2014年02月28日(金) 「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:10
「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩篇33:10
祈りについてどうだろう。祈らないで、事を行ってしまって、失敗した経験は無いだろうか。祈らないで高価な物を衝動買いし、実は欲しい物でも無かったと後悔する。衝動買いする前に一言祈ろう。主は平安を与えて、購入を導かれたり、状況に働きストップをかけたりして導いて下さる。 又、祈らないで活動を始めてしまい、途中で様々な障害にぶつかり、立ち往生してしまった事があるだろうか。結局止めてしまう。良い事でも、祈らないで始めると、中途で挫折してしまう。ある人は祈らないで、目の前に来た好条件の高額のバイトに飛びついた。しかし余りの忙しさにデボーションの時間も全く取れず、神が後回し〃になり、本末転倒の生活を示され、何をしているのかわからなくなり、途中で辞めた。 ある人は御心を求めないまま、転職した結果、高額報酬だったが、激務で、全く教会へ行けなくなってしまった。ヨシュアがギブオンの住民達に騙されて、盟約を結んだ箇所がある。ギブオン人達が計略を巡らし、変装し、遠くから来たと思わせた。実際は自分達の中に住む近隣の者達であった。この時、対応するのに「主の指示を仰がなかった」。自分の思いで判断すると、手痛い失敗をしてしまう。 日常生活、祈りつつ、主の指示を仰ぎながら歩もう。あの決定、この判断、まず祈ろう。でなければ、結局、肉で始めた計画は、無効となり、虚しくなり、立ちゆかない。主に祈り、御心を行なって行こう。主のはかりごとは成し遂げられて行く、それは「主と一つ」に進める幸いな歩みだ。 ---------- 祈ってからすることは、結果が思い通りでなかったとしても主が共におられるゆえに常に最善と納得できる。主と一つ思いになれるよう「主よ」と祈りながら進んでいこう。
2014年02月27日(木) 「恐れてはいけません・・まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」T列王17:13
「恐れてはいけません・・まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」T列王17:13
エリヤは主から示しを受け、ケリテ川に身を潜めた。飢饉の中で、そのケリテ川で養われ、やがて川が枯れた時、次に、シドンのツァレファテへ行くように告げられた。そこで、やもめ女に命じて養うと。主の言葉に従い、その町へ行くと、そのやもめ女に出会った。そこで彼女に水とパンを求めた。すると、エリヤを養うべく備えられた女性は、最後の一握りの粉でパンを作り、母子で最後の食事をして死のうとしているという。 何という悲惨な状況だろう。どんな裕福な資産家と思いきや、極貧にある女性であった。エリヤは何と思ったろう。目の前の人物は、人を養う事など不可能ではないか。だが助けを求めなければならない。人間的に考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、とても言えない。しかしエリヤは目に見えるところでなく、情でも、自分の思いでもなく、ただ御言葉に従った。 まず私に小さなパンを作り、その後にあなた方のために作るようにと。そうするなら、飢饉が終わるまで粉は尽きず油は無くならないと。人の思いや情は、神のみわざを妨げてしまう。エリヤは神を信じ、御言葉に立ち、そして彼女はその言葉に従った。すると母子は飢饉の間中、豊かに養われた。神を第一にする時、みわざを見る。自分の思いや情、見えるところが逆行していて、反対に見えても、神の言葉を選択し、従おう。その時、神を体験して行く。 ------------- 今そんな場合かと勝手に時を計り、御言葉を語ることをためらう時がある。自分の判断ではなく主権は神にあることを覚えたい。時を逃さず、神を信じ忠実に従おう。
2014年02月26日(水) 「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」箴言19:21
人には、これが最善と思う様々な考えがあり、計画がある。しかし神にもプランがある。ヨセフは、思いもよらぬ歩みへと導かれた。父親に特別扱いされた事で、兄達たちの妬みを買った。ヨセフを憎む兄達により隊商に売られ、突然、遠く異国の地へ。孤独、不安、恐れ、心中はいかばかりだったろう。しかし、エジプトの地で、買い取られた主人に仕え、好意を得、何と全財産を任せられた。 「主が共におられたので」、これは主による事であった。しかし又も苦難が臨み、濡れ衣で投獄の身となった。まさにえん罪だ。しかし、そこでも「主が共におられ」監獄長の心にかなうようにされた。模範囚となりすべての囚人の管理を任された。やがて時が来て出獄かと思いきや、献酌官長との約束はきれいに忘れられ、尚も2年が過ぎた。 神の時は何と長いのだろう。結果的に2年だが、その渦中では、どんなに試され、忍耐が要った事だろう。最終的に総理大臣となり、飢饉の中、ヤコブや兄達の命を救う事になる。ヨセフが売られて以来10数年だ。彼らの救いのために、神が先にヨセフを送られた。ヨセフ自身にもプランがあったろう。神のプランは想定外であったが、結果的に親族の命を救う事となった。 そしてヨセフ自身も苦難の中で、練られ造り変えられて行った。今、思いもよらない状況にあるだろうか。「主が共におられる」、「主のプランがある」。信じて、委ねて行こう。必ず主の素晴らしいみわざを見る。 ----------- 最善の道と思っても主の目にはそうではないように、今が最悪の状態に見えても実は主の御心の真ん中であったりする。迷いやすく自分の行く道を理解できない。一日一日導きを求め、委ねるだけだ。
2014年02月25日(火) 「ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」マタイ22:11
「ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた」マタイ22:11
王が、王子の結婚の披露宴を催した。しかし招待した客は「来たがらなかった」。そこで再度、別の者を遣わし、招いた。ところが「彼らは気にもかけず」畑に、商売にと出て行った。神の事、永遠の事より、今の地上の事柄が心を占め、目の前の事に心を奪われてしまう。王や祝宴などどうでもよい。大切なものが、畑、商売であり、この世の事だ。 そこで、王は、彼らはふさわしくなかったので、通りで出会った者を皆、招くよう命じた。片っぱしから呼んで来たので、会場は一杯になった。ところで、そこに礼服を着ていない客が一人いた。王は怒って外に放り出した。道で、突然呼ばれるわけで、誰も礼服など持っていない。この礼服は、すべて主催者側で用意されてれていた。だから放り出された人は、王の礼服を、故意に拒否した事になる。彼は、町で招かれ、招きは拒まずにやって来たのだが、王の前に出る「礼服」は拒んだ。 「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」この客のようだろうか。王の礼服は不要で、自分の服で自分を着飾る。自分の功績、自分の力を握って放さない。自分の力で、自分の良い行ないで、義と認められようとする事だ。神の考えより、自分の考えを正しいとするなら、神を拒否し礼服を拒む事だ。 王の礼服、義の衣、主キリストを着て、主と一つとなり従って行こう。「何もかも整いました。さあどうぞ」肉の力は不要だ。御霊が何もかも整え、力を与えて下さる。披露宴の大きな喜びと楽しみにあずかれる。 ------------ もっと良い人になって、もっと敬虔になれてからと、自分の側のものを整えるより、自分を脱ぎ捨る方へ意志を向けたい。素直に主の備えて下さるものを着て、喜んで招きにあずかろう。
2014年02月24日(月) 「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます」ヨハネ14:27
ある男性が、仕事が忙しく、過労で許容量オーバーで、もうヘトヘトだった。そんな中、少しまとまった休暇が取れた。仕事から解放され、しばし休養できる事に、大いに喜び、感謝した。ところが休暇に入った途端、バッグをどこかに置き忘れてしまった。行った場所に戻っては、通った道筋を探し回った。行った先に電話もし、確認したが見つからない。仕方無く、カード類はすべて差し止めの電話連絡をした。 財布にはかなりの金額が入っており、がっかり意気消沈した。免許証はすぐに必要なので、とりあえず再発行に出かけた。バッグは見つからず、走り回り、心は重く、ぐったり疲れ果ててしまった。せっかくの休暇が、更に疲労を重ねてしまい、これは一体どういう事なのか。主の御前に心を静め、祈りの時を持った。その時、どんなに休暇があり、物理的に時間があったとしても、主の平安が心になければ、全く休まらない事を思い知らされた。 主の平安がどんなに素晴らしいもので、感謝な事かに改めて思い至った。私たちも同様だ。どれほど休暇があったとしても、主の平安が無く、思い煩いや心配で一杯なら全く休養にならない。主がすべての思い煩いと不安を受け止め、平安を与えて下さっている事に、今一度感謝しよう。そして、すべての考えにまさる神の平安を絶えず備えて下さっているので、今、目の前の、その思い煩いを主に委ねて行こう。 ---------- 主が共におられる事を忘れるなら心の安らぎはすぐに奪われてしまう。どんな問題の中でも共におられる主を知って歩むなら、弱さや恐れの中で心は安定し主の平安がいつも私たちを守って下さる。
2014年02月23日(日) 「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち上がった・・えに しだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った」列王19:4
「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うために立ち上がった・・えに しだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った」列王19:4
エリヤはバアルとの戦いで、雄々しく戦い、大々的勝利を遂げた。 しかし、怒ったイゼベルはエリヤ殺害指令を出した。エリヤは恐怖 に怯えて逃亡した。あれほどの戦いに勝利したエリヤがなぜ?と思 うが、霊的勝利の後は、特に危険と言われている。勝利に喜び、酔 い、油断している所へ、サタンの攻撃と誘惑が襲う。 特に成功の後こそ、特に身を引き締め、へりくだって、更に主に拠 り頼む必要がある。あの勇敢なエリヤが、恐れて逃げたのだ。この 事の原因は、イゼベルの言葉だった。主の言葉よりイゼベルの言葉 のほうを受け入れてしまった。どの言葉を聞き、どの言葉を拒否す るかは極めて重要だ。その言葉によって、自分が支配され動かされ てしまう。 私たちはどの言葉に聞いているだろう。神の言葉か、サタンの言葉 か。神はエリヤを深く眠らせ、食事を与え、十分に休息させられた。 主により回復を与えられたエリヤは、ホレブの山に行き、ほら穴に いた。主は「ここで何をしているのか」と問い、エリヤの心の内を 出させられ、山の上で主の前に立つように命じられた。 かすかな細い声があり、エリヤはその御声に耳を傾けた。神はエリ ヤの思い込みを正し、新たな使命を与えられた。死を願っていたエ リヤが再び、神の使命を果たすために立ち上がる事ができた。 スランプ、無気力から脱出するためには、神の御前に静まり、気持 ちを聞いて頂き、細い御声にじっと耳を傾けることだ。神との交わ りから、新しい力が湧き出る。もう一度立ち上がる事が出来る。 ・・・・・・・・・・・・・・ 落ち込む時、主は責められるのでなく、助けて下さる。辛い、苦し い、悲しい気持ちを余すところなく、ことごとく主に告げて聞いて いただこう。そして御声に耳を傾けよう。回復させ、新たに前に進 ませて下さる。
2014年02月22日(土) 「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答え られない」箴言21:13
「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答え られない」箴言21:13
困っている人が何かを訴えて来た時に、関わるのは面倒なので、関 わりたくないと、無視してしまうだろうか。時間、労力、経済的な 犠牲を払いたくない。「耳を閉じる者」と出て来る。人は自分が聞き たい事柄だけを聞いていて、聞く事柄を選んでいると言われている。 聞きたくない事は、耳をふさいで聞かない。だから聞こえない。そ して、耳を閉じて、聞かなかった事にすれば、自分を正当化できて、 悩まずに済むし、責任も感じなくて済む。しかし、困っている人々 の必要を無視してしまうと「自分が呼ぶ時に答えられない」とある。 自分の祈りが聞かれなくなってしまう。「言葉と口先だけで愛する ことをせず、行ないと真実をもって愛そう」「それによって、神の 御前に心を安らかにされる」「自分の心に責められなければ、大胆 に神の御前に出ることができ」「求めるものは何でも神からいただ ける」。 行ないと真実をもって愛する時、自らの祈りが聞かれて行くと。そ して、主との間に妨げがないので、御霊の自由な喜びと平安に満た される。又、神は、私たちが、すべてのことに満ち足りて、すべて の良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばか りに与えて下さる。主に、御言葉に従って行く時に、大きな喜びを 刈り取る。目の前の示しに従おう。 ・・・・・・・・・・・・ 耳を閉じると、祈りに影響してしまう。しかし自分の内に犠牲を払 う事を渋る思いがあるなら、それを認めて、主に告げる時、主は助 けて下さる。御心に従えるようにして下さる。あるがまま主に告げ よう。
2014年02月21日(金) 「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24
「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24
私たちの人生は、主によって定められるとある。自分の思い通りに行くわけではない。「人間はどうして自分の道を理解できようか」とあるように、思いを越えた、想定外の事が起きる。私たちは、現在が見えるだけで、将来は全く見えない。しかし、自分には見えないが、歩みを定め、導きの主がおられると信じるなら、私たちはどんなに平安に歩めるだろう。 すべてが自分の願い通りになるわけではないが、今の願いや気持ちを受け止め、知っていただける。そして自分の思い通りにならないとしても、自分にとって最善を成して下さる主であり、信頼してお任せできる。何と安心だろう。アブラハムも主の示しに従い、どこへ行くかを知らずに、出て行った。先の事は全くわからなかった。しかし、一歩、一歩と示されて歩んで行った。 アブラハムの生涯には、色々な出来事があった。時には手痛い失敗もあった。しかし、先は見えないが、目の前の一歩を主に従って行った時、その歩みは導かれ、祝福され、大いなる者とされ、ヘブル11章の信仰の人々にその名を連ねている。信仰の生涯を全うし、主に喜ばれた。 私たちには、目の前にいつも二つの道がある。自分の思い通りに歩む道と、主の御心の道だ。アブラハムのように、主の示された道に歩むには、自分を捨てる必要がある。しかし、それは主の喜ばれる道であり、信仰によって進んで行く道だ。そしてどんな想定外の事が起きようと、主に頼って歩める平安な道だ。自分主導でなく、主によって導かれているのだから。 ----------- 自分で決められない明日を自分一人で歩んでいるから平安がない。主の最善、恵みを信じ一歩でも自分の思いを捨てて主に従ってみよう。迷っているようでも主の導きの中だ。
2014年02月20日(木) 「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」ヨハネ4:13
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」ヨハネ4:13
サマリヤの女性は、心の奧に渇きがあり、満たされない思いで、虚しさの中にいた。その心の内を知る主は、わざわざ彼女個人に会い、必要を満たし、救うために、サマリヤを通られた。井戸ばたに、彼女は水を汲みに来ていた。が、極力、人目を避けるため、カンカン照りの暑い、誰も来ない時間だった。 その時、主は彼女に「水を下さい」と求められた。彼女は、サマリヤの女に、ユダヤ人の男性が話しかけることに驚いた。当時、そういう習慣は無かった。そして、主は、ご自身こそが、生ける水を与え、渇くことのない、真の心の満たしを与えることができると言われた。 箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるが、人間は、愛し、愛されることを求める。しかし、人の愛は条件付きであり、残念ながら人の心は変わってしまう。永遠の愛を誓って結婚した男女が、残念な事になってしまう。この女性は、男性の愛を求めて、さまよっていた。男性により、自分は満たされ幸せになれると思った。しかし、そこに心の満たしは無かった。 この世の水は飲んでも、また渇く。私たちも、もし心に喜びや満足が無ければ、主以外のもので、心を満たそうとしていないだろうか。人からの賞賛、富、名誉、地位、働き、自己実現・・。気づきから方向変換が始まる。 ---------- 信仰があっても喜びや満足がある時ばかりではない。その時こそ感謝し、その渇きをご存知で近づいて下さる主としみじみ交わりろう。新たな力が湧いて来る。渇くことはない。
2014年02月19日(水) 「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12
「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12
謙遜とは、単に腰を低くすることではない。又、自分には能力があるが、それを人に見せびらかさない、という事ではない。そうではなく、本音で自分は無力だと思っている事だ。取税人は真に自分の罪深さがわかっていた。それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。ただただ、神だけを見て、神に赦しを求めた。そこに人などなく、神と自分の関係しかない。神の前の自分を見ていた。そして彼は赦された。 モーセは40才の時に、神から出たものでなく、自分の思いで、自分の力で、同胞を救うために立ち上がった。しかし、失敗し、荒野に逃れ、羊飼いとして40年の歳月を過ごした。そんな80歳の時に、召し出された。40年前と違い、年老いた一介の羊飼いだ。かつての栄光も、力も無く、何も持たず、真に自らの無力を思い知ったモーセは「私はいったい何者なのでしょう」と尻込みした。神に説得され、押し出された。 主の一番弟子であったペテロは、いつでも前面に出て、時に調子に乗り、出しゃばってしまう、自信家であった。しかし、目の前で、あるはずの無い大漁の奇跡を見た時に、「わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者」と真にへりくだった。そして、主を3度否んだ後、号泣して悔い改め、自らの徹底無力を思い知った。心の貧しい者は幸い、自分の心底無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな者だ。自分を誇れず、自分に頼れず、主に拠り頼み、拠りすがって行くからだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。 ------------ 自分の無力さと引き換えに主への感謝と信頼は増していく。信仰生活なんと感謝な事だろう。弱さや醜さを抱えた本当の自分で主に従っていこう。
2014年02月18日(火) 「私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた」箴言4:11
「私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた」箴言4:11
よく聞く話がある。航海中の、ある乗客が、船長とデッキに立っていた。その乗客は、船長に尋ねた。「こんな真っ暗な夜は、どうやって港に入ってゆくのですか?」船長はこう話した。「あそこに三つの灯が見えるでしょう。あの三つが重なって一つに見えるようになったら、船が港の入り口に着いたいうことです」。これは神の御心を求める時に適応できる。 「神の御心を知るために、次の三つが一致する必要があって、待たなければならない。その三つは、「御言葉」と「祈りによる内なる平安」と「環境」だ。すなわち、神が御言葉を与えて下さるのを待ち、又祈りを積む中で、心の中に平安が与えられるのを待ち、環境の門が開かれるのを待つ。この三つが一致する事が必要で、一致しない内は行動を起こさず、祈って待った方が良い」。 人生の重要な事柄に関しては、この原則に基づいて、三つが一致し、尚も祈り、平安が変わらなければ、進めば良い。日々の生活での小さな事柄は、神が与えて下さった知性をもって、常識をもって判断して行けば良い。信仰は時に常識を超越するが、非常識なのではない。コーヒーか紅茶かといった些細な事柄は、選んで行けばよい。 しかし、人生の重大な選択については、明確な導きを示されるようよく祈り、主のお心を求めることが大切だ。主は私たちを、御心の道へと導きたいと願っておられるので、求めるなら、必ず示して下さる。 ------------ 御言葉、平安、状況がそろえば迷わず確信をもって進める。御言葉を求め平安が来るまで祈りろう。環境が閉じられれば更に良い道が与えられる。
2014年02月17日(月) 「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」エペソ6:16
「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」エペソ6:16
サタンは私たちの「思い」に攻撃して来る。「悪魔はすでにユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが」とあるように、イスカリオテのユダの心に、主を売る「思い」を入れたのは、悪魔だ。ユダは最初に、サタンが持ち込んだ、主を裏切る思いが「自分の思い」ではなく「サタンの思い」である事に気づかなかった。サタンからの思いを受け入れてしまった。 日ごとに、朝起きた瞬間から、サタンからの思い、火矢はすべての人に来るが、ユダは、サタンからの「思い」を拒否せず、捨てず、受け入れてた。それを、心の中であたため、「欲がはらむと罪を生み」の通りに妊娠させてしまった。サタンが吹き込んで来る「思い」を受け入れ、はらんではならない。サタンが吹き入れる様々な思い・・妬みや怒りや批判、憎しみや思い煩い、それはサタンの火矢であり、自分の思いではないので、罪ではない。 主も、40日の断食の後に、空腹になり、石をパンに変えて食べようかと思われた。しかし、それは主の思いでなく、サタンからの誘惑だ。主はそれを拒否された。そして主は「罪を犯されませんでしたが・・試みに会われた」とあり、思う事は罪ではないとわかる。その思いを、拒否せずに、同意し心の中に深く受け入れ、はらむなら罪となる。自分が思っているとしか思わない、様々な「思い」が、実はサタンからの攻撃だと気づく時に、見方が変わり、解決へと導かれる。 -------- サタンだと気づけることが大切だ。自分の弱さを自覚して、絶えずそこに来る攻撃に御言葉を備えていよう。思い煩いや物欲や恐れや挫折感・・・背後にサタンの攻撃がある。
2014年02月16日(日) 「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の 国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる』」創世記31:3
「主はヤコブに仰せられた。『あなたが生まれた、あなたの先祖の 国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる』」創世記31:3
父と兄を欺いて、祝福を奪ったヤコブは家におれなくなり、叔父ラ バンのもとに身を寄せる事に。孤独の中で野宿していた時に、神が 「あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ戻 そう・・」と約束された。 しかし、その約束の成就に、数年ではなく、何と20年もの歳月を要 した。気が遠くなるほど長い年月だ。私たちは、待つ事が難しい。 しかし、神は早急にではなく、歳月をかけ、地道に私たちを導かれ る。今の日々、主に在って、練られきよめられ、造り変えられる途 上にあり、1日も決して無駄な日は無い。 必ず時は満ちる。「神の時」は到来する。約束が、成就して行く時 には、よく見ていると、予兆がある。状況が少しづつ変化して行く。 ヤコブの周囲の状況も変化して行った。ラバンの息子達が、父の物 をみなヤコブが盗んだとの言い方をする。ラバンの態度も以前のよ うでなくなった。 好意的でなくなり、このままなら争いが生じ、問題が起きそうだ。 ヤコブへの対応が違って来て、微妙な空気を感じ取る。そんな状況 の中で、はっきりと主の御声が臨んだ。「あなたの先祖の国へ帰り なさい」「さあ立ってこの土地を出て、あなたの生まれた国へ帰り なさい」。 今こそ約束の時、到来だ。私たちも、状況の変化を見落とさないで いよう。そこに、神の言葉が臨んだ時、行動を起こすべき時だ。 ・・・・・・・・・・・・ 主は必ず約束を成就して下さる。しかし、「待つ」時間を与えられ る。忍耐を与え、信仰を培って下さるために。主に期待し、主に望 みを置いて、待とう。状況をしっかり見張り、見極めつつ。微動だ にしなかった状況に、何かの気配が出て来る。
2014年02月15日(土) 「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふ さわしくありません」ルカ9:62
「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふ さわしくありません」ルカ9:62
主に従おうとする人々が出て来る。一人目は、神に全面的に従いま す、どこへなりとも行きますと言った。しかし、主は「狐には穴、 空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もない」と言われた。 わたしに従うという事は、厳しい苦労があり、大きな犠牲を伴うと。 喜びと同時に苦しみもあり、それなりの覚悟が必要だと。中途半端 な気持ちで、楽な道だと思っていれば、こんなはずではないと、す ぐに挫折する。 主は、次の人に「わたしについて来なさい」と言われたが、「まず、 父を葬りたい」との答えだった。主からの明確な示しにかかわらず、 将来父を看取ってからと。これは、従う前にあれこれと言い訳をし、 結局、従う事の無期延期だ。最終的には従わないまま終わる。御霊 の示しに、即、従わず、ぐずぐずと時を延ばすと、結局従わないま ま終わってしまう。 別の人は「主よ、あなたに従います」と決心していた。だが「その 前に、家の者にいとまごいを」と。これは、前進しようとしながら、 後ろを振り返る人だ。捨てたつもりのものに未練があり、断ち切る 事が出来ない。その未練は「神の国にふさわしくない」と主に言わ れたが、捨てるものへの執着がどうしても断ち切れない。結局従え ないまま終わる。 主に従わせないよう、妨げて来る様々な誘惑、かせがある。様々な 方面から、サタンの妨害がある事を踏まえ、従えるように祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・ 人生が主に従えないまま、終わってしまうのは悲しい。自分にとっ て誘惑になったり、妨げになっている部分はどこだろう。一足一足 助けられて、目の前の一歩に従って行けるように、御霊の助けを祈 ろう。
2014年02月14日(金) 「そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた『エジプトの地で・・私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに』」出エジプト16:3
「そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた『エジプトの地で・・私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに』」出エジプト16:3
イスラエルは、目の前で紅海が分かたれるという、偉大な主の奇跡を見て、主エジプトを果たした。後にも先にも無いような、驚異的な輝かしい奇跡だ。民はどんなに大歓声を上げ、喜びの叫びだった事だろう。しかし、それも束の間、荒野に入った途端、やれ水が無い、食べ物が無いと、不満噴出で、モーセに食ってかかる。さっき神の偉大な全能の力を見たばかりで、その神が共におられるのだ。 信じておれば良いだろうと思うが、しかし、イスラエルの姿は自分の姿だろうか。自分に都合良く、順調に行っている時だけの感謝で、ちょっと状況が厳しくなると、不平不満、愚痴、恨み事が出て来る。感謝も恵みも吹っ飛んで、更には神を責め始める。その後は、民は「どうして荒野になど連れて来た」「飢え死にさせるためか」「エジプトにいた方が良かった」「エジプトに帰ろう」とまで言い出す始末だ。 何が問題なのだろう。常に自分を中心に、物事を見ていて、自分軸で世界が回っているので、「自分の思い」が第一、「自分の感情」が何よりも大事、そして「自分の損得」で動いてしまう。自分が王座に座っている。険しい状況になった時に、主はどう思われてるのか、主のお心は、主の導きは、との発想が飛んでいる。 自分は〜でなく、主は〜に、神視点に立つ時、心に平安が湧き出て来る。主は善い方であり、愛して下さっていて、最善をして下さることに目が行き、信じて行ける。今、主と状況のどちらを見ているだろう。 --------------- 試みや問題の中で主を忘れ、つぶやく民は自分の姿だ。主を見ていなければ不満とつぶやきがやって来る。海でも地でもつぶやき続けた荒野の民の思い出し、つぶやきは祈りに変えたい。
2014年02月13日(木) 「もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までお休みなさい」ルツ3:13
「もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までお休みなさい」ルツ3:13
ナオミが、モアブの地で出会った息子の嫁ルツ。そのルツが当の息子が亡くなった後も、ナオミについて来てくれた。ナオミの故郷は、ルツにとっては異国の地であり、ナオミは、そんなルツの今後の事をよく考え、祈っていた事だろう。生計のために、ルツが落ち穂拾いに出た時に、丁度出会ったのがボアズだった。そのボアズは親類で、ルツに目を留め、好意を表してくれている。その誠実な人柄は、ルツの将来を託すのに、ピッタリだ。 こんなにふさわしい相手はいない。ナオミはルツに指示を与え、ルツはナオミに言われたその通りに従った。ルツは、ボアズに買い戻しを願い、ボアズの足もとに寝たのだ。どんなに勇気の要る事だったろう。するとボアズは、その願いを受け入れ、しかし更に近い親類がいるので、もしその人が権利を放棄するなら、自分が買い戻すと答えた。 ナオミは、状況がどうであれ、必ずボアズがルツを買い戻すようになる事、それが神の御心であり、成就する事を信じていた。それで「この事がどうおさまるかわかるまで待て」と、ルツに確信を持って言えた。ルツは自分のすべき事はした。神が働かれるから、待っているようにと。どうこうせず、思い煩う事もせず、ただじっと安息して待てと。 肉の動きを止めることだ。私達にはこれが難しい。肉は必ず自分で対応し、自分で動こうとする。その方が楽なのだ。目に見えない神を、ただじっと待ち望む事は難しい。あなたにも、なすべ事を果たしたなら、神を待てと言っておられるだろうか。 ------------- 信仰に立ってやることをやったなら、後は神にお任せし、じっと待つ者となるべきだ。騒だつ思いを治め待つことを学ぼう。信仰を培って行く。
2014年02月12日(水) 「・・あらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った『・・と神はほんとうに言われたのですか』」創世記3:1
「・・あらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った『・・と神はほんとうに言われたのですか』」創世記3:1
エバへの誘惑に、蛇の狡猾さが表われ出てるが、あなたにもこの誘惑が来ていないだろうか。「ほんとうに?」との言葉だ。神が言われたのはよいが、「ほんとうに?」と。神や御言葉を否定して来るわけでなく、「ほんとうに?」と言われた時に、「ん?ほうとうだっけ?ほんとうかな?自分の思い違いでは?」と、疑いが湧き上がる。 サタンは極めて狡猾だ。初めから否定して来たなら、警戒し、身構え、識別しながら聞く。無神論者や共産主義者の言葉は、それなりに聞く。しかし神を認め、御言葉を認めた上で「でも、ほんとう?」とは、サタンの罠だ。そして、次には大胆にも全面否定して来る。「あなたがたは決して死にません」。神の言葉と正反対だ。正反対なのだから、わかりそうなものだが、サタンに聞いて行ってしまうと、わからなくなる。 これはサタンのやり口だ。「御心だけど、行わなくてもいいのでは」とささやきが来るだろうか。信仰によって、御言葉の約束に立とうとすると、「本当に?」「成就なんてするの?」「信じているだけで大丈夫?本当に?何とかしなくては」と吹きかける。ご自身の栄光の富をもって必要をすべて満たす、と言われると「本当に?そんなはずないよ」あなたの人生必ず導く、と言われると「本当?」いつも信仰が揺れ動き、ぐらつく。 自分が思っているのでなく、サタンが吹き込んでいる、火矢だと気づこう。エバのように自分の思いに立つのでなく、主のように御言葉に立てるように祈っていよう。 ----------- サタンは御言葉や真理を都合よくゆがめ、自分の思いに合致するよう誘惑してくる。焦り、煽られ、落ち込まされる。平安を奪われる時、狡猾なサタンからの思いを気づけるよう祈っていよう。
2014年02月11日(火) 「私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
「私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
もし私達が失敗した時には、どうすればよいのか。あなたは行為や言動が間違った時どうするだろう。その事を見ずに、無視する事ができる。自分の内で無かった事にする事ができる。又、周囲に責任転嫁をする道がある。自分を正当化し、人のせいにし、人に責任をなすりつける。 自分がお皿を割った時に、こんな所に皿を置く者が悪い。こんな所に置かなければ自分は割らない。又、人の言動に腹を立てる時、怒らせる事を言う相手が悪い。そんな事を言わなければ、自分は怒らない。又、人は、触れられたくない弱点を指摘されると、相手を攻撃する事でおおい隠す。私達は、よく失敗する。皆それぞれ弱さを持ち、間違った選択をしてしまう。罪を犯したくないが犯してしまう。 その時に、無かった事にし、無視するのか、その事を認めず、否定するのか、周囲に責任転嫁するのか。神は一つの道を示されている。「自分の罪を言い表わすなら・・その罪を赦し、すべての悪からきよめて下さる」。いっさいの言い訳と自己弁護を止めて、失敗に自分が責任を取るのだ。それが悔い改めであり、光の中にいるという事だ。 ダビデも、ナタンに姦淫と殺人の罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯した」と自分の罪を認めて悔い改めた。すると「主もまたあなたの罪を見過ごして下さった」と完全な赦しが与えられた。主の愛と赦しがあり、言い訳など必要ない。私たちは、赦されて〃生きて行く、恵みのまっただ中にいる。 ----------- 罪を犯してしまうが、その後の処し方は主が与えて下さっている。言い訳はすぐに出てきて、罪などなかったように思いたいが、自分自身が迷い欺かれてしまう。いつも主との交わりの中に歩みたい。
2014年02月10日(月) 「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます」詩篇130:5
「私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます」詩篇130:5
よく最も難しい事の中の一つが、「待つ」ことだと言われる。信仰生活で、待つことは難しい。今すぐに結果が欲しい、目に見える形が欲しい。目に見えない状態で、待つことは本当に難しい。あなたもそうだろうか。今は、自販機にお金を入れると、すぐにジュースが出て来る。コンビニは24時間営業で、いつでもすぐに欲しい物が手に入る。各自が携帯を持ち、連絡もすぐに取れる。世界中リアルタイムでメールが行き交う。便利な時代だ。 何でもすぐに欲しいものが手に入るので、ますます「待つ」ことが困難だ。なかなか待てない。信仰生活でも、すぐに行動に移りたい。すぐに結果が欲しいのだ。今すぐに欲しい、今すぐに物を持ちたい。しかし神は、神の前に座し、静まって、時間をかけてじっくり祈り、御声を聞いて、導きを確信して歩めと言われる。 導きを求め、確信するためには、じっと御声に耳を傾ける必要があり、祈りが必要だ。そうでなければ、自分の思いと自分の力で、自分の判断で行動し、必ず失敗してしまう。行き詰まり、つまずいてしまう。皆、肉の性質があり、自分の思い通りにやりたい。しかし、それなら肉に従い、サタンに従う事になってしまう。神の栄光どころでなく、サタンに用いられてしまう。 あなたも今、待ち望む事が必要だろうか。サタンは急かし、しかし神は導かれる。焦りはサタンの誘惑だ。肉の思いで動かないために、サタンに欺かれないために、主を待ち望もう。必ず御言葉を与え、確信与え、御心へと導かれる。 ---------- 何でも結果が知りたく、出来るだけ早く納得したい私達であっても一瞬の先のことも知ることは許されていない。主を待ち望もう。御前に座りマリヤのようにまず主のことばを待ちたい。
2014年02月09日(日) 「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなので す」詩篇73:28
「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなので す」詩篇73:28
人は、自分の欲しいものが手に入ると、幸せだと思いがちだ。欲し くてたまらない物を手にしたなら、欲望が満たされ、心が満たされ、 喜びが来ると思っている。だから、自らの欲望を満たそうと必死に なる。喜びが欲しいからだ。 しかし、決してそうではない。肉の欲望を満たそうとすると、ます ます心は渇く。人々が心の満たしを求めて、次から次へと目新しい ものを求めて、さまようのはそのためだ。欲しいものを手に入れる がて、心はやせ衰える事を経験する。満たされないことを知る。 ある人が証しした。中学生の時、ギターが欲しくて〃、親に誕生日 に買ってやると言われ、指折り数えて待った。当日は授業など全く 頭に入らず、もう喜びはち切れんばかりに帰宅した。だがそれを手 にした途端、気持ちがスーと冷めて、心が虚無感で一杯になったと。 サマリヤの女性は、5回の結婚と離婚を繰り返していた。そして主 が出会われた時は、結婚しておらず同棲中だった。彼女は男性が自 分を幸せにし、心を満たしてくれると信じていた。しかし、思うよ うに心の満足が得られない。そのために結婚を繰り返した。 形はそれぞれ違うが、私たちもどうだろう。名誉が、富が、仕事が、 趣味が、人が・・自分を幸せにし、夢を与え、心の満たしを与えてく れると思っているだろうか。しかし、神以外の何を埋めても、心が ピッタリと埋まることは無い。 心の空洞は、神のかたちであるので、自分自身を明け渡して、神を 心の王座にお迎えした時に初めて、心がピッタリと埋まる。そして 喜びが満ち溢れることになる。私たちの幸せは、ただ神から来る。 神に、近くいる事を求めて行こう。 ・・・・・・・・・・・・ 欲望が満たされることが、満足であり、幸せだと思ってしまう。 欲しいものを手にするなら、心が満たされると。しかし御言葉によ ると、そうではなく、幸せも満足も神にあり、神に満たされる時に 心が喜びに溢れる。
2014年02月08日(土) 「あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたが たのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
「あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたが たのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
私たちは、よく思い煩う。今、思い煩いに、押しつぶされそうにな っているだろうか。よく心を探ってみると、自分で立ち回って何と かしようとしていないだろうか。思い煩っているという事実が、自 分が問題を取り込んでいて、自分でどうにかしようとしている事に なる。 そうなら自分の肩にすべての重荷が、ずっしりとかぶさって来る。 そして、自分では到底負いきれず、どうにも出来ないので、不安で たまらない。そのため、思い煩いでいっぱいになる。しかし、その 又、心の底を探ると、自分が握りしめて、放さないのは、神を信じ られないからだということに行き着く。 まず自分の心の内を御霊に照らし出していただこう。正直でいよう。 信じれられないなら、信じれられないと、正直に自分の状態を認め、 主に告げて、助けを仰ごう。自分が先に立って、ひたすら方策を巡 らしていないだろうか。主を無視する事になってしまう。 主はご自身のみ思いと方法をお持ちだ。そのために、思い煩いを神 にゆだねること、渡すことが必要だ。カナの婚礼で、ぶどう酒が無 い事を告げたマリヤに、主は“わたしの時はまだ来ていません”、 「心配しなくても大丈夫ですよ、私の時と私の方法があります」と 答えられた。 そしてマリヤは、“あの方の言われることを”するようにと、そば の者達に告げた。私達も、目の前の問題に対して、まず主に「ぶど う酒がありません」と告げ、自分の思う事、方策でなく“あの方の 言われることを”して行こう。その時、問題を乗り越えて行ける。 ・・・・・・・・・・・・・ 「いっさい神にゆだねなさい」が、なかなか難しい。委ねられない ことが問題で、そこを認めて、「委ねられません」と祈って行こう。 その時、不思議な展開があり、前に進んで行けることをいつも経験 する。
2014年02月07日(金) 「みこころが天で行われるように地でも行われますように」マタイ6:10
「みこころが天で行われるように地でも行われますように」マタイ6:10
主は「求めよ。願え」と言っておられるが、私達は日々何を願っているだろう。主よ、あれを、これを下さい。主よ、あちらに行き、こちらに来て下さい、主よ、ああして、こうしてと、忙しい。自分の願望と思いで一杯だ。主をあちらにこちらに動かそうとする。 ある人が、祈りについての学んだ時に、自分の祈りがいかに自己中心であるかに気づかされた。自分の事のみで、自分の願いがあるばかりで、「主が私に何を望んでおられるのか」「主が喜ばれる事は何なのか」との発想が全く無い事に気づいた。私たちは「私の心が天で行われますように」だろうか。 自分の思いでなく、主のみ思いが大切だ。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわして下さる」自分の思いが変えられ、主のみ思いに合わさって行く時に、御力が現される。天の思いが自分の思いになり、天で行われる御心が、自分通して地で行われる。「自分の思いでなく、神の思いが成りますように」が祈りだ。 自分の思いをごり押しする事がないように「みこころが天で行われる通りに、地でも行われますように」これは重要な祈りだ。肉の性質があり、すぐに自分中心に物事をとらえる。肉の思いを捨てて、神のみ思いに、自分を合わせて行く時、神と一つに歩める。捨てるべき自分の思いがあるだろうか。肉の思いを捨てる時、神のみ思いへと入って行く。 -------- 御心が成りますようにと言っても、まずはあれが、これがと自分の思いが先立つ。御心が成ることが最善であるはず。私の思いが取りさられ神と一つ思いとなれるよう祈って行きたい。
2014年02月06日(木) 「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7
ある女性が、辛い成育歴があり、その怒りが母親に向かい、母親を憎み、恨み苦しみ悶々状態だった。彼女が苦しみの中で、神に出会い、神を信じた。その後、少しづつ御言葉を学ぶ中で、その問題が取り扱われた。ずっと苦悩の中にいた。どんなに楽しい時にも、その事が頭をよぎると、心が重苦しくなった。 楽しいはずが、気持ちは暗く、決して逃れられない、牢獄の中にいるようだった。憎んで苦しいのは相手でなく、自分なのだ。心が、がんじがらめだった。神の御前に、この事を差し出し、あるがままの気持ちをことごとく告げて祈った。聖霊は心に示された。あの時の事・・この時の事・・、こうなったのは、母親のせいだと思っている事。母親が悪い、それで母親を恨み、憎んでいる事。 しかし、母親を責めていれば、自分を見なくてすむ事も、うすうす気づいていた。そして御霊により示された。母親に確かに非があったかも知れないが、その母親を憎む事は自分の問題であり、それは自分の罪である事を。それがわかった時、どうであれ母親を憎む事は、自分の罪だと認め、神の前に認め悔い改めた。 その時、涙が溢れ、頑なな心が溶かされて行くのを感じた。神の赦しを実感し、心が平安になった。そしてあの憎しみと苦しみが不思議に消えて行った。相手に関係無く、自分の感情、思い、行為は自分の責任だ。それを認めて、悔い改める事が、責任を取るという事だ。その時、初めて平安を味わう。 ----------- 御霊の光の中で罪を示され、悔い改め解放される。生涯この繰り返しだ。罪の世にあって主との交わりの中に生きておれるとは、なんと幸いなことだろう。
2014年02月05日(水) 「こうしてナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て・・」ルツ1:22
「こうしてナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの野から帰って来て・・」ルツ1:22
ナオミ夫妻はベツレヘムが飢饉になった時、糧を求めて偶像の地モアブへ移住した。神の約束の地にとどまる事なく、異教の地に行ってしまった。飢饉は苦しいが、忍耐していたなら、神は必ずまた豊作にして下ったであろうに。何よりも家族の幸福を求めて、夢見て、モアブに行ったはずが、そこで夫は死に、二人の息子も死んでしまった。異国の地で、ナオミはどんなに苦労した事だろう。飢饉は辛いが、もっと苦しむ事になる選択をしてしまった。 私達もどうだろう。試練は苦しいが、そこから逃げて、別の選択をしても、結果的に更に苦しみを増す事になる。ナオミは約束の地から逃れてしまった。私達も神からの試練を逃げないで避けないで、受け入れる事が、実は一番の祝福だ。私達の益のためのものだ。その時は痛く辛く悲しいが、必ず平安の実を結ぶ。私達を聖くするために懲らしめられる。 ナオミは神に帰り、約束の地に戻ろうと立ち上がった。苦しい刈り取りをしたが、しかし、尚も神は恵み深く、憐れみは尽きず、ルツという大きな慰めを与えられた。私達も失敗しただろうか。その失敗に関わらず、神は尚も恵み深く「ルツ」が与えられている事を知る。失敗した時も、神のあわれみを求める事ができる。なぜなら、神のあわれみは尽きないからだ。慰めがどんな時にも備えられている。 ---------- ルツが与えられ、畑の落穂はボアズにより豊富に備えられていた。あれもこれも神様のあわれみだ。迷いやすく失敗ばかりの歩みだが今ここに恵みが注がれていると、神様を認めて歩みたい。
2014年02月04日(火) 「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい・・いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」ピリピ2:14
「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい・・いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです」ピリピ2:14
信仰生活の中で、私達の身に起こること、目の前の出来事は、神の主権によるものだ。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」(箴言3:6)神の御手から送られて来ている。しばしば対人関係で、悩みや問題が生じる。目に見えるのは、目の前の相手なので、相手が悪い、相手のせいでこうなっている。相手さえいなければ、この悩みは無いのにと思ってしまう。 しかし、その相手が問題なのではない。人と状況しか見えていなければ、対応を誤ってしまう。その背後におられる神を認めるべきだ。環境は神から来ている。その中で、信仰の目を持って見て行く時、必ず神が見えて来る。神は一生を通して、私達を訓練し、鍛えられる。私たちをキリストのかたちに変えて行くためだ。そして、その訓練は環境を通して来る。そこに神を見て行く時、正しく対応できる。自分の問題であり、私を砕こうとされ、教えようとされている。 私達の思いと神の思いは、しばしば大きく異なり、戸惑い、理解できない事もある。しかし、置かれた状況の中で、環境に神を認めて、つぶやかずに、神に従って行く事が大切だ。その時、練られて、御言葉を通し、御霊により、肉の思いから、神の思いへと変えられて行く。神の視点を与えられ、その状況の中で、そこにある神のみ思いを悟って行く。その時、神と思いを一つにされて行く。それが何より一番の大きな祝福だ。 ----------- 問題は大きな壁として目の前に立っていても、ここを通る意味が必ずあると、問題の中で見ていて下さっている神様を今日も仰いで行こう。約束のみことばが心を堅く守ってくれる。
2014年02月03日(月) 「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
ユオデヤとスントケは、共に主のために歩んでいたが、仲たがいしていた。そこで主に在って一致するようにと、パウロは言っている。一致を妨げるものが「自己中心」と「虚栄」だ。人は、自分に関係の無い事では、フェアで寛容でおれるが、いざ自分に直接関わって来るや、守りの態勢に入り、相手に攻撃的になってしまう。これは自己中心によるものだ。 又、誰かの言葉が、自分のプライドや体面に触れると、大変だ。 プライドでも傷つこうものなら、怒りを燃やし、相手を攻撃するか、内攻して執念深く恨み、敵対心を抱く。あなたの心に苦い思いが出て来たら、自己中心、虚栄心、プライドではないか、よく探ろう。苦い根をそのままにしてはならない。その根は心に巣くい、根を張り、はびこってしまう。 どんどん根は生長し、強い憎しみに増幅してしまう。すぐに主のもとへ行き、十字架の血潮できよめて頂こう。庭に、はびこる雑草を根から引き抜くように、罪の苦い根を、小さい内に、どんどん引き抜いて行こう。悔い改めにより、引き抜かれて行く。 何かのざらつく思い、心が暗く、重く、心に平安が失せた時には、すぐ御霊に照らして頂こう。主の御前に、自分の心の内を、気持ちをことごとくあるがまま打ち明けよう。自己中心や虚栄に気づかせて下さる。悔い改めて、悔い改めて歩む時、そのつど平安にされ、常に心新たに進んで行ける。 --------- 苦い根に気づく時には、固執しているものは何か、主の前でさぐり、引き抜く作業に取りかかりたい。具体的な悔い改めの連続で、傲慢な者からへりくだりの歩みへと踏み出して行きたい。
2014年02月02日(日) 「イエスは、『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけ・・」マタイ14;29
「イエスは、『来なさい』と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけ・・」マタイ14;29
主イエスから目を離さない事が大切だ。ペテロは、主の「来なさい」との御言葉に立ち、その御言葉のゆえに、海上に一歩を踏み出した。その時に、奇跡が起きて、ペテロは海の上を歩けた。まっすぐに主イエスだけを見て、御言葉を信じ握ったゆえだった。 ところが風を見て、風に視点が移り、主から目を離した途端に、ブクブクと沈み始めた。これは状況は全く関係無いという事だ。海の上で、何を見ているかで、歩けたり、沈んだりする。私達はとにかく苦しい状況を変えようと、必死にもがく。 それさえ変われば、平安になり、幸せになれると。しかし、状況の問題ではない。神を通して状況を見る時、どんな悲惨な状況でも、平安と感謝が来る。しかし、神から目を離し、状況を見た途端に、不満と思い煩い、恐れへと真っ逆さまに落ち込む。 試練にある人が言った。自分が主を見ている時は、主にある人々の励ましが感謝でならず、人々の愛を通して、主の愛が見えた。しかし自分が状況や自分を見ている時は、素直に受け取れず、自己憐憫に陥り、人は皆幸せそうで、自分だけが不幸で惨めと、心を屈折させ落ち込んだと。 状況は全く同じなのに、主を見ているか、主以外のものを見ているかで、天と地の差が出て来る。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」主イエスから目を離してはならない。 絶えず主を自らの心の中心に据え、目の前に起きるあらゆる事柄を、主に焦点を当てて考えてみよう。喜びの時も苦しみの時も、主イエスのことを考え、思い、イエスから目を離さないでいよう。 ・・・・・・・・・・・・・・ 信仰生活で、主を見ているなら歩けて、目を離した途端、沈むことを、日々経験する。しかし、沈みかけると、主がつかんで下さること、決して溺れないことも経験する。目を離す度に、御霊が気づかせて下さるように、祈っていよう。
2014年02月01日(土) 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ ことばによるのです」ローマ10:17
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ ことばによるのです」ローマ10:17
よく聞く例えがある。「事実」「信仰」「経験」の3つが城壁の上 を歩いていた。先頭に「事実」その後ろを「信仰」その後ろを「経 験」が歩いていた。「事実」は、後ろを振り返ることなく真っ直ぐ に歩いた。「信仰」は前を行く「事実」だけを見るなら、問題 無くどんどん進めた。そして後ろの「経験」も順調について来た。 ところが「信仰」が前の「事実」から目を離し、後ろの「経験」が 気になり振り返った途端、城壁から転落し、「経験」もろとも、落 ちてしまった。そして「事実」だけは一向に関係なく進んで行った。 信仰生活の正しい順序は「事実・御言葉」「信仰」「経験・感覚」 だ。 経験や感情はあくまでも、御言葉と信仰の後について来るものだ。 よくこの順序を逆にする。「感覚」を先頭に、次が「信仰」最後が 「御言葉」だ。すると迷路に迷い込む。感情に振り回され、霊的ア ップダウンを繰り返す。 「主に愛されている感じがしない」「主が目に留めていて下さる感 じがしない」「心配などして下さっていると感じない」。感じない ので、愛されていること、心配して下さっていることを疑う。主が 共におられると「感じ」ないから、共におられる事が「信じ」られ ない。 そうでなく、感じようと感じまいと、御言葉を真実、事実として行 く時、不思議に感情がついて来る。「感じ」が先になっていないな いだろうか。 ・・・・・・・・・・・・・ どうしても「愛されている感じ」「心温かい感覚」を求めてしまう が、信仰とは、何もいっさい見えずとも、全く感じずとも、御言葉 を信じて行くことだ。目に見えたなら信仰は要らない。感情に振り 回されず、まず御言葉を真実と心に定めて行こう。