2015年04月30日(木) 「これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります・・私のことばは、その時が来れば実現します」ルカ1:20
「これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります・・私のことばは、その時が来れば実現します」ルカ1:20
バプテスマのヨハネ誕生について記されている。ザカリヤは祭司で、 エリサベツもアロンの家系で、夫婦共に神に従う人であった。しか し自分たちにはどうにも出来ない大きな悩みがあった。ずっと祈っ ていた事だろう。エリサベツは不妊で、夫婦共に老齢であった。 そんな時に、突然、主の使いが現われ「あなたの願いが聞かれた」 と告げる。 妻に男子が与えられ、その子はイスラエルの人々を神に返らせ、メ シヤのために道を備えると。驚くべき事で、大きな喜びだ。子ども が与えられる、そして待ち望んだメシヤがもうすぐ来られると。 しかしザカリヤは信じる事ができなかった。状況を見るに、不可能 であり、何によって信じれるのかと。すると彼は口がきけなくなっ た。 私たちも、神の言葉と状況が相反する時に、信じられないだろうか。 しかし、奇跡はいつも「不可能」の土壌で起きる。不可能の状況で 起きるからこそ、奇跡だ。主はザカリヤを黙させられた。彼はその 期間、主を見上げ、主の言葉に思いを馳せ、握りしめ、反すうした 事だろう。信仰へと導かれて行った。 子どもが生まれた時に、主に従い「ヨハネ」と名付けるように伝え た。その途端に「彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるように」 なった。「名をヨハネとつけよ」の主の命令に従った時だった。そ して彼は「神をほめたたえた」。主がザカリヤを助け、彼の上にも みわざをされた。 ------------- 状況や自分の努力で少しでも見込みがあることを信じてしまう。そ のような不信仰な者だが、主のご栄光を拝し、主を賛美し感謝した 経験は、全てが不可能な土壌でのことだった。
2015年04月29日(水) 「うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは・・悪い動機で願うからです」ヤコブ4:2
「うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは・・悪い動機で願うからです」ヤコブ4:2
人間は「羨んでも手に入れる事が出来ないと、争う」とある。欲求 が満たされない時に、問題行動を起こすと。あらゆる問題行動の裏 には、「満たされない心」がある。理由のない問題行動は無い。満 たされない欲求によって、問題行動が起こり、どうしても思い通り のものを手に入れようとして、戦い、争って行く。 手にするためには、人殺しまですると言っている。国家間の戦争も、 個人の対人関係で起こる事も、その通りだ。争いがある時、幾ら理 由づけして自分を正当化しても、その心の奥に、自分が持っていな いものを持つ相手への羨望があると。その時に、自分の力で奪い取 るのでなく、神に拠り頼み、「祈れ」と言われている。 「手に入らないのは、あなたがたが願わないから」だと。肉で手に 入れようとしている時には、そこに神も、祈りも無い。まず、人に、 でなく、神に向かう祈りが必要だ。そして祈っても与えられない時 は、隠れた思いをすべてご存じの神に、心の内の動機を探って頂く 必要があると。その願いの動機は何だろう。自分の評判が良くなる ため、自分が信仰的に見られたいがためだろうか。 未信者の夫が、親が、救われて欲しい事の動機は、家族がクリスチ ャンになると、「自分が」楽になれるからだろうか。心の底にある ものを、御霊は探り出し、軌道修正して下さる。心を正して祈らせ て下さる。そして「すべての良い贈り物は、上から来る」、上から の恵みを豊かに与え、満たして下さる。神にのみ望みを置く時に、 心が満たされているので、人を羨む必要が無くなる。 ------------ 人のものをうらやんだり、貪ったり、満ち足りることを忘れてしま う。祈りを忘れれば肉の欲に引かれるばかりだ。与えられる手段は 祈りを介してにしたい。主が軌道修正してくださる。
2015年04月28日(火) 「ダビデが言った。『サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい』」Uサムエル9:1
「ダビデが言った。『サウルの家の者で、まだ生き残っている者はいないか。私はヨナタンのために、その者に恵みを施したい』」Uサムエル9:1
当時は、王が代わると、以前の王に関係する人々は粛清された。王 家の生き残りがいると、政権転覆が狙われるからだ。事実、将軍ア ブネルがサウル王の息子イシユボシェテを担ぎ出して、ダビデに対 抗しようとした。事態がおさまった頃、ダビデは、サウル王家の生 き残りを探すように命じた。 「ヨナタンのために、その人に恵みを施したい」と。それは、サウ ルの息子ヨナタンとの契約があったからだった。ダビデとヨナタン には深い友情があった。「契約を結んだ」とあり、ヨナタンは、自 分と同じほどにダビデを愛した。ヨナタンは普通なら王位を継承す る者であり、サウルの息子のこの愛は、まさに神のわざだ。 「愛は神から出ているのです」神がヨナタンに与えられた、神から の愛だ。ダビデは、サウルに遣わされた戦場に出る度に、勝利に次 ぐ勝利を収めて行った。余りの連勝に、サウルはダビデを妬み、ダ ビデを恐れるようになった。「サウルはますますダビデを恐れた。 サウルはいつまでもダビデの敵となった」。妬みは憎しみとなり殺 意となって、サウルはダビデ殺害を、ヨナタンや家来全部に告げた。 ヨナタンは父に進言し、ダビデを救うべく行動して行った。そんな ヨナタンのゆえに、ダビデは、サウル家の残存者に、恵みを施した いと。ヨナタンの息子メフィボシェテが、王の息子と同等の扱いを 受ける事になる。どんなに驚きだったろう。ダビデの愛であり、ヨ ナタンとの契約のゆえだ。 私たちも神から同様に愛を受けている。主の十字架のゆえにすべて の罪が赦され、神の子とされている。「恵みを施したい」が神のお 心であり、私たちは皆、恵みに浴している。罪人への驚くばかりの 愛顧だ。主の「恵みを施したい」今日も心に刻みたい。 ----------- 主の十字架で示された神のご愛を受けて、今、罪を赦されて主と共 に生きる者に変えられた。なんという恵みだろう。受けた愛を感謝 し、愛する者へと変えられていきたい。
2015年04月27日(月) 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5
主の働き人が、プロジェクトのために、万全の準備をし、祈り、整 えていた。そんな時に、体調を崩してしまった。だが自分は大丈夫、 出来ると思いがあり、どんな犠牲を払っても、その働きをしたいと の強い願いがあった。しかし、ノンクリスチャンの親から反対が起 きた。体調がどうしても心配だから、その働きは中止するようにと。 「いや、大丈夫だ、出来る」と言い張ったが、体調は思わしくなか った。更に他の親族も心配して、総反対に出くわした。主の導きを 信じて、今まで準備して来た。これは御心だ。正しい事であり、ど うしても成し遂げたい。周囲の反対を振り切って進めて行こうとし ていた。しかし、心が悶々として平安が無い。御心を行なおとして いるのに、「なぜ?」主の御前に、この事について祈っていた時に、 御霊が示された。 この働き自体は御心であり、正しい事であるが、自分が握りしめて いること、そして自分は周囲の反対に反発していて、意地になって いて、意地でも遂げようとしている事に。神など飛んで、自分の自 我以外の何ものでもない。自分の恐るべき姿に、心から悔い改めた。 そして、自分自身とこのプロジェクトを、今一度主に明け渡した。 どうであれ、主が良いと思われるままで、良いと心底思え、心に平 安が広がった。ゆだねて気持ちがすっきりし、楽になった。すると 不思議が起きて、身体がどんどんいやされて行き、何とその働きを 成し遂げることができた。どんな時も、主は様々な学びを与え、一 歩一歩成長へと導いて下さる。 -------------- 御心でも思い通りの方法はないかもしれない。祈りながら進もう。 祈らずにやる仕事や奉仕は、いつの間にか自分を頼りにしていく。 主に尋ねながら、一足一足進もう。
2015年04月26日(日) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のつい た道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてくださ い」詩編139:24
「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のつい た道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてくださ い」詩編139:24
ある人が、職場で、一人の同僚とどうしてうまく行かなかった。こ ちらはクリスチャンであり、何とかうまくやって行こうとするのだ が、どうしてもギクシャクしてしまう。良かれと思ってする事が裏 目に出てしまう。何かが合わない。自分は努力しているが、避けら れているように感じ、良く思われていないと思うと心辛く、気持ち がしんどくなる。 そんな時に、部署替えがあり、別の場所になり、もう顔を合わせる 事が無くなった。今までの事は一体何だったのだろうと、主の御前 に静まり、祈った。御霊の光のもとで、ずうっと心探られながら、 祈っていると、御霊の気づきが与えられた。相手に受け入れてもら えないと、ずっと思っていたが、実は相手を受け入れなかったのは 自分だったと。自分が相手を拒んでいたと。 その心の奥底に、同僚に対する羨ましさ、妬みが潜んでいたことを 御霊は示された。自分はクリスチャンであり、そんな醜い姿を見た くないし、認めたくない。無意識にも、心の奥に封印してしまう。 しかし紛れもなく自分の姿であり、その通りである事を認め、悔い 改めた。初めて心がすっきりした。平安にされた。 見たくなくて、認めたくなくて、心の引き出しに入れて、封印して いる、自分自身の本当の姿を、様々な出来事を通して、御霊は示し 出して下さる。そして、自由にし、解き放って下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 自分自身のことは、自分ではわからない。「私を探り、知り、調べ て下さい」と祈っている。主が探って下さらなければ、わからない。 心の奥の奥まで探られ、そして傷や罪を示し出され、気づかせて下 さる。主に示されて初めて知る。それをいやし、平安にして下さる。
2015年04月25日(土) 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに います」マタイ28:20
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともに います」マタイ28:20
ある女性が、昔、携帯電話も無い頃、真っ暗な夜道の帰宅を余儀な くされた。街灯も無い、人一人通らない、真っ暗闇の林道が恐くて 恐くて、足がすくんだ。恐ろしくてどうしても足が動かない。どう にもならず、主に叫び祈った時に「インマヌエル・主共にいます」 の御言葉が臨んだ。その瞬間、心が光に包まれ、恐怖が消えて平安 が満ちた。無事に帰宅できた。 それは一生涯決して忘れ得ぬ恵みとされた。ある人は、父親が脳梗 塞で倒れた後、障がいが残り、体調も非常に悪そうで、親が別人の ように見えた。ずっと自分にとって、強い大きな存在であった父親 であり、ショックで受け入れられなかった。どうすればよいのか。 出来る事も何も無いように思えた。元のように回復を祈ればよいの か、どう祈ればよいのか。 動揺した気持ちをありのまま告げながら、祈りの時を持った。主に 心の内を聞いていただいて、ひたすらなる祈りの中で、「あなたが たの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのこ とを心配してくださるからです」と語られ、神が心配していて下さ る、ゆだねようと思えた。 尚も祈っていると、良くなっても、このままでも、どうであれ主は 共におられて、最善をして下さると信じる事ができた。すると心が すうっーと楽になり、平安になった。私たちにとっての窮地からの 救いは、どんな時にも「インマヌエル」、神が共におられる、とい うことだ。これこそが救いだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 「主が共におられる」。これさえあれば、どんな中でも生きて行け る。今日も「主が共におられる」、苦しい問題の中にも「主が共 におられる」。「主が共におられる」これをじっと見つめていたい。
2015年04月24日(金) 「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」詩編143:10
「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」詩編143:10
「孤児の父」と言われ、信仰と祈りにより孤児院を設立し、営んで 行ったジョージ・ミューラー。彼は、神のみに頼り、信じ、祈り求 める事により、神によりすべての必要を備えられた事で有名だ。そ の彼が、神の御心を求めることについて、記している。 「まず最初に、どんな事柄であっても自分の願望ではなく、神にす べてを明け渡すことを祈る。真実に主の御心に従いたいと熱望する なら、どんな困難な状況でも克服出来る。そして90%の問題点がこ こにあり、御心のままにと明け渡すなら、前進して行ける。次に神 の言葉を熱心に求める。聖霊の導きと御言葉は一体であり、神の言 葉を無視して、聖霊の導き知る事はできない。 又、誰でも聖霊の助けなしに、神に従う事も、人生の問題に挑戦す る事も出来ない。次に、神の摂理の重要性を見る。環境をよく見て 行く時、神の言葉と聖霊が、はっきりと御心を示唆してくれる。そ の時によく祈り、主が御心を正しく示して下さるようにお願いする。 御言葉を与えられ、摂理を見て、熟慮の上に判断し、その上で平安 があるなら、御心だと知る。そして、他の問題も続けて提示し、御 心を求める祈る」御心を求める際に、まず自分自身を明け渡すなら 9割方解決だ。どうしても明け渡せない、自分の強い思いがあるな ら、それを委ねられるよう、主に助けを求めて祈って行こう。 ----------- 御言葉から本音の自分自身を照らされると、そこから明け渡す祈り ができる。一日が自分自身を明け渡す祈りで始められたら幸いだ。 どんな事柄でも主に委ねられたら確かな歩みになる。
2015年04月23日(木) 「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
私たちが、知っておかなければならないのは、人生に試練は必ず あって、苦しみのない人生はないという事だ。クリスチャンになれ ば、悪いことはいっさい起こらず、畑は豊作、受験は合格、病気や けがは無く、人生は順風満帆だとは、御言葉に記されていない。 むしろ試練が必ずあると記されている。しかし、どのような嵐に会 おうとも、土台があれば、決して倒れることがないと。 ここでは、聞いた御言葉を「行なう」事が岩の上に家を建てること だと言っている。反対に、聞いた御言葉を行わないなら、砂の上に 家を建てることになり、風雨に会うと倒れてしまうと。御言葉を聞 くところまでは、両者共に同じだ。どちらも御言葉を聞いている。 その後が問題だ。聞いた御言葉を行なうか、行なわないかで、結果 が天と地ほどに違って来る。 嵐に会った時に、御言葉を行なうなら、そこに確かな岩がある事を 経験する。岩により支えられ、拠って立つ事ができて、慰めと励ま しを得る。しかし、御言葉を行なわないなら、砂のごとく崩れてし まう。初心者が、楽譜さえ見ていたら、ピアノが弾けるようになる という事はない。楽譜通りに、実際に指を使って練習する事が必要 だ。それを重ねる事で、身について、弾けるようになる。 御言葉を聞くだけなら、結実がなく、砂の上に人生を築くことにな ると言っている。聞いた御言葉を行なって行く時に、初めて自分自 身が変えられて行き、確かな実を結んで行く。その時、どんな嵐に も立ち行ける。 ------------- デボーションや礼拝、各集会といつでも豊に御言葉を与えられるが、 何事かあるとすぐに、主はこう言われるが自分はこう思うと揺らぐ。 その時に祈ろう。御言葉が土台で主の言われることを実行できるよ うに。
2015年04月22日(水) 「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」ヨハネ6:38
「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです」ヨハネ6:38
綿密に立てたプランや予定が、想定通りに行かずに、イライラした り、落ち込んだ経験があるだろうか。目の前に障害が出てくるのだ。 時間をかけて計画を練り、様々な場合を予想し、段取りして、事を 進めて行くが、目の前に不測の事態が生じて、計画自体を断念せね ばならなくなる。がっくりして、やる気が失せてしまう。 これは「自分が」「自分が」と、余りにも「自分が」出て、プラン と自分が一つとなってしまい「自分の」計画、「自分の」所有にな ってしまう。思い入れが強いため、うまく行かなかった場合に、ひ どい落胆となる。「自分が」「自分の」でなく、「神は」「神の」 と主語を変えよう。 「自分が」神のために何をするかでなく、「神は」私の人生に何を 計画し、何を求めておられるのか。「自分が、自分が」となると必 ず行き詰まる。祈り一つにしても、願いの祈りしかない。ああして 欲しい、こうして欲しいと、神への要求ばかりになる。ところが 「神は」私に何を?となると、神のお心を知らなくてはならない。 まず第一に神の御声を聞く事から始まる。自分が神のためにでなく、 「初めに神」だ。「神から発し」たものだけが、「神によって成り、 神に至る」。人から発したものが、神によって成る事も、神に至る 事もない。そうであれば、神のお心が非常に重要だ。まず、「神が 私に何を求めておられるのか」から始めてみよう。 ------------ 神が私のために準備してくださるプランが必ずあるはずだが、自分 のプランの祝福ばかりを期待している。今日のプランの祝福を祈っ たが、それは誰のプランなんだろう。まず御声を待とう。
2015年04月21日(火) 「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3
神を求めているのだが、実感が無い。祈ってるが、祈りが届いてい るのだろうか?聞かれている気がしない、わからないという人々が いる。求めているのにどうして?「求めよ、そうすれば与えられる」 と言われ、求める者には答えて下さるお方ではないのかと。 求めているが、よくわからないという時、自分に都合の良い神を求 めている場合がある。自分に心地良い神を求めている。自分のイメ ージ通りの、思い通りの神が欲しいのであり、そんな神は存在しな いので、どう求めても出会いようがない。神がわからないという時、 的がずれていないか。 神を求めているのではなくて、自分に都合の良い偶像を求めていた りする。それは、ただ愛してくれるだけの神だったり、癒しを求め るばかりで「愛されている」事だけがすべてだ。罪や義、さばきに ついて知る事、又、自らの真の状態を見ること、訓練や鍛錬、試練 は欲しくない。成長にもたいして関心がない。自分の願いを叶えて くれるだけの神が欲しい。 しかしもし、神を真に知りたいと願うなら、従いますの姿勢に立と う。そして主の御心を求めて行こう。自分を捨て、御心に従って行 く時に、その人には神が必ずわかる。自分に都合の良い神ではなく、 神に自分を明け渡して行く時に、必ず神がわかって行く。 -------------- 求めていく過程で神を知っていく。御心にそって変わって行こうと するときの導き、また出来ない行き詰まりを通して常に関わって下 さる神ご自身を知れる。
2015年04月20日(月) 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:23
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」マルコ11:23
そのすぐ後に、「だれかに対して恨み事があったら、赦してやりな さい。そうすれば、天におられる父も、あなたがたの罪を赦してく ださいます」と続く。信じて祈る時、答えを受け取るとある。しか しその時、誰かに恨み事があれば、赦してやりなさいと、赦す事が 強調されている。 赦さない心は祈りを妨げる。私たちは、しょっ中、失敗する者だ。 しかし神は豊かに赦し続けて下さっている。罪を犯さないのではな く、罪は犯すが、赦されて、尚も赦されて生きている。私たちが絶 えず赦されているのだから、それゆえ、私たちも赦すべきだと。 まず恨み、憎しみ、赦さない心があると、祈れなくなる。とがめが あり、主との間にへだたりができる。すると、確信もった祈りがで きない。 ある人が、切実な必要があり、神の御前に祈っていた。祈り続ける が与えられない。祈りの中で、ある人の仕打ちに、恨みと敵意、苦 々しい思いを持ち続けている事を示された。これが祈りの妨げにな っている事がわかり、その場で悔い改めて、その相手を赦した。そ の後、祈りの答えが来た。赦さない心は、祈りをしゃ断してしまう。 祈りの答えを受け取るために、密かな恨み、赦さない心がないかど うか、御霊に探って頂こう。そしてあるがままの心を祈りに持って 行こう。主は取り扱い、赦せるように導き、助けて下さる。自分の 心に責められなければ、大胆に御前に出ることができ、求めるもの は何でも神からいただける。 ------------- 一番与えて欲しいものは平安ではないだろうか。憎しみや赦せない 心に平安はない。人を責める思いに気づいたなら、まずその思いか ら主に祈り始めよう。
2015年04月19日(日) 「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば・・悪 人呼ばわりしていても、そのりっぱな行ないを見て、おとずれの日 に神をほめたたえるようになります」Tペテロ2:12
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば・・悪 人呼ばわりしていても、そのりっぱな行ないを見て、おとずれの日 に神をほめたたえるようになります」Tペテロ2:12
日本のクリスチャンは、まさしく「異邦人の中にあって」生きてい る。ノンクリスチャンは私たちの生き方を見ていないようで、見て いて、しっかり観察している。主は「立派に振る舞いなさい」と言 われる。偶像を礼拝する人々を決して侮辱してはいけない。信仰は 常識を超える事はあるが、決して主は非常識なお方ではない。 礼儀に反する事をせず、信仰者として国家の法律を、社会マナーを 守って行く必要がある。周囲の人々は聖書は読まないが、クリスチ ャンという人々がどんな生き方をするのか、その生き様を通して、 聖書を知る。 「御霊の実は、愛、喜び、平安・・」、世の人々が、喉から手が出る ほど欲しいものが、愛、喜び、平安だ。愛し、愛されて生きたい。 それが得られないので、他のもので心を満たそうとする。外側から の刺激による喜びしか、世にはない。何か嬉しい事があるから喜べ る。しかし、私たちの喜びは、外側に何も無くとも、内側から湧き 上がる。御霊の喜びだ。 恐れ、不安、思い煩いの中にいる世の人々にとって、平安は何と魅 力的だろう。主に委ねて、主を第一として生きる時、この平安に満 たされる。それらは内側から溢れて来る。私たちに、弱さや失敗は 多々あっても、何かが違うと人々に思わしめる。何かここに真実が あるのではないかと。 様々な事で悪人呼ばわりされても、私たちの立派な振る舞いを見て、 神を誉め称えるようになる、と。辛い事もあるが、従って行こう。 報いて下さる。 ・・・・・・・・・・・・・ この世では信仰者は、偶像のことや、価値観の違いで、様々悲しみ や苦しみに会う。仲間はずれや悪口にも会う。わかってもらえない。 だが「立派に振る舞いなさい」と。「難しいです、できません」と まずあるがまま祈って行く時に、主が「振る舞い」を与えて下さる。
2015年04月18日(土) 「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待 ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができ る」イザヤ40:31
「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待 ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができ る」イザヤ40:31
私たちはしばしば疲れ果てる。心弱り、心が折れてしまう。そんな 時、どうすれば意欲と気力を得て、前進出来るのか。自分で頑張っ て奮い立つのではない。それは、「主を待ち望む」ことだと言われ る。主を待ち望む者は「新しい力」を得ると。「鷲のように翼をか って上ることができる」。 待ち望むとは、忍耐が要る。鷲は鳥の王者だ。鷲は大きく、非常に 重量があるため、自力で飛び上がる事ができない。そのためじっと 風の音を聞いている。風の音を聞き分け、風が吹いた時に、崖から 飛び降り、翼を広げて上昇気流をつかみ、空高く舞い上がる。移動 する時も、風の力に乗って舞い上がる。 風の音をじっと聞き、常に機会を待っている。「時」が来た時に、 翼をかって大空高く上ることができる。私たちも、「神の時」を待 つことが大切だ。鷲が、風の音をじっと聞き、風を待つように、私 たちも祈りつつ、主の御声に耳を澄ませていよう。風が必ず吹くよ うに、時が来ると、神の言葉が臨み、心に平安が与えられ、道が開 かれて行く。導きがわかる。 祈りつつ忍耐して導きを待とう。待つ期間こそが、まさに信仰の成 長の時だ。主を待ち望む事なくして、信仰が成長することはない。 私たちはすぐに答えが欲しい。しかし、信仰は待つ事により熟成さ れて行く。又、風を察知して、鷲が風に乗るように、導きがわかっ たなら、すぐに従おう。大きな祝福が備えられている。 ・・・・・・・・・・・・・ 心がうみ疲れた時に、「新しい力」を得るために、更に気力を振り しぼり、頑張ることのように思ってしまう。しかし、そうではなく、 「主を待ち望む」ことから来ると。静かに主と交わり、心の内を ことごとく打ち明け、御声に耳を傾けよう。
2015年04月17日(金) 「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」詩篇46:10
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」詩篇46:10
「主は」戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火 で焼かれた。そして「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と。 「主の主権を認めよ」「力を捨てよ」「静まって」主がもたらされ た勝利を、敗北した敵の姿、その様子、主の戦勝の品々を見よと告 げられている。 そして、「主が」戦われ、「主が」勝利をおさめられたという事実 を。「やめよ」とは、人間の力による、人間的な知恵、方法による 肉の様々な、はかり事をやめよということだ。肉の方法と力で戦う のではなく、その肉に、自分に死んで、御霊に支配されて、御霊の 導きに従って行くのが信仰生活だ。 「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神はこれを助け られる」神は都の真ん中に臨在され、その都はゆるがない。神は私 のただ中に臨在されるので、私は何があっても揺るがない。不安で たまらない事柄や思い煩う事態、恐れに襲われる事、様々な事態が 生じるが、その時こそが「わたしこそ神であることを知」れる時だ。 「やめよ」肉であれこれ動く事をやめよ。思い煩いをやめよ。心を 騒がすことをやめよ。それらを止めて、神に祈り、神を信じよう。 「神はわれらの避け所、力、そこにある助け」だ。今まで、必ず折 りにかなった助けがあり、幾度もみわざを見た。今、神の御前に静 まろう。神との交わりのために時間を取り、耳を澄まして、御声を 待ち望もう。神が動かれる。 ------------ 神の力強い御言葉と御約束だけが、この目に見える状況にも揺るが ない錨だ。何とかしなければならないと恐れは常に来るが、振り返 り、主の勝利を思い起こしてみよう。今一度、御言葉に立とう。
2015年04月16日(木) 「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40
主が、ガリラヤ湖を渡ろうとされた。「さあ、向こう岸へ渡ろう」 と言われ、舟をこぎ出した。すると途上で嵐に会い、舟は波をかぶ り、水でいっぱいになった。弟子たちは、嵐の怖さを知っているか らこそ、おじ惑い、身に危険を感じた。このままでは舟は沈没して しまう。しかし、主は平然と眠っておられた。 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのです か」と不満いっぱいに主を起こした。主は向こう岸へ渡ると言われ る。しかし目の前の現実は、向こう岸どころか、沈没寸前だ。御言 葉と見える所とが合致しない。ペテロも「深みに漕ぎ出して、魚を とれ」と言われた時に、現実と御言葉が合致しなかった。 でもお言葉通りに従った時、大漁の奇跡を見た。嵐を大なぎにされ た主は、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」と言わ れた。嵐が問題なのではなく、信仰の問題だと言われた。主のお言 葉一つで、「黙れ、静まれ」で、嵐は止んだ。状況の問題ではない。 「向こう岸へ渡ろう」が主の御心であるので、おぼれて死ぬことは 絶対に有り得ない。 ましてや、主が同船しておられ、沈む事などあるはずがない。 私たちも信仰生活で、様々な嵐が起きる。その時こそ、信仰が試さ れる。目の前の状況と、主の言葉をが相反する。ペテロのように、 「でも、お言葉通りに」従ってみよう。主のみわざを見る。 ------------ いつまでもたっても、嵐になると主と共に平安に眠ってはおられな い者だ。問題が起きたときに慌てて主に叫ぶのではなく、いつもの 生活の中に主を認めて、同船しておられる主をじっと見ていたい。
2015年04月15日(水) 「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」出エジプト14:31
「イスラエルは主がエジプトに行なわれたこの大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセとを信じた」出エジプト14:31
神は、モーセによって、出エジプトを果たした民を荒野へと導かれ た。しかし途中で「引き返すように」と言われた。そして海辺で宿 営するようにと。「なぜ?」「どうして?」追っ手が来るやも知れ ず、少しでも遠くへ一刻も早く逃げなければならないのに。しかし 引き返せと。そうしていると、パロは考えが変わり、自分で軍勢を 率い、エジプトの全戦車で追跡して来た。そして追いついた。 目を上げて見ると、軍勢が迫っていた。命令に従ったがために、引 き返して追いつかれてしまい、一体どうなっているのか。彼らは 「非常に恐れて、主に向かって叫んだ」。すぐ背後に追っ手が。ど んなに恐怖だったろう。なぜ、神は途中で引き返すように、言われ たのか。「彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわ たしは栄光を現わし」と、“栄光を現わすため”と言われている。 私たちも、神に従ったのに、なぜこんな事が?どうしてこうなるの か?と大きな苦しみを通るが、そこには深いご計画があり、その苦 しみを通して、神の栄光が現わされると。その時に「恐れるな。し っかり立って、主の救いを見よ」と。 「主が戦われるから、あなたは黙っていよ」と。恐怖の民に、まず 「恐れるな」。民が戦うのでなく、「立って、見よ、黙っていよ」 と。神の主権を認め、神の真実に信頼して、静まる時、主の救いを 見るのです。神がご自身のわざをされる。目の前の窮状に、神の栄 光が現わされる。 ------------ しっかり信仰に立ち主の救いを見て、そして忘れないように覚えて いよう。何度も助けられたのにちょっとした事で恐れ動揺する者だ。 今の窮地も、主のご計画だ。恐れず黙って主によりすがろう。
2015年04月14日(火) 「しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」Tサムエル19:1
「しかし、サウルの子ヨナタンはダビデを非常に愛していた」Tサムエル19:1
サウル王はダビデを妬み、妬みは憎しみに増幅し、殺害しようとつ け回していた。そしてヨナタンや家来全員にダビデを殺す事を宣言 した。しかし、ヨナタンは、ダビデを愛していて、何とか助けよう と画策する。愛する父親と、愛する親友との二人の狭間でヨナタン はどんなに、辛く悲しかった事だろう。 父親が敵とするダビデのことを、父親に執り成し、はっきりと進言 する事は、どんなに勇気の要ったろう。しかしヨナタンはその事が 言える立場にいた。エステルもユダヤ人殺害の法令が発布された時 に、王に嘆願できる位置にいた。他の誰も取って代わる事のできな い。その時、その場所にその人を置かれたのは神だ。 ヨナタンは、ダビデの事を誰よりもよく知るからこそ、サウルに執 りなした。ヨナタンは自分にできる、自分の使命を果たした。エス テルも命がけで使命を果たした。私たちも現在、置かれている場が ある。あなたの立場だからこそ、できる事がある。それはあなたに しかできない事だ。置かれている意味を捕らえて、自分に任された 使命を果たして行こう。 又、ダビデにとってヨナタンは真実な信頼できる友であり、良き助 けであった。ずっと死と隣り合わせにいたダビデに、その存在はど んなに救いであり、慰めであったろう。まさに神の備えであった。 あなたにも慰め手、助け手がいるなら、それは神からのものだ。 何と感謝な事だろう。 -------------- いつも私たちを助けてくださる神は、全ての途上で相応しい助け手、 慰め手を送ってくださっている。また逆もだ。互いに愛し合い、慰 めのために今日も豊に用いていただこう。
2015年04月13日(月) 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘がひどく、悪霊につかれているのです」マタイ15:22
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘がひどく、悪霊につかれているのです」マタイ15:22
カナン人女性が、主に、助けを叫び求めた。「主よ。ダビデの子よ ・・娘がひどく悪霊に取りつかれている」と。しかし、主は、無言 であった。余りにも叫び求める母親に、弟子たちが閉口し、何とか してくれるようにと願ったほどだ。そんな必死な母親に、主は「イ スラエル以外には遣わされていない」と冷淡にも見える応答をされ た。 女性は異邦人であり「ダビデの子よ」と言う立場にはない。主は正 しい道筋に導いておられた。しかし女性は、尚もひれ伏し助けを求 めた。すると主は「子どもたちのパンを小犬にやれない」と断られ た。実は、主は彼女の信仰を試しておられた。それに対し彼女は 「主よ。その通りです」と認めた。 怒りもすねもせず、不信仰に陥らず、諦める事もせず、自分は異邦 人であり、資格のない現実をまっすぐに認めた。彼女のへりくだり だった。そこで引き下がらず、尚も求めた。「小犬でも食卓から落 ちるパンくずはいただく」と。彼女は、与えられるはずのない救い だが、主はあわれみのお方と信じた。それゆえすがりついた。 主は、ここに拒否されても〃、尚も求める「信仰」を見られた。主 はその信仰を賞賛され「あなたの信仰は立派です。願い通りになる ように」と、娘は完全に癒された。「へりくだり」を教えられる。 そして自らの立場を認め、しかし、まっすぐに尚も主を信じて行く 「信仰」を教えられる。あわれみ豊かな主は、答えて下さる。 -------------- 何度も失敗し転んだりしながらも、主に向くなら主は必ず聞いてい てくださる。この立場が与えられていることを感謝したい。そして、 変わりたい、良くなりたいと、まっすぐに主に向かっていたい。
2015年04月12日(日) 「私の時は、御手の中にあります」詩編31:15
「私の時は、御手の中にあります」詩編31:15
アブラハムは「わたしが示す地に行け、大いなる国民とする」との 示しに従い、75歳の時に生まれ故郷を出た。しかし、妻サラとの間 に子供はできず、100歳になった時に、サラに子供が与えられた。2 5年間待った。その間、数々の失敗もし、苦しみを通りながら神の 訓練を受けた。 ヤコブは、父とエサウを欺き、逃亡し遠方の伯父のもとに身を寄せ た。そこで神の御手により厳しい訓練を受けた。伯父にだまされ、 ラケルをめとるのに14年をかけた。だましたヤコブはだまされた。 20年間暑さ寒さの中で苦労した。「あなたをこの地に連れ戻す。約 束したことを成し遂げるまで決してあなたを捨てない」の通りに、 「神の時」に神により連れ戻された。 ヨセフは訓練に次ぐ訓練であった。兄たちに売られてエジプトへ。 エジプトでは身に覚えの無い罪で牢獄へ。神が正義ならなぜこんな 事に?ヨセフへの訓練であった。苦しい歳月であったが、後に宰相 に引き上げられた。ヨセフは砕かれ、練られ、築き上げられた。ダ ビデは、サウル王に命を狙われ続け、常に死と隣り合わせであった。 逃亡を続け、その恐怖、不安はいかばかりだったろう。この状況が いつまで続くのかと訴えている。訓練は辛く悲しいが、主の器へと 練られ造り変えられる。そして、その渦中では、苦しみが永遠のよ うに思えるが、主は「時」を定めておられる。 「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」。主の時に、事 態は動き、成就して行く。 ・・・・・・・・・・・・・ 「時」が偶然でなく、運命にほんろうされているのでなく、神の御 手の中に、神の主権と支配にある事を覚える時に、見方が変わる。 自分には八方ふさがりの中で待つ「時」が、実は最愛の御手に握ら れた、ご計画のプロセスの中だ。
2015年04月11日(土) 「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分の ために友をつくりなさい」ルカ16:9
「そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分の ために友をつくりなさい」ルカ16:9
管理人が主人の財産を乱費していた事が発覚し、解雇を言い渡され、 会計報告を出せと言われた。その時、彼は債務者を次々呼んで、借 金を減額にしてやった。解雇された時に、彼らが自分に有利に計ら ってくれると踏んだのだ。主人はこの抜け目のなさをほめた。 主はこのように「不正の富」で自分のために友を作れと言われた。 ここでの「不正の富」は、正・不正という事でなく、悪事で得た富 の事ではなく、「この世の富」という意味だ。「永遠」との対比で の「この世」の事だ。この世の富を、主の御心通りに使って、天に 宝を積めと言っている。この世にいる間に、この世の富を用いて、 天に投資ができる。 そうするなら、天に帰った時に、大いなる報いを受ける。神から任 されたこの世の富を賢く使えとの教えだ。会計報告を出すのは、所 有者でなく管理人だ。所有者なら自分の物であり、どう使おうと自 由だ。しかし、管理人なら主人に報告の義務がある。私たちもこの 世で任されている富は管理であって、所有ではない。 主に喜ばれるように、主に御心を問いながら使う責任がある。富は 容易に偶像になる。富に執着し振り回される。富の主人でなく奴隷 になってしまう。神と富に仕えるなと言われたのでなく、仕える事 は出来ない、不可能だと言われた。任されたものを祈りつつ、御心 に従い用いて行こう。天で豊かな報いを受ける。 ・・・・・・・・・・・・・ 日々生活で、天に宝を積むこと、天への備え、天での報いをどれほ ど考えているだろう。目の前のこの世の事で一杯だろうか。すべて の持てるものは、主からの預かりものだ。祈って、御霊の導き通り に使って行こう。主から「よくやった」と大きな喜びに入れられる。
2015年04月10日(金) 「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」Tサムエル8:7
「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから」Tサムエル8:7
イスラエルの民は、サムエルに王を求めた。他の国民のように自分 たちも王が欲しいと。それは、主の御心ではなかった。しかし民が 「どうしても」と要求した時、主は、要求を聞き入れよと言われた。 それは、サムエルを退けたのではなく神を退けたのだと。主はサム エルに彼らに厳しく警告し、王の権利を告げるようにと。 しかし、それでも民は、どうしても王が欲しいと言い張った。する と主は、王を立てよと言われた。時に、自分が肉で計画した事がう まく行く。思い通りに、画策通りになる時に、これは神が成功させ て下さった、神が認めて下さったのだと思うが、それは大きな誤り だ。何が何でも、どうしても行くという私たちに、自分の道を行く 事を、神が許されただけだ。 どれだけ警告しても、私たちが聞かない時、神は、願う通りの道を 行かせられる。そして、蒔いた種を刈り取らせられる。苦しい刈り 取りになる。しかし、その刈り取りを、尚も訓練とし、学ばせられ る。主のあわれみはどこまでも尽きない。肉の思いを通すことが、 いかに愚かであるかを身をもって知る。 今、自分の道に行こうとしているなら、又、主に祈らずに進もうと しているなら、立ち止まって祈ろう。方向変換して御霊に、御心に 従おう。自分の思いでなく、御心に従う事がどれほど祝福であり、 平安な喜びの道であるかを知る。周囲にも主を証しして行く事にな る。 ------------ 自分の強い思いが最優先になり、祈らずに行動してしまうことがあ る。私たちの王は主なる御神だ。主を退けて自分の道に行こうとし ていないだろうか。
2015年04月09日(木) 「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」マタイ5:24
「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」マタイ5:24
ある人が、友人を傷つけてしまった。周囲にも嫌な思いをさせた。 ちょっとのミスというものではなく、醜い自我から出た事であり、 はっきり自らの罪だった。御霊に示され、罪を認めて、謝罪するよ う語られた。自分の愚かさを認める事、謝る事はプライドが傷つく 恥ずかしい、絶対にしたくない事だった。 しかし、紛れもなく自分の罪であり、示しに従い、傷つけた相手、 嫌な思いをさせた一人一人に謝る決心をした。赦してもらえなくて も、仕方の無い事だ。しかし勇気を出して謝罪した時、相手は快く 赦してくれた。他の人々も同様だった。赦される事の喜びと平安に 心が満ちた。御言葉によると、「兄弟に恨まれる」事について言っ ている。 争いや衝突があり、相手に恨まれているなら、まず自分の方から謝 罪するようにと。それは、自分に非が無いか、落ち度は無いか、相 手の側に立って考える態度だ。もめ事が起きると、自分を正当化し 相手のせいにしたい。相手から謝って来るならまだしも、こちらか ら事を起こすなどとんでもない。 しかしギクシャクし、わだかまりがあるなら、必ず解決する事が必 要だと。それは、最も大切な礼拝を後回しにしてでも、和解するこ とを優先させよと。今、自分に和解すべき相手が浮かぶなら、祈っ て行こう。 ------------ ギクシャクする苦い思いはどこから来るのだろう。自分視点でしか みられない者なので、へりくだって再吟味してみたい。主の恵みと 慈しみの中で平安をいただいた者として、和解に努めたい。
2015年04月08日(水) 「主の山の上には備えがある」創世記22:14
「主の山の上には備えがある」創世記22:14
待ちに待ったイサクを与えられて、大きな喜びと幸せの中にいたア ブラハムに、後にも先にも最大の試練が臨んだ。最愛の子イサクを 全焼のいけにえとして献げよというものだった。一瞬耳を疑ったか も知れない。しかし、これは普段から慣れ親しんでいる主の御声だ。 間違いはない。神が奇跡により与えて下さったイサク、それを取ら れるのだろうか。 しかしイサクこそは約束の子であり、イサクから子孫が増え広がる はずだ。イサクか死んでしまえば、その約束はどうなる?断たれて しまうではないか。様々な思いが駆け巡ったろう。しかし、アブラ ハムには、神への深い信頼と確信が培われていた。これは確かに神 の御声であり、示しだ。もしイサクに死が臨んだとしても「神には、 人を死者の中からよみがえらせることもできる」。 アブラハムは神を信じた。それで「翌朝早く」ぐずぐずせず直ちに 神に従った。イサクと従者と共にモリヤの地に向かった。そしてイ サクをいけにえとし、刀を振り上げほふろうとした瞬間、神が制止 された。そこには、代わりの雄羊が備えられていた。神に従う道に は、必ず「主の山に備えがある」。 「神はアブラハムを試練に会わせられた」私たちも試練に会う。し かし、その試練の中にも、主の山の上に必ず備えがある。この事を 信じて試練を受け止めよう。今、厳しい試練の中なら、まっ暗闇の 中で信じよう。「主の山の上には備えがある」。 ------------ 神の約束は絶対だとの信仰で不信仰に勝利できた。アブラハムの試 練には及ばない小さなことでも右往左往するが、御言葉を信じ、主 の山に備え、を経験していきたい。
2015年04月07日(火) 「それは私が、高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです・・これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:7
「それは私が、高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです・・これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」Uコリント12:7
パウロは、激しく苦しめられるとげが与えられていた。主のために 支障無く、更に効率的に働けるよう、その障害となる、とげが取ら れるように切に願った。しかし、この願いの答えは「ノー」であり、 取られなかった。とげはそのまま残された。このとげが与えられた 目的は「高ぶらないように」だった。 とげにより、高ぶることから守られる。自分の力でどうにもならず、 主に拠り頼まざるを得ない、へりくだった歩みが与えられた。主に 従う道は、下へ、下へと、へりくだりの歩みだ。主はご自分を卑し くし、死にまで従い、十字架の死にまで従われた。しかし、肉の性 質は、これを避けて逃れたい。肉は、上へ、上へ、だ。 求めるものは成功であり、人からの賞賛であり、地位、名誉であり、 評価され認められることだ。私たちにも、とげが与えられているだ ろうか。そのとげにより、高ぶりから守られるなら、何という恵み だろう。それは病か、様々な困窮か、難しい対人関係か。 「この病さえ無ければ」「こんな生い立ちでさえ無ければ」「この 環境でさえなければ」「この相手さえいなければ」こんなに苦しむ 事は無いのに・・。「これを去らせて下さい」「環境さえ変われば」 と、熱心に願っただろうか。除かれない代わりに、主の大きな恵み、 深いご愛、慈しみを知ることになる。後の日に、このとげにより高 慢から守られた、と必ず言える。 -------------- 主に頼るしかなく、ヘリくだざるを得ないところで祈る。取り去っ て、思い通りに解放して欲しいと思うが、そこに主がおられ、この ことも主からのものと受け取れるとき、弱い自分のまま感謝できる。
2015年04月06日(月) 「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたがは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない』」ヨハネ4:48
「そこで、イエスは彼に言われた。『あなたがたがは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない』」ヨハネ4:48
主のもとに、カペナウムから王室の役人が訪れた。ヘロデ王の宮廷 官吏であり、地位も名誉も財もあった、しかし、どうにも出来ない 事態が起きた。息子が病で死にかけていた。人脈も財産もあったが、 どんな医者も直せなかった。主の噂を聞き、この方なら助けて下さ るのではと、30キロの道のりを必死の思いでやって来た。 息子の癒しを願うと、主は「あなたがたは、しるしと不思議を見な いかぎり、決して信じない」と答えられた。「あなたがたは」であ り、彼だけでなく周囲の人々への言葉でもあった。ただ奇跡を見て 喜ぶのではなく、主が救い主であることを信じ、主に信頼すること を求められた。 役人は、続けて息子の癒しを願ったが、「主よ」に変わっていた。 主は応答され「帰りなさい。あなたの息子は直っている」と言われ た。すると、彼は、主が言われた言葉を信じて帰途についた。彼に とって、信じる信じないなど、どうでも良いことで、息子が直る事 だけがすべてであった。しかし、主は、そんな彼を主を信じる信仰 へと導かれた。 御言葉に従い帰って行くと、途中でしもべから息子が直った事を聞 いた。御言葉を聞いた同時刻である事を知り、彼も彼の家族も皆、 主を信じた。息子の危機により、一家が主を信じる信仰へと導かれ た。私たちも御言葉に従う時に、みわざを見る。そしてその度に信 仰が強められて行く。示された主の言葉に従おう。 ------------- ただ主のお言葉を信じ、安心してまた長い道のりを帰ることがでる、 その信仰を与えられたら問題は問題でなくなる。先が少しでも見え ない限り安心できない、そんな弱さも主に告げていこう。
2015年04月05日(日) 「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約 束したとおり、あなたがたに与えている」ヨシュア1:3
「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約 束したとおり、あなたがたに与えている」ヨシュア1:3
モーセに率いられてエジプトを出た後、40年間荒野を旅をしたイス ラエルの民は、とうとう主の約束の地カナンを目前にする所まで来 た。 モーセの死後、主は、新しい指導者ヨシュアを立てられた。そして 「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、 わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じられた。「あなた がたが足の裏で踏む所は・・あなたがたに与えている」と。 目の前には、とうとうと岸いっぱいに水が溢れるヨルダン川が横た わっている。橋も船も無い。どうすればよいのか。祭司たちが契約 の箱をかついで・・と、具体的方法を示された。 主は、カナンをイスラエルに与えると約束しておられたが、実際に 自分のものとするには、行動が必要だった。 彼らは、その土地に進み入り、戦い、勝ち取って行かねばならなか った。まず祈りは大切だ。しかし、祈っているだけで、待っている だけで、もし行動に移す事が無ければ、それを所有することは出来 ない。実際に入って行って、「足の裏で踏む」必要があった。これ は、私たちの信仰も同様だ。 主は、私たちに溢れるばかりの祝福を備えておられる。それを実際 に、自分のものとするには、信仰に立ち、前進しなくてはならない。 行動が必要だ。その時、約束のものを持つことになる。今、あなた にとっても、主が与えようとしている地に「行け」と言われている だろうか。 あなたにとっての目の前のヨルダン川は何だろう。信仰もって前進 しよう。主の約束が現実のものとされる。 ・・・・・・・・・・・ 祈りの中で、御心を示されたなら、次は立ち上がって、実際に行な って行くことが大切だ。実際に足の裏で、踏まなくてはならない。 今、目の前に示されている御心があるなら、信仰によって勇気をも って一歩踏み出そう。
2015年04月04日(土) 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれか らわく」箴言4:23
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれか らわく」箴言4:23
普段、心を見張る事など余り考えない。しかし御言葉は、「力の限 り」自分の心を見張って見守れと言っている。心は大切だ。見張っ て、見守らないなら枯れてしまう。泉をふさいでしまう。庭に種を 蒔き、植物を育てた経験があるだろう。水をやり、どんどん生えて 来る雑草を抜き、肥料をやり手入れをする。水をやらずに放ってお けば枯れる。 私たちの細心のケアが必要だ。心に蒔かれた種である御言葉を、枯 れないように水をやり続ける。つまり御言葉をしっかり受け取り、 反すうし、絶えず思い、聞くだけでなく実行する事が大切だ。でな ければ枯れてしまう。 又、いばらが生えるなら、引き抜かなくてはならない。御言葉をふ さいでしまうからだ。様々ないばらがはびこる。名誉、地位、人か らの賞賛、人の評価、この世の煩い、富の誘惑・・、心が奪われてし まう様々ないばらが伸びて来る。そのままにしておくと、からまり ついて、ふさがれてしまう。主より大切になっているものがあれば 気づけるように。 又、苦い根の雑草がある。妬みや憎しみ、敵対心・・、伸びない内に、 きっぱり引き抜こう。御霊は助けて下さる。「苦い根があります」 「引き抜けません」「捨てたくないです」ありのままを祈って行く 時、御霊が働いて下さる。「力の限り、見張って、あなたの心を見 守れ」。力の限り心を見張ろう。いのちの泉がこれから湧くのだか ら。 ・・・・・・・・・・・・・ 「心を見張れ」と言われている。それも「力の限り」と。心を見張 る発想などなく、流されるまま、気の向くままに語り、行動して いるだろうか。又、何でもかんでも、制する事なく、心に侵入させ ているだろうか。雑草を抜きつつ、御言葉が根づくよう心を守ろう。
2015年04月03日(金) 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し・・」Tヨハネ1:8
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し・・」Tヨハネ1:8
ある女性の証しだ。小さい時から親に言われるまま頑張って勉強し、 習い事もし、優等生の良い子で過ごして来た。周囲からもほめられ、 自分でも真面目な良い子、立派な人間だと思っていた。そんなある 時、親しい友人に教会に誘われ、一緒に行った。教会では、聖書か ら「罪」ということを繰り返し教えられるが、一向にわからなかっ た。 自分は良い子で、皆にも良い子と言われ、非行になど走った事はな い。通い続けていたある時、学びが放蕩息子の箇所だった。だが、 その放蕩息子ではなく、兄息子がまさに自分の事であり、そのまま 自分にピッタリ重なることに愕然とした。弟を軽蔑し、見下し、そ れを受け入れる父親に不満を爆発させる。決して誰にも見せない 自分の姿だった。 顔ではニコニコしながら、実は出来ない子を見下し、軽蔑していた。 自分は正しく、立派で、心の中で、不良たちを裁いていた。しかし 心の中は、常に満たされておらず、怒りや不平不満でいっぱいだっ た。突然、御霊の強い光によって自分の姿があらわにされた。初め て罪がわかった瞬間だった。 プライドの高い、高慢な人間、虚栄心は強く、心底自分は罪人であ った。いつも聞いていた主の十字架が、まさに自分のためであると 初めてわかった。心からの悔い改めが与えられた。御霊は、罪につ き、十字架につき、わかるように教えて下さる。悔い改めに導いて 下さる。 ------------- 罪はいつも御霊により明らかにされる。示された事が感謝で、自覚 のない罪はどれだけ重ねているだろう。示されながら悔い改め、ま すます主に近くおりたい。
2015年04月02日(木) 「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった」マルコ6:26
「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった」マルコ6:26
ヘロデは、ヨハネを正しい人と恐れ、保護していたのに、殺してし まった。なぜなのか。「王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあ り、人々の手前もあって」とあり、ヘロデは、自分はヨハネを正し いと知りながら、人目を気にして、人の手前、ヨハネを殺してしま った。ヨハネの 語る神の言葉を聞いていながら、自分の立場を守 り、周囲に体面を保つために、ヨハネを抹殺してしまう。 ヘロデは、ただ神の言葉に喜んで耳を傾けるだけで、御言葉に向き 合い、応答し、悔い改める事がなかった。又、神の言葉に自らを従 わせ、方向変換するという事もなかった。ヘロデには権力があり、 娘の願いを退けることができた。にもかかわらず、娘の言う事に従 ってしまった。ヘロデは、人々の前に、メンツを守り、神を恐れず、 人を恐れた。体面を取り繕うことが最優先であった。 私たちはどうだろう。他人の目に、自分が思う以上に、とらわれて いるものだ。人への恐れから、事を誤って行く。それは神の言葉に 喜んで耳を傾けていながら、御言葉に従うことをさせない。人への 恐れは、内側に根深く培われている。まず気づきから始まる。ヘロ デはヨハネの言葉を喜んで聞いていた。しかし悔い改める事はなか った。 御言葉を喜んで聞いてはいても、御霊の示しに従わないなら、実を 結ぶことがない。ピラトも主が正しいとわかっていたのに、保身の ために、優柔不断で主を十字架に追いやった。実を結ぶために、目 の前の御霊の示しに従う事が必要だ。従えないから、祈りがあり、 祈る時に、従えるように助けられる。そして心に平安を経験して行 く。 -------------- 周囲の声や自分の声、いろんな声を聞いてそれに従う。神の御言葉 も聞こうとすれば豊に与えられているのに、何に従うだろう。正し い人を殺してしまうヘロデの危うさを私たちも持っている。
2015年04月01日(水) 「別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった」マタイ13:7
「別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった」マタイ13:7
「みことばを聞くが」とあり、岩の上に落ちた種と同じだ。「岩 地に蒔かれるとは、みことばを聞くとすぐに喜んで受け入れるが」 とあり、すぐに喜んで受け入れるが、試練になると身を引いてし まう。土の下には自我の固い岩があって、岩にさえぎられ、根が 下ろせない。そして枯れた。試練を与える主の主権、ご計画を認 めず、受け入れない固い心だ。その自我ゆえ、根ざせず枯れてし まう。 しかし、茨の中に落ちる人は、従おうとしている人々だ。だが、 成長の過程で、いばらも生えて来る。そのいばらの方がどんどん 伸びて、いつしか御言葉をふさいで行く。せっかく芽が出て、伸 びようとしてるのに、いばらで、さえぎられる。いばらとは、 「世の心づかい」「富の惑わし」とある。 この世で生活する上の経済的なこと、仕事、家庭、対人関係、健 康などの様々な心配、思い煩いだ。この思い煩いが大きくなると、 御言葉をふさいでしまう。実が結べない。又、富への誘惑がある。 富が将来を保障し、夢を叶え、幸せをくれると勘違いする。 富を愛し、富に頼り、心を奪われるなら、御言葉をふさぎ、遮断 してしまう。御言葉がさえぎられると、平安なく喜びなく、いの ちの無い、形だけの信仰生活となる。妨げているものを、明け渡 して行く時に、実を結んで行く。御霊の実は、愛、喜び、平安・ ・だ。 ---------- 神様を信じたときに受けた全き主の平安が、時と共に茨にふさが れている。主が人生の全てに関わっていてくださるのに恐れたり 悩んだりする。今、平安のないところを御言葉に換えていこう。