2015年02月28日(土)

「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち を少しでも延ばすことができますか」マタイ6:27


「明日のことについて、思い煩うな、心配無用」と言っておられる。
これは、将来について準備したり、考えたりしてはいけないという
事ではない。それは大切な事であり、必要だ。しかし、不安や思い
煩いは、いっさい必要無いと。

私たちの心配は、「もし〜」から来ていないだろうか。もし、ああ
なったら、もし、こうなったら、「もし病気になったら」「もしリ
ストラになったら」「もし経済的に困窮したら」幾つもの架空の
「もし〜」で思い煩い、恐れている。しかし、主は「空の鳥を見よ、
野の花を見よ」あなたがたの天の父がすべての必要をご存じで、養
っていて下さるのだと。

又、目の前の事柄の思い煩いもあるかも知れない。仕事の問題や、
対人関係の思い煩いだ。なぜ、人は思い煩うのだろう。自分の思い
込みによって、最悪のシナリオを描く。明日はこうなり、将来はこ
のようになり・・と思い込んでしまう。

又、仕事の問題、対人関係の悩みを、ネガティブに考え、ああでも
ない、こうでもないと、心がちぢに乱れ、分割、分裂してしまう。
思い煩いとは心が分裂することだ。分裂状態から、一つに心が定ま
る事が必要だ。

それが「神の国とその義とをまず第一に求めよ」だ。主の支配を求
め、自分を主に委ねて行く時、様々な思い煩いから心が守られる。
神第一の歩みをして行く時に、「そうすれば、それに加えて、これ
らのものはすべて与えられます」生活の必要はすべて与えられる。

・・・・・・・・・・・・
「もし」から最悪のシナリオを描き、真っ暗になるが、それは全然
起きていない事であり、亡霊だ。嵐の湖上の出来事のように、向こ
うから来るのは愛なる主だ。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れ
ることはない」と。


2015年02月27日(金)

「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり」ヨハネ15:16



ある人が仕事でプロジェクトを起ち上げていたが、行き詰まってし
まった。どうにもならず、暗礁に乗り上げ、何の方法も無いように
感じた。しかしその事業は、主に祈り、主に導かれて始めた事であ
った。どうしてよいかわからず、自分の限界、自分の無力に打ちの
めされた。

主の御前に心を静め、祈ろうとした。心の思いをことごとく打ち明
けた。御声を聞こうと、御言葉を読んでいた時に「あなたがたがわ
たしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・任
命したのです・・実を結び、実が残るため・・」の言葉が心に迫っ
た。主がこの仕事に自分を選び、任命して下さったことが、新たに
された。

自分が何とかしなければと、「自分が」「自分が」と頑張って力尽
きた姿が見せられた。「自分が選んだのでなく、主が選んで下さっ
た」、「主が」そこに平安と安堵が来て、その時、自分自身と状況、
又、今後を今一度明け渡した。すると不思議な事に、思い煩いと恐
れが消えて行った。

とにかく、目の前の一つ一つを、主に従ってゆけばよいと思え、気
持ちが楽になった。祈りつつ、主が導かれる通りに従って行った。
その時、目の前の道が、開かれて行き、「主の山に備え」があるこ
とを一つ一つ体験した。今、もし行き詰まっているなら、あなたが
神を選んだのではなく、神があなたを選ばれたことに立ち返ろう。
--------------
上手く行っているときは、自分は信仰によって支えられていると思
え、そうでなければ神は遠く離れているように思える。そうではな
く神が選んで、最悪の中で手を放なさず傍にいてくださっている。



2015年02月26日(木)

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです」ローマ8:13



私たちは、主を信じて救われた時に、御霊が内住して下さった。内
に御霊がおられる。又、古い罪の性質もそのままあるので、天に帰
るまでは、肉と御霊が戦い、古い性質と新しい性質が葛藤しつつ、
主のかたちへと変えられ、成長して行く。日々に御霊の声に聞き、
御霊に従い、御霊に導かれて歩む事が大切だ。

例えば、一日の始め、「祈りの時を持とう」との声がする。しかし、
別の声が聞こえる「早く出勤の用意をしなくては」「時間が無い」
「今は祈る気分ではない」「また後で」。対人関係で、腹の立つ状
況が生じる。一つの声は「今すぐ言い返せ。スカッとするぞ」別の
声は「まず祈ろう」。いつも御霊の声と肉の声、二つの声が聞こえ
る。

そして私たちは、祈っていなければ、ほとんど肉の声に従ってしま
う。肉の思いの方が楽で、気持ちにフィットして来る。自然に感じ
る。だから、御霊に導かれ、恵みの中に生きる事ができず、いつも
肉の歩みを繰り返してしまう。又、妬みや敵対心があると、平安が
無く、罪意識があるので、何とかしようとする。

愛さなければと思う。愛そうとするが、どうやっても愛することは
できない。心は苦しくて辛い、どうする事もできない。自分の力で
は出来ない。自分には出来ない事を認めて、御霊に明け渡して行く
時に、御霊に導かれる。そして、御霊によって、愛する事ができる
ようにされる。解決は御霊に導かれる事だ。
---------
自然に流されてしまう肉の声と違い、御霊の声に従うためには選択
と、意志をもって動かなければできない。まず「できない、助けて
ください」の祈りからはじめよう。


2015年02月25日(水)

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた」マタイ14:25 




主は、弟子たちを強いて舟に乗せて、先に向こう岸へ行かせられた。
しかし、その途上で弟子たちは嵐に会う。それは、ベテラン漁師が、
身の危険を感じるほどの大嵐であった。死ぬかもしれない恐怖、目
の前の困難、苦しみの中でもがいていた弟子たちのもとに、主が近
づかれた。弟子たちは驚き、幽霊と間違って怯える。

が、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。「わ
たしである」「わたしがいる」と。だから「恐れるな」と。この嵐
のまっただ中に、「わたしがいる」、主がおられる!この事がわか
れば、問題は解決する。だがどうだろう。逆に、私たちは、嵐の中
でパニックになり、主が見えなくなってしまう。又、問題が大き過
ぎて、悲しみが大き過ぎて、主が見えなくなる。

主ではなく、目の前の大きな問題ばかりを見てしまう。又、対人関
係で、敵対して来る人で心が占領されてしまい主が見えなくなる。
しかし、主はここにおられ、「わたしだ」と、目の前のその問題の、
悩みの、まっただ中に、おられる。今、悩み、問題のために、主を
見失っているだろうか。

問題に飲み込まれ、思い煩いと不安、恐れの中にいるだろうか。
問題を見ている目を、「わたしだ」と、目の前におられる主に転じ
よう。問題の中に、主に来ていただく時に、「ふたりが舟に乗り移
ると、風がやんだ」。風が止む。動揺と不安でいっぱいのに平安が
来る。
------------
問題に飲み込まれすぐに沈んでいく私たちを主は「わたしがいる」
と言ってくださる。朝ごとに主を覚え一日を始めたい。問題が来る
度に、この主をすぐに呼べるように。


2015年02月24日(火)

「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21



「あなたの道を主に委ねよ」と御言葉にあるように、主の御心を知
るために、又、祈りの答えを得るために、まず主に明け渡すこと、
委ねることが大変重要だ。ある著者が著書の中で、こんな事を記し
ていた。

重病で苦しみの中で、「主よ。癒して下さい」と必死に祈り、祈り
続けた。しかし全く答えが無い。主から何の応答もなく、もう祈る
のにも疲れ果ててしまった。それで「主よ。私には、なぜこのよう
な事が起きるのか全く理解できません。しかし、もしあなたが、私
の残りの生涯、私が病人でいることを望まれるのであれば、それで
もかまいません。

主よ。それはあなた次第です。とにかく、良くても、悪くても、私
をあなたの御手の中に置きます。ただ、あなたに仕えさせて下さい」
と祈って、すべてを委ねた。その時に奇跡が起きて、癒されて行っ
た。主に委ねるとは、イエスでもノーでも、右でも左でも、白でも
黒でも、癒されようと、癒されまいと、御心のままでOKです、と
いうことだ。

その時に、主が働かれ、御心を成し遂げて下さる。自分の思い通り
にしたい、これ以外の道は受け入れられない、との強い自分の意志
がある時には、それが妨げとなり、御心がわからない。自らの思い
を明け渡して行く時に、御心がわかり、前に進んで行ける。今、自
分自身の状態はどうだろう。
------------
ここが主から置かれた場所であると認めるとき、右でも左でもの思
いがくる。祈っても祈っても主が動かされないなら、お委ねしてい
けるように祈りを変えてみよう。


2015年02月23日(月)

「夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった」U列王7:7



当時の飢饉で、周囲の人々が餓死して行く中、町の門の入口にいた、
らい病人達は、このままなら、自分たちも必ず死ぬことがはっきり
していた。もしや敵のアラムの陣営に行けば、食糧にありつけるか
も知れない。だが、殺されるかも知れない。しかし、ここにいても
死ぬのだから、その時は死ぬまでのことだ、行ってみようではない
かと話し、決心し、立ち上がった。

ところがアラムの陣営の端に来た時に、そこに誰もいなかった。主
がアラムの陣営に、戦車の音、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞か
せられたので、敵の攻撃と勘違いし、何もかもを置き去りにして、
命からがら逃げ去っていた。戦う事もなく、何もしないまま、溢れ
る豊かな食物にありつけた。神のみわざであった。

このらい病人たちから、私たちも、信仰によって一歩踏み出すこと
を教えられる。そして、自分の完全無力を知る時にこそ、信仰によ
る一歩を踏み出せる。主に信頼して一歩を踏み出してみようではな
いかと。自分自身や、自分の生涯を、目の前の事態を、主に明け渡
すことは恐れがあるかも知れない。

しかし、自分の力で歩みを続けたところで、何の実も無い。信仰に
よる一歩を踏み出してみよう。彼らは溢れる食糧や金銀を、何度も
〃も持ち出しても、持ちきれなかったように、そこに、思いを越え
た溢れる祝福が備えられてい
----------
いつでも確信を持って歩んでなどいない、不安や恐れの中で常に信
仰を試されている。何も出来ない窮地の時こそ、まっすぐに主に頼
れる時だ。一歩踏み出してみよう。


2015年02月22日(日)

「主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そ のつぼの油はなくならない」T列王17:14



エリヤは、アハブ王に雨が降らない事を告げた後、主から示された
通りに、ケリテ川へ。主の備えにより、飢饉の中、ケリテ川の水を
飲み、カラスに養われた。その川が枯れた時、次にエリヤは、シド
ンのツァレファテへ行くように示された。そこで、やもめ女に養わ
れると。

その町へ行くと、やもめに出会った。そこで彼女に少しの水と一口
のパンを求めた。すると、彼女の悲惨な状況が露呈した。裕福な資
産家などではなく、最後の一握りの粉でパンを作り、最後の食事を
して死のうとしている極貧の母子だった。何という状況だろう。目
の前の人物は、人を養う事など不可能だ。しかし助けを求めなけれ
ばならない。

人間的に考えるなら、その最後のパンを自分にくれとは、とても言
えない。しかし、エリヤは目に見えるところでなく、情でも、自分
の思いでもなく、信仰に立ち、ただ御言葉に従った。まず自分にパ
ンを作り、その後にあなた方のために作るようにと。そうするなら、
飢饉が終わるまで、粉は尽きず油は無くならないと。

人の良かれとの思いや情は、神のみわざを妨げる。「彼女は行って、
エリヤのことばのとおりにした」と御言葉に従った。すると、母子
は飢饉のまっただ中で豊かに養われ、それは母子のためでもあった。

神を第一にして従う時、神の栄光を拝する。自分の思いや情、見え
るところが正反対であっても、神の言葉を選択し、信仰によって従
おう。その時、神が責任を取って下さる。今、示されている事があ
るなら、一歩従おう。

・・・・・・・・・・・
目に見えるところと、御言葉が正反対の時がある。自分の思い、常
識的判断と、御言葉が合わない。しかし、神の言葉に従う時、素晴
らしいみわざを見る。そして、主は、見えるところでなく、御言葉
に従う信仰を求めておられる。


2015年02月21日(土)

「このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、 地にひれ伏して礼拝し・・」ヨブ1:20 


ある日突然、ヨブは子供たち全員を失い、家財や家畜、しもべたち、
何もかもを失った。そして、ヨブ自身も、足の裏から頭の頂まで、
悪性の腫物でおおわれ、極度の痛みに苦しんだ。しかし、「主は与
え、主は取られる」と、ヨブはそれらを神から来たものと受け止め
た。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり・・」とあるように、
神の思いは、私たちの思いと大きく異なる。ある時は、私たちには
到底理解できない。「どうしてこのような事が?」「なぜ私に?」
納得が行かない。しかし、神は、時に、このような極めて厳しい試
練を送られる。

それは、私たちがたとえ理解できなくても、神を信頼して従って行
く者と変えられ、成長させられるためだ。しばしば、クリスチャン
もご利益信仰になってしまう。自分軸になり、どうしても自分を中
心に物事を見てしまう。そのため自分が理解でき、納得できる範囲
でしか、信じようとしない。自分が納得できるなら、信じるが、そ
うでないなら信じない。

神を、自分の理解できる範囲に引き下げてしまう事になる。理解で
きない状況の中で初めて、信仰が試され、練られ、しかし「神は愛
であり」「最善をされ」「ご計画があり」「益とされる」と、信じ
る者と変えられて行く。主がそのように成長させて下さる。今は自
分に理解はできないが、しかし、主を信頼する者とされるならどん
なに良いだろう。

・・・・・・・・・・・
生まれつきの古い性質があり、すぐ自分軸になってしまう。思考が
神中心でなく、自分中心に陥ってしまう。そこから落ち込みや、不
満、思い煩い、不信仰が生じる。自分軸に気づける時に、平安と喜
びが戻る。


2015年02月20日(金)

「主はモーセに告げて仰せられた『人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ』民数記13:1




指導者モーセによって、イスラエルの民は苦難のエジプトを出た。
そして約束の地カナンに向かった。その時に、12人の斥候がカナン
の偵察に出た。彼らは戻り、10人は占領は「無理だ」と言い、2人
は「大丈夫だ、できる」と言った。10人は、現地の民は脊が高く、
自分達はいなごのようであり、自分達は敗北する。上れないと言っ
た。

全会衆は、その10人の言う事が妥当に見え、そちら側についた。
皆は大声で泣き明かし、エジプトに帰ろうと言い出した。恐れて不
信仰に陥った。12人の斥候は全く同じものを見た。だが、なぜカレ
ブとヨシュアは「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必
ずできる」と言えたのか。その根拠は自分達の思いによる判断でな
く、神が、その地を与えると言われたからだ。

結果的に、信じたカレブとヨシュアは約束の地に入り、民は皆、荒
野で滅ぼされてしまった。何が信仰であり、何が不信仰なのか。カ
レブとヨシュアは見える所でなく、現状でなく、神と神の語られた
御言葉を見た。10人の斥候は、御言葉でなく、目に見える所、現状
と困難を見た。ここが違った。

神を通して状況を見るか、神を見ずに状況だけを見るか、の違いだ。
状況だけを見ることが不信仰だ。今、御言葉を見ているだろうか、
状況を見ているだろうか、どちらだろう。
----------
現状しか見ずネガティブな発想は、自分だけでなく人にも害を与え
る。「必ずそれができるから」と御言葉に立った言葉が口から出て
いだろうか。学ばされる。


2015年02月19日(木)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自身の栄光を現わされた。それで弟子たちはイエスを信じた」ヨハネ2:11 



カナの結婚式で、ぶどう酒がきれてしまった。当時の結婚式におけ
る、ぶどう酒とは非常に重要な大切なもので、途中で無くなるなど
と、主催者側の大失態だ。せっかくの喜びの結婚式が台無しになっ
てしまう。非常事態であり、そこにいたマリヤは、主イエスにあり
のまま、率直に「ぶどう酒がありません」と求めた。

ここで学ぶ事ができるのは、まず第一に主に祈るということだ。無
いものは無いと、「ありません」と認めて、主に求めれば良い。
「自分に無い」と認めるところから、解決が始まる。「愛がありま
せん」「力がありません」、無力を認める事は痛いが、しかし祝福
への第一歩だ。

マリヤは、事態の解決を主に求めた。すると、主は「あなたはわた
しと何の関係があるのか」と一見冷ややかに見える応答だった。だ
がマリヤは、肉親として我が息子に頼むのではなく、信仰者として、
主として求める必要があった。主は御父の御心に歩まれるからだ。
マリヤはへりくだり、イエスを主として、必ず最善をして下さると
信じた。

だから、「わたしの時はまだ来ていません」と言われたにかかわら
ず、手伝いの者に「あの方の言われることを、何でもしてあげて下
さい」と言った。みわざをして下さると信じたからだ。そして主は
祈りに答えられた。危急の時には、まず祈ろう。そして御声を聞い
て、示された事を行おう。その時に、主の栄光を拝することができ
る。
-----------
まず祈るが、頭の隅に自分で動けるところはないかと策を考えてい
る。そのような不信仰な者が「ありません」と認め、主に頼り切
ろうと腰をすえることで次の「御声を聞く」ことに繋がっていく。


2015年02月18日(水)

「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:24 


       
信じて祈る時、素晴らしい約束を与えて下さっている。しかし、次
に続いている。「だれかに対して恨み事があったら赦してやりなさ
い。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪
を赦してくださいます」赦す事を強調されている。赦さない心は、
祈りを妨げるので聞かれない。

神があなたを赦して下さったのだから、恨み事のある相手を赦しな
さい、と。私たちは、しょっ中、失敗する者だ。しかし神は豊かに
赦して下さっている。罪を犯さないのではなく、罪は犯すが、赦さ
れて生きている。それゆえ、私たちも赦すべきだと。まず恨み事や、
憎しみや赦さない心があると、祈れなくなる。神と私たちの間に、
へだたりができてしまう。

すると、確信もった祈りができなくなる。あなたも経験あるだろう
か。ある人が、切実な必要があり、神の御前に出て祈っていた。し
かし、祈り続けるが与えられない。すると祈りの中で、ある人に対
し、恨みと敵意、苦々しい思いを根に持ち続けている事を示された。
これが祈りを妨げている事がわかり、悔い改めて赦した。

その後、見事に祈りが答えられた。赦さない心は、祈りを遮断して
しまう。祈りの答えを受け取るために、密かな恨み、赦さない心が
ないかどうか、御霊に探って頂こう。妨げが取り除かれる時、平安
ありすでに受けたと信じる事ができ、その通りの答えを得る。
-----------
いつまでも人を怨みたい、憎みたいと思うときは祈りたくない。祈
りから遠ざかってしまう。まずそこから主に聞いてもらおう。私た
ちは祈りなしには何事もできない。


2015年02月17日(火)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8



ある人が、ずっと誰にも頼らずに、自分の力で生きようと頑張って
来た。人に弱みを見せたら負けと、決して見せまいと、肩ひじ張っ
たて生きて来て、しんどい人生だった。失敗した時は、環境のせい、
相手のせいにして、突っ張って、いつも言い訳し、自分を正当化し
て来た。

そうしなくては、自分が崩れてしまうからだった。自分しか頼れる
ものが無く、自分しか信じられるものが無かった。そんな自分だっ
たが、対人関係で苦しんだ時に、友人に誘われるまま、教会に足を
運んだ。しかし、頑なな自我があり、自分を罪人だと認めることが
できない。又、神に頼るなどと、弱い者のする事で、到底受け入れ
られなかった。

自分の人生を、自分の力で生きなくてどうする。心にムクムクと反
発心が湧き上がった。しかし友人は親切であり、状況も苦しかった
ので、そんな思いながら通い続けていた。その状況が更に厳しくな
り、もうどうにも出来ず行き詰まってしまった。その時に「神が本
当におられるなら、わかりたいです」との叫びとなった。

その日から何かが変わった。罪人などでは決してないと思っていた
自分が、表向きは良い顔をし、しかし心の中で人を見下し、軽蔑し、
さばいている事を。又、人のためにと思いながら、実は人に良い人
だと見られたい虚栄心が動機である、自分の「罪」を示された。神
の御前に悔い改めた時に、今まで感じた事のない安堵、平安を経験
した。
---------------
御聖霊に教えられ、励まされ、慰められてこの世を歩んでいる。生
まれつきの自分にはない主の御思いがわかる者にされていることに
感謝して、少しでも従い整えられていきたい。


2015年02月16日(月)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13 




神は、御心にかなった思いを心に起こし、志を立てさせて下さる。
神は、「〜したい」「〜しよう」との思いを起こされる。だが、心
に起きて来る様々な思いが、すべて神からのものではない。サタン
も、心に思いを吹き込んで来る。自分から湧き上がって来る肉の思
いもある。

では、どれが神からの思いなのか。見分けるためには、その思いに
ついて、まずとにかく祈ることだ。まず祈りに持って行く。そして、
その思いは、聖書全体の原則にかなっているか。御言葉に反するも
のは、決して御心ではない。目的のために手段を選ばないものも、
神からではない。不正な方法で事をされない。神から出たものであ
れば、目的も手段も正しく導かれる。

それは人の徳を立て、霊的成長に役立つものか。御霊は、意味もな
く人を傷つける事はされない。誰かを傷つけるものなら、それは御
心とは違う。又、御心の思いは、時間を経ても変わらない。その場
で思いついた肉の思いなら、気分次第で変わるし、続かない。簡単
に消えてしまう。

特に重要な事柄であれば、よく時間をかけて祈ることだ。神の御心
なら、その思いは変わらない。環境も伴って行く。又、指導者に祈
ってもらうと良い。御心は一つなので、御心なら必ず一致があり、
共に平安が与えられる。神からの志を見分けて、受け取り、従おう。
神が事を行わせて下さる。栄光を現される。
------------
思いに来る「志」をよく見極めて御心に従いたい。見極めることも
従って行くのも容易ではないが、進んでいく中でまた主の導きも具
体的に悟ることが出来る。


2015年02月15日(日)

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにで きようか」伝道7:13



信仰生活の中で、経験するだろうか。すべての環境は主から来てい
るのだが、その状況が、自分の思い通りでないので、受け入れられ
ない。そのため、状況を変えよう、変えようとする。不満で仕方が
ない。自分の思い通りにしたいばかりだ。状況を変えよう、相手を
変えようと、悪戦苦闘する。

どんなに苦闘しても、全く何も変わらないことを見い出す。疲れ果
ててしまうばかりの、不毛の戦いをする。変えようとするが、何一
つ変わらず、ギブアップして、主の御前に静まる。そして、祈りに
持って行った時に、「神が曲げたもの」だと言われる。「これはわ
たしが曲げている」との御声を聞く。それを自分で懸命にまっすぐ
にしようと、何とかしようと走り回っていた事に気づく。

ある人が子供の難病を、どうしても受け入れられなかった。なぜ?
どうして自分の子が?と涙は溢れ、グルグル思いは回り、苦しく、
つぶやき、心は辛くてたまらなかった。神に対して反抗的になって
いる自分がいた。同年齢の子供を見れば涙が出た。悶々の心は苦し
くてたまらず、とうとう限界に達した。

もう行き詰まり、煮詰まり、ギブアップした。自分自身も子供も将
来も、不安も恐れも何もかもを、主に明け渡した。その時、状況は
全く変わらないのに、心に初めて深い安堵と平安が臨んだ。自由に
された。委ねられないで握っているなら、その事を主に告げて、あ
りのままの心を祈ろう。明け渡して行く時に、心がまっすぐにされ
る。

・・・・・・・・・・・・
主が曲げておられるものを、まっすぐにしようと、不毛の戦いをし
ていないだろうか。思い当たる事があるだろうか。祈りの方向変換
をし、受け入れられるように求めよう。受け入れる事ができる時、
曲がったままで、心は平安と安堵に満たされる。


2015年02月14日(土)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3


信仰人生に様々な事柄が起きる。嬉しい事、喜ばしい事、幸せな
事があると同時に、辛い事、悲しい事、苦しい事も必ず起きて来る。
そして私たちは、辛い事が起きた時に、その不幸の原因を、環境の
せいにしたい。対人関係の問題は多い。あの嫌な人がいるばかりに、
職場が辛い。あの人さえいなければ・・あの上司、あの同僚さえいな
ければ、快適なのに・・。

悩みの原因として、特定の人が浮かび、その人のせいと、憎しみが
湧くだろうか。神がおられるなら、なぜこのようになっているのか
と、不満だろうか。しかし「主はその愛する者を懲らしめ」とあり、
懲らしめは愛だと言われる。今は、わけがわからない、理解できな
い事が起きていても、主の動機は「愛」だと。

祈り込んで行こう。主が教えようとされている事があって、見えて
来る。自分の中の出っぱっている所が削られる。高慢か、プライド
か、虚栄心か。どうしてその相手が嫌なのだろう。自分の内の、何
に触れるのだろう。時に自分の中の、自分が嫌な、受け入れ難い部
分があって、それを相手に見る時に、相手を嫌うと言われている。

相手でなく実は自分を嫌っていて、自分の問題となる。又、へりく
だる事を学ばせられているかも知れない。ひざを折って、主の御前
にへりくだること、それは同時に相手の前にもへりくだることだ。
主が学ばせたいと思っておられる事が、受け取れるように祈ろう。

・・・・・・・・・・・・
対人関係に、困難な状況に、反応する自分の内側に目を留めてみよ
う。自分の内の何に刺さるのか、何に触れ、引っかかるのか、主は
大きな成長を与えようとして下さっている。自我が砕かれる時だ
ろうか。へりくだる者と造り変えて下さる。


2015年02月13日(金)

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです・・」ヤコブ1:17  





人は自分の願いが叶うなら幸せになれると思う。こうして欲しい、
ああして欲しい、自分の欲を満たそうとする。そうするなら、幸せ
になり、心に満足が来ると信じている。しかし実際はそうではない。
富を手にすると、満足するのでなく、ますます貪欲になる。それに
は際限が無い。

富んでいる人ほど満足がない。更に求め、幾ら得てももうこれで良
いという事がない。そして、貪欲は、無いものばかりを数える。無
いものばかりに目を向け、ますます不平不満が募る。又、不安と思
い煩いに陥る。あれが無い、これも無い。あれもこれも思うように
ならない。惨めで、心はいつも満たされず欲求不満、口を開くと愚
痴と不平が出る。

こうなって来ると祝福のかけらも見えなくなってしまう。豊かな祝
福に囲まれているのに、それが見えない。自分で恵みを閉め出して
しまう。暗闇の中だ。目を転じて上を見上げ、今、現在、その場所
で、神を認めよう。まず与えられているものを数えて、目を留め感
謝を献げよう。悪循環が断ち切られる。

それらは決して当然ではなく、偶然ではない。神からの賜物だ。感
謝を始める時、当り前の一つ一つのものが、実は「神からの贈り物」
である事に、目が開かれて来る。そして神が見えて、溢れる恵みが
見えて来る。恵みは十分であることがわかる。状況から目を離して、
神を見上げる時。心が変えられる。 
-------------
感謝がなくなれば傲慢になり無いものを満たすことが目的になる。
今、与えられているものは、光の父から下っている。感謝していこ
う。私たちの思いも引き上げられていく。


2015年02月12日(木)

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」イザヤ43:4



有名な例え話を耳にした事があるだろうか。動物学校があり、訓練
をしていた。空を飛ぶこと、走ること、水泳、木登りの訓練だった。
鷲は、飛ぶ事が大得意、しかし他の事はだめで、気落ちし自分を責
めていた。速く走ろうと足を痛めてしまった。アヒルは水泳が得意
だが、空を飛べないので、鷲が羨ましくて仕方がない。飛べない自
分に、自己嫌悪だ。

うさぎは走りは得意、しかしどうやっても空は飛べないので、落ち
込んだ。リスは木登りは大得意だが、はやり空が飛べない。劣等感
にさいなまれ、走りも自信が持てなくなった。笑ってしまうが、自
らも同じ事をしていないだろうか。それぞれ造られ方が全く違う。
同じ人はいない。それぞれの良さ、得意分野が違う。与えられた賜
物が違う。

それを他と比較し、他を羨み、他のようになろうとするなら、自分
に与えられたものまで生かされずに終ってしまう。神は私たち皆を
「違って」造られた。違っていて良い。自分に与えられた賜物を見
い出し、与えられた場で、神のために使って行く時、喜びの中で生
きて行ける。

その時、与えられた個性が見事に開花される。周囲を見て落ち込ん
でいないだろうか。比較すると必ず落ち込む。優越感と劣等感をぐ
るぐるする。優越感に浸りたいのは、劣等感があるからだ。横でな
く、上を見て、愛されていること、賜物が与えられていること、使
命があることを確かなものとして行こう。
------------
一人一人にふさわしく賜物は与えられている。みな一緒ではないか
らそれぞれがその賜物を持って仕えあっていける。横に目が行くと
きは御神を仰ごう。あなたは高価で尊いと認めていてくださる。


2015年02月11日(水)

「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたの立っている所は聖なる地である」使徒7:33




人間が高慢にならないように、人の計画を止められることがある。
エジプトの王子であったモーセは、40歳の時に、自分で計画し、虐
げられている同胞を救おうとした。しかし、エジプトの看守を殺し
てしまった。善をしようとしたのに、失敗してしまった。そのため
ミデヤンの地に逃亡する事になる。

ある人が証しした。プロジェクトを立ち上げ、自分が、自分が、と
前に出て、進めていた時に、急病で入院になってしまった。結局、
周囲に迷惑をかける事になったが、自らの高慢を示されたと。一片
のへりくだりもなく、周囲を立てる事もなく、あのまま行っていた
ら、何と恐ろしい事になっていたかを、思い心から感謝したと。

自信満々であったモーセは、荒野で砕かれた。何も無い荒野で羊を
追って40年の歳月、栄光も栄華も何もかも、遠い過去のものとなり、
消え失せてしまった。家族を持ち、地道な平穏な日々に、それなり
に幸せも感じていたかも知れない。この何の変哲もない、地道な歳
月が、モーセ整えのための、訓練であり、神のご計画であったとは。

神は、出エジプトのリーダーとして、モーセを定めておられた。そ
のために着々とご計画を進めておられた。私たちも、今、意味がわ
からない場所に置かれているなら、又、忍耐が必要な場所に置かれ
ているなら、それは神のご計画の内だ。あなたをそこで訓練し、整
えて、ご用のための器と準備されている。神に無駄は一つもない。
------------
ドラマチックな場面もなく、何も変わらない毎日に腐って行くよう
な気がすることがあれば、また息もつけない試練の日々に御神をい
つも身近に感じるときもある。あの場所もこの場所も、聖なるご計
画の地を歩まされている。


2015年02月10日(火)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:26



「怒っても、罪を犯すな」と「怒り」と「罪」を分けている。私た
ちは、ともすると「怒る=罪を犯す」と思い、怒り=罪にしてしま
う。そのため、怒ってはならない、どんな時もクリスチャンはニコ
ニコしていなければならないと思う。しかし、怒りと罪の間の線が
必要だ。でなければ、「訓戒」や「教育」「しつけ」が不可能にな
る。

主も非常に怒られた。祈りの場であるべき境内が、商売の場とされ
ている事に怒り、「宮の中で売り買いする者たちを、皆追い出し、
両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された」と。「私たち
の大祭司は・・罪は犯されませんでしたが」とあり、主は罪を犯さ
れなかった。だから、怒り自体は罪ではない。

そして「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機
会を与えないように」とある。怒り続ける事が問題だ。その抑圧さ
れた怒りは、悪魔に機会を与えてしまう。鬱積し、復讐と姿を変え
て行く。それはよくニュースで見るように、殺傷事件にまで発展し
て行く。カインは妬みが憎しみに高じて、アベルを殺害してしまっ
た。

普段の生活で、相手に腹を立て、黙り込みを決めるのも一種の復讐
だ。私たちはまず主のもとへ行こう。その怒りを主にことごとく告
げよう。主との交わりの中で、心を落ち着かせて下さり、主が指針
や示しを与えて下さる。御言葉を与え、具体的にすべき事も教えて
下さる。
--------------
怒るにはそれなりの理由があっても、それを正当化しそれで心を落
ち着かそうとするのは間違いだと学べる。黙っていても心で攻撃し
ているなら罪だ。すぐにその感情を主に告げよう。


2015年02月09日(月)

「主は、だれがご自分のものか、だれが聖なるものかをお示しになり、その者をご自分に近づけられる。主は、ご自分が選ぶ者をご自分に近づけられるのだ」民数記16:5 



コラの反乱と言われているが、コラとその共謀者達が、250人と共
にモーセとアロンの権威に反抗した。「なぜ集会の上に立つのか、
分を越えている」と。しかし、神ご自身がこの反逆に決着をつけら
れた。「あなたがたが分を越えているのだ」と地面が割れ、反逆す
る人々は飲み込まれた。神がさばきをされた。

その後、神は明白なしるしを与えられた。12部族にそれぞれ、1本
づつ杖を持たせ、神が選ぶ者の杖は芽を出すというものだった。す
ると、アロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、アーモンドの実を結
んだ。神が民の不平を静められた。私達もそれぞれに割り与えられ
た、分をわきまえる事は大切だ。神が、今の場で、一人一人に与え
られた分がある。それぞれの立場や役割は、神からのものだ。

分を越えていたのは、コラや共謀した人々の方であった。今与えら
れた場所で、立場、役割において他の人々と比較してしまい、羨望
や妬みはないだろうか。自己憐憫はないだろうか。他の立場や役割
への嫉妬は恐ろしい罪へと増幅して行く。妬みから、憎しみや、邪
悪な行ないが生まれる。

あなたを今の場に置かれたのは、神だ。「自分の領域を守らず、自
分のおるべき所を捨てた」のがサタンだ。神を認め、分をわきまえ、
今の立場と役割を感謝しよう。感謝して受け入れる時、神はその所
であなたを祝福して、あなたを大いに用いられる。
-------------
現状に不満も妬みもすぐに湧いてくる。ここは神が置かれた所だ。
それを忘れると必ずサタンが来る。まずモーセのようにひれ伏し、
現状を神に告げ、それから自分に与えられた領域を見てみよう。


2015年02月08日(日)

「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何で もしてあげてください』」ヨハネ2:3 


婚宴で、ぶどう酒が不足するという事態が生じた。当時の結婚式に、
ぶどう酒は非常に重要なもので、あってはならぬ大失態だ。花婿花
嫁の面目にもかかわる。同様に、私たちの人生でも、ぶどう酒が無
くなるという事態が生じる。様々な失敗や過失を犯してしまうし、
又、突然、病気やけが、倒産やリストラ、離別や難しい対人関係、
経済的困窮・・喜びのぶどう酒が無くなってしまう。

その時に、自分で立ち回り、自分で何とかしようと懸命にもがく。
何とかしようと、まさに水からぶどう酒を作り出そうとする。必死
になり、悪戦苦闘し、しかし、自分でぶどう酒など作れるはずもな
く、行き詰まり、身動きが取れなくなる。疲れ果ててしまう。

そんな時に、私達のする事は、自分でぶどう酒を作り出すことでは
ない。又、目の前の状況を何とか変えようと、悪戦苦闘する事では
ない。空回りするばかりだ。自分でするのではなく「あの方が言わ
れることを」主が言われる事を聞き、従うことだ。目を注ぐのは主
ご自身にであって、目の前の状況でなく、問題ではない。

その時に、主が働いて下さる。主の言われる通りに従う事は、水か
めに水をくむ事だ。そうするなら、主が水をぶどう酒に変えて下さ
る。みわざをして下さる。あなたの目の前の問題でなく、まず主に
目を注ごう。そして、「あの方が言われることを」行おう。その時、
奇跡を見る。今、言われている事があるなら、すぐに行なおう。

・・・・・・・・・・・・・
困難が生じた時に、何とかしなくてはと、即、自分の思いが巡り、
対応策をあれやこれや考える。しかし解決の道は、まず主に祈り、
主に示された事を行なってゆくことにある。御霊の示しに従うと
みわざを見て行く。


2015年02月07日(土)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18: 12 


謙遜の代表と言われているモーセ。「地上のだれにもまさって、謙
遜であった」と記されている。しかし、最初からそうではなかった。
生後40年は、王家の王子として過ごした。人々から、ちやほやさ
れ、あらゆる学問を身につけ、ことばにもわざにも力があり、文武
両道、非常に有能な人物であった。

自分に自信があり、地位と力があり、自分こそが同胞を救えると思
ったが、皆の理解は得られず、結局、ミデアンの地に逃亡すること
となった。見渡す限りの荒野で、何も無いところで、モーセは羊飼
いとして生活した。王家の王子が、荒野で一介の羊飼いとなった。

自分の無力に打ちのめされた。力の無い自分を見せられ続けた。名
誉、地位、富、人からの称賛、栄光、プライド、輝かしき将来、す
べてをはぎ取られたのだ。しかし、これこそがモーセの真の富とな
った。荒野の試練の中で、自信に満ちたモーセは砕きに砕かれ、へ
りくだった、柔和な者へと変えられて行った。

神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。これは
普遍の法則だ。モーセは荒野で砕かれ変えられ整えられ、40年後、
今こそが、有用な、間に合う器として、民をエジプトから導き出す
という大きな働きのために用いられた。神はへりくだった者を用い
られる。信仰の一番の妨げは高慢だ。今、もし荒野にいるなら、大
きな祝福の手前だ。へりくだって、今いる場所で、神に従おう。

・・・・・・・・・・・・・・
自分の思い、自分の力で歩むことが、高ぶりだ。信仰人生の中で、
自らの無力を思いきり知らされる時がある。高ぶりを砕かれ、へり
くだらされる。その時は痛いが、自分の力が砕かれ、主に拠り頼み、
主と近く歩めるようにされる。


2015年02月06日(金)

「そこで、イエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか』」マルコ10:51



バルテマイは、こじきだった。人々から物乞いをして生活していた。
人々から金銭を、物を、恵んでもらって生きて行っていた。だから、
主に「わたしに何をしてほしいのか」と問われた時に、金銭や物を
求めても不思議はなかった。しかし、主に求めたものは、金銭では
なかった。「目が見えるようになること」だった。

それは、この方にはそれができるとの、信仰があったからだ。それ
がなければ、求めることはしない。彼には信仰があった。その信仰
は「私をあわれんでください」との叫びとなった。彼を黙らせよう
と、大勢にたしなめられても、黙るどころか、ますます叫び立てた。

もし、主が受け止めて下さると信じられなければ、叫び続けること
などしない。又、まず主に求めもしなかっただろう。彼は必死だっ
た。この時、このチャンスしかない、二度と機会は無いと全身で叫
んだ。ザアカイも同様だ。今を逃してもうチャンスは二度と来ない
と、木にまで登った。

もし、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、又、ザ
アカイは一生虚しい何の喜びもない暗い日々が残されているだけだ
と、絶対にこのままでは帰れなかった。主はその心の底からの求め
に、目を留め、答えて下さった。私達はどうだろう。

バルテマイの求めがあるだろうか。与えられても与えられなくても、
どっちでもよい程度のものだろうか。又、はなから諦めてしまって
いるだろうか。彼は何も出来なかった。唯一「あわれんで下さい」
との叫びだけが「できた」。この神への求めを、神は待っておられ
る。そして喜んで下さる。
-----------
主の問いかけに何と答えているだろう。家族の病の癒しを祈り、一
日の祝福と守りを祈るが、本当にあわれみを受けたいところを素直
に求める信仰で主に差し出しているだろうか。


2015年02月05日(木)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます」詩篇23:2 



あなたも、慌ただしい忙しい毎日だろうか。1日のスケジュールは
ビッシリで、為すべきことは目の前に山積だ。幾らやってもきりが
ないほどだ。そんな時、ピリピリし、イライラしてしまう。心に余
裕が無くなっている。しかし、そんな中で、日ごとに、主の御前に、
静まる時を持つ事は極めて大切だ。

日々追われるように、バタバタと生活しているが、御前に静まって、
御言葉を前に、思いを巡らすことは大切だ。自分自身は御言葉に従
って生きているだろうか、御言葉からそれていないだろうか、心に
罪は無いか、御霊に導かれ、よく心を探ってみることは必要だ。

神を意識し、御言葉に照らし、自らの内面を見つめるための、静ま
る時を、意識して持たない限り、日々の生活に、世の流れに流され
てしまう。神の御心に、御言葉にそれているなら、それは罪だ。罪
からは、必ず苦しみが生じる。これは神の法則だ。神に従うなら喜
びと平安が満ち、罪を犯すなら平安が失せて、苦しみと悲惨が来る。

私達の現在の日常はどうだろう。神の前に罪を清算しないまま、罪
の上に罪を重ねて、喜びと平安を失い、重い暗い心で歩んでいない
か。失望で落ち込んだまま、沈んでいないか。神の前に静まる時、
悔い改めに導かれたり、指針が与えられたり、気づきが与えられる。
神の霊に触れて、心が新たにされる。喜びと平安に満たされる。
------------
外の騒音からは逃れられても自分の内の騒がしい声は、きちんと
一人で主のもとに行って、一つ一つ御前に新たにされるしかない。
罪や思い煩いを、平安と喜びに変えてくださる主の下で憩おう。


2015年02月04日(水)

「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません」マタイ14:17



私たちに、諦め思考、マイナス思考が無いだろうか。「私ごときが
少しぐらい証ししても何になる、何も変わりはしない」「こんな微
々たる献金は焼け石に水で、何の足しにもならない」「私が、少し
ぐらい祈っても無駄だ。何の力にもならない」「こんな微力の祈り
が聞かれるわけない」「どうせ、私一人などが何かをしても、何の
役にも立ちはしない」「こんなに大勢の未信者の中で、私一人で何
ができよう」ふっと心に湧いて来ないか。

サタンがささやいている。「無駄だ」「何になる」「何の役にも立
たない」あの少年の5つのパンと2匹の魚、幼稚園のお弁当ぐらい
の微々たるものを、こんなもの何になると、主のもとへ持って行か
なければ、どうだろう。少年は奇跡を目の当たりにし、又、自分が
用いられるという大きな喜びを経験できなかった、又、皆もこの奇
跡を見る事は出来なかった。

神は全能の力を持っておられる。「パンが5つと魚二匹・・ほかあ
りません」「それをここに持って来なさい」これが何になろう、そ
の微々たるものを、私が何が出来ようと思う、あなた自身を、神の
もとへ持って行くなら、献げられたものを用いて奇跡をされる。

神が働かれる。どんなに僅かであろうと、小さかろうと問題でない。
神は祝福され、又、周囲の人々も十分満ち足りて、満腹する。周囲
の祝福の器とされる。あなたも用いて下さる。喜びが満ちる。何を
示されていたら、従おう。
-----------
自分の手元にあるものだけを見ていると「だめ、無駄」と思えてく
る。自分ではなく、主を見ていこう。僅かな物を献げることを主が
喜ばれないことなど、あるだろうか。


2015年02月03日(火)

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません・・心を弱らせてはなりません」イザヤ7:4



ユダのアハズ王の時、アッシリヤの脅威があり、アラムと北王国イ
スラエルはアハズが同盟を拒んだため、ユダに攻撃をしかけようと
した。この時、アハズ王とユダの民は「王の心も民の心も、林の木
々が風で揺らぐように動揺した」。

しかし、イザヤは主から言葉を受け、恐れるな、静かに主に頼るよ
うに、それは起こらない、落ち着いているようにと語る。しかし、
アハズ王はアッシリヤの援助を求めに走る。アラムも北王国もアッ
シリヤによって滅ぼされる事になるが、ユダも滅亡への道をたどる
事になる。

私達の日常はどうだろう。突如の事態が起きた時、どうだろう。木
々が揺らぐように、大きく動揺するだろうか。アハズのようにパニ
ックになり、驚きあわて、肉の知恵、方策に頼り、方向違いに向か
うだろうか。今、動揺する事態が目の前にあるだろうか。神の言葉
はこう言っている。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れては
なりません。この事態に心を弱らせてはなりません」

恐れないで、神を信ぜよと。まず慌てないで、心静めることだ。自
分で方策を持ち出したり、立ち騒ぐのではなく、まず神を仰ぎ、こ
とごとく気持ちを、思いを告げて、祈ろう。そうする時、神が祈り
に答えて、なすべき事を、御心を示して下さる。神が示された道へ
進もう。
------------
何故こんな事態になったのか、どこがいけなかったのかと動揺はあ
るが、そこから先が私たちは違う。どうするかは神に訴え、尋ねる
ことができる。導きの主に祈り落ち着こう。主が心をも守ってくだ
さる。


2015年02月02日(月)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子度もです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです」ガラテヤ4:28




主はアブラムに、アブラムから生まれて来る跡継ぎを与えると約束
された。そして子孫は天の星のようになると。しかし見えるところ
一向にその気配は無く、サライは自分が子供を産めないので、奴隷
ハガルによって、子をもうける事をアブラムに提案した。アブラム
はサライからの申し出であったので、そのようにした。

これは人間的な思い、アイデアであった。しかし、御霊によらない、
肉の思いであって、肉の行為は、必ずトラブルと悩み、問題、混乱
を生み出す。自分にとどまらず周囲にも害が及ぶ。子供をみごもっ
たハガルは高慢になり、女主人であるサライを見下すようになる。
するとサライは、ハガルをいじめ、ハガルは逃亡することになる。
そこで主が介入された。

ハガルは奴隷であって、自分で選択不可能な立場にあった。その事
には責任は無いが、しかし自分の態度には責任がある。肉の判断に
よる行ないは、必ず問題を生じる。まず祈らなければ、人の人間的
な意見は、しばしば罠になる。人間的にこれは最善と思える方法が、
神の方法ではない。

肉の判断、肉の行動、肉の結実への警告だ。まず祈り、神の判断、
神の方法を求めよう。サタンは非常に急かせて、焦らせる。早く結
果が欲しいので、そのところに働き、肉の行ないに誘惑する。神は
必ず導かれる。肉で動かず、御霊の導きをじっと待ち望もう。主が
成し遂げられる。
--------------
自分にとっていま何が有利で、いま何をするべきかと、肉の判断は、
狭い視野の中で簡単に間違った答えをだす。神の御心はどこにある
のか、よく祈って導きをまとう。


2015年02月01日(日)

「彼らが町へ上って行って、町にさしかかったとき、ちょうどサム エルは、高き所に上ろうとして彼らに向かって出て来た」Tサムエ ル9:14

             

民が王を求めた時、サムエルの気に入らなかった。しかし、主は
「聞き入れよ。このわたしを退けたのだから」と。民に警告がなさ
れたが、尚も民は聞く耳を持たずに、王を求めた。そのため、主は
民の言う事を聞き入れ、サウルを王に立てられた。

その時のサウルとサムエルの出会いが絶妙だ。サウルの父親の雌ロ
バがいなくなり、捜しに出る。サウルは捜し回り、ツフに至る。見
つからないので、帰ろうとすると、連れの者が、丁度この町に神の
人がいるから聞こうと提言する。サウルは同意し、町へ入ると水汲
みの娘達がいた。尋ねると、その神の人はちょうど今日、町に来て、
今からいけにえをささげるところで、すぐに行けば会えると。

進んで行くと丁度ピッタリ、サムエルに会えた。サムエルはその前
日に、一人の人を遣わすから、君主とするよう、示しを受けていた。
雌ロバ捜しから、パズルが埋まるように、すべてのタイミングが驚
くばかりにピッタリだ。あなたも、時や事柄がピッタリのタイミン
グで運ぶ経験があるだろう。

それはまさに主の働きであり、主が導かれているという事だ。主の
導きは御言葉と共に、環境からもわかる。今、導きを求めているな
ら、環境もしっかり見張っていよう。『ちょうど』のタイミングを
経験する

・・・・・・・・・・・・
主が働かれる時は、ジャストタイミングで事が導かれ、驚く。「ち
ょうど」「ぴったりに」門が開かれ、事態が動いて行く。まさに主
だ。時が満ちると、主が動かれる。主が事を行われるなら、誰もと
どめることが出来ない。主を待とう。