2015年08月31日(月)

「そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』」ルカ17:16




十人のらい病人が、主に出会い、遠く離れた所から、声を張り上げ
て「先生、どうぞあわれんでください」と願った。すると、主は
「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と答えられた。十
人は、その時はまだ病気のままだ。らい病のまま、行って祭司に見
せるようにと言われた。彼らは、主の言葉を信じて、まだ身体はそ
のままで、直っていないのだが、エルサレムに向かって歩き出した。

すると、「彼らは行く途中でいやされた」。現状は何も変わらない
まま、ただ主の言葉を信じて、歩き出した結果、行く途中でいやさ
れた。ここで学ぶことができる。主の言葉を聞く。そして見えると
ころ病気のままだが、御言葉だけを頼りに、信じて踏み出すと、主
が働かれる。逆に言えば、「行きなさい」の言葉にそのまま従わず
に、直った事実を見てから、行こうとするなら、主の働きを見るこ
とはできない。

「信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確認
させるものです」の通りだ。そして直った十人の内の一人のサマリ
ヤ人は、祭司の所へ行く前に、まず主のもとに戻り、溢れる感謝を
献げた。他の九人は直った事に大喜びで家族のもとへ帰り、主から
離れてしまう。身体は治ったが、魂は救われないままだ。感謝を献
げたサマリヤ人は「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、
あなたを直した」と、主から、身体だけでなく、魂の救いを受け取
った。
-----------
目に見えて良くなることだけが大切なら、また試練が来ると平安を
なくす。約束のものはまだ手にしなくても、主に信頼して従う信仰
を主に求めていきたい。


2015年08月30日(日)

「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。い や、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応 じて、慎み深い考え方をしなさい」ローマ12:3


「思うべき限度を超えて思い上がるな」とある。そのすぐ後に「分
け与えられた信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をせよ」と。思
い上がるとは、偉そうな、人を見下したような姿を思い浮かべるが、
ここによると、思うべき限度を越えた態度であり、信仰の量りに応
じて慎み深い考え方をしないこと、という事になる。

それが高慢で、不健全な態度だと。本当の慎み深い考え方とは、そ
れぞれに与えられた霊的賜物を用いて、主と人々に仕えることであ
ると。つまり「慎み深い考え方」は、決して「自分はダメだ、何も
できない」と考える事ではなく、自分に与えられた賜物が、主から
与えられたものと感謝して受け取り、それを用いて行くことだ。

又、私たちは、「信仰の量り」によって、物事を見て行く。人間的
に、肉の判断で、この世の価値観で見るのでなく、御言葉を鏡とし
て、自分を見、御言葉に照らし出して、物事を見て行く。この世の
価値観は、内側は見えず、外側しか見えないので、その外側を良く
見えるように繕って行く。

しかし信仰による考え方は、見えない内側も、正直に主に、そのま
まを認めて、委ねて行くことだ。「愛したくありません」「信じる
事ができません」「従いたくありません」・・その時、その自分が受
け入れられ、愛されていることを体験し、出来るように変えられて
行くことを経験して行く。

・・・・・・・・・・・・
思うべき限度を越えないとは、御言葉に照らされた事実を直視して
行くことだ。ありのままを受け止めて行くことだ。肉は、自分など
はダメだと思い、又、逆に自分こそはと高慢になる。御霊の示し
を受け取りつつ歩むところに、謙遜があり、平安がある。


2015年08月29日(土)

「主よ。そのとおりです。ただ。小犬でも主人の食卓から落ちるパ ンくずはいただきます」マタイ15:27 


一人のカナン人女性が「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでくだ
さい。娘が、ひどく悪霊に取りつかれている・・」と叫んだ。この時、
主は彼女の信仰を試みられ、一言も答えられなかった。しかし尚も
叫び、ついて来るので弟子たちが、女を帰すようにと主に願った。

そこで主は「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところに
は遣わされていません」と断った。すると、彼女は怒るのではなく、
落胆するのではなく、心を屈折させるでもなく、何と主の前にひれ
伏し、更に願った。自分はイスラエルでなく異邦人なので、「ダビ
デの子よ」という資格無いので、「主よ。私をお助けください」と。

それでも主は「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやる
のはよくないこと」と拒否された。小犬にやれないと言われ、普通
ならプライドが傷つき、怒りや失望になってしまう。「もういい」
と心閉ざし退いてしまい、又、諦めてしまうかも知れない。しかし、
彼女は決して退かず、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主
人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と小犬と認めてへり
くだった。

主にのみ唯一の希望があり、主は必ず成して下さるとの信仰があっ
たからこそ、どこまでも頼み続けた。主はこの信仰の行ないを非常
に喜ばれて、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおり
になるように」と言われ、娘はいやされた。

どこまでもへりくだる者に恵みがあること、又、苦しみは苦しみの
ままでは終わらず、信仰を練り、成長させ、その先に神のご計画が
あることを知る。

・・・・・・・・・・・・
「小犬」と言われ「主よ。その通りです」と、女性は、まっすぐに、
御声に従い、へりくだって行った。自らの立場を認め、尚かつ主は
与えて下さると信じ、すがった。主は、それを立派な信仰と賞賛さ
れた。主の砕きに「その通りです」とへりくだれるよう、祈ろう。


2015年08月28日(金)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34 



ある女性が、家庭を持ち、フルタイムで働いていた。子供たちはま
だ小学生だった。家庭と仕事に非常に忙しい毎日を送っていた。そ
こに突然、体調不調の母親をしばらくあずかることになった。兄弟
たちはやむを得ぬ事情があり、自分しか見ることができなかった。
シフトの仕事でもあり、とても不可能に思えた。

しかし、状況は自分しかいない。不安、思い煩いや、気持ちのすべ
てをことごとく主に告げて祈った。その時に「あすの心配はいっさ
い無用。今日一日だけを考え、今日一日だけを生きるように」導か
れた。今日一日だけを考える事を決心し、明日はいっさい委ねた。
一日一日を祈りながら過ごすと、まず心が平安に守られた。

そして感謝な事に、夫や子供たちも自主的に快く協力し、出来る事
をしてくれた。家族が一つになって、明日を委ね、今日一日だけを
考え、生活して行った時に、その期間を全うできて、母親も無事帰
宅した。喜びと共に、主の力とみわざを体験した出来事だった。明
日の重荷、先の重荷を、今日担うなら背負いきれずに、今日という
日がつぶれてしまう。

明日のための思い煩いで、今日がめちゃくちゃになってしまう。不
安で心は暗く、気力は失せ、この一日を失ってしまう。あすのため
の心配は無用。あすを主の御手に委ね、思い煩いも委ねるなら、今
日という日を精一杯生きることができる。そして御心を成し遂げて
行ける。
---------------
今日の思い煩いで、喜べなかった昨日を思い起こしてみよう。感謝
する事、学ぶべきものがあったかも知れない。明日も今日と変わら
ない一日のように思えても、主が知っていて、主が心配してくださ
っている一日だ。


2015年08月27日(木)

「『・・でもおことばどおり、網をおろしてみましょう』そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」ルカ5:5




ペテロは、プロのベテラン漁師だった。それが、夜通し働いても、
一匹もとれなかった。疲れ果てた重い身体で、網を洗っていた。
少し舟を出すように、主に頼まれて、先生の頼みなので、疲れた身
体で、引き受けた。その後、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚
をとりなさい」と言われた。

誰よりも漁については、熟知している自分がとれなかったのに、と
れるわけがないと思うが、しかし、「でもおことばどおり、網をお
ろしてみましょう」と、主の言われるままに、従った。すると、網
が破れんばかりの、驚くほどの大漁であった。魚が、こんな時間に
いるはずが無いのに。主の示しに、御言葉に、従う時、主のみわざ
を見る。大きな祝福を見せられる。

私たちはどうだろう。「夜通し働きましたが、何一つとれませんで
した」。今まで何度もやったがダメだった。どれだけ頑張っても出
来なかった。堂々巡りで、何も変わらなかった・・。がっかりし、
あきらめになっているだろうか。しかし、主の口から語られる、主
の言葉は霊であり、いのちだ。成し遂げる力がある。主が語られた
言葉は、主ご自身が成し遂げられる。語られた言葉に従う時、私た
ちは変えられて行く。

主の御言葉が臨むなら、今まで何度やってもダメだったが、「でも
、おことばどおり・・」と、とにかく示しに従ってみよう。「その
とおりにすると、沢山の魚が入り、網は破れそうになった」。破格
の祝福にあずかる。
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御言葉と現実のギャップはいつもある。思い煩うなと言われても心
配し、主が成し遂げられる御わざを信じて待てない。不信仰と戦い
ながら、「でもおことばどおり・・」と御言葉を信じて進みたい。


2015年08月26日(水)

「彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した」ルカ18:43



当時、目の見えない人々は、仕事など無く、道ばたに座って、道行
く人に恵んでもらわなければ生きて行けなかった。物乞いで生活を
していた。又、生活面だけでなく、神殿に入ることができず、礼拝
することもできなかった。そこにも差別があった。何重もの苦しみ
の中にいて、何の希望も無かった。目が見えなかったので、通行人
の言葉や、道ばたで話す人々の言葉に耳をそば立てていた事だろう。

そんな中、主の様々な噂を、主のみわざを耳にしていただろう。主
が通られると知るや、大声で「わたしをあわれんで下さい」と叫ん
だ。周囲の人々がたしなめても、ますます叫んだ。一生に一度のチ
ャンスだ。これを逃せば、もう機会は無い。必死で求めた。主は立
ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられた。

「目が見えるようになることです」と答えた。求めが、明確に、は
っきりとしていた。即答できた。もし、当たりを行き交う人に「何
をしてほしいのか」と聞かれたなら、目が見えるようになどと決し
て言わないだろう。「ダビデの子」「主」にはそれができると、信
じたから、叫び求めた。

「あなたの信仰があなたを直したのです」と、彼はたちどころに目
が見えるようになった。主への信仰に、主が答えられた。そして、
神をあがめながら、主について行った。彼の真の求めは、全身全霊
で、主を礼拝することであった。
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霊の目で主をはっきりと知れるように祈りたい。ぼやけた目で主を
見ていては、ダビデの子よと心から主を礼拝できるだろうか。見え
ていない目を認識し主よと叫び求めたい。


2015年08月25日(火)

「イエスは言われた。『人にはできないことが、神にはできるのです』」ルカ18:27 



主のもとに一人の青年が来た。彼は若くして、当時ユダヤの最高議
会の議員であり、富にも恵まれていて、礼儀正しい真面目な人柄で、
申し分の無い人物だった。道徳的にも立派で、この世的には、優等
生であり、模範的な良い人であった。しかし、心は満たされておら
ず、虚しさがあり、主のもとに駆けつけた。永遠のいのちを得るた
めに「何をしたら」良いのかと。

青年の、何もかもを見抜かれた主は、彼を導かれた。「姦淫しては
ならない、殺してはならない、盗んではならない、偽証を・・」と。
すると彼は、そんな事は知っていて、小さい時から守っていると答
えた。善良な生活ならしている。もっと何かないのかと。遊女のも
とへ行った事はないし、実際に人は殺していないかも知れない。し
かし、義人はいない。ひとりもいない。すべての人は罪を犯した。

心の中で姦淫し、心の中で憎むなら殺人だ。主は、持ち物を全部売
り払い、貧しい人々に分けてやるようにと言われた。宝を天に積む
ことになると。そして、「わたしについて来なさい」と。しかし彼
は出来なかった。「金持ちだったから」と。彼にとって、財産がい
のちであった。貧しい人に施せない、隣人を愛せない現実を知らさ
れた。

罪人である自分を認めて、「人にはできないことが、神にはできる」
との主に頼ることを、主は願われた。そして主について来ることを。
主は彼を慈しんで、愛しておられた。彼は主のもとから去ったが、
私たちは「出来ません、助けて下さい」と主に求めよう。助けて下
さる。
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自分の無力を知る時、誰もがこの青年のように悲しくなるが「出来
ません」では終わらない。主の助けがあると信じて立てる。主に在
って出来る人生へともう変えられているからだ。


2015年08月24日(月)

「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」ルカ10:42



私達は、絶えず選択をして生きている。その選択によって、人生が
変わって来る。「マルタという女が、喜んで家にお迎えした」とあ
り、マルタは、喜んで主をお迎えし、喜んでもてなした。もてなす
ことは、大変尊い働きだ。最初は喜んで、もてなしていたのだが、
しかし途中で、喜びが失せてしまった。

「いろいろなことを心配して、気を使っています」との主の言葉の
通りに、マルタはあれもこれもと、色々な事に心が分かたれ、いら
立って来た。「心が落ち着かず」、思い煩い、心配し、イライラピ
リピリしている。そして、妹のマリヤが、何もしていないのを、何
ともお思いにならないのかと、主を責め、主への文句になって行っ
た。

こんなに忙しいのだから、手伝うように言って欲しいと。主に指図
までする勢いだ。喜んでしていた事が、いつしか自分の正しさでマ
リヤを量り、裁いてしまう。しかし主は「マルタ、マルタ」と愛情
を示しつつ、「どうしても必要なことは一つだけ」と、主は、マリ
ヤは正しい選択をしたと弁護された。

私たちの日常は、様々なもので溢れている。様々のなすべき事、様
々の情報、様々な対人関係で、あふれ返っている。人の労力も精神
力にも限界があり、時間も1日24時間だ。すべての事をする時間
は無いし、すべての人と付き合う時間も無い。御心にかなった「選
択」が必要だ。主を第一に、主の喜ばれる選択を祈りつつ、従って
行こう。
------------
目の前の多くの「しなくてはならない」こと。その全てに反応し、
いつしかマルタになっている自分に気付く。自分自身がストレスの
元となる前に、主の前に静まり優先順位を正し、心整えよう。


2015年08月23日(日)

「あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪 意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててし まいなさい」コロサイ3:8 


「悪いことばをいっさい口から出してはいけません」ともあるが、
職場、学校、近隣・・人の集まる所、悪口と噂話だらけだ。罪の性質
は、それらが好きで心地良い。「陰口をたたく者のことばはおいし
い食べ物のようだ。腹の奥に下って行く」とある通りだ。肉には、
美味しい食べ物だと。そうでなければ、これほど悪口が、まんえん
する事はない。

「心に満ちていることを口が話す」とあり、口が話す前に、心に思
いがある。隠れた妬みや競争心、敵対心が存在する。主に思いを打
ち明け、御霊に探ってもらい、悔い改めよう。相手への妬みや憎し
みが、相手を愛し、相手を祝福する思いに変えられるなら、どんな
に平安なことだろう。

又、悪い言葉、不信仰な言葉は伝染する。カナンに入った斥候達、
カレブとヨシュア以外の10人は、肉の目に見えるところのみを信じ、
告白した。攻め上れない、民は自分たちより強い、自分たちがいな
ごのようだと。その不信仰な言葉は民に伝染し、大きな影響を与え、
全会衆が恐れ、不信仰に陥った。泣き明かし、エジプトに帰ろうと
言い出した。

しかし、目に見えないもう一つの現実がある。主に視点を置いて、
御言葉に立ち、信仰の言葉が語れたなら、どんなによいだろう。そ
れは他者を生かし、建て上げる。心に満ちていることを口が話す。
主との交わりにより、自分自身がまず主により満たされよう。その
時、おのずと喜びの言葉が口から出て来る。

・・・・・・・・・・・・・
口に出る前に、まず心に思いがあると、御言葉が言っている。この
心が問題で、心にあるものを御霊に探っていただいて、主に打ち明
けよう。プライド、妬み、虚栄心・・何が問題なのかを示し、主は心
を変えて下さる。


2015年08月22日(土)

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによ って、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」エペソ6: 16 


サタンは、私たちの「思い」の部分に攻撃をしかけてくる。「悪魔
はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうと
する思いを入れていた」とあり、御言葉は、悪魔がユダの心に、主
を裏切る「思い」を入れた、と言っている。自分の思い以前に、悪
魔に入れられた思いであった。

しかし、ユダは気づかなかった。その悪魔に入れられた思いを受け
入れ、同意して行った。悪魔を識別して、悪魔の吹き込む思いに気
づき、悪魔に立ち向かうべきであったが、やられてしまった。ユダ
は、悪魔からの思いを拒否するのでなく、受け入れ、同意し、あた
ため、熟させてしまった。

悪魔の思いに同意して行くと、罪を生み出し、罪は死を生んで行く。
次から次へと、思いの火矢を吹き込んで来るサタンに気づけるよう、
祈っていよう。突然、心に、何の前後関係も無いのに、以前、人に
されてひどく傷ついた事が浮かんで来るだろう。それは自分が思っ
たのでなく、悪魔の放った思いの火矢だ。

なぜなら、その前までその事を全く考えていなかったのだから。そ
れを受け入れ、同意して行くと、怒り、さばく思い、赦せない思い、
憎しみが湧き上がる。心悶々状態になって行く。私たちを神から離
したい悪魔の思うつぼだ。どの思いを吹き込めば、すぐに心乱す事
が出来るかを、悪魔は的確に知っている。

吹き込まれた思いに気づけるよういつも祈っていよう。そして裁く
思い、妬み、憎しみが来た時には、まず主を呼び、主に信頼し、拠
り頼もう。主に祈ろう。悪魔だと気づけたら、対処して行ける。

・・・・・・・・・・・・
主は御心にかなった思いを、志を与えて導かれる。サタンも同じ事
をする。思いを入れて来る。その思いに従うと、御心と正反対の方
向へ向かってしまう。よく祈って、湧く思いに警戒していよう。御
霊は気づきを与えて、御心へと導いて下さる。


2015年08月21日(金)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22 




「自分をながめてから立ち去る」というのは、ただ単にながめただ
けで、何もせずに立ち去ってしまうということだ。例えば、鏡に映
った自分の顔が汚れていたとしても、ただながめるだけなので、汚
れを落とさずに、汚れたまま立ち去ってしまうことだ。

そんな態度なのでで、立ち去った後は、顔が汚れていたということ
も、すぐに忘れてしまう。結局、その人は何一つ変わらず、一生涯
ずっとそのままということになる。つまり、御言葉を聞くには聞い
ても、行なわない、実行しないということは、これと同じだと。一
生涯、何も変わることがなく、全く成長が無いと。

又、そうでなく、鏡を見るのは、身づくろいのためならどうだろう。
顔が汚れていたなら、洗顔し、化粧をし、髪も乱れていたならセッ
トし、服も点検する。そのように実際に対応する時、きれいに身づ
くろいできて変わって行く。御言葉は鏡だ。自分の真の姿をそのま
ま照らし出してくれる。

聞き従うとは、照らし出された自分の姿を知り、認め、悔い改めた
り、示された事を具体的に行なってゆくことだ。「和解しなさい」
「赦しなさい」「愛しなさい」「祈りなさい」・・一つ一つ従って
行こうとする時に、御霊は助けて力を与えて下さる。自分はどうだ
ろう。「自分をながめてから立ち去」ってしまっていないだろうか。
----------
外側は常に気をつけ健康に気を配っても、内なる人の状態はどうだ
ろう。耳の痛い御言葉は、また告白する罪はないだろうか。照らし
出された内なる自分に関心を払いたい。


2015年08月20日(木)

「その時、ダビデは言った『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください』」Uサムエル15:31



アヒトフェルはダビデの議官であったが、ダビデの息子アブシャロ
ムの謀反に荷担しているとの知らせが来た。その時にダビデは祈っ
た。アヒトフェルの助言を愚かなものにされるようにと。ダビデが
そう祈ったのは、アヒトフェルが知恵ある助言をするからだった。

当時、その助言は人が神に伺って得る言葉のようであり、ダビデに
もそのように思われた。アヒトフェルは、アブシャロムに次のよう
に助言した。ダビデのそばめの所に入るなら、父に憎まれるような
事をしている事になり、従う民は勇気を出すと。それを聞き入れ、
アブシャロムは全イスラエルの前で、父のそばめ達の所に入った。

ダビデの姦淫の罪が赦されたが、これは痛い刈り取りであった。
「白昼公然と、あなたの妻達と寝るようになる。あなたは隠れてそ
れをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、この事
を行おう」と。続けてアヒトフェルは作戦をアブシャロムに告げる。
今夜、ダビデを襲い、王だけを打ち殺し、すべての民を連れ戻すと。
しかし、アブシャロムはフシャイの意見も聞いた。

フシャイはアヒトフェルの作戦に反対し、ダビデに良いようにうま
く計った。アブシャロムは、フシャイの作戦を取り入れた。これは
神がダビデの「アヒトフェルの助言を愚かなものにして下さい」の
祈りの答えだった。主が彼の優れた謀り事を、打ち壊された。私た
ちも窮地に立つ時、まず主を求め、祈ろう。祈りにこそ何よりも大
きな力があり、神は祈りに答え、働かれる。
-------------
祈りこそ私たちの力だ。御言葉を握りしめ祈りあかす試練の時だけ
でなく日常の些細なことでも、ダビデのようにいつも祈りと共に過
ごそう。自分の浅い価値判断で動くことから守られる。


2015年08月19日(水)

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」マタイ5:12


     
       
ある人が、職場で、皆の前で面と向かって、批判され、きつい言葉
で攻撃された。それが自分としては、理不尽で、なぜそんな事を言
われなければならないのか、納得が行かず、ひどく傷ついた。更に、
人々の面前でもあり、プライドも傷つき、赦せない思いで一杯にな
り、怒りと憎しみが湧き上がった。しかし、赦せない思いは、相手
でなく自分が苦しい。苦しくてたまらない。心が重く暗く、悶々状
態だ。

しばらくして、部署替えがあり、その相手は目の前からいなくなり、
顔を合わす事も無くなった。しかし、目の前にいなくなっても、憎
しみは無くならず、辛くてたまらなかった。赦せば、自分が自由に
なる事がわかる。それなら赦せば良いと思うのだが、赦せない。忙
しい時は紛れているが、時間が出来ると、ふっとよみがえり、心に
影を落とす。楽しい時も楽しくなく、牢獄の囚人のようだった。


苦しくて、主の御前に行き、何もかも心のありのままを打ち明けた。
赦せない事、しかし苦しくて解放されたい事・・葛藤があったが、
このままではいたくない。赦すことを決心した。「赦します。助け
て下さい」と、主に意志を向けて、祈った。すると奇跡が起こり、
心の重苦しさが消えて、楽になった。嬉しくて感謝でならなかった。
赦さない心は、相手でなく、主と自分の間に隔たりをつくっていた
事に気づかされた。
-------------
敵対する思いがあれば御霊の光の中にはいない。自分自身が
闇の中、とらわれ人だ。怒りは相手に向けず主に持って行く
なら光の中だ。主が新たな思いを与えてくださる。


2015年08月18日(火)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます・・私の道をこと ごとく知っておられます」詩篇139:1

 

対人関係では、人が相手なので、どうしても様々な行き違いが起こ
る。それぞれが感情や気持ちを持っているからだ。時に、傷つけた
り、又、傷つけられたりする。特に、傷つけられると、赦すことが
難しい。心は乱れ、悶々状態になる。赦すには赦すが、もう決して
関わりたくない、となったりする。

そんな時、人に聞いてもらい同情して欲しい。こんなに自分は被害
者なのだと、どんなに苦しく辛いかをわかって欲しい。しかし、本
当の心の底はどうだろう。自分は悪くない、自分は正しい、この問
題の原因は自分にはない。つまり悪いのは相手であり、それをわか
って欲しい、同意して欲しい。

そんな古い自分が根深くある。そうであるなら、周囲の御心に沿っ
たアドバイスや、提示してくれる御言葉は、全く入らない。聞きた
くないからだ。求めているのは、自分を正当化してくれる言葉だけ
になる。しかし平安は無く、心は辛く苦しい。仕事をしていても、
家事や勉強をしていても、心は苦しくてたまらない。

平安が無いからには、相手の問題でなく、何か主と自分の間がギク
シャクしている事になる。人は全く関係なく、主と自分の関係がう
まく行っていれば、平安だからだ。まず主に心を向け祈ろう。気持
ちを告げて行こう。何が問題なのかを、御霊は教えて下さる。私た
ちの心の内をご存じだ。矯正し、御心へと導いて下さる。従って行
く時、自分が変えられる。喜びと平安が戻る。

・・・・・・・・・・・・・
心が重く平安が無いなら、自分の問題だ。何か自分に問題がある。
主と自分の間に、平安が無いということだ。主との間が正しければ、
何があっても平安だ。人を責めても何の解決も無い。主に向いて、
告げ、取り扱っていただこう。何が問題かを示し、平安へと導いて
下さる。


2015年08月17日(月)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」T サムエル1:10 



エルカナには、ハンナとペニンナの二人の妻がいた。ペニンナには
子供がいたが、ハンナには子供がなかった。しかし、エルカナはハ
ンナの方を愛していて、心がハンナにあった。それを嫉妬し、ハン
ナを憎むペニンナはハンナをいじめ、ひどくいらだたせるようにし
た。

ハンナは辛く、苦しく、泣いて食事もできなかった。エルカナの
「あなたにとって、私は十人の息子以上の者ではないのか」との言
葉は、的はずれで、ハンナの内側の苦しい悶々を理解しようとの姿
勢もなく、慰めにならなかった。夫にもわかってもらえず、ハンナ
の苦しみは募った。

ペニンナはハンナを攻撃し、いじめたので、ハンナは一見被害者で
あったが、しかしハンナにも、ペニンナへの羨望、妬み、張り合い、
恨み、怒りがあったはずだ。双方が苦しかった。当時、不妊は神に
祝福されていないとの迷信があり、それが一番辛かったかも知れな
い。

ハンナはどこにも救いがなく、主にとことん祈ろうと心を決めて、
祈りのために立ち上がった。感情をぶつけ、激しく泣き、長く祈り、
心を注ぎ出し、憂いといらだちを吐き出した。悲しみ、怒り、苦し
み、惨め、妬み、不安、煩い、神に向き合い、自分に向き合い、奥
底の気持ちを洗いざらい告げて行った。

そして祭司から「安心して行きなさい・・」願いが叶えられるように
との言葉をもらい、ハンナは変わってしまった。顔が別人のように
なり、すっきりし、平安になり、食事ができた。心の嘆き、憂い、
苦しみを、主のもとに携える時、平安に変えて下さる。

・・・・・・・・・・・・
行き詰まる時、行くべき先は主のもとだ。苦しみも悲しみも痛みも
嘆きも受け止めて下さる。人に言えない心の何もかもを主に祈る時、
心がすうっ〜と平安にされる。瀬戸際は祝福だ。心底の叫びで主に
触れ、主を経験して行く。


2015年08月16日(日)

「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くす る者は高くされるからです」ルカ14:11


主は、結婚披露宴に招かれた時に、上座に座ってはいけないと言わ
れた。もっと身分の高い人が来るやも知れず、その時、招待主が来
て、その人に席を譲るように言ったなら、末席に着かなければなら
なくなる。恥をかくことになると。肝心な事は、席を決めるのは、
自分ではなく、招待主だと。

最初から末席に着く時、招待主にもっと上席へと言われたなら、皆
の前で面目を施すことになる。自分を高くする者は低くされ、自分
を低くする者は高くされると。水は低い方へしか流れないように、
恵みは低い方へ流れる。自分を低くしたいと思う。しかし末席に着
いたとしても、自分を低くしたと心の中で誇るなら、自分を高くし
ている事になる。

又、末席にいるが、上席に着く人々を内心裁いていたらどうだろう。
又、人の手前、腰を低くするなら、更に高慢になって行く。強固
な自我にぶち当たり、自分で自分を低くできない事に、自分ではど
うにも出来ない事に気づいて行く。そして真に末席に着くために、
主が砕いて下さる事を知る。主の砕きがなければ、どうにもならな
い事がわかって行く。砕きは非常に痛いが感謝できるようにされる。

自分の思い通りにならない事態が起きる。プライドが傷つき、惨め
な思いになり、挫折する。しかし砕かれ低くされた所へ、恵みは流
れ込む。主が末席へと連れて行かれるが、そこは平安と恵みに満ち
た場だ。

・・・・・・・・・・・
人を意識すると、自分を高く見せたい、見られたいと思う。関心は
ただ人の目にどう移るかだけで、主がまるで飛んでしまっている。
十字架の死にまでへりくだられた主、こんな自分のために命を捨て
て愛して下さったお方を覚えたい。


2015年08月15日(土)

「そこでペテロは・・イエスの言われたあのことばを思い出した。そ うして、彼は出て行って、激しく泣いた」マタイ26:75



私たちの人生で最も危険な時は、私たちが弱い時ではなくて、自分
に自信がある時だと言われている。主が「あなたがたはみな、今夜、
わたしのゆえにつまずきます」と言われた。だがペテロは、自分は
大丈夫!との自信があり、主の言葉に反論した。「全部の者がつま
ずいても、私は決してつまずきません」と、自信満々であった。

主が「今夜、鶏が鳴く前に、三度、わたしを知らないと言う」の言
葉に「ごいっしょに死ななければならないとしても、知らないなど
は決して申しません」と言い切った。自分の力に頼っていた。しか
し、主が捕らえられた時に、二人の女中に「イエスと一緒にいた」
と言われ、二度とも否定した。三度目に否定した時に、鶏が鳴いた。

まさに主の言葉の通りであった。同時に主はこんな言葉も与えてお
られた。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、
あなたのために祈りました。立ち直ったら、兄弟たちを力づけ」る
ようにと。ペテロはいかに自分が罪深く、弱いかを知らなかった。

自分の本当の姿を見せられた。人よりも信仰深い、自分の方が上、
そんなプライドは主の十字架をしゃ断する。ペテロは主を愛してい
るが、恐れのために主を否んだ本当は弱い自分、惨めさに気づかさ
れた。情けない自分、あの号泣がペテロの本当の姿だった。主はご
存じで、ペテロにそれを教えるがために通された。悔い改め、砕か
れたペテロは、主の言葉の通り、立ち直らされ、諸教会のリーダー
として仕えて行った。

・・・・・・・・・・・
自分で自分の弱さは、なかなかわからない。主の様々な取り扱い、
砕きを通して、初めて自分の弱さを知る。自分の弱さがわかるから
祈りに持って行ける。自らの弱さを認めて祈るその祈りは聞かれる。
自分の弱さがわかることが何より感謝で、祝福で、成長だ。


2015年08月14日(金)

「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる」ローマ12:19 


人から批判され、攻撃されたり、又、傷つけられたり、裏切られた
りすると、憎しみが湧き、復讐したくなる。赦せない思いでいっぱ
いになり、こんなにも傷ついているので、むしろ仕返しが正当に思
えてしまう。又、言葉で攻撃されると、言い返したいと思う。一言
言い返したい。すっきりしたい。ここで言わなければ、相手は図に
乗ると思う。

しかし、これは肉からの思いで、そこで言い返すなら、感情的な争
いになり、売り言葉に買い言葉となる。取り返しがつかず、冷静に
なると必ず後悔する事になる。攻撃されたら何倍にも反撃し、これ
ならとどまる事がない。しかし主は「自分で復讐するな」「神の怒
りに任せよ」と言われる。「復讐はわたしがする」と。

この神の言葉が信じられないので、神は何もしてくれないと思うか
らこそ、自分で報復しようとする。それは、主の前に自分が立ちは
だかり、主のされるわざをとどめる事になる。自分に悪を図る相手
への怒りを、主に委ねよう。神の怒りに任せよう。完全に正しい方
が、正しい裁きをして下さる。

そして更には、攻撃して来る相手に、愛で立ち向かえと。「もし敵
が飢えたら食べさせ、渇いたなら飲ませよ」と。悪に悪で報いずに、
親切をもって報いよと。そうするなら、彼の頭に燃える炭火を積み、
相手は良心の呵責に罪を示される。赦せない思い、怒り、憎しみを、
そのまま主のもとにもって行き、聞いていただいて、主の裁きに委
ねよう。そうできるよう御霊の助けを求めよう。
------------
胸のすくような復讐を願うが、祈る時間を置き神の報いに任せてい
こう。神の時に正しい報いがあり、神のゆえに御心に従うなら、
その思いも報われる。サタンと肉を喜ばす反撃を回避しよう。


2015年08月13日(木)

「人はみな草のようで・・草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」Tペテロ1:24 



対人関係で問題が起きて、心が苦しくなる事があるだろうか。人か
らの言葉が、ひどく気になり、不安になり、又、面と向かって攻撃
されたり、批判されたりする事があるかも知れない。心暗くなり、
沈んでしまう。よく考えてみて、もし自分の側に、落ち度があるな
ら、悔い改めることが必要で、又、相手に謝ることが必要だ。

しかし、幾ら考えても、自分に落ち度が見受けられないなら、御言
葉に目を向けて行こう。自分が落ち込むのは、自分の中で、人の言
葉が、神の言葉より上になっていて、人の言葉を最重要視している
からではないか。神の言葉と人の言葉と、どちらが大切なのだろう。
御言葉でなく、自分が、人の言葉に振り回されていた事に気づく時
に、平安が戻る。

御言葉のほうを受け取り、御言葉を握っていよう。御言葉を通して、
人からの批判や目の前の状況を見る時に、神視点で、人の言葉や状
況を見ることができる。心に平安が無いなら、心が辛く苦しいなら、
神の言葉を脇にのけ、人の言葉を受け入れているだろうか。

「人はみな草のようで・・」人の言葉は草のようだと。草はしおれ、
花は散る。「しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない」。
今、心が辛くて、平安が無かったなら、自分の言葉や人の言葉に影
響されていないだろうか。永遠に決して変わることのない、神の言
葉こそ、心に目を向け、心に受け入れよう。
-----------
人の言葉は簡単に自分の価値をアップダウンさせる。それにより自
分の声が自分を責めてくる。一番長く聞いている言葉は、誰の言葉
だろう。主の尊い血により贖われた私たちに、語ってくださる御言
葉を心に入れよう。


2015年08月12日(水)

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」箴言14:4 




牛や馬を使って、農業をしていた頃は、牛や馬を飼育しなければな
らない。牛舎や馬小屋は日々汚れる。常に掃除し、えさをやり、糞
を片付けなければならない。毎日、毎日、骨の折れる作業だ。重労
働であり、手がかかる。しかし、牛や馬は、農作物の収穫のために
は、どうしても必要不可欠だ。それによって収穫ができる。しばし
ば余りの大変さに、牛さえいなければと思う。飼葉おけを汚したく
なければ、牛や馬はいないほうが良い。

しかし、「牛の力によって収穫は多くなる」。多くの収穫を得るた
めには、牛や馬は重要な存在だ。人の手だけでは、収穫に限りがあ
る。同様に、私たちは、何かを成し遂げようとするなら、犠牲が必
要とされる。手間ひまかかり、面倒で、煩雑なこともあり、様々な
関わりが出て来る。まさつが起き、問題も起きてくる。しかし、牛
がいなければ、何の手間も、面倒なこともないが、収穫は全く期待
できない。そのように、私たちも喜びや感動や成長がない。

人生、ひたすら問題の無い事、安穏無事だけを願うなら、飼葉おけ
はきれいなままだが、豊かな収穫を得ることはない。苦労の後の喜
びを味わう事もない。今、何かすべき事が示されているか。骨が折
れ、手間がかかるだろうか。あるいは、対人関係の関わりだろうか。
難題があるかも知れないが、しかし、豊かな収穫が備えられている。
目の前の、御心に従おう。
-------------
事を成そうとすると骨が折れストレスもあるだろうが、労苦を避け
ていたら主にある豊かな充実感も主の栄光も知り得ない。避けたい
導きがあるなら、今朝この御言葉に学ぼう。


2015年08月11日(火)

「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます・・主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです」ヤコブ5:11



「忍耐」を表わす言葉には、「〜の下に、とどまる」との意味があ
るそうだ。日本語で、忍耐と聞くと、耐える事、忍ぶ事、「苦しい
事があっても、両腕で頭を抱え込んで、苦しみが、頭の上を過ぎる
のをただ待つ」のようにイメージするかも知れない。消極的な諦め
の感覚があり、ただじっと我慢するように感じる。

しかし、聖書の意味はそうでなく、前向き、積極的、信仰的に、
「希望」をもってとどまることだ。誰しも辛い事からは逃げたい、
避けたい。しかし、とにかく逃げずに、その試練の下に、とどまる
時、信仰者として成長を与えて下さる。「・・その忍耐を完全に働
かせなさい。そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります」。

その試練の下に、とどまり続ける時に、成長して行くと。ある人が、
職場で、困難な仕事と対人関係に、厳しい局面に陥った。顧客に、
批判や文句で罵倒されたり、辛い場面に何度も折れそうになった。
しかし、祈りの内に、どうであれ、主の御心に従いたいと願った。
とにかくは、この苦しい事態の下にとどまろうと覚悟を決めた。

祈りに祈って、事態を受け止め、主に仕えるように、相手に仕えて
行くと、困難な中に、心の奥底に、揺るぐ事のない主の平安が与え
られていることを経験した。そして、その後、プロジェクトは成し
遂げられ、困難は終わった。しかし、逃げなかった事で、信仰に一
歩前進が与えられた。
----------------
いつも平安でいるということは、試練を避けて楽に過ごすことでは
なく試練の中でも信仰によって不平や不満から守られている人では
ないだろうか。主に頼り困難の終わる日に、成長を遂げていたい。


2015年08月10日(月)

「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれが立ちはだかることができよう」箴言27:4 




ある人が、職場で、周囲の指導に当たって来た。そんな折り、過労
で健康を害し、入院静養になった。退院し、職場に戻った時に、別
の人が指導を担当していた。忙しい部署であり、有難く感謝した。
が、人々が皆、その人の方に集まるのを見て、寂しく、妬ましく感
じたのだ。自分はもう必要ないのでは。自分のほうが熟練なのに、
何で?嫉妬が渦巻いて、心が辛くなった。

又、同じように、ある人は、クラブの部長をし、技量も一番自分が
上と自他共に認めていた。けがをしてしまい、迷惑をかけるので部
長を降りた。数ヶ月後、回復して復帰すると、新部長を中心にすべ
てが回っていて、そこは本来自分の場所と思うと、妬みがどうにも
ならなかった。それを通して、外側良い人である自分の、どろどろ
の内側を見せられた。

どちらも、全然幸せでなく、苦しくてたまらなかった。妬みは、自
分に与えられているものを忘れさせ、自分に無いものだけに目が行
く。ますます自分で心を狭め、辛くなる。この苦しみから解放され
たい。妬みを通して、自分の「罪」を知った。主の御前に心の何も
かもを打ち明け、悔い改めた。

一人の人は相手を「感謝します。」と信仰によって祈って行った。
もう一人の人は、「相手を祝福して下さい」と、やはり意志を向け
祈った。「自分の肉を・・欲望と共に十字架につけてしまったので
す」の信仰に立ち、続けて行く時に、御霊の助けにより、自分の心
が変えられて行くことを経験した。心が平安にされた。
-----------
妬みを主の前に認めていけたら感謝だ。問題は相手ではなく自分の
内側で、妬みに支配されている闇に主の関与を祈ろう。主が与えて
くださっている祝福が見えないとき、苦い思いがないかよく祈って
いこう。


2015年08月09日(日)

「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。 ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。 みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられ なかったからです」ヘブル4:2 



御言葉を聞く時に、聞き方に注意せよと言われている。イスラエル
の民は、皆、モーセから神の言葉を聞いていた。主は、乳と蜜の流
れる地、カナンへ導くとの約束を与えられていた。しかし、民は、
聞いた言葉が「信仰に結びつけられ」なかった。そのため、最後ま
で神を疑い、目に見える様々の苦しい状況を見るばかりで、主の約
束を信じようとはしなかった。

結局は、不信仰によってカナンの地に入れずに、荒野で滅ぼされて
しまった。何のためにエジプトを出たのかわからない。モーセは神
の言葉を語った。聞く側に問題があった。サラも、アブラハムに、
子供が与えられるという神の言葉が、信仰に結びつけられなかった。
そのため、自分に子供ができないので、奴隷ハガルによって、イシ
マエルを産み出してしまった。

どんなに素晴らしい御言葉を聞いても、信仰によって、自分の心に
結びつけられなければ、何もならない。信仰持たないで、御言葉を
聞いても、何の祝福も無い。信仰は、神の言葉と自分を結びつけて
くれる。御言葉を信じる時に、神の言葉は、自分の内で、力となり、
いのちとなり、湧き上がる。

御言葉を信じて行く時に、御霊が私たちの心の奥底に働いて、自分
が変えられて行く。そのために、聞いた御言葉を、実際に、行なっ
てゆく事が大切だ。その時に、神の栄光が現わされて行く。

・・・・・・・・・・・・・
御言葉を漫然と聞いていると、わかっているようで、わかっていな
かったりする。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」「あなたを
罪に定めない」を信じたなら、どんなに喜びと平安に溢れるだろう。
実は信じていないことが問題かも知れない。自らのありのままを主
に告げて行こう。主は、無いところに与えて下さるお方だ。


2015年08月08日(土)

「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わ たしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです」 ヨハネ6:63

                     
      
信仰人生で、様々な試練を経験する。ある時には、次から次へと臨
んで来る。ある人は、今まで一生懸命に建て上げて来たものが、崩
れるという厳しい試練が臨んだ。落ち込んだまま、体調も崩し、な
かなか立ち上がれず、うつ症状に陥った。休息を取り、伏せってい
た。聖書を読んだり、祈ることもできず、何も考えられず、ぼおっ
〜とした状態で日々を過ごしていた。

そんな日々を重ねる内に、少しづつ心身が落ち着いて行った。信仰
者である子供も心配し、デボーションの本などを渡してくれた。数
ヶ月経た頃、段々気持ちも落ち着いて、聖書を読んでみようと思え
た。

すると、今まで全く何も感じられなかった心に、「あなたがたの父
なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なもの
を知っておられる・・」との御言葉が語られ、響いて来た。主が、今
までの状況も、心の内も何もかもをご存じで、ご計画があり、今後
も導いて下さると信じることができた。

そして、「だから、こう祈りなさい・・御名があがめられますよう
に」。これらの事もすべて益とされて、御名が崇められるようにし
て下さると、信仰が与えられた。主からの、いのちの言葉が臨んだ
時に、再び立ち上がることができた。回復が与えられ、新しい力が
湧いて、再び建て直し、建て上げるために主に在って労苦して行け
た。

・・・・・・・・・・
主が話して下さることばは、霊でありいのちだ。主のひとことがあ
れば、どんな中でも生きて行ける。そのことばには力があり、かが
んでいる者が起こされる。萎えた者に気力を与え、立ち上がらせて
くれる。「ただ、おことばをいただかせてください」と祈り求めよ
う。


2015年08月07日(金)

「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」詩編33:11




「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているか
らだ」、主は私たち一人一人に計画を持っておられる。私のために、
主が立てておられる計画がある。一見、リストラや病気や別離や様
々な悩み・・マイナスの事で、災いに見えても、災いでは決してな
く、平安と将来と希望のためのものと言われている。

そして「・・すなわち、神のご計画に従って召された人々のために
は、神がすべてのことを益としてくださる」、自分は神のご計画に
よって召された者とされているので、自分の人生の「すべて」のこ
とを益として下さると信じることができる。そうであれば、「主よ、
あれをして、主よ、これをして下さい」「主よ、あっちに行って下
さい」「主よこっちに来て下さい」ではなく、「主の私へのご計画
は、何ですか?」と問うて行く事は有益だ。

ある人が、救われて信仰生活が始まってからも、今まで培われた生
き方が抜けず、自分で良いと思う目標を掲げては、懸命にひた走っ
た。しかし思うようにはならず、成果もなく、行き詰まり疲れ果て
てしまっていた。だが、主が自分のために、「ご計画」を持ってお
られる事を知り、自分で良いと思うことは、一旦おろして、主のご
計画を切に祈り求めて行った。

すると一つ一つ目の前に示され、導かれて行った。不思議が起きて、
転職や、新しい関わりや、なすべき事が示されて行き、そして実が
結ばれて行った。主のお心を問うて歩む人生の幸いを知った。
-------------
様々な祈りを神に献げるが、自分視点で見ていると、すでにご計画
の内に備えられている多くの祝福が見えていないかもしれない。逆
境の中、失敗の中でも、信仰を持って主を見ていたい。


2015年08月06日(木)

「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない」ルカ11:46 



ある人が、親しい後輩から悩みを聞いてた。対人関係のトラブルの
悩みを聞く中で、冷静な判断をしてあげたいと、相手が話すしりか
ら、「それは、君も悪いよ」「君の〜〜の態度が悪いよ」「君の〜
〜の言動はまずいよ」と話を折ってしまった。又、相手が話すと、
「それは、〜〜した方が良かったね」「もっと〜〜の対応をすべき
だったね」と、自分では善意で、良い解決を図ろうと、懸命に助言
したつもりだった。

しかし、相手はキレてしまって、「先輩は、何も悩みを聞いてくれ
ない!ああしろ、こうしろと、正論ばかりを言って、気持ちが全然
休まらない。いらいらしてしまう」と、親しいので本音を言ってく
れたが、大変なショックだった。自分としては、相手を思い、気持
ちが楽になるよう、助けになりたいとの思いだっただけに。しかし、
実際は、正しさを押し通したところ、荷を軽くするどころか、更に
重荷を負わせてしまった。

パリサイ人たちは、「言い伝え」を守れない人たちを、さばくばか
りで、助けの手を伸べることはなかった。主は、自分の正しさで、
人を苦しめていないかと言われる。主は、まさにその重荷を取るた
めに来られた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わた
しのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
と。
--------------
正論を言いながら、実は誰よりもストレスの子になっていないか。
苦しむ人、悲しむ人に指一本もさわろうとしないで、どこまで行っ
ても自己満足の者ではと心を探られる。


2015年08月05日(水)

「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17 



神の御心、導きを知るために、原則があるが、まず神の御心を求め
る者に、神は喜んで御心を知らせ、神の喜ばれる道へ導かれること
を知ることは大切だ。御心に従おうとしている者に、御心を示され
る。はなから従う気が無いなら、聖なる御旨を知らされる事はない。
それゆえ、まず「従います」との態度は重要だ。

右でも左でも、御旨のままに従います、との姿勢が大切だ。まず自
分の意志を委ねることが必要だ。自分の意志がどこまでも妨げて、
御心を知ることができないからだ。しばしば、自分の確固たる思い
をすでに決めていて、神に了承印が欲しい。強い自らの思いがある
ので、それが妨げになって、御心がわからない。

意志を委ねた後、御言葉と祈りによる平安と摂理による状況から、
御霊に導かれて判断して行くことができる。御心なら、必ずそれら
が一致する。矛盾する事は無い。もし不安があるなら、続けて祈る
ことが必要だ。主は必ず示される。前後の文脈を無視して、一つの
御言葉だけを取って来る事は危険だ。

重大な事柄については、慎重によく祈り、全き平安が来るまで、早
急に事を進めない事だ。サタンは神と同じ事をする。神は御声をか
け導かれるため、敵も声をかけて来る。神のなさる事には秩序と調
和がある。調和に欠け、不安があるなら、よく見極めよう。急く事
はない。もし神の御心なら、時と共にますます確信が強められ、目
の前の門が開かれて行く。
--------------
従う態度で主に向かいたい。自分のプランでも良いですか?の思い
が明け渡せるまで平安が来ない。迷っているときは焦らず、主の導
きだけを期待して喜べるよう祈ろう。


2015年08月04日(火)

「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい」マタイ26:38



ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても自分だけは違う。自分は決
して裏切らないと言い切った。「私は」どこまでもついて行く。命
をかけても、「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」
何があっても大丈夫。ペテロは自分の弱さを知らなかった。自分に
自信があり、自信満々であった。「自分は」他の弟子たちとは違う、
そこに高慢が潜んでいた。

「シモン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通
り、ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中、眠り込んでいた。主はご自
分の姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみ
のあまり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」
と、弟子たちが一緒に祈ることを願われた。

ご自分の弱さを認められ、御父に拠り頼み、祈りに持って行かれた。
弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ行
くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペ
テロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。自覚がないた
め、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切に祈られた。

眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が致命傷だっ
た。弱さを認めなければ、祈りの必要性が無い。自分の弱さは見た
くない、認めたくない。しかし、自らの弱さを認めて、初めて祈り、
主に頼ることができる。
-------------
自分の弱さを幾つ知っているだろう。あらゆる場面で主に祈る時に
力を得る。無防備で自信過剰な者だろうか。そうであれば祈れない
ことを認めてみよう。


2015年08月03日(月)

「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」エペソ4:3


「御霊の一致」と言っている。これは、人間的な一致ではない。価
値観や考え方が合うとか、趣味が合うとか、相性が良いとかではな
い。御霊によって与えられている一致だ。主を信じた一人一人には、
御霊が内住されて、その御霊に従い、支配される事によって与えら
れる一致だ。その一致が御霊によってすでに与えられているので、
その一致を保てと。

この世の会社組織やサークル、チーム等は、一致を作り出すために
あらゆる努力をする。社員旅行をしたり、懇親会を持ったり、一致
を作るための企画だ。しかし、教会は違う。すでに一致があるので、
それを保てとの命令だ。それを妨げるのが肉だ。自己中心、自分の
思いを主張して行くなら、分裂を引き起こして行く。

めいめいが「自分が正しい」に立つ時に、起きるのは争いだ。又、
サタンは、巧妙に働いて、「自分をわかってくれない」と感情的な
亀裂を作る。だが、自分を明け渡して、主に従って行く時に、御霊
の一致が保たれる。フィラデルフィヤの教会で、兄弟愛が保たれて
いたのは、主の御言葉を重んじたからだ。

「なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことば
を守り」、教会が御言葉を土台とし、第一とする時、教会は愛と喜
びと力があった。皆が肉の思いを捨て、御言葉に立ち、御言葉に従
う時、一致が保たれて行く。自分の肉の思いか、御霊の思いか、常
によく心照らされよう。
---------------
表面上だけの肉の一致は、何かあるとすぐに分裂し、違う方向に流
されていく。自分の立場に囚われず、主の御思いを備えられている
御言葉に聞き、御霊様の思いを尋ねるなら、必ず一致を見る。


2015年08月02日(日)

「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ・・」詩編23:2



私たちの心は、たえず肉へと行ってしまう。嫌な人を見ると、愛そ
うとするのでなく、嫌っていたいし、憎しみが湧いてくる。人の言
動にカチンと来ると、まず祈るよりも、言い返したい、反撃したい
と思う。傷つけられると、何倍にもして返したい。又、主に従うよ
りも、好きな事をしていたい、楽な方を選んでしまう。

祈るよりも、テレビを観ていたいし、趣味の方へ行きたいし、しゃ
べっていたい。一日の終わりには、罪の思いでいっぱいだ。そのま
ま眠りにつき、又、朝を迎える。それを繰り返していると、どんど
ん肉の方へと流されてしまう。そして自分で気づかないまま、知ら
ず知らずの内に、主を離れた生活へとさまよってしまう。

それを押しとどめてくれるのが、主との交わりであり、祈りだ。多
忙な中、ほんの少しでも主との交わりを持つ時に、御霊は、罪を示
し、悔い改めへと導かれる。悔い改めて、赦されて、又、新たに歩
んで行ける。どんな多忙の中でも、少しの時間でも、主に心を向け
る時、霊が新たにされる。

ある人が仕事上の難題を抱え、心身すり減らしていた。疲労もたま
り、イライラしピリピリしている自分、早朝出勤深夜勤務で、祈り
の時も全く持てていない。限界を感じ、昼休みに外へ出て、公園の
片隅で、主との交わりを持った。

あるがままを主に祈り、心底の助けを求めた。少しばかりの時間だ
ったが、主に触れて、新たにされたのがわかった。心に平安が戻っ
た。喜びと共に仕事に戻れた。

・・・・・・・・・
流されていて気づかず、世の流れに飲み込まれてしまう。世の価値
観に影響され、肉の思いに流される。うすうす気づく時に、御霊の
示しをないがしろにせず、無視せず、主と交わろう。新たな力を
受けて、息を吹き返らせて下さる。


2015年08月01日(土)

「あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内 側は、強奪と邪悪とでいっぱいです」ルカ11:39


主は、パリサイ人に対して、非常に厳しい言葉を語られている。
「忌まわしいものだ。パリサイ人・・」「偽善の律法学者、パリサイ
人」「目の見えぬ手引きども」「外側は人に正しいように見えても、
内側は偽善と不法でいっぱい」・・と。主は、彼らを憎まれたのでは
なく、彼らが悔い改めることを望んでおられた。

主は内側を見られるので、幾ら外側をきよめても、何にもならない。
主が喜ばれるのは、内側の罪深さ、醜さ、憎しみ、妬み、高ぶり、
偽りを悔い改めることだ。パリサイ人は外側だけを、行ないだけを
問題にした。今の私たちは、パリサイ人を外側から見ることができ
るが、しかし、自分自身もまた、容易にパリサイ人になってしまう。

人からどう見られるかを、外見が気になって仕方がない。良い人に
見られたいので、無意識にも、良い人を演じ、振る舞ってしまう。
人目を気にして、繕ってしまうと、良い人でも何でもない自分を、
良い人だと思い違いしてしまう。そして、どんどん高慢になって行
ってしまう。

真実の自分は、妬みや憎しみ、裁き、赦せない思い、怒り、いら立
ちでいっぱいだ。これならパリサイ人と同じになってしまう。主は、
自分自身の真実の姿を教えよう、〃として下さる。礼拝メッセージ
や、学びや、デボーションの御言葉を通して、本当の自分を照らし
出して下さる。悔い改めに導いて、赦すために。それによって、偽
善に陥る事から守られる。

・・・・・・・・・・・・
外側、良い人を演じて、繕ってしまうと、内側も良い人だと、自分
で思い込んでしまう。主が愛していて下さるのは繕った自分でなく、
本当の自分だ。本当の自分がわからなくなるのは致命傷だ。いつも
内側をそのまま受け止めて下さっている主に祈って行こう。