2015年10月31日(土)

「しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装する のです」Uコリント11:14



「野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった」と御言葉にある通り、
サタンは狡猾だ。最も狡猾なのは、光の御使いに偽装することだ。
ストレートな罪はわかりやすい。殺人、暴力、泥酔、妬み、憎しみ、
種々の欲望・・。しかし、光の御使いに、神に変装する。神と間違え
てしまうと。

一見善い事で来る。主のもとにも、御言葉をもってやって来た。主
が荒野で、サタンの誘惑を受けた時に、御言葉によって、サタンに
対抗された。するとサタンも同じく御言葉を持って来た。「と書い
てありますから」と。御言葉を曲解して来る。

ある人は、弱っている時に御言葉に向かうと、御言葉が自分を責め
立てて来ると。自分は「出来ない」「出来ない」と苦しくなり、聖
書を閉じてしまうと。聖書を読めないように攻撃する。「サタンで
すよね」。

御言葉を使って来る。恵みを排除した、「ねばならない」で攻撃し
て来る。苦しくなり、神が恐怖となり、罰と裁きの神になる。又、
サタンはしつこく誘惑して来る。粘り強く弱さにつけ込んで来る。
執拗に誘惑し続ける事によって、ついにサタンはダビデを罪に引き
込んだ。

ダビデは誘惑され人口調査の罪を犯してしまった。「サタンがイス
ラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を
数えさせた」。私たちは極めて狡猾なサタンと戦っている。絶えず
主に拠り頼み祈っていよう。主は、サタンをも利用し、私たちを訓
練し、鍛え強くして下さる。成長へと導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
信仰が進むにつれて、サタンは更に巧妙に働いて来る。ストレート
には来ない。一見問題ない、常識やこの世の価値観をうまく利用し
て来る。目的は神からとにかく離すことだ。一見良い事でも霊的
食欲が減退して行くようなら要注意だ。祈っていよう。


2015年10月30日(金)

「私のことばは、その時が来れば実現します」ルカ1:20



「求めよ。そうすれば与えられる」、主は、私たちに、祈れと言わ
れる。祈りを喜ばれる。しかし、どんなに祈っても、祈りが答えら
れない経験があるだろうか。熱心に求め、祈っているのに、答えが
無い。それは、祈りの答えには、「神の時」があるということだ。

「天の下では、何事にも定まった時期がり、すべての営みには時が
ある」「神のなさることは、時にかなって美しい」と。神が目的を
もって、答えられる時を遅らせておられる。御心に適っていないの
でなく、御心であるが、神が最善の時を定めておられる。私たちが
思う「時」と、神の「時」とは、時々異なる。神のタイミングは、
神の栄光が最高に現される時なのだ。

私たちは、しばしば「今こそ」と思うが、神のみ思いは更に高く、
深い。ラザロが死に直面していた時、マルタとマリヤはどんなに主
を待ちわび、心が急いた事だろう。主なら病気を癒す事が可能だ。
一刻も早くと、今か今かと。しかし、主は断じて動かれなかった。
尚2日もとどまられた。ラザロの明確な死を確認してから動かれた。
主の御心は病気を治す事ではなく、よみがえらせる事であった。

墓に葬られ、もう腐っているという、不可能のダメ押しのもとで、
主は奇跡をされた。ラザロを死からよみがえらされた。遅れたので
はなく、主の栄光が現される最善の「時」であった。「神の時」が
ある。すでに聞かれていると信じ、答えが目に見える形で現れて来
る「神の時」を待とう。
------------
神の時が悟れるようにも祈ろう。自分の意欲や都合で、今この時に
と思うが、そのようなものの全く及ばない神の働かれる時が来る。
信じ、期待して待とう。


2015年10月29日(木)

「私のそむきの罪を主に告白しよう。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩編32:5




ダビデはバテシバと姦淫の罪を犯したが、それを隠ぺいするために、
彼女の夫であるウリヤを殺害した。自分はトップであり、誰も何も
言う者はない。その地位ゆえ、この犯罪を隠しおおせた。しかし、
人目には隠し通せても、神の目には裸であり、神は見ておられた。

ダビデは罪を隠していた間、苦悶にうめいていた。神の御手だ。
「1日中うめき、骨々は疲れ果て、骨髄はひでりでかわききった」。
心はカラカラにかわいて苦しんだ。主はそんなダビデを見捨てず、
預言者ナタンを遣わされた。富者が貧者の大切なただ一匹の子羊を
奪った話をすると、ダビデは「そんな男は死刑だ!」と激怒し叫ん
だ。

ダビデは決して自分の事として、受け止めていなかった。他人事で
あり、罪人は、自分の罪には鈍感で、目を向けず、他人の罪には敏
感で、厳しく糾弾する。しかし、ナタンから「あなたがその男です」
と、正面からはっきり指摘された時、ダビデは逃げなかった。心砕
かれ自分の事として受け止めた。「私は主に対して罪を犯した」と、
悔い改めた。

すると「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」と罪の赦
しが与えられた。うめき苦しんでいたダビデに、全き平安と喜びが
戻った。自分自身はどうだろう。他人の罪には敏感で、厳しく、自
分の罪には鈍感で、見えていないだろうか。御霊の示しを受け止め、
悔い改めて〃歩もう。
-----------
強い嫌悪を覚える時、自分によく似たものをその人に見ている。
「そんな男は死刑だ!」と、自分の罪は棚上げにしているだろうか。
罪を主に認め、赦しを受け取ろう。


2015年10月28日(水)

「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた」ヨハネ9:1





何か問題が起こる時、必ず「なぜ?このような事が?」「どうし
て?私に?」との思いが、心に湧き上がる。登校拒否や、出社拒否
や、子供の非行や、対人関係の悩みや、様々な問題に出会す時、ど
うしても答えが欲しい、理由を知りたい思いに駆られる。「なぜ?」
「どうして?」と犯人捜しに必死になる。誰しも自分は傷つきたく
ない、だから、無意識にも自分以外のところに原因を捜し出そうと
する。

そうすると、誰かのせいになってしまう。誰かのせいにしたい。弟
子たちも生まれつきの盲目の人を見て、犯人捜しをした。「この人
が罪を犯したからか、それとも両親のせいか」と。誰の罪かと。し
かし、主は想定外の答えをされた。「この人が罪を犯したのでなく、
両親でもない。誰のせいでもない。神のわざが現れるため」と。

私たちは、人生で、「どうしてこんな事が」と思うような、突如の
苦しみをも経験する。辛い、わけのわからない所をも通る。しかし、
あれが悪い、誰が、かれが悪いと、犯人探しをするのでなく、神の
素晴らしさを知るため、神の栄光が現れるためとの信仰に立とう。

この盲人は、主を受け入れて、新しく生まれた。古きは過ぎ去り、
すべてが新しくされ、新しい人生に歩み出す者とされた。これこそ
が、主のみわざであった。主が、彼を盲目に生まれることを許され
たのは、この素晴らしいみわざを現わすためであった。主は彼を目
に留められた。
-----------
問題の中でも主を見失わずにいたい。今は解らず辛いだろう。でも
必ず意味があり、主がその中で手を取っておられることを知ってい
る者でありたい。


2015年10月27日(火)

「ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです」ヘブル4:2




イスラエルはその不信仰のゆえに、約束の地に入る事ができなかっ
た。神が約束して下さった相続地に入れず、荒野で滅んでしまった。
なぜ入れなかったのか。それは「みことばが、それを聞いた人たち
に、信仰によって、結びつけられなかった」からであった。神の約
束をずっと聞いていたのに、その言葉を信じることがなかった。

御声を聞いていながら、心をかたくなにした。彼らが安息に入れな
かったのは「不信仰」のためであったと、御言葉が言っている。
それに引き替え、ヨシュアとカレブは、約束の地に入る事ができる
と確信していた。エジプトを出た後、追っ手の精鋭部隊が攻めて来
て、目の前は紅海で、進む事も退く事も出来ない絶体絶命の状況に
なった。その時に、主が紅海を分けるという、かつてない偉大な奇
跡を見た。

その神が与えると、約束して下さったのだ。実現しないわけがない。
現地にはアナク人、アマレク人・・強大な敵がいたが、「彼らは私
たちのえじきとなる」と言った。神視点に立って、神の言葉を目の
前の事態に適用させた。御言葉を信仰に、結びつけた。だから「ぜ
ひとも、上って行って、占領しよう。必ずできる」となった。状況
に振り回されず、主を信頼したので、二人は約束の地に入った。

私たちも「もし、御声を聞くならば、心をかたくなにしてはならな
い」と。重大な御心を実現できなくなってしまう。そのためにも、
弱さをご存じで、おりにかなった助けを与えて下さる主のもとへ、
いつも恵みの御座に行こう。
------------
普段から御声を聞こうとしていないと、問題が起きても目に見える
もの聞こえるものの声に抗えない。信仰によって踏み出す勇気を祈
り、主の栄光を拝する祝福な経験を重ねていきたい。


2015年10月26日(月)

「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20



弟息子は、父のもとを去り、放縦を自由とはき違え、放蕩三昧をし
た。財産を使い果たした後、困窮し、戻って来た。父はこの息子を
「死んでいたのが生き返り」と言ったが、家出前、父のそばにいた
時から死んでいた。父との関係はしゃ断されていた。父はどんな時
も決して変わる事なく、弟息子を愛し続けていたが、弟息子の心は
父から離れ切っていた。

父には、それがわかっていたので、息子の望むようにさせた。息子
は糸の切れた凧のように、気ままに、好き放題をし、行き着く所ま
で行った。身を滅ぼし、どん底で我に返った。このままでは死んで
しまうと、父のもとへ帰る決心をした。私たちもどうだろう。御父
のもとを離れて、自分の思いで、欲望に生きてしまう。罪を犯すと、
なかなかすぐに帰れない。

どの面下げて帰ればよいのか。誰しもが、少しましになってから帰
ろうと思う。しかし、父は何を喜ばれるのか。息子が帰ったことだ。
「祝おうではないか」、父は、息子が帰ることをひたすら待ち、待
ち続け、見つけるや、父の方から走り寄って、抱き口づけした。父
は待ち続けている。

強制的に連れ戻すのではなく、説教を垂れる事もなく、ただ待たれ
る。愛は自発的、自由意志だ。自由が無ければ、愛ではない。自ら
帰るのを、ただ待たれる。私たちは何度も離れてしまう。しかし、
私たちの弱さをご存じだ。何度でも立ち返ろう。御父は待っておら
れる。
------------
御父は一方的な愛で待っていてくださる。失敗し落ち込むたびに、
もう少しましになって、わざや善行を磨いてからと思うが、御神を
離れては何も出来ないことを知る。すぐに帰ろう。


2015年10月25日(日)

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれ る人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くの です」ヨハネ5:7



病気の人に「よくなりたいか」と聞いたなら、どうだろう。よくな
りたいのは、当たり前ではないかと返されそうだ。なぜ主は、彼に
このような質問をされたのだろう。「よくなりたいか」という事は、
今、よくない、病気だという事だ。その人の現状に、面と向き合わ
させ、自分の真の願いを確認させるためだった。

「よくなることができるか」とは問うておられない。あくまでも
「よくなりたいか」であり、「そうしたいか」という意志が問われ
ている。問われた時、初めて人は自分の心に向き、探られる。「よ
くなりたいか」の問いなので、答えは「はい、よくなりたい」か、
「いいえ、よくなりたくない」だ。

しかし彼の応答はどちらでも無く、「自分には介助者がいないから
だめだ。介助者のいる者が先に降りて行く。だから自分はどうにも
ならない」だった。人のせいにし、環境のせいにして、言い訳をし
て、自分に、問題に向き合う事をしなかった。私たちも問題が起き
た時に、自分の真の状態に向き合う事をせず、言い訳ばかりだろう
か。人のせい、環境のせいにして逃げているだろうか。

しかし主は、本当に直りたいのかと問われる。主には直す事ができ
る。彼は「起きて歩け」の言葉に従った。すると、奇跡が起きた。
主は彼の内にあった信仰を引き出された。今、あなたはどうだろう。
主の言葉に向き合おう。

・・・・・・・・・・・・
現状に、自分の弱さに向き合うのは痛いので、言い訳して、逃げて
しまう。しかし、向き合って行く時に、主が働かれ、みわざを経験
する。まず「よくなりたいか」と問われる主に、御霊に心の内を探
ってもらい、向き合って行こう。新しい成長に導かれる。


2015年10月24日(土)

「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏の つぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」マルコ 14:3


マリヤは、主がもうすぐ十字架にかかる事を悟っていた。その葬り
のために、非常に高価な香油を、余すところなく主の頭に注いだ。
その香油は、労働者1日分の給料の10ヶ月分にもなるものだった。
それほど高価であったため、弟子達は、貧しい人々に施せたのにと、
無駄な事をしてと、マリヤを非難し憤慨した。

しかし、主は、マリヤのその行為にある、心をわかっておられた。
主はマリヤの気持ちと献げ物を「わたしのために、りっぱなことを
してくれたのです」と受け取り、喜ばれた。埋葬の準備にと前もっ
て油を塗る行為であった。そしてその時が、主に油を塗ることの出
来る最後の時であった。

その後、主は十字架へと向かわれた。週の初めの日の明け方、ご遺
体に香料を塗るために、何人かの女性が墓に行ったが、もう主は復
活されて、誰も塗ることができなかった。まさにマリヤは的確な時
を捕らえた。それはどんなに主をお慰めした事だろう。

マリヤは大切な香油は無くしたが、その犠牲の分、心が大きく深く
主に向かった。晴れやかな確信が深められた。大きな祝福を受けた。
時と機会を逃してはならない。マリヤはなぜその時がわかったのか。
いつも御言葉に耳を澄ましていたからだ。私たちも主をお喜ばせす
るために、日々御声に耳を傾ける事が必要だ。時と機会をとらえよ
う。献げて行く時、心が主で満たされて行く。

・・・・・・・・・・
主の喜ばれることを、御心を行なうための、的確な時と機会がある。
その機会を逸しては、二度と出来ない大切な時とチャンスだ。示さ
れた御心を行なう時、主を新たに知り、確信が深められ、主の栄光
を拝して行く。そのために、いつも御声に耳を澄ましていよう。


2015年10月23日(金)

「風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、大なぎになった」マルコ4:39


「向こう岸へ渡ろう」との主の御声に従い、弟子たちが舟で渡ると、
大変な大嵐に会い、溺れそうになった。御心に従ったので、大嵐に
会ったことになる。御心に従えば、何の問題もなく、スムーズに行
くと、何となく思っているかも知れない。御心をはずれるならまだ
しも、御心に従っているのだから、良い事づくめのはずと。

しかし、そうではない現実にしばしば遭遇する。御心に従って、数
々の問題、試練に会うのだ。この時の弟子たちも、主の言葉に従っ
て、船出した途端の、大嵐だった。それも湖に慣れているベテラン
漁師が、恐れを覚えるほどの突風だった。試練の時に、自分の本当
の姿が現れる。ここで、弟子たちの姿が現れた。

「主に従ったのに、こんなひどい目に会って」と思っただろうか。
「自分たちが死にそうなのに、主は平気で眠っている」と主に文句
を言った。自分視点でしか物が見えない。主はおられないのではな
い、同船しておられる。しかし、眠っておられる。ここで弟子たち
の信仰が試された。そして、主は「信仰がないのはどうしたことか」
と。問題は、「大嵐」ではなく、「信仰」だと言われた。

主の一言で大なぎになった。この時、弟子たちは初めて自然界をも
支配する、主の権威と力を知って大きな恐怖に包まれた。御心に従
わずに、岸におれば大嵐に会わなかったが、しかし、主がまことの
神であることを知る事も無かった。御心に従うなら一歩一歩成長へ
と導かれる。今、御心を示されているなら勇気をもって従おう。
-----------
主が私たちの人生を支配し導いておられることを突然の試練を通し
て知る。嵐の中でしっかり立っていられない自分であっても、主に
委ね頼ることを知り、向こう岸に渡れる希望が湧いてくる。


2015年10月22日(木)

「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです・・イエスは彼らの不信仰に驚かれた」マルコ6:4



主は、生まれ故郷のナザレに行かれた。安息日に会堂に入り、イザ
ヤ書の言葉を読まれた。「捕らわれ人には赦免を、盲人には目を開
かれ事を、虐げられている人を自由にし・・」素晴らしいみわざだ。
そして「今日、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり
実現した」と。何千年も前からの預言が、今日実現し、メシアが今、
ここにいると。聞いた人々は、主の口から出る恵みの言葉に驚き、
感動し、主を誉め讃えた。

しかし同時に「この人は大工ではないか」「この人は、ヨセフの子
ではないか」との不信仰の言葉は、水を差すように、人々の心から
恵みを奪い去った。主を拒むので、恵みが消えて、冷ややかな不信
仰となった。預言者は誰でも自分の郷里では歓迎されないと、主は、
その不信仰を嘆かれた。このナザレの人々から学ぶ事ができる。
御言葉を聞く心の態度だ。

「愛している」「赦す」「すべての必要を満たす」・・自分に心地
よい、耳ざわりのよい言葉には、主は素晴らしいと喜び、主を誉め
讃える。しかし、罪を指摘されたり、悔い改めを迫られたり、自我
に触れて来る途端、拒んでしまう。このところで心を閉じ、逃げて
しまうと、主が見えなくなる。成長のしようがなく、変えられるこ
とがない。痛い言葉は気づかずに逃げているかも知れない。心の底
を御霊に探って頂こう。不信仰に気づかされ、信仰へと、喜びと成
長へと導かれる。
-----------
一段階、成長へと導かれるはずの御言葉が、迫れば迫るほど、古い
自分は変わりたくないと抵抗する。痛くも無いがそれでは、何も変
わらない。いつまでも御心に変わって行きたいと主に献げよう。


2015年10月21日(水)

「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」マタイ7:11




「求めなさい。そうすれば与えられます」の言葉通り、私たちの親
である御父は、子供に最善のものを与えたいと思われる。私たちは
願いを求めるように言われている。しかし、神は「自分の子供に良
い物を与える」「求める者たちに良い物を」と、願い通りのもので
はなく、「良い物」を与えると言われる。自分が祈ったそのままで
なく、「良い物」と。

主の思われる最善のものだ。それで、願ったものその通りかも知れ
ないし、違うかも知れない。とにかく主からご覧になり、私たちに
とって「良い物」なのだ。祈りが答えられないと、がっかりしてい
るなら、祈りの答えを、今一度見直してみよう。一つ一つの祈りが、
別の形で答えられているかも知れない。

小さな子が母親の料理を真似たいと包丁を求めても、親は与えない。
又、子供が分不相応な高価な物を欲しがるなら、もっと大きくなっ
てから与える。持つにふさわしい時期がある。又、忍耐を学ばせた
り、その子のために教育的配慮から控える場合もある。自分はこれ
こそは必要と思うが、神は完全にふさわしく与えて下さる。

自分の願いとは異なるかも知れないが、それは「良い物」だ。その
時は理解できなくても、後に必ず豊かな実を見る。時に主の「良い
物」が、自分の思いと異なる事を心得ていよう。しかしそこに神の
お心を見い出す時、喜びがとなる。
------------
叶えられた答えばかりを恵みとして、答えられなかった祈りの周辺
に目を向けないことがあるが、そこにも御神の最善があったはず。
懸命に祈りながらも、御心をとの思いで祈りたい。


2015年10月20日(火)

「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい」マタイ11:4



バプテスマのヨハネが、ヘロデ王の法に反する行為を、はっきりと
間違っていると言明した結果、投獄された。ヨハネは正しい事をし
た。ヨハネの投獄は理不尽であり、何の悪い事もしていない。神は
義なる方、正しい方だ。ヨハネは神の御前に誠実に歩んだのであっ
て、主が、何らかの対処をして下さるはずと思っていただろうか。

しかし、投獄後、日が過ぎても、何の気配も、音沙汰もない。どう
なっているのか。正しい事をされるのではないのか。イスラエルの
王国を打ち立てられ、天下を取られるのではないのか。獄中でヨハ
ネの思いは、いかばかりであったろう。そこで弟子たちに「おいで
になるはずの方は、あなたですか。それとも別の方〜」と尋ねさせ
た。

主はその時に、弟子たちに「自分の聞いたり見たりしていることを
報告せよ」、つまり、目の前の「事実」を告げるように言われた。
「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ〜」これは、メ
シヤが来る時の預言だ。救い主の証拠だ。ヨハネが自分でわからな
い限り、わからない。つまり人にどんなに説得されても、自分で受
け入れようとしない限り、わからない。

事実を知り、自分で御言葉を真剣に受け止め、真摯に向き合う時に、
御霊の助けにより真理がわかるようにされる。私たちも、自分の先
入観や自分の判断を退けて、御言葉に向かう時、正しく神が見えて、
御心がはっきり見えて来る。目の前のこの事に神を見、過去のあの
事にも神を見い出す。
-------------
聖書を通し、また礼拝メッセージなどで、いつでも神を知る機会が
与えられている。新しく神を知るために毎日御言葉に向き合ってい
るつもりでいても、ちゃんと神を見出してるだろうか。



2015年10月19日(月)

「そこでイエスは、パンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:11





男だけで五千人、女、子供を入れると倍以上という、大勢の空腹の
人々を前にして、主はピリポを試された。「食べる物がない、どう
しようか」と。ピリポは、手にある所持金で計算した。答えは、こ
んなに大勢の人々に「不可能」だった。アンデレも、あるいは、主
は何かして下さると思ったから、お弁当を持っている人を探し回っ
た。

少年がお弁当を持っていたが、しかし、こんなに大勢に小さな弁当
では、焼け石に水だ。到底無理、だめだと思った。一万人以上の群
衆、食べ物が無い、所持金も間に合わない、このような状況で、主
は「しようとしている事」が、解決策がすでにあられた。あなたが
今、このような窮地にあるなら、主はすでに「しようとしている事
を」持っておられる。

私たちに求めておられるのは「信仰」だ。主にはできるという信仰
だ。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません」。そして、
「小さな」ものを用いられる。五つのパンと「小さい」魚を二匹だ。
今、不安な状況にあるだろうか。新しい環境、仕事、奉仕を前に、
自分は取るに足りない小さな者だと思うなら、主はその「小さな」
者をこそ用いられる。

たった二つのパンと小さい魚が、主の手に握られる時、人々への大
きな豊かな祝福として、用いられる。人々は満腹した。どんなに小
さくても何の問題も無い。その「小さなもの」を主のもとに携え、
献げよう。どんなに用いられるかは、驚くばかりだ。 
------------
自分の目で見て、自分で判断することは、いつも主のしようとして
おられる働きを妨げてしまう。状況や自分自身をサタンは見るよう
に仕向けて来るが、信仰により主にそのままを献げて行こう。


2015年10月18日(日)

「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれ る人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて下りて 行くのです」ヨハネ5:7



病気の人に「よくなりたいか」と聞いたなら、どうだろう。よくな
りたいのは、当たり前ではないかと返されそうだ。なぜ主は、彼に
このような質問をされたのだろう。「よくなりたいか」という事は、
今、よくない、病気だという事だ。その人の現状に、面と向き合わ
させ、自分の真の願いを確認させるためだった。

「よくなることができるか」とは問うておられない。あくまでも
「よくなりたいか」であり、「そうしたいか」という意志が問われ
ている。問われた時、初めて人は自分の心に向き、探られる。「よ
くなりたいか」の問いなので、答えは「はい、よくなりたい」か、
「いいえ、よくなりたくない」のどちらかだ。

しかし彼の応答はどちらでも無く、「自分には介助者がいないから
だめだ。介助者のいる者が先に降りて行く。だから自分はどうにも
ならない」だった。人のせいにし、環境のせいにして、言い訳をし
て、自分に、問題に向き合う事をしなかった。私たちも問題が起き
た時に、自分の真の状態に向き合う事をせず、言い訳ばかりだろう
か。人のせい、環境のせいにして逃げているだろうか。

しかし主は、本当に直りたいのかと問われる。主には直す事ができ
る。彼は「起きて歩け」の言葉に従った。すると、奇跡が起きた。
主は彼の内にあった信仰を引き出された。今、あなたはどうだろう。
主の言葉に向き合おう。

・・・・・・・・・・・・
現状に、自分の弱さに向き合うのは痛いので、言い訳して、逃げて
しまう。しかし、向き合って行く時に、主が働かれ、みわざを経験
する。まず「よくなりたいか」と問われる主に、御霊に心の内を探
ってもらい、向き合って行こう。


2015年10月17日(土)

「外側から人にはいって来る物は、人を汚すことのできない、とい うことがわからないのですか・・人から出るもの、これが、人を汚す のです」マルコ7:18



生まれつきの価値観では、外側から入るものが、人を汚すと思って
しまう。この世の価値観がそうなっているからだ。環境が悪かった、
生い立ちが不幸だった、社会が悪いせい・・だから、子供は非行に走
り、又、大人は犯罪を犯すと。環境さえ良くなれば、社会さえ良く
なれば、人間は良くなる。悪しき影響を取り除けば良いのだと。

しかし、聖書は正反対のことを言う。環境が、決して人を汚すので
ない、環境が人を汚すことはできないと。人は、罪を犯したから罪
人なのではなく、罪人だから罪を犯すのだと。環境が良ければ、善
人になるのではない。「義人はいない。ひとりもいない」、環境は
関係無く、人の心から出るものが人を汚す。「悪い考え、不品行、
これらの悪はみな、内側から出て人を汚す」。

様々な悩みや問題、ぶつかり合い、争い、それらは、関与する人々
の心から出て来る問題だ。すべてが心から出て来て問題を引き起こ
す。心に原因があり、心から出る「罪」が人を汚す。自分の内側の
汚れが、うすうすわかっているが、それに向き合う事は痛い、辛い
事なので、逃げてしまう。

不平、愚痴だらけの人は、自分を棚上げにし、いつも周囲の誰それ
の事ばかりを言う。相手ではなく、問題は自分の内側にある。まず
その事に気づき認めよう。その時、解決が始まり、平安へと導かれ
る。環境さえ良ければ、相手が良ければ平安なのでなく、自分の内
の罪を知り、主の血潮に赦された時に真の平安が来る。

・・・・・・・・・・・
人は環境が悪いと思っている。だから平安なく苦しいと。しかし御
言葉は、環境も状況もいっさい関係無いと言っている。外側の問題
ではないと。でなければ常に環境にほんろうされる事になる。問題
は自分の心にある。気づきから、平安へと導かれて行く。


2015年10月16日(金)

「あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」Uサムエル12:23



ダビデは、バテシバとの姦淫、ウリヤ殺害という二重の罪を犯して
しまった。神に遣わされた、預言者ナタンより罪の指摘を受けた時、
罪を認めて告白した。「私は主に対して罪を犯した」。その時、そ
の罪は赦された。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった」
と。悔い改めにより、罪はきれいに赦されるが、しかし、罪には刈
り取りがある。

蒔いたものは、必ず刈り取る事になる。「あなたに生まれた子は必
ず死ぬ」。その通りに、バテシバが産んだ子が病気になった。その
時にダビデは切に祈り、断食し、一晩中、地に伏した。ひたすらそ
の子の癒しを祈り続けた。しかし必死の祈りも叶わず、その子は死
んでしまった。ダビデはそれを聞いた時、その子の死を受け入れた。
恨んだり、わめいたり、怒ったり、呪ったりしなかった。潔かった。

「地から起き上がり、からだを洗って、身に油を塗り、着物を着替
えて、主の宮へ入り、礼拝した」。主の御名を崇め、その事実を全
面的に受け入れた。ダビデの切なる願いに対して、神の答えが
「ノー」であった時、へりくだってそれを受け取った。

私たちも、主に願いを持って行くが、答えが「ノー」である場合が
ある。自分の思いと異なり、厳しく感じるが、それを受け入れる事
を教えられる。時に、「ノー」の答えがある。「ノー」の答えを通
して主の栄光が現わされる。主からの「ノー」を受け入れられるよ
う、祈ろう。
----------------
「ノー」を、はっきりとした御心と前向きに受け取れることは何と
幸いなことだろう。嘆きも悲しみも、ご存知の主が「ノー」を与え
られた。新たな気持ちで地から起き上がろう。


2015年10月15日(木)

「子を産まない不妊の女よ。喜び歌え。産みの苦しみを知らない女よ。喜びの歌声をあげて叫べ」イザヤ54:1




ある人が、神学校を出て、若い時に赴任した教会で、つまづいてし
まった。若さゆえに、ああしたい、こうしたい、あのように、この
ようにと、思いばかりが先走り、古くからいる人々とぶつかってし
まう。信頼関係を築くのも難しかった。そんな中、去って行く人々
が出て、教会内がぎくしゃくし、焦れば焦るほど、ますますうまく
行かず、悪循環に陥ってしまう。更に人々が去ってしまった。

する事、なす事がみな裏目に出てしまい、ますます対人関係がこじ
れ、どうしてよいかもわからかった。心は打ち沈み、気力が失せて、
ふさぎ込んでしまう日々であった。力が無く、祈ることも聖書を読
むことも出来なかった。気力が湧いて来なかった。そんなある日、
何となく読むともなく、ぼおっ〜と見ていた聖書の御言葉が、心に
響くように入って来た。心にぐっと臨んで来る感覚だった。

「子を産まない不妊の女よ」が、まさに自分に重なった。「喜び歌
え」と言われている。「喜びの歌声をあげて叫べ」と。今の、この
状況、自分の心の内、何もかもをご存じの主が、今共におられる事
が実感として迫った。主からの語りかけだった。不思議だが、あれ
ほど沈んでいた心に灯がともった。

エマオ途上の「暗い顔つき」の二人の弟子が、主の言葉を聞いて心
が燃えて来たように。「恐れるな。わたしはあなたと共にいる」、
どんな時も共におられる主により、再び立ち上がらせられた。
----------
御言葉を通し、思い迷うことや疲ていた心を主は慰め、力づけてく
ださる。御言葉が自分のこととして臨むとき、主の触れてくださる
御手を感じて、状況が変わる前に思いが大きく変えられていく。


2015年10月14日(水)

「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします。』こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした」ルツ3:5





ルツがモアブの地から、ナオミについてベツレヘムにやって来た。
モアブを去る時に、実家に帰るように強く勧めたにかかわらず、嫁
ルツはナオミの背後のまことの神を見て、共にやって来た。ナオミ
は、そんなルツの将来を祈り、考えた事だろう。ルツに親切にして
くれるボアズは、親戚でもあり、彼こそがふさわしいと考えた。そ
れで、ナオミはボアズに買い戻しを願うよう、方法をルツに指示し、
ルツは姑の言う通りにした。

すると彼は、更に近い親類が権利を放棄するなら、自分が買い戻す
と。その時ナオミは、必ずボアズがルツを買い戻す事、それが神の
御心であり、それが成就する事を信じた。それで、「この事がどう
おさまるかわかるまで待っていなさい」と確信を持って言えた。動
き回るのでなく、何かするのでなく、ただ待てと。肉の動きを止め
ることだ。

私達はこれが大変難しい。自分を救うために、動き回ってしまう。
じっとしているより、その方が安心なのだ。目に見えない神をただ
待ち望む事は難しい。又、それは、手をこまねいているのではなく、
示された事はして、待つという意味だ。ルツは自分のなすべき分を
果たした。だからこそ、次にすべき事はそこで安息し、ただ神がさ
れる事を、祈りの内に待てばよい。あなたにも、今、示された事を
なし、後は神を待ち望めと、言っておられるだろうか。
-------------
いたずらに心配し的はずれに動くのではなく、御心の成就のために
今するべきことをよく悟れるように祈りたい。ルツのように示され
たことをやって、後は静かに神に委ねて安んじていよう。


2015年10月13日(火)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18


二人の弟子達が、エルサレムから郷里エマオへ向かっていた。そこ
に主が歩み寄り、御声をかけられた。しかし、彼らの目はさえぎら
れていて、かたわらを歩く方が主だとわからない。主の問いかけに、
答えるが、彼らは「暗い顔つき」だった。彼らの心は失望落胆だっ
た。なぜ、主を見ているのに、わからなかったのか。

御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目
をさえぎってしまっていた。主の復活を信じないので、主は死んで
しまったわけで、絶望と落胆、空虚と悲しみの中にあった。私達も
失望の中にいる時、主が全く見えない。「失望」とは主に期待しな
い、主には見込みが無いと、諦めることだ。捨て去ってしまうこと
だ。不信仰は私達の心をふさいでしまう。

又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見
えるのは自分だけだ。自分の中をグルグルするだけだ。又、「不安」
も目がさえぎられる。思い煩いに支配され、心配の山ばかりが見え
て、主が見えない。不安は募り、山はますます高くなる。不安、恐
れと信仰は同居しない。主はそんな彼らに、御言葉を語り、ご自分
について書いてある事柄を解き明かされた。

状況を見るのでなく、御言葉に耳を傾けて行った時に、「暗い」心
に灯がついて、赤々と燃えて来た。主の言葉は霊であり力でありい
のちだ。信仰がよみがえって来た。どの視点に立ち、何を受け入れ、
何を選択しているだろう。
--------------
暗い顔つきになり、自分でぐるぐる考えるより、聖書を開き御言葉
を読んでみよう。エマオ途上の弟子たちのように、御霊様が解き明
かしてくださり、ああそうだった!とまた新しい力に満たされる。


2015年10月12日(月)

「あなたは右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」ということばを聞く」イザヤ30:21




「これが道だ。これに歩め」ということばを聞く、とあり、主は私
達に、語りかけられる。ご自身のみ思いを示され、私達の進むべき
道筋を教え、導いて下さる。主は、私たちに、どのように語りかけ
られるのか。

@主の言葉を通して語られる。礼拝メッセージやバイブルクラスの
学び、各自のデボーションの中で聞く聖書の言葉により語りかけ導
かれる。祈りをもって御言葉に向かう時、深い印象を持って御言葉
が心に触れて来る。A聖霊により語りかけられる。「聖霊は、すべ
てのことを教え、あなたがたに話したすべてのことを思い起こさせ
る」。

祈りの中で、又、日常の中で、あの事はあのようにすればよい、こ
の事はこのようにうすればとの、知恵やアイデア、なすべき事が示
される。B指導者や他の人々の助言を通して語られる。主は時に、
助言者を用いられる。助言者のアドバイスを通して語られる。C環
境を通して語られる。御心なら必ず門が開かれる。自分で開くので
はなく、神があなたの目の前で、開かれる。

神によって開かれた門を通って行く。もし、門が閉ざされたなら、
御心ではない証拠だ。別の導きが備えられている。導きを求める時
は、よく祈り、耳を澄ませていよう。神は御心を示される。御言葉
と祈りによる内なる平安、環境と助言、それらが必ず一致する。そ
の時には、前進しよう。
--------------
主はいつも傍らにいて導いてくださるのに、主の語りかけを聞こう
としているだろうか。迷い、早い解決が欲しくて自分で動いてしま
う。力強い信仰生活を歩むために、主の導きを切に求めていよう


2015年10月11日(日)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなの を知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6


ベテスダの池に、38年病気の男性がいた。38年とは、何と長い
期間だろう。最初は、あちこち医者に行き、良いと言われる事は試
し、ありとあらゆる方法をやってみた事だろう。どんなにしてでも
直りたい。しかし、何をやってもどうにもならない現実にぶち当た
る。試みる度に、今度こそはと期待しては、裏切られ、それの繰り
返しだった事だろう。

段々、心が折れて来る。その最後にベテスダに池にたどり着いた。
だが、そこでも同じ事だった。水が動いた時、最初に入った者はど
んな病でも癒される。じっと動く時を待ち、今度こそ、今度こそと
思うが、他人が先を越してしまう。期待しては、打ち砕かれ、挫折
の繰り返しだ。心が疲へいし、期待すると傷つくので、もう期待す
る事を止めてしまう。これ以上傷つきたくない。

主は、この38年間の苦しみ、悲しみ、悲嘆、何もかもをご存じで、
この男性に関わられた。「よくなりたいか」と。彼は介助者がいな
いから、ダメだと。介助者のいる人が先に行くと。私たちもどうだ
ろう。あれが無い、これが無い、だからだめ。又、自分がこうなの
は、状況のせい、周囲のせい、親のせい・・そうしている限り、自己
憐憫、自己正当化の中にいる限り、何も変わらない。

周囲でなく、状況でなく、自分はどうなのか。「あなたはよくなり
たいのか」と主は問われる。言い訳でなく「はい、よくなりたいで
す」と答えよう。主は臨んで、みわざをして下さる。

・・・・・・・・・・・・
「よくなりたいか」と私たちにも問われている。これまで無理だっ
た、だからこれからも無理と、諦めてしまっているだろうか。彼は、
心の奥底では、よくなりたかった。主の言葉に従った時に、奇跡が
起きた。目の前の言葉に従ってみよう。


2015年10月10日(土)

「神を愛する人々・・神のご計画に従って召された人々のためには、 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知 っています」ローマ8:28



ある人の子供が、進路で挫折した時に、どんどん道をそれて行った。
問題行動を起こし、暴走族グループに入り、家を出た。やがて薬物
で、警察沙汰を起こし、逮捕された。親は、悩み、苦しみ、思い煩
い、そして、どうしてこんな事にと、心の内で子供を責めてしまう。
怒りも湧く。

又、自分も責めて、落ち込んで行く。体面もズタズタだった。非常
な苦しみと悲嘆の中で、主の御前に行き、心を打ち明け、祈りに祈
った。絶望、怒り、落胆、嘆き、悲しみ・・、混乱状態の心の内を、
あるがまま主に告げて行った。

祈り続けていた時に、「わたしはあなたがたのために立てている計
画をよく知っている・・それは災いではなくて、平安を与える計画で
あり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、
この事も主のご計画の中にあり、平安と将来と希望のためのものと
信じることができた。その信仰も与えられたもの、主からのものだ
った。

その時、現状は,ぐじゃぐじゃなのに、心が不思議に落ち着いて平
安になった。主の平安だった。そして受け入れられなかった現状を、
子供自身を、あるがまま受け入れることができた。変えよう、変え
ようとしていた子供を、無条件に受け入れられた。

自分自身が砕かれ、変えられた。自分でなく、神の力だった。それ
から子供は変わって行った。悔い改めて、立ち直ることができて、
新しい歩みに導かれた。主に在る時、万事益、御言葉の通りに成っ
た。

・・・・・・・・・・・・
何のなすすべも無い中で、ただ祈り、祈り続けていると、御言葉
が来る。その御言葉には力があり、まだ解決していないが、不思議
に心が落ち着いて、まだ見ていないのに、喜びが来る。信仰は聞く
事から始まり、御言葉から来る。とにかくまず祈ろう。


2015年10月09日(金)

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ25:21


タラントのたとえが出て来る。主人は、自分の財産をしもべたちに
預けて、旅に出る。五、二、一タラントをそれぞれに預ける。五タ
ラント預かった者は、「すぐに」行って、商売をして、更に五タラ
ントもうけた。二タラントの者も、行って二タラントもうけた。と
ころが一タラントの者は、地の中に埋めた。

五タラント、二タラントもうけた者への、主人からのほめ言葉は全
く同じだった。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わ
ずかな物に忠実だったから、私はあなたに沢山の物を任せよう」五
と二、額は倍ほども違うのに、同じ賞賛だ。成果自体より、主人の
ために働きたい、主人を喜ばせたい、主人の期待に応えたい、その
思いが「すぐに」実行させた。主人への思いが成した結果だ。

一タラントの者への叱責は、成果の問題でなく、何もしようとしな
かったゆえだ。「悪い怠け者のしもべ」と。主人を誤解していた。
奪い、要求するだけの、恐い、過酷な主人だと。もし財産を失いで
もしたら、どんな目に会うか。そんな主人のために、何もしたくな
い。しかしそうだろうか。

極みまで私たちを愛し、独り子を私たちの身代わりに殺された。こ
れ以上の何があるだろう。自分の欲でなく、この主人が望まれる事
を求めて生きる時に、自分自身にも喜びが与えられる。「主人の喜
びをともに喜んでくれ」。
-------------
神から与えられた命、時間、力、与えられたものを喜んで献げて生
きたい。一人一人に主から預かったものがあるはずだ。任せられた
責任も覚えながら、今日も歩もう。


2015年10月08日(木)

「エリヤはそれを聞くと・・ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った『エリヤよ。ここで何をしているのか』」T列王19:13


エリヤはバアルの預言者と戦い、奇跡による大勝利を得た。霊的戦
いで、心身大変な消耗状態にあった。その後、王妃イゼベルによる
エリヤ殺害命令を知り、絶望感で、うつ状態に陥る。主はそのエリ
ヤを決して責めず、叱咤激励でなく、深い眠りと食物によって、十
分な休息を与える。

うつ状態に必要なものは休息だ。充分な休息に、エリヤは再び立ち
上がる事ができて、神の山ホレブに向かう。主はこのホレブで、エ
リヤに語りかけられた。ほら穴にいたエリヤに、「外に出て、山の
上で主の前に立て」と。激しい風、地震、火が来たが、その中に主
はおられなかった。人が思うような、はっきりした形ではなく、主
は「かすかな細い声」で来られた。

耳をそばだて、しっかり聞かなければ、聞こえない細い小さな声だ。
しかし、聞こうと耳を澄ます時に聞こえて来る。主に心を向け、静
まる時に、小さな御声が聞こえる。そこで主はエリヤに語りかけ
「ただ私だけが残った」というエリヤのネガティブ思考を正される。
「わたしは、七千人を残しておく」と。

エリヤは、たった自分一人だけ、孤独の中にいると絶望していたが、
主の視点からはそうではない。全く事実は異なる。今、自分に閉じ
こもって何も見えない状態なら、ネガティブにしか見えないなら、
主に正していただこう。まず、耳を澄まして、主の御声に耳を傾け
よう。必ず聞こえて来る。
------------
自己憐憫の中からでも、主の御声を聞きに出て行こう。御心はどう
だろうか、まず従ってみよう。私たちは落ち込んでも力強い主が受
け取ってくださる。


2015年10月07日(水)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」Tヨハネ4:10



相手から、批判や、悪口、カチンと来る言葉や態度を向けられた時、
どうだろう。つい反応してしまい、言い返したり、ムッと不機嫌な
態度になる時がある。又、別の時は、穏やかに受け止める事ができ、
悪で悪を返すのでなく、愛ある態度で対応することができる。その
違いは、多くの人が、心に「余裕」のある時は、そのようにできて、
「余裕」が無い時は、イライラして、即、感情的反応をしてしまう
と言う。

あなたもそうだろうか。その「余裕」は御霊の潤いだ。「わたしに
とどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります」「人
がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます」。主にとどまっていることが大
切だ。主にとどまるとは、日ごとに、主と交わりながら生活するこ
とだ。主の御声を聞き、主に祈り、主と対話をする。それが祈りの
生活だ。

主との交わりの中にいる時、心に「余裕」がある。主の御声に耳を
傾け、いかに自分が主から愛されているかを知って行くことが重要
だ。現実の生活を通して、主の愛に触れて行く。神からの愛を知る
時に初めて、神を愛し、人を愛して行くことができる。神の愛に触
れて行くと、心が満たされて、「余裕」ができ、人を愛さずにはお
れなくなる。人を愛そうと頑張るのでなく、まず神の愛を知って行
くことが大切だ。
------------
バロメーターは主との交わりだ。狭量になる時、ネガティブになる
時、そのままを祈ると不思議に心が引き上げられる。状況は変わら
ないのに心が変わる。主の慰めだ。主に深く愛されている。


2015年10月06日(火)

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。 わたしがあなたを遣わすのではないか」士師記6:14



主は、敵であるミデヤン人を逃れて、恐れ、酒ぶねに隠れていたギ
デオンに向かって、「あなたのその力で行き、イスラエルを救え」
と告げられた。驚いた彼は、どうして自分にそんな事が出来ましょ
う。私の分団は最も弱く、そして私はその中でも一番若いと。自分
には到底無理だと言い訳をする。

すると、主は「わたしはあなたといっしょにいる。あなたはミデヤ
ン人を打ち殺す」と。その時、ギデオンは私と話しておられるのが
あなたであるという、しるしが欲しいと願った。本当に主から出た
事なのか知ろうとした。二度のしるしを求め、確かめた。

そして彼は主によると確信した。恐れて隠れている彼に「勇士よ」
と語られ、現在の彼ではなく、先を見据え、勇士として戦うギデオ
ンを見られた。又「あなたのその力で行き」と、彼がいかに弱く、
若くても何の問題も無い。主が共におられること、主が遣わされる
こと、がすべてだ。

私たちも、自分の弱さを嘆き、無力におじけ、自分に何ができよう
と、ひるんでしまう。主からの示しに対しても、自分を見るなら、
能力は不足、時間も富も力も不足だ。しかし、主は「あなたのその
力で行け」と言われている。あなたの力の問題ではなく、どなたが
共におられるかの問題だ。

主が遣わされるのなら、必要な力はすべて主から来る。今、あなた
にも「あなたのその力で行け」と御声をかけておられるだろうか。

・・・・・・・・・・・
主の示しがあるなら、どんなに能力が無くても、ふさわしくないと
思えても、問題ではない。主が語られた事は、主が成し遂げられる。
あるがままで、「あなたのその力で行」こう。主が用いられる。何
の心配もない。


2015年10月05日(月)

「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」ヤコブ1:21




ある人は、「わたしの目には、あたなは高価で尊い」という御言葉
をよく耳にしていて、知っていた。しかし、全く心に響くことがな
かった。聞いてはいるのだが、スルーしていた。振り返ってみる時
に、自分が高価で尊いなどと有り得ないと思っていた。そして、そ
んな事はない、高価で尊いはずがない、信じられないと、決して受
け入れていなかった。

むしろ否定し、拒んでいた。だから、恵みの御言葉も、何も感じず、
喜びも無かった。だが、受け入れていない事にも気づいていなかっ
た。自分では、拒否している気は無く、むしろ御言葉を聞いている
つもりなので、全く気づかなかった。しかし平安も喜びも無く、自
分が変わらない事を考え、祈った時に、御霊が気づかせて下さった。

悔い改めて、真実な神の言葉、命の言葉である事を覚え、「感謝し
ます」と受け入れた。その時から、自分が変えられて行った。喜び
が与えられ、感謝が湧いた。私たちも、自分が受け入れ難い御言葉
を、又、都合の悪い御言葉を、実は捨ててしまっていないだろうか。
受け入れておらず、それにも気づいていない。

今、主に、語りかけられていながら、素直に受け入れていない御言
葉に気づくだろうか。ないがしろにしている御言葉があるだろうか。
「すなおに受け入れなさい」。そう出来るよう祈ろう。たましいを
救うことができる御言葉だ。
-----------
御言葉に自分の価値観が重なり、目が塞がれてしまう。あなたは高
価で尊い、いつも喜んでいなさい、と御神の約束は溢れているのに。
今一度、柔らかい心ですなおに受け入れられるよう祈ろう。


2015年10月04日(日)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇 の世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するもの です」エペソ6:12 


対人関係で、問題や争いが生じた時、相手を恨んだり責めたりして
しまう。しかし、私たちの格闘は血肉ではなく、悪霊に対するもの
だと言っている。いっさい人間とは戦わない。背後の悪霊との戦い
だ。今、人を憎んだり、恨んだりしているなら、サタンの攻撃が来
ている。

そして、「悪魔の策略に対して立ち向かう」とあり、サタンは、策
略を練って攻撃して来る。行き当たりばったりではない。考えもな
しに動かない。明確な目標があり、段取りがあり、緻密な計算があ
る。目的は、とにかく神から私たちを引き離すことだ。巧妙に働い
て来る。

例えば、職場でいじめに会ったり、苦しい病気になったりしたらど
うだろう。「神が愛なら、なぜこういう事になるのか。あなたは愛
されてなどいない」とサタンが耳元でささやき、疑いや不信感を起
こさせる。又、逆に、順境が続くと、主に頼る必要が無いので、知
らず知らず自分の力に頼り、主から離れてしまう。

離れているという感覚が無いから気づかない。又、仕事や働きが成
功すると、慢心してしまい、自分の力だと錯覚し、栄光を自分に帰
してしまう。サタンは、あなたの弱さを的確に知り、計算し尽くし、
巧妙に働いて来る事をよくわきまえ、祈っていよう。祈りがある時、
御霊はサタンに気づかせて下さる。気づきは、御霊の光がある証拠
だ。主と共に対応できる。

・・・・・・・・・・・
サタンは思いを吹き込んで来る。ストレートな罪ならわかるが、巧
妙に、理に適っていたりするので、説得されてしまう。サタンは自
身を隠すので、私たちは自分が思っているとしか思わない。御霊に
より気づきが与えられるよう、祈っていよう。


2015年10月03日(土)

「『・・でも、おことばどおり、網をおろしてみましょう』そしてそ のとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになっ た」ルカ5:5



信仰生活で、しばしば信仰の試み、テストが来る。試みは必ずやっ
て来る。心に信じていることを、行ないに表わすという試みが来る。
ラザロが死んだ時に、主が、墓で「その石を取りのけなさい」と言
った時に、マルタは「もう臭くなっておりましょう」と答えた。死
後4日を経ていた。理性と常識で考えるなら、もうすでに腐敗して
いる。

その時に、主の「『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を
見る』、とわたしは言ったではありませんか」の言葉に、彼らは墓
の石を取りのけた。そして、みわざを拝することになる。ペテロは、
主の頼みにより、舟を少し出した、その後に、「深みに漕ぎ出して、
網をおろして魚をとりなさい」と言われた。

しかし、常識と理性では、こんな時間に魚はいない。まして昨夜不
漁で、一匹も魚がとれなかった。信仰のテストだった。だがその時、
ペテロは「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と常識
では考えられないが、主に従って、網をおろした。すると助けが必
要なほどの大漁であり、破格の祝福だった。

あなたを祝福し、信仰をますます堅くするために、テストは来る。
その時に、「そのとおりに」御言葉に従ってみると、必ず主のみわ
ざを見る。そして信仰が成長に導かれる。従わない限り、信仰の成
長がない。あなたにもテストが臨んでいるだろうか。目の前の御言
葉に、示しに一歩踏み出そう。

・・・・・・・・・・
信仰人生で、テストが何度も来る。しかし、成長するのはテストに
おいてだ。非常識ではないが、常識を越える事もある。自分の思い
と正反対の事もしばしばだ。示された事に従ってみよう。その時
主が、魚を網の下に置いて下さっている。


2015年10月02日(金)

「ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。そこは彼が最初に祭壇を築いた場所である。その所でアブラハムは、主の御名によって祈った」創世記13:4



アブラハムと甥っ子ロトは、一緒に旅を続けたが、主の祝福により
所有物が増し加わり、同行困難になった。そこで、二人は別々に住
む事になり、アブラハムは、まずロトに好きな地を選ばせた。ロト
にとって、今後の幸せな人生を思い描くに、ヨルダン低地の肥沃な
地、主の園のようにどこも潤い豊かな地が非常に重要なものだった。
ロトにとって、「環境」「もの」が重大要素であって、そこから喜
びや幸せが来ると考えていた。

私たちはどうだろう。この世の価値観では、富が将来を保障してく
れ、夢を叶えてくれ、幸せにしてくれる。偶像だ。神を信じている
のだが、そんな価値観に無意識にも影響受けていないだろうか。
又、マイホーム、良い職場、楽しい趣味、良い対人関係・・それら
が幸せをもたらしてくれると。ロトは自らの幸せを求めて、選択し
た地が、結果的に滅びの地であった。

全てを主に明け渡していたアブラハムは、結局全地を所用した。彼
にとり、自らの幸せは、所有物、環境でなく、神にあった。だから、
「そこは最初に築いた祭壇の場所である。その所で、主の御名によ
って祈った」。彼にとって大切なもの、重要なものは、神であった。
そこに幸せがあった。

そして神の約束であり「あなたを祝福し、あなたの名を大いなるも
のとし」カナンで「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える」。
神の下さった約束を見つめ、信じていた。私たちの心の内で、何が
大切なのだろう。
-------------
祈りのための祭壇はしっかり築けているだろうか。自分自身の価値
基準で物事を判断したり、また明け渡せずに迷う。間違った選択を
していないか、常に主に問いながら進んで行きたい。


2015年10月01日(木)

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります」詩編40:8


私たちは、何を喜びであり、幸せだと思うだろうか。自分の願望が
叶えられ、自分の思い通りになるなら、幸せだと思うのではないだ
ろうか。欲望が満たされる事が心地よく、幸せだ。これは肉の価値
観であり、主を知る以前はこの価値観で生きて来た。心満たされた
いがために、自らの願望を遂げようとする。

仕事、趣味、名誉、地位、愛する人・・次々と求めて行く。しかし
手にした時に、一瞬の快楽はあるが、真に満たされる事は無く、心
虚しく更に渇くばかりだ。「この水を飲む者はだれでも、また渇く」
とあり、欲望が叶っても、心が満ちる事はない。井戸ばたのサマリ
ヤの女性は、5回の結婚と5回の離婚を重ね、現在同棲していた。

彼女は男性が自分の心を満たしてくれ、自分を幸せにしてくれると
信じていた。だから結婚がうまく行かないと、この相手だからうま
く行かず、別の人ならと、5回も繰り返した。しかし、決して満た
される事はなかった。今も多くの人が欲望が満たされる事が幸せ、
人生の目的だと思っている。しかしそこに満たしは無い。

真の幸せと満足は、自分の欲望を満たす事でなく、神ご自身にあり、
神の御心を歩むところにある。御言葉に従って行く時にこそ、真の
喜びと満足がある。そして目の前の一つ一つの御心に従って行く時
に、自分が変えられ、主のかたちへと変えられて行く。真の喜びと
平安を経験して行く。
--------------
目の前の欲望は次々に変わり、地位や名誉や健康は、いつか手放す
時が来る。いつまでも変わらない神の無限の愛が与えられ、導かれ
歩める人生は、なんと幸いなことだろう。