2014年03月31日(月)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55:



私達は、祈ろうと思うが、なかなか祈れない。又、良い習慣づけしようとするが出来ない。意志が強ければ出来るのに、意志が弱いからだめだと思う。しかし、人間の意志の力が物事を成就させるのではない。神が語られた言葉は、神ご自身が実現させる、と言われている。神の意志が物事を実現させる。だから、神の御心が大切だ。

しばしば主が願っておられると自分が思う事を、神の御心と勘違いしてしまう。しかし成就しないので、戸惑う。ある人が、これこそ御心と思うが、決してうまく行かなかったと証しした。後にそれは、神の望む事ではなく、自分が、神のためにしたい事だったと気づかされたと。神の「わたしの望む事」でなく、肉の自分の望む事であった。

自分が欲しい神の言葉でなく、神の口から出たことばが成就する。どうすればよいのか。まず自分自身の意志を明け渡そう。自分の強い思いが、御心を知ることを妨げる。そして、神の言葉が臨んだなら、その御言葉から目を離さず、握っていよう。その約束は。なかなか実現せずに、どうなっているのか、わけがわからない事がある。

何年も祈り続ける事もある。遠回りに見えて、忍耐が必要かも知れない。しかし、神の言葉は「必ず」成就する。神が働かれ、その言葉の通りになる。だから、約束はすでに得ている事になる。目に見える形で現れて来るのが、神の時だという事になる。
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わたしが神、わたしが成功させると言われる神の恵みを信じて歩むことが私たちの力であり源だ。様々に翻弄され迷いやすい者だが、いつも立ち返るべき所は、この御言葉だ。


2014年03月30日(日)

「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」 ローマ8:6



救われて以来、日々の生活で経験するが、常に目の前に二つの反応
がある。御霊の反応と、肉の反応だ。御霊の示しが来ると、肉は
「無理、自分には出来ない」と言う。例えば、御霊が、何かを献げ
るように示されると、肉は「無理に献げなくていい」「自分でなく
ても誰かがする」と言う。そして無し崩しになる。

御霊は「この空き時間に祈れ」と促され、肉は「今は休息しなくて
は」「気分転換をしよう」と言う。御霊は「思い煩うな」と言うが、
肉は「思い煩わなくてどうする。自分がどうにかしなければ」と決
して思い煩いを手放さず、どんどん最悪のシナリオを描いて行く。

腹の立つ事を言われた時はどうだろう。神は「まず祈れ」と言われ
る。しかし肉は「今すぐやり返せ。でなければ相手はつけ上がる。
言い返せばスッとする」と言う。神は「すべての事について感謝し
なさい」と言い、肉は「どこが感謝だ」と不平不満愚痴を言う。

肉は御霊に逆らう。自分が中心にあるので、自己中心に生きようと
し、我を通す。根深い肉の性質が、自分の内にあることを踏まえて、
絶えず御霊に拠り頼もう。

「わたしを呼べ」と言われる主に頼み、御言葉に立つ時、御霊によ
って、神の喜ばれる選択をすることができる。その一つ一つの選択
を通して、主が新しい人を培い、成長させて下さる。今日も祈りつ
つ歩もう。

・・・・・・・・・・・・・
肉は御霊に逆らい、正反対の方へ行こう、行こうとする。強烈な力
がある。しかし自分には出来ないことを主の御前に認めて、助けを
求める時に、不思議だが自分の力でなく、助けられて、御霊のほう
を選ばせて下さる。平安へと導かれる。


2014年03月29日(土)

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれ ができるから」民数記13:30


イスラエルは、出エジプトを果たし、約束の地カナンを目指した。
その時に12人の斥候がカナンの地を偵察に行った。結果、ヨシュ
アとカレブは占領できると言い、他の10人はできないと言った。

10人は、町々は城壁を持ち、そこの民は力強く、自分たちはいな
ごだのようだと。相手とこちらの能力を比較して、自分たちは負け
ると結論づけた。民は全員、それが正しく妥当な判断だと思い、エ
ジプトに帰ろうと言い出した。それに対して、占領できると言った
ヨシュアとカレブには誰一人つかなかった。

彼らが占領できると言った根拠は、神の「カナンの地を与える」と
の約束だった。そして、結局この中でカナンの地に入ったのは御言
葉を信じたこの2人だけだった。信じなかった人々は皆、荒野で滅
んでしまった。ここから、信仰とは神の約束を握ることであり、不
信仰とは目に見える困難を見ることだと学べる。

主が「向こう岸へ渡ろう」と、弟子たちと舟に乗られた途端、熟睡
してしまわれた。そこへ大嵐で、舟は波をかぶり水で一杯に。今に
も転覆しそうだ。熟睡中の主を起こし、文句を言った。「私たちが
溺れ死んでもどうもないのか」と。

しかし、主は「向こう岸へ渡る」と言われ、その言葉に立たれ、途
中何があっても大丈夫だと信じ、熟睡されていた。主の言葉か、目
に見える目の前の問題か、そんな時、主の言葉を握れるよう祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
常に、目に見える状況と、主の約束の御言葉があり、どちらかを選
択している。状況を見ている時は、御言葉が飛んでしまい、状況が
巨人となって迫り、恐れと不安でいっぱいになる。御言葉のほうを
選び、受け取り信じて行く時、心が平安に変えられて行く。


2014年03月28日(金)

「しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません」Uコリント12:5



                
パウロは強さではなく、弱さを誇った。み言葉の言う弱さとは、
自分の限界を知り、認めているということだ。しかし、この世の
言う弱さは違う。神無しのこの世界では、人は皆、比較の中で生
きている。神と自分の関係性が無いので、横の人との比較で、人
との差異でしか、自分を量りようがない。そのため比較の世界か
ら逃れられない。

常に比較していて、人より仕事が、勉強が、運動ができない、対
人関係がうまくできない、そこから劣等感に落ち込んで行く。劣
等感があるからこそ、優越感に浸りたい。高慢を根に、劣等感と
優越感の間をグルグル回る虚しい人生になってしまう。そこから
自由にして下さる。

この世は弱さは悪という価値観であり、そのような古い価値観の
影響を受けると、できない自分、だめな自分、人の持つ幸せを持
たない自分、人より劣る自分は敗北者であり、惨めであり、マイ
ナスのものでしかない。それゆえ、弱さは知られたくないもので
あり、徹底的に隠して生きる。競争なら、弱さを見せると負けに
なる。

しかし、御霊の世界は正反対だ。弱さこそが恵みであり、神の力
は弱さのうちに完全に現される。神の愛や、力や、恵み、神の支
えや、助け、それらを弱さの中で初めて体験する。身をもって知
れる。弱さを認めることが大切だ。パウロは自らの弱さを認め、
受け入れた。今、必要な事は自らの弱さを認めることだろうか。
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自分の限界を知っているから祈り求め、主の助けを経験するから
また弱さの中で祈れる。弱さは主を知るための大きな感謝に変わ
る。すぐに自分で頑張り平安を得ようとする弱さも認め、主に頼
りたい。


2014年03月27日(木)

「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った」ネヘミヤ1:4



ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き払われた状態である事を聞いた。深く悲しみ断食して、まず神に祈った。祈りの中で重荷が増し加わる中、4ヶ月後に、王の前に出た。しおれた悲しい顔つきであり、それを見た王は、ネヘミヤに尋ねて来た。心に何か悲しみがあるに違いないと。

この時、ネヘミヤは王に率直に心の内を話した。すると、王の方から「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミヤの心の重荷を察した。そこで、ネヘミヤはユダの地へ送って再建させて欲しいと願った。王は願いを聞き入れ快く送り出してくれた。ここで学ぶ事ができる。

ネヘミヤはまずエルサレムの現状を聞いて知った。私たちの信仰生活も同様だ。現状を、目の前の問題を正しく知る事によって重荷が与えられる。まず現実を知らない限り、重荷の持ちようがない。具体的にそれを祈りに持って行く時、更に重荷が加えられる。ネヘミヤは重荷が増し加えられ、何かをしたいと思った。その願いは答えられ、神により門が次々と開かれて行った。すべての必要が備えられて行った。

私達もまず現状を正しく認識するところから重荷が生じ、祈りによって更にその重荷が深められ、具体的に行動するように導かれる。あなたにも主が見せておられる重荷があるだろうか。
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漠然と祈り続けている課題の中に、具体的に建て上げ行動すべきものはないだろうか。現状を良く見て深く濃やかに祈ることにより、一歩一歩また先に導かれる。


2014年03月26日(水)

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は」詩篇32:1 


罪悪感が、とがめが、どうしても無くならないという人々がいる。何度も、何度も、悔い改めて、尚、とがめが無くならないと、苦しむ。しかし、自分で自分を罰して、赦しを受け取ろうとしない。「どうしてあんな事をしてしまったのか」と自分を責め、後悔をにさいなまれ続ける。だが、主が十字架上で、私のためにその責めを負い、罰を代わりに受けて下さった。主があなたを赦して下さったのだから、もうあなたは自分を責めてはならない。

もしかして、その主の赦しを信じていないのかも知れない。受け取ろうとしないのだろうか。「神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」ダビデは、バテシバと姦淫の罪を犯し、その夫ウリヤ殺害という罪に罪を重ねた。その後、預言者ナタンが神から遣わされて、ダビデの罪を指摘した時、ダビデは罪を悟り、悔い改めた。その時、罪は赦された。

ダビデが罪の赦しを信じ、救いの喜びを返して下さることを信じたからだった。「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」。罪で、苦しく重く渇ききったダビデの心は、新たにされた。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。

砕かれた、悔いた心を尊んで受け入れ、赦して下さる。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」。問題は、罪の赦しを、心の底では信じてはいないことだろうか。ありのまま御前に行き、心の内を告げよう。主は信じる心を与え、確信を与えて下さる。
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罪悪感もあり、とがめも来るが、主が命をかけて備えて下さった罪の赦しは変わらぬ真実だ。十字架に信頼し進むことが御心、平安がなければ祈ろう。


2014年03月25日(火)

「私は・・ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。」Tサムエル27:1



ずっとサウル王に、つけ狙われていたダビデは、恐怖に襲われ、いつかはサウルの手にかかり、殺されるに違いないと思った。そして、どうすれば助かるかを考えたあげく、その策として、ペリシテの地へ逃れる事を考えた。「ダビデは心の中で言った」とある。祈ったとは記されていない。

ダビデはどんな時も主に伺いを立てた。いつも祈って、主に導きを求めて歩んで来た。しかしここでは祈らずに、自分の思いで決めた。恐怖と思い煩い、不安に飲み込まれてしまい、ガテの王アキシュの所へ行った。自分の思いで進んだ結果、アキシュのもとで、嘘に嘘を塗り重ねる事になり、更には、アキシュと共に、同胞イスラエルと戦うはめに陥ってしまう。

サウルやヨナタンと戦わなければならない。とんでもない窮地に陥った。しかし、そこに神が介入された。ペリシテの領主達が、ダビデが裏切るのではないかと、参戦させないように言って来た。アキシュはそれを受け入れ、ダビデは同胞との戦争を免れた。最悪の事態から、神は守られた。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」。人を恐れる時、サタンの罠にかかってしまう。エリヤもイゼベルを恐れて逃亡。えにしだの木の陰で死を願った。人や状況や自分から、神に目を移そう。神を見上げ祈ろう。その時、サタンの罠から守られる。
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恐れが来ると祈っても導きを待てず「それよりほかに道はない」との罠に陥ってしまう。本当にそれよりほかに道はないのか、まず祈り尋ね、落ち着いて神を見上げよう。


2014年03月24日(月)

「まず、自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」マタイ7:5



嫌な相手がいる時、自分の思いで相手を見ていないだろうか。皆、それぞれ自分の物差しがある。自分のメガネがあり、それが梁だ。「自分の物差し」というメガネをかけて見るので、相手が歪んで見える。まっすぐにありのままに見る事が出来ない。だが、自分ではわからない。その歪んだ物差し同士がぶつかると、問題が生じるのは明かだ。

問題が起きた時に、自分の物差しは無いか、自分に偏見は無いか、自分の目は歪んでいないか。よく祈ってみよう。自分ではわからないので、へりくだって祈り求める時、御霊は気づきを与えて下さる。“自分は正しい、自分は間違っていない”に立つと、それが梁となり、全く見えなくなる。相手の目から、ちりを除く作業などは、御霊に導かれない限り、不可能だ。

敏感で且つデリケイトな目は、ちょっと触れられてもすぐ閉じる。心も土足で入ろうとするなら、途端に固く閉じてしまう。まず御霊により、自分の自己義、独善、偏見の梁が除かれて、自分もしょっ中、間違う者であり、失敗する者である事をわきまえて、御霊に導かれる時に、はっきり見えて、相手のちりを除くために、主により用いられる。

相手のちりを取り除くことができる。梁がある自分の目には、相手が見えていない。まず自分の梁に気づかされ、自分の梁を取り除けることから始めよう。その時、兄弟の目からも、ちりを除くことができる。
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相手を見ている自分の目はどうだろう。一面だけを見て裁く自分の偏見や歪みに気づいているだろうか。人の欠点が目についてしまう時、無責任な裁きではないかよく祈りたい。


2014年03月23日(日)

「人から出るもの、これが、人を汚すのです・・これらの悪はみな、 内側から出て、人を汚すのです」マルコ7:20

 

この世は「性善説」のため、外側から入るものが、人を汚すと思わ
れている。環境が、成育歴が、社会が悪いから、非行に走り、犯罪
を犯すと。だから、環境、社会が良くなれば、人間は良くなるので
あり、悪いものを取り除くのが教育だと。しかし、聖書は正反対の
ことを言う。

人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、
罪人だから罪を犯すと。幼い子供は嘘をつく。親は嘘をつくように
教えた事は一度もない。しかし、子供は必ず嘘をつく。「義人はい
ない。ひとりもいない」外側ではなく、環境でなく、人の内側から
出て来るものが人を汚す。

様々な悩み、争い、衝突、それらは環境の問題ではない。それに関
与する人の心から、内側から出て来る問題だ。心に原因があり、心
から出る「罪」が人を汚す。環境によって汚れるのではない。自ら
の罪による。主の十字架の血潮が、その罪を赦し、きよめてくれる。

又、外側から、私たちに来るもの、それが人の悪意や侮辱であれ、
私たちを汚すことはできない。自分から出るものだけが、自分を汚
す。つまり、人は私たちに何もできない。人の悪意に対して、敵対
心や憎悪で反応するなら、罪を犯し、汚す事になる。

しかし、主に愛されている信仰に堅く立ち、御霊の力強い助けによ
り、その侮辱を憎しみで返さなければ、人は私たちを汚すことはで
きない。

・・・・・・・・・・・
状況は関係なく、人のせいではなく、憎しみや恨み妬みは、内側か
ら出て、自分が選択している結果だ。主の御前に、悔い改めること
が責任を取るということだ。悔い改めて、悔い改めて歩む時に、自
分自身は自由に自由にされて行く。赦されて〃喜びもって歩める。


2014年03月22日(土)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、 感謝しなさい」Tテサロニケ5:16


ある人が、コンタクトレンズの片方を落としてしまった。懸命に捜
したが見つからない。見つかるようにと祈りつつ、尚も捜すが、幾
ら捜しても無い。がっかりして、心も重くなるが、ふと「すべての
事について感謝しなさい」が浮かんで来た。出費のかさむ不都合な
出来事だが、御言葉通りに、この事も感謝しますと祈った。

すると、すべてが主のご計画の内である事と思え、もうこれ以上捜
せないほど捜して無いのだから、これも御心だと思えた。それで、
店に行って、新しいレンズを購入することにした。店に行くと、レ
ンズがひどく劣化している事が判明して、このままだと目を傷める
ところだとわかった。心から感謝した。

私たちの日常には、次から次へといろんな事態が起きる。一羽の雀
さえ、父のお許し無しには地に落ちない。目の前の出来事の一つ一
つは、父の御手の中で起きている。信仰者にとって、偶然は一つも
ないし、運命にほんろうされているのではない。すべては愛なる主
のご計画の中だ。

又、すべての事が益とされ、主は「ご自分では、しようとしている
ことを知っておられ」る。だから、すべての事について感謝するよ
うに言っておられる。そして、主に感謝して行くと、不思議に自分
の心が、ネガティブ思考から守られる。状況は変わらないが、まず
自分の心が守られる。そして、心が落ち着いて来て、平安になり、
今の状況で、何をすればよいかが見えて来る。

・・・・・・・・・・・
マイナスの事態に、感謝せよとの御心に、信仰もって従おうとする
時、違う世界が見えて来る。心に光が射して、神視点で見えて来る。
サタンの足場を崩すので、ネガティブ思考から、信仰の見方へと変
えられる。


2014年03月21日(金)

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25 


日常生活どうだろう。私たちは人からの評価次第で、喜んだり、幸せを感じたり、又、ひどく落ち込んだり、惨めになったりする。人の評価で、上がったり下がったりする。これなら自分の平安も喜びも幸せも、人次第になり、人依存になり、他人にコントロールされていることになる。

そして常に人の目を恐れてしまう。どう思われているのだろうか。嫌われていないだろうか。受け入れてもらっていないのでは。人にどう思われているかばかりが気になる。人に支配され、自分が無くなってしまう。人を恐れるとわなにかかるの通りだ。人に左右されずに、主に在って、自分のすべき事を、御心を行なって行く時、心は平安に守られる。

例えば、相手が挨拶を返してくれなくても、こちらは挨拶を止めるのではなく、続けて行く。「主に信頼する者は守られる」、状況によって反応するのでなく、相手に反応するのでなく、主に信頼して、なすべき事を続けて行こうとする時、それが出来て行く。主は助けて下さる。そして、相手に関係無く、自分はすべき事をして、平安に守られる。

よく、そこにサタンがつけ込んで来て、相手に嫌われているのでは?悪く思われているのでは?と疑心暗鬼にする。乗って行ってはならない。主に信頼して行こう。必ず心は平安に守られる。死のわなから逃れられる。
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目の前の人の態度や評価で、たやすく平安が奪われてしまう。平安でいるために、人を恐れるようになしまう。主と御言葉に心を向けよう。主に信頼するなら主の平安がいつも私たちを守ってくれる。


2014年03月20日(木)

「彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」ヨハネ21:4



主が十字架にかかる前に、兵士たちに捕らえられた。その時に、ペテロは3度も否み、主を裏切ってしまった。「全部の者がつまずいても、私は決してつまずかない。牢であろうと、死であろうと、覚悟はできている」と言ったペテロであった。又、ペテロだけでなく、弟子たちも主を捨てて一目散に逃げ去ってしまった。

ペテロや弟子たちの心は、どんなものであったろう。挫折して、意気消沈、傷ついた心は深く痛んでいたろう。主の指示によりガリラヤに戻ったペテロと弟子たちは、捨てた網を再び取って、漁をした。しかし、何もとれなかった。どんなに虚しく、暗たんたる気持ちであったろう。

その時、岸べから「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」と言う声が聞こえた。彼らはその声に従い、右側に網を下ろした。すると、網を引き上げる事ができないほどの大漁であった。以前同じ光景があった事を思い出し、主だと気づいた。

今、あなたも心が傷んでいるだろうか。失望落胆しているだろうか。何かの事で、後悔の念でいっぱいだろうか。そんな私たちの岸べに、主が立って下さっている。豊かに赦し、再び引き上げ、回復させ、立たせて下さる。いつも人生の日々の岸べに、主は立っておられる。
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大きな失敗をして挫折を経験する。しかし、主は私たちがそのような者だと知っていて下さり、心配して祈っていて下さる。主に向かおう。主がまた信仰に立てるように回復させて下さる。



2014年03月19日(水)

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」箴言16:18


サウル王は、最初は謙虚に神に仕え、民にも良く思われていた。ところが王位につくと、謙虚さを忘れ、心は高慢になり、初心から離れて行った。部下のダビデが戦いに出るや、連戦連勝だ。民の人気はダビデに向かった。女たちが笑いながら「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」との言葉に、サウルのプライドはひどく傷ついた。ダビデへの妬みは憎しみへと増幅して行った。それは殺意へと発展して行く。

もしサウルが信仰に立ち、へりくだって、主を見上げていたなら、それらの誘惑から守られ、平安でおれたろう。自分が王位にいるのは、神による事であり、それは神の恵みであり、賜物だと受け取れただろう。ダビデのような忠実で、優秀な良き部下が与えられている事に、どんなにか感謝した事だろう。信仰により、神視点で見るなら感謝しかない。

しかしサウルは神を仰ぎ、神に従うところから離れた結果、プライド、世間体、人の目、虚栄心のとりことなった。屈折した感情は、妬みの対象であるダビデに向かった。その嫉妬は殺意となり、実際、ダビデに槍を投げて、突き刺そうとした。又、ダビデが荒野にいる事がわかると、何と三千人を引き連れて向かった。それも敵と戦うためではなく、一人の忠実な部下を倒すために。

神から離れ、肉の感情に、思いに、欲望に振り回される、悲惨な姿を見せられる。へりくだり、すべての道に主を認め、主に従う時、道をまっすぐにして導いて下さる。起こる状況に主を認めよう。そして主に従おう。その時、どんな状況であれ平安の中に置かれる。これに代わるものはない。
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肉の思いは高慢だ。肉に立つなら見えるところに惑わされ、最初の確信から迷い出てしまう。そういう弱い者だといつも覚えていたい。順境にも逆境にも全てに神を認めていよう。


2014年03月18日(火)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34



明日のために、雨の日のために備えるのは良いことだ。何も考えない無計画な能天気が良いと言っているのではない。主は、備える事でなく、思い煩う事が無用と言っている。思い煩いは、とどまることが無い。今日は大丈夫でも、明日は?明後日は?老後は?「神が心配して下さるのだから、思い煩いのいっさいを神に委ねよ」と言われる。

今日も明日も神を信頼して生きよと。委ねられないから、思い煩いが消えない。不安と恐れで一杯だ。神と自分があり、神ではなく、自分を信じているからではないだろうか。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めよ。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられる」。主を第一に、主の御心を求めて、生きて行く時、それに加えて、生活の必要をすべて与えて下さる。

優先順位の一番目が主だ。その時に、すべて主が責任を持って下さる。しかし往々にして、この優先順位を逆にする。「何を食べ、何を飲み、何を着るか」、自分の必要を第一にするので、思い煩いと悩みで一杯だ。もし思い煩いが絶えないなら、優先順位を考えてみよう。

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」「正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」。主は、愛する子どもが、思い煩いと恐れで震えている事を喜ばれない。主を第一にして生きて行く時、必ず喜びと感謝が生まれ、大きな安堵の中に守られる。
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明日を完全に支配することができないから心配になり思い煩う。主は心配するなと言って下さっているのに、何と不信仰な者だろう。主が支配される明日を信頼し、今日を忠実に平安に生きていこう。


2014年03月16日(日)

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、別の方を待 つべきでしょうか」マタイ11:3 


バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の不法をはっきりと指摘した。ヘ
ロデが自分の妻を追い出して、弟の妻をめとったからだった。ヨハ
ネは、投獄されてしまった。不義を裁く主は、ヘロデを制裁される
はずではないのか。しかし何も起こらない。

又、ヨハネが思い描いていた主と、その牢の中で、伝え聞く主の姿
が違っていた。「手に箕を持たれ、殻を消えない火で焼き尽くされ
る」、悪を裁く正義の審判者であるメシヤを思っていた。ところが、
裁き主でなく、人を慰め、病人を癒し、罪を赦している。

それでヨハネは弟子たちに「おいでになるはずの方は、あなたです
か。それとも、別の方を待つべきか」と問わせた。主は、その弟子
たちに「自分の聞いたり見たりしていることを報告せよ」、つまり
目の前の「事実」を伝えよと言われた。

「盲人が見、足なえが歩き〜〜」これらは、メシヤが来た時のしる
しだ。そして「わたしにつまずかない者は幸い」とヨハネに伝える
ようにと。つまりは、自分がメシヤだと言われたようなものだ。そ
して、主はヨハネのことを、「預言者よりもすぐれた者。女から生
まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんで
した」と言われた。

主はヨハネを認め、評価し、愛し、慈しんでおられた。ある人々は
奇跡により剣の刃を逃れ、ある人々は、さらにすぐれたよみがえり
を得るために殉教した。皆、違う道を歩み、それぞれに託された御
旨があり、総決算はこの世ではなく、天にある。
又、真摯な疑問は、直接、主に問えばよいことを教えられる。主は
その問いに答えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
今、目の前の事態が御心なのか、それとも別に御心があるのだろう
か、そんな状況にあるなら、主に、直接問うてみよう。祈りに答え
て下さり、様々な方法によって、主は御心を示して下さる。


2014年03月15日(土)

「・・わたしがあなたに話したことばは、霊であり、またいのちで す」ヨハネ6:63 



ある人が、非常に厳しい辛い状況にあった。余りの苦しさに、聖書
を開く事も、祈る事も出来なかった。神がいる事はわかるのだが、
自分は祝福されていないと思っていた。他の人々が羨ましくて仕方
が無かった。心が沈み、落ち込んだ。

しかし、そんな中で、信仰にある人々が、メールや手紙や電話で、
励ましてくれた。後で振り返ると、苦しい中も、周囲が与えてくれ
た御言葉によって生かされていた。不思議な事に、複数の人々から、
全く同じ御言葉が贈られ、その御言葉に、主の御心を受け取れた。
力づけられ、新たにされた。

弱り果てて、自分では聖書を開く事も出来なかったが、主は御言葉
を与えて下さった。ある人も、非常に厳しい試練の中で、心身消耗
しきっていた。気力が失せ、考える事もできず、祈る事もできなか
った。気力も失せ、何もどうにもならなかった。心は沈む一方で、
御言葉を見ていた。

読むというより、ただ、見ていたという状態だった。しかし、驚く
べき事に、その見ていた御言葉が、心に語りかけて来て、心にピッ
タリと来て、自分の心の内を何もかもをご存じのように、解き明か
されて行った。今の状況が、腑に落ちたのだった。

その時、苦しい状況は変わらないが、心が変えられていた。心に光
が来て、今の状況の中で、自分に出来ることをして行こうと、もう
一度立ち上がることができた。主から来る言葉には、霊と力がある。

・・・・・・・・・・・・・
自分が弱り果てる時、周囲の執り成しにどれだけ助けられた事だろ
う。執り成しの祈りに答えて、主はいのちの言葉を送って下さった。
その言葉によって、光が来て、力が臨み、再び立ち上がることがで
きた。御言葉にはいのちがある。


2014年03月14日(金)

「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した・・・しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る」ヨハネ3:19 


ある人が、思春期の頃に、学校でいじめに会っていた。しかし、
それを絶対に親に言いたくないし、知られたくなかった。だから一言も言わなかった。それはプライドからだった。いじめられている自分を認める事が余りにも惨めで、絶対に認めたくない。それを知られるなど、更に惨めで耐えられなかった。傷ついている事も認める事も、受け入れる事も出来なかった。

そのため、傷ついていない振りをした。しかし、心は苦しくてたまらなかった。主の御前では、そうであってはならない。主はどんな状態であれ、あるがままの私たちを受け止めて下さる。主の前では、繕う事も、隠す事も必要ない。すでに裸のままの、その惨めな私たちをご存じで、受け入れ愛して下さっている。

プライドゆえに認めたくない事、しかし深く傷ついている事、惨めである事をまず認めよう。それを主にありのまま告げよう。その時、初めて主に受け入れられている事、愛されている事を実感できる。神は常に真実であられる。しかしこちらが正直でなければ、交わりが成り立たない。繕った私は偽りの私であるからだ。主との交わりが何か実感が無いのは、自分が正直ではないからではないだろうか。

ダビデは、命の危険が迫る苦悩の中で、恐怖、不安、思い煩い、惨めさも何もかもを神に告げた。不安でない振りをせず、大丈夫な振りをせず、あるがままの気持ちを率直に正直に主にぶつけ、その結果いつも平安に変えられた。私たちは、プライドが、それを妨げているだろうか。
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認めたくないこと、そういう自分であることを主に告げてみることが光の中にはいることになる。ありのままの自分を自分自身が知るためにも主と正直な交わりの中にいつも身を置いていたい。



2014年03月13日(木)

「・・アブラハムは、非常に悩んだ。すると、神はアブラハムに仰せられた・・サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい」創世記21:12



アブラハムと女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルが、イサクをからかっていた。それを見たサラは「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに、跡取りになるべきではない」とアブラハムに迫った。

サラの嫉妬から出た言葉であったが、言い分は正当であった。しかし、イサクと同様にイシマエルもまた自分の実子であり、愛する息子であり、アブラハムは悩みに悩んだ。どうすれば良いのか。イシマエルを追い出す事は忍びない。苦しい状況だ。主の御心はどこにあり、どうする事が正しいのか、切に主に求めた。「すると、神はアブラハムに仰せられた」主は答えを下さった。

悩んではならない。サラが言う通りに聞き入れるようにと。しかし、イシマエルも、一つの国民とする。あなたの子なのだからと。主からの明確な答えがあったので、アブラハムは従うことができた。翌朝早く、パンと水の皮袋をハガルに与え、イシマエルと共に送り出した。荒野をさまよい歩き、水が尽きた時、ハガルは子供が死ぬのを見たくないと、離れて座り、声を上げて泣いた。

しかし、神の使いから「あの子を大いなる国民とする」との励ましを受け、神により目が開かれると、ハガルはそこに井戸を見つけた。神はイシマエルをも顧みられた。問題の時、悩みの時は、判断を主に求めよう。そして従おう。主は答え、御心を示し、導いて下さる。
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様々な問題に直面し悩むが、そこから逃げずに向き合い、主の導きを求めよう。主に頼る時、語りかけて下さる主を私達は経験する。


2014年03月12日(水)

「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか』」創世記3:9


エデンの園で、サタンから誘惑を受けたアダムとエバは罪を選び、罪を犯してしまった。その結果、彼らに変化が生じた。以前は神との間に妨げのない、親しい、喜び溢れた愛の交わりがあったのに、その神の前に出られなくなってしまった。「主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」、罪を犯した結果、「恐れ」が生まれた。

そして、神の「あなたはどこにいるのか」との呼びかけに、「私は裸なので、恐れて、隠れました」と罪を犯した重大なことについては、全く触れない。そして「あなたは、食べてはならないと命じておいた木から食べたのか」と問われた時に、「食べました」ではなく、「この女が、私にくれたので、私は食べた」とエバのせいにした。自分は悪くない、自分にくれたエバが悪いと。

エバもエバで、蛇が悪いと、へびのせいにした。これがまさに人間の罪の性質だ。自分の罪を認めない。自分の内にも気づくだろうか。神のほうから隠れた彼らに呼びかけ、悔い改めの機会を与えて下さっている。「あなたが裸であるのを誰があなたに教えたのか」と、どうしてこういう事になったのか、目を向けるようにさせて下さっている。

私たちに起こる一つ一つの出来事、病気やけが、対人関係の問題・・それは、「あなたはどこにいるのか」との神の愛をもった呼びかけだ。いろんな起こる出来事を通して、主との関係に気づかせ、更に主との深い交わりに導いて下さっている。祝福とされて行く。
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信仰生活ことごとく神に触れ、神を知る経験が喜びだ。問題の中でなお真実に「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださる神と対峙できる。もう一度神と出会える。


2014年03月11日(火)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1 

 

もし、あなたのそばに過ちに陥った人がいるなら、そのままにしておかないで、その人を正してあげなさいと、主は言われる。「御霊の人であるあなたがたは」とあり、大事な事は、自分自身が御霊に導かれている必要がある。まず何よりよくよく祈り、御霊の示し、御霊からの言葉を受け取ることが大切だ。

その時、御霊がこの事をさせて下さるという確信が与えられる。
そのため心に平安が来る。確信と平安をもって事に当たれる。そして自分もよく整えられ、「柔和な心で」「愛をもって真理を語る」ことが大切だ。ただ真理の剣で刺し貫いて、責めるのではなく、自分も弱い者であり、同じ状況になれば、罪を犯すや知れず、自分が相手の立場であるならとの思いやりを持って語る。

そうする時、御霊が働かれて、相手の心に響き、相手に間違いを示し、悔い改めの心を与えて下さる。ダビデを悔い改めに導いたナタンは、神から示され、神に従いその任に当たった。彼は、ダビデの事をよく考え、ストレートでなくワンクッション置き、羊のたとえを用いて語った。ダビデはその話により自らの罪の重大さがわかった。

わかった時、主の御前に心底悔い改めた。瞬間、罪の赦しが臨んだ。ナタンも、相手は王であり機嫌を損ねるなら、即、打ち首になるかも知れない状況であり、信仰によって主に従った結果だった。そのナタンは用いられ、神からの大任を果たした。主からの示しがある時には従おう。又、人の忠告には真摯に耳を傾けよう。
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主によって罪を赦されたとの謙遜な感謝と、絶えず失敗を繰り返す罪人に過ぎないとの自覚が、人のあやまちを正そうとする時に自分にあるだろうか。御霊に導かれるまでよく祈らなければならない。


2014年03月10日(月)

「彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」Uサムエル7:12

ダビデは、主のために献げたいと神殿建設を願った。しかし、その願いは退けられ「あなたの身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立させる」、彼の子が神殿建設を果たすと言われた。ダビデ自らが神殿建設をしたかったが、主からの答えは「ノー」だった。時に、私たちも、このような状況に出会う。自分の切なる願いが、はっきりと「ノー」と言われた時どうだろう。二つの態度が取れる。

一つは、思い通りにならない状況に、がっかり落胆してしまい、やる気を失い、又、いじけてしまう。もう一つは、「ノー」を、主からのものと受け入れ、では、主の御心が成し遂げられるために、自分はどう動けばよいのか、何をすべきか、何が出来るかを考える。ダビデは、主からの「ノー」を受け入れ、息子ソロモンが建設に当たるとの御心を知り、そのための準備に回った。これがダビデの信仰であり、素晴らしさであった。

政治的、経済的安定がなければ、神殿建設は不可能だ。ダビデは諸外国の敵と戦い、次々と勝利し、着実に基盤を築いて行った。「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が連勝を与えられた。そして膨大な金銀の戦勝品を、建設資金に献げた。自分の思う道が閉ざされた時、ダビデにならおう。主の御心が成し遂げられるために、自分は何が出来るかを問おう。主は大きな祝福を備えていて下さる。
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誰でもがっかりするとネガティブな思いに満たされるが、いやそうではないと、そこから信仰に立ち直り、前向きに御霊の導きを聞いていこう。次にするべき自分の役割を主に尋ねることができる。


2014年03月09日(日)

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大い に喜んで私の弱さを誇りましょう」Uコリント12:9


この世の言う「弱さ」と、御言葉の言う「弱さ」は違う。前者は、
強さが良い事であり、弱さは劣っている事であり、人に知られたく
ない、隠しておきたい事だ。しかし、御言葉の言う弱さとは、自分
の限界を知り、認めているということだ。

この世の価値観では、比較社会の中で、人より仕事ができない、勉
強ができない、運動ができない、テキパキと動けない、対人関係が
うまくできない、そんな弱さは悪になってしまう。競争社会ゆえ、
負け組になる。そのような価値観の影響を受けると、できない自分、
人の持つ幸せを持たない自分、人より劣る自分は敗北者となる。

そんな自分は、受け入れることができず、認めることができない。
自分が自分を裁いてしまっている。だから人も認めることができな
い。又、弱さが劣っている事になるなら、必然的に、人に弱さを隠
す。弱さを見せると、尊敬を失い、自分の価値が下がると思ってし
まう。だから、表面的な交わりしかできない。

しかし、御霊の世界は違う。神の力は「弱さ」の内にこそ、完全に
現される。「弱さ」の中にだけ、神の力が現れる。自分の弱さを真
に認めた時に、神の愛や、力や、恵み、神の支えや、助け、それら
を体験する。頭でなく、身をもって知る。自分の弱さを認める時、
御霊の自由の中に入れられ、喜びが湧き、そして生き生きと生きて
行ける。

・・・・・・・・・・・・
生まれつきの価値観では、弱さは悪だ。強いほうが良い。しかし弱
さの中でしか、真に主を知れないことを、弱いことが大きな恵みで
あることを、弱さの中に主の力が現される事を、段々経験的に知っ
て行く。


2014年03月08日(土)

「御使いたちはロトを促して言った『さあ、立って・・連れて行きな さい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされて しまおう』しかし、彼はためらっていた」創世記19:16 



ソドムの町は、余りの罪深さのために滅ぼされようとしていた。彼
らの罪はきわめて重い」と。神はその前に、ロトのところに二人の
御使いを送り、ロトに家族を連れ出すよう言った。もう一刻を争う、
ひっ迫した、差し迫った事態だ。そこでロトは娘婿たちにその事を
伝えるが、彼らは罪のために神が滅ぼすなど、冗談、戯れごとだと
思った。

彼らは普段のロトの生活や価値観を見ていた。世と二股かけて、世
の栄誉を求め、世を楽しんでいて、突然、神、罪、滅び、と言われ
ても、「何を冗談を」と。そしてロト自身すら、滅びと死が迫って
いるのに、逃げる事を「しかし彼はためらっていた」と、「ためら
った」のだ。

今まで築き上げたものへの強い執着があり、資産、名誉、地位、世
からの賞賛を失いたくなかったのかも知れない。もう間に合わない
と御使いが、彼の手、彼の妻の手、二人の娘の手をつかんで連れ出
した。「命がけで逃げよ。後ろを振り返ってはいけない」と言われ
たのに、ロトの妻は途中で、世への執着のため後ろを振り返った。
その結果、塩の柱になってしまった。

二人の娘は父親と近親相姦の罪を犯した。ソドムの深い罪の影響を
娘も受けていた。ロトは最初、ソドムの近くに住み、次にソドムの
町に入り込み、住人になり、やがて町の名士になった。世に少しづ
つ〃、引き込まれて行った。

結局、家族も救えない最後となってしまった。私たちにも「ためら
い」があるだろうか。それはどこから来ているか、御霊に探って頂
こう。主は御心へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
主は両手を開いて、受け止めて下さる。主に問題は何も無い。しか
し、自分自身が主に更に近づくために、何が妨げているのだろう。
「ためらい」があれば、御霊にそのところを示されるよう祈ろう。
主は導いて下さる。


2014年03月07日(金)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5



ある人が、どうしても好きになれない相手がいた。どうしても受け入れられない。そんな相手に突如の苦しい状況が臨み、知り合いから祈りの要請が回って来た。しかし、祈れない。まず、その苦しい状況も、自業自得だと思ってしまう。そのように行動すれば、そういう結果を刈り取って当たり前じゃないかと、批判的になってしまう。自分の心の頑なさ、自我だとわかる。しかし、どうしても祈れず、悶々状態だった。

でも、神は祈れと言っておられるし、どうにもならず、あるがまま祈った。「主よ。祈れません。祈りたくありません。でも祈れと言われます。それで自分に出来る事として、祈れない自分自身を明け渡します。主が助けて導いて下さい」。自分を明け渡して、祈っていると、もし自分がその人と同じ背景を持ち、自分がその人の立場ならどうだろうと思った。自分なら絶対に無理、不可能、出来ないと思った。

その時、その人の置かれている状況の大変さが思われ、その人の苦しみに思いが至った。涙が出て仕方がなかった。そして、涙ながらに、その人の助けと祝福を心から祈っている自分がいた。それは自分ではなく、御霊だった。自分にどうにも出来ずに、しかし明け渡した時に、みわざをして下さった。自分で幾ら頑張っても、どれだけ頑張っても出来ない。人に出来ない事が、主にはできる。自分自身を主にお委ねしよう。主に頼ろう。主が成し遂げて下さる。
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主はゆだねよと言っておられるのに、なぜ孤軍奮闘しているのだろう。出来ない自分を知ることは大きな祝福だ。へりくだり主の恵みを信じ、確かな主の手に渡すことができる。


2014年03月06日(木)

「神は、彼らを近道であるペリシテ人の国の道には導かれなかった・・『民が戦いを見て心が変わり、エジプトに引き返すといけない』・・神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らされた」出エジプト13:17


神が民をエジプトから出された時に、約束の地に導くのに、近道であるペリシテ人の国には行かせず「荒野の道」へ向かわせられた。「民が戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」からであり、そこに神の配慮があった。長年の奴隷生活で、戦いの訓練も経験も全く無い民が、敵と戦う事など不可能で、恐怖で怯えて、引き返してしまうだろう。

私たちの価値観の中に、楽な道、平らな道、問題の無い道を好み、近道、迅速、早く到達する事、順調が善との思いがないだろうか。苦しい事、困難な事は避けて通りたい。しかし、神は近道ではなく、あえて荒野の、困難な道を通された。神が苦しい道を通されるのだ。神に不可能はない、今すぐに、願っているものを一気に与えて下されば良いのに。長々と時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる状況がある。

自分の思いと全く違う道を歩ませられる。しかし、そこを通ってこそ、忍耐や信仰が培われ、神の深い愛や慈しみ、真実を経験する。委ねる事を学ばせられる。そこを通らずしてあり得ない。そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、進むべき道が示される。

荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が照らした。その導きは、道中決して「民の前から離れなかった」。今、荒野にいるなら、神を信じ、神に従って歩もう。雲の柱、火の柱で、片時も離れず共におられ、導いて下さる。
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私達には何が近道で最善な道か見極めることは出来ない。神が門を開いたり閉じたりして通される道がみな最善の道だ。そこはあえての荒野かもしれないが、神は共にいて下さっている、信じていこう。


2014年03月05日(水)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」Uサムエル16:11



シムイという男が、ダビデのウリヤ殺害の罪をののしり、ダビデに石を投げつけ、ダビデを呪った。「血まみれの男、よこしまな者」と。部下が「首をはねさせて下さい」と申し出たが、ダビデは「放っておけ、呪わせておけ」と。主が命じられたのだからと、部下に報復を許さなかった。

ダビデは、その罵りを神から来たものと受け取った。神からの懲らしめ、訓練と受け止め、甘んじて受けたのだ。「私の身から出た私の子さえ、私の命を狙っている」、シムイどころか、実子のアブシャロムすら自分に敵対して、歯向かっている。それゆえシムイの呪いも、神から出たものと受け入れた。敵対して来るシムイを見るのでなく、彼を置いておられる、神の主権を認め、その下に身を低くした。何とへりくだった心と態度だろう。神に委ねたのだ。

「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」、どんな悲惨な中でも、状況を変えようともがくのでなく、神の前に、正しい心でいるなら、それをも主が良い事のために計って下さる。ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らい」とされた通りだ。

相手の悪意すらも、あなたのために祝福と変えて下さる。状況に、即、感情で反応するのでなく、神を見て、状況を見る時、神の介在のもと、落ち着いて導かれて対応できる。神のお心にそって行く時、どんな苦しく辛い状況でも、心を主の平安で守って下さる。
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目の前から来ることは全て主からのものと、自分さえ裁かず主に委ねるダビデの信仰を学びたい。良い時に必ず報いて下さると、主の前からどんな時も離れないでいたい。


2014年03月04日(火)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16 



私たちは、主に従って行きたいと思う。しかし、主に従う事を、自分の力でやろうとする。すると、怒りが湧く事態に出くわすと「主は柔和、怒ってはいけない」と、怒りをぐっと押し込める。又、相手の態度にイライラすると、「主は忍耐のお方、忍耐しなくては」と、ぐっと我慢する。あちらでも、こちらでも、我慢を重ねる。しかし、許容量オーバーになると、必ず爆発する。定期的に爆発しては、それまでの証しが台無しになる。

あなたも経験あるだろうか。我慢する事は、抑え込むだけなので、必ず溜まると噴火する。主に従うとは、押し殺し、抑え込み、我慢する事ではない。それなら、表面を一生懸命に取り繕うだけになる。クリスチャンである事は、フラストレーションのかたまりになってしまう。そうではなく、歯を食いしばって頑張り、じっと我慢するのでなく、「我慢できません」「忍耐できません」「腹が立ってどうにもなりません」と主に心の内をありのまま告げ、主に受け止められ、変えられ、主から力を受けて、歩む生活だ。

まず、自分で何とかしようとせずに、あるがままの自分の心の内を、主にことごとく打ち明けよう。主は喜んで受け止めて下さる。愛して慈しんで下さっている。主に告げて、御声に耳を傾けよう。主のみ思いを伝えて下さる。その御声に従おう。出来ないと表明しているので、御霊が必ず助けて下さる。
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憎しみや妬みや見たくない自分の醜い所を主に認め、告げていくと、すぐに思いは消えなくても心に来る度に御霊が意識させて下さる。それは新しい展開だ。主に告げながら御霊の導く方を選んでいこう。


2014年03月03日(月)

イエスは彼に言われた。『起きて、床を取り上げて歩きなさい』」ヨハネ5:8



38年間、病気で伏せっていた男性に、「イエスは彼が伏せっているのを見」主の方から、目を留められた。そして「よくなりたいか」と問われた。彼は、真っ直ぐに「よくなりたいです」と答えたのではなく、介助者がいないから、ずっとこのままだと、介助者がいないせいにした。確かに、彼には誰も助けてくれる人がいなかった。孤独な人生だったことだろう。彼の過去も、思いも、嘆きも、何もかもご存じで、主は御声をかけられた。

そして「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と命じられた。38年間、人のせいにし、自分はかわいそうと、自己憐憫の中にいると、そこは楽で居心地良くなって来る。むしろ働いて社会生活を送るのは大変だ。しかし、そのような床を捨てて、起き上がって、歩み出せと言われた。「よくなりたいか」の主の言葉は、彼の現実を照らし出した。

「よくなりたいか」ということは、よくはない現状だ。「起きて、床を取り上げて歩け」この言葉を信じて、一歩を踏み出さない限り、癒しはない。彼は、御声を受け入れ、信じたからこそ、起き上がろうとした。すると、主から力が臨んで、起き上がる事ができた。すぐに直って、床を取り上げ歩き出した。

私たちにも、彼と同様に、慈しみと愛のまなざしが注がれている。私たちの過去、弱さ、傷、すべてをご存じで、「よくなりたいか」と、御声をかけて下さっている。自分が依存している、取り上げるべき「床」は何だろう。
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思い煩いながらもそこから再スタートできない執着の「床」があるだろうか。そこを認めて「よくなりたいか」の主のお言葉に呼応することだ。そこから立ち上がり、主による新しい光や風をうけよう。


2014年03月02日(日)

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正し いと見えることを行なっていた」士師17:6


エフライムにミカという人がいた。家は裕福であり、家に宮を持ち、
息子を祭司にしていた。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、盗
んだ者を呪った。しかし、息子のミカが盗んだ犯人と知るや一転、
息子を祝福する。一貫性が無く、自分の都合次第で、何でもありだ。

ミカが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言っ
たが、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像と鋳像を作った。
それがミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作り、エ
ポデを作り、自分の息子の一人を任命して祭司にしていた。

そこに丁度レビ人が来たので、お金の力で、自分の家の祭司にした。
レビ人も、お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い
時、このように混乱し、偶像礼拝、秩序の乱れ、混沌状態になって
しまう。「自分の目に正しいと見える」=「自分に都合の良い」と
いうことだ。

正義も、義も、神の御心も無く、ただ自分に都合の良いように、判
断もその場〃で、コロコロ変えて行く。そうなるのは、「王がな
い」ためだと。人は、王が無い時に、自分中心、自分次第、自分の
都合、自分勝手に歩んで行く。私たちも、主を自分の王として、心
の王座に来ていただかないなら、同じ状態になってしまう。

イスラエルのように、口では「神」「主」と言いつつも、自分の都
合の良いままに、自分の損得のままに動いて行く。主を心の王座に
お迎えし、自分の都合でなく、主の御声に耳を澄ませ、主に従おう。

・・・・・・・・・・・
肉は強く、自分の心地良いように、自分の都合の良いように向かっ
て行く。すると平安が無く、主の秩序が乱れて来る。絶えず主を仰
ぎ、主を尋ね求め、主の御声を聞いて、指針に従おう。その時、秩
序をもって導かれ、自分も周囲も平安にされる。


2014年03月01日(土)

「ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心 の奥に知恵を教えてください」詩篇51:6 



ある人が習い事の中で、辛く当たられる相手がいた。挨拶をしても
無視され、悪口を言われ、中傷され、孤立させられていた。いじめ
を受けていた。帰宅すると、辛くて辛くて涙が出て仕方がない。し
かし、自分はクリスチャン、「相手を愛せますように」「〃」と祈
り続けた。

幾ら祈っても、状況も自分の気持ちも辛く苦しいばかりで、祈りが
全く答えられず、何も変わらなかった。こんなに苦しいのなら、辞
めたらよいのだが、自分の好きな習い事であり、良い指導者にも巡
り会え、辞めたくない。

涙が溢れる中で、祈っていると「愛せますように」などと自分は全
然思っていない事に気づかされた。本当の心は「愛したくない!」
「嫌でたまらない!」だった。それを押し殺して、きれい事の偽り
の祈りをしていた。本当の気持ちを告げて、ありのまま祈って行っ
た。

すると、いろんな状況に思いを巡らす中で、気づきを与えられた。
その習い事の技術に、特に秀でていた自分は、指導者からも、周囲
からも褒められ、目立ってしまう事に、相手が嫌で仕方無かったの
だと、思いが至った。

そうしか出来ない相手のことが思われた。別の見方ができた。そし
て気づくと、相手の祝福を祈っていた。心が平安になった。その後、
状況は変わらないが、心に余裕があって、平安があり、相手の言動、
態度が気にならなくなってしまった。正直な祈りが答えられること
を、知れた出来事だった。

・・・・・・・・・・
主の御前に心を注ぎ出し、建前でなく、きれい事でなく、正直な気
持ちを告げて行く時に、不思議だが自分が変えられて行くことを経
験する。心が平安にされる。神視点に立てて、別の見方ができるよ
うにされる。