2002年05月31日(金)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いした」(Uコリント12:8)ま

私達の願いに対して神は3つの
答えをされる。信号の例えのよ
うに、「赤ーNO」「黄色ー待
ちなさい」「青ーYES」の3
通りだ。すぐに答えられる願い。
祈り続けなさいとの答え。そし
て、ノーの答えがある。パウロ
もとげを取り去られるよう三度
願ったが、答えはノーだった。
「ノー」という答えがある事を
しっかり覚え受け止めよう。私
達は、ノーがなかなか信仰持っ
て受け止められない。そして、
神は最善を備えて下さってい
るのに見えない。受け取れな
い。心を屈折させてしまう。
しかし、言える事は、更に
良いものを備えていて下さる
のだ。今後、神が「ノー」と
言われる時、それが最善だと
確信し、受け入れよう。主の
憐れみ深いノーがある事がわ
かるようになる。「それでは
なく、遥かに良いものが用意
してある」が答えだ。


2002年05月30日(木)

「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」(Tテサロニケ4:10)


 船が船長達の全く気づかない間に
少しづつ少しづつ流されて、気づく
間もなく、岩に激突し、難破したと
いう事故がある。霊的にも同様のこ
とが起こる。たましいが流されて行
くのは、気づかないほど、ゆっくり
だ。妥協が生活の中に入って来るの
だ。少しぐらいの罪ぐらいと、灰色
の罪に妥協し、霊的関心が少しづつ
薄れて行く。これがまさに流される
という事だ。あなたはどうか。
霊的食物が減退していないか。この
世の楽しみに食欲旺盛になっていな
いか。突然、罪の誘惑に負けて屈伏
してしまうクリスチャンがいる。
そして、数知れない大勢のクリスチ
ャンは少しづつ少しづづ迷い出て、
流されてこの世にまみれてしまい、
神から離れてしまう。気づかない内
にサタンの罠にはまってしまうのだ
神との交わりの生活から離れるな。
交わりの中で気づかせられるからだ。


2002年05月29日(水)

「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」(創世記39:20)

雇い主に不当な扱いをされている
人々、対人関係で裏切りに会った
人々、親に受け入れられない子供
達、これらの場合、どう状況を捕
らえたらいいのか。ヨセフの物語
から教えられる。兄弟の嫉妬によ
り奴隷商人に売られてしまった。
その時の心の痛み苦しみはいかば
かりであったろう。しかし、ヨセ
フは数々の苦しみの中で、主と共
に歩み続けた。第一に神との交わ
りを持ち続け、主人の下で懸命に
働き、どんなに不当な扱いを受け
ても、神に身と心を委ね続けた。
神を信じ続けた。人に拒まれれ不
当に扱われる事はあるが、神は決
っして私達を拒まれる事はない。
見捨てられる事も無い。どんな
状況の中でも、目を留め深く愛
して配慮下さっている。苦しみ
の時こそ、神とよく交わり続け
る事だ。脱出の道が備えられて
いる。耐えられない試練は来な
い。神の御手の中におる事は一
番の安全。


2002年05月28日(火)

『陶器師は、粘土で製作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた』(エレミヤ18:4)



 ある宣教師が海外宣教を志して準備
を整えていた。ところが、支援の宣教
献金が満たされず、道が閉ざされてし
まった。失望落胆に突き落とされ、暗
い思い心で教会の集会に出ていた。
するとある高齢の婦人が「あなたのみ
こころが私の人生の上に成し遂げられ
ますように、どんな事でも受け入れま
す」と祈った。
その時その宣教師は突然心に光を見出
した。陶器師である神を思い、陶器で
ある自分を思った。自分自身を自分の
人生を陶器師である神のみ心のままに
もっと造り変えられる必要がある事が
わかった。神の定めの時が来て、つい
に海外のあらゆるところへ宣教に出か
けるために用いられた。私達はもっと
もっと造りかえられる必要がある。
そのために自分自身を余す所なく神に
明け渡しているか。神は委ねられた器
をみこころの通り造りかえられる。


2002年05月27日(月)

『イスラエル人もまた大声で泣いて、言った。「ああ、肉が食べたい。エジプトでただで魚を食べていた・・だが今や、何もなくて、このマナを見るだけだ」(民数記11:4)


 ある家族は美しい景色を求めて、保養地に
居を構えた。そこは最高の場所だった。
自然が豊かで、山々は季節毎に変化を見せ、
黄金色に輝く紅葉、真っ白に積もる雪、その
素晴らしさを堪能した。しかし、毎日の日常
が続くと、いつの間にか最善の景色も目に入
らなくなった。見慣れた景色となり感動も失
せて行った。イスラエルも同様だった。
エジプトを出て荒野に入ったとき、食料が尽
きた。その時に、神が天からマナを降らせて
下さった。民は最初この奇跡に喜び心から感
謝した。
しかし、しばらくすると、飽きてしまった。
最初は感動と驚きに満ちたものが、だんだん
慣れると無感動になるのだ。私達はどうだろう
日々豊に注がれる神の恵みに、なんの感動も無
くなっていないだろうか。当然になっていない
だろうか。日毎の神の恵みを数え感謝する事を
決して忘れてはならない。
感謝が無くなると不平不満。


2002年05月26日(日)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(詩篇51:17)

私達の内に罪意識が起こる時、サタ
ンと聖霊のどちらもが私達を引っ張
る。サタンは、自分を正当化させよう
とやっきになる。罪を犯した弁解と
言い訳を手を尽くして捜し出す。
自分が悪いのではないと主張
させる。これらの背後にサタン
の働きがある。聖霊はイエスの
十字架を示し、罪を悔い改める
ように促される。罪の赦し、回復
平安と喜びへの道は、ただ一つ
自らの罪を認める事だ。聖霊は
罪を認め、悔い改めに導かれる。
サタンは自分を正当化させ、自
分の力で何とかさせようと動かす。
相手を傷つける言葉や態度に
とがめが来て、罪意識が来る。
すると、サタンはすぐに親切で
償おうとさせる。しかし、それは
みこころではない。神のみこころ
は、自らの悪い態度を認め、
悔い改めることだ。この時、赦
しが自分のものとなり、恵みの
下に自分を置くことになる。
罪意識が来る時、サタンと聖霊
の導きをよく識別せよ。


2002年05月25日(土)

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは・・そのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえる」(Tペテロ2:12)

ある人物がアフリカ宣教師リビン
グストンについて言った。「彼は
私に信仰を迫ったりしなかったが、
もう少し彼と一緒にいたら、私は
きっとクリスチャンになっただろ
う」。周囲の人々があなたの生き
ざまに主イエスを見るなら、あな
たの言葉を真剣に聞くだろう。
あなたの生活態度の裏づけによ
る。私達がそれぞれの遣わされた
場所で主に従った生活をするなら、
人々は私達に自分達と違うものを
見るだろう。その時、人々は色々
な質問をするだろう。その時に、
何を信じ、なぜ信じているのか
を語る事ができる。伝道するた
めにあなたの人格が必要だ。主
はあなたを用いられる。大事な
事は、あなたが伝道しようとし
ている相手はあなたの愛情を感
じているだろうか。愛は人の心
を開く。


2002年05月24日(金)

「キリストの中に根ざし、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい」(コロサイ2:7)


 植木が趣味の人がいた。広い庭に次々と
木を植えて行った。この人は園芸の勉強を
していて、水をやり過ぎるのはよくないと
いう主義だった。木を過保護にしてしまう
水をやり過ぎると根が浅くなるというのだ
彼の庭の木は立派な木ばかりだ。
根を深くしっかり張って高く見事に伸びて
いる。これは信仰生活について教えられる
家族や周囲の人々を苦しみに合わせないで
下さい、困難から守って下さいとばかり祈
るが、そうではない事に気づいた。
実際、楽な人生など、この世界に存在しな
いのだ。一番大事なことは、神の愛に、
キリストの愛に、しっかりと根ざすことだ
深く根ざし、神と親しい関係を築き上げる
事だ。これが重要なのだ。これがあればど
んな嵐や問題が来ても、堅く立ち続ける事
が出きる。人生は苦労が無いのでなく、苦
難を乗り越えて行けるのだ。


2002年05月23日(木)

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた」(マルコ1:41)


 モーセの律法は、らい病を罪と関連づけ
ている。らい病を目に見える罪の象徴だと
考えた。罪が目に見えるとしたら、らい病
のようなものだ。らい病人がイエスのもと
へ来た。「お心一つできよくしていただけ
ます」と願った。イエスは深く憐れまれた
当時らい病は「汚れている」と考えられて
いた。周囲の人々に忌み嫌われ、世間から
離れて暮らしていた。そのような絶望の中
にいるらい病人に、イエスは手を差し伸べ
身体に触れられた。その瞬間らい病は消え
彼はきよめられた。
イエスは「きよくなれ」との言葉だけで癒
す事が出来た。しかし、イエスは身体に手
を触れられた。深い深いあわれみと慈しみ
のゆえであった。私達も失われた人に手を
差し伸べよう。それはイエスの心そのもの
なのだから。


2002年05月22日(水)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:12)

あなたは今、対人関係で難しい
相手がいるか。攻撃してくる相
手、悪口、批判を投げつけてく
る相手。もし、相手と格闘して
いるなら見当違いだ。なぜなら、
御言葉は私達は、血肉、人間と
は戦っていないと言っている。
その事態の背後に隠れている
サタンとの戦いだ。あなたに
敵対心、憎悪、復讐心を植え
付けようとするサタンが相手
だ。誰も、あなたを傷つける
事はできない。外部の状況に
反応し、あなたの内から出て
来るもの、嫉妬、憎しみ、高
慢、それらがあなたを汚す。
愛、寛容、赦し、自制で応え
ようとする、まさにそのとこ
ろに働くサタン。心に悪い
思いを植え付け、悪意を引き
起こすサタン、との戦いだ。
サタンの最大の成功は自分を
隠すこと。サタンに気づかせ
ないこと。あなたは今この
策略にはまっていないか。
サタンに気づけるように。


2002年05月21日(火)

「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの子孫も、しあわせになり・・」(申命記4:40)


 街の交差点の隅で、定期的にパトカーや白バイ
が待機している姿を見かけた事があるだろう。
私達の町ではいつも同じ場所にいる。
それで、そこへ来ると知っている人々は赤信号で
は絶対に止まる。当たり前の事が罰を目の前に置
かれないと守れないのだ。私達と神との関係はど
うだろう。神が試練を与え、生き詰まらせられな
ければ、好き勝手に歩み、神を離れた生活をする
のだ。困難が来る度に神のもとへもどる。
しかし、御父はこんな事は望んでおられない。
願っておられるのは、心から神のみこころを行い
神に従う事だ。罰が恐いから従うのではない。
神を愛するから従うのだ。
イエスは「私はみこころを行う事を喜びとします」
と言われた。私を愛し配慮し慈しんで下さっている
神のみこころを行う事は喜びだ。
私の幸せだ。私達は愛しつづけよう。これが薄れて
いるなら生活が神から離れていないか点検せよ。


2002年05月20日(月)

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(ピリピ4:4)



 いつも喜んでいるクリスチャンがいる。
経済的欠乏や離別や不意の出来事がやっ
て来ても、夫婦で笑って暮らしている。
なにものも彼らから喜びを奪い去る事は
出来ない。あるクリスチャンは、まだ現
実に起きていない心配事で思い煩い喜び
をを奪い去られている。
些細な事も将来の事も、全て引き受けて
思い煩うので全く喜びの無いクリスチャ
ンとなってしまう。御言葉は、喜びとは
状況から来るので無く、御霊の実である
と言っている。喜びと平安に満ちた生活
を送りたければ、御霊に導かれ、御霊に
満たされる事を求めなければならない。
喜びを求めるのではなく、根本的な聖霊
の満たしを求めるべきだ。
そうすれば状況に関係なく喜ぶ事が出来
る。喜びをもたらすのは内なる聖霊、
外で起こる出来事ではない。


2002年05月19日(日)

「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです・・どのようにあったかを忘れてしまいます」(ヤコブ1:23)

有名な「白雪姫と7人の小人」に、
話す鏡が出て来る。「鏡よ、鏡。こ
の世で一番美しいのは誰だね?」
と意地悪な王妃が聞くと「それは
あなたです」。ところがある日、同
じ事を聞くと「白雪姫」と鏡は答えた。
嘘をつけないのだ。私達も、決し
て嘘をつけない鏡を持っている。
それは聖書だ。聖書は神を映し、
又、あなたの心の内を映し出す鏡
だ。聖書の御言葉を通して、あな
たのそのままの姿を映し出す。罪
を、心の隠しておきたい動機を映
し出す。神はあなたの心を映し出
し、神が見ておられるように、あ
なたに見て欲しいと願っておら
れる。罪を悔い改め、示された
事に従い、祈り心で御言葉を
しっかり聞こう。何を求めて
おられるのか問いながら、鏡
に向おう。聖書は神とあなた
を映し出す。神の御姿をはっ
きり見れるように。


2002年05月18日(土)

「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスと・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ローマ8:29)

子供が小さい頃、大好きなぬいぐるみ
の犬や熊、うさぎ・・があるものだ。
ある子は、ぬいぐるみの熊を絶対
に離さなかった。どこへ行くにも
抱いて行き、勿論寝る時も一緒だ。
熊は、あらゆる時に抱きしめられ、
どこへでも連れて行かれた。片時
も離さないので、洗濯が大変だ。
どんなに汚れても構わず可愛いが
り続けるのだ。こんなに好かれた
ぬいぐるみも無いだろうと思え
るほどだ。これを通して、神と
私達の関係を教えられる。神に
とって、私達は子供のぬいぐる
と同じだ。それほどに、大切
でかけがえのない存在だ。神の
愛が私達を見捨てる事、見放す
事は決してない。これを思う時
私達は平安と自信を得る。イエ
スは私達を愛し、片時も放さな
いでいて下さり、しっかり抱い
て下さっている。


2002年05月17日(金)

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:38)


 ロシアの作家トルストイはこの命令を誤解
していた。盗まれても、傷つけられても抵抗
してはならない。徹底的に完全に無抵抗であ
るべきだと言った。そうするなら、悪者は恥
じて自分の道を正すだろうと。
しかし残念ながら、社会はそのように機能し
ていない。警察による抑止力が無ければ、社
会は完全に秩序を失い、混乱と無秩序となり
悪人がのさばって行くだろう。
それではイエスの言っておられる意味はどう
言う事なのか。頬を打たれると、すぐに怒り
敵対心を抱き、復習しようとする、私達の自
我、思いに支配されてはならないと言う事だ
赦す原則に支配されるべきだ。
私達の内に住んでおられる聖霊によって、主
が命じられた事、神のみこころは、神があな
たを赦して下さったように、あなたが赦すこ
とだ。


2002年05月16日(木)

「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」(Tテモテ6:6)



 試練や、困難、苦痛はいつも私達を試す。
痛い事、嫌いな事、辛い事が来ると、大方
は逃げる。それを避け、かわしてしまう。
誰しも痛い事は嫌なのだ。困難は私達が逃
げるか、それとも信仰に立ってしっかりと
受けとめるかを試すのだ。私達は苦しみの
反対は繁栄、成功だと思う。しかし、そう
ではない。繁栄、成功は実は苦難の線上に
あるのだ。成功は形を変えた試しだ。
苦しみは厳しいものだが、成功に比べれば
百分の一ぐらいの試しだ。繁栄、成功とい
う高い所にいながら、霊性、道徳性、物質
的な事のバランスを保てる人は稀有だ。
実は昇進より降格の方がたやすいのだ。
それは処理できる。しかし、成功と繁栄は
全然試練に見えないが、大きな誘惑であり
試みだ。それは人格に攻撃してくる。
貪欲、更にもっともっとと際限がない。
高慢に陥り、成功して破滅に向かった人は
多い。敬虔を求めよ。


2002年05月15日(水)

「サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は・・スカルというサマリヤの町に来られた」(ヨハネ4:4)

あなたは嫌いなことがあるか。ある
主婦は家事が嫌いで、特に料理は苦
手だった。ある主人は日曜大工を
頼まれるのが苦痛で、ある男性は
運転が好きでなかった。しかし、
人生はしなければならない、多く
の事柄で成り立っている。イエス
はガリラヤへ向う途上、真っ直ぐ
行けば早いのに大きく迂回され、
サマリヤを回られた。そこはユダ
ヤ人に敵対している人々の地域だ
った。弟子達はいぶかった。しか
し、主はサマリヤの女性とその村
人に福音を伝えられたのだ。ある
人が言った「自分がしようと思っ
た事よりも、しなければならなか
った事の方がより多くを学べた」
と。あなたも好まないがしなけれ
ばならない、多くの事柄があるだ
ろう。そこから大きな学びを学び
取るのだ。嫌な仕事も神からのチ
ャンスと思えば喜びとなる。そこ
から霊的喜びと教訓を得る。


2002年05月14日(火)

『「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」』(使徒9:5)


 歴史を見ると、人類は宗教の名において
考えられないような残忍な事をして来た。
彼らはしばしば良心の呵責なしにそうして
きた。イスラム教徒とユダヤ教徒は聖戦と
称して戦争をして来た。ある思春期にさし
かかった青年が宗教の名においてなされた
残忍な行為を知った時、信仰がゆらいだ。
親を心配させたくなかったので、神に祈っ
て心の内を打ち明けた。
すると、パウロを通して示された。
サウロは神を喜ばせていると信じて、クリ
スチャンを迫害し死に至らしめていた。
それが正しい事だと信じきっていた。
神はそのサウロを捕らえ、回心を与えられ
た。その後、彼は180度方向変換し、命
をかけてキリストを宣べ伝え敵にすら愛を
持って宣教した。主は決してそのみこころ
を私達に無理強いされない。
私達の意思を決して無理強いすべきでない。
意見を異にする人々をも愛すべきだ。
これこそ真の神の相違だ。


2002年05月13日(月)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(詩篇51:17)


 放蕩息子のたとえ話で、弟息子は、
父親から相続財産を貰い、家を出た。
あなたがこの父親だったらどうだろう。
財産を渡し息子の思いのままに歩ませる
だろうか。この父親は何もかもわかって
いた上で敢えて行かせた。
不本意であり悲しみもあっただろうが困
難、苦難を通り、息子が悔い改めに導か
れる事を願いつつ送りだした。
神も同様だ。神はイスラエルの民に対し
て罪の結果を警告していたが、選択は彼
らに委ねられた。民は不従順を選び、罪
から来る重大な事態に陥った。
しかし、神は究極的にはそれらからも益
をもたらされる。あなたは神を悲しませ
るような選択をして苦しんでいるか。
悔い改めて神のもとへ帰れ。その結果す
らもあなたの益の為に用いられる。
神へ帰る道は砕かれた心から来る。


2002年05月12日(日)

「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(ピリピ1:12)

パウロはピリピの手紙を書いた時、
投獄されていたが、彼の目的は
福音を語る事であり、たとえ投獄
されても、その目的を疑う事はな
かった。その状況すら利用して
自分を捕らえている人々にも
福音を語った。あなたは物事
がうまく行っている時は、神の
みこころの内にいると安心し、
うまく行かないと、神のみこころ
をはずれていると思っていない
か。あなたが困難に会う時
疑っていないか。神に従う
なら人生すべてうまく行く
のではない。神は困難を
取り除かれるわけではない。
私達の出会う困難は神の
恵みと力を知る機会だ。
困難を用いて、私達を鍛え
成長させて下さる。神に
献身することは、順境の時
も逆境の時も、神と共に
歩むことだ。福音は困難の
中で前進するのだ。


2002年05月11日(土)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」(マタイ6:34)

ある人が、年齢的に身体の限界を覚え、
退職を決意した。長い間祈っての結論
だったので、平安だった。神は決して
自分を捨てられないし、老後も養って
下さると信じた。事態が順風満帆に進
んでいて、何もかもがうまく行ってい
る時に神を信じるのは易しい。しかし、
物事が思い通りに行かず、又、大きな
問題、悩みに遭遇した時に、信仰が
試される。目に見えるところは真っ暗
だからだ。何の希望もないように見え
る。しかし、神は決して見捨てられる
事はない。今まで真実に導いて下さ
った神は、これから先も同様に真実
に導いて下さる。退職後、神に奉仕
する多くの新しい機会に恵まれた。
一日一日を生きる事、神に信頼し
て生きることを学ばせられている。
この一日、神の恵みは十分であり、
何の不安もない。明日の不安も無い。
神に信頼する事は、平安であり大
きな力だ。


2002年05月10日(金)

「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう・・弱さ、困難、苦痛に甘んじています」(Uコリント12:9)


 パウロは何かをはっきりとは書いていないが、
肉体のとげが与えられていた。そして、それが
取り除かれるよう神に祈ったが、答えは「ノー」
だった。その中でこそ神の力が働くゆえであった
あなたにも弱さがあるだろうか。
自分では出来ないと認める事の出来るものだ。
ある人は定期的に襲ってくる頭痛に悩まされてい
た。頭痛に教われる時には何も出来なくなった。
家事も子供達の世話も出来なくなり、ひたすら耐
えるのであった。何も出来なくなるのは辛い事だ
が、弱さを認め神に頼った。
神は時の応じて助っ人を送って下さり、子供達の
世話や家事をしてくれる人々を与えてくれた。
そして、気づかされた事は、弱い時、ますます深
く真剣に主により頼む事だ。
弱さによってキリストの側り知れない力を学ぶ事
だ。自分の弱さを認め、感謝して行く時、弱さを
通して神の栄光が現される。


2002年05月09日(木)

「雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです」(マタイ7:25)



 家を建てる時には、基礎工事が大切だ。
しっかりした土台が無いと、その上にど
んなに綺麗で立派な家が建っていても、
何かがあると倒れてしまう。
イエスはこのたとえを聖書の中で話された
イエスの言葉を聞いて従う人は、固い岩の
基礎の上に家を建てた人のようだと。
聞いても従わない人は、砂の上に家を建て
た人のようで、風雨で倒れてしまうと。
御言葉を聞くだけでなく、聞いて行う事が
大切だと。みこころに従うことが大切だ。
私達はどんな家を建てているだろうか。
神を喜ばせるために生きているか。
それとも、自分の欲望を満足させるために
自分を喜ばせるために生きているか。
御言葉の上に建てているか。それとも自分
の思いの上に建てているか。御言葉の上に
キリストの上に建てるなら、人生のどんな
試練にも決して倒れない。


2002年05月08日(水)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」  (Uコリント12:9)

神はふさわしくない人々をよく用いら
れる。モーセは言葉の人ではなかっ
た。口下手で十分に語る事ができな
い人物だった。しかし、神はモーセ
を選び、立てられ用いられた。マタイ
は取税人だった。しかし、罪を悔い
改め、救いを受けた。神はそのマタ
イをきよめ用いられた。マタイの福
音書を記すために用いられた。彼
は自らの事を「取税人マタイ」と記
している。遊女ラハブは二人の斥
候をかくまい、約束の地へ前進
するために用いられた。なぜ、神
はそのように用いられるのか、ある
人が言った「自分が弱い時、出来
ない時は謙遜であり、神に頼る。
何も無い自分を通して、神が自由
に働く事ができるから」と。神は
取るに足らない者、弱い者こそ
用いて下さる。弱さをご存じの
うえだ。私達のすべき事は神の
導きに従う事だ。神の招きに応
じる事だ。今、何かの導きを
受けているか。神の力は弱さ
の中に完全に働く。


2002年05月07日(火)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・わざわいではなくて、平安を与える計画であり・・将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)


 子供の頃、パズルをした事があるだろうか。
何百、何千のピースを一つ一つ埋めて絵を完成
させる。一つ一つはばらばらで何の意味もなさ
ないように見えるが、それが集まると完全な素
晴らしい綺麗な意味のある絵となる。
私達の生活も同様だ。関係の無い個々の物事や
自体が散らばっているように見える。
それらが何のために何の目的で起こっているの
かがわからない。混沌としている。
しかし、神の光のもとでそれらが集約される時、
一つとなり神が教えたい事柄が浮かび上がる。
あなたは経験した事があるだろうか。
祈りの内に起こっている一つ一つをよく考えよ。
それらがつながって来るのを見るだろう。
ある日、一つの絵となり神のご計画を見る。
意味の無い事は一つも無い。


2002年05月06日(月)

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じまたわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)

 仕事が忙しくずっと家を空けていた父親は、
一段落した時、子供達を驚かせて喜ばせたい
と、ある計画を立てた。夏休みだったので海
水浴兼キャンプにした。
全ての準備を整えて、子供達を車で連れ出し
た。何も知らない子供達は、やがてブツブツ
不満を言い出した。「どこへ行くの」「もう
車に乗っているのは嫌だよ」飽き出したのだ
ようやく目的地につき、父親の意図を知った
時、子供達の喜びようは大変なものだった。
「だからパパをいつも信じている事だね」
と父親が言った。私達も神様に対して同様
だ。自分の思い通りでない事、自分にわか
らない自体にでくわすと、不平不満つぶやき
を神に向ける。信じている事が出来ない。
何で?どうして?と神を疑い、不信感を募ら
せる。神は常に最善を用意して下さっている
極みまで愛し配慮して下さっている。
いつも神様を信じている事ができるように。


2002年05月05日(日)

「なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください」(ルカ15:9)

あなたは物をなくした事があるだろうか。
それが重大な大切な物であればどうだ
ろう。どんなに捜すだろう。ある女性が
水仕事で指からはずした婚約指輪が
見当たらなかった。台所の至る所を
捜しまくった。床に落ちていないか、隅
から隅まで捜し、間違って捨てたかも
知れないゴミ箱、生ゴミ、食器の間、
食器棚、冷蔵庫等、ありとあらゆる
所を必死で捜した。この経験を思い
起こした時、ましてや、神はどんなに
私達を大切に思い、いとおしみ、捜し
求められるかという事に思い至った。
「わたしの目にはあなたは高価で
尊い。わたしはあなたを愛している」
神はあなたを捜し求め、あなたが
大切で尊くて、どんなにか愛してお
られる。その切なる思いはどんな
ものであろう。神は離れたあなたを、
ご自身の元に返すために、他の人を
送られる。あなたに助言し、忠告し、
御言葉を話してくれるその人に聞け。


2002年05月04日(土)

「主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。明けに、私はあなたのために備えをし、見張りをいたします」(詩篇5:3)

ある年老いた夫妻が息子宅へ遊び
に行った。そこには可愛い小さな
孫がいた。孫は大喜びで、祖父母
と楽しい時を過ごした。夕刻にな
り、そろそろ帰ろうとした時、孫
が帰らないでとせがんだ。「だっ
て、おじいちゃんとおばあちゃん
好きなんだもん」人は嫌いな人と
は一緒にいたいと思わないが、好
きな人、愛する人とはずっと一緒
にいたいと思うものだ。では、神
はどうだろう。あなたが神を愛し
ていれば交わりたいと思うはずだ。
そして神もあなたとの交わりをど
んなにか願い求めておられる。あ
なたは祈りと御言葉の中でどれほ
ど神と過ごしているだろうか。神
を愛するなら交わりを願い、神の
御言葉を愛し、御言葉を通して、
神のお心を知りたいと望むだろう。
神との交わりは喜びだ。神はあな
たが日毎に神のもとへ来る事を待
っておられる。


2002年05月03日(金)

 「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです」(ヤコブ1:14)

 
 雪が続いていた冬のある日、アイスバーン
に乗り上げスリップしてしまった。
ケガは無く、車もバンパーを少しぶつけたが、
どうも無かった。アイスバーンははっきりと
見えない。突然ハンドルを取られて、制御が
効かなくなる。誘惑も同じだ。油断している
時に突然来る。そして、ハンドルを取られる
ように制御が効かなくなのだ。脱線し、破壊
してしまう。明らかな誘惑なら、それとわか
るので避けて通れるだろう。どんなに危険か
をよく知っているからだ。
しかし、小さな誘惑に負けやすい。
こんな事ぐらい大丈夫、こんな事ぐらい皆も
やっている。それで足をすくわれてしまう。
立っていると思う者は倒れないように気を付
けよ。まず誘惑が来るのが日々の祈りやみ言
葉を聞く事に関してだ。少しづつ祈りから遠
ざかり神との交わりが弱まった時が要注意だ。
必ずそんな時に足元をすくわれる。
神との交わりに戻れ。



2002年05月02日(木)

「あなたは自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで・・盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録3:17)


 ある人が夕方に洗車をしていた。冬の夕暮れは
早くすぐに暗くなってしまった。
しかし、何て綺麗になったのかしらと満足してそ
の仕事を終えた。翌日、出勤のために外へ出て車
を見ると綺麗になったと思っていたのが、何と汚
れが取れてはいなかった。暗い中で見えなかった
のだ。「明るみに引き出される者は、みな、光に
よって明らかにされます」とのみ言葉を思い出し、
霊的教訓を得た。自分の人生、信仰生活は何の問
題もないと考える。しかし、義なる神は、私達の
生活に、心に光を当てられる。
悪い習慣や、隠れた罪を照らされる。
光が来ると、どんなに汚れていて、どんなに変え
られなければならないかに気づく。暗い中では汚
れていて平気なのだ。神が罪を赦し強制し、正し
い道へと導いて下さる。


2002年05月01日(水)

「彼の容貌や背の高さを見てはならない・・人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る」(Tサムエル16:7)


 ある女性が証ししていた。小さい頃から
優等生で、ずっと良い子だった。
学校で成績は良く、行状も良く、言われた
通りにやり、家でも母親を手伝った。
掃除や洗濯もやり買い物にも行った。
サムエルが時期の王だと確信したエリアブ
も良い人だった。背が高くハンサムで見栄
えが良かった。皆に好印象を与えていた。
預言者サムエルさえ主が選ばれた人物だと
間違った。しかし、神は王として彼を選ん
でおられなかった。神の目にはうわべは大
切な事ではなかった。良い人に見え、良い子
に振舞う事は、自分の心の内にあるものに比
べれば大した事ではない。
私達は聖霊の促しを無視し、不平不満、怒り
つぶやきを心に押し込める。
外側はよい顔をし、心の中で人を殺し、人を
侮り、見下し、また妬む。神は外側を見られ
ない。あなたのその心を問題にしておられる
主が見られるように自分自身を、又、物事を
見れるように。