材木だ。相手が悪いから裁くと思っているが、実は自分の思い通りにならないから裁いているのではないか。

愛とへりくだりが無ければ、必ず泥沼になる。まず自分を御前で御霊に探って頂こう。そうする時、整えられ、相手のちりを除くために、主によって用いられる。
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人を裁く思いが来る時は、自分なりに理由もあり被害者意識もある。そこで自分は正しい、に立ってしまいがちになる。主の前によく祈り、感情をまず主に預けよう。


2013年11月26日(火)

「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです」Tヨハネ4:4

  

サタンは人間より知恵と力を持つが、しかし、主が許可された限度内でしか働けない。ヨブ記にあるように「持ち物はよい、しかし身はいけない」又、「身はよいが、しかしいのちには触れるな」。神は常に限度を定めておられる。私たちの人生で起きる事に、主はサタンの働く限界を定めておられる。

ユダは主を裏切り、銀貨30枚で売ってしまった。主は捕らえられた。サタンがユダに入り、主を裏切り、主は十字架にかかられた。神はサタンを止める事も可能だが、サタンが働く事を許され、そのサタンすら利用し、神の決定的御旨成就のために用いて行かれる。サタンの背後の神こそが、全主権を握っておられる。サタンは主を十字架の無残な死に追いやり、大成功に見えたが、結果的に十字架は人類の贖いという金字塔を打ち建ててしまった。もう誰もサタンすらどうする事も出来ない。

ペテロもサタンにつけ込まれた。自信に溢れ、命を捨ててでも従って行けると豪語した。しかし、主が捕らえられた時、呪いをかけて誓ってまで、知らないと主を否定し裏切ってしまった。だが、主はそれをも予めご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられた。「サタンがあなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」サタンのふるいだと。

ユダは悔い改める事なく、ペテロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、自らの弱さを徹底的に認識した。サタンは働くが、尚も神がその上におられ、勝利へと導かれる。信仰によって受け止めよう。
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なんと力強い御言葉だろう。日々襲って来るサタンの攻撃により自分の内にある肉の弱さがよくわかる。しかし、ふるいにかけられる時にも主は祈って下さっている。主と共に勝利できる。


2013年11月25日(月)

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうしないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません」マタイ6:1

「偽善者のようであってはいけない」と言われた。「偽善者」とは、「舞台役者、主演俳優」のことだ。偽善者=俳優だ。俳優とは何をするのか。俳優の役目は、脚本家が書いた脚本の通りに、その人物を演じることだ。監督が演技指導し、俳優は、その人物を、指導に従って忠実に演技する。いかに巧く演技するかで評価される。それは自分ではない別人物だ。偽善者とは、演技して自分ではない人物になることだ。

それは「人に見られたくて」人の賞賛、評価を得るため、人に認められたいがためにそうする。どうしても人間は、目に見えない神ではなく、目に見える人の愛情を求める。誰もがその弱さを持っている。人に受け入れられたいし、ほめられたい。人に愛されたいために、良い人を演じてしまう。しかし、それは自分ではない。それが祈りになると、「会堂や通りの四つ角に立って」綺麗事の祈りとなる。演技の祈りであり天に届いていない。

だが、この世の俳優は、わかってそれを演じている。パリサイ人は自分が演じていると思っていない。御霊は私たちが、人目によって、人前に生きている事を教え気づかせて下さる。根深く培われたものがある。主の御前でなく、人の前に生きる自分の姿を照らし、気づかせて下さる。それこそが恵みで、感謝だ。御霊の気づきに感謝し、更に主に従うことにより、御霊に照らしていただこう。
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人の目から自由になれないのが人の限界なら、主により頼むしか術がない。主から目を離さず、主に尋ねながら、幾重にも装った偽りに気づきが与えられるよう祈ろう。


2013年11月24日(日)

「それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を 守るかどうか、あなたの心の内にあるものを知るためであった」申 命記8:2


イスラエルの民は苦難のエジプトから、奇跡をもって出された後、
何もない厳しい荒野を通って、神からの訓練を受けた。そのわけは
「あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかど
うか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった」と。

人は苦しみの時に、本性が出る。どうにもならない行き詰まった時
に出る姿が、自分の本当の姿だ。それは普段も心の底にあるが、問
題が無い時には出ないだけだ。不満、愚痴、怒り、不信仰が出るな
ら、それは自分の姿だ。いかに罪深いかを知る。普段は良い人間だ
と思いたいし、思っている。

しかし、自分の姿を自分が知らない。主はすでにご存じだが、自分
が知るようにして下さっている。本来の自分はどんなにか罪深い者
であり、だが、そんな事はすでにご存じの上で、愛して下さってい
る。見た事も、聞いた事も心に思い浮かんだ事もないほどの、深い
大きな愛だ。

「苦しみにあった事は幸せでした」の通り、苦しみを通して主のご
愛と慈しみを知る。ヨブも「うわさで聞いていたが、苦しみを通し
て、この目で見た」と言った。主は試練の中で、誰も「知らなかっ
たマナ」を下さる。苦しみの中でしか味わえない御言葉を食する。
その言葉は甘く、慰め、癒し、力とされる。訓練を訓練として受け
止めて、主を味わい知ろう。

・・・・・・・・・・・
心の内にあるものを、主が見せて下さり、自分がちゃんと知ること
ができるように祈ろう。主が見せて下さらなければ、わからない。
そしてそれが赦されていることを知ろう。その時、心が癒されて平
安にされる。


2013年11月23日(土)

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったこ とを何一つ忘れるな」詩篇103:2       


くよくよと、思い煩っているだろうか。過去の事を、あの時ああし
ていたら、この時こうしていたらと思い煩い、又、先の事を思い煩
う。ああなれば、こうなればどうしようと最悪のシナリオを描き、
そのようになるだろうと思い煩う。

それを変える方法は、過去を変え、環境を変え、人を変えることだ。
しかし、「過去と人は、変えることができない」と言われている。
又、環境は変わらない。その中で、一つ救いの道がある。それは自
分を変えることだ。人は変えられないが、自分を変える事はできる。

思い煩いから守られるには、主をほめたたえ、良くして下さった事
を何一つ忘れないこと、感謝することだ。恵みを数えて、数えて、
感謝して行く時、必ず自分が変えられて行く。今まで良くして下さ
った事を一つ一つ思い起こしてみよう。沢山のみわざを経験してい
る。

思い起こして、感謝して行く事が、勝利の秘訣だ。「あなたのすべ
ての咎を赦し」、過失も失敗も、完全に赦し、益として下さり、祝
福に変えて下さる。何と感謝な事だろう。その神の愛を信じて生き
る時、心に安堵と喜びが湧いてくる。

「失ったものでなく、今あるものを数えて感謝せよ」、私たちはど
うだろう。失ったもの、無いものばかりを数えて嘆いていないだろ
うか。恵みを数え、感謝して行く時、必ず引き上げられる。なぜな
ら、無いものを数える時は神を見ていないが、恵みを数え感謝する
時は神に向いている。

・・・・・・・・・・・・
主の良くして下さったことに思いを馳せる時、感謝が溢れる。一つ
一つ恵みを数える時、主を見上げている。だから思い煩い、不安、
恐れから守られる。今一度振り返って、良くして下さったことを覚
え、感謝をささげよう。


2013年11月22日(金)

「ほむべきかな。主。主は包囲された町の中で、私に奇しい恵みを施されました」詩篇31:21


私たちの窮状は、神のチャンスだ。窮状の中でこそ、生きて働かれる主に出会う。順調に行っている時は、私たちはどうしても自分の能力と知恵で歩んでしまう。神が必要無く、自分の力で歩めてしまう。「あなたがたが神のようになり・・」がエデンの園でのサタンの誘惑であり、肉は自分が神となり、自分の思い通りに自分の力で歩みたいし、どこまでも歩もうとする。しかし、自分の力で、何もどうにもならない窮地に陥ると、私たちは神を求め、神にすがる。自分でどうにも出来ないからだ。

行き詰まり、頼れるものが何もない状況こそが、実は最大の恵みだ。「私をあわれんで下さい。私には苦しみがある」「悲しみで尽き果て、骨々も衰え」「死人のように壊れた器のようになった」と苦難の中にいたダビデが「しかし、主よ。あなたに信頼しています」「ほむべきかな、主」と主への賛美に変わっている。どん底でダビデは主だけを頼りに、主に拠りすがった。

苦しみは私たちを主に近づけてくれる。実は大きな恵みだ。何の苦しみも無いと、神に頼る事なく神から離れて生活していて、それすら気づかない。「私をあわれんで下さい」、あわれみとは、私たちの惨状を受け止めて下さる神の愛だ。自分の好き勝手に歩み、その結果、自分の罪や過失でぼろぼろになっている、その者をかわいそうに思って下さる愛だ。どんな状態であれ、主のもとへ行ける。まず主のもとへ行こう。
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多くの助けや慰め、癒されるものが側にあることも感謝だが、主は遠くぼやけている。「主よあわれんで下さい」と頼るしかない状態に置かれることは、辛い中にも平安がある。深い所で主と繋がり強い信仰へと導かれているからだ。


2013年11月21日(木)

「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」イザヤ2:22 



私たちはどうしても人の目が気になり、他人の評価を気にする。
心の底に人に認められたい、評価されたい、受け入れてもらいたい、愛されたい、との強い願望があるからだ。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とある通り、私たちは生まれつき人の愛が欲しい。これは普段、認識していないだけで、自分が思っている以上に強い。だから人の目を気にし、人から良く思われたい。良い人でいたい。

それは愛されたいからだ。これが高じて行くと、人目を気にして、嫌われたくないので、人にへつらい、人の顔色ばかりを気にし、ノーが言えなくなる。生き生きと御霊の自由の中で、自分らしく生きる事ができない。対人関係で、なぜ傷つくかと心を探ると、人に認められたい、評価されたい、人からの賞賛が欲しい、それが根深くあり、そこに触れるから傷つく事になる。認められない、評価されない事で傷つく。

しかし、自分の判定を他人にさせてはならない。人に自分の事を決められるのは間違っている。あなたを愛してくれている人は別として、別にすべての人が私たちの事を考えているわけではない。心が傷つく時に、それはどこから来ているのか考えてみよう。人の愛が欲しくて、人に根深く依存している事が原因かも知れない。人ではなく、神の愛にしっかり依存しよう。ここに失望は決して無い。そして、人の目によりがんじがらめの自分から解き放たれる。自立とは神に拠り頼むことだ。
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人の評価は気になるが、それで自分の行動が左右されてはいけない。人の目を恐れてではなく、神にあって人を愛して行きたい。私を評価されるのも裁かれるのも神だ。自分で自分を裁くこともしないと言うパウロのように人の目から完全に自立して行きたい。


2013年11月20日(水)

「試練に耐える人は幸いです・・だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません」ヤコブ1:13


「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われている。しかし「試練」は神から来ていて、「誘惑」はサタンから来る。神は、誰をも決して罪に誘惑される事はない。「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもない」。神から来る「試練」は受け入れて、忍耐すべきべきものであり、そうするなら必ず一段階成長する。試練は成長のためのものだ。「試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」それは成長を遂げた完全な者にされるためだと。

サタンからの「誘惑」は反対で、決して受け入れずに拒否し、立ち向かうべきものだ。それを受け入れるなら罪を犯してしまう。だから、主が「主の祈り」で、こう祈りなさいと言われたように、「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください」と祈る事は大切だ。誘惑から守られるように祈る必要がある。

サタンの誘惑の巧妙さは、物事がうまく行っている時に来る事だ。試練の時は、むしろ主を呼び求め主に拠りすがる。平穏な時に人は油断する。順調なので神に頼る必要が無い。物事はうまく進み、祈りを怠る。自分でやって行けると思ってしまう。誘惑はサタンからの試みで、目的は神から離すことだ。試練は神からのもので、私たちを練りきよめ鍛え、神に近づけ成長させるためのものだ。誘惑は拒絶し、試練は受け入れられるように祈ろう。
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ふたつの試み、とりわけ神から離そうとするサタンの試みには罪が熟すまで気づかないこともある。自分の弱さを忘れず「試みに会わせないで悪からお救いください」と主の守りを朝毎に祈りたい。


2013年11月19日(火)

「とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11 


主は、「求めなさい。そうすれば与えられます」と求めるように言われている。そして、「あなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」と。主は、祈りにより求める者に、良いものを与えて下さる。祈りの答えに、「イエス」「ノー」「待て」があると言われている。

「イエス」は自分が願った通りに答えられること。「ノー」は、願い通りにならないこと。「待て」は、時を待つ必要があるということだ。よく言われるのが、食べ物が無い、貧しい国の人々に、米や野菜を上げるのは良い。が、それよりも更に良いのは、米の作り方、野菜の作り方を教えることだ。そうするなら、今後飢えた時には、自分で対応して行ける。

同じように、主も、即、祈りに答えるよりも、時間をかけて答える事を通して、遙かに良いものを与えて下さろうとしている。つまり、霊的成長のための訓練、鍛錬であり、品性が練られる事による人格的成長であり、忍耐により信仰を成長させることだ。単純な目の前の答えよりも、計り知れない益だ。思い通りにならない事態によって、信仰が練られて成長する。

忍耐の無い所に、信仰の成長は無い。すべてが目に見えたなら、信仰など必要無くなる。今、「待て」の祈りの答えなら、大きな祝福だ。主が目を留め、成長に導こうとされている。
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ノーの答えも、待てとの答えも、最善を与えて下さる神の答えとしてそこから学びたい。最善の時に、はるかに良い祝福が備えられている。今はその途上だ。ふり返る時、必ず感謝に溢れる。


2013年11月18日(月)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3



ある人が、どうしても愛せない人がいた。嫌で、憎しみをどうする事もできなかった。しかし、憎しみには、とがめを感じ、罪責感があり、罪意識にさいなまれた。その罪意識から逃れたいがために、逆に、相手に親切にしようと頑張った。憎しみを隠し、ふたをし、罪責感から逃れたくて必死だった。何とか、礼儀正しく接し、愛の行為をしようと頑張った。

しかし、相手に良い行いをしようとすればするほど、心は、いら立ちと憎悪でいっぱいで、どうにもならなかった。相手の悪口が言われている場所では、口では言わないが、しっかり心で同意して発散させるのであった。そして、溜まったストレスにより、陰では悪口を言ってしまうのであった。愛からは、ほど遠い結果となって行った。

この間違いは、行ないによって罪責感を無くそうとした事だ。良い行ないによって自分を救おうとする。憎悪、敵対心、憎しみを認めないで、それを暗闇に封じ込め、隠し、無い事にしてしまう。そうではなく、憎しみの感情を光のもとに出し、自分がそういう者であると認める事だ。その時、それはすでに光の中だ。あるがままを認め、告白する時、必ず変えられて行く。大切なのは、良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改める事だ。その時、新しく新しくされ、主が働かれる。自分が変えられ自由にされて行く。
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自分の罪を主に認め悔い改めるときに、心が変えられる。行いの前に罪を赦された御霊による喜びがくる。ガチガチの心が自由にされれるとその後の御霊の示しも素直に見えるのではないだろうか。


2013年11月17日(日)

「この女は自分にできることをしたのです」マルコ14:8


 
信仰人生で、「時」と「機会」は大切だ。時と機会は神から来る。
ベタニヤでマリヤは、食卓についておられる主に、ナルドの石膏の
つぼを割り、頭に注いだ。300万とも言われている高価なものだ。
結婚のために少しづつ少しづつ貯えたのだろう。

主の足もとに座って、御言葉を真剣に聞いていたマリヤは、ただ一
人だけ、主がこれから、自分の罪のために十字架にかかられる事を
悟った。もう間もなくである事を知り、主の葬りのためにと、感謝
の余り惜しげもなく注ぎ尽くした。これから十字架へと向かわれる
主を、どんなにお慰めした事だろう。

何も知らない弟子たちは無駄な事だと憤慨した。貧乏な人達に施せ
ば良いのにと。しかし、主はマリヤを弁護された。わたしのために
自分にできる事をしたのだと。主はその愛の行為を受け取られた。
貧しい人はいつでも一緒におり、いつでも施しができると。

主が言われた通り、その時と機会を逸したなら、マリヤはもう香油
を塗ることができなかった。この後、主は十字架へと向かわれた。
いつでも「機会」があるのではない。御霊の示される貴重な、その
時しかない「時」がある。
それを逃したなら、二度とない機会だ。今、もし御霊に示されてい
る事があるなら、時と機会を逃す事なく、主に愛を表そう。

・・・・・・・・・・・・
マリヤはこの時を逸したなら、主に愛をお献げできなかった。御霊
の導きがわかったなら、すぐに従おう。ぐずぐずして時を逃すと、
気持ちも薄れて、気力も失せ、必ずや従えなくなってしまう。今、
示されていることがあれば、すぐに従おう。


2013年11月16日(土)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなた です」詩篇39:7


イスラエルの民は、約束の地カナンを目指して前進し、神を信仰し
て来た。その約束の地に入れば、信仰は必要無いのかというと、そ
うではない。良い地に入って、食べて満ち足りた後も、「主の命令
を守って、その道に歩み、主を恐れなさい」と。

神を信じて生きるのは、何かを貰うためではなく、それ自体が目的
だからだ。ある人がどうしても欲しいものがあり、祈りに祈って、
主に訴えた。何が何でも欲しい、余りにも強烈な願望に、ある時、
神からもぎ取ろうとしている自分の姿を見せられ、恐ろしくなった。

これなら、自分の欲しいものが手に入るなら、対象は何でもよくな
ってしまう。「ひれ伏して私を拝むなら、これを全部あげよう」と
のサタンの誘惑だ。悔い改めて、明け渡した。時に間違ってしまう。

信仰を、自分が良く生きるための、又、欲しいものを得るための、
手段にすると、何もかもが的はずれになる。自分の生きがいのため
の手段、自分の喜びを得るための手段、問題解決の手段、人格者に
なりたいがための手段としてしまう。それなら、自分の思い通り、
期待通りでない時に、必ずつまずいて、失望落胆し、迷路に入り込
み、神から離れる事になる。

又、それなら実質も実感も無い、形だけの信仰になる。何かを与え
られても、与えられなくても、神ご自身を信じて生きる事、神を喜
ぶ事、神を礼拝して生きること、これが目的だ。

・・・・・・・・・・・・・
問題から助け出されること、必要なものが与えられること、祝福を
もらう事だけに、目が奪われているだろうか。与えて下さっている
お方のほうに目を向けて行こう。与え主のほうが大切だ。このお方
を知って行けるように祈ろう。


2013年11月15日(金)

「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5


「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と主は言われた。しかしこの日、ペテロは徹夜で漁を終えたところであり、一匹もとれなかったのだった。プロのベテラン漁師だ。いつも漁をしている場所であり、どこに魚がいるかも熟知している。そして漁は夜するもので、朝に魚などいるわけがない。目に見えるところ、つまり目の前の現実と、主の言葉が合致しない。正反対だ。

こんな時は、どうするのか。ペテロは、目に見えるところは、現実は、何一つとれなかったことを認めて、しかし「でも」で、つないで行く。「でも、おことばどおり」が信仰だ。主の言葉と全く相反する現実を見るが、「でも」主の言葉を優先し、選択した。この反対が不信仰だ。「深みに漕ぎ出して・・」の主の言葉に対して、「でも」夜通し働いたが、何一つとれなかった、だからだめだ、の態度だ。

この二つの「でも」は天地ほどの差がある。12人の斥候もそうだった。「わたしがイスラエル人に与えようとしている地を探らせよ」と「わたしが与えようとしている地」と主は明言された。しかし10人は非常に良い地だが、「でも」大きな城壁、強い民がいてだめだと言い、一方ヨシュアとカレブは、見えるところはそのようだ。「でも」主の約束の地だから、主の言葉があるから、占領しよう、必ずできると言った。御言葉と現実が相反する時、「でも」御言葉のほうに従おう。
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現実と御言葉はいつも相反する。そこに信仰を働かせなさいと主は導いておられる。今までの経験や知識では見たことのない地が向こう岸にある。信じて主と共に行こう。


2013年11月14日(木)

「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです」Tペテロ4:2 

 

私たちは、何を幸せだと思うだろうか。自分の願望が遂げられ、思い通りになるなら幸せだと思うのではないか。欲望が満たされることが幸せだ。これは肉の価値観であり、主を知る以前はこの価値観で生きて来た。だから心満たされたいがために、仕事、趣味、名誉、地位、愛する人・・次々と求めて行く。

しかし、満たされる事は決して無く、更に渇く。「この水を飲む者はだれでも、また渇く」欲望が叶っても、心が満たされる事はない。すぐに渇く。井戸ばたのサマリヤの女性は、5回の結婚と5回の離婚を重ね、現在同棲していた。彼女は男性が自分の心を満たしてくれ、自分を幸せにしてくれると信じていた。だから、結婚がうまく行かないと、この人だからうかく行かず、別の人ならと、5回も繰り返した。しかし、決して満たされる事はなかった。

今も多くの人々が欲望を満たす事が幸せの道、人生の目的と思っている。欲望は人によって違う。富、人からの賞賛、注目を浴びること、自己顕示、自己実現・・、しかしそこに満たしは無い。真の幸せと満足は、神の御心を歩むところにある。御言葉に従って行く時、キリストのかたちに変えられて行く。痛い苦しい試練こそがキリストに似た者と形造ってくれる。自己中心な者が、神のご性質にあずかる者とされている。何という感謝と喜びだろう。
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欠乏を満たすものがこの世のものであったら、手に入れるまで喜びも希望もない。手に入れた一瞬の喜びのための徒労とは違う歩みがこの世で出来る。神の御心のために生きてみよう。


2013年11月13日(水)

「私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負っていません」ローマ8:12



御言葉は「肉」をどう言っているのか。神は、キリストを罪深い肉と同じような形で遣わされた。肉体を取られ、人となられたキリストが、十字架で肉の処罰を受け、肉の全責任を負って下さった。十字架で肉に対して決着がつけられた。私たちの肉は、すでにキリストにおいて処罰されているので、肉に歩む責任は無い。

しかし、肉に歩む責任は、すでに無いに関わらず、肉は私たちに絶えず迫って来る。神は「何も思い煩わないで・・願い事を神に知っていただきなさい」と言われる。「何も心配するな」と。何と感謝な事だろう。今、あなたのその心配事、その不安材料もだ。しかし、肉は「そんな事あるものか。そんな何もかも神任せなど、無責任だ。ちゃんと心配しなければ」と言って来る。

肉は、思い煩うべきだと言い、心配しないと不安なのだ。肉は思い煩うと安心する。それは肉に従って歩む責任を、肉に対して負うことだ。自分の肉も、人の肉に対しても、それを負い、合わせる責任はいっさい無い。肉の声を聞かずに、捨てて、御霊の声を聞いて、従って行く事が大切だ。

そして、御霊の導きを受けた時、自分にはできないとすり抜けてしまったり、捨ててしまっていないか。その時に、捨て去るのでなく、「私にはできません。助けて下さい」と祈って行く事が大切だ。主に向いて行く時、できるようにして下さる。肉に従うなら、死ぬが、御霊に従うなら、生きる。
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肉の声を聞き続けながら、御霊の導きに従うことは無理だ。主が思い煩うなと言われたから信じて行こうと、目指して行くのが新しい歩みだ。主が弱い私たちを助けて下さる。


2013年11月12日(火)

「『主よ。この人はどうですか』・・『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか』」ヨハネ21:21


フィギュアスケートの競技で、時々、選手がヘッドホンをして、順番を待っている光景が映る。他人の点数を聞いて心を騒がせないためだ。心を乱すことなく、自分の演技に一心に集中できるように。他人の演技を見て、他人の出来、不出来に心が動揺し、本番で緊張の余り、ジャンプで転倒してしまうケースがよく見られる。様々な思惑が入り、自分の演技に集中できない結果だ。せっかく普段の練習で重ねた力が十分発揮できない。自分の歩みが、他人により影響受けてしまう。

私たちの信仰人生も同様だ。人と比較して心騒いだり、心乱されるのでなく、主を見上げ、自分に任された賜物を見い出し、訓練し、十分に発揮する事が大切だ。人と比べると、コンプレックスで落ち込んだり、不安になったり、勝ち負けに走り、どこまでも競争相手が基準になってしまう。人に、自分が左右されてしまう。人との比較ではなく、自分に与えられたものを、主のために十分に発揮して行くなら、そこに競争相手は存在せず、主と自分の関係だけだ。

そして、そこには優越感から来る肉の喜びではなく、御霊の喜びがある。本当の喜びだ。御霊の賜物を使って行く時に、御霊の喜びが臨む。人との比較から解放されるのは、「わたしに従いなさい」と言われる主だけを仰いで、自分に与えられた、自分への御心を歩んで行く事だ。
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御霊の導きゆえにここまで何とか歩んで来られた。それは隣の人とは全く違う歩みで、比較のし様がない。自分に語られる主の導きにだけに感化された自分らしい実を結んで行きたい。


2013年11月11日(月)

「わたしは人からの栄誉は受けません・・互いの栄誉は受けても唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたはどうして信じることができますか」ヨハネ5:41



二つの栄誉がある。「人からの栄誉」と「神からの栄誉」だ。「人からの栄誉」は、人間同士で受け合うものだ。人に誉められ、しかし、神に栄光を帰するのではなく、自分が栄光を受ける。その時、心には優越感から来る喜びがあり、自己満足がある。御霊の喜びではなく、肉の喜びだ。もう一方は神からの栄誉であり、神から来るので、人には誉められない。むしろ理解されないかも知れない。

私たちは、確かに神からの栄誉は欲しいが、肉は、むしろ人からの栄誉を求めている。見えない神からの栄誉などよりも、目に見えるものが欲しいのだ。しかし、神の栄誉を求めるなら、人からの栄誉はない、人からの評価は無い。人の栄誉を求めると、神を犠牲にし、神を無視する事になる。人の賞賛を求める、肉の欲求は強烈だ。自分が崇められ、肉の欲が満たされる。

この箇所のユダヤ人達は、御父が御子を遣わしたと言っても受け入れない。しかし、自分たち同士の事は受け入れ合う。これは、神の言葉ではなく、自分の思いを土台にする見方に問題があると言われた。神と神の言葉の上に立つのでなく、どこまでも自分の上に立つ。そうであれば、神を信じることができないと。あくまで自分が主権を握っているから、自分の思いを取り、神の言葉を捨ててしまう。この自分の思いが砕かれる時に、神を信じ愛して行けると。自分の土台は御言葉か、それとも自分の思いだろうか。
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神に喜ばれるより、すぐ側にいる人からの賞賛に左右される誘惑はいつも襲ってくる。聖書を調べていてもなお、主が見えない彼らのように惑わされないよう、自分の思いを取りのけ御言葉に立とう。



2013年11月10日(日)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6


近隣、職場、学校で、嫌な相手と遭遇する。なるべく避けようとす
る。会いたくないので、そのように行動する。どうにもならないと、
職場を辞めて、次の仕事を探すことになる。しかし、又、次の職場
で、又、同じような相手に出会うのだ。

又、職場を変える。だが、同じ事が起こる。経験者がいるかも知れ
ない。何度も繰り返し、長年かかり、やっと相手でなく、環境でな
く、自分の問題だと気づく。これもなかなか気づかない。どう見て
も相手が問題だとしか見えないからだ。

これに気づいた時、状況は変わらないのに、帰るべき所に帰った深
い平安に包まれる。「羊のようにさまよっていたが、自分のたまし
いの牧者のもとに帰った」感覚だ。安堵感で心が満ちる。

ある人が、職場で、突然同僚から攻撃を受けた。どうも仕事上の事
で、自分の行動で、相手に不利益が生じたようだ。しかし、自分は
何も間違った事はしていない。悪口をあちこちで言われ、理不尽に
感じる。自分は被害者だと思う。

何で、何でと、辛くて、主の御前に静まり、心のすべてを打ち明け、
感情も受け止めて頂き、祈った。自分の心を探っていると、自分は
一方的被害者だと思っていたが、自分の心の奧には相手への妬み、
張り合い、又、裁く心がある事が示された。

高ぶりであり、意識もせず、思ってもみない事だった。主の御前に
悔い改めた。その時、辛い心に安堵、平安が広がった。この事を通
して、主と深く交われた事が、何より嬉しかった。

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目の前の問題に、まず主を認めよう。主を認めて行く時、御霊が
様々な気づきを与えて下さる。自分にも問題があることを気づかせ
て下さる。そして、平安へと導き、次の段階へと導いて行って下さ
る。


2013年11月09日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5

  

私たちは、しばしば悩みや問題にぶつかる。その問題は、大きな壁
のように、自分の目の前に立ちはだかる。ああでもない、こうでも
ないと悶々とし、その問題に飲み込まれ、捕らえられてしまう。そ
の悩みの最中は、出口の無い真っ暗なトンネルのように感じる。

真っ暗闇で何も見えない。試練は必ず出口があるトンネルなのに、
その渦中ではこの真っ暗闇が永遠に続くように思えてしまう。苦し
くてたまらず、祈るのだが、とにかくその苦しみから逃れたいばか
りだ。助けて欲しいばかりで、すぐに解決して欲しいとあがき、も
がく。

この苦しみを何とかして欲しい一心だ。主に委ねることだと頭では
わかるが、しかし、一番の問題は委ねられないという事だ。底に、
主に委ねられない自分がいる。頑なな自我がある。祈りながらも、
自分で何とかしようと、あれこれと方策を模索し探り回る。しかし
どうにもならない。

その問題を主に委ね、自分自身を明け渡す事が出来た時に、光が射
して来る。問題自体の解決より前に、心が平安になり、解き放たれ、
解決も同然となる。自分が変えられる。

今、あなたも困難に、問題に、ぶち当たっているだろうか。心が苦
しく悶々状態だろうか。あなたも、一番必要な祈りが「委ねる事が
できますように」かも知れない。しかし、これが自分では出来ない
ので、主の助けを求めよう。

・・・・・・・・・・・・
一番大きな問題は、「委ねることができない」ということだろうか。
明け渡すことができない。自我が自分でしようとして、握り締めて
放さない。「委ねることができるように助けて下さい」と祈ろう。
主は祈りに答えて、助けて下さる。


2013年11月08日(金)

「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを信じました」ローマ4:20


アブラハムが75歳の時、神の示しに従い、カランを出てカナンの地に移り住んだ。しかし、子が無く、エリエゼルを相続人にと考えていた。その時に、神から、あなた自身から生まれ出る者が、跡継ぎとなると言われた。満天の星を見せられ、子孫はこのようになると。アブラハムは信じ、神はそれを彼の義と認められた。

しかしその後、ずっと子供は生まれず、サラの提案により、女奴隷ハガルによりイシマエルを得た。86歳であった。だが、それは肉の思いによる事であった。その後も、約束はあっても状況的には何一つ動かない、何も見えない歳月が続いた。厳しい忍耐の時であった。それから13年後、99歳の時に、主が彼に再び現われ、子孫を与えると語られた。そして、100歳になって、とうとうイサクを得た。

アブラハムは常識的にはもう不可能な、厳しい状況の中で、見えるところでなく、神ご自身を信じた。望みえない時に望みを抱いて信じた。見えたなら信仰は必要ない。見えないものを信じるから信仰だ。それは厳しい状況を見るのでなく、約束して下さった神を見続ける信仰だった。アブラハムには数々の失敗があった。しかし、信仰の父と言われ、神はその「信仰」を喜ばれた。あなたも今、厳しい状況だろうか。「胎の死んでいることを認めても」、尚も神の約束の言葉に立とう。神の約束は真実だ。
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厳しい現実しか見えない所で何を見ているだろうか。必ず祝福が待っているとの御約束に立っていても、目の前の現実が大きく見える日もある。明日を変えることの出来る神を見あげ、御約束に賭けていこう。


2013年11月07日(木)

「・・異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っています。だから彼らのまねをしてはいけません」マタイ6:7 


主は「御父は、お願いする先に、必要なものをすでにご存じ」と言われた。では何のために祈るのか。御父がご存じであれば、祈る必要が無いのではないのか。これは異邦人のように、同じ言葉を繰り返し、言葉数が多ければ良いとの態度が間違いとの指摘だ。祈り倒そうとの勢いで、ただ言葉の多いのが勝ちなのではない。言葉数の多い順に聞かれるのではない。だから言葉の繰り返しは無益で無駄だ。

この世の宗教と違い、御父はすでに必要も状況も何もかもをご存じであり、知らない相手に対するごとく、くどくど説明する必要もない。しかし、神は次の節で「だから祈りなさい」と言われた。だから祈る必要ないのでなく「祈りなさい」と。祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯すべての必要を完全に保障するから、いっさい語るな、何も言うな」と言う親はいない。親は子供の語る言葉を聞き、対話したい。

それは親は子供を愛しているので、喜びで楽しみであるからだ。
御父はあなたの声を聞きたいと待っておられる。又、神は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真に必要な物をわかっていない。的はずれに求め、まともだと思っている。自分の誉れ、欲のために求めて気づかない。神はそれらを軌道修正し、正しく導き、あなた自身を変えて下さる。それは祈りの実践の中でのみ可能だ。
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主との個人的な交わりである祈りは、すらすらと流れるようには出て来ない。祈りによって自分の本当の心の底を見る。そして、想像をはるかに超えた主の備え、ご愛の一片を知る。ことごとく祈ろう。


2013年11月06日(水)

「もう航海は危険であったので、パウロは人々に注意して『・・積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶと考えます』」使徒27:10 



パウロがローマへ護送される途上、船はクレテの良い港に着いた。そこで人々は、この港よりもっと良いピニクスまで進んで、そこで冬を越そうとの意見だった。しかし、パウロは、祈りの中で示され、この航海は危険であり、命にまで危害が及ぶと強く反対した。「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」人々はパウロの言葉を信じず、決定権を持つ百人隊長もパウロより経験深い航海士や船長の言う事を信用した。それで、それに従い出帆した。すると案の定、パウロの言った通りに、暴風に巻き込まれた。

私たちも信仰生活で、常に二つの声が聞こえて来る。二つの思いがふつふつと湧き上がる。一つは御言葉を通して、聞こえて来る神の御声であり、もう一つは自分の経験や知識、自分の思い、判断から聞こえて来る肉の声だ。それは世の価値観に基づいていて、見えるところから判断する声だ。背後でサタンが働いている。結局のところ、どちらの声を選択するかにかかっている。

彼らは暴風に会い、なすすべなく積荷を捨て、船具も捨て、助かる最後の望みも絶たれようとしていた。その時、人々は初めてパウロの言葉に思いが至った。パウロは「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じている」と人々を励まし、紆余曲折の末、彼らは全員まさにパウロの言葉の通りに助かった。今、あなたも自分の思いに傾いているなら、聞くべきは神の御声だ。
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神様は必ず御心を成される。自分のタイミング、自分の思い入れを主に渡し、主に信頼して落ち着いていよう。パウロのように嵐に連れ出されても、主に尋ね耳を傾けるなら主はいつも導きを与えて下さる。


2013年11月05日(火)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9



パウロには、何らかのとげが与えられていて、非常に辛く、苦しいものだったようだ。パウロにとっては、これさえ無ければと思うものであった。これがあるがために、働きがしにくい、これが無ければ、もっと〃有効に主のために働けるのにと。しかし、神のみ思いは別であった。高慢にならないためであり、弱さの中にこそ、神の力が働くのであり、その弱さを嘆くのではなく、むしろ誇れと。

私たちにも与えられているだろうか。これさえ無ければ、もっと主のために働けるのに。これにより足を引っ張られているのではない。性格的弱さか、境遇か、身体的弱さか、病か、しかし、主の恵みは十分だと言われる。満ち足りていると。その弱さを取り除き、取り去るのでなく、そうでなくその弱さこそが、神の力が、完全に現われるところだと。あなたにもあるだろうか。ここがもっと○○だと良いのに、これさえ無ければよいのに、もっと違う境遇なら良かったのに・・。スムーズに、自由に、神様のために働けるのに。

そうではなく、そこを誇れと言われる。そこにこそ神の栄光が現れる。又、私たちもパウロのように何でも主のもとに持って行き、祈り求め、そして自分の願い通りにならない事も、大きな祝福だと知ろう。「ノー」の答えの中に、そこに神の御心があるからだ。神の御心を知ることが、自分の思い通りになる事以上に素晴らしい祝福だ。
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状況に不満はあるが主はそれを十分だと言われる。これさえ無ければ、あれさえ有れば、誇れるほど主を頼りに歩んでいるだろうか。弱さを受け入れ、今日も主に感謝して歩もう。


2013年11月04日(月)

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」ヨハネ8:11 




律法学者とパリサイ人が、姦淫の現場で捕らえられた女を、主のもとに連れて来た。姦淫が許せないという事ではなく、主を陥れる罠のためだった。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」石打ちにせよとなると、あなたが説いている愛はどうなるのか、石打ちにしないとなると、律法を守らないと告発しようとした。

しかし主はかがみ、指で地面に書いておられた。尚も問い続ける人たちに「あなたがたのうちで罪の無い者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われた。すると、一人一人と去り、皆が去って行き、誰もいなくなった。彼女も、皆に紛れ込んで逃げ去る事ができた。しかし、彼女は逃げずに、自分の意志でそのままそこにいた。現行犯で捕らえられ、逃れる事が出来ない。姦淫は死刑であり、石を打たれて当然であった。

死を前に、罪を意識していたであろう彼女に、主の言葉がしみ入っただろう。想定外の展開に、今まで見た事のないこのお方に 身を委ねた。群衆は罪がわかったが、主から逃げた。主は彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と聞くと、彼女は「主よ。だれもいません」と答えた。「わたしもあなたを罪に定めない」と。

彼女は赦しを受けた。罪の苦しみから逃げる事が解決なのではない。真の解決は罪が赦されることだ。同じように、主はあなたの罪を赦して下さる。「あなたを罪に定めない」と。逃げないで、主に向かおう。
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罪が赦されるという喜びは、罪を全て負って下さる主の前に立って始めて与えられる平安だ。赦されまた新しくされるとは何と感謝なことだろう。自分の義を誇り、逃げていてはいつまでも闇の中だ。


2013年11月03日(日)

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの 主キリスト・イエスによる永遠のいのちです」ローマ6:23 



アダムとエバは、神から食べるなと命じられた善悪を知る木の実を
食べた。すると、蛇が「あなたがたの目が開け・・」と言った通りに、
彼らの目は開かれた。しかし、目が開かれて見たものは自分達の裸
であった。それも以前はずっと裸でいて、どうも無かったのに、そ
の裸が恥ずべきものとなった。そのため、いちじくの葉で腰をおお
わねばならなかった。

エバはアダムの助け手であり、彼らの助け合う信頼関係は、壊れて
しまった。互いに非難し、責任転嫁し合う関係になってしまった。
更に、神の声を聞いて「恐れて、隠れた」とあり、神が恐怖の対象
になった。恐いので、隠れる事になる。

善悪を知る木の実を食べた結果、神を恐れるようになり、夫婦は互
いに信頼する事ができず、自分をあるがまま、本当の姿を出せなく
なってしまった。霊的な死により、神との関係が遮断された結果、
人からの愛を求めるようになり、人に良く見られたい、人の賞賛、
人からの評価を気にして生きるようになった。

弱さは恥であり、決して見せてはならないものとなった。あるがま
まの姿ではおれず、人前を繕い、強く見せかけ、又、自分で自分に
付加価値をつけて行く、辛い生き方となった。
主の十字架はそこから救い出し、無条件で愛されている事、弱さこ
そが恵みであり、神の力が現される強みである事、全く新しい価値
観へと変えてくれる。

・・・・・・・・・・・・
罪は、神と隔たりを作り、平安を奪ってしまう。しかし、悔い改め
る時、罪は犯したが、赦されて無罪放免とされて、そして心に平安
が戻る。主が与えて下さるのは、付加価値が全く必要のない、安堵
に満ちた幸せな生涯だ。


2013年11月02日(土)

「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまり ます」ヨハネ15:4

 

「苦しい時の神頼み、楽しい時の神離れ」と言われている。苦しい
時には、神に助けを必死に求めるが、苦しみが去った途端、物事が
うまく行き始めると、頼る必要が無いので、神から離れて自分で生
きてしまう。

商売繁盛、受験合格、家内安全ではないが、目の前の仕事の窮地を
助けて欲しい、経済的必要を与えて欲しい、受験に合格させて欲し
いと、神を求める。欲しいものを手にしたい。しかし、得てしまう
と、再び自分の道に戻り、自分の道を歩む。

そして又、困難が生じると、主のもとへ来る。一生、これの繰り返
しならどうだろう。欲しいものを得るだけで、自分と主との関係は
どうなっているのだろう。これなら主はしもべになってしまう。勿
論、主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と、必要を求め
るようにと言っておられ、豊かに与えて下さるお方だ。

主は願うことを求められ、祈りに答えて下さり、私たちを喜びに満
たして下さる。しかし、主は、私たちが欲しいものを得るための手
段ではない。主と私たちの間は、「信頼関係」にある。主は、私た
ちが、主を、しもべではなく、主として生きて行くことを願ってお
られる。

主として生きて行くという事は、苦しみの時も、悲しみの時も、喜
びの時も、幸福の時も、絶えず主と共に生きて行く事であり、物事
がうまく行こうが、そうでなかろうが、いつも主を求めて行くこと
だ。それは取りも直さず、「すべての事について感謝しなさい」と
の歩みだ。

・・・・・・・・・・・
主は、苦しみの時に助けて下さるが、それだけでなく、愛して下さ
っているので、日ごとに交わりの中で、私たちを生かしたいと願っ
て下さっている。その交わりは深められて行き、主を親しく知って
行ける。ただ、困った時に、助けてもらいたいだけだろうか。


2013年11月01日(金)

「事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」Tテサロニケ2:13 



ある人が言った「振り返ると、御言葉を聞くには聞くが、そんな事では、この世の中生きて行けないと思い、御言葉を心に受け入れていなかった。捨てていたと、今わかる」「御言葉はそう言うかも知れないが、自分はそうは思わない」と、結局、御言葉を否定していたと。「御言葉を、ためになるお話程度に思っていて、神の言葉として受け取っていなかった」。又、妬みや敵対心、憎しみ、怒りが出て来る時に、クリスチャンだから、こんな事を思ってはいけないと、心に抑え込んでいた。

むしろ、表に出さないのだから良いと思っていた。しかし、抑え込んだものは、積もり積もって必ず爆発したと。それは抑え込むのではなく、一つ一つ、主に言い表して行くことだ。「腹が立ちます」「妬みで心が苦しいです」「相手の言葉に、ムカッとしてます」と、主に向いて、主に渡して行くことが大切だ。

別の人は、御言葉を受け取り、御霊の促しを感じ、御心だと思うのだが、ぐずぐずと従えないと。サタンも御心を行わせまいと、攻撃し、妨害して来る。その内、別にしなくてもいいのではと思えてしまう。確信があいまいになって来る。御心を行なえないままに終わる。そんな時も、あるがままを主に告げよう。「気力がありません」「従いたくないです」「一歩が踏み出せません」と、主に向かう時に、そこに御霊の助けが来て、行なう事ができるようにされる。
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神様の御言葉は生きていて力がある。またその力あるお方が祈りを聞いていて下さる。信仰をもって一つ一つの御言葉を大切に聞き、従おう。その時にまた個人的に生きて働かれる神様を知れる。