2015年06月30日(火)

「ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください」ピリピ4:2


ピリピ教会には、不一致の問題があった。外部からの迫害もあり、
どうしても内部の一致が必要であった。しかし、一致を保ち、志を
一つにして行けると。それは「キリストにあって励ましがあり、愛
の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがある」から
だと。

教会の一致を妨げるものが、「何事でも自己中心や虚栄からするこ
となく」の通り、「自己中心」と「虚栄」だとある。自己中心は、
「私は」「私の」「私を」であり、「私」「私」「私」だ。「私の
考え」「私の気持ち」「私の意見」・・それが重んじられず、受け
入れられなければ、争いが生じ、分裂となる。「虚栄」とはプライ
ドであり、自分が認められたい、特別であることを認められたい。

そして、一致に必要なものが「へりくだり」だ。それは「互いに人
を自分よりもすぐれた者と思う」ことで、「キリスト・イエスの思
いを、思いとして行くこと」だ。私たちは皆、自分のメガネと物差
しを持っていて、自分の思いに固執する。そして自分の利益だけを
求める。これが妨げとなり、相手の姿を正しく見ることができない。

これを捨てる時に、偏見と独断が除かれ、初めて相手の立場に立ち、
理解して行ける。主は、神であられたのに、神の栄光、特権の何も
かもを捨てられて、ご自分を無にして、来て下さった。そして十字
架の死にまで従われた。自分には出来ない事を認め、聖霊に導かれ
る時、主の心を心として歩ませて下さる。
--------------
互いに与えられた賜物をもって、一致して主に仕えていこう。自分
を主張すると100通りの方法と言い訳だ。互いに尊重し、主がご
自分を捨てられ十字架に掛かってくださったことを覚えていこう。


2015年06月29日(月)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」エレミヤ33:3 




ある人が、悪意ある批判を受け、非常に傷つき腹が立った。怒りが
湧いて来る。思いが巡る。「気にするな」「〃」と言う自分がいる。
「まあ主はご存じだし、いいや」と思う。反面、面と向かって、一
言言わないと気がすまない。ガツンと言うべきだと言う自分がいる。
どうして良いかわからない。心は苦しく、悶々状態で帰宅し、祈ろ
うと御前に静まった。

そして、自分の気持ちをあるがまま、主に告げた。心の内を打ち明
け、祈っていた。すると、ふっと心の中に「悪をもって悪に報いず」
との御言葉が浮かんで来る。「侮辱をもって侮辱に報いず、変えて
っ祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召された
のです」。聖書を読もうと開くと「あなたがたを迫害する者を祝福
しなさい。祝福すべきであってのろってはいけません」

「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず・・すべての人と
平和を保ちなさい」「悪に負けてはいけません。かえって、善をも
って悪に打ち勝ちなさい」次々と臨んで来る御言葉によって、あん
なにいきりたっていた心が、すっかり落ち着いて平安になってしま
った。落ち着くと、自分の側にも配慮が足らず、自らの至らなさも
自覚できた。

そして学べた事を感謝できた。あなたの、その悶々を「わたしを呼
べ。わたしはあなたに答え・・」と言われる主に、そのまま御前に
注ぎ出そう。主は受け止め、御心へと導いて下さる。
-----------
日々、自分の感情を揺るがす状況が前からやって来るが、衝動的な
怒りや悲しみの感情は、衝動的であるゆえに主を呼ばなければ、サ
タンに背を押されてしまう。まず主を呼ぼう。


2015年06月28日(日)

「家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとっ て、息子、娘を生み・・そこでふえよ。減ってはならない」エレミヤ 29:6 

                   
      
エレミヤの時代、イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ捕虜として連
行された。しかしそのアッシリヤは、バビロンによって滅ぼされ、
バビロンはどんどん侵攻し、国々は滅ぼされ、とうとうユダも、バ
ビロン捕囚の身となった。

当時のユダは神から離れ、偶像礼拝に走り、堕落していた。預言者
たちは、耳ざわりの良い、心地良い言葉を語り、平安が無いのに
「平安、平安」と。しかし、神の人であるエレミヤは、真っ直ぐに
耳に痛い言葉を語った。そのため苦しめられた。

バビロン捕囚のさ中、真っ暗な中で、エレミヤは、それは、一見
「災い」としか見えないが、「平安と将来と希望」のためのものだ
と。すぐに解放にはならないので、その地で落ち着いて、腰をすえ
て生活せよと、そして、敵である「その町の繁栄を求め、そのため
に主に祈れ」と。それは自分達の繁栄になるからと。

私たちも苦しみの時、一番欲しい言葉は「即、問題解決」「即、悩
みから解放」だ。しかし、口先だけの励ましは、更に傷を深める。
私たちも、足かせのような苦しい現状を受け入れる時、その中で神
からの支え、励ましにより生きて行けるという事だ。現実を受け入
れる事が大切だ。

いつまでも苦しみのまでなく、「70年の満ちる頃・・あなたがたを帰
らせる」。現状を受け入れて、その中で神に従って行こう。そこに
「平安」が約束されている。そして神の時に、かせから解放して下
さる。

・・・・・・・・・・・・
問題を受け入れる時、問題が問題で無くなってしまう。受け入れる
事が解決だとわかるが、その受け入れる事が難しい。自分に死ぬこ
とになる。「無理です。助けて下さい」と、まず祈って行こう。主
は必ず一歩一歩、前に進め、自分を変えて行って下さる。


2015年06月27日(土)

「キリストは・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死に までも従われたのです」ピリピ2:8



私たちは、主によって罪が赦された。しかし、まだ肉の性質があり、
主に拠り頼まなければ、肉は罪を犯してしまう。罪赦されているが、
今後、罪を犯さなくなるわけではない。私たちの犯す罪の内、最た
るものは何だろう。ある著者は、その罪を私たちが他人の中に見つ
けるなら、非常なる嫌悪感を持つが、その同じ罪が自分の中にある
と気づく人はほとんどないと言っている。

その罪とは、高ぶり、プライドだ。「私は天に上ろう。密雲の頂き
に上り、いと高き方のようになろう」との、明けの明星が天から落
ちたのは、この高ぶりだった。高慢はサタンの最たる特徴だ。アダ
ムとエバが犯した罪も「あなたがたは神のようになり」という高慢
に誘惑されてだった。

サタンから来る高慢は、常に「私」を意識させる。「私」「私」
「私」だ。私はどう見られているか、私は評価されているか、私は
認められていない、私が一番寂しい・・、「私」「私」だけを意識さ
せるようにする。職場でも、家庭でも、教会でも、「私」が認めら
れないと気がすまない。「私」はこんなに一生懸命にしているの
に・・。自己憐憫、自己主張、自己顕示欲だ。

主と主の愛はその対極にある。主は自分を捨て、十字架にまで従わ
れた。自己中心にしか生きられない、自分の惨めな状態を知る人は、
徹底無力を認める。そしてへりくだって、主の十字架によって、神
の愛によってのみ、今、生かされている事を知る。その人は、必ず
神を愛して行く。

・・・・・・・・・・・
どこまで行っても、どうしようもない自我を、主が十字架で釘付け
て下さった。私はキリストと共に十字架につけられた。信じて歩め
る恵みに感謝だ。そして砕きを受け止めて歩めるよう祈ろう。砕か
れなければ、どこまでも高慢になってしまう。砕きが感謝だ。


2015年06月26日(金)

「・・私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハネ1:7


イスラエル全軍が命がけで戦っている最中に、ダビデ王はエルサレ
ムにいて、夕暮れに床から起き出すような生活をしていた。すきと
油断がある時に、サタンはつけ込んで来る。バテシバを見た時に、
サタンの誘惑がダビデに臨んだ。ダビデはとっさに主を仰ぎ、主の
力により誘惑を拒むべきだった。

しかし、欲に負けてバテシバと姦淫の罪を犯してしまった。そこで
主を仰ぎ、悔い改めるべきであった。しかしそうしなかった時に、
罪に罪を重ねて行った。バテシバの夫である忠実な部下ウリヤを殺
害してしまった。ずっと命をつけ狙われたサウルを、機会があった
にかかわらず、決して殺さなかったダビデだが、何の落ち度も無い
部下を殺してしまった。

王であり、誰も何も言えない。人前に隠しおおせたと思ったが、一
部始終を神は見ておられた。「思い違いをしてはいけない。神は侮
られるような方ではない」人は蒔いた種を刈り取る。預言者ナタン
を通して、ダビデの罪はあばかれた。ダビデの素晴らしいところは、
いっさい言い訳、弁解をしなかった。バテシバのせいにしなかった。

「私は主に対して罪を犯した」と自らの罪を率直に認めた。民や部
下の手前、王が罪を認めるとは容易でない。しかし、その瞬間、主
の赦しが臨んだ。「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった」。
この時、ダビデに心底の平安と安堵が戻った。罪を認めることが、
光の中を歩むことになる。そうするならどんな時にも、赦しがある。
赦されて、赦されて歩んで行ける。
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罪を認め、主に告げて悔い改めるなら、光の中に歩むことができる。
なんと感謝なことだろう。罪などありません、赦しも要りませんと、
自らを欺いているなら闇の中だ。主に行こう。


2015年06月25日(木)

「怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します」Tテモテ5:13



「互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、
自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいている
のです」の通り、悪口は罪だが、うわさ話は、軽く見てしまう。し
かし、うわさ話は、本人のいない所で、陰で言われる陰口だ。とい
うことは、本人不在の実証されていない話だ。

本人不在であれば、間違った情報であっても訂正できない。又、反
論もできない。本人不在で事実はわからないのだから、そのまま受
け入れるべきではない。又、そのうわさ話の自分の「動機」は何だ
ろう。「動機」を考える事は大切だ。本人の利益だろうか、本人を
建て上げ、励ます事になるか。それとも不利益だろうか。不利益な
ら言ってはならない。

ある説教者は言った。「うわさ話は、三者を傷つける。言う人と、
聞く人と、言われている本人を」。「悪いことばを、いっさい口か
ら出してはいけません」「たきぎがなければ火は消えるように、陰
口をたたく者がなければ争いはやむ」。うわさ話が来たなら、自分
の所で止めることができる。広めないことができる。あなたの所で、
火を消すことができる。

雑談が、有害なうわさ話の方向に行くようなら、進路変更して行く
ことができる。もし自分がその人の立場だったら、どんなに傷つく
かを考えよう。「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しか
し知恵のある人の舌は人をいやす」。御霊の助けにより、舌が人を
いやすために用いられたら、どんなに幸いだろう。
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噂は、噂に過ぎないのに不思議な信用性を持って広がる。根拠を確
かめようともしない無責任な罪の中にいることを認識していよう。舌を
制することは自分ではできないから、いつも主に頼り守っていただこう。


2015年06月24日(水)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4



ある人が職場で、何を言っても反対される、そんな相手がいた。と
にかく意見を言っても、提案をしても、ことごとく反対された。又、
その反対にいつも最もらしい理由をつけて来るので、周囲もその方
向に流れてしまう。余りにも敵対されるので、悩んで、とうとう体
調を崩してしまった。祈りに持って行こうと、主に、辛さ、苦しみ、
相手への思い、心の内の何もかもを告げた。

祈りを積む中で、色々考え、相手から妬まれている事に思いが至っ
た。仕事が上司に評価され、周囲から認められ、又、可愛がられて
いる自分が、嫌で仕方無かったのだろうと。それがわかった時、自
分も人を妬む者であり、相手の気持ちもわかり、今までと違って冷
静に対応できるようになった。

妬みは誰の心にも根深く巣くう罪と言われている。妬みに支配され
てしまうと、人を愛せなくなってしまう。自分はどうだろう。自分
でも気づかずに、きつい態度や冷淡な言動をしてしまう底に、妬み
があるものだ。何かざらつくものを感じるはずだ。「妬みや敵対心
のあるところには、秩序の乱れや、邪悪な行ない」がある。

「苦い根が芽を出して悩ま」すことのないように、苦い根を引き抜
いてしまう事が大切だ。それには、逃げず避けず、言い訳せずに、
妬みを認めて、悔い改めることだ。主は私たちの心を変えて、愛を
与えることができる。妬みを愛に変えて下さる。奇跡をされる。
---------
怒りにはそれなりの理由があるが、人の成功や人の幸せに起因する
妬みは、陰険で解決がない。自分の内に妬みが起こるとき、一刻も
早く主に持っていき、引き抜いてしまおう。


2015年06月23日(火)

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2


「聞き方に注意せよ」と言われている。イスラエルの民は皆、モー
セから神の言葉を聞いていた。しかし、聞いた言葉が「信仰によっ
て結びつけられ」なかったため、最後まで神を疑い、結局は、不信
仰によって荒野で滅ぼされてしまった。何のためにエジプトを出た
のかわからない。

モーセは、神の言葉を語った。聞く側に問題があった。信仰に結び
つける事が大切だ。種蒔きのたとえで、種は御言葉で、土地は心だ。
道ばたに落ちた種は、地が固く、心に入らず、サタンが来て御言葉
を奪い去った。先入観や偏見があると、妨げられて御言葉が入らな
い。又、他人事として聞く態度だ。自分の事として聞かないので、
右から左へと素通りする。

まるで目の前で映画でも観るように、傍観者として聞いていないだ
ろうか。御言葉は「自分に」向けられている言葉として受け取る必
要がある。それが「良い地」だ。必ず結実する。岩の上に落ちた種
とは、喜んで御言葉を受け入れるが、根が無い。根を張るのは地中
だ。隠れた神との関係を培う事が大切だ。人目に見えない神との交
わりの地道な生活が根だ。それが無いと枯れてしまう。

いばらの中の種は、外部から伸びたいばらにふさがれた。外部のも
のによって生長が妨げられる。世の様々な事柄に心が奪われ、いつ
しか神がおそろかになる。自分はどんな「聞き方」をしているか、
考えてみよう。御言葉が、心の土地に、信仰によって受け入れられ
る時に、豊かな実を結ぶ。
--------------
御言葉と目の前の状況は大きな隔たりがあるだろうか。喜べない状
況、満足できない自分自身と。御言葉は何と言っているだろう。
「いつも主にあって喜びなさい」「あなたは高価で尊い」ではないか。


2015年06月22日(月)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32  




小さな子が、口の狭いキャンディボックスに手を入れ、飴を握りし
め、手が出ないと泣き叫んでいる。飴を放すと、手が出るよと言う
が、絶対に嫌だと泣くばかり。滑稽な光景だが、私たちの霊的生活
に似ている。心がザラつき、悶々と辛く苦しいだろうか。その時は、
何かを握りしめている。

憎しみや妬みか、裁く心か、思い通りにしたい肉の思いか。憎しみ
や妬みは、相手でなく、自分が苦しい。平安が無く、喜びが無い。
飴を放すなら、ボックスから手が出て、自由になる。憎しみや妬み
を手放す時、心は解放され、喜びと平安が戻る。しかし強烈な自我
は、放したくない。苦しいのに、憎んでいたいし、妬んでいたい。
罪の性質だ。

「出来ません」「したく無い者です」と自分の姿を認める事から始
まる。ある人が子供の難病を、どうしても受け入れられないでいた。
なぜ?自分の子が?と涙は溢れ、グルグル思いは回り、苦しく、神
に対して反抗している自分がいた。同年齢の子供を見れば涙が出た。
悶々の自分の心は辛くてたまらず、とうとう限界だった。

行き詰まり、煮詰まり、ギブアップした。自分自身も子供も将来も、
何もかもを明け渡した。その時、状況は何も変わらないのに、心に
初めて安堵と平安が臨んだ。何にも代えられない平安だった。心が
自由にされた。委ねられないで握っている状態なら、その事を主に
告げて、ありのままの心を正直に祈ろう。主は必ず導いて下さる。
-------------
状況が自分を苦しめているとしか思えないが、自分の望む解決しか
欲しくないから行き詰ってしまう。主の解決に委ねることができる
よう祈り、不自由につかんでいるものをしっかり認めて行きたい。


2015年06月21日(日)

「私は心に悩みのある女でございます・・私は主の前に、私の心を注 ぎ出していたのです」Tサムエル1:15         


ある人が、ふとした言葉が友人を深く傷つけてしまった。勿論、全
く悪気など無く、友人の生い立ちから来る心の傷のゆえの事だった。
しかし、友人は傷ついていて、自分はそれを主の御前にもって行き、
ただひたすら祈った。祈ることがすべてだった。友人の心が癒され
るように、赦して貰えて和解できるように。

心の事は、人間にどうこうできることでなく、切に祈り続けた。主
のあわれみを、願い続けていた時、「神に願ったその事は、すでに
かなえられたと知るのです」と、祈りが聞かれた確信が来た。まだ
目には見ていないが、心が平安になった。それで主に押し出され、
勇気を出して相手に会いに行った。心から謝った時に、快く赦して
もらえ、和解が与えられた。主に感謝した。

祈っていた間に、主は相手にも働いておられた。主は祈りに答えて
下さる。私たちはどんな時にも、どんな窮地でも祈ることができる。
ハンナも切に主の御前で祈った。子供が欲しくて、主の祝福が欲し
くて、うめき、苦しい思い、感情も吐き出し、心を注ぎ出して祈っ
た。心の嘆き、悲しみ、怒り、絶望、何もかもを主に打ち明け、悔
い改め、自分自身を委ねて行った。

「安心して行きなさい・・」とのエリの言葉を聞き「ハンナの顔はも
はや以前のようではなかった」。平安を得た。そしてサムエルが与
えられた。苦しい気持ちを主のもとへ持って行こう。主は受け取っ
て導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
祈りが与えられている事は、何という恵みだろう。出来ないから祈
れる、途方に暮れるから祈れる、一つ一つの願いを持って行ける。
心の内の苦しみ、悲しみ、辛さをを吐露して行く時、不思議に心
が平安にされることを経験する。目の前の問題を祈りに持って行こ
う。


2015年06月20日(土)

「主はサムエルに仰せられた。『彼らの言うことを聞き、彼らにひ とりの王を立てよ』」Tサムエル8:22 


民は、どうしても自分たちに王が欲しいと求めた。神がサムエルを
通して、その事のリスクも告げ、警告されたが、民の気持ちは変わ
らなかった。それで、神は民の言う事を聞き入れ、サウルを王に定
められた。

そして、そのサウルとサムエルの出会いが絶妙だ。サウルの父親の
雌ロバがいなくなったので、サウルは捜しに出た。捜し回り、ツフ
にまで至る。が、見つからないので帰ろうとすると、連れの者が、
今この町に神の人がいるから尋ねようと提言する。サウルは同意し、
町へ入った。

すると水汲みの娘達がいた。聞くと、その神の人は丁度今日、町に
来て、今からいけにえをささげるところで、すぐに行けば会えると
言う。進んで行くと丁度ピッタリのタイミングで、サムエルに会え
た。又、サムエルはサムエルで、その前日に、一人の人を遣わすか
ら君主とするようにとの、御告げを受けていた。

雌ロバ捜しからの、一つ一つがパズルが埋まるようにすべての時機
がピッタリだ。あなたも、時や事柄がピッタリのタイミングで運ぶ
経験があるだろう。それはまさに神の働きであり、神が導かれてい
るという事だ。

神の導きは環境からもわかる。必ず門が開かれている。今、導きを
求めているなら、環境もしっかり見張っていよう。御言葉と、祈り
による平安と、環境によって導かれる。御心なら、あなたの目の前
で門が開かれて行き、前進して行ける。

・・・・・・・・・・・
私たちも御心が成される時、思いもよらずピッタリの状況が目の前
に展開されて行き、パズルが埋まるように、みわざが成される事を
見る。まさに神にしか出来ない事がなされ、栄光を見せられる。御
心なら神が道を開いて行かれる。


2015年06月19日(金)

「彼女は・・男の子を産み「今度は主をほめたたえよう」と言った。それゆえ、その子を彼女はユダと名づけた」創世記29:35


レアという女性は、ずっと妹ラケルとの比較に生きてきた。ヤコ
ブとの結婚を得たが、しかしヤコブが愛していたのはラケルだった。
レアはどんなに辛かったろう。ますます劣等感が募る。そんなレア
を主は憐れまれた。胎を開かれ、レアは子供を産んだ。「ルベン」
と名づけ、「主が悩みをご覧になった」と言った。

子供により、今こそ夫は自分を愛するだろうと思った。しかしそう
はならなかった。第二子のシメオンの出産は「主は私が嫌われてい
るのを聞かれて」とレアが神に祈った結果だった。今度こそは愛し
てくれるだろうと思ったが、そうはならなかった。次も夫の愛を期
待したが、裏切られた。そして次々子供を産み、最後はユダ「主を
ほめたたえよう」と名づけた。

そんな中で、レアは変えられていた。これまでラケルと比較で劣等
感にさいなまれ、また夫の愛が得られない事で苦しんでいた。しか
し主を見上げた時に心が変えられた。夫の愛を求めるのでなく、た
だ主をほめたたえた。女奴隷が産んだ時は、アシュルと名づけ、レ
アは「なんと幸せなこと。女たちは、私を幸せ者と呼ぶ・・」と言
った。

レアは劣等感の中で生きて来て、又、どんなに求めても夫の愛を得
られない境遇にいた。満たされない、不幸な、寂しい状況だ。そん
な中で、レアは目を神に向け、目を神の愛に、憐れみに向けて行っ
た。そんなレアに、主は目を留め、不幸な境遇を通してご自身に近
づけられた。同様に、私たちも悩み、苦しみによって、神に近づけ
られる。その中で、神の愛、あわれみを体験する。悩みは、私たち
を神に近づける。必ずそこで主に会える。
-----------
神に目を向けることで、人との比較や問題から解放されたレアのよ
うに、苦しみを通して神に近づいていきたい。今はよくわからなく
ても、必ず神は私たちの思いを変え、成長させてくださる。


2015年06月18日(木)

「彼らは・・小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた」ヨハネ21:3




主が、捕らえられた時に、ペテロは主を3度も否んで裏切ってしま
った。「全部の者がつまずいても、私は決してつまずかない。死で
も覚悟はできている」と豪語したペテロだったが。又、弟子たちも、
主が捕まるや、主を捨てて、くもの子を散らすように逃げ去った。

そんなペテロや弟子たちの心は、どんなものであったろう。心は折
れて、失望落胆し、深く痛んでいただろう。ガリラヤに戻ったペテ
ロと弟子たちは、なすすべなく、捨てた網を再び取って、漁をした。
しかし、何もとれなかった。どんなに心虚しく、暗たんたる気持ち
であったろう。

心がボロボロであった彼らに、その時、岸べから「舟の右側に網を
おろしなさい。そうすれば、とれます」と言う声が聞こえた。
彼らはその声に従い、その通りに右側に網を下ろした。すると、網
を引き上げる事ができないほどの大漁であった。以前同じ光景があ
った事を思い出し、主だと気づいた。

今、あなたも心が傷んでいるだろうか。失望しているだろうか。何
かの事で、後悔の念でいっぱいだろうか。そんな私たちの岸べに、
主が立って下さっている。赦し、回復させ、新しい力を与えようと
主が待っておられる。主の御声に従ってみよう。再び引き上げ、新
たにし立たせて下さる。いつも私たちの人生の岸べに立ち、御声を
かけて下さる。
---------------
自己嫌悪の朝を迎える日や、また落ち込む夜もある。それでも主は
傍らに立って御声をかけてくださる。不出来な自分ばかりを見ない
で、聖書を開き、御言葉から主のなぐさめを心に受けよう。


2015年06月17日(水)

「『・・落ち着いて、信頼すれば、力を得る』しかし、あなたがたは、これを望まなかった・・『いや、私たちは馬に乗って逃げよう』」イザヤ30:15 


信仰生活で、突然の困難や危急の事態が様々起きる。どんな時にも
とにかく自分で何とかしようとせずに、「わたしを呼べ」と言われ
る、まず主を呼ぼう。ある人が、二階の窓拭きをしていた。その時
に、誤って手がすべり、窓の網戸を落としてしまった。網戸は真っ
逆さまに落下。思わず「神様!助けて!」と叫んだ。

その下は、隣の会社の駐車場で、いつも車が並んでいる。息が止ま
りそうに、おそるおそる下に目をやると、車が並んで駐車してある
中で、何と落ちたそこだけ車が無く、空いていた。隣はベンツだっ
た。胸をなで下ろし、思わず「神様!感謝します!」と感謝した。

ある人は、寒さの中で、子供達に防寒具を買うお金が無かった。主
に頼り、ひらすら祈っていた。そんな折り、宣教師たちが、施設の
子供たちを招待して、クリスマス会を開いた。手伝いをしていた女
性が、楽しいからと一緒に彼女の子供たちも連れて行ってくれた。
最後に全員にくじで豪華クリスマスプレゼントが振る舞われ、彼女
の子供たちもくじを引いた。

すると当たったのは、二人共とても上等の暖かい防寒具で、それが
サイズもそれぞれピッタリ!だった。もうびっくりし、大喜びし、
神に感謝した。困難時には、「何とかしなければ」と焦り、すぐに
自分で考え、動き回ってしまうが、それは「馬に乗って逃げ」「早
馬に乗ってにげ」ることだ。「立ち返って静かにすれば、救われ、
落ち着いて、信頼すれば、力を得る」、まず主に頼り、祈ろう。
------------
落ち着いているときは主がしっかりと心に据わっている。どんなと
きにも動く前に祈ろう。不安で何かしていなければ落ち着かないと
きこそ祈りのときだ。主から力をいただこう。


2015年06月16日(火)

「また、なぜあなたがたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」マタイ7:3



「梁」とは屋根を支えるために、柱と柱の間に渡した横木で、大き
な頑丈な丸太だ。「ちり」は目にも見えないほどの微少、極小のも
のだ。他人のそんな極小のちりはよく見えるが、自分の目にある丸
太は見えないということになる。なぜあの巨大な丸太が見えないの
か不思議だが、「自分」中心に「自分の」メガネをかけて見ている
時、何も見えなくなる。

「自分の」価値観の中で見ているからだ。つまり、自分は正しいと
いう事で、相手がおかしくて、間違っている。自分は正しいと思い
込んでいるし、信じ込んでいる。その「自分は正しい」のメガネで
判断するので、いっさい見えなくなってしまう。そうすると、暗闇
なので、ますます自分は正しく、人は間違っている事になる。

アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べた時から、人は神によら
ずに、「自分で」善悪を判断するようになった。そのため、自分の
目が曇り、自分の目に偏見があれば、その目で見るものはすべて歪
んで見える。悪いのは自分以外で、自分はますます自己正当化して
行く。自分のことが見えていないということが、わからない。こう
いう状態であれば悲しい。

御霊がこの暗闇状態を照らし出して下さる時に、初めて自分の梁が
見える。その時方向変換して行ける。自分が変えられて行く。御霊
の光により、正しく御心の方向へと導かれる。信仰生活、御霊の気
づきが何よりも感謝だ。矯正され、新たにされて、成長へと導かれ
て行く。
------------
人のちりを見つけると批判的な思いになる。全てを知っている訳で
もないのに、決め付け、偏見で人を見ている。自分こそが大問題だ。
御霊の光により自分を見て、自分が変えられるよう祈りたい。


2015年06月15日(月)

「『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳は後ろからこれが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」イザヤ30:21 



主は私たちを導かれる。進むべき道を求める時には、まずよく祈ろ
う。祈りを積みながら、耳をよく澄ましていよう。自分で聖書を読
む時に、又、礼拝説教や学び会を通して、兄弟姉妹との交わりで、
信仰書を読んでいる時に・・、どの方法かはわからないが、主は御
声をかけて導かれる。

覚えておく必要のある事は、その導きが自分の思い通りでない事も
あるという事だ。ある時は、思いに反する事を求められる。それは、
自分を非難し、敵対して来る人のために、祈ったり、愛の行ないを
して行く事かも知れない。又、自分には困難と思われる、新しい仕
事や働きに就く事かも知れない。何かの犠牲を払う事かも知れない。

導きに従う事によって、時間や労力を献げる必要が出て来る。しか
し、その導きに従う時に、必ず大いなる祝福が臨む。だが、私たち
はなかなか従おうとしない。カナンに斥候を出した時も、ヨシュア
とカレブ以外は、恐しいとの理由で主に従わなかった。神は導き、
しかし民は逆らう。イスラエルの歴史だ。

神は私たちにも、繰り返し〃忍耐もって導かれる。今、何かを始め
る事、人を赦す事、和解する事、何かを献げる事・・何らかの導き
を受けているなら、従おう。一歩前進するなら、豊かな祝福があり、
主を新たに経験でき、必ず従って良かったと、平安を経験する。従
えるよう祈ろう。
---------------
主の導きを聞くには、自分の内なる騒がしい声を脇に置くことが大
切だ。混乱しているならよく祈り、そして静かに、落ち着いて主の
御声を待ち、従おう。


2015年06月14日(日)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18: 12 



サウル王は、初めは良かった。謙虚に神に仕え、民にも良く思われ
ていた。ところが王の座につくと、心高ぶり、初心から離れて行っ
た。部下のダビデは戦いで、次から次へと手柄を立てた。民の人気
はダビデに向いた。女たちが笑いながら言った「サウルは千を打ち、
ダビデは万を打った」との言葉に、プライドはひどく傷ついた。

サウルは怒りに燃え、妬みは憎しみへと増幅して行った。憎しみは
殺意へと発展して行く。もしサウルが信仰に立ち、神を見上げてい
たなら、どんなにダビデが賞賛を受けても、妬みの誘惑から守られ、
心は平安であったろう。自分に王位が与えられているのは、それは
神による事であり、神の恵みであり、神よりの賜物ではないか。

そして忠実で、優秀な素晴らしい部下が与えられているのであって、
何と感謝な事だろう。信仰により、神視点に立つなら、感謝しかな
い。しかし、サウルは神に従うところから離れ、プライド、体面、
虚栄心のとりことなった。屈折した感情は、妬みの対象であるダビ
デに向いた。その嫉妬は殺意となり、ダビデへの攻撃となり、実際、
ダビデに槍を投げて突き刺そうとした。

ダビデが荒野にいる事がわかると、何と三千人をも引き連れて向か
った。それも敵との戦いでは無く、一人の忠実な部下を倒すために。
神から離れ、肉の感情に、思いに、欲望に振り回される、悲惨な姿
を見せられる。
へりくだり、すべての道に主を認め、主に従う時、道をまっすぐに
して導いて下さる。へりくだって、目の前の状況に主を認めて行こ
う。
・・・・・・・・・・・・
人は、神無しで、自分に無いものを持つ人を見る時に、羨望と妬み
の誘惑にかられてしまう。しかし、神を見て、状況を見る時に、見
方が変わる。比較に気づき、神から自分に与えられているものに気
づかされる。感謝に変えられる。


2015年06月13日(土)

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の 中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そ こを泉のわく所とします」詩編84:5



私たちの人生に、悲しい事や苦しい事、理不尽な事、理解出来ない
事が起きる。それは、未信者にもクリスチャンにも同じように起き
る。しかし、その違いは、神を信じる人は、どんな悲惨な事、どん
な苦しい事の中にも、神を認めて行く。

痛みや苦しみの中にも、信仰により、神を認めて行く。そのまった
だ中に神がおられ、神の愛、慈しみ、助けを実際に体験して行く。
神を信じない人は、どんなに奇跡的な素晴らしい事があっても、そ
こに神を認める事は無い。ただの偶然にすぎない。そこの違いだ。

信じる人は何を見ても、どんな出来事が起きても、そこに神を認め、
神の愛を信じる。どんな問題や悩みが来たとしても、神を信じてい
るから、深い涙の谷であったも、そこを泉の湧く所とし、その中に
神を見、神に出会って行く。

苦しみがあっても、その内に良い事もあるさ、というような事では
なく、涙の谷自体が泉の湧く所となる。何をどうして良いかもわか
らない、まさにどん底で、慰めや平安の泉が湧き上がる。そのどん
底に神がおられるからだ。信仰とはそういう事だ。

もし、思い煩いや、不安、怒りがあるなら、神以外のものを頼り、
見ているという事になる。どんな苦しみの中でも、そこが、泉の湧
く所だ。神がそこにおられるので、湧き上がる平安や、御霊の喜び
を経験する。シオンへの大路にある人、心が神に向いている人は、
何にも代えられない幸いを経験して行く。

・・・・・・・・・・・・・
この世では、良い事は善、負の事は悪だ。豊作、合格は善で、不作、
不合格は悪。しかし神にあって全く見方が異なる。不合格も不作も
そこが泉の湧く所とされて行く。信じる者を損なうものは何も無い。
「何と幸いなことでしょう」を経験して行く。


2015年06月12日(金)

「耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる」イザヤ55:3




主は、私たちに、御声をかけ続けて下さっている。私たちは、メッ
セージを毎週聞いているのに、なぜ自分の事として聞こえないのか。
物理的には、耳に聞こえているが、心の耳に入って来ない。聞きた
くないというのではない。何となく聞きはするのだが、心に御言葉
の種が落ちる前に、悪魔に奪われて行く。

別段、御言葉を拒否する気は無いので、気づかない。右から左に流
れて行く。なぜ聞こえないのだろう。それを真剣に受け取るつもり
がない、つまり、従うつもりが無い。聞く事は支障がないので、良
いお話と聞くが、犠牲を払う気は無いから、心が受け取らない。そ
こで傍観者的聞き方になってしまう。犠牲が必要な言葉は、無意識
に除けてしまう。

御言葉が、心にぐいぐいと入って来る時は、真剣に御言葉に向き、
自分が従おうとしている時だ。御声に従い、自分が変わろうとの思
いがある時、御言葉が心に強く響いて来る。主の言っておられる事
がわかる。種蒔きの例えの土地の通り、自分の側の心の態度は重要
だ。表向きは、御言葉を聞いているが、心の奥では拒んでいたりす
る。無意識かも知れない。うすうす感じているかも知れない。

あなたの心はどうだろう。実は聞こえては困るのだろうか。成長は
気づきから始まる。気づきは御霊の働きだ。どんなに聞き従わなく
ても、今まで決して見捨てないで、愛し慈しみ抱き続けて下さった
主を覚え、今こそ従おう。
------------
大きな問題もない無風状態が続き、平安だ!と思っているのは実は
真剣に御言葉に向き合わず、逃げて痛みがないだけなのかも知れな
い。御言葉に向き合い主の元に出て行くなら、痛くてもそこに喜び
がある。


2015年06月11日(木)

「・・御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげ なさい。また自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」ガ ラテヤ6:1



もし、過ちに陥った人がいるなら、そのままにしておかないで、そ
の人を正してあげなさいと、主は言われる。「御霊の人であるあな
たがたは」とあり、その場合、大事な事は、自分自身が御霊に導か
れている必要がある。そのために、まずよくよく祈り、御霊の示し、
御霊からの言葉を受け取ることが大切だ。

その時、御霊がこの事をさせて下さるという確信が与えられる。そ
れゆえ心に平安が臨んで、平安をもって事に当たれる。そして自分
もよく整えられ、「柔和な心で」「愛をもって真理を語る」ことが
大切だ。愛が無ければ、真理の剣で、逆に心を刺し貫いてしまう。

愛は、自分も罪人であり、同じ状況になれば、罪を犯すかも知れず、
もし自分が相手の立場ならと、思いやりを持って語る。そうする時、
御霊が働かれて、相手の心も開かれ、御霊が間違いを示し、悔い改
めに導いて下さる。

ダビデを悔い改めに導いたナタンは、神からの示しにより、神に従
ってその任に当たった。ナタンは、相手の事を考え、ダビデによく
わかるように、ストレートにでなくワンクッション置き、羊のたと
えを用いて語った。

ダビデはその話により、自らの罪の重大さがわかった。わかった時、
王であるにかかわらず、へりくだって主の御前に悔い改めた。その
瞬間、罪の赦しが臨んだ。ナタンは用いられ、神からの大任を果た
した。私達も示されたなら、よく祈り、御霊の導きを受け、整えら
れて、従おう。主は用いてみわざをされる。

・・・・・・・・・・・
語る時に、もし、愛がないなら、うるさいシンバルになってしまう。
相手の心に届かない。自分では出来ないので、よく祈って御霊に導
かれる事が必要だ。「愛をもって真理を語り」導かれたなら、語ら
ないのでなく、語る事が大切だ。


2015年06月10日(水)

「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかた ちと同じ姿にあらかじめ定められたからです」ローマ8:29



信仰人生で、「なぜ?」「どうして?」という事態が起きる。何が
どうなっているのかわからない。苦しいばかりだ。しかし、エレミ
ヤ29:11にあるように、神は私たちに決して災いを与えられない。
それは、平安と将来と希望のためのものだと。その渦中ではわから
ないが、ずっと後になった時に、パズルがつながるように、神のご
計画を知ることになる。

「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来
る」とあるように、すべての出来事に、神の支配と主権がある。
「雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちること
はありません」。目の前の出来事は、父の許しの中で起きている。

理解を越えた、わけがわからない事に遭遇する事があるけれど、
ローマ8:28の通り、すべてを益とされる。そこに神の関与がある。
しばしば自分を中心に置き、自分が思う通りの益、自分にとっての
最善が成ると勘違いするが、そうではなく、神が私たちのために備
えて下さる最善だ。

それは、自分の思い通りになるのではなく、「御子のかたちと同じ
姿にあらかじめ定められた」ように、御子のかたちへと変えられる
最善だ。自分の弱さや失敗があったとしても、そこで「万事益」の
信仰に立つ時、神が働かれ、御子のかたちへと変えられるように益
とされる。主に似せられて行く。そこに神の栄光が現されて行く。

・・・・・・・・・・・・・・
「神を愛する人々のために、神はすべての事を働かせて益とされ
る」。どんなにマイナスの事態をも、神を愛する人々のために、そ
こに神が働かれ、御子のかたちへと変えられるように、益とされる
とは、何と恵みで光栄な事だろう。


2015年06月09日(火)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18



あなたも心配症だろうか。まだ起きてもいない先の事を、ああなっ
たら、こうなったらと、自分でシナリオを描いて、思い煩っている
だろうか。主は「何も思い煩うな」、いっさい思い煩うなと、言っ
ておられる。にもかかわらず、くよくよと思い煩ってしまう。思い
煩いと平安は、同居不可能だ。

思い煩った途端、心は暗く落ち込み、気持ちは沈み込んでしまう。
今、目の前に、する必要のある事柄をする気力が萎える。まず気力
が奪われる。又、私たちは、だいたい失ったものを数え、自分に無
いものを数え上げる。あれが無い、これが無い、あれもこれも出来
ない・・心はネガティブに落ち込んで行く。

主は、上を見上げて、主をほめたたえよ、すべての事について感謝
せよ、と言われる。失ったものを数えるのでなく、今、与えられて
いるものを感謝せよと。どうであれ今の状況を信仰により感謝して
行くなら、どんなに心に喜びが来て、心が引き上げられるだろう。
その時、自分自身が変えられる。

今の状況がどんなに思い通りでなくても、そこに主の支配とご計画
がある。感謝する事は、その主を認めることであり、今の状況を受
け入れることであり、サタンの足場を崩す。主はそこに力強く働か
れる。自分が変えられて行く。今はわからないが、主のご計画を信
じ、感謝を献げて行く時、不思議が起きる。状況は変わらなくとも
、心が平安にされて行く。
---------
思いわずらうまい、喜んでいようと決心しても長くは続かない。自
分で喜ぶことも安心することもできない者だ。だから、主に目を向
け感謝を数えていこう。与えられている恵みはいかばかりであるか。


2015年06月09日(火)

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエス にあって神があなたがたに望んでおらることです」Tテサロニケ5 :18



あなたも心配症だろうか。まだ起きてもいない先の事を、ああなっ
たら、こうなったらと、自分でシナリオを描いて、思い煩っている
だろうか。主は「何も思い煩うな」、いっさい思い煩うなと、言っ
ておられる。にもかかわらず、くよくよと思い煩ってしまう。思い
煩いと平安は、同居不可能だ。

思い煩った途端、心は暗く落ち込み、気持ちは沈み込んでしまう。
今、目の前に、する必要のある事柄をする気力が萎える。まず気力
が奪われる。又、私たちは、だいたい失ったものを数え、自分に無
いものを数え上げる。あれが無い、これが無い、あれもこれも出来
ない・・心はネガティブに落ち込んで行く。

主は、上を見上げて、主をほめたたえよ、すべての事について感謝
せよ、と言われる。失ったものを数えるのでなく、今、与えられて
いるものを感謝せよと。どうであれ今の状況を信仰により感謝して
行くなら、どんなに心に喜びが来て、心が引き上げられるだろう。
その時、自分自身が変えられる。

今の状況がどんなに思い通りでなくても、そこに主の支配とご計画
がある。感謝する事は、その主を認めることであり、今の状況を受
け入れることであり、サタンの足場を崩す。主はそこに力強く働か
れる。自分が変えられて行く。今はわからないが、主のご計画を信
じ、感謝を献げて行く時、不思議が起きる。状況は変わらなくとも、
心が平安にされて行く。

・・・・・・・・・・・・
問題のある状況の中で、主に感謝して行く時、自分の心が変えられ
る。ネガティブになりそうな心が、不思議に神視点になって、見上
げる事ができる。見上げると、計画がある事、無駄は無い事、良く
して下さるとの展開にされて行く。


2015年06月08日(月)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8



ある人が、初めて教会へ来た時に「あなたは罪人です」との説明を
受けた。何と失礼な!と、正直、ムッと来た。人一倍、真面目に、
一生懸命に生きて来たつもりだ。それがどうして?しかし、教会で
聖書の学びを続ける内に、その言葉が耳を離れず、心に留まり、
「罪人」ということを考えた。

様々な思いが巡る中で、今まで全く考える事もなく、目にも留まら
なかった、心の内側の事に思いが至った。自分は、福祉の働きをし
ていて、職場で、人々のために、身を粉にして懸命に頑張っている
と思っていた。周囲の皆にもそう思われていた。良い人であり、皆
に感謝されていた。

しかし心の内を見た時に、自分は人に良い人だと思われたい、嫌わ
れたくない、認められたい。それなら目の前の人々のためなどでな
く、自分のためではないか。人々からの賞賛は心地良い。仕事も、
自己実現できて、生き甲斐ある仕事がしたいからだ。それなら自己
満足ではないか。物腰は低く、決して表には出さないが、しかし心
の中では人々を見下している自分、自分が正しいと常に思っている
自分。

御言葉を学ぶ中で、御霊の光が来て、自己中心、高慢、プライド、
虚栄心が示された。御霊の光が無ければ、罪は決してわからない。
こんな事、誰でもしている。当たり前であり、何が悪いのかわから
ない。罪がわかること自体が大きな恵みであり、御霊が力強く働い
て下さっている証拠だ。感謝なことだ。
------------
正しいことをしたいとの思いがいつの間にか自分の義を誇りたいに
微妙にすり替わってしまう。それのどこが悪いのか・・外側を造ら
れた方は、内側も造られ、それを清めるようにといつも御霊様によ
り示してくださる。


2015年06月07日(日)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世 にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8


ある人が、初めて教会へ来た時に「あなたは罪人です」との説明を
受けた。何と失礼な!と、正直、ムッと来た。人一倍、真面目に、
一生懸命に生きて来たつもりだ。それがどうして?しかし、教会で
聖書の学びを続ける内に、その言葉が耳を離れず、心に留まり、
「罪人」ということを考えた。

様々な思いが巡る中で、今まで全く考える事もなく、目にも留まら
なかった、心の内側の事に思いが至った。自分は、福祉の働きをし
ていて、職場で、人々のために、身を粉にして懸命に頑張っている
と思っていた。周囲の皆にもそう思われていた。良い人であり、皆
に感謝されていた。

しかし心の内を見た時に、自分は人に良い人だと思われたい、嫌わ
れたくない、認められたい。それなら目の前の人々のためなどでな
く、自分のためではないか。人々からの賞賛は心地良い。仕事も、
自己実現できて、生き甲斐ある仕事がしたいからだ。それなら自己
満足ではないか。物腰は低く、決して表には出さないが、しかし心
の中では人々を見下している自分、自分が正しいと常に思っている
自分。

御言葉を学ぶ中で、御霊の光が来て、自己中心、高慢、プライド、
虚栄心が示された。御霊の光が無ければ、罪は決してわからない。
こんな事、誰でもしている。当たり前であり、何が悪いのかわから
ない。罪がわかること自体が大きな恵みであり、御霊が力強く働い
て下さっている証拠だ。感謝なことだ。

・・・・・・・・・・・・
御霊によらなければ、霊的な事は何一つわからない。逆に言えば、
示されるという事は何という恵みだろう。御霊に罪が示されたなら
悔い改め、御心を示されたなら、なおざりにせず、無視せず、従お
う。


2015年06月06日(土)

「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてくだ さい」詩篇25:4



私たちは、主の御心を行ないたいと願う。主は、そのような私たち
の内に働いて志を下さる。御心にかなった思いを起こし、私たちを
導かれる。主は思いを与えて導かれるが、自分の思いも湧き上がる。
主からの思いか、自分の欲による願望か、祈りが必要だ。でなけれ
ば自分の欲望や、自分に都合の良い事を御心と勘違いしてしまう。

見分けるためには、その思いは御言葉の原則に合致しているか、御
言葉に反していないか。御言葉と矛盾する導きを、主は決してされ
ない。そして、それは主の栄光が現れるか、周囲の人の徳を高め、
祝福となるか。誰かを傷つけるなら御心ではない。

大きな事は、時間をかけるとわかる。自分の思いなら、しばらくは
続くが、長くは祈り続けられない。御心でない思いは消え去る。し
かし主からの思い、志は、時間を経ても変わらない。成し遂げられ
るまで、思いがあって、祈り続ける事ができる。

時々突発的に、ああすればこうすればと、アイデアや思いが湧くが、
翌日消えてしまうなら、主からの思いではない。又、良い思いが湧
き、祈るが、その祈りも忘れ去っているなら、自分の思いだ。
主は「志を立てさせ」て下さると、同時に「事を行わせて下さる」。
行なう力は、主から来る。主からの志なら、主が、私たちを用いて
成し遂げて下さる。

・・・・・・・・・・・・
「神から発し」た事だけが「神によって成り、神に至る」。自分か
ら発した事が、神に至る事は無い。自分の思いか、主の御心か、よ
くよく祈ろう。祈りを重ねて行く時に、御霊が様々気づきを与えて
教えて下さる。御心へと導いて下さる。


2015年06月05日(金)

「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」Tサムエル1:18



思い煩いが来た時に、どう対処するだろう。「何も思い煩わないで」
と言われても・・と思うだろうか。又は、逃げるだろうか。その事
を考えたくなくて、とにかく考えまいとする。しかし問題はそこに
あり、追いかけて来る。考えたくないが、思いに上っては心に影を
落とす。心は落ち込む。

又、問題を解決して、悩みを無くそうとするが、簡単に解決などつ
かず、ますます思い煩う事になる。心は辛くしんどい。主の対処法
は、ことごとく感情も気持ちも、主に告げよというものだ。思い煩
わず「願い事を主に知っていただきなさい」そうすれば、「人のす
べての考えにまさる神の平安」が約束されている。

ハンナのように、祈りのために立ち上がり、心を注ぎ出し、不安、
悲しみ、恐れ、怒り、いらだちを、あるがまま主に告げる。感情も
主にぶつけている。主は受け止めて下さる。そして自分自身を委ね
て行く。ある人が「思い煩いを委ねます」と祈り、一時は落ち着く
が、すぐに心配が戻って来た。又、「委ねます」と祈り、楽になる
が、又苦しくなる。

その繰り返しで、口先で委ねますと祈っている事に気づかされた。
問題を握りしめていて、決して委ねてなどいない。自分は委ねる事
が出来ないのだと思い知らされ、その事を主に祈った時に、初めて
変えられた。試練は苦しいが、それによって主に近づけられる。自
分の姿が見せられ、そして親しく主を知って行く。
-------------
主は近くおられ、愚かさも弱さもすべて知っていてくださる。全て
主に告げよう。主が聞いていてくださるから、恐れる心はほぐされ、
整えられ、解決はまだ見えなくても、主の平安に満ちる。


2015年06月04日(木)

「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので・・ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」使徒16:6



私たちが主の導きを求める時、「環境」をよく見て行くことは重要
だ。パウロが二度も環境によって、行く手を阻まれた。「アジアで
みことばを語る事を禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方を通
った」ビテニヤに行こうとしたが、ストップがかかったので、トロ
アスに下った。東から来て、2方面閉じられたので、残る西方面に
向かった。

阻止された理由は、神のご計画が、ヨーロッパ宣教にあったからだ
った。もし御霊の阻止がなければ、御心と違った方向へ向かってい
ただろう。私達にも神のプランがあり、時に行く手にストップがか
かる。自分には志があるが、しかし門が開かれず、状況が整わない
なら、それは神の御心ではない。入試が、就職試験が、不合格なら
神の御心でない。

「ノー」が神からの答えであり、御心は別の所にあるという事だ。
しばしば私達は、ストップがかかると、導きを失ったと勘違いし、
道に迷ったような不安、心細さを感じる。しかしそうでなく、そこ
が御心ではないという「導き」だ。次の導きを「待て」ばよい。環
境の開き閉じによって、導きを知れる。

門が開かれたならその方向に進んで行けばよい。御心の門は、目の
前で、ひとりでに開いて行く。神が開かれる。自分でたたき割り、
こじ開けて進むのではない。必ず目の前で門が開かれて行く。御言
葉、祈りによる平安と共に、状況をよく見ていよう。
-----------
祈って向かった先が閉ざされたなら、すっかり迷子になったように
思うが、主は近くおられ「ノー」と示してくださった。いたずらに
落胆せず、心の向きを変え次の導きを待とう。


2015年06月03日(水)

「私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか」マタイ18:33 



人生の大きな苦しみの一つに、「赦せない心」がある。人を赦せな
い事ほど辛く、苦しいものはない。心が真っ暗闇に落ち込んでしま
う。どんなに楽しい時も、その事が頭をよぎった途端、心は辛く、
重苦しくなる。楽しい時間ぶち壊しになる。ペテロが何度まで赦す
べきかと、主に問うた時に、7度を70倍するまでと言われ、主は、
王としもべの話をされた。

6000億の借金の返済不可能なしもべを、王はあわれんで、赦し、免
除してやった。ところが、そのしもべが100万貸していた仲間を赦
さず、牢に投げ入れた。それを聞いた王は怒り、そのしもべを借金
全額返済まで投獄した。主の十字架により、私たちは無罪放免にさ
れた。自分はその大きな恵みを受けていながら、人を赦さないとは
どういう事なのだろう。

そして赦さない心は、牢獄の中だ。獄につながれ、暗闇の中で、が
んじがらめだ。苦しいのは相手ではなく、自分だ。主は、獄から出
して下さる。救って下さる。しかし、自分の側の意志と決意が必要
だ。罪の性質は、赦せないのではなく、決して赦したくない。主は
赦せるようにして下さるが、そうして欲しくない。

「自分にはどうにもできません」と主の御前に出よう。目の前の相
手を避けて、相手から逃げても、次の環境で、別の相手がいる。自
分が変わる事が御心だ。主は心を変えて、自由にして下さる。苦し
みの獄から出して下さる。まず「赦したくありません」と主に祈ろ
う。
-------------
憎みたい思いは主の前に罪で、それゆえいつまでも平安がない。
いくら相手から受けた傷を思い返しても、心で攻撃しても、平安は
来ない。主の前に赦せない心を打ち明け祈ろう。


2015年06月02日(火)

「その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません」ヨハネ1:27




ユダヤ人たちが、人を遣わし、ヨハネに「あなたはどなたか」と問
わせた。バプテスマのヨハネが、「キリストか?」と思った人々が
いた。しかしヨハネは、自分はキリストではないと、明言した。彼
は人々が主を信じるために、道を整え、導くという自分の役割をよ
く理解していた。その使命を果たす事で、主の栄光を現わした。

謙遜とは、自分の位置と役割を心得ることだ。ヨハネは、自分をわ
きまえていたので、自分の立ち位置を守り、そして、自分の役割に
心から満足していた。人は、自分が賞賛を受ける時、どうしても主
の栄光を自分が奪ってしまう。人からの賞賛は大きな誘惑だ。人に
認められ、評価される事は嬉しい。肉はその誘惑に勝てない。

しかしヨハネは、弟子たちが、主に妬みを抱いた時に「人は天から
与えられるのでなければ、何も受けることはできない。主は盛んに
なられ、自分は衰えなければならない」と言った。普通、人が、自
分より大いに用いられていたら、どうだろう。妬みの誘惑が来る。
しかし、ヨハネは主が盛んになられ、自分が衰える事を受け入れて
いた。

自分の使命を果たす事に、大きな喜びを抱いていたからだ。なぜな
ら、ヨハネは主に愛され、「ヨハネよりすぐれた人は出なかった」
と主から認められていた。私たちもすでに主から愛され、認められ
ている。それゆえ、自分の遣わされた場で役割を果たして行くこと、
そこに喜びと真の満足がある。
------------
天から与えられるものでなければ何も受けることはできない。仕事
の評価や経済的な満たし、それを神に感謝し喜ぶ心も、全て神が与
えてくださっるからできる。よくわきまえていたい。


2015年06月01日(月)

「彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた」ヨハネ4:51


王室の役人が、主のもとに来た。ヘロデ王の宮廷官吏で、地位も名
誉もあり資産もあった。しかしそれらをもってしても、どうにもな
らない事態が生じた。息子が病気で死にかけていたのだ。どんなに
財があってもどうにもならず、又、医者も直せなかった。絶体絶命
の窮地にいた。

主の噂を聞き、この方なら助けて下さるのではと、30キロの距離を
必死の思いでやって来た。息子のいやしを願うと、主は「あなたが
たは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」と答えら
れた。「あなたがたは」であり、彼だけでなく周囲の人々への言葉
でもあった。ただ奇跡を喜ぶのではなく、主が救い主である事を信
じ、主に信頼する事を求められた。

役人は、続けて息子のいやしを願ったが、「主よ」に変わっていた。
それに応答して、主は「帰りなさい。あなたの息子は直っている」
と告げられた。すると、彼は、主が言われた言葉を「信じて」、帰
途についた。彼にとり、まず息子が直る事だけがすべてであり、必
死であり、信じる信じないなど、どうでも良いことだった。しかし、
主は、彼を主を信じる信仰へと導かれた。

御言葉を信じ、従い、帰って行くと、途中で息子が直った事を聞い
た。御言葉を聞いた同時刻である事を知り、彼も彼の家族も皆、信
じた。息子の危機を通して、主は、一家を主を信じる信仰へと導か
れた。神の言葉は必ず成就する。そして従う時に、その度に信仰が
強められて行く。今、目の前に示されている言葉に従おう。
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30キロの道のりを、主の御言葉だけを持って帰途につく父親の信
仰に学ばされる。「主よ、直に癒してもらうまでは不安です」と、
その場から動こうとしない自分の不信仰を示される。