2014年10月31日(金)

「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった・・主は彼女を心に留められた」Tサムエル1:18 


エルカナには、ハンナとペニンナの二人の妻がいた。ペニンナには
子供がいたが、ハンナは不妊だった。ペニンナには、夫がハンナを
愛している事への嫉妬があった。そのためペニンナはハンナをいじ
めた。ハンナは不妊という最も痛い所を攻撃され、ハンナの苦しみ、
悲しみ、辛さは限界にまで達した。

ハンナは祈りのために立ち上がった。主の御前に出て、心の何もか
もをぶつけ、注ぎ出し、激しく泣いた。唇が動くだけで、声が聞こ
えないので、祭司エリは、彼女が酔っていると思った。彼女が気持
ちを主に訴え、感情もぶつけ、泣いて祈った後、祭司から「安心し
て行きなさい。あなたの願ったその願いをかなえて下さるように」
との言葉を受けた。

その時、彼女は変化した。心がすっきりした。もう以前のようでは
なかった。私たちも、辛い、苦しい時は、感情も何もかも出して、
訴えるとよい。気持ちも、感情も、思いも何もかもを受け止めて下
さるお方だ。聞いていて下さる。心の悲しみ、苦しみ、不安も恐れ
も、何もかも訴えて、委ねて行く時、心が落ち着き、すっきりし、
平安にされる。主が受け止めて下さるからだ。

ハンナの胎を閉ざされたのは主であり、深いご計画があった。当時
の堕落した、霊的暗黒時代を導く指導者を、祈りによって産み出そ
うとされた。そのためにハンナが用いられた。祈りにより、ハンナ
はサムエルを産み出した。あなたの今の苦しみにも、主のご計画と
御心がある。必ず大きな祝福が産み出される。心の思いを気持ちを
主に訴えて、祈って行こう。
--------------
思い悩み悶々とする気持ちで自問自答していると、気づくとサタン
にあおられ暗闇に迷い込んでいる。会話するべきは神様だ。祈りに
持っていこう。本音を受け止めてくださる神様がおられる。


2014年10月30日(木)

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」Uサムエル7:12 




ダビデは、今まで守り、大いに祝福して下さった主のために、神殿
建設する事を願った。しかし、その願いは退けられ、身から出る世
継ぎの子が建設するとの、御心が示された。神殿建設は、次世代に
委ねられており、そして、その者が一つの家を建て、主がその王座
を堅く立てると。ダビデは神殿建設を望んだが、主からの答えは
「ノー」だった。

私たちもこのような事を経験する。自分の切なる願いに「ノー」が
突きつけられたなら、どうだろう。二つの反応ができる。一つは、
思い通りにならない事態に、やる気を失い、無気力になり、又、反
抗的態度になる。もう一つは、「ノー」を受け入れ、では、主の御
心が成し遂げられるために、自分は何をすべきかに焦点を当てて行
く。

ダビデは、「ノー」を受け入れ、息子ソロモンが建設するとの御心
を知り、そのための準備に回った。これがダビデの信仰であり、素
晴らしさであった。政治的、経済的な安定がなければ、神殿建設は
不可能だ。そのためにダビデは諸外国の敵と戦い、基盤を築いてい
った。「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、
主が連勝を与えられた。

そしてダビデは、次々と膨大な戦勝品を、建設資金として主に献げ
て行った。自分の道が閉ざされた時、ダビデにならおう。自分に与
えられた御心がある。なすべき事がある。それに従おう。その時、
大きな祝福のために用いられて行く。
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「ノー」を見せられると、自分が否定されたようなマイナス思考に
なるが、主はいつも最善の答えで導かれている。別の方法、次の道
が開かれるチャンスと切り替えよう。


2014年10月29日(水)

「主は私の受ける分です。私は、あなたのことばを守りました・・私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:57


神に従うためには、御心に従おうとの「意識的」「選択」が必要だ。
オートマチックではない。なすがままにしていると、決して従えな
い。肉は楽な方へ、楽な方へと向かう。そしてそれは没人格、没個
性、没意志になるわけではない。夢遊病者のように、放っておいて
勝手に従って行けるのではない。

意識して、肉ではなく、御霊の導きの方を「選択」し、御霊に拠り
頼まなくてはならない。神が、私たちを操って従わされるのではな
い。それなら人形であり、ロボットだ。また、神が、私たちの意志
を無視して、代わりにされることもない。詩編記者は「あなたのこ
とばを守りました」と言っている。

私たちはどうだろう。主のことばを守ろうとしているだろうか。御
霊の何かの示しをなおざりにし、ないがしろにしていないだろうか。
引き延ばして、ぐずぐずしていないだろうか。詩篇記者は、主のさ
としの方へ「足を向け」た。祈ったのでなく、実際に行動した。
「仰せを守りました」。

今、はっきりと、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的に従
うように導かれているなら、実行しよう。「急いで、ためらわずに」
とあるように、ぐずぐずしていると、必ずできなくなってしまう。
いつしか、御霊の促しが消えてしまう。大きな祝福を逃してしまう。
今日、足を向けて、主の仰せを実行しよう。
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いつの間にか、無意識に、と肉に従っているが、御霊の促しに従うに
は決断がいる。無意識にできない。示された導きがあるなら心を主に
むけ立ち上がり、歩を進めよう。


2014年10月28日(火)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩篇55:22


今も心配事があるだろうか。次々と問題は起きて、悩みを抱える。
親子、夫婦、家族の問題、対人関係の煩い、仕事、進路、経済的困
窮、様々な悩みで思い煩う。しかし、主は「思い煩うな」と言われ
る。「何も」思い煩うなと。いっさい心配無用と。なぜ無用なのか。
思い煩ったところで何一つ変わらないし、何をも成し遂げない。

「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことがで
きるか」の通りに。心が真っ暗に落ち込む事で、何かを変える事が
できるのか。思い煩いは有害無益だ。又、思い煩いは、実際より、
目の前の事柄を巨人のようにしてしまう。冷静に対処するなら、乗
り越えて行ける事態が、恐怖でパニックに陥ってしまう。

カナン視察の後、ヨシュアとカレブは「大丈夫だ、占領できる、前
進しよう」と言ったが、民は恐れて怯えて泣き伏した。その不安は、
絶えず脳裏に浮かび、それを受け入れ続けていると、心配と恐れの
要塞を築き、それを尚も強固にし、モンスターにしてしまう。
自分がそうしている。モンスターにはとても打ち勝てず、不信仰に
陥る。

しかし、それは現実とは異なる。想像上のモンスターであり、自ら
が描く最悪のシナリオは成ったためしがない。主が心配して下さる。
「あなたの重荷を主にゆだねよ」その目の前の心配事を、主にゆだ
ねることが解決だ。まず、委ねて行けるよう祈ろう。
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手違いで25日と26日に同じものを送ってしまいました。申し訳
ありませんでした。今日もやって来る思い煩いのモンスターに信仰
で勝利しましょう!


2014年10月27日(月)

「私は、愚かで、わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした。しかし私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」詩篇73:32 



詩篇の記者は、悪者が富を増し、安らかそうであり、栄えるのを見
て、落ち込んだ。豊かで肥え太っていて、あぶらぎっていて、何の
苦しみもなそうだ。それに引き換え、神を信じる自分は惨めで、苦
しみばかりで、何のよい事もない。この足はたわみそうで、歩みは
滑るばかりだと。どうして神を信じない者が栄えるのかと。

しかし、それは「私が誇り高ぶる者を妬んだ」自らの妬みから来て
いる。そして、その妬みは、人との比較の中にいるから起きるので
あり、神ではなく、人を見ていた。信仰生活で、平安や喜びが失せ
るのは、状況の問題ではなく、神以外のものが心を占め、重きを置
き、第一になっているからだ。

その底に、富への欲望や、人からの賞賛を求め、それを愛する心が
ある。それが人への羨望になって出る。それは、神に焦点が合って
いないからであり、様々な欲求不満や愚痴、イライラでいっぱいに
なる。心に喜びがなく、虚しい。彼は聖所に入った時に、光が来た。
心すさみ、悶々状態の原因は、目の前の状況ではなく、「神と自分
の関係」であると悟った。

神から離れているから、平安が無いのだと。今、平安が無いなら、
目の前の問題のせいと思うかも知れないが、それは全く関係が無い。
心が、神以外の所にあるからだ。逆に、どんな困難な中でも、神と
の親しい交わりにいるなら、心は不思議な平安に守られる。
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目に見えるものに惑わされ、同じ価値観で喜んだり落ち込んだりす
る。平安から迷い出たときは、主を見上げ、もう一度主の御約束を
思い起こそう、私たちは高価で尊く愛されている。


2014年10月26日(日)

「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたし ます。』こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命 じたすべてのことをした」ルツ3:5      


ルツがモアブの地から、ナオミについてベツレヘムにやって来た。
モアブを去る時に、実家に帰るように強く勧めたにかかわらず、嫁
ルツはナオミの背後のまことの神を見て、共にやって来た。そんな
ナオミの将来を祈り、考えた事だろう。ルツに親切にしてくれるボ
アズは、親戚でもあり、彼こそがふさわしいと考えた。

それで、ナオミはボアズに買い戻しを願うよう、方法をルツに指示
し、ルツは姑の言う通りにした。すると彼は、更に近い親類が権利
を放棄するなら、自分が買い戻すと。その時ナオミは、必ずボアズ
がルツを買い戻す事、それが神の御心であり、それが成就する事を
信じた。

それで、「この事がどうおさまるかわかるまで待っていなさい」と
確信を持って言えた。動き回るのでなく、何かするのでなく、ただ
待てと。肉の動きを止めることだ。私達はこれが大変難しい。自分
を救うために、動き回ってしまう。じっとしているより、その方が
安心なのだ。

目に見えない神をただ待ち望む事は難しい。又、それは、手をこま
ねいているのではなく、示された事はして、待つという意味だ。ル
ツは自分のなすべき分を果たした。だからこそ、次にすべき事はそ
こで安息し、ただ神がされる事を、祈りの内に待てばよい。

あなたにも、今、示された事をなし、後は、神を待ち望めと、言っ
ておられるだろうか。

・・・・・・・・・・・
主はどんなに配慮し、計画し、良くして下さるか、目の当たりに見
せられる。目の前の状況に、事態に、肉はすぐに何とかしようと、
思いを巡らし、動いてしまうが、まずは祈って主の示しを待とう。
そして示された事を行おう。


2014年10月25日(土)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力 は、弱さのうちに完全に現れるからである」Uコリント12:9



パウロは、大いに喜んで、自らの弱さを誇ると言った。初めてこの
御言葉に触れた時に、不思議に聞こえただろうか。この世の価値観
では、強いことが良い事であり、善だ。弱さは劣った事であり、悪
だ。だから弱さを否定し、頑張って弱さを克服し、強さに変えよう
と努力する。

弱さは欠点であり、悪なので、人前に自分の弱さは恥であり、恐れ
となる。そのため、決して弱みを人に知られたくないし、見せたく
ない。多くの人はそのように生きている。だから弱さを何とかした
い。弱さは足かせであり、重荷であり、取り除きたいもの、解放さ
れたいものだ。

しかしそうではない。本当はすべての人間は弱い。しかし知らずに
いる。その弱さがわかった時に、主の恵みの中を生きることができ
る。ある人は、対人関係が苦手で、仕事に行き詰まった。出来ない
自分を責め、努力が足らないからだと、更に頑張った。しかしどう
してもうまく行かず、更に自分を責めてしまう。

とうとう心身疲れ果ててしまい、仕事を辞めようと思った。なすす
べなく、どん底の中で、主の御前に祈っていた時、主の恵みは十分
で、弱さのうちに、神の力が現れるとの御声を聞いた。弱いままで
よいこと、強くなろうとしなくてよいことに、心底の安堵が来て、
そこから自分が変えられた。心に喜びと平安があるので、対人関係
が苦でなくなってしまった。

・・・・・・・・・・・・
弱さを克服し、強くならなければと勘違いする。古い価値観があり、
なかなかわからず、頑張りに頑張るが、不毛に終わる。が、その時
に、頭で知っていた「弱さの中に恵みが十分」であることを、真
に知って行く。神の力が弱さの内に現れるとは何という驚くべき事
だろう。


2014年10月24日(金)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



しばしば思い煩いでいっぱいになるだろうか。「何も思い煩わない
で」と主は言われる。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆ
だねなさい」とも言われている。なぜ思い煩らうのだろう。それは、
自分がしなければならない、また、できると思っているからではな
いか。それなら、すべての荷が自分の肩にかかってくる。

そんな時、自分の思い通りに物事が進まないと、ネガティブな方向
に落ち込み、思い煩いで悶々となる。そして、思い煩っている時は、
主の力強い御手を認めていないのではないか。力強い御手は飛んで
しまって、自分が、自分がと、自分が前に出て、すべてを自分で何
とかしなければと思ってしまう。

苦難のヨセフはどうだったろう。もし、ヨセフが自分が、自分がと、
自分で何とかと考えていたなら、ヨセフはすぐに行き詰まり、倒れ
てしまっていたことだろう。兄たちに隊商に売り飛ばされた時はど
うだろう。更に無実の罪で投獄された時は?その上、献酌官長によ
り、出獄できると期待し、忘れ去られた2年間はどうだろう。

打ち続く苦難に心は折れてしまっていただろう。ヨセフがそんな中
も歩めたのは、主に拠り頼み、委ねていた。「思い煩いをいっさい
ゆだねなさい」思い煩いを委ねることが答えだ。「神が心配して下
さる」委ねられないなら、委ねられるよう祈ろう。
----------
委ねたと思っても、角度を変えて何度でも思い煩いは来る。来るた
びに、主に祈ろう。抱えている問題は主が介入されないと解決はで
きない。明日を知り、最善をしてくださる主に委ねよう。



2014年10月23日(木)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11 


悪魔に「機会を与えるな」と言われる。機会を与えるのは自分自身
だ。悪魔の目的は神から離すことであり、悪魔は私たちの心に、足
場を得ようと常に狙っている。カインは怒りにより、悪魔に足場を
与えて行った。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕ってい
る。だが、あなたは、それを治めるべきである」

悔い改めて、罪を治めるべきであった。しかし、カインは従わずに
アベルを殺してしまった。サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与
えて行った。ダビデへの妬みを悔い改め、捨てる事をせず、ダビデ
を攻撃し続けて、悪魔に機会を与え続けた。ダビデは、高ぶりによ
り人口調査の罪を犯した。連勝を自分で得たかのように高ぶった。

人口調査をして自らの力を誇りたかった。神でなく兵力に頼んだ結
果だった。部下ヨアブが止めに入るが、ダビデは聞かず、神の怒り
を招き、民に災いをもたらす結果となった。悪魔は、カインに、サ
ウルに、そして主に忠実であったダビデにさえ働いた。姦淫と殺人
を犯してしまった。私たちは自分の心をしっかり見張り、守る必要
がある。

又、悪魔は「疑い」を引き起こす。「神は愛してくれているのか」、
信仰の足元がぐらつく。対人関係に「疑い」を起こし不信感を植え
付ける。赦さない心は悪魔に足場を与える。赦し合おう。今、悪魔
の攻撃に会っていないか。機会を与えてしまっていないか。心を見
張ろう。サタンの策略に気づけるよう祈っていよう。
------------
絶えずサタンの攻撃が来ていることをどれだけ自覚しているだろう。
気づかないで振り回されている。気づけるよう、立ち向かえるよう
絶えず祈ろう。


2014年10月22日(水)

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」マタイ6:7 



パリサイ人たちは、会堂や通りの四つ角に立って祈った。しかし、
それは「人に見られたくて」自分が信仰深く、いかに祈る者である
かを、「人に見せるため」だった。神ではなく、自分を崇めるもの
だった。「祈る時には、偽善者たちのようであってはならない」。

人に聞かせるために、良く見られたいがために、人に見せる祈りと
は逆に、人前で祈る事に尻込みする事がある。人を意識し、自分を
意識するので、人前で祈る事は恥ずかしい。実は、これも同じく人
の評価を気にする肉から出たものだ。

又、異邦人のように同じ言葉を繰り返すな、と言われた。言葉数が
多ければ良いとばかりに、何時間も同じ言葉を唱え、祈り倒さんば
かりにガンガン祈る。異教ではよくある事だ。しかしこれは根本的
に違っていて、私たちと主とは、取引き関係でなく、力でねじ伏せ
て聞いてもらうのでなく、信頼関係で結ばれている間柄だ。

主は祈る前に、私たちの必要をすでにご存じだ。しかし、だから、
祈らなくてもよいのでなく、「だからこそ」祈れと言っておられる。
主は求めに答えられる。すでにわかっていて下さるからこそ、安心
して求めることができる。「自分の部屋に入り、戸をしめて」人で
はなく、自分でもなく、神を意識して、神に向き合って行こう。
-------------
祈りあうときも互いが神を見て、神に向かって祈るのでそのご臨在
に満たされてさらに恵まれる。形式的な祈りより拙い祈りでも、幼
子のように神に向かって祈ろう。


2014年10月21日(火)

「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上に手を置いてこう言った・・するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった」使徒9:17 



当時、キリスト者は、激しい迫害の中、エルサレムから方々に散ら
され、国外にまで散らされた。しかし、ユダヤ人たちは徹底的に、
執拗に彼らを追った。青年サウロは、殺害の意に燃えて、大祭司に
ダマスコの諸会堂宛の手紙を書いてもらい、彼らをエルサレムに引
いて来ようとしていた。その途上で、突然天からの光を受けること
になる。

一方、ダマスコに住んでいたアナニヤは、迫り来る危機に、必死に
祈っていただろう。そんな時に、「アナニヤよ」との御声を聞いた。
どんなに心強かっただろう。しかしその主の言葉は、驚くべきもの
だった。迫害に迫害を重ねて来た、サウロに会いに行くようにと。
盲目になっている彼の目が開くように祈れと。

アナニヤは想定外の内容に、理解できず、しかし彼は迫害者で・・
と問うて行く。だが、主は、彼は選びの器であり、行けと答えられ
る。アナニヤはどうだったろう。愛する同胞を殺害した相手だ。そ
の相手の助けとなり、祈れと言われる。あのサウロが、本当に回心
したのだろうか。自分も殺されるかも知れない。命がけだったろう。

それに本当に主の御声なのか。自分が間違って聞いているのでは?
様々な思いがよぎったかも知れない。しかしアナニヤは従った。主
はアナニヤをこのために選ばれたのであり、彼が従うと知っておら
れた。彼は、日頃から御声に耳を傾け、主との交わりの中に生き、
従い続けて来た弟子であった。私たちも、普段の地道な主との交わ
りを大切にし、「主よ。ここにおります」と答えて行こう。
-----------
主は御心のままに日々、私たちに志を与えてくださる。今日は何を
示されるだろう。御心なのか、そうでないのか、自分の思いを明け
渡し従う心で主の御声を聞いていこう。


2014年10月20日(月)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8




 ある人は、小さい時からまじめで、努力家で、何でも一生懸命に
頑張り、優等生だった。見るからに頑張りやさんだった。少々何か
があっても、弱音を吐かず、何とか頑張りで、やって来た。それで、
自分でも、良い人間だと思っていた。何でも、頑張ればできると思
っていた。そんな中、友人に教会に誘われた。特に、嫌ではないの
で、行ってみた。

続けて通うが、自分には「罪」ということがよくわからなかった。
怠けることなく、何でも一生懸命やり、嫌なことでも逃げずに取り
組み、頑張る、自分は良い人間としか思えなかった。教会で、聖書
の学びを続けていた中、ある時、放とう息子の箇所だった。弟息子
が、父の財産をもらい受け、家を出て、放とう三昧したあげく、無
一文になって父親のもとへ戻って来た。

父親は、無条件の愛で息子を受け入れた。その時、兄息子は、自分
の好き勝手をして、財産使い果たして戻った弟、そのために、宴会
とは何事かと、怒りと不満爆発した。怒りで、家に入ろうともしな
かった。行方不明の実弟が戻って来たのに、喜ぶどころか、さばき
と怒りだ。その兄息子に自分の姿が重なった。

表向き良い顔をしながら、心の中では、自分は立派な正しい人間で、
出来ない人、ぐずぐずしている人、弱い人をずっと上から見下し、
さばいていた。自分の罪をはっきりと見せられ、この罪のための十
字架であることを示された。悔い改め、主を信じるに至った。
----------
御霊の慰めや励まし、支えがなければ、一人で頑張る放蕩息子の兄
もマルタも自分の姿だ。罪につき義につき判断基準は人ではなく、
御霊からの助けと導きだ。


2014年10月19日(日)

「彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたか らだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするの か。』と言えようか」Uサムエル16:10 


シムイという男が、ダビデに石を投げ、ダビデを呪い、罵倒した。
「血まみれの男、よこしまな者」と。余りの侮辱に、部下が、「首
をはねさせて下さい」と進み出たが、ダビデは、主が命じられたの
だから、放っておけと、報復を許さなかった。

主によるものだと、信仰によって受け止めた。ウリヤを殺害したダ
ビデだったが、無駄な血を流したくない。これは、神からのもので
あり、訓練だと、甘んじて受け入れた。「私の身から出た私の子さ
え、私の命を狙っている」シムイどころか、実子アブシャロムすら
自分に歯向かっている。そのためシムイの呪いも、神から出たもの
と受け取った。

状況でなく、神を仰ぎ見る、何とへりくだった心と態度であったろ
う。主は「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」、どのよう
な悲惨な状況の中でも、状況を変えようとあらがうのでなく、神の
前に正しい心でいるなら、それをも主が良い事のために計って下さ
る。ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを
良いことのための計らい」とされた通りだ。

相手の悪意でさえも、あなたのために益とし祝福と変えて下さる。
そうであれば、恐いものはない。あなたの目の前のその事態を「神
がされた」「神から出ている」と受け取る時、誰もあなたを損なう
者はない。誰もあなたを害する事は出来ない。あなたをキリストの
かたちへと変え、成長させて行くばかりだ。

・・・・・・・・・・・・・
主は、ののしられても、ののしり返さず、正しくさばかれる方にお
任せになった。正しくさばかれる方がおられる。その方にゆだねて
生きることができる。主の視点で、御言葉によって判断し、立てる
よう祈ろう。祈りなくしてできない。主が助けて下さる。


2014年10月18日(土)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたこ とです」マルコ4:40 


向こう岸へ渡るために、主と弟子たちは、舟で出た。ところが、激
しい突風で、舟が波をかぶって、水でいっぱいになった。弟子たち
は、大変な恐怖と不安に陥った。しかし、そんな時に、主は、とも
の方で、枕をして眠っておられた。激しい風雨も、主を不安にさせ
る事はなかった。主は、影響を受けられなかった。

ここで、状況は、私たちにとって、関係が無いことを見せられる。
「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」と、
主を起こした弟子たちに、主は、風をしかりつけて、湖に「黙れ、
静まれ」と言われた。その主の一言で、風はやみ、大なぎになった。

そして言われた。「どうしてそんなにこわがるのか、信仰がないの
は、どうしたことです」と。弟子たちが、恐れと不安に陥った原因
は、嵐にあったのではなく、主に対する「不信仰」によるのだと。

私たちは思い煩いや、不安、恐れに落ち込む時、事態や状況が原因
だと思い込んでいる。この状況が、自分を不安にさせるので、この
状況さえ変われば、又、この事態が無くなればよいのだと思う。

しかし、そうではなく、状況の問題ではなく、「信仰がないのは、
どうしたことです」との問題だ。まず自らの状態を知る時、祈って
行ける。不信仰を認める時に、主に、信仰が与えられるように求め
て行ける。信仰を与えて下さるのは、主だ。そして、主への信頼を
深めて行って下さる。

・・・・・・・・・・・
しょっ中、状況のせいだと勘違いしてしまう。状況は何の関係も無
く、主と自分との関係の問題だ。そのところを繰り返し繰り返し
何度も何度も教えられ、真の平安へと導かれる。どんな状況でも平
安が決して取り去られないことを教えられて行く。


2014年10月17日(金)

「信仰がためされると忍耐が生じると いうことを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい・・成長を遂げた、完全な者となります」ヤコブ1:4 



「忍耐」を、主を知る以前の「我慢」のように思ってしまいがちだ。
忍耐と我慢は異なる。我慢は、そこに神が無く、とにかく苦しみが
去るように、去るようにと、頭を抱え込んで、しゃがみ込む状態だ。
そこに何の希望も持てない。

忍耐とは、積極的な、前向きの意味があり、神が必ず良くして下さ
ると、信じることだ。今は確かに辛いが、この事が必ず益となり、
祝福となると信じて、苦しみの中で主を待ち望むことであり、そこ
には光と希望がある。

そして「信仰が試されると、忍耐が生じる」とあり、この忍耐=神
が良くして下さると信じる力は、試練から生まれると。試練を通し
て信仰が養われる。辛い時は、信仰が培われるチャンスだ。まず主
に心を向けて、あるがままを祈って行けばよい。心の辛さ、苦しさ
を告げて、助けを求めればよい。

私たち誰しもの願いは、信仰の成長ではないだろうか。信仰は使う
時に、成長して行く。訓練によって、筋力が強くなって行くように、
辛さ、苦しみを通して、信仰を使う事によって、信仰の筋力が強く
なって行く。

ある人が、事情により、働く事ができず、経済的困窮に陥った。収
入が無い状況というのは初めてで、最初はほとんど恐怖で、パニッ
ク状態だった。しかし祈る時、主は真実に与えて下さった。何度も、
繰り返し〃、祈る度に、必要が満たされた。不安は襲い来て、苦し
い中だったが、忍耐が与えられた。主は、与えて下さる事を信じる
ようにされた。
-----------
自分や状況や人に期待して忍耐するなら、今日は我慢できても明日
は待てないかもしれない。神に信頼し必ず良くしてくださると今日
を委ねていくのが忍耐なら、信仰をもって平安に待っていられる。


2014年10月16日(木)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3 



ピリピ教会には、不一致の問題があった。「ユウオデヤとスントケ
・・あなたがたは、主にあって一致して下さい」と。ピリピ教会に
は、外部からの反対者からの迫害もあった。そのためにどうしても
一致が必要であった。そして、「キリストにあって励ましがあり、
愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがある」の
で、だから、一致を保ち、志を一つにして行くようにと。

教会の一致を妨げるものが、「自己中心」と「虚栄」とある。そし
て、一致に必要なものが「へりくだり」だ。それは「互いに人を自
分よりもすぐれた者と思う」ことだ。私たちは皆、自分のメガネを
持ち、自分の物差しを持っている。これが自己中心であり、自分の
思いが強く、自分の思い通りにしたい。

これで妨げられて、相手の本当の姿を、正しく見ることができない。
これを捨てる時に、初めて相手の立場に立ち、理解して行くことが
できる。「虚栄」とはプライドであり、自分が人から評価され、認
められたい。主のへりくだりと対極をなす。

へりくだりは、人を自分よりもすぐれた者と思うことであり、主は、
神であられたのに、神の栄光、特権を何もかも捨てられて、ご自分
を捨てて、無にして、来て下さった。そして、死にまで、十字架の
死にまで従われた。自分には出来ない事を認め、言い表し、御霊の
助けを求めよう。御霊に助けられる時、主のお心を歩ませて下さる。
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誰もが自分より優れていると思えば落ちこみ、認めてもらいたい者
だが謙遜にならなければ一致もない。主は神であられるのにご自分
を低く低くされた。謙遜を祈ろう。


2014年10月15日(水)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」詩篇5:3


朝に、少しの時間でも、主との交わりが持つことは良いと、誰しも
知っている。祈って一日を始めると、何かが違うことも経験済みだ。
しかし、どうだろう、朝、起きるや、あれこれ一日のスケジュール
が頭をかけ巡る。又、現在の思い煩いがすぐに浮かび、心が暗くな
ってしまうだろうか。

それにつられて、今日の予定で頭がいっぱいになり、又、思い煩い
で悶々状態になる。心が主に向かないまま、どんどん違う方向へ向
かってしまう。まずこれをしてから、祈りの時を持とうとすると、
次、次とする事が出て来て、必ずや持てなくなってしまう。夜に祈
ろうと思うと、眠くなってしまい、祈れないままになってしまう。

ある人は、余りにも忙しい日々に、時間が無い、時間が欲しい、時
間さえあれば祈れるのにと思っていた。ある時、突然、休暇がもら
えた。嬉しくて、すぐに行楽に出てしまった。その時に、主との交
わりは、時間の問題でないことに気づかされた。

時間ができても、持とうとしない自分、環境の問題でなく、主を第
一に求めようとしない、自分の心の頑なさに気づかされた。悔い改
めて、朝の少しの時間を祈りに献げて行った時に、助けられて、続
けて与えられて行った。
-----------
第一のものを、第一にしなければ、どっと二番目、三番目のものが
押し寄せてくる。主との交わりは忙しい一日の大切な備えだ。御心
の真ん中に歩めるよう、朝に主と交わろう。


2014年10月14日(火)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3



ある人が、何やかやと干渉してくる、お節介な隣人が嫌でたまらな
かった。頼みもしないのに世話を焼かれる。プライバシーに踏み込
まれるので、苦痛でたまらなかった。だが、そう思う自分も、寛容
でなく、心が狭いのではと嫌で、とにかくその事を祈りに持って行
き、ずっと祈り続けていた。

ある時、余りにもお節介な行為に、とうとう我慢が限界に来て、も
う、取り返しのつかない言葉が爆発する瞬間、「神様!」と叫んだ。
助けを求めた。その時、口からひとりでに言葉が出た。「すみませ
ん。いつも色々して頂いて」。自分で驚いた。決定的な攻撃的言葉
を出してしまうところ、主の関与で助けられ、守られた。

すると相手には、その言葉は良かったようで、心を開いて来た。良
い関係になって、和気あいあいとなった。自分自身も、不思議にも
心が変えられて、相手を受け入れられるようになり、すると、相手
が相談事を持って来るようになり、主のみわざに驚いた。目の前の
辛い事を、まず祈りに持って行き、ずっと祈り続けたことを通して
、祈りの力を教えられ、見せられた。

どんな状況の中でも、「わたしを呼べ」と言われる主のもとへ行き、
主に祈ろう。「そうすれば、わたしは、あなたに答え」、今、目の
前の事態を悩んでいないで、思い煩っていないで、主を呼び、主に
告げよう。主は答えて下さる。
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小さなストレスも祈りに持ち込もう。自分であれこれ考えるたびに
思い煩いは雪だるまのように膨らんでいく。考える前に祈れ!だ。
まず主に語ろう。


2014年10月13日(月)

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」出エジプト14:13 



主の奇跡の連続で、出エジプトを果たしたイスラエル。荒野に出た
時に、大きな試練が臨んだ。エジプト軍の戦車部隊が追って来たの
だ。前は紅海、後ろは追っ手。前にも後ろにも進めない。まさに断
崖絶壁の窮地であった。

しかし、主はこの事態の目的を「わたしの栄光を現わす」ため、
「民は大いなる御力を見たので、主・・を信じた」、つまり「神の
栄光が現れるため」「民の信仰が強められるため」と言われた。

私たちも信仰人生の中で、絶体絶命の窮地に立つ事がある。前にも
後ろにも進めず、もうどうして良いかわからない、身動きの取れな
い状況に陥る。しかし、とにかくまず落ち着こう。「恐れるな」
「しっかり信仰に立て」「わたしが戦う」との言葉を受け取ろう。

神は海の真ん中に道を造られる。道無き所に、道ができて、絶体絶
命の事態を力強く導かれる。民はエジプトの追っ手から奇跡をもっ
て救われた。耐えられない試練は無い。神の栄光とは、「神にしか
出来ない事態が起こり、それがまさに神である事がわかる」ことだ。

あなたも、今、窮地にあるだろうか。試練が臨んでいるか。「恐れ
るな」「信仰に立て」「わたしが戦う」に立とう。そして祈ろう。
必ず神の導きが臨み、神の栄光を拝する。窮地は神の機会、今窮地
なら、神の栄光が現されるチャンスだ。主が戦って下さる。
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窮地の中で目の前をみると、恐れや焦りで一刻もじっとしていられ
ない気がする。「しっかり立って・・見なさい」と神の御言葉は言
う。人間的な声の最中で、信仰に立ち、祈り、神の声を聞分けよう。


2014年10月12日(日)

「『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』ヨブはこ のようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった」ヨブ1 :21



ヨブは、ある日突如として、子供たち全員を失い、家財や家畜、し
もべたち、何もかもを無くしてしまった。しかし「主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな」と、「主は」「主は」「主
の」と、ヨブはそれを主から来たものと受け止めた。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・あなたがたの道と
異なる」とあるように、神の思いは、私たちの思いと「異なる」。
ある時は、私たちには全く理解できない。「なぜこんな事が?」
「それがなぜ私に?」納得も行かない。
しかし神は、私たちがたとえ理解も納得もできなくても、神を「信
頼」して従って行く者とさせるために、時にこのような試練を送ら
れる。

しばしば、クリスチャンもご利益宗教になってしまう。自分を軸に
置くために、自分中心にしか物事が見えない。自分が理解できる、
納得できる範囲でしか、信じようとしない。納得するなら、わかる
なら信じるが、そうでないなら信じない。拒否してしまう。

又、自分が中心にあり、自分のために神がある。自分がより良い人
生を生きるために、神があり、自力だけでは不安なので、神の助け
が欲しい。自分がより良く生きるための神ではなく、どんな中でも、
神を神として礼拝して生きて行く生涯へと、主は導きたいと願って
おられる。

試練は主から来る。心を屈折させるのでなく、逃げるのでなく、受
け止められるよう祈ろう。心も態度も、修正しつつ御心へと導いて
下さる

・・・・・・・・・・・・
どこまで行っても自分軸で、自分のための信仰、自分のための主に
なっている。しかし、それに気づけることが感謝だ。御霊は試練を
通して、少しづつ〃「自分のための神」から、「神のための自分」
に変えて行って下さる。何と嬉しいことだろう。


2014年10月11日(土)

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てる ことができないとは考えないで・・十字架の死にまでも従われたので す」ピリピ2:7

 

職場で、理不尽な扱いを受けて、苦しい状況にある人がいた。同僚
が慰め、励まそうと「大変でしたねえ」と声をかけた。するとその
人は「はい、こんなに祈らされた事はなかったです。自分は正しい
のにと、悔しさや辛さで一杯で祈っていた時に、主の十字架が迫り
ました。

完全に正しい罪の無い方が、十字架で苦しまれ、命を捨てられた事
に目が開かれました。そして自分の姿が見せられました。正しいと
思っていた自分に潜む自己中心、プライド、憎しみ、妬み、裁き・・
罪を照らし出されました。心から悔い改めて、すべてを主にお委ね
しました。今、心はもう全く平安で、御霊の喜びがあります。この
事で、主を新たに知れて感謝しかありません」と答えた。

ある人も、人から中傷され、ひどく傷ついた。自分は悪くないの
に・・。非常に悩み、心は辛くてたまらず、涙ながらに祈っていた。
その祈りの中で、やはり十字架の主が迫り来た。罪の無い主が、ご
自身を捨てられた事を思い続けていた。その時に、悪くないと思っ
ていた自分の内に、自分は出来るという高ぶりがあり、密かに人を
見下している罪を示された。

相手もどんなにか嫌な思いをした事だろう。悔い改めることができ
て、心がすっきりした。取り扱いの中で、十字架の主に向かい、自
分自身が変えられて行く。

・・・・・・・・・・・・・
自分は正しいと、いつも自己正当化したい。が、主を見上げた時に、
完全に正しいのに、十字架にかかっておられる。自分の肉の正しさ
が砕かれる。本当の正しさとは、愛する事だと教えられて行く。


2014年10月10日(金)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」イザヤ30:21



主は、私たちを導かれる。導きの主だ。その導きを知るために、み
こころを祈り求めることが大切だ。それが人生で重大な進路であれ
ば、まずよく主と交わることが大事だ。心を主の御前に打ち広げ、
罪があるなら悔い改め、主との間に何か妨げがあるなら、祈りの中
で示されて、献げたり、捨てたり、主との関係が平安であるように
持って行こう。

よく心を整えられ、自分の強い思いや主観は、御心を知ることを妨
げてしまうので、それらを明け渡して行こう。「自分の思いでなく、
御心が成りますように」、そう祈れないなら、まず祈れないという
事を主に告げて行く時、心の内を導いて下さる。祈れるように助け
て行って下さる。自分の意志を明け渡すことができれば、9割方解
決と言われている。

自分の強い思いや、強い意志はどうだろう。御言葉を与えられるよ
うに祈り、心の平安もよく目を留めよう。御心なら、必ず状況が開
かれて行く。これは自分で切り開くのではない。主が目の前で開い
て行かれる。開かれた中を進んで行ける。状況の開き閉じをよく見
ていよう。

御心であるが、「神の時」を今しばし待つ必要がある場合もある。
又、信仰の指導者に一緒に祈ってもらうのも良い。御心は一つなの
で、御霊の導きなら必ず一致がある。主は御心を行おうと願う者に、
必ず主のお心を示して下さる。
-----------
御心を求めて祈り始めたら、御言葉や状況や、自分の思いもよく見
張っていよう。明け渡せるよう祈っていると不思議に強い思いを主
が吸い取ってくださり、導きを平安に待てるようにしてくださる。


2014年10月09日(木)

「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」ルカ22:31



ペテロは、「全部の者がつまずいても、私は決してつまずかない」
と言った時に、主は「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言う」
と。尚もペテロは「御一緒に死なねばならなくなっても、あなたの
ことを知らないなどとは決して申しません」と重ねた。

しかしそのペテロは主が捕らえられた時に、逃げて、主の言葉の通
りに三度裏切ってしまった。だが、主はペテロの裏切りを予めご存
じであった。そのため予告するだけでなく、主は先回りして、彼が
立ち直れるよう整えておられた。それは「わたしはあなたのために
祈りました」との執り成しの祈りであった。

ペテロが裏切らないように、失敗しないようにという祈りではなく
て、裏切った後に立ち直れるようにとの祈りだった。ペテロには取
り返しのつかない、生涯の大失敗だった。しかし、主は、ペテロを
後の諸教会のリーダーに定めておられ、ペテロ自身が気づいていな
い弱さを取り扱われた。「主が振り向いてペテロを見つめられた」
時に、主のお言葉を思い出し、号泣した。

すべてをわかっておられたにかかわらず、主の決して変わらない愛
に触れた時に、泣き崩れた。ペテロは変えられて行く。私たちにも、
この主の何があろうと決して変わらない愛と、主の祈りがある。ど
んなに失敗しても、その失敗をも益とし、祝福に変えて下さるのは、
何という恵みだろう。
-----------
失敗により砕かれ肉の弱さを自覚し、失敗のたびに自分に頼らず主
に頼ることを学ぶ。こころみのときにには、この主の祈りが背後に
ある。何と深いご愛だろう。


2014年10月08日(水)

「サムエルはサウルに言った。『あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに」Tサムエル13:13 


サウルはベニヤミン族の出身で、12部族の中でも、最も小さな弱
小部族だった。その中からイスラエルの王に選ばれた。そのためサ
ウルは、最初は自分のような者が王になるなど、どうしてそんな事
をと言っていたほどだったが、その職を受けた。

余りの事の重大さに、恐れや不安があったろう。弱さをわきまえ主
に頼り、従っていた。最初は良く、アモン人を討伐した。しかし
段々、神ではなく、人を見るようになる。神の目ではなく、人の目
が気になる。ペリシテとの戦いの時に、形勢不利になり、民は、自
分たちの危険を察し、恐れ、サウルから離れて行こうとした。

瀬戸際のサウルは、この状況を何とかしなければと、主に嘆願すべ
く、勝手に全焼のいけにえを献げた。しかし祭司サムエルから、七
日間そこで待つようにと命を受けていた。そして、いけにえは祭司
しか献げることができない。サウルは人を恐れ、離れる民を、肉的
手段で、つなぎ止めようとした。そのため、してはならない事をし
てしまった。

神を待てないで、自分で動いてしまった。私たちも、今、主の助け
が遅れているだろうか。祈っているのに、なかなか答えが来ないだ
ろうか。「もし遅くなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れ
ることはない」。見切り発車しないで、神を信頼して、神を待とう。
神が動かれる。
----------
自分の願うタイミング通りに物事が決まらなければ、遅れている、
遅いと感じるが、神の時は、「遅れる」ことはない。今ではないだ
けだ。落胆せず、焦らず続けて祈っていよう。


2014年10月07日(火)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28



放とうしていた弟息子が、我に返って、父のもとに戻って来た。父
は大喜びで、まだ家までは遠かったのに、彼を見つけ、走り寄って、
彼を抱き口づけした。「かわいそうに思い」あわれみで、父の心は
沸き返っていた。心身ぼろぼろになって戻った息子を抱きしめて、
喜び祝おうと宴会を開いた。

「死んでいたのが生き返り」放とうしていた間のことを、その挫折
と孤独、うちひしがれた心の状態を理解していた。父の心は愛と慈
しみで溢れていた。しかし、兄息子は、行方不明の弟が戻った事を
喜ぶどころか、怒りが湧いた。怒って、家に入ろうともしなかった。
放とうざんまいして、帰って来て、宴会を開くとは、と抗議する。

兄は「私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません」
自分を義とし、身をもち崩した弟を見下し、受け入れようとしない。
兄は父と一緒にいるが、その心には愛も喜びも平安も無かった。距
離的にはすぐ近くにいるが、その心は遠く離れ、感謝も満足も無く、
欲求不満といら立ちと、裁く思いでいっぱいだった。

実は兄の方が更に深刻な問題児だ。しかし父は、そう言う兄を全く
責めることなく、なだめている。「お前はいつも私と一緒にいる。
私のものは、全部お前のものだ」と兄をどんなにか愛し慈しんでい
る。主に仕える事が義務になり、しんどい事になっているなら、今
一度、父の深い愛に立ち返りたい。
-------------
良い者できる者を愛してくれる父だと頑張っていた兄は、父に愛さ
れて当然だと思っていたことだろう。何の働きもない不敬虔なもの
を義としてくださると信じる者を御父は喜んでくださる。


2014年10月06日(月)

「しかし、我に帰ったとき彼は、こう言った。・・立って父のところに行って、こう言おう。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました・・』」ルカ16:17


弟息子は、父の財産を持ち、自由を求めて、遠国へと旅立った。し
かし、自由と放縦をはき違えていた。気ままに、好き放題をし、放
とうに身を持ち崩し、湯水のごとく財産を使い尽くしてしまった。
折しも大ききんが起こり、食べ物が無くなってしまった。饑餓状態
に陥るが、「だれひとり彼に与えようとはしなかった」。

お金のある時には、群がっていた人々も、皆去り、誰一人として気
にかけてくれる者もいなかった。饑餓の上に、孤独、虚しさ、落ち
ぶれた惨めさ、とうとう限界に来た時に、我に返った。神の方に向
いた。神に逆らう自己中心の歩みから向きを変えた。彼が回心でき
たのは、何もかもを、すべてを失った時だった。頼るものが何も無
くなった。

まだ財産が残っている間は、頼るものがあるので、自分の力でやっ
て行く。すべてを失った時は、恵みの時だ。私たちも、財産がまだ
ある間は、自分の力で出来る時は、自分の力に頼って、神に頼らな
い、頼ることができない。だからこそ「心の貧しい者は幸いです」。

自分が何もできない、自分はだめだ、何もかもおしまいだ、どん底
だと思う時こそが、実は大きな祝福だ。そこでこそ、真に主に叫び、
真に頼れる。今、もし何もできない、だめだと思っているなら、喜
ぼう。今こそ主に頼れる、恵みの時だ。
-------------
主に頼るしかないときは、一息ごとに祈り、主の答えを待ち望む。
渦中ではわからないが主の最も近くにいる幸いなときだ。主の備え
はいつも注がれている。貧しき者と主に頼り、今日も生きたい。


2014年10月05日(日)

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでも できます」マタイ19:26



信仰生活の中で、人に対する憎しみ、妬み、裁く思いが出て来ると、
こんな事を思ってはならないと、クリスチャンがこんな思いを持つ
べきではないと、その思いを抑え込み、心の奧に封じ込めようとし、
また、とがめが来るので、思わなかった事にしてしまおうとする。

そして、思ってはいけないと、思っていることで、自分は良い人間
という事になる。だが、抑え込んだその感情は、必ずたまりにたま
って、いつか爆発してしまう。一つ一つを、主に告げて行くことが
大切だ。抑え込んでしまうと、否定的な思いは、無いことにして自
分を欺いてしまう。

しかし、一つ一つ心の思いを告げて行くと、自分は人を憎んでいる、
妬んでいる、敵対心を持っている、又、思い煩っている、不安だ、
恐れている・・自分の内側を認識できる。そして、問題が見えて来る
ので、悔い改めることができるし、祈りに持って行ける。

又、御霊により御言葉が示される時、「実行するなんて無理」「出
来っこない」の思いが来て、示された御言葉を捨ててしまう。ある
人は、ずうっと長年そうしていた事に気づきが与えられた。御言葉
と共に、肉の思いが来て、無意識にそうしていて気づかなかったと。

「無理です」「できません」と、その思いを、まず主に持って行っ
た時に、変えられて行った。「出来ません〃」「助けて下さい」と
現状を認めて祈っていると、不思議だが、御霊が出来るようにして
行って下さる。

・・・・・・・・・・・
心で悪い事を様々思うが、態度にも言葉にも出さないのだから、む
しろ良い事で、良い人間と錯覚してしまう。対人より、自分に自分
が欺かれてしまう。自分は変わらず、成長が無い。自分の思いを主
に祈って行く時に、心が守られ、主が働き成し遂げて下さる。


2014年10月04日(土)

「カレブが・・言った『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占 領しよう。必ずそれができるから』」民数記13:30 



モーセに導かれたイスラエルの民は、エジプトを出て、カナンに向
かった。その時に、12人の斥候がカナンの地を偵察に行った。戻
って来た10人は占領できない、あの民たちは私たちより強いと言
い、ヨシュアとカレブの2人は占領できる。上って行こうと言った。

10人の斥候は、相手の力量と自分たちのの能力を見て、自分達は
負けると考えた。相手は強く、自分たちはいなごのようだと。この
判断はどう見ても妥当な判断に思えたので、全員が従った。エジプ
トで死んでいたら良かった、この荒野で死んだ方がましだとネガテ
ィブな思いに陥った。

必ず占領できると言ったヨシュアとカレブには、何と自分たちの親
族さえつかなかった。なぜ彼らがが占領できると言ったかというと、
神が「カナンを与える」と言われたからだ。見えるところではなく、
神の言葉に、約束に基づいていた。そして、結果的に、神の約束の
地カナンに入ったのは御言葉を信じたこの2人だけだった。信じな
かった皆は、荒野で滅んでしまった。

「信じる」ということは重要だ。不信仰とは、神を見ずに、問題を、
困難を見ることだ。信仰とは、神を見て、御言葉を見つめ続けるこ
とだ。約束の御言葉を見つめ続ける時、心に信仰が湧き、不信仰を
退け、心が強められる。信仰とは御言葉を見つめ、不信仰とは問題
を見ること。今、どちらを見ているだろう。

・・・・・・・・・・・
主を通して、問題を見ることが大事だが、突然の問題にパニックな
り、主が飛んでしまう。何とかしなければ、どうすれば良いのか、
と自分が出ると、自分の肩にすべてがかかり、大変な重圧だ。どう
にも出来ないから、主がおられる。まず祈り、御声に耳を澄まそう。


2014年10月03日(金)

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした・・『私のそむきの罪を主に告白しよう』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩篇32:5 




ダビデは、バテシバと姦淫し、その夫ウリヤを殺害した。口をつぐ
んでいたところ、主は、預言者ナタンを遣わされた。すでにウリヤ
は殺されている。ナタンも、即、打ち首になるかも知れない。しか
し主に従い、ダビデのもとへ行き、言った「二人の人がいて、一人
は富み、一人は貧しかった。富んでいる人は多くの羊や牛を持って
いたが、貧しい人は一頭の小さい雌の子羊だけだった。

彼はそれを大切に育て、自分の娘のようだった。時に旅人が富んで
いる人の所に来たが、自分のものを調理する事を惜しみ、その貧し
い人の子羊を取って、調理した」。するとダビデ王は激怒し、「そ
んな事をした男は死刑だ」と言った。ダビデの密かな隠れた罪が反
応した。

すかさずナタンは「あなたがその男だ」。その時ダビデは、「わた
しは主に対して罪を犯した」と告白した。ナタンは、まずダビデの
罪の指摘でなく、人の罪の話をした。人の罪には非常に敏感だ。ダ
ビデも自分の犯した罪は気づいていただろう。しかし自分は王であ
り、トップだ。すべては自分次第、幾らでも隠し通せると思っただ
ろう。

他人の罪としてナタンから語られた時に、その罪がはっきりと目の
前に示され、重大さに気づいた。悔い改め、刈り取りに苦しみつつ
も、練られ、きょめられ、信仰の人ダビデが生み出されて行った。
悔い改める時、どんな罪でも赦される。尚も建て直し、建て上げて
下さる。何という恵みだろう。
---------------
隠した罪は、解決されずに残っているだろうか。罪を認め「罪は赦
された」と言われることは、どんなに感謝で幸いなことか。どんな
罪でも神が赦してくださる。悔い改められる。


2014年10月02日(木)

「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫に与えよう」創世記13:15



アブラハムは、飢饉に会い、肉の知恵、手段によりエジプトに下っ
た。そこで妻を妹と偽り、危険な目に会った。アブラハムは失敗か
ら学んだ事だろう。再びベテルに来て、祭壇を築き主の御名によっ
て祈った。甥ロトとは、互いの所有物が増し過ぎて、いよいよ同行
困難となり別れる時が来た。

アブラハムは全所有権を主の御前に手放して、そしてロトの前に置
き、まずロトに良い地を選ばせた。「あなたが左に行けば、私は右
に、あなたが右なら、私は左に行く」と。ロトは、今まで世話にな
った叔父への恩、目上への敬意、そういったものへの配慮もなく、
どこが自分に得で、より有利か、そればかりで頭が一杯だった。

見た目で、欲得で判断し、最も良い地、肥沃な潤っている地を選ん
だ。祈る事も、神の御心を求める事もなく、自分の欲と自分の思い
で選んだ地は、結果的に破滅の地であった。今まで一緒だった愛す
る甥っ子ロトとの別れに、寂しさがあったろう。下を向いていたア
ブラハムに、主は「さあ、目を上げて」と励まされた。

私たちも「目を上げて」と言われているだろうか。全所有権を神に
明け渡したアブラハムは、結局、すべてを所有することになった。
神が与えて下さるものは、たとえそれは、私たちが選んだものでな
くても、大きく豊かな溢れるばかりの祝福の詰まったものだ。自分
の思いでなく、主から与えられるものが最善だ。主に明け渡すこと
が、結局は大きな祝福だ。
----------------
失敗から学ぼう。主が与え導かれたなら、そこで主が養い、恵みは
注がれる。主と共に歩める場所が最善だ。明け渡すと決心したなら
目を上げよう。豊かな祝福がある。


2014年10月01日(水)

「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです』」ルカ18:27      


    

人は、犯罪を犯さなければOK、良い人間だと思うが、主の見られ
るところは違う。主は、その人が最も強く握っているもの、捨てた
くない宝を指摘される。その人の偶像になっているものだ。偶像は
主との間を隔ててしまう。富、財産は偶像になる。富が老後を保障
してくれる、又、お金が夢を与え、実現してくれると勘違いする。

そのため主は、「持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやり
なさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。その
うえで、わたしについて来なさい」と言われた。すると、この青年
は、「このことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多く
の財産を持っていたからである」。

お金に頼るのは、お金に対する信仰だ。この信仰は非常に固く強い。
握りしめて放さない。放す事ができない。「それは人には出来ない。
しかし神にはできる」と言われた。主に「出来ません、したくあり
ません。でも助けて下さい」と求めて行けば良かった。「神にはで
きる」。助けて下さったであろうに。役人は主のもとを去ってしま
った。残念なことだ。

ザアカイは、主に出会い、余りにも喜びが溢れて、財産を主に委ね
た。財産の半分を貧しい人に施し、だまし取った物は4倍にして返
すと。ザアカイは喜びと平安が満ちた。従えないなら「従いたくあ
りません」と、まずそのまま主に祈ろう。主からの助けが来る。
----------
手放せず悲しむ者と、手放さないので悲しまない者、主に頼る者、
いく通りもの自分がいる。手放なせない自分を認め、主はこんな
自分も必ず変えてくださると、祈っていきたい。