2002年04月30日(火)

「主イエス・キリストによって命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」(Uテサロニケ3:12)


 人は一生に間にアルバイトやパートを
含めると様々な仕事をするだろう。
ある学生は三十近くの仕事をした。
ゴミ収集、宅配、販売店員、皿洗い・・。
仕事は生活のために必要だ。仮に楽しく
なくても仕事があるのは良い事だ。
ただ給料のためだけでなく、主の賞賛の
ために働くなら、大きな価値と喜びがあ
るだろう。ある人が言った。希望のない
働きは、蜜をふるいにかけるようなもの。
私達の仕事に価値を有するためには、希
望が無ければならない。
その希望はどこで見つけられるのか。
聖書によると、「主に対してするように」
働くべきだ。主が報いて下さるからだ。
たゆむ事なく熱心に仕事をするべきだ。
主のために働き人に対して証となるように
せよ。そうするならどんな仕事でも、あな
たの働きには真の希望が与えられるだろう。
主のためになされる働きは永遠につながる。


2002年04月29日(月)

「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マルコ7:23)


 ある宣教師がこう言った「人生の中で多く
の困難に会うだろう。でもその時、あなたの
内にあるものだけが外にこぼれでるのだ」
私達は批判されたり、悪口を言われたり、敵
対されたりした時にどう感じるだろうか。
柔和で親切で答えるだろうか。それとも怒っ
て復習するだろうか。人生の突然の試練、
困難に出くわした時あなたの反応によって、
どれくらい恵みにおいて成長しているかがわ
かる。聖霊の導きと支配の中で生きているな
ら、そのように反応して行く。
あなたの反応はどのようなものであろうか。
怒りや苛立ちを押さえつけて反応しないふり
をするのは可能だ。しかし、聖霊に導かれて
歩み、聖霊に従い続けているなら、突然の試
練にぶつかっても、愛と忍耐と親切で応じら
れるだろう。困難に会う時、あなたのそのま
まの人格が現われる。内にあるもが外にこぼ
れ出るのだ。


2002年04月27日(土)

「罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1:15)

ある一家がペットになんと蛇を飼って
いた。飼い始めた時は30センチほど
だったのが、どんどん大きくなり3メー
トルにまでなったのだ。この大蛇は、
ある日、家の少年に飛びかかり、絞め
殺してしまった。警察が駆けつけた
時は、非常に攻撃的だったそうだ。
罪はまさしくこのようだ。最初、生活
に入って来る時は、無害に見え、愛
着さえ感じる。しかし、罪はいつまで
もそのままでは無い。成長するのだ。
簡単に罪など支配できると思って
いるが、その罪が私達を支配して
しまうのだ。そして、着実に確実に
死へと導く。罪が告白されず、赦さ
れないなら、霊的死へと行きつく。
だから、警告しているのだ。あな
たは生活の中で、ペットと戯れて
いないか。無害だと欺かれてい
ないか。すぐに罪から離れよ。
生死にかかわる問題だ。罪を
見逃しておくと、すぐに深刻な
問題となる。あなたが滅ぼされ
る事になる。罪と戯れてはな
らない。大火傷を負う。


2002年04月26日(金)

「イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し・・」(マタイ27:3)


 ユダの裏切りは、ひどい罪だと私達は非難
し糾弾するものだ。しかし、私達も実生活の
中で、イエスを裏切っている。
私達とユダの違いは、罪を犯してしまった後
の反応だ。ユダは恐るべき失敗、過失、罪を
自分で何とかしようとした。
ユダはここでまた、罪に罪を重ねた。
イエスの元へ行き悔い改めて赦してもらう事
が出来た。イエスに頼る事が出来た。
しかし、ユダはそれを拒み、拒否し、自分で
自分の罪を背負い自殺した。
これが更に大きな罪だ。私達は失敗した時、
ユダの轍を踏んではならない。
自分の力で何とかしようとするなら必ず失敗
し、絶望する。そうではなく、赦そうと待ち
構えていて下さる主の元へすぐに行くのだ。
主に頼るのだ。そのために主は十字架で血を
流し命を捨てて下さった。
どんな罪を犯してしまったとしても、すぐに
行くのは主のもとだ。
ユダになってはいけない。


2002年04月25日(木)

「何も思い煩わないで…願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人の考えにまさる神の平安があなたがたの心と思いを・・守ってくれます」(ピリピ4:6)


 あるクリスチャン母娘が観光旅行して
いた時の事だ。雨で増水した川のほとり
を気持ちよく散策していた。
すると、割合急な流れの川の真中に岩が
あり、その岩に一羽の小鳥がたたずんで
いた。周囲の渦巻く流れには気にもとめて
ないかのように。
「まあ、主が私達に与えてくださっている
平安の絵だわ」私達は生活が順調な時は平
安で当たり前だ。しかし、周囲の状況が混
乱し波逆巻き暴風雨の時に平安でおれるの
だ。これこそ真の主の与えて下さる平安だ。
イエス・キリストという岩の上にしっかりと
立ち、思い煩い不安を主に委ね明け渡し、
主に信頼して行く時、この平安が心に来る。
主にしっかり心を向け定めているなら、
嵐の中で全き平安を与えられる。


2002年04月24日(水)

「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」(Tヨハネ5:15)


 ある子供クリスマス会の事だった。
沢山集まった子供達におやつのプレゼント
を用意していた。それを子供達に並んでも
らって配った時の事だ。もう後ろの方の子
供達が待てないのだ。
必ず順番にもらえるのだ。必ず自分の番が
回ってくるのだ。しかし、もう待てなくて
大変だった。この性急さは私達の祈りに似
ていないか。忍耐して祈るのが難しい。
すぐ答えが来て欲しい。
遠隔地に住む祖母が孫の誕生日に孫の大の
お気に入りの人形を贈ると約束した。
孫は胸膨らませて待った。ところがその日
に届かなかった。約束を忘れたのではと泣
き出した。いいえきっと送れているのよ、
待ちましょうと母親が慰めていた。
すると三日後に届いた。大きな店がなくて
その目当ての人形はなく発注して送っても
らったのだと。答えが来る途中だったのだ
子供達にもおやつは確実に一人一人に行き
渡る。忍耐と確信を持って答えを待つべき
だ。


2002年04月23日(火)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある・・」(伝道3:1)



 友人に長い間待ち望んだ待望の念願の
赤ちゃんが生まれお祝いに行った。
その喜び様は大変なものであった。
共に祝福にあずかれ喜びであった。
その数日後別の婦人が闘病の末、天に召
された。婦人が天のみ国にいる事の大き
な慰めを涙ながらに語ってくれた。
この続けて起きた出来事は人生の喜びと
悲しみ、生まれる事死ぬ事を考えさせて
くれた。人生は喜びと悲しみで成り立っ
ている。今日喜んでいてもまた悲しみも
訪れる。今日悲しんでいてもまた、笑い
の時、喜びの時が必ず訪れる。
私達の命さえ、御手の中であり、定まっ
た時まで生かされる。
一番重要な事は肝心な事は、喜びの時に
も悲しみの時も、その中心に神がおられ
るという事だ。この神が私達の最大の慰
めなのだ。状況は刻々変わる。
しかし、どんな時にも神は変わる事無く
愛し、共にいて下さる。
これこそが最大の慰めだ。


2002年04月22日(月)

「わしが巣のひなを呼びさまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行く」(申命32:11)


 親鷲がひなに飛ばせる訓練をするために、
ひなが安住している巣をつつき、ひなを呼
び出し、落ち行くひなを地上落下寸前に翼
に載せて拾う。これを繰り返すうちに、
ひなは飛ぶ事を習得する。
これはよく知られているところだ。
ある時、庭に来た親子の鳥を見ていた。
親鳥は餌をついばみ食べていた。横にいた
ひな鳥は口をあけて親鳥がくれるのを待っ
ていた。ところが親鳥は自分が食べ終わる
と、飛んで行ってしまった。
ひな鳥はどうするかと思うと、仕方なく自
分でついばんで食べ始めたのだ。
私達はひな鳥のようだろうか。教会へ行き
口をあけてただ一方的に与えられるのを待
っているか。ある人は人生の大危機が訪れ
るまでそうだった。口を開いて待っていた
危機の中で初めて自分で神を求め、み言葉
を与えられ従う事を学んだ。
あなたはどうか。鷲の様に翼をかって上っ
ているか。


2002年04月21日(日)

「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)

私達の身体には多くのバクテリア
を抱えている事はよく知られてい
るところだ。健康に脅威となるよ
うに思えるが、実は良いバクテリ
アは病原菌をもたらす悪いバクテ
リアを退治するのを助けるそうだ。
これはクリスチャン生活の試練に
よく似ている。試練は絶対に誰も
好まないが、しかし、困難な状況
を通る事は良いことなのだ。この
世は罪にまみれている。この世
のまっただ中にあって愛を示し、
忍耐、柔和を現わすよう、神は
望んでおられる。悩み苦難に
会う事によって高慢、プライド
虚栄心、自己中心の罪を回避
できるのだ。すべてが順調だと
すぐにこの厄介な罪に陥って
しまうのが私達の常だからだ。
実はその方が大問題なのだ。
試練は高慢やプライドを打ち
砕き、神に頼らせる。忍耐が
養われる。それは私達に真の
助けとなる。試練がある方が
より健康でいられるのだ。神
は私達をより良くするために
試練を送り込まれるのだ。


2002年04月20日(土)

「なぜ、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか」(イザヤ55:2)

私達は小さい頃、「おまけ」が欲しく
て、おまけ付き菓子や物品を買った
経験がないか。本体は要らなくて、
おまけに心惹かれた経験だ。ある
ハンバーガー店でキャラクターの
おまけがあり、ある父親は小さな
娘のために、食べるためでなく、
何軒も回った。これは、私達の霊
的な状態についても言える。私達
は必要な物でなく、自分の欲望の
求めるままに簡単に目移りする。
快楽を求めて走り回る。食糧にも
ならない物のために金を払い、
腹を満たさない物のために労する。
行きつく先は、死であり、虚無だ。
主は言われる「わたしに聞き従い
良い物を食べよ」神が下さるのは
常に永遠につながる価値ある良い
物だ。あなたは益にならない虚し
い物、ちゃちな「おまけ」を求め
てさまよっていないか。主に立ち
返り、主に聞け。


2002年04月19日(金)

「不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい」(コロサイ3:5)


 素晴らしい有能な野球監督が年齢を重ね
現役を退いた。彼の言葉は「私が去るのは
良い事だ。チームが若返りどんどん新しく
成長して行くだろう」だった。
これは原則だ。大規模な田畑を作り、作物
を収穫するためには、土地確保のため木々
は伐採され死ななければならない。
イエスを信じる者が霊的成長するためには、
古い習慣や欲望、価値観、発想に死ななけ
ればならない。不品行、汚れ、情欲、悪い
欲、貪りなどを殺してしまう時、聖霊によ
って聖さ、喜び、満足、平安を生活の中に
新しく生まれさせられる。
あなたの生活の中では、どの悪が霊的成長
を妨げているか。聖霊に酔う打て殺して頂
くべき行為や態度はどれだろうか。
新しい霊の実が結ばれるために、あなたの
中にある悪の雑草を根元から掘り起こし、
捨て去れ。


2002年04月18日(木)

「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(Tコリント10:11)



 聖書はユニークで真実な書だ。ふつう、
都合の悪い失敗談等記さないではぶくものだ。
しかし、神の書には登場人物の犯す過ちを事
細かに記されている。アダムとエバは神の戒
めを破った。アブラハムは妻サラとの関係に
ついて嘘をついた。モーセは苛立ちと怒りで
岩を打った。
そのゆえカナンには入れなかった。
ダビデは姦淫と殺人の罪を犯した。
ソロモンは神にそむいた。ペテロはイエスを
裏切った。聖書は正直に記している。
私達はこれらの過ちからよく学ばなければな
らない。沢山の罪深い行為を記しているのは
私達への戒めのためだ。
一つ一つ真に教訓とする必要がある。
同じ過ちを繰り返さないように祈る必要があ
る。どのように罪を避けるかの教えに満ちて
いる聖書から、しっかり学ぼう。
その教訓から学ぶなら、勝利できるのだから。


2002年04月17日(水)

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、もっと実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨハネ15:2)

ある牧師は小さい時にケガをする
度に、母親が「痛いのは良い事、
痛いのは良い事」と言ったのを覚
えている。痛い事は回復の第一歩
だからだ。やがて、彼が牧師にな
り、罪のメッセージが厳し過ぎる
と言われた時、彼は「痛いのは良
い事、痛いのは良い事」と言った。
霊的な癒しのためには罪の自覚が
必要なのだ。痛い事は、御言葉
に従わない事に対する神からの
懲らしめかも知れない。しかし、
痛い思いをする時、神の目的を
誤解してしまう。そうではなく、
自分の生活に不従順は無いか、
又、別の理由をよく考えてみる
べきだ。痛みは、私達の生活が
もっと実を結ぶための刈り込み
かも知れない。主はもっと実を
結ぶ事を臨んでおられる。それ
が神の栄光を現わすことになる
のだから。もし今あなたが痛い
所を通っているなら、悲しみ、
苦しみ、試みの中で多くの学び
を得て、実りの多い者にしたい
と神は願っておられる。


2002年04月16日(火)

「だれでも渇いているならわたしのもとへ来て飲みなさい。わたしを信じる者は・・その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37)

 ある時、一週間旅行に出て家を離れた。
帰宅すると鉢植えの植物が、もうしなえ
てしまっていた。もうだめかと思い、
処分する事を考えたが、たっぷりの水を
やってみた。すると驚くべき事に、しな
えた葉がピンとはりが出て生まれ変わっ
たように生き生きとしているではないか。
水の力で、また生き帰ったようだった。
霊的な人生について考えさせられた。
世にまみれ神を遠のいた事が幾度あった
事だろう。自分中心の道を歩み、自分の
思い通りに生きたくて神を悲しませた事
が何度あった事か。しかし、植物が息を
吹き返したように、神から離れた歩みの
虚しさに、神に渇き、神に帰する時、
息を吹きかえすように新しくされた。
再び生き生きとした喜びと平安に満た
された。どのようにしぼんだ魂も再び
神により新たにされる。


2002年04月15日(月)

「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)


 あなたは突然助けを求められた事があるか。
知り合いから、また、見知らぬ人から。
隣人から家族が病気になり送迎を頼まれたり
、小さな子供の面倒を見る事を頼まれたり。
ある田舎に住む人は夜中に突然ガソリンが無
くなったと助けを求められた。
夜中に対応するのは面倒であった。
もう疲れて身体も動かしたくなかった。
しかし、神が助けを必要とする人に答えるべ
きだと言っておられることを感じ、疲れた身
体を起こして助けを与えた。私達は助ける事
を選べるし、無視する事も選べる。
どちらでも選べる。しかし、助けを必要とす
る人に親切を提供するのは、イエスご自身に
使えているのだ。主に献身して行く事は自分
の都合によらない。主の招きにいつも従える
ようでありたい。


2002年04月14日(日)

「主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)

ある一人の猛烈社員の男性だ。
仕事が生きがいとばかり猛烈に
働いていた。一生懸命仕事をし
ていた。そして、小さい頃から、
努力は報われる、人間は努力
しなければならないと、教え込ま
れていた。気持ちに余裕もなく、
疲労困ぱいしていた。神は安ら
ぎが必要だと教えて下さった。
もし、私達が懸命に頑張って
いても、もしみこころに適って
いないなら、その頑張りは無駄
なのだ。彼は仕事よりまず神と
家族を優先させなければなら
ない事に気づかせられた。
結婚生活にほころびが出ていて、
彼は日毎夜毎に祈り始めたの
だった。妻と子供達が神からの
尊い贈り物である事を教えられ
神を第一にし、秩序を正して行
った時、家族の傷ついた心は
癒された。神が家庭を建て上げ
て下さると信じれた。生活の中
に、安らぎと憩いが与えられた。
神を第一にして行く時、正しい
優先順位に導かれる。


2002年04月13日(土)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(Uコリント12:9)

一人の視力が不自由な男性の証し
だ。生まれつきの視力障害で、パ
ウロと同じように、この視力障害
を取り除いて下さるように願った。
しかし、いつの時にも「わたしの
恵みはあなたに十分である」が主
の答えであった。そして、実に主
の恵みは彼の人生で十分以上であ
る事を体験したのだ。神は神の働
きのために召して下さり神学校へ
行こうとしているところだ。何度
も知り合い一人いない先にあちこ
ち旅行したし、学生時代は夏休み
に宣教師のヘルパーとして宣教奉
仕をしたし、翌年の夏は一人で宣
教の働きに携わった。どの時も様
々な困難はあったが、それを切り
抜けるのに十分な恵みを体験した。
常に神は新しいチャンスの扉を次
々と、開いて下さった。これから
も主の恵みが十分であることを心
底信じれるのだ。あなたには弱さ
があるか。今、悩みや困難や戦い
があるか。どんな時にも主の十分
な恵みによって支えられているの
だ。


2002年04月12日(金)

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:38)


 これはどういう意味なのだろうか。
よく誤解されて使われる。ロシア作家
トルストイもまた、誤解していた。
彼は盗まれてもどんなに傷つけられて
も無抵抗であるべきだと言った。
彼の考えによれば、悪者はすぐに恥じ
て、悔い、自分の道を正しくするだろ
うと言うのだ。しかし、彼の理解は誤
っている。社会はそのようには動いて
いない。警察による抑制力が無ければ
、悪人はのさばり、完全に善良な市民
を圧倒してしまうだろう。それでは、
イエスが言われたのはどういう意味だ
ったのか。それは、私達に自分の思い
に支配されてはならない。
自我の思うままに駆られてはならない
、主の原則、与え、赦すという原則に
従うべきことを言われている。
私達のうちにおられる御霊の力によっ
て正しく反応し行動する事が出来る。
すぐに相手を攻撃し打ち負かしたい
自我の命ずるままに従ってはならな
いのだ。


2002年04月11日(木)

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでした」(ヘブル11:13)


 神は祈りに答えてくださる。時には
「イエス」であり時には「ノー」だ。
しかし「ノー」も祈りの答えなのだ。
ある夫婦は日々赤ん坊を授けて下さる
よう祈っていた。ある時は絶対に与え
られると確信し、ある時は絶望に襲わ
れ、挫折を感じながらも祈り続けた。
その夫婦には子供が授けられた。
同じ状況にある友人がいた。
彼らも祈り続けた。しかし、彼らには
与えられなかった。どちらも信仰によ
って祈ったが片方は与えられ片方は与
えられなかった。サラもその歳を過ぎ
た身であるのに与えられた。
しかし、パウロが肉体のとげを取り去
られるよう祈った祈りは聞かれなかっ
た。キリストはご自身もみこころなら
十字架を取り除いて下さるよう祈られ
たが十字架はみこころであり従われた。
私達の願いはあるが、それを神のみこ
ころに明け渡して行く事だ。
私の願いでなくみこころの通りにして
下さるようにと。


2002年04月10日(水)

「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます」(マタイ6:14)

人は時には、どうしても赦せない
ような深い痛々しい傷があるもの
だ。第二次世界大戦中、コーリー
テンブームと姉のべツイはユダヤ
人をかくまった罪で、ドイツの強
制収容所へ送られた。ベツイは残
忍な扱いを受け、死に至った。コ
ーリーは書類上のミスで解放され
た。その後、ドイツの教会で証し
をした時、一人の男が彼女に近づ
いて来た。それはべツイを虐待し
た一人だった。彼は自分はクリス
チャンになり赦して欲しいと手を
差し出した。コーリーは非常な戦
いが心に来たが「主よ!助けて下
さい」と祈り、姉を殺した敵に自
分の手を差し延べた。その時に、
彼女は天国が地に降りて来たよう
な平安に満たされたと証しする。
赦しとは、過去を綺麗に拭い去っ
てくれる神聖な記憶喪失ではない。
むしろ、心の傷から毒を洗い流し
て傷を癒すという体験である。
神は私達の赦す力、神の力を下
さるのだ。


2002年04月09日(火)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5)


 人はよくずっと先がどうなっているかを
知りたがるものだ。受験生は苦しい受験勉
強の中で、翌年はどうなっているかを知り
たい。青年達はどんな結婚をしどのような
家庭を築いているか将来を知りたいと思う
しかし、神は伏せておられる。遥か先のこ
とは教えて下さらない。ある説教者がその
説教の中で話した。私達にとって重要な事
は、まず主を信頼する事だ。
そうすれば神は必ず次の進むべき一歩を示
して下さる。それは一歩であって、遥か先
ではない。
神の導きは足元を照らすちょうちんであっ
て、サーチライトではない。
示された一歩を進むなら、また、次の二歩
目が示される。神はそのように、あなたの
人生、一歩一歩と確実に手を取って導かれ
る。主に信頼せよ。決して主に間違いは無
いのだから。


2002年04月08日(月)

「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ」(エレミヤ31:25)


 ある牧師は過労で疲れ切っていた。ずっと
体調が悪く、時には激しい頭痛がおそい時には
めまいで倒れそうだった。教会の新しい宣教プ
グラムが組まれ、その大きな責任で押しつぶさ
れそうだった。どのように進めるかも考えなけ
ればならなかった。彼は限界を感じ数日間の休
養を決めた。一人の教会員が山の別荘を提供し
てくれた。素晴らしい自然の中で、その静けさ
の中で心行くまでくつろげた。
夜空の星の美しさ、自然の中で神に包み込まれ
ている自分を感じた。心が解き放たれて行くよ
うだった。ストレスが消え癒された。
義務感でなく、神に仕える事の出来る喜びと感
謝が心に広がって行った。
「空の鳥を見よ。神は養ってくださる」創造主
である神を見上げ、その愛と哀れみが尽きない
事、慈しんでいて下さる事が心に迫り新しくさ
れたのだった。神は疲れたあなたのたましいを
再び生かして下さる。





 


2002年04月07日(日)

「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1)

ダビデは神のみこころにかな
い、みこころに従った人物とし
て知られている。神はダビデ
を愛された。しかし、息子が
ダビデに反逆した時、ダビデ
は余りの苦悩に、神に見捨
てられたと感じた。主イエス
も、あの十字架上で「わが神
わが神、どうしても私をお見
捨てになったのですか」と
訴えられた。私達も深い
苦悩に会う時、神に信頼を
持って訴える事ができる。
ある神学生は将来、宣教
師になるため神学校へ
入学した。ところが、中途
で授業料が払えなくなった。
神に祈りに祈った。しかし、
期日が来たが与えられな
かった。自分のすべてを
捨てて、親も捨てて来た
のに、神よ、なぜですか。
学業を断念し、もう帰ろ
うと荷物をまとめた。
最後に郵便物が来てい
たが、見る気力も残って
いなかった。ではと、見
送りに来た友人がその
郵便物を開いた。すると、
授業料にとの献金だった
のだ。神は決して見捨て
られない。


2002年04月06日(土)

「私はあなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私は目を留めます」(詩篇119:15)

ある高齢者が脳に刺激を与え、
老化防止のためクロスワード
パズルを日々していた。パズル
の隠された答えを見つけよう
と必死で言葉を捜す。難しい
ものは置いておき、簡単なも
のから答えを埋める。すると
そこから突然難しいものの答
えがひらめいたりする。又、
じっくり考えていると解けた
りする。様々な角度から考え
て答えを見つけ出すのだ。霊
の事柄も同様だ。聖書を読む
時によく意味を汲み取ろうと
する。神様のお心を理解しよ
うと心して御言葉に向かう。
はっきりわかる事もあるが、
よくわからず、祈りながら
神様に解き明かしを願いな
がら読むこともあるだろう。
聖霊様が目を開いて下さり
突然御言葉が臨んでくるよ
うにわかることがある。心
をよく整えて、祈って聖霊
の助けを仰ぎつつ御言葉に
向かうなら、聖書は素晴ら
しい宝庫だ。成熟したクリ
スチャンになる事を助けて
くれる。


2002年04月05日(金)

「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)

多くのクリスチャンは、自分は
神のみこころに自分自身を明け
渡していると思い込みながら、
一生涯通じて、環境に不平不満
つぶやきをもらし嘆き続けてい
る。ある人が言った。「私は避
けられない事を受け入れること
を学んだ」。誰でも人生におい
てどうしても避けられない問題
がある。しかし、神の御手が支
配しており、神が起こる事を許
された問題だ。その問題を通し
て神はみわざを現わされる。問
題は、神が許された事を私達が
許しているかどうかだ。私達は
いつも祈る。「神よ。この問題
から私達を救い出して下さい」
しかし、神は言われる「この
問題の中にわたしを入れて
欲しいのだ。あなたの環境
ではなく、あなた自身を変
えさせて欲しい」神があな
たに送られるものを、良い
ものも悪いものも受け入れ
る事ができるよう祈れ。
あなたは変えられる。神の
みこころに明け渡せ。


2002年04月04日(木)

『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか」』(ヨハネ5:6)



 ある野球選手は癌のため野球生命を断たれた。
ある男性は、飲酒運転の車で交通事故に会い、
障害治る事のない傷を受けた。しかし、彼らは
自分を無力な犠牲者とみなしたり、不運と諦め
たり、自己憐憫に陥ったりはしない。
それを拒否している。被害者意識で一杯の人は
多い。自分は不運な環境の犠牲者だと考える。
人生は不公平だとつぶやく。自分は不幸で憧れ
の人生を送る機会を奪われたと感じる。
38年間池のそばに伏せっていた男にイエスは
「よくなりたいか」と問いかけられた。
そして「起きて床を取り上げて歩きなさい」と
驚くべき圧倒的な力ある言葉をかけられた。
私達は罪の世におり不公平はある。
私達の力ではどうにも出来ない。
私達を無力にさせる状況にどうすればよいのか。
主は池におられたように私達と共におられる。
主の力ある言葉を聞け。そして従うのだ。


2002年04月03日(水)

「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく」(Tペテロ4:12)


 苦しみは誰にでも必ずやって来る。
病気やケガ、事故に会ったり、倒産
したり金銭トラブルに遭遇したり失
恋、失業、対人関係の悩み等、あげ
ればきりがない。また、信仰ゆえに、
嘲られたり反対されたり憎まれたり、
様々な試練に出会う。苦しみは私達
の本性を明らかにする。
試練に会う時、普段は隠されている、
その人の本当の姿が現れて出てくる。
ある人がこう言った。
「もし私が苦しみを回避する手段を
知っていても、それを教えないだろ
う。なぜなら、人のためにならない。
苦しみは苦しみを対処する力を創り
出す。苦しみを友とせよ。
多くの苦しみに出会うのだから、会
えば言葉を交わすくらいの仲になっ
ておいた方が良いのだ」
神は苦しみを使って、私達を試し強
くされる。神に頼る事を学ぶ。
苦しみに対処する最善の方法は
「・・創造者に自分のたましいをお
任せ」することだ。


2002年04月02日(火)

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6:21)


 金持ちの農夫の例え話がある。
豊作で有り余る作物を自分のために
すべて倉に蓄えた。
さあ、これで大丈夫だと安心した男
神は言われた。「愚かお者。おまえの
たましいは、今夜おまえから取り去ら
れる。そうしたら、おまえが用意した
ものは一体誰のものになるのか」溢れ
るばかりの富を貯えたが、肝心の自分
自身が今夜死ぬと。
この男の間違いは、富より遥かに重要
な自分の魂の行き先について考えなか
った事。そして、富を天に積むために
用いなかった事。多くの貧しい人々と
分かち合えたものを所有欲ゆえ、自己
中心ゆえ自分の一人占めにしてしまっ
た愚かさ。こういう生き方は、愚かだ
と神は言われる。賢い生き方とは天に
宝を積むこと。時間、労力、富、賜物
を天に送り続ける事。天で永遠の配当金
が支払われる。今の時、賢い投資ができ
る。私達の人生を、永遠に向けて投資す
るのだ。


2002年04月01日(月)

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています」(ルカ10:41)

 イエスを深く愛した人々のイエスへの二つの
問いかけがある。ガリラヤ湖で激しい嵐に会い、
舟が沈みそうになった時、弟子達が言った。
「先生。私たちが溺れて死にそうでも、何とも
思われないのですか」もう一つは、マリヤが座っ
てイエスの話に聞き入っていた時、腹を立てて
イライラしたマルタが台所から出てきて言った。
「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているの
を、何ともお思いにならないのでしょうか」
どちらも今までのイエスの力を見ているので、
介入して事態を変えて欲しかった。
主が彼らの状況を無視しておられるように見え、
イラ立ち「何とも思われないのですか」になった。
主は優しく答えられた。「どうしてそんなに恐が
るのです」黙れ、静まれと嵐を静められた。
「マルタ」と呼ばれ優しく諭された。
私達は、はしばしば状況に圧倒されてしまい、
何がなんだかわからなくなる。
しかし、イエス様は深く気遣っておられる。