2014年07月31日(木)

「あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう」ハガイ1:8


現状をよく考えるようにと。主の宮が廃墟となっているのに、自分
達は板張りの家に住んでいてよいのかと、主が、ハガイを通して民
に語られた。多くの種を蒔いても少ししか収穫がなく、食べるが飽
き足らず、飲んでも酔えず、幾ら稼いでも穴の開いた袋に入れるだ
けで、満たされる事がないと。「わたしはそれを吹き飛ばした」と。
「わたし」による事だと言われる。

天は露を降らさず、地は産物を産出しない。神がストップをかけて
おられる。なぜなら、自分の家のために走り回っているからだと。
神は何かを告げたいがために、時に祝福を差し控えられる。神を忘
れ、自分のためだけに走り回っている時に、事態がうまく行かない
ようにされる。

立ち止まって、考えさせるためだ。行く道をふさがれる。気づきを
与えるためであり、それは神の愛だ。放っておかれたなら、どこへ
さまよってしまったかわからない。様々な人が、主を忘れて生活し
ていたが、せっぱ詰まったからこそ、主に助けを求め、主のもとに
帰れたと証ししている。

あなたも今、色々な事でギクシャクしているか。物事がうまく行か
ないだろうか。何かが空回りしているなら、立ち止まって、主に問
うてみよう。優先順位はどうなっているだろう。「ベスト」でなく
「ベター」の事柄に振り回されてしまっているだろうか。第一のも
のを第一に、軌道修正して行く時、すべてが秩序立って回り、平安
と喜びが来る。そして主は喜ばれ、栄光を現して下さる。
--------------
ただ受けるだけでよい第一のものを後回しにして、自分で自分でと
ベターのもののために走り回っていると、必ず主にとめられる経験
をする。静かに主のもとに座った時にベストとベターが明確にしめ
され霊肉が落ち着いてゆく。


2014年07月30日(水)

「聞いていることによく注意しなさい・・」マルコ4:24



信仰生活で、御言葉を聞くことが、非常に大切だと常に学ぶ。しか
し、ただ単に御言葉を聞けば良いというものでなく、「聞いている
ことによく注意せよ」と言われている。イスラエルの民は皆、モー
セから神の言葉を聞いていた。しかし、御言葉は聞いたが、それが
信仰へと結びつけられる事が無かったため、最後まで神を疑い、心
を定める事無く、聞き従わなかった。

結局は不信仰によって滅んでしまい、約束の地カナンに入る事が出
来なかった。サウルも、王の地位につくと御声に聞き従わなかった
ため、「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持ってい
ると思うものまでも取り上げられ」てしまった。御言葉を聞く姿勢、
態度は重大な結果に至ってしまう。

種蒔きのたとえと結びつけられている。「みことばを聞いて受け入
れ」て行くなら豊かに結実する。聞き流すのでなく、信仰に結びつ
けて、従う事が大切だ。「信仰は聞くことから始まり・・キリスト
についてのみことばによる」信仰はキリストの言葉を聞くことから
始まる。

御言葉から始まるのであって、自分の思い、自分の言葉が幾らぐる
ぐるしても、信仰は始まらない。神に聞く事からではなく、自分の
都合の良い言葉から始まっているだろうか。自分の思い、自分の言
葉でなく、「神の言葉」に聞き従う時、神の支配が現実の生活の中
に現わされ、神の栄光が現わされて行く。聞き従う時に「持ってい
る人は更に与えられ」て行く。
-----------------
御言葉を信仰で受け取り従って行く中で、罪に気づき悔い改めたり、
主の助けや導きを与えられ、更に次へと信仰を加えられる。いのち
の御言葉を信仰で聞き、備えらている今日の祝福を受けとろう。


2014年07月29日(火)

「・・すべて王が命じたとおりにした。その後、神はこの国の祈りに心を動かされた」Uサムエル21:14 




ダビデの時代に3年間続くききんがあった。3年もききんが続くとは、
非常に厳しい苦しい事態だ。普通、苦しい事があると「神様、助けて」
「この状況から救い出して」「すぐに何とかして欲しい」と祈るもの
だが、ダビデはそうではなかった。この事がなぜ起きているのか、主
は何を言おうとしておられるのか、主のみこころを問うた。この事の
原因を求めて行った。

すると、主は、サウル王の時代にギブオン人達を殺した罪があると示
された。イスラエルは、ギブオン人と盟約を結んでいたにかかわらず、
サウルは彼らを殺してしまったのだ。神は罪については、必ずその責
任を問われる。それに対してダビデは、ギブオン人達に「私は何をし
なければならないのか。何を償えばよいのか」と誠意をもって対応し
た。

彼らは、サウルの子供達を引き渡すよう要求した。ダビデは彼らの要
求に応えて償いをした。すると、その後、神はこの国の祈りに心を動
かされた。罪が祈りを妨げてしまう。ギブオン人にきちんと償うよう、
罪の対処をするようにと、主は飢饉を送られた。飢饉の御心を求めた
ダビデは正しかった。

しばしば、祈りが的はずれになってしまう。私達も、身に起こる様々
な出来事は、主から来ている。主には目的があり、無駄な事は一つと
してない。一つ一つの事を通して、何より主が教えようとしておられ
る事を、悟れるようによく祈ろう。その事の御心を求めよう。
-------------
聞かれた祈りばかりに目が行き、聞かれない祈りの原因が自分の側に
あることに気づけないでいるのかもしれない。一つ一つの祈りの周辺
をよく吟味し、主の御心はどこにあるのか悟れるように祈りたい。


2014年07月28日(月)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11


主は、私たちの心に語りかけて導かれる。サタンも同じことをする。
サタンも私たちの心に語りかけて来る。御心を示され、行なおとす
ると、サタンはささやいて来る。「面倒くさい」「しなくてもいい
んじゃない」「しても何にもならないよ」。又、罪に誘惑して来る
時も、語りかける。「誰でもしてるよ」「一度くらい、いいんじゃ
ない」「悔い改めればいいじゃない」。

サタンは、エデンの園でエバに吹き込んだ。「善悪の知識の木の実、
食べても大丈夫だよ、死なないよ」「それを食べると神のように賢
くなるんだよ」。サタンの声をどんどん聞いて行くと、サタンに説
得されてしまい、神に対する畏れをそがれてしまう。神に従わなく
ても、何でもないように思えてしまう。

サタンに聞いて行くと、神の言葉をないがしろにさせられてしまう。
サタンの力と策略をよく覚えて、祈りと御言葉に立っていよう。サ
タンには凄まじい力があり、且つ巧妙だ。「御霊の与える剣である、
神のことばを受け取りなさい」、主からの御言葉を受け取り、「い
のちのことばをしっかり握って」「自由の律法を一心に見つめて離
れない」でいよう。

「どんな時にも御霊によって祈り」「そのために絶えず目をさまし
て・・祈りなさい」。サタンが絶えず語りかけて、「火矢」を飛ば
して来る。祈りにより、御霊が、サタンの攻撃に気づかせて下さる。
今も誘惑が来ていないか。気づきは御霊による。まずサタンに気づ
けた事に感謝し、主に頼ろう。
------------
日々、主と交わっているようにサタンからの強い影響も受けている。
誘惑や偽りをもって主から私たちを離そうとしてくる。平安がない
時はサタンと会話して行っているのかもしれない。主に祈りサタン
に立ち向かおう。


2014年07月27日(日)

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩 むことがなく、いのちの光を持つのです」ヨハネ8:12 


人からほめられる事は好きだが、人から自分の欠点や足らない所を
指摘されたなら、どうだろう。ムッとするだろうか。怒りが湧く時
などは、まさにその指摘が的を射ていて、当たっているのではない
か。
その通りだから、痛い。そこに固い自我があり、自我にぶつかるの
だ。そこを見たくないので、相手に食ってかかったり、逆に言い返
し、相手に攻撃的な行動に出る。

まさに自分の触れたくない、認めたくない、頑なな部分がある。し
かし、そこにしっかり目を留め、向き合おう。同じケースが何度も
起きているはずだ。繰り返されている事柄が無いだろうか。主が、
その部分を取り扱っておられる。よく祈ってみよう。御霊の光で心
の内を探っていただこう。

何に触れるのだろう。プライドだろうか、虚栄心か、体面だろうか。
平安を失っているのは、何によるのだろう。自分の弱さを、主の前
に認め、主の前に置いているなら、その上で、主に受け入れられて
いることを知り、実感しているので、人から何か言われても、傷つ
くことはない。

自分の内側の、自分でも見たくないものを直視しよう。主は、愛し
て下さっているので、そのところを示し、気づかせ、癒したいと願
っておられる。自由にして下さる。うすうす気づいているそのとこ
ろを、主に告げて、祈って行こう。取り扱い、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
日常生活で、いつもいつも思い浮かぶこと、絶えず思っている事に、
そこに心がある。もしネガティブな事なら、主に、自分に向き合お
う。そこのところを自由にし、平安と喜びに変えて下さる。


2014年07月26日(土)

「少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、 こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう」ヨハネ6: 9


主は、ご自分では、しようとしている事を決めておられた上で、ピ
リポに「どこからパンを買って来ようか」と問われた。ピリポは
「200デナリのパンでは足りない」と答えた。人間的、常識的判断
だ。手元の金額と人々の入り用を計算すると「足りません」が答え
だ。

ところがアンデレは、何か食物を持っている者はいないかと、群衆
の中を探し回った。そして小さな弁当を持っている子供を見つけ出
して連れて来た。それは五つのパンと二匹の魚であった。これは、
あるいは、主が何かして下さるのでは、と思ったのか。

「あるいは・・しかし、こんなに大勢では何になろう」主への期待と、
しかし、大勢過ぎて無理か・・の思いが行き来する状態だった。だが、
主は、このアンデレの、行き来するような信仰を用いて、この奇跡
をされた。

ここで学ぶ事ができる。「足りない」との判断、答えは、自分を軸
にした見方、視点に立っている。それを自分軸でなく、神を軸にし
た視点に変える事が必要だ。時間が無い、能力が無い、経費が無
い・・だからダメ、それはあくまでも自分の視点であって、しかし主
はどうだろう。

自分には出来ないが、主には出来ないだろうか。5つのパンと2匹
の魚、「それが何になりましょう」こんなものが何になろうと思う
だろうか。しかし、それを主の手の中に置くなら、驚くべきみわざ
をして下さる。

・・・・・・・・・・・
5つのパンと2匹の魚を、自分の手の中に置いておくなら、5つの
パンと2匹の魚で終わりだ。しかし、それを主の手の中に置くなら、
大勢の人々を満腹させるために、用いられる。どんなに小さくても
関係ない。主の手の中にあるかどうかだ。


2014年07月25日(金)

「完全な律法、自由の律法を一心に見つめて離れない人は・・事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25



ある人が、職場で厳しい問題に直面していた。プロジェクトがうま
く行かず、行き詰まっていた。対人関係でも苦しい問題を抱えてい
た。心は重く、苦しく、仕事にも生活にも、どっちを向いても、身
動きが取れない状況だった。どうにもならず、せっぱ詰まって、主
の御前に出た。心の内をことごとく告げながら祈っていた。

すると、やはり祈りが大切と、「わたしを呼べ」「絶えず祈りなさ
い」と祈るように示された。多忙の心のしんどさで、祈りの時が全
く持てていない状況で、祈りの重要さを今一度教えられた。他に何
の方法も無いので、とにかく従おうと、祈る事を始めた。朝のデボ
ーションで、又、道を歩きながら、雑用をしながら、祈りを実行し
た。

言われた通りに祈りを続けていると、今まで気づかなかった事を教
えられた。「自分が」「自分が」と自分が先に立ち、自分が頑張り、
自分の力で行なっていた事に気づかされた。この行き詰まりが無け
れば、更に自分の頑張りで進んでいた。肉の頑張りを認め、明け渡
す事ができた。肩から力が抜け、平安で満ちた。

しばらくすると、仕事が導かれ、軌道に乗り出した。対人関係も解
決の糸口が見えた。御霊に示された通りに従った時に、御霊が働か
れて、目の前が動いて行った。示された事に従うことが大切だ。従
う時に、神のみわざを見る。今、示されている事に一歩踏み出そう。
-------------
御言葉を聞くとすっかり行っている気分になるが、ひとたび御言葉
に従おうとすると、如何に今まで従っていなかったかに気づく。示
された事を行うと意志を向けるだけでも、すぐその幸いに気づく。


2014年07月24日(木)

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」詩篇1:3



詩篇記者は、本当の喜び、本当の平安、幸せを教えている。それは
「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさ」んで生き
て行く人だ。いつも御言葉から離れず、御言葉に親しみ、御言葉を
喜びとし、その御言葉を口ずさみ、思い巡らし、反すうして、生き
て行くことだ。

勿論、御言葉を読むだけ、聞くだけでなく、語られた御言葉に一つ
一つ従うことが大切だ。そんな人は、真に幸せな人だと。それは、
水路のそばに植わった木のようで、絶えることなく水分が豊かに供
給されるので、その木は生き生きとし、葉は青々と繁り、水分にこ
と欠くことがないので、葉は枯れない。御言葉を喜び、絶えず思い
巡らす人=水路に植わった木だ。

そして、「何をしても栄える」と。何をしても栄えるとは、単に商
売繁盛やサクセス人生ということでなく、むしろ信仰ゆえに、経済
的にギリギリの生活になるかも知れない。又、病気やけがをしない
という事ではない。ある時はリストラや、経済的困窮や、健康上の
問題や、対人関係の悩みを通るかも知れない。

主は私たちの益のために、信仰の成長のために、試練を通される。
しかし、その人は、試練も含め、すべてを通して、栄える。試練を
通して神の栄光を現して行く。何と幸せなことだろう。どんな状況
の中でも、主のおしえを喜びとし、思い巡らし、生きて行くなら、
神の時に実を結び続けて行く。
--------------
実が豊かな水を受けた結果であれば、実より、水路に留まり続ける
ことに目を向けていたい。祈れない時、喜べない時もあるが御言葉
はなんと言っているだろうと御言葉を開き、また思い巡らすことで
知らず知らず豊かな養いを受け続けている。


2014年07月23日(水)

「激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める」箴言15:18  




時にニュースで、隣人を殺害するという事件を目にする。犬の鳴き
声やピアノがうるさいとか、又、地境のことで、もめたりして事件
が起きる。どんどん怒りがエスカレートし、どのように処理してよ
いかわからず、相手を殺害するに至ってしまった。

カインとアベルがささげ物を献げた時に、アベルのささげ物は受け
入れられ、カインのものは受け入れられなかった。その時に、カイ
ンはひどく怒り、顔を伏せた。主は御声をかけられ、罪を治めるよ
うにと。カインは、主に問うて、正しく献げ直すことができた。し
かし、その怒りは、妬みとなってアベルに向かい、アベルを殺害す
るに至ってしまった。

私たちも、怒りを、正しく処理することが大切だ。怒りに身を任せ
てしまってはならない。怒りを爆発させてしまうと、後悔してもし
きれないことになる。私たちは、感情的になりやすく、すぐに感情
的反応をしてしまう。しかし、そのまま感情的になると、取り返し
のつかない事になる。人間関係を壊してしまう。少し待って、冷静
になることが大切だ。

この怒りはどこから来ているのか考えてみよう。傷つけられると、
人は怒るものだが、どう自分は傷ついたのか。又、どのように思い
通りにならないから怒っているのか。落ち着いて主と交わり、心の
内を主に告げながら、照らしていただこう。主は正しく導いて下さ
る。そして大きな失敗から守られる。
----------------
怒りの感情に支配されると自分が正しいとしか見えない。私を怒ら
す全てが悪い!になる。怒りの感情を主にあずけることが出来るよ
う、一人で怒りを内包せず、すぐに主のもとに行こう。


2014年07月22日(火)

「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと・・主の園のように・・どこもよく潤っていた。それで、ロトはそのヨルダン全体の低地を選び取り」創世記13:11 




アブラハムは神の示しを受け、故郷を出て、約束の地へと立つが、
甥のロトも伴った。やがて神の祝福により、家畜も大いに増し、双
方の使用人同士でもめるようになった。もはや一緒に暮らすのは困
難で、解決策が必要になり、アブラハムはロトに提案した。別れて
暮らす事、目前の広大な土地の選択権はロトに与えると。

争いは、自分の利益を求める事から起こる。相手を先にすれば、自
分が損をするとの考えだ。しかし、アブラハムは信仰に立った。す
べてを神に委ねていたので、ロトに優先権を与える事ができた。彼
は神を信頼していた。ロトは最も肥沃に見える地を選んだ。しかし
その後、アブラハムに「さあ、目を上げて見渡しなさい」「この地
全部を」「あなたとあなたの子孫に与える」と言われた。

神に明け渡したアブラハムは、結局全部を得る事になる。ロトは、
伯父に譲る事もなく、判断に神はなく、祈りも無かった。結果的に、
ロトが住んだソドムは、罪深い地であり、滅ぼされてしまった。財
産は全部失い、妻は塩の柱となり、娘達は後に罪を犯した。悲惨な
結末だ。

アブラハムもかつて失敗をした。エジプトへ下り、妻を妹と偽り、
保身に走った。しかしアブラハムはそこから学んだ。私たちも、選
択の際には、肉の判断でなく、まず神を仰ごう。祈り、神に判断を
求めよう。
-------------
失敗しないよう損をしないようと決断はいつも迷うが、主と共に歩
めるから感謝だ。全ての道で主に尋ねて行ける。祈って主の御声を
聞き分け歩むなら、例えやせた土地に見えても主の祝福も共にある。



2014年07月21日(月)

「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人たちだな。なぜ疑うのか』」マタイ14:31


 

弟子達が、主から舟に乗せられ、岸へ向かうところ、湖で強風に会
った。何とかしなければと悪戦苦闘の最中、主が湖の上を歩いて来
られた。「幽霊だ」と間違うほど、弟子達には非常な驚きであった
が、その時、ペテロが、主のもとに行きたいと願った。ペテロは御
言葉さえあれば、可能だと信じた。その信仰はあった。主はその願
いを聞かれ「来なさい」と言われた。

その御声を聞いて、ペテロは舟から出て湖面に足を下ろし、何と水
上を歩いた。ところが、主から目を離し、風を見た途端に、突然恐
怖に襲われ、沈み始めた。余りの恐怖で、「主よ、助けて下さい」
と叫ぶと、主は「すぐに手を伸ばして」ペテロを助けられた。ペテ
ロは風を見た途端、常識の世界を見た。今、自分は何をしているの
か、こんな事が有り得るはずがない、人が水の上を歩くなどと。

私達もしばしば経験する。神の御心を歩むなら、神がすべての必要
を満たすと約束されている。しかし降って湧いて来るわけでなし、
どうやって満たされるのか。この世と違う価値観ゆえ、仲間はずれ
にされたり、笑われたり、相手にされなかったりする。この新しい
生き方で本当にいいのか。神に従って行って大丈夫なのか。この世
でやって行けるのか。

又、忍耐し、赦すなど、相手を図に乗らせるだけだ、ピシャと言え!
報復せよ!「常識」の湖にぶくぶくと沈んでしまう。今、足元ぐら
ついているだろうか。今一度、状況でなく、「来なさい!」と言わ
れる主を見上げ、世の価値観でなく、「信仰」で進もう。主がつか
んで下さっているのだから。
------------
不可能だと見える現実ばかりが目の前にある。だから信じて歩まな
ければ飲み込まれて行く。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れる
ことはない」との主の御声は、どの場面にあっても力強く私たちを
引き上げて下さる。



2014年07月20日(日)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことの ための計らいとなさいました」創世記50:20 


ヨセフは、兄たちの妬みによる悪意で、隊商に売られてしまい、エ
ジプトへ。父から離され、見知らぬ地へなど、どん底に落とされた
事だろう。紆余曲折があり、結果的に、飢饉から家族の命を救うこ
とになる。

ヨセフは兄たちでなく、実は「神が」私を遣わされたと言った。神
は、私たちの身に起こった最悪の出来事を、良いものに変えて下さ
る。何と感謝なことだろう。時に、人から、悪を計られることがあ
る。しかし、それをも、神は良いことのための計らいとされる。

そのため、人から何かされることがあっても、まず落ち着いて、事
態の経過、行方を見て行けばよい。そこに神がおられ、神が働かれ
るからだ。良きことにされる、祝福を信じて行けるとは何と幸いだ
ろう。状況がどうであれ、信仰による平安が与えられて、生きて行
ける。

しかし、私たちは、そこに神を見るのでなく、自分が思う最善が、
自分の幸せだと思っている。だから自分の思い通りに物事が行くと、
幸せであり、満足する。反対に、自分の思い通りにならないと、い
ら立ち、幸せなど到底感じることができない。不満でいっぱいだ。

問題の根に「自分中心」がある。自分の思い、自分の計画、自分の
価値観、それを大切に握っているので、妨げとなり神視点に立って
見れなくなってしまう。そこを明け渡して行く時に、神視点に移っ
て行く。

・・・・・・・・・・・
目に見るところは、兄たちの悪意によるしわざだったが、信仰に立
つと、「神が」そうされたと受け取れる。そして、パズルがつなが
るように、そこを通されたこと、親族の命が救われるためであった
こと、壮大なご計画の内にあったことがわかる。


2014年07月19日(土)

「あなたがたが、私から学び、受け、聞き、また見たことを実行し なさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてください ます」ピリピ4:9


私たちは、御言葉に従い、御心を行ないたいと願う。しかしうまく
行かないだろうか。従いたくない事柄なら、肉が反応してしまい、
何とか引き延ばしたり、言い訳したり、ぐずぐずしてしまう。それ
以前に、スルーしてしまっているかも知れない。肉の思いの、その
背後に、敵であるサタンが働き、従わせないように妨害してくる。

振り返ってみる時、どうだろう。好きな事はスムーズに行くが、嫌
いな事なら、感情がネックとなって、行なえない。サタンはとりわ
け感情に大きく働いて来る。感情は置いておいて、意志で従って行
くことが大切だ。又、犠牲を払うことを嫌がる心があるだろうか。
喜びや祝福は欲しいのだが、時間、労力、金銭を献げることを惜し
んでしまい、御心を行なえなくなる。

又、人にどう思われるか、人の目を気にする心、又、自分を変えて
行くことは、エネルギーのいる事で、つい安楽な方に流れてしまう。
そこに様々な自我との戦いがある。御心を行なう際の、不安や、思
い煩い、恐れ、又、面倒だと思う心、そんな肉の思いが湧いて来る。

御心を行なおうとする時、必ずサタンは妨害して来る。大きな祝福
を知っているので、奪ってしまいたい。まずその心の内を、主に祈
ろう。率直に心の内をあるがまま告げて、助けを求めよう。主は心
を導いて、御心が行なえるよう助けて下さる。祈って行く時、不思
議に行なえて行くことを経験する。目の前の事態を主にもって行こ
う。

・・・・・・・・・・・・・
自分でしようとすると、できない。「できません」「したくありま
せん」とありのままを祈って行くと、少しづつ心が変えられて行く
から不思議だ。拒否反応で固い心も、少しづつ溶かされて行くこと
を経験する。


2014年07月18日(金)

「ヨルダン川の水ぎわに来たとき、あなたがたはヨルダン川の中に立たなければならない」ヨシュア3:8


       
                   
祭司たちは、契約の箱をかついで、ヨルダン川に足を踏み入れた。
それは丁度、春の最も水かさが増える時期であり、自分の背丈より
も深い川に入って行こうとした。目に見える何の保証もなく、ただ、
ヨシュアの言葉だけであった。「足の裏が、水の中にとどまると、
上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つように
なる」。

先に、川の水が、そのようになってから、渡るならいとも簡単だ。
誰でも渡れる。しかし、まだ川の水が岸一杯に溢れている時に、足
を水の中に入れる事は、決して簡単ではない。そこには信仰が必要
だ。語られた御言葉に従うことが信仰であり、信仰もって従う時、
いつも神のみわざを見る。

何も見えなくとも、御言葉に一歩従う時に、確かに神が見えて来る。
私たちは、見えない状況は非常に不安であり、恐れがあり、少しで
も見えたなら従おうと思う。しかし見えたなら、信仰は要らない。
見ているものを信じる必要がない。

先にヨルダンの水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、
せき止められた。この順序は重要だ。見てから従おうとするなら、
一生従えない。今、一歩を踏み出すように示されているなら、御言
葉を頼りに、何も見えない中で、踏み出そう。神の素晴らしいみわ
ざを見ることになる。
------------
御言葉を信じて従い、そこで神様を知れた経験が更に信仰へと進ま
せてくれる。踏みとどまらず、目の前の御言葉の一つ一つを信じ、
神様が見せようとしておられる栄光をしっかりと見ていこう。


2014年07月17日(木)

「彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った・・『主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください・・』」T列王19:4




エリヤはバアルとの戦いで、奇跡的な勝利を遂げた。しかし、怒っ
たイゼベルのエリヤ殺害の脅しに怯えて逃げ出した。あれほど勇敢
に戦い、勝利したエリヤであり、信じられない行動だが、霊的勝利
の後は、特に危険と言われている通りだ。戦っている最中でなく、
勝利の後にサタンの攻撃と誘惑が臨む。特に大勝利の後こそ、身を
引き締め、慎み、へりくだっていっそう神に拠り頼む必要がある。

あの信仰と祈りで戦ったエリヤが、恐れの余り、自分の命を救うた
めに逃げたのだ。この事の原因は、イゼベルの言葉だった。神の言
葉よりイゼベルの言葉を受け入れてしまった。どの言葉を聞き、ど
の言葉を拒むかは極めて重要だ。その言葉に自分が動かされてしま
う。私たちは心にどの言葉を入れているだろう。神の言葉か、ネガ
ティブなサタンの言葉だろうか。

常にサタンは妨害して来る。神はエリヤを眠らせ、食事をとらせ、
十分な休息を与えられた。身体の回復を与えられ、ホレブの山に向
かわせ、山の上で主の前に立つように命じられた。エリヤはその細
い御声に耳を傾けた。神はエリヤの思い込みの間違いを正し、エリ
ヤに新たなる使命を与えられた。

死を願っていたエリヤだったが、再び、神の使命を成し遂げるため
に、立ち上がる事ができた。スランプから脱出するためには、身体
的休息を取り、神の御前に静まり、細い御声にじっと耳を傾けるこ
とだ。神との交わりから、新しい力が湧きいずる。再び立ち上がれ
る。
--------
御言葉も周りも見えなくなり霊的な喜びや平安が持てなくなる時は
疲れているのかもしれない。祈りもできない疲労感に襲われること
もあるだろう。私は疲れていると認めよう。そして休もう。



2014年07月16日(水)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2:13



「神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事
を行なわせて下さる」とあるように、御心にかなった志を与え、事
を行わせるのは、神だ。すべての主導は神にある。しかし、私たち
は何もしないのではない。事を行なうのは自分自身だ。そして、そ
れは、キリストの力が内に働くのであって、肉の力で頑張るのでは
ない。力は、主から来る。

祈って、何もしないのでなく、祈りつつ事を行なってゆく。例えば、
ピアノを習得する時、ただ祈っていれば、習得できるのではない。
又、どんなに弾き方を机上で学んでも、祈りと共に、日々、地道な
練習を積み重ねる事が必要だ。そうして行く時、ピアノを演奏でき
るようになる。語学やスポーツの習得も同様だ。幾ら方法を学んで
も、練習しなければどうにもならない。そして、その習得する力は、
主が与えて下さる。練習し続ける事ができるのも、祈りによる。

又、ある時は、自分に出来る事が何も無い場合がある。例えば、経
済的必要は「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」が御
心だが、事情があり、仕事が出来ない場合は、主は天から必要を必
ず与えて下さる。祈ればよい。もし、今、主から志が与えられてい
るなら、一歩踏み出そう。主が御霊の力によって、事を成し遂げさ
せて下さる。神の栄光が現われ、あなたも、周囲も恵まれる。
------------
主が与えて下さる志も、確信が揺らいだり、失敗を恐れたりとぐず
ぐずし、そのうち忘れてしまう。主の御心を肉で完全にやり遂げよ
うとする弱さを主はよくご存知だ。つぶやかず、疑わず主の御心に
従いたい。


2014年07月15日(火)

「それから、彼に次のような主のことばがあった」T列王17:2



主から命令を受けたエリヤは、アハブ王のもとへ行き、ここ2,3
年は雨が降らないと告げた。この事は大変な勇気が要り、信仰によ
る行動であった。様々な思いが巡っただろう。王の怒りに触れ、即
座に殺されるかも知れない。アハブは極悪王であった。しかし、エ
リヤは一歩踏み出し、主の命令に従った。

すると、次の示しが臨んだ。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン
川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ」と。その川の水を飲む
ように、食物は烏が運んで来るからと。「それで、彼は行って、主
の言葉のとおりにした」。一歩従う時に、次の示しが来る。エリヤ
は、又、次のその言葉の通りに従った。

すると、主の言われた通りに、烏が朝夕に、肉とパンを運んで来た。
貪欲な烏が食物など運ぶはずがない。主の奇跡だった。「そこであ
なたを養う」の通りに、ケリテ川でエリヤは養われた。主の御心に
従うなら、必ず「そこで」奇跡をもってでも養われる。ケリテ川が
枯れると、また「主のことばがあった」。一人のやもめに命じて、
養うようにしていると。

一歩従うと、次の導きが臨む。一歩従うことが大切だ。次へと展開
して行く。今、あなたにも主からの示しがあるだろうか。御言葉が
心に迫っているだろうか。御霊は助けて下さる。祈って、一歩踏み
出そう。大きな祝福にあずかる。
----------
世の常識では計り知れない主の奇跡は、従わなければ経験できない。
御言葉の通りに一歩踏み出して行こう。エリヤの訓練と奇跡は私た
ちにも臨んでいる。



2014年07月14日(月)

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」マタイ16:23 



ペテロは「あなたがたは、わたしをだれだと言うか」との主の問い
に、「生ける神の御子キリスト」と立派な答えをした。しかし、そ
の後、主が十字架と復活の事を話されると、ペテロは主をいさめた。
「そんな事が、あなたに起こるはずがない」と。主の十字架を「そ
んなこと」と言い、「起こるはずがない」と。主は、それを「サタ
ン」といさめられた。

主は、十字架を否定して、挑んで来る敵を見破られた。ペテロにす
れば、良かれと思い、主のために言ったつもりだ。しかし、それは
人間的な思い、肉の価値観であり、サタンの思いと合致し、神のみ
思いと正反対のものであった。本人は良いと思い、正しいと思って
いるのでわからない。しかし、結果的にサタンに導かれていて、罪
を犯すことになる。

本人は主のためであり、正しいと思い込んでいるので、ストレート
な罪よりもやっかいだ。「あなたは神のことを思わないで、人のこ
とを思っている」。サタンに欺かれ、肉の思いに進む時は、主の事
を忘れている時だ。目に見えない主が飛んで、目に見える、人と、
世の事に、心が奪われている時だ。肉に流されてしまう。

又、人からの賞賛、人からの愛や誉れで心を満たそうとする時、サ
タンにだまされてしまう。主より、人からよく思われたいとの思い
に引っ張られる。サタンは狡猾だ。御霊により肉の思い、サタンの
攻撃に気づけるよう、祈っていよう。
--------------
「そんなことが・・」と、本質も見極められず、目先の状況、肉の
反応に素直に従い言ってしまう自分の姿を見る。いつも目先のこと
しか見えない者だとへりくだり、サタンを意識していよう。背中を
押されている時、気づけるよう祈りたい。


2014年07月13日(日)

「神よ。私の祈りを耳に入れ、私の切なる願いから、身を隠さない でください」詩篇55:1


ここ詩編55篇で、著者は、仲の良かった友から裏切られ、胸も張
り裂けんばかりに苦しんでいる。苦しみも喜びも共にして来た同輩
である、親友が自分を攻撃して来る。それも最も恐ろしい敵となっ
て立ち向かって来る。いかばかりの悩み、苦しみ、恐怖だろう。

「私の心は、内にもだえ、死の恐怖が、私を襲っている。恐れとお
ののきが私に臨み、戦慄が私を包んだ」とあるがままの、おびえた
心の状態をそのまま告げている。荒野へ逃げたいと言っている。そ
の荒野こそが私の逃れ場と。いつも試練から逃げるなと学んでいる。

しかし、逃げたいと率直に主に告げている。自分で何とかしようと
せずに、まず主にあるがままの心をことごとく吐き出し、告げる事
が大切だ。その率直な祈りに主は答えて下さる。私たちも、不安、
恐れ、思い煩い、何もかもありのまま、主の前に吐き出す事が、ど
うしても必要だ。

主はそれらを受け止めて下さる。「私が、神に呼ばわると、主は私
を救ってくださった」著者は、主に受け止められ、救われた。「夕、
朝、真昼、私は嘆き、うめく」通りに、ことごとく吐き出す時に
「主は私の声を聞いてくださる」祈りが聞かれているという、確信
を得た。

主の救いを経験し、はっきり主との交わりを得た著者は「重荷を主
にゆだねよ。主は心配していて下さるから」と確信持って言えた。
著者のように「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています」
と、そのままの気持を告げて行こう。

・・・・・・・・・・・
まず主ご自身に、ありのままの気持ちも感情も率直に告げて行く時
に、心が変えられ、落ち着いて、御心を行って行ける。「逃げた
い」と率直に祈るからこそ、逃げないで受け止めることができる。


2014年07月12日(土)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民 イスラエル人をエジプトから連れ出せ」出エジプト3:10


80歳になったモーセが、神により、エジプトで苦しむイスラエルの
民を解放する指導者として召し出された。しかしモーセは尻込みし
た。以前、40歳の時に失敗した経験があったゆえに、今さら自分に
何ができよう、自分にできる事など何もないと思っていた。

「彼らは私を信じず、私の声に耳を傾けない」と。そんなモーセに、
主は数々の奇跡を見せて、この働きは、神の力によるものである事
を示し、促された。しかしモーセは尚も、「私はことばの人ではあ
りません。私は口が重く、舌が重い」と、上手に話す事ができない
と言い訳した。

そして自分がいかに無力であるかを言い続けた。すると、主は「だ
れが人に口をつけたのか・・それはこのわたし、主ではないか」と。
「わたしがあなたの口とともにあって、言うべきことを教えよう」
と。あなたの口が重くとも、そのままで良い。わたしが語るべき事
を教えると。わたしは、弱いあなたをそのまま用いる事ができると。

用いるお方は、全能の主である。この働きは、わたしの働きだと、
主は言われる。召し出されたからには、必要な力、知恵、導きを与
えて下さる。大事な事は、何もかもご存じの上で、主が、主のご意
志で、モーセを選ばれたということだ。「わたしはあなたとともに
いる」と。
もし、あなたも今、新しい導きを受けているなら、主があなたを選
ばれた。すべての必要と力は主から来る。信仰もって従い、一歩を
踏み出そう。

・・・・・・・・・・・
主が御心を示し、導かれるからには、必要な力を与えて下さる。自
分を見るなら尻込みするが、「あなたとともにいる」との約束があ
る。信じて足を出そう。選んで下さったとは、何と光栄なことだろ
う。


2014年07月11日(金)

「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた」マルコ5 :1 


日も暮れて来る夕方に、主はガリラヤ湖のこちらから、「さあ、向
こう岸に渡ろう」と言われた。舟に乗り込むや、極度の疲労により、
主は、とものほうで熟睡された。その時に、大嵐に会い、弟子たち
は右往左往、パニックに陥った。舟は波をかぶり、水がいっぱいに
なり、このまま行けば沈没だ。自分たちは溺れ死んでしまう。ベテ
ラン漁師が命の危険を感じるほどの嵐だった。

しかし、主は、そんな大嵐の中、全き平安と安堵で、何の心配もな
く眠り続けておられた。なぜだろう。「向こう岸へ渡ろう」との御
言葉だった。主の言葉は100%成就する。途中で何があろうと、
必ず実現する。そして、主が乗られた舟が、沈む事などあり得ない。
沈む事のほうが不可能だ。

主は「黙れ、静まれ」と風をしかりつけ、湖を静められた。主と弟
子たちは、主の言葉の通りに向こう岸に渡り着いた。ところで、今、
あなたにも嵐が襲っているだろうか。対人関係の悩み、信仰上の問
題、自我との戦い・・。

主は、あなたに言われている「さあ、向こう岸へ渡ろう」と。何か
を捨てる事、献げる事だろうか。誰かを赦す事か、あるいは、謝罪
する事だろうか。新しい環境に進む事だろうか。一歩前進を備えて
おられる。自我を砕き、向こう岸へ渡ろう。目の前で、波や風をな
ぎにして下さる主が同船しておられる。あなたの「向こう岸」は何
だろう。一歩踏み出そう。

・・・・・・・・・・・・
主が同船しておられ、どんな嵐が吹き荒れようとも、主と共に向こ
う岸に渡れる。渡らせて下さる。そして向こう岸で、ゲラサ人のい
やしが待っていたように、私たちも向こう岸で、更に新たな使命が
ある。


2014年07月10日(木)

「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、 ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを探し求めながら、 歩き回っています」Tペテロ5:8  



クリスチャンは、天国へ行くまで、一生の間、どんなに成長した
人々でも、必ずサタンの誘惑を受け続ける。サタンは、お腹をすか
せたライオンのごとく、食い尽くすべき獲物を求めて、常に狙って
いる。あなたの弱い所が要注意だ。サタンは熟知している。

ある人々にとれば、飲酒やギャンブルは何の誘惑にもならない。誘
惑にならない所には来ない。来ても仕方が無いからだ。自分の弱い
部分をよく知り、普段から祈り、見張っているなら、足もとをすく
われる事はない。サタンの誘惑が来た時に、御霊が気づかせて下さ
る。

自分の弱さはどこにあるだろう。高いプライド、人と比較して妬む
心、人からの賞賛を求める思い、短気、思い煩い、体面を気にする
虚栄心・・自らの弱点がサタンの標的となっている。サタンは誘惑を
しかけて来る。それは、必ずあなたの心に心地良い、フィットする。
肉の欲望に合致している。欲望と一つになっているので、誘惑だと
気づかない。

酒やギャンブルなら簡単だ。しかし、仕事や趣味、愛する人、好き
な事柄、それらは容易に偶像になるが、罪でないだけに気づかない。
誘惑は必ず甘い。心地良い。心が魅了されるものに気をつけよう。


「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」。祈って、心を見張
っていよう。そうするなら、誘惑は必ず来るが、それに陥る事はな
い。御霊が助けて下さる。

・・・・・・・・・・・
サタンは、私たちの内側を熟知していて、的確に誘惑して来る。余
りにも巧妙で説得されてしまいそうだ。しかし、祈りによって御霊
がサタンに気づかせ、更に益とされ、心の底にあるものも気づかせ
られる。主は成長へと導いて下さる。


2014年07月09日(水)

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」ヨハネ11:40 



主は、ラザロに明確な御心を持っておられ、それは病気を治す事で
はなく、死からよみがえらせる事であった。主は「あなたの兄弟は
よみがえります」と、ラザロはよみがえると、はっきりと言われた。
しかし、人々は信じなかった。主が墓に行くと、ほら穴には石が立
てかけてあった。ふさいでいる「その石を取りのけなさい」と言わ
れた。

しかし、死後4日経っていたので、「もう臭くなっているのに、何
を?」との反応であった。この固い石は、私達の信じようとしない
「不信仰」だ。そして「あり得ない」「不可能」との思いだ。それ
が、信仰をさえぎっている。心の底にあるだろうか。信仰が機能す
るためには、私達の内の、信じる事を拒む、頑なな心を、不可能と
の思いを取り除ける事が必要だ。

「神にとって不可能なことは一つもありません」。「あなたの兄弟
はよみがる」と言われ、「わたしは、よみがえりです・・わたしを
信じる者は死んでも生きる・・このことを信じるか」と言われた主
は、今一度、「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」
と言われた。そこで彼らは石を取りのけた。

その時、死からよみがえったラザロを、姉妹達のもとへ返された。
私たちはどうだろう。私たちの内にも、信じる事を妨げ、ふさいで
いる、心に立てかけられている「石」があるだろうか。信じようと
しない、固い自我だろうか。そのまま、主のもとへ行き、不信仰を
認めて、主に告白しよう。主は助けて下さり、信仰を与えて下さる。
そして、神の栄光を見せて下さる。  
--------------
主は、私たちの問題を知っておられ信仰を培おうとして下さるのに
、いつも主の栄光の現われを、自分の浅い経験や価値観まで引き下
げて、不信仰におろおろしてしまう。信じて待ち、望み主の栄光を
拝する者になりたい。


2014年07月08日(火)

「・・心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21 


 
イスラエルは、主が乳と蜜の地カナンに導くと約束して下さったの
に、入る事が出来なかった。不信仰のゆえだった。導き入れるとの、
主の言葉を聞きながら、心を頑なにした。「もし御声を聞くなら
ば・・心を頑なにしてはならない」のように、御声を聞くなら信仰
もって、受け入れる必要がある。もし語られた御言葉を無視し、な
いがしろにしているなら、自分の心が固くなり、ますます頑なにな
って行く。

私たちはどのように聞いているだろう。主が御言葉を語られた時も、
聞く人の心は様々であった。素直に受け入れる人、単なる好奇心だ
けの人、反抗的な人、傍観者として聞き流す人・・。又、石地のよ
うに、喜んで聞くが、自我にぶつかると、御言葉を捨て、自分の思
いのほうを通して行くだろうか。そんな心が耕される必要がある。
頑なな心でも、砕かれる時、素直にされる。砕きは祝福だ。御声を
聞く時、主の言葉を、その通りにそのまま受け止め、信じて行く事
が信仰だ。

この世は、目に見えるもの、手でつかむ事のできるものを確かなも
のとする。私たちは、目に見えないが、御言葉を真実なもの、確か
なものとする。そして、その語られた御言葉を、行なってゆくこと
が大切だ。実行して行く時に、初めて御言葉が身につき、そして豊
かな実を結んで行く。私たちはどうだろう。ただ聞いて通り過ぎて
いるだけだろうか。受け止め方を振り返ってみよう。
---------
御言葉を信じ従って行くなかで自分には見えなかった現実や主の御
心が悟れるようになってくる。自分の価値観で御言葉をより分ける
てしまいがちだが、固い心は耕されないまま残る。御言葉を素直に
受け入れ従って行こう。



2014年07月07日(月)

「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです」Tヨハネ2:9



兄弟を愛する者は、「光の中にとどまる」ことができて、決してつ
まずくことがない、とある。つまり、人がつまずくのは、光の中に
とどまらないからという事になる。「光の中にいると言いながら、
兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいる」やみの中にい
るしるしは、兄弟への憎しみ、さばき、敵対心、悪口だ。

兄弟への憎しみがあるなら、私たちはやみの中にいる。幾ら、自分
は光の中にいると言っても、御言葉がそう告げている。逆に、兄弟
を愛しているなら、その人は闇の中ではなく、光の中におり、真っ
直ぐに平安に歩んで行けると。自分が苦しく、辛くなる時、相手や
状況のせいだと思う。腹が立つ相手のため、苦しい状況のためにし
んどくて、落ち込んでいると。

しかし、実はそれは原因ではなく、自分と主との関係に原因がある。
問題はあなたと主との関係だ。人や状況が、あなたと主との関係を
さえぎる事など不可能だ。喜びと平安が無いのは、神以外のものを
求めるところから来ている。目が神以外のものに向いている。人の
愛を求め、人に認められる事、人の評価、賞賛を求めている。

心が神以外のものに向くなら、必ず不平不満、妬み、競争心が出て
来る。やみの中にいるからだ。心が苦しくなる時、まず自分と主と
の関係に目を向けよう。そこが平安になると、光の中だ。状況がど
んなに厳しくても、つまずく事なく、まっすぐに歩んで行ける。
-------------
主との交わりにとどまり続けるなら、人とは関係のない自分と主と
の関係だけが焦点になる。妬みや憎しみで苦い思いが生じれば即座
に主の前に平安がなくなっていく。光の中に留まっていたい。




2014年07月06日(日)

「・・しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてくだ さい」ルカ22:42


主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と、祈れと言われる。
祈りを喜んで下さる。そして、どんな小さな祈りも聞いていて下さ
る。ただ時に、私たちの思いと、神のみ思いが大きく異なる。「わ
たしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・わたしの思いは、あな
たがたの思いよりも高い」主のみ思いは遙かに高く深い。

私たちには、自分の願望があり、願いの通りに叶えて欲しい。しか
し、主のみ思いは異なる。例えば、もし、生まれつきの障がいがあ
れば、障がいがいやされる事が、祈りの答えだと思ってしまう。し
かし、もし、障がいがそのままでも、喜びと平安に満たされ、感謝
に溢れて、生き生きと生きるようにされる、それが答えであるかも
知れない。

祈りが聞かれるとは、自分の願い通りになる事とは限らない。ある
人が、自分には不都合な状態であり、厳しい状態だが、でも、「も
しこのままの方が主の栄光が現れるなら、このままで良いです、御
心のままに」と祈った。結局は、私たちの状態がどうであれ、私た
ちの目標は、神の栄光が現れることだ。

パウロは、トゲが取り去られるよう真剣に熱心に祈ったが、主は、
それがある方が、より栄光が現れると言われた。ある人はトゲが取
り去られ、ある人は残される。どちらも結局は、神の栄光のためだ。
主が自分に量って与えて下さるものを受け入れよう。そこに平安と
喜びがある。

・・・・・・・・・・・
しばしば自分の思いと、主のみ思いが異なることを経験する。自分
が思う良い事と、主の御心がずれてしまう。しかし、とにかく祈り
続けて行く時に、自分の心のずれを示され、教えられ、導かれて行
く。自分の思いから主の御心へと導かれ、変えられて行く。


2014年07月05日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5

 

「ゆだねる」とは、石を転がすということで、主の上に、あなたの
人生の重荷を転がしてしまうことであり、主にきっぱり手放してし
まうことだ。そして、「主が成し遂げてくださる」ので、成し遂げ
て下さる主に任せてしまう。

「主に信頼せよ」とあるように、そうすることが主を信頼すること
になる。その後は、「ああでもない」「こうでもない」と、くよく
よと思い煩う必要はない。主が成し遂げて下さるのだから。「あな
たがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがた
のことを心配してくださるからです」。

後は、神が心配して下さる。そして成し遂げて下さる。何と感謝な
ことだろう。転がした重い石は、今どこにあるだろう。主の上だ。
自分のところにはもう無い。主にお任せしたものは、主のお心の通
りに実現させて下さる。主のお心の通りなので、自分の思いとは違
うかも知れない。

しかし、主が良いと思われるように実現させて下さる。つまり、主
の御心が成る!それこそが最善だ。その実現の「時」は、こちらで
指図できず、主のお心のままだ。だから、待つことが必要であり、
ある答えは、長く待ち望んだ末に来るかも知れない。又、違う形で
答えが来るかも知れない。とにかくどうであれ、自分にとっての最
善が成る。だからこそ、目の前のその重荷を主に委ねよう。

・・・・・・・・・・・・
主に委ねたなら、その問題は主の上にある。その事を繰り返し〃
思い煩いが来る度に、確かなものにして行こう。又、委ねられない
事が一番の問題だろうか。現状を認めて「委ねられません」と祈っ
て行こう。その時、主が委ねる事ができるようにして下さる。


2014年07月04日(金)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



「主をおのれの喜びとせよ」とあるが、私たちは、何をおのれの喜
びとしているだろう。それは、心の底では、何を求めて生きている
か、となってくる。自分の願望、欲望が成し遂げられる事だろうか。
欲しいものを手にすることが喜びだろうか。ここでは自分の願望や、
欲しいものでなく、「主を」となっている。

私たちの心の奧を真に満たすものは、この世の与えるものではなく、
主ご自身であるからだ。真の満足と、本当の幸福は、主ご自身から
しか来ない。私たちは自分の欲しいものを手にした時に、一時的な
喜びがある。しかし、それは続かない。

経験あるだろうか。何がなんでも欲しい物であったのに、手にして
しまうと、しばらくすると飽きてしまう。又、心が冷めて、どうで
もよくなってしまう。真の心満たす喜びは、主からしか来ない。そ
してその主を第一として行く時、主のお心にそって求めて行くこと
になる。主の御心を願い、求めるので、その御心にかなった願いは
すべて叶えられることになる。「あなたの心の願いをかなえてくだ
さる」。

バルテマイは「わたしに何をしてほしいのか」と主に問われ、「目
が見えるようになることです」と答えた。その願いは聞き届けられ、
目が見えるようになった。主を求めるバルテマイの願いは、主の御
心にかなっていた。その証拠に、目が見えるようになって、大喜び
で、世に帰ったのでなく、「イエスの行かれる所について行った」。
まず、主を求めて行くことが大切だ。
---------------
与えられたものではなく、与えて下さる主そのものを喜びとしてい
たい。順境にも逆境にも主と共に歩むことができる。変わらぬ守り
と主にある平安を今日も感謝し喜び歩もう。


2014年07月03日(木)

「・・ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです 」マタイ18:15 



対人関係での、問題の解決の仕方が示されている。まず「ふたりだ
けのところで」と。何か問題があれば、最初に当事者同士で話すよ
うにと。当の相手でなく、まず関係の無い第三者のもとへ行き、当
事者のことをあれこれ話し、罪に定めていないだろうか。その結果、
それが巡り巡って当事者の耳に入る事になる。そうすると誤解が生
じ、余計問題がややこしくこじれる。その次の手段として、他の人
と共に対処するようにと。

当時、罪を犯した人は、大勢の人々の前で責められた。姦淫の現場
で捕らえられた女性も、大勢の人々の前で断罪された。しかし、主
は、彼女に一対一で向き合われた。「ふたりだけのところで責める」
とは、第三者を入れず、相手の人格を尊び、大切に扱うことだ。そ
れこそが罪を指摘することができる、信頼関係の土台となる。

大勢の人前で責められると、まず心を閉ざしてしまう。そして責め
る目的は「兄弟を得たのです」とあるように、兄弟を得るためだ。
単に断罪し、裁くためでなく、関係を建て上げ、培い、深めて行く
ためだ。罪を責める動機はどうだろう。愛によらず、単に自己正義、
義憤だけなら、更に関係を悪化させてしまう。

経験あるだろうか。主の動機はどこまでも「愛」だ。「もし誰かが
過ちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその
人を正してあげなさい」御霊に導かれて、愛によって語る時、その
言葉は用いられる。
--------------
動機は兄弟を得るためにだ。愛を持って罪の回復を祈り、最大限に
相手を気遣いながら用いていただこう。ただの裁きや罪の断罪であ
れば、口を開かず自分自身が主に向かい合おう。




2014年07月02日(水)

「神は、昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた」詩篇78:14 



主は、エジプトを出た民を、荒野の中で、雲の柱、火の柱を持って
明確に導かれた。主は私たちの信仰人生を導いて下さる。田原米子
さんの証しがある。母親の死後、気力を失い、自殺を図った。未遂
に終わり、身体に障がいを負ってしまい、今度こそ絶対に死のうと、
睡眠薬をためていた。そんな時、宣教師と一緒に、病院伝道に来た
田原さんと出会う。

最初は二人を拒否していたが、ずっと続けてくれる彼らに、やがて
心を開き、主を信じた。その後、田原青年から結婚の思いを告げら
れた。しかし義足で、腕は片方しかなく、指は3本しか残されてい
ない。この身体で、伝道者の助け手になれるのか。まず結婚生活が
できるのか。大きな不安と恐れの中、とにかく、この結婚が主の御
心かどうかを二人で真剣に祈り求めた。

祈りに祈っていた時に、米子さんに御言葉が与えられた。「もし、
あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして
祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえて下さいます」
マタイ18:19。それが、全く同じ日に、田原青年にも同じ言葉が与え
られた。別々に祈っていた中での事で、二人は主の御心を確信でき
て、結婚に至った。

主は導きを与えて下さる。人生の重要な局面においては、真剣に導
きを求めよう。主は答えて下さる。祈りを積んで行く時、これは神
にしかできないというような事が見せられる。主は必ず導いて下さ
る。
------------
これが正しい、こうするしか道はないと、良かれと思うことにも確
信はない。主の御心はどうか。主からの確信が与えられるから自分
の思いに固執せず捨てて歩める。雲の柱、火の柱を持って導かれて
いる主に、尋ね求めながら歩もう。


2014年07月01日(火)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26



多くの群衆が主のあとをついて、主を追いかけていた。しかし、主
を信じ、主に従うためではなかった。「パンを食べて満腹した」通
りに、主がされる奇跡を求めて、自分の願望を満たしてもらうため
に、追い回していた。主を求めてではなく、ただ、自分の願望が満
たされたいがためだった。

私たちの信仰が、自分軸で回るなら、自分の願いが満たされ、自分
の思いと合致している間は良いが、思い通りにならなくなった途端、
主から離れ去ってしまう。従う意味がないからだ。この世のご利益
宗教と同じになってしまう。

ある人が証しした。どうしても叶えて欲しい願いがあった。「求め
なさい。そうすれば与えられます」の御言葉に乗っ取り、懸命に求
めた。主にしがみつくように、祈り倒さんばかりに、祈りに祈った。
どうあっても与えて欲しくて、必死に祈り、願った。しかし、幾ら
祈っても与えられず、深い失望落胆に襲われた。そんな落ち込みの
中で、御霊に心を深く探られた。自分は、パンが欲しいだけなので
はないか。主が、パンのための手段になってしまっている。

自分の願望を満たすことしかない。自らの心を照らされ、涙ながら
に悔い改めた。赦しを受け取り、心がすっきりした。すると心が変
えられて、その願望自体が失せてしまった。もういいと思え、御心
のままにと思えた。それが不思議が起きて、その後、その願いが叶
えられて驚いた。主が、何より内側を正しく導いて下さった事に感
謝した。
------------
あれが欲しい、これを取り去って欲しいと、欲しい!ばかりの祈り
でも最後は主の御心なら感謝して受けますと、主に対する信頼を確
信して祈りを終えたい。主の御心ならたとえ奇跡が起きなくても希
望はなくならない。