2015年11月30日(月)

「神よ。私を探り、私の心を知ってください・・私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、わたしをとこしえの道に導いて下さい」詩編139:23 



     
ある人が、職場で人に辛く当たられた。怒り、裁く心が出て来る。
しかし自分はクリスチャン、うまくやって行こうと努力した。辛く
てずっと祈っていた。相手が自分を嫌い、受け入れてもらえないと
感じていた。こちらサイドでは、感情は抑え、礼儀正しく接してい
た。

そんな中、配置換えになった。もう毎日顔を合わす事も無い。人間
的には安堵なのだが、何か心の奥で感じるものがあり、御前に静ま
り祈っていた。その時、嫌われていると思っていたが、実は自分が
相手を受け入れていなかった事を示された。相手を拒んでいたのは
自分の方だった。悔い改めて、心の奥がすっきりした。御霊の示し
に感謝した。

ある人は、気分屋の上司の下にいた。ミスすると雷が落ちたように
怒鳴る。大量の仕事を押しつけられ、嫌みを言われ、時には暴言、
辛くてたまらなかった。出社拒否になりそうな中、祈っていると
「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、自分でわ
からないのです」に、そうなのだ、あの何をしているかわからない
上司は赦されなくては、と思った。

だが平安も喜びも無く、じっと御前で祈った。すると御霊が示され
た。何をしているかわからないのは自分なのだと。上司を裁き、憎
み、敵対心で一杯の自分。だから平安が無く苦しい。その事を悔い
改めた時に、心が変えられた。鉛のような重苦しさが消えて、赦さ
れた平安で一杯になった
-------------
押さえ込んでいる心の底の本音を主は知っておられ、主と調和して
いけないときには示してくださる。「助けてください、平安を与え
てください」の祈る中から、御霊の導きに明け渡して行きたい。


2015年11月29日(日)

「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」T サムエル1:10



ハンナには子供が無かった。もう一人の妻、ペニンナには子供があ
ったが、夫がハンナの方を愛している事を妬み、ハンナに辛く当た
っていた。ハンナは、ペニンナによるいじめ、周囲の無理解と好奇
の目、夫にも苦しみをわかってもらえない辛さ、孤独、寂しさ・・苦
しい状況にいた。

しかし「主が彼女の胎を閉じておられた」とあり、子供ができない
のでなく、主があえてハンナの胎を閉じておられたとある。主の御
心とご計画があった。主が、ハンナにこの苦しみと悲しみ、辛さを
通されたのであった。夫の「あなたにとって、私は十人の息子以上
の者ではないのか」の言葉は、妻にとって慰めにならない。

「食事が終わり、ハンナは立ち上がった・・彼女は主に祈って、激し
く泣いた」。祈りのために立ち上がった。主に向かって叫んだ。心
の何もかもを主にぶつけた。祈りに持って行った。厳しく辛い中を
通ったが、ハンナはその祈りが聞かれて、子供を授かった。大きな
喜びを得た。

その祈りにより産み出された、サムエルは、霊的暗黒時代に、民を
導く指導者として用いられて行く。辛さ、苦しみ、行き詰まりによ
り、ハンナは祈りへと追いやられた。主はその祈りに答えられた。
今、あなたも行き詰まり、苦しみ、悲しみがあるだろうか。

祈りに持って行くようにとの主からの合図だ。主は、その問題を、
祈りを通して御心の解決へと導き、そして祈りを教えたいと思って
おられる。

・・・・・・・・・・
ハンナは心定めて、祈ることを決意し、祈りのために立ち上がった。
洗いざらい、心を注ぎ出して祈りきった時に、エリからの言葉を受
け、心はすっきりし、晴れやかになった。どんな時にも、何でも祈
れることが、何と感謝だろう。


2015年11月28日(土)

「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをし あわせにするためであった」申命記8:16 

    
     
「主は、苦しめ、飢えさせ」とある。主が「苦しめ」「餓えさせ
る」と。信仰人生で、種々の悩み苦しみにそうぐうする。すると私
たちは戸惑い、いぶかる。信仰するなら、祝福して下さるはずでは
ないのか、病気にならず健康で、商売は繁盛で、畑は豊作で、受験
は合格で、良いもので満たして下さるのではないのか。

だが、現実は、病気から奇跡的に治る人もいれば、病気のままの
人々もいる。富んでいる人もいれば、非常に貧しい人もいる。畑は
不作にもなるし、受験は不合格もある。しかし、それは祝福されて
いないのではない。身体的、物質的、霊的に、あなたが飢え、苦し
む時は幸いだと言われる。なぜなら、その時にこそ、神を知り、天
からのマナを食するからだ。

対人関係は良好、経済的、環境的に「安定」している時、人は神を
求めない。その「安定」が崩される時、初めて目に見えないものに
目を向け、見えないものを求め出す。それは、人がパンだけでなく、
御言葉によって生きることを体験する時とされ、又、その苦しいプ
ロセスにおいても「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、は
れなかった」必ず守られる。

そして、良い地に導き入れられる。御霊による喜びと平安を知る。
そして「ついには、あなたをしあわせにするため」、通って良かっ
たと思える。主を知るからだ。喜びに満ちる。

・・・・・・・・・・・
様々な苦しみを通るが、そこでしか知ることの出来ない、主ご自身
を知る。そこでしか聞くことの出来ない御言葉を聞く。その時に、
状況に全く関係の無い、御霊の喜び、御霊の平安が心に臨む。良い
地に導き入れられる。


2015年11月27日(金)

「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」マタイ22:3 



王子の結婚披露宴に招待されている、その客はイスラエルであり、
王のしもべは預言者達だ。披露宴が整い、王はしもべ達に、招待客
を呼びに行かせた。しかし王の招きに応じなかった。再度、別のし
もべを遣わし招待した。だが彼らは、王の心のこもった招待など気
にもとめず、畑に、商売にと出て行った。畑や商売の事など披露宴
後でもできる事だ。

神は、愛を込めて招いて下さったのに、不要と拒否した。更に断っ
ただけでなく、王のしもべ達を殺害した。王は怒り、兵を出し、そ
の人殺し達を滅ぼし、町を焼き払った。主は、彼らを熱心に救いへ
と招くが、それを拒否する姿だ。これはイスラエルだけでなく、私
達もどうだろう。仕事、勉強で多忙だ、趣味で、子育てで時間が無
い。いつも神のための時間がない。

要するに皆、自分の事をしたい。自分の好きな事をしていたい。主
のために、一生時間がないままだろうか。時間が無いのではなく、
神より多くのものを優先している。神はあなたを愛して、あなたへ
の特別な御心とご計画を用意しておられる。あなたを、今の場所に
遣わされたのは神だ。

たまたまそこにいるのではない。ご計画の一環だ。あなたの境遇、
使命、将来を「何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけくださ
い」と、すべて最善のものを神は整えて提供しておられる。それを
「気にもかけず」に自分の事に忙しいだろうか。主の招きに応じる
時、喜びと祝福の日々とされる。
-------------
目の前の事が大きな勢いに思え追い立てられるとき、主との交わり
を後回しにしている事に気付く。神の国と神の義をまず第一にと、
今朝また主は招いてくださった。


2015年11月26日(木)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります」Uコリント3:16




人からの言葉で傷つく時、自分の反応を考える際に、もし、自分の
知らない外国語で批判され、悪口を言われたらどうだろう。何を言
っているのかわからず、何も感じないだろう。怒りを感じるだろう
か?感じようがない。わからないのだから。という事は、母国語で
発せられた場合は、自分が反応するから、怒りが生じるという事に
なる。

相手がどうのでなく、あくまでも、反応する自分の問題ということ
になる。怒りが湧く、傷つく、なぜその言葉に自分が反応するのか、
心の内にあるものを探り、よく考えてみよう。内に潜む何かがある
から触発され、反応している。プライドに触れるのか、虚栄心か、
劣等感か、誰にも知られたくない弱さに触れるのか、心の何かに反
応している。

認めたくないし、誰にも知られたくないかも知れない。しかし、人
が主に向くなら、視点が変えられる。自分の本当の姿を認め、光に
出す時、解放され、自由にされる。平安に代えられる。認める時に
初めて、ありのまま受け入れられている事がわかる。神が受け入れ
て下さっているなら、何を恐れよう。

「全き愛は恐れを締め出します」人を恐れているので、自分を隠す。
こんな醜い自分が受け入れれられるはずがないと。その恐れを消す
のは、恐れの解決は、神の愛だ。「わたしの目には、あなたは高価
で尊い。わたしはあなたを愛している」と、神に無条件の愛で、愛
されている、それを信じ、そこに立つ時に、恐れから自由にされる。   
------------
主のご愛は私たちがどうであれ変わらない。人の目や評価に傷つき
反応するとき、静かに御言葉に耳を傾けよう。完全に受け入れられ
ている喜びに満たされてくる。


2015年11月25日(水)

「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます」詩 編138:8

 

パウロは、「御霊の示しにより・・私はそこに行ってから、ローマも
見なければならない」と、ローマ行きを示されていた。しかし伝道
旅行後、エルサレムに寄った時に、余りの群衆の騒動、混乱に、千
人隊長が弁明を許すと、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生
かしておくべきでない」と人々に殺害されそうになり、大混乱にな
った。

捕らえられてしまい、ローマに行く事は全く不可能に見えた。しか
し、監禁により、返って暗殺者から守られる事になり、そして不毛
の裁判のように見えたが、それは総督のペリクスやフェストに証し
をする機会となった。又、丁度アグリッパ王がフェストに会いに来
たため、王にも福音を語る機会が与えられた。

パウロは、更にローマ皇帝に上訴したため、これがローマへの道を
開き、パウロの思いとは異なり、囚人としてであったが、ローマに
向かう事になった。その船が幾日も大変な大嵐に会い、皆が、もう
だめだと思ったほどの絶望的な状況だった。しかし、パウロは必ず
カイザルの前に立つとの、神の言葉を信じ、皆を励ました。船は座
礁したが、全員が無事に岸にたどりついた。

「こうして、私たちはローマに到着した」。ローマ行きが見事に実
現した。そこで証しし、福音を伝えた。どんなに障害があり、妨害
があっても、神は必ず御言葉を実現される。神が語られた事は100
%成就する。あなたは今、苦しい状況だろうか。「こうして、ロー
マに到着した」。必ず、あなたに約束された御心は成就する。信じ
ていよう。

・・・・・・・・・・
「ローマでも証しをしなければならない」とパウロに語られた御言
葉が実現した。与えられた御言葉を信じ、御言葉に立つ時、見える
ところ正反対の状況であったとしても、不思議な平安に心は守られ
る。御言葉を信じているだけで良いことを、経験させられて行く。


2015年11月24日(火)

「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった・・ナボテが「私の先祖のゆずりの地をあたなに譲れません」と言ったからである」T列王21:4




アハブ王がナボテに、彼のぶどう畑が欲しくて譲るよう言った。も
っと良い代わりを与えるからと。しかしナボテは断った。これは正
当な事であった。律法に先祖から受け継いだ土地を、売ってはなら
ないと定められていたからだ。もし貧しさゆえに、土地を売った場
合にも細かい定めがあった。

買い戻しの権利のある親族が買い戻さなければならない。神の定め
であり、ナボテは神に従った。するとアハブ王はすねて、不機嫌に
なり、激怒した。「寝台に横になり、顔をそむけて、食事もしよう
としなかった」。自分の要求が通らず、思い通りにならないので、
ふてくされて、何もしたくない。アハブは自分が正しくないことは
わかっていた。

間違いだとわかっていても、自分の要求が通らないことに腹を立て
る。どこまでも欲望を通そうとする。間違いを間違いと認めない時、
更に罪に進み、罪を重ねて行く。結局、妻のイゼベルによるそその
かしと策略により、ナボテを殺害する。私達も、自分の間違いは、
はっきり認めよう。でなければ罪に更に罪を重ねて行く。

又、自分の思い通りにならない時、そこに門を閉じておられる主を
認め、へりくだって、主の御心を受け入れよう。別の門が開かれる。
最善の道が用意されている。自分の欲望でなく、主と主の御心を第
一にする時、真の満足と御霊の喜びを得る。何にも代えられない。
-----------
強い思いと御言葉が相反するとき、素直に従えない自分を知るが、
自我を押し通すと遠回りの道を行くことも十分知っている。主に従
えない者ですと祈っていたい。


2015年11月23日(月)

「主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた」詩篇46:8



主は「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と。「やめよ」と
は、人間の力、人間的な知恵、方策による、肉による様々な工作を
やめよということだ。肉の知恵と力で戦うのではない。まさにその
肉こそが、神の働きを妨げ、神の栄光を奪う。その肉に死に、自分
に死んで、御霊に委ねて、御霊の支配と導きに従って行くのが信仰
生活だ。勝利は神から来る。

又、動くことをストップして、主の御前に静まることだ。「やめよ」
目に見えるものから目を離して、見えない神の御前に向かうことだ。
どうしても動き回る私たちは、ブレーキをかけないと止まらない。
しかしストップして、主に向かう時に、霊の目が開かれて、神に委
ねるようにと導かれて行く。神を神として行くようにということだ。

信仰生活で、色々な出来事が起こる。不安な事、思い煩う事、恐れ
る事態、その時こそ「わたしこそ神であることを知れ」る時だ。自
分の力と思いで行動して行く時、神が神であることを、決して知る
ことができない。人間的工作は止めて、目に見えない神の前に静ま
り、信じて行く時に、初めて主こそが「わたしこそ神である」こと
をる知る。

私たちは何かが起きると、まず動こうとする。自分で処理できると
思ってしまうからだ。しかし、幾ら動き回り、何とかしようとして
も、神のタイミングでないと、何一つ動かない。「神はわれらの避
け所、力、そこにある助け」だ。必ず折りにかなった助けがあり、
奇跡がある。「主のみわざを見よ」だ。
------------
何かあると目の前の助けを求めて動き出したくなる。また知恵はフ
ル稼働する。「やめよ」の主の御声に従おう。静まり、祈り主が共
にいてくださること、まず主にある平安に満たされよう。


2015年11月22日(日)

「私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについ て、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます」Uテモテ2:7



主は、よく考えよと言われる。理性と知性は神からのものだ。「知
性を尽くし、あなたの神である主を愛せよ」とも言っている。主は、
祈りの中で知性を使って、信仰生活に必要な導きを判断できるよう
にして下さる。些細な事は、例えば、どの服を着るか、コーヒーか
紅茶か・・等は、常識で判断して行なえば良い。

神はある時、常識を超越した事をされる事がある。しかし決して非
常識な方ではない。信仰は非常識ではない。「神が混乱の神ではな
く」秩序の神だ。「すべてのことを適切に、秩序をもって行ない」
又、「愛は・・礼儀に反することをせず」礼儀に反する事もされない。

目の前の状況もよく見て、判断する事が大切だ。一羽の雀すら、父
のお許しなしに地に落ちる事はない。身に起こる出来事の一つ〃が、
全知全能の御父の支配の中だ。状況を通しても、主は語ろうとされ
ている。

ある時、突然、門が閉じられる事もある。アジアで御言葉を語る事
を閉じられたパウロのように。ビテニヤの方へ行こうとしたが、そ
れも閉じられトロアスに下った。そこで幻を見てマケドニヤに渡っ
た。門が閉じられる事は、別の導きがあるという事だ。パウロは
思いを越えてヨーロッパ伝道へと導かれた。

祈りの内に、御言葉や状況に目を留めつつ、神の下さった理性や知
性を用いて、神の導きを判断して行こう。神は助けて下さる。御心
の道は最善であり最も安全だ。

・・・・・・・・・・・
出来事、環境を自分視点で見るなら、わからない。不満、愚痴、屈
折、落ち込みへと向かう。だが、主に向いて行く時、環境は主から
のもの、一つ一つの事で教えようとされている事を祈り考えて行く
と、パズルが解かれるように光が見えて来る。主に向いて祈ろう。


2015年11月21日(土)

「ろばは主の遣いが抜き身の剣を手に持って道に立ちふさがってい るのを見たので、ろばは道からそれて畑の中に言った」民数記22:2 3


「不義の報酬を愛したバラム」と出てくるが、イスラエルが勢力を
広げて行く事に、恐れをなしたバラクが、バラムを雇ってイスラエ
ルを呪わせようとした。神はバラムに「行くな、呪うな」と言われ
たにもかかわらず、報酬に目がくらみ、バラムはバラクと共に行く。

そこに抜き身の剣を持った主の使いが現れ、行く手を阻んだ。ロバ
には見えたが、バラムには見えなかった。ロバが止まらなければ、
命は無かったところだ。主が止められた。

ある人が、高額の報酬と自らの才能も発揮できる職場に誘われた。
周囲の反対もあり、薄々は御心でないと感じつつも、その魅力に負
けて転職した。やはり高収入の分、仕事は極度に忙しくハードで心
身消耗し、クタクタに疲れ、段々、神のための時間は失せ、神から
離れて行った。後に主のもとに立ち返れたが、痛い刈り取りをした。

私達にも誘惑は来る。金持ちになりたい。これは単に金銭ではなく、
名誉や地位や人からの賞賛を求め、注目を浴び、人の上に立ちたい
野心であり、又、自己実現したい心だ。誘惑に目がくらみ方向が見
えなくなる。間違った方へ進んで行く。しかし聖霊が阻止されるの
は、あわれみだ。

今も、あなたへの警告があるだろうか。耳を傾けよう。人からの忠
告、ぎくしゃくする環境、平安の無い心、それらは向きが違ってい
る。世と世の欲は滅びる。しかし、御心を行なう者は永遠にながら
える。神の御心を行なう事が最も祝福された人生だ。何かぎくしゃ
くする状況であれば、心静めて御心を求めてみよう。

・・・・・・・・・・・
何か心に平安がない、環境が閉ざされたり、また、ギクシャクして
いる、何かしっくりこない・・そんな時は、反対方向に向いているか
も知れない。思いが強いと気づかない。よくよく祈ってみよう。軌
道修正して導いて下さる。


2015年11月20日(金)

「どうぞ、あなたの耳を傾け、あなたの目を開いて、このしもべの祈りを聞いてください」ネヘミヤ1:6




ネヘミヤはハナニから、エルサレムの城壁が崩され、門は火で焼き
払われた状態である事を聞いた。非常なる悲しみで、断食して、神
に祈った。祈りの中で重荷がますます増し加えられ、4ヶ月後に王
の前に出た。しおれた悲しい顔つきであり、それを見た王がネヘミ
ヤに尋ねて来た。心に何か悲しみがあるに違いないと。

この時、ネヘミヤは王に率直に心の内を話した。すると、王の方か
ら「何を願うのか」と聞いて来た。王はネヘミヤの心の重荷を察し
た。そこで、ネヘミヤはユダの地へ送って再建させて欲しいと願っ
た。王は願いを聞き入れ快く送り出してくれた。ネヘミヤはまずエ
ルサレムの現状を知った。

私たちの信仰生活も同様だ。まず現状を、目の前の問題を見せられ
る事によって重荷が与えられる。まず見ない限り、重荷の持ちよう
がない。具体的にそれを祈りに持って行く時、更に重荷が加えられ
る。ネヘミヤは重荷が増し、何かをしたいと思った。その願いは答
えられ、神により環境が目の前に次々と開かれて行った。すべての
必要が備えられた。

私達もまず現状を正しく認識するところから重荷が生じ、祈りによ
って更にその重荷が深められ、具体的に行動するように導かれる。
あなたにも今、主が見せておられる事態があるだろうか。まず祈り
に持って行こう。御心のままにあなたを用いて下さる。
----------
与えられた祈りの課題や執り成しの祈りを、自分の事として祈るた
めに深く知っていきたい。簡単に祈りにもって行くが、どこまで知
っているだろう。的を得た祈りを主に献げたい。


2015年11月19日(木)

「妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた」使徒5:2 



アナニヤとサッピラが持ち物を売り、一部を取りのけ、使徒たちの
もとに持って来た。しかし、ペテロはそれを「企み」だと言った。
「サタンに心を奪われ、聖霊を欺いた」と。「妻も承知のうえで」
とあり、つい魔が差した、でき心ではなく、夫婦共謀の確信犯だっ
た。その前にバルナバが畑を売り、皆の賞賛を受けたのを見て、自
分達もその賞賛を求めた。

だがバルナバや献げた人々には「信仰」があった。全部献げた後、
もし、働けなくなったら?その時は、主が、必ず必要を与えて下さ
ると信じていた。だから献げた。だが、アナニヤとサッピラにはそ
の信仰が無かった。恐れと不安ですべてを献げる事ができなかった。
しかし、全部献げなくても構わない。一部なら一部で良い。一部で
すと献げるなら、主はそれを喜んで受け取って下さる。

全部の「振り」をしない事だ。信仰深い振り、霊的な振り、それが
欺きとなる。アナニヤとサッピラは、主を信じながらも、自分の思
いと自分の力で人生を歩んでいた。だから目に見えない神ではなく、
目に見える人の評価や評判を求めた。人に認められたい。だから信
仰深い振りをするよう誘惑される。

「献げられない」「その後が不安」「人に認められたい」と主の前
に正直に認めよう。その時、主に確かに触れる。そこに主が働かれ
るので、自分が変えられて行く。
----------
信仰に自分の企みも少し混ぜて人前に差し出す誘惑はいつも来る。
振りに欺かれているのは、人ではなく自分だ。主の前に正直な自分
を認め、主に受け入れられていることの平安をまず受け取ろう。


2015年11月18日(水)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16




新生した時に、新しい性質が与えられる。しかし古い性質=肉もあ
り、常に対立して、激しく戦う。背後でサタンも古い性質に働いて
来て、御霊に従うことを妨げる。神は「御心を行ないなさい」と言
われる。しかし、肉は「時間、労力、富、犠牲を払うのは大変だ。
したくない、面倒だ」と言う。サタンは「しなくてもいいのでは」
と正反対の事をささやいて来る。

「敵を愛しなさい」と言われると、肉は「そんな事できない、無理」
と言う。そしてサタンは、あの事、この事、された嫌な事を次々と
思い出させる。従う事から遠ざて行く。神は「自分で復讐するな。
わたしがする」と言われ、肉は「腹が立つ、おさまらない。仕返し
せよ」と言う。肉とサタンは、御霊の導きと正反対に誘導して行く。

肉の思いは溢れるように湧き上がる。肉の願う事は御霊に逆らい、
御霊は肉に逆らう。この二つは互いに対立し、相容れない。肉の思
いは神に反抗する。「御霊によって歩みなさい」は命令だ。「でき
たら歩んだ方が良い」のでなく、「歩め」だ。歩めと言われるから
には、必要な力は与えて下さる。

まず、自分には出来ない事を認めて、主に祈ろう。御霊に拠り頼も
う。御霊の力にすがることだ。絶えず主との交わりの中に生きるこ
とが大切だ。御霊に頼るなら、肉の欲望に支配されてしまうことは
ないと。御霊に自分自身をお任せしよう。
-------------
肉は御霊に逆らうから選び決断して歩まなければ方向はずっと正反
対だ。必要な力は与えられている。肉の思いはその都度、主に頼り
御霊の導きに委ねていこう。


2015年11月17日(火)

「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる」創世記31:3




ヤコブは、自らの罪のために、家を出なくてはならず、一人で、野
宿となった。石を枕に、どんなに淋しく、孤独で、不安だった事だ
ろう。そんな彼のかたわらに主が立たれ「あなたの子孫は地のちり
のように多くなる。わたしはあなたと共にあり、あなたをこの地に
連れ戻す」と約束された。

しかし、その約束の成就に、1年や2年ではない、20年の歳月を要
した。長い年月だ。私たちは待てない。待つ事が苦手だ。しかし、
神は、地道に、歳月をかけながら、こつこつと私たちを導かれる。
今の1日〃は、主に在って、練られきよめられ、造り変えられる途
上にあり、決して無駄な日は無いという事だ。

必ず時は満ちて「神の時」は到来する。約束が、成就して行く時に
は、よく見ていると予兆がある。状況が少しづつ変化して行く。ヤ
コブの状況も変化して行った。ラバンの息子達が、ヤコブが父の物
を盗んだとの言い方をする。ラバンの態度も好意的でなくなり、こ
のままなら争いとなり、問題が起きそうだ。ヤコブへの態度が違っ
て来て、微妙な空気を感じ取る。

そんな時に、はっきりと主の御声が臨んだ。「さあ立ってこの土地
を出て、あなたの生まれた国へ帰りなさい」。今こそ約束の時が来
た。私たちも、状況の変化を見落とさず、よく見ていよう。そして、
神の御言葉が臨む時、御心へと行動を起こすべき時だ。約束は実現
されて行く。また、待ち望む時であれば、主を信頼して待とう。必
ず、神の時が来る。
-----------
長い年月、主のご計画の途上を歩んでいる。決して無駄な一日はな
い。目の前のことで一杯〃でも気付くと押し出されるように導かれ
た経験があるのではないか。どの途上も主が共にいてくださる。


2015年11月16日(月)

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」T列王19:4


エリヤがバアルの預言者達と戦って、天から火を降らせるという、
驚くべき奇跡を成し遂げた後、非常なるストレスから心身消耗、燃
え尽き症候群のような状態に陥った。鬱となり、死にたいと願った。
疲れ果ててしまい、限界状態だった。エリヤはこの危機にどのよう
に導かれたのか。

「死にたい」と言ったエリヤを、神は一言も責められない。これは
何と大きな慰めだろう。私たちも程度の差はあれ、生活で、仕事に、
育児に、対人関係に、時に疲れ果てる。何もかもが重荷となり、気
力が無くなり、もう早く天に帰りたいというほど、落ち込むかも知
れない。しかし、そんな時、主は深くあわれみ、同情して下さって
いる。

主はエリヤをとがめも、責めもせず、思いやり、いたわり、休息を
与え、食事をさせ、元気づけられた。充分眠らせられ、まず心身の
休息を与えられる。極度のストレスに陥ると、正常な思考が出来な
くなってしまう。必要なものは休息だ。パンを食べ、水を飲んだ。
主ご自身が命のパンであり、命の水であられる。新たなる力を得て、
エリヤはホレブ山まで歩いた。

ほら穴でひきこもっていると、そこを出て、山の上に立ち、主の前
に立てと示される。エリヤの間違った思い込みを訂正し、主はエリ
ヤに新たなる使命を与えられた。再び、立たせられる。今、疲れて
いるなら、その状態を理解し、思いやって下さる主のもとへまず行
こう。
------------
疲れ、下向きになっている自分を、自分自身が受け入れられない場
合がある。主はすべて受け止めてくださる。下に下に行くとき、主
にすがろう。良い時にまた立ち上がれる思いを与えてくださる。


2015年11月15日(日)

「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手 にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その 行ないによって祝福されます」ヤコブ1:25


聞いた御言葉を実行する時に、初めて実を結ぶ。聞くだけで、実行
しないなら、自分を欺いていると言っている。まず御言葉の聞き方
はどうだろう。自分の事として聞かず、他人事、傍観者として聞い
てしまう。あの人に、この人にぴったりだった・・。種蒔きのたとえ
の、道ばたに落ちた種だ。

自分に語られた言葉として受け取らないなら、心に入ることがない。
又、この御言葉はもう知っている、との態度で聞く時にも、頭で聞
いているので、心に入らず、とどまることがない。サタンが種を奪
って行ってしまう。種が根付かない限り、実を結ぶ事は決して無い。

私たちの聞き方はどうだろう。他の事を考えながら、御言葉を聞い
ていると、右から左へと何も残らず流れてしまう。サタンの妨害だ。
サタンが次から次へと思いを吹きつけ、御言葉を入れさせない。よ
く祈って御言葉を自分の事として受け取る時に、御霊の助けのもと、
心に入って来る。

その聞いた御言葉を聞くだけで実行しないなら、「生まれつきの顔
を鏡で見る人のよう」だと。鏡で自分の顔を見て立ち去ると、すぐ
に忘れてしまう。御言葉は鏡であり、自分の本当の姿を映し出す。
罪を示し、見えない心の動機を映し出す。

しかし、そこで悔い改めたり、矯正されるが、示しに従わずに立ち
去ってしまうと、必ず忘れてしまう。そこで悔い改めることが、御
言葉を実行することであり、その時に、確実に成長して行く。その
行ないによって祝福される。

・・・・・・・・・・・
御言葉が幾ら豊かにあっても、自分の心に根ざして行かないなら、
無いのと同じになってしまう。そして「種」が心に入ると、実行し
て行く力となる。自分に必要なのはまず聞く事だろうか。聞いた御
言葉を見つめて実行する事だろうか。


2015年11月14日(土)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



アブラハムは、神の約束を得てから25年間待ち続けた結果、イサク
を得た。アブラハム100歳、サラ90歳の時だった。気の遠くなるよ
うな忍耐の末だ。しかし、彼らも私たちと同じ人間であり、弱さが
あり、数々の失敗があった。時をを待ちきれずに、肉の思いで動き、
肉の手段を用い、イシマエルを産み出してしまった。

だが、アブラハムは信仰の人として賞賛を受けている。イサクを献
げるという、大きな試練が臨んだ時に、アブラハムは従順に従った。
驚くべきアブラハムの信仰だ。その彼に神は「あなたが、このこと
をなし、あなたの子、ひとり子を惜しまなかったから、確かにあな
たを大いに祝福し」と神から大きな祝福を受けた。

しかし、非常に厳しい試みだ。25年も待った目に入れても痛くない
最愛の我が子だ。そしてこのイサクから子孫が増え広がるはずだ。
この事はどうなるのか。イサクが途上で「いけにえの羊はどこに」
と問うた時に、彼は「神が備えて下さる」と答えた。彼はこの事に
おいて神を心底信頼した。しかしいけには無く、イサクをいけにえ
とし、刀を振り下ろす瞬間、阻止された。

そして、そこに羊があった。これは彼も知らなかった事だ。私たち
も一歩先は全く見えず、明日の事も知らない。しかし、神は知っ
ておられる。一歩一歩この神に信頼し委ねて歩む時、一生涯の間、
「主の山の上に備え」を経験して行く。

・・・・・・・・・・
全く先の見えない中で、御言葉を頼りに、主を信じて、一歩を踏み
出す時に、「主の山の上に備えあり」を経験する。踏み出さなけれ
ば、決して主を知ることはない。見えない、真っ暗なな中を一歩踏
み出すのは勇気が要るが、その信仰により、豊かに祝される。


2015年11月13日(金)

「それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」申命記8:16



エジプトを出たイスラエルは荒野を通された。「燃える蛇やさそり
のいるあの大きな恐ろしい荒野」だ。困難で苦しく辛い状況だった。
私達も、時に荒野を経験する。突然のリストラ、失業、経済的苦境、
対人関係での悩み、受験の不合格、突如の失望落胆、何でこんな事
が、との苦しい事態に遭遇する。

しかしそれは「ついには、あなたをしあわせにするため」とある。
最終的にはあなたを幸せにするための機会であり、必要ゆえにその
苦しみが今、与えられている。必ず祝福へと導かれる。神は完璧な
ご計画を持たれ、無駄な事は一つもされない。「あなたをしあわせ
にするため」との御心を受け止めよう。

ある中間管理職の男性が、苦しい役どころに立たされた。上からは
圧迫、下からは突き上げ、なぜに自分ばかりと辛い。目の前の苦し
みに祈りに祈っていると、「あなたを苦しめ、あなたを試み、つい
には、あなたをしあわせにするため」と語られ、自分の成長のため
に不可欠であり、自分が幸せになるために、どうしても通らねばな
らない授業と、御言葉に立った時、信仰もって前向きに受け止める
ことができた。

そして、その試練の行程の中で、沢山の教えられる事があり、深い
霊的恵みを味わった。試練が来ると「なぜ?なぜ?」となるが、神
は「あなたをしあわせにするため」と言われる。試練のプロセスの
中に神からのメッセージがある。それを受け取る事こそが、大きな
恵みだ。
--------------
試練が神からのものと信仰で受け止められるのは感謝だ。行き詰ま
り、失望し人を妬んでしまう。試練には神のご愛とご計画がある。
それは、私を幸せにするためだ。


2015年11月12日(木)

「ダビデは言った。『ケイラの者たちは、私と私の部下をサウルの手に引き渡すでしょうか。』主は仰せられた。『彼らは引き渡す。』」Tサムエル23:12




その前に、ダビデはペリシテ人を打って、ケイラの住民を救った。
その後、ダビデを追うサウルが、ケイラに迫っている事を知った。
普通なら、ケイラの人々を助けたのだから、当然、サウルに追われ
ているダビデを助けるはずと思う。しかし、殺害を何とも思わない
サウルは、ケイラの人々を平気で虐殺するだろう。ケイラの人々も
それを恐れて、ダビデを渡すかも知れない。

ダビデは、その事を祈りに持って行き、主に問うた。すると、主は、
ケイラの人々はダビデをサウルに引き渡すと。そこでダビデと部下
600人は、すぐにケイラから出て行き、あちこちとさまよった。ダ
ビデがケイラから逃げたと知ると、サウルはダビデ討伐をやめた。
ダビデは、荒野や要害や、ジフの荒野の山地に宿ったりした。サウ
ルは執念深く、しつようにダビデをつけ狙ったが、神はダビデをサ
ウルの手に渡さなかった。

私たちも常に祈り、御霊の判断を仰ぐことが大切だ。助けたのだか
ら、助けてくれるというのが普通の判断だ。しかしダビデが肉の判
断で動いていたら、大変な危機を身に招いていた。人間的判断で、
行動してしまうと間違ってしまう。問題を招いてしまう。常に御霊
の判断、導きに目を向け、祈り心でいよう。主は御心へと導いて下
さる。その時、すべての面で安心だ。
-----------
こうしたから、こうなると安易な肉の量りは危険だ。当然だと思う
ときこそ、大切な主の御心が抜け落ちていく。些細なことも主に尋
ね、肉の思いから主の導きへ思いを明け渡そう。


2015年11月11日(水)

「彼らはエレミヤに言った『・・私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます』」エレミヤ42:5





人々は、預言者エレミヤに、自分たちのために主に祈るように要請
する。主が歩むべき道となすべき事とを示されるようにと。エレミ
ヤは、主に求め、その答えを告げる。「この国にとどまるなら、あ
なたがたを建てて、倒さず、植えて、引き抜かない。バビロンの王
を恐れるな。わたしは共にいて、彼の手からあなたがたを救い出す」
と。主はあわれみを施して下さると。

しかし、彼らは「告げられることばの通りに、必ず行なう」と言い
つつ、実際は従わずに、自分たちの判断で、エジプトに下る。自分
の思いと異なれば、従わない。ある人々は、牧師のもとに相談に行
くが、すでに心に答えを決めている。つまりは、自分の決めた事を
後押ししてくれる了承印が欲しい。自分の思いと違えば、又、別の
人のもとへ相談に行く。私たちもどうだろう。

御心がわからない、わからないと言うが、すでに答えを心の内では
決めていないだろうか。自分の思いに合致する御心を捜そうとする
ので、どこまで行ってもわからない。主に従おうとする時に、自分
の思いが大きな妨げになっているかも知れない。まず自分の思いを
脇に置いて、自分の思いと異なっても従いますの姿勢で、求めよう。

その時、御心を示して下さる。その示された御心に、どんなに犠牲
を払うとしても従って行こう。その時、私たちの思いを越えた素晴
らしい神のご計画が実現して行く。神のみわざが現われる。
----------------
自分の立場や感情に固執してなかなかすぐには従えない。良いこと
だと思いながらぐずぐずする自分の限界を知ろう。示された御言葉
から目を離さず、すぐに従えるように助けを祈ろう。


2015年11月10日(火)

「主が来られ・・『サムエル。サムエル』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた」Tサムエル3:10



少年サムエルは、エリのもとで、養育されていた。ある時、突然、
主からの御声が臨んだ。エリの指示により「お話しください。しも
べは聞いております」と答えた。すると、その一番初めの主からの
メッセージは、エリの家への裁きであった。「彼の家を永遠にさば
く。自分の息子たちが呪いを招くような事をしていながら戒めなか
った罪による」と。

自分の師であるエリに伝えるには非常に、厳しい辛い言葉であった。
サムエルはエリに語ることを恐れたが、主の言葉をそのまま伝えた。
預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に語る人のこ
とだ。どんなに痛い辛い言葉であろうと、その通りに語らねばなら
ない。これから預言者として立てられるサムエルへの、最初のテス
トであったかも知れない。

私たちも「しもべは聞いております」、喜んで聞きますと主に向か
いつつ、しかし、自らの罪を指し示され、自らの姿を照らし出され
る痛い言葉、自分の願いと異なる辛い言葉、矯正の厳しい言葉
は聞きたくないだろうか。耳をふさいでしまうだろうか。痛い言葉
こそが恵みの言葉だ。

自分が変えられ成長して行ける。主から語り続けて頂くためには、
痛い言葉にこそ耳を傾けよう。「愛している」「共にいる」「すべ
ての必要を与える」「願いを聞く」そいういう言葉を聞く時だけが、
「恵まれた」と思っていないだろうか。
-----------
受け取らず聞き流そうとすれば、なにも学べない。主から教えられ
ないことが、主からの祝福を遮断する。一番の罰ではないだろうか。
痛い言葉がありがたい。


2015年11月09日(月)

「ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。『では、安心して行きなさい・・』」Tサムエル20:41




サウルはダビデが気に入り、自ら召しかかえた。ダビデはサウルに
仕え、戦いに勝利を重ねて行った。そんな時、女たちの「サウルは
千を打ち、ダビデは万を打った」との言葉を聞いた時に、サウルは
妬みに支配され、ダビデを疑心暗鬼で見るようになった。ダビデへ
の妬みは憎悪となり、殺意となった。

何とある時、ダビデを殺そうと、槍を投げつけた。その槍は壁に突
き刺さった。そんなダビデに主が共におられたので、ダビデはます
ます大勝利を収め、サウルは更に恐れた。ダビデはずっとサウルに
命をつけ狙われたが、ダビデは決して報復しようとはしなかった。
サウルが、神から油注がれた王であり、ダビデが神を畏れていたた
めだった。

どんな危険があっても、神が自分を守って下さると信じていたので、
自分で自分を守ることをしなかった。しかしサウルは、ダビデに自
分の地位を奪われるのではと怯えた。そして、息子ヨナタンのため
だと言いつつ、ヨナタンがダビデをかばうと、ヨナタンまでも槍で
打ち殺そうとする。どうしてもダビデを殺害したかったようだ。

ヨナタンは父親の固い意志を知り、主に在ってダビデの命を助ける
よう行動した。主がヨナタンを用いて、ダビデの命を守られた。
ヨナタンは自分の将来の地位ではなく、ダビデを守った。人の生き
死に、地位、境遇は「高く上げることは、東からでも、西からでも
なく、神が」の通り、すべてが御父の主権と、御心の中にあるとは
何と平安だろう。委ねて安んじていよう。
--------------
常に神に拠り頼み、神の主権の下にへりくだったダビデに習おう。
神は背後の全てを動かし、ご自分の計画を必ず実現される。


2015年11月08日(日)

「兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありませ ん」Tヨハネ2:10 

  

光の中にとどまる人は、決してつまずくことがない。人がつまずく
のは、光の中にとどまらないからという事になる。「光の中にいる
と言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にい
る」やみの中にいるしるしは、兄弟への批判、非難、悪口、憎しみ
だ。兄弟への批判、憎しみ、敵対心があるなら、私たちはやみの中
にいる。幾ら、自分は光の中にいると言っても、御言葉がやみの中
だと言っている。

逆に、兄弟を憎むのではなく、愛して行くなら、やみの中にはおら
ず、光の中におり、真っ直ぐに歩んで行けると。霊的に暗くなる時、
人や環境のせいだと思う。嫌な相手、嫌な環境のために憂鬱で、喜
びがなく、落ち込んでいると。しかし、実のところそれは原因では
なく、自分と主との関係が原因だ。

問題はあなたと主との関係にある。人や状況が、あなたと主との関
係を遮断する事など不可能だ。憎しみ、裁き、敵対心を悔い改める
時、主との関係が正しくされる。心が平安にされる。結局、原因は、
神以外のものを求めるところから来ている。人の評価や人から認め
られること、賞賛を求める時、神から離れている。

心が、神以外のものに向いている時に、必ず不平や不満、競争心、
敵対心、妬み、憎しみが出て来る。やみの中にいるからだ。問題が
絡み合い混乱してくる時、まず自分と主との関係に焦点を置こう。
そこが真っ直ぐになると、光の中だ。御霊からの愛で、兄弟を愛し
て行ける。

・・・・・・・・・・・・
人が主に向く時、おおいが除かれる。主に向いていない時、心にお
おいがかかっている。おおいがかかっているので、自分では正しい
と思い込んでいる。相手が悪いとしか見えない。主に向いて行く時
心が自由にされる。解放されて、平安にされて行く。


2015年11月07日(土)

「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」マタイ20:28



ゼベタイの子達、ヤコブとヨハネの母が、彼らと共に主にひれ伏し
て願った。主が王になった時には、自分の子達を右大臣と左大臣に
して欲しいと。そしてこの事を聞いた他の十人は、この二人の兄弟
の事で腹を立てた。結局、思いは同じであり、先を越された事に怒
ったのだ。弟子達の間では、互いの間に比較と競争が常にあり、関
心の的は誰が一番かという事だった。

そして皆が思っていた、自分が一番だと。この自己中心こそが、主
を見えなくさせ、御心を見えなくしてしまう。自分の価値観、自己
中心のフィルターでしか、物事が見えないため、神の心がわからな
い。主がこれから十字架にかかると告げられた、まさに「その時」
の出来事だった。何と的はずれな事だろう。自分の事しか無い。

しかし、私たちも同様だ。祈りが答えられない時、自分の願ったも
のでない時、反抗と不満で一杯だろうか。結局、神すら利用して、
都合の良いように叶えてもらい、自分の思い通りに生きたいという
自分。人に勝ちたい、上でありたい、支配したいという欲とプライ
ド。これが神の心を見えなくする。

主の答えはどうか。「仕える者になりなさい」であった。自己に死
なない限り、人に仕える事は出来ない。肉は人に仕えたくない、自
分の好きなように生きたい。そのような自分の姿を認め、主に明け
渡して行く時、主が仕える者に変えて下さる。
-------------
無力で、的外れな者を主がなおも愛し生かしてくださっていること
が喜びだ。自分が一番にと願っているなら、主の大切な御心を見失
ってしまう。主に従い仕えていく者に変えられたい。


2015年11月06日(金)

「競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものでなく・・すべての人が時と機会に出会うからだ」伝道9:11 



 

この世では、努力が必ず実を結ぶとは限らず、評価を得るとは限ら
ない。「競走は足の早い人のものではなく」早ければ必ず勝つわけ
でもない。訓練の成果を発揮できない事もある。転倒するかも知れ
ないし、その日たまたま不調かも知れない。オリンピック選手が本
番で緊張の余り失敗する例をよく見る。

「戦いは勇士のものではなく」能力があり、努力しても必ず出世す
るわけではない。コネで後の者が先になるし、上司との関係もある。
又、知識や知恵があるから、それに相応しい結果ともならない。収
入や財産も知識、知恵の正比例ではない。世では、強欲で不正手段
によって高収入を得、財を築く人々がいる。常に正しく評価される
とは限らず、不条理を感じる。

しかし「すべての人が時と機会に出会う」成功のために、どうして
も必要なものがある。それは「時と機会」だ。能力や努力と共に、
様々な要因がからまり合うが、そこには「時と機会」が不可欠だ。
そして、これを握っておられるのが神だ。神の主権と支配の中にあ
る。偶然は無い。時と機会がすべて主の御手に握られていると認め
る時、人は心に平安を得る。

そして、主は御心のままに、一人一人にふさわしく「時と機会」を
与えられる。成功は主による。どんな時にも神を見上げていよう。
今、もし、時と機会が来ているなら、それは神からであり、とらえ
て従って行こう。
-------------
神の時でなければ何事も成し得ない。全てのことを神に任せ、今の
時を感謝して歩もう。御心に逆らって辛く苦しい坂道を登っていな
いだろうか。


2015年11月05日(木)

「門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します」ヨハネ10:3 


 
      
「羊はその声を聞き分けます」とある。羊は、羊飼いの声を聞き分
ける事ができると。羊飼いは愛する羊を、その名で「呼んで」連れ
出すからだ。羊は良い羊飼いの声を聞き分けてついて行くのである
が、しばしば惑わす別の声も聞こえて来る。羊飼いの声を妨げる様
々な声で、盗人、強盗や雇い人だ。良い羊飼い以外の声だ。

サタンの声、人の声、自分の肉の欲から湧き上がって来る声がある。
それらの声がしばしば混線し、良い羊飼いの声と間違えそうになる。
肉の欲から湧く声は自分と一体になっているため、なかなかわかり
にくい。御霊の声と肉の声が判別つかなくなる。わからない時はま
ず自分の思い、自分の好みを明け渡す事だ。それは「イエス」でも
「ノー」でもOKですという事だ。

自分の思い通りでなくても受け入れます、との態度だ。そしてよく
よく祈るなら、必ず御霊の声、良き羊飼いの声がわかる。悪に誘惑
する声ならストレートでわかりやすいが、悪ではなく、罪でもなく、
一見合法的で、良い事に見えることに騙されやすい。

サタンは光の御使いに変装する。羊飼いに似せたサタンの声がある、
良い考えに思えるが、御心をそれさせる人間的な意見がある。最善
に見える、実は肉の欲の声がある。まず、白でも黒でも、右でも左
でも従います、の態度が大切だ。それさえあれば、必ず良い羊飼い
の声がわかる。
---------------
様々な声が内に外に聞こえる。強い思いは繰り返し自分に向かって
くるが明け渡せるように祈ろう。「イエス」でも「ノー」でもと祈ると、すぐ
に妥協点を提示してくるサタンの声がはっきりとわかる。


2015年11月04日(水)

「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な、曲がった今の世だ・・」マタイ17:17



救われた私たちは、今、この世にいる。この世とは、主が「不信仰
な、曲がった世」と言われ、ペテロも「この曲がった時代から救わ
れよ」と言った、サタンが支配し、力をもった世界だ。見える所だ
けを見るなら、不法、不義、不正、矛盾に満ちた罪の世界だ。私た
ちは、闇の勢力の支配する世にいる事をよく認識し、よく祈り、識
別して行かねばならない。

背後にサタンの「曲がった」この世は、常にあなたを誘惑し、攻撃
する。物事をまっすぐに、健全に、信仰的、肯定的に見させないよ
うにする。つまり、物の見方を曲げて来る。心を屈折させ、否定的
に見せる。ひがんだり、すねたり、疑ったり、心を頑なにする。つ
ぶやきと不満ばかり見せる。今も、あなたの心にこのような思いが
あるだろうか。いら立ち、つぶやき、疑心暗鬼・・それはサタンか
らの攻撃だ。乗って行ってはならない。

このような時代であり、世だからこそ、信仰的見方、態度が必要で
あり、大切だ。主はどう見ておられるか、主の視点に立つことが大
切だ。サタンは、絶えず疑いや混乱、分裂を持って来る。主は信仰、
秩序、一致、平安、喜びを持たらされる。ひがみ、偏狭、屈折、疑
心暗鬼はサタンだ。御霊からでは無い。心をよく見張っていよう。
曲がったものが、あなたの心に無いか。御霊は気づかせ、神視点へ、
信仰的見方へと導かれる。
--------------
主の嘆きを今朝は覚える。サタンが働く世に影響され不信仰に流れ
てしまわないよう気付きを祈ろう。主の御心の道はどっちか、正し
い道をわきまえていられるように。


2015年11月03日(火)

「主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」イザヤ61:1




人は皆、天に帰るまで肉の性質があり、罪赦された罪人だ。その
ためどうしても罪を犯してしまう。対人関係で、気づかないで、
人を傷つけてしまう。自分自身もまた、人から傷つけられる。そ
んな幾多の過去の傷があり、現在に至っている。その傷が心にあ
る時、素直に御言葉を受け取れない。ブレーキがかかってしまう。

信じて大丈夫なのか。本当なのか。又、裏切られるのではないか。
頭では御言葉を聞いているが、心の奥で、実は受け入れていない。
拒否している。頭では、信じているつもりだが、心の奥では愛を
信じていない。信じているつもりなので、その事に気づいていな
い。だから、神の愛がいまいちわからない。実感が無い。

又、御言葉を素直に受け取っていないので、「信じる者に働く神の
すぐれた力がどのように偉大なものであるかを」信じることができ
ない。神の力を受け取れない。うすうす傷に気づいているが、ふた
をしているだろうか。何か、神がわからない、愛がわからないとい
う時、そのまま正直に祈って行こう。

その祈りに答えて、御霊が心の奥にあるものに気づかせて下さる。
傷があるなら、まず向き合い、その傷を認める事が大切だ。又、逆
に「傷ついた」「〃」と、「あの人、この人が悪い」というが、実
は問題があるのは自分だと気づかせられる。主は、心の傷ついた者
をいやすために来られた。その傷はいやされる。
ーーーーー
罪も傷もない振りをして通り過ぎようとするが、心に痛いみ言葉に
出会い、心の中を照らし出される。主は様々な苦しみに捕らわれて
いる者に解放を、悲しむ者を慰めてくださる。


2015年11月02日(月)

「あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか・・しばらくの間現われて、やがて消えてしまう霧にすぎません」ヤコブ4:14




神が、私たちのための計画を持っておられるなら、あの事、この事、
自分たちが、計画を立てるのは良くないのではないか。将来の計画
を立ててはいけないと思っている人がいる。しかし、そうではない。
無計画の、行き当たりばったりが良いのではない。きちんと将来の
計画を立てることは大切だ。神を無視した計画が、愚かで無意味な
のだ。

肉の思いで、自分本位にではなく、祈りつつ、神と相談しながら、
計画を立てて行く。御心を求めつつ、計画するのは良い事だ。この
人は、町に1年いて商売をして、儲けようと言った。しかし、「明
日〜しよう」と言っても、明日の事はいっさい私たちにはわからな
い。命があるかどうかもわからない。あの愚かな金持ちは、すべて
が自分のものだと誇った、その晩に命を取られた。

命は、誰の手にあるのか。神無しの人生設計は、人間の高ぶりだ。
私達の命は消えてしまう霧のようだと言っている。それゆえ、神の
御前にへりくだって生きるべきだ。神を人生の中心に据えて生きる
時、人は初めて真の満足を得る。平安と喜びと生きがいを見い出す。
神無しの人生は結局無意味に終わる。

神の御心を求めて歩む歩みは、平坦な道ではなく、自分の思い通り
でもないが、決して後悔の無い、真に実りある人生だ。主は最高の
相談相手だ。ベストカウンセラーだ。どの道を進み、どの選択をし、
どう判断すべきか、主に相談するなら御心を示して下さる。今、不
安があれば立ち止まろう。そして主に相談しよう。
------------
神の御心を求め御霊によって導かれた人の歩みは、一見、同じよう
に見えてもやがて大きく違ってくる。その上に神の祝福があるから
だ。自分の知恵や力ではない神の恵みに生かされている。


2015年11月01日(日)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなの を知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6



アルコール依存症の人は、このように言い訳をする。どこに行って
も、飲酒の誘惑の無い所がない、テレビを見れば酒のCM、街を歩け
ば酒店だらけ、あちこちに誘惑があるから止められないと。酒があ
る事が悪いと。ギャンブル依存症の人も、ギャンブルが存在する事
が悪いと言う。環境が悪いのだと。

しかし同じ環境にいて、アルコール依存症にもギャンブル依存症に
もならない人々が大勢いる。これは環境のせいでは無いという事だ。
何が問題なのか。私達も形は違うが、同様だ。止められない習慣を
持っている。しかし、その問題の底にあるものは、「止められな
い」のでなく、「止めたくない」自分がいる。そこを受け止め、認
めない限り、問題の解決はない。

人一倍思い煩い症の人もいるが、本当は思い煩っていたい。思い煩
いがないと不安で、思い煩いを得て安心する。まるで思い煩い依存
だ。おかしな話だが、心の底を見ると認めざるを得ない。主はいつ
でも「よくなりたいか」と問うていて下さる。出来るかと問われな
い。「・・したいか」だ。

本当に良くなりたいのだろうか。余りに長いと、病気に甘んじてい
る方が楽になって来たりする。自分で責任を取ることから逃げたい。
その床を取り上げて、歩けと。言い訳せず、自分の本当の姿を認め、
無力を認める時、主が、いやしを与えて下さる。まず心に平安を与
えて導いて行って下さる。

・・・・・・・・・・
だいたい問題に、自分に、主に、向き合いたくなくて、あいまいに
しておきたかったり、逃げていたかったりする。自分の心がどうだ
ろう。しかし、主はよくなりたいかと、問うて下さっている。応え
て行きたい。