2002年03月31日(日)

「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(Tヨハネ4:20)

こんな言葉がある。「自分が一番
嫌いな人を愛する愛でしか、イエ
スを愛することはできない」。
これは聖書が言っていることだ。
目に見える人を愛せない者に、
目に見えない神を愛することは
不可能だ。愛することのできる
鍵は、この御言葉だ。「私たち
が神を愛したのではなく、神が
私たちを愛し・・」まず先に神
の一方的な愛で愛されている事、
その愛があるから、私達に愛が
わかる事。自分自身に愛の無い
事を認め、まず自分が神の愛を
豊かに受け、味わい、神の愛に
浸る事だ。神の愛で心が満たさ
れて行く時、御霊によって、周
囲の人達を愛する事ができる。
あなたの身近な目に見える人を
愛して行こう。神への愛と人へ
の愛は常に一体。


2002年03月30日(土)

「あなたの私への愛は・・すばらしかった」(Uサムエル1:26)

私達が私達の主に栄光の内に
お会いする時、試練と労苦と
犠牲がことごとく終りを告げ
る時、主が私達に向かって「
わたしに対するあなたの愛は
すばらしかった」と言って下
さるのを望みたい。主は「よ
くやった!あなたは地上では
決して有名ではなかった。誰
もあなたについてほとんど知
らない。平凡な義務を遂行し
た。しかし、それはわたしの
栄光を現わすためであった。
あなたの生活を知っている周
囲の者には、それが無価値に
見えたかも知れない。しかし
わたしに対するあなたの愛は
すばらしかった。人々は思っ
た。あなたは心狭く愚かだと。
人々はわたしを十字架につけ
たように、あなたを十字架に
つけた。しかし、私に対する
あなたの愛は素晴らしいもの
であった」と。救い主ご自身
の口からこのような賞賛のお
言葉を聞くことは、あなたの
労苦、あなたの犠牲を無きに
等しいものとする。このお言
葉を聞きたいものだ。


2002年03月29日(金)

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(Uコリント4:17)


 最近よく「ストレスの無い人生」「ストレスの
処し方」等、セミナーが盛んだ。
私達は皆、苦難から救われることを望んでいる。
厳しい試練にある一人の人は「祈り続け苦しんだ
が状況は変わりません。神様はここから連れ出す
事はお出来になるが、それが御旨ではないようで
す」ある著書は、苦難からの完全な救いの唯一の
望みは天でイエスと共になる事だけだと言ってい
る。その時まで私達は確かにうめき苦しむ。
しかし、うめき苦しむ経験こそ、現代のクリスチ
ャンが避けたいものなのだ。前途の試練の彼女は
うめき苦しみ事態が変わるように望んだ。
しかし、事態でなく、彼女自身が変わったのだ。
パウロは私達のすべての苦しみは軽いと言っている。
その苦しみが生み出す重い永遠の栄光に比べるなら、
少しの間だけだと。私達を大きく成長させるため、
神は妨げを用いられる。


2002年03月28日(木)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい」(コロサイ3:13)


 私達を傷つけた相手を心から赦すのは
難しい事だ。誰しも経験するところだ。
赦す事ができるよう祈るのだ。まず、
自分の力で赦す事は不可能なので、自分
を傷つけた相手を赦す力を与えられるよ
うに祈る。次に、自分を傷つけた相手を
神が祝福して下さるように祈る。
毎日祈る事だ。そして、自分を傷つけた
相手に親切とやさしさを示す機会を神が
与えて下さるように祈る。
こう祈る事自体が難しいかもしれないが、
しかし、そうしなければ、苦しむのは、
ただただ自分自身なのだ。ある人が、こ
の通りに祈った。すると、神は相手に優
しさを示す機会を与えられた。
その結果、相手との関係が完全に回復さ
れ、何より自分自身の心が癒された。
私達が相手の心から赦しを与えるなら、
神は私達をも赦して下さる。
自分が癒される事を知った。
祈りは赦しの鍵。


2002年03月27日(水)

「ああ、私は床の上であなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思い出します」(詩篇63;6)


一人の婦人が、年と共に深夜に目が覚め
てしまい、それがら1、2週間、うつうつ
と眠れなくなってしまった。
転々と寝返りを打ちながらもんもんと過ご
した。そして、そんな時は、決まって数々
の思い煩いがどっと押し寄せるのであった。
また、すでに赦した事柄についての古傷が
思い起こされ心乱れた。翌朝になると思い
出せもしないほど些細なことが大きな心配
になった。サタンの攻撃に気づき、神を思
い深く思うよう導かれた。
気を散らすものが何一つ無いこの深夜の静
けさで、神と語らい、神との交わりを深め
る事をして行くよう助けられた。
昼間は多忙で、祈りの生活ができなかった。
寝つかれない時が素晴らしい益となり恵み
の時となった。神を深く思う静思の時とさ
れ、その益は、測り知れないものとなって
いる。待ち時間にいらいらした事はないか。
そんな時も神を思う時に利用するのだ。
生活の中で沢山の時が備えられている事に
驚く。


2002年03月25日(月)

「ですから行って、お弟子たちとペテロに「イエスはあなたがたより先にガリラヤヘ行かれます・・そこでお会いできます」(マルコ16:7)


 あなたは取り返しのつかない失敗をしたと、
感じた事があるか。
イエスが捕らえられた後、ペテロはそう感じ
たであろう。
ペテロは死んでもイエスに従っていく、他の
誰かが裏切っても自分は裏切らないと豪語し
た。その舌の根も乾かぬうちに事態は突然変
わってしまった。イエスがつかまった時、弟
子たちはみな逃げてしまい、ペテロは自分も
捕まるのが恐くて遠くからついて行った。
すると、幾人かがペテロをイエスの弟子だと
気づいた。ペテロは知らないと否定し、呪い
をかけて誓いさえした。
イエスの警告を思い出し悔恨の涙にくれた。
よみがえりの朝、イエスがとりわけペテロに
会う事を望まれた。ペテロはイエスにより赦
しと回復を与えられた。私たちもペテロのよ
うな気持ちになる時がある。
罪を犯してしまった時、私達はもう一度イエ
スにお会いできる。
イエスは愛と希望と赦しと回復を与えて下さ
る。イエスのもとへ行け。


2002年03月25日(月)

「ただ、この一時に励んでいます。・・目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:13)


 私達の生きる目的について、一言で言う
ならどうなるだろうと、話し合った。
ある婦人は「私の人生の唯一の目標は、他人
で、他人に追いつく事だわ」と率直に認めた。
ある婦人は「出来るだけ人生に問題が無い事」
ある婦人は「物を豊かに持つ事、いくら持って
も物足らない」「人より上に立つ事。周囲の賞
賛を得る事」。
あなたの人生の目標は何だろうか。
一言で言うならどう言えるか。キリストの弟子
である私達は「神の栄光を得るために、目標を
目ざして一心に走っているのです」私達が励ん
でいるのは、この一時だ。富や名誉や、人の賞
賛を求める人生は虚しい。虚しい自己中心の目
標を、神の御名を崇める永遠の目標に変えよ。
神に仕えて行く時、私達の目標が達成される


2002年03月24日(日)

「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい」(コロサイ3:2)


 ある男が叔母と暮らしていて、彼女の財産
を狙っていた。自然に死ぬのを待てず、殺し
てしまったのだ。男は今、刑務所にいる。
T列王21章に出て来るアハブ王は、人のブド
ウ畑がどうしても欲しくなり、妻がその所有
者を殺すのを、なすがままにしていた。
神はその事を許されず、エリヤを送って、ナ
ボテが殺された場所で犬がアハブの血をなめ
る事になると告げさせた。
そして、アハブの妻とすべて手紙を送られた
人々も殺されるだろうと言った。
この預言は3年後に成就した。人の心の根に
ある「貪欲」は恐るべき行為にかり立てる。
私達は貪欲の罪を恐れ、よく見張るべきだ。
貪りは偶像礼拝でもあるから、憎むべきだ。
貪りに打ち勝つのは、上にあるものを求める
事によってだ。主が迎えに来て下さる時の事
を考え、期待する事だ。キリストとキリスト
があなたに下さったすべてのものの事を思え


2002年03月23日(土)

「私の力は弱さのうちに完全に現れる・・私が弱いときにこそ、私は強いからです」(Uコリント12:10)


 19世紀の牧師であり孤児院を設立たジョージ・
ミュラーは、弱さについてこう言っている。
「私達の聖いお方は、私達を決して離れず、また
決して見捨てられません。弱ければ弱いほど、主
は近くにいてくださり、ご自身の力を現してくだ
さいます。私達の問題が大きければ大きいほど神
が私達の友でいてくださることを示してくださる
ようにと、私達は頼ります。もう70年以上も私は
この経験をして来ました。試練が大きく困難が大
きいほど主の助けは近いのです。ですから私達の
なすべき事はただ神の御前に心を注ぎ出すことで
す。そうすれば、神ご自身の時にご自身の方法で
助けが必ず来ます」
神にあっては、私達の弱さが大きな力となるのだ。
弱さを用いて、ご自身の偉大な力を示される。
神と私達の愛だの最大の障壁は自分に力があると
思っている事だ。


2002年03月23日(土)

「わたしがあなたがたを愛したように、「わたしがあなたがたを愛したように、

「わたしがあなたがたを愛したように、
あなたがたも互いに愛し合うこと、
これがわたしの戒めです」
(ヨハネ15:12)


 愛は時に痛みと悲しみをもたらす。
思春期の子供を育てている親は困難と
心痛を通るものだ。「もし子供を愛し
ていなければ、苦労も無いのでしょう
が」しかし、愛が無ければ人生はどう
なるのだろうか。CS・ルイスは言う
「愛するという事は傷を受けやすいも
のだ。何かを愛すれば、あなたの心は
苦しみ、壊れてしまうかもしれない。
もしあなたが傷つきたくないのなら、
誰の事も、動物さえも慕ってはいけ
ない。趣味やちょっとした楽しみで
心を包み込み何ともかかわりを持た
ず、自我という小箱か棺の中に鍵を
かけて、しまい込んでおくのだ。
天国以外で愛の危険から完全に逃れ
得るところは地獄だけだ」
愛するとは自分の心をさらけ出す危
険を伴う。心が傷つくものだ。
キリストも傷を受けたが、自分の命
と引き換えにしても愛する事を止め
なかった。私達は愛しつづけよう。
愛はキリストの性質であり、自己中
心の棺に心を閉じ込めるよりよい。


2002年03月22日(金)

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Uコリント5:17)

ある父親がどうしても子供を殴っ
てしまう。その父親自身が、暴力
的な父親に育てられたのだった。
その悪い模範に従ったのだ。自分
ではどうしようも無い事柄が、私
達の深層部分を形造る事がある。
しかし、これは私達が過去の犠牲
者であり、絶望的だという意味で
はない。私達は自分の態度や行動
を選ぶ能力を与えられていて、何
を見るか、何を読むか、どんな友
人を作るか、何を楽しむかを決め
る事ができる。多くの暗い過去を
持った子供達が立派な大人に成人
している。クリスチャンである私
達は古い主人であるサタンでなく、
新しい性質を反映する選択ができ
る。神は私達に神を反映させて欲
しいと願っておられる。聖霊によ
って造り変えられて行く時に可能
なのだ。あなたの過去は問題では
ない。あなたは現在、神に造り変
えて頂いているか。


2002年03月20日(水)

「あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです」(ヨハネ8:42)

今、コミュニケーションについての
カルチャーセミナーが盛んだ。
コミュニケーション技術が発達
進歩したにも関わらず、次の
言葉には誰しも共感する。「あ
なたが私の言うことを理解した
と思っているのだろうが、あな
たが聞いた事は私が意図した
事でないと気づいているか」
良きコミュニケーションにはよく
話す以上の事、よく聞く事が
求められるのだ。コミュニケ
ーションの模範であり支配者
であられるイエスは、真理を
はっきり語られたが、聞く側
が拒んだ。なぜ彼らは聞くの
が下手だったのか。イエスが
コミュニケーションに失敗した
のでなく、彼らが真理を聞き
たくなかったからだ。なぜか。
それは聞けば変わらなけれ
ばならなかったからだ。神の
言葉がわかるのは、よく聞き
喜んで変わろうとするからな
のだ。あなたは変わろうとし
ているか。


2002年03月19日(火)

「・・とどまっているなら多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)


 綺麗な花束を貰った事があるだろうか。
水を入れた花瓶に入れるだろう。
どんなにみずみずしく美しくてもその寿
命は限られている。命の源から断ち切ら
れているので、しおれて借れてしまうの
は時間の問題だ。この切花に、力が衰え
しぼんでしまったクリスチャンの姿を見
る。イエス様がぶどうの木と枝の例えで
話された事と同じだ。枝が枝だけでは実
を結ぶ事は不可能だ。イエスにとどまる
とは、イエスに頼り続ける事だ。
どんな時にも自分の力に頼って独力で生
きる時、主から離れている事になる。
切花クリスチャンになる。命の源から水
分を吸い続けない限り、生き生きとみず
みずしい花を咲かせる事は出来ない。
イエスとの生き生きとした交わりの中で
生きよ。交わりが断たれることの無いよ
うにせよ。


2002年03月18日(月)

「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。貧しさ・・豊かさにいる道も知っていて・・あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:11)


 降伏というのは、誰しも好きでない。
敗北して屈する事だ。戦争で負けると
無条件降伏し、相手に全面的に屈する。
しかし素晴らしい降伏がある。私達の
願いと意思を御父に服従させる事だ。
そして、神の主権を全面的に受け入れ
る事だ。これは御心は自分の思い通り
ではない事を認める事だ。仕事の成功
も失敗もある、病気になる事もあるし、
愛する人が去る事もある。
一番の夢は実現しないかもしれない。
降伏とは、神が最善をなして下さる事
を信じることを意味する。どんな境遇
でも満ち足りる事を信仰によって選び
取り、必要の満たしを信仰によって知
るのだ。このような信仰はたやすいも
のではない。しかし自分でどうにもな
らない状況に勝利する唯一の方法だ。
あなたは今、全面的に神に降伏すべき
時ではないか。


2002年03月17日(日)

「主の救いを黙って待つのは良い」(哀歌3:26)

悲しみや困難、嘆きはすべての人の
人生に起きる事だ。戦争などの場合
は国全体が悲しみに会う。又、毎日
の生活の中で、病気、倒産、事故、
家庭の崩壊、経済的困難などに
遭遇する。悲しみはすべての人に
訪れる。しかし、主に在ってはどん
なに悲しみが圧倒的であっても、
決して絶望は無い。それは人生
は偶発的なものでないからだ。
偶然や、幸運、不運に翻弄されて
いるのではないからだ。神の愛
とあわれみ、恵みによって支え
られ、支配されているからだ。
哀歌では、人々は悲嘆に打ちひ
しがれているが、しかし、希望が
ある。町が侵略された大規模な
殺戮と荒廃を記しながら、神の
愛を述べる。苦しみ悲しみ悩み
に対抗するために、記者は神の
あわれみ慈しみ、真実、救いに
言及している。どんな絶望の中
にいようと、神がそのまま捨て
置かれる事は決して無い。
絶望的な状況を見るのでなく、
望みを神に置き、神を信ぜよ。


2002年03月16日(土)

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(イザヤ41:10)

男の子が毎晩、幽霊屋敷だと信
じ込んでいる廃屋の前を通らな
ければならなかった。大人達は
言った「大丈夫だよ。神様に頼
って、勇気を出して!恐くない
よ」しかし、恐くて恐くてどう
しようも無かった。その時、一
人の人が言った「恐い気持ちよ
くわかるよ。その家の前を一緒
に歩いてあげよう」これこそが
少年の欲しかった求めていた事
だ。少年の恐怖を取り除く完全
なものだった。私達も初めての
経験に取り組む時、初めての環
境に乗り出す時、恐れと不安で
胸が一杯だ。心身共に限界まで
疲れ果てた時、神に頼れと自分
に言い聞かせるだけでやり抜け
たのではない事がわかる。そば
に常にいて下さったお方がいる。
それがイエス・キリストだ。
実際共にいて下さったのだ。


2002年03月15日(金)

「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら出て行った」(使徒5:41)

 ちょっと想像してみてほしい。人も住まず
何も無い砂漠に瀬戸大橋のような立派な橋が
かかっていた。何と無意味なバカバカしい眺
めではないか。同様に神は不適当な時や場所
で、ご自身の大いなる力や恵みを表される事
は無いが、困難な時にはいつでもすぐに助け
てくださる。多くの神の子達がその信仰のゆ
えに迫害を受けて来た。もちろん、神は本当
に必要な時で無ければ、殉教するほどの献身
をお求めにはならない。
しかし、もし主のために苦しみに会う事が必
要であれば、その痛みと苦しみに耐えるのに
必要なものを、神は備えて下さると確信して
よい。キリストのしもべとして私達は一度に
一歩づつ進む事が出来る。私達が出会う一つ
一つ試練に、神は常に十分な恵みを下さる。
日毎に、私達を強める愛に満ちた助けを送っ
て下さる。いつも主は共におられる。


2002年03月14日(木)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた悔いた心」(詩篇51:17)


 日曜日、もし教会に行けるなら多分
あなたは行くだろう。
多くのクリスチャンにとってそれは習
慣であり、またそうであるべきだ。
しかし、教会へ行って礼拝しようとい
う努力が無駄になる事があり、全てが
虚しくなる事がある。その一週間の過
ごし方によっては礼拝の価値が無にな
ってしまう事もある。
不敬虔な生き方のままで礼拝しようと
する人々に、主が厳しい言葉を語って
おられる。民は偽りの神々に従って常
に怒らせていた。彼らがいけにえと歌
によって礼拝に集って来た時、神はそ
の偽善を嫌われた。民が礼拝をする前
に、「悪事をやめ、善をなす事を習い
公正を求める」べきだと教えられた。
私達は神を礼拝する前に、罪を告白し
赦しを求め、神に仕えて、心を整えな
ければならない。日々の神との歩みと
神の命令への従順とが、教会へ行くた
めの備えとなるのだ。でなければ礼拝
は無駄になってしまう。


2002年03月13日(水)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」(詩篇139:23)

家の中に、捨てられない物がたま
り込んでいないか。捨てるのが勿
体なくて、着ない服、使わない電
気製品、壊れた物などしまい込ん
でいないか。不要品はイライラを
生み出す。霊的なごみもそうだ。
告白しない罪がたまって、イラ
イラしていないか。私達はこの
ごたごたをどうすれば一層で
きるのか。告白していない罪
は「もし自分の罪を言い表わ
すなら神はその罪を赦して
下さる」口に出していない祈り
は「あなたがたの願い事を
神に知っていただきなさい」
未解決の争いは「あなたの
兄弟が罪を犯したなら行っ
て、ふたりだけのところで
責めなさい」あなたは今、
ごたごたに押しつぶされて
いないか。あなたの心の
ごたごたの押し入れを神
に向かって開け。心の整理
整頓をせよ。生活を整然と
すっきりとさせる秘訣は、
神を第一にする事だ。


2002年03月12日(火)

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちに一匹をなくしたら捜し歩かないでしょうか」(ルカ15:4)


 百匹の中の失われた一匹に羊の例え話は
失われた人々に対するクリスチャンの責任
について教えている。羊飼いはおりの中に
いる九九の羊に満足しなかった。
「いいじゃないか。九九匹もいるのだから」
とは言わなかった。彼は一匹の羊のために
責任を感じたのだ。そして、羊飼いは羊は
自分で帰ってくるはずとは思わなかった。
その羊は自分が迷っているとわかっていな
いのだから、探し出して見つけ出さなくて
はならなかった。だから羊飼いが率先して
探しに行った。見つけるまで諦めなかった
また、羊を見つけた喜びを他の人々と分か
ち合う事を望んだ。
失われた一匹の羊を見つける事がこの世で
最も価値ある事の一つだったから。
私達の態度は「私は自分の弟の番人なので
しょうか」と言ってはならない。
兄弟の番人となる事とは、兄弟を捜し求め
る者となること。


2002年03月11日(月)

「かれらはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった」(詩篇106:13)


 試練の時にしか祈らない人がいる
だろうか。ある人々は問題が起こっ
た時にだけ祈る。苦しい時の神頼み
的な心は、神を問題の解決者だと思
っている。問題の解決が与えられる
と、感謝はするがすぐに神を忘れる
次の大きな問題が起こるまで神の事
を思い出しもしない。
神の奇しいみわざを見ていながら当
然のごとくに思い、豊かな恵みも忘
れる・・神はそれを反逆だと見なさ
れた。イスラエルは神を無視する事
を選んだので、しまいには魂はやせ
衰えた。
私達にとってなんという教訓だろう
か。神に大いなる事を期待せよ。
しかし、あなたは神に従い、神のみ
こころを行って行かなければならな
い。試練があるから、苦難が来たか
ら神を求めるのではなく日毎に神と
共に歩み、神と交わり、神のお心を
知り神の喜ばれる事、望まれる事を
行う事だ。みこころを行うとき、真
の喜びと平安を経験する。


2002年03月10日(日)

「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている」(U列王7:9)

エルサレムの外に隔離された4
人の飢えたライ病人達は町を
包囲している敵兵に降伏する
事を決めた。しかし、彼らが
見つけたのはアラム軍が恐怖
に襲われ逃げてしまい、誰も
いなくて食料の溢れている陣
営だった。彼らは満腹するま
で食べ、金や銀や衣服を隠し
た。しかし、そこでこのまま
では、よくないという恐れの
混じった罪悪感に動かされて、
エルサレムの飢えた人々にこ
の良い知らせを伝える事にし
た。相手の益になる良い知ら
せを伝える事は、たいてい私
達に喜びを与える。病気の人
に同じ病気を治した医師を紹
介する事は喜びだ。しかし、
私達の多くは、キリストが霊
的な飢えを満たす事ができ、
人々の魂を救う事ができ
るという最善の知らせを人に
伝えるのに熱心でない。多く
の人が救い主の名前を聞く事
もなく、今も罪と恥の中にい
る。そして、あなたは良い知
らせを持っている。


2002年03月09日(土)

「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」(箴言4:25)

農夫がすきで耕す間、遠くのも
のに目を止めているなら、まっ
すぐなあぜを作ることができる
と言われている。それで、ある
人が芝を刈る時に、この原則を
試してみた。確かに、芝刈りは
成功し、芝の刈跡がまっすぐに
ついた。もし遠くのものに目を
留めている事でまっすぐなあぜ
を作ったり、真っ直ぐな芝刈り
が出来るのなら、この原則は人
生においても正しいはずだ。特
に、私達が見つめているものが
昨日も今日も永遠に同じである
ならば。これが箴言で言ってい
る事だ。箴言によれば、賢い人
はまっすぐな道を歩み、道をそ
れる事がない。しかし、聖書は
「賢くあれ」と助言するだけで
はない。本当に大切なのはイエ
ス・キリストとの関係だ。キリ
ストは真理を教えるだけでなく、
真理そのものだから、生涯まっ
すぐな道をたどる唯一の方法は
あなたの目をキリストに留めて
どんな時もキリストを見つめて
いることだ。


2002年03月08日(金)

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4:11)


 オーストリヤの一人の精神科医が
第二次世界大戦中アウシュビッツに
入れられ強制労働をさせられた。
医師としての尊厳は奪われ、彼の生
涯をかけて研究し著した物は全て破
棄された。彼の両親、兄、妻は収容
所で亡くなった。ひどい扱いを受け
た。しかし彼は、アウシュビッツか
ら出た時こう言った「人からすべて
を取り去られても、一つだけは取り
去る事が出来ない。
どんな環境にあっても、その態度を
選ぶ事は最後の自由だ」私達は環境
を選ぶ事は出来ないかもしれないが
それに対する態度を選ぶ事は出来る
パウロもその模範を示している。
状況がどうあれ、それに立ち向かう
態度を選べる。私達は常に何かを選
んでおり、その選択によって結果は
大きく違って来る。主によって与え
られるもので満足するだけでなく、
主が送って下さるすべてのものを喜
べるように。主が選んで下さったも
のは最善!!


2002年03月07日(木)

「私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように」(申命記8:11)


自分の記憶力のなさにがっかり
した時、物忘れに愕然とした時
があるだろうか。物をどこに置
いたかを忘れ、電話番号や買う
物のリストを忘れ、人の名前を
忘れ、物の入れ場所を忘れ・・
年と共に物忘れの多さを誰しも
経験する。
モーセはイスラエル人が神を忘
れやすいという事を繰り返し言
って聞かせた。困難と窮地の時
に、主がして下さった事を、状
況が良くなってしまうと、きれ
いに忘れてしまうと。
苦しみの時には藁をもすがるよ
うに、神に頼るが、苦しみが失
せた途端に神を忘れてしまう。
イスラエルはこの歴史だ。
実際は神がおられなければ食べ
る物にさえ事欠く事を理解すべ
きだ。神があなたに何をして下
さったか、神があなたに何を与
えて下さったか、どんな所から
救い出して下さったのか、よく
考えて、よく覚えて神を賛美し
感謝せよ。恵みを忘れてはなら
ない。


2002年03月06日(水)

「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴を開けて盗むこともありません」(マタイ6:20)

天国、天国と言うが、この地上
では全然良い事をしない人はい
ないだろうか。又、天国での大
いなる報いは約束するが、人生
の困難を無視する人もいるかも
知れない。まだ、私達がこの世
に住まなければならない事を忘
れている。しかし、ヘブル書記
者は真に天国を思う正しい信仰
深さがある。CSルイスはこう
書いている「もし歴史を読めば
現在の世界のために多くをなし
たクリスチャンは、来世の事を
最も考えていた人物である事が
わかるだろう。使徒達自身も、
中世を築き上げた偉大な人物達
も皆、その足跡を地上に残した。
それはまさに彼らが天国の事で
頭が一杯だったからだ。クリス
チャンがこの世に対して無益に
なっているのは、別の世界の事
をほとんど考えなくなっている
からだ。天国を目指せ。そうす
れば、あなたが投げ入れられて
いるこの地を得る事になるのだ」
天国を思え。


2002年03月05日(火)

「主のいなずまは世界を照らし、地は見て、おののく・・天は主の義を告げ、すべての国々の民は主の栄光を見る」(詩編97:4)


 幼児は稲妻を恐がり、雷を恐がる
怯えて親のひざによじ登って来る。
父親は幼児を抱き上げ、神様は雷の
事もご存知だよと安心させた。
神の偉大な力について子供に話して
聞かせた。詩篇にも嵐を用いて主の
大いなる御わざを表している箇所が
ある。詩篇記者は押し寄せる雲、光
る稲妻、轟く雷鳴の光景を通して、
神の御力を表した。神の栄光の全貌
は測り知れない。稲妻によって神が
敵を厳しく怒られる様を知る。
自然の様子に、力に神の栄光を垣間
見る。誰でも雷の力は認めるだろう
大きな破壊力がある。時に恐ろしい
神は恐ろしい力を持っておられ、敵
を裁かれる。全地は神の力と栄光で
満ちている。今度嵐に会った時は、
詩篇記者のように神の御力と威厳を
褒め称えよう。嵐の中に神を見よう
私の命はこの御手の中にあり、御旨
がすべての事を定める。


2002年03月04日(月)

『立って、父のところへ行って、こう言おう。「おとうさん。またあなたの前に罪を犯しました。』(ルカ15・8)


放蕩息子の心はすでに父親を離れていて、財産を要求
した。遠いところへ行き、そこで身を持ち崩し財産を
使い果たした。悪い事に飢饉が来て、食べる事に窮し
た。金の切れ目が縁の切れ目と皆、彼の周りから離れ
て行った。豚を飼い、その餌を食べたいと思った。
人間は順境の時は、自己中心に生きやすい。
苦難に会い、絶望する時に神を求める。財産に頼って
生きてきたが、頼るべきものは金銭でも周囲の人々で
もなく、自分自身でもないことに気付いたのだ。
父の家を出るとき、彼の心を支配していた思いは「自分」
「我」だった。自分を生かし、自己実現していけると思
った。ところが「物」に支配されて挫折していった。
私達はこの「自分」をすべて神に明け渡し委ねる信仰によ
って生きる事ができる。イエスと共に死ぬことで、「物」
でも「自分」でもない新しい歩みに生きる事ができる。


2002年03月03日(日)

「イエスはもう一度彼の両眼に目を当てられた。彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった」(マルコ8:25)

近視の人はよくわかると思うが、
メガネをはずすと視界がぼやけ
る。近視の度の強い人は特に
そうだろう。イエスに触れられた
人は、人の姿を見て、木のよう
なものが歩いていると感じた。
強い近視の人もそのようだろう。
メガネは視力を矯正し、メガネ
をかければ、はっきり見える。
しかし、メガネをかけていても、
視力を矯正する必要がある。
あなたの霊的視力だ。神の
愛や配慮が見えない時、自分
が人に出来る事が見えない
時、人にばかり要求している
自分が見えない時、人の欠点
しか見えない時、苦しみや悩
みを正しく受け止められない
時、福音を語る機会が見えな
い時、これらは自分の霊的
視力がぼやけている。すぐ
主のもとへ行き、主と交わる
必要がある。主が見ておられ
るように、物事が見えるよう
目に触れて頂け。


2002年03月02日(土)

「あなたにとっては、やみも暗くなく、夜は昼のように明るいのです。暗やみも光も同じことです」(詩篇139:12)

ある厳寒の冬の日、田舎の遠距
離を車を走らせていた。その地
域では、気候がよく急変した。
晴天だった天候が崩れて、夕方
には吹雪になり一寸先も見えな
かった。よく知る道なので、近
道をしようとわき道に入った。
その道はスリップしかけ、前に
進めず立ち往生してしまった。
真っ暗やみを恐る恐る数キロ行
った時、家の明かりが見えた。
その家に安全に導かれた。信仰
の旅路も同じだ。人の通らない
道を行く時がある。そのような
道では特別に道を示す導きの光
が必要だ。神は暗闇の中で光を
用意しておられる。御言葉が備
えられている。的確な指針を与
えてくれるクリスチャンが備え
らえている。常に光を与えて導
かれる。迷うことはない。


2002年03月01日(金)

『ぺテロは彼を見て、イエスに言った「主よ。この人はどうですか」イエスはペテロに言われた「あなたは私に従いなさい」』(ヨハネ21:22)



 「あなたはこの人たち以上に私に愛するか」
イエスは舟や、網、人々などペテロが知り尽く
し、愛し親しんで来たものを身振りで指し示し
ながら、「ペテロよ、自分の生活の手段以上に
私を愛しているか。あなたの将来のすべての夢
を諦めるほどに私を愛しているか。
他のすべてのものよりも私を愛しているか」と
尋ねられたペテロは「はい」と答えた。
すると、イエスはその献身にそった行動をペテ
ロに求められた。
「私に従ってきなさい」ペテロはイエスに従う
ために自分の将来、自分の所有、すべてに背を
向けた。その時、ペテロはヨハネが気になった
「主よ、この人はどうなのですか」イエスは
「私は彼についても計画を持っている。
が、それはあなたへの計画と同じではない。
あなたには何の関係もないことだ。あなたは私
だけを見て、私に従ってきなさい」神のあなた
へのみこころだけを求め続けよ。