2015年03月31日(火) 「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25
「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25
聞いた御言葉を実行する時に、初めて実を結ぶ。聞くだけで、実行 しないなら、自分を欺いていると言っている。まず御言葉の聞き方 はどうだろう。自分の事として聞かず、他人事、傍観者として聞い てしまう。あの人に、この人にぴったりだった・・。種蒔きのたと えの、道ばたに落ちた種だ。 自分に語られた言葉として受け取らないなら、心に入ることがない。 又、この御言葉はもう知っている、との態度で聞く時にも、頭で聞 いているので、心に入らず、とどまることがない。サタンが種を奪 って行ってしまう。種が根付かない限り、実を結ぶ事は決して無い。 私たちの聞き方はどうだろう。他の事を考えながら、御言葉を聞い ていると、右から左へと何も残らず流れてしまう。サタンの妨害だ。 サタンが次ぎから次へと思いを吹きつけ、御言葉を入れさせない。 よく祈って御言葉を自分の事として受け取る時に、御霊の助けのも と、心に入って来る。その聞いた御言葉を、聞くだけで実行しない なら、「生まれつきの顔を鏡で見る人のよう」だと。 鏡で自分の顔を見て立ち去ると、すぐに忘れてしまう。御言葉は鏡 であり、自分の本当の姿を映し出す。罪を示し、見えない心の動機 を映し出す。しかし、そこで実行せずに立ち去ってしまうと、必ず 忘れてしまう。そこで悔い改めることが、御言葉を実行することで あり、その時に、確実に成長して行く。その行ないによって祝福さ れる。 ------------ そうだ、その通りだ!と思うことと、実行することの間に大きな開 きがある。いつもの生活の中に、一つの御言葉を実行しようとすれ ば、どれだけ主に頼らなければできないか。それを知れることも祝 福となる。
2015年03月30日(月) 「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14
「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです」マタイ20:14
ぶどう園で働く労務者が、早朝、9時、12時、3時、5時と順次雇 われた。早朝の者だけ1日1デナリの契約が交わされ、9時以降の 者は契約でなく「相当のもの」を出すからと。そして1日が終わっ た時に、5時の者から順に、皆1デナリが支払われた。1デナリは 当時の1日分の給料だ。 5時の者はどんなにか驚いたろう。ほとんど後片づけのようなもの なのに、丸々1日分貰えた。しかし早朝の者は怒りがおさまらない。 憤慨して、主人に文句をつけた。「1日中労苦と焼ける暑さを辛抱 した」と。それが同賃金とは不公平だと。しかし主人は全く不当な 事はしていない。1デナリ契約が正しく実行されている。 自分たちは辛く苦しいと言ったが、別の面から見れば、早朝からき ちんと1日分の報酬が確約されていた。この労働が終われば、賃金 を家族に持って帰れる。家族の喜ぶ顔が浮かんだろう。又早朝から 雇われたからには強健な人々だったかも知れない。ところが5時の 人々はどうだろう。怠けていたのではなく、働きたいが、ずっと雇 って貰えなかった。身体が弱そうだったのかも知れない。 夕刻迫るがその日の糧が無い。家族はどんなに落胆するだろう。そ の心細さ、思い煩い、不安と恐れを抱えて夕方まで過ごした。その 人々に対する主のあわれみ、慈しみ、配慮はいかばかりだろう。主 のお心はあわれみに充ち満ちたものだ。天の御国は、豊かなあわれ みが支配するところだ。 ----------- 主のご愛と慈しみの中で過ごしている恵み慣れてしまい、不平や不 満で感謝が飛んでいないだろうか。主との交わりの中で感情にいつ までも翻弄されず、不安定な心細さからもずっと守られてきた。
2015年03月29日(日) 「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、 誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」ヤコブ 3:14
「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、 誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります」ヤコブ 3:14
主の御心を求めようとする時に、主は、み声をかけられる。御言葉 を与えて導かれる。だが、サタンも同じ事をして、妨害しようと働 いて来る。主のみ声とサタンの声、どちらの声も聞こえて来る。主 がサタンの試みを受けるために荒野に行かれた時、サタンは「あな たが神の子なら、この石がパンになるように命じよ」と誘惑して来 た。 「あなたは神の子なのだから、この石をパンに変える事ができる、 そうしたら」と。つまり、主ご自身がこの石をパンに変えて食べよ うかと思われた。サタンは思いの火矢を吹き込み、誘惑して来る。 その誘惑に対し、御言葉で立ち向かわれた。「『人はパンだけで生 きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書い てある」と退けられた。 私たちが神の声とサタンの声を見分けようとする時に、もし心に、 悔い改めていない罪があるなら、妬みや憎しみをそのままにしてい るなら、苦い根があるなら、サタンの足場を与え、サタンの声を、 神の声と間違ってしまう。 「もし心の中に苦い妬みと敵対心があるなら・・真理に逆らって偽る ことになる」「妬みと敵対心のあるところには、秩序の乱れとあら ゆる邪悪な行ないがある」。 邪悪な思いのまま、識別しようとするなら逆方向へ行く。「上から の知恵は、第一に純真であり・・あわれみと良い実とに満ち・・みせか けのないもの」、心に妬みや敵対心の「苦い」ものがあるなら、悔 い改めよう。 「すべての悪意、すべてのごまかし、色々な偽善やねたみ、すべて の悪口を捨てて」とあるように、さやかに主の御声が聞こえるよう に整えて頂こう。 ・・・・・・・・・・ いつも二つの声がある。祈りがなければ、拠り頼んでいなければ、 正反対の方向に進んでしまう。悪意、ごまかし・・悪口を捨てて= 悔い改め、悔い改めて、血潮で赦され、赦され、平安の中を歩んで 行ける。赦された平安の中で、主の御声がわかって行く。
2015年03月28日(土) 「それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れ なかった。主が仰せられたとおりである」出エジプト7:13
「それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れ なかった。主が仰せられたとおりである」出エジプト7:13
パロは様々な災い苦しめられると、「お前たちを行かせる」と言い、 又、苦難が止み、落ち着くと、「行かせない」と言い、又、苦難が 来ると「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。お前たちを行 かせよう」と言う。 「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見 えるが、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なになり、強 情になる。口ではそのように言うが、心の底では思ってはいない証 拠だ。王であり、最高権力者であり、何もかもが自分の思い通りに 回って来たパロにとって、主の奇跡、みわざは、単に脅しに過ぎな かった。 脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、元に戻 る。主の奇跡のみわざが、主ご自身を知り、主のご愛や真実を知る に至ることに、ならなかった。私たちはどうだろう。試練はただ単 に災難であり、とにかく苦しみが去りさえすれば、それで良いのだ ろうか。それならパロと変わりがない。 「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。様々 な問題は、神が主であることを知るために送られている。それは、 主ご自身を知る時であり、又、自分内側が照らされる時だ。悔い改 めがあるかも知れない。きよめられ、一段階成長の時だ。又、主の ご愛を体験する時だ。 ・・・・・・・・・・・・ 視点の違いで天地ほど態度が違って来る。ただ痛い、苦しい、通り 過ぎて欲しいだけだろうか。渦中は痛いが、主の愛を知り、沢山の 学びを得て、砕かれ、主の栄光が現される。そこに立つ時、苦しみ の中にも希望がある。そして必ず乗り越えさせて下さる。
2015年03月27日(金) 「『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、そ の死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親 に返された」ルカ7:14
「『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、そ の死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親 に返された」ルカ7:14
やもめの一人息子が、死んでかつぎ出されるところに、主は遭遇さ れた。たった一人の息子を失うとは、母親は絶望であったろう。死 だけは、容赦なく立ちはだかり、後戻りも回復も不可能だ。すべて が打ち砕かれてしまった状況だ。 当時のやもめは、社会的に厳しい状況にあり、唯一頼りであった息 子、生きがいであった息子を失うとは。はらわた裂かれる思いだっ たろう。生きる望み、支えが無くなってしまい、泣き続けていた。 そこに、主が「泣かなくてもよい」と御声をかけられた。「かわい そうに思い」「深い同情をよせられ」「憐れまれ」とあり、強い心 底からの同情だ。腹の底からの憐れみが湧き出で、溢れ出て、主は 青年をいやされた。 母親から頼まれてではなく、一方的に主の溢れ出る憐れみによって であった。「青年よ。起きなさい」の言葉で、青年は生き返った。 主は口先でなく、「深い同情」と共に癒す事のできる「力」を持っ ておられる。「泣かなくてもよい」はその通りに実現した。 同じ主が、今、悲しみのどん底に、絶望にある私たちに、腹の底か らの同情を寄せていて下さる。そして、主の御口から出る言葉は、 私たちの心に奇跡を起こし、揺るぎない平安をもたらす。「彼を母 親に返された」取り返し不能、完全に失ってしまった状況に、決定 的解決を与えられた。この同じ主が、今、目の前にいて、あわれん でいて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 私たちが絶望と悲しみのどん底にある時、「泣かなくてもよい」が、 主のお心だ。主は断腸の思いで、あわれんでいて下さる。共に悲し み、心痛めていて下さる。主のあわれみがどんな時にも注がれてい る。そして主は神であり、力を持っておられる。
2015年03月26日(木) 「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください」詩編143:1
「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。あなたの真実と義によって、私に答えてください」詩編143:1
ダビデは非常に辛い状況にいた。息子アブシャロムの反乱に会い、 都落ちした。実子と戦う事を避け、逃げる道を選んだ。又、その時 に、ダビデの議官であるアヒトフェルがダビデを裏切り、アブシャ ロムに寝返った。 アヒトフェルの事を「私の同輩、私の友、私の親友のおまえが」と 言っている。ダビデが心から信頼していた人物であった。「私をそ しる者なら、私は忍べた」と。しかし「おまえは、いっしょに仲良 く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに」と。 親友に裏切られ、実子に歯向かわれ、どんなに苦しい胸の内だろう。 身も心もボロボロであった事だろう。しかし、これらの事も、姦淫 の罪、ダビデの蒔いた種の辛い刈り取りでもあった。しかし、ダビ デは、「あなたの真実と義によって、私に答えて下さい」と御前に 祈っている。 ダビデは、神は真実な正しい方で、罪が「赦される」事を心底信じ ていた。「血の罪から私を救い出てください」「しかし、あなたが 赦して下さるからこそあなたは人に恐れられます」と。ダビデは自 分の行ないや、自分の正しさでなく、神の真実と義に拠り頼んだ。 同様に、私たちも自分の側の根拠にいっさいよらず、主の血潮によ って、御前に行くことができ、全き赦しを受け取ることができる。 自分の蒔いた種がどのようなものであろうと、どのように苦しい時 も、血潮のゆえに御前に受け入れられる。赦されて、平安にされる。 何という恵みだろう。 --------- 完全な赦しがあるということは何と幸いなことだろう。悔い改めて 受け入れられた平安と共に、ますます十字架が大きく迫る。罪を悲 しむ思いも与えられ、へりくだらざるを得ない者にされていく。
2015年03月25日(水) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩編139:23
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩編139:23
ある人が職場で、一人の上司からずっと辛く当たられた。何で自分 ばかりがと、ひどく辛かったが、自分の何かが気に障ったようだっ た。周囲からも変な目で見られ、苦しい日々であった。自分は何も 間違った事はしていないと思う。何でこのような目に会うのかと、 心痛く悶々の日々だった。 体調も崩れて来た。仕事を休み、身体も休め、助けを求め主の御前 に静まる時を持った。余りの苦しさに、ハンナのごとく、祈りは叫 びとなり、涙となり、心の内を吐き出すように訴えた。思いを何も かも告げて、祈っていた。その時に、何も悪くないと思っていた自 分の心の底に、プライド、高慢、虚栄心、妬み・・自分の内にも隠 れた罪があることがわかった。 そんなものがあろうとは思いもしなかった。悔い改めることができ た。自分自身の内側が知れた事が感謝だった。その時、辛い状況に かかわらず、心に不思議に平安が来た。そして、辛かったが、この 事でしか、自分の内側にあるものを知ることはできなかった事を思 い、その事が感謝できた。 一つ一つの目の前の出来事に意味があり、自らの内側が照らし出さ れる。きよめられ、成長へと導かれる。辛い出来事が起きる時、ま ずよく祈ろう。主と交わろう。ことごとく内にある思いを主に告げ て行く時、御言葉に照らされながら、内側にあるものを知って行く。 ----------- 行き詰るたびに主から学べることがある。なぜこのことで痛みがあ るのだろう。主に告げ、御言葉に聞き自分の内にあるものを見て行 きたい。そこから次の祈りに導かれる。
2015年03月24日(火) 「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」Uテモテ2:13
「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである」Uテモテ2:13
ヤコブは、兄エサウから長子の権利を奪い、父からの祝福をも奪い 取った。父も兄も欺いた。兄は激怒し、家におれなくなった。家を 出て、伯父ラバンのもとへの途上、野宿し、石を枕に横になった。 その時に、主がヤコブのかたわらに立たれ、驚くべき事を語られた 「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わ たしは・・この地を、あなたとあなたの子孫とに与える。あなたの 子孫は地のちりのように多くなり・・地上のすべての民族は、あな たとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとと もにあり・・あなたをこの地に連れ戻そう」と。 何という壮大な祝福だろう。自分の利得のために、人をだまし、押 しのけ、自己中心に生きて、孤独で、寂しく、惨めな状況になった ヤコブ。そのヤコブに、主は驚くべく恵み深く、尚も将来も大きな 祝福を備えていると。これは主の一方的な恵みであり、主権であり、 私たちにも同様だ。 私たちがどんなに自己中心で、自分の利得を求め、ひどい者であっ ても、そんな事はすべてわかった上で、愛して下さっている。受け 止められた上での愛だ。だから、主の前で良い人の振りをして、取 り繕う事も、本当の自分を隠す事も無い。心の内の醜さも、何もか も知って、愛して下さっている。 そして私たちの人生を大いに祝福し、喜びに満ちたものにしようと して下さっている。この主のご愛を「有難うございます」と受け取 ろう。主の愛を堅く信じて、何があっても、そこから動かずに歩む 時、目に見える光景が違って来る。 ------------ 私たちの罪深さを忍耐しその上で十字架にかかられた主の一方的な 大きなご愛の前に、自分の弱さばかり見て、止まっている場合では ないと励まされる。主の愛をみあげて進もう。
2015年03月23日(月) 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」伝道3:11
御言葉は、すべての事において、神による「定まった時期」があり、 「神の時」があると言う。詩編には「私の時は、御手の中にありま す」とあり、又、主も「時」を非常に重要とされた。「わたしの時 がまだ満ちていないからです」「わたしの時はまだ来ていません」 と、「わたしの時」があり、「見なさい。時が来ました」と。 私たちの信仰生活でも、あらゆる事に「神の時」がある。自分では 「最善の時」「今こそ」と思っても、それが「神の時」でなければ、 思いばかりが先走り、事態は何一つ動かない。自分では何とかしよ うと懸命に頑張るが、空回りするばかりだ。経験あるだろうか。振 り返れば、神の時では無かった・・あの時、この時。どうやっても、 事が動かない。 逆に、神の時には、微動だにしなかった状況がどんどん動いて行く。 驚くばかりに事が動く。人の手によらずに、環境が開いて行く。ま さに神であることがわかる。それゆえ神の時を「待つ」ことを学ば せられる。「神の時」には、チャンスを逃さずに捕らえることが必 要だ。「すべての人が時と機会に出会う」、しかし、祈っていなけ れば、せっかくの神の機会を逃してしまう。 「神の時」には、前進し、行動して行こう。神の時と機会を捕らえ、 従って行くなら、神の約束が実現し、神の大きなみわざを見る。又、 今まだ「時」でないなら、忍耐して待ち望もう。神の時は来る。そ の神の時は「美しい」。「美しい」とは、そこに感動がある。 ------------ 自分の思いが強いときは勢いもあり、神の「時」では?と見間違う。 美しい神の「時」の出会いを悟れるよう、祈りながら、絶えず見張 っていよう。
2015年03月22日(日) 「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ」 箴言4:20
「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことに耳を傾けよ」 箴言4:20
有名な寓話がある。ある親子がロバを連れて旅をしていた。通行人 が言った。「せっかくロバを連れているのに、誰も乗らないなん て!」父親は「そうだ」と思い、息子を乗せた。すると通行人が言 った。「何と親不孝な息子だ。自分がロバに乗って、父親を歩かせ るとは」そう言われた息子は降りて、父親をロバに乗せた。 すると別の通行人が「何てひどい父親だ。自分がロバに乗って、息 子を歩かせるなど」。それで、親子でロバに乗った。すると今度は 「何とひどい!ロバに2人も乗るなんて」親子はどうして良いかわ らず、2人でロバをかついだ。 「人の語ることばにいちいち心を留めてはならない」とあるが、人 を気にして生きると、どこに向かうかわからない。羅針盤を失った 船のようだ。私たちが心を向けるのは、人の言葉でなく、神の言葉 だ。主はどう言っておられるのか。御言葉と人の言葉とどちらが基 盤になっているだろう。どちらに聞いて行ってるだろう。 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ・・感謝 にあふれて心から神に 向かって歌いなさい」御言葉に心を留めて 行く時、感謝と賛美が溢れ、他人の言葉に心煩わされ、振り回され る事から守られる。又、自分自身も、人に向かって語るなら、問題 が起こるような事は、人に向けず、まず主に語り、主に聞いて頂こ う。主は受け止めて導いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ まず主の御声によく耳を澄まし、耳を傾けよう。人からどう思われ るか、人の目を気にする思い、肉から湧き上がる自分の思いがある。 人の声でも自分の声でもなく、まず主がどう言われているか、主を 仰ごう。そこから確かな導きが来る。
2015年03月21日(土) 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません」ガラテヤ5:16
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足さ せるようなことはありません」ガラテヤ5:16
生まれつきの性質は、神に従いたくないものだ。「肉の思いは神に 対して反抗するものだからです」。自然体で行くと、自分の思い通 りに、好きなように生きて行く。それが肉にフィットして心地良い。 人のために祈れと言われるが、敵対して来る人のために祈りたくな い。肉は御言葉に従いたくない。 「偽りを捨て・・真実を語れ」と言われるが、「この場は適当にうそ をついた方がうまく行く」と、肉は御言葉と正反対に行く。自分の 思いを取ると、神の言葉を捨ててしまう事になる。はっきりと信仰 に立たねばならない時に、この場は、あいまいにしておいた方が、 角が立たなくて良いと思ってしまう。 その肉に従うなら、カメレオンのように、自分をコロコロ変えて、 その場に合わせてしまう。だが結局、後で窮地に陥る事になる。御 言葉でなく、人に合わせると、その中にいる限りでは、肉の安心感 がある。そのため人前を繕い、良く見せようとする。それは一見、 うまくやって行けるように見えるが、「肉に従って生きるなら、あ なたがたは死ぬのです」。 神の言葉でなく、人にどう見えるかで振る舞い続けると、いつしか 本当の自分がわからなくなる。しかし主に明け渡し、御霊に導かれ て生きて行く時に、自分が変えられる。御言葉に従って行こうとす る新しい自分がいて、人を愛そうとして行く。「御霊によって歩み なさい」。目の前の示しに一歩従おう。 ・・・・・・・・・・・ 生まれつきの性質、肉は、根深くある。「人の心は何よりも陰険で、 それは直らない」。だから御霊が道筋を示し、力を下さる。御霊の 示しに一歩づつ従う時に、変えられて行く。そして自分ではなく、 神の力を知る。
2015年03月20日(金) 「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」箴言27:5
「あからさまに責めるのは、ひそかに愛するのにまさる」箴言27:5
御言葉には、対人関係での問題の、具体的な取り扱い方が示されて いる。相手に罪があれば、まず「ふたりだけのところで責めなさい」 と。当の相手でなく、関係の無い第三者のもとへ行き、当事者をあ れこれ批判し、罪に定めるのは良くない。巡り巡って当事者の耳に 届く。そうすると誤解が生じ、感情的にこじれ、余計問題がややこ しくなる。 当時、罪を犯した人は、大勢の人々の前で責められた。姦淫の現場 で捕らえられた女性も、大勢の人々の前で断罪された。しかし、主 は、彼女に一対一で向き合われた。「ふたりだけのところで責める」 とは、相手の人格を尊び、大切に扱うことだ。それが罪を指摘する ことができる、信頼関係が土台となる。人前で責められると、心を 閉ざしてしまう。 そして責める目的は「兄弟を得る」ためだ。単に裁くためでなく、 関係を建て上げ、培い、深めて行くためだ。罪を責める動機はどう だろう。「愛」によらず、単に自己正義、義憤だけなら、更に関係 を悪化させてしまう。「愛がないなら、やかましいどらや、うるさ いシンバルと同じです」。何一つ言葉が心に響かない。何も成し遂 げない。 主の動機はどこまでも「愛」だ。「もし誰かが過ちに陥ったなら、 御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさ い」よくよく祈って御霊に導かれて、愛によって対応する時、その 言葉は用いられる。 ----------- そこに裁く気持ちはないだろうか。よく祈り整えられて対応したい。 無責任な気持ちは言葉に表れる。愛が動機であるか、相手を傷つけ ないよう、まず吟味してみよう。
2015年03月19日(木) 「こうして、彼らは・・彼とイスラエルの人々に言った。『私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください』」 ヨシュア9:6
「こうして、彼らは・・彼とイスラエルの人々に言った。『私たちは遠い国からまいりました。ですから、今、私たちと盟約を結んでください』」 ヨシュア9:6
ギブオン人が、イスラエルに受け入れて貰うために、計略し、変装 した。古びた格好をし、ボロボロの物を持ち、遠い国から来たと見 せかけた。そして身を低くし盟約を結ぶよう頼んだ。それでヨシュ アは和を講じた。が、3日後、実は彼らが近くの者で、自分たちの 中に住んでいる事を知った。 だまされたと知ったが、主にかけて誓ったがゆえに、どうにも出来 なかった。その誤った判断の原因は「主の指示をあおがなかった」 とある。祈らないで、判断した事による失敗だった。祈らないで事 を行なうと、悩みを招いてしまう。 ある人は時間が出来たので、習い事を始めた。入学金と前期金を納 めた後に、以前から申し込んでいた仕事が来た。前任者の突然の退 職のためだった。時間的に習い事は不可能になり費用も戻って来な かった。「ああ、祈らなかった・・」、祈らずにした事と気づかさ れた。しかし、学べた事に感謝した。今、目の前の問題のために、 祈って主を仰ごう。肉で判断すると間違ってしまう。 あなたも失敗の経験があるだろうか。しかし、その後が大切だ。全 会衆はその事で不平を鳴らしたが、ヨシュアは主にかけて誓った誓 いのゆえに、彼らを生かしておく道を選んだ。失敗の上に失敗を重 ねなかった。刈り取りつつ、主を仰ぎ、主に従う道を選んだ。私た ちも、そこで悔い改めて、主に従う時、失敗をも益として、導いて 下さる。 ----------- 見えるところが不安でも思い煩うが、真っ直ぐに見える道には、祈 らず進んでしまいがちだ。祈らねば失敗し、躓き、行き詰る者であ ることを知らされ、痛いけれど謙遜にされ主に頼らされる。
2015年03月18日(水) 「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった」マルコ6:26
「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった」マルコ6:26
ヘロデ王は、ヨハネを正しい人と恐れ、保護していたのに、ヘロデ ヤの娘の要望により、殺害してしまった。「何でも欲しい物を与え よう」と言った時に、娘が「ヨハネの首を」と願ったからだ。「王 は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、人々の手前もあって」 とあり、ヘロデは、自分はヨハネを正しいと知りながら、人目を気 にして、人の手前、ヨハネを殺してしまった。 ヨハネの 語る神の言葉を聞いていながら、自分を守り、周囲への 体面を保つために、ヨハネを抹殺してしまう。ヘロデは、ただ神の 言葉に喜んで耳を傾けるだけで、応答し、悔い改める事がなかった。 神の言葉に自らを従わせ、方向変換するという事をしなかった。 ヘロデは王であって、権力を持ち、娘の願いを退けることができた。 にもかかわらず、娘の言う事に従ってしまった。ヘロデは、人々の 前に、自分を守り、神を恐れず、人を恐れた。めんつを取り繕うこ とが最優先であった。私たちはどうだろう。他人の目に、自分が思 う以上に拘束されているものだ。 人への恐れのゆえに、事を誤って行く。そうであれば神の言葉に喜 んで耳を傾けていながら、御言葉を捨てる事になってしまう。人へ の恐れは、根深く培われている。まず気づきから始まる。御言葉を 喜んで聞いてはいても、示しに従わないなら、実を結ぶことがない。 「人に従うより、神に従うべきである」実を結ぶために、目の前の 一歩に勇気を持って従おう。 ------------- この世では、皆それぞれに立場があるが、一人の人間として主の御 前に行き、真理の御言葉を聞く。この世の価値観で流されないため に、しっかりと主の示しを守り従って行こう。
2015年03月17日(火) 「宴会の世話役は・・それがどこから来たのか、知らなかった・・しかし水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」ヨハネ2:9
「宴会の世話役は・・それがどこから来たのか、知らなかった・・しかし水をくんだ手伝いの者たちは知っていた」ヨハネ2:9
カナの結婚式で、ぶどう酒が無くなった時に、主は、水をぶどう 酒に変える奇跡をされた。その時に、手伝いの者たちに80〜120リ ットルの水がめ6ヶに、水を汲むよう命じられた。手伝いの者たち は、ぶどう酒が必要なのに、なぜ水を汲むのか、何の意味があるの かわからないまま、主の言われるままに水を汲んだ事だろう。 しかし、その水こそがぶどう酒に変えられた。世話役や式に出席し ている人々は、何もわからないまま、最高のぶどう酒を味わい、楽 しんだ。だが、そこに神を認めることは無い。しかし、弟子たちは 違った。それが主のみわざだと知っていたので「それで、弟子たち はイエスを信じた」。 主は日々、私たちの日常生活の中で、みわざをなされ、働いておら れる。しかし、主を認めなければ、それは偶然であり、たまたまそ うなっただけだ。運が良かったのであり、主に感謝することなど無 い。そこで主を知ることもない。私たちはどうだろう。日々、主の ご愛や配慮を認めることなく、起きる一つ一つの出来事を偶然だと、 流していれば、世話役や式の人々と同じになってしまう。 そうでなく、この1日は主から来ている。主によって家族が、仕事 が、すべての必要が与えられているのであり、状況、環境も主の御 手の中だ。当然ではなく、当たり前ではなく、主からのものだ。そ こに焦点を当てて、この1日を見る時に、弟子たちのように、主の みわざを認めることができる。感謝が溢れ、更に主を信頼して行く ことになる。 ------------- 主に頼り、お言葉に従った者だけが、ぶどう酒がどこから来たかを 知っていたように、置かれたポジションに主を認め今日を感謝して 歩もう。主の恵みが注がれている。
2015年03月16日(月) 「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6
「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです」マタイ11:6
信仰人生で、私たちがつまずくのは、どんな時だろう。よく考える と、「自分の」期待に、「自分の」求めに、「自分の」思いに、そ ぐわない時ではないか。よく考えてみると、とにかく「自分の」強 い願い、思いが通らない事で、つまずいていないだろうか。自分に 全く関係の無い事で、人はつまずく事はない。 「自分の」気持ちや、願いを、相手が受け止めてくれない時、自分 の思い通りにならない時に、つまずいたと思う。そして、そんな神 なら要らないと、去ってしまう。自分の願いが叶えられないなら、 意味をなさない。偶像なら、そうだろう。当時の、主の周囲にいる 人々は、主を現世的、政治的指導者、権力を持つ王として、主を求 めた。メシヤとして華々しく王位につく事を。 しかし、現実にはどうか。王になるはずの主が、当時、最悪の刑で あり、極悪人がかかる十字架刑で死ぬなどと、到底受け入れられな い。人々は自分たちの思いに合わない主を捨てた。思い通りでなく、 期待通りでなく、期待を裏切る主が腹立たしい。そして失望する。 私たちもどうだろう。信仰人生が自分の思い通りでない、願いが叶 えられない、その時につまづく。 その時の軸が「自分」であり、自分の気持ち、自分の思い・・。そ の軸を神に変えてみよう。神のみ思いは?神のお心は?神はどう思 っておられるのか?神を軸におき、その神に自分の心をそわせ、明 け渡して行く。その時に、今までと違った世界が見える。初めて神 が見え、御心が見えて来る。 --------- 祈っても思うように解決しない問題や停滞する状況など、自分軸で 見るならとても理解できない。あきらめて自分の思いで動き始める なら神の介在を認められず、つまづいている事にならないだろうか。
2015年03月15日(日) 「わたしのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の 家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
「わたしのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の 家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
賢い人は御言葉を聞いていて、愚かな人は聞いていないというなら、 わかりやすいが、そうでなく賢い人も愚かな人も、どちらも御言葉 を聞いている。賢い人は「わたしの・・ことばを聞いて、それを行な う」。愚かな人は「わたしの・・ことばを聞いて、それを行わない」。 風雨でも立ちゆくか、倒壊してしまうかの違いは、聞いた御言葉を 「行なう」か「行なわない」かの違いだ。愚かな人も御言葉を聞い ている。礼拝で御言葉を喜んで聞き、喜んで御言葉を学ぶクリスチ ャンだ。御言葉を拒否し、反抗しているなら、自分でもわかるが、 喜んで聞いているので、自分で気がつかない。 御言葉を聞いて満足してしまう。わかった気になってしまい、それ で終わる。御言葉を聞くだけで、行なわないなら、自分の生まれつ きの顔を鏡で見るようだと。ながめて立ち去ると、すぐに見たもの を忘れてしまう。御言葉を聞いて忘れてしまい、結実する事がない。 御言葉は行なう時に初めて、実を結んで行く。何も無い時はよいが、 試練が来た時に立ち行けず、倒れてしまうと。御言葉を実行して行 く時に、御言葉が血となり肉となり、どんな試練が来ても決して倒 れない。聞いた御言葉を一心に見つめて離れない人は、事を実行し て行く。御言葉を見つめて離れず、そして、行なえるよう、主に助 けを求めて祈ろう。 ・・・・・・・・・・・ 真理の御言葉を聞くと、とても心恵まれるので、「そうだ!」と思 い、それで満足してしまいがちだ。それで終わると、鏡で自分の姿 を見て去る人になってしまう。まず目の前の示しを行なえるよう、 祈ろう。祈りによって一歩前に進むことができる。変えられて行く。
2015年03月14日(土) 「彼らは大きな恐怖に包まれて互いに言った。『風や湖までは言う ことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』」マル コ4:41
「彼らは大きな恐怖に包まれて互いに言った。『風や湖までは言う ことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう』」マル コ4:41
主は弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。弟子たち は自分たちがそうしようとしたのではなく、主から発した事であっ た。主の言われる通りにしたなら、嵐に会った。御心に従ったら、 試練に会った。 「おぼれて死にそう」と、嵐も経験し、慣れているベテラン漁師た ちが、危険を覚えるほどの暴風雨であった。この場合、主に従わず に、岸にとどまっておれば、嵐に会わなかった。私たちは、主の御 心の従う中で、嵐に遭遇する。試練は悪ではない。試練は私たちを 鍛え、強くし、成長させてくれる。試練が無ければ成長はない。 動揺した弟子たちは「死にそうなのに、何とも思われないのか」と、 眠っている主を起こした。私たちも、嵐に会う時、このようだろう か。こんなに苦しいのに、主は何とも思われないのか。「突然のリ ストラ、経済的苦境、主は何とも思われないのか」「この対人関係 の苦しみを何とも思われないのか」「この病の苦しみを」。 すぐに何とかして欲しい。しかし、起き上がった主は、風を叱りつ けられた。すると、風はやみ、大なぎになった。自然界を支配され ている、生ける神そのものである主イエス。その主が共にいるのに、 どうして恐がるのか。「信仰が無いのはどうしたことです」。 今、嵐に会っているだろうか。結果的に、この時弟子たちは、従っ たゆえに、主が生ける神であることを知った。私たちも嵐の中で、 生ける主を新たに知って行ける。 ・・・・・・・・・・・・ 主は弟子たちの危機的状況に、ちゃんと対応し、救い出して下さっ てから、「信仰」のことを言われた。これは「波・風」の問題でな く「信仰」の問題だと。いろんな出来事の中で、信仰を培って下さ っている。目の前の問題を「信仰」もって見てみよう。
2015年03月13日(金) 「この日は主が設けられた日である。この日を楽しみ、喜ぼう」詩篇118:24
「この日は主が設けられた日である。この日を楽しみ、喜ぼう」詩篇118:24
あなたにとって、この日は、今日は、どんな日だろう?重要な仕事 がある日、海外旅行に出る楽しみの日、大切な入試の日、嬉しい休 日・・様々な日があるが、1日、1日は、自然に巡って来るのでは なく、「主が設けられた日」だ。今日の、この1日は主による1日 だ。主が与えられたからには、この1日に、意味があり、目的があ り、そして、良いお方は、私たちのために最善をして下さる。 この1日は、不安な、恐ろしいものが待ち構えているのでなく、主 の御手の内にある、完璧なご計画の中の一場面だ。それゆえ、主に 委ねるなら、安心して、この日を喜び楽しむことができる。なぜな ら、何が起きようと、それは主がご計画をもって、私のもとに送ら れる出来事であり、私たちのためであり、そして万事益であるから だ。主が設けて下さったこの1日を、喜び楽しもう。 ある人が交通事故に会った。大手術がなされ、生死をさまよい、九 死に一生を得た。死んでも当然であったところ、命を取りとめた。 日数をかけ、回復し普通の生活に戻れた。奇跡であった。その日以 来、朝起きた時に、生かされている、その恵みに、心の底からの感 謝が溢れた。主に献げて生きて行きたいと思った。 生かされている1日〃が奇跡であり、感動であり、喜びとされた。 この日が当たり前に巡って来たのではない。「主が設けられた」と 受け取る時、この1日は、主に出会う1日となる。この日を楽しみ、 喜ぼう。 ------------ 主が先立ち備えてくださったこの一日に、どんな恵みがあるだろう。 漫然と流れて行ってしまう通過点ではなく、主に焦点を当てて見て みよう。主をまた知り、満ち足りた夜を迎えよう。
2015年03月12日(木) 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36
「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36
「求めなさい。そうすれば、与ええられます」とあり、「祈れ、与 えられる」と。しかし、祈っても〃、叶えられない祈りも経験した のではないだろうか。答えられない祈りについても、教えられてい る。まず、主の御心にかなっていなければ、幾ら祈っても叶えられ ない。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はそれ を聞いて下さる」とあり、叶えられるのは、御心にかなった願いだ。 良い願いだとしても、もし、今それを持って高慢になるなら、差し 控えられる。主の愛のゆえだ。主の答えは、常にすべてを配慮の上 で、与えて下さる最善のものだ。又、与えて下さるが、まだ時でな い場合がある。私たちはなかなか待てない。待つことが難しい。今 すぐに答えが欲しい。すぐに手に入れたい。 しかしアブラハムはイサクのために25年待ち、ヨセフも無実で投獄 され、何年も忍耐した。主は私たちに忍耐を与え、信仰を培って下 さるために、待つ期間を与えられる。目で見えるなら信仰は必要な い。見えないからこそ信じざるを得ない。「神の時」は定められて いる。「もし、遅くなってもそれを待て。それは必ず来る。遅れる ことはない」。待ち望もう。 又、願ったものよりも、更に良いものを与えられる場合には、求め たそのものは与えられない。私たちはガッカリしてしまうが、遙か に良いものを備えて下さっている。あなたに今必要なことは、信じ て、待つことだろうか。「あなたがたの確信を投げ捨ててはなりま せん。それは大きな報いをもたらすものなのです」。主を待とう。 ----------- 必ず最善が成ることを信じて待つこと、頭でわかっていても徐々に 平安が奪われていく。神の時を平安なく待つのではなく、信じて待 ち望みたい。
2015年03月11日(水) 「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている・・上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」ヨシュア3:11
「見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている・・上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる」ヨシュア3:11
ヨシュアとイスラエルの民は、ヨルダン川の川岸まで来た。約束の 地に入るために、これから渡らねばならない。特に最も水かさが増 す時期で、水はとうとうと流れている。橋も船も無く、何の手立て も無い。どうすれば良いのか。ヨシュアは主からの言葉を民に伝え た。 祭司たちに命じて「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさ い」、彼らは言われた通りにした。「ヨルダン川の水ぎわに来たと き、あなたがたはヨルダン川の中に立たねばならない」。そして民 に、生ける神があなたがたの内におられ、敵を追い払われる。 主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、水の中にとどまると、水がせ きとめられると。その通りに祭司の足が水ぎわに浸った時、岸に溢 れる水が、完全にせき止められた。民はヨルダン川を渡った。「今 まで通った事の無い道」でも、神の言葉に従って行く時、神が手を 取って、進ませて下さる。進むべき道がわかる。 私たちも、どうして良いかわからない時がある。まず祈り、主の御 声によく耳を傾けよう。そして、示される通りに従おう。水がせき 止められた後に、祭司たちが足を踏み入れたのではない。水が溢れ る危機的状況の中で、御言葉通りに、従って足を踏み入れた時に、 奇跡が起きた。主は不思議を行なわれた。御言葉の通りに従ってみ よう。 ----------- そんなことできるだろうか、自分を見ると足がすくむ。でもお言葉 通りにと一歩踏み出せないだろうか。必ず主が助けてくださること、 それを信じよう。
2015年03月10日(火) 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2:13
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」ピリピ2:13
神は、私たちの内に、ああしよう、こうしようとの志を与えて下さ る。そしてその事を行なわせて下さるとある。志を与えられて、自 分の力で成し遂げて行くのではない。必要な力は神から来る。だか らと言って、私たちは何もしないのではなく、「事を行なう」のは 自分自身だ。 そして、それは、御霊の力によるのであって、肉の力の頑張りでは ない。自分で頑張るのではない。祈っていれば良いのでなく、祈り つつ、御霊の力によって労して行く。例えば、水泳を身につける時、 ただ祈っていれば、習得できるのではない。祈りと共に、ノウハウ を知る事と、練習をする事が必要だ。どの競技でも同じだ。 地道な練習によって身について来る。楽器の演奏も同様だ。祈りと 共に、演奏の仕方を学び、こつこつと絶え間ない訓練によって、演 奏できるようになって行く。「私は自分の努力したことがむだでは なく、労苦したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇る ことができます」。主にあって、努力する事が必要だ。 だが、肉の努力ではなく、祈りによって、その努力する力が与えら れる。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでも できるのです」。「私を強くしてくださる方によって」、御心によ って、志が与えられた事柄を成し遂げる事ができる。今、目の前に みこころを示されていたら、実行して行こう。 -------------- 志と同時に神は実行する力も与えてくださるということをよく忘れ る。すぐに結果が出なければ祈りをやめてしまったり、恐れ退いて しまう。用いてくださる神を信じ、与えられた志を大切にしよう。
2015年03月09日(月) 「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4
「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4
「妬み」は誰しもが経験する悩みだ。ある人が、職場の同僚がほめ られると、いつも心がザラッとした。初めは気づかなかったが、彼 に関わることになると、なぜか心がザラつく事に気づいた。主の御 前にありのままを告げて祈った。その時に「妬み」であることを示 され、気づかされた。プライドがあり、認めたくなかった事もわか った。悔い改め、平安が戻った。 サウル王もダビデを妬んだ。女たちが歌い踊った「サウは千を打ち、 ダビデは万を打った」その歓声を聞いて、サウルは激怒し、ダビデ に嫉妬し、それは憎しみとなり、ダビデを攻撃し殺害しようと狙っ た。妬みは殺人にまで及んでしまう、恐ろしい罪だ。しかし、ダビ デはサウル王に何一つ悪い事をしていない。むしろ有能な素晴らし い部下であり、忠実にサウルに仕えていた。 妬みのとりこになってしまうと、全く何も見えなくなる。ダビデが どんなに自分に良くし、仕えてくれているかも、主の祝福がいっさ い見えない。盲目になる。妄想の中で、相手を疑い、悪意を持ち、 ますます主から離れて行き、愛、喜び、平安を閉め出す。妬みは人 生を台無しにしてしまう。 上記の男性は、妬みを主の御前に心底悔い改めた。そして相手の祝 福を祈った。ますます彼の営業成績が上がるようにと。すると、自 分の心に御霊の喜びが来て、苦しみから解放された。そのまま主の もとへ行こう。主が解決へと導いて下さる。 ------------ 怒りや憤りは相手にも非があるので、まだ自分の罪を悔い改めやす いが、妬みは陰険だ。良い人、有能であるがゆえに妬むのだから、 絶対に自分は認めたくない。気づいたらすぐに主のもとに行こう。
2015年03月08日(日) 「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ロー マ12:15
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ロー マ12:15
「『作り笑い』はできるが、『作り喜び』はできない」と有名な言 葉がある。笑顔は作れるが、喜びは自分で作り出すことはできない。 喜びがある振りをしても、心に喜びがあるか、無いかは、自分がよ く知っている。ある人が、友人と受験して、友人は合格、自分は不 合格だった。落胆で、落ち込み、心は真っ暗だった。 しばらくは起き上がる力も無かった。そして、どうしても友人の合 格を喜べなかった。羨ましくてたまらず、辛いものがあった。しか し心に平安は無い。自分はクリスチャンで、このままで良いわけは ない。そこでありのまま、「主よ、いっしょに喜べません。助けて 下さい」と祈った。正直な祈りだった。 その時、不思議だったが、感情は伴わなかったが、お祝いだけは言 おうと思えた。心が変えられた。「おめでとう。良かったね」と伝 えた時、相手がとても驚いて喜んでくれた。特別に嬉しかったと言 ってくれた。証しになったようだった。すると自分の心も平安にさ れた。 ある人は、長い療養中、後から来た人が、先に退院して行くのを見 る。喜んであげないといけないのに、本音は決して喜べなかった。 妬ましくて仕方が無かった。自分の心の狭さが情けない。「喜べま せん。羨ましいです。助けて下さい」と主に助けてを求めて祈り続 けた時、主は善い方、必ず自分にも善くして下さると思えた。 すると不思議に心が落ち着いて来た。そしてその人も後に退院が与 えられた。まず「喜べません」と主に向かおう。上から助けが来る。 ・・・・・・・・・・・・ 生まれつきの性質は、自己中心なので、なかなか人の幸は喜ぶこと ができない。羨ましくてたまらない。しかし、御霊によるなら可能 だ。あるがままを祈り、主に求める時、御霊によって心が変えられ る事を経験して行く。
2015年03月07日(土) 「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべて の武具を身に着けなさい」エペソ6:11
日々の祈りはどうだろう。朝起きた途端、1日のスケジュールで頭 が一杯だろうか。又、まず思い煩いで心暗くなるだろうか。朝一番 から、思いの火矢を次々吹き込んで来るサタンのしわざだ。祈ろう とし、聖書を読もうとすると、その前にあれをし、これをしなくち ゃと次々と思いが湧いて来る。それがまた的確だ。 ある人が、静思の時を持とうとすると、まず犬の散歩を済ませてし まおう。その方が落ち着いて出来る。時間が勿体ないので、洗濯機 を回して出た。帰宅すると洗濯が出来上がっている。干さなくては。 ついでだから片付けも済ませてしまおう。次々、的確に目の前のな すべき事が浮かぶ。 あっという間に昼になり、昼食準備、片付けついでに、夕食の下ご しらえを済ませよう。その方が効率が良い。電話がかかり長話にな ってしまった。朝刊が来たと思うと、もう夕刊だ。次々と目の前の 事をしつつ、結局、祈りと御言葉の時は持てなかった。そして、背 後のサタンに気づかされた。 又、祈り、聖書を読み始めるや、眠気に襲われる。それまでは全く 眠気など無かったのに。これほどの巧みな妨害が、霊の敵から来る 事を覚えよう。又、逆に、祈りを持てなかったと、とがめに攻撃し て来るサタンも覚えよう。 デボーションをしたから愛して下さるのでなく、出来ない私たちを まずそのまま愛していて下さる。主の愛は変わらない。愛されてい るから、交わりたいと思う。あらゆる方面から攻撃して来るサタン を覚えて、身を慎み、祈っていよう。 ・・・・・・・・・・ 主との交わりが、信仰生活の土台であり、生命線であることをサタ ンはよく知っている。妨害は驚くばかりだ。座して祈るより、動く 方が楽で、幾らでもできる。サタンを踏まえていよう。気づきから 始まる。
2015年03月06日(金) 「しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」詩篇73:23
「しかし、私は絶えずあなたとともにいました。あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました」詩篇73:23
詩篇の記者は、悪者が富を増し、安らかそうであり、栄えるのを見 て、落ち込んだ。彼らは楽しそうで、豊かで肥え太っていて、あぶ らぎっていて、何の苦しみのなさそうだ。それに引き換え、神を信 じている自分は惨めで、苦しみばかりで、何のよい事もない。この 足はたわみそうで、歩みは滑るばかりだと。どうして神を信じない 者が栄えるのかと。 しかし、それは「私が誇り高ぶる者を妬んだ」自らの妬みから来て いた。そして、その妬みは、人との比較の中にいるから起きるので あり、神を見上げるのではなく、人を見ていた。信仰生活で、平安 や喜びが失せるのは、状況の問題ではなく、神以外のものを見て、 心が占められ、神以外のものが第一になっているからだ。 その底に、富への欲や、人からの賞賛を求め、それを愛する心があ る。それが人への羨望、妬みとなって出る。それは、神に焦点が合 っていないからであり、その結果、様々な不平不満や愚痴、イラ立 ちでいっぱいになる。心に喜びがなく、虚しい。しかし、彼は聖所 に入った時に、光が臨んだ。心がすさみ、悶々状態の原因は、目の 前の状況ではなく、神と自分の関係にあると悟った。 神から離れているから、心に喜びと平安が無いのだと。今、平安が 無いなら、目の前の問題のせいと思うかも知れないが、それは関係 が無い。心が、神以外に向いていないか。逆に、どんな困難な中で も、神との親しい交わりにいるなら、心は不思議な平安に守られる。 ------------ 主から離れこの世を見るなら、すぐに「愚かで、わきまえもなく・ ・」と反応してしまう。心に境界線を引き、「それがあなたに何の かかわりがありますか・・」と言われる主を見続けたい。
2015年03月05日(木) 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・」ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・」ローマ8:28
エジプトで宰相となったヨセフは、人の悪意でさえ、神は、良いこ とのための計らいとして下さると言った。人が、私たちを故意に傷 つけようとしたとしても、そこに主が介入され、その悪をすら良い 事と、益とされる。それなら、人生に恐れは無いのではないだろう か。 ヨセフが、兄たちの悪巧みにより、エジプトに売られた時、「主が ヨセフとともにおられたので」主人に愛され、厚意を得た。しかし、 一転、無実の罪で投獄になってしまう。奴隷より悪い囚人の身だ。 だが、その牢獄でも、「主はヨセフとともにおられ」監獄長の心に 適うようにされ、囚人の世話を任された。そして、「主が彼ととも におられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださった」。 時に、状況がどんどん悪い方に向かう事を経験する。人間的に見る なら、主は一体どこにおられるのか、共におられないのではと思っ てしまう。しかし、「主はヨセフとともにおられた」。私たちも同 様であり、不都合な事態が起きる時、はっきりと「主がともにおら れる」のだ。すべての事が、主の御手の中にあり、主の主権と支配 の中にあるとは、何と安心なことだろう。 「永遠の腕が下に」。そして、そのような中で、主に信頼して行く 時、見えるところ八方ふさがりの、最悪の状況だとしても、それを 良いものに変えて行って下さる。「良いことのための計らい」とさ れる。ヨセフはその共におられる主を信じたので、試練を忍耐でき た。共におられる主を信じ、そこに立っていよう。 -------------- どのような中でも主と共に歩んでいる。紆余曲折、わからない中を 歩いているようでも、必ず主が良い場所に着地させてくださる。 そう信じていよう。試練の中で心が平安に守られる。
2015年03月04日(水) 「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:59
「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向けました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」詩篇119:59
神に従うためには、御心に従おうとの意識的、選択が必要だ。オー トマチックではない。没個性、没意志になるわけではない。夢遊病 者のように、勝手に従って行くのではない。意識して、御霊の導き の方を選択し、御霊に拠り頼んで行かなくてはならない。主に拠り 頼む必要がある。 神が、勝手に私たちを操って従わされるのではない。それなら操り 人形であり、ロボットだ。また、私たちの意志を無視して、神が代 わりにされることもない。詩編記者は自分の道を顧みた。私たちは どうだろう。日々の生活を、自分自身を顧みることは有意義で大切 だ。 日々の忙しさに、流されてしまっているだろうか。主との交わりか ら遠ざかってしまっているか。何かの示しをなおざりにし、引き延 ばし、ぐずぐずしているか。記者は、主のさとしの方へ「足を向け」 た。祈ったのでなく、「あなたの仰せを守りました」実際に行動し た。今、はっきりと、主の御心に、自分の足を向けるよう、具体的 に従うように導かれているなら、実行しよう。 「急いで、ためらわずに」とあるように、ぐずぐずしていると、た めらっていると、必ずできなくなってしまう。いつしか、御霊の促 しが消えてしまう。大きな祝福を逃してしまう。今日、足を向けて、 目の前に示されている、主の仰せを実行しよう。 ---------- 御霊の示しを受けながら後回しにして出来ないまま終わってしまっ たあの事、この事がある。自分のしたいことならどのようにしても 実行するだろう。主の仰せを聞いたらすぐに実行だ。
2015年03月03日(火) 「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい・・あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい・・あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
あなたには、心配事があるだろうか。次から次へと問題は起きて、 心配事を抱える。対人関係の問題、仕事の悩み、経済的必要、目の 前の問題、先の問題、様々な悩みで、くよくよと思い煩う。しかし、 主は「思い煩うな」と言われる。いっさい「心配無用」と。なぜ無 用なのか。思い煩ったところで何も解決せず、何一つ変わらない。 「誰が心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことがで きるか」の通り、何一つ成就しない。心が真っ暗に落ち込む事で、 何かを前向きに、信仰的に考えられるだろうか。思い煩いは有害無 益だ。なぜ思い煩うのか。自分が高くなっている。自分がなすべき であり、自分が出来ると思っている。 だから、自分が負い、すべてが自分の肩にかかってくる。しかし、 出来ないので、そのため思い煩う。「神の力強い御手の下にへりく だりなさい」の通りだ。思い煩いは、実際より、物事を大きくして しまう。冷静に対処するなら、乗り越えて行ける事態が、恐れでパ ニックに陥ってしまう。その心配事は、絶えず脳裏に浮かび、それ を受け入れ続けていると、不安と恐れの要塞を築き、それを尚も強 固にし、モンスターにしてしまう。 モンスターにはとても打ち勝てない。しかし、それは現実、実際と は異なる。妄想上のモンスターだ。最悪のシナリオは成ったためし がない。「いっさい」神に委ねよと言われる。一つ残らず、すべて 委ねよと。主が心配して下さっている。主に渡そう。いかに愛し、 気遣って下さっているかを経験して行く。 ----------- 今の心配事の中に、主を認めているだろうか。それはそれと、自分 のやり方で心配し、思い通りの結果を待ち望んでいるので平安がな いのではないか。そうなら神の力強い御手の下にへりくだろう。
2015年03月02日(月) 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」Uコリント3:16
サングラスをかけて、景色を見るとどうだろう。そのメガネの色に 何もかもが見える。同様に自分の強い思いがあると、それがサング ラスになり、自分の思いのままに見えてしまう。根に自分の強い思 いがあり、自分の願望というサングラスで物事を見ているので、思 い通りでない環境なら、受け入れられない。 事実ではなく、自分の主観で見ている。いつも喜べず、絶えず不満 と落ち込みに陥る。環境が自分のメガネに合った時だけ、喜ぶ事に なる。しかしそれは、たまたま自分の願望が神の御心と合致しただ けだ。自分の願望というメガネをかけて環境を見、御言葉を見てい ないだろうか。外側のものがおおいとなっているのでなく、心の内 側の問題だ。 自分の願望でなく、自分の思い通りでなく、神の御心というサング ラスにかけ変えたらどうだろう。状況は同じでも、見方が全く変わ って来る。そうでなければ、自分の願望が見えるばかりで、まるで 主が見えない。しかし神のお心に照らし合わせて、環境を見て、神 の価値観で判断し、神のみ思いを尋ね求めて行く時に、どんな状況 であっても、そこにある神のご計画や目的を知って行く。 今、自分の強い「願望」に支配されていないだろうか。一旦、その 願望を、主に明け渡そう。その時、まず心が平安にされる。不満や 思い煩いが消えて行く。おおいが取られて、主が見えて来る。そし て心に喜びが来る。 ------------- 自分の思いが邪魔して、備えられている祝福が見えないのではない か、喜びがないのではないかと率直に主に祈ってみよう。祈るとそ こに主を認めることができる。偏った思いを教えられていきたい。
2015年03月01日(日) 「良くやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実 だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜び をともに喜んでくれ」マタイ23:21
「良くやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実 だったから、私はあなたにたくさんのものを任せよう。主人の喜び をともに喜んでくれ」マタイ23:21
主人がしもべに5タラント、2タラント、1タラントを与えて、商売 するようにと言い、旅に出た。「それぞれの能力に応じてタラント を与えられた」とあり、主の采配で、御心のままに与えておられる。 量は異なるが、それは不公平でなく、御心により量って与えられて いて、それは、立場、役割、使命が一人一人異なるだけだ。 与えられているものが、それぞれ違うので、誰も競争相手になり得 ない。そこに人との比較は無く、自分に任されたタラントをしっか り用いて行くということだけがある。それぞれの力量、技量に応じ て、機会も与えられている。5タラントと2タラントの者は「すぐ に」出て行って、商売をした。主人を心から信頼していたので、主 人のために喜んで働いた。 1タラントの者も、ちゃんと与えられていたのに、すべてを無駄に した。最低限のこともしていなかった。5タラントと2タラントの 者は、主人のために働くのが嬉しく、喜びであって、わくわくと労 したろう。彼らは主人に対して、良い思いを持っていた。 主人が戻った時に「私に5タラント預けて下さいました」「私は2 タラント預かりました」と「預けて下さった」と話したが、1タラ ントの者は「あなたは蒔かない所から刈り取り・・ひどい方」と言っ た。まず主人観が間違っていて、1タラントをも失ってしまった。 神はひどい方、要求ばかりする方、取り立てる方になっているなら、 神観が違う。信仰生活がしんどくなり、苦しくなっているなら、何 かが違って来ている。立ち止まって、まず祈ろう。 「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とは なりません」 ・・・・・・・・・・・・・・・ 神の御心を行なう事は、重荷とはならない。しんどくならない。御 霊が共に働いて下さるからだ。知らず知らずしんどくなっていたら、 御前に心を開いて、祈り、主と交わろう。喜びと平安に戻される。