2014年04月30日(水)

「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにまさっています。平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます」詩篇4:7 


 

愚かな金持ちが出て来る。畑が豊作になった時、貯えるために新しい大きな倉を建てて、そこにしまい込んで安心した。「たましいよ、これから先、何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」。金持ちは、さあ安心だと言った。

これは世の平安であり、環境から来る平安だ。状況から来る平安なら、逆境になると恐れと不安にさいなまれる。人生は必ず順境と逆境がある。常に安心と恐れをアップダウンする事になる。不安に襲われたなら、眠れず、食事も喉を通らない。経験あるだろうか。

しかし、この時のダビデは悲惨な状況にあった。実子アブシャロムが、妹タマルが異母兄弟アムノンに犯された事に怒り、アムノンを殺してしまい、逃亡する。エルサレムに戻るが父子関係は気まずく、ほころびが生じたままだ。やがて、アブシャロムは王位を狙って、父に謀反を起こす。実の息子からの謀反、ダビデはどんなに悲痛で苦しかったろう。ダビデは実子と戦わずに逃げる道を選んだ。

逃亡中の不安もあったであろう中で、彼は自分を主に全く委ねた。主にのみ信頼した。すると、何とダビデはこの恐れのまっただ中で、平安であり、すぐ眠れると。「苦しみのときに、ゆとりを与えて下さった」と。悲惨な状況の中で、与えられる「主の平安」、「あなただけが安らかに住まわせて下さる」この平安が私たちにも備えられている。明け渡して、委ねて行こう。
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主にある平安こそ環境に左右されないゆるぎない心の平和だ。苦しみの中でも委ねられずに自分で握っている間は心が岩のよう。順境にも逆境にも主を頼り、委ねて生きよう。


2014年04月29日(火)

「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって・・私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです」ローマ7:23 



律法は、自分の内の罪をあらわにする。しかし、律法が悪いのではない。律法自体は聖なるものだ。「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いもの」だ。肉が律法に反応する。「『むさぼってはならない』と言われなかったら、私はむさぼりを知らなかった」とあり、律法に触れる前は、むさぼりが無いと思っていたのに、律法に「むさぼるな」と言われた途端、むさぼりがムクムクと頭をもたげ、むさぼりでがんじがらめになる。

ある人が玄関前の花鉢が何度か持って行かれ、「鉢をとるな!」と書くと、それがもっとひんぱんになってしまい、その書き物を撤去したと。「〜するな」と言われるとしたくなり、「〜せよ」と言われる事はしたくない。人間の罪の性質だ。戒めは、自分の内に罪があることを教えてくれる。戒めが無ければ、罪はわからない。〜しなさいとの戒めがくる時、出来ない自分を発見する。

「敵を愛しなさい」が、出来ない。出来ないと、肉は頑張ろうとする。尚も出来ない。すると、更に頑張る。しかしどれだけ頑張っても出来ない。経験あるだろうか。自分にはとことん出来ない事を知る。これで律法はその目的を達成した。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」。自分に出来ない事を教え、キリストのもとへ導く。出来ない事を認め、主に拠り頼む時に、不思議に御霊の力によって出来て行くことを経験する。
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頑張って愛の行為ができると良いことをしたと誇りたくなる自分がいてまた罪が見える。自分にはどうしてもできないと認める度に、主に助け求めていける。感謝だ。


2014年04月28日(月)

「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと・・そのようなことを心に留めなさい」ピリピ4:8 


人は放っておくと、悲観的思考に傾くと言われている。悪い方に〃に考えてしまう。家族の帰りが遅いと、「もしや事故では」「何か悪い事があったのでは」と思い、対人関係で、挨拶が返らなかったら、どうだろう。「何か嫌われる事をしたのか」「あの言葉、この態度が悪かったのか」思い煩い、不安でたまらなくなる。実は、相手が考え事をしていて気づかなかっただけかも知れない。

又、進路、将来の事、老後の事・・果てしなく思い煩ってしまう。そんな時、不安や恐れをかき消そう〃とするが、余計にはまり込み、最悪のシナリオが出来上がる。不眠の時に、眠ろう〃と焦ったり、又、不眠の事を思い煩うと、ますます眠れなくなる時のようだ。そんな時は、「真実なこと」「誉れあること」「正しいこと」「清いこと」「愛すべきこと」「評判の良いこと」「徳と言われること」「称賛に値すること」に心を留め、目を向けて行くことだ。

ネガティブな思いを無くそうと頑張るのでなく、積極的な御心にかなった思いを心に招き入れ、その思いで満たして行く。その時に、自然にネガティブな思いが消え去る。又、1日〃何に目を向けているのだろう。この1日何を思い、考えているだろう。主を見ているだろうか。絶えず主以外のものに思いがあるなら、その目を主に向けて行こう。
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無意識に落ち込んでいても、清いこと、徳のあることが無意識に心を占めることは少ない。意識して御霊の支配を願い求めて行こう。一日が主の平和で守られる。


2014年04月27日(日)

「わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなた を守り、あなたをこの地に連れ戻そう・・約束したことを成し遂げる まで、決してあなたを捨てない」創世記28:15 


ヤコブは父イサクと兄エサウを欺いて、祝福を奪い取った。その前
にエサウの長子の権も奪っていた。兄の怒りで、家におれなくなり
逃亡した。伯父のもとに身を寄せ、そこで苦労し、厳しく辛い訓練
を受け、やがて神の時が来て、故郷に帰るように示された。

帰郷に際して、ヤコブは、だました兄のエサウがどんなに恐怖であ
ったろう。恐れおののいていた。エサウが400人を引き連れて、こ
ちらに向かっていると聞いた時には、自分も家族も皆殺しにされる
と怯えたことだろう。膨大な贈り物でなだめようと、策を講じた。

エサウのヤコブへの憎しみは、ヤコブから出たことであった。20年
前、殺されるから家を逃げ出たのであって、帰郷はどんなに恐怖で
あったろう。一生エサウに会わずに済むなら、どんなにいいかと思
ったかも知れない。

私たちも過去の失敗や過失から逃げてしまいたい。しかし、ヤコブ
は逃げなかった。何とかエサウに対面しようとした。しかし、どう
にもならない恐怖と不安、思い煩いに、主が関与された。突如の格
闘の結果、もものつがいが打たれ、はずれた。ヤコブは砕かれた。

狡猾で、計算高く、人を押しのける者であったヤコブが、へりくだ
った者と変えられた。恐れで列の最後尾にいたヤコブが、先頭に立
って、エサウに会いに行った。エサウに対してもへりくだった。ヤ
コブは変えられた。へりくだる者に、造り変えられた。

様々な試練、苦しみや窮地は痛くて辛いが、それを通して、主は砕
き、へりくだった者と変えて下さる。主は砕かれる。ここに希望が
ある。目の前の苦しい問題も、砕きのためであり、素晴らしい結実
が用意されている。

・・・・・・・・・・・
高ぶった者をへりくだった者へと変えられる。これは神のわざであ
り、奇跡だ。神にしか出来ない。様々な問題に頭をぶつけ、行き詰
まり、窮地に陥る。しかしこれこそが感謝で、砕かれ、練られ、主
に似た者に、間に合う器へと造り変えられて行く。


2014年04月26日(土)

「ダビデは言った『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに 恵みを施したい・・』」Uサムエル9:7



メフィボシェテはヨナタンの子供で、サウル王の孫だった。普通は
前王の一族は皆殺しにされた。反乱を起こす危険があるためだ。ま
して、サウルはダビデ殺害に燃えて、ダビデは絶えず命をつけ狙わ
れ、何度も殺されかけた。メフィボシェテもそれをわかっていて、
ダビデに殺されても当然であり、身を潜めていた。

しかし、ダビデは、ヨナタンとの約束を果たしたいと、メフィボシ
ェテを王宮に招き入れた。ヨナタンはサウルの息子で、王子であり
ながら、自分を守り、命を助けてくれた親友であり、恩人であった。
ダビデは、サウルの土地を全部返してその生活を保障し、王宮で生
活し、他の王子と同様に、自分と共に食事をするよう言った。

「私の食卓で食事をしてよい」とは、家族の一員にするという事だ。
サウルの子孫で、更に両足が不自由で、王のために何の役にも立た
ないメフィボシェテは、何で自分が?殺されて当然の、何の資格も
無い、無価値な自分が?余りの戸惑いで驚いた。

このメフィボシェテは、私たちの姿だ。御父に敵対し、罪を犯し、
「罪の支払う報酬は死」であり、永遠に滅んで当然の私が、ただ御
子の十字架の贖いのゆえに、無罪放免とされ、永遠に神の子とされ
る。そして主の食卓で食事ができる者とされ、豊かな交わりの中に
入れられた。
メフィボシェテは、ダビデの一方的な愛顧を受け取った。同様に私
たちも、ただ受け取る時、自分のものとなる。

・・・・・・・・・・
メフィボシェテは「この死んだ犬のような私に」と言った。粛清さ
れて当然なのに、ヨナタンゆえに王の息子同等の扱いを受けた。私
たちもキリストのゆえに、御父の前に全面的に受け入れられている。
「あなたに恵みを施したい」神の真実な言葉を受け取ろう。


2014年04月25日(金)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように」詩編143:10 



私たちは、信仰生活の中で、主の御心を求める。「御心を示して下さい」と、切に祈る。しかし、心の底では、しっかり自分のプランが決まっていたらどうだろう。どうあっても自分のしたい事があって、それ以外の選択肢は考えられない。そのような状態で御心を求めた時に、どうだろう。心が定まっているので、それ以外の御言葉は無意識に排除してしまう。

この「無意識」が問題だ。意識して排除するなら、自分でわかっているので、とがめが来るが、無意識なので、とがめも無い。自分の都合の良い御言葉しか、心に留まらない事になる。それなら御心を間違ってしまう。主のお心を知るためには、自分の思い、願望を一旦、明け渡すことだ。特に、強い願望がある時には、主観が強くなり、無意識に自分の欲しい言葉、都合の良い言葉を取り込んでしまう。それゆえ、右でも左でも、白でも黒でも、御心のままでOKですと、まず自分自身を明け渡そう。そうする時、御心を知ることができる。

自分の願いがあるが、それをひとまず横に置いて、「主は」私に何を願っておられるのか、その視点に立って、尋ね求めよう。主も「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」と祈られた。私の願いはあるが、その願いをお献げする事ができる。その時、「いつくしみ深い霊が」御心へと導かれる。そして、みこころを「行なうこと」ができるよう祈ろう。
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プランが先にあると主からの答えも落ち着いて待てない。右でも左でもと、自分のプランをいったん主にお預けしよう。全く違うみこころが示されるなら、何よりそれが感謝だ。


2014年04月24日(木)

「舟に乗り込まれると、風がやんだ。彼らの心中の驚きは非常なものであった・・彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じていたからである」マルコ6:51

湖の上を歩いて、弟子たちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見ておびえてしまったからである」なぜ、主が幽霊だと思ったのだろう。「その心は堅く閉じていたからである」とある。心が堅く閉じていたからだと。主を見ても、主だとわからなかった。認識できなかった。

まず、主が湖の上を歩くなどと、発想も考えもなかった。「彼らの心中の驚きは非常なものであった」なぜ主が湖の上を歩くはずがないと思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、人だとしか思っていなかった。主を正しく認識していなければ、間違っていれば、助けを受けることができない。

主を小さく見積もってしまうなら、様々な目の前の悩みや問題に、「これがどうにかなるなどあり得ない」「これは無理」「難しい」と決めつけ、不信仰の暗闇に落ち込んでしまう。嵐に飲み込まれ、沈みんでしまう。不信仰は主の力を制限する。私たちはどうだろう。この程度なら、主も可能だろうが、こんなに難しければだめだと、自分で判断し、思い込みがないか。

「いくら主でもこれは無理」との思いが心の底に無いか。それこそが心が「堅く閉じている」状態だ。それなら、主が助けに近づかれてもわからずに、主を恐れ怯えてしまう。主に心を開く時、全能の主がかたわらにおられるに気づく。問題に主を迎える時、風がやむ。平安が来る。
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主に無理なことなどないと祈っているのに、この問題はまずこの辺りから・・と選り分けながら祈る自分に今朝気づき、主に大胆に祈り直した。堅く閉じている自分の限界、不信仰を悔い改めたい。


2014年04月23日(水)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう」ガラテヤ5:25



私たちの、生まれつきの性質は、神の言葉に従おうとしない。「肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです」。神に従うどころか、反抗するとある。

心の内を見ると、自分の思いが中心にあり、自分の思い通りに生きて行きたい。「主の」思い通りでなく、「自分の」思い通りに。好きな人は愛するが、嫌な人は嫌っていたい。主の喜ばれる事をするより、自分の好きな事をしたい。これが肉の思いだ。しかし、新しく生まれた私たちには、新しい性質がある。罪を悲しみ、主に従い、御心を行ないたいと願う。そこに葛藤が生じる。

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです」この二つは対立していて、そのためしたいことが出来ないと。心は苦しくなる。その解決が「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とある。

御霊によって歩むとは、御霊により頼んで歩むことであって、御霊は信仰生活を一歩一歩導かれるので、その導きに従って歩むことだ。そして、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とあって、愛があり、喜びや平安がある時は、御霊に導かれている。反対に「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂・・」がある時は、肉に従っている。肉の行ないがあるなら、悔い改め〃従って行こう。それは御霊による歩みだ。
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肉の思い通りに歩んでいれば幸いだと思うが、肉の行いを選んでも真の平安がない。今日も多くの選択が目の前に来るだろう。肉の思いを振り切って、御霊の導きを選んで行きたい。


2014年04月22日(火)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:26



怒ること自体が悪というのではない。しかし、その怒りを根に持つと、恨みや憎しみへと増幅させて行ってしまう。そして恨みは根深い復讐心へと発展して行く。そのため「怒ったまま、日が沈むことのないように」と言っている。ユダヤでは、日没から日没までが一日だったので、怒ったまま、日を越さないように、怒りを持ったままにせずに、解決するようにとのことだった。

怒りは、そのままにしておくと、憎悪、恨みへと熟して行く。「悪魔に機会を与えないようにしなさい」。怒りは、サタンに足場を与える。サタンは、人の怒りに乗じて巧妙に働いて来る。振り返った時に、思い当たるだろうか。怒りにより、ひどく感情的になり、冷静さを失い、取り返しのつかない暴言や行動に出てしまう。人間関係を壊して行く。後で冷静になった時に、ひどく後悔する。サタンにつけ込まれてしまったと気づく。

又、義憤だと言うが、真に正しい怒りは主にしかない。私たちはすべてが見えているわけではないし、肉なる者だ。サタンをわきまえ、まずへりくだって、よく祈る事が大切だ。怒りは我慢したり、押し込めるのでなく、正直な怒りの気持ちを、ことごとく主に告白しよう。そして神に委ねて行こう。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」と。
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怒りの感情を覚えたら、そのままにせず主に告げよう。怒っている時は自分が正しいに立っているので明け渡さなければすぐにサタンに背中を押される。怒りはとどめず主に対処していただこう。


2014年04月21日(月)

「風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて彼らのところに行かれた」マタイ14:24


主は、弟子たちを強制的に舟に乗せて、先に向こう岸へ行かせられた。しかし、弟子たちは湖で嵐に会う。それは、ベテラン漁師が、身の危険を感じるほどの大嵐であった。死ぬかもしれない恐怖、困難、苦しみの中でもがいていた弟子たちのもとに、主が近づかれた。

弟子たちは驚き、恐ろしくて幽霊と間違い、怯えるが、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「わたしである」「わたしがいる」と。だから「恐れるな」と。この嵐のまっただ中に、「わたしがいる」と言われる。この事がわかれば、問題は解決する。

だが、どうだろう。逆に私たちは、嵐の中でパニックになり、主が吹っ飛んでしまう。又、問題が大き過ぎて、あるいは苦しみや悲しみが大き過ぎて、主が見えなくなってしまう。主ではなく、目の前に立ちはだかった問題ばかりを見てしまう。巨大に見える。対人関係で、敵対して来る人で心が占領されてしまい、主が見えない。しかし、主はここにおられ、「わたしだ」と、目の前のその問題の、悩みの、まっただ中に、おられる。

今、悩み、問題のために、主を見失っているだろうか。問題に飲み込まれ、思い煩いと不安、恐れの中にいるだろうか。問題を見ている目を、「わたしだ」と、目の前におられる主に転じよう。その問題、悩みの中に、主に来ていただく時に、「ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ」。風が止む。パニックの心に平安が臨む。
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風との戦いではなく主の言葉を信じようとする戦いだ。風に惑わさそうな自分に気づき、すでに同船されている主に自分自身が近づいて行こう。信仰の訓練は臨むが、惑わされる時を短くしたい。


2014年04月20日(日)

「『行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラ エルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です』使徒9:15         



アナニヤはダマスコに住んでいた。当時、キリスト者は、激しい迫
害によりエルサレムから至る所に、国外にまで散らされた。しかし
ユダヤ人たちは、彼らを徹底的に、どこまでも執拗に追った。青年
サウロは、殺意に燃えて、彼らをエルサレムに捕らえて来ようとし
ていた。その途上で、突然天からの光を受けることになる。

一方、アナニヤは、どんどん迫り来る迫害に、必死に祈っていただ
ろう。そんな時に、「アナニヤよ」との主の御声が臨んだ。どんな
に心強かっただろう。迫害から守って下さるのだと思ったかも知れ
ない。しかしその言葉は驚くべきものだった。殺意に燃えて迫害を
重ねて来たサウロに会いに行き、盲目になっている彼の開眼のため
に祈れと。

アナニヤは全く理解できず、彼はひどい迫害者で・・と、問うて行く。
しかし主は、「彼はわたしの選びの器だ、行け」と答えられる。ア
ナニヤはどうだったろう。愛する多くの同胞を殺害した相手だ。そ
の相手を助け、祈れと言われる。あのサウロが本当に回心などした
のか。自分も殺されるかも知れない。命がけであったろう。それに
本当に主の御声なのか。自分の間違いでは?

様々な思いがよぎったかも知れない。しかしアナニヤは従った。主
はアナニヤをこのために選ばれたのであり、彼が従う事を知ってお
られた。彼は、常々、御声に耳を傾け、主との深い交わりの中に生
き、従い続けて来た弟子だ。主の御声がわかった。私たちも常々の
交わりを大切にし、「主よ。ここにおります」お従いしますと答え
よう。

・・・・・・・・・・・・
主は、アナニヤに重大な役割を与えられ、アナニヤは命がけで従い、
そして、サウロのために用いられた。アナニヤは日頃から「主よ。
ここにおります」と従い続けた、その延長線上にある結果だった。
目の前の小さな事から、一つ一つ従って行こう。


2014年04月19日(土)

「主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえ の手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」ヨブ1 :12



ヨブは突然、家財に家畜、しもべたち、子供たち全員を失った。考
えられないほどの厳しい試練が臨んだ。これには背景があり、ヨブ
は知らないが、神とサタンの舞台裏があった。サタンがヨブの事を
ご利益宗教であり、利得があるから神につき従っていると、神に中
傷した。「いたずらに神を恐れましょうか」と。

彼のすべての持ち物を打つなら、神を呪うに違いないと。神はヨブ
を「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている」と認めてお
られた。そこでサタンの申し出を許可された。何もかもを突然失っ
てしまったヨブは、地にひれ伏して礼拝し、「主は与え、主は取ら
れる。主の御名はほむべきかな」と神に愚痴をこぼさなかった。

裸で母の胎を出て来て、裸で帰るのだからと。「主は」与え、「主
は」取られる。ヨブはそれを、主から来たものと受け止めた。ここ
で教えられる。サタンは働くが、神が許可された範囲内のみだ。期
間も定められている。主権は神にある。この事は私たちにとって大
きな慰めとされる。

何よりの苦しみは先が見えないことだ。先が見えている事は忍耐で
きる。しかし真っ暗なトンネルの中で、この苦悩が永遠に続くよう
に、終わりが無いように思える。いつまで続くのかがわからず、そ
の事が苦しみを更に倍加させる。

しかし「ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさっ
たことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちてお
られる方」だ。

・・・・・・・・・・・
今の試練に「結末を見る」と言われる。先が見えず、真っ暗で、永
遠に続くように思えるが、慈愛に富み、あわれみに満ちた事をして
下さる。脱出の道も備えられている。目に見える所でなく、主の言
葉に立ち続けよう。


2014年04月18日(金)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15



ある人が、父親からの小さな店を継いだ。少しでも売り上げを伸ばそうと、販売企画を考え、新たな方策を導入し、一生懸命に身を粉にして働いた。ところが、すぐそばに大きなショッピングモールが建ち、バッタリ客足が途絶えた。とても太刀打ちできず、やがて店を閉じる事になった。落胆した彼は、御心はどこにと、主を求めて、今後の事について真剣に祈り求めた。

その時に、思いもよらず、神学校へと導かれた。主は彼の人生に深い計画を持たれ、働き人として召されていた。店を閉じたので、動きが取れたのだった。私たちの信仰人生で、時に、「どうしてこんな事が?」という事態が起きる。順調に、何の問題もなく進んでいた道が、突如閉ざされてしまう。どうしてよいかわからず、驚き慌て、パニックになる。思い煩い、不安に落ち込んでしまう。

しかし、こんな時こそ、落ち着いて、主を見上げ、信頼しよう。御言葉に立ち返ろう。「ご自分では、しようとしていることを知っておられた」「あなたのために立てている計画をよく知っている・・災いではなく、平安と将来と希望のためのもの」「神がすべての事を働かせて益として下さる」

目の前の道が閉ざされたのは、あなたへの、更に大きな主のみわざのためだ。その先に展開があり、あなたのために主のご計画がある。主に立ち返って、静かにすれば救われる。「落ち着いて、信頼すれば、力を得る」御前に静まり、祈って行こう。次の進べき道が備えられている。
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災いや問題が起こる時、この状況を大きく動かされたのは主だとの見方に立っていたい。原因も解決法も一刻も早く知りたいと焦る思いも主はご存知だ。主の導きを祈りまず静まって待とう。


2014年04月17日(木)

「キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11 

信仰者だからといって、必ずしも聖く正しく、品行方正というわけではない。つい、自分勝手に、自己中心になる。又、立派なノンクリスチャンがいる。優しく、穏やかで、善行に励む人々がいる。しかし、大事な事は、人前に、人の間に、どうかではない。勿論、人との比較ではない。神の御前に、自分がどうかという事だ。

一番大切な事は、神との関係であり、神の御前に生きたかどうかだ。一見クリスチャンらしく見えずとも、失敗だらけでも、もしその人が神の御前に生きているなら、御霊に導かれている。そして、主は、その生涯を通して、キリストに似た者と変えて行って下さる。

パウロは「もし肉に従って生きるなら、死ぬ」と言っているが、肉に従って生きる事も、御霊に従って生きる事も、自らの選択だ。私たちが事を行なう時に、その動機を主は見られる。どんな動機から出た行動なのか。何に導かれてその事をしているのか。主のためなのか、自分のためなのか、主の栄光か、自分の賞賛、自分が褒められたいのか。自分のための行ないなら、霊的死だと。

「御霊によってからだの行ないを殺す」とは、自分の力で罪と戦うのではなく、御霊に満たされる事が、肉の思いから解放されて行く道だと。御霊に自分を明け渡す時に、御霊が支配される。その時、御霊が働き、主を愛する心を下さる。
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正義感の強い人も、人情に厚い人もいる。自分でしたいと思う善も肉にすぎないと今一度気づけて感謝だ。良い人ではなく、主に似た者へと御霊によって主の栄光のために動けるよう、自分の思いを見張って行きたい。



2014年04月16日(水)

「主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ・・』」出エジプト16:16



出エジプトを果たしたイスラエルの民は、紅海が分かたれるという偉大な奇跡を見た。主を賛美し、大いなる感謝と喜びに包まれた。ところが、荒野に出て3日歩くや「水が無い」とのつぶやきだ。次に食物が無いと不平不満をモーセにぶつけた。エジプトで死んだ方が良かったとまで言い出した。

民の救出のために、あのような奇跡をされ、更に雲の柱、火の柱で共にいて導いていて下さるのだ。しかし、主はそれに答え、天から日々にマナを降らせ、夕にはうずらの大群を降らせられた。このマナは1日分だけと命じられていた。翌日は降るのか不安で、朝まで取っておくと腐った。朝毎に各自食べる分だけ取り、残ったものは、日が高くなると溶けた。

主は「朝ごとに」「各自」「食べる分だけ」と定められた。どうだろう。1日分と言われても、隠れて明日の分、いや1週間先まで、集めるだけ集めておきたい・・もし、降らなかったら?主を信じられなかったら、そうするだろう。主は来る日も〃40年間、毎日マナで養われた。これは、主により生かされているという事実を叩き込もうとされた。

「神が生かして下さっている」「神により生かされている」これを心底知るなら、思い煩いから解放される。日々様々な形で、主に頼り、御言葉に従う訓練が、私たちにも与えられている。信じようとしないなら、一生、主を知ることがない。頭の知識だけで終わってしまう。御言葉に、言われた通りに従ってみよう。
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神によって創られ、生かされているとだとの最初の確信がなぜ思い煩いの不信仰に流されてしまうのだろう。焦りや迷いはくり返し来るが御言葉は何と約束して下さっているのか、それを信じ抜こう。


2014年04月15日(火)

「・・そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します」マタイ6:33 



私たちはしょっ中、思い煩い、心配する。「心配」について教えられている。主は、明日の心配はするな、と言われた。明日の備えをするなと言われたのでなく、「心配するな」と言われた。主を第一にして行くなら、すべての必要が与えられるから、心配するなと。

明日の事は、人間には一切わからない、見えない。そのために思い煩う。まだ起きていない事に関して、何か悪い事が起きるのではと不安になる。自分の支えを無くしてしまうのではと。心配は私たちを疲れさせ、消耗させる。その結果、今日生き生きと生きるための、気力が失せてしまう。思い煩っている時というのは、神の言葉を全く信じずに、自分しか信じていない。

しかし、主は、明日の事は、明日が心配するから、今日心配するなと。明日、何が起こるかは全くわからない。自分の限度を超えていることだ。明日を思い煩うことで、今の貴重な時間をつぶしてしまう。それが問題だ。今日の御心が行なえない。生き生きと、主を喜び、感謝し、主を証しするための今日の日を、暗い、沈んだ、平安と喜びのない一日にしてしまう。

今日なすべき御心があり、労苦がある。「今日」の分は負うことができる。「今日」を精一杯生きるようにと。そのために、大切な事は、思い煩っている事柄を主に委ねることだ。自分の手から放して、主に渡すことだ。主を「信じ」、主に「委ねる」ことが、思い煩いの解決だ。
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与えられた新しい今日を、完全に知り得ない明日のために、どれだけ無駄にしただろう。意志をもって思い煩いをやめよう。今日も明日も主の御手の中だ。


2014年04月14日(月)

「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと・・どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り」創世記13:10 

  

アブラハムにも失敗があった。飢饉に会った時、肉の判断によりエジプトに下った。そこで妻を妹と偽り、大変危険な目に会った。彼は失敗から学んだ事だろう。再びベテルで、祭壇を築き、主の御名によって祈った。甥のロトとは、双方の所有物が増え過ぎ、同行は困難となり、別れる事になった。アブラハムハは全所有権を手放して、ロトの前に置き、ロトに好きな所を選ばせた。

ロトは、今までの叔父への恩、目上の者への敬意もなく、どこが自分に最も有利かで頭が一杯だった。見た目で、欲で判断し、最も肥沃な潤っている地を選んだ。祈る事も、神の御心を求める事もなく、自分で選んだ地は、結果的に不道徳と暴虐の破滅の地であった。ロトはすべてを失った。しかし、その地を選び取ったのはロト自身であり、自らの選択であった。

全所有権を神に明け渡したアブラハムは、結局、全地を所有することになる。私たちの人生の、日々の、選択はどうだろう。何を基準に選択しているだろう。御言葉か、自分の思いか、欲か。選択のその時に主を見上げよう。主の御心を求める事を、普段から培っておく事は大切だ。ロトの目の前には、世の麗しい繁栄が広がっていた。アブラハムの目の前には、神と神の約束が広がっていた。私たちの目の前には、何が広がっているだろう。
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私達は迷いやすく確信が持てない。だから感謝だ。目の前の道にいつも神を認め確信を求め祈ることが出来る。迷わない時こそ自分の思いに傾いていないか、立ち止って祈ろう。


2014年04月13日(日)

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい」Tテサロニケ5:16 



この御言葉は、難しいと思うだろうか。つまり、「思い煩うな」「落ち込むな」「失望するな」ということで、「いつも」喜べとあり、ラッキーな時、ハピーな時に喜ぶのではなく「いつも」喜べだ。

「すべての事について感謝しなさい」とあり、願いが叶えられた時、嬉しい時に感謝するのでなく、「すべての事」だ。すべての事であれば、病気になった時も、けがをした時も、リストラになった時も、受験不合格の時も、田畑が不作の時も含まれる。

又、辛い対人関係で、批判されたり、悪口を言われたり、又、バッグや財布を落とした時も含まれる。「そんな事、無理」「どうして感謝などできよう」「そうできたらいいよね」と思うだろうか。

そう思って、相変わらず思い煩い、都合の悪い事態が起きれば、失望落胆し、不安に襲われたままで、いつか事態が去れば安堵し、感謝するだろうか。そうであれば、一生何も変わらず、アップダウンの繰り返しになる。目に見えるところにほんろうされ、振り回される。

「すべてのことについて感謝しなさい」これを単なる言葉ととるか、神の真実な言葉ととるかで、人生が全く違い、信仰生活が大きく変わって来る。不都合な事態が起きた時、まず神の言葉に従って、感謝してみよう。感情でなく、一歩信仰により従うと、心が不思議に変わることを経験する。

目の前の状況に支配され、真っ暗になった心が不思議に違って来る。何だか落ち着いて来る。主に焦点が向くからだ。神を見上げることになるので、視点が変わる。目に見えるところでなく、信仰に立つと、目に見えないところを見て行く。神の約束に立って行ける。

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感謝できないなら、まず正直に「感謝できません」と祈ろう。祈っていると、感情では感謝できないが、信仰に立ち、意志を向けようと思えて来る。そうする時、また心が変えられて行く不思議を経験する。


2014年04月12日(土)

「主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のう ちに返り、その子は生き返った」T列王17:22


飢饉が広がる中、エリヤはケリテ川の水が涸れた後、主に示された
通りに、ツァレファテへ向かった。主が「一人のやもめに命じて、
エリヤを養うようにしている」と。出会ったやもめは、ひと握りの
粉と少しの油だけがあり、それで子供と最後の食事をし、死のうと
していた。

その目の前に、エリヤが現れて、非常識な要求をした。まずその残
りの粉で、自分のためにパンを作るようにと。そうするなら、飢饉
が終わるまで、かめの粉は尽きず、そのつぼの油は無くならないと。
やもめはエリヤの言葉の通りにした。

すると奇跡が起きて、飢饉の間中、粉と油は尽きず、息子と自分は
食べることができた。飢饉のまっただ中で、神により養われた。と
ころがその後、息子が重病に陥り、死んでしまった。エリヤはその
息子が生き返るように、主に祈った。

主はエリヤの願いを聞かれ、その息子は生き返った。その生き返っ
た息子を、彼女に返した時に、彼女は、「あなたが神の人であり、
あなたの口にある主の言葉が真実であることを、今、知った」と言
った。それ以前は、まだよくわかっていなかったが、息子の死を通
して、神の言葉が真実であると身をもって知った。

彼女の内で、信仰が確かなものとされた。大きな厳しい試練であっ
たが、主と主の言葉が真実である事を知る恵みと祝福とされた。私
たちも、試みは、厳しく苦しいが、必ず「主のことばが真実である
ことを知った」と言えるようにされる。

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素晴らしい奇跡を見た後で、息子が亡くなるという大変な試練が臨
んだ。せっかく、命が助けられたのに、その命が断たれてしまい、
何で?と思うが、更なる素晴らしいご計画があり、信仰が確かなも
のとされた。理解できない時も信じて行こう。主のされる事に間違
いはない。 


2014年04月11日(金)

「それから、彼に次のような主のことばがあった。『ここを去って東へ向かい・・ケリテ川のほとりに身を隠せ』」T列王17:2


エリヤは神に従い、アハブ王の前に出て、主が雨を止められる事を告げた。その後、神はエリヤにケリテ川のほとりに身を隠すよう命じられた。アハブからかくまうためだった。「主のことばの通りにした」。エリヤは主の言葉に従って、ケリテ川の畔に逃れた。目の前の一歩一歩を、自分の思いでなく、主の言葉に従った。

しかし、烏に養わせると言われるが、そんな事があり得るのだろうか。ゴミに群がり、食物を貪る烏が、食物など運んで来るのか。それは、神の主権のもと、神がエリヤを養うとの意味だった。日照りで、日増しに枯れて行くケリテ川の畔で、自分には何もどうにも出来ない。エリヤは自分の無力を心底知り、神ご自身に拠り頼む信仰の訓練とされた。

序々に川の水も干上がって来る。どんなに心細い事だろう。「ケリテ川のほとり」と命じられていて、水を求めて他へ行く事もできない。水はかれて来た。このままでは死んでしまう。しかし、エリヤは自分で動かず、主の次の言葉を待った。「すると、彼に次のような主のことばがあった。シドンのツァレハテに行き・・」必ず、主からの次の導きが臨む。

主に拠り頼み、従おうとする時、目の前の進むべき一歩が示される。そして、その一歩に従うなら、また次の一歩が示される。今、目の前の一歩を示されていたら、それに従おう。従った時に、また次の道が示される。
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先の先まで考えて平安を失うより、主が備えて下さっている今日の導きを信じて、喜びのうちに一歩踏み出そう。人の心に思いも浮かばなかった次ぎの道が待っている。


2014年04月10日(木)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」ガラテヤ5:22


あなたにとって、幸せとはどんなものだろう。順風満帆の人生のことだろうか。家内安全、商売繁盛、受験はすべて合格、畑は豊作、病気やけがが無いことだろうか。自分の願いが叶い、自分のしたい事が成し遂げられて行くなら、幸せだろうか。しかし、そうだろうか。ザアカイは、富が自分を幸せにしてくれると信じ、同胞から嫌悪される事がわかっていて、取税人のトップに昇りつめ、資産を持つが、その心は虚しかった。何の喜びも無かった。

自己実現を求め、生きがいや心の満たしを求めて、仕事に、趣味に、次から次へと様々な事に手を出し、駆け巡る人々を見る。あれなら、これならと、自分を満たしてくれるのではと。だが心は埋められず、ますます渇くばかりだ。人が求めているのは、「愛、喜び、平安」だ。これらが喉から手が出るほど欲しい。しかしそれ自体を、どんなに求めても得られない。

これは御霊の「実」であるからだ。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」自分の欲望充足を第一でなく、神を第一に求めて行く時に、与えられる実だ。神の御心を求め、従って行く時に、不思議に心が満たされて行く。自分の欲が叶う事でなく、自分を明け渡して、神に従う時に、真の喜びと平安、安堵に心が満ちる。その時、渇きがいやされる。
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私たちにいつも働いて導かれている御霊を信じて、目指すものを自分中心の欲望から、神の御心へと選択し直して歩もう。目先の安堵にはない、見えない神の平安を知る。


2014年04月09日(水)

「・・キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです」ローマ8:11 



御霊によって、御霊の支配の中で生きる時、私たちは心が自由で、喜びがある。「その命令は重荷とはなりません」主に従う事が、御心を行なう事が決して重荷にならない。御霊が働かれるからだ。自発的自由意志があり、感謝がある。しかし、律法のもとで、肉に従って生きるなら、信仰生活は、非常にしんどい。主に従うことは、重い荷をずっしり負わされ、苦しい事になる。心に喜びも自由も無い。心ふさがれた状態だ。

常に神に要求されていると感じる。「したい」ではなく「ねばならない」だ。一タラント預かったしものように、神が過酷な方で、蒔かないところから刈り取る、厳しい方だと思う。主が恐ろしい方になり、主に従う事が辛い事になる。しかし、唯一の真理なる正しい方だから従わねばならない。それなら信仰生活は辛いものになる。そこに喜びなど無い。今、あなたはどうだろう。窮屈な信仰生活だろうか。苦しく辛いなら、自分の力で歩んでいるかも知れない。

妬みや憎しみ、怒りが湧き上がる時、自分で何とかしようと抑え込むのでなく「腹が立ちます、妬ましいです、誰にも言えないこの思いを、あなたはご存じです」と一つ一つ主に告げる事が大切だ。隠さず、ごまかさず、無いことにせず、主に言い表し、主に頼って行く。その時、主が助けて下さる。絶えず主を呼び、心を言い表わし悔い改め、助けを求めて行く時、その思いを解決して行って下さる。思いが来た時、「主よ」とまず主を呼び求めよう。
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内におられる御霊様の導きを大切に聞いていこう。「ねばならない」と自分を責める声が来ますと主に語るだけで祈りになる。そして人とは違う私だけの答えを主からいただき、生き生きとした信仰生活を歩もう。


2014年04月07日(月)

「『安心して行きなさい・・あなたの願ったその願いをかなえてくださるように』・・それからこの女は帰って食事をした」Tサムエル1:17 


ハンナには、子供が無かった。夫エルカナに愛されていたが、その事でペニンナの妬みを買い、いじめに会い、苦しみの上に更に苦しみが加わった。不妊の辛さ、周囲の冷ややかな目、いじめ、神に祝福されていないのだろうか・・。その悩み、痛み、苦しみの何もかもを、主に打ち明け、御前で激しく泣き、訴え、吐き出した。

そして「男の子を授けて下さいますなら、私はその子の一生を主におささげします」と自分自身を明け渡して、何もかもを主にお委ねした。気持ちを洗いざらい告げ、募る憂いといら立ちの感情をぶつけ、願いを主に知っていただき、心を注ぎ出して祈ったハンナは、その中で変えられて行った。

思い煩い、悩みをことごとく主に委ねきって、平安を得た。「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」と。思い煩いに支配されることが無くなった。目に見える所にとらわれなくなり、問題が問題で無くなった。内側が平安に満たされてしまった。

私たちも、ハンナのように、ことごとく思いと気持ちを主に告げ、吐き出し、感情もぶつけて祈り、そして明け渡すなら、必ず平安が与えられる。「・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」。

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ハンナは苦しい気持ちを吐き出し、洗いざらい、いっさいを告げて苦しみを委ねて行った時に、心が確かに変えられた。問題を主に知っていただいて、主に明け渡す時、人のすべての考えにまさる神の平安が与えられる。



2014年04月06日(日)

「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったよう に、あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13


私たちは、口では相手を「赦します」と言い、また実際、赦さなけ
ればと努力する。しかし実は、決して赦せるわけではなく、赦せな
い心を、憎しみや恨みを、心深くに押し込め、抑圧している。
そして、ふたをして無いものとしようとする。それは歪んだ、抑圧
された激しい怒りとなり、許容量オーバーになると、必ず爆発する。

そうなると相手を激しく攻撃して行く。又、反対に自分自身に向け、
自分を責めて苦しくなり、ひどい自己嫌悪に陥る。赦した「つも
り」や、赦した「振り」をして、又、もう考えない事にして、心の
引き出しに押し込み、自分をも欺いてしまってはならない。

自分には赦すことができないこと、どんなに頑張ってもできないこ
と、又、その底には、「赦せない」ではなく「赦したくない」、非
常に頑なな自我がある事を認めることが大切だ。

その場で、押し殺して我慢すると、自分では怒りを自制していると
勘違いしてしまうが、そうではない。単に押し込めているので、そ
こにずっとある。その証拠に、必ず後に爆発する。赦したくない自
らの罪を認めて、自分には出来ない事を主に言い表わし、助けを求
めよう。

主に明け渡して行く時に、主がみわざをして下さる。赦すことは、
自らの意志決定であり、選択だ。その時、不思議だが、御霊が働い
て、赦せるように助けて下さる。自分には決して出来ないことが、
主によって成し遂げられて行く。

・・・・・・・・・・・
赦すことは選択だが、祈って行く時に、選択もしたくない自分に行
き着く。その自分を受け止めて下さっている主に、赦したくない自
分を認め、あるがままを告げて行く時に、御霊の働きにあずかる。
頑なな自分が変えられ、御霊によって赦せる事を経験する。


2014年04月05日(土)

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わ たしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」詩篇32:8



「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者にも悟
りを与えます」とあるが、悟りというのは、単に理屈でわかる、頭
での理解でなく、その人自身を、生活を変えて行く気づきのことだ。

頭でわかったというだけでなく、実践が伴って行く。行動して行く
ことだ。ずっと毎週メッセージを聞き、長い間、聖書の学びをして
いると、必ず聖書知識も増えて来て、どうしなければならないか、
どうすべきかは、よくわかる。
しかし、自分自身はなかなか変わらない。それが、頭だけでしかわ
からなかった事が、信仰の目で見えて、捕らえるようにされる。

目が開かれて、違った見方で物事を見るようになる。パウロは、と
げによる激しい苦痛のために、取り去られることを、懸命に祈った。
しかし、とげは取り去られず、「わたしの恵みは、あなたに十分で
ある」と語られ、そのとげが、恵みとされた。光が射し込み、同じ
とげに、新しい理解が与えられた。「わたしの力は、弱さのうちに
完全に現われる」と。

パウロは悟りを与えられ、弱さを誇ることができた。「キリストの
力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょ
う」現実は何も変わらないが、パウロは平安と喜びが与えられた。
自分の思い通りにはならなかったが、更に良いものを与えられた

・・・・・・・・・・・・
どうしてこんな事が、との事態が起きる時には、よくよく祈って行
こう。主に心の思いを吐き出し、打ち明け、主と、とことん交わろ
う。その中で御霊が導き、御言葉を解き明かし、教えて行って下さ
る。状況は変わらない中で、心は平安へと変えられて行く。


2014年04月04日(金)

「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15


私たちの人生に、「偶然」は無い。主に、行き当たりばったりはない。信仰人生に様々な事が起こるが、すべてが神が定められた最善の「時」に、深いご計画のもとに起きている。病気になる事も、けがをする事も、リストラや、経済的危機も、難しい対人関係も、目の前の出来事は、偶然起きているのではない。主の許しのもとに、ご計画の内にある。

「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには、地に落ちることはない」の通りに。その見方に立ち、神視点の信仰に立つ時、受け取り方が変わって来る。そこに主を見て、主のわざを見るからだ。私たちは様々な「時」を通る。ある時は、大きな悲しみに会う。その時は、悲しくない振りをするのでなく、悲しみを無視するのでなく、ふたをして心に押し込めるのでなく、十分悲しむことが大切だ。

やがて、神の「時」が来て、自分が頑張るのでなく、「主が」微笑ませて下さる。「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある」。又、人を主に導こうとする時、この“時”が非常に重要だ。「黙っているのに時があり、話をするのに時がある」。

ある時は、機が熟するまで、じっと待つ必要がある。何もしない方が良い時と、又、必要な事をしなければならない時がある。祈りつつ、御霊の導きに従うことが大切だ。思い通りにならない「時」もある。そんな時は、じっと忍耐し、神の時が満ちるのを待とう。私たちには様々な「時」がある。状況でなく、そこに主を認め、主に従って行こう。
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神の時と自分の思いが噛み合わず、様々に苦しむのではないだろうか。動くべき時に立ち上がれず、待つべき時に座っていられない。いつもの自分ペースを捨て、いつも神を認めて生きたい。


2014年04月03日(木)

彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、『起きて、食べなさい』と言った」T列王19:5


エリヤはバアルと対決し、大胆に力強く戦い、大勝利者となった。しかし一転イゼベルの言葉に恐れ、落胆し、落ち込んだ。鬱症状に陥り、死を願った。バアルとあれだけの死闘をしたのに、何も変わらないではないか。又「私は先祖たちにまさっていない」、先祖と比較して落ち込んだ。しかし、落ち込みのその根は高ぶりだった。

又「ただ、私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうと狙っている」、私だけが残ったとの思い込みの中で孤独に陥った。しかし実際はそうではない。「わたしは七千人を残しておく」と、決して一人残ったのではない。そんなエリヤに主は慈しみを持って対応された。

「何を不信仰な事を言っているのか」との叱責でなく、又、「そんな事でどうする」と責めることもされず、十分な睡眠と食事をとらせられた。心身消耗し、疲れきったエリヤを深く眠らせ、まず第一に休息を与えられた。睡眠と食事で体力を回復し、力を得たエリヤは、ホレブの山まで歩く事ができた。「すると、彼への主のことばがあった」。

心身回復した時に、主のことばが来た。エリヤの問題はネガティブ思考であった。自分はダメ人間、又、殺されてしまうのではとの恐怖、先に何の希望も持てない絶望感・・しかし、主はエリヤの間違った思考と情報を正され、「ハザエルに油をそそいで・・エフーに油をそそいで・・」と新たな使命を授けられ、再び立ち上がらせて下さった。落ち込んだ私たちにも同様に、再び立たせて下さる。
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たった一人になったと思い込んだが、主の備えも、またお心もそうではなかった。自分の声が「そんな事でどうする」と責めてくる。主が再び立ちあがらせて下さるから全てを委ねて疲れた時は休もう。


2014年04月02日(水)

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」使徒27:11




パウロがローマへ護送されるのに、他の囚人たちと共に、百人隊長に引き渡され、船がクレテ島に停泊していた時だった。船長と航海士たちは、もっと施設の良いベニクスの港に移動して、冬を過ごすことを提案した。しかし、パウロはもうこれ以上の航海は危険だと強く反対した。

パウロは神から受けた導きにより「この航海では、積荷や船体だけではなく、私たちの生命にも、危害と大きな損失が及ぶ」と。しかし、人々はパウロの言葉を信じる事なく、百人隊長も、経験がありプロである船長や航海士の方を信じた。出航するや「ユーラクロン」という暴風に巻き込まれ、どうにもならず吹き流されるがままになった。

船体を綱で巻き、荷物を捨て、すべての船具を捨てた。最後の望みも断たれようとしていて、絶体絶命であった。人間の力や知恵ではもうどうにもならない。その時になりようやく、人々はパウロの言葉に耳を傾けた。そしてパウロの言葉がその通りになり、実証される形になった。

私たちも、いつも様々な声が聞こえて来る。主のみ声と、その他の声だ。それは肉から湧く思いや、目に見えるところの判断、この世の価値観であったり、サタンからの声であったりする。今、判断が必要なら、よく祈って聞き分けて、人間の経験や知恵でなく、見えるところでなく、主の御声を選び取り、従おう。
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パウロはことごとく主に祈り、導きを尋ね求めていたからこそ航海士や船長の言葉より前に、主にある確信を持つことがで来た。朝毎に拠って立つ御声にしっかり耳を傾け、世に出て行きたい。


2014年04月01日(火)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩篇62:8 



信仰生活では、様々な事が起きる。すべての人は、喜びの時、悲しみの時、苦しみの時を通る。喜びの時、楽しみの時は、主に感謝すればよい。しかし、苦しみの時にはどうすればよいのか。詩篇記者は、「あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は我らの避け所」とあるように、詩篇の様々な箇所で、感情を、気持ちを主に吐き出している。苦しみ、嘆き、怒り、悲しみ、焦り、失望、落ち込み、いら立ち・・何もかも率直に赤裸々に、「御前に注ぎ出」している。

弱さをありのまま、正直に注ぎ出して行く時、そこで主に触れる。そこで御霊が働かれ、心が変えられて行くことを経験する。そして、「あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって・・願い事を神に知っていただきなさい」とあるように、「感謝をもって」「感謝」には不思議な主の力がある。

今までどうであったろう。苦境の時、絶体絶命の時、主はどのようにして下さっただろう。必ず助け出して下さったから、今がある。では、今回も助けて下さらない事があろうか。主は愛していて下さる。主はご計画を持っておられ、「ご自分では、しようとしていることを知っておられる」。「益として下さる」それゆえ感謝をもって、主に信頼しよう。「民よ。どんなときにも、主に信頼せよ」。主はその感謝と信頼を喜んで下さる。
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どのような中にあっても感謝に行き着くのは、悩みの中にあればあるほど主を呼び求め御霊の励ましや慰めをそこで受け、主に触れた経験があるからだ。避け所である主のもとに感謝がある。


2014年04月08日(火)

「あなたが証言なさったあの方がバプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます」ヨハネ3:26 


当時、バプテスマのヨハネに人々の人気と賞賛が集まっていた。ところが、主イエスが来られるや、人々の人気は、どんどん主の方へ移って行った。自分の師を思うヨハネの弟子たちは「みなあの方のほうへ行きます」と、妬みやいら立ち、寂しさを感じていた。

しかし、ヨハネはいっさい動じない。その態度はへりくだっていて立派だった。自分はキリストではないと明言し、主が花婿で、自分は花婿の友人で、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。ヨハネは、人は関係なく、自分と主との間の関係で、喜びをもって主に仕えていた。

人からの賞賛ではなく、真に主に仕える者は、喜びに満たされる。そして、ヨハネは謙遜だった。人を見て、人と比較するなら、羨望や妬みが出て来る。同期の同僚の昇進はどうだろう。成績や人気、又、ライバルの成功は?心穏やかでおれるだろうか。

プライドが傷つくので、人の成功を喜べない。人の成功は、自分の失敗のように感じる。人が誉められると、自分がけなされたように感じる。まるでシーソーだ。相手が高められると、自分が低くなる。それらは高慢から出て来る。ヨハネは、すべて神からのものと受け取っていた。

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできな
い」と。人の誉れも成功も、天からのものであり、そこに神を認め、主権を認めた。そして、どうであれ神が与えて下さるものに感謝し、満足した。そこに何の不満もない。すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、心に揺るがない平安が臨む。へりくだった人に与えられる恵みだ。

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自分が、自分が、と思うところに平安が無くなり、喜びも失せる。天から与えられるものに満足するなら、どんなに心は自由で平安だろう。誰も損なうことができない。主との個人的関係を太いものにし、主ご自身により満たされるよう祈って行こう。