2013年12月31日(火)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:25



「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」と、信じて祈る時、素晴らしい約束が与えられている。しかし、赦す事が強調されている。赦さない心は祈りを妨げる。神があなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しなさいと。

私たちは、失敗する者だ。しかし神は豊かに赦して下さっている。罪を犯してしまうが、赦されて生きている。それゆえ、私たちも赦すべきだと。まず恨み事や憎しみ、赦さない心があると、祈れなくなる。主と私たちの間に、へだたりができてしまう。すると、確信もった祈りができなくなる。あなたも経験あるだろうか。

ある人が、切実な必要があり、祈っていた。しかし、幾ら祈っても答えが無い。すると祈りの中で、ある人に対し、恨みと憎しみ、苦々しい思いを持っている事を示された。これが祈りを妨げている事がわかり、悔い改めて赦した。赦すという事は、赦せるからそうするのでなく、決意だ。赦す決心であり、赦す事を選択する意志だ。意志の問題だ。感情に依存してたなら一生赦せない。

その後、見事に祈りが答えられた。赦さない心は、祈りを遮断する。祈りの答えを受け取るために、密かな恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に探って頂こう。妨げが取り除かれる時、平安が与えられ、すでに受けたと信じる事ができ、その通りの答えを得る。

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今年1年も感謝でした。係が海外宣教地訪問等々のため、申し訳ありませんが5日までお休みし、6日から年始の配信をさせていただきます。新年の祝福をお祈り致します。




2013年12月30日(月)

「・・あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、」創世12:1



「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て」とアブラハムは神に告げられた。「生まれ故郷、父の家」とは、自分の心のふるさとでもあり、居心地の良い場所、長い間、慣れ親しんだ習慣、生活、自分の居場所、拠り所だ。不足する事なく、困る事もなく、安心で、常に周囲からの助けもあり、生活の基盤が据えられていて、安定した場所だ。

一つ所にとどまれば、経済的基盤もできる。つまり、そこにいれば、物心共に神に頼らなくても生きて行ける。そこを出るという事は、それらを捨てて、神にのみに拠り頼むという事だ。全く見知らぬ地へ出るわけであり、何があり、何が起こるかもわからない。身の危険もあるだろう。自分の持ち物にも頼れず、人も頼りにならず、自分の知恵も判断も頼れない。ただ神だけが頼りであり、神の言葉だけが行く道を示し、照らす。

私たちもどうだろう。「生まれ故郷を出て」「親族を離れて」、神以外に依存している様々なものから離れて、神だけを頼って、次の領域に前進せよと言われていないだろうか。霊的な領域の事だ。人や物、自分の知恵、判断への依存から出て、信仰をもって次の段階へ進めと。その時、神ご自身があなたの故郷となり、あなたの家となって下さる。あなたは何に根深く依存しているだろう。
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慣れ親しんでいるいつもの生活から出られずに、この一年が終わろうとしているだろうか。今年も多くの主の備が与えられたことを振り返ってみよう。渡るべきヨルダン川、漕ぎ出す向こう岸に主を信じて一歩踏み出してみたい。


2013年12月29日(日)

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた」使徒8:4


サウロは、ステパノ殺害に賛成していた。聖霊に満たされたステパノの見事な力に満ちた証しを目の当たりにして、サウロは憎悪に燃た。キリストを神と仰ぎ、救い主とする、クリスチャンは天敵以外の何者でもなかった。激しい怒りと敵対心、憎しみを更に増幅され、抹殺の意を固くした。

反面それはサウロの救いの伏線ともなった。ステパノの厳かな殉教の死により、更に迫害は激しさを増し、荒れ狂った。サウロは憎悪に燃えて、教会を次々と荒らし、家々に入って、容赦なく人々を引きずり出し、投獄して行った。

そのため信徒たちは四方へ追いやられ散らされて行った。皆が、散りじりになってしまった。では、この苛酷な迫害で、信徒たちは意気消沈して、気力を失い、教会は壊滅して行ったのか。決してそうではなかった。迫害から逃れるために、あちこちにバラバラになり、散らされた信徒たちは、何と「みことばを宣べながら、巡り歩いた」。

結果的に見れば、この迫害による離散によって、返って福音が大々的に伝えられる事になってしまった。信仰の火が消えるどころか、どんどん燃え上がり、福音は四方八方に拡大されて行った。

私たちの信仰人生も同様だ。「どうしてこんな事が!」「なぜこんな苦しみが?」それが思いを遙かに超えた展開へ導かれて行く。神のみわざだ。今、あなたも見えるところは真っ暗だろうか。主を信じて待ち望もう。今の苦しみが御手により、最善の結果へと導かれて行く。いつも希望がある。

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迫害の苦しみによる離散が、多くの人々の救いへと展開して行ったたように、私たちの突然の「何で?どうして?」の事態が、主の栄光へと展開して行く。目の前の苦しい問題が、必ず主の素晴らしさを知れる事になると、信じて行こう。


2013年12月28日(土)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」箴言29:25


ある人の証しだ。職場の付き合いで悩んだ。飲み会が頻繁にあるのだ。自分は飲まないし、付き合い自体も苦手で、苦痛でたまらず、嫌な思いをし、しかし仕方なくズルズルと参加していた。参加せざるを得ない雰囲気で、渋々付き合っていた。

連日のように深夜まで続き、心身共に辛くて仕方が無かった。もっと他の事に時間を使いたい。それなら断ればと思うが、断る事ができないのが自分の弱さだった。「ノー」が言えない。人にどう思われるかが恐い。

ある日、祈りの中で、そんなズルズルベッタリの中途半端な自分の姿が見せられた。人を恐れて、主に従っていない事に気づかされた。人の目ばかりが気になり、神も信仰も飛んでしまっていた。ただただ、人におもねって、人に気に入られようと振る舞っている自分に気づかされた。まるで自分が無い。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」。「主に信頼する者は守られる」との言葉に励まされ、現状をことごとく主に告げ、自分の気持ちも主に告げて、そして自分を明け渡して助けを求めた。すると心に平安が来た。

あれほど人が気になって仕方が無かったのに、心が変えられて、自分は自分と思えるようになった。そして、断れるようになった。尚且つ仕事も、対人関係も、主により守られた。日常の中で、「ノー」が言えない自分が変えられた事が、何よりも神のみわざであった。
主に明け渡して頼る時、恵みは十分で「弱さ」の中にこそ、御力を現して下さる。弱さをもったそのままで、主のもとに行こう。

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「ノー」が言えない事に、人にどう見られるか、どう思われるかと、人を恐れる弱さがある。しかし、人を見ている時は、主を見ていない。主に向いていない。主に向くことが解決だ。「人が気になります」と祈ろう。


2013年12月27日(金)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



あなたの心が、最も喜びとするものは何だろう?人は皆、自分の心を満たしてくれるもの、自分に幸せを与えてくれるものを喜ぶ。自分に満足を与え、幸福感で一杯にしてくれるものを求める。お金が自分を幸せにし、夢を叶え、喜びを与え、生活を保障してくれると思うなら、お金を求めるだろう。

又、人からの賞賛が、自分に満足と幸福を与えてくれるなら、人からの評価に的を合わせて人生を生きることになる。「何を自分の喜びとするか」そこに、自分の時間も能力も持てるものも注ぐ事になる。そしてそのように人生が築き上げられる。自分は何が喜びなのだろう。

ある宣教師は懸命に働きをし、人々が集まれば喜び、人が来なければ、がっくり落胆した。成果があれば喜び、無ければ失望する。しかし、これなら宣教の成果を喜びとしているのであり、主を喜びとしているのでは無い事に気づかされた。主ではなく、主が下さるものを喜びとしている。それなら、自分の願いが叶えられない時、必ず失望するし不満を持つ。

成果でなく、主が与えて下さるものでなく、主ご自身を喜びとして行く時、状況や結果がどうであれ、変わる事のない喜びがある。主との関係の中にいることが、最も心満たされる、喜びだ。別ものを拠り所としていないだろうか。
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結果や成果が究極の目的なら、明日は今日より歳老い、体力も気力も減る。全てを益として下さる主を仰ぎ見て、主と共に歩む過程が喜びであるとは、なんと希望に満ちた毎日だろう。


2013年12月26日(木)

「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6


主は、ダビデが献げたいけにえも、穀物のささげ物もお喜びにはならなかった。いけにえも穀物のささげ物も、主は喜ばれず、ダビデの耳を開いて下さったとある。「耳を開く」とは、心の耳を開くということであり、「穴を開ける、掘る」と言う意味があると言われている。

ダビデの心の耳が開かれたということは、耳はあるが、ふさがっていたのであり、穴を開けられたことになる。私たちはどうだろう。主の御声が、心の耳に聞こえているだろうか。肉の思いでいっぱいだろうか。単に物理的に聞こえているだけだろうか。それとも、御言葉の頭の理解だろうか。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。

見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」。又、自分の都合の良い言葉だけ聞いて、あとは耳を閉じているだろうか。少しでも都合の悪い、自我に触れて来る言葉なら、即、心を閉じてしまう。もし、こういう状態であり、耳がふさがっているなら、何も聞こえてこない。主にありのまま、御声が聞こえません、聞く耳がありませんと向かおう。主こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に自分の状態を認めて、主に向かう時、必ず答えて下さり、耳を開いて下さる。
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心の内にいろんな声を聞く。罪を犯したら、ちょうどよい言い訳の声がし、主との交わり不在のままなら自己満足の信仰生活を送ってしまう。いつでも主に向かって耳を開かれた者であるだろうか。
 


2013年12月25日(水)

「この地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている」民数記14:9 



イスラエルは出エジプトを果たし、約束の地カナンに向かった。その途上で、12人の斥候がカナンの地を偵察した。彼らは戻り、その内10人は「あの民は私たちより強い、民は背が高く、自分たちはいなごのようであり、敗北だ。無理、不可能だ」と言った。あとの2人は「大丈夫だ、主が占領される。彼らは私たちのえじきとなる」と言った。

しかし、全会衆は、10人の言う事が妥当に見え、失望落胆し絶望した。大声を上げて叫び、泣き明かした。エジプトで死んでいたら良かったのにと、つぶやいた。なぜ主はこの地に導き、剣で倒そうとされるのかと、主のされる事を悪意と取る。そしてエジプトに帰ろうと言い出し、ひどい不信仰に陥った。

斥候12人は全く同じものを見た。だが、カレブとヨシュアは、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずできる」と言った。まず主のことを思い、主の御心を、目に見える現実に当てはめた。他の10人は、まず自分の思いがあり、目に見える所を自分の能力、持てるもので量り、結論を出した。ここが違っていた。

神を通して状況を見るか、神無しで状況だけを見るか。あなたの目の前に、今、そびえ立つ困難があるだろうか。主を見て、状況を見ているか。ただ難しい状況を見ているだけだろうか。
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目に見えるものに反応し、恐れがある時はネガティブな意見に傾いて行く。信仰に立っていない言葉を安易に口から出さないよう、その中で神様が見ているように見せて下さいと祈りたい。


2013年12月24日(火)

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」ルカ23:34




あなたには、赦せない人がいるだろうか。平常は、目の前の事で忘れているが、何かの時に、フラッシュバックして、その時の恨みが思い起こされ、怒りが湧き上がる。それなら、昔の事であるに関わらず、今もその人にコントロールされ、影響受けている事になる。ずっと囚われ、拘束されている事になる。

真に心解き放たれ、自由にされ、喜びと平安に満たされたいなら、どのような事情があるとしても、その人を赦すことだ。赦すのは、相手のためではなく、自分自身のためだ。牢獄から出る事ができる。ある人が、どうしても赦せない人がいて、ずっと心が辛く、苦しくてたまらなかった。その人の事を考えると、思い出すと、心が暗くなり、重く苦しくなる。どんなに楽しい時にも、影を落とした。

自由になりたくて、赦そうとするが、赦せない。もう瀬戸際に来て、どうにもならず「赦せない私を、赦して下さい」と祈って、主に自分自身を明け渡した。すると、奇跡が起きて、赦すことができた。心に平安と喜びが満ちた。

主は十字架で死ぬために、生まれて下さった。そして、十字架上で、私たちの赦しを祈って下さった。その赦しがあるので、赦しを受け取る事ができる。自分で赦すことはできない。主に明け渡して行く時に、主が働いて、みわざをして下さる。赦せない自分が赦されるとは、何という恵みだろう。
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なぜ赦せないのかを腹立たしさが襲ってくる度に主に告げてみよう。赦されているのに赦せない私、その弱さに主は必ず応えて下さる。あなたの罪は赦された、その印の十字架を日々知って行きたい。


2013年12月23日(月)

「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です」使徒9:15



アナニヤという信徒が出てくる。彼は使徒ではなかった。しかし忠実な、従順な信仰者だった。主に呼ばれた時「主よ。ここにおります」と答えている。常に主を見上げて「お従いします」との姿勢で歩んでいる人物だ。主は、サウロのもとへ行くように言われた。しかし本当に回心したのか。以前のままなら、即、殺されるではないか。アナニヤは戸惑い、冷徹な迫害者であったことを告げる。

主は、彼が異邦人に宣教する選びの器であると伝え、主のご計画を打ち明けられたのだ。この主の言葉をアナニヤは受け入れ、主を信頼した。アナニヤは自分を明け渡して、従った。それで、サウロを訪ね、「兄弟サウロ」と言えた。このアナニヤの主への従順があったからこそ、パウロは見えるようになった。

アナニヤはどんなに勇気がいったことだろう。しかし従った。
そして主はアナニヤが従う事を知っておられた。だから重大な務めにアナニヤを選ばれた。主の御心を実現させるのは、私たちの従順だ。主はそれを求めておられる。

あなたも今、御心が示されているか。主はあなたを信頼しておられる。パウロは主の選びの器であった。アナニヤも主の選びの器であり、私たち一人一人も主の選びの器だ。職場で、学校で、家庭であなたはたった一人のクリスチャンだろうか。主があなたを遣わしておられ、そこであなたを用いるためだ。あなたは主の選びの器だ。
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いつも主と共にいる。御言葉も導きも素直に自分に語られると聞いて行こう。どこにいても主の器として用いていただける。主に焦点をあわせ、置かれたところで喜んで示されたことをしよう


2013年12月22日(日)

「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設け て・・彼らは打ち負かされた」U歴代20:22 



モアブとアモンが攻めて来た時、ヨシャパテ王はどうしたか。全国
に断食を布告し、ただひたすら主を求め、祈った。窮状を主に祈り
訴えた。すると、主はレビ人ヤハジエルを通して語られた。この戦
いは神の戦いであり、主が共にいるから、恐れず出陣せよと。

これを聞き、ヨシャパテはひれ伏して、礼拝し、神を賛美した。歌
う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあげ始めた時、主は伏
兵を設けて、奇跡的勝利を与えられた。神の働きであった。

この箇所から問題への対応を教えられる。その悩み、問題、困難だ
けを見ていると、私たちは問題に圧倒され、困難に飲み込まれ、思
い煩いと不安で、失望落胆し敗北してしまう。しかし、ヨシャパテ
のように、まずその問題を主の前に持ち出し、主に訴え祈ることだ。

自分で何とかしようとせず、主にお委ねする。すると、主は答えて
下さり、御言葉を送り、励まし慰め指針を与えて下さる。感謝し、
賛美して行く時、主が戦い、勝利を与えて下さる。不思議に問題が
解決して行くのを見る。

むち打たれた後の、暗い牢獄の中で、パウロとシラスも幾らでも苛
立ち、愚痴や不満、落胆が出たであろうに、そうでなく彼らは天を
見上げ感謝し賛美し、祈りをしていた。

その時、主による地震のみわざが起き、結果的に人々が救われた。
感謝する事は信仰であり、その事態に主の主権を認めることだ。そ
の信仰に主は働かれ、みわざをされる。

・・・・・・・・・・・・・
窮状に、喜びの声、賛美の声を上げると、主は伏兵を設けて救い出
して下さった。主はどんな事をしてでも、助け出して下さる。目の
前の行き詰まりの中で、主に不可能は無いことを覚え、意志で感謝
を選択してみよう。まず、心が変えられる事を経験する。


2013年12月21日(土)

「そういうわけで・・私たちの念願とするところは、主に喜ばれるこ とです」にコリント5:9

 

フィギュアスケートの選手ジャネット・リンは、オリンピック優勝
の最有力候補であった。しかし、大事な本番で転倒し、尻もちをつ
いてしまった。あっと息を飲んだその瞬間、優勝が消えた事が誰の
目にもわかった。しかしその時、彼女はにっこり微笑んで、立ち上
がった。

そして最後まで競技を投げ出さずに、心を込めて丁寧に力一杯の演
技をした。決して競技を捨てなかった態度と、その素晴らしい演技
に魅了された観客から感動の拍手喝采が起きた。何と優勝者よりも
大きな拍手であった。後々までその感動は語り継がれた。

私たちは、どんな状況でも、神の栄光を現わすことができる。優勝
により神の栄光を現わすことができ、同時に失敗しても、起き上が
って、最後まで精一杯の、最高の演技をする事によって、神の栄光
を現わすことができる。その事は、人々に大きなインパクトを与え
る。

私たちは、何のために生きているのだろう。ただ勝つために、優勝
するためにだけなら、転んだ瞬間に、すべては無であり崩れ去る。
そこにもう意味は無くなる。失望落胆し、気力が失せる。しかし、
私たちは主に喜ばれるために、主のために生きている。

勝つことでなく、主の栄光を現わすことが最終目的だ。それに伴う
動機は大変重要だ。何のためにそれを行なうのか。自分の栄誉、自
分の賞賛を得るため、自己満足のためだろうか。それとも主に喜ば
れるためだろうか。

・・・・・・・・・・・・・
どんな状況であれ、動機が正しければ、主の栄光のために用いられ
る。もし、失敗したとしても、そこで尚も、主を見上げて従って行
くなら、主の栄光を現して下さる。何とあわれみ深いお方だろう。
どんな時にも、どうなろうとも希望がある。


2013年12月20日(金)

「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください」ヨハネ17:5



主は、十字架の死の前に「父よ、時が来ました・・子の栄光を現して下さい」と祈られた。この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるようにと。一見、敗北、悲惨、無力にしか見えない。「どこが栄光?これが神の子?」と惨めで哀れな姿、その苦しみが神の栄光である事を、主は知っておられた。両手両足を釘づけられて、さらされた姿で、何の抵抗も出来ない。なされるがままであり、これこそ無力の極みだ。

しかしこれが栄光だと言われている。「栄光」と聞くと、大成功、うまく行く事、喜ばしい事、失敗の反対を思い浮かべないだろうか。受験は合格、畑は豊作、子供は良い子、立身出世、商売繁盛、夫婦円満、こういう事が栄光だと思っていないか。しかし、十字架刑が「わたしの栄光を彼らが見る」「わたしを栄光で輝かせて下さい」と言われた「栄光」であった。

大成功だけが栄光なのではない。どんな状況でも、それが悲惨なものであっても、又、失敗であっても、そこで、あなたが御霊に従うなら、神はあなたを通して「栄光」を現わされる。姦淫と殺人罪はどうだろう。栄光の正反対だ。しかし、真摯に悔い改めたダビデは、素晴らしい栄光のために用いられた。ヘブル11章の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、癒され、引き上げられただろう。どんな状況であれ、そこで明け渡して、御霊の導きに従おう。その時、主の栄光を現わして下さる。
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失敗した姿であっても主に従っているなら、そこに主の栄光が現れるとはなんと幸いだろう。大成功の喜びの中だけに神様を証しがちだがどんな中でも主の力に被われている。明け渡していこう。


2013年12月19日(木)

「あなたがたのうちから、その聖絶のものを、一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない」ヨシュア7:12 




アイへの偵察隊が「彼らは僅かなので、二、三千人で大丈夫」と戻って来た。そこで三千人を戦いに出したが、さんざんな敗北だった。想定外の事実に、民の心はしなえ、水のようになった。勝利を信じて疑わなかっただけに、大変なショックであり動揺であった。奇跡のヨルダン渡渉、エリコ城壁崩壊の大勝利を目の当たりにし、大いなる神が共におられる、その事がヨシュアの拠って立つところだった。

敗北の事実そのものが、それらをなし崩しにしてしまう。主の御名はどうなるのか。敵の前で、この敗北はどうなるのか。ヨシュアは「なぜですか」とひれ伏し祈った。「大いなる御名のために何をされるのか」と。しかし「大いなる御名」こそがこの敗北
を与えられた。

全能の神は、同時に「聖い」神であった。「聖さ」に関心を持たれ、聖さのゆえに、罪のあるところに働かれない。聖く無い所では、敗北の方が、神の栄光が現れる。妨げは神の側ではなく、民の側にあった。神との関係が正しければ、アイでも勝利していた。

神は罪を示され、アカンの罪が発覚した。罪が取り除かれた時、再びアイに上り、神は完全勝利を与えられた。罪は神との仕切りとなり、平安を失う。私たちにはどんな時にも、主の流された血潮がある。今すぐ主のもとへ行き告白しよう。主は完全な赦しを与えて下さり、心に平安が戻り、罪赦された喜びが溢れる。
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聖い神様の御前に出るためには、罪を持ったままで行けない。けれど聖い神様が完全に赦して下さるのだから、罪に鈍感であったり、罪を認めたがらない自分を悔い改め、いつも主の前に平安にいたい。


2013年12月18日(水)

「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そして私について来なさい」ルカ9:23

「自分の持っている何かを」捨て、ではなく、「自分を」捨てて、と言われている。私たちの自我を日々十字架につけて、ついて行く必要がある。私たちはキリストにあって義人であると、神は見て下さっている。すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。

古い人はすでに十字架につけられた。しかし、同時に、天国に行くまで、自分の内に肉があるので、日々に自分を捨てて、歩むことになる。泥酔やギャンブルや、妬みや、憎しみの罪はストレートでよくわかる。しかし、醜い自我だけでなく、自分の心を占領し偶像になっているのは、良いものかも知れない。

サウルは「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ちのないもの」を聖絶した。私たちもどうだろう。最も良いものを取っておき、どうでもよいものだけを捨てているだろうか。時間や労力を献げて懸命に奉仕するが、実は、自分を喜ばせる自己満足、自己実現やプライド、つまり自我がますます太っているかも知れない。それなら、ますます自我が強くなる。

「山を動かすほどの完全は信仰」を持っていても、自分の栄光のためということになる。御言葉通り、自分を捨てなければ、結局、無に帰してしまう。御霊は、具体的に自分に死ぬことを、示して下さる。それはへりくだって譲る事であったり、謝罪する事であったり、批判を受け止める事であったり、痛い事を受け入れることだ。従って行こう。
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日々生活のいたるところで、古い自分を捨てる場面に遭遇させられる。高ぶる思いや、自分を否めない自分に気づかせられたなら、そういう自分であることを認めて捨てられるよう主に祈って行きたい。


2013年12月17日(火)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:57


神に従うためには、神に目を向け、御心に従おうとの意識的選択が必要だ。オートマチックではない。又、人格や個性や意志が無くなるのではない。夢遊病者のように、意志に関係無く、勝手に従って行けるのではない。意識して、御霊の導きの方を選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。主に拠り頼む必要がある。

神が、勝手に私たちを操って、従わされるのではない。それなら操り人形であり、ロボットだ。また、神が、私たちの代わりに、私たちの意志を無視して、されることもない。詩編記者は自分の道を顧みた。

私たちはどうだろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは大切だ。全く顧みることのないまま、日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりから遠ざかってしまっているか。御霊の示しを、導きをなおざりにし、引き延ばし、ぐずぐずしているか。記者は、主のさとしの方へ「足を向け」た。足を向ける必要がある。

祈ったのでなく、実際に行動した。今、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的に従うように導かれているなら、実行しよう。「急いで、ためらわずに」とあるように、ぐずぐずしていると、気力が萎えて、必ずできなくなってしまう。いつしか、御霊の促しが消えてしまう。大きな祝福を逃してしまう。今日、足を向けて、主の仰せを実行しよう。
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忙しく主との交わりのないまま過ごしていると、心は益々ざわざわ落ち着かなくなる。それも御霊様の示しだ。立ったままでも祈れる。主との交わりの中で自分を吟味し主の導きを仰ぎ足を向けて行こう。


2013年12月16日(月)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネ12:24  



私たちには、古い性質と新しい性質があり、古い性質は、常に自分を中心に回っている。自分に損か得かを考える。自分の利益にならないことに、時間、労力、富は使いたくない。犠牲を払うことがおっくうだ。回避する弁解と言い訳は幾らでも出てくる。自分に死にたくない。

ある婦人が、婦人クリスマス会を、自宅でどうかと打診を受け、とっさに言ってしまった。「その日は仕事」と逃げた。実は、家の掃除や片づけ、準備が面倒だったので、回避したかった。そしてその当日、特別に忙しくて遅くまで残業だった。「あ〜あ、クリスマスなのに、こんなに遅くまで仕事で・・」と愚痴が出そうになった時、ハッとした。主が教えて下さった。

犠牲を払うのが面倒で、とっさに発してしまった言葉、それが嘘にならないよう主が仕事を与えて下さったのだと。本当に心から「ごめんなさい」で、主のあわれみと優しさに心温められて、主と共に仕事が出来た。

麦は地に落ちて、芽が出て、花が咲き、実が実るが、麦自身は地中で死んで、その結実を見ることができない。しかし豊かな実がなる。肉は犠牲を嫌がる。今、何かの犠牲を、主から求められているなら、従ってみよう。自分の思いを通して、自分の好きなように生きるなら、それだけで終わりだ。しかし、自分の思いを捨てて、主の御心に従う時、犠牲も必要だが、必ず豊かな実を結ぶ。そして大きな証しとされる。
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古い性質の自分自身を堅く握っていては、一粒のまま、自分も周りも何も変化しない。自分に死んだ多くの犠牲と祈りによって私たちはここまで来ることが出来たのだから、犠牲をいとわず主の示しに従いたい。


2013年12月15日(日)

「持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい・・青年はこのこと ばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持って いたからである」マタイ19:22


永遠のいのちを求め「どんな良いことをしたらよいか」と主のもと
に来た青年に、主は「良い方は、ひとりだけ」と答えられた。主が、
唯一の良い方を「信じる」ことを、言われたにかかわらず、彼は、
「行なおう」との思いに満ちていた。

それで主は、間違いを教えようと律法を持ち出された。律法は、自
分の力で良い事ができないことを教えるためにある。青年に、自分
にはできない事を教えようとされた。「殺してはならない・・あなた
の隣人をあなた自身のように愛せよ」しかし彼は「みな守ってい
る」と答えた。そして「何が欠けているのか」と。

すると、主はその財産を貧しい人に与えよと言われた。もし、彼の
言うように、律法を守っているなら、隣人を愛しているはずであり、
貧しい人々に施したはずだ。しかし、できなかった。自分の力では、
律法を守れない事を、主は認識させたかった。

だからこそ「良い方」がおられることを。その主に頼って欲しいと
願われた。しかし、彼は財産を捨てることができず、主のもとを去
ってしまった。私たちも、財産=自分の力であり、自分でする良い
行ない、自分で律法を守ることを、捨てられないだろうか。

自分を誇りたくて、評価されたくて、認められたくて、プライドゆ
えに、自分の力で神に従おうとするだろうか。その自分を捨てる時、
良い方が、良い行ないを与えて下さる。主のもとを去るのでなく
「自分の力を捨てられません」と主に頼ろう。

・・・・・・・・・・・・
戒めを守る力が無いことを、「出来ません」と認める時に、初めて
主の力を経験する。主は、出来ないことを繰り返し教えて下さる。
行き詰まりが、大きな祝福だ。主を仰いで、拠り頼もう。信じて行
こう。


2013年12月14日(土)

「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主か ら、豊かな報いがあるように」ルツ2:12


ナオミがモアブの地から帰郷する時に、嫁のルツが自分の住み慣れ
た土地を捨てて、ナオミについてベツレヘムに一緒に来た。ナオミ
はそんな嫁ルツの今後についてよく祈り考えた事だろう。ルツから
聞くに、ルツに良くしてくれる誠実なボアズ、そのボアズは親戚で
あり、彼こそがルツの伴侶にふさわしいと考えた。

ナオミはルツに指示を与え、ルツは姑の言う通りにした。ボアズに
買い戻しを願った。すると彼は、更に近い親類がいて、もしその人
物が放棄するなら、自分が買い戻すと。その時ナオミは、結果を見
る前に、必ずボアズがルツを買い戻す事、それが神の御心であり、
その通りに成る事を信じた。

それでこの結果が出るまで「娘よ。このことがどうおさまるかわか
るまで待っていなさい」と確信持って言えた。神が働かれるから、
ただじっと経過を見守っているようにと。何か策を講じるのでなく、
動くのでもなく、ただじっと待てと。

人間的な動きを止めることだ。私達はこれが大変難しい。自分を救
うために、何かしようとするし、じっと待つより、動く方が楽で安
心なのだ。目に見えない神をただ待ち望む事は非常に難しい。又、
それはただ単に、何もせず手をこまねいているのではなく、示され
た事はして、待つという意味だ。

ルツは自分のなすべき分を果たした。だからこそ、次にすべき事は
そこで安息し、ただ神がされる事を待てばよい。そして、まことの
神を選び、信仰により姑に従って来たルツは、主によりボアズとの
結婚が与えられた。大きく祝福された。

・・・・・・・・・・・・・
「あなたの神は、私の神」とナオミについて異国の地にやって来た
ルツに、主はすべてを備えて豊かに報いて下さった。ルツはナオミ
の指示通り、主に委ねて従った。主に身を委ねる者にどんなに良く
して下さるか驚くばかりだ。


2013年12月13日(金)

「アイの人々は・・打ち殺し・・下り坂で彼らを打ったので、民の心がしなえ、水のようになった」ヨシュア7:5

大きな祝福を受けた後に、大成功した後に、失敗するとよく言われている。大きなイベントを無事終えたり、難しい問題を解決した時に、ほうっとして、油断してしまうからだ。安堵してしまい、無防備になり、サタン警戒を怠ってしまう。その時をサタンに襲われ、誘惑に陥ってしまう。勝利の後にこそ、気を引き締める必要がある。ダビデも油断していた時に、バテシバと罪を犯し、サタンにやられてしまった。

イスラエルはエリコ陥落に大成功した。勝利の進軍だった。それが小さな町アイに敗北した。人口も少なく余裕の戦いであった。
しかし想定外の事が起こり、敗北して逃げ帰った。この動揺は大きかった。奇跡のヨルダン川渡渉をし、目の前でエリコの城壁が崩壊し、当然このままずっと大勝利のはずだった。それが突然の敗北で「民の心はしなえ、水のようになった」。

なぜか?奇跡に次ぐ奇跡を体験し、勝って当然、恵みを恵みとせず、自分達の判断、力に頼り、高慢になってしまった。その結果であった。私達も物事が順調に進んでいる時こそ、よく気をつける必要がある。神に頼らず自分で歩んでしまう。これが高慢だ。ヨシュアに原因が明らかにされた。彼らの中に罪があった。

私達も失敗したり、事がうまく行かない時、状況が悪い、組織が悪いと、周囲が悪いと、外にばかり原因を求め、自分については考えない。自分に問題がある事に気づかない。自分に思いが至るなら、悔い改めに導かれ、その失敗が成長へと用いられて行く。
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大きな山場にはよく祈り、慎重に主に尋ね従うが、その祝福の後に、苦い失敗を経験する。これくらいと油断しサタンに背中を押されて行動してう。祝福の後こそ、主を見失うことなく謙遜にいよう。


2013年12月12日(木)

「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである・・ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


み言葉の言う弱さとは、自分の限界を知り、認めているということだ。この世の言う弱さは違う。この世界は比較の中におかれ、比較の中で生きている。人より仕事ができない、勉強ができない、運動ができない、テキパキ処理できない、対人関係がうまくできない、そんな弱さは悪という価値観だ。どこまでも競争社会であり、それなら負け組ということになる。

そのようなこの世の価値観、古い価値観の影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者になり、まず自分で自分を受け入れることができず、認めることができない。問題はここだ。自分が自分を裁き、受け入れず、認めない。だから人を決して認めることができないし、又、自分の弱さを、人にも受け入れて貰えないと思い込んでしまう。

そのため、人に弱さを隠して行く。弱さなど絶対に見せられない。競争なのだから、弱みを見せると負けになる。人からの尊敬を失い、自分の価値が下がると考える。自分で自分を縛り、窮屈にしがんじがらめにしている。喜びが無く、常に人目を気にする。人が神になっている。

しかし御霊の世界は違う。正反対だ。神の力は弱さの内に完全に現われる。神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それらを「弱さ」の中でこそ体験する。身をもって知れる。自らの弱さを認める時、解き放たれる。それを妨げているのはプライドだろうか。
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自分の弱さに気づいたら感謝しよう。そして弱い自分の内に現れる主の力を信じていよう。主は私たちの弱さを全て知って下さっている。人並み、人目とは全く違う領域に主は解放し導いて下さる。


2013年12月11日(水)

「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」Tペテロ2:6



ハドソン・テーラーの本の中の証しだ。ある時、医者の助手として働いていた。その医師に、よく忘れるので、もし給料を渡し忘れたら、請求するようにと言われた。その事で、彼はその時には、医師に言わずに祈り、信仰の訓練とし神から答えを頂こうと考えた。そして案の定、医師は忘れた。食いつなぐ中、段々食料も尽きて、銀貨1枚となった。

その時に貧しい子供が来た。母親が病気だ。しかし銀貨1枚しか無い。半分にできるなら上げるが、1つなので上げられないと思った。その後、祈り始めたが「偽善者」との思いが来る。「祈りよりも与えるべきだ」と。そう出来ない自分に、神にのみ頼る信仰は無いと、とても惨めになった。心でかっとうがあった中で、結局、その銀貨を上げた。その時、財布は空になったが、心は平安と喜びで満ちた。

その日の夕飯は、最後の残り物を食べた。だが翌朝から何もない。すると、早朝に郵便が届いた。何と封筒を開くと、彼が与えたお金の数倍が入っていた。そのお金が無くなった頃、医師が、給料の事を思い出してくれた。神は真実であり、生きて働いておられる。「彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした」「正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」

ツァレハテのやもめは、飢饉の中、餓死する前に子供に最後の食事をとの、その最後の一握りの粉をエリヤに献げた。最後のギリギリのものを献げた、その時に、飢饉の間中かめの粉は尽きず、つぼの油は無くならなかった。真実な主が共におられる。
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主に信頼しているかどうか、いつも試される。目の前の人を信頼しても思い通りの結果がなければ失望する。事を成して下さるのは主だ。その前に人も自分も無い。まず明け渡し、主を信じていよう。


2013年12月10日(火)

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道はあなたがたの道とは異なるからだ」イザヤ55:8



有名な例え話がある。ある村で豪雨のため洪水となり、避難勧告が出た。ある男が「神は愛してくれているから、必ず助けてくれる。だから逃げない」と避難しなかった。しかし、どんどん水かさ増し、屋根に上るまでになった。そこへ救助隊のボートが来た。「早く乗れ!」しかし、男は「神が助けてくれるから乗らない!」ボートは去った。最後に救助のヘリコプターが来た。しかし「神が助けてくれる!」と救助を拒んだ。そして、男は溺れ死んでしまった。

彼は天国へ行き、神に激怒した。「ずっと待っていたのに、どうして助けてくれなかったのか!」神は言われた「私は3度お前を助けに行った。1度目は避難勧告によって、2度目はボートで、3度目はヘリコプターで。それなのにお前は拒否した」。彼の間違いは、神の救助方法を、自分勝手に、自分の思いで、決めつけていた事だった。神は「助けて!」との祈りに答え、助けを送られた。しかし、自分の思い込みが強いがため、受け取る事ができなかった。

私たちもどうだろう。神は、時に思いを越えた想定外の方法で答えられる。しかし自分の思い通りにしたいとの強い思いがあれば、神のみ思いが見えない。自我だ。自分の思いを横に置いて、神の答えを見張っていよう。思いとは違う形ですでに来ていて、見えていないだけかも知れない。受け取れるよう祈ろう。
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求めているものを手にするために祈るが、自分の理解をはるかに超えた答えならそれとは知らず受け流しているかもしれない。祈りっぱなしで「助けが来ない・・」とつぶやいてはいないだろうか。


2013年12月09日(月)

「しかし、主よ。私はあなたに信頼しています。私は告白します。『あなたこそ私の神です。私の時は、御手の中にあります』」詩篇31:14 



神は、神の時間割を持っておられる。花の種まきをした事があるだろう。種を蒔いて、水をやり見守っていると、そうこうしている内に芽が出る。日を重ねながら、芽が少しづつ生長し、茎となり、やがて綺麗な花を咲かせる。植物の生長にも、神は時を定められ、時のスケジュールがある。芽、茎、花、実と、神の秩序と時がある。

もし、これを無視したらどうだろう。種から芽が出やすいようにと、人の手で種に裂け目を入れたらどうだろう。種は死んでしまう。早く花を咲かせようと茎を引っ張ったならどうか。神の時をじっくり待たないなら、自分で無用の、不毛のあがきをして、返って損なってしまい、出る芽も出ず、咲く花も咲かず、実も実らない。

霊的成長も同様だ。成長には必ず時間がかかる。長期戦であり、神のスケジュールは長期計画だ。悪あがきをせず、人生の苦しみ、喜び、悲しみ、それぞれの「神の時」をしっかり受け入れ、受け止めて、生きて行く事が大切だ。これこそが成長とされる。

ダビデは「四方八方みな恐怖」で出口も見えない苦難の時に、この時が、神の「御手の中」にある事を見た。そして、これらの状況、事態は、「神の時」に、導かれ回復して行った。苦しみ、悲しみ、何の希望も見えない時、しかしこの「時」は、愛の「御手の中」にある事を覚えよう。握っておられる神に目を向け、信頼して行こう。その時に「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」ことを実際に体験して行く。 
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花が咲く時期だけが最善で、祝福なのではく、一日一日が神の時、恵みの中だ。くり返す失敗や、思い通りに行かない時の中で、いつも共におられる主を感じる。その時々が信仰を増し加えられる大切な時間だ。


2013年12月08日(日)

「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を 正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう」詩編50:23


「感謝」は、神へのいけにえであり、神が喜ばれるものだ。感謝を
献げる時、驚くべきみわざを見る。感謝は、砕かれたたましいが献
げる事ができる。感謝する事は、現状を認める事であり、受け入れ
る事だ。砕かれた人がそうできる。

反抗心があると、感謝ができない。事態を受け入れる事ができず、
不平不満、愚痴で一杯になる。感謝は、思い通りにならない状況に
も、神の主権と支配を認め、神からのものと受け止めて行く。無駄
なものは一つもなく、一つ一つに神のご計画があり、意図があるこ
とを信じる。そして、夜の後に必ず朝が来ること、暗黒のトンネル
は必ず出ること、神が必ず良くして下さることを信じて行く。

耐えられない試練は無く、脱出の道も備えられている。どんな時に
も希望がある。それゆえ感謝を献げる。見えるところが夜であり、
真っ暗であっても、神は良くして下さることを信じるので、感謝す
る。

ある人が、親の入院で日々付き添っていた時に、子供が急病で入院。
行く事すらままならなかった。そこに夫が疲れで倒れた。身動きも
取れない状態だ。しかし、その時に状況に落ち込むのでなく、天に
目を向け、感謝のいけにえを献げた。これらすべてが御手の中であ
ることを感謝した。

感謝する気分だから感謝するのでなく、信仰によって感謝のいけに
えを献げて行った。その時、大変な状況に関わらず、不思議に心に
平安が溢れ、口から賛美が出て来た。心が守られた。

・・・・・・・・・・・・
人は同時に二つのものを見ることができない。状況を見ていたら、
主を見ておらず、主を見ている時は状況を見ていない。意志をもっ
て感謝を献げる時、主を選択している。主に視点が向くと、発想が
変わり、御言葉に立って行ける。


2013年12月07日(土)

「上って行ってはならない。あなたがたの兄弟たちと戦ってはなら ない。おのおの自分の家へ帰れ。わたしがこうなるようにしむけた のだから」U歴代11:4


レハベアムは、ユダとベニヤミンの選抜戦闘員18万人を集め、
王国を取り戻すためにイスラエルと戦おうとした。すると、神の人
シマヤに主の言葉があった。「上って行くな・・戦ってはならない。
おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしているのだか
ら」と。

イスラエルがダビデの家にそむいたのは、神の主権と支配の下のこ
とであると。それで、人々は主の言葉に聞き従い、ヤロブアムへの
行軍を中止して引き返した。「わたしがこうなるようにしむけた」。
「神から」出たことであった。

今、あなたに問題が起きているだろうか。「わたしがこうなるよう
にしむけた」。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさ
ったからです」「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころ
のように、なさってください」。

「神から」来たものはしっかり受け入れよう。それが大きな祝福と
されて行くからだ。神を無視して、それでも行くと、自分の力で立
ち向かい、戦って行くなら、問題と混乱を引き起こし、秩序を破壊
し、自分も大きな痛手を負う。

今もし、厳しい試練にあるなら、それも「わたしがしむけたのだか
ら」との主の御心だ。私たちの益と祝福と成長のための訓練だ。必
ず豊かな結実を見る。又、幸せな事が臨んでいたら、それも主がし
むけられたものであり、感謝し、主を喜ぼう。

・・・・・・・・・・・・
そむきも主が仕向けたと言われる。「このことはわたしから出た」
と。すべての主権は主にある。自分はこうしようと思う時に、主は
ストップをかけられる時がある。目の前の問題に主を見て行こう。


2013年12月06日(金)

「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:2


欲望それ自体は悪ではない。食欲や睡眠欲が無ければ生存できない。知識欲ゆえ御言葉を知りたいと願い、意欲は生きる原動力だ。しかし反面、欲望は容易に罪に傾いて行く。欲しいと思い始めると、制御不能になり、何が何でも得たくなる。人と戦ってでも持とうとする、得るために人殺しまですると言っている。それほど欲望とは強烈だ。

しかし「あなたがたが願わない」とあるように、欲しいものがあるなら、神に願えと言われる。自力で奪い取るのでなく、神に求めよと。神が与えて下さる。「すべての良い贈り物は、上から来る」。そして、神と親しく交わり、祈りを積む中で、そのものが自分に本当に必要なのか、又、今、必要なのかがわかって来る。

神から離れたこの世では、人は欲望のままに生きる。「私たちもみな、かつては・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」の通りに。しかし、祈りを重ねる主との交わりの中で、自分でもわからなかった、心の底の本当の願いや、本当に必要なものが、明らかにされる。

ある人は、進路について自分の強い願いがあった。しかし祈っていると、それは人からの賞賛が欲しくて、願っている事だと気づかされた。そして祈り続けていると、自分の本当の願いは、そうでなく、神に喜ばれる選択をしたいという事だとわかった。平安ある進路変更に導かれた。祈るなら、時に自分の思いと異なるが、必ず「良いもの」を下さる。
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欲しいものがあるなら神に求めよが私たちの原則だ。長い時間がかかると祈る気力が無くなるが、祈り求める中で、動機を聖められ、より確かなものとなって来る。気力をなくさず祈り続けよう。


2013年12月05日(木)

「主よ。そのとおりです。ただ。小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」マタイ15:27 



カナン人女性が主に助けを求めた。娘が悪霊につかれていて、彼女の求めは切迫したものであった。「ダビデの子よ」と真剣に、必死にすがり叫んだ。この全身の叫びに、主は、答えて下さるはずでは、と私たちは思う。しかし主は「一言もお答えにならなかった」。まるで無視であり、沈黙されたままだ。しかし諦めず、尚も叫ぶ女性に、弟子たちが、帰して欲しいと主に苦情を言った。

それに答えて、「わたしは、イスラエルの羊以外のところには遣わされていない」と言われた。すると、女性は「ダビデの子」を、単に「主よ」と変えて、ひれ伏して助けを求めた。カナン人の彼女はイスラエルではない。異邦人だ。「ダビデの子よ」と言う権利は無い。彼女はへりくだって正しい位置に立った。すると、主は「子どものパンを子犬に投げてやれない」と言われた。

何と冷たい言葉、に聞こえそうだが、そうではない。実は、主は彼女が正しく求める事ができるように、ずっと手助けをしておられた。女性は「主よ。その通りです」と認め、へりくだり、「小犬でも食卓から落ちるパンくずは頂けます」と求めた。その時娘は癒された。

彼女は主のあわれみを信じたから、決して諦めなかった。あわれみとは、こちらがどんな状態であれ、頂ける愛顧だ。それは彼女の主への信仰だった。彼女はへりくだって、どこまでも主を信じて迫った。あなたも今、信仰を試されているだろうか。
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主の近くに行き、祈り求めることが出来る幸いな立場を感謝し、自分もどこから救われたのかを思い起こすなら、へりくだるしかない。主の沈黙も導きと、あきらめたり、つぶやいたりせず「あわれんでください」と主にどこまでも助けを求めたい。


2013年12月04日(水)

「ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではない のに気づいた」創世記31:2 



父と兄を欺いて、祝福を奪い取ったヤコブは、兄の怒りで家におれ
なくなり、遠く叔父のもとへ。途上、神は、「あなたがどこに行っ
ても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」とヤコブに約
束された。しかしその約束の成就に、1年2年ではない、20年の
歳月を要した。

短い月日ではない。気が遠くなるほどの歳月だ。私たちはなかなか
待てない。待つ事が難しい。しかし、神は早急にではなく、地道に
歳月をかけながら、こつこつと、私たちを導かれる。今の1日1日
は、主に在って、練られきよめられ、造り変えられる途上にあり、
1日も決して無駄な日は無い。

必ず時が満ちて、「神の時」は到来する。事実ヤコブがそうであっ
たように。約束が、実現して行く時には、よく見ていると兆候があ
る。状況が少しづつ変化する。ヤコブの周囲の状況も変化して行っ
た。ラバンの息子達が、父の物をみなヤコブが盗んだとの言い方を
する。

ラバンの態度も以前のようでなくなった。好意的でなくなり、この
ままなら争いが生じ、問題が起きそうだ。ヤコブへの対応が変化し
て来て、微妙な空気を感じ取る。そんな時に、はっきりと主の御声
が臨んだ。

「あなたの先祖の国へ帰りなさい」「さあ立ってこの土地を出て、
あなたの生まれた国へ帰りなさい」。今こそ約束の時、到来だ。私
たちも、状況の変化を見落とさないでいよう。そして、明確な神の
導きが臨む時、行動を起こすべき時だ。

・・・・・・・・・・・・・・
ヤコブは苦しみの歳月の後、時が満ちて、主の約束が成就した。主
の約束はどれだけかかろうとも、必ず成就する。主を待ち望もう。
そして、神の時には、物事が動く。状況の変化もよく見ていよう。、
事が動く時、行動を起こそう。


2013年12月03日(火)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、 さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまで も取り上げられるからです」ルカ8:18

 

ただ単に、御言葉をぼやっ〜と、聞いていればよいのでなく、聞き
方に「注意せよ」と言われている。イスラエルの民は皆、モーセか
ら神の言葉を聞いていた。しかし、聞いた言葉が「信仰に結びつけ
られ」なかったため、最後まで神を疑い、結局は不信仰によって荒
野で滅ぼされてしまった。

何のためにエジプトを出たのかわからない。モーセは神の言葉を語
った。聞く側に問題があった。信仰に結びつける事が大切だ。種蒔
きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。道ばたに落ちた種は土
が固く、心に入らず、悪魔が来て御言葉を奪い去った。

先入観や偏見があると御言葉が入らない。又、他人事として聞くな
ら、素通りしてしまう。まるで映画でも見るように、無関係な傍観
者として聞いていないだろうか。御言葉は「自分に」向けられてい
る神からの言葉として受け取らない限り、無益だ。自分の事として
受け取る心が「良い地」だ。必ず豊かに結実する。

岩の上に落ちた種とは、喜んで御言葉を受け入れるが、根が無い。
根を張るのは地中だ。隠れた神との関係を培う事が大切だ。人目に
見えない神との交わりの地道な生活が根だ。それが無いと枯れてし
まう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。外部のも
のによって生長が妨げられる。世の様々な事柄に心が奪われ、いつ
しか神がおそろかになってしまう。御言葉に対してどんな「聞き
方」をしているか、省みてみよう。御言葉を愛して、大切に、へり
くだって、「従います」の姿勢で聞こう。

・・・・・・・・・・・・
御言葉を聞く姿勢が、非常に大切だ。自分の思いが強かったり、偏
見があったり、ぼお〜と聞いていたら、御言葉がわからない。「神
の言葉」と意識して、自分を下に置き、へりくだって聞いて行きた
い。


2013年12月02日(月)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14


アブラハムは、25年間、神の約束を待って、イサクを得た。アブラハム100歳、サラ90歳の時だった。長い長い忍耐の末だ。しかし、スーパーマンでなく、彼らも私たちと同じ弱い人間であり、数々の失敗があった。時を待ちきれずに、肉の手段で、イシマエルを産み出してしまった。しかし、ヘブル書によると、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。

イサクを献げるという大きな試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。その彼に神は「あなたが、このことをなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあなたを大いに祝福し」と神から祝福を受けた。だが、25年も待った、目に入れても痛くない最愛の子だ。そして、このイサクから子孫が増え広がるはずだ。この事はどうなるのか。

イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」と問うた時に、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事において神を全く信頼した。しかし、いけには無く、イサクをいけにえとし、刀を振り下ろす瞬間だった。主により止められた。そこに羊があった。これは彼も知らなかった事だ。

私たちも一歩先は見えず、明日の事も知らない。しかし、神は知っておられる。一歩一歩この神に信頼し委ねて歩む時、一生涯の間、「主の山の上に備え」を経験して行く。
-------------
肉の価値観があり、あれこれと備え、心の準備もし、それを安心とする。けれど目の前のものにしがみつくことで、神への信頼を増し加えるチャンスをなくしてしまう。主だけに信頼し「主の山に備え」を経験していこう。


2013年12月01日(日)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、 困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強い からです」Uコリント12:10 



時々、私たちの思いと、神のみ思いが大きく異なることがある。神
は私たちに祈れ、願えと言われ、祈りを喜んで下さる。しかし、祈
りが聞かれるとは、自分の都合の良いようになる事ではない。私た
ちは自分の思い通りにしたいとの、肉の強い思いがある。自分の思
い通りに、祈りを叶えて欲しい。

しかし、しばしば、神のみ思いは異なる。例えば、私たちは、生ま
れつき腕が動かないなら、腕が動くことがいやしであり、祈りの答
えだと思ってしまう。しかし、もし、腕が動かなくとも、生き生き
とした喜びと平安、感謝に溢れた人生を送れるようになる、それ
が答えであるかも知れない。

祈りが聞かれるとは、自分の都合の良いように、思い通りになる事
ではない。障がいを負ったある人は、もし、このままの方が神の栄
光が現れるなら、このままで良いです、御心のままにと祈った。結
局は、私たちの目標は、神の栄光が現れることだ。

パウロはトゲが取り去られるよう3度も祈ったが、主は、それがあ
る方がより栄光が現れると言われた。ある人はトゲが取り去られ、
ある人は残される。どちらも結局は、神の栄光のためだ。その人に
とり、その方が神の栄光が現れる。
私たちの「なぜ?なぜ?」と不満と愚痴の部分を今一度、御霊の光
に照らして受け取り直そう。主の栄光のためではないだろうか。

・・・・・・・・・・・・
自分の思いと神の思いが、しばしば違う。自分の強い思いに固執し
ているなら、祈りの答えに気づけないし、わからない。自分の思い
をおろして、神のみ思いは?に心を向けて行くと、祈りが別の形
で答えられていて、どんな中でも豊かな祝福を見い出せる。