2014年06月30日(月)

「しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます」マタイ13:21 


 
「御言葉を聞くと、すぐに喜んで受ける」そして、従おうとするが
続かないで、つまずいてしまうとある。今の私たちには、信仰ゆえ
に、笑われたり、のけ者にされる事はあるかも知れないが、初代教
会のように、即、投獄や命にかかわるというような迫害はない。し
かし、御言葉に従って行く上の困難は経験する。

「家族や周囲の人々を愛して行きたい」「熱心に仕事をして行きた
い」「嘘はつかないでいたい」「怠惰な生活を止めたい」「短気な
ので、自制して行きたい」・・様々な決心をして、信仰生活をして
行く。しかし、薄い土の下に、強固な岩である自我がある。岩にさ
えぎられ、根が下へ張って行けない。

自我が邪魔をして、御言葉に従って行く事が出来ない。つまずいて
しまうとは、行なう事は無理と、主を信頼して実行する事を止めて
しまうことだ。困難がある時に、途中でストップしてしまう。自我
の方が勝ってしまう。岩にぶち当たって、根が、根差す事ができず
に枯れてしまう。

そうではなく「主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、
善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられる」ことが主
の御心だ。従う事を止めるのでなく、「出来ません。助けて下さい」
と、主に拠り頼んで行く時、御霊の助けがあり、自我が砕かれなが
ら「善行のうちに実を結ぶ」者とされる。
---------------
御言葉に従おうとすると「やはり駄目だ」との声が聞こえる。主が
取り成して下さるにもかかわらず、自我や状況が大きく見えてしま
う時は、あきらめず祈ろう。前進を阻む自我にぶつかれば悔い改め
ればいい。主と共に、実を結ぶための歩みを続けよう。



2014年06月29日(日)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません」ガラテヤ5:16  


御言葉には、様々な戒めがある。「偽ってはならない」「妬むな」
「愛しなさい」「赦しなさい」・・。戒めを守らねばならないと、頑
張るが、出来ないので、信仰生活が苦しくてたまらない。「愛さね
ばならない」「赦さねばならない」「祈らねばならない」となり、
「〜しなければならない」「〜してはだめ」で、がんじがらめだ。

辛い、しんどいだけの生活になってしまう。油の切れた機械のよう
だ。信仰を持ったばかりに、きしんで、辛い、疲れる人生になる。
これは御霊によらずに、自分の力で行なっているからだ。ガソリン
の無い車を自分で、押しているようだ。

「御霊によって歩みなさい」とあるように、御霊に導かれると全く
変わる。「〜ねばならない」でなく「〜たい」「〜しよう」に変わ
り、「喜ばなくてはならない」でなく、自然に御霊の喜びが出て来
る。主に受け入れられるために、愛されるために、あの事、この事
をするのではなく、すでに受け入れられているから、愛されている
から、こうしたい、ああしたい、に変わる。

この転換は御霊が与えて下さる。歩みが辛いなら、更なる努力や頑
張りが必要なのではない。頑張り過ぎて疲れ果てている。「自分
が」「自分が」と、頑張っていて、御霊を締め出してしまっている。
自分を明け渡して、御霊の助けを求めよう。そうすれば油を差した
機械、ガソリン満タンの車のように、潤ってスムーズに御霊に導か
れて行く。

・・・・・・・・・・・
自分の力で歩む時、感謝や喜びでなく、不満が噴出する。心に潤い
が無く、平安が無い。立ち止まって、主を見上げ、あるがままの心
の現状を主に祈ろう。委ねて行く時、自分が変えられる。御霊に導
かれる時に、心に御霊の喜びと平安が来る。


2014年06月28日(土)

「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網が破れ そうになった」ルカ5:6 


ペテロは、主から魚が全くいそうにない状況で、漁をするように言
われた。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と。
朝に魚はいない。そして、その前夜はどれだけ頑張っても一匹も獲
れなかった。怠けていたのでなく、懸命に働いた。しかし収穫はな
かった。

ましてや、こんな朝になどいるはずもない。「わたしたちは、夜通
し働きましたが、何もとれませんでした」、心はがっかりし、期待
感も失せ、ぐったり疲労こんぱいだ。しかし、主はもう一度沖へ漕
ぎ出して、網をおろせと言われる。

夜ですら魚がいないのに、朝にいるはずなどない、しかし、ペテロ
は「でも、おことおばどおり、網をおろしてみましょう」と、状況
的には、何の期待も持てない中、網をおろした。すると、驚いた事
に大漁であった。

「でも、おことばどおり」、御言葉が、自分の考えや思いと合わな
い時どうだろう。納得できる箇所は、OKだが、自分の思いと合わ
ないなら飛ばしたり、捨ててしまっていないだろうか。無意識でそ
うしていて気づかないかも知れない。「でも、おことばどおり」が
大切だ。

主が「網をおろして魚をとれ」と言われたなら、必ずそこに魚が備
えられている。失意の中で、御声に従った時に、大漁を見た。信じ
て網をおろし従おう。
主がまことの神であることを見て、ペテロは高慢で不信仰な自分に
「主よ。私のような者から離れてくださ。私は罪深い人間ですか
ら」と言った。しかし主は「これから後、あなたは人間をとるよう
になる」と言われた。そんなペテロこそがふさわしいと。

・・・・・・・・・・・
「でも、おことばどおり」、自分の思いと違っても、示された、目
の前の御言葉に従ってみよう。理性では理解できなくても、御声に
従ってみよう。その時、主は魚も備えておられる。信じて導きに従
い、一歩踏み出そう。


2014年06月27日(金)

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもや みの中にとどまることのないためです」ヨハネ12:46



光は、私たちの心の中を照らし出す。その時、心の中には、真っ暗
な闇があることがわかる。闇の中で、闇は、闇であることがわから
ない。光があって初めて、闇が認識できる。誰にも言えない心の内
にある悩み、人には絶対に知られたくない事柄、心の中の罪、妬み
や憎しみ、触れられたくない過去・・それらを人に知られなくないの
で、隠すし、自分自身も見たくない。

見たくないので、目を閉じている、そのため、普段は見えない。し
かし、それらは何かの時に噴出し、爆発する。心に闇があるなら、
喜びをもって生きることができない。普段、何かの度に心がザラつ
き、見え隠れしているのだが、気に留めないので気づかないかも知
れない。

主はその闇を示し、取り扱い、心を新たにして下さる。触れたくな
い、知られたくない事柄にはそこに痛みがある。それが光に照らさ
れると苦痛を伴う。自分の醜い、汚れだ。

ある人は、親友がほめられたり、成果を上げた時に、何か心にザラ
ッとするものを感じていた。しかし、親友であり、普段仲良くして
いて、気づかなかった。ある時、相手が大変賞賛された時に、心に
はっきり感じ、その日主の御前に祈った。

御霊に心を照らし出された時、相手は実はライバルで、競争相手で
あった事、最初から妬んでいたが、それをプライドが決して認めた
くなかったこと・・がわかった。主に心から悔い改め、赦されて、心
がすっきりし、すっかり平安にされた。喜びが来た。その光は、同
時に暖かく包み、いやしてくれる。

・・・・・・・・・・・
光があるので、自らの罪がわかる。罪がわかることは、光がある
証拠で、感謝なことだ。闇の中で、罪はわからない。光に指し示さ
れた罪は、悔い改めることができる。赦されて赦されて、どんな時
も平安の中を生きて行ける。


2014年06月26日(木)

「彼らと盟約を結んで後三日たったとき、人々は、彼らが近くの者 たちで、自分たちの中に住んでいるということを聞いた」ヨシュア 9:17 

 

祈らないで、主を求めずに、事を行ってしまい、失敗した経験は無
いだろうか。行き当たりばったりで、高価な物を衝動買いし、そん
なに欲しい物でも無かったと後悔したり、祈る事なく思いつきで、
活動を始めてしまい、途中で様々な障害にぶつかり、結局中止にな
ってしまう。

どんなに一見良い事でも、祈らないで、肉の思いで始めてしまうと、
しばらくは続いても挫折してしまう。ある人は祈らないまま、目の
前に来た高額のバイトに飛びついた。しかし、早朝出の深夜帰宅で、
余りの多忙にデボーションの時間も取れず、生活が神から離れ、本
末転倒の状態を示され、途中で辞めた。

ヨシュアがギブオンの住民達にだまされて、盟約を結んだ箇所があ
る。ギブオン人達が計略を巡らし、変装し、遠くから来たと思わせ
て欺いた。実は自分達の中に住む、近隣の者達であった。この時、
対応するのに「主の指示を仰がなかった」。主を見上げず、肉の思
いで判断すると、道を間違ってしまう。

私達も心していよう。日常生活、祈りつつ、主の指示を仰ぎながら
歩もう。あの決定、この判断、主を仰ごう。祈って決めよう。でけ
れば、結局、肉で始めた計画は中途半端となり、蒔いたものを刈り
取る事になる。主に祈り、平安与えられ、確信持って前進しよう。
それは「主と一つ」に進める幸いな歩みだ。

・・・・・・・・・・・・
「主の指示を仰がなかった」。祈らずに事を行ない、失敗してしま
う。今日も主の御心を尋ね求めながら、祈りながら事に当たろう。
一つ一つ主に頼りつつ歩む時、小さな事にも祈りの答えを受け取り
喜びを与えられて歩める。


2014年06月25日(水)

「すると、主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である』」ヨシュア5:15


ヨルダン渡渉を果たしたヨシュアは、立ちはだかるエリコの城壁を
前にして、不安がよぎったかも知れない。そんな時に、目を上げる
と、一人の人が抜き身の剣を手に持ち、立っていた。今にも戦おう
との状態だ。ヨシュアは、思わず「敵か味方か」と問うた。相手は、
敵とも味方とも言わず、「主の軍の将」と答えた。

敵でないなら、味方ではと思うが、同等ではなく、ヨシュアの上に
立ち、導くリーダーだと。先立って導いて下さるお方がいる。ヨシ
ュアは地に伏し「何を告げられるのですか」と尋ねると、「足のは
きものを脱げ」と言われた。自分の思いや考え、方法、力を明け渡
して、導きに従えとのことだ。

私たちも、今、目の前に立ちはだかっている城壁があるだろうか。
難攻不落の問題があるだろうか。自分の知恵や力でどうこうせず、
地に伏して、足のはきものを脱ごう。事態を、自分自身を主にお委
ねしよう。「ヨシュアはそのようにした」ヨシュアが主の言われる
通りにした時に、目の前のエリコ陥落の方法が示された。

町の回りを6日間、1度回り、7人の祭司が箱の前を行き、7日目
に7度回り、祭司達が角笛を吹き、民は大声でときの声を上げよと
いう、不思議な方法だった。しかし、その通りに従うと「城壁がく
ずれ落ちた」。問題に対し、軍の将として、導き手として、主を認
め、はきものを脱ぎ、自らを明け渡し、示された事にその通りに従
おう。その時、その問題を乗り越えて行ける。
----------------
高い城壁を前に欲しいのは取りあえずの味方だ。そんな自分の期待
が主の御働きを見えなくしてしまう。主が抜き身の剣を持ち同伴し
て下さる。自分を無にして主にひれ伏し主の導きをさやかに聞こう。


2014年06月24日(火)

「イエスはシモン・ペテロに言われた『ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか』ヨハネ21:15



主を否み、裏切ってしまった後、ガリラヤに戻ったペテロや弟子た
ちの心はどんなものだったろう。死んでも主について行くとの自信
満々のペテロは、こっぱみじんに砕かれた。なすすべなく、一度捨
てた網を、もう一度取り、漁をする。しかし一匹も捕れない。心に
は痛み、悔い、落胆、挫折感だったろうか。

夜明け頃、岸辺の見知らぬ人から「子どもたちよ。食べる物があり
ませんね」との声が聞こえた。声の主は、誰かはわからないまま、
「はい、ありません」とありのまま答えた。その答えを受けて、直
ちに「舟の右側に網をおろしなさい。そうすればとれます」との声。
その声に従い、網を打った。すると、何と網を引き上げられないほ
どの大漁だった。

以前、全く同じ経験をした。その光景と合致した。ヨハネは、瞬間
「主です」と悟った。途端、ペテロは主に会いたい一心で、湖に飛
び込んだ。陸地に上がると主がおられ、魚とパンが用意されていた。
そして、ペテロを取り扱われた。「なぜ、裏切ったのか」と、一言
も言われない。責めもされない。三回の裏切りは、「わたしを愛し
ますか」の三回の問いかけにより、深い傷をがおおわれ、癒されて
行った。

そして「わたしの子羊を飼いなさい」と牧会の働きを委ねられた。
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改め
を生じさせる。弟子たちへの慈しみとご愛は、私たちへも同様に向
けられている。
---------------
過ちや失敗で幾たびも落ち込むが、そのままで終わりではない。自
己嫌悪でうなだれている私たちに主が目を注いで下さることを覚え
ていたい。全てを負って下さる主だけが真の癒し主だ。


2014年06月23日(月)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」ルカ18:14


パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った。祈りの言葉は心の
内を表わす。パリサイ人の関心は、「人」であった。人にどう見ら
れるかで、そこに神は無い。取税人は、人はそこに介在せず、ただ、関心は「神」であり、神だけを見上げていた。神と自分の関係だけであり、神意識だけだ。そこに人は無い。

パリサイ人は、「神よ」と言いつつ、神ではなく、人に向かい、人
に対する自己意識だけだ。人との比較であって、つまりはそこに
「自分」があるだけだ。取税人は、神の前の自分を意識するので、
光があって自らの罪が見えて、罪を認めている。御霊に罪を示され、悔い改める時には、人は見えない。神と自分の間で、自分の罪が見えるだけだ。そして、その罪は完全に赦される。無罪放免とされる。

パリサイ人は人と比較して、自分を量る。自分の罪の基準が、人に
よる。だから罪認識が無い。それゆえ悔い改めも無い。このように
サタンは神から私たちを離すために、常に、人との比較に引っ張る。御言葉の光でなく、人との比較で、自分はどうなのかを見せる。人より優るなら優越感、人より劣れば劣等感となる。真の罪認識に至る事が決してない。神に向かわない限り、人は罪を知る事はできない。罪が赦されるのは罪人だけだ。罪をも、人との比較で見ていないだろうか。
---------------
主に心を向けて祈るなら、例え自己正当化している祈りであっても
御霊の導きの中で、自分の罪が示されて悔い改めることが出来る。
言葉にならないうめきであっても主にしか解決がないと絶えず主に
向き、祈ろう。


2014年06月22日(日)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10


モーセはエジプトの王子である40才の時に、同胞の救出を志すが失
敗し、荒野に逃亡した。そこで羊飼いとして、40年の歳月が流れ、
かつての栄光も栄華も地位も名誉もすべて失い、徹底的に砕かれ低
くされた。しかし、そこからが神の始まりであった。苦難、挫折、
痛み・・は、実は大きな恵みだ。

私たちは、惨めになる事を極力恐れ、とにかく苦しみを避けたい。
だが、主が、主の器を形造られるために、どうしてもその所を通さ
れる。自分の力をギブアップした、そこでこそ、真に主に出会う。
無力になった80才のモーセを、主はふさわしいと召し出された。人
の思いと神の思いは違う。主は荒野でモーセを訓練された。

パロのもとに遣わすので、民をエジプトから連れ出せと。以前の
モーセなら、喜び勇み、自信満々で、この使命を引き受けた事だろ
う。しかし、砕かれたモーセは戸惑い、尻込みした。「私はいった
い何者なのでしょう」そのような、とんでも無い任務にあずかるな
どと。もうモーセには、野心も力も、自信も、持てるものも何も無
かった。

だが、主は、まさにそのモーセを用いられた。「わたしはあなたと
ともにいる」と。そして、「わたしがあなたを遣わすのだ」と。弱
さ、無力を感じているだろうか。しかし、主は、そんな私たちをこ
そ用いられる。自らの力ではなく、私たちが事をなすのではなく、
主が成し遂げられる。それは、主だけが崇められるように。

・・・・・・・・・・・・
この世の価値観では、強さ、能力があることが良いこと、弱さ、能
力が無いことは良くない事になっている。しかし「神の力は弱さの
内に完全に現われる」、弱さが神の力が現される土壌だ。弱さと無
力を認める時、神がそこに働かれ、御力を現される。


2014年06月21日(土)

「キリストは、人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2 :8 



ある牧師の体験談だ。神学生の時、同級生と、ちょっとした事でも
めて言い争いになった。双方で、口もきかない状態になってしまっ
た。怒りで、赦せない思いは、苦しく、悶々の日々であった。考え
ると腹が立って仕方がない。赦せない。

しかし、メッセージ当番があり、回って来る。こんなままでメッ
セージ準備が出来るはずもなく、しかし怒りはおさまらない。とう
とうどうにもならず、主の御前に出て、あるがままをさらけ出し、
祈った。怒り、赦せない思い、裁く思い、責める思い・・何もかもを
打ち明け、じっと主の御前にいた。

その時、主の十字架が目の前に浮かび上がった。罪の無い方が、こ
の自分の罪を負っておられ、苦しめられ、そして主は、自分のため
に何もかもを捨てられた。それに引き替え、自分はというと、自己
正当化、自己主張、自己憐憫、どこまでも、ただ〃自分、自分・・。
自分の思い、自分の気持ち・・自分のことしかない。

涙が溢れ、心から悔い改めた。心がすっきりし、赦されたことがわ
かった。あんなに苦しかった心が落ち着いた。相手に謝り、和解で
きた。平安が満ちて、喜びもって、奉仕にあずかれた。
自我が苦しく、自分、自分になっている時は、じっと十字架を仰ご
う。神のあり方を捨てられ・・「自分を卑しくし、死にまで従い、実
に十字架の死にまでも従われた」主を見つめ続けてみよう。

・・・・・・・・・・
自己満足、自己主張、自己正当化、自我は自分のことしかない。自
分の気持ちが傷つけられた・・では、相手の気持ちや、主のみ思い
は?そこが飛んでいる。この自我の解決のためにも、主は十字架で
かたをつけて下さった。「私はキリストと共に十字架につけられま
した」。今日も十字架を見上げ、新たにされたい。


2014年06月20日(金)

「主よ。あなたは貧しい者の願いを聞いてくださいました。あなたは彼らの心を強くしてくださいます」詩篇10:17



謙遜とは、本当は自分には能力があるが、それを人に見せびらかさ
ない、という事ではない。そうではなく、本音で自分は無力だと認
めている事だ。取税人は真に自分の罪深さがわかり、認めていた。
それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。
人の事など目にも入らない。ただただ、自分と神との関係だけがす
べてであり、自分の罪だけが見えた。「こんな罪人の私をあわれん
でください」と、神に自らの赦しを求め、そして彼は赦され、義と
された。

モーセは40才の時に、自分の力で、同胞を救おうと立ち上がった。
しかし失敗し、荒野に逃亡。何も無い荒野で、羊飼いとして40年を
過ごした。そしてモーセが80才の時に、神により同胞を救うため召
し出された。以前と違い、かつての栄光も力も人脈も何も無く、真
に無力を知るモーセは「私はいったい何者」と尻込みした。
しかし神に説得され押し出された。

主の一番弟子であったペテロは、いつも前面に出る自信家であった。
しかし、「網を下ろせ」と言われ、こんな時間に魚がいるはずがな
いと思っていた、目の前で大漁の奇跡を見た時に、「わたしは罪深
い者」とへりくだった。そして、主を否んだ後、号泣して悔い改め、
自らの徹底無力を思い知った。自分の心底無力を知る人こそが、幸
いな者だ。自分を誇らず、自分に頼らず、主に拠りすがって行くか
らだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。
------------
自分には出来ないと認めさせられる度に、自我に変わって主が心を
占めて下さる。無力を知る経験は祝福だ。自分から、主へ、御霊の
うながす方へと素直に従う者に変えられて行きたい。


2014年06月19日(木)

「わが子よ。主の懲らしめをないがしろにするな。その叱責をいとうな。父がかわいがる子をしかるように、主は愛する者をしかる」箴言3:11


時々私たちは、全然、祝福とは思えない状況にぶち当たる。それは、
苦しい対人関係であるかも知れない。人から批判され、攻撃され、
傷ついて、辛くてたまらない。又、仕事上の失敗や、又、成果が思
うように上がらずに悩むかも知れない。リストラや倒産の経済的苦
境、又、病気やけがかも知れない。祝福どころか、痛くて、苦しく
て、しんどくて、どこが祝福?と思う。

しかし、「主の懲らしめ」「その叱責」とあり、懲らしめと叱責は、
主からのものだ。偶然来ているのでは無い。運命でもない。サタン
にほんろうされているのでもない。主の訓練だ。そして、愛する者
を叱るのは、主の愛から出ている。私たちが「愛」という言葉から
連想する時、ほんわかとした暖かいもの、心地良いもの、喜ばしい
もの、平安なもの、心穏やかで落ち着いたもの、を思い浮かべるの
で、苦しく、痛く、辛く、悲しい試練と愛が合致しない。リンクし
ない。愛とは暖かい心地良いものだと思っている。正反対なので、
混乱する。

しかし、肉の親のしつけは愛であるように、更に霊の親は、私たち
の益のため、聖くしようと訓練される。「懲らしめをないがしろに
するな。いとうな」とある。私たちはどうだろう。今、目の前の試
みを、痛いので受け止めずに、ないがしろにしていないか。嫌がっ
ていないか。受け止められるよう祈ろう。必ず一段階成長できる。
------------
信仰生活、試練や思い通りに成らないことがあって当たり前と知っ
ているが、日々のストレスや疲れに慣れてしまい、与えられている
訓練の時を、ただ消耗し流してしまうことがある。痛みや疲れた思
いをその都度祈り、そこにある大きな主のご計画を知って行きたい。


2014年06月18日(水)

「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め」Uテモテ4:3


ある人が牧師に、悩み事の相談に行った。牧師は、御言葉にそって、
真っ直ぐに話したところ、その後、その人は行かなくなった。その
人は、主に従いたくて、アドバイスを求めて来たのではなく、自分
のする事に同意し、承認して欲しかった。自分に都合の良い事を言
って欲しかった。

そのような人々は、自分の事を思い、自分を正しい方向へと導こう
としてくれる人々から遠ざかる。後の時代になると、人々は自分に
都合の良い、自分が聞きたい話だけを聞くようになると、言われて
いるが、自分自身はどうだろう。

ある男性は、奥さんから間違いを指摘されて、全くもってその通り
で、しかしその事を悔い改めるのに、3日かかったと。まずは認め
られず、心の中で言い訳、弁解に終始する。幾らでも言い訳が出て
来る。どこまでも自分を正当化しようとする。自分は悪くないと思
おうとする。

間違いが頭ではわかるが、自我がどうにもならない。悶々状態のあ
げく、主の御前に祈り、正直に心にあるものを告げて行った時に、
御霊から罪を指し示され、心砕かれて、悔い改めることができた。
悶々の心に平安が来て、解決が来た。

主が正しく導こうとされる時、矯正される時、逃げることも、受け
入れずに否定することもできる。肉は痛いので、そうしたい。しか
し、逃げずに、主に向く時正され、成長して行ける。主に向くこと
が大切だ。
-------------
都合の良い励ましや慰めは一時的な平安を与えてくれるが、それに
よって変わることも成長することもない。主にある導きは、痛みを
伴っても愛と励ましがある。現実の自分を回避せず見ていこう。


2014年06月17日(火)

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」創世記39:2 



ヨセフは、人の悪でさえ、神は、良いことにして下さったと言った。
人が邪悪な思いで、私たちに悪を計ったとしても、そこに主が介入
され、良いこととして下さる。それなら、人生に恐れは無いのでは
ないだろうか。兄たちに妬まれたヨセフは、兄たちの悪意により、
エジプトに売られた。しかし「主がヨセフとともにおられたの
主人に非常に愛され、財産の管理をも任せられた。

しかし、それも一転、無実の罪で牢獄へ。奴隷より更に悪い囚人だ。
だが、その牢獄でも、「主はヨセフとともにおられ」監獄長の心に
適うようにされ、囚人の世話を任された。そして、「主が彼ととも
におられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった」。

時に、状況がどんどん悪い方に向かう事を経験する。人間的に見る
なら、主は一体どこにおられるのか、共におられないのではと思っ
てしまう。しかし、「主はヨセフとともにおられた」。私たちも同
様であり、マイナスの事態が起きる時、はっきりと「主がともにお
られる」のだ。

すべての事が、主の御手の中にあり、主の主権と支配の中にあると
は、何と安心なことだろう。「永遠の腕が下に」、そして、そのよ
うな中で、主に信頼して行く時、八方ふさがりの、最悪の状況であ
っても、それを良いものに変えて下さる。主を信じ、そこに立って
いよう
--------------
全てのことが神から発し、神によって成り、神に至る・・だ。心は
迷いやすくなかなか信じ切れない者だが、ともにいてくださる主の
最善を信じ前から来る困難に忍耐する者でありたい。


2014年06月16日(月)

「なぜ取り乱して泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです」マルコ5:39




ヤイロという会堂管理者が、今にも死にかけている娘のために、主
のもとにやって来て、助けを求めた。それに応えて、主がヤイロと
一緒に行かれる途中に、長血の女性が割って入った。娘は危篤であ
り、一刻を争う。それなのに妨害が入り、ヤイロの心は気が気では
なかったろう。彼女が癒された時、使いが来て娘の死を告げた。も
う主に来て頂く必要はないと。

ヤイロの心はどんなものであったろう。絶望が襲おうとする瞬間に、
主は御声をかけられた「恐れないで、ただ信じていなさい」と。
別訳では「主はその話している言葉を聞き流して」、「主はその言
葉に注意を払わず、心に留めず」となっている。不信仰な言葉は、
聞き流す必要がある。心に入れてはならない。

信仰の言葉である、御言葉を心に入れて、不信仰な言葉は入れずに、
シャットアウトすることだ。不信仰の言葉を入れると、不安、恐れ、
疑心暗鬼に支配され、不信仰に侵食されて行ってしまう。心に握る
のは「恐れないで、ただ信じていなさい」との主の言葉だ。

家に着くと、人々は大泣きし、わめき取り乱していた。娘はすでに
死んでいた。目の前の現実であった。だが、主は「死んだのではな
い、眠っている」と言われた。人々は嘲笑った。主の言葉が理性に
合わないからだ。しかし、その言葉通りに、娘は生き返った。どの
言葉を受け入れ、どの言葉を聞き流すか、私たちの心が守られるた
めに非常に大切だ。
---------------
目に見える現実が絶望的であればあるほど、もう駄目だと不信仰の
声に支配されてしまう。主はいつもどう言われていたか、目の前の
状況に振り回されない主の御言葉を聞いてただ信じていよう。


2014年06月15日(日)

「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てま す」ヨハネ10:11 



思い煩いは、自分が、自分の力で何とかしようと思っているところ
から生じる。全部が自分の肩にかかってくる。それが、どうにもで
きないので、思い煩うことになる。どうしてよいかわからない。こ
の経済的苦境、あの対人関係、その目の前の状況、また先の事等・・
自分の力量を越えている。

そのため思い煩う。その底に、真の「安心感」が必要だ。自分だけ
で人生を歩んでいるのではない。自分は羊であり、自分には羊飼い
がいる。その羊飼いは、絶えず慈しみのまなざしで、自分を見つめ、
あらゆる配慮をなし、世話をしてくれる。食べ物と水を与え、病気
の看病をし、狼から、あらゆる危険から身体を張って、守ってくれ
る。

「良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。絶えず愛され、見守
られている。そこから安堵感、安らぎが来る。羊飼いは、羊に病気
や、けがはないか、傷はないか、痛みはないか、常にチェックする。

そして何かあるなら対処する。もしあなたの過去に歪んだ傷がある
なら、主こそ癒し主だ。「心の傷ついた者を癒すために、わたしを
遣わされた」、主は傷を癒すために来て下さった。「心が傷んでい
ます」とそのまま主に告げよう。

「わたしのものを知っています」心の隅々まで知り尽くしておられ
る主が、良くして下さる。良い羊飼いが絶えず愛のまなざしを注い
で下さっていることを覚えよう。

・・・・・・・・・・・・
自分が羊でなく、羊飼いになった途端、すべての重荷が自分の肩に
かかって来る。すると自分の力で、何とかしなければと動き出す。
羊飼いが、一歩一歩行く道を示し、語り、守り導いて下さるとは何
という平安だろう。


2014年06月14日(土)

「だから、明日のための心配は無用です。あすのことはあすが心配 します・・」マタイ6:34



「明日の事を心配するな、思い煩うな」と言われる。これは、将来
のために準備したり、考えてはいけないという事ではない。雨の日
のための備えは良い事だ。しかし、心配や思い煩いは、いっさい必
要無いと。

私たちの不安は、「もし〜」から来る。もし、ああなったら、こう
なったら、「もし病気になったら」「もし事故に会ったら」「もし
仕事がだめになったら」「もし経済的に困窮したら」幾つもの「も
し〜」で思い煩い、恐れている。

しかし、主は「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と。空の鳥は、何も
しないのに養われ、野の花は装われている。天の父がすべての必要
をご存じで、与えていて下さると。今、目の前に思い煩いがあるだ
ろうか。悲観的な思い込みに飲み込まれてしまう。明日はこうなり、
将来はこのようになりと決めつけてしまう。

又、目の前の問題、悩みを、ネガティブに、どんどん悪い方に考え、
ああでもない、こうでもないと、心が分裂してしまう。思い煩いと
は心が分割、分裂することだ。分裂状態から、一つに心が定まる事
が必要だ。それが「神の国とその義とをまず第一に求めよ」だ。

主の支配を求め、自分を主に委ねて行く時、自分自身を主の御手の
中に置くので、あれこれの思い煩いから解かれ、心が平安にされる。
赤ん坊が母親の腕の中で、安らかに眠っているように。神第一の歩
みをして行く時に、「そうすれば、それに加えて、これらのものは
すべて与えられます」生活の必要はすべて与えられる。

・・・・・・・・・・・・・
「思いわずらいはいっさいするな」「何も心配するな」とは、何と
いうことだろう。目の前の具体的なあの事、この事、それらを思い
煩うな、心配するな、と。素直に受け取って、思い煩いと心配を捨
てて、すべての事について感謝することを選択してみよう。そうで
きるよう祈ろう。


2014年06月13日(金)

「あなたのことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105



ある人が、仕事がうまく行かなくなった。行き詰まってしまい、こ
れ以上何の方法も無いように感じられた。しかしその仕事は、主に
祈って導かれて始めた、新しい仕事であった。進む事も退く事もで
きず、どうしてよいかもわからなかった。自分の力の無さに打ちの
めされた。主の御前に静まり、祈ろうと、御前に行き、心を静め、
そして、心の思いをことごとく打ち明けた。

御声を聞こうと、御言葉を読んでいた時に「あなたがたがわたしを
選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・任命した
のです・・実を結び、実が残るため・・」の言葉が心に迫った。
主が自分を選び、この仕事を与えて下さったことが、今一度新たに
された。

主を信頼してではなく、「自分が」何とかしなければと、「自分が」
「自分が」と頑張って、力尽きた姿が見せられた。「自分が選んだ
のでなく、主が選んで下さった」そこに安堵が来て、自分自身と仕
事を再度明け渡した。すると不思議な事に、心の苦しみや、思い煩
いが失せて平安になった。

とにかく、目の前の一つ一つ、主に従ってゆけばよいと思えて、気
持ちが楽になった。祈りつつ、主が導かれる通りに従って行った。
その時、目の前の道が、開かれて行き、主の備えを体験して行った。
今、もし行き詰まっているなら、心静めて、祈り、御声を聞いて行
こう主は、あなたの道を示し、導いて下さる。
-------------
ずっと先が見通せると主に頼ることなく歩んでしまう。行き詰まり
は感謝だ。また一足ごとに主に頼る謙遜を知らされる。御言葉に照
らされ、今日も示された道を信仰によって歩んでいこう。


2014年06月12日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11



「悪魔に機会を与えるな」ともある。機会を与えるのは誰か。機会
を与えるのは自分自身だ。悪魔は、絶えず私たちの心に、足場を得
ようと狙っている。献げ物が受け入れられなかったカインは怒りに
より、悪魔に足場を与えた。正しく行っていないからには悔い改め
て、献げ直す事ができた。そして「罪を治めよ」と主から言われ、
治めるべきであった。しかしカインはそうせずに、アベルを殺して
しまった。

サウルは妬みにより、悪魔に足場を与えた。妬みを悔い改め、捨て
る事をせず、悪魔に機会を与え続けた。それは憎しみへと増幅して
行った。ダビデは、高ぶりにより人口調査の罪を犯した。勝利に次
ぐ勝利で、高ぶっていた。人口調査で自らの力を誇りたかった。神
でなく兵力に拠り頼むよう誘惑された結果だった。部下ヨアブが、
神への反逆だと止めに入るが、聞かず、神の怒りを招き、民に災い
をもたらす事になった。

悪魔は襲って来る。私たちは自分の心をよく見張り、守る必要があ
る。又、悪魔は「疑い」を引き起こす。「神は愛してくれているの
か?」「守ってくれるのか?」「必要を与えられるのか?」悪魔の
仕業だ。足元が揺れる。対人関係に「疑い」を起こし不信感を植え
付ける。疑心暗鬼にさせる。そして赦さない心は悪魔に足場を与え
る。赦し合おう。今、悪魔の攻撃に会っていないか。心を見張り、
サタンの策略に気づけるよう祈っていよう。
-------------
自分の心が主からはなれないよう真理の御言葉をつねに傍に置いて、
サタンと自分の心を見張っていよう。いつまでも憎んでいたい者で
あり、すぐに高ぶる者だ。サタンとの会話を立ち切ろう。


2014年06月11日(水)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18 




主を信じて救われた時に、御霊が内住して下さった。私たちの内に
は御霊がおられる。だが、古い肉の性質もまだあるので、どちらも
が私たちを引っ張る。例えば、一日の始めに、「さあ、祈って一日
を始めよう」との声がする。しかし、別の声が聞こえる「時間が無
い。祈っている場合ではない。早く出かける準備を」「今は祈る気
分ではない」。どちらの声に聞いて行くだろうか。

対人関係で、相手の言葉に腹が立つ時、一つの声は「言い返せ。ス
ッとする」別の声は「まずとにかく主に祈ろう」。又、人を助ける
ようにと導かれる時、「犠牲を払うのは大変だ。止めた方がよい」
いつも御霊の声と肉の声が聞こえる。私たちは、意識していなけれ
ば、だいたい肉の声に従ってしまう。肉の思いの方が楽で、自然に
感じ、気持ちに合致して来る。だから、御霊に導かれ、恵みの中に
生きる事ができず、いつも肉の歩みを繰り返してしまう。

又、人を愛せない時、心に平安がなく、辛く、悶々状態だ。愛そう
と頑張るが、愛する事はできない。そんな時は、出来ない事を認め
て、御霊の助けを求め、委ねて行くことだ。御霊は、出来ないと認
める者を助けて下さる。御霊が働いて下さる時、肉の力でなく、御
霊の力によって愛することができる。頑張りでなく、平安の中で導
かれて行く。
------------
御霊の導きをすぐに打ち消す強い肉の声がかぶさって来る。出来な
いことを認めてしまおう。出来ません助けてくださいと、そこで主
に関わっていただこう。肉には出来なかった御霊の実を主が与えて
下さる。


2014年06月10日(火)

「・・だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり・・」ヘブル12:15 



草取りをする時に、根っこから抜かなければと思うが、からみつく
深い根に、手こずらせられる。つい浅く抜いて良しにするなら、す
ぐに雑草だらけになる。悪い実を幾ら取っても、根っこがある限り、
堂々巡りで、実がなり続ける。根は隠れていて、表面からは見えな
い。

心に潜む、赦せない思い、裁く心、憎しみ、悔い改めていない罪
・・その隠れた根がある限り、幾らでも悪い実が出て来る。表面
は、懸命に信仰者らしく、整えようとするが、いつも同じ問題で、
つまずいていないだろうか。祈りに持って行き、根っこの部分を、
御霊に探っていただこう。

ある人が、自分も傷つけ、相手にも傷つけられた対人関係を、根に
持っていた。恨みに思い、赦せない思いがある。しかし平安無く、
心は辛い。主の御前に出て、心をことごとく打ち明け、祈っていた
時に、心が照らされた。相手の事は責めるが、自分のほうの非は、
言い訳し、自己正当化している事に気づかされた。

アダムやエバのように、こうなったのは相手のせい、相手が悪いと。
心の底では、自分は悪いと思っていない。この自分の姿を認めて、
心から悔い改めた。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神
は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たち
をきよめてくださいます」。

その時、心に安堵が来た。そして、自分の醜さを認めた時に、相手
の弱さを赦すことができた。心に苦みがある時は、まず主のもとへ
行こう。ありのままの心を告げよう。導いて下さる。
----------
表面を整え、今日も平和にやり過ごせたと安堵の日々を過ごしてな
いだろうか。人の罪より根にある自分の罪に敏感になりたい。主の
光に照らし出され罪を悔い改めれば根は枯らされる。ちくちくと刺
す苦い思いを主に語ろう。


2014年06月09日(月)

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい」エペソ6:18


信仰生活で、デボーションがなかなか持てずに、悩む事があるだろ
うか。聖書を読もう、祈ろうと思うのだが、何となく気分が乗らず
に、ぐずぐすしてしまい、先延ばしにする。朝の追い立てられた時
間は、あっという間に過ぎる。職場へ、学校へと急ぐ。主婦は、先
に掃除をしてから、その間に洗濯機も回して・・との思いに引っ張
られて行くと、的確に次々になすべき事の思いが来て、気がつくと、
もう夕飯を作る時刻になっている。

夜は、テレビを観てしまう。ああ、今日も聖書を読む時間が無かっ
た・・。「ベスト」の一番の敵は「ベター」だと言われている。次
善のものに忙殺される。そして気づく。自分の心の内にも、頑なな
ものがあり、デボーションを持とうとしない自分がいることに。

ある人が、ハードな仕事に追われる日々、時間が無いから、静まる
時間が持てないと思っていた。ああ時間が欲しいと。そんなある日、
突然の休みを得た。しかし大喜びで遊びほうけてしまい、全く主と
の交わりを持たなかった。その時、時間でなく、自分の問題だと気
づかされた。頑なな自分を認めて、悔い改め、御前に出たその時に、
幸いな交わりが上から与えられた。

常に、神に近づかせたくないサタンの強い妨害がある事、サタンが
肉に働いて来る事、その事も気づかせられた。「私たちの格闘は・
・悪霊にたいするもの」交わりを妨げようとする、霊の敵との戦い
である事に、身を引き締められた。
-------------
デボーショんを始めると、ふいに部屋の隅のほこりが気になり拭き
たくて仕方なくなる。私のベターは朝の家事だ。御父との交わりの
時は必ず妨害がある。自分の良い時を決めて意志で静まり御前に座
りたい。


2014年06月08日(日)

「主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そ そがれた方に、この手を下したくありませんでした」Tサムエル2 6:23


サウルは、妬みのゆえにダビデをつけ狙い、殺害しようとしていた。
ダビデは、サウルが追って来た事を知った。斥候を遣わし探らせる
と、サウルは陣営で寝ている事がわかった。それで行ってみると、
サウルや兵士達も皆、眠っていた。アビシャイは、「今こそ神が与
えた絶好の機会、自分が槍で刺し殺します」と進言した。

しかしダビデは許さなかった。決して手を下さなかった。その理由
は、サウルが「主に油を注がれた王」であるからだった。だが、サ
ウルの行動は、主の御心に反する事も知っていた。それで、その事
について「主は生きておられる。主が、必ず彼を打たれる」と言っ
た。

ダビデは、裁きを主にゆだね、決して自分で復讐しようとはしなか
った。そのしるしとして、サウルの枕元にある槍と水差しを持ち帰
った。「主が彼らを深い眠りに陥れられたので」、全員、誰一人全
く気づかなかった。眠りをも支配し、眠らせたのは主だ。すべてが
主の主権の下にある。

サウルはダビデが二度までも、機会がありながら、自分を殺さなか
った事を知る。サウルは「わが子ダビデ。おまえに祝福があるよう
に」と、とうとうダビデを祝福した。そして、サウルは二度とダビ
デを追うことをしなかった。

自分で復讐せずに、主に信頼し、主に委ねて行くダビデの命を、主
が堅く守られた。「復讐はわたしのすることである。わたしが報い
をする」との主に、裁きを委ねよう。

・・・・・・・・・・・・・
ダビデの信仰、主への従順は、とうとうサウルの攻撃を止めさせた。
ダビデがどこまでも主に従った結果だった。自分が手を下さず、主
に委ねて行く時、主がわざをされる。肉の思いは強いが、主に助け
を求めて祈ろう。従えるよう助けて下さる。


2014年06月07日(土)

「あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであ ろう。あなたがはわたしがあなたがたの神、主であることを知るよ うになる」出エジプト16:5

 

紅海が分かたれるという、後にも先にも無い、主の偉大な奇跡によ
り、エジプトを出されたイスラエルの民。「主に向かって歌え。主
は輝かしくも勝利を収められ」と、どんなに歓喜であり、感謝であ
ったろう。

しかし、荒野に出て3日後に、あれだけの大きな喜びが、「水が無
い」とのつぶやきに変わった。次に食べ物が無いと不平不満をモー
セにぶつけた。こんな事なら、エジプトで死んだ方が良かったとま
で言う。主はそれに答え、天からマナを降らせ、夕にはうずらの大
群を降らせた。

このマナは1日分だけと命じられていた。しかし、従わずに朝まで
残しておくと、虫がつき腐った。朝ごとに、各自食べる分だけ集め、
残ったものは、日が高くなると熱くなり溶けた。主は「朝ごとに」
「各自」「食べる分だけ」と定められた。

私たちもどうだろう。1日分だけと言われても、隠れて明日の分も、
いや1週間先までも、集めておきたい・・「もし、翌日降らなかった
ら?」と思い、主を信じられなかったなら、そうしてしまうだろう。
不信仰は、自分の力で生きてしまう。しかし、主は、荒野の40年
間、毎日マナをもって養われた。

これは自分で生きているのでなく、主によって生かされているとい
う事実を叩き込もうとされた。「私は神により生かされている」自
分で生きているのではない。これを心底知る時に、心配と思い煩い
から解放される。

・・・・・・・・・・・・
主は私の羊飼いであり、私は羊だ。羊飼いがおられるとは、何とい
う安堵だろう。自分が羊飼いになってしまう時、不安と思い煩い、
恐れでいっぱいになる。主が私のことを心配し、主が生かして下さ
っている、そこに今日も立っていよう。


2014年06月06日(金)

「・・羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3 



羊は、羊飼いの声がわかるという。しかし、羊飼いだけでなく、そ
れ以外の、様々な「声」もある。主の御声があり、サタンが語りか
け来る声もある。サタンは主の声を真似るからやっかいだ。自分の
肉から、むくむく湧き上がる声があり、又、人の声もある。様々な
「声」が混線している。

サタンは、光の御使いに変装する。神からの御声と錯覚させる。その
ため、どこからの「声」=「思い」なのか、源がどこなのか、識別
する必要がある。主の御声を確かめるためには、それは御言葉と合
致しているだろうか。聖書全般を通して、主のお心に反していない
か。

もし「苦み」があるなら、それは主からのものではない。「苦いね
たみと敵対心があるなら・・そのような知恵は上から来たもので
はなく」「地、肉、悪霊に属するもの」とある。又、次に、その声
は心に平安を与えるかどうかで判別できる。主からの御声は、心に
平安を与える。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのち
と平安です」。

その声で、心が暗くなり、不安、思い煩い、焦燥、恐れ・・が生じ
るなら、主以外の声だ。又、焦らせ、急かすものも、主からではな
い。主は、平安の中で導かれる。そして、その声と「環境」を照ら
し合わせると良い。主からの御声は、状況も合致して、必ずそのよ
うに開かれ導かれて行く。そこに矛盾はない。自分の思いを明け渡
すよう示される時、聞き従って行くなら、導きを悟って行ける。
-----------
様々に騒がしい声が内から聞こえる。この声は何処から来ているの
か、羊も羊飼いなる主に声を出し、尋ねながら歩もう。主が正しい
道に導き返してくださる。


2014年06月05日(木)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」ヤコブ4:3 



主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と、求めよと言われ
る。祈っているのだが、なかなか答えられない祈りがあるだろうか。
それを求めている、動機を探ることは有益だ。どんな動機で求めて
いるのだろう。主は私たちを助けて、祈りを軌道修正しながら、御
心にかなった祈りへと導いて行って下さる。

強い願望があり、どうしても欲しいものがあるだろうか。願うこと
は良いことだが、ただ、その願いが自分の肉の欲望から出ていない
か。それを手にすることで、自分が賞賛を浴び、自分が栄光を受け、
自分が認められるなら、肉はますます高ぶってしまう。そうなら、
主はそれをご存じで、私たちを愛するがゆえに、与えることを控え
られる。

今、あなたの強烈な願望、何が何でも欲しいものはどうだろう。果
たしてそれが、真に自分に必要なのかどうか、動機はどうか、それ
を主に聞く事ができるなら、「肉の欲望」の誘惑から守られる。肉
の欲望は際限がない。欲しいものを持つなら、満足するのでなく、
更に渇き、もっと〃欲しくなる。

欲しいものと必要なものは異なる。欲望のままに、次々と求めるな
ら、欲望のとりこになってしまう。もし、それがあなたに真に必要
なものなら、神はどのようにしてでも与えて下さる。御霊に心を探
っていただこう。
------------
父なる神様は私に必要なものを知っておられる、の視点に立つなら、
与えられない事を悲しむ必要は全くない。今は与えられない事が御
心だと前向きに祈り見つめなおし御心に整えていただこう。


2014年06月04日(水)

「ヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとし、立って、ヨッパに下った」ヨナ1:3 


ヨナは、主が命令されたニネベに行きたくなかった。すると、そこ
に、丁度反対方向のタルシシュ行きの船があって、それに乗り込ん
だ。私たちも時々、経験する。御心に従いたくなくて、ぐずぐずし
ている時、丁度そこに反対方向の船があるのだ。ヨナは、神の命令
に従ってニネベに行かず、反対方向の船に乗った。

私達も信仰生活で経験する。ある人は海外宣教師になるよう、神が
導かれているとわかった。しかし決心できず、悶々状態だった。
そして同時に大きな誘惑があった。高給と地位を約束された仕事の
勧誘が来た。結局、世の仕事に就いた。その後、多忙となり神から
離れた。

子供の事故の事で、我に返り、神に立ち返った。海外へはもう不可
能になり、海外宣教師を送り出す、宣教事務局で働いている。
御心がわかったが、ちゅうちょしている時、丁度そこに「高給と地
位」という船があった。そちらに乗り込み、御心からそれてしまっ
た。しかし、あわれみ豊かな神は、尚も導き返して下さった。

人生の大きな進路だけでなく、日々の小さな事柄の中に、御心から
逃げたいと思う時、丁度そこに反対方向行きの船があるものだ。そ
れに乗りたい誘惑が来る。必ず反対向きの船をサタンが用意してい
る事を覚え、御心のほうに従おう。測り知れない、大きな祝福が待
っている。
------------------
御心に従おうと思ったとたん妨害が来のを経験する。ましてや逃げ
たい導きならどうだろう。ちょうど良い他の何ものかが、思考の中
にも目の前にもやって来る。主の御顔を避けず御心の中を歩みたい。



2014年06月03日(火)

「主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない』」ヨブ1:12 



私たちは、時に、突然、試練に会うことを経験する。穏やかに、平
和な日々を過ごしていたのに、突如として、非常に困難な、厳しい
状況に陥っていたりする。何が、どうなったのかと、驚き、大きな
不安と恐れに襲われる。経験した事があるだろう。主は、私たちが、
より神に近くなるようにと、あえて困難を許され、大嵐を許される。

大嵐の中では、何が、どうなっているのかもわからず、又、先も見
えず、苦しいばかりだ。もがき、あらがう。しかし、余りにも苦し
いので、主をあがき求めて行く。きれい事など言っておれず、心底
の叫びをもって、主に祈る。そして、この大嵐が過ぎた時に、一段
階、成長が与えられていて、新たに主を経験し、益とされている恵
みを知る。主に近づけられていた事を知る。

ヨブも、突如として、これ以上無いほどの試練が臨んだ。舞台裏が
あり、サタンが神にヨブを中傷して来た。ヨブが神を信じ、従って
いるのは、見返りがあるからだと。利得を求めての、ご利益信仰だ
と。神は、ヨブの信仰を認め、忠実な者だと認めておられたので、
サタンの試みを許可された。神はヨブを信頼しておられた。

あなたが苦しい時も、主はあなたを信頼し、じっと見守っておられ
る。そして、「主がヨブになさったことの結末を見たのです。主は
慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方」今の試練に結末がある。
そして、サタンが働けるのも、全主権を持つ主の、許可の範囲内だ。
-------------
穏かな日々では知りえない自己中心な自我が試練の中で露わになる。
しばらくは風に翻弄されていても必ず主のもとに着地できる。主が
私を信じ、手を取っていて下さるからだ。試練の中でも必ず主を賛
美する日が来る。


2014年06月02日(月)

「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない」ヘブル4:7


あるクリスチャンホームで育った青年の証しだ。段々、成長する
につれて、いつしか礼拝出席が喜びの無い、重い義務となり、止め
てしまった。しかし、神を離れていると、心にとがめが来るのだっ
た。なぜなら、小さい時からずっと、神を礼拝するように、教えら
れていたからだ。やがて、心重く、惨めな気持ちになって行った。
だが、それでも礼拝には行く気になれず、行かなかった。

段々、気持ちがしんどくなって来た。心に、子供の頃、教会学校で
聞いた聖書の事や、主のことがふと浮かんで来たりする。行った方
がいいんだろうな、との思いも来る。ある日曜の朝、「今日、行く
ように」との何か聖霊の促しを感じた。その御声に従い、その日、
思いきって礼拝に行った。その日以来、ずっと行けるようになった。

沢山の人々が、自分のために祈ってくれていた事を知った。祈りに
答えて、聖霊が働いて下さった。私たちも、主の御声を聞いた時に、
心を頑なにしないで、従うことが大切だ。御声と共に、主は従う力
をも与えて下さる。だから、御声を聞いて、一歩踏み出すなら、行
なうことができる。必要な力が臨む。

そして、従って行く時、私たちは変えられる。成長して行ける。自
分で何かをしようとするのでなく、御声に聞き従うことが大切だ。
今、何かを示されているなら、心をかたくなにせず、従おう。大き
な祝福が備えられている。
--------------
聞いて従った者だけが、さらに御声に耳をすます。従った後の深い
平安と祝福を知るからだ。今日語られる御霊の導きに素直に応答し
て行こう。


2014年06月01日(日)

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエ ジプト人の主人の家にいた」創世記39:2 


人には、多くのプランがある。あれを、これをしよう、様々な思い
がある。「しかし主のはかりごとだけが成る」の通り御心だけが成
就する。自分の肉の思いがあれこれあるが、自分の思い通りになら
ない。

ヨセフは兄達たちの妬みを買い、隊商に売られ、全く見知らぬ異国
の地へ。ヨセフの孤独、不安、恐れはどんなものだったろう。しか
し、そこで主のゆえに、主人に忠実に仕えた。主人に信頼を寄せら
れ、全財産を任せられた。「主がヨセフと共におられたので」が鍵
だ。これは主による事であった。

しかし次には、主人の妻の悪巧みで、無実の罪で投獄に。が、そこ
でも「主が共におられ」、監獄長の心にかない、全囚人の管理を任
された。主によることであった。やがて出獄かと思いきや、献酌官
長との約束は忘れられ、尚も2年が過ぎた。

神の時は何と長いのだろう。結果的に2年だが、その渦中では、先
は全く見えない。どんなに試された事だろう。最終的に総理大臣と
なり、飢饉からヤコブ達を救う事になる。命を救うための神の大き
な計画であったことがわかる。

ヨセフにも自分のプランがあったろう。しかし、神の計画を受け入
れ、砕かれ、信仰も品性も鍛えられ、練られ、使命を全うできた。
主が私たちとも共におられる。何があっても、主から来ている。そ
こに主を認め、従って行こう。主の深いご計画がある。

・・・・・・・・・・・・・
思い通りでない環境、目の前の事態、偶然ではなく、たまたまでは
なく、そこに主のご計画があり意図がある。主に視点を置くなら、
パズルが埋められて行く。主が教えようとされていることが悟れる
よう祈ろう。