2014年05月31日(土)

「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を 広げてこれを取り、羽に乗せて行くように」申命32:11


親鷲がひなに飛ぶ事を教える際に、ひなをわざと巣から落とす。巣
は、だいたい断崖絶壁に作られていて、そこから、ひなは落下する。
まだ飛べないひなは、どんなに驚き、恐しく、恐怖の叫び声を上げ
る事だろう。

しかし、ひなが、谷底に激突する寸前に、親鷲はひなの下に、さっ
と入り、自分の羽に乗せる。これを繰り返す。その内に、ひなは飛
び方を学習して行く。羽ばたき、気流に乗る事を覚え、やがて自分
の力で飛べるようになる。

信仰生活において、私達も同様だ。主は、時に私たちを、心地良い
巣から引き出される。ずっと安全な巣にいるなら、大空を飛べなく
なる。そのため、時として巣が大きく揺さぶられる。そうするなら、
やむを得ず飛び立つ。飛び立たざるを得ないからだ。

あなたも今、そのような状況だろうか。主が巣を揺るがすのは、こ
のまま安住していては、私たちに成長が無いと思われた時だ。鷲は
必ず飛ぶ事ができる。だから訓練する。主は私たちも、信仰が更に
成長し、大きく羽ばたいて行くために訓練される。

今、心地良い巣から、辛い状況に引き出されているなら、目の前の
事態に信仰をもって向き合おう。その時、飛ぶ事が出来る。そして
自分に飛ぶ力が与えられていた事を知る。主は自己満足の巣から、
私たちを飛び立たせようとしておられる。

・・・・・・・・・・
心地よい所に、ずっといつまでもいたいが、それなら成長が無い。
厳しい試練の中で、信仰の翼をかって、かけ上ることを学ぶ。それ
が身について行き、信仰が成長して行く。願いは信仰の成長ではな
いだろうか。状況に向き合えるよう祈ろう。


2014年05月30日(金)

「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」イザヤ55:11



「わたしの望む事を成し遂げ」「わたしの言い送った事を成功させ
る」とある。成就し、実現するのは、主の望む事、主の語られた言
葉だ。主の御心が成し遂げられて行く。私たちは、しばしば自分の
思いを、主の御心と思い違いしてしまう。自分の思いが成就するこ
とは無い。

又、主が望んでおられるのではと、「自分が」思うことを、みここ
ろと勘違いする。しかし実現しないので、戸惑い、不審に思う。あ
る人が、これこそ主のみこころと、思い込んだが、うまく行かず、
成就しなかった。後でよくよく祈りつつ考えると、主のみこころで
はなく、自分が主のためにしたいと思った、自分の思いだと気づか
された。

「主の望む事」でなく「自分の望む事」であった。それなら実現す
る事はない。自分に都合の良い、自分が欲しい言葉でなく、主の御
心の言葉が成就する。どうすれば、その言葉が聞けるのか。自分の
思いは強い。自分の願望も強い。底に強い自我がある。その強い自
分が妨げて、御言葉が聞けない。まず自分自身を委ねよう。

右でも左でも、御心のままにと、自分の思いを明け渡して、受け取
る態度だ。その時に、自分の思いに惑わされずに、御声を聞くこと
ができる。そして、聞いた御言葉をしっかり握っていよう。時間が
かかるかも知れない。アブラハムは25年待ってイサクを与えられ
た。その御言葉は神の時に、必ず成就する。だから、すでにかなえ
られたと知る。
-------------
自分の願いや自分のプランもあるが、それを第一とせず、主の御心
を第一とする姿勢でいたい。自分を明け渡たし御心を受け取ります
の態度で、主が共におられることと主の御わざを自分自身で知って
行こう。


2014年05月29日(木)

「すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みをうけたのです」』ルカ1:30



突然、マリヤに、御使いが現れて、「あなたはみごもって、男の子
を産みます」と告げた。マリヤは戸惑い、驚き、「どうしてそのよ
うなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と。
すると御使いは「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があな
たをおおいます」と。聖霊によると答えた。

その時、マリヤはヨセフと婚約中だった。それが妊娠したとなると、
重大な事態となる。姦淫罪で、石打ちの刑で殺される事になるし、
ヨセフをどんなに傷つける事になるだろう。マリヤが夢に描いてい
たであろう、幸せは崩壊する。測り知れない困難があったが、しか
し、人の目、世間体や陰口を恐れて、拒む事をしなかった。

「私は主のはしためです。おことばどおりこの身になりますように」
と自分自身を差し出した。すべての困難を身に引き受け、自分を明
け渡した。救い主が人となって、この世に誕生するという、神の遠
大な計画に、自分自身を献げて、参加した。マリヤが望んだ事でも、
願った事でも無い。自ら手を挙げて、志願した事でもない。一方的
に、「神から」出た事だ。

大きな戸惑いと不安もあり、試練でもあったろう。しかし、神の意
志に、神の心に自分を従わせた。自分自身を委ねた。私達も、自分
が望みも、願いもしない事態に、突如として引き入れられる事があ
る。しかし、神から出た事と受け止め、自分を明け渡して行く時に、
“わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえ”と必ずや大いなる讃
美とされる。
---------------
目の前の出来事を神からのものと受け止めるとき、絶望的な状況に
光があたり恐れや焦りを後押しするサタンの声からも勝利できる。
恐れず、主に明け渡し「おことばどおりに」と祈りたい。


2014年05月28日(水)

「わたしの恵みは、あなたに十分である」Uコリント12:9



妬みは、誰の心にもあり、根深いものと言われている。それは比較
から出て来る。人と比較し、自分に無いものを持つ相手に、妬みが
湧く。カインはアベルを妬んだ。カインの献げ物は受け入れられず、
アベルのものは受け入れられたからだ。カインは、その事で、神に
向き合うのでなく、その怒りがアベルへ向かい、アベルを殺害して
しまった。

サウルもダビデを妬んだ。女たちが、連戦、連勝のダビデを、サウ
ルと比較して、賞賛した。サウルは、比較された事で、ダビデに対
して妬みが燃え上がり、妬みは憎しみとなり、ダビデを殺そうとつ
け狙った。しかし、ダビデはサウルに何も悪い事はしておらず、む
しろ、忠実な素晴らしい部下であった。こんな部下を持つサウルは、
幸いなはずであった。

妬みは方向を誤らせてしまう。妬みは、与えられた、神の恵みを見
る事を決してしない。自分に無いものばかりに目が行く。持たない
ものだけを見て、目が常にそこにあり、人を羨む。そのためいつも
平安が無い状態だ。

与えられているものに、目を留めてみよう。無いものでなく、手に
有るものに。「わたしの恵みは、あなたに十分である」と主は言わ
れる。与えられている恵みを数えて行く時に、その豊かさに驚く。
そして自分が変えられて行く。
-------------
与えられたものや環境に感謝し満足して行くなら、どんな中でも周
囲に左右されることなく自由でいられる。与えられた恵みに感謝す
る時に神様と近くされ、注がれる祝福にさらに敏感になれる。


2014年05月27日(火)

「・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:15


エマオ途上の弟子たちは、「暗い顔つき」で、郷里に向かっていた。
主の復活を信じていなかったので、主が死んでしまった今、エルサ
レムにいる理由がなく、郷里に帰ろうとしていた。心は、失望落胆、
絶望・・であり、主の復活も、「御使いがイエスは生きておられる
と告げた、と言うのです」と、まるで信じていない、他人事、傍観
者のような態度だった。

不信仰ゆえ、目はさえぎられていて、かたわらを歩き、話しかけて
来られる主がわからない。しかし、主は、そんな不信仰に陥ってい
る弟子たちを、放っておけずに、助けるために来られた。「二人で
話し合っているその話は何のことですか」と問われ、心の内を語り
出させて下さり、答えられた。「・・信じない、心の鈍い者たち」
と。暗い顔で、失望しているのは、心を固くした不信仰によると。

そこで主は御言葉を話され、聖書全体から、ご自分について書いて
ある事柄を解き明かして行かれた。その時、耳を傾けた弟子たちは、
「私たちの心はうちに燃えた」と。暗い顔つき、失望落胆の心に灯
がともり、心がどんどん暖かくなり、赤々と燃えて来た。「いっし
ょにお泊まり下さい」と無理に願うと、主は一緒に泊まられ、その
中で目が開かれた。

私たちも、目の前の出来事、状況に飲み込まれ、思い煩いにさえぎ
られると、主が見えなくなる。しかし、主は、そんな私たちのかた
わらを歩んで下さっている。御言葉に、今一度耳を傾けて行こう。
平安にして下さる。
-----------------
目が何かにさえぎられ主が見えなくなっていると心はざわつき平安
を失ってしまう。御言葉に耳を傾ける日ごとのデボーションは、そ
んな心の状態に気づかせてくれ、また新たにされる大切な時間だ。


2014年05月26日(月)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5


ある男性が、会社の経営難で、リストラになった。非常に落胆し、落ち込んだが、しかしとにかく家族を養わねばならず、すぐに職探しを始めた。懸命に探すが、しかし不況で、仕事はなかなか見つからなかった。多くはない貯えで生活していたが、段々底をついて行き、経済的に困窮して来た。どっと不安と恐れに襲われる。

家族を抱え、先の事を考えると、思い煩いで一杯になった。必死に祈った時に、「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」「すべての事について感謝しなさい」が臨んで来た。御言葉を受け入れ、主に従おうと思った。それで、この事態を、これから先の事を、主に任せて、現状を感謝することを決心した。

「すべての事について感謝しなさい」の御言葉の通りに、リストラになった事を感謝し、幾ら探しても職が無いことも感謝し、経済的に困窮している事も感謝した。感謝を献げ続けていると、不思議なことが起きた。状況は全く変わらないのに、心の重苦しさが消え、心がすうっ〜と平安になって行った。あれほどの恐れと不安に襲われていたのが、無くなってしまい、それには驚いた。御霊の働きだった。

胸が苦しくてたまらず、胃の痛んでいたが、それも消えていた。主は必ず良くして下さると信じることができて、心が楽になってい。そして、しばらくして、その通りに、祈っていた職が与えられた。-----------
感情や環境に左右されれば、感謝できないことばかりだが、置かれ環境に主を認め、主が力を与えてくださると神じるから感謝でき。る恐れも不安もあるが主が成し遂げてくださると主に委ね感謝しよう。


2014年05月25日(日)

「私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するように話 すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対する ように話しました」Tコリント3:1



「肉に属する人」「キリストにある幼子」が出て来る。肉とは、ア
ダムからの古い性質だ。アダムとエバが、善悪の知識の木から取っ
て食べた時に、目が開かれた。つまり、神から独立して善悪を判断
する事となった。「あなたがたは神のようになり、善悪を知るよう
になる」との誘惑に乗ってしまった結果、霊が死んでしまった。

神から離れて、神を無視し、自分の思い通りに生きるようになった。
自分を中心に生きるようになったので、そこに妬みや争いが生じる
ことになる。自我と自我が、ぶつかり合い、問題が起きる。コリン
トの教会内は、様々な問題でいっぱいだった。自分を中心にすると、
もめごとだらけになる。

又、醜い肉だけでなく、反対に魅力的な肉もある。自己実現や、魅
力的なものに心を奪われ、神から離れて行く。御霊に頼らず、自分
の思いと自分の力で生きて行く。すべての局面で、まず「自分」を
第一にして生きて行く。自分の気持ち、自分の思いが第一だ。

「御霊に属する人」とは、神に、自分と自分の持てるものを渡して
行く人で、その人は、御霊に導かれて行く。そして、自分の力でな
く、御霊に頼って生きて行く人だ。そして、事が起きた時に、まず、
主のみ思いは、主の御心は・・と、御言葉は何と言っているかと、主
を第一に、祈り、御言葉に照らして考えて行く。

何かあった時に、まず自分が前に出て、思いを巡らし、対処するだ
ろうか、それとも、まず主を呼び、御言葉を求め、御心を求めるだ
ろうか。

・・・・・・・・・・・・・・
突如の事態に、逆巻く波風に心を奪われ、主が飛んでしまう。する
と、すぐに自分が出てきて、何とかしなければとパニックになる。
まず主を呼ぶ練習だ。普段から祈っていよう。その時、主を呼ばな
かった事に気づける。その御霊の気づきが感謝だ。


2014年05月24日(土)

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を 否むことができないからである」Uテモテ2:13



「主の来臨の時、責められるところのないように、あなたがたの霊、
たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召され
た方は真実ですから、きっとその事をして下さいます」。私たちの
霊、たましい、からだが守られるのは、主の真実によると言ってい
る。

又、「主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守
って下さいます」悪い者から守られるのも、主の真実によると。私
たちの信仰深さや、行ないによるのでなく、主が真実であることに
よる。

又、「神は真実で正しい方ですから」罪を赦し、すべての悪からき
よめて下さる。神が真実な方であるから、罪が赦され、きよめられ
る。神の真実による。又、神は真実な方であるから、私たちを耐え
ることができないような、試練には会わせられないと。「神は真実
な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会
わせるようなことはなさいません」。

神は、決して私たちが耐えられない試練を与えられることはない。
これも神の真実のゆえだと。私たちが、どうのこうのでなく、神の
真実のゆえに、神がそうされる。神の真実に、決して嘘はない。
「彼にはご自身を否むことができないからである」。

主の真実のゆえに、必ず、私たちは最後まで守られ、告白する時に
罪は赦され、耐えられない試練はない。自分の思いや力にはよらな
い。何と平安で感謝なことだろう。

・・・・・・・・・・・・
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実」。私たちは弱さのゆえ
に、主に対して不真実、不忠実になってしまう。従えなかったりす
る。しかし、主の真実は変わらない。その不真実を認めて行く時に、
ずっと主の真実にとどまっておれる。そして心に平安と喜びがある。


2014年05月23日(金)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18


苦しい事態に遭遇する時、思い通りにならない状況で、思い煩いや
不満が起きて来る。暗い状況の中で、心も重く、暗くなって、意気
消沈してしまう。又、頑なな心が出て来ると、強情になって、反発
や恨みが出て来る。主が見えなくなってしまい、肉の思いに支配さ
れてしまう。

しかし、主は、「すべての事について感謝しなさい」と言われる。
この状況で、どう感謝するのか、一体どこが感謝なのかと思うが、
御言葉は「すべての事」と言っている。なぜ感謝できるのか。主は
私たちにご計画を持っておられ、災いはなく、その出来事は、平安
と将来と希望のためのもの、又、すべては益とされ、その益も御子
のかたちに変えるように益とされる。その出来事を通して、成長が
与えられる。

雀一羽も父の許しなくして地に落ちない。私たちに起きる出来事は、
主の御手の中だ。「感謝する」ことは主の御心に従うことで、自分
の思いに従うなら、感謝などできない。そして、感謝するという事
は、主の御手を受け入れるという事だ。それは、主に委ねる事であ
り、その時、心が変えられる事を経験する。

不安と恐れ、思い煩いで一杯の心に平安が来る。そして、それは、
主が決して見捨てられない、必ず良くして下さると信じる事の表明
だ。感謝する時、自分が変えられて行く。
-----------
感謝できない状況で感謝する時、最悪の事態の中で主から目を離さ
ないでいられる。マイナス思考の肉の反応から守られ、主の御心へ
と導かれていく。感謝は力だ。


2014年05月22日(木)

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、 もう一人は取税人であった」ルカ18;10

   

パリサイ人は「自分を義人だと自任し、他の人々を見下して」いた
とある。彼は注意深く律法を守っていた。週に2度断食をして、す
べての収入の十分の一を忠実に献げていた。立派な行ないをしてい
た。しかし遊女や取税人を、見下し、軽蔑していた。

幾ら外側、正しい事を行っていても、心の中で、罪ある人を裁き、
赦せないなら、「この人が、義と認められて家に帰りました。パリ
サイ人ではありません」との通りだ。自分を義人だと自任していた
が、主からは義と認められなかった。

役人であり資産家である青年は、主のもとに来て、戒めを「そのよ
うなものはみな、守っております」と言った。「隣人を愛せよ」と
言われ、それは守っていると言ったが、実際は貧しい人に施す事が
できず、主のもとを去ってしまった。

放蕩息子の兄も、「長年、お父さんに仕え、戒めを破った事は一度
もない」と言った。好き放題をし、身を持ち崩して戻った弟に対し
て怒りが湧き、赦せない。怒って家に入ろうともしなかった。外側
正しく、罪を犯さず善行をしている人々は、内側の罪がなかなかわ
からない。外側、善い事をしているので義人だと思ってしまう。

ところがこの取税人もザアカイも自分の罪がよくわかった。ザアカ
イは大喜びで主を迎え、だまし取った物は4倍にして返すと言った。
この取税人も「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈った。そ
して「義と認められて」家に帰った。御霊が罪を教えて下さる。悔
い改めるなら、義とされる。何という恵みだろう。

・・・・・・・・・・・
「罪人」が赦されて、義とされる。赦されて義とされるのは、「罪
人」だ。自称「義人」が、義とされる事はない。罪人ではないから。
御霊に罪を示され、悔い改めることができることは、何という大き
な恵みだろう。赦されて、赦されて、生きて行ける。


2014年05月21日(水)

「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」Tテモテ6:9


「金持ちになりたがる」とは、単にお金だけでなく、地位や名誉へ
の野心、人からの賞賛を欲しがることだ。しかし、お金は特に強い
誘惑がある。お金が老後を保障してくれると錯覚する。お金が夢を
叶えてくれる、幸せと喜びを与えてくれると、勘違いする。

ある人が、幸せはお金で得られると信じていた。裕福であれば、幸
せになれると。そのため資産をより増そうと、様々な投資をし、商
売し、お金儲けの話があれば飛びついた。その結果、大損害を被っ
たり、だまされたり、信頼関係が破綻したり、様々な傷を負うのだ
が止められなかった。それほどお金には強い力があった。主を知っ
た時に心が変えられ、少しづつ解き放たれて行った。

貪欲は、満ち足りるという事が決してない。もっと欲しい〃と欲望
は底無しだ。だからいつまでも渇いている。そして満ち足りるとい
う事が無いので、常に無いものに目が行く。あれが無い、これが無
い・・。一生ずっと不満しか無い状態になる。無いもの、失ったも
のばかりに目が行くので、与えられているものに気づかない。見え
ない。

そうでなく、与えられているものを見て、主に感謝して行けたら、
どんなに人生が変わるだろう。心が平安になり、満ち足りて来る事
を経験する。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける
道」「今、持っているもので満足しなさい・・わたしは決してあな
たを離れず、また、あなたを捨てない」。与えられているものに、
目を向けてみよう。
-------------
明日のための備えは必要だが、今与えられているものを喜び、感謝
して心を満たしていたい。「満ち足りる心を伴う敬虔が大きな利益
を受ける道」の御言葉を信じ、貪欲に気づいていきたい。


2014年05月20日(火)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



この世界の人々にとって、感謝する事ができるのはハピーな事、
ラッキーな事があった時だ。物事が自分の思い通りに行く事が、
感謝の基準だ。受験合格、豊作、家内安全、商売繁盛は感謝でき
るが、受験不合格、不作、病気やけが、倒産やリストラは感謝で
きない。

しかし、主は、私たちには「すべての事について感謝しなさい」
「あふれるばかり感謝しなさい」「感謝の心を持つ人になりなさ
い」「いつでも、すべてのことについて・・感謝しなさい」良い
時、ラッキーな時だけでなく、「いつでも」「すべての事に」
感謝しなさい」と言われている。どうして感謝できるのだろうか。

主に、行き当たりばったりは、決して無い。いい加減な事もあり
得ない。だとすれば、すべての事にご計画があり、目的があり、
意味がある。起こる出来事は偶然に起きているのではない。サタ
ンにわけがわからないまま、ほんろうされているのではない。
運命ではない。主が計画を持って与えて下さっている出来事だ。

「あなたが私の内臓を造り、母の胎の内で組み立てられた」「地
の深い所で仕組まれた」「あなたの目は胎児の私を見られ」胎児
の時に、主が私を組み立てられた。何と恐ろしいほど奇しく深淵
な事だろう。そうであれば、目の前の問題も、ご計画を持って送
られて来ている。

マイナスに見える事態も、すべては益とされ、私がキリストの似
姿に変えられるため、主の栄光が現れるためだ。そうであるから、
目の前の事を感謝することができる。
---------------
キリストに似た者にされるために、すべてが益になるとの視点で
見るなら今日の一日は全く変わる。突然の逆境もトラブルも前か
ら来るものは主からのもの。感謝しよう。




2014年05月19日(月)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36


アブラムは、主に「天を見上げよ、星を数えられるなら数えよ」との星を見せられ、「あなたの子孫はこのようになる」との約束を与えられ、信じた。しかし、その約束はなかなか実現しなかった。当時、夫婦に子供が無い場合は、召使いに子供を産ませ、その子を跡継ぎにすることが普通であった。

それで、幾ら待っても子供ができない中、この慣習にならい、サラが夫に提案した。主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を持つようにと。アブラムは自分の提案でなく、サラの申し出である事から女奴隷ハガルの所へ入った。しかし、重大な事は、この時アブラハムは祈らず、主の御心を求めなかった事だ。自分の思いで動いてしまった。

肉は一見妥当な良い考えに思えるが、必ず問題を引き起こす。妊娠したハガルは、子供のないサラを見下すようになった。そしてハガ
ルはイシマエルを産んだ。イシマエルはアラブ人の先祖となり、現
在のパレスチナ紛争に至っている。アブラハムが肉の判断で、良かれと取った肉の行動は後々まで大トラブルとなった。

アブラハムが100歳の時に、人間の力が完全に絶えた時に、イサク与えられた。今、あなたの状況はどうだろう。神の約束を待てないで、自分で動くなら、イシマエルを産み出してしまう。自分の思い動かず、神の約束を待ち望んでいよう。
-------------
見える所に常に迷わされる。信仰生活いつも御約束を信じるか目にえる状況かと、選択させられる。不安です、迷っていますと長く祈中でも主と共に告げながら、信じる意思を向けていこう。


2014年05月18日(日)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5

 

人は放っておくと、だいたい悲観的な方に傾いて行くと言われてい
る。思い煩いが、絶えず起きて来るだろうか。自分で何とかしよう
とすると、あがき、もがき、ますます暗闇に落ち込んでしまう。ふ
つふつと湧き上がる不安がどうにもならない。

ある人が悩みでどうにもならず、苦しくてたまらなかった。余りに
も苦しいので「主よ、委ねます」と祈るが、気がつくと、再びその
問題を悶々と考えている。又、「委ねます」と祈るが、しばらくす
ると、又、どうすればよいのかと考え込んでいる。胃が痛く、胸も
苦しい。

そんな事を悶々と繰り返していて、「委ねます」は口先だけで、自
分は決して委ねていないと知る。とうとう自分は委ねる事が出来な
いという事がわかった。そこで、「委ねる事ができません、助けて
下さい」と祈った。「委ねます」の祈りは答えられなかったが、真
に正直なその祈りは答えられた。

主を信じないで、自分で何とかしようとしている不信仰だと気づか
された。悔い改めた時に、心に平安が来た。「あなたの道を主にゆ
だねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」の言葉の通りに、
主が成し遂げて下さると、心素直に思えた。不思議だった。

その時、胃の痛みが取れて、すっきりした。胸の苦しさも消えた。
そしてその後、難題の糸口が見えて来た。主が働いて下さったこと
に心から感謝した。

・・・・・・・・・・・・
頭では、委ねることが大切で、委ねなければならないと、わかるの
だが、自我はしっかり握りしめて、放さない。委ねているつもりだ
が、思い煩いと重苦しい心は消えない。委ねられないと知る事から
祝福が始まる。そのまま正直に主に祈って行こう。


2014年05月17日(土)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠 しておきました。さあ、どうぞ、これがあなたの物です」マタイ2 5:25



信仰生活が辛くて、苦しいだろうか。いつも要求されて、追い立て
られているように感じるだろうか。喜びなどほど遠く、クリスチャ
ン生活が重い。一タラントを預かり、地に埋めたしもべが出て来る
が、その主人像が「あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさな
い所から集めるひどい方」そして「恐い」、ひどい、恐い主人だっ
た。

こんなひどい主人のために、何かをしたいなどとは思わない。失敗
でもして、減らしでもしたら、どんなひどい目に会うか。このまま
返せば文句は無いだろう。どうか自分に、関わらないで欲しいとの
態度だ。

しかし、主人は、しもべをこよなく愛し、大きな信頼をもって一タ
ラントを委ねてくれている事が全く飛んでいる。しもべは失敗する
かも知れない。しかし、主人は、その失敗のリスクをも、自身が負
った上で、預けてくれている、その心がわからない。

私たちも「〜ねばならない」になると、重荷がどっとすべて自分の
肩にかかり、信仰生活が辛いばかりになる。要求されるばかりで、
担いきれないと感じる。あえぎながらの生活だ。そうなると、主が
過酷な主人になる。

しかし、断じてそのような主人ではない。そのような大きな信頼を
もって、預けてくれた主人を、喜ばせたい。主人の愛と信頼に応え
たい。それが商売の動機だ。そして単に成功失敗の成果でなく、
「忠実」を受け止めてくれる主人だ。それを知っているから、自由
に生き生きと、喜びもって持てるものを生かして思う存分働けた。

・・・・・・・・・・・・・・
主人の心は、1タラントのしもべへの信頼と愛であった。しもべは
神観がおかしかったので、姿勢が間違っていた。蒔かない所から刈
り取るひどい方でなく、惜しみなく独り子まで与えて下さった方だ。
主の愛を覚え、忠実に仕えて行く時、喜びが与えられる。


2014年05月16日(金)

「ダビデは非常に悩んだ。民がみな、自分たちの息子、娘たちのことで心を悩まし、ダビデを石で打ち殺そうと言い出したからである」Tサムエル30:6

ダビデはサウルに追われて、こともあろうにペリシテの地に逃れた。そこで当然のごとく問題に巻き込まれて行く。ペリシテがイスラエルと戦う時に、忠誠を示すために、何と同胞と戦わねばならぬ窮地に陥る。戦いに出て行くが、しかし神の関与により、ダビデは引き返させられた。

そこで戻ると、何と町がアマレクに攻撃され、焼かれ、大人も子供も皆連れ去られ、町は廃墟になっていた。ダビデも部下たちも大声で泣き、ついに泣く力も無くなった。彼らは自分の妻や子供たちが略奪された事で、余りにも衝撃が大きく、ダビデのせいであり、ダビデを殺そうと言い出した。サウルから逃げてここに来たが、今、部下達に殺されそうになっている。

その時にダビデはどうしたのか。「しかしダビデは彼の神、主によって奮い立った」。ダビデは祈った。「略奪隊を追うべきですか」主は「追え。必ず追いつける、救い出せる」と言われた。そこで追撃を開始するや、途上でアマレクの奴隷に会い、その奴隷により、彼らの居場所を突き止めた。

すべて神の計らいであった。敵を討ち、妻や子供、奪われた物全部を取り戻した。奪われた物は、何一つ失わなかった。非常に悩んだ時に、ダビデは彼の神、主を見上げた。祈り、御声を聞いて従った。悩みの時、窮地の時は、「自分」によりでなく、「私の神、主」により奮い立たせていだだこう。
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恐れや不安な時、自分の心の声だけを聞いて行くと、駄目だ、駄目だと更に迷い込む。神様に祈り尋ね、主にあって積極的で前向きな力を受けとろう。


2014年05月15日(木)

「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからだ。だれが彼に『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか」Uサムエル16:10 


人は、自らの罪を認め、悔い改める事は、なかなか出来ない。「ごめんなさい」が、一番言いたくない言葉だ。御霊の助けがなければできない。私たちは自分が誤っていると思わないし、認めない。自分の行動を肯定して生きている。間違いを認める事は非常に痛いので、言い訳をし自己正当化する。

又、あいまいにして、神にも、自分にも向き合わない。ダビデが息子の謀反に会い、逃亡する時に、シムイがダビデに石を投げつけて呪った。「血まみれの男、よこしまな者・・今、お前は災いに会うのだ」と。家来たちがシムイに制裁をと言った時、ダビデは、その非難は、罪を犯した自分へのものであるから呪わせよと命じた。

いっさいを主に委ねて「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださる」と言った。ダビデは自分の罪をはっきりと認めた。そして、罪の結果である刈り取りを受け入れている。蒔いたものは、必ず刈り取る。これに例外は無い。私たちは自分の蒔いたものを刈り取る。罪は完全に赦されるが、罪の結果である刈り取りはして行く事になる。非常に痛く辛い。

しかし、主の刈り取りに従って行く事こそ、祝福の道だ。ダビデは悔い改めたので、神との関係が正しかった。それゆえ平安であった。神との関係が正しかったからこそ、自分への非難や攻撃も受け止める事ができた。何よりも神と自分の関係が第一だ。その時、どんな厳しい状況の中でも歩んで行ける。
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罪を犯しても、神様の前に悔い改めれば赦されると、その約束をしっかりと信じてダビデのように神様との関係を最優先して歩もう。赦された恵みと平安があって初めて、次の一歩が踏み出せる。


2014年05月14日(水)

「しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です」へブル5:14



私たちにとって、自分の願いが叶えられる事は、嬉しい事であり心地よい。いつも何もかもが願い通りになるなら、どんなに幸せだろう。苦しい事態は出来れば無い方が良い。しんどい事は避けたいし、逃げたい、好きではない。自分の思い通りの事柄は大歓迎で、思い通りでない事柄はどうしても受け入れ難い。

しかし、その思い通りでない事態が、私たちを成長させてくれる。それにより、練られ、鍛えられ、きよめられる。振り返る時、どうにもできない状況の中で、心の底から神を叫び求めたのではないか。又、そこでよく自分を探り、御心を求め、考える。そして神を求め、拠りすがる事によって一歩〃成長して来た。

言えることは、もしあなたが成長したいなら、痛い事、苦しい事を逃げるな、避けるなという事だ。それによって、良い物と悪い物を、見分ける感覚が訓練される。苦しみの中で、御霊からのもの、悪魔からの誘惑、肉から湧き上がる思い、これらのものがクリアにされて行く。今までわからなかったものがはっきりと見えて来る。

頭の理解でなく、「経験によって」とある。経験が必要で、経験を通してだ。経験が積み重ねられる中で、識別力が培われる。苦しみを通りながら、見分ける感覚が訓練されて、研がれて行く。もし、霊的に成長したいなら、どうしても訓練を受ける必要がある。今目の前のその訓練は大きな祝福だ。
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信じているはずの御言葉が飛んでしまい、肉の強い思いと不信仰で、辛いだけの試練もあるが、失敗からくり返し学びたい。試練を避けず、主の御言葉をしっかり食べよう、主が助けてくださる。


2014年05月13日(火)

「イエスは、人々が自分を王とするために、むりやり連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた」ヨハネ6:15


     
主は、五つのパンと2匹の魚で、大勢の人々を満腹させるという驚くべき奇跡をされた。それで群衆は、主を王にかつぎ上げようとした。しかし主は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したから」だと、群衆が自分を追いかけるのは、パンのゆえだと言われた。

主の奇跡に、霊的な恵みを見て、この方こそ主キリストだと信じたからでなく、求めていたのはパンであって、更なるパンで満たされたい。自分の願望を満たすために、つき従っていると。満腹とは、自分の欲望が満たされる事であって、自己実現だ。肉の喜び、肉の満足であり、そこに主や、恵みを見る事はない。

主は祈りに答えて下さる。求めよと言われる。しかし気をつけなければ、私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望充足だけに向かう。欲望を満たす手段となってしまう。そして、願望が叶えられず、思い通りにならないと、主のもとを離れ去る。利用価値が無いからだ。パンに満腹した群衆はそうだった。主は、そんな私たちをあわれみ、正しく導くために、時に、思い通りでない答えを与えられる。

よく自分自身を吟味させ、動機を探らせ、省みさせて下さる。「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で心を深く探られ、取り扱われ、御心に適った者へと変えられ、成長させて下さる。思い通りにならない状況は実は大きな恵みだ。必ず成長へと導かれる。
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祈りの答えは想像をはるかに超えた最善のものなのに、目先のあれこれをと祈ってしまう。心の裡を祈りながらも、自分の願いから主が与えて下さろうとするものを期待して待てるよう、心明け渡して祈り続けたい。


2014年05月12日(月)

「このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて・・競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1



競走をする時には、出来る限り身軽にする。荷物を持って競争するなど考えられない。足もとに、ずっしり重い荷がまとわりつけば、どうだろう。足にからみついて前にすら進めない。競争どころではない。走ろうとすると、からまりついて転んでしまう。執拗にまとわりついて、前進を阻む罪は何だろう。

金持ちの青年は、主のもとに来ながら、まとわりつく富の誘惑を捨てられないで、富でなく主を捨ててしまった。結局、頼っていたのは富であった。最高権力の座にいたダビデには、強い異性への誘惑が執拗にまとわりついていた。それをきっぱり捨てなかったので、何でも思いのままになる地位にいて、姦淫を犯してしまった。

罪をきっぱり捨てなければ、逆に罪に飲み込まれてしまう。又、思い煩いもまとわりついて前進を阻む。常に襲い来る誘惑は何だろう。きっぱり捨て去る事、委ねる事、悔い改める事が大切だ。でなければ、常にまとわりついて前進不可能だ。

様々な重荷があるだろうか。それを重荷としては「捨て」、又、担う必要のあるものは、主からのくびきとして、受け取り直すことだ。その時、主が負って下さる。辛い苦しい重荷ではなく、主のくびきであり、負いやすくて軽い。負うなら平安で心地良いとある。あなたに、今、からみつくものは何だろう。
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優先順位は何だろう。目的に到達するために無くても良いものや、気にしなくてもよい事に気をとられぐずぐずしてしまう。ひとつひとつ主にお渡し、身軽になって前進したい。


2014年05月11日(日)

「今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとして いるのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼 のいけにえをささげたのです」Tサムエル13:12 


サムエルはサウルに、自分がいけにえを献げるので、自分が着くま
で、7日間待つようにと命じた。そして、その7日間が過ぎたが、
サムエルが来ない。民の状況はと言えば、サウルから離れ去ろうと
している。それを見て焦ったサウルは、自分で全焼のいけにえを献
げた。

そもそも、いけにえは祭司しか献げることができないものだ。そこ
にサムエルが到着した。サウルが主の命令を守らなかった事を告げ
た。又、アマレクを打ちすべてのものを聖絶せよ、と命令を受けた
時も、最も良いものを惜しみ、どうでもよいものだけを聖絶した。
そして、民が惜しんだのだと、民のせいにした。

サウルのこれらの問題は何なのか。いけにえを献げる献げない、聖
絶するしない、外側の行動の問題以前に、御言葉にあるように「あ
なたが主のことばを退けた」「聞き従うことは、いけにえにまさ
り」彼の態度が、主に聞き従わないということだった。ここが問題
だった。

私たちはどうだろう。神はこう言うが、この状況ではこっちの方が
良い、神はそう言うが、しかし・・と、自分の思いが強く、自分の思
いのほうで行動するだろうか。大切な事は、どんな善行をするかで
なく、主の御声を聞いて従うかどうかだ。

今もし、御声をなおざりにして、自分の思いで進んでいるなら、立
ち止まろう。御声に耳を傾け、その示しに従おう。それは主に喜ば
れ、豊かな祝福はそこから来る。

・・・・・・・・・・・・・
自分の思いで、これは良い!と行なってしまって、失敗する。肉の
目には良く見える。これがベスト!と思えてしまう。しかし、主の
み思いが一番大事だ。肉が御霊の実を結ぶ事はない。御声に耳を澄
まそう。そして示された事に従おう。


2014年05月10日(土)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のな さること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7: 14 

                     
         
人生には、順境があり、逆境がある。順境だけの人生、逆境だけの
人生というのはない。順境も逆境も、神のなさること、とある。こ
の世の宗教は順境だけを求める。家内安全、商売繁盛、無病息災・・、
むしろ逆境が来ないための信心だ。

主は、「祈れ」「願いを求めよ」と言われる。求めるのは良いこと
だ。しかし、自分の利得だけを願っていたらどうだろう。あれが、
これが欲しい、ただそれだけなら、幼な子のままでストップだ。子
供から大人へと成長して行く時に「神の御心」を求めるようになる。

あれをくれ、こうしてくれ、だけでなく、発想が自分から主に転じ、
主はどう思われるのか、主は何を喜ばれるのか、になる。主は、主
と共に労する人々を求めておられる。成長して行く時に、自分の願
いでなく、御心のようにと明け渡して行く。順境も逆境も、神のな
さることであれば、無意味なものは何一つ無い。逆境も意味があり、
目的がある。

そして、「後の事をわからせないため」とあり、主は、先の事をふ
せておられる。今後、病気になるとか、この進路に進むとか、将来
の事は告げられない。占いではない。私たちに先の事はいっさいわ
からない。それは主に信頼させるためだ。先が見えたなら信仰は
必要ない。見えない中で、信頼するのが信仰だ。

逆境時には、苦しみを早く逃れたい思いで一杯になる。その背後に
ある主の思いに、主のなさる事に、なかなか思いが向かない。今、
もし逆境にあれば、神がなさった事であり、この中での神のみ思い
は何だろう、何を教えて下さりたいのだろう、という事に思いを向
けてみよう。

・・・・・・・・・・・・・
神は善いお方、最善をして下さるお方、愛なるお方に立つ時、逆境
は厳しいが、天を見上げて行ける。何かを教えようとして下さって
いる。時間をかけながらも、求めて行く中で、腑に落ちる所へと導
かれる。その時、心は平安でいっぱいになる。


2014年05月09日(金)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40 



「向こう岸へ渡ろう」との主の言葉に従って、舟に乗ったら、弟子たちは大嵐に会った。舟は波をかぶり、水で一杯で、このままなら転覆だ。「溺れて死にそう」なほどの恐怖であった。しかし主は平然と熟睡中だ。何をどうすればよいのか、弟子たちは動揺しパニックになった。

そんな弟子たちに、主は「信仰がないのは、どうしたことです」と言われた。ここでの問題は波や風でなく、「不信仰」だった。主が同船しておられるのだから、どう考えても舟が転覆するはずがない。沈む事の方が不可能だ。しかし、弟子たちには、主は飛んでしまっていた。

私たちの姿だろうか。不意の、想定外の事態に襲われた時に、頭が真っ白になって、主も、御言葉も飛んで、もう恐れと不安しかない。混乱状態だ。しかし、主は大嵐の中で、熟睡しておられた。「向こう岸へ渡る」事が御心であり、その御言葉は100%成就する。天地がひっくり返っても、何がどうなろうと、必ず向こう岸へ渡れるのだ。だから、主は平安と安堵のまっただ中におられた。

不安と恐れが来た時、主が同船しておられる事を覚えよう。「信仰がないのは、どうしたことです」と言われ、「嵐がひどかったね」とは言われなかった。今、目の前の困難は、状況の問題でなく、自分の不信仰が問題だろうか。主のもとへ行こう。信仰を与えて下さる。
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目の前に不安要素はあっても主が「渡ろう」と言われるなら必ず約束の地に行ける。風や波のたびにくり返し不信仰を示されるが、恐れて退く者にならず主と共に向こう岸に立とう。


2014年05月08日(木)

「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」使徒20:24



ヘロデ王は教会を迫害し、ヤコブを殺害した。それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。ペテロを捕らえ、処刑しようとした。しかしペテロは、御使いによって牢から救い出された。奇跡が起きた。「教会は、彼のために神に熱心に祈り続けていた」の答えだった。

教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じく熱心に祈った。だがヤコブは処刑され、ペテロは救い出された。「なぜ?」と思う。これはヤコブとペテロそれぞれに対する、神のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教により神の栄光を現わし、ペテロは更に福音宣教の任務が与えられており、それによって、神の栄光を現わす事となる。

ヘブル11章にも「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」ある人々は、奇跡に次ぐ奇跡により進軍して行った。そして同時にある人々は「牢に入れられ、石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しく、苦しめられ」と殉教して行った。

結果的には全く違うどちらもが「信仰によって」歩んだ。パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめられること」を求めた。一人〃に備えられた神のご計画が全く違う。自分に与えられた人生、御心を全うする事が、一番の喜びの道だ。
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神様のご計画に、なぜ?どうしてと人間的な意味づけを考えるより、神様が関わって下さっている自分だけの信仰生活「生きるにも死ぬにも」と、少しでも主の御心の人生を歩んで行きたい。


2014年05月07日(水)

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました」詩篇6:6




ダビデは、嘆きに嘆いている。涙は止まらず、衰え、弱っていると。疲れ果て、弱り果てた姿をそのまま出している。クリスチャンとはいつも笑顔で、ニコニコしていなければならないと思っていたら、ほど遠い姿だ。しかし、ここではダビデは率直に、素直に、自分の感情や思いを言い表している。何の問題も無い振りをしてはいない。大丈夫な振りもしていない。

他の箇所でも、ダビデは焦り、つぶやき、思い煩い、心配、不安、不満、悲しみ、苦しみ、すべてを隠さずに、気持ちを押し込めずに、無い振りをせずに、率直に、主に告げている。その後「主は私の泣く声を聞かれた」「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられた」と確信に変わっている。ダビデは、気持ちの何もかもを打ち明け、吐き出し、告げて、訴えている。そこに、主への深い信頼があるからだ。

信頼していない相手に、まず気持ちを打ち明けることはない。受け入れられ、受け止められると信じるから、訴え、告げ、願って行く。心の底の思いを、誰にも言えない思いを、主に告げて行く時、重い、苦しい、辛い心が、平安に変えられて行く。状況は変わらずとも、心が平安になる。そして、主との交わりが深められ、信頼関係がますます深められて行く。今、心が重く、ふさぎ、苦しいなら、その心の内を主にことごとく告げよう。心が平安にされる不思議を経験して行く。
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心の奥の深いところを知っていて下さるのは主だけだ。主に告げて行く時、本当の自分の姿も示され、主の御心に導かれて行く。嬉しい時、苦しい時、ありのままの姿で主と交わり続けよう。


2014年05月05日(月)

「・・『あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わせることがありましょう』イエスはその話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:36


「もうだめだ」「もう何もかも終わりだ」絶体絶命の状況を、私たちも経験するだろうか。ヤイロは危篤状態にある娘を、何とか助けていただきたくて、主のもとへ来て、必死の思いで懇願した。その願いに答えて、主が足を運んで下さる事になった。どんなに救われた思いになった事だろう。しかし、その途上に邪魔が入った。

突然長血の女性が現われて、主は彼女に対応された。ヤイロはどんなに焦った事だろう。一刻を争うのに、時間がとられて、どんなにやきもきした事だろう。もう瀬戸際だ。主が、目の前を女性を癒され、御声をかけておられた時に、使いが来て、娘が亡くなったと告げた。もう手遅れだ。今や先生に来てもらう必要は無くなったと。

その時、主は間髪を入れず「恐れないで、ただ信じていなさい」と御声をかけられた。手遅れではない、大丈夫だと。すべての「時」は主の御手の内にあり、完全な支配の中にある。「時」も「生死」も支配しておられるのは主だ。見えるところでなく「恐れるな」「ただ信ぜよ」との御言葉に立つ時、信じた通りになって行く。

そして、受け入れるべき言葉と、聞き流すべき言葉がある。「お嬢さんは亡くなった。もう先生は必要無い」の不信仰な言葉は、聞き流すべきだ。すべての言葉を、受け入れてはならない。肉の言葉、サタンの言葉、聞き流すべき言葉は、受け入れず、流そう。そして主の言葉を、心に握りしめていよう。
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サタンは私たちを弱め、力ない信仰者にして行く。「もうだめだ」を、でも主にあっては「できる」に変換して行こう。主の御言葉を信じ信仰に立っていよう。


2014年05月04日(日)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているな ら、そういう人は多くの実を結びます」ヨハネ15:5



私たちの悩みは、対人関係に関する事が多い。職場でも、仕事自体
より対人関係で悩むと言われている。しかし、その人間関係の中で、
私たちは砕かれ、練られ、成長して行く。御霊の実を結んで行く。

人から批判されたり、悪口を言われたりする。それは思い当たる所
があったり、又、理不尽だったりする。人から面と向かって非を指
摘された時に、カチンと来るだろうか。どう言い返そうかと、怒り
でいっぱいになるだろうか。

しかし、対人関係において、反応する自分に、自分の真の姿が照ら
し出される。人里離れた山の中で、一人暮らしをしていて、自分は
愛深く、寛容で、親切で、忍耐があり、自制があり・・と思うのは簡
単だ。誰とも摩擦がないし、関わりを持たなくてよい。ところが目
の前に人が来た時に、試される。本当の自分があらわになる。

自分に愛がないこと、寛容もなく、忍耐も、自制もないことを知る。
相手から言われた言葉にカチンと来て、ムカッとするなら、愛が無
い。しかし、目の前に、相手が送られなければわからない。何もな
い時、自分は愛深いと信じている。しかし、目の前の苦手な難しい
相手が、自分を成長させ、成熟させてくれ、御霊の実を結ばせてく
れる。

嫌な相手を通して、いかに自分に愛が無いかを教えられる。まずそ
れを認める事から祝福が始まる。愛が無いと認める者にのみ、主が
愛を与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
難しい相手を通して、自分の本当の姿を照らし出される。いかに愛
が無いかを知る。しかし主の愛は変わらず、愛の無い自分を愛して
いて下さり、主からの愛を与えて下さる。「御霊の実は、愛・・」御
霊の実を結んで行く。


2014年05月03日(土)

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6 :8 


私たちは弱さのゆえに、罪を犯してしまう。しかし神は主の十字架
のゆえに、完全に罪を赦して下さり、二度と思い出す事なく無罪放
免にして下さる。だが、だからと言って、罪を犯してはならない。
決して恵みを放縦に変えてはならない。どうせ赦してもらえると、
安易に罪を犯してはいけない。

警察沙汰を起こした子供は、施設で、厳しい矯正訓練を受ける。そ
の親は、迷惑をかけた人々に謝罪し、破損には弁償金を支払い、あ
らゆる償いをして回る。傷害事件を起こした時、主の御前に悔い改
めるなら、完全に主は赦して下さる、しかし、法律上の刑罰を免れ
る事はできない。法に即して罰を受ける。

又、憎しみや妬み、敵対心で人を傷つけてしまったなら、悔い改め
により、主は赦して下さる。しかし、一度壊れてしまった信頼関係
を、再度築き上げるのは、どんなに努力が要る事だろう。罪のもた
らす傷や害は、私たちが思っている以上に大きい。罪の結果は自分
だけにとどまらず、家族や周囲をも巻き込み、多大の傷を負わせて
しまう。

主はあわれみ深く、主のあわれみは尽きない。だからこそ、決して
罪を軽く見てはならないし、もてあそんではならない。罪に飲み込
まれてしまう。サタンは狡猾で、あなたの弱点を的確に知っている。
誘惑して来る。主に頼ろう。肉ではなく、御霊の声のほうに耳を傾
け、その導きに従おう。御霊は導いて下さる。その時、御霊の実を
刈り取る。御霊の実を結んで行く。

・・・・・・・・・・・・
日々の主との地道な交わりを重ね、主との個人的関係を深めて行く
ことが大切だ。主との親しい交わりによって、罪から守られる。御
霊に従い、御霊のために蒔いて行けるよう、いつも祈っていよう。


2014年05月02日(金)

「幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は・・あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした」詩編40:4



いけにえが、表面的な、形だけのものに、なってしまう事がある。牛をきちんと献げたのだから良し、OK、すべき事はしたの態度だ。こちらサイドでは、すべき事をしたのだから、祈りが答えられてしかるべき、答えられないのはおかしい、神の方が間違っている、という事にになってしまう。

私達もどうだろう。一つ間違うと、献げるべきものを献げ、するべき事をしたのだから、神は私の願いを聞くべき、願いが聞かれないのは納得が行かない、幾ら献げても聞いてくれない、という態度になってしまう。神との関係が商売上の取引関係だ。しかし、決してそうではない。神とは取引でなく信頼関係だ。神にすべてをお委ねして、神が良いお方であり、最善をして下さる事を、どこまでも信じて行く関係だ。そこには信頼がある。

そして、神が喜ばれるのは、開かれた耳、聞こうとする耳だ。御心を聞いて従おうとする心だ。礼拝に出てはいるが、身体だけ、表向きの形だけ、御言葉を物理的に聞いているが、決して心の耳では聞いていない。頭を素通りしてしまい、又、自分の都合の良い言葉だけ聞いているだろうか。少しでも自我に触れて来ようものなら、即、心を閉じてしまう。

もし、こういう状態なら、耳がふさがっている。神にありのまま、「聞く耳がありません、聞けるよう助けて下さい」と向かおう。神こそが、耳を開いて下さるお方だ。正直に自分の状態を認めて、神に向かう時、必ず答えて下さり、耳を開いて下さる。
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信仰生活が習慣化されてしまい神様との関係、神様の前の自分を見ていないと自己満足で信仰生活が欺かれてしまう。神様の前だけはいつも素直に幼子のような態度で慕い求めていきたい。


2014年05月01日(木)

「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」ローマ7:25



ある人が、若くして神学校を卒業し、地方の教会へ赴任した。主のためにと熱意に燃えていた。そこは人数的には少なく、ほとんどが年配の人々だった。若いながらも自分なりに懸命に労した。一生懸命に説教を準備し、伝道もし、人々に対応した。だが、何かがすれ違い、空回りし、うまく行かなかった。ギクシャクし、やればやるほど裏目に出た。更に良い説教のために力を入れた。

しかし数人が出て行ってしまった。自分は受け入れられていないのではないか。辛く苦しい中、更に頑張った。しかしどれだけやっても何かがうまく行かず、もう出来る事は何も無く、燃え尽きてしまった。どん底だった。しかし、その時に不思議を経験した。初めて心に安らぎが来た。頑張る事でなく、頑張りを止めた時に、心に休みが来た。自分の力で、肉で、頑張れば、頑張るほど落ち込んで行く。自分はダメだ、自分は足らないと思い、ますます律法の泥沼にはまり込む。

パウロも律法に歩み、ロマ7章で、「私は、本当にみじめな人間です」と叫んだ。自分は「死のからだ」であり「誰が救い出してくれるのか」と。しかしそこで一転「ただ神に感謝します」に変わっている。自分がするのでなく、御霊が成し遂げて下さる。自分が頑張るのでなく、自分を明け渡し、主を信頼して行く時に、御霊に導かれ、平安と喜びの中で労して行ける。
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主と結ばれて、神のために実を結ぶようになるとある。肉は頑張っても頑張っても焦り安心できないが主はちがう。主に信頼し何に焦らされているのか、少し立ち止ってみよう。