2014年01月31日(金)

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」Uコリント3:18



私たちは「主のために働きたい」「役に立つ器とされたい」という思いがある。しかし、そこでしばしば、キリストに似た者と造り変えられて行く「聖化」というより、自分の賜物がいかに用いられたか、どれだけの働きを成し遂げたかというような、目に見える「成果」を求める間違いに陥ってしまう。この世の価値基準が、目に見える「成果」だからだ。

この世では、職場ではどうだろう。良い動機があり、良いプランがあっても、結果を出さなくては意味が無い。結果を出すことがすべてだ。それを追い求めて仕事をしている。しかし、私たちが救われた目的は、主に似る者となることだ。生涯を通じて、主のかたちへと変えられて行くことだ。

又、私たちの内には、根深い肉の性質があり、それは自分が認められたい。自分が評価されたい。褒められたい。それは主の栄光でなく、自分の栄光を求める。肉は自分の力でやって行きたい。そして自分が認められ、評価される事が喜びだ。そこに神の栄光は無い。

キリストに似るという目的から的がずれる時、肉の性質がすぐにむくむくと頭をもたげ、自分の栄光にすり替わってしまう。今、自分はどうだろう。自分が求めているものは何だろう。主が十字架の死にまで従われたように、へりくだって、自分を捨てて、砕かれて、愛、喜び、平安、寛容・・御霊の実を結ぶ者にされることだろうか、それとも別のものだろうか。
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鏡のように主の栄光を繁栄させるためには、自分の栄光を積み上げようとする古い価値観に気づいて一つ一つ捨てなければならない。主の愛と恵みをしっかり受け取り、主の栄光をクリアに輝かせたい。


2014年01月30日(木)

「わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす」ホセア8:12 

神はイスラエルのために、多くの教えを与えられたが、彼らはその教えを他国人のものとみなし、自分たちへ向けられたものとはしなかった。自分とは無縁なもの、無関係であり、「他人事」としていた。私たちはどうだろう。礼拝でメッセージを聞く時、又、デボーションで御言葉を読む時、他人事としていないか。

自分の事として聞かないので、どこまでも傍観者であり、右から左にすり抜けて行く。御言葉が心に入ることも、心に刺さることも、根づくこともない。又、自分には当てはめないが、他人に当てはめて、あの人に、この人にピッタリだと。あの人、この人は変わるべしかし、御言葉をそのように聞くべきではない。ひたすら自分の事として聞くべきだ。御言葉の物差しを人に向けず、自分にのみ向ける事が大切だ。人に向けると、裁きとなって行く。他人の小さなちりに目をつけるが、自分の大きな梁に気づかない。日頃の御言葉の聞き方はどうだろう。

他国人のもののように聞いていないか振り返ろう。メッセージを、御言葉を、自分自身に、自分の生活に当てはめよう。御言葉は光として、心の内を照らし出し、鏡となり自らの本当の姿を映し出す。心の奥が探り出される。慰めや励まし、指針が来て、罪の指摘や矯正がある。御声に従って行く時、必ず成長して行く。変えられて、新しくされて行く。聞く態度が、極めて重要だ。
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御言葉は今日も神様から私に語られる。日毎に新鮮な気持ちで御言葉を受け取ろう。大切ないのちの糧はさらに与えられ、人事のように聞いているなら気づかぬうちに霊的に細ってしまう。


2014年01月29日(水)

「彼らは、荒野で激しい欲望にかられ、荒れ地で神を試みた。そこで、主は彼らにその願うところを与え、また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩篇106:14


イスラエルの民は、自己中心な自分の欲望にかられて、わがままに神に求めた。彼らは、ただ自分の欲望のままを願い求めたが、神は彼らに彼らの願う物を与えられた。どうしても何が何でも欲しくて、願ったものは得たが、しかし、彼らは決して心が満たされることはなかった。別訳では「神は欲しがるものをお与えになりましたが、彼らの心を空虚になさいました」とある。

彼らは、欲しくてたまらない物を手に入れたのに、心は決して満たされない。自分が最も欲しい、絶対に欲しい、どうしても欲しいと、願っていた物を得た途端、心が虚しくてたまらず、満たされず、喜びもない。これは自分が本当に願っていたものではないと気づく。自分が本当に願っていたものは、別のものだと。

私たちの心が本当に欲っし、願い、求めているもの、それは、神ご自身だ。心の空洞は、神によってのみ、ピッタリと埋められる。神との交わりなしでは、何を手に入れたとしても、心には、虚しさしか残らない。一時の快楽はあっても、続かない。あれを求め、これを求め、ますます心は渇き、空虚になるばかりだ。

「激しい欲望」「願うところ」「やせ衰えさせた」欲にかられ、どうしてもと願うなら、神はそれを与えられる。しかし、心は逆にやせ衰える。神が与えて下さるものに満足し、感謝し、「満ち足りた心を伴う敬虔」はどんなに喜びであり幸せだろう。「大きな利益を受ける道」だ。神は貪欲から心を守り、真の満足を下さる。
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御心の祈りが叶えられた時に来る喜びは、十分に満ちたり、ただ主への感謝しかない。やってもやっても満足できない、与えられてもまた渇くなら、それは主が送られた渇きであるのかもしれない。


2014年01月28日(火)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14



出エジプトを果たしたイスラエルに、前は紅海、後ろにはエジプト軍の戦車部隊の追っ手が迫って来た。前進も後退も出来ない。まさに身動き取れない、断崖絶壁の窮地であり、絶体絶命であった。あなたも経験あるだろうか。しかし主はこの事態の目的を「わたしの栄光を現わす」ため、「民は大いなる御力を見たので、主・・を信じた」、つまり「神の栄光が現れるため」「民の信仰のため」と言われた。

私たちも人生で、絶体絶命の窮地に陥る事がある。どうして良いかわからない。しかしまず落ち着こう。「恐れるな。しっかり信仰に立って、あなたがたのために行なわれる主の救いを見よ。わたしが戦う」との主の言葉を信じよう。

主は海の真ん中に道を造られた。道無き所に道を造られる。必ず道ができ、絶体絶命の事態から救い出される。耐えられない試練は無い。神の栄光とは神にしか出来ない事が起こり、それがまさに神である事がわかる事だ。

ある人は経済的窮地に陥り、途方に暮れた。しかし「恐れるな、信仰に立て、わたしが戦う」に乗っ取って必死に祈った。すると条件ピッタリの仕事が目の前に来て、周囲も皆で神の栄光を見せられた。道無き所に道を造られる。窮地は好機、もし今、窮地なら、神の素晴らしいチャンスだ。「恐れるな・信仰に立て・わたしが戦う」を信じて立とう。
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主がご自分の栄光を現すため、今あえて断崖絶壁の窮地に導かれている。その信仰の目で心を騒がせず落ち着いて主の戦いを見て行こう。必ず益の栄光を拝することができる。


2014年01月27日(月)

「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21:22 


私たちはどうだろう。どうしても人の目が気になり、他人の評価が気になる。心の底に人に認められたい、評価されたい、受け入れて欲しい、愛されたい、との強い願望があるからだ。「人の望むもの愛である」とある通り、私たちは生まれつき人の愛が欲しい。

アダムとエバが罪を犯し、罪により神との関係が断たれてしまった。そのため、人は人の愛を求めるようになった。これは普段、認識していないだけで、自分が思っている以上に強い。だから人目を気にし、人から良い人と思われたい。愛されたいからだ。これが高じて行くと、嫌われたくないので、人の顔色ばかりを気にし、「ノー」が言えなくなる。心は「ノー」なのに「イエス」の行動をする。人に嫌われたくないからだ。

建前で生きると、生き生きと御霊の自由の中で、自分らしく生きる事ができない。対人関係で、なぜ傷つくのかと心を探ると、人に認められたい、評価されたい、人からの賞賛が欲しい、そこに触れるから傷つく事になる。しかし自分の判定を他人にさせてはならない。人に自分の事を決めてもらうのは間違っている。

心が傷つく時に、それはどこから来ているのか考えてみよう。人に深く依存している事が原因かも知れない。人ではなく、主にしっかり拠り頼もう。そして横ではなく、上を見上げ、主に従って行こう。ここに失望は決して無く、真の喜びと満たしがある。
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人を正しく評価されるのは主だけだ。人が人を正しく評価する事など不可能に近い。人の評価が気になり心が騒ぐ時、上を見上げ主に忠実に歩んでいるかに立ちたい。



2014年01月26日(日)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、 感謝しなさい」Tテサロニケ5:18 



ジョニーという有名な女性がいる。彼女は、水泳の飛び込みに失敗
し、脊髄を痛めた。九死に一生を得、命は取りとめたものの、しか
し一生身体は動かないと宣告された。その時に死を願った。

彼女の証しだ。「鏡に映る自分の姿はとても人間ではない。くぼん
で落ち込み、血走り、どんよりした2つの眼球。36キロの身体は、
黄だんになり黄色い皮膚におおわれた骸骨だ。太った頭は不気味で
あり、話をする時、見える歯も薬物治療のため黒くなっている。と
ても生きて行けない」。

しかし周囲に励まされて行く。「神がどう見ておられるかが大切。
人がどう見るかは重要でない。人の基準で自分を見ると負け犬にし
かならない。神からの価値だけを考えよう」と。自分が、神の似姿
に造られた事に目が向いた。

自分のこの身体、格好、能力、出来る事、出来ない事、自分で自分
がどう見えたとしても、信仰に立ち、自分の事を神に感謝する事に
した。感謝を献げ続けていると、パズルを埋めて行くように、すべ
てのものをふさわしい所に置くよう助けられた。そして、とうとう、
より良く神に仕え、より幸せになれるように、神がこの身体を自分
与えられたと理解できたのだ。

こうでなければ、人生最後まで自分は、自己中心に生きていたであ
ろうと。神が特別に干渉して下さった事に心から感謝した。今、心
に喜びがあり、幸せそのもので、自分を他のものに変えたいとは全
く思わない。感謝する事は、つまり今の状況に神を認める事だ。そ
の時、神は自由に大いに働かれる。

・・・・・・・・・・・・・
御言葉に従って、感謝を献げた時に、ジョニーは変えられて行った。
外側は同じだが、心が180度変えられた。すべての事について感謝
せよとの主の御心に一歩従った時、主のみわざが起きた。一歩従っ
てみよう。今の状況に主を認めて、感謝を献げてみよう。


2014年01月25日(土)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪 のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる ため・・」ローマ6:6 



よく聞く例えだ。ある女性の夫は完璧主義者で、とにかく細かく
几帳面だった。毎日、家の隅々まで点検し、ほこりやゴミがあって
はならない。掃除の仕方にいちいち文句を言う。洗濯の仕方、干し
方、文句の無い日はない。料理など、素材、味付けから、料理方法、
その欠点を一つ一つ指摘する。

妻のする事が、何もかも不足で気に入らない。やがて、彼女は毎日
夫の顔色を見ながら、萎縮し神経質になり、恐れビクビクしていた。
喜びが全く無かった。心は苦しい。そんな時、隣家の男性が通りか
かり、重い荷物を運ぶのを助けてくれた。彼は大変親切で、気遣い
をしてくれ、優しい言葉をかけて、いつも助け励ましてくれた。

彼といると心は喜びで一杯になり、同時に安堵で満ちた。この人が
夫ならどんなに良かっただろう。しかし、今の夫と離婚したいが無
理だ。どうすればよいのか。もし夫が死ぬなら、結婚の契約は解除
になる。しかし、夫は丈夫で決して死にそうになどない。

これがローマ7章で言っている事だ。夫が律法で、妻が私だ。常に
要求されて、責め立てられ、しかし自分に力が無く、実行できず苦
しくてたまらない。律法が死ぬ事はあり得ず、律法はずっと存続す
る。唯一解放される方法は、律法が死ぬのではなく、自分の方が死
ぬ事だ。死により契約は解除される。

そして隣の男性がキリストで、キリストと一つになって生きて行く。
これが主が十字架でして下さったことだ。古い私は十字架で死んだ。
律法に対して私は死に、解放され、キリストと共に喜びと安堵で生
きて行く。

・・・・・・・・・・・・・
律法でがんじがらめで、苦しくてたまらない私たちのために、主は
十字架で解決を与えて下さった。「私はキリストと共に十字架につ
けられた」この事実を、今朝も堅く信じて、告白して歩んでゆこう。
「もはや私でなく、キリストが」今日の歩みも成し遂げて下さる。


2014年01月24日(金)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること・・」伝道7:14




平穏な毎日を過ごしていて、ある日突如、問題が勃発し、悩みが生じる。しかし、すべては主の御手の中のこと。主のご計画があり、み思いがあり、災いではなく、平安と将来と希望のためのものだ。だが、問題がまるで解決しない。このトンネルは本当に抜けるのかと不安で一杯になる。しかし、人は艱難、悩みの中でこそ試され、練られ、鍛えられ、自分の本当の姿を知る。

順境の時にはないことだ。それは自分の内にある価値観、思考パタンが現われるからだ。問題でパニックになり、心重く沈み込んでしまう。その時、問題の無い人生、順境が善、逆境は悪と思っている自分の価値観が見えて来る。初めて気づく。逆境に会うと、神に愛されていない、祝福されていない、見放されていると感じてしまう。

自分の価値観はどうだろう。事態が自分の思い通りにならずに、イライラし、思い煩う。その時、自分の思い通りになる事が善との、潜む価値観に気づく。祈れば、好転するはずなのに、問題が更に悪化して行く。信仰すれば悩みが無くなるのではないのか、それが次々問題が起きる。その時に、信仰人生はスムーズであるはず、問題が起こるのはおかしい、試練は悪との、自分の価値観に気づく。

逆境は、普段、自分の中に顧みる事も、考える事もなく潜んでいる価値観を気づかせてくれる。信仰生活で一番素晴らしい事は、御霊の気づきを与えられる事だ。気づきから成長が始まる。自分が変えられて行き、平安へと導かれて行く。
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問題に直面し歩みを止められる時、静まって自分自身を顧みることができる。何が問題の核だろう、なぜ思い煩いを明け渡せないのだろうと。逆境によって気づかされ少しでも主の形に造り変えられたい。


2014年01月23日(木)

「『・・網をおろして魚をとりなさい』・・そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった」ルカ5:4


プロのベテラン漁師であるペテロが、一晩中漁をして、一匹の魚もとれなかった。何がどうなったのか、どこが悪いのか。しかし、こんな日はどうしようもなく引き揚げるしかない。徹夜で働いて身体も疲れきっていただろう。心的にもその日の糧が無く、がっかり落胆し、その疲労は倍増だった事だろう。岸辺で網を洗い片づけをしていた。

そこに主が、舟を少し出すよう言われ、従うと、その後「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとれ」と言われた。その時、様々な思いが巡っただろう。夜通し漁をしたがだめだった。こんな時間帯に魚はいない。常識で考えるなら不可能だ。徒労に終わる事がわかっている。無駄ではないか。早く家に帰って寝たい・・。

しかしペテロは「でも、おことばどおり」と従い、網を下ろした。「そして、そのとおりにすると」驚くばかりの大漁であった。奇跡だった。大事な事は、「お言葉通り」従うことだ。従おうとする時には、肉の思いが立ちはだかり、妨げて来る。「出来ない、難しい」「前もだめだった」「意味があるのか」、妨害が入る。

しかし、どんなに肉の思いが妨げて来ても、「おことばどおり」従うことだ。「そのとおりにする」ことだ。大きな祝福が備えられており、又、この時にペテロは「人間をとる漁師になる」と召しを受けた。御言葉に従う時、祝福が待っている。目の前に御心を示されているなら、ちゅうちょせずに従おう。
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御心が示されているなら従おう。従って行く中でペテロのように主を体験していける。網は一杯になり、水がぶどう酒に変わるのを、おことばどおりに、と従った者だけが見ることができる。


2014年01月22日(水)

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」Tサムエル17:47


いろんな信仰の勇者たちが、信仰の戦いを戦ったが、その方法は人間的に見るなら、ほとんど意味をなさないような方法だった。モーセは、民をエジプトから脱出させたが、エジプト軍の追っ手に窮地に陥った。前は紅海、後ろからは最強の軍隊だ。進む事も退く事も出来ない。絶体絶命の中で、主はモーセに、民に前進するよう言えと、命じられた。主が戦うと。

モーセと民が、エジプト軍と戦闘を交えたのではない。又、難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに町の周りを回るよう命じられた。6日間町の周囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。城壁を何とかしたのでは無かった。又、ダビデは、巨人ゴリアテに、石投げで石を打ち、倒した。

彼らが戦いに勝利したのは、神の御声に耳を傾け、神の方法に従ったゆえであった。人間の思いでは、そんな事をして何になるとの不思議な方法だった。しかし、主の命令通りに従った時に、神の大きな奇跡が現わされた。「主があなたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦いであった。

私たちも時々理解を超えることがある。しかし、信じて従う時、神の栄光を見る。御霊は窮地で導かれる。それはへりくだる事、あちこちに謝罪する事かも知れない。又、自分には不可能に思える御心に、信仰によって一歩踏み出す事かも知れない。とにかく神の方法に従う時、主ご自身が戦って下さる。
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自分中心に物事を見て解決して行こうとすると、恐ろしさで一歩が踏み出せない。この問題の中で主がしようとされている事が必ずあると、主の方法は何かに視点を変えよう。



2014年01月21日(火)

「あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい・・彼らはなめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです」ローマ16:17


「遠ざかりなさい」と言っている。すべての人を愛すべきでは?いや、遠ざかれと。離れよと言っている。分裂やつまずきを起こす人々が、現に起きると言っている。現実問題だ。そんな人は、見るからに粗暴、凶悪人物を連想するが、そうではなく「なめらかな言葉、へつらいの言葉をもって純朴な人たちの心をだます」と言う。

見るからに好意的で、優しそうな、へりくだった、温和そうな顔をして来ると。だから純朴なクリスチャンが、簡単にこのような邪悪な人々に騙されてしまう。「彼らは自分の欲に仕えている」とパウロが涙をもって語った。多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいると。彼らの本当の神は、彼らの欲望であり、つまり心の奥底は、神に従うのでなく、自分の思いを通したい、自分に都合の良いように生きたい。その自分中心のゆえに教えに背いて行く。自分の欲望がすべてだ。

今の時代、様々な聖書もどきの教えが氾濫しているので、よく警戒しなければならない。「自分に死に、十字架を負い」の教えが無い福音は気をつける必要がある。そして「自分の欲に仕えている」人々から「遠ざかれ」と明確に教えている。遠ざかる事は大切だ。分裂を引き起こす人々から離れよと。まず、自分自身がそのような分裂とつまずきを起こす者でないかをよく自戒し、自分の欲を捨てて、御声に従い、主に仕えて行こう。
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自分の仕えているものが何か、いつも御言葉によって吟味されていたい。自分自身が神様に肉の付加価値を混ぜているかも知れない。純粋に天からのものを見つめ、よく警戒していよう。



2014年01月20日(月)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32  



私達は皆、失敗する。どんなに気をつけていても、機械でなく、人間である限り失敗する。自分がこんなミスをするなどとは、信じられないと思うが、人間であるゆえだ。大事な事は、その失敗から「学ぶ」事だ。これが一番重要であり、失敗したら学べば良い。もう一度やり直せば良い。やり直す事ができる。

幸せな結婚生活は何と麗しい素晴らしいものだろう。しかし、幸せな家庭は、努力無しには有り得ない。人は皆、わがままであ、自己中心で、放っておくと自分勝手な道に向かって行く。「私たちはみなさまよい、おのおの自分勝手な道へ向かって行った」の通りだ。

それぞれが自分の思い通りに、好きな事だけをしていたい。双方がそうであれば、和合でなく分裂、無関心、又、争いになって当然だ。双方で「自分の利益を求めず」「愛は礼儀に反することをせず」「自分にしてもらいたいことをし」互いに調整し合う必要がある。それは自分を捨て、自分に死んで行く歩みだ。

ペテロも大失敗をした。事もあろうに主を裏切ってしまったのだ。もう取り返しがつかないと思った事だろう。しかしそれで終わりではなかった。ペテロは砕かれた。主の豊かな赦しを受け取り、再び主によって回復させられ、建て直された。私たちも失敗する。その時、落胆して主を離れるのでなく、すぐ主のもとへ行こう。豊かに赦して下さる。そして、その失敗をも益として、兄弟のために用いて下さる。何とあわれみの主だろう。
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どんなに失敗しても「主のもとに行こう」との信仰がなくならないように、主が祈っていて下さる。なんと愛されている事だろう。試みに会い失敗する度に主のあわれみを知り、自分の無力を知る。


2014年01月19日(日)

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでい なさい」ヘブル12:2 



この一年も主イエスから目を離さないでいよう。ペテロの海上歩行
は、よく知られているところだが、「来なさい」との御言葉に立ち、
その御言葉のゆえに、一歩を踏み出した時に、海の上を歩けた。ま
っすぐに主イエスだけを見ていたからだった。

ところが、風を見て、主から目を離した途端に、ぶくぶくと沈み始
めた。これは状況は全く同じという事だ。海の上で、何を見ている
かで、歩けたり、沈んだりする。私達はとにかく苦しい状況に沈み
込んでしまう。しかし、状況は問題でなく、主を見続けているなら、
歩いてゆけることを見せられる。

主から目を離さないとは、主に、主が語られた事に、主がなされた
事に、絶えずそこに目を留め、心に深く思い巡らせることだ。主に
目を定めることだ。日常生活どうだろう。あちらこちらに、あの事
にこの事に、絶えず主から目を離して、目の前の事に夢中になるし、
又、思い煩いにも囚われてしまう。

そうするなら、大きな祝福を、又、約束を取りこぼしてしまう。ど
うすれば目を離さないでいる事ができるだろう。「わたしを呼べ」
と言われる主を絶えず呼ぶことだ。生活の中で、主と対話しながら
生きて行く。
「絶えず祈りなさい」のとおり、困った時も嬉しい時も、逆境の時
も順境の時も、主に語りながら生活して行く。又「すべての事につ
いて感謝しなさい」を実践してみよう。起こるどんな出来事をも、
感謝して行く時に、その目は主から離れない。

・・・・・・・・・・・・・・
サタンは常に、主から目を離させるように働いている。すぐ主が飛
んでしまい、目の前の状況に飲み込まれてしまう。御霊の気づきが
与えられるよう、朝に祈ろう。目を離さないでおれるよう、祈ろう。


2014年01月18日(土)

「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教え とに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ 悟らず・・」Tテモテ6:3 


ここでは、高慢とは、主の健全なことばと教えに同意しない事だと
言っている。神の言葉を素直に受け取る事をせず、「でも」「で
も」と、「でも、そう思わない」「でも、そんな事できっこない」
「でも、無理」と拒否してしまう。「私はこう思う」と、自分の思
いのほうを取る。

「あなたは高価で尊い」と言われると、「そんな事はない」と決し
て信じようとしない。頭ではそうなのだろうと思うが、心では受け
入れない。又、「何も思い煩わないで・・」と言われる御言葉に同意
せず、延々と思い煩う。御言葉を拒否し、捨てていることになる。

又、御言葉を自分の都合の良いように聞く。その結果「その人は・・
何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをする病気にかかっ
ている。そこから、妬み、争い、そしり、悪意の疑りが生じ」と、
どんどん肉の実を結んで行く。自分の都合の良い御言葉だけを受け
取っていないだろうか。

ある人が、いつも牧師に助言を求めるが、同じ失敗を繰り返してい
た。その人は、牧師の助言に、口では「わかりました」と言うが、
必ず自分の思いのほうにに従って行った。口先では御言葉に同意す
るが、実際は自分の思い通りに行動する。そして、同じ失敗を繰り
返してしまう。

実は自分軸には、御言葉でなく、自分の思いがあった。自分に都合
良い言葉だけを聞き、都合悪い言葉を捨てるなら、高慢になってい
ると、神は言われる。自分の思いを捨てて、御言葉を選択し、従お
う。

・・・・・・・・・・・・
御言葉を聞く時に、「でも」「でも」が、自分自身の内にないか振
り返ってみよう。大切な御言葉を捨ててしまうことになる。「で
も」を捨てて、そのまま御言葉に従ってみよう。その時に主のみわ
ざを見る。


2014年01月17日(金)

「それから、アブラムはなおも進んで、ネゲブのほうへ旅を続けた。さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうに、しばらく滞在するために下って行った」12:10 



アブラハムは再度召しを受け、カランを出発し、カナンの地に入った。そしてネゲブへ向かって旅を続けていた時、激しい飢饉に会った。そこで、エジプトに下った。飢饉が余りにも厳しく、命の危険を感じたのだろう。エジプトに下って、アブラハムは罪を犯してしまった。自分を守るために、サラを妹だと偽り、サラにも偽りを強要し、そのためサラはパロの宮廷に召し入れられる事となった。間一髪のところで主の介入があり、助け出された。

アブラハムの失敗は、厳しい飢饉が臨んだ時に、神を仰がず、神の御心を求めず、自分の知恵と判断で動いた事だった。それがエジプト行きであり、間違いであった。まず神に祈り、頼り、神に指示を求めるべきだった。私たちも信仰をもって歩み出した途端、厳しい飢饉が臨む。その時に驚き慌ててしまい、神が吹っ飛んで、自分で何とかしなければと、動揺し、立ち騒ぎ、とにかく自分を守ろうとする。

右往左往し、肉の方策を考え、肉で行動する。その結果、手痛い失敗をし、刈り取りをする事になる。自分で動かずに、「わたしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。どんな飢饉であっても、主は手だてを持たれ、逃れの道も備えておられる。「立ち返って静かにすれば救われ、落ち着いて信頼すれば、力を得る」ことをよく覚えよう。
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慌てると自分の知恵や経験が先に動き始める。間に合わなくなってやっと主を仰ぐ。くり返す失敗だ。どんな状態でも、事を治めてくださるのは主だ。主よ!と呼びたい。


2014年01月16日(木)

「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」エステル4:16 

                       
エステルは両親と死別し、養父モルデカイに育てられた。そのエステルが、ワシュテイの代わりに選ばれ王妃とされた。そんな時にハマンの悪巧みにより、ユダヤ民族絶滅計画が企てられた。モルデカイは、ユダヤ人の非常事態に、エステルに王にあわれみを求めるようにと告げた。エステルは、召されずに王のもとに行く者は死刑であり、そして自分は王のもとには召されていないと答えた。

しかし、「この王国に来たのは、もしかすると、この時のため」とのモルデカイの言葉により、「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」と、命がけで、王にユダヤ民族の救いを求めた。それは王に聞き届けられ、ユダヤ民族は救われた。エステルを見る時に、神の摂理を見る。捕囚の民として異国で生まれ、この時期に王妃になったのも、この危機のためでは。これは王妃であるエステルにしか出来ない事であり、エステルだからこそ出来た事だった。その地位と立場も、神の配剤だ。神がそこにエステルを置かれた。

私達も皆、成育歴が異なる。しかし、どのようであれ、今に至るまでの過程は、神の摂理でありご計画だ。今、自分の思い通りでない、困難な現実であっても、今の場所であなたへの神の御心があり、ご計画がある。あなたの使命がある。エステルは自分自身を神に明け渡した。危急の事態で、私たちは解決策を探し回る。しかし、方法でなく、神は全く明け渡した「人」を通して、ご自身のみわざをされる。
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人知を越えた神の摂理の中での今だと信じて生きるなら、どこにあっても注がれている恵みと支えが見えて来るのではないか。直面する問題に惑わされず、今日置かれたポジションで神のみわざを見ていこう。                       


2014年01月15日(水)

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか」Tヨハネ3:18


どうしても好きになれない人がいるだろうか。口を開けば悪口を言い、噂話をする人、自慢ばかりする人、他人のあら探しをする人、常に不満と愚痴ざんまいの人・・。好きになるのは無理と思うかも知れない。しかし、聖書には一言も相手を好きになれとは書いていない。「好きになれ」でなく「愛しなさい」と言っている。

好きにならなくとも、愛することはできる。だから、聖書の御言葉は実行できる。聖書の中の「愛」はすべて「意志的愛」だ。感情的な愛ではない。愛するというと感情を連想してしまうが、そうではなく、意志で愛する事だ。感情はコントロールできない。しかし、意志はコントロール出来る。そう造られている。

愛するとは、日々の生活の中で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来る事をし、自分の持っているものを分け与えることだ。「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。

自分に出来ることをすればよい。現実の人生では、「塩狩峠」のように実際の命を捨てるほどの事は、まず起こらない。困っている目の前の人に、憐れみの心を閉ざさない事、自分に出来ることをする事、それなら出来るのではないだろうか。御霊の示しがあれば、愛する事を実行して行こう。
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感情が伴わなければ偽善のような気がするが、主の後に従って行こうとすれば意志を向けて行くしかない。だからこそ祈りが必要だ。示された愛を実行しよう。


2014年01月14日(火)

「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者になるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです」Tサムエル23:17



サウル王はダビデに嫉妬し、ダビデを殺害しようと執拗に追いかける。そのダビデがケイラの人々をペリシテ人の手から救った。その時、ダビデを追うサウルがそれを聞いて、ケイラに下り、ダビデを封じ込めようとした。しかし、ダビデは助けたケイラの人々の裏切りを知り、神の示しにより再び荒野へ逃亡する。

ダビデが逃げた事を知り、サウルは討伐を止めた。どんなにサウルがダビデを追っても、「神が」決して、サウルの手に渡されなかった。ダビデは逃亡を続け、ジフの荒野に潜伏する。命をつけ狙われ、いつ殺されるかわからない。まさに死と隣り合わせの日々であり、どんなにか恐怖であったろう。

サウルは一国の王であり、ダビデは僅か600人の部下を持つだけだ。比較にもならない。いざとなればサウルは国民全体をも招集できる。そんな時、ヨナタンが、神の御名によってダビデを力づけた。「恐れることはない。父の手があなたの身に及ぶことはない。あなたこそイスラエルの王となる」と。「神が」ダビデをサウルの手に渡すことなく守られると。

ヨナタンは状況を見るのでなく、神を見、神の約束を見ていた。王の息子が、ダビデにはっきりと、あなたこそ王で、自分は次に立つ者だと言った。立場と状況を見る時、いかにヨナタンが神を畏れ、神に従う者であるかがわかる。彼の信仰だ。「神の御名によって力づける」とは、状況でなく、自分の思いでなく、神の約束と神の御心に基づいて、力づける事だ。
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数限りない神の御約束が聖書に溢れている。何と感謝なことだろう。その御約束を信仰をもって受け取り見えるところにはない喜びと希望で人を力づけ、また自分自身を奮い立たせたい。



2014年01月13日(月)

「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません・・」Tヨハネ3:11

 

「カインのようであってはいけません」カインになるなと言われる。カインは、なぜアベル殺害に至ったのか。普通の兄弟げんかではなく、神への献げ物の事だった。神への献げ物が、アベルだけは受け入れられ、カインは退けられた。カインは激しく怒った。しかし、カインは主にどこが間違っていたかを問い、悔い改めて、正しく献げ直せば良かった。

しかし、その怒りの矛先がアベルへと向かい、アベルを激しく嫉妬し、嫉妬は強い憎しみに高じた。それは行為へと及び、カインはアベルを殺害してしまった。大きな罪を犯してしまったが、それには、まずカインと神との関係に問題があった。神との関係が、すべての基だ。私たちも神の前に正しくない時、罪の性質は人を妬み、憎んで行く。妬みは、誰にも根深く巣くう罪だ。

祭司長たちが主を十字架につけたのも、サウルが自滅して行ったのも妬みだった。妬みから憎悪へ、そして殺人へと発展して行く。しかし、新しく生まれた私たちは、すでに「死からいのちに移った」とある。新しい性質は、神の性質であり、その性質は兄弟を愛して行く。愛さないのではなく、愛して行こうとする。

御霊を宿した人は、つまづいたり、転んだりするが、愛せない事を悲しみ、必ず愛そうとして行く。それが救われている「しるし」だと。いつも御前に自らの愛の無い姿を認め、悔い改め、主と正しい関係でいよう。その時、御霊が働き、助けて下さり、御霊によって兄弟を愛して行ける。
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苦い思いは愛せない人に対してではなく、愛せない自分を悲しむとこから来ているのかも知れない。御霊様の示しに素直に従い主との正しい関係の中にとどまっていたい。


2014年01月12日(日)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです」ピリピ2:6


ある人が、職場でどうしても、そりが合わない相手がいた。話すと、ぶつかり、ギクシャクし、相手にトゲを感じる。嫌われているのかと思ってしまう。こちらも傷つき、段々接する事が苦痛になり、その事を祈りに持って行った。主の前で静まり、ことごとく打ち明け、主と交わった。すると相手の嫌な所、欠点ばかりが目に付き、そういう見方しかしていない自分に気づいた。

心では相手を責め立て、裁いていた。相手にトゲを感じていたが、実はトゲを出していたのは自分だった。丁度そんな時に、主のへりくだりを教えられた。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」「自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」ご自分を捨てて従順に従われた主の姿に、自らの高ぶり、愛の無さを示された。

悔い改め、へりくだる事を祈った。へりくだりたいと心を向けていた。そんな時、相手と仕事の話をしたが、相手との関係が変化している事に気づいた。自分が変えられていた。自分がへりくだろうと祈る時に、主が働かれる事を見せられた。穏やかに話ができ、トゲが消えていた。こちらが相手に対して心を開いて、変わったので、相手も変わった。悔い改めて、主に拠り頼む時、主はそこに働かれる。あなたも今、へりくだりを示されているだろうか。
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肉でへりくだってみても、すぐに高ぶりは戻ってくる。主に拠り頼まなければ、自分では出来ない。そのような者がなぜ高ぶっておれるだろう。自分を捨てられない者のために主は十字架につかれた。


2014年01月11日(土)

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい」哀歌3:22

もし、愛する相手から見放され、「もう愛が無くなった」と言われ
たらどうだろう。立ち直れないかと思うほど、傷つく事だろう。し
かし、感謝な事に、主が「もう愛していない」と言われる事は決し
て無いし、永遠に無い。それがどんな場合でもだ。

信仰人生で、臨んで来る苦しみの中には、自分の罪の結果である場
合がある。自分の愚かさであり、明らかに自分の失敗、過失による
ものだ。小さなミスから、大きな失敗まで様々だ。しかし、ご性質
が「愛」である主は、私たちがどんなに失敗しても、その愛は不変
だ。

自分を責めていたなら、主に向かおう。主を仰ぎ、悔い改めて、主
に赦しを求め、主のあわれみを求めることができる。主は赦し、再
び立ち上がらせて下さる。「主のあわれみは尽きない」「それは朝
ごとに新しい」「あなたの真実は力強い」。

罪ゆえに、バビロンにより、破壊尽くされて廃墟となったエルサレ
ム。絶望的な状況の中で、哀歌の作者は、告白している。そこに、
朝日が昇り、新しい朝が来る光景の中で、「私たちが滅び失せなか
ったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きない」と。罪で滅
びて当然なのに、今、事実、生かされていること、主のあわれみが
尽きないことを。

あわれみを受ける資格がある者に与えられるのは、あわれみではな
い。受ける資格が無い者に与えられるものこそが、「あわれみ」だ。
どんな状況に陥っても、私たちも主の「あわれみ」を求めることが
できる。

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「主よ。あわれんで下さい」どんなどん底でも、主のあわれみを求
めることができる。資格の全く無い者に与えられるとは、何と有難
いことだろう。どんなに沈み込んでいても、主のあわれみは、昇る
朝日と共に、この朝にも新たに注がれて、おおわれ、満ちている。


2014年01月10日(金)

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩編119:105   


船が航海する時は羅針盤を頼り、飛行機の飛行も計器を頼る。大海原で羅針盤が無く、大空の空間で計器の無い飛行を想像したらどうだろう。そしてもし、人間の視覚だけに頼って運行したらどうだろう。嵐や雲の中で、視界がゼロになると、どの方向に向かって操縦すれば良いかわからず、沈没、墜落してしまう。

車はどうだろう。計器を無視していると、ガス欠やオイル切れで車をダメにしてしまう。これは私たちの信仰生活も同様だ。確かな計器でなく、自分の思い、自分の見えるところ、自分の感覚に頼っているなら、すぐに思い煩い、不安、恐れ、心配で心が一杯になる。自分の感覚に頼って操縦するので、方向もわからず、的がはずれて行く。羅針盤や計器に従う時、正しく運行できる。

それが「御言葉」であり、「私の足のともしび、私の道の光」だ。進むべき道がわからない時、御言葉が足もとを照らしてくれ、正しい道に導いてくれる。御言葉でなく、自分の視覚で進むと迷路に迷い込む。どこへ向かっているかもわからない。

ある人が引っ越しの際に、夕刻に、食料を求めて、自転車で店を探した。そこは郊外で、店も無く、走り回っている内に、方角を見失ってしまった。日暮れて暗く、家に向かっているつもりが、もしや逆方向では?見知らぬ地で、非常な不安に襲われたと。もし地図があればどうだろう。御言葉は地図であり、指針を与えてくれる。信仰人生の道を照らして、進めるように照らしてくれる。
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主の御言葉を祈って読む時、折々に導きが与えられる。自分の考えや経験ではいくら考えてもわからないことばかりだ。主の御心を歩んでいるという平安のともしびを今日も見つめていこう。


2014年01月09日(木)

「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩編39:7 



この詩編記者は、苦しみの中で「なぜですか、どうしてこんな目に会うのか」との不満がうっ積していた。しかし、舌で罪を犯してはいけないと、口に口輪をはめた。ひたすら沈黙を守った。しかし、黙していると、ストレスが更に高じて内攻し、爆発しそうだった。それを、彼は人にでなく、神にそのままぶつけた。心の中の本音を吐き出し、気持ちを洗いざらい、神に告げた。人生は、はかなく虚しいと。私の一生は無いも同然と。

しかし、心の内をことごとく吐き出した時に、信仰が戻って来た。この虚しい人生で、望みをかけられるのは何かと、見上げた時に、神を見い出した。「私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。そして、本音を神にことごとく告げた後、私は黙し、口を開かないと言っている。「私は黙し、口を開きません。あなたがそうなさったからです」と。

同じ、口を開かないだが、最初の口輪をはめ、ストレスに陥ったのとは全く異なる。「あなたがそうなさった」と、すべての事に主の主権を認め、神のご計画を認め、それを受け入れ、主の御手に委ねた。自らの気持ちを、ことごとくさらけ出したから、御手から来たものを、平安もって受け入れることができた。私達も自らの奥底の気持ちを、ことごとく主に告げる時、主のご計画を受け入れる事が出来る。あなたもことごとくを主に打ち明けよう。
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心の中の本音を主にうちあけた後は、ただ黙して主の御言葉を聞き導きを待てる静かな平安が戻ってくる。これも主の御計らいだ。望みは主から来ると一日、一日知って行きたい。


2014年01月08日(水)

「するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家に帰った。そして・・食事をした」Uサムエル12:20



ダビデはバテシバとの姦淫の罪を犯した上に、更にウリヤ殺害の罪を犯し、罪に罪の上塗りをしてしまった。王であり、トップだ。何か言える者など誰もいない。ダビデはその罪を隠ぺいした。しかし、神が遣わされた預言者ナタンの指摘により、王であるにかかわらず、罪を認めて告白した。「私は・・罪を犯した」。主はその罪を赦された。

罪は完全に赦されるが、しかし、罪には刈り取りがあり、蒔いたものは刈り取る。「あなたに生まれた子は必ず死ぬ」。バテシバが産んだ子供が病気になった。ダビデは祈り、断食し、一晩中地に伏した。子供の癒しを祈りに祈った。しかし叶わず、その子供は死んでしまった。ダビデはそれを聞いた時、どうだったろう。わめき、怒り、呪い、嘆いたのでは無かった。何と、起きて身体を洗い、身に油を塗り着替え、宮へ入り礼拝した。御前にひれ伏し、御名を崇めた。

ダビデは切なる願いに、「ノー」であった時、それを受け入れた。願わなかったのでなく、気持ちをそのまま主に持って行き、願った。心底祈ったからこそ、主の御心が、自分の願いと違った時、それが受け入れられる事を教えられる。今、非常に厳しい状況にあるだろうか。気持ちをあるがまま受け止めて下さる主に、まず心の内を告げよう。苦しいなら、あるがまま打ち明けよう。その時、「イエス」であれ「ノー」であれ、主の御心を受け止めて行ける。
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叶わなかったのは神様からの答えと納得できるから悲しくとも不満はない。なぜだろう、どこが悪かったのだろうと理由を探す時は、神様に委ねきれずに、自分しか見えていない時だと覚えたい。


2014年01月07日(火)

「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち・・何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:2




中世は天動説だったため、惑星の軌道が膨大に複雑で理解不能だった。地動説を打ち立てたのがコペルニクスだ。天動説は地球を中心にして天体の動きを見ていた。だから理解出来なかった。しかし、地動説は、地球は太陽の周囲を回る小惑星だ。地球が宇宙の中心なのではない。そうするとすっきりし説明がついた。

私たちの信仰生活はどうだろう。天動説なら、自分が世界の中心だ。自分を中心に周囲は回っている。そのため様々な悩みと問題を生み、対人関係ではあちこちでトラブルを引き起こす。自らが問題を引き起こしている。自分中心に世界が回っているので、周囲に配慮でなく、周囲を支配し動かそうとする。そこにトラブルが生じる。

うまく行かないと、相手が悪いと信じて疑わない。あの人、この人さえいなければ、人生快適なのに。しかしそれなら地動説だ。相手はいっさい関係なく、問題は自分だ。自分の心の状態の責任は自分にある。まず自分の問題だと認めよう。相手がどうであれ、反応しているのは自分であるからだ。

自分中心をキリスト中心に据え変える時、見方が変わる。相手しか見えなかったのが、御霊の光に照らされて、自らの高慢、自己愛、プライド、嫉妬心、愛の無さが見えて来る。自らを明け渡して、主を中心に据える時、自由にされる。解放され、御霊の喜びを経験する。主が中心、コペルニクス的転換だ。
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一刻も静かにしていない自我から見る不確かな人の動きは、全く理解不能でしかなく、絶えず反応していると落ち着く間もない。心の中心を主に明け渡そう。あのトラブルの本は私にあるのかも知れないと主の導きが聞こえて来る。


2014年01月06日(月)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します・・」マタイ6:34



ある人が、親を自宅介護していたが、認知症が進み、自宅ではもはや到底無理であり、医師からも周囲からも入院を勧められた。しかし本人の願いでもあったので、最後まで、家で介護する事にした。家族も認識できない状態となり、実際、介護は決して甘くはなかった。厳しい現実であり、火のような試練であった。朝毎に、主に助けを求めて、涙ながらに祈る日々だった。

祈らなければ、一日たりともおれなかった。主に拠りすがり、「あすのための心配は無用です」「あすのことはあすが心配します」の御言葉通り、明日はいっさい考えないで、主に委ねて、とにかく「今日」「この一日だけ」を考えた。この一日を過ごそうと、この一日だけを考え、一日〃を重ねて行った。結果的に、介護を全うできて、看取ることができた。

厳しい日々ではあったが、しかし、「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり」火の中、水の中に共におられる主を、まさに日ごとに体験させられた。一日一日が火の中、水の中であった。だが火の中でも、焼かれず、炎は燃えつかなかった。様々な具体的な助けが臨んで、御言葉の通りに、主によって助けられた。自分達だけでない事を、目に見えない主が、共におられる事を実感できた。試練と共に脱出の道を備えられる主は、主の臨在という恵みを与えて下さった。
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今日の心配が明日も続くと思う。そのネガティブな霧に心がふさがれる時、その先におられる主を仰ぎ祈ろう。主が盾となり守って下さっている。主と主の御約束だけを見ていよう。