2015年09月30日(水)

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私のとがを隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩編32:5



私たちが主を信じた時に、御霊が内住された。しかし肉の性質が取
り除かれるのではなく、御霊の願いと肉の願い、どちらもが強く働
き、私たちを引っ張る。激しい戦いを経験する。私たちはクリスチ
ャンになったからと言って、自動的に罪を犯さなくなるのではない。
むしろ罪がどんどんわかるようになる。信じる前より、自分の罪深
さをますます知る。御霊の働きだ。

二つの性質がある事で、悩む必要はない。地上にいる間、二つの性
質がかっとうして成長して行く。光があるから罪がわかる。暗闇の
中で、黒点は見えない。光である主に近づけば近づくほど、罪がわ
かり、自分の肉の部分がはっきりと見えて来る。御霊により初めて
闇がわかる。

ある人は隠れた罪があった。ずっと心は苦しく悶々としていた。肉
は強く、そこにサタンも働いてくる。苦しくて、牢獄に囚われの身
のようだった。「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てた」「私
の骨髄は、夏のひでりでかわききった」。とうとう主の御前に告白
し、悔い改めた。「あなたは私の罪のとがめを赦されました」。

赦された平安が心に広がった。そして勇気が要ったが、迷惑をかけ
た相手にも謝罪した。その時、心に踊り上がるような喜びを経験し
た。あれほど苦しかった心がすっきりした。心の闇が消えた。御霊
は罪を示され、悔い改める時、その罪は完全に赦され、自由にされ
て行く。そして主の似姿へと変えられて行く。
------------
主を知る前には意識しなかったような罪がどんどん見えてくる。そ
れも赦されていると信じるなら、主の前には正直でいよう。そのた
めにも、いつも主との満つな交わりの時を大切に守っていよう。


2015年09月29日(火)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11



サタンは全能ではない。主に許可された範囲内でしか働けない。ヨ
ブ記にあるように、「持ち物はいいが、身に手を伸ばしてはならな
い」。更にサタンが挑んで来た時には「身はいいが、いのちには触
れるな」。神は限度を定めておられる。12弟子の一人であるユダ
は、主を裏切り、銀貨30枚で主を売ってしまった。「サタンがユダ
の心に、主を売ろうとする思いを入れた」とあり、サタンが「思い」
を入れた。

ユダはサタンからの思いを受け入れた。その結果、主を裏切り、主
は十字架にかかられた。主は、サタンを阻止する事は可能だが、サ
タンが働く事を許され、そのサタンすら、主の御旨成就のために用
いられた。主こそが全知全能であり、天でも地でも、全主権を握っ
ておられる。サタンは、主を十字架の死に追いやったが、結果的に、
その十字架は人類の贖いを成就させてしまった。もう後に戻る事は
不可能で、サタンも、人類の救いの成就をどうする事も出来ない。

又、ペテロもサタンにやられてしまった。自分の弱さを知らず、自
信満々で、自分こそは命を捨ててでも、主に従って行けると思って
いた。しかし、いざという時に、主を否定してしまった。主は、そ
れもご存じの上で、ペテロの将来を見据えておられた。「サタンが
あなたをふるいにかけることを願って聞き届けられた」。ユダは悔
い改める事なく、ペテロは悔い改めた。ペテロは粉々に砕かれ、自
らの弱さを思い知った。サタンは攻撃するが、主はその上におられ、
勝利へと導かれる。
-----------------
悪魔は策略を持ってやって来る。神の力なしに勝利できない。失敗
すると「だめだ、だめだ」と落ち込ませ、祈る気力もなくさせるが
それも策略だ。祈りと御言葉ですぐに立ち上がろう。


2015年09月28日(月)

「いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神に、でしょう・・人の歓心を買おうと努めているでしょうか」ガラテヤ1:10



対人関係でどうだろう。日常の様々な人からの誘い、頼まれ事に
「ノー」が言えなくて、嫌なのに引き受けてしまう。本心は、
「ノー」なのに、人の手前、良い顔をして「イエス」と言う。段
々、心が辛くなり、重荷になって来る。強いられて嫌々している
ので、何の喜びも無い。断わるべきだったと後悔する。

しかし「ノー」が言えない自分に自己嫌悪となる。又、喜んででき
ない自分も責める。自分が腹立たしい。又、それは相手にも向かう。
恨みと怒り、憎しみにまでなって行く。辛い思いをするのは自分だ。
問題は何か。人に嫌われたくなくて、良い人だと思われたいから
「ノー」が言えない。又、相手が嫌な思いをするのでは。それを自
分が受け入れられない。

相手の歓心を買い、機嫌を取り、表面上問題は無くても、そこに全
く愛がない。喜びが無く、自分の心も虚しい。「人に嫌われなくな
い、良く見られたい者です」と、あるがまま主に告げて、「『はい』
は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」、そうで
きるよう祈ろう。

1日は24時間であり、何もかも引き受けていたなら、自分に与え
られた御心を行なう時間が無い。主は、際限無く押し寄せる、目の
前の事柄のすべてに対応されたのでなく、父の御心を行なわれた。
そして、事を行う時に、人を喜ばせたいのか、神を喜ばせたいのか、
自分の動機をしっかり考えよう。
-----------
人がどのように考えるかを恐れ「ノー」が言えないとき、主に助け
を祈ろう。祈りも無く無条件に「イエス」を言っていないだろうか。
人や自分だけに目を向けてしまう弱さをいつも覚えていたい。


2015年09月27日(日)

「すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11



信仰人生で、「時」と「機会」は大切だ。時と機会は神から来る。
「何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある」「神
のなさることは、すべて時にかなって美しい」。ベタニヤでマリヤ
は、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを割り、主の頭に注
いだ。300万とも言われている価値のあるものだ。結婚のために
と、少しづつ〃貯えたのだろう。

主の足もとに座って、御言葉を真剣に聞いていたマリヤは、ただ一
人だけ、主がこれから、自分の罪のために十字架にかかられる事を
悟る事ができた。もう間もなくである事を知り、主の葬りのために
と、感謝があふれて惜しげもなく注ぎ尽くした。これから十字架へ
と向かわれる主を、どんなにお慰めした事だろう。

何も知らない弟子たちは無駄な事だと憤慨した。貧乏な人達に施す
べきだとマリヤを厳しく責めた。しかし、主はマリヤを弁護された。
わたしのために自分にできる事をしたのだと。主はマリヤの愛の行
為を受け取られた。貧しい人はいつでも一緒におり、いつでも施し
ができる。主が言われた通り、その「時」と「機会」を逸したなら、
マリヤはもう香油を塗ることはできなかった。

この後、主は十字架へと向かわれた。いつでも「機会」が転がって
いるのではない。御霊が示される貴重な「時」がある。それを逃し
たなら、もう二度とない機会だ。今、もし御霊に示されている事が
あるなら、時と機会を逃す事なく、主に愛を表そう。

・・・・・・・・・・・
祈っていないと、「時」と「チャンス」はわからない。往々にして
逃してしまう。「時」と「機会」が来た時は逃すことの無く決断力
が与えられるように。御霊の示しを悟って、しっかり受け取れるよ
うに祈っていよう。大きな祝福が備えられている。


2015年09月26日(土)

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなた がたを選び、あなたがたを任命したのです」ヨハネ15:16  


サマリヤの女性は、5回の結婚と5回の離婚を重ね、現在は結婚で
はなく、同棲していた。彼女は心に空洞があり、虚しさがあり、そ
の孤独な心の穴を男性が埋めてくれると信じていた。そのため結婚
を繰り返した。失敗を繰り返すのだが、たまたま、この相手だから
うまく行かず、他の男性なら満たしてくれるに違いないと、思い込
んだ。その結果5回の結婚を重ねた。

しかし心が満たされる事は無かった。「この水を飲む者はだれでも、
また渇く」。主は彼女の空洞を、渇きをご存じで、彼女のために
「サマリヤを通って行かなければならなかった」。永遠のいのちへ
と湧き出る、その水を与えるために。そして彼女は変えられ、渇き
が止まった。

ザアカイも願っていた富は手に入れたが、心虚しく、寂しく、喜び
もなく、満たされる事は無かった。富は自分を決して幸せにはして
くれなかった。ひたすら主に会いたい一心で、木にまで登った。主
は、そのザアカイの渇き、虚しさ、孤独、切なる求めをご存じであ
った。「ザアカイ」と名を呼ばれ、向き合って下さった。誰にも向
き合ってもらえなかった、ザアカイはどんな思いだったろう。

主を心に迎え入れた彼は、喜びと平安に満たされた。主はザアカイ
を選んでおられた。主はあなたに目を留め、あなたを極みまで愛し、
「高価で尊い」と言われる。あなたにも渇きがあるなら、主はあな
たのその心をご存じだ。主はいやして下さる。

・・・・・・・・・・・
主は、その女性のために、サマリヤへ行かれ、ザアカイを先にご存
じで、家に泊まられた。誰にも見えない、心の底の虚しさ、寂しさ、
孤独を何もかもご存じだ。それは主ご自身しか、満たすことができ
ない。同じように渇きをいやすために、私たちをも選んで下さった。


2015年09月25日(金)

「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」マタイ6:8




「御父は、お願いする先に、必要なものをすでにご存じ」とある。
では、すでに知っておられるなら、祈らなくても良いのではないか。
これは異邦人のように、同じ言葉をただ繰り返し、言葉数が多けれ
ば良し、言葉数の問題ではないとの指摘だ。祈り倒さんばかりの勢
いで、ただ言葉が多ければ勝ちなのではない。言葉数の多い順に聞
かれるのではない。

だから言葉の繰り返しは何の益も無く、無駄だ。この世の宗教と違
い、御父はすでに必要も状況も何もかもをご存じなので、知らない
相手に対するごとく、くどくど説明する必要もない。しかし、神は
次の節で「だから祈りなさい」と言われた。ご存じだから祈る必要
がないのでなく「祈りなさい」と。

言葉数が多い少ないの問題でなく、御父とは信頼関係であり、愛の
関係だから、祈りは御父との交わりだ。子供に「一生涯すべての必
要を完璧に保障するから、いっさい語るな」と言う親はいない。親
は子供の語る言葉を聞き、いつも対話したい。親は子供を愛してい
るので、喜びで楽しみであるからだ。御父は交わりを待っておられ
る。

又、神は必要をご存じだが、私たちが自分で自分を知らない。真に
必要な物をわかっておらず、的はずれに求めていて、気づかない。
自分の栄光、欲のために求めてわかっていない。神はそれらを軌道
修正し、導き、自分自身を変えて下さる。それは祈りの実践の中で
のみ可能だ。
-----------
神が知っておられる最善のものを、祈りながら知って行きたい。自
分の願いを祈りの中で御父に差し出しながら、御心が最善だと絶対
的な信頼で祈りを終えられるのは、なんと幸いか。


2015年09月24日(木)

「彼は答えた。『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました』」創3:10



エバは、蛇の誘惑に乗ってしまい、神から禁じられていた善悪を知
る木の実を食べた。夫にも与えたのでアダムも食べた。蛇が「目が
開け・・」と言った通りに、彼らの目は開かれた。しかし、目が開
かれて見たものは自分達の裸だった。それ以前は裸でいて、どうも
無かったのに、その裸が恥ずべきものとなった。そのため、いちじ
くの葉で腰をおおった。

夫婦の信頼関係は壊れてしまった。互いに非難し合い、責任をなす
りつけ合う関係となった。そして神の声を聞いて「御顔を避け、恐
れて、隠れた」とあり、神が恐怖となってしまった。恐いから、隠
れる。「神のようになれる」とそそのかされ、善悪を知る木の実を
食べた結果、神が恐くなり、自分が中心となり、夫婦は信頼する事
ができず、本当の姿を隠すようになった。

神との関係が遮断された結果、人からの愛を求めるようになり、人
に良く見られたい、人の賞賛、評価を気にして生きるようになった。
そして弱さは悪であり恥であり、決して見せてはならないものとな
った。あるがままの姿ではおれず、人前を繕い、強く見せ、又、自
分で自分に付加価値をつけて行く、辛い生き方となった。

主の十字架はそこから救い出し、無条件で愛されている事、弱さこ
そが恵みであり、神の力が現される強みである事、全く新しい価値
観へと変えてくれる。
-----------
目が開けた後に見たものは恥じるべき裸の自分だった。人との関係
や、不確かな善悪の選択と、裸の自分をいつも見せられるが、神様
との正しい関係に帰っていけることが感謝だ。


2015年09月23日(水)

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル人4:2 




御言葉は、人の信仰を通して、初めて現実とされる。御言葉が物理
的に耳から入っても、信仰によって受け止められなければ、益にな
らない。イスラエルの民は皆、神から、約束の地カナンに導くとい
う御言葉を聞いていた。モーセを通して、沢山の奇跡を見た。又、
出エジプトの際には、パロの追っ手が迫り、絶体絶命の中、目の前
で、紅海が分かれるという偉大な奇跡を見た。

しかし、斥候が約束の地カナン偵察から戻った時に、ネガティブで、
不信仰な報告を聞いた。その時に、恐怖に襲われ、約束の地に入る
事を拒んだ。民は大声で叫び、泣き明かし、エジプトに帰ろうとま
で言い出した。何度も何度も聞いた、神の約束の言葉も何の益にも
ならなかった。信仰によって結びつけられなかったからだった。

彼らが約束の地に入れなかったのは、「不信仰」のためだった。そ
して、ヨシュアとカレブは、状況でなく、主に信頼を置き続けた結
果、約束の地に入った。神が語られた事は必ず成し遂げられる。約
束は実現する。神は真実な方だ。「信じた私たちは安息にはいるの
です」。

状況に飲み込まれそうになる自らの弱さも、主はご存じだ。弱さの
まま、主の御前に行こう。「あわれみを受け、また恵みをいただい
て、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づ
こう・・・」その時に、主は助けて、信仰を与えて下さる。
----------
御言葉を信じて行こうとすると信頼しきれない不信仰が来る。不信
仰に引っ張られると、ますます平安がない。何度も経験済みだ。
その弱さを主に差しだし、御言葉を信じ主の平安を歩もう。


2015年09月22日(火)

「わたしはあなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います」ヨハネ14:27





ある人が職場で、身近な人々の、対人関係の争いに巻き込まれ、戸
惑いの状況にいた。どの人も、知り合いであるだけに、心を痛めて
いた。しかし、人の感情はどうにもならず、話し合うほどに、分か
り合えるのではなく、反対に更にもつれて行く現実を経験した。人
間の力では、どうにも出来ない状況を前に、祈りに祈り、そして主
に委ねた。すると不思議が起きて、心がすう〜っと平安になった。

自分の描く思いはあるが、祈って委ねたので、もし、自分の思い通
りにならなくとも、主が思われる最善をして下さると、信じる事が
できた。そして、祈って示された通りに、自分に出来る事を行なっ
た。すると何と、それが用いられて、突破口になり、事態が良い方
向に向かい、解決へと導かれて行った。その取り扱いを通して、
「主の平安」を経験した。

状況は何も変わらない中、思い煩いや心配から解き放たれた「主の
平安」が心に満ちた。別の人も、自分では何もどうにも出来ない窮
地に陥った。自分の力を越えていた。思い煩いや不安で体調も崩し
てしまった。自分の無力を徹底的に思い知らされた。ギブアップで、
初めて真に主に頼れた。心底主に拠りすがって、主に明け渡した。

すると不思議が起きて、あんなに苦しかった心が、平安になってし
まったのだ。あの胸の重苦しさが消えた。どのような形であれ、主
が最善をして下さると信じられると。自らの無力を知り、主に委ね
る時に、平安が与えられる。
------------
御霊は助け主として私たちと共にいてくださっている。目先の状況
に悩まされる中で御心を尋ねて行くとき、必ず真実に導いてくださ
る。明日のことを知ることができないけど、平安だ。


2015年09月21日(月)

「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」詩編102:17 



ある人が、脱サラをして、個人で仕事を始めた。それも聖日礼拝を
守りたいがためだった。祈りに祈って、主の導きを確信しての事だ
った。何もかもが初めてで、祈りつつ主に頼り、進めて行った。
そんな時にアクシデントが起きた。仕事上、銀行、事務所、取引先
を何軒も回り続けていた時に、ふとセカンドバッグが無い事に気づ
いた。どこかに置き忘れてしまったようだ。

そこに通帳、印鑑、現金、証書、小切手・・全財産が入っていた。
もう頭真っ白になり、すべての足どりをたどるが、幾ら探しても無
い。どこで無くしたかもわからない。経験の無い事に着手で、何も
かも初めてでわからず、全財産も持ち歩いていたと。すべて失うな
ら、これから先どうしていいかわからない。もしかして御心を間違
ったのか。絶体絶命の中、祈りに祈り、何時間も祈り続けた。

こんなに祈った事は無かった。祈り続ける中、どうなったとしても、
主がおられる。「決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」
と言われる。どうなっても、良くして下さると思えて、心が落ち着
いて来た。すると電話が鳴り、警察からだった。良い人に拾われて
いた。人生、何が起きようと、頼るべきお方がいる。窮地に必ず御
手をのべて下さる。まず、主を呼び求めよう。確かに答えて下さる。
------------
失望と落胆に沈む時、主を呼び祈ろう。この現状のなかで「しかし
主よ。あなたはとこしえに御座に着き」の、主が聞いてくださる安
堵を得る。主はいつも真実であわれみ深い。


2015年09月20日(日)

「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずから せようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10


信仰人生で、主は試練を与えると、はっきり言っている。この世の
宗教は、試練を回避するための信心だが、私たちの主は違う。「主
はその愛する者を懲らしめ」「受け入れるすべての子に、むちを加
え」「あなたを苦しめ、あなたを試み」・・必ず試練があると。むし
ろ試練が無い方が心配だ。「懲らしめを受けていないとすれば、私
生子であって、本当の子ではない」。

試練で、自分にはどうやっても、どうにも出来ない事態にぶち当た
り、初めて人は自分の弱さを知る。真に自分の弱さを知れば、神に
頼らずにはおれない。頼るは神のみで、拠りすがるばかりだ。でき
る事はそれだけだ。その時に神の恵みに気づく。それが神に近づく
ことになる。

ある人はどうしても受け入れ難い相手がいて、嫌いで顔も見たくな
い。しかし心は苦しく、心に鉛があり、平安は無く、しんどくてた
まらない。同期のその相手が昇進した。羨望と妬みも来て、余りに
も苦しく、主の御前に心注ぎ祈った。信仰の導き手との祈りの時に
話すと、「相手の祝福を祈ろう!」と言われ、「え!」とひいた。

絶対に無理と、心固まったが、しかし苦しい。長い長い沈黙の後、
決心して、たどたどしく、「彼・を・祝福・して・下さい」と祈っ
た。すると不思議が起きて、鉛が溶けて、心に平安が臨んだ。御霊
の働きを感じた。祈りの答えだとわかった。

主は試練を与えるが「苦しめ、試み、あなたをしあわせにするた
め」と。「ご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめる」と。
そして必ず「平安な義の実を結ばせる」と。

・・・・・・・・・・・・
苦しみや悩みは、私たちを主のもとに連れて行ってくれる。それら
は必ず益となり、ご自身の聖さへと導かれる。苦しみの時は、祈り、
とにかく御霊の示された通りに従おう。従って良かったと必ず思え
る。


2015年09月19日(土)

「ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた・・こ の人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願 った」ルカ23:50

 

十字架で息を引き取った主を、アリマタヤのヨセフが引き取り、亜
麻布で包み、新しい墓に、主を埋葬した。丁寧に葬られることで、
「罪のために死なれたこと」「葬られたこと」が明確な事とされた。
ヨセフは、ピラトのもとへ行き、遺体の引き渡しを願った。彼はサ
ンヒドリンの議員であり、社会的地位のある人だった。

議員達は皆、主の処刑を願った。その中で、そういう行動は、地位
をも危うくするかも知れず、しかしピラトの前に出て、申し出た。
ヨセフは「立派な正しい人」「議員たちの計画や行動には同意しな
かった」「神の国を待ち望んでいた」「彼もイエスの弟子になって
いた」とある。

「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠してい
たアリマタヤのヨセフ」、信仰を公にしない、隠れ信者だった。そ
のヨセフが、勇気を出して、遺体引き取りを申し出た。十字架を見
つめて、十字架の前に立った時に、表明しようと決意した。彼の信
仰であり、真実な思いだったろう。彼にできる事をした。そして信
仰を公にする機会となった。

ある人は、信仰について親の強固な反対があった。恐れと思い煩い
でいっぱいだった。しかし、十字架が迫った時に心溶かされ、犠牲
を払う覚悟で、主の御前に信仰告白をした。その時に、心は平安で
満たされた。その後、主は両親との関係も良くして下さった。主の
十字架を前にする時、自分自身も、自分にできる事、決意する事が
示されだろうか。勇気をもって従おう。

・・・・・・・・・・・・
じっと目をそらさず、主の十字架を見つめ続ける時、心に与えられ
る思いは何だろう。新しい一歩前進か、何か献げるものか、払うべ
き犠牲か、それとも砕かれた心でへりくだる事だろうか。示しの通
りに従う時、大きな平安を経験する。


2015年09月18日(金)

「あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」マタイ20:23



ヤコブとヨハネは、主に、御国で右と左にと、右大臣、左大臣の地
位を求めた。又、その母が彼らのために、主のもとに来て、ひれ伏
して願った箇所もある。親子で高い地位を願っている。そしてこの
事を聞いた他の弟子たち十人が腹を立てた。ということは、彼らも
同じように考えていたからだった。自分たちが出し抜かれた事に腹
を立てた。主の十字架を直前に控えていたにかかわらず。

又、弟子たちは「だれが一番偉いかと論じ合っていた」。主が十字
架に向かう、その時にも、弟子たちの心は「一番偉いのは誰か」
「自分が、自分が」でいっぱいだった。弟子たちだけでなく、この
誘惑は誰にでもある。相手を、自分の思い通りに動かしたい自己中
心な肉の欲求がある。これは相手を支配することになる。

又、肉の性質には「人から評価されたい」「人から認められたい」
「人から賞賛されたい」「人の上に立ちたい」との誘惑がある。そ
れが強くなると、周囲が競争相手になってしまう。張り合いが出て
くる。そこに愛は無い。「自分が、自分が」の世界だ。

そのため主は「先に立ちたいと思うなら、しもべになりなさい」と
言われた。そして「互いに愛し合いなさい」と。主、自らがしもべ
となって、自分を無にして、十字架の死にまで従い、私たちの救い
の道を開かれた。それによって私たちに愛がわかった。この主を見
続けて、主のお心に従って行けるように。
----------------
人目につかない働きがいかに栄光に富んだものかは、人の評価に目
を向けていては悟れない。いつも仕えられる者は寂しい。どこまで
も、しもべより仕えられたい者だからこそ吟味していたい。


2015年09月17日(木)

「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です」ヨハネ14:16 




ある人の証しだ。教会へ行く前に、自分で聖書を読んでいたのだが、
心に響いて来ることがなく、頭の理解でしかなかった。良い、立派
な教えであって、教訓としか思えなかった。しかし教会に行くよう
になって、学びを受け、主を受け入れた時から変わった。祈りによ
って、聖書を読むようになり、ただの良い教えが、神の生きた言葉
に変わった。心に御言葉が響いてきて、とどまるようになった。

自分を生かしてくれる言葉であり、以前とは全く違った。「この事
がわかりません。教えて下さい」と率直に、素直に祈る時に、バイ
ブルクラスから答えが来たり、礼拝メッセージで解き明かされたり、
祈りの答えに驚かされた。まさに主が心の内をご存じで、生きて働
いておられることを実感した。御霊の働きだ。

悩みの時に、御言葉示し、指針が与えられる。又、御言葉から慰め、
励ましが来る。問題の中で、祈っていると、これはこうすれば良い
との示しが与えられる。又日々の生活で、平安が失せると、何かが
違い、平安の方向へと歩めば良いことを知らされる。どんな問題の
中でも、苦しみの中でも、必ず御霊が助け、導いて下さる。

「助け主・・父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あな
たがたにすべてのことを教え・・わたしがあなたがたに話したすべ
てのことを思い起こさせ」その御霊は内に生きておられる。
---------------
私たちの内に生きておられる御霊によって、自分からは決して出来
ないことをする。現実に翻弄されても、すぐに導き返され主の喜ば
れる方を行こうとする。御霊様との交わりを絶えず意識していたい。


2015年09月16日(水)

「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」詩篇50:15 


ある人が、教会学校で子供たちに御言葉を教えていた。一人の子供
が反抗的で、クラスを妨害して来る。祈って、愛して行こうとする
が、又、次の週、クラスの子供たちにちょっかいをかけたり、対応
するのだが、反発して来る。つい心の内でイラ立ってしまい、主に
祈り続けていた。毎週続き、他の子供たちにも影響あり、解決策も
見当たらず、困り果て、主の御前に切に祈った。

その時に、ふと訪問してみようと思えた。母親は、快く対応してく
れて、心を割って様々話してくれた。彼の生い立ち、境遇を聞き、
その過酷さに、よくこれくらいで済んでいると思えたほどだった。
彼への見方が変わってしまった。それ以後、導かれて行った。御霊
の働きだった。

ある人は、職場で、きつく当たって来る人がいた。自分はクリスチ
ャンだからと、穏やかに接していたが、言葉は刺さり、傷つく。辛
くて祈っていた。祈りを重ねていた時に、「お茶に誘う」との思い
が与えられた。御霊の導きを感じ、従いますと決心し、相手は嫌な
のではとも思うが、行動に移した。

すると普通にOKで、その交わりの中で、そのとげが、彼女の複雑
な経歴から来ていることがよく理解できた。別に自分への個人攻撃
でもないことも理解できて、気にならなくなってしまった。平安と
された。大きな事、小さな事、とにかくまず祈りに持って行こう。
主を呼ぼう。御霊は導いて下さる。示された事に従うと、平安に変
えて行って下さる。
-------------
主に祈るなら主は御霊の導きにより助けてくださる。主を呼び求め
よう。今、直面している心配事や重荷は、もう主に明け渡せている
だろうか、自分だけで悩んでいるだろうか。


2015年09月15日(火)

「・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです」ヘブル12:10



信仰人生送る中で、なかなか自分が変わらない、変えられて行かな
いと感じる。そこには、強い自我があり、自我が砕かれていない事
が原因だと言われる。生まれつきの強情な性質があり、自我は自分
の思いを通したい。肉は神に反抗する。神に服従できない。

「肉にある者は神を喜ばせることができません」。神はこの自我を
砕きたいがために、様々な状況に私たちを置かれる。対人関係しか
りだ。あえて、自分に批判的な人を目の前に置かれる。どうしても、
うまく行かない人を置かれる。学校で、職場で、近隣で、経験する
だろうか。

嫌な同僚や上司がいて、職場を変わるが、次の職場でも同じだ。嫌
な相手はどこにでもいる。又、目の前に、どうにも出来ない状況が
起きて来る。これらの時に、状況が悪い、相手が悪い、あれが悪い、
これが悪いと、人を責め、環境のせいにし、言い訳に終始するが、
苦しい、辛い状況は何も変わらない。

更に、状況を変えよう、相手を変えようと悪戦苦闘するが、状況は
変わらず、相手も代わらず、そして、自分自身も全く何も変わらな
い。むしろ、状況はもっと悪くなって行く。その時に、これは状況
や相手の問題でなく、もしかして「自分の問題?」と気づいて行く。
そこに気づくや、道が開かれて行き、解決へと導かれて行く。「私
を変えて下さい」の祈りは答えられる。
-------------------
思い通りにならない事態であぶりだされる自我は、主の前に差し出
せば必ず主が関与してくださる。くり返し来る嫌な問題は「私を変
えて下さい」の祈りの課題ではないか。


2015年09月14日(月)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12



ある人が、職場で部署替えになり、新しい仕事場に移った。しばら
くした頃、同性と親しくなりたいと思い、食事に誘ってみた。そし
て、相手から応答があるものと待っていたが、何のコンタクトも無
く、更に待ってみたが、全く気配も無かった。すると、段々心に疑
いが出て来て、自分の事を嫌いなのでは、避けられているのでは、
何か相手に嫌われる事をしたのか、初対面から好かれてなかったの
か、猜疑心が心に生じ、心暗くなり、ネガティブな思いがどんどん
膨らんで来た。

そこで祈っていると、サタンが吹き込んで来る思いだと気づき、も
う一度声をかけてみようと思えた。すると、「あ、ごめんなさい」
と退社後も私用に追われる多忙の日々で、一段落したらと思ってい
たと。彼女に何の他意も無かった。勿論悪意なども。サタンは偽り
者であり、偽りの父だ。根拠の無い偽りの妄想を吹きかけて来る。
無いものを有るものと出来るので、よく心していよう。

又、「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で
訴えている者」とあり、サタンは、兄弟姉妹を裁いたり、非難した
り、悪く思う、そんな思いを吹き込んで来ると。サタンは疑心暗鬼
を持ち込む。妄想や誤解を吹き込み、一致を壊し、疑いや争いを引
き起こそうとする。背後のサタンの悪巧みを見破るために祈ってい
よう。
-----------
今、失望、落胆している問題にどんな根拠があるのか、状況から目
を離し、破壊者で偽りの父サタンと会話していないか吟味してみよ
う。そしてネガティブな思いが来る度、主を賛美していよう。


2015年09月13日(日)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時 がある」伝道3:1



神には偶然は無く、すべての事に、定まった神の時がある。神の意
志があり、すべてが量られて、ご計画のもとに、事が行なわれてい
る。振り返ると、信仰人生で、神の時を逃してしまう事があったか
も知れない。神の機会をとらえる事ができず、失敗してしまったり、
また逆に、神の時を待てないで、自分で動いてしまい、時期尚早の
ため、実を結べなかったりする。

経験あるだろうか。ある人が証しした。教会で会堂建設をずっと祈
っていた。そんな中、うってつけの土地の値段がぐっと下がった。
願ってもない事で、これぞ神の導き、今こそ、「神の時」だと思え
た。すぐに購入しないと、売れてしまう、再度、値段が上がるかも
知れない。早く、早くと焦る。しかし、牧師は、がんとして動かな
かった。

この好機を逃してどうすると焦るが、土地の価格の問題でなく、教
会内の一致が大事だと。そして、やがて神の時が来て、価格的には
遙かに高い買物になったが、それを上回る十分な満たしが与えられ、
神の栄光を拝したと。

ある教会では、同じく祈りを積む中で、突然目の前にふさわしい土
地が与えられ、今が時と、すぐに決断するよう導かれた。そして必
要がすべて備えられた。私たちも信仰人生の中で、すべてに時があ
った事を見い出すのではないだろうか。何事にも定まった時がある
ので、時を見分けられるようにとの、祈りが大切だ。

・・・・・・・・・・・
「神の時」があることを覚えよう。決心するに時があり、行動する
のに時がある。最もふさわしい神の時だ。神のチャンスを逃すこと
がないよう、とらえる事ができるよう祈っていよう。神の素晴らし
いみわざがなされ、神の栄光が現わされる。


2015年09月12日(土)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩編37:5

 

主は「求めよ。そうすれば与えられる」と言われる。「あなたがた
のものにならないのは、あなたがたが願わないから」だと。まず、
求めよと。しかし私たちの願う事が、神の御心でなければ叶えられ
ない。だが自分の願いが、御心に叶っているのか、そうでないのか
わからない。そんな時は、そのまま祈って行けば良い。

主は、私たちの願いが御心でなければ、その事も示し、導いて下さ
る。祈りを軌道修正し、御心にかなった祈りへと導かれる。御心で
なければ、止めて下さる。ある人が、ある志が与えられ、主の御心
だと思え、祈り、進もうとしていた。しかし身体面の弱さがあり、
家族、親族はそれを大変不安に思い、皆、反対した。身体を気遣う
ゆえだった。

しかし本人はどうあっても御心だと信じ、進もうとする。周囲は心
配するがゆえに反対する。御心を行なおうとしているのに、反対さ
れ、行き詰まる状況に、せっぱ詰まり、主の御前にことごとく打ち
明け、祈った。その時に、心の奥を照らされた。余りに反対される
ので、反発心があり、意地になって進もうとしている自分に気づか
された。自我だと示された。

悔い改めて、今一度、主にすべて明け渡した。すると主の御心のま
まで良いと思えて、全き平安になってしまった。主が止められるな
ら、それもOKと心底思えた。するとその後、奇跡が起きて、心か
ら語る言葉に、家族が受け入れてくれて、了承してくれ、志を行な
うことができたのだった。

・・・・・・・・・・・・
願いを求めて行く時、動機が間違っている事がある。その時に、祈
りを主に委ねて行くなら、御霊が内側を照らし、動機をきよめて、
軌道修正し、導いて下さる。それにより、又、新たに主のご愛や真
実、導きを知って行く。


2015年09月11日(金)

「彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが好きで、また会堂の上席や宴会の上座が好きです」ルカ20:46



律法学者たちは、外側は主のためと言いつつ、実は自分のために善
行をしていた。ただただ、人から良い人と思われたいがためだった。
自分たちは特別の人間だとのプライドがあり、そう思いたかった。
彼らは、人々の目を恐れ、人々の目を気にして生きていた。神でな
く、人が相手だった。

律法学者と同様に、私たちにも肉の性質があり、人に認められたい
根深い肉がある。ある人が、仕事上の重要な地位に抜擢され、内心
嬉しかった。そんな時、結婚式のレセプションで、司会者が、自由
な雰囲気の中で、管理職の面々にコメントを求めて回った。自分も
とっさにコメントを考えた。しかし、自分には求められず、その時
にムッとなり、怒りが湧いた。

帰宅後、主と交わる中で、「会堂の上席や宴会の上席が好き」の通
り、皆の注目を集め、良いかっこうをしたい、人前での見栄であり、
虚栄心である事を示された。会堂や宴会の上席自体が問題なのでな
く、自分の栄誉のために求め、人の上に立ち、人前で面目を立てた
いがために望むことが問題だ。

真の問題は、心が空虚であり、その満たされないところを、人から
愛されたいがために、人に認められること、人からの評価、賞賛で
満たそうとする。それで満たされる事はないので、更に人の賞賛を
求めて行く。主の愛、主から受け入れられ、認められていることを
知って行くこと、空虚を満たすものは、主のみだ。
---------------
人の評価、人の前を気にし人によって満たされている自分は、主の
前にどう映っているだろうか。動機をよく吟味し、主に満たされる
喜びで人と接していきたい。


2015年09月10日(木)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である・・』」Uコリント12:8 




パウロは、とげが与えられていた。どんなに苦痛であったろう。取
り去られるように、真剣に祈り求めた。これさえ無ければ、もっと
主のために働けるのに、真剣に徹底的に祈った。しかしその祈りの
答えは「ノー」だった。主は、とげを取り去らないと。

なぜなら、主の恵みは十分であり、取り去るより、そのままの方が、
更に主の栄光が現わされると。自分ではどうにもできない、どうに
もならない「弱さ」の中にこそ、主の力が完全に現れるのだからと。
神の力は「弱さ」の中にこそ力強く働くと。私たちにも、弱さが与
えられているだろうか。

「この事さえなければ、私の人生はどんなにスムーズだったか」
「こうでさえなければ、私は幸せだったのに」難しい対人関係に
「この人さえいなければ」「この嫌な人さえいいなければ、こんな
に苦しまずとも、こんなに悩まずに済んだのに」、辛い侮辱、又、
迫害、困難、何度も何度も「この事を、あの事を取り去って下さい」
と祈る。何とか状況を変えて下さいと。

しかし取り去られないだろうか。苦痛でたまらない、その中で、パ
ウロは切なる祈りをささげた。徹底的に祈った。とげが与えられる
時には、とにかくまず主に祈ろう。御心なら取り去られ、御心なら
そのまま置かれる。そしてその中で、神の力と栄光を現わされる。
その弱さに向き合う時、キリストの力におおわれ、強ければ決して
知ることのできない、主の恵みを知る。
-------------
パウロのように「私の恵みはあなたに十分である」との明確な答え
を主からいただくまでは、くり返しとげに悩まされてしまう。何故
なのか何を学ばされているのか、弱さの中から主に問い続けたい。


2015年09月09日(水)

「そこでイエスは言われた。『十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか』」ルカ17:17 



主によりいやされた十人のらい病人が出て来る。当時らい病は、
不治の病で、人々から隔離され、歩く時は「汚れた者です」と唱え
なければならない。社会からは見捨てられ、絶望的な日々だったろ
う。主がらい病をいやされた噂を耳にしていて、彼らは主にすがっ
た。らい病人は人前に出られない。彼らは、遠く離れた所から声を
張り上げて「あわれんで下さい」と主に求めた。


遠くからあらん限りの大声で、必死に願った。応えられないと思う
相手になら、はなから求めはしない。その切なる求めに、主は応え
「行きなさい。自分を祭司に見せなさい」と。いやしを判断をする
のは祭司だった。その時は、まだらい病のままだ。らい病のままで
祭司のもとへ出発する。主の言葉を信じて、行動した時に、途中で
らい病がいやされた。


普通なら、いやされてから行くが、彼らはみことばを受け取るや、
出かけた。これは彼らの信仰だ。この信仰が応えられて、途中でき
よめられた。そして十人の内、たった一人の異邦人だけが、主に感
謝するために戻って来た。九人はユダヤ人だ。いやしが叶えば、本
音のところもう主に用はなかった。


いやしだけが目的だった。それを得るや、大喜びで、主のもとを去
った。しかしサマリヤ人は、主のもとに戻り、御前にひれ伏した。
その時、いやし主との関係に立ち返ることができた。「立ち上がっ
て、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」この信
仰が彼を救った。感謝する時、主をあがめることになる。
----------
癒された結果よりも、誰が癒してくれたかこそが大切だ。それを知
ったなら、順境も逆境の中も、全てが益で感謝だ。どんな時も主を
崇め感謝していられる。


2015年09月08日(火)

「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました・・私はほんとに愚かなことをしました」Uサムエル24:10 




ダビデが人口調査をしようとした時に、部下ヨアブが「王は、なぜ
このような事を望まれるのですか」と止めようとした。しかしダビ
デは聞く耳持たず、決行させた。そして報告を受けた時に、ダビデ
は良心のとがめを感じた。ヨアブの阻止を通し、神の語りかけがあ
ったが、ようやく自分の間違いを悟った。「大きな罪を犯して、愚
かなことをしてしまった」と悔いた。

人口調査そのものは罪ではない。それは必要な事だ。では何が問題
だったのか。ダビデの動機だった。必要のための人口調査でなく、
ダビデがしたのは兵力調査であり、兵力を誇り、自らの力を誇りた
かった。神に頼るのでなく軍事力に頼り、自分の力に頼る高ぶりが
問題だった。イスラエルの戦いは、主の戦いだ。勝ち戦をして行っ
たが、その勝利を与えたのは主だ。自分たちによらない。

「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イス
ラエルの人口を数えさせた」とあり、サタンはダビデにつけ込み、
愚かな事をさせることに成功した。しかしその結果、疫病により七
万人が死んだ。最初の部分に「さて再び主の怒りが、イスラエルに
向かって燃え上がった」とあり、イスラエルは罪を犯していた。

神の民としてふさわしく無いものを見られた。ダビデも罪を犯した。
しかしダビデの素晴らしいところは、御心を損なった時に、悔い砕
かれて悲しみ、主のさばきと主の憐れみに身を委ねたことだった。
どんな失敗も悔い改める時、赦され、主の憐れみは尽きない。
--------------
信仰生活の中、よく失敗し罪も犯す。駄目だと思う度に悔い改めが
できることは何と感謝なことだろう。ダビデのように、罪を示され
たなら、ただちに主に悔い改めよう。


2015年09月07日(月)

「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、負いめのある人たちを赦しました」マタイ6:12 


新生しても、古い性質があり、なかなか人を赦すことが難しい。過
去の対人関係での出来事を、いつまでもこだわって恨み、相手を裁
いて、がんじがらめになっているだろうか。肉は、赦したくない。
傷つけられた人に対する嫌な思い、苦々しい思いが尾を引いてしま
う。赦せない思いは、相手への憎しみと増幅して行く。そうなると、
絶えず頭は相手の事ばかり考え、仕返しをしたい思いでいっぱいに
なる。

一番の問題は、そうなると心を神に向けることができなくなる事だ。
大問題だ。心から神が消えてしまい、思うのは、相手のことばかり
になる。結局、憎む相手にコントロールされ、支配されることにな
る。平安は無い。こんな人生で良いのだろうか。相手を赦さない心
は、苦い根が生えて、どんどんはびこり、周囲にも害毒を流してし
まう。気をつけよと。

「だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を
出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることの
ないように」。赦さない心、憎しみ、裁く思いを悔い改めないまま
持ち続けると、自分自身をどんどん害し、手がつけられなくなって
行く。解決は赦すことだ。

自分が解き放たれ、自由にされる。自分が平安になり、牢獄から出
る。赦せないのではなく、赦したくない頑なな心を認め、意志を向
け、赦すことを選択して行こう。御霊が必ず助けて下さる。心が晴
れ晴れとした喜びに溢れる。
-----------
外から来る試練は時が経つと解放されるが、内側の苦しみは自分が
自分を攻撃して終わりが無い。サタンの足場にもなる。今は赦せな
くても主が解放してくださると、そこを信じよう。


2015年09月06日(日)

「私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠 しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です」マタイ25 :25



一タラントのしもべが、主人から任されたタラントを地の中に埋め
た。主人を「ひどい方」と言っている。「こわくなったから」地中
に隠したと。しかし、主人の言う通り、銀行に預けておけば、何も
しなくとも利息が入った。実は、このしもべは、このような主人の
ために、何もしたくなかった。

預かった物は、どうしようと自分の勝手で、誰にも干渉させない。
「私が王になるのを望まなかったこの敵ども・・」との態度だ。実は、
主人を望んでいない。このしもべには、主人に対する尊敬や、愛、
主人を喜ばせたいとの心が全く無かった。主人の心が何もわかって
はいなかった。

「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集める」、要求ばか
りされて、奪い取る主人だ。もし一タラントを失いでもしたら、こ
の主人の事だ、どんなに恐ろしい事になるだろう。ただただ自分を
守りたいばかりだ。主人を勘違いしていた。

主人がタラントを任せたそのしもべへの信任、信頼、愛がいかばか
りか。「主人の喜びをともに喜んでくれ」、しもべを喜んでいる主
人だ。もし失敗したとしても、その主人のために商売しようとした
心を見て、許してくれる主人だ。

二と五タラントの者たちはそれを信じていたから、思いきり、喜ん
で、生き生きと自由に賜物を発揮できた。そして、彼らは自分のた
めでなく、主人のために働いた。「〜ねばならない」「〜でなけれ
ば罰を与える」だけの恐い神なら、神観が大きく間違っている。

・・・・・・・・・・
タラントを任せて下さっている主のご愛、信任、そこをしっかり覚
えたい。その愛と信頼に応えて、お献げして行く事を、主は見てい
て下さる。「僅かなものに忠実だったから」と「忠実」を見て
おられる。小さな事を真剣に忠実になして行く時、主は喜んで下さ
る。


2015年09月05日(土)

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたし が示す地へ行きなさい」創世記12:1


アブラムは年老いた父テラと、甥のロトを連れ、妻と共にウルを出
る。カランという町に住み着くが、父のテラは、そこで亡くなった。
するとその後、主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、
父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と。

アブラムに、神の御声が臨んだ。75歳だった。「信仰によって、
アブラムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、
それに従い、行く先を知らないで出て行った」。信仰によって、行
き先のはっきりしない旅に出た。アブラムの信仰だった。

ウルを出る時に、長い間に培われた人間関係も慣れ親しんだ環境も
捨てて、出発した。安心できて、居心地の良い居場所を出た。そし
てカランに住み着いた。だがそこにとどまらず、更に先に行くよう
に告げられた。ちょっとは休みたい、とどりたいと思ったかも知れ
ない。しかし、神の御声に、示しに従った。

私たちにも、主は、居心地の良い今の場所を出て、新しいチャレン
ジに一歩踏み出すように、言っておられるだろうか。御声が来たな
ら、従おう。先は見えないので、不安も恐れもあるかも知れない。
しかし神の御声には、ためらわずに従うことが大切だ。

「そうすれば、あなたを祝福し、あなたの名を大いなる者とする」
そこには大きな祝福が備えられている。従う時に初めて、神の御言
葉の確かさ、真実を経験して行く。神の愛を味わって行く。

・・・・・・・・・・・・
「事を実行する人は、その行ないによって祝福される」とあり、主
から示しが来たなら、実行できるよう、助けを求めて祈ろう。時に
御心はしたくなかったり、難しい、無理と思える。サタンも妨害し
て来る。祈ろう。祈って行く時に、従えるようにされる。


2015年09月04日(金)

「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい」出エジプト14:13


モーセに導かれて、苦役から救い出され、出エジプトを果たしたイ
スラエル。しかし、精鋭のエジプト軍隊が追いかけて来るや、人々
は恐れて、主に向かって叫び、モーセにも文句をぶちまけた。「荒
野で死なせるのか。エジプトから連れ出して、一体何という事をし
てくれたのか」試練の時には、人間の本音が出て来る。

モーセは主に祈った。そして言った「恐れてはいけない。しっかり
立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見よ」
と。目の前は紅海、後ろに追っ手。前進も後退もできない。前を見
ても、後ろを見ても恐れに襲われる。私たちも絶体絶命に陥ること
がある。身動きも取れず、恐れと不安でいっぱいになる。しかし、
主は、いつも現状、現実はしっかりと受け止め、その上で、だが
「恐れるな」と言われる。

なぜなら、主のご計画の中であり、主の御手があり、行き詰まりを
通して、私たちを練り、鍛え、成長させて下さる。耐えられない試
練は無く、必ず脱出の道が備えられている。「主があなたがたのた
めに戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」。窮地に
陥った時に、よくしてしまうのが、主に信頼するのでなく、自分で
動き、自分で走り回る。自分で何とかしようとする。

しかし主は「しっかり立って、黙っているように」と。自分で動く
のを止めて、主を信頼し、主に委ねる時、紅海に道を造られたよう
に、目の前に道を造って下さる。悩みと問題の中で、主に委ねるな
ら、道の無い所に道を造り、解決へと導かれる。
------------
今の状況が主からのものであると受け止めたとき、恐れながらも
しっかり立ったと言えるのではないか。何をしようか・・より主の
ご計画を悟れるように祈りたい。


2015年09月03日(木)

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」詩編62:8




時に、どうしてこんな事が?と思うような試練が臨む事がある。
苦しいばかりだ。そんな時には、どうすれば良いのか。ハンナを通
して学ぶ事ができる。ハンナはつのる憂いといらだち、苦しみ、悲
しみを、主に持って行った。「私は主の前に、私の心を注ぎ出して
いたのです」。

不妊の悲しみ、周囲の目の辛さ、ペニンナのいじめ、傷ついた心、
怒り、「なぜ?どうして?」との思いのすべてを、御前に注ぎ出し
た。「くちびるが動くだけで、その声は聞こえなかった」その祈り
は、うめきとなった。真実な主の御前に、砕けた心で、真実をもっ
て祈る時、私たちは必ず変えられる。試練こそ、真実な主に、真実
に近づく機会だ。

試練の苦しみの中にいたハンナが変えられて行った。それは「心を
注ぎ出した」時からだった。悩み、苦しみを吐き出し、激しく泣き、
長く祈った後、祭司エリから「安心して行きなさい。願いが叶えら
れるように」との言葉を受けた。その時に、ハンナはすっかり平安
になった。帰って食事ができて、顔は、もはや以前の暗い表情では
なかった。苦しみ、悲しみ、煩い、すべてが消えて、安らかになり
輝いた。新しい歩みが始まった。

その解決はどこから来たのか。「主の前に心を注ぎ出した」ことに
よる。そこから平安へと導き出された。ハンナの祈りによって、霊
的暗黒時代に、指導者サムエルを生み出すという、主のご計画があ
った。痛み、苦しみの背後に、深い主の計らいがある。御前に注ぎ
出して行けるように。
--------------
いつも、どんな問題でも悩むより先に主に届けよう。くり返し祈る
の中で、この思いを主が聞いていてくだっているとの確かな確信が
平安へと変わる。そして主の最善を待とう。


2015年09月02日(水)

「彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12 




主を知る以前、私たちは、人との差異で自分を量って来た。無意
識にも人と比較して来た。人がほめられると、自分がけなされた
と思う。まるでシーソーだ。誰かが上がると自分が下がる。劣等
感に陥り、自分はダメだと落ち込む。自分が上がると人を見下し、
優越感に浸る。

しかし、人と自分は全く関係が無い。何の関係も無い。人がほめた
られても、自分がけなされたわけではない。人が下がっても、自分
が上がったわけではない。これらは、心の底にある「比較」から生
じる。又、人との比較で、自分がダメだと感じるなら、頑張って成
果を出して、人から認められようとする。自分の価値を取り戻そう
とする。もし、人が認めてくれなければ、怒り、又、自己憐憫に陥
る。

人と比べる事に何の益もなく、不平不満、焦り、高ぶり、落ち込み
が生じる。人の幸せは、自分の不幸せになってしまう。どうすれば、
比較から解放されるのだろう。今のあるがまま、人と比較し、妬み、
落ち込み、不平不満に陥る・・そのままを、主に告げて行く時、主
が受け止めていて下さること、愛していて下さることに行き着く。

そして、主は一人〃に、ご計画を持っておられ、「あなたがたの内
に良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでに
それを完成させてくださる」。人との比較でなく、主を見上げて自
分に与えられた御心を行なって行く時に、喜びもって生きて行ける。
-------------
人との比較や競争に疲れ、主の元で平安を得たはずが、また何度も
比較の中に入りこみ、自分で自分を推薦したくなる。人を見ている
目を主に向け、この弱さを祈っていこう。


2015年09月01日(火)

「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」マタイ5:16




正しい良い人、又、自分が好きな人のために、「良い行ない」をす
るのは難しくない。 その人々に良い行ないをしても、当たり前の
事だ。しかし、あなたに敵対して来る人、あなたを嫌い、批判する
人、あなたに攻撃して来る人に対してはどうだろう。そのような人
に「良い行ない」をする時にこそ、あなたは輝く。光を人々の前で
輝かせることができる。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」は世で普通だ。自分を愛し
てくれる人を愛するのなら、取税人もしている。しかし、主は「自
分の敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と言われる。「だれも悪
をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、 またすべ
ての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい」と。悪をもっ
て悪に報いるのは、生まれつきの性質だ。肉は、何倍にもして報復
したい。

しかし「人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における
良心のゆえに、 悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」。
それは光を輝かせる事になる。主はあなたの光を人々の前で輝かす
よう言っておられる。自分には出来ないので、それを認め、主に頼
るなら、御霊の力によって、良い行ないができる。光は、闇を照ら
す。どんなに光が小さくとも、光は暗闇を追い払う。人々への目に
見える証しとされる。
-------------
どんな時にも、誰にでも善を行う、それを主のゆえに行っていくな
ら、世にあって私たちは特別な輝きを放つ。感情が基準ではとても
できないことだが主の御心を行うとき助けがある。実践していこう。