2014年11月30日(日)

「私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦 しながら奮闘しています」コロサイ1:29


「神は、御心のままに、あなたがたの内に働いて志を立てさせ、事
を行なわせて下さる」とあるように、御心にかなった志を与え、事
を行わせるのは「神」だ。すべての主導が神にある。しかしだから
と言って、私たちは何もしないのではなく、事を行なうのは自分だ。

そして、又それは、「キリストの力」が内に働くのであって、自分
の力・肉の力の頑張りではない。必要な力は、主から来る。祈って
何もしないのでなく、祈りつつ、キリストの力によって奮闘する。

例えばピアノを習得する時、ただ祈ってさえいれば、ある日突然、
ショパンを弾けるようになるのではない。日々、地道な練習を積み
重ねる必要がある。語学やスポーツの習得も同様だ。実際に練習し
なければ、決して身につかない。そして、その習得する力を、主が
与えて下さる。練習し続ける事ができるのも、祈りによる。

又、ある時は、自分に出来る事が何も無い場合がある。例えば、経
済的必要に関しては「静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさ
い」が原則で、御心だ。しかし事情があり、働けない場合は、主が
天から必ず必要を与えて下さる。祈ればよい。

今、何か主から志が与えられているだろうか。内に力強く働くキリ
ストの力によって、労苦しながら、事を成し遂げて行くことができ
る。目の前の御心に従って行こう。一歩を踏み出そう。

・・・・・・・・・・・
主からの志なら、行なう力も与えられる。時間的、能力的に不安が
あったとしても、大丈夫だ。力は主から来る。主が私たちを通して
成し遂げられる。示された御心に、勇気を持って従ってみよう。主
のみわざが現わされる。


2014年11月29日(土)

「私の時は、御手の中にあります」詩篇31:15



私たちにとって偶然は一つも無い。人間的に見る偶然は、すべて神
の必然だ。ルツ記で、故郷に戻る決心をしたナオミとルツに、主の
計らいが備えられていた。帰郷が時期ピッタリに「大麦の刈り入れ
の始まった頃」だった。

生計のため、ルツが落ち穂拾いを始めたその畑が、「はからずも」
ボアズの畑であり、「丁度その時」、所有者のボアズがやって来て、
懸命に立ち働くルツが目に入った。ボアズはルツに親切にし、やが
て結婚へと導かれて行った。

「その翼の下に避け所を求めて来た」ナオミとルツへの主からの備
えであり、祝福であった。一つ一つが繋がっていて、もし、少し
「時」がずれていたなら、みわざを見る事はできなかった。神の必
然であった。

又、エステル記では、ハマンの悪巧みによって、ユダヤ民族が絶体
絶命の危機に陥った。丁度その時に、エステルが王妃の地位にいた。
エステルは王を宴会に招き、王に救いを願おうとした。丁度その前
夜、王は眠れず、年代記を読ませ、モルデカイの手柄を知った。そ
の翌日に宴会の席で、ハマンの陰謀を知らされた。

王はエステルの嘆願により、ユダヤ民族に救いの手を延べた。「私
の時は御手の中」の通り、私たちのすべての時は、主の御手の中だ。
偶然は無く、一つ一つの状況がご計画の中だ。それゆえ「あなたの
行く所どこにおいても主を認めよ」。

不満、愚痴でなく、そこに主を「認める」ことだ。その時、主が見
えて、「主はあなたの道をまっすぐにされる」私たちの成長がある。

・・・・・・・・・・・
主の主権と支配の中で、物事は動いている。すべてに「神の時」が
あり、「神の機会」がある。神が動かれ、みわざをされる。自分の
思いと力で動かず、まず落ち着いて、信頼していよう。肉で動くと
主が見えなくなる。


2014年11月28日(金)

「目の見えぬパリサイ人たち。まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります」マタイ22:26


   
偽善とは、「役者」であり、本当の自分ではない役を演じる事だ。
主は、演じるという偽善を大変嫌われた。主は真実な方であるので、
欺き、偽りを非常に嫌われた。偽善者が外側を、うわべを綺麗に美
しく取り繕っても、主はそれを白く塗った墓と糾弾された。杯や皿
の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいだと。

表面は非常にきれいに見えるが、中身は醜い、汚いものだらけだ。
偽善の一番の危険は、外側をつくろい、うわべをきれいに飾ってい
る内に、人をだましていたのが、自分が自分にだまされて行くこと
だ。必ずそうなって行く。自分の内側の邪悪な罪、醜い罪に気づけ
なくなって、主の前に自分は正しいと思い込んしまう事だ。

御霊が罪を示しても、自分の事だと認めない。自分は正しいからだ。
そのため悔い改められなくなってしまう。御霊が罪を示しているの
に、自分に「罪はない」と言う。その時、御言葉は言う、「真理は
私たちのうちにありません」。主が罪を示しているのに、自分には
罪が無いというなら「私たちは神を偽り者とするのです。神の御言
葉は私たちの内にありません」と。

一番恐ろしい状態に陥ってしまう。パリサイ人たちは、偽善をあば
く主を、憎んで殺して行ってしまった。人前で演じて、つくろって
しまう自分を認め、主の御前で、正直でいよう。その時、主が正し
く導いて下さる。
----------
主は折々に本当の自分を示してくださっている。認めたくない自分
を知っていくことが祝福だ。自分は正しいと思っていないか、罪も
悔い改めも、みな人事になっていないか本音の自分に聞いてみよう。


2014年11月27日(木)

「イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった」出エジプト40:36




イスラエルの民は荒野にある間、雲の柱、火の柱をいつも見ていた。
進むにも、とどまるにも、常に指示があり、雲と火により明確な導
きがあった。いつも主を見、その導きを見ていた。「雲が上らない
と、上る日まで、旅立たなかった」とあり、主が止まられる所で、
しっかりとどまった。

私たちはどうだろう。止まる事が苦痛で、どんどん自分で旅を続け
たいと思ってしまう。先に進みたいと思う。しかし、主がストップ
させられている時は、主と共にとどまろう。そんな時こそが大切で、
その所で主は様々な事を教えて下さる。無駄にとどめておられるの
ではない。御心があり、その中で学べる事がある。

今、ストップがかかっていたら、じっと待とう。待つべき時には、
自分で動かない事が大切だ。動き出したい誘惑と衝動が来るが、じ
っととどまろう。必ず主の時に、御心の時に、事は動いて行く。
ある人がなかなか道が開かれず、待ちくたびれて、自分が進みたい
道に、合致する御言葉を勝手に取って来て、御心だと思い込もうと
した。

しかし、そんな事は、心の深い所に平安無く確信も無かった。そん
な自分を明け渡し、右でも左でも御心のままにと、自分の好みでな
く、ただ御心を示されるよう祈った。そしてどんなに時がかかろう
と、御言葉が与えられるまで、静まって待とうと決心した。その時
に初めて、心の平安を経験した。
--------------
雲の柱、火の柱をいつも見ていよう。留まるべきか動くべきか。は
っきりとした見極めが与えられるよう祈るためにも、時が必要だ。
歩みだす先にはいつも主の柱があるように。


2014年11月26日(水)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36



神の約束が、なかなか成就しないしない時に、私たちはどのように
とらえたらいいのだろう。アブラムには子がなく、エリエゼルが跡
取りになるのかと主に問うた時に、「あなた自身から生まれて来る
者が跡を継ぐ」と言われた。そしてあなたの子孫は天の星のように
なると。

しかし「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった」とあ
るように、約束と現状は正反対であった。夫婦共に老いて、早くし
なければ、もう出産など望めなくなってしまう。焦りもあったかも
知れない。この状況の中で、当時の風習であり、サライはアブラム
に女奴隷によって、子供を持つことを提案する。

妻からの申し出であり、アブラムは受け入れた。その結果、奴隷ハ
ガルはアブラムの子を宿した。あれほど願い、待ちに待った子を得
ようとしていた。どんなに喜びであった事かと思いきや、決してそ
うではなく、幸せではなく、不幸と悲惨をもたらしてしまった。妊
娠したハガルは高慢になり、サライを見下した。

サライはハガルに嫉妬し、憎悪するようになった。ハガルに敵対心
を抱き、をいじめ、そこに争い、混乱、妬み、憎しみを生じて行っ
た。神を待ち望み、神の時を待つことなく、肉の知恵と力で、神の
約束を実現させて行く時、悩みと問題を引き起こす。神の時を待と
う。約束は必ず実現する。そこに感動があり、喜びと平安があり、
神の栄光が現れる。
----------
動かない展開や思い通りに進まないとき、御心を導きの主に尋ねて
行こう。サラのように自分の望を通しても喜びはなく、かえって陰
湿な事態になる。待つことが導きなら神の美しいときを待ち望もう。


2014年11月25日(火)

「しかし、イエスは彼らに言われた。『わたしだ。恐れることはない』それで彼らは、イエスを喜んで舟に迎えた。」ヨハネ6:21




湖で吹きすさぶ大嵐の中、暗闇で悪戦苦闘中、向こうから湖上を歩
いて来られる主を見て、弟子たちは驚き恐れた。ぼうっ〜と向こう
から来るものが、幽霊に見えた。怯える弟子たちに、主は「わたし
だ。恐れることはない」と御声をかけられ、そして弟子たちは主を
舟に迎えた。

「そして、舟に乗り込まれると、風が止んだ」。主が舟に乗り込ま
れた時に、大嵐は止んだ。私たちが、心を開いて、苦しい事態の中
に主を迎え入れることが大切だ。つまりは、自分が苦しい事態を受
け入れることだ。弟子たちは目的地にほどなく着いた。この実地訓
練を通して、主は弟子たちに教えようとされた。

私たちも様々な悩みや苦しみ、困難の嵐に会うが、その苦しみの中
に主を迎える時、ほどなく目的の地に着く事になる。ある人が経済
的苦境に直面し、不安でたまらず、恐れで一杯になった。その時に
御言葉を思い出し、弟子たちが主を舟に迎えた時に、岸に着いた。

自分はこの苦境の中に主をお迎えしていなかった。今、この事態に
あなたをお迎えしますと祈った。主に委ねた時に、心がすう〜っと
平安になった。主がおられるから、大丈夫だと思えた。あの不安の
嵐が嘘のように、なぎになってしまった。

そして、不思議な方法で経済的必要は満たされた。心を開いて、主
を迎え入れることが大切だ。自分で悪戦苦闘する事を止めて、主に
お委ねできるよう祈ろう。
--------------
目に見えるものの圧力は強力で、主の見えないこの世は嵐の海を渡
るようだ。何度も経験する。「わたしだ。恐れることはない」との
主の御約束が、恐れを希望に変えていく。


2014年11月24日(月)

「しかし、ヤコブは答えた『私はあなたを去らせません。私を祝してくださらなければ』」創世記32:26



エサウを欺いて、父からの祝福を奪い取ったヤコブは、エサウの激
怒に、家を出なければならなかった。20年の歳月を叔父ラバンのも
とで苦労の内にかごし、やがて主の示しにより帰郷の時を迎えた。
しかし、エソウへの恐れと不安がどうにもならなかった。皆殺しに
されてしまうのでは。恐怖はおさまらず、皆を先に渡らせて、ヤ
クの渡しに一人でいる時に、主の使いが、格闘して来た。

格闘している内に、ヤコブのももつがいがはずされた。ももつがい
がはずされるとは、自分の力や自分の熱心、人間的な高慢が砕かれ
ることだ。ヤコブは今までずっと生まれつきの知恵、能力、自分の
力で、自分の利得のために生きて来た。それをもってしてでは、主
に仕えることができない。

ヤコブはももつがいがはずされ、生まれながらの力、肉の力が砕か
れた。その時に、「私はあなたを去らせません。私を祝福してくだ
さらなければ」と、以前は祝福を奪い取ったヤコブが、変えられて、
主に祝福を願い求めた。その時に神からの特別な祝福にあずかり、
「イスラエル」と命名された。

砕かれた時にこそ、弱くされた時にこそ、真に主に求めることがで
きる。真剣に、心底助けを求め、どうしても祝福して欲しいと。瀬
戸際の状況、絶体絶命は大いなる祝福だ。そこで初めて真に主を叫
び求め、祝福に入れられる。目の前の辛い状況は、必ず祝福へと導
かれる。
------------
自分で策を練り、主に渡せないので祈っても祈っても不安がやって
来る。身勝手な格闘のような祈りになるが、主なる神は、受け止め
てくださる。問題を通しヤコブのように砕かれ変えられていきたい。


2014年11月23日(日)

「彼らはまだパンのことから悟るところがなく、その心は堅く閉じ ていたからである」マルコ6:52


湖上を歩いて、弟子たちのもとに来られた主を「幽霊だと思い、叫
び声をあげた」「みなイエスを見ておびえてしまった」なぜ、主が
幽霊だと思ったのだろう。「その心は堅く閉じていたからである」
とある。心が閉じていたので、主を見ても、主だとわからなかった。
心の問題であった。

なぜなら、まず、主が湖の上を歩くなどと、発想も考えもなかった。
「彼らの心中の驚きは非常なものであった」なぜ主が湖上を歩くは
ずがないと思ったのか。弟子たちは、主は偉い立派な先生だが、人
間だとしか思っていなかった。「パンのことから悟るところがな
く」すぐ前にあった五千人の給食の出来事だ。その奇跡から何
を悟るべきだったのか。

主が人となられた神であるということだった。しかし主が神だとは
理解できなかった。主を正しく認識していなければ、間違って認識
していれば、助けを受けられない。助けようと来て下さっても、受
け入れる事ができない。そんな事ができると思わないからだ。不信
仰は、信仰の力を削いでしまう。

主は罪を赦すと言われる。主にはそれが出来ると、そのまま信じる
なら、失敗しても悔い改める時に、今一度喜びと平安で満たされる。
だがもし信じなければ、恐れと不安と思い煩いの暗闇の中だ。
心が閉じているだろうか。今日も共に歩み、愛し、御声をかけ、助
けようとして下さっている主に、心を開いて行くことが大切だ。

・・・・・・・・・・・・
主は、万物の支配者であり、自然界をも支配され、全主権を持って
おられる。「たじろぐな。わたしがあなたの神だから」と言われる。
人にはできないが、神にはどんなことでもできる。その信仰に立て
るよう祈ろう。全能の主が共におられる。


2014年11月22日(土)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とは なりません。なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つか らです」Tヨハネ5:3

 

信仰者は、御言葉に従おうと、懸命に努力する。主と人を愛そうと
し、寛容で、善意に溢れ、誠実であろうとする。喜び、平安に満た
されて人生を歩みたい。主と人に仕え、良い証しをしようと、良い
行ないに励み、職場では仕事も人一倍頑張る。一生懸命になる。

ところがどうだろう。自分が頑張っていると、そうしていない人に
イラ立って来る。自分の力でしていると、必ず裁く思いが出て来る。
自分はこんなに辛くしんどい目をしているのに、何もしていないと
腹を立てる。マルタ状態だ。

マリヤとマルタは共に、主を心から喜び歓迎した。マリヤは主の足
もとに座して、一言も聞きもらすまいと、全身全霊で主の御言葉に
聞き入った。マルタは様々なもてなしの準備をした。食事の時刻も
迫り、あれもこれもとイライラして来る。マリヤを見ると何もして
いない。腹が立って、マリヤを責め、それを許している主をも責め
る勢いだ。

主のために労しているはずなのに、イライラし、人を裁き、責め、
思い煩いで一杯になる。何をしているのかわからない。御霊の実を
結ぶべく歩んでいるのに、逆に肉の実を結んでしまう。どうしてだ
ろう。御霊によらず、自分の思いと自分の力で行なっているからだ。

御霊に導かれるためには、まず、自分では従う事が出来ない事を認
める事だ。そして自分の身を明け渡して行く時に、御霊に導かれた
歩みを経験して行く。そこには喜びと平安と自由がある。

・・・・・・・・・・・
「自分にはできません」「できません」とそのまま祈って行く時、
更に、心の底を見ると「したくない」ことがわかる。「したくあり
ません」「〃」「でも、助けて下さい」と祈り続けていると、心が
変えられて行く事を経験する。そこに御霊が働かれる。みわざを見
る。


2014年11月21日(金)

「すべての真実なこと、すべての誉れあること・・心に留めなさい。私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば平和の神があなたがたとおもにいてくださいます。」ピリピ4:8


 

人は、悲観的に傾きがちだと言われている。少し先で人々が喋って
いて、こちらを見ている。そんな時どうだろう。「私の悪口を言っ
ているのでは」と思うだろうか。出勤して挨拶が返らない時「気づ
かなかったかな」と思うより「嫌われている」「変に思われてる」
と思うだろうか。

家族の帰りが少し遅いと「事故では」「何かあったのでは」恐れと
不安に襲われる。考えは悪い方へ向く。そのままなら、ネガティブ
思考へと向かう。そんな時、不安や恐れをかき消そうと、もがくと、
余計に、はまり込み、最悪のシナリオが出来上がる。不眠の時に
「眠らなくては〃」と焦り、不眠の事を考え出すと、ますます眠れ
なくなる時のようだ。

もがけば、もがくほど更に落ち込んで行く。そんな時は、あるがま
まの状態をまず主に告げて、そして「真実なこと・誉れあること・
正しいこと・清いこと・愛すべきこと・評判の良いこと」・・に心
を留め、目を向けて行くことだ。否定的思いを無くそうとするので
なく、積極的な思いを入れ、その思いで満たして行く。

その時に、自然にネガティブな思いが消え去る。「主のおしえを喜
びとし、昼も夜も口ずさむ」とあるように、御言葉を口ずさむ、賛
美する、祈る、恵みを数える、感謝する。それを行ってゆく時に、
平和の神が共におられ、心平安にされる。
-----------
ふと気がつくとネガティブな思いにすっかり浸っているときがある。
少し座って祈りはじめるとすぐに靄が晴れていく。闇から主にある
光に思いを変えよう。「実行しなさい、そうすれば・・」だ。


2014年11月20日(木)

「みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心からみことばを持ち去ってしまうのです」ルカ8:13


御言葉の力を知っているのは、私たちよりサタンであり、それゆえ
御言葉を聞くと、サタンが来ると。そして、心に蒔かれた御言葉を
「持ち去ってしまう」。このサタンの妨害をわきまえておく事は大
切だ。現実問題として、サタンは今も働いている。救いを得させな
いためであり、又、信仰者たちの成長を奪うためだ。

種である御言葉が心に根差すと、結実して行く。それを阻止するた
めには、種である御言葉を持ち去る事だ。種が無ければ、実を結ぶ
事は不可能だ。サタンはそれをよく知っている。サタンのこの攻撃
を見張っていよう。御言葉をどのように聞いているだろう。他の事
を考えながら聞くなら、右から左へとすり抜けて行く。

思いに働くサタンは、メッセージを聞く最中にもデボーションの最
中にも、あれやこれや「思い」を吹き込み、妨害する。
又、聞きたくない、耳に痛い御言葉なら、耳をふさいでいるだろう
か。薄々気づいている。その御言葉こそが、聞くべき必要な言葉で
あり、信仰生命が守られ、大きな成長への鍵だ。

又、傍観者のように聞いているだろうか。自分には関係が無いので、
心に留まらない。ある人は、物理的に耳には聞こえているが、全く
心に入れていなかったと。自分の力で生きて行きたいから、入れた
くなかったのでしょうねと。サタンは御言葉を心に入れないよう阻
止して来る。聞く時にまずよく祈ろう。
-------------
「食べると必ず死ぬ」と言われた御言葉は、サタンとの会話によっ
てあっという間に否定された。惜しみなく御言葉を受けられる恵ま
れた環境にあっても、どのように御言葉に向き合っているだろう。
私たちも問われる。


2014年11月19日(水)

「さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っと、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた」ヨシュア5:13 



ヨシュアに導かれイスラエルの民は、約束の地に入った。しかしす
ぐに最初の難関に直面する。これがエリコでの戦いだ。エリコの堅
固な城壁が立ちはだかった。私たちの人生においても、さまざまな
問題や困難が立ちはだかる。ヨシュアは目前の困難に臨んでいた。

そんな時に、目を上げると一人の人が抜き身の剣を手に持ち、立っ
ていた。今にも戦おうとの状態だ。ヨシュアは思わず「味方か敵か」
と聞いた。味方であって欲しかったろう。しかし相手は、敵とも味
方とも答えず、「主の軍の将」と答えた。

敵でないなら、味方ではと思うが、ヨシュアの上に立つ導き手だと。
「あなたが将でなく、将はわたし」だと。ヨシュアは地に伏し「〜
〜して下さい」と言ったのでなく「何を告げられるのですか」と、
主の御心を問うた。すると、「足のはきものを脱げ」と言われた。

自分の思い考え、方法、自分の力を「明け渡して」、主に従えとの
ことだ。「あなたの立っている場所は聖なる所」と。主が共におら
れる場所だ。「ヨシュアはそのようにした」。ヨシュアは、はきも
のを脱いで、自分の思いや力を明け渡して、主に従った。するとエ
リコの城壁は見事に陥落した。

今、エリコという苦しい、難しい、辛く、ストレスとなる状況にあ
るだろうか。しかし主は主が同伴の聖なる地と言われる。履き物は
脱いで、主の示しに従おう。解決のみわざを見る。
-------------
その問題は私の問題だと主は言ってくださる。問題の中で孤軍奮闘
しているかのように思えるが「自分の方法で」と主を見方につけよ
うと祈っていないだろうか。状況は主が動かされる。主に委ねよう。


2014年11月18日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



謙遜とは、人の前に腰を低くすることではない。腰は低いが、心は
幾らでも高慢であり得る。謙遜とは、「へりくだって心砕かれ、わ
たしのことばにおののく者だ」。主の言葉をそのまま額面通りに受
け取る事であり、高慢とは御言葉を受け入れない事だ。それどころ
か御言葉を否定する。

神があなたを愛していると言われても、いいえ、私みたいな者が愛
されるはずがないと、御言葉を受け入れずに否定してしまう。あた
の罪は全面的に赦されたと聞いても、そんな事はない、赦された気
がしないと、信じない。御言葉ではなく、自分の気持ちや感情、自
分の思いのほうを信じている。

「思い煩うな」「目の前の事態を導く」「すべての必要を満たす」
と言われても、そんな事あり得ないと、信じずに、思い煩い続ける。
そのため恐れと不安の暗闇にいる。神とその言葉を信じないことは
高慢だ。それは神を認めず、自分を神の上に置くことになる。

又、優越感は人を上から見下すので、見るからに高慢だと思えるが、
劣等感も同じで、高慢だ。神の評価、神の見方を受け入れないで、
人と比較して、自分が自分の評価を定めている。

神の言葉をどう聞いているだろう。納得の行くもの、又、都合の良
いものは受け入れ、そうでなければ流してしまう。へりくだりとは、
神の言葉を、神からのものと受け入れることだ。そのまま受け取れ
ないなら、まずそのまま主に告げよう。主は助けて下さる。
-----------
どのような御言葉もに主なる神を認めて、従おうとすればすぐに出
来ない自分に気づく。ひとつの御言葉にも従いきれない自分中心の
高慢さに気づけたら、なおも愛してくださる主に感謝し悔い改めて
また従っていこう。


2014年11月17日(月)

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容・・もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」ガラテヤ5:22


寒暖計の人生がある。外気温が指し示す通りに、正比例して反応す
る。人がやさしければ、やさしく対応し、寛容であれば、寛容に
応する。そして、人が冷淡であれば、冷淡に、悪口を言われれば、
こちらも悪口を言い、敵対されれば、こちらも敵対する。

これなら、自分の幸せ、不幸せが、人によってコントロールされて
いる事になる。相手次第という事になり、それではまるで自分が無
い。ここ数日を振り返ってみてどうだろう。他人のあの言葉やこの
態度で、自分がアップダウンして、振り回されていないか。他人の
言葉で一喜一憂し、すべてが人に左右されてしまっている。

まず人に反応して、人の目を気にしている自分に気づきこう。人の
目を気にし、人を見ている時、神を見ていない。人に反応するので
なく、御霊に反応し、御霊の示しに従い、生きて行く時、真の喜び
と平安がある。

ある人が、自分に辛く当たる相手がいて、挨拶しても無視された。
しかし、人に反応するのでなく、御霊に従って生きる決心していた
ので、相手に関係無く、無視されても、自分は挨拶を続けていた。
ある時、相手の仕事で助けられた事があったので、感謝を告げた。

すると相手の表情が突然変わり、良心のとがめを感じているようだ
った。その後、心通い合う間柄にされた。どんな時も御霊に従い、
行動して行く時、御霊の実を結んで行く。
----------
軸が人の態度とそれに呼応する自分だったものが、御霊を与えられ
御霊に反応する者とされた。相手に関係なく御霊の実を選んでいこ
う。肉が動機の安易な親切や善意からもまた解放してくださる。


2014年11月16日(日)

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、 赦してやりなさい」マルコ11:25

       
          
信じて祈る時、素晴らしい約束を与えて下さっている。しかし、次
に続く言葉がある。「だれかに対して恨み事があったら赦してやり
なさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがた
の罪を赦してくださいます」赦す事を強調されている。

赦さない心は、祈りを妨げるので、祈りが天に届かなくなる。神が、
あなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しなさい
と。私たちは、しょっ中、失敗する。しかし主は豊かに赦して下さ
っている。罪を犯さないのではなく、罪は犯してしまうが、赦され
て、全面的に赦されて生きている。

それだから私たちも赦すようにと。まず恨み事や憎しみ、赦せない
心があると、祈れない。神と私たちの間に、へだたりができてしま
うからだ。距離を感じ、確信をもった祈りができなくなる。あなた
も経験あるだろうか。
ある人が、急な、切実な必要があり、神の御前に出て祈っていた。
しかし、祈りに祈るのだが、なかなか与えられない。

徹夜祈とうさえ辞さずとの勢いで、祈っていた。すると祈りの中で、
普段は意識していないが、ある人々に対し、明確な恨みと赦せない
思いがある事を、御霊は示された。心から悔い改めて、その人々を
赦した。
その後、見事に祈りが答えられた。赦さない心は、祈りを妨げてし
まう。密かな恨み、赦さない心がないかどうか、御霊に心を探って
頂こう。

・・・・・・・・・・・・
人を赦すことは、自分の力ではできない。幾ら赦そうとしてもでき
ないことを知る。しかし、主が「赦してやりなさい」と言われるか
らには、赦すことができる。出来ない事を認めて、委ねて行く時に、
自分の力でなく、御霊によって、そうできるようにされる。


2014年11月15日(土)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの 知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミ ヤ33:3

  

ある人の証しだ。職場で、上司がミスをした。しかし、皆には一番
若くて経験も浅い自分のミスと、当然のように思われた。「また、
やったね」と仕方無いなあとの調子で皆の面前で言われた。しかし、
自分ではない。上司の失敗だった。証拠もある。しかし、上司は、
何も言ってくれない。自分も何も言えず、悶々状態で帰宅した。

帰宅後、時間を取り、主に向かった。心の内の思いのたけを祈った。
納得行かないこと、理不尽であること、怒り、主にことごとく打ち
明け、苦しい気持ちの中、主に向かったハンナのように、主の御前
でああでもない、こうでもないと思いもぶつけて、祈った。

そして、御言葉に向かっていた時に、神であるのに、神のあり方を
捨てられ、ご自分を無にして、卑しくし、死にまで従い、十字架の
死にまで従われた主が思われた。罪の無い方が、十字架にかかられ、
こんな理不尽は無い。ののしられてもののしり返さず、苦しめられ
てもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せてになった主。

その主が迫り、怒りも悶々の思いも消えて、恵みの涙が溢れて止ま
らなかった。主に触れて、心が満ちた。そして、このようなところ
も通されて、主を切に求めるようにされ、主と交わり、新たに主を
知れたことに感謝があふれた。目の前の問題、悩みをまず主にこと
ごとく打ち明け、聞いていただこう。

・・・・・・・・・・・・
どんなに最悪の状況でも、「わたしを呼べ」と言われる主を呼ぼう。
自分の失敗でも、自業自得のような状況でも、もうだめだと諦めそ
うな時こそ「わたしを呼べ」との御声に従おう。「わたしは、あな
たに答え」、主が答えて下さる。


2014年11月14日(金)

「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います」ルカ22:34



誰しも信仰生活の中で、失敗する。人間である限り、必ず失敗はあ
る。ペテロは主が十字架にかかられる、一番大事な局面で主を裏切
ってしまった。しかし、ペテロは裏切ろうと思っていたのではない。
自分は死をかけても、ついて行こうと思っていた。だから。兵士が
主を捕らえに来た時には、剣を抜いて戦おうとしたほどだ。

ユダは裏切ろうと思っていたが、ペテロは命かけても従おうと思っ
ていた。しかし、ペテロは自分の弱さを知らなかったので、失敗し
てしまった。そして、主は、ペテロが「失敗しないように」ではな
く、「信仰がなくならないように」と祈られた。

失敗しないようにとも祈れたはずなのに、そうでなく、「信仰がな
くならないように」、つまり失敗した後、悔い改めて、赦しを受け
取り、続けて従って行けるようにと。サタンの仕業で、強烈なふる
いだった。しかし主はサタンをも、ペテロを砕き、建て上げるため
に利用された。主の昇天後の、将来のリーダーとして見据えておら
れた。

主は自分の力に頼るというペテロの一番の急所を砕かれた。そして、
ペテロは主により回復させられ、御霊に満たされて、殉教の最後ま
で働きを成し遂げた。あなたも失敗しただろうか。主は信仰がなく
ならないように祈って下さっている。悔い改めて、赦しを受け取っ
て従って行こう。失敗をも益とされて、主の器へと整えて行って下
さる。
------------
失敗がないよう、いつも元気で強い身体でいるようにではなく「信
仰がなくならないように」と私たちにも執り成していてくださる主
の祈りを覚えると弱さを認め、へりくだって主に従っていこうとま
た思え感謝だ。


2014年11月13日(木)

「しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい」T列王17:13 



エリヤはケリテ川で養われた後、川はかれた。すると「次のような
主のことばがあった」。主は次の示しを与えられる。ツァレファテ
のやもめ女のもとへ行くようにと。一歩従う者に、必ず次の一歩を
示される。エリヤはその通りに従った。

ツァレファテに出向くと、丁度そこにやもめがいた。少しの水を求
めると、彼女は取りに行こうとした。そこで一口のパンも求めた。
すると驚くべき事に、最後の一握りの粉で調理して、それを食べて
死のうとしていると。エリヤは最後のその粉でパン菓子を作り、ま
ず自分にくれるようにと言った。そして主の約束を告げた。

「主が雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの
油はなくならない」と。すると彼女は従い、最後の粉を惜しみなく
献げた。持てるすべてを献げきった。その結果「主のことばのとお
り、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」。

彼女がもし最後の粉を渡すことを拒否したなら、僅かな粉を握りし
めて死んで行ったことだろう。私たちが所有物を握りしめるのは、
頼れるものが自分しかないと思うからだ。それが僅かになるとます
ます手放せない。しかし彼女は献げる事によって、奇跡を見た。

神のわざを目の当たりに見て、彼女の人生は大きく変えられたこと
だろう。あなたは持てる物を握りしめて終わりだろうか、それとも
神の大いなるみわざを拝して行くだろうか。
-----------
財も労も時間も、神は御心のままに献げるよう示されるが自分で先
を判断してしまう。ああしたらこうなってと。計り知れない神の御
わざは不思議な方法で成し遂げられる。従った者だけに見せてくだ
さる栄光を拝していきたい。


2014年11月12日(水)

「それで、彼らに言われた。『なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい』」ルカ22:46



祈りが大切なこと、祈りは呼吸であり、信仰生活にどうしても必要
であり、生命線だと、誰しもわかっている。祈らなければならない
のだが、なかなか祈れない。主婦もサラリーマンも学生も、皆、忙
しい生活をしていて、自分には時間が無いからだと思う。仕事に勉
強に、家事に育児に忙しい。

しかし、突如の休みが与えられた時に、気づく。時間があっても祈
らないことに。休日は、休日で、行楽や好きな事をするのに、忙し
い。祈る時間は無い。時間の問題ではないことに気づかせられる。
よく考えてみると、祈らないのは、祈らなくてもやって行けると、
思っているからではないか。主に頼らずとも、自分の力で十分やっ
て行ける。自分の肉の力に頼り、自分で解決しようと、物事に当た
って行く。

主に頼る必要が無いから祈らない。その証拠に、不安で不安でたま
らない事に関しては、必死になって祈る。祈らないことは、実は
「高ぶり」から来ていると言われるが、確かにその通りではないだ
ろうか。高ぶる人は、自分はやって行ける、自分が間違いを犯すは
ずなど無いと信じている。

しかし「誘惑に陥らないように祈っていなさい」とは、主の言葉だ。
常にサタンの攻撃と誘惑にさらされている。祈らなければ、すぐに
サタンにやられていて、尚、気づかない。私たちは実は弱く、貧し
い者だ。祈らなくてもやって行けると思っていることにまず気づこ
う。
-----------
誘惑に陥る前から守りを祈るべきだが、心がざわつき、不安や恐れ
に遭遇して祈り始める。平安を奪われるまで気づかない。祈るまで
がサタンとの戦いだ。いつも感謝を主に献げながら幼子のように祈
っていよう。


2014年11月11日(火)

「偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます」マタイ7:4 


まず主は、「さばいてはいけません」と言われ、人の目のちりを取
ろうとする、自分の目の梁に気がつかないのかと。「自分の目には
梁があるではありませんか」。梁があると。そして、「偽善者たち」
と言われている。

私たちは、相手の目のちりを取ってあげたいと言うが、人を裁く時、
実は「その人を愛し、助けたい」と思っているのではない。そうでは
なく、「その人をやっつけたい」「こらしめたい」と思っている。
そんな心を隠しながら、相手のちりを取り除くことなど出来ないと。

相手の微少の欠点はよく見えるが、自分の比較にならないほど大きな
罪、「裁く心」は見えていない。それこそが「梁」だと。自分の内を
しっかりと見つめる時に、必ずそこにある「裁く心」に気づかされる。
偽善である事に気づかされ、その時に、へりくだらされる。

自分の罪深さを知り、自分自身のその大きな「梁」を取り除ける時に、
初めて、相手のちりを取り除くために用いられる。そうでなければ、
相手のちりを取り除くことなど不可能だ。相手に拒絶されるか、怒り
を招くか、関係が悪化するばかりだ。

悔い改めて、まず自分の「梁」を取り除くなら、はっきり見えて、相
手の益のために用いられる。間に合う器とされる。その時に、相手の
ちりを取り除けないのではなく、取り除くことができると。
-------------
人のちりが見えたとき、寛容になれない自分がいるならよく吟味して
みたい。裁いてはいないだろうか。自分の欠けや足らなさが見えてい
るだろうか。


2014年11月10日(月)

「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」マタイ11:2



「わたしにつまずかない者は幸い」と、主は答えられた。私たちが
つまずくのは、どんな時だろう。「自分の」期待に、「自分の」思
いに、合わない時ではないか。とにかく「自分の」強い願い、思い
があり、それにそぐわない事で、つまずいていないか。自分に関係
の無い事で、人はつまずく事はない。

「自分の」気持ちを、相手が受け止めてくれない時、自分の思い通
りにならない時に、つまずいたと思う。そしてそんな神なら要らな
いと、去ってしまう。自分の幸せのみを追い求めるなら、主につま
づいてしまう。なぜなら、困難、悩み、試練は必ずあるからだ。
当時の、主の周囲にいる人々は、主を現世的、政治的指導者、権力
を持つ王として、主を求めた。

メシヤとして華々しく王位につく事を。しかし、王になるはずの主
が、最悪の刑であり、極悪人がかかる十字架刑で死ぬなどと、到底
受け入れられない。人々は自分たちの思いに合わない主を捨てた。
思い通りでなく、期待を裏切る主が腹立たしい。

私たちもどうだろう。信仰人生が自分の思い通りでない、願いが叶
わない、その時につまづく。その時の軸が「自分」だ。自分の気持
ち、自分の思い・・。その軸を神に変えてみよう。神のお心は?神
はどう思っておられるのか。その時に、今までの世界とは違い、神
が見えて、御心が見えて来る。
-------------
自分軸で見ていくなら、ああでもない、こうでもないとすぐに混乱
する。神の基準で見ていくとき、意味のあるものと無駄なものの価
値が逆転する。神の軸でよく見てみよう。


2014年11月09日(日)

「一タラント預かっていた者も来て、言った『ご主人さま。あなた は、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ とわかっていました』」マタイ25:24 



一タラント預かった者は地に埋めた。一タラントは六千デナリで、
一デナリは一日の給料分であり、日本円に換算して一日一万円なら
六千万円だ。たったの一タラントと思うが、社長の留守中に、六千
万を任される社員というのは、よほどの信任ではないだろうか。

しかし、彼は、主人に対する理解が間違っていた。蒔かない所から
刈り取り、散らさない所から集めるひどい人、要求ばかり突きつけ、
奪うばかりの人、恐い人、こんな主人のために、何かをしたいなど
と思わない。

もし減らしでもしようなら、どんなひどい事になるかわからない。
関わりたくない。そのまま返せば、文句は無いだろう。主人の彼へ
の愛も信任も期待も、何もわかってはいなかった。失敗するという
リスクも、すべて受け止めた上での委任であった。

パリサイ人、宗教指導者たちは、こと細かに、懸命に、熱心に律法
を守っていた。罰を恐れ、裁かれないように、必死になって律法を
守る生活をしていた。私たちの神観はどうだろう。いつも要求され、
追い立てられ、従わなくては、罰される恐い神だろうか。それなら
喜びなどあり得ない。

独り子をも惜しまずに与えて下さった、それほどまでに愛して下さ
ったのではなかったか。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは
好まない」と言われた主は、あわれみの主ではないだろうか。「主
人の喜びをともに喜んでくれ」が主の心だ。喜びの主であり、喜び
を満たして下さる。間違った神観があれば気づけるように。

・・・・・・・・・・・・
主人の愛がわかっていたので、5タラントと2タラントの者は自由
に喜びをもって、生き生きと働けた。何かが窮屈で、苦しければ、
律法の下にいる。要求され、追い立てられる間違った神観になって
いないか。いつも御霊に軌道修正して頂けるように。


2014年11月08日(土)

「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け・・口に 手を当てて水をなめた者の数は三百人であった」士師記7:4



ギデオンの当時、イスラエルは絶えず侵略を受け、苦しい状況にあ
った。神はデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。
呼びかけに32,000人が集まった。しかし、相手は135,000人の大軍
で、圧倒的不利で、勝ち目はない。だが、神は極めて不思議な事を
された。

ギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じられ、最後
にはたった300人が残された。その300人で戦うと、ギデオンの大勝
利に終わった。この時、神はギデオンに兵士を減らす理由として
「大人数だと自分の手で救ったと、自分を誇るから」と言われた。

この戦いの勝利が人間でなく、神の力によるものと明確にするよう
に、あえて兵士の数を減らされた。私たちは、自分がもっと強けれ
ば、能力があればと思うだろうか。しかしもし強ければ、神の働き
を自分が奪い、自分を誇り、自分の栄光にしてしまう。信仰的体験
さえも、肉は誇る。

パウロは、素晴らしい啓示を受けた。第三の天にまで引き上げられ
るという、特別のものだった。パウロも、自分を誇る弱さがあり、
そのため余りにも大きな特別な恵みに、高ぶる事がないように、と
げが与えられたと言っている。苦しく辛いとげであったが、それに
よって高ぶりの罪から守られた。

高ぶりからの守りは、何と感謝な事だろう。そして更に素晴らしい
啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。こ
の世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という
恵みだろう。

・・・・・・・・・・・・
もっと能力があれば、時間があれば、財力があれば、体力があれば
と人間は思う。しかし、主は、主の栄光を現わすために、それらは
何の問題も無いと言われる。問題は自分の力に頼るのでなく、主に
頼るということだ。その時、主の力が現われる。


2014年11月07日(金)

「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主 の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従っ てしあわせを得るためです」エレミヤ42:6 


神の御声を聞いて従って行くのが、信仰生活であるが、神の御声が
聞こえなくなる事がある。自分の思いで一杯な時は、神の御声を妨
げてしまう。自分の思いがあるばかりで、御声が聞こえない。又、
なすべき事がわかっても、神の計画よりも、自分の計画の方に心が
占領されている時は、御声に従えない。

私たちは、祈りの中で、自由に自分の気持ちを、主に告げるべきだ。
詩編記者は怒りも、悲しみも、苦しみも、嘆きも、何もかもを、正
直な気持ちをぶつけている。又、心の願いを神に祈れと言われてい
る。願いは神のもとへ持って行くとよい。それが神の御心と一致す
るなら、叶えられる。

しかし、すべての願いが叶うのではない。神はご自身の思いを持っ
ておられるので、それが一致するとは限らない。その時は、痛いか
も知れないが、自分の思いよりも遙かに高い神のみ思いがある事を
受け入れて行く時だ。
主がゲッセマネの園で、「しかし、わたしの願いではなく、みここ
ろのとおりにしてください」と祈られ、御父の御心を受け入れて行
かれたように。

自分の思いを捨てて、神のみ思いに従うなら、大きな祝福にあずか
る。一つ一つ目の前に示される御心に従おう。自分の思いと自分の
計画を捨てて従う時、その時、主のわざを見て行き、主との関係が
深められて行く。

・・・・・・・・・・・・・
この箇所でイスラエルの民は、主の御声に従うと言うが、御声を待
つことなく、エジプトに下る判断をする。御心を求める以前に、御
心に従う心の備えが肝心だ。そこを探られつつ、主の示しに従える
よう、御霊の助けを求めて祈ろう。


2014年11月06日(木)

「『おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけたの だから』そこで、彼らは主のことばに聞き従い・・引き返した」U歴 代11:4

    
        
レハブアムは選抜戦闘員18万人を集め、王国を取り戻すためにイ
スラエルと戦おうとした。そこに、神の人シェマヤに主の言葉があ
った。「上って行くな。あなたがたの兄弟たちと戦うな。各々自分
の家に帰れ。わたしがこうなるようにしている」と。

イスラエルがレハブアムにそむいたのは、神の主権と支配の下のこ
とであると。それで自らの思いに固執せず、主の言葉に従い、中止
した。「わたしがこうなるようにしむけた」。主から出た事であっ
た。今、あなたに問題が起きているだろうか。

主は言われる「わたしがこうなるようにしむけた」。そこで私たち
は「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさったからで
す」、神から来たものは受け入れよう。「彼らは主のことばに聞き
従い、引き返した」主の言葉に従う時、大きな祝福とされて行く。

レハブアムはエルサレムに住み、防備を固め、食糧や武器を備蓄し、
国をますます強め、北にいたレビ人達や民も戻って来て、王権が強
固なものとなった。従わないなら、更なる問題と混乱を引き起こし、
自分も大きな痛手を負う。

今、もし問題があるなら「わたしがしむけたのだから」との主の御
声を聞こう。教えようとされている事があり、成長のための訓練だ。
必ず豊かな結実を見る。又、喜びや楽しみが送られて来るなら、そ
れも主がしむけられたものであり、感謝しよう。

・・・・・・・・・・・・
様々な問題が、目の前に起きて来るが、主から来ているのであれば、
必ず、結末は祝福とされる。そのプロセスで、大切な事を教えよう
とされている。「教えて下さりたい事は、何ですか」と祈ろう。
目の前の問題を通して、学ばせて下さる。


2014年11月05日(水)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2




ダビデは、サウルから命を狙われ、逃亡していた時も、サウルに忠
誠を尽くし続けた。逃げ回る中で、まさにサウル殺害のチャンスが
あった。部下は、今こそ神が与えられた機会、敵を渡されたとダビ
デに進言した。しかしダビデは、サウルは、主が油注がれた王であ
り、手を下す事など絶対にできないと拒んだ。

サウルを立てている主を認め、主を畏れ、御前にへりくだった。主
が必ず彼を打たれると、主に委ねて、主を信頼し続けた。もし自分
でサウルを倒して、自分で王位を手に入れたなら、どうして主が与
えて下さった王位だと信じる事ができよう。ダビデは、そのように
「神の時に」、神によって、王位につけられた。ダビデ自身は何も
しなかった。

私たちもどうだろう。もし自分の画策で物事を動かし、自力で、自
分の思い通りのものを手に入れて行くなら、神から与えられたと、
誰が信じる事ができよう。まず自分が信じることができない。神の
御前にへりくだるとは、自分で動く事を止め、事を成就される神を
待ち望み、神に従って行くことだ。

又、ダビデは、王位についた時に、バテシバとの姦淫、その夫ウリ
ヤ殺害という大罪を犯してしまった。しかし、預言者ナタンから罪
の指摘を受けた時に、真っ直ぐに罪を認めて、悔い改めた。へりく
だる心があったからだ。その時に自己正当化も、言い訳もせず、バ
テシバのせいにもしなかった。そしてへりくだって、神からの刈り
取りを受け入れた。そのようなダビデを尚も、主は祝福された。
-----------
自分でできることはすぐに自分でやってしまい、困難な状況でやっ
と祈り始める。神に成り代わってばかりだろうか。全ての状況に神
を認め、共にいてくださることを喜び、祈りから始めたい。


2014年11月04日(火)

「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」ローマ8:4  


 
    
救われた私たちは、主に従って行きたいと願う。しかし、自分の力
で従おうとするとどうだろう。腹の立つ事が起きると、主は寛容で、
柔和なお方と、怒りを我慢し、自分の力で抑え込むだろう。又、相
手にイライラすると、「忍耐しなければ」と、いら立ちを抑え込み、
我慢しようとする。

あちらでも、こちらでも、我慢に我慢を重ねる。しかし、抑え込ん
だものは、許容量を越えると、必ず爆発する。定期的に爆発しては、
証しが台無しになる。あなたも経験あるだろうか。我慢は、心に抑
え込むだけなので、必ず大噴火する。主に従うとは、抑え込む事で
はない。それなら、表面を取り繕うことだ。クリスチャンである事
は、フラストレーションのかたまりになってしまう。

そうではなく、欲求不満を底に置いたまま、我慢するのでなく、そ
のつど「イライラします」「我慢できません」「腹が立ちます!」
と主に心のありのままを告げて行くことだ。そして主に明け渡して、
助けを求めることだ。主は受け止め、助けて下さる。まず、ありの
まま主に打ち明けよう。

主は、ことごとく受け止めて下さる。そして委ねて行く時、不思議
に心が平安になる。出来ないと正直に表明しているので、御霊が必
ず助けて、働いて下さる。御霊に従って歩むので、御霊の力によっ
て成し遂げられて行く。
--------------
我慢しながら歩むのと、主に明け渡しながら黙々と歩むのは、外側
は同じに見えるが大違いだ。主は受け止め、決して罪に定めないと
言われている。律法的に自分を見るとき、主に助けてと言いたい。


2014年11月03日(月)

「私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」Tサムエル26:11



ダビデは、サウルに妬みのゆえにつけ回されていた。そんな中、サ
ウルがダビデの所在を知り、追って来た。それを知ったダビデは、
夜にその陣営に向かった。するとサウルと将軍アブネルや兵士達も
皆、熟睡していた。今こそサウル反撃の格好のチャンスだ。部下が、
神が敵を渡された。殺させて下さいと言ったが、ダビデは決して手
を下さなかった。

その理由は、サウルが「主に油を注がれた王」であるからだった。
だが、同時にダビデ殺害を狙うサウルの行動は、主の御心に逆らう
ものである事も知っていた。その事について「主は、必ず彼を打た
れる」と信じていたので、ダビデは裁きを主に委ねた。決して自分
で復讐しようとはしなかった。そのしるしに、サウルの枕元にある
槍と水差しを持ち帰った。「主が彼らを深い眠りに陥れられた」の
で、皆、眠りこけて全く気づかなかった。

すべての事は主の主権の下にあり、主は眠りすら支配される。やが
てサウルはダビデが二度までも、チャンスがありながら、自分を殺
さなかった事実を知る。そのダビデを「わが子ダビデ。おまえに祝
福があるように」とサウルはとうとう祝福した。人を憎み、呪う時、
憎む本人が一番苦しい。喜びも平安も無い。決して自分で復讐せず
に、主に委ねて行くダビデの命を、主が堅く守られた。「復讐はわ
たしのする・・わたしが報いをする」と言われる主に、裁きを委ね
よう。
------------
憎しみや恨みは、いつまでも持っていると増幅し、はやく決着させ
たいと願うが、正しく裁かれる主が、主の時に報いをされる。主に
委ねられるよう自分自身が主の前に罪を犯さないよう祈っていこう。


2014年11月02日(日)

「あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。 そして、みなあの方のほうへ行きます」ヨハネ3:26

 

主イエスの登場により、人々の注目と人気が、ヨハネから、どんど
ん主の方に移って行った。ヨハネの弟子たちは「みなあの方のほう
へ行きます」と、自分の師を思うがゆえに、いらだち、妬み、寂し
さを感じていた。しかし、ヨハネ自身は全く動じず、自分はキリス
トではないとはっきりと言明し、主が主役の花婿で、自分は花婿の
友人であり、花婿の声を聞いて喜びに満たされていると。

ヨハネは、人は何の関係もなく、自分と主との間で、喜びをもって
仕えていた。真に主に仕える者は喜びに満たされる。そこに満足が
ある。そして、ヨハネはへりくだっていた。人を見て、人と比較す
る事から妬みが生じて来る。妬みは比較から来る。人によって自分
を量るので、優越感と劣等感を行ったり来たりする。

同僚の昇進、学生間の成績や人気、又、ライバルの成功など、心穏
やかでいられない。プライドが傷つくのだ。シーソーのように、人
が上がれば自分が下がる。人の成功を、あたかも自分の失敗のよう
に感じてしまう。人が誉められると自分がけなされたように感じる。
それらは心の根にある「高慢」から生じる。

ヨハネはへりくだっていた。人の栄誉も成功も、与えられるものは、
すべては天からであり、そこに神の御手を認めた。そして、神の与
えて下さる自分の分に感謝し、満足した。そこには不平も不満もな
い。すべての事柄に、主の主権と支配を認める時、そこにへりくだ
りがあり、心に感謝と平安が臨む。

・・・・・・・・・・・・
「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできませ
ん」。自分自身を主に明け渡して、委ねている時、状況に関係なく、
心は平安だ。この平安は何ものにも代えられない。握りしめている
ものに気づかされ、一つ一つ渡して行けるように祈って行きたい。


2014年11月01日(土)

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをす べての真理に導き入れます」ヨハネ16:13



青い色のメガネをかけるなら、景色が青い色に見える。赤い色のメ
ガネなら、景色が赤い色に見える。そのように、もし自分の偏見や
思い込み、独断の色メガネで物事を見ているなら、目の前の事態が
そのようにしか見えない。自分の思い込みのメガネでしか見えない。
ありのままの景色をそのまま見るためにはどうすればよいか。色メ
ガネをはずす事だ。

景色の問題でなく、自分の偏った、間違った見方の問題だ。ある人
が対人関係でトラブルが起きたが、どうしても相手が悪いとしか思
えなかった。自分は被害者であって、何も悪くない。しかし、心に
喜びと平安が全く無い。心は辛くて、重苦しく、暗いままだ。余り
にも平安が無いので、主の御前に出て、あれやこれやと心の内を、
あるがまま打ち明けながら祈っていた。

その時、御霊は示された。自分は被害者だと思っているので、自分
は正しいと思っていて、全く気づかなかったが、相手を憎み、敵対
心を抱き、裁いている。そこに愛のかけらも無かった。憎しみ、裁
き、高慢、これは紛れもなく、自分の罪であり、主に対して罪を犯
しているので、心に平安が無かったことを。

相手は関係無く、自分は自分の罪として、御前に悔い改めた。その
時、平安が戻り、心が安堵で満たされた。この平安は何ものにも代
えられないものだった。
被害者だと思う裏に、憎しみや妬み、高慢が潜んでいて気づかない。
御霊は、私たちを照らし気づきを与え、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
相手に非があると、相手が悪いとしか見えず、それを裁き、憎む、
自分の罪が見えない。平安が無いのも、相手のせいとしか思えない。
御霊は、相手は関係なく、自分の問題であり、自分が憎しみを選択
している事に気づかせて下さる。平安の道筋に導かれる。