2015年07月31日(金)

「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであ自分がどこに行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです」Tヨハネ2:11  




光の中にとどまるなら、決してつまずくことがないと言っている。
人がつまずくのは、光の中にとどまらないからだと。兄弟を愛する
ことが光の中にとどまることだと。「光の中にいると言いながら、
兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいる」やみの中にい
るしるしは、兄弟への批判、非難、悪口、憎しみだ。

兄弟への憎しみがあるなら、私たちはやみの中にいる。幾ら、自分
は光の中にいると言っても、御言葉がやみの中だと言っている。逆
に、兄弟を愛して行くなら、やみの中にはおらず、光の中にいると。
光があるからこそ、罪がわかり、悔い改めることができる。その悔
い改めた罪は、完全に赦されて、前進して行ける。

気持ちが暗くなる時、どうしても目に見える相手や環境のせいだと
思ってしまう。嫌な相手、嫌な環境のために憂うつで、喜びがなく、
心が暗いと。相手がいなければ、この環境でなければ、どんなにか
平安なのにと。しかし、実のところそれは原因ではなく、自分と主
との関係が原因だ。人や状況が、あなたと主との関係を遮断する事
など不可能だ。

問題は、目が、主ではなく、主以外のものに向いているところから
来る。自分に向き、自分を守ろうと、人の評価や人から認められる
こと、賞賛を求めていたりする。心が主以外のものに向いている時
に、必ず不平不満、愚痴、妬み、敵対心が出て来る。やみの中にい
るからだ。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれ
るのです」、目を主に向ける時、光の中だ。
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嫌な相手や環境によってすぐに平安がなくなる、だから主に祈り、
すぐに主に助けを求める。主との関係がいつも豊であることが守り
だ。感情次第でどこに行くか知れない弱さにあっても光の中だ。


2015年07月30日(木)

「イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである」ヨハネ6:6


ある人が、最近、何だか見えにくいと感じていたが、特に気にして
いなかったそんな折り、コンタクトを落としてしまった。周辺を懸
命に探すが見つからない。尚も探すが、どこにも無い。祈りつつ探
すが、無い。「すべての事について感謝せよ」と言われるので、こ
の事も感謝しますと祈った。

その時、祈って、これだけ探して見つからないのだから、この事に
も何かの計画があると思えた。そこで、新しい物を買おうと思い、
眼鏡店に行った。処方してもらう中、片方のレンズを見せると、レ
ンズがひどく傷んでいた。それで見えにくかったと判明。目を傷め
るところだったと言われ、失った事に感謝した。

ある人は、神学生の時に授業料が払えず、祈りに祈り求めていた。
主は必要は必ず与えて下さるはず、与えて下さると信じ、祈りに祈
った。祈り続ける中、締切日が迫る。尚も祈り続けた。とうとう当
日になったが与えられなかった。しかしもうこれ以上祈れないほど
祈り、心はすっきりし、平安だった。正直に言おうと、次の行動に
移った。

事務局に行ったところ、驚いた事に、誰かによってすでに振り込ま
れていた。主は真実であった。私たちも、目の前に起きる一つ一つ
の事柄は、主のご計画の内だ。自分の思い通りでなくても、主のご
計画がある事を覚えよう。それを信じる時、祈りの内になすべき事
が導かれる。
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自分の計画通りには行かないとき、何故だろう、どこが悪かったの
だろうと焦るが、御心と違うのでは?と平安のうちに自分のプラン
を手放したい。執着する自分のプランから目を主に向けてみよう。


2015年07月29日(水)

「私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12


悪魔は「策略」を持って誘惑し、攻撃して来る。「通り道に罠があ
る」と知らせてしまえば、警戒され、効果が失せてしまう。罠にか
けたければ、絶対に言わない。「悪魔の策略」とあるからには、相
当の策略があるという事で、警告を受けているのに、気にも留めず、
ぼおっと過ごしているだろうか。

悪魔は私達の「感情」に訴え働く。「あんな事を言われてなぜ黙っ
てる。赦せない」思いに上る度に怒りがわく。感情をコントロール
出来ない。ある人は、それで犯罪にまで至る。私達は、感情はどう
も出来ないが、意志はコントロール出来る。自由意志で、主の御前
で相手を赦すことを祈れる。赦しを選択できる。怒りがわく度に祈
る。主は赦せるようにして下さる。

悪魔は私達の「感情」に攻撃して来る。対人関係が、常に好き嫌い
に振り回される。そして落ち込み、平安を失う。覚えていよう。感
情はコントロールできないが、意志はコントロールできる。意志を
向けて赦したり、愛したりできるようにされている。意志で選択す
る時、主が力を与えて下さる。

対人関係で問題がある時、悪魔が背後で巧妙に働いている事に心し
ていよう。相手しか見えないが、実は、相手への裁き、憎しみ、敵
対心、妬みを起こさせ、私たちを罪を犯させようと、悪魔があおっ
ている。私たちは一生涯、人間とは戦っていない、背後に働く悪魔
に気づこう。
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一日の初めに思いに働くサタンが識別できるよう祈ろう。祈りなく
しては戦えない。ふっとわき上がる苦い負の感情はサタンの火矢だ。
聞き流し、主の御言葉によって、わきまえ歩もう。


2015年07月28日(火)

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう」創世記28:15


神は、家出して、野宿するヤコブに「あなたをこの地に連れ戻そ
う」との約束を与えられた。しかし、その約束の成就に、1年や2
年ではない、何と20年の歳月を要した。短い月日ではない。気が
遠くなるほど長い歳月だ。私たちは、なかなか待てない。すぐに目
に見える結果が欲しい。待つ事が苦手だ。しかし、神は早急にでは
なく、地道に、歳月をかけながら、こつこつと、私たちを導かれる。

今の1日1日は、主に在って、練られきよめられ、造り変えられる
途上にあり、1日も決して無駄な日は無い。必ず時は満ちて、「神
の時」は到来する。約束が、成就して行く時には、よく見ていると
予兆がある。それまで全く動かなかった状況が、少しづつ変化して
行く。

ヤコブの周囲の状況も変化して行った。ラバンの息子達が、父の物
をみなヤコブが盗んだとの言い方をする。ラバンの態度も以前のよ
うでなくなった。好意的でなくなり、このままなら争いが生じ、問
題が起きそうだ。ヤコブへの対応が違って来て、微妙な空気を感じ
取る。そんな状況の中で、はっきりと主の御声が臨んだ。

「あなたの先祖の国へ帰りなさい」「さあ立ってこの土地を出て、
あなたの生まれた国へ帰りなさい」。今こそ約束の時が来た。私た
ちも、状況の変化を見落とさないでいよう。そして、明確な神の御
言葉が臨む時、御心へと行動を起こすべき時だ。
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平凡な一日でも意味のない日ではない。どこへ行ってもどんな日で
も神の守りと摂理の中にいる。長く変わらない状況に倦み突かれて
しまわず、その時が悟れるよう祈り、期待し待ち望もう。


2015年07月27日(月)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」マタイ16:24



主は弟子たちに言われた。主について来ようとするなら、自分を捨
て、自分の十字架を負って、ついて来るようにと。自分を捨て、自
分に死ぬことほど難しいものはない。私たちは、自分がどうしよう
もない罪人であることは認めるのだが、自分の思いを通し、自己主
張をし、不平不満をぶつけ、怒りは湧き、どうしても自分を優先し
てしまう。

主に従うと言いつつも、自分の利得を求めている。十字架を負って
いるはずなのだが、すぐ十字架をおろしてしまう。主と共に十字架
についた強盗が、「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラ
エルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、
われわれは信じるから」と言ったが、まさに都合悪くなると、十字
架を降りてしまう。

十字架を負う時に、主のみこころに従おうとする時に、様々な犠牲
も伴うので、十字架を降りてしまう。自分を捨てて従おうとするの
だが、少し苦しみがあると、捨てた自分を取り戻してしまう。今、
目の前に、主からの具体的な示しがあるだろうか。従うために、自
分のプランを明け渡して、進路変更の必要があるかも知れない。

又自分の思い通りでない進路かも知れない。しかし、決心して、主
のみこころに従うことが、自分を捨て、十字架を負って従うことに
なる。
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自分の思いが前面に立つことが、御心に従おうとするとき、はっき
りと分かる。ついて行きたいが出来ない者であることは、主が一番
知っておられる。諦めず何度でも祈り、従えるよう献げて行こう。


2015年07月26日(日)

「・・私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保 ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」Tヨハ ネ1:7



登山をする時に、山中で道に迷った時には、間違った場所にまで一
旦戻る事だと言われている。それを、せっかく進んだのに引き返す
のは惜しいと、どんどん進んだり、あちこち道を探し回ると、更に
奥深く迷い込み、身の危険を招いてしまう。

霊的生活においても同様だ。毎日の生活で、些細な事でつまづきが
ある。対人関係で、ついカッとなり、ひどい言葉が出たり、悪い態
度をしてしまったり、家族に辛く当たったり、つい嘘をついてしま
ったり・・その時に、それをそのままにすると、罪の方向に向かって
しまう。

落ち込みや自己憐憫、自己嫌悪の間違った方向へ向かい、又、心が
固くなり、拒否や怒りや頑なな心に支配されて行く。「すぐに」
「その場で」悔い改めることだ。そのまま進むのではなく、間違っ
た地点にまで、すぐに引き返そう。悔い改めるなら、主はいつでも
豊かに赦して下さり、憐れんで下さる。

悔い改めによって、いつでもどんな時でもやり直せる。主の血潮の
ゆえに、罪をきれいにぬぐい去って下さる。何と言う恵みだろう。
道を間違ったなら、そのまま進まず、すぐに方向変換しよう。あな
たも今、平安を失っているだろうか。心にとがめがあるなら、今す
ぐその場で神に立ち返ろう。悔い改めて元の場所に引き返そう、喜
びと平安が戻る。そしてそこから前進して行ける。

・・・・・・・・・・・・
罪を悔い改めない時、罪に罪を重ねて行ってしまう。ダビデが姦淫
に殺人を重ねたように。何度でも、悔い改める度に赦して下さる。
「もはや彼らの罪を思い出さない」と。失敗するが、赦されて、赦
されて歩んで行ける。


2015年07月25日(土)

「『主よ。この人はどうですか』・・『あなたは、わたしに従いなさ い』」ヨハネ21:21


ある一人暮らしの独身女性。年末になりイルミネーションが輝き、
街がクリスマスでにぎやかに、キラキラし出すとたまらなく寂しく
なった。巷がにぎわい、特に家族団らんが溢れる年末年始はひどく
孤独に感じた。周囲の家庭を見ては、神は不公平だと不満が募った。

その時、ぶどう園の例えで気づきが与えられた。朝早くからぶどう
園で働いた人達は、賃金に満足していた。一日の労を終えるなら、
その日の糧を得て帰宅できるのだ。妻子の喜ぶ顔を思い、又、その
日の賃金が保障されているのだから、暑さの中も平安に働けた事だ
ろう。

ところが隣と比べた途端、感謝と平安が吹っ飛び、不平不満と怒り
で一杯になった。隣を見る事がなければ、自分に与えられた報酬に、
満ち足りたままではないだろうか。

彼女は、自分の心の態度の問題だと気づいた。人との比較ではなく、
また、自分の思い、自分の理想との比較でもなく、ありのままの自
分を認め、そこで、横ではなく上を見て、主に従って行くなら、来
る日も来る日も平安で幸せでいる事ができるのだ。

比較を止めて、主と自分の関係の中で歩もう。主の御心を絶えず尋
ね求めて、御心を行って行こう。人に関係なく、自分は主と共に常
に平安と喜びの中を歩める。

・・・・・・・・・・・
比較が無ければ、どんなに平安で幸せだろう。比較に気づかされる
ように、絶えず祈っていよう。気づかされる度に、気づけた事に感
謝して、目を横から上に転じて行こう。主がいつも共におられて、
気づかせて下さる。気づきに感謝して歩もう。


2015年07月24日(金)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」ピリピ4:6 




主は、「何も思い煩わないで」と、「何も」「いっさい」心配する
なと、言われる。ところが、生まれつきの性質は、何も心配しない
などと、そんな事は考えられない、有り得ない、無責任ではないの
か。そんな事でいいはずがないと思う。「自分で」ちゃんと問題に
対応し、処理しすべき、そのために、きちんと思い煩うべきではな
いか。無意識にもそう思っていないだろうか。

これは肉の思いだ。この思いにだまされてはならない。思い煩う人
は、心の底を見ると、思い煩いが無いと不安で、わざわざ思い煩い
を取って来る。思い煩っていれば安心なのだ。私たちは「肉に従っ
て歩む責任はない」と言われている。主が、肉と同じかたちで十字
架につけられ、肉を処罰され、肉の責任をすべて受けて下さった。

肉はすでに解決済みであり、肉に従う理由も責任もいっさいない。
御霊の声だけに聞き従って歩めばよい。「何も」心配しなくてよい。
こんな自由があるだろうか。私たちには羊飼いがいる。私たちは羊
飼いではなく、羊だ。必要なものすべては、羊飼いが責任もって備
えて下さる。

食物のために草地に導き、危険があれば、羊飼いは命をかけて羊を
狼から守る。「神があなたのことを心配してくださるからです」神
が心配して下さるので、私たちは心配無用だ。私たちの責任は、主
について行くことであり、それだけだ。先は全く見えずとも、主が
先を見通しておられる。
-------------
先の計画は立てても、それを心配し、思い煩う必要は無いと主が言
われている。自分のプラン通りに進まないことが不安なのだろうか。
今の不安を主に祈り、人知を超えた主の平安に変えていただこう。


2015年07月23日(木)

「70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」エレミヤ29:10



ユダヤの民にとって、バビロン捕囚は、国を追われ、敵に捕らわれ
の身となって行く事であり、状況だけを見るなら、絶望のどん底で
あり、真っ暗闇であった。どんなに悲惨な事であったろう。それは
大きな苦難であり、悲しみであり、混乱であった。だが結果的に見
れば、それは「将来」と「平安」と「希望」であった。なぜなら、
民は、捕囚の試練により悔い改めて神に立ち返れたからだ。

厳しい辛い訓練ではあったが、信仰を回復する事ができた。エレミ
ヤの預言通り、70年後にエルサレムに帰還する事になる。神の大き
な奇跡が成し遂げられる。「あなたがたのために立てている計画」、
バビロン捕囚は不運で起きた事でなく、人間のわざでもなく、神の
御手による計画だと言われる。

それも見えるところは絶望と大混乱に関わらず、将来と平安と希望
のための計画だと。縦糸と横糸が織りなされて、綺麗な素晴らしい
織物が出来上がるように、神は艱難の中で、苦しみの中で練り込み、
御霊と一つにして行って下さる。私たちにも、突如の試練が降りか
かる。ある日突然気がつくと、厳しい苦しい辛い事態の中にいる。

しかし、信仰人生で起こる一つ一つの出来事は、偶然でなく不運な
のではなく、すべて神の綿密なるご計画だ。それは「あなたのため」
であり、「わたしはよく知っている」偶然でなく完璧なる神の配慮
のもとで来たものだ。後に、それこそが神の深い愛であることが必
ずわかる。
--------------
明日のことも知れず、今起こっていることの意味もわからない弱い
者であっても、常に御神の愛と恵みが先行している。そう知ってい
るだけで私たちは、喜びまた強くなれる。


2015年07月22日(水)

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほうを信用した」使徒27:11




パウロのローマへの護送途上、船はクレテの良い港に着いた。その
時、人々は、この港より更に良いピニクスまで進み、そこで冬を越
そうと言った。だが、パウロは祈りの中で主からの示しがあり、こ
の航海は危険で、命にまで危害が及ぶと強く反対した。

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほう
を信用した」の通り、人々はパウロの言葉を信じず、百人隊長も、
パウロの言う事よりベテランの航海士や船長の方を信用した。
それで、その言葉に従い出帆した。すると案の定、パウロの言う通
りに、大変な暴風に会った。

私たちも、常に二つの声が聞こえて来る。二つの思いがふつふつと
湧き上がる。一つは神の御声であり、もう一つは自分の経験や自分
の思い、判断から聞こえて来る肉の声だ。それは世の価値観により、
見えるところから判断する声だ。背後にサタンが働いている。どち
らの声を選択するかにかかっている。彼らは暴風に会い、流される
まま、なすすべなく積荷や船具を捨て、助かる最後の望みも絶たれ
ようとしていた。

その時、人々は初めてパウロの言葉に思いが至った。パウロは「す
べて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じている」
と人々を励まし、結局、紆余曲折の末、彼らは全員パウロの言葉の
通りに助かった。命拾いした。今、あなたも判断に迫られているだ
ろうか。もし自分の思いに傾いているなら、聞くべきは神の御声だ。
----------------
解決を急ぐあまり神の声を待たず、わずかな経験を優先してしまう。
その結果、神が与えてくださる解決も、平安も手にする事ができな
い。御声を聞き、信仰による勝利へ進みたい。


2015年07月21日(火)

「そこでアナニヤは出かけて行って、その家にはいり、サウロの上 に手を置いてこう祈った『兄弟サウロ・・あなたが再び見えるように なり・・』」使徒9:17



アナニヤという人物が出てくる。彼は、主に忠実な、従順な信仰者
だった。主に呼ばれた時「主よ。ここにおります」と答えている。
常に主を見上げて「お従いします」との姿勢で歩んでいる証拠だ。

主は、サウロのもとへ行くように言われた。サウロと言えば、後の
パウロであり、同胞を執拗に追う迫害者だ。そんな人物が本当に回
心したのか。もしそうでなければ、自分も殺されてしまう。アナニ
ヤは戸惑い、恐れを告げる。しかし主は、彼が異邦人宣教への選び
の器であると伝え、主のご計画を打ち明けられた。

この主の言葉をアナニヤは受け入れ、主を信じた。アナニヤは自分
を明け渡して、従った。それでサウロを訪ね、「兄弟サウロ」と言
った。このアナニヤの主への従順があったからこそ、パウロは見え
るようになった。アナニヤは恐れや不安と戦い、どんなに勇気が要
ったことだろう。しかし主を信じて従った。そして主はアナニヤが
従う事を知っておられた。だからこそ重大な任務にアナニヤを選ば
れた。

主の御心を実現させるのは、私たちの従順だ。主はそれを求めてお
られる。あなたも今、目の前に御心が示されているだろうか。主は
あなたを信頼しておられる。パウロは主の選びの器だった。アナニ
ヤも主の選びの器であり、私たち一人〃も主の選びの器だ。遣わさ
れた場で、あなたはたった一人のクリスチャンだろうか。主があな
たを遣わしておられ、そこであなたを用いるためだ。主はあなたを
選ばれた。

・・・・・・・・・・
主はアナニヤを信頼しておられた。パウロの大伝道者として立つ陰
に、アナニヤの主への従順があった。普段からいつも「主よここに
おります」と歩んでいる信仰者だった。主の信頼に応えて、そんな
心と態度を主に向けて行けたらどんなによいだろう。


2015年07月19日(日)

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべ てに主は近くあられる」詩編145:10


ある人が、友人と一緒に浪人生活をして、翌年の受験の結果、友人
は合格、自分は不合格だった。がっくり落ち込み、心は真っ暗だっ
た。浪人生活を更にもう1年重ねると思うと、心は重く沈んだ。し
ばらくは、ぼおっ〜として、起き上がる力も無かった。そして友人
が羨ましくてならず、お祝いなど言える心の状態でない。とてもじ
ゃないが、喜ぶ者と一緒になど喜べない。

でも、それでよいはずもなく、その事も心は苦しく辛く、ついに
「神様、出来ません。でも助けて下さい」と叫んだ。すると不思議
に、今まであんなに重く、苦しかった心が何となく変わり、何だか
落ち着いて来て、一言だけでもお祝いを言おうと思えた。そう思え
た事が、心が変わった事が自分でも不思議だった。一行の短いお祝
いメールを送る事ができた。

すると相手が驚いて、自分からの、そのお祝いが特別に嬉しかった
と、ことのほか喜んでくれた。相手は、心に強く感じるものがあり、
証しになったようだった。ああ、主に従って良かったと、心から思
えた。そしてその翌年、自分も合格が与えられた。喜ぶ者と一緒に
喜べないと、落ち込んで、暗くなるだけでなく、主に向かおう。

諦めるのでなく、ごまかすのでなく、自分のありのままで、主に向
かおう。一緒に喜べない事を認めて、主に頼る時に、変えられて行
く。信仰生活の様々な問題、愛せない事、受け入れられない状況・・
自らの心を認めて「愛せません」「受け入れられません」と主に向
かおう。そうする時、主が引き受け、導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・・・
「敵を愛すること、赦すこと、受け入れること」等、こういう事は
自分の力ではできない。懲りずに何度もやってみるが不可能だ。
「出来ません」「実はしたくない者です」と認める時に、初めて主
が働かれ、事態が動いて行く。主からの助けが来る。


2015年07月18日(土)

「あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。 そして、みなあの方ほうへ行きます」ヨハネ3:26


ヨハネの弟子たちは、自分の師に向いていた皆の人気が、主イエス
の方に向かって行く事を寂しく思い、妬ましく思った。皆がどんど
ん主の方へ移って行く。自分たちの師を思うがゆえに、「みな、あ
の方のほうへ行きます」と訴える。

しかし、ヨハネは動じることなく「人は、天から与えられるのでな
ければ、何も受けることができない」と、そこに神の主権を認めて、
神の御心を受け止め、自らのおるべき場所に、満足しきっていた。
自分は花婿の友人であり、花婿が栄誉を受けることを喜ぶと。ヨハ
ネは、自分が衰え、主イエスが栄えることを心から喜んだ。

私たちの信仰人生には、時に、突然の事態に出くわす。受け入れら
れないような出来事が起きる。自分にとってマイナスであり、不都
合であり、嬉しくない事柄だ。そんな時は、どう受け止めればよい
のか。この世界を治めておられるのは神であり、完全な主権を持っ
て支配しておられる。私たちを取り巻く状況も、すべて神のご計画
による。

偶然ではなく、不運なのではなく、たまたまそうなったのではない。
完璧なご計画の内だ。人の思いと神の思いは大きく異なる。時に正
反対の事もあり、自分の思う道が閉ざされる事がある。そんな時、
周囲の人が羨ましかったり、取り残されたような寂しさを感じたり
する。
しかしそこに神を認め、ご計画と受け止めて行く時、その中で、神
の深いご愛や配慮、取り扱いを真に経験して行く。そこでしか知る
ことのできない主を経験して行く。

・・・・・・・・・・・
すべてが天から来る事を思う時、神と自分の関係だけになる。主が
与え、主が取られる。完璧なご計画の中でなされている事を思う時
に平安になる。羨望や動揺を感じる時は、とにかくまずそれを主に
持って行こう。主が受け止め、御心へと導いて下さる。


2015年07月17日(金)

「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるパ リサイ人の国の道には導かれなかった」出エジプト13:17


エジプトを出る時に、神は民に、近道であるペリシテ人の国には
行かせず、「荒野の道」へ向かわせられた。「民が戦いを見て、心
が変わりエジプトに引き返すといけない」からであり、そこに神の
配慮があった。長年の奴隷生活にあって、戦いの訓練など全く無い
民が、ペリシテとの戦いが恐怖で引き返してしまうだろう。

私たちの価値観の中に、楽な道、問題の無い道を好み、近道、早く
到達する事、順調が善との思いがないだろうか。しんどい事、困難
な事は出来れば避けて通りたい。しかし、神は近道ではなく、あえ
て荒野の道を通される。神が困難な道を通されるのだ。

神に不可能はなく、今すぐに、願っているものを与えて下されば良
いのに、延々時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる
状況がある。自分の思いやプランと全く違う道を歩ませられる。し
かし、そこを通ってこそ、忍耐や信仰が培われ、神のご愛や真実を
経験する。

そこを通る事がどうしても必要であったと後にわかる。又、訓練の
中で、明け渡す事をさせて下さる。そこを通らずしてあり得ない。
そしてその通り道には、雲の柱火の柱が伴い、行くべき道が示され
る。荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が
照らした。道中決して「民の前から離れなかった」。

今、荒野なら苦しい中も神を信じ、従って歩もう。状況でなく、神
視点で見られるよう祈ろう。主は片時も離れず共におられ、行く道
の一歩一歩を手を取って導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
神に不可能はなく、今すぐにでも願いを叶えて下さる事ができる。
しかし、あえて荒野を通される。思い通りにならない道で、信仰が
試され練られ、忍耐が培われ、成長が与えられる。その中で「イン
マヌエル」いつも共におられる主を実際に経験して行く。


2015年07月16日(木)

「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上 に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24 


たとえ話の二つの家は、一見、同じような家だった。しかしある時、
ひどい嵐が来て、その時に、二つの家の違いが明確になった。岩の
上の家は、どんなに強い風雨が吹きつけ、洪水が押し寄せても、び
くともしなかったが、砂の上に建てられた家は、倒壊してしまった。

外側、同じであったが、その違いとは、それぞれの家の土台にあっ
た。土台とはイエス・キリストであり、又、主の言葉を聞くだけで
なく、聞いて実行することであった。砂の上に建てた人も、御言葉
を聞いてた。しかし実行することが無かった。御言葉を聞いて、従
う事がないということは、実際は、御言葉を聞かなかったというこ
とになる。物理的には、聞いていたかも知れないが、心の耳で聞い
ていない。

御言葉は「従います」の姿勢がある時に、聞こえて来る。そして聞
いた御言葉から信仰が起こされる。「信仰は聞くことから始まり、
聞くことは、キリストについてのみことばによる」。「どうであれ、
従いたいです」の姿勢がある時、御言葉は心に入って来る。そして
「主であるわたしがこれを語り、これを行なう」「みことばは、あ
なたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、
あなたはこれを行なうことができる」。

語られた御言葉は、御霊の力によって行なうことができる。一つ一
つと、主に従って行く人生は、どんなに厳しい試練が来ても、立ち
行くことができて、決して倒れることがない。

・・・・・・・・・
御言葉を行なおうとする時に、どうしても祈り主に頼る。頼らずに
は実行できないからだ。祈って、頼って、行なって行く。そこで信
仰を用い、又、信仰が試され、主を経験して行く。しかし聞いて行
わなければ、祈る事も、頼る事も、信じる事も無い。変わって行け
ない。


2015年07月15日(水)

「あなたは私の隠れ場、私の盾。私は、あなたのみことばを待ち望みます」詩編119:114



ある女性が、職場で重要なポストに抜擢された。能力を必要とされ
る位置であり、自分はとうてい力不足に思えた。とても出来ないと
即座に断りたかったが、とにかくまず祈ろうと、主の御心を求めた。
主の御前で、心を静め、自分の思いをことごとく打ち明けた。仕事
が高度であることの不安、上に立ち、部下を使って行くことの不安、
本当にやって行けるのか、襲い来る心配や恐れを告げて、祈った。

そして御心求めて行くと「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。
たじろぐな。わたしはあなたの神だから。わたしはあなたを強め、
あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」との言葉が
臨んだ。その時、不思議が起きて、思い煩いと恐れで騒いでいた心
が、すうっーとなぎになり、平安になった。主の導きを確信でき自
分にはできないが、主が成し遂げて下さると、信仰によって受諾出
来た。

別の人は、深夜に田舎の真っ暗闇の林の中を、女性一人で行かなけ
ればならない状況に陥った。恐くて足がすくんで、どうしても足が
出ない。頭では行かなくてはと思うのだが、足が動かない。心の底
から「神様助けて!」と叫んだ。その瞬間「インマヌエル!」との
御言葉が臨んだ。「神我らと共にいます」。その時、心に強い光が
射して、周囲にも光が射しているのかと思うほど、喜びに心が満ち
て、通り抜けた、不思議な主を知る経験だった。
--------------
折々に御言葉が心に示され後ろ向きな心が、主の力強い御手を
信じて、前を向いて進んでいける。主は常に共におられる盾、
「あなたはわたしもの」と守り導いていてくださる。


2015年07月14日(火)

「それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか」Uサムエル12:9 


ダビデは指揮をヨアブに任せ、兵士たちをアモン人討伐に出してい
た。全軍が命がけで戦っている時に、ダビデは夕暮れ時に床から出
るという生活だった。その油断はサタンにつけ込まれた。ダビデは
バテシバへの誘惑が来た時に、主に叫び、頼るべきであった。しか
しそうせず、誘惑に身を任せ、罪に罪を重ねて行った。

「しかしダビデの行なったことは主のみこころをそこなった」主は
全部を見ておられ、主を悲しませた。王であり、誰も何も言える者
はなく、ダビデは口をつぐんでいた。しかし全く平安は無かった。
主は、ナタンを遣わし悔い改めに導かれた。主はダビデを祝福し、
豊かに与え、「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにも
っと多くのものを増し加えたであろう。

それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ」と。罪を犯
した原因が「主のことばをさげすんだ」ことによると。別訳では
「わたしの言葉を侮り」「主の言葉を軽んじ」となっている。主の
言葉を軽んじた事によって、姦淫、殺人、虚偽・・の罪に至ってし
まった。私たちも罪を犯す時、原因は心の底で「主の言葉を軽んじ」
ていることによる。

信仰を捨て、否むのではないから、自分でも気づかないまま、主の
言葉を軽んじてしまい、肉を選択し、欲望に走ってしまう。それは
主の言葉を侮り、さげすむことだ。日々主にとどまり、祈りと御言
葉の交わりにとどまる時、御霊が気づきを与えて下さる。主の言葉
から離れず、主にとどまっていよう。「あなたのみことばによって、
私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください」。
------------
雑草の種も心にあり、それをしっかり育てている。それが主のおっ
しゃっている御言葉を軽んじているとの自覚もないままに。雑草に
心を支配させてはいけない。大切に御言葉を守り従って行こう。


2015年07月13日(月)

「ダビデはナタンに言った。『私は主に対して罪を犯した』」Uサ ムエル12:13 



サウルは、「アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよ」との命令
を受けたが、それに従わず、最上のものを惜しみ、どうでもよい
ものだけを聖絶した。その結果「あなたが主のことばを退けたので、
主もあなたを王位から退けた」と、王位を退けられた。

人間的な思いでは、何だかダビデの姦淫と殺人の方が重罪に見えそ
うだが、ダビデの罪は赦され、サウルの罪はそのまま残った。サウ
ルは罪を指摘された時に、「私は罪を犯しました」と言った。ダビ
デもナタンに指摘された時に、「私は主に対して罪を犯した」と言
い、どちらも言葉は同じだ。

だが、サウルは同時に「しかし、どうか今は、民の長老とイスラエ
ルとの前で、私の面目を立てて下さい」と言った。ダビデは神の前
に真実に悔い改めた。が、サウルは口先では「罪を犯しました」だ
が、本音は「私の面目を立てて欲しい」だった。

体面も、見栄も、恥も、プライドも捨てて、神へと方向変換したい
という気持ちは無く、サウルに悔い改めは無かった。そのサウルは
王位から退けられ、悲惨な最期であった。ダビデは、悔い改めた時
に「主に対して」罪を犯したと言った。バテシバやウリヤに対して
でなく、主に対する極めて重い罪であることを認識した。

王である体面や、地位、面目を顧みずただ神を仰ぎ、神の御前に悔
い改めた。その時「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださっ
た」と罪の赦しを受け取った。そして赦された自分自身を主に委ね
て、罪を刈り取って行った。

・・・・・・・・・・・
サウルは神を恐れるのでなく、人を恐れた。「人を恐れると、わな
にかかる」のごとく、民を恐れて、道を誤った。ダビデは、罪は主
に対して犯すことを自覚し、悔い改めた。その瞬間、罪の赦しを受
けた。罪は、人ではなく「主に対して」犯す事をわきまえていよう。


2015年07月12日(日)

「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。 パリサイ人ではありません」ルカ18:14



「私は他の人々のようにゆする者、不正な者・・ではないことを感謝
します」と、自分は正しいと信じきっているパリサイ人は「他の人
と比較して」そのようではない事を感謝し、ことに隣の取税人とは
違う事を感謝し、人を裁きつつ自らを誇った。

当時のパリサイ人は道徳水準は高く、外側、品行方正であった。罪
の赦しなど必要が無いかのように。とうとうと、神に祈っているよ
うに見えるが、実は神に祈っていない。独り言であって、向いてい
るのは自分と人であった。自分に向かって祈り、人に向かって祈っ
た。そこに神は無い。自分は正しく、罪は無いというなら真理も無
いことになる。

一方取税人は、当時は税金を搾取し、誰しもが認める罪人であった。
しかし自分の胸をたたいて「神さま。こんな罪人の私をあわれんで
下さい」と祈り、それは「他の人と比較して」私は罪人だと言った
のではなかった。

取税人は、周囲の人は目の中になく、隣のパリサイ人も見ておらず、
人との比較は無く、ただ神へとのみ向かっていた。人は、神に向か
う時にのみ、初めて自らの罪が見える。認識できる。誇るものは何
も無い、ただただ無力な罪人だ。

そのため「神よ。あわれんで下さい」の祈りになる。その取税人は
祈りが聞かれ、罪赦されて、義とされて帰った。パリサイ人は義と
されておらず、宮に来て、単に独り言を言って去っただけであった。
一番肝心な事は、神に向くことだ。

・・・・・・・・・・・
取税人は自分が罪人だとわかり、恵みを受ける資格がないと思い、
神のあわれみを請うた。すると義とされた。良い行ないも、何もし
ていない。ただあわれみを求めた。自らの弱さに気づき、あわれみ
を求めるしかない事を知る時に、主の愛を、あわれみを、味わい知
る。


2015年07月11日(土)

「サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って 聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくなら ないように、あなたのために祈りました」ルカ22:31



ペテロは生涯の中で、大きな挫折、失敗があった。主が捕らえられ
た際に、裏切ってしまったのだ。自分だけは大丈夫と、自信満々で、
たかをくくっていたペテロの弱さであった。が、自分では、その弱
さに気づいていなかったのだ。しかし、主はそんなペテロのために、
「あなたの信仰がなくならないよう、あなたのために祈りました」
と。主の祈りによって守られた。

サタンのふるいであったが、このつまづきを通して、ペテロはとこ
とん砕かれた。自分の本当の姿を思い知らされた。そして、主の愛
と赦しを受け、主により回復され、立ち直って行った。ペテロは自
分自身の惨めな、取り返しのつかない失敗に号泣した。しかし、そ
のところでこそ、真に主を知り、主の変わらないご愛、赦しを知っ
た。

「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさ
い」と言われた。どんな失敗も、悔い改め、主の御前にとどまるな
ら、その失敗をも益として下さる。これは主の真実な約束だ。

ある父親は、子供が仕事上で挫折があり、辛い中にいる状況を前に
した。しかし、実は自分も同じような事を経験していた。そして振
り返る時、失敗により高ぶりが砕かれ、へりくだらされた。失敗の
中でこそ、主を知り、自分を知り、成長が与えられて来た。そし
て不思議な新しい道が開かれて来た。行き詰まりが、実は大きな恵
みであったことがわかる。
自身の挫折により、子供に何を言えばよいかがわかり、力づけてや
ることができる恵みに感謝した。

・・・・・・・・・・・
人間であるので、どうしても失敗してしまう。しかし、失敗をも益
として下さり、失敗を通して多くの事を学んで来た。悔い改めて、
刈り取りをも、主と共にできて、主のあわれみは、どこまでも尽き
ない。主のあわれみを知る時とされる。


2015年07月10日(金)

「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、 知恵のないことなのです」Uコリント10:12



ある人が、子供の頃、親の職業が嫌でたまらず、劣等感のかたまり
だったと証しした。友人たちに知られたくなくて、絶対に家にも人
を呼ばなかったと。劣等感がある時、会話もギクシャクしてしまい、
対人関係にも影響が出て来てしまう。

劣等感があるので、優越感によって、何とか自分を保とうとするが、
劣等感と優越感は根が一つなので、ぐるぐる行ったり来たりする事
になる。根が一つのため優越感だけを持って生きる事は不可能で、
必ず劣等感に陥る事になる。

あなたも劣等感に悩まされているだろうか。問題の解決はこのサイ
クルから解放されることだ。劣等感はどこから来るのか。それは人
との「比較」から来る。人との比較が無ければ、劣等感は無い。
「みじめになりたければ、比較せよ」との言葉があるが、ある人は、
それはまるでシーソーだと言った。

人が賞賛を受けるて上がると、自分はけなされているように感じて
下がる。何も自分はけなされていないのに、自分はダメだと思って
しまう。自分がほめられると、勝ったと思い、人を見下してしまう。
この比較は止める事が難しい。

しかし人にできない事が、神にはできる。神を見上げよう。そして
劣等感など無い振りをせず、ごまかさず、認めて行くことが大切だ。
主はいやし、解放して下さる。「できません」「しようとしない自
分がいます」と、祈って行く時、神はみわざを成して下さる。変え
て行って下さる。

・・・・・・・・・・・
「・・それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたはわたしに
従いなさい」の通り、主を見上げ従って行けるよう祈ろう。横ばか
り見る比較には、大きな害がある。自分は自分、主の愛に安んじ、
いつも主の御心を求めて、従って行こう。主との交わりを太くしよ
う。


2015年07月09日(木)

「人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠し た。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた『あなたは、ど こにいるのか』」創世記3:8


「あなたは、どこにいるのか」と、主のほうから、いつも私たちを
探し、語りかけられる。私たちは罪を犯した時、とがめが来るので、
聖なる主に顔向けできないと思い、主を避けて隠れる。恐れが来る
からだ。そのため主の御前に行けないと、距離をおいてしまう。

人間には善悪の知識が入ったので、罪を犯したままでは、主に顔向
けできないことを知った。その上、主が聖い方であるので、ますま
す主を避けて、主から遠ざかる。御顔を避けて、神の御前から逃げ
ると、正しい判断、思考が出来なくなって来る。

「どこにいるのか」は極めて大切だ。物理的場所でなく、主との関
係を言っている。居場所が重要だ。主から離れているだろうか。私
たちは良い者に見られたいので、外側を懸命に取り繕う。良いもの
に見せる。しかしそれは何の意味もなさない。私たちは罪を犯すと、
本能的に神を避ける。まずいと判断するからだ。

しかし、御子の十字架の贖いがあるからには、恐れなく大胆に恵み
の御坐に近づける。罪のための十字架だ。「どこにいるのか」は神
が知らないから問うているのではない。神はどこにいるのかご存じ
だ。又、裁くため、責めるための問いではない。それは、私たちの
ためだ。私たちを赦し、立ち返らせるためだ。

主のもとにいる事が、私たちの最大の幸せであり、喜びだ。何をし
ているかでなく、どこにいるかが大切だ。「あなたはどこにいるの
か」、もし今、主と距離を感じているなら、今、すぐに主のもとに
帰ろう。主は両手を広げて、待っていて下さる。

・・・・・・・・・・・
「神の近くにいることが、しあわせなのです」。この幸せは何にも
代えられない。主に満たされている時、問題が問題でなくなる。い
つも「あなたはどこにいるのか」と主との間を、関係を、問われて
いる。絶えず主のもとへ帰れる。


2015年07月08日(水)

「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、 兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは 悪く、兄弟の行ないは正しかったからです」Tヨハネ3:12



アベルの献げ物が神に受け入れられ、カインの献げ物が受け入れら
れなかった。その時、カインはひどく怒った。怒るとは、自分は正
しく、神に問題があるとする事だ。神を正しいとするなら、受け入
れられなかったということは、自分側に何か間違いがあるはず、そ
れが普通の考え方だ。

しかし、カインはそうでなかった。顔を伏せていて、間違いをわか
っていたようだ。だが、自分の側の間違いを認めず、受け入れない
神に対して怒った。神を正しいと認めないので、アベルをも認める
ことができない。そのため受け入れられたアベルに嫉妬し、激しい
憎悪を向けた。

「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる」とあり、
カインは正しく行なっていなかった。もし動機が正しければ、良心
にやましいところが無ければ、真っ直ぐに立っておれる。「あなた
が正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなた
を恋い慕っている」もし間違っているなら、悔い改めなければ、罪
に支配されてしまう。罪に罪を重ねてしまう。

カインは悔い改めなかったので、アベル殺害へと至ってしまった。
しかし、殺害後も、神は「アベルはどこにいるのか」と、尚も悔い
改めの機会を与えられる。神はあわれんでいて下さる。神のあわれ
みは尽きないのだから、憎しみや妬みがあるなら、今すぐに悔い改
めよう。赦されて、軌道修正され、方向変換し、御心へと歩んで行
ける。

・・・・・・・・・
罪はそのままでは終わらず、増幅して行く。怒りを治めるようにと、
主はカインに語られたが、従うことをしなかった。怒りを許してし
まうと、コントロール不能になって行ってしまう。主はどこまでも
あわれんでいて下さる。悔い改める時、方向変換して行ける。


2015年07月07日(火)

「悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されるこ とを恐れ、光のほうに来ない。しかし、真理を行なう者は、光のほ うに来る」ヨハネ3:20 



ある人が、隣家の主婦と辛い関係にあった。何かにつけて、言葉は
きつく、とげを感じる。いろんな事に関して、はっきりと言われ、
傷つくこともしばしばだった。隣なので逃げることも出来ず、顔を
合わせるのがしんどい日々だった。

しかし自分はクリスチャンなので、相手のどのような態度にも、礼
儀正しく、丁重に接するよう努力した。何とか良い関係をと祈り、
努力するのだが、返って傷ついてしまい、ますます落ち込んだ。辛
くて涙ながらに祈る日々が続いたが、そんな折り、夫に転勤辞令が
出た。突然の思ってもみない事だった。

引っ越し業者に荷物を頼み、自分は列車で向かった。様々な思いが
巡り、祈りつつ、今までの事を思い起こしていた。苦しい状況は変
わったのに、自分の心は何か晴れなかった。そんな中で、御霊の光
が臨んだ。相手が問題で、相手がきつい人で、自分は被害者だとず
っと思っていた。しかし、問題は実は自分で、初対面の時から、相
手を拒否し、決して心開かず、受け入れていなかったのだとわかっ
た。

自分が心頑なにし、相手を裁きの目で見ていたと。相手が悪いとし
か見えなかった。その裏にある自分の内側など全く気づかなかった。
悔い改めの祈りをした。その時、初めて心がすっきり晴れやかにな
り、平安が来た。相手の陰にある、自分の内側を御霊は照らし出さ
れ、正しく導かれる。

・・・・・・・・・・・
御霊によらなければ、自分で自分の心はわからない。御霊の光によ
って初めて、自分の姿を知る。御霊により正しく導かれる時に、心
がすっきりする。平安になる。その度にいつも主の十字架がこのた
めであったとわかる。更に主に近づけ、愛を知る。


2015年07月06日(月)

「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしの ように、新しくなる」詩編103:5


ある老齢の信仰者が証しした。「いよいよ人生の最後を迎えようと
している。今までの歩みを振り返る時に、『わたしの思いは、あな
たがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なる』
の通りだと真に実感させられている。自分の思い通りの人生では決
して無かった。それどころか思い通りにならない事の方が多かった。

しかし、『人の心には多くの計画がある。しかし、主のはかりごと
だけがなる』の通り、自分のプランが様々あったが、確かに『主の
はかりごと』が成って来たと見せられている。自分の思い通りにな
らないので、いら立ったり、混乱したり、失望したり、他と比較し
て惨めになったり、自己憐憫に陥ったりした。しかし、それは自我
が砕かれる時だった。

振り返ると、自分の思う道は閉ざされる事があったが、不思議に目
の前に別の道が開かれ、結果的に、遙かに良い道へ導かれていた。
自分が真に生かされる道であった。自分の思い描いた人生とは全く
違うが、主の思い描かれた人生を歩めて来たのだと。幸せに思える。

これが主が『私のために』備えて下さった人生だったのだと、私へ
のプランだったのだと、感謝でならない。人生の最後にこうやって、
主は最善をされると、深い感謝と喜びに溢れている。従って来て本
当に良かった。主が私のために備えて下さった人生は、ベストだっ
たと証しできる」。
主に従う人生は、紆余曲折があるが、必ず試練があるが、「良いも
の」で満たされる一生だ。

・・・・・・・・・・・
信仰人生は、本当に思い通りでない道だ。全く自分の思い通りには
ならない。しかし振り返る時、目の前で道が閉ざされた時には、別
の道が開かれ、それが遙かに良い御心の道であった。思い通りの自
分の道でなく、主の道を歩める喜びと幸せを思う。


2015年07月05日(日)

「多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった」ヨハネ 2:23



主の奇跡を見た多くの人々が、驚き、主を信じた。しかし、主はご
自身をお任せにならなかった、とある。任せるとは、信用する、委
ねる、心を与えるという意味だ。最初の奇跡をカナで行なわれ、以
後、数々の奇跡をされた。それらを見た人々は主を信じた。しかし、
主は奇跡を見て信じた人々に、ご自分を委ねられなかった。

主は人の心をよくご存じであった。奇跡により心動かされ信じても、
その感動は一時的なものに過ぎず、感情は必ず冷める。奇跡だけを
求めるなら、試練の時に必ずつまずき、離れる。土の薄い岩地に落
ちた種は、土が薄いのですぐに芽が出たが、試練が来ると枯れてし
まった。

御言葉を聞いて感動の涙を流して信じるが、都合の悪い事態が生じ
ると身を引く。軸が自分にあり、自分が中心なので、自分に得るも
のが無いなら離れて行く。主は奇跡をされた時、御言葉によって行
なわれた。主の口から語られる一つ一つの言葉によって、みわざが
成された。しかし人々は奇跡の方に夢中になる。

出エジプトを経験したイスラエルは、あれほどの神の超自然を見た
にかかわらず、すぐに荒野でつぶやいた。荒野で奇跡を見続けたの
に、結局、不信仰により滅んでしまった。主を信じるとは、主が語
られた御言葉を信じることだ。御霊により語られた言葉を心に信じ
受け入れ、そして御言葉に従う時、信仰が確かなものとされて行く。

・・・・・・・・・・・・
状況が良ければ、愛されていると思い、主を信じる。しかし状況が
悪くなると、愛されていないと思い、主を離れる。目に見えるとこ
ろによって左右されるのでなく、状況がどうであろうと、御言葉を
信じて行くところに信仰がある。


2015年07月04日(土)

「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲 望とともに、十字架につけてしまったのです」ガラテヤ5:24


私たちはキリストにあって、義人であると神は見て下さっている。
すでに義人であり、神の目から見たなら肉の中にはいない。自分の
肉はすでに十字架につけられた。しかし、同時に、天国に行くまで、
自分の内に新しい性質と共に肉の性質もあるので、別の面では「自
分を捨て、自分の十字架を負って」日々に歩む必要がある

泥酔やギャンブルや、妬みや、憎しみ等はストレートな罪なのでわ
かりやすい。しかし、醜い自我だけでなく、自分の心を占領し偶像
になっているのは、醜いものでなく、一見美しくて、良いものかも
知れない。サウル王は「最も良いものを惜しみ、つまらない値打ち
のないもの」を聖絶した。

私たちもどうだろう。最上のものを取っておいて、どうでもよいも
のだけを捨てているだろうか。時間や労力を献げて懸命に奉仕する
が、実は、一番自分を喜ばせる自己満足、誇りやプライドが、心に
潜んでいるかも知れない。「山を動かすほどの完全は信仰」を持っ
ていても、自分の栄光のためということがある。

自分を捨てなければ、結局、無に帰してしまう。御霊は、自分に死
ぬことを、日々の生活で、具体的に示して下さる。それは譲る事や、
謝罪する事であったり、批判を受け止める事であるかも知れない。
「肉を十字架につけてしまった」その信仰に立ちつつ、指し示され
た一つ一つに従って行こう。

・・・・・・・・・・・・・
すでに自分は主と共に十字架につけられた、との信仰に立って、今
日も歩もう。同時に、一生涯を通して成長へと導かれる。捨てるべ
きものを示し、又、砕いて行って下さる。避けず、逃げずに、取り
扱いにあずかって行く時、一歩一歩喜びと成長が与えられる。


2015年07月03日(金)

「・・今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決し てありません」ローマ8:1 


いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したと。
私たちは、生まれつき「罪と死の原理」の中にいた。主に喜ばれる
よう、御心を行おう、実行しようとするが、幾ら頑張ってもできな
い。「敵を愛しなさい」を実行しようと、どれだけ頑張っても失敗
の繰り返しだ。そして、そんな自分に自己嫌悪を抱き、落ちて行く
ばかりだ。

肉によって無力になってしまっている。この原理にどうする事もで
きなかったが、しかし、「キリスト・イエスにある者は、罪に定め
られることが決してない」主が十字架で解決を与えられた。その死
により、罪と死の原理から解放された。今、いのちの御霊の原理の
もとに置いて下さった。

リンゴを落とすと、地上に落下するが、もし手を伸ばし、それを手
の平で受けると、どうだろう。落ちない。落下しようとする力と別
の力が働いて、落下を止める。又、地球では、引力の法則により、
物は必ず落下するが、もし、宇宙ならどうだろう。別の力が働く。
そのように一つの原理に対抗し、別の原理を置いて下さった。それ
が「いのちの御霊の原理」だ。

自分の力で御心を歩もうとすると、絶対にできないが、御霊によっ
て歩む時、いのちの御霊の原理の中にいるので、御心を行なうこと
ができる。御霊によって敵を愛することができる。御霊の声に従っ
て行く時、御霊の力によって、御旨を行なって行ける。

・・・・・・・・・・・・・
どうしようもない「罪と死の原理」に対抗する「いのちの御霊の原
理」を備えて下さった。無力で、敵を愛せない自分自身を認めて、
明け渡す時に、いのちの御霊の原理の中に落ちる。自分の力でなく、
御霊の力によって、行なって行ける。


2015年07月02日(木)

「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したく ない悪を行なっています」ローマ7:19 



自分には悪が宿っているという原理を見い出すと。原理と言うのは
法則の事だ。この世界には、様々な法則があるが、法則とはどんな
時にも、例外なく当てはまるものだ。一つでも例外があれば、法則
にならない。私たちの中に一つの原理があると言う。「善をしたい
と願うのに、悪が宿っているという原理」だ。

パウロは新生したので、善をしたい願いがあった。信仰者には、神
に喜ばれ、神の御心を行ないたいという願いがある。新しい命があ
るからだ。新しい命は、新しい性質を宿し、神に従いたいと願う。
私たちもパウロと同様、神に喜ばれる事をしたい。

ところが、その願いがあるにかかわらず、そんな願いに反する原理
が存在する。「悪が宿っているという原理」だ。非常に困った事態
だが、これにはどうやっても逆らえない。どんなに物を上に投げた
としても、引力の法則が働いていて、物は必ず下に落ちる。これは
法則であってどうにもできない。

自分の力で良い行ないをして、しばらくは持つが、しんどくなり、
辛くなり、必ず落ちて行く。神を喜ばせる事ができない。それを徹
底的に経験したパウロは「私は惨めな人間、誰がこの死のからだか
ら救い出してくれるのか」と叫んだ。

「誰が」と言い、自力では不可能だと悟った。落ちて行くばかりだ。
主を仰ぎ、解決を見た。主は私たちを、命の御霊の原理の中に置く
事によって、罪と死の原理も現存するが、そこから解放して下さっ
た。自力でなく、御霊に拠り頼んで歩む時に、喜びが来る。

・・・・・・・・・・・・
「私の肉の内に善が住んでいない」、善をしたいが実行できない。
救われた後、嫌というほど経験する。心底出来ない事を経験し、ギ
ブアップする時、自分の力でなく、御霊によって生きることを知ら
される。安堵と平安が心に満ちる。


2015年07月01日(水)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリスト の名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



私たちは、病気になった時、どうだろう。とにかく激痛を何とかし
て欲しくて、いやされるよう必死になって祈る。祈りは切実だ。そ
して快復し、元気になると、病気の時には、あんなにすがり祈った
のに、祈りは省略になり、寝ていた間の仕事の遅れを取り戻すこと
に忙しい。こなさねばならない事柄は山積みだ。

感謝はどこへ行ったのだろう。困った時の神頼みで、問題が解決し
た時は感謝するのだが、なかなか感謝が続かない。問題が無くなる
や、自分の力で生きて行く。主が飛んでしまう。人間の弱さで、す
ぐに感謝を忘れてしまう。

いやされた十人のらい病人の箇所で、主は感謝するために戻って来
た、サマリヤ人を大変喜ばれた。「自分のいやされたことがわかる
と、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もと
にひれ伏して感謝した」。十人いやされたのではないか。九人はど
こにいるのかと。

九人は喜んで、主のもとを去り、どこかへ行ってしまった。私たち
もどうだろう。病気の時は、普通に生活できていることが、大きな
恵みだと思う。しかし元気になると、すべてが当たり前で、感謝が
吹き飛んでしまう。
入院した人が「朝起きる度に、ああ今日もこうやって起きることが
出来て感謝だなあと、心底思えます。そんなこと思った事もなかっ
たです。病気になったことも感謝です」と言った。

自分自身も「感謝できない者です」「感謝が足らない者です」と、
主の御前に祈って行こう。感謝して行く人に、感謝すべき事を与え、
増し加えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
ハピーな事は感謝できるが、マイナスの事は感謝できない。だが
「すべてのこと」について感謝せよ、に意志を向けて従ってみよう。
そこに主が働かれて、自分が変えられて、目の前の負の事態が違っ
て見えて来る。何度も経験するところだ。