2015年01月31日(土)

「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものである ようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわか ります」コロサイ4:6               


「親切」という言葉が、別訳では「恵みに満ちた」となっている。
口から出る言葉が、愛から発しているように。そして「塩味のきい
た」とは、真理である御言葉が土台となった言葉だ。人は自分に都
合の良い言葉を聞きたい。

「自分に都合の良いことを言ってもらうために、気ままな願いをも
って・・真理から耳をそむけ」の通り、それは、肉には非常に心地良
い言葉だ。しかし、人の肉を喜ばせる言葉なら、塩味のない言葉に
なってしまう。それは、相手にへつらい、相手に都合の良い、真理
から離れた言葉になってしまう。

だが、塩味のきいた言葉は、真理に基づいた言葉だ。それは、時に
は厳しい言葉かも知れない。「あからさまに責めるのは、ひそかに
愛するのにまさる」しかし、それは真に相手のためである言葉だ。
そのためには御霊に導かれ、御霊の判断が必要だ。祈らなければ、
発することができない。

祈りながら、言葉をかける時に、御霊が教えて導いて下さる。又、
塩味のききすぎる言葉もある。全面的に正しいのだが、そこに愛が
無い。律法主義に陥ってしまう。正しいだけに、反論が出来ない。
正論は、相手を追い詰めてしまう。経験あるだろうか。言われてい
る事は正しいのだが、心がどうしても動かない。心が苦しくなって
固くなってしまう。
御霊によって、語るべき言葉を口に授けられるよう、祈って行こう。
御霊の言葉は人を励まし、慰め、建て上げる、

・・・・・・・・・・・
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守って下さ
い」。言葉は一度出てしまうと、取り戻せない。建て上げるのも、
壊すのも言葉だ。御霊に導かれた言葉を出すことができるよう、
心が御霊に支配されるよう、祈ろう。


2015年01月30日(金)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」詩篇84:5 



人生において、平穏無事がすべてなのではない。辛い事や苦しい事、
理解に苦しむ事が起こる。そこには「涙の谷」があり、悲しみにく
れることがある。未信者にもクリスチャンにも同じように起こる。
しかし、神を信じる人は、どんな悲惨な事、どんな悲しみと苦しみ
の中にも神を認めて行く。

そのまっただ中に神がおられ、そこでこそ、まことに生ける神の愛、
慈しみ、助けを実際に体験して行く。神を信じない人はどんな奇跡
的な素晴らしい事があっても、そこに神を認める事は決して無い。
信じる人はどんな出来事が起きても、そこに神を認めて行く。
どんな問題や悩みが来たとしても、神を信じているから、そこを泉
の湧く所として行く。

その問題の中に神を見、神に出会って行く。だからこそ涙の谷も、
神に出会い、神を深く知る機会となる。その泉は溢れ出て、周囲の
人も潤して行く。そして、「初めの雨もまたそこを祝福でおおい」
そこに祝福の雨を降らせて下さる。「彼らは力から力へと進み・・
神の御前に現れます」

そして、悲しみと苦しみに沈み込み、埋没してしまうのでなく、主
から上よりの力を受けて、必ず前進して行ける。その悲しみや苦し
みの中で、主が現れて下さって、親しくお会いすることができる。
涙の谷を通るが、そこには主がおられ、光があり希望がある。
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どんな中でも主がおられると知って生きることは、なんと幸いな生
涯だろう。起きる問題の一つ一つに主の助けや慰めを感受していけ
る。力から力へと進めることを信じていたい。


2015年01月29日(木)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34  




明日のこと、先のことが、不安でたまらない。不安は更に不安を呼
び、幾ら大丈夫だと思おうとしても、心配は泉のごとく湧き上がっ
て来る。あなたも経験があるだろうか。周囲から、大丈夫だから、
神がおられるからと、すべての必要は備えられると励まされても、
どうしてもだめなのだ。頭ではわかっているが、どうにもならない。

主はそれもご存じで、明日ではなく、この一日、「今日」を考えて
ごらんと言っておられる。「今日」に目を留めると、今、この瞬間、
何か不足があるか?常に、「今日」は必要が与えられている事に気
づかないだろうか。今日は飢えていない。今日は守られている。今
日は働くことができている。その「今日」の連続が一生だ。

「明日」が目の前に来た時には「今日」に姿が変わっている。果て
しない明日を心配し恐れるのでなく、今日、必要与えられ、満たさ
れている事に感謝してはどうだろう。ある人は突然事情によって、
1ヶ月間高齢の親を引き取り、介護の必要が生じた。自分も仕事を
持つ身で、絶対に不可能だと思えた。

しかし他に手段が無く、祈りに祈っていると、明日をいっさい考え
ず、今日一日だけ生きて行けばよいと示された。今日だけならやっ
て行ける。肩の荷が下りた。思ってもみなかったが、夫や子供達が
懸命に協力してくれ、そのようにして1ヶ月を無事乗り切ることが
できた。心から主に感謝した。
-------------
明日を考えて今日を不安に過ごすのは何と無意味なことだろう。主
が平安を与えるためにこの世に来てくださったのに、不信仰を気づ
かされる。明日を委ねて喜んで今日を過ごそう。


2015年01月28日(水)

「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです」マルコ14:8

                     
                    
「埋葬の用意にと」と主が言われたように、マリヤは、主がこれか
ら十字架にかかられる事を、ただ一人悟っていた。このエルサレム
入城が主の最後の旅であることを理解していた。主のために、自分
の出来る精一杯の事をしたいと思った。非常に高価な香油を惜しげ
もなく注ぎ出した。

「300デナリ以上に売れて」300万円の価値と思われる。弟子たちは
全く何もわかっておらず、「貧乏な人たちに施しができた」と、
「むだにした」と、マリヤを責めた。しかし主は「マリヤはわたし
の葬りの日のために、 それを取っておこうとしていたのです」と、
マリヤをかばわれた。「取っておいた」香油を今まで少しづつ蓄え
ていた。マリヤの主への愛だ。

献げ物は主への愛の表われだ。今、自分に出来る事をすれば良い。
自分になしうる感謝を精一杯に表わせばよい。私達はよく思う。も
っとお金があれば献げられるのに。お金が無くてと。今は忙しいか
ら、余裕が出来たら時間を献げよう。状況と環境が変われば、もっ
と主のために労力を献げられるのだが・・。しかし、そのようにな
ったとしても献げない。今、「自分にできることを」すればよい。

弟子たちさえ、主の十字架をわかっていたなかったのに、なぜマリ
ヤは悟れたのだろう。「主の足もとにすわって、みことばを聞き入
っていた」。じっと御言葉に耳を傾けていたからこそ、悟れた。そ
してそれは今から苦難に向かう主を、どんなにお慰めした事だろ
-------------
誰かが献げる大きなものでなく、小さくとも私が献げるものは必ず
ある。自分にできることは何だろう。前もって主のためにとは、い
つも主のために、の姿勢でなければできないことだ。


2015年01月27日(火)

「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20



弟息子は、父から財産をもらい、遠国へ行き、自分の思い通りに、
好きなように、生きたかった。誰にも邪魔されず、自分のしたい事
をする。それこそが自由であり、解放であり、喜びだと思っていた。
当初は、大勢の人々が群がって来て、人に囲まれ、快楽に酔った。

しかし彼らは、彼のお金や物目当てであった。だが湯水のごとく使
えばいつかは底をつく。とうとうその日がやって来た。遊興に使い
果たし、同時に飢饉がやって来た。金の切れ目が縁の切れ目とばか
り、人々は皆すぐに彼から去った。食べる事にもこと欠き、このま
までは餓死する。豚の番の仕事をし、その時、豚のえさを食べたい
と思うほど、飢えていた。

しかしそれすらもらえなかった。助けて気遣ってくれる人は誰もい
ない。そのどん底で我に返った。雇い人にまで、豊かにパンを与え
る父。とにかく帰ればパンにありつける。飢え死には免れる。そん
な動機で父のもとに帰る決心をする。父への応対のシュミレーショ
ンもする。しかし息子が家を出て以来、帰りを待ち続けていた父は、
父の方から走り寄り、息子を抱きしめた。

父の心を踏みにじり、自分勝手をし、ボロボロになって帰って来た
息子にかかわらず。その父の愛に触れた時に、初めて心底からの悔
い改めが起きた。真に父のもとに帰り、父の愛に憩い、父の愛を喜
び楽しむ者と変えられた。父の愛のもとで生きる者とされた。私た
ちがどうなろうと、主の愛は決して変わらない。
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何か益になるから人は近寄ってくるが、主は無益なままの子と呼ば
れる資格のない者を愛しつつ待っていてくださる。素直に帰れる御
父が、いつも傍におられるから悔い改めてまた進んでいける。


2015年01月26日(月)

「『子どもたちよ。食べる物がありませんね』彼らは答えた。『はい。ありません』・・舟の右側に網をおろしなさい」ヨハネ21:5 



愛する主を裏切ってしまったペテロの心は、どんなものだったろう。
暗たんたるもので、深い痛恨と虚無感の中にあったろう。暗く重い
心で、なすすべなく、かつて捨てた網を取り、漁に出た。が、かつ
てはベテラン漁師であったのに、魚は一匹もとれない。惨めで無力
でどん底だった。そんな時、主の方から語りかけが来た。

「食べる物がありませんね」ありのままの自分の状態を認めて告げ
た。「はい、ありません」これがいつも回復への秘訣だ。自分には
無い事を、自らのありのままの状態を、主の御前に正直に言い表し、
認める事だ。愛が無い、忍耐が無い、能力が無い・・。その時「右
側に網をおろしなさい」との指示が来た。

彼らにすれば、誰かは知らないが、その人の言う通りに従い、網を
下ろした。すると網が引き上げられないほどの大漁だった。主の語
られる御声に従う事が大切だ。無力で構わない。主の御声に一歩従
う時、神の力が臨み、みわざを見る。主の方からご自身を現わし、
挫折し、暗い、重苦しい心にあったペテロを回復させて下さった。

「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです」と、ペテロはいっ
さいを、何もかもを、今の自分自身をそのまま主に明け渡した。
主は、この砕かれたペテロを建て直し、建て上げ、聖霊に満たして、
宣教のために用いて行かれた。何があっても、どんな失敗があって
も、主の愛は変わらない。あわれみは尽きず、再び、立ち上がらせ
て下さる。
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「ありませんね」「はい、ありません」このような素直な応答がで
きる相手は、主以外にはいない。建前や強がりが何も出てこない中
で主にだけは、自分のありのままを認め、再生を祈ることができる。


2015年01月25日(日)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行 く所どこにおいても、主を認めよ」箴言3:5

あなたの行く所「どこにおいても」と言われていて、「ある所は」
ということではない。どこにおいても、「すべてにおいて」だ。私
たちは、大きな事、重大な事は主のもとに持って行き、祈り、主に
拠り頼むが、重大な事でないことは、祈るまでも無いと思っている。

何となく、自分ですればよい、自分でしようと思っていないだろう
か。一つ一つ、主のもとへ持って行こう。そして「心を尽くして主
に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」と言われている。物事がうま
く行かない時、よく振り返り、原因をたどってみると、自分の思い、
肉の判断で行動している事に気づく。

自分の悟りにたよっている。自分の思い、過去の経験、人からの情
報、自分の力で事を進めて行くのでなく、まず、主に呼ばわり、祈
ろう。何かが起きた時、又、行動しようとする時、判断が必要な時、
選択が必要な時、まず主を見上げ、祈ろう。それは訓練で、練習だ。

御霊に助けられ、少しづつ少しづつ身について行く。「どこにおい
ても、主を認めよ」、突然の出来事、不意の出来事、様々な事が起
きるが、どんな時にも、主が共にいて下さる。そこに主を認めて行
こう。「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」問題を
導いて下さり、心を平安にし、そして何よりもまっすぐ主に向いて
行けるようにされる。

・・・・・・・・・・・・・
目の前の問題に、困難に、出来事に、主を認めよう。その時、問題
にほんろうされる事や、落ち込みやパニックから守られる。主を見
上げて、祈ろう。そうすれば、道をまっすぐにされる。即、解決で
はないかも知れないが、心の方がますぐに平安にされる。



2015年01月24日(土)

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではな く、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26


弟子たちの舟が着いた先で、また群衆が来た。パンの大いなる奇跡
を見た人々も、主を追いかけて来た。舟の着いた場所の群衆たちも
集まって来た。それらの人々に、主は、あなたがたはしるしを見た
からでなく、パンのゆえについて来ていると言われた。

つまり彼らは、その奇跡が何を示す「しるし」が何であるかを悟る
ことができず、主がどんな方であるかを全く理解していなかった。
当時の人々は、自分たちをローマ帝国の圧政から救い出し、王国を
建ててくれる人物と思い込んでいた。

主は、自分たちの都合のために主を求める人々に「パンを食べて満
腹した」だけだと指摘された。彼らが主を求めるのは、信仰を求め
てではなく、パンをくれる方であり、嵐から守り、病気をいやして
くれる方、そんな奇しいみわざを行ない、与えてくれる方、自分の
欲望を満たしてくれる方だからだ。

しかし、パンをもらったとしても、又、空腹になる。病気がいやさ
れても、又、病気になる。嵐をしずめられても、又、嵐は起きる。
奇跡は一時的に、私たちを救ってくれる。しかし、一時的なものに
すぎない。主が彼らに与えようとされたものは、「なくなる食物で
なく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」だ。永遠に朽ち
ない平安、喜びだ。

それを得るためには「神が遣わした者を信じること」だと言われた。
主は信仰を求めておられ、信仰を喜ばれる。主は様々な奇跡を通し
て、主への「信仰」を持つことを願われ、主を信頼して生きて行く
ことを願っておられる。

・・・・・・・・・・
パンを、何かをもらえるからついて行くのであれば、思い通りにも
らえないと、離れてしまう。ついて行く意味が無いからだ。そうで
なく、主は「わたしが命のパン」と言われた。どんな時にも主を信
頼して生きて行く時、主とひとつだ。真の喜びが来る。


2015年01月23日(金)

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら、人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45



私達は心の倉に物をどんどん蓄える。あなたが心の倉に蓄えている
物は何だろう。隠れた妬み、憎しみ、怒り、敵対心、貪欲、虚栄心
だろうか。その中身が現れるのは、その人が苦しみを受ける時、逆
境の時、試練の時だ。

普段は、何もない順境の時は、底にはあるが、表に出ることはない。
しかし、とっさの事態が起きた時に、余裕がなく、繕えないので、
内側にあるものがそのまま現れ出る。その時の反応が私達の本当の
姿だ。圧迫されると何が出て来るだろう。不平不満、いら立ち、愚
痴、怒り、罵りだろうか。それとも自制、寛容、柔和、忍耐、愛が
出て来るだろうか。

人の口も同様だ。自らの口から出て来る言葉によって、自分の心に
何があるかがわかる。心に満ちている事を口が話すからだ。特に批
判され、非難され、攻撃された時に、どんな言葉が出て来るだろう。
口から出る言葉を変えるには、心の倉にあるものを変える必要があ
る。良い倉に蓄えた良い物とは、御言葉だ。これは自然には出て来
ない。

日々、御言葉を聞き、心の倉に蓄え、取り出す練習が必要だ。これ
が習慣になって、良い物が培われて行く。物事が起きた時に、御言
葉により判断し、御言葉によって思考して行く。そこに神が現れ出
る。日ごとに地道に、一つづつ御言葉を蓄えて行こう。試みの時の
大きな力だ。良い倉から良い物が取り出せる。
-----------
くり返し弱さを示されているのに、とっさに出る言葉は自制も忍耐
もない弱音ばかりだ。主に与えられた御言葉を握っていたい。どこ
にいてもかぐわしい主の香りが現れる者を目指したい。


2015年01月22日(木)

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」詩編30:5



人は皆、人生に、暗い夜を経験する。試練の時だ。涙が溢れて来る。
失敗、過失、倒産、離別、けがや病気・・しかし、夜のままではあ
り得ない。涙のままでは終わらない。必ず朝が来る。どんな時にも
希望がある。これは何と慰めだろう。試練には定められた期間があ
る。試練には必ず終わりがある。

真っ暗なトンネルは必ず出る。夜の後に、必ず朝は来る。試練は、
神が定められた時から1分たりとも延びる事はない。悲しみの後に、
必ず喜びが来る。逆に、人間は成功が続く時こそが危ない。莫大な
遺産を受け継いで、人生を滅ぼしてしまった人は少なく無い。成功
の中で、自らを律っする事の出来る人はまれだ。

順境で、神を求めなくなる人も多い。神無しでも生きて行けると錯
覚してしまう。人がひたすら求めるのは平穏無事だ。しかし、それ
によって神から離れるのなら何にもならない。神が送られる試みは、
必ず私達の素晴らしい益だ。試練の時は、何もかもが光を失い、真
っ暗闇に思える。が、主のよみがえりを覚えよう。

十字架で弟子達はつまづき、落胆絶望した。万事休す、何もかもが
終りだ。しかし、その時に世界が一変した。死から命へ、暗闇から
光へ、溢れる喜びに変った。必ず夜は明ける。今の苦しみは喜びに
変わる。明けない夜は無い。それだから、どんな時にも、すべての
事について感謝できる。
----------------
神の慰めを経験するのは、光が見えないかと思う暗いトンネルの中
だ。そこで御父の支えを感じる。絶望はない。共におられる主の最
善を信じ朝を待とう。


2015年01月21日(水)

「この場所は、なんと恐れ多いことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ・・そしてこの場所の名をベテルと呼んだ」創世記28:17


ヤコブは、父イサクと兄エサウを欺いて、祝福を手に入れた。だま
されたエサウは、激しい恨みと憎しみに燃え、殺意を抱く。そのた
め、ヤコブは家を出なければならなくなった。自ら犯した罪のため
であった。着の身着のままで、家を離れ、遠く野山を旅し続けた。

歩き続けて、日が落ちて夕暮れが迫った。人里離れた野で、ヤコブ
は一夜を明かす事にし、石ころを枕に横になった。野宿だ。一日の
心身の疲労こんぱいで、ヘトヘトになった身体を、固い地面に横た
えた。疲れ、足は痛みを覚える。どうしてこんな事になったのか、
独りぼっちで、惨めで不安で、どんなにか孤独だったろう。人生の
どん底だった。

しかし、その所でヤコブは眠り、夢を見て、目覚めた時に「まこと
に主がこの所におられるのに、知らなかった」と言った。ヤコブは、
この所で、生ける神に出会ったのだ。主は「この地をあなたと子孫
に与え、子孫を増やし、大いに祝福する。この地に連れ戻す」と言
われた。

信仰人生には、一つの特徴があり、色々な人々が成功の絶頂時でな
く、人生の「どん底」で、真に生ける神に出会っている。惨めで、
哀れで、裸で、どうしようもない絶体絶命の窮地で、真に神に出会
う。大きな恵みだ。あなたも神に出会った「この所」があるだろう。
まことに「この所」におられた。又、あなたの今いる所にも、まこ
とに主がおられる。霊の目が開かれる時に、新たに、今の所に主を
見い出す。
-------------
自業自得で故郷を追われたヤコブに現れた御神は、私たちにも御手
を伸ばしていてくださる。窮地や絶望、深い喪失感の中で生ける御
神を見る事こそ祝福だ。そこに導かれたご計画を素直に受け取れる。


2015年01月20日(火)

「すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」使徒27:24




パウロはもう航海は危険だと主張したが、皆により、クレテの港ま
で行って冬を過ごす事になった。そのため出帆したところ、何日も
の激しい暴風に巻き込まれ、船はほんろうされた。積み荷を捨て、
船具まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、身の危険を感じ、
事態は絶望的であった。最後の望みも断たれようとしていた。

しかしパウロは確信もって「いのちを失う者はひとりもありません。
失われるのは船だけです」と告げた。神は、クリスチャン人生、失
うものは何もないとは言っていない。ヤコブも「私も、失うときに
は失うのだ」と言っている。私達は信仰生活で、様々失うものがあ
るだろう。「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」
だ。

しかし、様々な時に失う事はあっても、必ず私達は御手の中に堅く
守られ、クリスチャン人生を全うできる。船を失う事があるという
事実を覚えよう。だが、信仰人生は必ず守られ、確実に安全な島に
打ち上げられることも覚えよう。得る事は喜びで嬉しい事だが、失
う事は辛く、痛手だ。しかし、振り返った時、あの時の、この時の
損失、それによって自分自身が練り鍛えられ、きよめられ、信仰が
成長させられ、今の自分があるのではないだろうか。

あの損失が無ければ、今の自分は無い。あの取り扱いによって、自
分は成長できた。信仰人生、損失は必ず通るが、思いを遙かに越え
た大きな祝福に至る。船を失うことがあるが、豊かな霊的祝福が与
えられる。
----------------
あの時、この時、一切の中に主はおられ失う時も主の許しの中だ。
失うまい、自分で得ようと労するが御心だけが成されていく。失う
ことを覚えて、今を歩んで行きたい。


2015年01月19日(月)

「私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある」詩編34:1


あらゆる時に、主をほめたたえ、いつも主を賛美したダビデ。しか
し、この時の状況は最悪だった。サウルはダビデ殺害命令を発し、
それを知ったダビデは逃亡し、サウルから逃れるために、敵である
ガテ王アキシュのもとに身を寄せようとする。ところが、家来達が
ダビデの正体を告げる。

身の危険を感じたダビデは気狂いの振りをする。そしてアキシュか
らも追放され、ほら穴に避難する。よだれを流し、気狂いを装い、
あのダビデが、こんなにもひどい屈辱的な惨めな状況なのだ。問題
が無く、すべてが平穏無事で、順調のゆえの賛美なら、ダビデはそ
の対極だ。

しかし「主を求めると答えて下さった」「すべての恐怖から救い出
して下さった」「主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた」「主は聞かれ、
すべての苦しみから救われた」「主のすばらしさを味わい、これを
見つめよ」「主を恐れる者に乏しいことはない」「良いものに何一
つ欠けることはない」と主を大いに溢れるばかりに賛美している。

極めて悲惨な状況の中で、直ぐな心で主に焦点を当て、主を見よう
として行く時、隠された宝が現れて来るように、恵みが見えて来る。
神と、状況と、どちらを見て選び取るかで、天と地ほどに違って来
る。今、あなたはどちらを見ているだろう?「私が主を求めると、
主は答えてくださった」。主に焦点を向けよう。
-------------
悲惨な状況は環境ばかりではなく自分の内側もそうだ。落ち込みや、
挫折感、弱さや恐怖心ばかり見ていないで、その中から真っ直ぐに
真実な主を見続け賛美を献げていよう。


2015年01月18日(日)

「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いこと によっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない」詩編 33:16



普通の考えでは、戦いに勝つのは兵士の数による。1万と2万なら、
2万人が圧倒的有利に決まっている。戦いの常識であり、多い方が
勝つ。それが、詩編記者は、勝利は兵の数によるのではないと言う。
一般通念と常識がくつがえる事を言われると、私達は戸惑う。常識
で生きているからだ。

神の言葉と信仰を掲げながら、実際は常識や、自分の既成概念で生
きているだろうか。信仰と言いつつ、現実生活では、計算高く、頭
でソロバンをはじいて、軍勢の多い少ないで判断している。つまり
自分の力による。これなら自分の力の範囲内で行ける、これは無理
と。頭の中で計算し、答えを出し、処理していないだろうか。

そこに神の入る余地がない。しかし、詩編記者は、勝利は兵の数に
はよらず、神によると結論づける。神に信頼し、神の導きによって
進むのであれば、常識はくつがえされる。そこに神が働き、みわざ
が現れる。兵の数、つまり自分の力や、障害や困難の大きさがどれ
ほどであっても、それは何ら問題でない。兵の数、物理的力ではな
く、神の御心かどうかの問題だ。

軍勢の数で、計算し、頭が動いていないだろうか。又、もし神が共
に行かれないなら、どんなに大軍勢であっても、敗北だ。救いは、
軍勢ではなく、神による。「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれ
る。その恵みを待ち望む者に」。主を信頼する者に、恵みが注がれ
る。

・・・・・・・・・・・・
この世の常識と既成価値観の中に、おおわれているので、目に見え
るところで考え、判断してしまう。しかし主はそれを超えておられ
る。どんな時にも、主の御心が成る。主に信頼し、主の御心を求め
て行けるよう祈って行きたい。


2015年01月17日(土)

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、 私のふしどを押し流します」詩編6:8

 

ダビデはこの時、命をつけ狙われて、敵に追われていた。彼はサウ
ル王からひどく妬まれ、憎まれ、王の軍隊により命を狙われていた。
絶えず、死と隣り合わせで、どんなに不安と恐怖の中にあったこと
だろう。ダビデは神のみ心に叶った人であった。しかし、非常に辛
い苦しい経験を通っている。

クリスチャンになるという事は、何の問題も無くなる事ではない。
生涯、平穏無事、安泰ということではない。ダビデは敵だけでなく、
実子からも狙われ、更に病にも陥る。四方八方、悩みと問題ばかり
の窮地だ。何がどうなっているのか、ダビデは弱り果ててしまい、
もう泣くしかなかった。

嘆きで、嘆きで、疲れ果ててしまった。その正直な気持ちを、思い
を、ありのまま主に告げている。ダビデの素晴らしいところは、苦
しみ、悩み、嘆き、悲しみ、落ち込むが、絶えず「主に向いて」い
るところだ。それを主に向かって訴えている。苦しい中で祈り続け
ている。

「主は私の泣く声を聞かれた」「切なる願いを聞かれた」「主は私
の祈りを受け入れられる」。どうにもできずに、泣くしかないよう
な状況、その中で、主は涙を見ていて下さる。受け止めて、祈りに
答えて下さる。私たちも、苦しみ、悩みの時、「主に向き」続けよ
う。

主にどんなに辛いかを訴えよう。主はそれらを受け取り、状況は変
わらなくとも、まず心を平安にして下さる。大事な事はどんな時も、
「主に向き」続ける事だ。

・・・・・・・・・・・
何があっても「主に向く」ことを喜んで下さる。嘆きも憂いも悩み
も受け止め、聞いて下さっている。自分の内で悶々とせず、思い煩
わず、その思いをことごとく主に告げよう。すると不思議を経験す
る。心が平安にされる。


2015年01月16日(金)

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい」コロサイ3:23


私たちの日々の行為はどうだろう。「何をするにも、人に対してで
なく、主に対してするように、心からしなさい」と言っている。私
たちは、毎日同じ事の繰り返しかも知れない。平凡で何の変化も無
い生活かも知れない。しかしその中で、主に仕えることができる。
そして、主から報いが来る。

私たちは、単調な仕事であり、やり甲斐がまるで感じられないよう
な仕事においても、主に仕えることができる。そして、主から報わ
れる。対人関係においても同様だ。いら立つ人、腹の立つ人、そり
が合わない人、嫌いな人との関わりにおいても、主に仕えることが
できる。

又、上司や雇用者との関係も、「主を恐れかしこみつつ、真心から
従いなさい」とある。「あなたがたは主キリストに仕えているので
す」。対人関係のすべての土台は、主との関係だと言っている。主
に喜ばれたい、主に仕えたいとの動機、願いが、底にあって、人と
の関係が正しくなる。そしてすべての報いは人ではなく、主から来
る。

あなたはどのように、人に仕えているだろう。主は心の奥を見てお
られ、ご存じだ。対人関係と同様、日常の仕事、家事、雑用、すべ
ての事を、主にお献げできる。主のみ声に耳を傾け、主に従って行
く時、主にお献げする礼拝行為となる。それはあなたに喜びをもた
らし、また、主は豊かに報いて下さる。
------------
自分が喜ばれたい、喜びたい、になるので苦手な人とは距離を置い
てしまう。主が喜んでくださるようにとの祈りを持って今日、出会
う人々に接してみたい。


2015年01月15日(木)

「いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです」マタイ13:22 




主と出会うまで、私達の心は、この世の見えるものに支配され、見
えるもので心を満たして来た。見えるものしか無かったからだ。見
えるものとは、富や、人から来るものだ。人から評価されたい、認
められたい、賞賛されたい、人に良く思われたい。それがすべてな
ので、一心にその事を求めて、生きて来た。

絶えず人にどう思われるかが不安で、心を配る。それがこの世の心
づかいだ。なぜ私たちは、富や人からの評価で心を満たそうとする
のだろう。罪により、神との交わりが閉ざされた結果、不安に支配
され、被造物なので、何かに頼らずには生きて行けない。そのため
富にしがみつく。

富が人生を保障してくれると錯覚する。富さえあれば大丈夫だと。
富が夢を叶え、幸せをもたらしてくれると勘違いする。又、神との
愛の交わりが断たれた結果、人からの愛を求めるようになり、人の
好意、人の賞賛を求める。それにより心を満たそうとする。そこに
は根深い思いがある。

「みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことば
をふさぐため、実を結ばない・・」御言葉が根づかないのは、世の
心づかいと富の惑わしが、御言葉をふさぐからだと言っている。

あなたの心の奥はどうだろう。富によって、人から良く思われるこ
とによって安心を得ようとしているだろうか。まずそのいばらが、
価値観が、自分の内にあることに気づく事から始まる。主は取り扱
い、実を結ぶように助けて下さる。
-------------
御言葉を聞いていても世の営みが気になり、あれもこれもと走り回
ってしまう。そのような者だと主はご存知だ。だから何度も御言葉
をかけてくださる。感謝して御言葉を慕い一つでも行っていきたい。


2015年01月14日(水)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくだ さる」詩篇37:4


よくコペルニクス的転換と言われるが、神に出会うまでは、神無し
で生きて来たので、根深いこの世の価値観が培われている。どこま
でも軸が自分にあって、自分軸で考えてしまうし、そうしか考えら
れない。それが普通で、当たり前で生きて来たからだ。だからどう
しても、「自分のための神」になってしまう。

自分が中心軸にいて、自分が幸せになるための神、自分が困らない
ための神、自分が助かるための神、その底は、どこまでも「自分」
であって、自分のために、神が存在することになる。しかし、そこ
には本当の「喜び」、「御霊の喜び」は無い。

コペルニクス的転換が、自分のための神でなく、神のための自分だ。
自分が中心で、太陽が自分の周りを回っているのでなく、自分の方
が太陽の周りを回っている。自分を中心でなく、主を中心に据える
時に、すべての事が正しく運行して行く。そして何があっても、決
して揺るがされることがない。

あなたは、自分のために神があるだろうか。それとも、神のために、
自分があるのだろうか。人は、誰しも心の底から「喜び」を求める。
のどから手が出るほど「喜び」が欲しい。そして自分の欲望が満た
された時に、喜びと幸せが来ると勘違いしてしまう。

しかし、それならどこまで行っても「喜び」は無く、心はますます
渇くばかりだ。自分を第一、自分の欲望を第一でなく、主を第一に
する時に、主が喜ばれるものを求めて行く時に、初めて、御霊の
「喜び」を経験する。

・・・・・・・・・・・・・
「自分のための神」に気づけることが感謝だ。根は深く、しかし主
の愛は更に深く、繰り返し繰り返し、気づかせ、矯正し、軌道修正
しつつ導いて下さる。主に向き続けるなら、自己満足の喜びでなく、
主を喜ぶ、真の喜びへと転換させて下さる。


2015年01月13日(火)

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一時に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み・・」ピリピ3:13



他人と過去は変えられないと言われているが、過去を思い、くよく
よする事があるだろうか。普段は目の前の事に忙しく、忘れて生活
しているが、何かがあると、過去の失敗、過失、傷が思い出される
だろうか。フラッシュバックし、心暗くなり、重苦しくなり、落ち
込む事があるだろうか。

悔い改めたその事は、主の十字架の血潮によって、もうすでに完全
に赦されているのに、またほじくり出しては悶々とする。取り返し
がつかないと思ってしまう失敗や、又、ミスした選択、もしあの時、
違う選択をしていたら、この時、違う対処をしていたら、又、逃し
てしまったチャンス、あの時ああで・・、この時こうであれば・・
今、自分の人生は全く違った結果になっていたかもしれない・・堂
々巡りしては後悔する。

しかし、もし神が、あなたに違った道を歩ませたければ、その時、
そう出来なかっただろうか。この事を本気で信じているだろうか。
心の奥にとがめや不安がある時、前進が出来ない。感謝と喜びが奪
われてしまう。過去のその所に神を認めよう。「わたしは、もはや
決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない」と主は宣言して
下さっている。

罪の全き赦しを受け止め、感謝しよう。神の摂理と御心を認め、信
仰もって受け入れよう。受け入れた時、「ひたむきに前に向かって
進」んで行ける。
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失敗や躓きで後悔のない人生を歩む人がいるだろうか。悔い改めて
主は赦された。そして後ろのものを忘れてと言われている。主から
受けた祝福と恵みは決して忘れず前進していこう。


2015年01月12日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:24


パウロとシラスは、福音宣教の折りに捕らえられ、投獄された。着
物をはいでむち打たれ、何度もむち打たれて、投獄された。足かせ
に、暗い牢獄、むち打たれ、走る激痛、その中で、彼らは「神に祈
りつつ賛美の歌を歌って」いた。すると他の囚人たちは聞き入って
いた。

その状況で、不平も不満もなく、湧き上がる賛美に、囚人たちは、
この世のものとも思えないものを見た。地震で、戸が開き、鎖がは
ずれても、誰一人逃げず、彼らに従った。星野富弘さんは、脊椎損
傷のため、首から下はいっさい動かない身体になってしまった。
深い苦しみと悲しみ、絶望の中にいたが、聖書に触れ、救いに入れ
られた。

主に出会い、人生が一変した。ある時、口は動くので、絵筆を口に
くわえて、花の絵を描き、花々の絵を描き続けた。この絵と心から
湧き出る詩が、沢山の人々の心を捕らえ、深い感動を与えている。
多くの傷ついた人々の心を癒し、温めている。彼は神を信じたか
と言って、奇跡的いやしがあったわけではない。状況は何も変わら
ない。

神を信じても良い事はないのか。いや、そうではなく、むしろ、彼
が不自由な身体という御心をしっかり受け止め、受け入れ、その中
で感謝して生きているからこそ、人々を励まし、力づけ、引き上げ
て行く事が出来る。十字架を嫌い、避け、逃げるのでなく、十字架
をしっかり負い、御心を受け入れて生きるなら、それは証しとなり、
誰かの心を捕らえる。神の栄光を現すことになる。
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今年も試練は必ず与えられるだろう。そこに辛さや苦しさはあるが
不平や不満はないと主からのものを受けとり、主にあって喜んで
歩んで行きたい。


2015年01月11日(日)

「神はハンナを愛していたが、主が彼女の胎を閉じておられたから である・・ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣い た」Tサムエル1:5 


当時、イスラエルは士師の時代であり、霊的には、暗黒状態であっ
た。人々は主の目に悪を行ない、めいめいが、自分が正しいと見え
る事を行なっていた。神は、その暗闇の中に、新たな霊的指導者を
起こそうとされた。そのために協力者が必要であった。

神はハンナを見込まれた。「主がハンナの胎を閉じておられた」の
ように、そのために胎を閉じ、ハンナの祈りを引き出された。ハン
ナは不妊の辛さ、ペニンナによるいじめ、周囲の偏見による苦しみ、
ハンナは募る辛さと苦しさに、主に向かい、心を注ぎ出し、涙なが
らに一心に祈った。

その祈りの中で「男の子をさずけて下さいますなら、その子の一生
を主におささげします」との決意へと導かれた。そして、結果的に、
その祈りは主に答えられ、サムエルが産み出された。ハンナの祈り
が用いられた。その時、泣いて食事もできなかったハンナが、祈り
終えた時、帰宅して食事ができた。

激しく泣き、苦しみ、悩みと憂いのいただちの、もう以前の顔では
なかった。平安になり、心すっきりしていた。私たちも祈りによっ
て、いつも経験する。苦しい状況で主に心を注ぎ出して祈る時、状
況が同じであっても、まず自分の内側が変えられる。

御父に自分を委ねるので、状況は変わらずとも、平安が与えられる。
今、閉じられた状況にあるなら、主は祈りによって、開きたいと思
っておられるのかも知れない。ハンナのように、主に向かい、心を
打ち明け祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
辛さと苦しみにある時、まず主に向かおう。心のありったけを主
に聞いていただこう。心にある怒り、恨み、嘆き、悲しみを主に告
げて行く時、不思議を経験する。問題もそのままで、状況はも同じ
なのに、心が落ち着いて、平安にされて行く。


2015年01月10日(土)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい」ピリピ4:6



私達はしょっ中、思い煩う。そしていつも心配する。この事、あの
事、次から次へと思い煩いは尽きる事がない。しかし、モーセに導
かれたイスラエルはどうだったろう。出エジプトを果たした時に、
追っ手の精鋭のエジプト軍が背後に迫り、目の前は紅海という絶体
絶命の状況に陥った。戦闘の訓練を受けたエジプト軍に、戦い方な
ど知らないイスラエルの民が立ち向かえるわけもない。

進む事も退く事も出来なくなった断崖絶壁の時に、主は、奇跡を起
こし、海を分け、海のただ中に道をつけられた。主はどんなに道が
無いと思われる状況でも、そこに道を造られる。食べ物の無い荒野
では天からマナを降らせ、岩から水を出された。

そして、乳と蜜の流れる地、カナンまで導き、カナンを前に、ヨル
ダン川の水をせき止めて渡らせ、更にエリコの城壁を崩され、勝利
を与えられた。あの絶対に滅びないバビロンを倒され、不滅と言わ
れたローマも倒された。神に不可能は一つもない。すべては主の主
権の中だ。

その全能の神があなたの事を心配して下さっている。そして「思い
煩うな」「神に委ねよ」と言われる。実は、問題が問題なのでなく、
問題の中で、神を信頼しない事が問題なのだ。問題を繰り返し繰り
返し心に思い、心が不安と恐れで引き裂かれてしまう。問題を見続
け、恐れのどん底に陥る。

逆にそれだけ繰り返し、恵みを思い起こせばどんなに幸いだろう。
神に心の告げて、問題をも支配されている神に問題を渡そう。そう
する時、立ちはだかる問題の城壁をが崩れることを見る。乗り越え
て行ける。

・・・・・・・・・・・
「何も」何一つ、思い煩わなくて良いとは、何と驚くべき事だろう。
目の前のその問題もだ。この計り知れない安堵と安心を妨げている
のが、信じようとしない、委ねようとしない自我だ。まずありのま
まを祈って行こう。主は導いて下さる。


2015年01月09日(金)

「イエスは彼らに言われた。『どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです』」マルコ4:40




信仰生活の中で、主は目的と意図があって、大きな試練や小さな試
練、一つ一つの試練を私たちに送られる。「さあ、向こう岸に渡ろ
う」との主との言葉に従って、弟子たちが舟をこぎ出した。その時
に、激しい突風に会い、舟が水をかぶり、一杯になった。沈没して
しまう。大変な恐怖に襲われた。

おぼれて死んでしまうと、怯えた弟子達が、主を起こすと主は風を
叱りつけ、風はやみ、大なぎになった。その時、主は「信仰がない
のは、どうしたことです」と言われた。風や波の問題でなく、信仰
の問題だと言われた。主が私達に求めておられるのは「信仰」だ。

いつも信仰を使う機会を与えられる。だが試練を前にすると、パニ
ックなってしまい信仰が吹っ飛んでしまって、目の前の状況に、大
波に飲み込まれてしまう。主が「黙れ、静まれ」と言われると、即、
風は止み、大なぎになった。弟子達は、自然をも支配される主の偉
大さに目を見張り驚いた。

私達も経験する。様々な試練を通り、痛みや苦しみの中でもがき、
主に叫び求める中で、共におられるお方が、全知全能の、まさに神
である事を信じるようになる。神がどんなに力あるお方であるかを
知るのは、試練のまっただ中だ。

何も無い順風の時でなく、風が荒れ狂い、波が逆巻く時だ。今、試
練の中なら、痛くて、辛いが、その試練を通して、主がまことの生
ける神であることを知るようにされる。
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目の前の風にいつも動揺し「どうしてそんなにこわがるのです。」
と主に不信仰を叱られながら、試練の度にまことの主に触れ、主へ
の信頼が平安へと繋がることを経験する。


2015年01月08日(木)

「私はこのようなことをして、大きな罪を犯しました。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました」T歴代21:8



ダビデはサタンに誘惑されて、人口調査という罪を犯してしまった。
その動機が、自分の力、自分の業績を誇ろうとする高慢であった。
間違っていた。すべては神のみわざであり、神を誇るべきであった。
ヨアブがそれに気づき、止めようと進言するが、ダビデは聞かなか
った。

ダビデは罪を犯してしまった。その結果、疫病により7万人が打た
れた。自らの罪は自分だけでおさまらず、周囲にも影響を及ぼして
しまう。しかしダビデは悔い改め、罪の赦しを乞うた。そして、3
日間の疫病という主の懲らしめを受け入れた。

私達はどうだろう。主の御手から逃げようとするだろうか。主の懲
らしめを、まっすぐ甘んじて受けるという態度でなく、言い訳して、
責任転嫁して誰かを責める。又、別の場合は、ただ自分を責めるば
かりで主に向かない。いつも自分に目が行くばかりだ。サウルはそ
うだった。彼は自分のした事を後悔はするが、決して主のさばきの
下に服する事をせず、霊媒のもとへ行き、最後は自殺してしまった。

しかし、ダビデは、主のもとへ行き、主の手に陥りたいと願い、主
にすべてを委ねた。私たちもダビデに見習おう。失敗した時、罪を
犯した時、隠れたり逃げたりせず、どんな時も主のもとへ行き、悔
い改め、主にお任せして、従って行こう。主は共にいて刈り取らせ
て下さる。主のあわれみは深く、主のあわれみは尽きないのだから。
-----------
人との和解も自分への納得も必要だが、まずは主に悔い改めたい。
どれだけ失敗しても主との関係がいつも平和で正しいものでありた
い。悔い改める者を主はあわれみ赦してくださる。


2015年01月07日(水)

「それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」ヨハネ13:4



主が手ぬぐいを取って、腰にまとわれ、足を洗い、ふき始められ
た。ペテロの番になると、「主が私の足を洗って下さるのですか」
「決して洗わないで下さい」と、恐れ多いと、ペテロはそれを拒ん
だ。この時代はサンダルのようなはき物で、砂ぼこりで足が大変汚
れた。

彼はその自分の汚れた足を、師に洗ってもらうなどと、とんでもな
いと思ったのだ。それは自分の汚い部分を、人に決して見せたくな
いという事だ。醜い部分はおおい隠したい。誰にも知られたくない。
しかし、主はそこをあらわにし、洗わなければ、何の関係も無くな
ると言われた。そこでこそ、主との関係が深められると。

私達は見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたいものだ。
人に認められたいし、評価されたい。しかし、主と私達の間はそう
ではない。弱い、醜い、汚い部分をすべて主に広げ、明らかにする
時に、赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主は弱さを受け
入れ、罪は赦し、傷はいやして下さる。

主に心を開き、真実を打ち明けて行くことだ。その事により主との
関係がより親密にされて行く。弱さは悪で、強いことが善とのこの
世の価値観がある。しかし、正反対で、現された弱さにこそ、神の
力が臨み、神により強くされて行く。又、罪は赦される。弱さや罪
を隠す事こそ、主との関係を妨げてしまう。汚い足を洗って頂こう。
-----------
醜い部分、弱い部分を主は知っておられる。なぜ隠して逃げている
のだろう。自分自身が認めたくないからだ。主が見せようとし、ま
た、洗ってくださる汚い足を差し出してみよう。


2015年01月06日(火)

「そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない・・しかし、私は主にあって喜び勇み・・」ハバクク3:17 


ラッキーな時、ハピーな時は、誰でも嬉しい。受験合格、昇進、大
豊作、祝い事・・信仰が無くとも、誰でも喜べる。だがハバククが
喜んだのは、大豊作では無かった。いちじくの木は花を咲かせず、
ぶどうの木も、オリーブの木も実が無く、畑は何の収穫も無い。羊
も牛も絶えてしまった。周囲は、完全な絶望状態であった。

失望落胆、悲しみ、嘆き、落ち込み、無気力になりそうな状況のま
っただ中で、なぜ喜べたのか。「主にあって」「救いの神にあって」
とあるように、環境、状況によって喜んだのでなく、「神にあって」
喜んだのだ。ハバククの信仰だ。同様に私達も、現状が何の希望も
持てない、絶望状態で真っ暗であり、今後も真っ暗であったとして
も、信仰によって、喜ぶことができる。

現状でなく、神に焦点を当て続けよう。神はどんなお方かよく考え
よう。万事益とされる、災いは無く、平安と将来と希望のご計画を
持っておられる。すでにしようとしている事をご存じだ。ご自分の
ひとり子をさえ与えて下さったお方、良くして下さらないわけがな
い。

状況を信じるのでなく、神を信じよう。「心を騒がせてはなりませ
ん。神を信じ、またわたしを信じなさい」状況から目を転じて「御
言葉」を反すうし、見続けよう。御言葉には霊といのちと力がある。
御言葉により、恐れが平安に変わる。「あなたの御前には喜びが満
ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります」この喜びを下
さる。
---------------
状況はどうであれ主は何と言われているのか、信じて御言葉に立と
う。それが状況の中での平安になる。「しかし、私は主にあって喜
び」と言える者になろう。


2015年01月05日(月)

「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」ルカ11:1 



私たちは様々なことを祈りに持って行く。主は、求めよ、祈れ、と
言われている。何でも祈って良い。しかし、ある人が、祈っている
のに、祈りが答えられない、幾ら祈っても答えられないと言う。ま
ず祈りの原則にあるように、「その耳が遠くて聞こえないのではな
い。あなたの咎が神との仕切りとなり・・」もし罪があれば悔い改
める必要がある。

又、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとし
て、悪い動機で・・」とあり、自己中心な動機があるかも知れ名い。
又は、自分の願いと、主の願いが違っているのかも知れない。一致
していない。自分の思いが強く、自分の思いに固執してしまってい
ないだろうか。主のみ思いを尋ねてみよう。

祈りを軌道修正しつつ、主のみ思いに合致するように導いて下さる。
又、御心にかなってはいるが、答えられる時期が今ではなく、更に
先なのかも知れない。忍耐もって、待ち望む必要があるのかも知れ
ない。又、あるいは、別の形で答えられているが、自分の思いしか
無いめ、気づかず、見えないのかも知れない。

自分はAを祈っていたのに、Bの答えが来たなら、それは、Bが神
の御心であり、自分の思いとは異なるが、自分にとってベストと信
じて受け取ることが大切だ。その先に豊かな祝福が用意されている。
御霊が心を探って下さる。動機をきよめ、忍耐を与え、軌道修正し
ながら祈りを導いて下さる。その導きのみ声に耳を傾けて行こう。
--------
祈らずした失敗はただの失敗で、成功さえ手ごたえは薄い。祈りの
時を持とう。主に心のうちを知っていただきながら、祈りを通して
主の導きを学んで行きたい。


2015年01月04日(日)

「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」創世記12: 4

「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ
行きなさい」と、アブラムに、主が呼びかけられた。主の御声が臨
んだ。「生まれ故郷、父の家を出て、わたしが示す地へ行け」。そ
うすれば「あなたを大いなる国民とし、あなたの名は高められ、祝
福となる」・・「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」
と約束された。

「生まれ故郷、父の家を出て」これは、大いなる犠牲を伴う。今の
あらゆる面からの守りを失うことになる。生活の安定、慣れ親しん
だ場、親族、友人、生活共に心の安定、安心の場だ。自分の居場所
だ。そして、どこへ行くかわからず、行く先を知らずに出ることに
なる。

「わたしが示す地」、それはアブラムには知らされず、つまりは神
にすべてを任せるしかなかった。そのように心の準備をしていたわ
けでなく、突然のことだ。どんなに勇気と決断が要った事だろう。
「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた」。

アブラムは、言われたその通りに主に従った。平素からアブラムは、
主との培われた真実な交わりにあり、御声を受け取れた。アブラム
は75歳の時に、どこに行くかわからないまま、主に従い、約束を信
じて、父の家を出た。アブラムの信仰であった。

アブラムが召しに従った事により、本人だけでなく、全世界に祝福
が及んだ。私たちにも何かの導きが臨むなら、「お告げになったと
おりに」一歩踏み出そう。あなたは祝福され、そしてあなたの家族
や周囲にも、その祝福は及んで行く。

・・・・・・・・・・
新年おめでとうございます。昨年末には、多くの励ましのメールを
有難うございました。本年もどうぞよろしくお願いします。お一人
お一人に主の豊かな祝福がありますように、主に期待し、祈りを込
めて今年も配信させていただきます。栄光在主。