2014年08月31日(日)

「彼が、『主よ。あなたはどなたですか』と言うと、お答えがあっ た。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」使徒9: 5       


サウロは、殺害の意に燃えて、クリスチャンを捕らえ、それが神の
御心であり、正しい事だと信じていた。ダマスコまで追跡した。そ
の時に突然、天からの光が来て、地に倒れた。そこで、主の御声を
聞いた。「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と。

地面から起き上がると、目が見えなくなっていた。サウロにとって
根底からくつがえされる、衝撃的な出来事だったろう。「わたしは、
あなたが迫害しているイエスである」とは。それから3日間、盲目
状態に置かれた。飲食もせず、真っ暗闇の中で、サウロは今までの
事、目の前に起きた事を考え、祈りに祈った事だろう。

サウロは「地に倒れた」時に、主の御声を聞いた。突っ走っていた
サウロは、主に倒され、御声を聞かせられた。私たちは全力疾走、
突進している時、周囲の事は見えない。行き詰まった時、失敗した
時に立ち止まる。私たちも、主は、停止させたいがために、挫折や
失敗を与えられる。

そこに主のご計画があり、大きな祝福へとつながって行く。又、今、
暗黒状態なら、主は祈らせたいと思っておられる。立ち止まり、振
り返り、又、現在の状況を見据え、主に祈ろう。「そこで、彼は祈
っています」

サウロは祈りの中にいた時、アナニヤが遣わされ、再び見えるよう
にされた。「目からうろこのような物が落ち」た。私たちも、行き
詰まり、暗黒を通過後、神がはっきりと、鮮明に見えるようにして
下さる。そして、なすべき事、御心がわかる。

・・・・・・・・・・
行き詰まり、立ち止まる中で、様々な事を考える。今まで来た道を
振り返り、主の御心を思い、自分の内側を探り、考える。そして祈
る。そんな中で、新たに主を知り、自分の奥底にあるものを見せら
れ、新しくされる。気づきを与えられ、すべてが益とされる。


2014年08月30日(土)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・守って くれます」ピリピ4:6 



「何も思い煩うな」と言われている。「何も」、いっさい思い煩う
なと。まず、そんな事で良いのだろうかと、肉は思う。そんな能天
気な事で良いのか。少しぐらい煩わないといけないのでは。「しか
し、私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいませ
ん」。

煩う必要はいっさい無い。「何も」思い煩うなと。では、思い煩い
に、どう対処すればよいのか。思い煩いが来るごとに、具体的に一
つ一つを神に告げよと、言っている。「あなたの願い事を神に知っ
ていただきなさい」、とにかく神に知って頂いて、その思い煩いを
神に委ねることだ。

そうするなら、神にその問題を渡してしまったわけで、問題は神の
手に渡り、もはや神の手の中にある。後は、神が御心にかなったよ
うに成し遂げて下さる。それゆえ、委ねて安心しておればよい。主
は、あなたにとっての最善をして下さる。

しかし、しばしばここで間違うが、自分が思う最善ではなくて、神
が私たちのために思われる最善だ。だから自分の思い通りになると
は限らない。だが、間違いなくあなたの最善になる。そして、「感
謝をもって」告げよと。

「感謝をもって」とは、主の御心を受け入れることだ。自分に都合
の良い結果でなく、主が良いと思われる結果でOKです、ということ
だ。その時、状況は変わらずとも、心に平安が来る。

・・・・・・・・・・・
自分の思い通りにならないので、思い煩い、そしてどうしても自分
の思い通りになって欲しいので、又、思い煩う。自分が中心にある。
どうであれ、主は益にして下さる、最善をして下さると信じて行く
時に、心が少しづつ変えられて行く。思い煩いから守られる。


2014年08月29日(金)

「私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです」Uコリント2:10 




ある人に、嫌がらせの無言電話が続いた。余りに続くと、精神的に
まいって来た。段々、日頃の対人関係を考えると、相手がわかるよ
うになってきた。普段からの言葉や態度を思うと、他には考えられ
ない。嫌がらせを思う時、平常からの言動や態度と共に、赦せない
思いで一杯になった。

その思いは、自分自身が辛く苦しい。しかし赦せない、憎しみが湧
き上がる。その内に、環境的に相手と関わる事が無くなり、会う事
も無くなった。だが、憎しみは無くならなかった。心にはっきりと
存在し、暗い重苦しい思いに支配された。多忙な日々には、紛れて
忘れているが、何もしていない時は、よみがえっては、苦しみに支
配された。

真っ暗闇の牢獄だった。楽しい時も、楽しくなく、ずっと囚われて
いるようだった。主のもとへ行き、祈った。心の苦しみをありのま
ま打ち明け、助けを求めた。この苦しみから解放されたかった。
御心に、従いたい気持ちを告げた。すると、相手を赦すようにと語
られた。

自分はできない、したくないが、でも、感情は置いて、意志を向け
て、意志で「赦します」と決心した。すると、心の重苦しさが消え
て、平安になった。楽になって、喜びが来た。心から感謝が溢れた。
その後、何とその相手から「申し訳なかった」との謝罪の手紙が届
き、驚いた。
-----------
サタンの策略を知らないわけではない。憎しみの背後に憎しみに閉
じ込め、主にある平安な日々を奪うサタンがいる。赦すことが牢獄
からの開放だ。憎しみがあるなら相手に反応するたびに主に祈ろう。



2014年08月28日(木)

「私たちは、必ず死ぬ者です・・どうか追放されている者を追放されたままにしておかないように、ご計画をお立てください」Uサムエル14:14 



ヨアブは、テコアから知恵のある女を連れて来た。ダビデはアムノ
ンの死をいつまでも嘆き悲しみ、アムノンを殺害したアブシャロム
を追放したままだった。ヨアブはその女を用いて、ダビデに何とか
アブシャロムを戻させるよう画策する。

女は知恵のある事を言った。「私たちは必ず死ぬ者」だと。地面に
こぼれた水はもう決して集めることはできない。元には戻らない。
死んでしまったアムノンはもう戻っては来ない。しかしアブシャロ
ムは生きている。彼まで失ってもいいのかと。

「追放されたままにしておかないよう、ご計画をお立て下さい」ア
ブシャロムを何とか戻すよう、考えて欲しいと。女はダビデに言っ
た「あなたさまには、神の使いのような知恵があり」と。知恵とは、
相手を赦すことであり、和解することだ。

ダビデはアブシャロムが戻る事は許すが、「私の顔を見ることはな
らぬ」と決して会おうとしなかった。「二年間、エルサレムに住ん
でいたが、王には一度も会わなかった」とのアブシャロムの言葉だ。
この後も、父子の間に、もめ事が起こって行く。子は父に謀反を起
こす。

ダビデは、悲しみと苦しみを更に重ねる事になる。赦せない心は、
害を広げて行く。まず赦せない心を、主に持って行き、助けを仰ご
う。「追放されたままに」している、赦せずに放置している事態は
無いだろうか。
------------
赦せない心は次の罪を生んで行く。遠くに追放して見ぬふりの問題
があるだろうか。赦せない思いを主に告げるとき、主の十字架が見
える。主にある和解へと一歩気持ちを進めよう。


2014年08月27日(水)

「ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです」マタイ19:30



先の者が後になり、後の者が先になるからには、何かの重大な理由
があるはずだ。それは、その働きの時間量でなく、動機や態度が見
られるという事だ。会社員が、働く時、動機まで問われる事は無い。
結果さえ出せば良い。それがこの世の価値基準だ。

しかし、神の国では違い、神が見られるところは異なる。ペテロの
「何もかも捨てて、従って来た、私たちは何がいただけるでしょう
か」との問いに、主が答えて語られた箇所だ。しかし、主はすべて
を捨てて従った弟子達のその動機を見られる。

園で働いた最初の者と最後の者達は、一日の終わりにその動機が明
らかになった。早朝の者は「一日中労苦を辛抱した」。辛く苦しい
労働であり、主人のために働く事はしんどい、辛い、したくない事
であった。同じ一デナリと判明した時には、不公平との不満と怒り
が爆発した。自分達にはもっと貰う権利があるとの立場だ。

実は早朝から収入が保証され、安心して一日働けたとは何という恵
みだろう。夕刻まで立っていた人々は、不安と思い煩い、恐れで一
杯だったろう。今日の糧が無い。仕事をしたくなくて怠けていたの
ではない。仕事にありつけなかった。

私達はどうか。信仰生活、感謝も喜びも無く不満タラタラ、神のた
めに、してやっているとの態度になっていないか。今一度、動機を
探られ、感謝と恵みに視点を向け、そこに立とう。
-----------
各々が神の目からみて等しく恵まれ愛されているのに、人と比較す
ると、とたんに自分の報酬を値踏みする。目を曇らされず、神と私
の関係、私に立てておられるご計画を見つめ今日も喜んでいたい。


2014年08月26日(火)

「その人は・・と言って、その場で彼を祝福した。そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ」創世記32:29



ヤコブは名のごとく「押しのける者」だった。神に従うのではなく、
神も人も押しのけて、狡猾な知恵と力で生きて来た。そのため父と
兄を欺いた。ずっと罪のとがめがあったろう。その罪から目をそら
せ、逃げて来たヤコブであったが、いつかは向き合わねばならない。

私たちも、考えたくなくて、先送りして来た問題があるだろうか。
どれだけ先延ばしにしても、必ずいつか正面から向き合わざるを得
なくなる。ヤコブも、とうとうエサウとの対面の時が来た。知恵を
絞り、思いつく方策を取るが、恐怖と不安は消えない。そこでヤコ
ブは祈った。苦しい時の神頼みだ。

そして、なだめの贈り物を用意し、兄の機嫌を取ろうとした。しか
し尚も恐怖は無くならない。ますます恐れは増すばかり。その時、
神がヤコブをつかまえられ、神と格闘した。これも、ともかくも祈
った祈りの答えだった。ヤコブは、20年前、家を出て野宿した時に、
神から約束が与えられていた。「地上のすべての民族は、あなたと
あなたの子孫によって祝福される」「あなたをこの地に連れ戻す」。

祈るが、約束を信じることができない。それでも、尚かつそのまま
祈る祈りを、主は答えて下さる。ヤコブは変えられた。イスラエル
に生まれ変わり、その所をペヌエル(神の御顔)と言った。神と顔
と顔を合わせ、神との深い交わりに入れられた。これこそが真の祝
福であり喜びだ。主の御心に求め、御心に歩む人生が、真に祝福さ
れた人生だ。
----------------
事前に幾重にも策を労し、祈りに祈って、それでも思い煩う。万全
の体勢とはなんだろう。主のみを頼りに助けを求め明け渡すまでは
決して安心はできない。不信仰も不安もすべて主に渡そう。



2014年08月25日(月)

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた」創世記21:19




女奴隷ハガルによりイシマエルが生まれた後、サラから約束の子イ
サクが誕生した。すると、イシマエルがイサクをいじめるようにな
り、サラは、イシマエルを追い出すよう、アブラハムに要求した。
アブラハムにすれば、どちらも自分の実子なので悩み苦しんだ。
しかし神の示しにより、ハガル母子を出した。

二人は荒野をさまよい、食料も水も尽きた。もう子供に何も与えて
やれず、ただ死を待つだけだ。この悲惨な状況に、ハガルの心はど
んなに嘆きと苦しみだったろう。絶望だ。ハガルは声を上げて泣い
た。しかし、神から見捨てられていなかった。「神は少年の声を聞
かれ」はしための子も、一つの国民とすると言われた。神の助けの
手が伸べられた「神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見
つけた」子供に水を与える事ができた。

その時に井戸が掘られたのでなく、そこにすでにあったものだ。ハ
ガルは井戸のすぐそばにいた。そばに井戸があったにかかわらず見
えなかった。私たちも学べる。信仰人生で数々の困難に出くわすが、
問題が問題なのではない。目が閉じている事が、目が見えない事が
問題なのだ。

ハガルが叫ぶと、神が目を開かれた。そして井戸を見つけた。絶望、
不信仰の中では何も見えない。真っ暗闇だ。問題の中で神に向き、
焦点を神に当てよう。そこに光がある。御声を聞こう。神に向いた
途端、目が開かれて、解決への糸口を得る。
-----------
見ようとしない、探そうとしなければ神の備えてくださっているも
のは目に入らない。絶望であるかのように見えてもそこに神は共に
おられる。動揺する心を沈めて、そこに神を認めよう。


2014年08月24日(日)

「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろう か」」詩篇121:1

 

都上りの歌となっていて、エルサレムへ巡礼の旅に出る時のものだ。
「山に向かって目を上げる」は、これから上って行くべき、困難な
険しい山々だ。非常に切実だ「私の助けはどこから来るのか」。助
けなど来るのか。エルサレムは遙か彼方であり、幾つもの山々が行
く手を阻んでいるかに見える。

当時の人々の旅は、今と違い、想像もできないほど困難で危険なも
のであった。今のようにちょっと都へというわけに行かない。途中
で病気になれば命を落とす。又、道中、どんな災いや危険があるや
知れず、無事に帰れるかどうかもわからない。そんな中で何が助け
になるのか。

エルサレムへの都上りは、膨大な困難の山を前に「助けはどこか
ら?」との問いとなり「助けは、天地を造られた主から来る」と答
えが来る。計り知れない困難はあるが、その山々を造られたのは主
だ。すべての状況も主が御手で治めておられる。

ある学生が、試験でカンニングをしてしまった。良心のとがめにさ
いなまれ、しかし親にも、誰にも言えなかった。苦しくてたまらず、
どうしてよいかわからず、主の御前にその事を祈った。その時に、
まさに御言葉が臨んだ

「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろう
か。私の助けは、天地を造られた主から来る」悔い改め、導かれて
行った。目の前に、困難の山があれば、私たちも同じく「私の助け
は、天地を造られた主から来る」。

・・・・・・・・・・・
途方に暮れることがある。「私の助けはどこから来るのだろう?」
しかし明確な答えがある。「私の助けは、天地を造られた主から来
る」。助けは、主から。どんな時にも、主から来る。目の前のその
問題を主のもとに持って行こう。


2014年08月23日(土)

「・・彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なの です。彼らの思いは地上のことだけです」ピリピ3:19


主をメシアと認めない当時の人々や、未信者でなく、クリスチャン
もしばしば、このようであることを、御霊に気づかせられる。ある
人は、主を求め、主に従いたいと思い、そのように歩んでいるつも
りであった。

しかし、生活の中で、祈りが自分の願い通りに叶えられなかったり、
物事が自分の思い通りに行かないなら、不平不満と腹立ち、又、落
胆で心が一杯になった。どうしても欲しいものが得られないなら、
欲求不満で、神を責め、神に怒りを持つ。神は与えてくれない、い
じわるだと。

そんな悶々の中で、心探られ、自分が心の底で求めているものは、
生活の安定であり、自分の思い通りになる人生であり、自分の心地
良い歩みであり、自分が栄光を得る事であり、自分が納得する事で
あると照らされた。

どこまでも、「自分」「自分」であり、自分が中心であり、自分の
欲望であり、自分の腹が神であり、パウロが涙をもって示す、十字
架の敵として歩んでいるのが自分ではないかと、気づかされた。求
めているのは、地上のことだけであると。自分の真の姿を見せられ
た。

しかし、そのような自分を、変わらぬ愛で愛し、キリストの姿へと
変えて下さる方であり、栄光から栄光へと主と同じかたちに変えて
行って下さる。何と感謝なことだろう。御霊は心照らしながら、導
かれる。まず自分のありのままの姿を見せられる。それは痛いが、
大きな祝福だ。認めて行くことから成長が始まる。栄光から栄光へ
と変えられて行く。

・・・・・・・・・・・・
主よ、主よ、と言いながら、自分の満足、自分の栄光、自己実現を
求めていて、気づかなかったりする。思い通りにならない事を通し
て、御霊が内側を照らし出して下さる。動機を正しくして、導いて
下さる。変えられて行き、平安を増し加えて行って下さる。


2014年08月22日(金)

「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15



祈っても祈っても答えられない経験があるだろうか。真剣に熱心に
祈っているのに、答えが来ない。それは、祈りの答えには、「神の
時」があるということだ。「天の下では、何事にも定まった時期が
り、すべての営みには時がある」「神のなさることは、時にかなっ
て美しい」。

神が目的をもって、時を遅らせておられる。御心に適っていないの
でなく、御心であるが、神が最善の時を定めておられる。私たちが
思う「時」と、神の「時」とは、時々ずれがある。神のタイミング
は、神の栄光が最高に現される時なのだ。私たちは、しばしば「今
こそ」その時、と思うが、神のみ思いは更に高く、深い。

ラザロが死に直面していた時、マルタとマリヤはどんなに主を待っ
た事だろう。主なら病気を癒す事ができる。一刻も早くと、今か、
今かと。しかし、主は断固動かれなかった。尚2日もとどまられた。
ラザロの死を確認して動かれた。主の御心は病気を治す事ではなく、
よみがえらせる事であった。

墓に葬られた上、もう腐敗しているという、ダメ押しのもとで、主
は奇跡をされ、ラザロをよみがえらされた。最も栄光が現される
「時」であった。あなたも、御心を確信して祈っているなら、「時」
がある。すでに聞かれていると信じ、神の時を待ち望もう。
----------
時を神にお任せすることが最も難しい。いつなのか、まだなのかと
待てず動きだしてしまう。私の時は御手の中と、御心の時に神様が
働かれますように、またその時を悟れるよう祈っていたい。


2014年08月20日(水)

「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために・・」ルカ18:1



この人は裁判官だが、神を恐れず、人を人とも思わない人物だ。し
かし、裁判官であるという事は法律に乗っ取って裁くという事だ。
人格的にはこういう人だが、やもめが余りにひっきりなしにやって
来て、うるさいから、これ以上うるさいのは困るから、裁判をする
事にした。

ここで言っているのは、こんな人でも、うるさいからの理由で、裁
判をするのであれば、ましてや完全な愛と完全な義をお持ちの神が、
正しい裁きをつけずに、放っておかれるわけがないという事だ。つ
まりこんな人格的に問題のある裁判官でもそうするのだから「まし
てや神は」という事を言っている。

完全な愛と配慮を施して下さり、常に私達の最善を考えて下さって
いる神なのだから、失望は決してあり得ないと。祈りの執拗さ以前
に、祈る相手がどんなお方かが重要だ。神はすみやかに彼らのため
に正しいさばきをして下さる。

「パンを三つ貸してくれ」と決して諦めず、しつこく頼み続けて、
パンを手にした人も、友達だからでなく執拗さのゆえに勝ち取った。
ここでも、しかし神はそうではなく、子だから良いものを下さると
言っている。執拗さゆえでなく、子のゆえだと。

だからこそ御子を賜うほどに愛し、最善をして下さる神に、失望す
る事なく信頼し続けられる。しつこくガンガン祈るからでなく、子
だから、愛しているから、いつも必要をご存じで、祈りに答えよう
と待っていて下さる。何と幸いだろう。
---------------
執拗にではなく失望せずにだ。理不尽な辛さも、何得できないこと
も神様だけはわかってくださり、祈りに耳を傾けていてくださる。
この方に信頼し、委ね祈り続けよう。


2014年08月19日(火)

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」ガラテヤ6:5



「互いの重荷を負い合いなさい」とあり、一人では負い切れない非
常に重い荷がある時、助けてもらう事、又、人を助ける事は必要で
あり、大切だ。相互に助け合う事が必要だ。又、同時に「人にはお
のおの、負うべき自分自身の重荷がある」。

重荷を負い合う事が必要だが、負って上げる事のできない、又、人
に負って貰うことのできない自分の重荷がある。それはその人自身
にしか負えない。自分の責任を放ったまま、人の世話ばかりしてい
るのは間違っている。

神は秩序をもって導かれる。自分の責任と人の責任をきちんと区別
する事は大切だ。その人自身に負うように与えられている荷は、代
わって負うべきではない。人の重荷を代わって負っても何の解決に
もならない。

ある主婦のもとに、母親が毎日愚痴を長電話して来た。何とか受け
入れようと我慢し応じていたが、自分の家庭の事や家事にも支障を
きたし、それに疲れ果ててしまっていた。懸命に受け入れようとし
ても、母親は依存するばかりで何一つ変わらず、更に文句ざんまい
だ。

自分に与えられる責任を、果たす事にまで支障が出るなら、断るべ
きだ。人に時間や労力を我慢して引き受け続けて、自分が疲れて倒
れてしまうのは、みこころではない。それは怒りとなり、いつしか
憎しみに増幅してしまう。又、自分が負うべき事を人に依存するの
も間違っている。それらに線引きが必要だ。
-------------
祈ることもしないで不用意に人の重荷に手を貸すならば、私たちは
自分の負うべき荷を人に任せるようになって行く。御霊の導きか、
肉の感情か自分自身をよく吟味してみよう。


2014年08月18日(月)

「あなたがたには、あすのことはわからないのです・・しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません・・主のみこころなら・・このことを、または、あのことをしよう」ヤコブ4:15




いつも「主のみこころなら」という意識は大切だ。自分の人生のあ
らゆることに主を認めて行くことだ。何かをしようとする時に、自
分の意志と神の意志はどうだろう。又、その動機の部分はどうだ
ろう。ある人が、高度な技術を持っていて、それを必要とするボラ
ンティアをしようと思った。

しかし、「主のみこころなら、このことを、または、あのことをし
よう」とあり、主のみこころはどうなのかと心探られた。単に自分
が良い事をしたいと思っているのか。自分のプライドのゆえなのか。
人の目を意識し、人の賞賛の得たいがためだろうか。見栄なのか。
もっと別に本当にやるべき事があるのか。

何かをしようとする時に、主のみこころを求めることは大切だ。人
には、自己実現という欲もあるので、良い事だとしても、神の栄光
でなく、自分の欲望を満たすためにしてしまう。自分の計画が「主
のみこころなら」それをしようとの姿勢が大切だ。箴言19:21“人
の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る”と
ある。

自分の計画をまず祈りに持って行こう。そして「主のみこころなら、
私たちは生きていて」明日〜しようと言っても、明日の事はいっさ
いわからず、明日生きているかどうかはわからない。私たちは、主
の御前にへりくだって、主を求めて生きることが大切だ。
------------
明日のことがわからないから迷い思い煩うが、その明日は神の御手
の中にある。今日が当たり前に与えられていることに感謝しよう。
御心の真ん中を赦されて歩んで行きたい。


2014年08月17日(日)

「こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ば れて、全世界を惑わす、あの古い蛇・・」黙示禄12:9



悪魔は、神の意志に触れる事が出来ないように、神が創造された人
間の意志をどうこうする事ができない。悪魔は私たちの意志に触れ
る事は出来ない。悪魔ができる事は「思い」を吹き込むことだ。偽
りの思いを吹き込んで、惑わすことができる。そのため悪魔は「惑
わす」者と言われている。

悪魔は意志に触れる事が出来ないので、あらゆる決定の責任は自分
にある事になる。御言葉に従う選択、惑わす悪魔の言う事に従う選
択、それはどちらであれ、自分の意志で決定するので、結果の責任
は自分にある。

思いを吹き込む悪魔の責任ではないかと、思いたくなるが、そうで
はない。悪魔に責任を負わせる事は出来ない。つまり悪魔は惑わし、
誘惑する事はできるが、罪を犯させる事はできない。出来るのは惑
わす事だけだ。

また、神も思いを与えられる。『神は、みこころのままに、あなた
がたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるので
す。』とあるとおり、神は、私たちの内で働いておられる。そして
心に、御心にかなった思い、願望を与えられる。

その場合も、私たちは操り人形ではないので、その与えられた志を
私たちが選択するように導かれる。オートマティックではなく、選
択だ。だから、与えられた御心に、自分が従った事になる。主への
愛を現わせる。

・・・・・・・・・・・・
悪魔は絶えず、私たちを神から離そうとしている。様々な思いを吹
き込む。人へのさばき、妬み、憎しみ、不信感へと誘惑して来る。
又、御心を行なうことを妨げて来る。よく祈っていよう。今、誘惑
が来ているだろうか。御霊は気づかせて下さる。


2014年08月16日(土)

「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわってい る人々に分けてやられた・・彼らが十分食べた」ヨハネ6:11



アンデレが人々の中を、探し回った時に、お弁当を持っている少年
を見つけた。「大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています」
と。「小さい」魚と言っている。アンデレは、あるいは主が何かを
して下さるという期待があったので、人々をかき分け探し回った。

しかし、見えるところ余りにも小さく「こんなに大ぜいの人々では、
それが何になりましょう」。あるいは何かして下さるのではとの信
仰、しかし、こんな微少なもの何になろう、男だけで五千人もの
人々に焼け石に水・・。

しかし「イエスはパンを取り、感謝をささげ」、主はそのパンを受
け取られた。「こんな小さなもの」とは言われなかった。それを受
け取り、奇跡をなして下さった。欲しいだけ与えられ、皆が十分食
べて、満腹した。なおも余ったものが十二のかご一杯になった。ど
んなに小さくても、何の問題もない。

大切な事は、主のもとへ持って行くことだ。「こんな小さなもの、
何の役に立とう」「こんな僅かなもの、献げるも献げないも同じよ
うなもの」と思ってしまうが、それを主にお献げするなら、その微
少のものを用いて、神の栄光を現して下さる。

小さなもので構わない。「ここには・・ほかありません」「それを、
ここに持って来なさい」。主に献げるよう示されているなら、主の
もとへ持って行こう。

・・・・・・・・・・・
主は、どんな「小さな」ものをも、受け取って下さる。持てるもの
がどんなに僅かでも、主のもとに持って行く時、自分をも、周囲を
も満腹させ、主の栄光を現わされる。時間、労力、富、自分自身、
示されたなら、主のもとへ携えよう。


2014年08月15日(金)

「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち愛する兄弟 としてです・・あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主に あっても、そうではありませんか」ピレモン16 



神の深い摂理、神の見方を知ることができる。オネシモは主人の物
を盗み、逃亡した。悪事を働いて逃げた奴隷であり、できるだけ遠
くへと、ローマへ逃げた。そしてどういう経緯でかはわからないが、
獄中のパウロと出会うことになる。

「獄中で生んだわが子オネシモ」とあり、オネシモは新生し、「前
には役に立たない者だったが、今は、役に立つ者」となっていた。
オネシモはパウロに仕えていて、彼の悔い改めが本物であったよう
だ。パウロは、そのオネシモを彼の主人であるピレモンのもとに帰
そうとした。しかし、主人の物を盗んで逃亡した奴隷は殺されたよ
うだ。

そのため、パウロはピレモンに、オネシモを奴隷としてではなく、
主にある兄弟として赦し、受け入れてくれるように頼んだ。オネシ
モの損害は自分が代わりに支払うからと。オネシモは罪を犯して、
自分の罪ゆえ逃亡したのであるが、摂理から見ると、別な見方にな
る。オネシモが、一時ピレモンのもとを離れたのは、ピレモンがオ
ネシモを主に在る兄弟として、永久に取り戻すためだと。

実際にはオネシモの罪がそうさせたのだが、このような災いな事を
も、神が働き、益とされて、ご自身の栄光へと変えられる。
私たちにとっても同様だ。罪を悔い改める時、赦して、更に益と導
いて下さる。又、辛い事、苦しい事、試練があるが、神の許しの中
であり、主権のもとであることを認める時に、物事の見方、人生の
見方が全く変えられてしまう。

・・・・・・・・・・・・・
オネシモは、主人の物を盗み、その上、主人のもとから逃げた逃亡
奴隷で、大きな罪だ。しかし悔い改めた。これを摂理から見ると、
「彼がしばらくの間、主人から離されたのは、主人が彼を永久に取
り戻すため」という事になる。何という驚くべき恵みだろう。


2014年08月14日(木)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6 


大変な不況時だった。ある男性がリストラになった。貯えがなかっ
たので、たちまち生活に困窮する事になった。まだ主を信じて日も
浅く、どうしてよいかわからず、どうにもならず、とりあえずは知
人に当座の必要を借りようと思った。そして職探しをしようと。
知人とは長年の信頼関係があり、快く貸してくれるだろうとわかっ
ていた。

その事を指導者に話すと、「いや、その方に借りる前に、まず主に
祈りましょう!」と言われた。神は、必ず必要は与えて下さるから
と。一緒に祈り、そして「神の国とその義とをまず第一に求めなさ
い。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられま
す」の御言葉を示され、非常に励まされた。「主を信じましょう」
との言葉に、そうしようと決心できた。

続けて祈っていると、ずっと以前に知り合いに貸したお金が、突然
返って来たのだ。ずっと気になって返済したかったが、できなかっ
た。やっとできるようになったのでと。思ってもみず、全く忘れて
しまっていたもので、驚かされた。まさに主であり、主から与えら
れたものだった。主にのみ頼り、主を信じて立つことの幸いを経験
させられた。

すべての目の前の出来事は、主のご計画の内にあり、この出来事も、
主を信頼することの実地訓練だった。あなたの、今の目の前の問題
も、あなたの信仰の成長のために置かれている。主を信頼すること
を学ばせようとして下さっている。
-------------
目に見えるもので簡単に安心する策を探してしまうが、主を信じて
立つことの幸いな経験を、ひとつひとつ重ねて行きたい。問題の中
で主がしようと備えておられる、それを知っている者はなんと強い
ことか。


2014年08月13日(水)

『そこで彼は言った「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない」』U列王7:2



飢饉で人々が餓死するような、非常事態の中、エリシャは、「明日、
小麦や大麦が溢れるばかりにある」と言うと、侍従はそんな事が、
あり得ようかと言った。すると、あなたはそれを見るが、食べられ
ないとエリシャが預言した。

そんな時、サマリヤの門に四人のらい病人がいた。町は飢饉、ここ
にいてもどうせ自分達は死ぬ。それなら、敵の陣営へ入ってみよう
と。あるいは食料があるかも知れない。するとその前に、アラム陣
営では、神がアラムに大軍勢の騒ぎを聞かせられ、襲撃に勘違いさ
せた。アラムは驚き恐れ、陣営を置き去りにし逃亡していた。

それで、そこに入ると、山ほどの金銀、溢れるばかりの食料があっ
た。彼らは、王家に知らせた。王は信じなかったが、偵察により事
実を知った。すると、大勢が殺到し、侍従は踏みつけられ死んだ。
預言通りになった。実際、溢れるほどの食料を神は用意された。
しかし、それを信じなければ、自分のものにはならない。溢れる食
料があるに関わらず、飢えて死ぬ事になる。

私達も同様だ。十字架の救い、神の愛、恵み、罪の赦し、義とされ
る事・・、溢れる食料の中にいながら、信じなければ、餓死するよ
うに、溢れる恵みの中で、不信仰でいないだろうか。自分で恵みを
シャットアウトしている自分の姿ではないか。莫大な食料が目の前
に備えられている。信じようとしない自分に気づこう。
--------------
信じないようとしなのは、主の備えておられる溢れるばかりの恵み
に興味がないのではないか。罪の赦しも罪を示されなければわから
ない。知ろうとしない信じようとしない所から立って行こう。


2014年08月12日(火)

「私がナバルの手から受けたそしりに報復し、このしもべが悪を行なうのを引き止めてくださった主が、ほめたたえられますように」Tサムエル25:39



ダビデはサウルに、命をつけ狙われ、逃亡していた。しかし、それ
にもかかわらず、困窮する者、王に不満を持つ者たちがダビデのも
とに集まり、総勢600人にもなった。荒野にいた時、裕福なナバル
に、ダビデは使いを遣わし、食糧を求めた。というのも、ナバルの
家畜をダビデたちが守っていたので、親切を求めたのだ。

ところが愚かで無思慮なナバルは、ダビデを非難し使いの者たちを
追い返した。そのためダビデは400人の部下と報復に向かった。これ
をしもべが、ナバルの妻アビガイルに告げた。このままでは主人や
一家が皆殺しにされてしまうと。聡明なアビガイルの素早い判断と
機転で、事なきを得た。

ダビデに、即、多くの食料を贈り、ダビデが復讐しないよう、謙虚
に、知恵をもって進言した。ダビデは、アビガイルによりナバル討
伐を思いとどまった。アビガイルの行動が無ければ、ダビデも肉で
復讐していただろう。それはダビデが、アビガイルを遣わした、神
を見ていたからだった。

彼女を通して「今日、あなたを私に会わせるために送って下さった
神」、「悪を行なうのを引き止めて下さった主」と言っている。
神がとどめて下さったので、自分は罪から守られたと。ダビデはこ
の事に神を見ていた。私たちも、御霊が進言し、肉の思いをとどめ
て下さる。そのために、御霊は私たちの心の内に示し、促し、又、
人を通しても示して下さる。御霊の進言に従おう。
------------
主が御霊を通し、御心を教えてくださらなければ、いつも感情に突
き動かされて間違った道を突っ走ってしまう。様々な場面で御霊の
促がしに敏感になり、素直に調整を重ねつつ御心に歩んで行きたい。


2014年08月11日(月)

「そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」ヨハネ21:6



信仰生活で大切な事は、主の言葉を聞いて、その言葉に「従う」
ことだ。御言葉をどれほど聞いても、聖書知識が増えても、「従
う」ことをしなければ、何も変わらない。ベテラン漁師ペテロたち
が、舟に乗り込み、一晩中漁をして、その日全く収穫が無かった。

その時、誰かが岸辺で「舟の右側に網をおろせ」と叫んでいる。
その声を聞いて、言われる通りに、舟の右側に網を降ろしてみると、
何とおびただしい魚がとれた。その時、以前に全く同じ光景に出会
った事を思い出し、それが重なり、「主です」ヨハネが主だと気づ
いた。主の言葉に一歩従った時、驚くべきみわざを見た。

以前も一晩中働いて全く魚がとれなかった時、「深みに漕ぎ出して、
網をおろして魚をとれ」との言葉に従った時に、大漁の奇跡を見た。
舟の右に網を降ろす事も、深みに漕ぎ出す事も同じだ。「到底、魚
がいるなどと思えない」「無駄な事を」「とれるはずがない」「あ
り得ない」様々な人間的思い、判断、今までの経験、知識が邪魔を
するだろう。

見えるところと、神の言葉が正反対だ。自分の思い、判断と神の言
葉が相容れない。でも「そこで彼らは網をおろした」。無条件に御
言葉に従った。すると、破格の祝福にあずかり、大きなみわざを見
た。今、もし御言葉と見えるところが正反対で、ちゅうちょしてい
るなら、御言葉に従おう。
--------------
一つの御言葉に従おうとすると自分の弱い部分がよくわかる。そこ
を祈りながら、また進んでいける。信仰の成長を祈りながらも網を
おろさず留まっていないだろうか。


2014年08月10日(日)

「あなたの一生を良いもので満たされる」詩篇103:5


神はどんな小さな祈りも聞いて下さる。しかし、それは何もかもが、
自分の思い通りになるという事ではない。私たちはいろんな事を願
う。ああして欲しい、こうして欲しいと。それも強い願いだ。身体
の癒しや、進路や、問題、悩みの解決や、与えて欲しいものがある。

それらを願うが、しかし、その願いを聞いて、どのようにされるか
は、主の御心があり、主が決定される事だ。信仰人生で時々経験す
るが、神からの答えが、自分が願ったものと違う結果になる。
ある人が高校受験の時に、志望校は絶対大丈夫と言われていた。な
ぜなら成績がトップクラスだったから。本人も周囲も合格を信じて
疑わなかった。

ところが、結果は不合格だった。次志望の学校入学になったが、そ
の人は、はた目から見ても、霊的に変えられて行った。砕かれて、
周囲は以前には無かった穏やかな優しさを感じた。学校で聖研を開
き、教会の中でもジュニアのリーダーとして用いられて行った。私
たちも自分の願った通りではないかも知れないが、必ず最善が与え
られる。

振り返っても、そうだったのではないか。弟子達も主の十字架を受
け入れず、認めたくなかった。しかし、その十字架こそが最善であ
り、私達を救う神の奇跡のわざであった。今、もし思い通りでなけ
れば、神が思いを遙かに超えた最善をして下さる事を信じていよう。

・・・・・・・・・・・・・
しばしば、主のみ思いと自分の思いが違う事を経験する。自分の思
いは強く、思い通りでない時には、がっかりしてしまうが、しかし、
後に振り返ると、主の御心が最善であった事がわかる。まさに良い
もので満たして下さって来た。


2014年08月09日(土)

「彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、 主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした」 ヨナ1:3


ヨナは神からニネベ行きを命じられた。しかし、ヨナはニネベへ行
きたくなかった。それで逃がれようと、そこに丁度、反対方向行き
の船があり、それに乗った。私たちも、御心だとわかるが、気が進
まず、したくない事柄があるかも知れない。嫌な事、しんどい事か
ら、逃げたいとの誘惑が来る。そんな時に丁度、魅力的な事柄があ
るもので、そちらに誘惑されてしまう。

ある人は、高給に、地位という魅惑的な転職の誘いが来た。だが、
神の御心は今の場所を動く事ではないとわかっていた。しかし、自
分の才能が発揮できるとの誘惑に勝てず、転職してしまった。その
結果、仕事量も半端でなく、時間、労力、心が仕事に奪われてしま
い、神から離れてしまった。

幸い、後に神に立ち返れたが、多くの苦しい刈り取りがあった。内
心、御心だとわかりつつ、従う事を迷っている時、丁度そこにピッ
タリの誘惑が来るものだ。反対方向の船が、また、ちゃんとそこに
ある。サタンの攻撃、誘惑をわきまえよう。逃げることは「主の御
顔を避ける」ことになってしまう。

主の御顔の光の中を歩むことの方がどんなに良いだろう。主に従お
うとする途端に、誘惑と攻撃が来る。いつも経験する。従わせまい
とするサタンの妨害が来る。今、逃げたい心があるなら、その事を
まずそのまま主に告げよう。主が御心を行なえるよう助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・

みこころから逃げたい時には、又、丁度、そこに反対方面行きの船
があり、渡りに船とばかりに乗って行ってしまう。しかし、御顔を
避ける事になって、平安や喜び、祝福から遠ざかってしまう。心の
内を告げて、御心を歩めるように、助けを求めて祈ろう。


2014年08月08日(金)

「アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」ヘブル11:8 



アブラハムは「生まれ故郷、父の家を出て、わたしの示す地へ行け」
と神に告げられた。「生まれ故郷、父の家」とは、居心地の良い場
所、長く慣れ親しんだ習慣、生活、自分の居場所、拠り所だ。そこ
では安心できて、周囲からの助けもあり、生活の基盤が据えられて
いて、安定した場所だ。一つ所にとどまれば、経済的基盤もできる。

つまり、そこにいれば、物心共に特に神に頼らなくても生きて行け
る。そこを出るという事は、神のみに拠り頼むという事だ。未知の、
見た事もない地へ出るわけで、何があり、何が起こるかもわからな
い。身の危険もあるだろう。持ち物にも頼れず、人も頼りにならず、
自分の知恵も判断も頼れない。ただ神だけが頼りであり、神の言葉
だけが行く道を示し照らす。

ある人が突如、重要なポストへの抜擢を受けた。様々な思いが巡っ
た。「自分に出来るのか」「名誉心ではないのか」「人の目がとて
も気になる」・・思いをすべて主に打ち明け、御心が成るようにと
祈りに祈った。その時「あなたの父の家を出て、わたしが示す地に
行け」との御声を聞いて、決心できた。

私たちもどうだろう。「故郷を出て」「親族を離れて」、神以外に
依存しているものから離れて、次の領域に進めと言われているだろ
うか。単に地理的な事でなく、霊的な領域だ。信仰をもって次の段
階へ進めと。その時、神ご自身があなたの故郷となり、あなたの家
となって下さる。あなたは何に依存しているだろう。
------------
信仰に進めたのはいつも神以外に頼るものがないときだった。いつ
でも困らないよう自分で備え、待ち構えるのもいいが、主の山の備
えを信じ、神に頼れる平安を経験して行きたい。



2014年08月07日(木)

「しかし、彼が出かけると、神の怒りが燃え上がり、主の使いが彼に敵対して道にたちふさがった」民数記22:22


ろばが、バラムにものを言った箇所は有名だ。ろばが進まないので、
バラムがろばを3度も打った。しかし実は、主の使いが、ろばの前
に抜き身の剣を持って、立ちふさがったので、ろばは進めなくなっ
たのだった。それでろばが抗議した。その時、主の使いが「敵対し
て出て来たのはわたしだ。あなたの道がわたしとは反対に向いてい
たからだ」と言った。

阻止したのは、主であった。私たちは痛い事や、苦しみは避けたい。
何とか逃れたいと思う。しかし、神は、私たちが間違った方向へ進
んでいる時、行く道を阻まれる。私たちを立ち止まらせるためだ。
それは不運なのでなく、偶然ではなく、神の取り扱いだ。そこに関
わる相手や周囲を責めるのではなく、そこに神を認め、神のの取り
扱いを認める事が大切だ。

その状況の中で、神のメッセージを受け取ろう。何を教えたいのか、
何に気づかせたいのか。今、あなたの行く手が阻まれているなら、
状況に右往左往でなく、まずそこに神を認めよう。神が立ちはだか
っておられる。その道は御心とは違うのかも知れない。


神はバラムに「彼らと一緒に行ってはならない。その民を呪っても
いけない。祝福されているからだ」と言われたにかかわらず、出て
行くバラムに、主の使いが立ちはだかった。目の前に神を認め、自
分の思いを通すのでなく、そこで神の御心を尋ね求めよう。その時、
御心の道へと導いて下さる。 
-----------
行き詰まりも神様の答えであると、状況の中に神様のメッセージを
見て行こう。原因を探して落ち込んだり、無理に納得してしまわず
、疲れ果てる前に、御心を教えてくださいと知恵を求めよう。


2014年08月06日(水)

「機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです」エペソ5:16 

 

信仰人生で「時」は大切だ。「天の下では、何事にも定まった時期
があり、すべての営みには時がある」、すべてに「神の時」がある
からだ。マリヤが、結婚のために少しづつ貯えた、何百万とも言わ
れる高価なナルドの香油のすべてを主に注いだ。主が十字架にかか
る直前であった。マリヤがこの行為をする事ができたのは、後にも
先にも、この時だけであった。

この時を逸しては、この事はできなかった。この後、十字架にかか
られたのだから。マリヤ一人が主の十字架の死を理解していて、葬
りのためにと、自分にとって最も大切な自分のすべてを献げきった。
これはこれから十字架に向かわれる主を、どんなにお慰めした事だ
ろう。この事は世界中に福音を宣べ伝えられる所で語られると言わ
れた通りだ。

マリヤは、後にも先にもない、この「時と機会」を捕らえた。そし
て、主への愛を献げ、表わすことができた。ザアカイは、主が通過
されるまさにその時、主を求めて木にまで登った。「丁度その時」
主イエスと目と目が合った。この「時」を捕らえなかったなら、
ザアカイはどうなっていただろう。

私たち一人一人にも、主は時と機会を与えておられる。その時と機
会を逃さないでいたい。今、あなたの前に、主のために思いきった
決断をする事柄があるだろうか。何か献げる事だろうか。時を逃さ
ず、捕らえよう。主の栄光を拝する。「すべての人が時と機会に出
会うからだ」。
------------
自分の策や強い思いが明け渡せず、なかなか主の時がわからない。
平安のない悪循環だ。主の主権を認めへりくだり、主の時と機会を
悟れるようにいつも祈っていよう。


2014年08月05日(火)

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」マタイ7:12 



「自分にしてもらいたい事を、人にせよ」とあるが、自分にしても
らいたい事が人によって違う。ある人は悩みの時、放っておいて欲
しい。干渉されると煩わしい。一人で考えていたい。しかし、ある
人は放っておかれると、冷たく感じる。そのまま自分の思いを人に
適用するなら、的はずれになってしまう。

つまり自分を中心にした肉の思いで、判断するのでは無い。自分の
メガネで判断して行くと、大きなお世話、お節介になってしまう。
自分の思いを相手に押しつけるばかりだ。まず自分のメガネをはず
して、よく祈り、御霊の導きを求め、御言葉に、神のお心に照らし
合わせて、「主の御心によって」、相手に対応して行くことが必要
だ。

主の御心が最善であるから。そのため御霊の導きが大切だ。祈って、
御霊に示されて相手にした事が、喜ばれない時があるかも知れない。
しかし、それは真に相手の益のためであり、その結果を見守ってい
ると、必ず素晴らしい実を結ぶ。神の栄光が現れる。

つまり、「自分にしてもらいたいこと」とは、「神の御心」を、と
いうことだ。私たちの真の願いはそれであるはずだ。その前の「求
めなさい。そうすれば、与えられます」の通り、何が正しい事で、
御心かを祈り求めるなら、必ず正しい判断、識別を与えて下さり、
ほかの人にそのようにして行ける。
---------------
人に善意を自分示すとき、自分なら何が嬉しいだろうと思いめぐら
す。神の御心を示すことが最善のはずだ。迷う前に主に祈り、相手
にとっての最善を主に問い祝福を祈ろう。


2014年08月04日(月)

「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」マタイ6:7



周囲に偶像を見て、育って来た日本人は、くどくどと唱え、量を多
く拝めば、聞かれると思い違いをする。数珠を繰りながら唱えたり、
とにかく毎日時間をかけて拝む姿を見聞きするので、同じ言葉の繰
り返しでも、熱心にさえ祈るなら聞かれるというのが、潜在意識に
あったりする。

そして、自分が中心の信心なので、神よ、ああして、こうして、あ
っちへ行って、こっちへ来て式の祈りをする。願いが聞かれないな
ら、そんな神は要らない。欲しいのは自分に都合のよい神だ。自分
に都合良く人生が回って欲しい。人生途上で神に出会ったクリスチ
ャンも、長年培われた価値観が根深く潜んでいて、自分のための神
になってしまう。

ところが、祈る先に必要をご存じの神だ。祈りは何のためだろう。
あたかも神が状況に無知かのように、くどくどと説明する必要はな
い。すでにご存じとは、何と感謝で嬉しい事だろう。熱心に祈って、
祈りを手段として、祝福をもぎ取るのではない。あなたよりも、本
当のあなたをご存じの神が目の前におられ、その方は御子を殺すほ
どに愛して下さったお方だ。

親は子が心配する前に、子の必要を心配し整える。私達は自分にと
って何が本当に必要で、何が最善かがわかっていない。それを教え
てくれるのが祈りだ。祈りの中で自分が変えられて行く。真の必要
がわかり、それを求めて行く。お願いする先に必要をご存じ、だか
ら祈らなくてよいのでなく、「だから、祈りなさい」だ。
------------------
祈りながらその中で御心を知り、御心に導かれて行く過程がいつも
祝福だ。出来てない事を示され、出来る者へと明け渡す決心が与え
られた。今朝の祈りの祝福だ。


2014年08月03日(日)

「あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたが たのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7


今、思い煩いに、押しつぶされそうになっているだろうか。心を探
ると。自分で何とかしようとしていないだろうか。まず、思い煩っ
ているという事実が、自分の力でどうにかしようとしている事にな
る。そうなら、自分の肩に全重量がかぶさって来る。どうにも出来
ないので、苦しくなり、不安に襲われる。

つまりは自分の力に頼っている。そして、自分ではどうにもならな
いので、不安でたまらない。主に明け渡して行けばよいのだが、自
分が握りしめていて、明け渡すことが出来ないだろうか。自分の内
側を御霊に照らしていただいて、明け渡せないことを、まず認めよ
う。

そして主に助けを仰ごう。主はその祈りに答えて、委ねることがで
きるように、助けて下さる。カナの結婚式で、ぶどう酒が無くな
り、主に助けを求めたマリヤに、主は「わたしの時はまだ来ていま
せん」と答えられた。その意味は、わたしの時とわたしの方法があ
りますから、ということだ。

マリヤは主が何とかして下さると信じたので、手伝いの者たちに、
あの方が言われることをするようにと伝えた。そして彼らが、主の
言われる通りに従った時に、奇跡が起きて、解決が与えられた。

目の前の思い煩いに対して、まずマリヤのように「ぶどう酒があり
ません」と、主に祈ろう。そして、主の御声に耳を傾けよう。その
主の言われる事に、その通りに従おう。そうする時、主が事態を引
き受け、みわざをして下さる。そして、主の栄光が現される。

・・・・・・・・・・・・
ゆだねた後は、主が成し遂げて下さるが、様々握りしめていて、ゆ
だねられないことが問題だ。祈って、何を握っているのか、御霊に
示していただき、ゆだねることができるよう祈ろう。その時、思い
煩いを、主が受け取って下さって、平安と交換して下さる。


2014年08月02日(土)

「道々お話になっている間も、聖書を説明してくださった間も、私 たちの心はうちに燃えていたではないか」ルカ24:32



郷里に帰る、エマオ途上の二人の弟子は、どんな気持ちだったろう。
「暗い顔つき」とあり、とぼとぼと、足取りも重く、失望と落胆に
陥っていた。主に「望みをかけていた」が、だめだった。絶望的な、
うつろな心だったろう。しかし実際は、主の復活が起きていて、罪
も死も勝利に飲み尽くされ、素晴らしい主の栄光が輝いている。何
という喜びだろう。

それが現実なのに、今、それを手に出来るのに、彼らは下を向き、
空虚な暗い中にいた。私達の姿だろうか。よみがえりの主が、私達
のかたわらにおられるというのに、思い煩いと不安と不信仰の中に
いるだろうか。「目がさえぎられていて、イエスだとわからない」、
御言葉を信じない、不信仰によることだった。

主のよみがえりを信じない、その目には、主が見えない。しかし、
主はそんな弟子たちの、そして私達のかたわらにおられる。そのた
め、主は、御言葉を説き明かされた。二人が、その御言葉に真剣に
聞き入った時に、落ち込んだ、重い心が「うちに燃えた」。

失望、落胆や思い煩いにある時、主の語って下さる御言葉に耳を傾
ける事が大切だ。信仰は聞く事から始まり、聞く事は御言葉による。
御言葉を心に受け入れる時、信仰が与えられる。振り返る時どうだ
ろう。何度もダウンしたが、主が語られる御言葉によって、もう一
度引き上げられた。主が見えない時も、主は、あなたのかたわらに
おられるのだから。

・・・・・・・・・・・・
喜びの時も、又、落ち込んだ時も、主がかたわらにおられる事を覚
えよう。今日も、主はかたわらにおられる。御声によって、励まし
慰め、指針を与え、新しい力を与えて下さる。御言葉にじっと耳を
傾けよう、必ず引き上げられる。


2014年08月01日(金)

「また立って祈るとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます」マルコ11:23    



           
主は、私たちが信じて祈り求めるなら、素晴らしい約束を与えて下
さっている。「何でもすでに受けたと信じなさい。そうすれば、そ
のとおりになります」しかし、次に言葉が続いている。あなたに害
を与えた人を、赦しなさいと。赦す事が言われている。赦さない心
は、祈りをさえぎってしまう。

まず、神があなたを赦して下さったのだから、相手を赦しなさいと。
私たちは、しょっ中、失敗する。しかし神は豊かに赦し続けて下さ
る。罪を犯さないのではなく、弱さのゆえに犯してしまうが、赦さ
れて赦されて生きている。まず恨みや憎しみ、赦さない心があると、
祈れなくなってしまう。平安が無く、神と私たちの間に、へだたり
ができてしまう。

ある働き人が、御言葉の奉仕のために、神の御前に出て、切に祈り
求めた。しかし、幾ら祈っても語るべき言葉が与えられない。期日
は迫り、どうしても与えられず、夜を徹してでも祈ろうと覚悟を決
めた。主と交わる中で、ある人々の言葉に傷つき、反感、恨み、苦
々しい思いを持ち続けている事を示された。これが妨げになってい
る事がわかり、心から悔い改めて、その人々を赦した。その後、見
事に祈りが答えられた。

赦さない心は、祈りをさえぎってしまう。祈りの答えを受け取るた
めに、自らに隠れた恨み、赦さない心がないか、御霊に探って頂こ
う。妨げが除かれる時、心に平安と確信が来て、すでに受けたと信
じる事ができ、その通りの答えを得る。まず「赦せません。赦した
くないです」と主に正直に祈って行こう。導いて下さる。
-------------
祈りは神様と深い人格の交わりの時だ。罪赦されて御前に出ていな
がら、赦せない思いは抱えたまま、というのは誠実な態度だろうか。
赦せない思いにまず正直になり赦せない思いを悔い改めて行きたい。


2014年08月21日(木)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



人は放っておくと、どうしても悲観的な方へ向くと言われている。
くよくよと、思い煩いで一杯になる自分が変わりたいだろうか。過
去をあれがああだったなら、これがこうだったならとくよくよし、
見えない先を心配し、とにかく不安で不安でたまらない。変化を求
める方法は3つだ。

状況を変える、目の前の人を変える、自分を変えるのどれかしかな
い。「過去と他人は変えることは出来ない」との言葉は有名だ。何
とか状況が変わって欲しいが、変わらない。この状況さえ無くなれ
ば平安なのに、と思うが変わらない。だが、自分を変える事なら可
能だ。どのように自分を変えるのか。

目の前のことを感謝することだ。「あなたの行く所どこにおいても、
主を認めよ」まず、目の前に状況に、「主を認め」て感謝すること
だ。どんなに思い通りでなくても、神のご計画の中で、目の前の事
態があり、何かを教えようとして下さっていること、益とされるこ
とを感謝しよう。

目の前の事態を信仰によって感謝すると、不思議が起きる。まずあ
んなに恐れと不安にあった、自分の心が落ち着いて来る。感謝して、
感謝して行く時、平安になって行く。状況や自分を見ていた目が、
主を見上げ、主に焦点が合って行くからだ。そして、感謝する時、
サタンの足場が崩されてしまう。恐れや思い煩いを足場に、暗躍す
るサタンが働けない。
----------------
感謝できないときに感謝するほど私たちは強くはないが、だからこ
そ共にいてくださる神に信頼し感謝するとき、そこで恵みの中に置
かれていると心が守られていく。