2015年05月31日(日)

「あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとく、わたしがモーセに 約束したとおり、あなたがたに与えている」ヨシュア1:3


エジプトを出て、荒野を40年間旅したイスラエルの民は、ついに主
が与えると約束された地、乳と蜜の流れる地カナンの目の前まで来
た。主は、モーセの死後、新しいリーダーヨシュアを立てられた。
そして「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を
渡り、わたしが・・与えようとしている地に行け」と命じられた。

「あなたがたが足の裏で踏む所は・・約束したとおり、あなたがたに
与えている」と。主は、その地をイスラエルに与えると約束してお
られた。が、実際に自分のものとするには、具体的な行動が必要だ
った。

彼らは、その土地に進み入り、戦い、勝ち取らなければならなかっ
た。ただ待っているだけで、祈っているだけで、もし主に従い、行
動する事が無ければ、それを所有することは出来ない。実際に入っ
て行って、足の裏で踏まなければならなかった。

これは、私たちも同様だ。主は、私たちに豊かな祝福を備えておら
れる。それを自分のものとするには、信仰に立ち、実際に前進しな
くてはならない。行動が必要だ。その時、約束のものを所有する事
になる。

今、あなたにも、主が与えようとしている地に「行け!」と言われ
ているだろうか。祈りの座から立ち上がり、行動を起こす時だろう
か。信仰もって一歩踏み出そう。主の約束が現実のものとされる。
足の裏で踏む所は、ことごとく与えられる。

・・・・・・・・・・・
まず祈りが大切で、祈りによって示されたなら、「足の裏で踏む」
必要がある。具体的に、御心を行なって行く事が大切だ。今、目の
前に、示されている事に一歩踏み出そう。主が与えて下さっている
地だ。


2015年05月30日(土)

「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩 むことがなく、いのちの光を持つのです」ヨハネ8:12  


ある人が、職場で、理不尽な上司に悩まされていた。嫌だという気
持ちは積もり、怒り、恨み、憎しみへと増幅して行く。段々、出社
が辛くなり、出社拒否一歩手前状態だ。どう見ても、身勝手で自分
本位な上司が悪いとしか見えず、この苦しみは、上司のせい、あん
な上司だから、自分は苦しめられているとしか思えない。

しかし職場にいても、いなくても、関係無く、心は苦しい。とうと
う苦しみに耐えかねて、主の御前に行った。心の内の悶々を、怒り
も恨みもことごとく打ち明け、祈った。御霊により心を探られた。

すると光が来て、自分の内に「苦い根が芽を出して悩まし・・」と、
苦い根がある事を示された。相手は悪いかも知れないが、自分も相
手をさばき、憎み、恨んでいる。一方的に相手が悪いとしか思えな
かったが、自分がさばき、憎み、罪を犯しているから、苦しいのだ
という事がわかった。

相手の問題ではなく、自分の問題だった。相手に隠れて、自分の罪
など全く見えなかった。しかし自分の罪として認め、悔い改めた。
その時、心が解き放たれて、あんなに苦しかった心に平安が来た。
職場にいても、家にいても、常に心に影を落とし、真っ暗な牢獄に
いるようだった。囚われの身だった。
それが御霊の光が来て、牢獄から出され、自由の身にされた。心が
救われ、まことに主が神であることを経験させられた。

・・・・・・・・・・・・・
心のざらつきや、悶々を、まず祈りに持って行こう。御霊は祈りに
答えて、心の内を照らして出して下さる。心に平安の無い問題は自
分にあり、気づきを与えて下さる。思い煩いかも知れない。示しに
従おう。一歩一歩、自由に、自由にして行って下さる。


2015年05月29日(金)

「あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地を持っていてはならない。山地もあなたのものとしなければならない」ヨシュア17:18




カナンに入り、各部族がくじにより、相続地が割り当てられた。そ
してその割り当てられた地は、戦って開拓して行く必要があった。
ところがヨセフ族に不満が起きた。 自分たちは、主の祝福により
数の多い民になったのに、一つの割り当て地しか得ていないと。

「なぜ、ただ一つの割り当て地しか貰えないのか」自分たちは大部
族だから、大きな土地を持たなければならないと。そこでヨシュア
は、山地を自分たちのものとせよと言った。すると彼らは、カナン
人は鉄の戦車を持ち、強敵だから無理だと。ヨシュアは、どんなに
強いとしても、戦って追い払い、勝ち取れと答えた。

彼らの問題は、戦うことをしたくない、戦闘を恐れている事であっ
た。戦って勝ち取ろうとはせずに、ただ現状に不平不満を言うばか
りだ。私たちはどうだろう。私たちも、主によって割り当て地が与
えられている。家族、仕事、対人関係、今の場所、賜物、能力・・。
今の場所にヨセフ族のように不満だけだろうか。

目の前に鉄の戦車が立ちはだかり、難しい状況、事態があるかも知
れない。しかしヨセフ族と同様に、私たちも主から与えられた地だ。
主は、それらを祈りつつ、御霊に従い、主のために用い、栄光を現
わす事を願っておられる。そうして行く時、更に祝福を増し加えて
下さる。山地をも与えられる。自らの態度はどうだろう。
-----------
私たちの占領すべき山地は何だろう。勝ち取れと言われている今日
のチャレンジの場は、主がすでに与えようとしてくださっている。
信仰によって踏み出そう。


2015年05月28日(木)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」ヤコブ1:21



御言葉を行なうためには、まず御言葉を聞いて、受け入れる必要が
あるが、汚れや悪があると、御言葉が入らない。汚れや悪は、御言
葉をふさいでしまう。そのため、どうしても捨て去る必要がある。
汚れや悪を、悔い改めて、悔い改めて歩もう。十字架のゆえに、主
は豊かに赦して下さる。

苦いものが心にある時、御言葉をさえぎってしまう。御言葉が入ら
ない。見て見ぬふりをしている罪が思い当たるだろうか。悔い改め
よう。主との関係が正しくなり、御言葉が植え付けられるために、
心を耕す事になる。そして、デボーションや礼拝や学びの場で、語
られる御言葉を「すなおに」受け入れなさいとある。語られる言葉
は、真実な神の言葉だ。

「そんな事できるわけがない」「難しい」「無理だ」と、自分の思
いや価値観、常識で、対応するなら、御言葉を捨ててしまうことに
なる。自分は何も変わらず、解決も救いも無い。自分の思いや理屈
でなく、御言葉をまず受け止めようと、主に向こう。素直に受け入
れられないなら、まずその事を主に打ち明けよう。

「わかりません」「できません」「助けて下さい」「教えて下さい」
と主に祈る時に、御霊が働かれ、助けを受ける。御霊の力により、
信じられるよう、実行できるようにされる。自分が判断し、無理だ
と決めつけていないだろうか。素直に受け入れることを妨げていな
いだろうか。御言葉が受け入れられる時、平安、喜び、指針が来て、
救いが与えられる。そこに御霊が働かれる。
------------
すなおに御言葉を受けることができず、妨げているものは何だろう。
そのままにせず示していただこう。主との交わりでわかりません、
できませんと告げる時、必ずそこに触れてくださる主を感じる。


2015年05月27日(水)

「あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました」詩編40:6





主は、ダビデが献げたいけにえも、穀物のささげ物もお喜びにはな
らなかった。 いけにえも穀物のささげ物も、主は喜ばれず、ダビ
デの耳を開いて下さったとある。「耳を開く」とは、心の耳を開く
ということであり、「穴を開ける、掘る」と言う意味がある。

ダビデの心の耳が開かれたということは、耳はあるが、ふさがって
いて、穴を開けられたことになる。私たちはどうだろう。主の御声
が、心の耳に聞こえているだろうか。それとも心は肉の思い、自分
の思いでいっぱいだろうか。そのため、単に物理的に聞こえている
だけだろうか。それとも、御言葉の頭の理解だろうか。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他
のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえ
にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」。又、自分に
都合の良い言葉だけを聞いて、あとは耳を閉じているだろうか。
少しでも都合の悪い、自我に触れて来る言葉には、即、心を閉じて
しまう。意識せずにしているかも知れない。

もし、こういう状態であって、耳がふさがっているなら、何も心に
聞こえてこない。主にありのまま、御声が聞こえません、聞く耳が
ありませんと向き合おう。主こそが、耳を開いて下さるお方だ。正
直に自分の状態を認めて、主に向かう時、必ず答えて下さり、耳を
開いて下さる。 
------------
主の御心、御言葉が素直に心に入らない時は、祈りながらもあれこ
れと思い廻らす。平安がないのは苦悩の状態ではなく、御声が素直
に聞けていないからではないか。主は開いてくださる。


2015年05月26日(火)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」ヤコブ1:2



「試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい」とあ
る。その喜び方も、「この上もない」喜びだと。なぜなら、「信仰
がためされると忍耐が生じる」からと。「忍耐」は「我慢」するこ
とではない。「忍耐」とは、もっと積極的なことで、「神が必ず良
くして下さる」と信じることだ。それは信仰が試される時にしか生
じない。

順境で、神が必ず良くして下さる!というのは意味がない。逆境の
暗いトンネルの中で、このトンネルは必ず出る、と信じて行くこと
だ。そしてその忍耐を働かせて行く時に、信仰が成長すると。成熟
して行く。成長が無いのは、試練をごまかしてしまうからだ。試練
を避けたり、逃げたりしてしまう。「懲らしめを軽んじてはならな
い」試練こそが、成長のチャンスだ。自分が砕かれるし、変えられ
て行く。

成長の秘訣は、試練を逃げず避けず、受け止めることだ。今、苦し
みがあるなら、祈って行こう。主に向き合い、問題に向き合い、自
分に向き合う時、必ず一段階〃と成長して行く。主は沢山の事を教
えて下さる。霊的学びを得る。又、弱り果ててはならない。試練は、
愛されていないのではない。「主はその愛する者をこらしめ」と、
懲らしめは神の愛だ。

「懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子
ではない」と。「益のため、ご自分の聖さにあずからせようとして、
懲らしめる」。逃げないよう、受け止められるよう祈ろう。
------------
日々の生活で出会う様々な軋轢や躓きは、小さなことかもしれないが、
それを通して主は教えようとしておられる。なぜ平安がないのだろう、
自我のどこに当たってくるのだろう。向き合い成長していきたい。


2015年05月25日(月)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8



ある人が、教会学校から、教会へ通っていたが、罪がよくわからず、
赦されたこともぼんやりしていた。教会へは行くのだが、信仰自体
も何だか漠然としていて、サークルへ行っているような感覚だった。
そんな中、学校の部活で部長をしていたが、健康上の理由で退かざ
るを得なくなった。

通院の必要が生じ、迷惑をかけるので、止むを得ず他の人に代わっ
てもらった。少し体調が良い時に行くと、自分のいた場所に、新し
い部長がいて、皆がその人を慕い、相談を持って行く。それを見た
時に、寂しさと妬みが湧き上がった。顔が歪むのがわかったほどだ
った。こんなはずではない自分を見せられ、どうしようもない醜さ
を知った。初めて罪がわかった。自分のプライドの強さを知り、高
慢を知った。

心から悔い改め、主の十字架がこの罪のためであり、自分のためで
あることが初めてわかった。その時に、心からの感謝が湧いた。
ある人は、入院中に親しくなった患者さんが、後で入って来て、先
に退院して行くのを見ると、顔では笑い、口では「良かったね」と
言う。が、心では全く祝福できず、喜べず、羨ましさと妬みでいっ
ぱいだった。

その時、喜ぶ者といっしょに決して喜べない、自分の姿を思い知ら
された。良い人間と思っていた自分の醜い姿をあらわにされた。し
かし、主はこんな自分を愛しておられ、その愛は自分がどうであろ
うと、決して変わらず、人の喜びを喜べない自分のための十字架で
あると感謝が湧いた。
-------------
聖霊なる神様に教えられて本当自分の姿を示される。この世の善悪
の基準ではない罪や義、十字架による赦しを教えられ、いつも正し
い神様との関係に整えられていく。御霊の声に忠実に歩みたい。


2015年05月24日(日)

「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った」ルカ3:2


            
神のことばが、荒野でヨハネに下ったとある。荒野とは、何もない
所だ。テレビも携帯もパソコンも無い。静寂が支配する場所だ。そ
の静かな所で、神のことばが下った。私たちも、御言葉を受け取る
ために、静かな場所は大切だ。気が散ることのない、主に集中でき
る静かな場所で、御声に耳を傾ける時に、神のことばが下る。

環境的に、どうしても独りになれる、静かな時間と場所が難しい場
合もあるかも知れない。ある人は、そんな状況下で、通勤電車の中
を主との交わりの場とした。目を閉じ、じっと黙想し、祈りの時を
持った。その人の荒野とした。

又、ある人は、深夜帰宅、早朝出勤の激務だった。心身消耗し、自
分の時間も全く持てない状況だった。そんな中、昼休みに屋上に行
き、椅子に座り、じっと主に心を向け、交わりの時とした。恵みの
場とされた。そこがハードな期間の荒野だった。

子育てに大わらわで、自分の時間など持てない主婦が、余りにも庭
が草ぼうぼうで、草抜きをせざるを得ない状況になった。うんざり
だったが、気持ちを切り替えて、主との交わりの時とする事にした。

御言葉を反すうしつつ、祈りながら草取りをしていると、悔い改め
を与えられたり、ふとあの事はああすれば、この事はこうすれば良
いと、御霊の導きが与えられたり、感謝が湧いたり、庭がきれいに
なった時には、心も喜びと平安で満ちた。主は難しい状況もわかっ
て下さっている。求める者に、主との恵みの交わりを与えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
主は、それぞれの環境や状況もご存じだ。独りになる場所が無いな
ら、知恵を与え、状況を導き、何とかして下さる。まず交わりが持
てるよう求めよう。必ずふさわしく導いて下さる。そして平安と喜
びに満たして下さる。


2015年05月23日(土)

「上って行ってはならない。あなたがたの兄弟たちと戦ってはなら ない。おのおの自分の家に帰れ。わたしがこうなるようにしむけた のだから」U歴代11:4



レハブアムは選抜戦闘員18万人を集め、王国を取り戻すためにイ
スラエルと戦おうとした。そこに、シェマヤに主の言葉があった。
「上って行くな。あなたがたの兄弟たちと戦うな。各々自分の家に
帰れ。わたしがこうなるようにしている」と。イスラエルがダビデ
の家にそむいたのは、神のご支配の下のことであると。

レハブアムは主の言葉を聞き入れ、従い、中止して引き返した。彼
自身の強い思いがあったが、主の言葉のほうに従った。「わたしが
こうなるようにしむけた」。この事は、神から出た事であった。

今、あなたに問題が起きているだろうか。「わたしがこうなるよう
にしむけた」。「私は黙し、口を開きません。あなたが、そうなさ
ったからです」神から来たものは受け入れよう。「彼らは主のこと
ばに聞き従い、引き返した」従う時、大きな祝福とされて行く。

レハブアムは、町々の防備を固め、食糧や武器を備蓄し、国をます
ます強め、北にいたレビ人達や民も戻って来て、王権が強固なもの
となった。従わないなら、更なる問題と混乱を引き起こし、自分も
大きな痛手を負う。
今、もし問題があるなら「わたしがしむけたのだから」との主の御
声を聞こう。主の主権による事であり、教えようとされている事が
あり、成長のための訓練だ。必ず豊かな結実を見る。

・・・・・・・・・・・・・
信仰生活、様々な事が起きる。わけがわからない事も起きるが、
「何で?何で?」だと、何も学ばず痛いだけだ。「何を?」に変え
て、何を教えようとされているのか、問うて行こう。すべて主の主
権のもとに起きているのだから。


2015年05月22日(金)

「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエルをエジプトから救い出せ」出エジプト3:10 


荒野で羊飼いをしていたモーセが、突然主から召し出される。イス
ラエルの民をエジプトから救い出すための、リーダーとして立てた
というのだ。「今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう
」と。突如の大きな難題に向かう時、誰でも、とてつもなく不安で、
大きな恐れを抱く。

モーセは「私はいったい何者なのでしょう。民をエジプトから連れ
出さなければならないとは」と応答する。何で、この羊飼いの自分
が、そんなとんでも無い事をしなければならないのか。モーセは80
歳であり、又、以前40歳の王子であった時に、民を救出しようとし
て失敗している。この老人に今さら何を?今の自分には何の能力も
無い。

地位も栄華も人脈も何もない。だが、主は、尻込みするモーセに
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしであ
る」と約束され、たたみ込むように説得して行かれる。「わたしが
あなたと共にいること」が「しるし」だと。「しるし」とは、証拠
であり、保証だ。これ以上の保証は無い。

これが事実であり、現実であるとは、何と力強い事だろう。私たち
のクリスチャン人生も同様だ。「わたしがあなたを遣わすのだ」の
通り、あなたがするのではなく、「わたし」があなたを遣わすのだ
と。主が、私たちはをそれぞれの場に遣わされている。たまたまそ
こにいるのでなく、今の場は、神から遣わされて、そこにいる。
------------
新しい一日が与えられ、今日も新しい場面に向き合わされる。そこ
が神から置かれた、神が共にいるベストポジションだ。今、行けと
いわれる場所で、神の栄光を拝していこう。


2015年05月21日(木)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6



ある人が、突如の事態が起きて、パニックになった。もう何をどう
して良いかわからない。心は動揺し、怒濤のようで、心臓がバクバ
クする。どうすれば良いのか、しかし誰にも言えない。一人で悶々
状態だった。いつも教えられているように、とにかく祈りに持って
行った。主のもとへ駆け込み、今の苦しい、心の騒ぎ、混乱した状
況、気持ちを訴えまくった。

心の内を告げて、吐き出していると、段々、混乱した気持ちが落ち
着いて来た。その時に、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に
ゆだねなさい」との御言葉が浮かんだ。そして、主に委ねるべく、
尚も祈り続けていると、「何も思い煩わないで・・あなたがたの願
い事を神に知っていただきなさい」との言葉が来た。

「あらゆるばあいに」とあり、この場合も有効だ。そして「神に知
っていただきなさい」という事は、つまり、委ねた祈りを神は知っ
て下さったという事であり、祈り続けていた時に、「神に知ってい
ただいた」と確信できた。神に知っていただいたなら、もうそれで
良い。十分だった。心が落ち着いた。

どう導かれるにせよ、最善をして下さると信じられた。その時、あ
んなに大嵐であった心が、すうっ〜となぎになっていた。心は軽く
なり、平安になった。「そうすれば・・神の平安が、心と思いを守
ってくれます」御言葉その通りに、その身に成った初めての恵みの
体験だった。
------------
ダビデのように、心に来る嘆きやうめきを主に告げよう。主が聞い
てくださる。自分の感情が基準ではない主にある平安を、私たちは
いつでも受けることが出来る、感謝だ。


2015年05月20日(水)

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」ヘブル4:16 



主を信じた時に新しい性質が与えられ、生まれつきの古い性質と絶
えずあらがう。常に霊と肉の戦いの中にある。天に帰るまで、私た
ちに肉の弱さがある事を主はご存じだ。肉体は、疲れ果てるし、病
気にもなる。主は肉体をとり地上に来られたので、この事を理解し
て下さっている。

主は、あなたの弱さをご存じだ。主のゆえに、いつでも恵みの御坐
に行ける。私達は元気な時は、主のためにどんどん働き、心地良く、
主に近いと感じる。逆に弱さを覚え、無力の時は、主を遠く感じる
事が無いだろうか。「役に立たない者はだめだ」サタンの声が聞こ
えて来る。

罪を犯すと「同じ失敗ばかりしている」「成長がない、自分はだめ
だ」その声に乗ると、ますます主から離れる。御言葉はどう言って
いるだろう。「あわれみを受け、恵みをいただいて、大胆に恵みの
御座に近づこうではありませんか」恵みの御坐に近づける根拠は
「あわれみを受け」「恵みをいただいて」とあり、「あわれみ」と
「恵み」だ。

自分の功績にはいっさいよらない。行ないによらない。主からの一
方的な愛顧だ。主のあわれみと恵みがあるので、どんなに破れ果て
た状態でも、御前に行ける。そしてそこは恵みの御座だ。あるがま
まの惨めな、破れた状態、それをそのまま持って行ける。心の葛藤
をそのまま打ち明けられる場だ。主は助けて下さる。
------------
自分の状況によって信仰が強く思えることもまた肉の弱さだ。主は
決して状況によらず、私たちの傍におられる。いつでもまっすぐ、
主に近づいていこう。


2015年05月19日(火)

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7



「明日のことについて、思い煩うな、心配無用」とある。これは、
将来について備えたり、考慮してはいけないという事ではない。そ
れは必要で大事だ。しかし、心配や思い煩いは、いっさい必要無い
と。私たちの心配は、「もし〜」から来ていないだろうか。

もし、〜なったら、〜こうなったら、「もし病気になったら」「も
し失業したら」「もし経済的に困窮したら」、幾つもの「もし〜」
で思い煩い、恐れている。しかし、主は「空の鳥を見よ、野の花を
見よ」と。あなたがたの天の父がすべての必要をご存じで、養って
いて下さるのだと。

又、目の前の思い煩いがあるだろうか。仕事の問題や、対人関係の
悩みだ。なぜ、人は思い煩うのだろう。自分の思い込みによる。そ
れも悲観的思い込みだ。明日は、こうなり、将来は、ああなってと
思い込んでしまう。又、仕事や対人関係の悩みを、ネガティブに考
え、ああでもない、こうでもないと、心が分割してしまう。思い煩
いとは心が分裂することだ。分裂状態から、一つに心が定まる事が
必要だ。

それが「神の国とその義とをまず第一に求めよ」だ。主を第一にし、
自分を主に委ねて行く時、あれやこれやの思い煩いから心が守られ
る。神第一にして行く時に、「そうすれば、それに加えて、これら
のものはすべて与えられます」生活の必要はすべて与えられる。
---------
主が心から飛んだ瞬間から自分の善悪での思考が始まる。ああでも
ない、こうでもないと。その都度、この約束の御言葉に立ちかえろ
う。主が心配してくださっていることを忘れてはいけない。


2015年05月18日(月)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12 




悪魔に「機会を与えるな」とある。機会を与えるのは自分自身だ。
悪魔は私たちの心に、足場を得ようと常に狙っている。カインは怒
りにより、悪魔に足場を与えた。悔い改めて、罪を治めるべきであ
った。しかし、カインはそうせずに、アベルを殺害してしまった。
サウル王は妬みにより、悪魔に足場を与えた。

妬みを悔い改め、主に拠り頼み、捨てる事をせず、悪魔に機会を与
え続けた。ダビデは、高慢により人口調査の罪を犯した。勝利に次
ぐ勝利に、高ぶった。人口調査で自らの力を誇ろうとした。神でな
く兵力に頼るよう誘惑された結果だった。部下ヨアブが、神への反
逆だと阻止しようとするが、ダビデは聞かない。その結果、神の怒
りを招き、民に災いをもたらす事になった。

悪魔は、忠実であったダビデにさえ巧妙に働いて、姦淫と殺人の罪
を犯してしまった。私たちは自分の心を見張り、守る必要がある。
又、悪魔は狡猾に「疑い」を引き起こす。「これでも神は愛なのか」
「本当に守ってくれるのか」「必要など与えられるのか」。信仰の
足元が揺れて、ぐらつく。

対人関係に「疑い」を起こし、不信感を植え付ける。サタンの誘惑
だ。赦さない心は悪魔に足場を与える。赦し合おう。今、悪魔の攻
撃に会っていないか。機会を与えてしまっていないか。心を探り、
見張ろう。サタンの策略に気づけるよう祈っていよう。
---------------
日常生活で受けているサタンの誘惑を識別できているだろうか。罪
を犯そうとして罪を犯すより、気づいたら罪の実が熟している。
心を見張るとは、絶えず主と交わりながら生活する事だと思う。


2015年05月17日(日)

「彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、 主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした」 ヨナ1:3

 

ヨナはニネベ宣教へと神の示しを受けた。しかしニネベは敵国であ
って、それはヨナの気に入らなかった。港に行くと、丁度渡りに舟
で、反対方向の船があり、神に従わず、それに乗ってタルシシュに
逃亡した。まさに「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆ら
う」だ。ヨナの自我が御霊に逆らう。

しかしそんなヨナに、神の愛は決して変わらず、見捨てられない。
神は大嵐を起こし、その結果ヨナは海に投げ込まれた。神は大きな
魚にヨナを飲み込ませ、ヨナの命を救い守られた。この後もヨナは
ニネベの人々が悔い改めると、機嫌を損ねる。これぞ肉、自己中心、
わがままだ。ヨナは自分の姿だろうか。

自分の思い通りにならない事に、心屈折させ、すねていないか。そ
んな自分を明け渡す時に、御霊に従って生きる事ができる。ヨナは
3日3晩その魚の腹にいた。神はヨナを魚の腹に隔離され、そこで
一人きりであった。神の御前に置かれた。

私たちも余りに多忙で祈る時間、考える時間すら無くなると、世の
凄まじい勢いに飲み込まれ、自分を見失ってしまう。神の御声を聞
けなくなる。主のための時間が無いほど、忙しいなら要注意だ。生
活を見直してみよう。
又、今、御心に従いたくなくて、御顔を避けようとしてるだろうか。
まず、ありのままの気持ちを主に訴えよう。主は受け止めて下さっ
て、従えるように助けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
「主の御顔を避けて」の通り、主の御心を避けたい時に、また丁度
良く、反対方向への舟があるものだ。御心をそれさせようとのサタ
ンの誘惑が来る。その時、祈りを向けよう。祈りにより大きく守ら
れる。祈りは力だ。


2015年05月16日(土)

「私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でも おことばどおり、網をおろしましょう」ルカ5:5



ある人が子供の入学資金を少しづつ貯えていた。ところが他の人に
急な経済的必要が生じた。今、手元にある額だった。自分の子供は
まだ少し先だ。祈っていると、どうもそれを献げるよう、主が言っ
ておられるのではと感じる。

続けて祈ると御言葉から次々と示される。しかし子供の入学金はど
うなるのか?だが主の示しは変わらず、ますます御言葉から迫られ
る。子供の事で迷ったし、非常にちゅうちょもしたが、とうとう決
心して主に従い、献げた。

するとすっきりし、心は晴れ晴れし、すべき事を成し遂げた平安に
満たされ、喜びが来た。後悔は無かった。その後、子供のための必
要は、親や祖父母や思いもよらぬ親族からの合格祝いとして、満た
された。その時に自分の思いを退け、御声に従う事の祝福と喜びを
教えられた。

私たちもどうだろう。自分の思いと主の示しが、相反する事を時に
経験する。自分の思いは合理的で、良い考えで、常識的だと思える。
どう考えても妥当だと。ペテロも「深みに漕ぎ出して魚をとれ」と
言われた時、あり得ないと思ったろう。こんな時間に魚などいない。
それに夜通し懸命に漁をしたが、一匹もとれなかった。

だがペテロは「でもおことばどおり」と従った。すると大漁の破格
の祝福だった。従う時に大きな祝福を見る。そして更に大きな祝福
は、この時、ペテロは自分の罪を知り、主がまことの神であること
を知った。自分の思いでなく、見えるところでなく、御声に従って
行こう。必ず成長へと導かれる。

・・・・・・・・・・・・
信仰生活でしばしば経験する。主の示しより、自分の考えの方が
良く見える。古い価値観、この世の価値観があり、無意識にも妥当
に思える。しかし信仰もって御言葉の方に従う時、新たに主を経験
する。目の前の選択は御声に従おう。


2015年05月15日(金)

「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎が死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした」ローマ4:19




アブラハムが75歳の時、神の示しに従い、カランを出てカナンに移
り住んだ。しかしずっと子供がなく、エリエゼルを相続人にと考え
ていた。その時に、あなた自身から生まれ出る者が、跡継ぎとなる
と告げられた。満天の星を見せられ子孫はこのようになると。

アブラハムは信じ、神はそれを彼の義と認められた。しかしその後、
子供は生まれず、妻サラの提案があり、当時の風習に従い、奴隷ハ
ガルによりイシマエルを得た。86歳であった。それは肉による事で
あり、自分の思いと自分の力であった。その後も、約束はあるが状
況的には何一つ動かない、何も見えない歳月が続いた。厳しい忍耐
の時であった。

それから13年後、99歳の時に、主が彼に再び現われ、子孫を与える
と語られた。そして100歳になって、とうとうイサクを手にした。
アブラハムには常識的にはもう不可能だった。厳しい状況の中で、
見えるところでなく、神ご自身を信じた。望みえない時に望みを抱
いて信じた。見えたなら信仰は必要ない。見えないものを信じるか
ら信仰だ。

信仰とは、厳しい状況を見るのでなく、約束して下さった神を見続
け、目に見える所でなく、御言葉を見続ける事だ。アブラハムには
数々の失敗があった。しかし信仰の父と言われ、神はその「信仰」
を喜ばれた。あなたも今、非常に厳しい状況だろうか。「胎の死ん
でいることを認めても」、尚も神の約束の言葉に立とう。神の約束
は真実だ。
---------------
望み得ない時にこそ、望みを持ち続けていける御約束が私たちには
ある。だから失望せずに生きて、なお死んだ後にも希望がある。
真実な神の約束から目を離さずにいよう。


2015年05月14日(木)

「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」Tペテロ2:19




職場で、理不尽な扱いを受けて、苦しんでいる人がいた。ある人が
慰めようと、「辛かったですねえ」と声をかけた。するとその人は
「はい、こんなに祈った事はありません。自分は悪くないのにと、
悔しさで一杯で。そんな中で、主の十字架が迫りました。

完全に正しい方が、十字架にかかる必要の無い方が、あの十字架で
苦しまれ、命を捨てられた事に目が開かれました。主の姿を通して
自分の姿が見えました。その時、主にお委ねできて、今、全く平安
なんです。もう感謝しかありません」と答えた。

彼には言い分があり、正当な主張があった事だろう。しかし、その
人は信仰に立っていた。自分で自分を守ろうとせず、又、自分で状
況を動かそうとせず、すべてを正しく導き、裁き、成し遂げられる
方にお任せしたのだ。ダビデも、サウル王から不当な扱いを受けた。
サウルの一方的な激しい妬みにより、命をつけ狙われた。

槍をダビデを目がけて投げつけられた事もあり、どこまでも追っ手
をかけて追撃された。ヨセフも、エジプトで主人から厚意を受けた
が、その主人の妻により、全く身に覚えの無い無実の罪で投獄され
た。しかし、ダビデもヨセフもそんな中で、反撃するので無く、御
父に自らを委ねて行った。そして、主は、ふさわしい時に、ふさわ
しい解決を与えられた。
-------------
不当な仕打ちを受けたら、肉は納得できないと騒ぐ。不平をもらし
たり仕返ししたいが、それでは主にある良心の咎めがくる。全てを
ご存知の主に頼み、悲しみをこらえるなら主が喜んでくださる。


2015年05月13日(水)

「暗闇と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く」ルカ1:79 




ある婦人が、女手一つで、小さな子供を育てていた。彼女の母親が
心身共にサポートし、働く間、子供も預かってくれていた。厳しい
中であったが、母親の励ましと支えが大きな力であった。その母親
が突然倒れ、帰らぬ人となってしまった。そのショックは立ち直れ
ないほどだった。拠り所を失ってしまったようだった。

「何で私ばかり・・」「何で」「他の皆は幸せそう・・」「私だけ
が苦しい・・」心は鬱屈し、怒りといら立ち、又、周囲の人が幸せ
そうで、羨ましくてたまらない。自己憐憫、妬み、不平不満・・心
は屈折して、苦しくてたまらなかった。そんな時「ママ・・」と、
顔をのぞき込む子供の、何とも不安げな顔に気づいた。

子供の事が全く頭から飛んでいた。一瞬、我に返り、自分は子供の
前でどんな態度でいるのだろう。やさしい思いやり深い子に育てた
い、それが自分の余りにも醜い心、とてもじゃないが育児ができな
い。そんな苦しさの中にいた時に、友人の誘いで教会へ導かれた。
ドロドロの心、硬い、頑なで強情な心、「罪」がはっきりとわかっ
た。

主の十字架の死が自分のためであること、主を殺すほどに自分を愛
された神の愛を知った。自らの罪を言い表し、悔い改めて主を受け
入れた。主の赦しを受け取った、その心に今まで経験した事のない
安堵感が来た。苦しくて〃たまらなかった、真っ暗な心に平安が訪
れた。「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」十字架により、
罪赦された平安は、何にも代えられない。
-------------
主に出会う前、暗黒の中に座っていた日があったのではないか。人
や環境や外から来るもののせいにして行き詰っていた所に主の光が
射した。御神に赦され愛され受け止められて歩める今日の幸いを思う。


2015年05月12日(火)

「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか」創世記3:1 



 

エデンの園で、エバはサタンから誘惑を受けた。「園のどんな木か
らも食べてはならないと、本当に神に言われたのか」と。無神論者
や、神否定で来るなら、最初から警戒して対応するが、「神」を出
して来て、神を認めていると言わんばかりなので、警戒心がゆるん
でしまう。「食べてはならない」との言葉に、エバは反応し、そう
ではないと、「食べてよいのです」と教えようとばかりに応答する。

まず、サタンと会話を始めてしまった事が失敗だった。拒否すべき
であった。サタンは巧妙に会話に引き込んで来る。一番自分の関心
のある所に、心惹かれる所に訴えて来る。エバは沢山ある木々の中
で、善悪の知識の木のもとにいた。主はアダムに御言葉を語られた
ので、エバはアダムから伝え聞いていた。

しかし「触れてもいけない」「死ぬといけないからだ」とは言われ
ていない。「取って食べてはならない」「必ず死ぬ」だった。うろ
覚えであったエバは、その時にアダムに聞けば良かった。又、その
時に、すぐにその場で、祈って主に助けを求めることができた。

だが、エバは「神のようになり、善悪を知るように」なりたかった。
その誘惑には抗しきれなかった。サタンに「決して死にません」と
言われ、神の言葉「必ず死ぬ」と正反対なのに、もはや見抜けない。
自分は弱いということを踏まえ、祈っていよう。主に拠り頼んでい
よう。
------------
自分中心の善悪の基準へと向かって行きたい、サタンはその隠れた
思いを引き出させる。会話していくなら御心から遠く引き離されて
しまう。気づけるよう御言葉に固く立てるよう、祈っていよう。


2015年05月11日(月)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩編55:22




私たちは、悩みや問題にぶつかる。その問題は壁のように、目の前
に立ちはだかる。ああでもない、こうでもないと悶々とし、その問
題に飲み込まれ、捕らえられてしまう。その最中は、出口の無い真
っ暗なトンネルのように感じる。暗闇で何も見えない。必ず出口が
あるのに、暗闇が永遠に続くように思える。

苦しくてたまらず、祈るのだが、とにかく苦しみから逃れたいばか
りだ。助けて欲しいのみで、すぐに解決をと、もがく。この苦しみ
を何とかして欲しい一心だ。主に委ねる事だと頭ではわかるのだが、
しかし、一番の問題は委ねられないという事だ。委ねられない自分
がいる。頑なな自我がある。

ある人が、苦しい状況に陥り、頭では委ねる事が大事とわかる。そ
こで「委ねます」と祈る。何だか心が楽になった気がする。しかし
すぐにこうすればああすればと悶々と対策を考えている。気持ちは
重く苦しい。又、「委ねます」と祈る。しかし思い煩いは去らず、
胸の苦しさも消えない。それを繰り返していた時に、初めて自分は
委ねる事が出来ないのだと知った。

握り締めていてどうしても放せない。それで「委ねる事ができませ
ん。助けて下さい」と祈った。そう祈った時に、今まで堂々巡りだ
ったのが、前に進み、主の助けにより委ねる事ができた。すると胸
の苦しさが取れ、そのすぐ後、問題解決の糸口が見つかった。
------------
委ねたくない、自分の望む解決しか欲しくないと気づかず、平安を
祈っては悶々とする事がある。本当の自分が示されれば、祈りが変
わり、主の導きをまっすぐに受けられるよう、主が助けてくださる。


2015年05月10日(日)

「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人 を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められませ ん。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」ルカ6:37



裁判は、法律に照らし合わせて、法律に則して、判定される。しか
し、「さばく」とは、自分のものさしで価値判定することだ。あく
までも「自分の」ものさしだ。だから、他の人をさばく時、自分は
絶対的に正しいとの立場に立っている。まるで一度も罪を犯した事
が無いかのように。

それは、自分を神の座に置いていることになる。その時、自分の事
は棚上げだ。自分は相手よりましな人間との位置に立っている。実
は、さばく自分の内に同じものがある。だからこそ相手の内に見え
る。肉の性質は人をさばきたい。人をさばくと、自分が優位に立っ
た気になるからだ。人を自分よりも劣った者としていたい。罪の性
質だ。

しかし真のさばきは神にしかできない。人間は、皆、間違う。相手
の外側しか見えず、心の内は見えない。動機もわからない。うわべ
でしか判断できない。逆に、もし自分が、人からさばかれたら、ど
うだろう。うわべで判断され、批判され、悪口を言われ、見下され
るなら、どんなに傷つき、怒り、落ち込むことだろう。それを平気
で人にしてしまう。

まず自分のメガネをはずす事だ。自分の主観でしか見えていない。
それが梁になる。ある人が、窮地に陥った人に対して、冷めた思い
しか持てなかった。自業自得だと。しかし「祈れません」と正直に
思いを告げ、祈っていると、自分が相手の立場だったならとの思い
が来た。

もし自分なら・・、どんなに辛いかと胸が苦しくなり、ひたすら祈ら
された。自分でなく御霊だった。その直後、事態解決の連絡が来た。
主のお心に触れさせられ、喜びに溢れた。

・・・・・・・・・・・
主は罪深い者を、愛される理由の無い者をどこまでも赦し、愛し続
けて下さった。良くし続けて下さっている。主のあわれみだ。この
あわれみを忘れる時、当たり前になる時に、様々問題が起きる。
絶えず、この主のあわれみの中に、いたい。


2015年05月09日(土)

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいて あなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」エ ペソ4:32



“赦せない心”は日々を重苦しくし、平安を失わせる。赦せない相
手が思いに来ると、心暗くなり、辛くなる。どんなに楽しい事があ
っても、暗闇に沈んでしまう。楽しい時に楽しめない。平安が無い。

できるだけその相手に会いたくない。又、思いに浮かぶと、ますま
す怒りが湧き、苦しくなる。しかしその相手を避けても、問題は何
も解決しない。心はずっと不自由で、牢獄の中で、囚われの身だ。
苦しいのは相手ではなく、赦せない本人自身だ。このまま平安の無
い状態でいたいだろうか。

牢獄から出るには、まず赦す事を決心し、選択することだ。しかし
絶対に赦したくない自分がいる。だがこのままでいたくないなら
「赦したくありません。出来ません。でも、そう出来るように助け
て下さい」と祈ろう。主はその祈りを受け止めて、解決へと導かれ
る。

ある人が、同僚の態度や言葉が自分にきつく、トゲがあり、深く傷
ついていた。段々赦せない思い、憎しみになって来る。主の御前に
自分の思いも感情も告げて祈り続けていた。そんな折り、昼食を共
にする機会があった。祈りながら接すると和やかな雰囲気になり、
彼女が生い立ちを話し始めた。

余りにも大変な境遇に驚かされた。相手への見方が変わってしまい、
自分が変えられた。まさにこれこそ祈りの答えだった。そのまま主
のもとへ携えよう。祈ろう。色々な形で主は必ず導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
多くの人が赦せない相手がいて、悪戦苦闘し、祈り、委ねる中で赦
せるように導かれて行った。その形も人それぞれだ。主は必ず導い
て下さる。赦したくない。しかし苦しいから助けて欲しいと、まず
祈りに持って行こう。祈る時、主が働かれる。


2015年05月08日(金)

「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりして いるのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12 


フィギュアの競技で、時々、選手がヘッドホンをして、出番を待つ
光景が映る。人の出来を気にして心を乱されないためだ。様々な思
惑が入り、自分の演技に集中できないと、せっかくの実力が発揮で
きない。そのため、ヘッドホンでシャットアウトする。

私たちの信仰人生もどうだろう。ある人が、御霊の気づきを与えら
れたと証しした。人がほめられると、自分がけなされたように感じ、
落ち込んでしまう。何も自分は、けなされていないのに、自分はだ
めのように感じてしまう。そして人からの賞賛を受けると、嬉しい
のだが、それは御霊の喜びでなく、優越感の喜びであって、肉の喜
びだったと。

そんな人生なら、まるでシーソーだ。他人が上がれば自分が下がり、
自分が上がれば、他人を見下す。どこまでも人が基準で、人により
自分がアップダウンする。自分は何も変わらないのに。こんなにお
かしな事はない。すべてが比較から来ている。「自分たちの間で自
分を量る」ことから来ると。知恵のないことだと言っている。

まず人の間で自分を量っている事に気づき、ありのままを祈って行
こう。人が気になり、人を見ている目を、主に向け、御言葉に向け
て行こう。「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光の
ために、わたしがこれを創造した」と言われる。

主は最愛の愛で、私たちを極みまで愛していて下さり、高価で尊い
と言われ、主の栄光のために、私たちを創造されたと。何と畏れ多
いことだろう。人と比較してしまう目を、絶えずこの主に転じよう。

・・・・・・・・・・・・
人と比べている時は、目の前におられる、一番大切な主をないがし
ろにしている。大事な主から目を離し、主以外のものばかりに目が
行っている。その度に気づかされ、主を見上げられるように、祈っ
ていよう。


2015年05月07日(木)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩篇37:5 



私たちは、しばしば問題にぶつかる。その問題は、大きな壁のよう
に、自分の前に立ちはだかる。ああでもない、こうでもないと悶々
と、その問題に飲み込まれてしまう。誰しも、その悩みの最中は、
出口の無い真っ暗なトンネルのように感じる。真っ暗闇で何も見え
ない。

先も全く見えない。試練は必ず出口があるトンネルなのに、その渦
中ではこの真っ暗闇が永遠に続くように思えてしまう。苦しくてた
まらないので、祈るのだが、とにかくその苦しみから逃れたいばか
りだ。助けて欲しいばかりで、今すぐに解決して欲しいともがく。

この苦しみを何とかして欲しい一心だ。主に委ねることだと頭では
わかるが、しかし、委ねられない事が問題だ。底に、主に委ねない
自分がいる。頑なな自我がある。祈りながらも、自分で何とかしよ
うと、あれこれと模索する。自分でしようとする。

ある人が悩みがあり、考えると胸が苦しくてたまらない。委ねなく
てはと「委ねます」と祈るが、しばらくすると、やはり考えていて
胸が苦しくなる。又、「委ねます」と祈る。その時は楽になった気
がするが、やはり重苦しく暗い気持ちになる。それを繰り返して初
めて、自分は委ねられない事に気づいた。

頭では委ねる事が大事だと、委ねたつもりだが、平安は無い。つま
りは自分が握っている。初めてその事に気づき、「委ねられません、
助けて下さい」と祈って行った時に、明け渡せるように助けられた。
平安が来た。

・・・・・・・・・・・・・
自我が握り締めていて、なかなか明け渡すことができない。自分で
何とかしようとしてしまう。又、委ねた、委ねたと思い込もうとす
るが、平安はない。ついに、委ねない自分、委ねることができない
自分に気づき、認める時に、解決に向かう。


2015年05月06日(水)

「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神はあなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8 



主は「御父は、お願いする先に、必要なものをすでにご存じ」と言
われた。御父がご存じであれば、祈る必要が無いのではないのか。
何のために祈るのか。これは異邦人のように、同じ言葉を繰り返し、
言葉数が多ければ良いとの態度が違うと言っている。

祈り倒さんばかりの勢いで、言葉が多いのが勝ちなのではない。言
葉数の順に聞かれるのではない。だから言葉の繰り返しは無益だ。
この世の宗教はそうかも知れない。しかし御父はすでに必要も状況
も何もかもをご存じであり、知らない相手に対するごとく、くどく
ど説明する必要もない。しかし、神は次の節で「だから祈りなさい」
と言われた。

だから祈る必要ないのでなく「祈りなさい」と。祈りは御父との交
わりだ。子供に「一生涯すべての必要を保障するから、いっさい語
るな、何も言うな」と言う親はいない。親は子供の語る言葉を聞き、
対話したい。それは親は子供を愛しているので、喜びで楽しみであ
るからだ。御父はあなたの声を聞きたいと待っておられる。

又、神は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真に
必要な物をわかっていない。的はずれに求め、まともだと思ってい
る。自分の欲のために求めて気づかない。祈りの中で、主はそれら
を軌道修正し、正しく導き、あなた自身を変えて下さる。御心へと
導かれた祈りは、必ず答えられることになる。
--------------
肉の強い思いが大水のように襲ってきても、主に祈り交わるうちに、
せき止められ不思議に落ち着いていく。人格を持って接してくださ
る主が今日も新たな恵みを教えてくれる。


2015年05月05日(火)

「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから」U歴代20:15



モアブとアモンが攻めて来た時、ヨシャパテ王は、全国に断食を布
告し、ただひたすら主を求め、祈った。窮状を主に祈り訴えた。す
ると、主はヤハジエルを通して語られた。この戦いは神の戦いであ
り、主が共にいるから、恐れず出陣せよと。これを聞き、ヨシャパ
テはひれ伏して、礼拝し、神を賛美した。

主の言葉を信じ、歌う者たちが賛美をし、喜びの声、賛美の声をあ
げ始めた時、主の言葉の通りに、敵は全滅し、奇跡的勝利を与えら
れた。神の働きであった。私たちもどうだろう。その悩み、問題だ
けを見ていると、私たちは圧倒され、思い煩いと不安に飲み込まれ、
敗北してしまう。又、その問題を避けたり、逃げたりしても、又必
ず同じ問題にぶち当たる。

しかし、ヨシャパテのように、まずその問題を主の前に出し、主に
祈ることができる。自分で何とかしようとせず、主に申し上げ、お
委ねしよう。単に問題の解決を見るだけでなく、その問題を通して、
砕き、練り、主のかたちへと造り変えられる。そこが大切だ。主は
答えて、御言葉を送り、励まし慰め指針を与えて下さる。

その言葉を信じ、感謝し、賛美して行く時、主が戦われ、勝利を受
け取る。御言葉を信じて、感謝を献げることは信仰であって、目の
前の状況に主を認めることになる。その信仰を受け取り、主が働か
れみわざをされる。
-------------
問題の解決を主にお任せできれば問題は問題でなくなる。委ねても
襲ってくる思いわずらいこそが戦いだ。どんな中でも主が戦い、導
いてくださると、そのさなかで全き平安を祈ろう。


2015年05月04日(月)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」Tコリント6:20



主は、十字架の死の前に「子の栄光を現して下さい」と祈られた。
この上ない残酷で凄惨な死に、栄光が現れるようにと。十字架は極
悪人を処刑するものだ。忌み嫌われ、呪いの象徴だ。無惨、弱さ、
華々しい栄光の対極にあるように見える。「どこが栄光?」と思う
が、しかし、主の栄光はそこに現わされると。

十字架により罪と死の力が破られ、罪の赦しと永遠の命が与えられ
た。これほどまでに愛されている事、赦され、今日生かされている
を覚え、一人一人に与えられた御心を行なって行くところに、神の
栄光が現されて行く。「あなたがわたしに行なわせるためにお与え
になったわざを、わたしは成し遂げて・・栄光を現わしました」の
通りに。

私たちは大成功が栄光だと思いやすい。受験は合格、畑は豊作、商
売繁盛、子供は良い子。しかし、不合格、不作、リストラ、子供の
非行・・その弱さの中で、主に委ねて、従って行く時に、主は素晴
らしい栄光を現わして下さる。そして、もし失敗したとしても、そ
れで終わるのではない。主の十字架は罪の赦しのためだ。

姦淫と殺人罪は、栄光の正反対だ。しかし、王でありながら、真摯
に悔い改めたダビデは、素晴らしい栄光のために用いられた。ヘブ
ル11章の信仰の人に名を連ね、ダビデの詩編にどんなに私達は慰め、
癒され、引き上げらるだろう。どんな状況であっても、そこで自分
自身を明け渡して、御霊の導きに従おう。その時、主の栄光を現わ
して下さる。
-------------
どれの程の愛で愛されているのだろうか。失敗には悔い改めが備え
られ、ありのままで主の元に行くことができる。順境にも逆境にも
いつも主が共におられる。主にお委ねし喜んでいたい。


2015年05月03日(日)

「私は、自分の道を顧みて、あなたのさとしのほうへ私の足を向け ました。私は急いで、ためらわずに、あなたの仰せを守りました」 詩篇119:57



私たちは天に帰るまで、罪の性質があり、肉がある。サタンもこの
世にいる間、絶えず攻撃をしかけて来る。御言葉から離れるなら、
すぐに世の凄まじい勢力に流されてしまう。流されていて気づけな
い。サタンは誘惑しようと挑んで来て、神から離そう、離そうとす
る。天に帰るまでは霊の戦いだ。そのため、常に神のさとしのほう
へ、自らの足を向ける事が大切だ。

「足を向け」なければならない。自分は弱くて、さとしに足を向け
なければ、立ち行けないことを覚えていよう。「自分の道」をよく
チェックして、もし罪があり、間違いがあれば、「急いでためらわ
ずに」悔い改めることが重要だ。詩篇記者は、自分をよく吟味して、
さとしに「足を向けた」。

自分の道を顧みて行く時、すなわち「私のうちに傷のついた道があ
るか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」と自己
吟味して行く時、主が必ず軌道修正して導いて下さる。間違った道
から引き戻して下さる。又、今、「急いで、ためらわずに」守る
べき仰せを示されているだろうか。ぐずぐず引き延ばしていたり、
なおざりにしていないだろうか。

御霊の示しに、「ためらわずに」きっぱりと従おう。ぐずぐずして
いると、そのままではなく、必ずや従えなくなる。御霊の示しが消
えてしまう。急いで行なおう。大きな祝福が備えられている。

・・・・・・・・・・・・・
信仰はオートマティックではない。ロボットではなく、操り人形で
はない。主のほうへ、御心へと、自らの意志を向けて「足を向け
る」ことが必要だ。自分を顧みて、方向変換ができる。目の前に示
しがあるなら、ためらわず急いで従おう。


2015年05月02日(土)

「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりで す」ルカ12:21


ある金持ちが、豊作の時に言った。「倉を取りこわして、もっと大
きいのを建て、穀物をみなそこにしまっておこう」。これから先何
年分も貯められたから、安心して食べて飲んで楽しもう。しかし神
は「今夜、お前の命は取られる。お前が用意したものは、誰のもの
になるのか」と。

これから思う存分楽しもうとしていた金持ちは、その夜亡くなった。
金持ちの上に更に豊作で、倉の上に更に大きな倉だ。だが貧しい
人々に分け与えようとの気持ちは全く無かった。「自分」「自分」
「自分」であった。私たちの宝のある所に、私たちの心もある。今、
心はどこにあるだろう。

又、この世での所有物は、神からの預かり物だ。真の所有者は神だ。
神に喜ばれるように管理して行く時に、喜びが与えられ、天で豊か
な報いがある。金持ちの人生には神が無かった。自分の思い通りに
なると思っていた。しかしどんなに順調に事が進んでいても、明日
どうなるかは、誰にもわからない。先の事は全く見えない。

明日を支配しておられるのは神だ。だから、「あすのための心配は
無用」と。あすは御手の中にあるので、いっさい心配無用と。それ
より、今日すべき事、今日の御心が備えられている。見えない明日
の事を思い煩い、今日1日をつぶしてしまうなら、人生何一つ成し
遂げられなくなってしまう。

今日、自分に与えられた役割がある。それをしっかり成し遂げる事
ができるよう祈ろう。神に前に富むとは、神の言葉を聞き、神に委
ね、平安に導かれて歩む人生だ。そこに御霊の喜びがある。

・・・・・・・・・・・
神の前に富む人生は、神の愛の中で、思い煩いから守られ、一日一
日を永遠を見据え、永遠に繋げながら、生きて行ける。そこには何
にも代えられない平安と、肉の喜びでない、御霊の喜びがある。い
つも主が共におられる。何と幸いだろう。


2015年05月01日(金)

「鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる」箴言27:17




ある人が、主に在る友に忠告するように御霊から示された。しかし、
その事は、相手の一番触れられたくない事であり、言うなら相手は
怒り、喧嘩になるだろうと予想できた。心重い中、祈りを幾ら重ね
ても、御霊の示しは変わらない。ずっと促され、自分も従わなけれ
ば平安が無い。決心して祈りに祈り、示されるまま忠告した。

思った通り、相手は激怒で、別れた。しかし、その相手は帰宅し、
冷静になると、やはり友の言葉をよくよく考えた。素直にその通り
だと思えた。自分の痛い所を突かれ、感情的になってしまったが、
言えば相手に嫌われる事がわかっていて、あえて忠告してくれた友
の愛情を思った。電話し、謝り、言ってくれた事に感謝した。

ある人は、仕事で、良いアイデアが浮かび、練り、仕上げて、まず
親しい友に話してみた。すると、こてんぱんに批評され、非常に厳
しい評価だった。一生懸命に考え、時間をかけ仕上げた内容であり
怒りが湧いた。しかしその理由を丁寧に説明してくれ、自分が全く
気づいていなかった側面を指摘され、自分の足らない部分が明らか
にされた。

友のその分野における豊かな経験と積み重ねた知識により、助けら
れた。厳しい指摘だが、受け止める時、自分が高められる。研磨さ
れる。又、自分が忠告するように示されたなら、従えるよう祈ろう。
祝福のために用いられる。
------------
互いの間に主がおられ整えてくださることを信じ、よく祈り示され
たなら従おう。また痛いことを言ってくれる信仰の友はありがたい。
主を通して語られる言葉には祈りが積まれている。