2014年12月31日(水)

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えておかなければならない」申命記8:2



イスラエルは、乳と蜜の流れるカナンに入るまで40年間、シナイの
荒野を歩まねばならなかった。そして、この荒野を行かせられたの
は、神ご自身だった。この40年間で経験したすべての事を、忘れて
はならないと命じている。なぜなら、この苦しい荒野の40年こそが、
主からの大切な訓練、貴重な学びであり、成長への行程だからだ。

失敗は、そこから学んで行く時、大きな成長へとつながる。もし、
嫌な事、失敗した事を忘れ、無かったことにしてしまうなら、そこ
から何も学べず、何の成長もなくなってしまう。そして、苦しみを
通して、自分自身が、自分の心の内にあるものを知る。

主の目的は「あなたの心のうちにあるものを知るため」とあり、平
穏な日々には決して知ることのない、自分自身の内側を見せられる。
自分の本当の姿、自分の弱さを知って初めて、それを主のもとに持
って行き、祈って行ける。知らない限り、何も始まらない。弱さを
知ることによって、初めて成長へと導かれる。そこで主の愛や、主
の守り、主の真実を現実に経験して行く。

そして、その苦しみの中で「人はパンだけで生きるのではない、人
は主の口から出るすべてのもので生きる」ことを知る。苦しみの中
で、真に主をあがき求め、御言葉が生きたものとして、心に染み入
り、真の慰め、指針とされることを体験する。主との関係が深めら
れて行く。
------------
今年も守られ感謝のうちに終えることができます。日々のみことば
配信は1月3日までお休み、4日からの配信となります。


2014年12月30日(火)

「求めなさい。そうすれば与えられます」ルカ11:9



祈りは学校だと言われている。少しづつ学ばせて下さる。最初は、
あれを下さい、これを下さい、主よ、あっちに行って下さい、こっ
ちに来て下さい、受験合格、商売繁盛、家内安全、五穀豊穣式祈り
だ。自分にとって都合良いもの、自分の付加価値を高めるもの、そ
れを求める。

不足面を満たしてもらい、又、付加価値を高めて、要するに自分が
安心するためだ。救われたばかりの頃は、それらにも答えて下さる
ことを経験する。今から思うと、よくわかっていなかった祈りにも
答えて下さった。最初は、主との関係が変わっただけで、後は何も
変わらないので、そのようにしか祈れない。

それを主はよくご存じで、とにかく祈りによって「主に向く」こと
を、体験させて下さった。まず「主に向く」事が大切だ。そして、
段々と主との交わりが深められて行くと、幾ら祈っても聞かれない
祈りに、気づく。答えて下さらないのでなく、答えて下さっている。
「ノー」が答えだ。何でもかんでも、欲しいものを与えて下さるの
でなく、必要なものを与えて下さることを学ぶ。

振り返ると、必要なものは必ず与えて下さったことを知る。そして、
自分の思いはあるが、主のお心はどうか、何を主は喜ばれるのか、
に思いが至る。思考パタンが変えられて行く。そして、主の御心を
求めて行く。御心を求め、約束を与えられた時に、それを信じて行
く「信仰」を求めるようになる。とにかく祈りによって、主に向い
て行こう。主は祈りにおいても、学ばせ、成長させて下さる。
-----------
親族の救いや日常の細々したこと、自分自身の底にある問題、祈り
によって今年も主に求め続けた。叶えられた答えよりも「ノー」の
答えこそが学びの時ではなかったか。もう一度振り返ってみたい。


2014年12月29日(月)

「・・ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」創世記32:23 


あなたにも、逃げてしまいたい問題があるだろうか。ヤコブは父と
兄を欺いて、祝福を奪い取った。激怒する兄を前に、家におれなく
なり、逃亡する事になる。伯父ラバンのもとに身を寄せ、苦しい訓
練の20年の歳月の後、神の時がやって来た。帰郷するようにとの
しだ。

しかし解決できていない大きな問題があった。兄エサウだ。兄はど
んなに自分を激しく恨み、憎み、怒っている事だろう。殺される違
いない。恐れと不安がどうにもならない。兄のもとに使いを送った
ところ、400人の者と共に迎えに来ると言う。400人を引き連れて、
皆殺しにされると思い込んだ。

なぜ兄を恐れたのか。それは兄に対して犯した罪があったからだっ
た。問題がある時に、どうしても恐れて逃げたくなる。しかし問題
に向き合う事が必要だ。その奧深く潜む罪と向き合うことだ。まず、
その心にあるものを、主に告白すればよい。心をそのままに告げて
行けばよい。祈りにもって行く時に、御霊が自分の気持ちに気ずか
せて下さる。

ヤコブは主に取り扱われ、砕かれた。自分の弱さを認め、神無しで
は生きてゆけないと、心底拠りすがった。ヤコブはすべてを明け渡
し、平安にされた。そしてあれほど恐れていたヤコブが先頭に立ち、
兄に会いに行った。ヤコブは変えられた。私たち一人一人にも「ヤ
ボクの渡し」があり、決して避けて通れない。今、向き合う時だろ
うか。
-----------
避けたい、逃げたい問題の解決は、自分の力や知恵、経験値から、
主への明け渡しだ。わかっていても、簡単にはできない問題だけ
が残っている。主にしがみつき強い自我や弱さに向き合ってみよう。


2014年12月28日(日)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:35



自らの不信仰に気づくのはいつだろう。不思議だが、信じようとし
て行く時に、不信仰に気づかせられる。信じない時に、不信仰に気
づく事はない。経済的困窮の時に、「キリスト・イエスにあるご自
身の栄光の富をもって・・必要をすべて満たして下さいます」との
神の約束を信じようとする。その時に、すんなり信じられない事に
気づく。

そうは言っても、大丈夫なのか。本当に満たして下さるのか。与え
られなかったらどうしようと、恐れに襲われ、不安でたまらず、幾
ら信じようとしても、どうしても信じきれない自分に気づく。その
時に初めて、自らの内にある不信仰を知る。そして、その不信仰を
悔い改めることができる。

この「不信仰」こそが、自分と主との間の妨げになっている事を知
る。不信仰を悔い改めた時に、信仰が与えられる。そして主を信頼
して行く時に、心は深い安堵で満たされる。それゆえ、平安を妨げ
ている「不信仰」にどうしても気づく必要がある。御霊が気づかせ
て下さる。

目には全く見えない事を信じて行こうとする時、そこに戦いが生じ
る。肉の目には見えないので、この状況がどうにかなるなどと、ど
うしても思えない、信じることができない。それをありのまま主に
告げて行く時に、信仰の忍耐を与えて下さる。主によって信じて行
ける。
---------------
何もしなければ失敗もないが、主を深く知ることもない。御心を行
おうとすると疑いや不安に揺らぎ、すぐに主から目が離されて行く。
祈りを通して御約束に立ち返り、絶えず来る不信仰に気づいていた
い。


2014年12月26日(金)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神は、その願いを聞いてくださるということ、それこそ神に対する私たちの確信です」Tヨハネ5:14 



祈りの中で、私たちは、主は「願え」「求めよ」と言われるので、
自分の願いを素直に祈って行けば良い。「感謝をもってささげる祈
りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな
い」「求めなさい。そうすれば、与えられます」とあるように。
神に願いを知っていただく事ができる。

しかし、自分の願いはあって良いが、それを頑なに固執してしまう
のは違う。願いは願いとして良いが、主の御心の前に、心を開いて、
主に従おうとする信仰の姿勢が大切だ。祈って行く中で、自分の思
いと主のみ思いが、異なる事がわかって行くかも知れない。その時
には、主の御心のほうを最善だと信じ、素直に自分の気持ちを告げ
て、祈って行くことが祝福の道だ。

自分の願いがあるからこそ、御心が異なった時に、その自分の願い
を主にお献げし、明け渡す事ができる。主が十字架を前にして、
「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と率直にご自身の願
いを祈られ、「しかし、あなたのみこころのように、なさってくだ
さい」と御父の御心に明け渡して行かれた。

祈って行く時、「従います」の姿勢があるなら、主は祈りを軌道修
正し、御心へと導いて行って下さる。明け渡せないなら、「明け渡
す事が出来ません、出来るように助けて下さい」と率直に祈ろう。
私たちは目の前の小さな自分の幸せだけを求めがちだ。しかし主は、
ご自身の大きなみわざのために、私たち自身が用いられて行くよう
にと、ご計画して下さっている。
------------
27日の配信はスタッフ不在のため、お休みします。28日から
31日までは通常どおり配信いたします。


2014年12月25日(木)

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです」ルカ2:11



「もし、キリストが来なかったら」という文章があった。家の中に
はクリスマスの一つの飾りも無く、クリスマスの美しい賛美も無く、
「メリークリスマス!」と互いに喜びを交わし合うこともなく、沢
山の友人からの喜びのクリスマスカードも、愛の贈り物も無い。

そして、街に出て、どこを探しても教会は無く、十字架も無い。主
イエスに関する信仰書も一つも無く、聖書は旧約聖書しかない。近
所の人が死に瀕していたが、主の十字架による贖い、血潮による罪
の全き赦し、死に勝利する復活の希望、死後の希望を語る事ができ
ない。ただオロオロと嘆くばかりだ。

もし、キリストが来て下さらなかったら・・想像しただけでも、恐
ろしい。しかし、主は来て下さった!極みまでへりくだって下さっ
て、神のあり方を捨てられ、人となられ、この世界に来て下さった。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれに
なりました。この方こそ主キリストです」「すばらしい喜び」だ。

罪が赦され、永遠の命が与えられ、「わたしは、あなたがたにわた
しの平安を与えます」いかなる状況の中でも、主の平安を与え、
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに
います」いつ、どんな時にも、共にいて下さるために。そして「も
はや、私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きてお
られます」私の内に生きて下さるために。
-------------
神は御子を人として私たちの救いのためにこの世界に与えてくださ
った。主の御降誕を心から感謝します。暗闇の中に輝いている光、
その中に生かされている喜びに感謝します。


2014年12月24日(水)

「子よ。あなたの罪は赦されました」マルコ2:5



ある父親が仕事に没頭する、仕事人間で、家庭を全く顧みる事が無
かった。すべて妻任せで、早朝出勤に深夜帰宅、子供と接する時間
など全く無かった。自分は家族を養っているし、仕事以外の事は、
妻のなすべき事で、当然だと思っていた。又、仕事上の野心も事実
だった。何としでも業績を上げたい一心だった。

そんな時、子供が警察沙汰を起こすという現実に直面した。子供の
心が荒んでいた事など全く気づく事もなかった。妻も一人で苦しみ
を何もかもを背負い、一番共にいて欲しい時に、夫は共におらず、
孤独で、寂しさと辛さの中にいた。家族の皆がバラバラで方向性を
見失っていた。

父親は現実を前に、初めて心打ち砕かれ、くずおれた。家長として、
子供に関わって来なかった自らの罪を心から神の前に悔い改めた。
罪は決して甘くはなく、苦しく辛い刈り取りをして行った。妻にも
詫び、子供が迷惑をかけた方面への謝罪に回り、できる限りの償い
をした。数年間の苦しみは並大抵のものでなく、子供の回復をひた
すら祈りに祈り続けた。

しかしそれが出来たのは、心の底に響いて来た「子よ。あなたの罪
は赦されました」、罪が赦されたという深い安堵、平安のゆえであ
った。主のあわれみは尽きず、涙ながらの切なる祈りは聞かれ、子
供は立ち直る事ができた。
-------------、
不完全な自分が赦されている。愛し受け入れられていることを主は
試練の中で何度も語られる。主の十字架を覚えるたびに、折れた心
に新しい光が射す。


2014年12月23日(火)

「・・その名はインマヌエルと呼ばれる」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)」マタイ1:23



御使いが、すばらしい喜びの知らせ、「あなたがたのために救い主
が生まれた」と伝えた。信仰生活の中で、どういう事が救いなのだ
ろう。病気が治ることだろうか。どんな病気でも癒されることだろ
うか。それは確かに救われることであり、感謝なことだ。

しかし、現実生活で、病気は次から次へとやって来るし、又、すべ
ての病気が完全に治るわけでもないことも知っている。パウロも、
願いにかかわらず、とげは取り去られなかった。経済的困窮の中で、
必要が満たされることも救いだ。しかし、パウロは豊かさと同様に、
貧しさの中にいる道も知っていた。御心なら貧しさも通される。

自分の思い通りでない、苦しい状況はどうだろう。状況が無くなる
ことが救いなのだろうか。ある人は、親が病で倒れ、障がいが残っ
た。体調も悪く、弱った姿に、以前とは全くの別人に感じた。自分
にとって、非常に強い存在だった。ショックを受け、どうして良い
かもわからなかった。何も出来ることが無いように思えた。ひたす
ら主に気持ちをあるがまま打ち明け、祈りに祈った。

祈り続ける中で、良くなろうと、このままであろうと、何もかもが
愛なる主の御手の中にあり、どうであれ、最善がなされると平安に
満たされた。どんな時も、どんな状況の中でも「インマヌエル」主
が私たちと共におられる、それが真の救いだ。
-------------
叶えられたいと願うが祈っても思い通りにはならない。けれどどん
な中であれ、主は最善の道を通され益であると知っている。主がい
つも共におられるとは何と幸いなことだろう。


2014年12月22日(月)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13    





私たちは新しい性質と、生まれつきの古い性質がある。天に帰るま
で、常に二つの性質がある。御霊に導かれている時は、平安と喜び
の中で、生き生きと生きて行ける。だが、古い性質、肉に従って行
くと、途端に信仰生活が苦しくなる。油の切れた機械のごとく、重
く、しんどくて喜びは失せる。

又、怒りが湧き、イライラし、裁く心や、敵対心や妬みが出て来る。
そんな時、どうすればよいのか。「もし、御霊によって、からだの
行ないを殺すなら、生きる」。怒り、敵対心が起きて来た時に、ど
うするだろう。怒りはいけない事、妬み、憎しみは罪と、自分抑え
つけ、我慢しているだろうか。その我慢を続けると、容量オーバー
になった時に必ず爆発する。

ある婦人は、御心だから、夫に仕えようと、良い証しになるように
と、相手の態度や言葉でイラつくのをひたすら我慢して、仕える。
しかし必ず定期的に不満が爆発し、元も子もなくなってしまう。自
分の力で我慢しているからだ。そうではなく、自らの怒りや不平を、
無い振りをせず、ごまかさず、言い訳せず、認めることだ。

心の内をそのまま主に告げて、自分で抑え込んだり、何とかする事
を止め「自分にはできません」と認め、助けを求め、頼って行くこ
とだ。その時、御霊の助けを経験する。自分にはできない事が、御
霊によってできるようにされる。御霊によって生きることを実地体
験して行く。
-------------
御父の愛が、従えない自分を責める自分の声から解放してくださっ
た。歯をくいしばって従うのでなく「出来ない、助けてください」
と弱音をそのまま祈れる。御霊はいきいきと生かしてくださる。


2014年12月21日(日)

「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだか ら、私を救い出してくれるのでしょうか」ローマ7:24



ある女性が結婚したが、共に生活してみると、自分が思っていた夫
とは全く違う事がわかった。価値観がこんなにも違ったのかのかと
驚き、好みの違い、習慣の違い、様々な事でギクシャクした。この
結婚は間違っていたのだろうか。悶々状態の中にいたが、夫は仕事
がハードで、忙しく、語り合う時間も無かった。

イライラが募り、不満で一杯になり、相手を責めてしまう。しかし、
自分の非は認めたくない。そんな強い自我に苦しみ、又、そんな自
分に自己嫌悪にも陥る。平安がなく、主の御前に赦しを求めるが、
すぐに相手を責め立てる思いが噴き出す。苦しみの日々を経て、疲
れ果ててしまい、もうこれ以上やって行けない状態になった。

どうしても夫にぶつけ、夫を責めてしまい、喧嘩が絶えない。もう
限界を感じ、結婚を続けられないと、思いつめた。「主よ、助けて
下さい。自分自身を、もうどうにもできません。この結婚を明け渡
します」とギブアップした。その時初めて、理解していると思って
いた主の十字架が、真に自分の事として迫った。

罪しか犯す事ができない自分だからこそ、十字架がある事がわかり、
心底からの悔い改めが与えられ、今まで味わった事のない平安と喜
びに満たされた。祈りながらも、ずっと自分で、自分の力で、何と
かしようとして、もがいていた事に気づかされた。どん底こそが、
実は最大の恵みの場所だった。

・・・・・・・・・・・・・
自分の力で、自分が動いている時は、神の力はわからない。律法の
中だ。自分の力でどうにもできず、何の手だても無くなった時が、
恵みの時だ。委ねる時に主の力が働き、主のみわざを見て行く。恵
みの中で、心は軽く、荷も軽い。


2014年12月20日(土)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているか らだ。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将 来と希望を与えるためのものだ」エレミヤ29:11


バビロン捕囚は、その事態だけを見れば絶望しか無かった。しかし、
結果的に見れば、神の民は捕囚により、悔い改め、神に立ち返る事
ができ、信仰の回復がなされた。70年後にエルサレムに帰還させ
るとの、神の約束も成就された事になる。

「あなたがたのために立てている計画」・・バビロン補囚が「神の
計画」だと言われる。見えるところは、どうしてこんな事がとの落
胆、絶望、挫折、混乱であったが、神にとっては平安と将来と希望
のための計画であった。

刺繍の裏は、糸がぐじゃぐじゃだ。神は、私たちにとっては不都合、
混乱、行き詰まり、何でこんな事が?の事態を起こされ、神の意図
される方向へ導かれる。そしてそれは、「あなたのため」の計画だ
と言われる。綿密に図って立てられた、あなたの益と将来のための
出来事だと。

刺繍の表は着々と綺麗な模様に完成している。目の前の事は痛い、
苦しい事態だが、実はあなたのための最善がなされている。痛い、
辛い所を通って初めて、真に神に出会う。人は自我の強固な殻にお
おわれている。痛みや苦しみによって、その自我の殻が砕かれる。

高慢すら自分でわからず、認識できず、何の問題も無いと思ってい
る。苦しみの中で初めて、自らの姿を知る。何を教えて下さりたい
のか、主に祈ろう。主のお心に触れる時、懲らしめが愛であること
がわかる。そして心に平安が臨む。

・・・・・・・・・・・
どうしてこんな事が、との事態が起きる。驚き慌て、わけがわから
ないが、しかし「あなたのために立てている計画」だと言われる。
絶望にしか見えなくても「わたしは、計画をよく知っている」と言
われる。その主に委ねて行く時、計画が明らかになって来る。


2014年12月19日(金)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



ある人が祈りつつ、職を探していた。なかなか無い中、真剣な祈り
を通して仕事が与えられた。喜び、感謝して、仕事に就いた。しか
し、与えられた部署の仕事は、自分には非常に難しくて、うまく行
かなかった。辛くて何度も涙した。行き詰まってしまい、自分はこ
の仕事に向いていないのではと、悩んだ。

このまま続けても、自分に合ってなければ、ただ辛いだけなのでは
とも考えた。もっと自分に向いた仕事に変わった方が良いのでは。
その事を祈っていた時に、「心を尽くして主に拠り頼め・・あなた
の行く所どこにおいても、主を認めよ」と語りかけられた。今の場
所で、主を認めよ。祈って与えられた場であり、主からのものだ。
今の場で、心を尽くして主に拠り頼めと励まされた。

自分には難しくてとても出来ないと思われた、目の前の一つ一つの
仕事を具体的に祈り、ひたすら主に拠り頼んで行った。その時に、
目の前に道が開かれて行き、驚くばかりに仕事が導かれて行った。
次々と成果が与えられ、周囲からは、「あなたに合った仕事ね」と
言われた。驚いた。

自分の力では全く無かった。主であり、主が成し遂げて下さった、
まさに生けるまことの主を経験して行った。今の場に、落胆し、が
っかりしているだろうか。今の場に主を認め、心を尽くして主に拠
り頼んでみよう。道をまっすぐにして導いて下さる。
----------
ここが御心だろうか御心は他にあるのではと思うが「あなたの行く
道どこにおいても」は主の御約束だ。今のところに主の恵みは注が
れている。迷いを祈り、主が最善に導いてくださることを信じよう。


2014年12月18日(木)

「・・わたしの時はまだ来ていません」ヨハネ2:4



すべての事において、「神の時」があり、主も「時」を非常に重ん
じられた。「わたしの時がまだ満ちていないからです」「見なさい。
時が来ました」。私たちの信仰生活も、何事においても「時」があ
る。カナの結婚式の真っ最中に、欠かす事の出来ない、ぶどう酒が
無くなってしまった。大変な失態で、式は丸つぶれだ。その時、母
マリヤは、まず主に告げた。

主ならすぐに何とかして下さると。その時、主は「わたしの時はま
だ来ていません」と答えられた。私たちはいつも、「早く!今、す
ぐに!」答えを期待する。すぐに答えが欲しい。しかし、マリヤは、
自分でぶどう酒を準備しようとはせずに、事態を主に委ねた。する
と主は奇蹟のわざをして下さった。

サウル王は、時を待てないで、失敗した。ペリシテ軍の攻撃が来た
時に、遅れて、来ないサムエルの到着を待つ事が出来ず、自分でい
けにえを献げた。しかし、いけにえは祭司しか献げる事ができない。
この事のために、サウル王は、王位から退けられた。

アブラハムも、神の時を待てないで失敗してしまった。子孫を与え
るとの、神の約束を受けたが、待てども〃なかなか成就しないので、
肉の思いで、女奴隷ハガルによって、子供を得た。神の時を待てな
かった。自分で、事を成し遂げた。しかし、肉で行なった事は、大
きな問題を生み出してしまった。

神の時を待つ事が、信仰だ。忍耐して、待ち望もう。神の時が満ち
ると、ひとりでに事が動き出す。あんなに事態が微動だにしなかっ
たのに、動き出すから驚きだ。待ち望もう。
------------
疑わず行うことが御心か待つことが御心かよく迷う。御心はどこに
あるのだろう。マリヤのように問題の中にまず主を認め、主のご計
画を認め、動くべき時を悟れるよう祈っていこう。


2014年12月17日(水)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25 




預言によると、盲人の目が開かれる事が、メシア到来のしるしだっ
た。「そのとき、盲人の目は開かれ」、それゆえ、この盲人が見え
るようになった事は、まさに預言の成就であり、心開かれていたな
ら、主イエスこそが救い主だとわかるはずだ。しかし、主が、安息
日を破ったと非難したパリサイ人は、根が悪意であり、その目で人
を、物事を見るなら、すべてが攻撃材料となる。自己中心な邪悪な
心だ。

正当な非難だと言うが、実は根にある敵対心のゆえだ。盲人に問い
ただすが、彼の言葉にも全く聞く耳を持たない。盲人は身に起きた
事を素直に話しているにかかわらず、はなから否定してかかる。自
分は正しいとの位置に立つ時、このような状態に陥る。

彼は明確に、はっきりと的確に言った「盲目であったのに、今は見
える」と。物理的に見えるのでなく、霊の目が開かれて、神がわか
るのだ。パリサイ人は自分の思いで、自分の目で見た。「私たちは
あの人が罪人であることを知っているのだ」と。あの人はこうと最
初から決めつけ、そんな態度である以上、どんなみわざを見ても信
じる事ができない。

自らの偏見、思いを退けて、素直に主に向き合うなら「主よ、私は
信じます」に必ず導かれる。私たちは、この「ただ一つのことだけ
知って」いれば良い。私は罪人で滅びて当然の者であったが、主の
十字架の贖いによって、「私の」罪が赦され、「私は」救われた。
-------------
自分が正当だと思うとき、耳も目も心もふさがれて、主のご愛も御
言葉からの光も入ってこない。放蕩息子の兄のようだ。いつも素直
に主の前に質問の手をあげる者でありたい。


2014年12月16日(火)

「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました」T列王17:24




大飢饉の中、エリヤが主に示されて訪ねた、ツァレファテのやもめ
は、ひと握りの粉と少しの油だけがあり、何とそれで最後の食事を
し、死のうとしていた。その目の前に、突然エリヤが現れて、非常
識な、無理な要求をした。まず、私のためにパン菓子を作るように
と。

そうするなら、飢饉が終わるまで、かめの粉は尽きず、そのつぼの
油は無くならないと。やもめはエリヤの言葉の通りにした。すると
不思議が起こり、飢饉の間中、粉と油は尽きず、息子に食べさせる
事ができ、自分も養われた。飢饉のまっただ中で、神により奇跡を
もって養われた。

ところが、その後、息子が重病に陥り、死んでしまった。エリヤは
その息子が生き返るように、主に祈り、願った。主は、エリヤの願
いを聞かれ、その息子は生き返った。その生き返った息子を、彼女
に返した時に、彼女は、エリヤが神の人であり、エリヤの口にある
主の言葉が真実であることを、今、知ったと言った。

それ以前は、まだよくわかっていなかったが、息子の死を通して、
神の言葉が真実であると身をもって知ったのだ。彼女の内で、信仰
が確かなものとされた。大きな試練であったが、主と主の言葉が真
実である事を、真に知る素晴らしい恵みと祝福とされた。私たちも、
苦しい試みの中で、必ず主のことばが真実であることを知ったと、
言えるようにされる。
-------------
決して結果は見えていなくても、神の言葉は真実だと過去の経験が
教えてくれる。今の状況であきらめてしまわず、御言葉を信じてい
よう。かめの粉のように私たちの心もそこで霊的な養いがある。


2014年12月15日(月)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではなかった」マタイ18:33



人を赦せないことを経験した事があるだろうか。赦せない心ほど苦
しいものはない。心がずっと辛い。四六時中、憎しみに支配され、
がんじがらめで、まさしく暗黒の牢獄の中だ。それも自分から牢獄
に入ることになる。逃れることができず、囚われの身だ。心は重く
苦しい。

人を赦すのは、自分自身が牢獄から出るためで、自分のためだ。赦
せない思いは、相手でなく、どんなに自分を傷つけ、苦しめる事だ
ろう。人を赦せず、苦しむのは相手ではなく、自分自身だ。「私た
ちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人
たちを赦しました」と、まず、自分に負いめのある人を赦している。

だから、自分の負い目も赦して下さいと。赦そうとする「意志」は
大切だ。赦せないが、まずは赦そうとの意志を向けない限り、何も
始まらない。赦せないのではなく、赦したくない、絶対に赦そうと
しない自分を見い出す。赦すことの困難さの中で、主の十字架の赦
しが、この赦せない自分のためだと迫る。

自分には出来ないが、主によって人を赦すことができる。憎む相手
に、自分を支配され、来る日も〃も、憎しみと恨みで、がんじがら
めにされたいだろうか。憎む相手に、自分の人生を支配される事を
拒絶し、解放されよう。相手を赦す時に、牢獄から出て、自由の身
にされる。解放される。喜びが溢れ、平安に満ち、自分を取り戻す
ことが出来る。
------------
神は私たちの罪の救済のために馬屋の飼い葉桶に御子を捨て置かれ
た。そのご愛は、たった一人の人も許すことができず、平安なく憎
しみの牢獄にい続ける弱さを憐れんでおられる。心の中で相手を攻
撃するのはやめよう。


2014年12月14日(日)

「すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、 父が出て来て、いろいろなだめてみた」ルカ15:28



放蕩息子の兄は、家出したまま行方不明の弟が、無事に戻って来た
のだが、決して素直に迎える事は出来なかった。家に近づくと、楽
しげな笑い声が聞こえ、喜びのパーティの様子が見えた。勝手に出
て行き、放蕩三昧をして、戻った弟のためのパーティなど、何とい
う事かと納得が行かない。怒りが湧き上がる。

実の弟に対して「帰って来たあなたの息子」と他人事の冷淡な態度
だ。弟の帰還によって、兄の心の奥に潜んでいた思いがあらわにな
った。怒りで家に入ろうともしない兄に、父親が出て来てなだめた。
すると、自分がいかに忠実で正しいかを訴えた。「長年の間、仕え、
一度も戒めを破った事はない」と。そして正当に報われていないと
の不満。

「子山羊一匹もらった事がない」と。しかし父の心は、「わたしの
ものは全部お前のものだ」だ。実は自分も同じように世の快楽を楽
しみたかった。行動にも、言動にも出さずに抑え込み、外側良いよ
うに装っていたが、内側は不満で一杯だった。本音は弟と同じだっ
た。弟よりもっと重症だったかも知れない。

しかし、父親はそんな兄息子をそのまま受け止め、弟息子と同様に、
全く責めも裁きもしていない。その態度は愛と慈しみに満ちていた。
兄息子を愛し、「おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのも
のは全部お前のものだ」と。私たちはどうだろう。実は不満を抑え
込んでいるだろうか。そのまま主のもとへ行こう。主は愛とあわれ
みで一杯だ。

・・・・・・・・・・・
自分の力で頑張っていると、なかなか主の愛がわからない。不満が
うっ積だ。しかし、弟を裁く兄息子をも責めず裁かず、弟同様、そ
のまま無条件で受け止め、愛して下さっている。御霊は自分の本当
の姿を照らし出して下さる。気づきから祝福が始まる。


2014年12月13日(土)

「なぜ、あなたは、あなたのろばを三度も打ったのか。敵対して出 て来たのはわたしだったのだ。あなたの道がわたしとは反対に向い ていたからだ」民数記22:32 


モアブの王バラクは、イスラエルがエモリ人に行なったすべての事
を見て、又、イスラエルの民が余りも多数であり、非常な恐れを抱
いた。それで、バラムに、イスラエルを呪わせようとした。占いに
通じたモアブの長老たちに、バラムに王のことづけを告げさせた。

「どうか今来て、私のためにこの民を呪って欲しい。そうすれば、
彼らを打って、追い出す事ができる」と。バラムは主が告げられた
通りを、告げると答えた。すると、主はバラムに「共に行くな、呪
ってはならない、その民は祝福されている」と答えられた。主は私
を一緒に行かせられないと伝えると、彼らはバラク王のもとに帰っ
た。

すると、バラク王は、もう一度更に位の高い者を大勢遣わし、同じ
事を願った。バラムは、主の言葉にそむいて、何も出来ないと言い
つつ、何か他の事を告げられるか確かめようと言った。御心がはっ
きり示されるのに、他に何を確かめる事があろう。問題は、示され
た御心に従うか、どうかだけだ。

しかし自分の内に答えを持っているなら、その答えが出るまで問い
続ける。結局は自分の欲を遂げたくて、主の承認が欲しい。バラム
が彼らと出かけると主の怒りが燃え上がり、主の使いが、抜き身の
剣を持って道に立ちふさがった。「反対を向いている」と。
今、御心がわかっているのに、ぐずぐずしているだろうか。示され
ている御心に、信仰もって従おう。従うことが大切だ。

・・・・・・・・・・・・・
御心を求めるが、自分の心はすでに決まっていて、その承認が欲し
い。そうなら、自分の思い通りの答え以外は、無意識にもシャット
アウトする。御心でなく、自分の心になってしまう。まず自分を明
け渡すことが大切だ。その時、御心を悟って行ける。


2014年12月12日(金)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」マタイ7:25 



賢い人も愚かな人も、どちらも御言葉を聞いている。賢い人は
「わたしの・・ことばを聞いて、それを行なう」。愚かな人は
「わたしの・・ことばを聞いて、それを行わない」。愚かな人
は、御言葉を聞かないならわかりやすいが、聞いている。礼拝
で御言葉を喜んで聞き、御言葉を学ぶ人だ。

御言葉を拒否したり、御言葉に反抗しているなら、自分でも自
覚できるが、喜んで聞いているので、自分で気づかない。御言
葉を聞いて、それで満足してしまう。聞いて、わかった気にな
ってしまい、そこで終わる。聞くだけで行なわないなら、自分
の生まれつきの顔を鏡で見るようだと。

自分をながめてから立ち去ると、すぐに見たものを忘れてしま
う。御言葉を聞いて忘れてしまい、結実する事がない。真理の
言葉は行なう時に初めて、実を結ぶ。有難い御言葉を聞いて、
良かった、良かったで、終わりだろうか。何も無い時はよいが、
試練が来た時に、はっきりと違いが現れる。

砂の上に建てた家は立ち行かず、倒れてしまうと。御言葉を実
行して行く時に、御言葉が血となり肉となり、どんな暴風雨が
来ても倒れない。聞いた御言葉を一心に見つめて離れない人は、
事を実行して行く。御言葉を見つめて離れず、そして、行なえ
るよう、御霊の助けを求めて祈ろう。今目の前に示されている
御心があるだろうか。
-------------------
御言葉を聞き、立ち上がるとすぐにこの世の流れと対峙する。
御心はどこにあるのか、何をめざしていたのか。すぐに忘れ、
世と同化させられてしまう。御言葉にとどまっていよう。


2014年12月11日(木)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それはあなたがたが、非難されるところのない純真な者となり・・」ピリピ2:14



「すべてのことを、つぶやかず、疑わすに行ないなさい」とある。
「すべてのこと」とは、主に従うこと、主のみこころを行うことだ。
主が示して下さるみこころに、つぶやかず、疑わずに、「はい」と
応えて行くことだ。そうする時、主は御心を行なうための力を与え、
すべての必要を満たして下さり、そして「いのちのことばをしっか
り握って、彼らの間で世の光として輝く」ようにして下さる。

しかし、「つぶやかず、疑わずに行ないなさい」とあるように、み
こころを行なおうする時に、「つぶやき」と「疑い」が出て来る。
「しなくてもよいのではないか」「自分がする必要があるのだろう
か」ああでもない、こうでもないと、理屈が出て来る。そんな心の
奧を探ると、みこころを行なおうとしておらず、自分の思い、自分
の願いを成し遂げたいと思っている。

主の栄光ではなく、自己中心な思いに気づく。そんな時、自分の姿
を認めて、「自分にはできません」「したくない思いがあります」
とそのまま祈ろう。「主よ、助けて下さい」と祈って行くなら、主
が従えるように助けて下さる。

そして、御言葉に従って行く時、自分で輝くのでなく、主が、私た
ちを世の光として輝かせて下さる。今、示されていることがあるだ
ろうか。つぶやかず、理屈を言わず、「はい」と従ってみよう。豊
かな祝福を経験する。
-----------
志は主が私たちの心に与え、実現させてくださる。疑わず信じて行
うなら結果に捕らわれずいつも謙遜でいられる。なんとシンプルな
循環だろう。けれど理屈も必ず出てくる。幼子のように従って行き
たい。


2014年12月10日(水)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6 



私たちは、思い煩いが来た時に、どのように対処するだろう。ただ
ただ沈み、暗闇に落ち込むだろうか。その事を考えると苦しくなる
ので、とにかく考えまいと逃げるだろうか。しかし、問題は現にそ
こにあり、どうにもならず、先延ばしになるばかりだ。又、問題自
体を解決して、何とか問題を無くしてしまおうとするだろうか。

しかし、簡単になど解決つかず、ますます思い煩いを深める事にな
る。主の対処法は、正直に、感情も気持ちも、問題も、何もかもを
主に告げよということだ。「何も思い煩うな」「願い事を主に知っ
ていただきなさい」そうすれば、「人のすべての考えにまさる神の
平安」が約束されている。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い
煩いを知ってください」の通り、ハンナのように心を注ぎ出し、つ
のる憂い、いらだちを何もかも主に告げて行く時に、主からの平安、
慰めで心が満たされる。信仰生活で、悩みや困難が次々と来る。
しかし、それらの悩みや問題の中で、気持ちも感情も主に告げて、
主と交わる時に、更に深い交わりへと導き入れられる。

そこで実際に主からの慰めを受ける。そして、後には、その苦しみ
を通って良かったと必ず思える。万事益とされる。「苦しみに会っ
たことは、私にとってしあわせでした」と言える。あなたの重荷を
主にゆだねよ。主が、あなたのことを心配して下さっているのだか
ら。
-------------
信仰生活、こうするべきだとの知識は山ほどある。でも出来ない。
思い通りの結果が欲しい問題、避けて通りたい問題、目の前に来る
とき、建前だけの祈りでは真の平安はない。主と深い交わりのとき
を持とう。


2014年12月09日(火)

「・・また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」出エジプト10:2 


パロは、次々と困難に苦しめられると「お前たちを行かせる」と言
い、苦難が止み、少し落ち着くと「行かせない」と言う。又、苦し
みが臨むと「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。行かせよ
う」と言う。「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、
悔い改めに見えるが、モーセの祈りで、事がおさまるや、又、頑な
になり、強情になる。

口では言うが、心の底では思ってはいない事の表われだ。王で、最
高権力者であり、何もかもが自分の思い通りに、思うがままに回っ
て来たパロにとって、主の奇跡、みわざは、単に脅しに過ぎなかっ
た。脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、元
に戻る。主の奇跡のみわざが、主ご自身を知り、主のご愛や真実を
知ることには、いっさいならなかった。

私たちはどうだろう。ただ単に災難であり、とにかく苦しみが去り
さえすれば良いのだろうか。それならパロと変わりがない。「わた
しが主であることを、あなたがたが知るためである」。信仰生活で
の様々な困難や問題は、神が主であることを知るために送られてい
る。

それは、主ご自身を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時
だ。悔い改めがあるかも知れない。きよめられ、一段階成長の時だ。
又、主のご愛を体験する時だ。そこに焦点を当てて、目の前の事態
を受け取ろう。
-----------
やってくる問題の中で、共にいてくださる神を認めているなら、結
果によらず更に神を知り、祝福で終わる。すぐに状況と自分だけを
見てしまいがちだが、主なる神を仰ぎ祈ろう。


2014年12月08日(月)

「兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです」ヘブル10:19



「心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ」、邪悪な良心と
は、主の十字架の血潮だけでは、心が満足できないため、それだけ
では足らないとして、そこに行ないをプラスする。つまり、自分の
善行によって、受け入れてもらおう、愛されようとすることだ。

もし、主の愛を得ようとして、受け入れて欲しくてする奉仕や献げ
ものなら、人間の力によるものであり、それは主の十字架を無意味
にしてしまう。「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法に
よって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」だ。

主はいたずらに死なれたことになってしまう。良心のとがめが辛く
て、嫌で、良心のとがめを無くしたくて、追い立てられるように、
奉仕や献げものや善行や親切をしているだろうか。そうなら、それ
は邪悪な良心だと言っている。良い事をして、良心をなだめ、とが
めを消そうとする。

例えば、悪い態度をとり、良心のとがめを感じると、親切な行ない
で返して、自分の内でチャラにする。何か良い事をして、良心をな
だめる。これは御霊から来る平安ではない。主の血潮のみが、私た
ちの良心のとがめを消し去る、御父へのなだめの供え物であり、と
がめを取り去る。

平安を与えられ、真心から神に近づくことができるようにされる。
主の血潮以外のものがあるなら、きよめていただこう。主の血潮に
のみ拠り頼もう。
------------
失敗もするし、従えない弱さもあるが主はとりなしてくださり、そ
のままで主に近づいて行ける。主の十字架を感謝して受け取ってい
こう。主にある喜びを奪っていく声は御霊の促がしとは違う。


2014年12月07日(日)

「・・『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、 その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母 親に返された」ルカ7:14 



やもめである母親の一人息子が、死んで、かつぎ出されるところに、
主は遭遇された。やもめの上に、一人息子を失うとは、母親はどん
底の悲しみ、絶望であったろう。死だけは、目の前に容赦なく立ち
はだかり、後戻りも、回復も不可能だ。すべてが断ち切られ、何も
かもが打ち砕かれてしまった状況だ。

当時のやもめは、社会的に厳しい状況にあり、唯一頼りであった息
子、そして生き甲斐であった息子を失うとは。心引き裂かれる、は
らわた裂かれる思いだったろう。生きる望み、支えが無くなってし
まった。泣き続けていた。そこに、主が「泣かなくてもよい」と御
声をかけられた。

「かわいそうに思い」「深い同情をよせられ」「憐れまれ」とあり、
強烈な同情だ。腹の底からの憐れみが湧き出で、溢れ出て、主は青
年をいやされた。母親から頼まれてではなく、一方的に主の溢れ出
る憐れみによってであった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、青
年は生き返った。

主は口先でなく、「深い同情」と共に「力」を持っておられる。
「泣かなくてもよい」はその通りに実現し成就した。同じ主が、今、
悲しみのどん底に、絶望にある私たちに、腹の底からの同情を寄せ
ていて下さる。そして、主の御口から出る言葉は、私たちの心に奇
跡を起こし、揺るぎない「平安」をもたらす。

「彼を母親に返された」取り返し不能、完全に失ってしまった状況
に、決定的解決を与えられた。この同じ主が、今、あなたの目の前
におられる。

・・・・・・・・・・・
「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない」。主に絶
望は無い。どんな時にも希望があり、御心とご計画がある。常に深
い同情を寄せて下さっている主が、今日も共におられる。


2014年12月06日(土)

「・・みわざを忘れ、そのさとしを待ち望まなかった。彼らは、荒野 で激しい欲望にかられ・・そこで、主は彼らにその願うところを与え、 また彼らに病を送ってやせ衰えさせた」詩編106:14



イスラエルの民は、激しい自分中心の欲望にかられて、わがままに、
自分勝手に主に願い求めた。しかし、主は彼らに、彼らの願った通
りのものを与えられた。だが、彼らは、決して満たされることはな
かった。願ったものは得たが、心はやせ衰えて行った。

主は、民がどうしても欲しい、何があっても欲しいというものを与
えられた。しかし、その結果は、欲しいものを得て、心は満足する
はずなのに、そうではなく、平安無く、喜び無く、ますます虚しく
なって行った。私たちも、これが絶対に欲しい、これを持つと絶対
に自分は幸せになる、満ち足りると思い、どうしても手に入れたい
と願う。

しかし、自分が幸せになると信じている、そのものが、真に自分を
幸せにするのではない事に気づく。自分はこれが絶対だと思うもの
が、自分にとって真に良いものだとは限らないからだ。私の最善は、
主がご存じだ。「彼らはすぐに、みわざを忘れ、そのさとしを待ち
望まなかった」。

さとしを待ち望まなかったと。自分が思うものは、真に自分のため
になるとは限らないので、主のさとしを求めるのが一番良い。日々、
主のさとしを待ち望み、御霊が教えて下さることに、語られる御言
葉に耳を傾けて行く。そこに真の心の満足と平安がある。そして、
自分が一番願っていたものは、欲しかったものは、主との親しい交
わりであったと気づく。

・・・・・・・・・・
主の計らい、お心を無視して、自分の欲望をガンガン求めても、主
とひとつでないので、真の満足が無い。主の御心を求め、御心に従
う時に、主とひとつなので、平安が心のすみずみに広がる。主の計
らい、勧めを求め、待ち望むことが祝福だ。


2014年12月05日(金)

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」ヨハネ20:27




弟子たちが隠れていた家に、よみがえりの主が、ご自身を現わされ
た。「平安があなたがたにあるように」と。「弟子たちは、主を見
て喜んだ」。どんなに興奮し、嬉しかった事だろう。平安と喜びに
満ち溢れた。しかし、トマスだけが、その場にいなかった。

自分だけがなぜ?自分のいない時に?自分が不在だったわけだが、
不満な思いだったかも知れない。「私たちは主を見た」と喜ぶ弟子
たちに「その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、ま
た私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じない」と
言った。

そして、八日後、トマスが一緒にいる、弟子たちの部屋に、再びご
自身を現された。そのトマスに「あなたの指をここにつけて、わた
しの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」
と、トマスが言ったそのままを言われた。「決して信じない」に
「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

トマスの心の内の思いを何もかもわかり、受け止められている、そ
の主の愛に触れた。自分で見なければ、決して信じないと言った、
そんな自分に、個人的に向き合って下さった主に、まるでトマスの
ために、現れて下さった状況に、彼は、指を釘後やわきに差し入れ
ずに、「私の」主、「私の」神と、最高の信仰告白をした。
---------------
私たちも不信仰の目で目の前のことだけを見てしまう。主の恵みや
祝福がすでに備えられているのにどれだけ気づけているだろう。
日々、主と交わり祈り、私の主よ!と礼拝を献げていきたい。


2014年12月04日(木)

「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい」ルカ1:31



マリヤに、突如、御使いガブリエルが現れ「おめでとう、恵まれた
方・・」と語りかけた。突然の事に、マリヤがひどく戸惑っている
と、「あなたはみごもって、男の子を産みます」との言葉。驚いて
「どうしてそのような事が」に「聖霊があなたの上に臨み、いと高
き方の力があなたをおおう」と。

「聖霊によって」と答えられた。そして「神にとって不可能なこと
は一つもない」と。マリヤが選んだ事ではなく、主がマリヤを一方
的に選ばれた。そして用いようと計画された。主の主権によること
だ。マリヤは、その時には、はっきりと明確な意味はわからなかっ
ただろう。

クリスチャンを迫害し、次々と死に至らしめていたパウロが、突然、
天からの光で地に倒され主の御声を聞いた。その時も、よくはわか
らなかっただろう。しかし、異邦人伝道のための器として、主の偉
大な計画が備えられていた。

マリヤは、先の先までわかったわけではないが、「私は主のはした
めです。おことばどおりこの身になりますように」と、自分を用い
ようとされているのであればと、身を委ねた。ヨセフはどう思うだ
ろう、この結婚はどうなるのだろう、自らの幸せは?世間体は?何
もかもを主に任せた。

そのマリヤは、主の栄光のために用いられた。「どうしてそのよう
な事が」と足踏みしているだろうか。「神に不可能は無い」との言
葉を信じて御心に一歩踏み出そう。
-------------
主の十字架による救いも、初めて聞いたときは「どうしてそのよう
な事が」の驚きだった。栄光が現れることは感謝でも、自分は関係
ないと諦めていることはないだろうか。主を信じ、疑わずつぶやか
ず従って行こう。


2014年12月03日(水)

「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」エペソ6:17



信仰生活で、サタンの誘惑が来る。「悪魔の策略」と言われている。
剣は神のことばだ。主の言葉を握り、御言葉に立つ時に、誘惑に抵
抗して行ける。主は、荒野でサタンの誘惑に会った時に「・・と書
いてある」とだけ言われた。主が御言葉により対抗された時に、サ
タンは退かねばならなかった。

ダビデは、ダビデを妬んだサウル王に、ずっと命を狙われた。何も
悪い事をしていないのに、荒野に逃げ隠れ、いつ殺されるかわから
ない恐怖とおののきの中、生死をさまよった。そんな折り、サウル
を討つ千載一遇の機会が訪れた。部下は、今こそ報復のチャンス、
サウルを殺させてくれるよう願った。今が、神の与えた時と。

しかしダビデは自分の損得、自分の都合ではなく、主の御心を第一
にした。「主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にできない」と。
主が報復される。主が打たれるから、殺してはならないと。そして、
ダビデは罪を犯す事から守られた。今、目の前で、自分を執拗に殺
そうとする相手を、討つ事が可能とは、どんなに誘惑だったろう。

しかし、サタンの誘惑に乗らなかった。その秘訣は、御言葉に従う
ことだ。「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心
にたくわえました」。御言葉を、頭の知識でなく、心深くに蓄える
ことが大切だ。御霊に拠り頼み、御言葉を信じて行く時、誘惑に勝
てる。誘惑に対抗するには、「御言葉」が鍵だ。そして従って行く
ことだ。
---------------
サタンへの唯一の攻撃は御言葉だ。執拗に策略を持ってくる相手に
対抗できる御言葉をいつも準備しておこう。いつもどの部分にサタ
ンは来ているだろうか。


2014年12月02日(火)

「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」詩篇36:9



青い色のメガネをかけるなら、景色が青い色に見える。赤い色のメ
ガネなら、赤い色に見える。メガネとは、自分の思い、偏見や思い
込み、独断の色メガネだ。その色メガネで物事を見るなら、その色
にしか見えないように、自分の偏見でしか見えない。

正しく、あるがまま、事実を事実として見ることが出来ない。では、
ありのままの景色をそのまま見るためにはどうすればよいか。色メ
ガネをはずせばよい。景色の問題でなく、自らの偏った、間違った
見方の問題だ。

ある人が、対人関係で問題が起きたが、どうしても、相手が悪いと
しか思えなかった。自分は被害者であって、何も悪くない。自分は
悪くないはずなのに、しかし、心に喜びと平安が全く無い。心は辛
くて、重苦しく、暗く沈んだままだ。余りにも心が苦しいので、主
の御前に出て、あれやこれやと心の内を、あるがまま打ち明けなが
ら祈っていた。

その時御霊は示された。自分は被害者だと思い、自分は正しいと思
っているので、全く気づかなかったが、相手を激しく憎み、敵対心
を抱き、裁いている。そこに愛のかけらも無かった。憎しみ、裁き、
高慢、これは紛れもなく自分の「罪」であり、主に対して罪を犯し
ているので、心に平安が無いことを。相手は関係無く、自分は自分
の罪として、御前に悔い改めた。

その時平安が戻り、心が安堵で満たされた。この平安こそは何もの
にも代えられないものだった。被害者だと思う裏に、憎しみや妬み、
高慢が潜んでいて気づかない。御霊は、私たちを照らし気づきを与
え、正しく御心の道へと導いて下さる。
---------
偏見、思い込みから離れ、神さまが見ておられるように見て行ける
なら多くの問題から解放される。自分は罪のない被害者かもしれな
いが、上からの光によってもう一面の自分を示していただきたい。


2014年12月01日(月)

「すると、イエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい』」マタイ14:18



主の話を聞きに来た人々が、男だけで五千人、女、子供を入れると
更に倍以上になる。時刻も、もう回って来た。その人々に対してど
うすれば良いのか。弟子たちの考えは「群衆を解散させ、めいめい
で食物を買うように」だった。これはこの状況で、妥当な考えであ
り、良いプランであり、常識にかなった案だ。

しかし、主のお心は違った。「あなたがたで食べ物を上げなさい」
と。「え?」と弟子たちは思ったことだろう。こんなに大勢の人々
にどうやって?店など無いし、あってもこんなに大勢の分など不可
能だと。そして手元にあったものは、五つのパンと二匹の魚のみで
あった。「これよりほかありません」。

私たちも目の前の状況と自分だけを見て、判断してしまうだろうか。
この大きな問題に自分の能力では無理、山ほどの必要に自分に何が
出来よう、自分の力など、自分の持ち物など焼け石に水だ。何にも
ならない。気が遠くなるほど膨大な事態を前に、手持ちは余りにも
僅かだ。

しかし、主がおられる事が抜け落ち、飛んでしまっている。主に不
可能は一つも無い。「それを、ここに持って来なさい」その僅かな
ものを、主のもとに渡すようにと。ここが秘訣だ。自分自身を明け
渡そう。こんな僅かなものが何になろう、と思っているだろうか。
主は、献げられたものを受け取り、いかに祝福されるかは、驚くば
かりだ。
---------------
不可能か可能かを決断するとき、それは祈りなき判断、主なき心配
や配慮ではないだろうか。主はそこでしようとされることがあるか
もしれない。主の邪魔をしていないだろうか、祈り主に尋ねてみよ
う。