2014年09月30日(火)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21




ある人が、隣家との境界の事で問題があり、かなりの間、確執が続
いていた。双方言い分があり、問題はなかなか解決しなかった。隣
人であり、しょっ中、顔を合わせるし、ずっとギクシャク〃してい
て、目にする度に、心は暗く、沈んでしまうのであった。気の許せ
る親族に会ったりすると、つい隣人の批判や悪口が出てしまい、心
は辛く、一向に晴れなかった。

親族の内の一人がクリスチャンで、心を痛め、この事のために祈っ
てくれていた。又、それより以前から、実は自分の救いのために祈
っていたのだった。ある時、教会へ誘ってくれた。すると、教会へ
行ってみたい思いになり、教会へ足を運んだ。その中で、救いに入
れられた。

クリスチャン親族の長い間の祈りが聞かれ、このしんどい事態ゆえ
に、主を求める事となり、すべては益とされたのであった。
御言葉を学んで行く中で、「迫害する者のために祈れ」が心にぐっ
と入った。感情は横に置いて、とにかく素直に御言葉に従ってみよ
うと思えて、隣家の祝福のために祈りを実践し始めた。

日々に祈って行くと、不思議が起きて、自分の心に変化が起きた。
心が落ち着いて来て、穏やかにされ、あれほどの敵意や嫌な思いが
あったことが信じられないほどだ。自分で頑張ったわけでなく、御
言葉に従っただけだった。主によって変えられる事を経験した。や
がて和解が成立し、問題が解決した。隣家との関係が直されて、和
やかな関係に変えられた。
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自分の内には悪や汚れであふれているが、御言葉に示されまた、そ
れではいけないと御霊の導きが来る。素直に従うなら平安が、でき
ない時にもへりくだらされ、自分が変えられていく。


2014年09月29日(月)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32



ある人が、主に出会う前は、非常にセルフイメージが低く、自分は
だめな人間だと思っていた。劣等感が強く、そのため付加価値をつ
けて、何とか良く見せようと必死であった。勉強も、スポーツも努
力に努力を重ねた。劣等感がゆえに自己顕示欲も強く、何かでアピ
ールしないと、何かができないと、自分の存在価値が無いと思い込
んでいた。

強迫観念のようになっていた。しかし、何もかもが出来るわけでは
なく、決して思うようにはならず、心は挫折感、鬱屈、又、不安や
恐れでいっぱいだった。そんな時に、教会へ導かれ、主に出会うこ
とができた。このままで受け入れられていること、愛されているこ
とを知り、天にものぼるような、大きな喜びであった。

しかし、信仰生活を歩み始めた時に、時を経ながら、段々と気づき
が与えられて行った。古い性質は強く、長年かけて培われた価値観
は根深く、今度は、主の働きを使って、自己実現をしようとしてい
る自分の姿を。御霊の気づきが与えられる度に、悔い改め、主に委
ねて行った。主は取り扱われ、自分を捨てること、自我に死ぬこと、
明け渡して行く信仰生活を導かれた。

時間をかけながら、自己実現、自分の賞賛、自分の栄光のために生
きていた者を、主の栄光を喜ぶ者へと変えて行かれた。そうすると、
気になって仕方がなかった人の目が、気にならなくなった。従えば、
従うほど自由にされることを、経験して行ける。
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古い性質のままで信仰生活をおくるとそれは不自由でとても苦しい。
どこがおかしいのか。主の栄光だけを喜び、望んで行こうとすると、
そうでない思いに気づく。明け渡し、明け渡し自由な者になりたい。


2014年09月28日(日)

「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われ た。『恐れないで、ただ信じていなさい』」マルコ5:36


会堂管理者ヤイロの娘が死にかけていた。ヤイロは主のもとに来て、
娘のいやしを求め、一緒に来ていただけるように願った。主はその
願いを聞き入れ、一緒に出かけられた。その時に長血の女性が現わ
れ、行く手をはばまれた。主は彼女をいやされ、対応された。

一刻を争うのに、ヤイロはどんなに心が急いた事だろう。その事で
手間取っている間に、家からの者が来て、娘が亡くなったことを告
げた。「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」と。主
はその言葉をそばで聞かれ、会堂管理者に「恐れないで、ただ信じ
ていなさい」と言われた。

他の訳では「イエスはその話している言葉を聞き流して」となって
いる。「心にとめない」ということだ。不信仰な言葉を「聞き流す、
聞かない、心にとめない」ということは重要だ。「子供が亡くなっ
たので、もう先生に来ていただく必要はない」一見、合理的な言葉
だ。しかし、信仰を妨げられてしまう。

「もうだめだ」「もう遅い」「何になろう」絶望的なネガティブな
言葉により、心は恐れや不安、思い煩いに支配される。不信仰な言
葉は流し、捨てて、信仰の言葉を心に受け入れよう。「なぜ取り乱
して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているので
す」。
人々は嘲笑った。しかし主の言葉の通りに、「少女はすぐさま起き
上がり、歩き始めた」。娘はいやされた。私たちは、どの言葉を聞
いているだろう。

・・・・・・・・・・・
絶体絶命のヤイロに、間髪を入れず、主は御言葉を語られた。目に
見えるところは絶望だ。見える状況と、主の言葉が相反する時、御
言葉に立てるよう祈ろう。見えるものには凄まじい力がある。御言
葉を選択できるよう祈ろう。御霊は助けて下さる。


2014年09月27日(土)

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11


信仰生活の中で、「神の時」ということを学ばせられる。「時」は
重要だ。神の時を待てないで、自分の思いと力で突き進んでしまい、
散々な結果に終わる経験をした事があるだろうか。すべての事柄に
は「神の時」がある。「天の下では、何事にも定まった時期があり、
すべての営みには時がある」。神の時が満ちなければ、どんなに焦
っても、気が急いても、事態は全く動かない。

そして、神の時が来たなら、全く動かなかった物事が、動いて行く。
門が開かれ、どんどん事が進み、実現して行く。何十年と動かなか
った事態が、すっーと成就する。驚くばかりだ。そうであれば、私
たちにとって大切な事は、「神の時を待つ」ことではないだろうか。

神の時でなければ動かないし、時が満ちれば、ひとりで動いて行く。
思い煩うことなく、心を騒がせることなく、神の時を待つことを祈
ってゆこう。アブラハムは、子孫を与えるとの神の言葉を受けたが、
待てども待てども、なかなか実現しなかった。そのため、自分の思
いと力で動いてしまった。

サラの申し出もあったことから、女奴隷ハガルにより、イシマエル
をもうけた。しかし、100歳になって、もはや彼の肉体は死んだも
同然となった時に、何の力も無くなった時に、約束の子イサクが与
えられた。神には深いご計画がある。今、必要な事は、神の時を待
つことだろうか。

・・・・・・・・・・・・
長い間、微動だにしなかった事態が、「神の時」が来ると、事が動
いて行くのは驚くばかりだ。神が動かれない限り、事は起こらない。
そうであれば、ただただ神を信頼して、待ち望んでいたい。そして
その神の時は「美しい」。感動がある。


2014年09月26日(金)

「あなたがたはもう、私に子を失わせている。ヨセフはいなくなった。シメオンもいなくなった。そして、今、ベニヤミンも取ろうとしている。こんなことがみな、私にふりかかって来るのだ」創世記42:36



ヤコブの身の上に、次から次へと問題が降りかかり、試練に次ぐ試
練、なすすべもないというような、絶望状況だ。エジプトで食糧を
買うために、ベニヤミンを連れて来るように言われていた。かつて
最愛の子ヨセフを失い、シメオンは人質にされ、今また、目に入れ
ても痛くないほど可愛いベニヤミンをも失おうとしている。

次々と大切なものが自分の手から奪われて行く。一見、深い絶望と
落胆だ。しかし「全能の神がその方に、あなた方をあわれませて下
さるように・・私も、失うときには、失うのだ」、最初ベニヤミン
を行かせる事を固く拒んでいたヤコブだが、ユダの説得を受け、ベ
ニヤミンもシメオンも主に委ね、行かせる事を決意した。

結果、どうなったか。事態が静まり、物事が落ち着く先に、落ち着
いてみると、何と、死んだはずの、あのヨセフが生きており、シメ
オンも無事だった。家族全員、餓死するところを、食糧は豊かに備
えられており、家族皆で共に住めるという、何もかもが、夢のよう
な事態に一変した。

あなたも今、窮地で、四方どこを見ても真っ暗だろうか。しかし、
神にはそこにご計画があり、「しようとしていること」ヨハネ6:6が
あられる。状況でなく、神を見上げて信じていよう。目に見えたな
ら、信仰は必要無い。何も見えない中で、御言葉を信じていよう。
主はみわざをして下さる。
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最愛の者や一番失いたくないものの取り扱いは、それゆえに信仰へ
と私たちを導いてくれる。必ず最善がなされる、神の栄光をこの目
で見ると信じ今日を歩もう。


2014年09月25日(木)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安・・」ガラテヤ5:22


私たちにとって、幸せとはどういうものだろう。自分の思い通りに、
自分のしたい事をして生きるなら、幸せで、充実感があると思うだ
ろうか。人生が自分の願い通りになり、自分の好きなようにできれ
ば快適だと思う。しかし、それは勘違いだ。決してそうではない。

例えば、富が自分を幸せにしてくれると信じ、富を得るが、幾ら得
ても満足する事が決して無い。富を持つなら、更に欲しがる。これ
は貪欲だ。貪欲は更に貪欲を生み、とどまるところを知らない。金
持ちが幾ら富を持っても決して満足しないように。欲望は満たせば
満たすほど、更に渇く。もっと欲しいと思う。

生きがいを求めて、次々とあらゆる事に手を出し、駆け巡る人を見
るだろう。自分を喜ばせ、自分の欲望を充足して行く人生はますま
す渇くばかりだ。問題は「自分中心」にあるからだ。神を喜ばせ、
神を第一にした人に、喜びが無かったという事を聞いた事がない。
人は喉から手が出るほど喜びが欲しい。

もし喜びが欲しいなら、自分を喜ばせる事を止め、神の喜ばれる事
を求めよう。喜びは御霊の実だ。御霊の実は、御霊に自分を明け渡
して、従って行く時に与えられる実だ。自分で得るのではなく、神
に従う時に豊かに与えられる。そして、御霊に満たされる時に、渇
きが止む。
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自分を喜ばせることが最大の満足だと、肉は御霊に絶えず拮抗して
くる。自分しか見ようとしない目をその度、神に向け、御霊の導き
にそって歩んでいこう。御霊の実による喜びを味わおう。


2014年09月24日(水)

「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って言った・・このしもべの祈りを聞いてください」ネヘミヤ1:4


ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き
払われた悲惨な状態である事を聞いた。深く悲しみ断食して神に祈
った。祈りの中で重荷が増し加わる中、4ヶ月後、王の前に出た。
しおれた悲しい顔つきであり、それを見た王は、王のほうからネヘ
ミヤに尋ねて来た。心に何か悲しみがあるに違いないと。

この時、ネヘミヤは率直に心の内を話した。すると、王の方から
「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミヤの心の重荷を察した。
そこで、ネヘミヤは、祈ってから王に答えた。ユダの地へ送って再
建させて欲しいと願った。王は願いを聞き入れ快く送り出してくれ
た。ここで学ぶ事ができる。

ネヘミヤはまずエルサレムの現状を聞いて知った。私たちの信仰生
活も同様だ。現状を、目の前の問題を、正しく知る事によって重荷
が与えられる。まず現実を知らない限り、重荷の持ちようがない。
そしてそれを具体的に祈りに持って行く時、更に重荷が増し加えら
れる。ネヘミヤは重荷が加えられ、何かをしたいと思った。

その願いは答えられ、神により環境が目の前に次々と開かれて行っ
た。すべての必要が備えられて行った。私達もまず現状を正しく認
識するところから重荷が生じ、祈りによって更にその重荷が深めら
れ、具体的に行動するように導かれる。あなたにも主が見せておら
れる重荷があるだろうか。
--------------
漠然と祈るのではなくより詳しく事情を知り、その現実に応じた求
めを主にもっていきたい。漠然とした重荷はすぐにサタンが壊しに
くる。目的のものを形にするために現実をしっかり見て取りかかろ
う。


2014年09月23日(火)

「私はあなたに祈っています・・朝明けに、私はあなたのために備え をし、見張りをいたします」詩篇5:2 


信仰生活で忘れてはならないのが、天に帰るまでは、戦いだという
現実だ。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく・・もろもろの
悪霊に対するものです」霊の戦いであり、日毎にサタンとの戦いだ。

朝、起きた途端、悪魔の火矢が飛んで来る。心に思いが突き刺さり、
吹き込まれる。思いが駆け巡る。その日の予定か、目の前の問題か、
思い煩いか、神に心を向ける前に、瞬発的に悪魔が襲って来る。気
づくだろうか。気づかなければ、悪魔に思いを自在に持って行かれ
ている。

無意識に悪魔からの思いに同意し、説得され、ほんろうされてしま
う。霊の戦いであることをわきまえよう。朝一番に主を呼ぼう。悪
魔は常に語りかけて来る。悪魔に耳を貸す前に、主に呼ばわろう。
初物が聖ければ、粉の全部が聖い。朝に神第一にするなら一日が守
られる。一日の始めを神に献げて、祈りで始めよう。

今日も朝起きた時、サタンは思いを吹き込んで来ただろうか。気づ
きから始まる。「主よ。私を待ち伏せている者がおりますから・・私
の前に、あなたの道をまっすぐにしてください」。悪魔が待ち伏せ
ているので、常に、あなたの道をまっすぐにして下さいと祈り続け
ていよう。
サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と祈っ
た。この姿勢と備えがあれば、主からの語りかけを聞いて行ける。

・・・・・・・・・・・
起きるや、1日のスケジュールで頭いっぱい、また嫌なことや思い
煩いで心重くなるだろうか。起床と共にサタンが来ている。「主よ、
おはようございます」と朝一に主と対話しよう。サタンに気づける
事に感謝して行こう。御霊の働きだ。


2014年09月22日(月)

「そこでイエスは彼らに、『わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい』と言われた」マルコ11:33



祭司長、律法学者、長老たちが、何の権威によっているのかと、主
に詰め寄ると、主が逆に問いかけられた。「ヨハネのバプテスマは
天からか、人からか」と。天からと言えば、なぜ信じないとなり、
人からと言えば、群衆は預言者だと思っているので、人からどう思
われるかが恐い。

どちらの側にも立たず、「わかりません」に逃げ込んだ。結局、真
理は何か、何が真実かということでなく、自分が、人にどう思われ
るか、自分の立場を守ることが判断基準であった。時々、祈ってい
るのだが、主の導きが、御心が、なかなかわからないことがある。
そんな時、この祭司長や律法学者のような態度がないか、心探って
みよう。

態度をはっきりさせたくなくて、逃げていたい。あいまいのままに
しておきたい。従って行くための犠牲を払いたくない。あっちにも、
こっちにも良く思われたい。どちらも欲しい。その底は、実は御心
がわかっては困る。御心がわかりたくないという事になる。しかし、
時に、はっきり迫られる。

「群衆なのか、主なのか」「人の評価か、神の評価か」。「わかり
ません」と逃げると、「わたしも・・話すまい」と言われた。「わ
かりません」と逃げないで、「人を恐れています」「中途半端です」
「犠牲を払いたくないです」「迷っています」と、正直にありのま
まの姿を認めて、「でも、助けて下さい」と主の助けを求めよう。
そうするなら、御心へと導いて下さる。
--------
本当のところはどうなのか、そこを認めて主に訴えていこう。自分
の本音を認めないなら真実に主と関わることもできない。認めると
ころから祈りがかわり、主の導きも明確に見えてくる。


2014年09月21日(日)

「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る・・『わが避け 所、わがとりで、私の信頼するわが神』と」詩篇91:1 


信仰人生、決して平坦ではない。すべての人に必ず順境があり、
逆境がある。人生の中に、どちらも備えられている。一生何もかも
が順調に行くことはない。それは無い。突如、「どうしてこんな事
が!」という事態が、起こる。主が与えられる試練があり、又、自
らの失敗もある。しかし、どんなに苦しみと辛さの中にも、主がお
られる。

「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の
下に身を避ける」主は、「わたしを信じていなさい」と御翼でおお
って下さる。この方の翼の下に身を避けることが、一番安全で、平
安の道だ。親鳥の翼の下で、安心しきって、気持良く眠っているひ
な鳥の絵を見ることがある。親鳥に抱かれて、心底安堵して、何の
心配もなく眠っている。

危険が迫れば、親鳥は命がけで守ってくれる。ひな鳥にとり、恐れ
も思い煩いも無縁の場だ。私たちも同様だ。試練の中、苦しみの時、
悲しみの時、主は御翼の陰に私たちをかくまって下さる。現に厳し
い状況にかかわらず、御翼の陰は平安なのだ。

ある婦人は離婚の苦しみを通り、気が狂いそうな辛さの中、初めて
御翼の陰がいかなるものかを経験したと。外は大嵐が荒れ狂ってい
るが、御翼の陰には、全き平安、世のものではない主の平安に包ま
れ、安堵、安心だけがあった。この状況だからこそ体験できた恵み
だった。
苦しみの時、悲しみの時、主を呼び求めよう。

・・・・・・・・・・・・・・・
信仰生活で経験する。問題、悩みの辛さや、苦しい状況があるのだ
が、主に委ね、交わる時に、心に「主の平安」が来る。問題のまっ
ただ中で、心は安堵で平安、「隠れ場」があることを体験する。


2014年09月20日(土)

「『舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます』そこで、 彼らは網をおろした」ヨハネ21:6 



主が兵士たちに捕らえられた時に、ペテロは3度も主を否み、呪い
をかけて誓ってまで否んだ。主を裏切ってしまった。「全部の者が
つまずいても、私は決してつまずかない。牢であろうと、死であろ
うと、覚悟はできている」と言ったペテロだった。又、弟子たちも
主を捨てて、一目散に逃げ去ってしまった。

ペテロや弟子たちの心は、どんなものであったろう。挫折して、失
望、傷ついた心は深く痛んでいたろう。主にガリラヤへ行くように
言われて、弟子たちは故郷ガリラヤに戻った。そこでペテロと弟子
たちは、捨てた網を再び取って、漁をした。しかし何もとれなかっ
た。どんなに心は重く、虚しく、暗たんたるものであったろう。

その時、岸べから「舟の右側に網をおろしなさい」と言う声が聞こ
えた。彼らはその声に従い、網を下ろした。すると網を引き上げる
事ができないほどの大漁であった。以前全く同じような光景があっ
た事を思い出し、ヨハネが主だと気づいた。「主です」。

今、あなたも心が傷み、失望落胆しているだろうか。挫折があった
だろうか。そんなあなたの岸べに、主が立っておられる。主の愛と
慈しみは変わらない。失敗しても豊かに赦し、再び引き上げ、立た
せて下さる。
主は弟子たちに朝の食事を用意し、傷んでいるペテロを回復させて
下さった。どんな時にも、あなたの人生の岸べに、主は立っておら
れる。変わらない愛をもって。

・・・・・・・・・・・・
人間をとる漁師になっていたペテロが、もう一度、捨てた網をとっ
て以前の漁をする。しかし何もとれなかった。最たる虚しさと失望
落胆、暗たんたる思い、そこにこそ主は現われて下さる。どん底こ
そが、主に会える深い恵みの場所だ。


2014年09月19日(金)

「そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った」Tサムエル27:2 



サウル王に、殺意でつけ狙われていたダビデは、逃がれに逃れてい
たが、いつも死と隣り合わせで、どんなに恐怖であったろう。いつ
かはサウルに殺されるに違いないと思った。そして、自分を救うべ
く考えに考え、その対応策として、敵であるペリシテの地へ逃れる
ことを思いついた。そこなら追って来ることはないと。

「ダビデは心の中で言った」とある。祈ったとは記されていない。
ダビデは、どんな時も主に伺いを立てた。祈り、絶えず主に導きを
求めて歩んで来た。しかしここでは祈らずに、自分の思いで決めた。
恐怖と思い煩い、不安に飲み込まれてしまった。600人を連れてガ
テの王アキシュの所へ行った。

自分の思いで進んだ結果、アキシュのもとで、嘘に嘘を重ねる事に
なり、更にアキシュと共に、同胞イスラエルと戦争するはめに陥っ
てしまう。サウルやヨナタンと戦わなければならない。しかしそこ
に神が介入された。ペリシテの領主達が、ダビデが裏切るのではと、
参戦させないように言って来た。アキシュはそれを受け入れ、ダビ
デは同胞との戦争を免れた。最悪の事態から神は守られた。

「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」。
人を恐れる時、サタンの罠にかかってしまう。バアルとの戦いに大
勝利の後のエリヤもイゼベルを恐れて逃亡。えにしだの木の陰で死
を願った。人や状況や自分から、神に視点を移そう。主を信頼しよ
う。サタンの罠から守られる。
-----------
恐れがあると目に見える人や状況が大きく見えて、これしかないと
進んでしまう。よく祈り、それが主からのものか肉のものか悟れる
よう導きを求めよう。


2014年09月18日(木)

「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」ピリピ4:9 


人は、ネガティブ思考へ向かう傾向があると言われている。相手か
らの挨拶が無かった時、「変に思われているのでは」、反対意見を
言われると「自分が嫌いなのだ」メールに返事が無いと「あの言葉、
この言葉が悪かったのか」、家族の帰りが少し遅いと「何か事故で
は」、悪い方へ考えてしまう。

流されるままなら、ネガティブ思考へと、どんどん向かう。そんな
時、不安や恐れを消そう、消そうと、もがくと、余計にはまり込ん
で行く。不眠の時に、「眠ろう〃」と焦り、又、不眠の事を考え出
すと、ますます眠れなくなる。もがけば、もがくほど、更に、はま
って行く。

そんな時、現状から目を離して、「真実なこと」「誉れあること」
「正しいこと」「清いこと」「愛すべきこと」「評判の良いこと」
「徳と言われること」「称賛に値すること」に心を留め、目を向け
て行くことだ。否定的思いを無くそうと頑張るのでなく、前向き、
信仰的思いに心を向け、その思いで満たして行く。その時に、自
然に否定的思いが消え去る。

「すべての事について感謝しなさい」感謝して行く時、思い煩いや
恐れが消える。しかし、実行する事が大切だ。必ず実行が必要だ。
そして「主のおしえを喜びとし、昼も夜も口ずさむ」、御言葉を口
ずさむ、賛美する、祈る、恵みを数える、それを実行して行く時に、
確かに心に喜びと平安を経験する。
-------------
無意識に心配事に気をとられネガティブ思考になるとき、思いきっ
て家事の手を止め御言葉を開いてみると、さっと暗い気持ちが消え
てしまう。正しいこと、真実なこと、感謝なことで心は満ちていく。


2014年09月17日(水)

「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか」マルコ7:18


人間の罪は、外側の問題ではない。外側から来て、ウィルスのよう
に身体に入るのではない。外側の状況の問題ではない。私たちの内
側から、心の中から生じて、外側に出る。だから汚れや罪は心にあ
り、内側の問題だ。「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す
のです」の通りだ。外側は関係なく、自分の内側から出て来る。

アダムとエバの息子カインは、心の中から出て来る悪い思い、妬み
や怒りに支配され、飲み込まれて弟アベルを殺してしまった。まず
心の中から、内側から湧き上がる悪い考えがあって、殺人という行
為に及んだ。これはカイン本人の問題であり、アベルは関係が無い。

しかし、アベルの献げ物が神に受け入れられ、自分の献げ物が退け
られたという、その事柄しか見えず、心の内に湧く悪い考えに目が
向かない。その怒りが外側のアベルに向いた。私たちは、怒りや憎
しみ、敵対心が出て来る時、その原因を外側にあるとしか思わない。

相手が悪いから、自分が憎んでいるとしか見えない。憎んでいる自
分の罪にはいっさい目が向かず、自分の憎しみを正当化し、相手の
せいと相手を責め続ける。そして平安は無い。実は、「自分の問題」
を人のせいにしてしまっている。自分の問題であり、憎しみは自分
の罪であると受け止める時、主の十字架により、解決へと導かれる。
答えがそこにある。
-------------
内側から次々にわいてくる苦い思いは口に出さないので律している
と思い込み自分を欺いている。人を裁く目をもっている者だといつ
も覚え、主の十字架にへりくだっていきたい。


2014年09月16日(火)

「まことに、私をそしる者が敵ではありません・・そうではなくて、おまえが。私の同輩、私の友、私の親友のおまえが」詩篇55:12 


詩編55篇で、著者は、親友からの裏切りに、胸も張り裂けんばか
りに苦しんでいる。苦しみも喜びも共にして来た同輩である、その
友が自分を攻撃して来る。それも最も恐ろしい敵となって立ち向か
って来る。いかばかりの悩み、苦しみ、痛みだろう。「私の心は、
内にもだえ、死の恐怖が、私を襲っている。

恐れとおののきが私に臨み、戦慄が私を包んだ」とあるがままの、
おびえた心の状態をそのまま率直に主に告げている。荒野へ逃げた
いと、その荒野こそが私の逃れ場と。自分で何とかしようとせずに、
まず主にあるがままの心をことごとく吐き出し、告げる事が大切だ。
その祈りに主は答えて下さる。

私たちも、不安、恐れ、煩悶、思い煩い、すべてをありのまま、主
の前に吐き出す事が、どうしても必要だ。主はことごとく受け止め
て下さる。「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださった」
詩編記者は、主に受け止められ救われた。「夕、朝、真昼、私は嘆
き、うめく」と、ことごとく吐き出す時に「主は私の声を聞いてく
ださる」祈りが聞かれているという、心奧深くに確信を得た。

主の救いを経験し、はっきり主との交わりを得た記者は「重荷を主
にゆだねよ。主は心配していて下さるから」と確信持って言えた。
記者のように「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています」
と、そのままの気持を告げて行こう。
------------
信仰生活が長くなると祈る前から建前の道筋はよく見え、御心が最
善だからと自分の思いはそっと脇におく。私たちの主はその思いを
深く心配し背負ってくださる方だ。本音を全てを主に告げてみよう。


2014年09月15日(月)

「・・風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、『確かにあなたは神の子です』と言った」マタイ14:32  



弟子たちが、強いて舟に乗せられ、岸へと向かっていた時に、嵐に
会った。舟は陸から離れていて、引き返す事はできず、しかし進む
事もできず、立ち往生だ。真っ暗闇で、波と風に襲われどんなに恐
怖だったろう。そこに主が来られた。そしてペテロと共に、主が舟
に乗り込まれた途端、風がやんだ。

「彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。舟はほどなく目的の地に着
いた」の通り、目的地に着いた。この箇所で、主が舟に乗られると
風がやむ。つまり問題の中で、心を開き主を受け入れる時、心に吹
き荒れる風がやむ。不安、思い煩い、恐れがやむ。そして平安が臨
む。私たちの目の前に次々と問題が来る。その一つ〃に無意味なも
のはない。

主が目的と意図を持って送っておられる。教えたい事があり、その
問題に主からのメッセージがあり、伝えたい事がある。そのために
送られている。その問題を主からのものと受け入れる時に、状況と
自分だけを見ていた目が、主に移り、神視点になる。その時、平安
になり、教えようとしておられる事を悟れる。そして主がまことに
神であることを知る。

ある人が、イベント準備中に、倒れて入院となった。「何で?こん
な時に?」心騒ぎ混乱した。しかし祈ると心照らされ、自分がその
祝福の場におれない事に、反抗的になっている姿を見せられた。悔
い改め、現状を受け入れた時に、すうっーと平安になった。そして
祈りの奉仕を示され、病室で祈りに徹し、その祈りは見事に答えら
れ、イベントは大成功だった。用いられた事に喜んだ。
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問題の中に主を認めることができれば、問題は問題でなくなる。
手も足も出ない時にこそ、主の栄光だけがはっきりと見える。風の
中で主の導きを見つめていよう。


2014年09月14日(日)

「見よ。主が彼のかたわらに立っておられた・・わたしはあなたが横 たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える」創世記 28:13 

         

ヤコブは兄エサウを欺き、祝福を奪い取った。そのためエサウの激
しい怒りで、家におれなくなり、出る事になる。独りきりで、寂し
い荒野で日が暮れた。今後の不安や恐れ、孤独感に襲われた事だろ
う。そんな窮地で神に出会う。「わたしはあなたと共にあり、守り、
この地に連れ戻す」との約束を得る。

結果的に、その通りに成就された。伯父ラバンのもとに身を寄せる
事になるが、この伯父により訓練を受ける事になる。伯父にだまさ
れ、レアとラケルという二人の妻のために14年の労働、更に6年、
計20年の厳しく辛い労働をする。だましたヤコブはラバンにだまさ
れる事になる。

やがて神の時が来て、故郷に帰る事になる。自分のして来た事で、
エサウに会うのが恐ろしい。皆殺しにされるのではないか。肉の知
恵を絞り、策略を練り、備えるが、最後の不安と恐怖がどうにもな
らない。ヤコブの問題は、兄との再会だけでなく、「人を押しのけ
る者」という根本的な性質、強い自我、エゴ、自己中心という罪に
あった。とうとう神が、ヤボクの渡しで、ヤコブを捕らえ、砕かれ
た。

ももを打たれ、自分の足では立つ事ができず、杖に寄りかかった。
肉の知恵と肉の力で生きて来たヤコブが、全面的に神に拠りすがる
者に変えられた。「あなたがわたしを選んだのではなく、わたしが
あなたを選び」神ご自身が握り、追いかけ、神の約束を成就される。

・・・・・・・・・・・・・
主が語られた言葉は、主が成就される。神の時に、目に見える形で
その通りになる。そのプロセスの苦しみや試練をも、信仰を練られ
るために用いられる。どんな苦しみの中にも希望があり、光があ
る。


2014年09月13日(土)

「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配 します」マタイ6:34



「明日のことについて、心配無用」と言っている。これは将来につ
いて備えたり、計画したりするなという事ではない。それは必要だ。
しかし、不安や思い煩いは全く必要無いと。私たちの心配は、「も
し〜」から来ていないだろうか。もし、ああなったら、もし、こう
なったら、「もし病気になったら」「もし仕事が無くなったら」
「もし経済的に困窮したら」幾つもの「もし〜」で思い煩い、恐れ
ている。

しかし、主は言われる「空の鳥を見よ、野の花を見よ」種蒔きもせ
ず、刈り入れもせず、倉に納める事もしない。しかし見事に養われ
ている。野のゆりは、働きもせず、紡ぎもしない。しかし綺麗に装
われている。ましてや、私たちを天の父が養われない事があろうか。

今、目の前に思い煩いがあるだろうか。仕事の問題や、対人関係の
悩み・・なぜ、人は思い煩うのだろう。自分の思い込みによっていな
いか。悲観的思い込みだ。明日はこうなり、将来はこのようにな
り・・と勝手に思い込んでしまう。ネガティブに、悪い方に考え、あ
あでもない、こうでもないと、心が分割、分裂してしまう。

思い煩いとは心が分裂する事だ。分裂状態から、心が定まる事が必
要だ。それが「神第一」だ。主を第一に求め、自分を主に委ねて行
く時、あれやこれやの思い煩いから心が守られる。そして「そうす
れば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」神も、
生活の必要も、どちらも与えられる。

・・・・・・・・・・・・
思い煩う時には、無意識にも自分でどうにかしようと思っている。
そのため自分の肩にすべての問題がずっしりと重くかかって来る。
どうにも身動き取れず、心暗くなる。主が飛んでいる。主を見ると
心配無用!神第一に!と言われる。御言葉に従って行こう。


2014年09月12日(金)

「・・すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハネ10:4 



羊は、羊飼いの声を聞き分ける。しかし、様々な「声」がある。す
べてが主の御声ではない。思いに湧き上がる、サタンからの火矢の
声があり、自分の肉から湧き上がる欲望の声があり、又、他人の声
がある。色々な「声」が行き交っている。

サタンは神の御声を真似て、光の御使いに変装する。神から離すた
めに、神の御声と錯覚させる。そのため、どこから来ている「声、
思い」なのか、根源がどこなのか、識別する必要がある。確かめる
ためには、それは御言葉と合致しているか。聖書全般を通して、主
のお心に反していないか。

もし、その声に「苦み」があるなら、それは主からのものではない。
「苦いねたみと敵対心があるなら・・そのような知恵は上から来た
ものではなく・・地、肉、悪霊に属するもの」とある。又、次に、
その声は平安を与えるかどうかで判別できる。主からの御声は、い
のちと平安を与える。もし、その声で、心が暗くなり、落ち込み、
不安、思い煩い、焦燥、怒り、苦しみが生じるなら、主以外の声だ。

又、急かすものも、主からではない。主は不安を与え、焦らせ、急
かすのではなく、平安与え、導かれる。又、その声と「環境、状況」
を照らし合わせると良い。主からの御声は、状況も合致して行く。
そこに矛盾はない。主の御声を聞き分けるために、自分の思いや願
望を明け渡すよう示される事があるが、聞き従って行く時に、豊か
ないのちへと導かれる。
--------------
励ましに似た叱咤激励の声がサタンからのものであったと、焦り落
ち込まされた後に気づく。主の言葉でなければ良さそうに聞こえて
も何の潤いもない。主のいのちの御声を聞きわけられることは本当
に感謝だ。


2014年09月11日(木)

「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後の事を人にわからせないためである」伝道7:14



                       
人生には必ず「順境」と「逆境」がある。順境ばかりは無く、逆境
ばかりも無い。「神のなさること」であって、どちらも主から来る。
しかしこの世では異なる。逆境は悪、順境が善、との価値観なので、
逆境を恐れるゆえに信心する。家内安全、商売繁盛、無病息災・・、
悪い事が起こらないためだ。

信心していて、悪い事が起こるなら、信心の意味がないと。そんな
信心は無駄であり、世では、どこまでも自分の利得のための信心だ。
そのため順境の時も実は恐れで一杯だ。これが続くはずがないと。
しかし逆境が神のなさる事であれば、それは善で、良いものだ。主
の目的と意図があり計画がある。主に行き当たりばったりは無い。
偶然も無い。

主は逆境により私たちを鍛錬し、きよめ、造り上げて下さる。必ず
後に「苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした」と言えるよ
うにされる。何という恵みだろう。「あなたのおきてを学んだ」と、
霊的成長を与えられる。「逆境」が神からならば、私たちに何も恐
れはない。「後の事をわからせないため」と、後の事は伏せておら
れる。

もしいつ病気になり、失業し、いつ死ぬか、予めすべてわかったら
どうだろう。自分や家族の死ぬ日がわかっていたら?伏せられてい
るのは恵みだ。一生涯、どんな時も主を見上げ、主に信頼して平安
に歩むためだ。先の事は、主に委ねて生きる時、平安の中に守られ
る。順境も逆境もどちらも、主から出ているので、私たちにとって
は祝福だ。
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逆境も主からのもので、今はわからなくてもそこに深い意味がある
と知っているのは何と心強いことだろう。後になるとそれは辛い思
い出ではなく、ひとつひとつのプロセスさえ主への深い感謝になっ
て残っていく。


2014年09月10日(水)

「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすために、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた」出エジプト13:21 



イスラエルの民は荒野にある間、雲の柱、火の柱をいつも見ていた。
進むにも、とどまる事にも、常に指示があり、雲と火により明確な
導きがあった。いつもそれらを通して、主を見、その導きを見てい
た。「雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」とあり、主
が止まられる所で、しっかりとどまった。

私たちはどうだろう。止まる事が苦痛で、どんどん自分で旅を続け
たいと思ってしまう。前進したいと思う。しかし、主がストップさ
せられている時は、主と共にとどまろう。そんな時こそが大切で、
その所で主は様々な学びを与えて下さる。

無駄にとどめておられるのではない。御心があり、その中で教えら
れる事がある。今、ストップがかかっていたならじっと待とう。待
つべき時には、自分で動かない事が大切だ。動き出したい誘惑と衝
動が来るが、じっととどまろう。必ず主の時に、御心の時に、事は
動いて行く。

ある人がなかなか道が開かれず、待ちくたびれて、自分が進みたい
道に、合致する御言葉を勝手に取って来て、御心だと思い込もうと
した。しかし、そんな事は、心の深い所に平安無く、確信も無かっ
た。

そんな自分を明け渡し、右でも左でも御心のままにと、自分の好み
でなく、ただ御心を示されるよう祈った。そしてどんなに時がかか
ろうと、御言葉が与えられるまで、静まって待とうと決心した。
その時に初めて、心の真の安堵と平安を経験した。
-----------
事が動かないとすぐに半信半疑になる。待つことは難しい。今とど
まることが御心か、知恵を主に求めよう。御心なら、次に動くべき
時を悟るためにも今は静かに座っていよう。


2014年09月09日(火)

「パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる」出エジプト14:4




イスラエルの民は、モーセに導かれて、神の奇跡につぐ奇跡によっ
て、苦役のエジプトを脱出した。しかし、荒野の端に宿営した途端、
神はモーセに、その民に「引き返す」ように言えと告げられた。
引き返して、海辺で宿営せよと。とにかく一刻も早くエジプトから
遠ざからねばならないのに、あえて「引き返せ」と。

なぜそんな事を?パロは、彼らがあの地で迷子になったと言うであ
ろうと。パロが追跡すれば、パロの全軍を通して「わたしの栄光を
現わす」と。そしてエジプトが「わたしが主であることを知る」と。
民はその通りに従った。するとパロは、えり抜きの戦車600とエジ
プトの全戦車と精鋭の部隊で、民を追跡した。そして何と「彼らに
追いついた」。

民は「非常に恐れて、主に向かって叫んだ」。主に叫んだのはよい
が、モーセを通して、主の答えを待つのでなく、モーセを責め、文
句をぶつけた。そのモーセに、主は導きを与え「恐れるな、主の救
いを見よ、主が戦われる、黙っていよ」と。前は海、後ろは追軍の
絶体絶命に、奇跡を行なわれ、目の前の海を分け、道を造られた。

私たちも、前進も後退もできない、突如の苦しみに会うかも知れな
い。それは、神の栄光のためだ。その試練を通して、神が栄光を現
わされる。そして私達は、主がまことの神であることを新たに知る。
すべての事態はご計画の中だ。その試練の中で、主の御声に従おう。
------------
前にも後ろにも出口のない問題に進むべきか後退すべきか、ああで
もない、こうでもないと思い煩う。聞くべきは迷っている自分の声
ではなく主の御声だ。主を信頼し落ち着いて主の御声を待とう。


2014年09月08日(月)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」ガラテヤ5:25 


ある人が、気が短いことに悩んでいた。とにかくすぐにカッとなる。
怒りが噴き出す。イライラし出すと、おさまらない。あれもこれも
と連鎖して、腹が立って仕方がない。そうなると普段ならどうも無
い事までカッカする。どうしても身近な家族に当たってしまう。甘
えがあるからだ。当然のごとく嫌な空気にしてしまう。暗い、重苦
しい、嫌な雰囲気になる。

冷静になると、またやってしまったと落ち込み、自己嫌悪に陥る。
反省をするのだが直らない。主の御前にことごとく告げて、真剣に
助けを求めて祈った。その中で、イライラする時、自分は激しく
「怒りたい」と思っている事に気づかされた。怒りたくないのでな
く、怒りたい。その最も自分の弱い所に、サタンの攻撃が来ている
事を教えられた。

そして、御霊に導かれている時は、自分に余裕があって、同じ状況
でもイライラしないし、カッとしない事にも気づかされた。主と共
に歩み、心に平安と喜びがある時は、短気にならない。相手を受け
止める事ができる。状況や相手ではなく、「自分の問題」だと示さ
れた。

主と交わり、御霊に導かれて歩む時、心に平安と喜びがあるので、
主と共に対応できて、状況に、相手に「反応する」のでなく、意志
をもって行動して行ける。「御心を行なって」ゆける。日々に御霊
に導かれて歩むことが大切と教えられた。
-------------
ついやってしまう肉の失敗は自分が選択していると気づこう。自分
の弱いところを認識するとサタンにあおられないよう祈れる。つい
失敗することはあっても、御霊の導きに従うのは決心だ。


2014年09月07日(日)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があな たがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7 

主は「何も思い煩うな」と、言って下さっている。「何も」いっさ
い、思い煩わなくてよいと。何という平安であり、有難いことだろ
う。しかし、どうだろう。主の言葉にかかわらず、思い煩ってしま
うのが現状だろうか。思い煩いはどこから来るのか。それは、目の
前の問題は自分で対処できる、自分がしなくてはならないと思って
いるところから来る。

そのため、自分の肩に、何もかもがかかって来るので、重く、苦し
い。思い通りに事態が進まないと、思い煩うことになる。そして、
思い煩っている時は、神が飛んでいる。神無しの心の状態になって
いる。すべて自分が何とかしなければならないので、心は非常に苦
しい。

その思い煩いをどうすればよいのか。「あなたがたの思い煩いを、
いっさい神にゆだねなさい」。一つ一つ神に渡してしまいなさいと。
その前節に「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさ
い」とある。「神の力強い御手」、自分自身が思い煩っている時は
どうだろう。

力強い神の御手が全く見えていない、認めていない。どんな時も変
わる事なく、神の力強い御手があり、守られている。へりくだると
は、目の前の状況に神を認めることだ、そして神に拠り頼んで行く
こと。御手を認めないことは高ぶっていることになる。問題は、ゆ
だねられないところにあるなら、その事をまずそのまま告げて、祈
ろう。平安へと手を取って助け導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
何も思い煩わなくてよいとは、何ということだろう。「はい」と、
力強い神の御手に、一つ一つの不安を渡せるように祈ろう。「は
い」でなく、「いいえ」と主に思い煩いを委ねない自分に、気づく
ことから祝福が始まる。


2014年09月06日(土)

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエ スとつけなさい」ルカ1:31 


マリヤは、御使いガブリエルから、突然の告知を受けた。ヨセフと
婚約中で喜びの中にいた時だった。「おめでとう、恵まれた方」と
の御使いの言葉に、マリヤはひどく戸惑った。「あなたは男の子を
産む」と。余りに唐突で「どうしてそのような事が・・男の人を知り
ませんのに」とマリヤは驚いて、率直に戸惑いの思いを御使いに尋
ねた。

そして重大な問題がある。婚約中に妊娠となれば、姦淫の罪で死刑
だ。周囲はどんな目で見るだろう。家族親族まで白眼視されるだろ
う。何よりもヨセフは何と思うだろう。しかし「聖霊があなたの上
に臨み、いと高き方の力があなたをおおう」と。恐れも不安も心配
も、思い煩いも聖霊がおおわれると。

「神に不可能は一つも無い」との言葉に、マリヤは、よくはわから
なかったかも知れないが、「あなたのおことばどおり、この身にな
りますように」と、身を差し出し、何もかも委ね、応答した。マリ
ヤの信仰だ。マリヤが望んだ事でも、選んだ事でもない。主が一方
的にマリヤを選ばれた。

主に不可能は無いが、しかし、私達の自由意志による応答を受けて、
神のわざを進められる。マリヤが受け入れた時に、聖霊により子を
宿した。そして、マリヤは賛美した「これから後、どの時代の人々
も私をしあわせ者と思うでしょう」。主に従う道は、最も幸せな道
だ。今、目の前に主の導きがあれば、応答して行こう。

・・・・・・・・・・・・・
時に、難しいと思える御心に従う時には、聖霊の力がおおい、聖霊
の助けがある事を覚えよう。この身に成りますようにと、身を委ね
て行く時に、主が成し遂げて下さる。示されている御心に、従う時
幸せを下さる。


2014年09月05日(金)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」マタイ7:25



賢い人と愚かな人が出て来るが、どちらも御言葉を聞いている。賢
い人は「わたしの・・ことばを聞いて、それを行なう」。愚かな人
は「わたしの・・ことばを聞いて、それを行なわない」。愚かな人
は御言葉を聞かないのではなく、聞いている。礼拝で御言葉を喜ん
で聞き、御言葉を学ぶクリスチャンだ。

御言葉を拒否したり、反抗しているなら、自分でも自覚できるが、
喜んで聞いているので、気がつかない。御言葉を聞いて、それで満
足してしまう。聞いて、わかった気になって、そこで終わってしま
う。

御言葉を聞くだけで行なわないなら、自分の生まれつきの顔を
鏡で見るようだと。自分をながめてから立ち去ると、すぐに見たも
のを忘れてしまう。御言葉を聞いて、忘れてしまい、何も無かった
ことになる。実になることがない。

真理の言葉は行なう時に初めて、実を結んで行く。有難い御言葉を
聞いて、良かった、良かったで、終わりだろうか。しかし、それな
らすぐに忘れてしまうと言っている。そして、何も無い時はよいが、
試練が来た時に立ち行けず、倒れてしまう。「しかもそれはひどい
倒れ方」だと。

御言葉を実行して行く時に、実となり、どんな試練が来ても倒れな
い。聞いた御言葉を一心に見つめて離れない人は、事を実行して行
く。今、目の前に御言葉を示されていたら、実行できるよう助けを
求めて祈ろう。御霊の力によって従える。
---------
御言葉を聞いて、そうだ、そうだと思うだけで信仰により行ってい
かなければ約束された祝福や恵みが今ひとつわからない。信仰を持
って御言葉を実行していこう。その祈りから主が祝福してくださる。



2014年09月04日(木)

「・・自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」ヨハネ13:1



主は、今まで愛し導いて来た弟子たちに、その愛を残るところなく、
完全に、最後まで示された。自分のものを「極みまで愛され」「愛
し通された」。それで、主は、手ぬぐいを腰にまとわれ、弟子たち
の足を洗われた。そこにユダもいた。今から裏切るであろうユダの
足を、知った上で、洗われた。ユダをも最後まで愛し通された。

ペテロも主を裏切った。3度も、呪いをかけ誓い「あんな人を知ら
ない」と。そして「弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてし
まった」。弟子たちは皆、逃げた。それもわかった上で、主は皆の
足を洗われた。わかっていて、尚かつ極みまで愛された。

しかしながら、ユダとペテロは違っていた。ユダは後悔したが、主
のもとへ行かず、主に頼らず自分でかたをつけた。ペテロも後悔し
たが、主のもとにとどまり、すぐに悔い改めた。他の弟子たちも復
活の主のもとへ戻って来た。

「さて・・ユダにサタンが入った」とあり、悪魔は勝手に入れない。
ユダは悪魔を選んだ。徐々に心を開いて許して行った。主はユダを
愛されたが、ユダは主を選ばなかった。計画的確信犯であった。自
分の描いていた主と違ったのだろうか。主のそばで3年間、御言葉
を聞いた。主のわざも見た。御言葉も知った上で勘定し、自分が選
んだユダの意志だった。

ペテロは後に「身を慎み、目をさましていなさい・・敵である悪魔
が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めて、
歩き回っている」と言っている。しっかり心に留め、目を覚まし祈
っていよう。
------------
悔い改めでさえ自分できっちりかたをつけたユダは最後まで主に頼
ることがなかった。悔い改めが弱い私たちに備えられているが、真
に主に向き、もう一度新しいいのちを生み出す悔い改めでありたい。



2014年09月03日(水)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6 



信仰生活で、しばしば、思い通りにならない事態に遭遇する。対人
関係で、どうしても合わない、嫌いな相手が目の前に出て来る。職
場や学校や近隣かも知れない。愛することができず、受け入れるこ
とができない。悶々状態になる。

又、突如の経済的苦境に見舞われるかも知れない。倒産や、リスト
ラで、失職する。又、病気になったり、けがをしたり、仕事上の大
きな失敗をするかも知れない。様々な思い通りにならない状況に陥
る。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」、これらすべ
てが、信仰の目で見る時、主によって送られて来ている。

たまたまなのではなく、不運なのではない。又、サタンにほんろう
されているのでもない。「主を認めよ」、私たちを砕き、訓練する
ために、主から来ている取り扱いだ。あの人が悪い、この人のせい、
環境が悪い、このような状況だから仕方がない、目の前の人を責め、
状況のせいにして行くだろうか。

私たちは苦しい時に、とにかく相手を、この状況を何とかして欲し
いと願う。しかし、幾ら祈っても聞かれないことを経験する。どれ
だけ祈っても、相手も、状況も、自分も何も変わらない。その時に
初めて、もしかして自分への訓練では?と見方が変わる。相手でも
なく、状況でもなく、「自分の問題」として受け取り、祈り始める
と、驚くべきことに導かれて行く。解決への道筋に向かう。
-----------
祈って状況を切り抜けて行けるときもあるが、外の状況はいっこう
に変わらないときもある。この中で主の御心はどこにあるのか。訓
練ならば私の内が変わるときだ。御言葉や祈りの中で尋ねていこう。


2014年09月02日(火)

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた」創世記12:4



アブラムは主の御声を聞き、それに従い旅立ったが、ロトは御声を
聞いたからでなく、祈ったからでもなく、ただ伯父のアブラムにつ
いて行っただけであった。そして、その後もずっとアブラムの後を
ついて、アブラムの判断に任せたまま歩んで来た。

そして神の豊かな祝福により、所有物がどんどん増し、増え過ぎて、
共に歩むことが困難になって来た。そのため、アブラムは別れるこ
とにし、自分の全所有権を手放し、まずロトに好きな地を選ばせた。
「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行
けば、私は左に行こう」と。

ロトは、そこで主を見上げる事も、祈る事も、又、叔父の恩義に報
いる事もなく、思いは自分の利得でいっぱいで、どこが一番有利か
と見渡した。そして最も潤っている肥沃な地を選んだ。見た目には
素晴らしい地であったが、しかし、そこはソドムであり、滅ぼされ
る地であった。一方、アブラムは、残った所を取った。アブラムは
選ばなかったが、神が選んで下さった地であった。

ロトは自分で滅びのソドムを選び取った。自分の選択であった。自
分で選択する事と主に委ねて歩むことの違いを見る。進路が自分の
思いと違う方向になり、自分で選べなかったとしても、それは主が
選んで下さっている。委ねて歩もう。そこに思いを越えた祝福が備
えられている。
--------------
主に祈って与えられ場所だとの確信があれば、例え問題が来ても、
いつか益にと平安でおれる。そこに主の祝福が注がれているからだ。
どこにおいても主を認め委ねて歩もう。


2014年09月01日(月)

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも、神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか・・かがわかります」ヨハネ7:17 


「だれでも」と言っている。誰でも神の御心がわかると。それは
「神のみこころを行なおうと願う」ならと。つまり、神の御心を
行なおうと願う人は、だれでも、神の御心がわかると。そして、
神の言葉が正しくわかる。神の御心を行ないたいと、切に求める
こと、祈ることが大切だ。

しかし、その時に、自分の強い思いがあるなら、さえぎられてし
まい、神の御声が聞こえなくなる。どうしても○○したいという
強い欲望があるなら、主が見えなくなってしまう。又、本気で、
真剣に、従いたいと思っているかどうかも大切だ。御心示して下
さいと祈っていても、もし示された御心が好きでなかったら、し
たくない事だったら、どうだろう。

示されても、行なわないなら、聖なる御心を踏みにじってしまう
ことになる。はなから従う気がない人に、御心を知らせられない
のは、むしろ主のあわれみだ。自らの心も探ってみよう。本当に
御心を示されたなら、行なう気があるだろうか。又、自分の思い
を貫くのでなく、主の御心を行なおうと思っているだろうか。

「自分から語る者は、自分の栄光を求めます」パリサイ人や律法
学者たちは、自分を優先し、自分の栄光を求めた。私たちはどう
だろう。「しかし、自分を遣わした方の栄光を求める者は真実で
あり」、まず心探っていただき、主の前に正直な自分の姿を認め
よう。主は御心を示そうとして下さっている。導きの主だ。従お
うとしているなら、必ず御心へと導いて下さる。
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何が神の御心であるのか、それを知りたいと願う。自分の思いが
何層にも絡み合い失敗すれば御心と思っていてもがっかりする。
純粋に御心であるのかわきまえ知れるよう、悟れるよう祈りたい。