2015年12月31日(木) 「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられ た全行程を覚えていなければならない」申命記8:2
「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられ た全行程を覚えていなければならない」申命記8:2
今までの信仰人生の中で、また、この一年も、苦しみ、困難、悲し み、嘆きがあった事だろう。「主は、あなたを苦しめ、試み」とあ る。主が、苦しめると。私たちは出来るなら、苦しみは通りたくな い。しかし荒野でしか、学べない事があるから、あえて荒野を通さ れる。 「あなたの心のうちにあるものを知るため」とあり、苦しみの時に 出て来る自分の姿が、本当の自分の姿だ。順境の時には出て来ない だけだ。自己中心だったり、不信仰だったり、自分の姿を見るのは 痛いが、それをまず知り、認めない限り、変えられて行く事も、成 長も無い。本当の姿を見て、主により変えられて行く。 自らの無力を知り、主に拠り頼む者とされる。その飢えの中で、 「あなたも、先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた」。マ ナを与え、40年間荒野で、民を守り養われた。そして私たちには、 いのちのパンである主ご自身が、信仰人生守り通して下さる。「主 の口から出るもので生きる」御言葉によって生きることを、身をも って体験して行く。 主は、食物、水、着物を与え、身体を守ると同時に「人がその子を 訓練するように、主があなたを訓練されることを、知らなければな らない」と主は訓練される。砕かれる。それは「ついには、あなた をしあわせにするため」だ。今年の一つ一つの試練は、訓練であり、 心の内を明らかにされるため、御言葉の力を経験するため、砕かれ、 そして「幸せにするため」だ。 ・・・・・・・・・・・・ ★この一年も有難うございました。係の都合で、年頭はお休みで、 1/5から配信させていただきます。新年も御言葉による祝福をお 祈りしております。良いお年をお迎え下さい。
2015年12月30日(水) 「キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺か れないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありま せん」Uコリント2:10
「キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺か れないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありま せん」Uコリント2:10
人を赦せなくて、苦しんだ経験があるだろうか。赦さないことは、 自分から牢獄に入る事になる。四六時中、牢獄の中であり、その人 が目の前にいようといまいと、心はがんじがらめだ。苦しいのは相 手ではなく、まさに自分自身だ。心暗く、平安無く、悶々状態だ。 自分自身のために、人を赦すことはどうしても必要だ。人を赦すこ とは、人生の主導権を自分に取り返す事だ。なぜなら、憎んでいる 相手に、自分自身と自分の全生活をコントロールされてしまってい る。繰り返し、繰り返し嫌な相手を思うので、憎しみは更に強固に なり、モンスターになって行く。 それだけ主のことを思えたなら、どんなに良いだろう。その背後に いるサタンの思うつぼであり、サタンにほんろうされてしまってい る。赦すことは決意だ。赦す事によって、サタンを拒否し、相手が あなたの人生をコントロールする事を拒否する事になる。あなた自 身が解放される。赦したくないが、赦さない心からは何も生まれな い。 赦したくない事を、ありのまま主に告げて、主の助けを求めよう。 赦しますとの意志を向けて行く事は大切だ。まず自分を赦して下さ っている主の十字架に目を向けよう。十字架から赦しが流れ出てい る。まずあなたが赦されている事を、深く受け取る時、必ず人を赦 す事ができる。赦そうとして行く時、御霊の助けが臨む。 ・・・・・・・・・・・・・ 赦すことは、神のわざだ。意志を向けて行く時、御霊が働いて助け て下さる。赦したくない気持ちをありのまま告げて、祈って行く時 に、不思議だが、導かれて行く。超自然の働きがある。助けを求め て祈ろう。
2015年12月29日(火) 「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで・・」マタ イ 14:30
「そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで・・」マタ イ 14:30
自然界をも支配する主が、嵐の中の水の上を歩いて来られた。ペテ ロは主の言葉さえあれば、自分も水の上を歩けると信じた。それで 主のもとへ行くことを願った。すると、主は「来なさい」と言われ た。「そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほう に行った」。ペテロの信仰だ。 ペテロには、疑う事も出来たが、主を信じて一歩を踏み出した。ペ テロの信仰によってこの奇跡が起きた。だから私たちもこの箇所を 目にできる。しかしその時、風に目が行き、主から目を離してしま った。その途端、ブクブク沈み始めた。だが「主よ。助けて」と叫 ぶと、その瞬間すぐに主が手を伸ばし、ペテロをつかまれた。 そして、彼をつかんだ中で「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と。 この時、ペテロが主をつかんだのではなく、主がペテロをつかまれ た。私たちも、どんなに苦しい嵐の試練の中も、主を見て、御言葉 に立っている時、不思議な平安を経験する。歩んで行ける。 しかし、主と御言葉から離れ、現状を見た途端に、平安を無くし沈 んでしまう。だが、その瞬間にも、主がつかんで下さると言うのは、 何というあわれみだろう。「来なさい」と言われた主は、必ずその ように支えて下さる。つかんでいて下さる。私たちも、主が「来な さい」と言われたなら、信仰もって進み出そう。主を見て、御言葉 を握って進んで行ける。何があっても、つかんでいて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 二つのものを同時に見られないので、いつもどちらか一方を見てい る。目に見える状況か、御言葉か。状況だけを見ると、思い煩いと 不安で心暗くなり、落ち込んで行く。しかし御言葉を見ると、神視 点に返り、我に返る。今日もつかんでいて下さる主を見ていよう。
2015年12月28日(月) 「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません・・自分の罪を言い表わすなら・・その罪を赦し」Tヨハネ1:8
「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません・・自分の罪を言い表わすなら・・その罪を赦し」Tヨハネ1:8
ある人が、どうしても嫌いで、どうやっても愛せない人がいた。 しかし憎しみには、とがめが来るし、罪意識にさいなまれる。平安 は無く、心が苦しい。その罪責感から逃れるために、反対に相手に 親切にしようと頑張った。憎しみを隠し、ふたをし、罪責感から逃 れたいがために必死だった。何とか礼儀正しく接し、愛の行ないを しようと頑張った。 しかし相手にそうしようとすればするほど、心は憎しみといら立ち、 どうにもならなかった。相手が悪く言われている所では、しっかり と心の中で同意して、すっきりするのであった。そして、溜まった ストレスにより、陰では悪口を言ってしまっていた。罪の性質であ り、愛など、ほど遠い結果となっていた。 この間違いは、まず見える所によって、行ないによって罪意識を無 くそうとした事だ。良い行ないでチャラにしたい。心の内の敵対心、 憎しみを認めないで、それを闇に封じ、隠し、無い事にしてしまう。 そうではなく、憎しみを光のもとに出し、憎んでいますと主の前に 認める事だ。その時、それはすでに光の中だ。 認めて告白する時、赦され、そして必ず変えられて行く。大切なの は、良い行ないでなく、罪を認め、告白し、悔い改める事だ。主の 言葉通りに、従って行く時、そこに御霊が働き、みわざが成されて 行く。自分の力ではなく、御霊の力が働く。 ------------ 罪はなかなか認められない。罪などないと思いたいが罪は常に身近 にある。示しも悔い改めも全て主の導きで、自分からはできない。 御霊の示しが与えられたなら、すぐ主の元に行こう。
2015年12月27日(日) 「しかし、助け主、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、 あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26
「しかし、助け主、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、 あなたがたにすべてのことを教え・・」ヨハネ14:26
ある会社勤めの人が、早朝出勤、深夜帰宅のハードな毎日だった。 プロジェクトを組んだ仕事は思った以上に難しく、その準備に幾ら 時間があっても足らなかった。仕事後は、外部関係者の接待は続き、 体力にも限界はあり、許容量オーバーになってしまった。 デボーションの時間も全く取れず、動き回り、日々の重責に、段々 心はピリピリし、イライラし、平常心を失いつつあった。喜びや平 安など無かった。危機的状況に、決心し、時間を取り、主の御前に 静まった。主を意識し、ギリギリの状態で祈り始め、心が解き放た れて行くようだった。 御言葉を読んで行った時、カラカラのスポンジに水がしみ込んで行 くように感じた。「だから、神の国とその義とを第一に求めなさい。 そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」 の言葉が心にピッタリと入って来た。 「神の国とその義が」後回しになっていて、「それに加えてこれら ものはすべて与えられます」のものを第一にして、心身すり減らし ていた事に気づかされた。 「それに加えて」の方のために懸命に労し、動き回っていた事に気 づかされた。優先順位が逆になっていたので、平安なく、喜びなく、 疲れ果てていた。忙しいからこそ、更に主を必要としている事にも 気づかされ、朝のほんの少しの時間でも、交わりの祭壇を建て直し た。喜びが戻った。優先順位に気づきが与えられたら、その度 に戻して行こう。御霊が気づきを与えて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 「みことばの戸が開くと、光が差し込み・・悟りを与えます」御霊が 御言葉を通して、現状を見せて下さる。その時に、方向変換して行 ける。優先順位もどうなっているだろう。「それに加えて」の方の ために走り回っているなら、軌道修正して行こう。
2015年12月26日(土) 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい」ピリピ4:6
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい」ピリピ4:6
祈りと願いをによって、願い事を神に知っていただくが、「感謝を もって」とある。感謝をもってささげるという事は、どんなに厳し い現状であっても、どんなに苦しい事態であっても、感謝するとい うことで、そこに神の計画を信じるということだ。 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている」 と言われ、私たちの人生に計画があり、それは「平安を与える計画 であり、将来と希望のためのもの」と。「雀の一羽でも、あなたが たの父のお許しなしには地に落ちることはない」の通り、御父の許 しなしには何一つ事は起こらない。 主に、行き当たりばったり、成り行き任せという事は無い。主の支 配の中だ。「後になると」平安な義の実を結ぶ。その渦中ではわか らないが、後の日にその意味がわかる。今はわからないが、ご計画 があり、それは平安を与えるものであり、「すべてのことを働かせ て益」として下さる。 そして「わたしはあなたを愛している」と言われる。これらの上に 立って、現状でなく、神の視点に立ち、感謝をもってことごとく願 いをささげて行く。その時に、人の思いを越えた平安が与えられる と。そして、心と思いが守られると。苦しみが臨む時に、心がネガ ティブになり、落ち込んでしまう。見方が屈折し、歪んでしまう。 しかし「感謝をもって」心の願いを告げる時、まず心が平安に守ら れる。 ・・・・・・・・・・・・ 信仰人生を振り返る時、繰り返し繰り返し経験して来た。主はすべ ての事を働かせて益として下さった。だから今がある。絶対的に益 とされる、主に無駄は一つもない。感謝する事はそれを認めて、信 じることなので、思い煩いから守られ、平安にされる。
2015年12月25日(金) 「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこ
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこ
野宿をしている羊飼いたちに、御使いが現われ、救い主のお生まれ を告げた。羊飼いたちは「さあ、行って、この出来事を見て来よう」 と実際に行動を起こし、赤子を捜し当てた。そして喜びに満たされ て「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」。「きょう・・救い 主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」。 まずこの言葉を受けて、無関心に聞き流すのでなく、「きょう」す ぐに行動し、救い主を見つけた。そして幼子を見た時に、聞いた事 を周囲の人々に告げた。そしてマリヤは見聞きしたこれらの事をす べて心におさめた。羊飼いたちは、実際に主を見たことで、神をあ がめ、喜びと平安に満ち満ちた。 主のもとに行った時に、主をあがめる者とされ、素晴らしい喜びに 満たされる者と変えられた。羊飼いは、底辺に生きる貧しい人々と 言われている。野宿に夜番、徹夜の過酷な労働であり、仕事柄安息 日は守れず、律法を行なえず、律法学者やパリサイ人からは見下さ れ、差別を受け、軽蔑されていた。この人々に真っ先に救い主誕生 が告げられ、その彼らに喜びと新たな力が与えられた。 そして新しくされて自分の生活に「帰って行った」。何よりも主の もとへ行くことが大切だ。私たちも、悩みや苦しい問題を持ったま ま、しんどいまま、弱いまま、「きょう」とにかく主のもとへ行く ことだ。祈りに持って行こう。すると「主が」どんなしんどい状況 でも、その状況にかかわらず、あなたを主を賛美する者に変えて下 さる。クリスマス、この救い主をあがめ賛美し、礼拝を献げよう。 ----------- 貧しい羊飼いから見ても、さらに貧しい飼い葉桶けのみどりご。 この救い主との出会いが、御神の憐れみのゆえに私たちも導き 与えられた。主の御降誕を心より賛美し感謝いたします。
2015年12月24日(木) 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって・・」黙示録3:20
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって・・」黙示録3:20
当時、住民登録のためにそれぞれ自分の故郷向かう旅行者たちで、 宿屋はごった返していた。そのため部屋は満員であった。「宿屋に は彼らのいる場所がなかったからである」、臨月のマリヤとヨセフ のための部屋が無かった。又、非常事態の彼らのために、部屋を譲 る人も誰一人なかった。救い主の誕生に皆が無関心で、主を迎える 人が誰もいなかった。私たちはどうだろう。 主のご降誕を迎える時に、心はどこに向いているだろう。この世界 の関心事で、忙しさで一杯だろうか。求めているものは賞賛、富、 仕事、この世のもの、自分の事だろうか。又、思い煩いや自らのプ ランで一杯だろうか。又、忙しい奉仕で一杯だろうか。主のための 余地が無いだろうか。御父はこの世界に救い主を送られたが、世に は御子をお迎えする「場所」がなかった。皆が自分の事で一杯だっ た。しかし主はそんな私たちのまっただ中に、救いのために来て下 さった。 人間には、誰しも、誰にも言えない場所が心の隅にある。決して人 に言えない心の場所を持っている。主はそこに来て下さり、そこで 出会って下さる。あなたの悲しみ、あなたの孤独、誰にも言えない 苦しみ、その場所に来て下さる。そこではっきり主に会える。問題 は、私たちが心を開いて迎え入れるかどうかだけだ。今日、心はど こを向いているだろう。心を開いて、その部屋に主を迎え入れよう。 ------------- 主の御降誕により与えられた光は、罪を暴き、悲しませるためのも のではない。露にされては困るとしっかり押さえ込んでいるだろう か。今一度、主の光に心柔らかく応答しよう。そして主をお迎えし よう。
2015年12月23日(水) 「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23
「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」マタイ1:23
信仰人生の中で、様々な問題が起こる。病気になり、経済的苦境に もなり、対人関係の悩みも生じる。突如の離別、リストラもある。 不作もあるし受験は不合格もある。この世の宗教は、家内安全、無 病息災、商売繁盛、五穀豊穣だ。しかし私たちは順境のみの人生で はない。病気が治らない事もあり、貧しい生活が続く事もあり、不 合格に泣く事もある。 そして苦しい状況が、即、解決ではない事も経験する。そんな時、 何が「救い」なのだろう。「男の子を産み、その名はインマヌエル と呼ばれる」(神は、私たちとともにおられる)。この「インマヌ エル」が私たちにとっての救いだ。世の終わりまで絶えず主が共に おられる。経済的窮乏の時も、病の時も、様々な苦しみや悩みの中 にも、どんな時にも主が共におられる。 「たとい、死の陰を歩くことがあっても・・恐れません」、死に直 面しする時にも、主が共におられる。ある人が、病の癒しを祈りに 祈っていた。なかなか回復のきざしもなく、しかし祈り続けていた。 祈りが聞かれていないのだろうか。その苦しい胸の内もすべて告げ ながら、尚も祈っていた。 すると主との親しい交わりの中で、状況は変わらないのだが、不思 議に心が平安にされて行った。そして御心ならすぐにでも直るし、 もしそうでなくても、一番肝心な事は「主が共におられる」、この 事だと気づかされた。独りでなく、主が味方であり、何と幸いなこ とだろう。 ------------- 主が共にいてくださるこの平安は、状況には関係が無い。むしろ厳 しい状況の中での主の平安は周囲をも輝かす。インマヌエル、主と 共に生きる平和を御神は与えてくださった。
2015年12月22日(火) 「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」マルコ5:29
「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」マルコ5:29
12年間も、長血を患った女性がいた。長血は、律法によって不浄 とされ、礼拝へ出ることもできなかった。肉体的苦しみに、精神的 苦しみ、又、経済的にも次から次へとあらゆる医者にかかり破綻状 態だった。この先に何の希望もない。どんなに辛く苦しい絶望状況 だったろう。主に救いを求め、主の着物にでも触れば、癒されるの ではと思った。 それは必死の思いであり信仰であった。なぜなら、不浄のため、他 人には触れる事ができないはずだった。にもかかわらず主に触れよ うとした、諦めない、屈しない信仰であった。信じなければ、触り などしない。主の着物に触れ、ひどい痛みが取れ、病気が治った彼 女は、誰にも知られずに密かに立ち去ろうとした。 しかし主は、「わたしにさわったのは誰か」と捜され、どうあって も隠しおおせないと悟った彼女は、進み出て、皆の前で、事の次第 を話した。人の後ろに隠れ、人混み紛れ込み、おどおどしていた彼 女が主の御前に、皆の前に出て、余すところなく打ち明けたのだ。 主は、彼女の口からはっきりした信仰告白を引き出そうとされた。 なぜなら彼女には信仰があったからだ。彼女を光の中に出し、信仰 を告白させ、その信仰を確かなものとされた。「あなたの信仰があ なたを直した」「安心して行きなさい」私たちはどうだろう。群衆 に紛れているだろうか。主は向き合っていて下さる。主の示しに応 答しよう。 --------------- 御言葉を知っていても聞いていても、示された導きに信仰もって応 答しているだろうか。主は向き合ってくださっている。自分を主に 明け渡して行きたい。
2015年12月21日(月) 「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40
「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」マルコ4:40
「さあ、向こう岸へ渡ろう」と、主の言葉から始まった。大きな行 動を起こす時は、まず主の御言葉によって、御心を確信して、行動 すべきだ。主が「向こう岸へ渡ろう」と言われたからには、何があ っても、何がどうなっても、渡る事ができる。主の言葉は100%成 就する。しかし、私たちはどうだろう。 御心を行ない始めて、ちょっと風が吹くと、少しうまく行かなくな ると、すぐに信仰がぐらついて、「御心ではなかったのか」と大変 な不安に襲われる。又、悪い事が起こるのは、「何か罪を犯した罰 では」と恐れたりする。グラグラしてしまう。しかし、主は・・と 目を転じると、大嵐の中で熟睡しておられる。全き平安の中におら れる。 なぜなら、向こう岸へ渡るのであり、途中どうなろうと渡れるから だ。その主が共におられるのに、悪い状況にうろたえ、怯え、不安 に襲われる。状況にほんろうされてしまっている。弟子たちが「先 生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」 と言うと、主は、弟子たちのために、嵐をしずめられた。 湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風はピタリと止み、大なぎに なった。その時、主は「どうしてそんなにこわがるのです。信仰が ないのはどうしたことです」と言われた。主は、「波、風」の問題 でなく、「信仰」の問題だと言われた。様々な出来事の中で、信仰 を成長させて下さる。 ------------ 突然の風は吹いて来るが、主を呼び、主がこれから答えてくださる と信頼する。その繰り返しだ。どこにいても主と共にいると知って いくのが最大の平安。必ず向こう岸に渡れる。
2015年12月20日(日) 「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ テヤ6:7
「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ テヤ6:7
神は十字架の贖いにより、罪を赦して下さる。自分の犯した罪は、 悔い改める時に完全に赦される。神は無かった事として見て下さる。 その罪が、主の上に置かれたからだ。主のゆえに完璧に赦される。 しかし、罪が赦される事と、罪の結果を刈り取る事は別のことだ。 罪は赦されるが、罪の結果から逃れられるのではない。必ず刈り取 ることになる。 だが、罪が赦されたからこそ、赦しを受け取ったからこそ、主と共 に刈り取って行ける。だからどうせ赦されるのだからと、罪を軽く 見てはならない。軽い気持ちで罪を犯してはならない。刈り取りは 決して甘いものではない。しかし、主と共に刈り取る時、それを訓 練として用い、更に成長を与えて下さる。どこまでも益とされる。 ダビデも自らの罪の刈り取りをした。ダビデに生まれた子は死んだ。 ダビデの妻たちは他の者に汚され、ダビデの息子たちも死んだ。苦 しい刈り取りであった。罪を軽く見てはならない。罪は赦されるが、 自らの罪の結果に、家族をも巻き込むことになってしまう。自分自 身だけにとどまらない。 罪は重大な深刻なものだ。しかし、尚も神のあわれみは尽きない。 姦淫の罪によるバテシバとの結婚であったにもかかわらず、その間 に生まれたソロモンを次の王とし、神の家を建てる者とされた。 ・・・・・・・・・ 蒔き刈りの法則があり、蒔いたものは刈り取る。御霊の導きに従い 蒔くと、実を刈り取り、罪に蒔くと痛い刈り取りをする。しかし、 主はどこまでも〃あわれみ深く、悔い改めて、主と共に刈り取る時、 それもまた訓練とし、祝福として下さる。あわれみは尽きない。
2015年12月19日(土) 「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、ど こにいるのか』」創世記3:9
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、ど こにいるのか』」創世記3:9
アダムとエバはエデンの園で罪を犯した後、主の御顔を避けて身を 隠した。気がとがめるからだった。罪を犯すと、神から隠れる。心 に恐れが生じるからだ。何の妨げもない喜びと平安の交わりが破ら れた。罪を犯した人間に、神の方から「あなたはどこにいるのか」 と呼びかけられた。 アダムは「裸なので恐れて隠れました」と答え、罪についてはいっ さい言わない。「食べてはならないと命じた木から食べたのか」と 問われ、主は悔い改めの機会を与えられた。「ごめんなさい。食べ ました」と言う事ができた。しかし、罪を認めるどころか、彼がし たのは責任転嫁であった。エバが悪いと。 どこまでも罪を認めず、自分を正当化し、周囲のせいにして行く。 これは私たちにもある根深い肉の性質だ。殺傷事件を起こした犯罪 者が、自分の犯罪を親や社会のせいにする。よく見る光景だ。又、 日常生活でも、「あの人がああしたから、こうしたから」、あの人 のせい、親のせい、学校のせい、社会のせいにして、いつも自分は 被害者で、自分が悪いとは絶対に認めない。 そうして行くと、いつしか自分はいつも正しい、自分が間違いなど 犯すはずがない、となって行く。そして、常に他の人に責任を押し つけて行く。そんな私たちに、主は「あなたはどこにいるのか」と、 あなたのあり方はどうなのかと、私たちを愛し、正しい方向へ、御 心へと導いて下さる。主に向いて、答えて行こう。 ・・・・・・・・・・・・ 「あなたはどこにいるのか」と、いつも主は問うて下さっている。 物理的場所ではなく、神との関係だ。何があっても御顔を避けず、 隠れず、主に顔を向け、主に向く時に、そこに豊かな赦しがあり、 平安がある。愛されている事を確認して行ける。
2015年12月18日(金) 「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」ヨハネ11:40
「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」ヨハネ11:40
ラザロが危篤の状況で、マルタは使いを主のもとに送り「病気で す」とだけ伝えた。主はすぐに来て下さると思った。しかし主は、 「この病気は・・神の栄光のためのもの」と言われ、尚2日とど まり、ラザロの死を確認してから向かわれた。マルタは「もしこ こにいて下さったら、兄弟は死ななかった」と。 マルタは将来のよみがえりは理解しているが、今、主がラザロを よみがえらせると信じていなかった。病気を治すことは信じられ るが、死からよみがえると信じることができない。マリヤも同じ 言葉を言った「ここにいて下さったら、兄弟は死ななかったのに」 と。二度と元に戻れない「死」の前には、絶望であり、泣くしか なかった。 しかし「あなたの兄弟はよみがえる」と言われた主は、ラザロの 墓の前で「石を取りのけよ」と。もう腐敗していると言ったマル タだが、主に従い、墓の石を取り除けた。信仰が行ないとなった。 するとラザロはよみがえった。ラザロのよみがえりを通して「わ たしは、よみがえりです。いのちです」と、主ご自身が死に勝利 されていることを表わされた。 そのため病気の癒しでなく、死でなくてはならなかった。「神の 栄光のため」であり「神の子が栄光を受けるため」であり、「あ なたがたが信じるようになるため」であった。あなたが今、行き 詰まり、絶望状態なら、主はその絶望を打ち破られ、すでに勝利 されている。主を信じよう。 ------------- 主のご計画の全ては理解できないが、ただ信じて主の最善を待つ ことはできる。目の前に分かりやすい解決ばかり見ていないで、 更に素晴らしい主の栄光を信じていたい。
2015年12月17日(木) 「『わたしに何をしてほしいのか』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです』」マルコ10:51
「『わたしに何をしてほしいのか』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです』」マルコ10:51
主が弟子たちとエリコを出られると、盲人のバルテマイが、道ばた に座って物乞いをしていた。イエスだと聞くと大声で「私をあわれ んでください」と叫び始めた。大勢でたしなめても、止むどころか ますます叫び立てた。この方なら目を開ける事ができると信じたか らこそ、叫び続けた。人目など全く気にしなかった。 主へのその真剣な熱心な求めが、主をしてバルテマイの目を開かせ る事になる。「上着を脱ぎ捨て」上着はガウンみたいなもので、毛 布にもなり、敷物にもなり、当時の大切な無くてはならぬ生活必需 品だった。施し物を受けるために必要で、上着を地面に広げていた 事だろう。大事な商売道具でもあった。その上着を捨てたという事 は、絶対に癒されるとの確信を持っていた。 バルテマイは盲人であり、物乞いによって生きるこの現状、どうに もならない諦め、どうにか生きて行ける、このままでいいではない かとの安住、それを捨てた。そして、信仰をもって、全身で主に拠 りすがって、願い求めた。この方なら絶対に目を開けて下さると。 その通りに目が開かれて、新しい一歩を踏み出した。それは自分の 思い通りの人生を歩み出すのでなく、主の行かれる所について行き、 一生涯を主に献げ、主に従って行くための一歩だった。 ----------------- 肉眼で見えてはいても、どこを通っているのだろうかと迷いやすい 者だ。主を見ているのか、主と共に歩んでいるのか、いつも主から 教えられながら確かな一歩を進めたい。
2015年12月16日(水) 「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:10
「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました」創世記3:10
アダムとエバはエデンの園で罪を犯した後、主の御顔を避けて身を 隠した。気がとがめるからだった。罪を犯すと、神から隠れる。心 に不安と恐れが生じるからだ。何の妨げもない喜びと平安の交わり が破られた。罪を犯した人間に、神の方から「あなたはどこにいる のか」と呼びかけられた。 アダムは「裸なので恐れて隠れました」と答え、罪を犯した事につ いてはいっさい言わない。「食べてはならないと命じた木から食べ たのか」と主は問われ、悔い改めの機会を与えられた。その時に 「ごめんなさい。食べました」と言う事ができた。しかし、罪を認 めるどころか、彼がしたのは責任転嫁であった。エバがくれたから 食べた。エバが悪いと。 どこまでも罪を認めず、自分を正当化し、周囲のせいにして行く。 これは私たちにもある根深い肉の性質だ。子供が問題を起こした時 に、夫は妻に「何をしていたんだ。お前の教育が悪い」妻は夫に 「家庭を顧みないあなたのせい」。子供は「親が悪い。親のせいで こうなった」。学校が悪い、社会が悪い、どこまでも責任転嫁して 行く。罪の性質だ。 そんな私たちに、主は「あなたはどこにいるのか」と御声をかけて 下さっている。物理的な場所ではない。どこを向いているのか、あ なたのあり方はどうなのかと。いつも主の方からあなたを求めて下 さっている。主に顔を向けて、主に答えて行こう。そこから不安が 平安に、恐れが喜びに変えられる。 ------------- 平安が失せ罪を示されてもなお、自己中心な言い訳はいくらでも出 てくる。全てをご存知であえて御声をかけて下さる御神の前には、 素でありたい。悔い改め赦しを受け取ろう。
2015年12月15日(火) 「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:39
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:39
マルタは、主のためにもてなしたいと、あれもこれもと色 々な事を心配し、心が乱されていた。なすべき事が多すぎ て、許容量オーバーで、何もしていないマリヤにイライラ してしまった。私たちもどうだろう。あれもこれも、すべ き事が山積だ。自分のこと、家族のこと、職場のこと、主 のこと・・ あれもしなくては、これもしなければ、頭はパンクしそう だ。しかし主は「どうしても必要なことは・・一つだけ」 と言われた。あれもこれもとパニックになるが、主は大事 な事は一つ、まず主の言葉を聞くことだと言われた。「信 仰は聞くことから始まり、聞くことは・・みことばによる」 信仰は、聞くことが始まる。御言葉なくして信仰は始まら ない。伝道も、奉仕も、聞くことから始まる。御言葉によ らなければ、奉仕とは何で、何のために奉仕するのかさえ わからない。私たちは御言葉によって生きている。御言葉 を聞いて、行動する時、そこに御霊が働き、主のわざが成 し遂げられて行く。 神の言葉を聞くという「良いほうを選んだ」マリヤは、よ く主の言葉に耳を傾け、全身で聞いていたため、主の御心 を理解できた。主が十字架にかかることを悟り、その直前 に、自分の大切な高価なナルドの香油を惜しげもなく献げ きった。それができたのはマリヤだけだった。御言葉をよ く聞いていたからだ。主を愛すること、従うことは、主の 言葉を聞くことから始まる。 ----------- あれも、これもと御言葉なくして動いていると、主に文句 を言うマルタの失敗をする。大切な事は一つとの主の言葉 を握り、年末の山場を乗り切ろう。
2015年12月14日(月) 「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2
「人は自分の行ないがことごとく純粋だと思う。しかし主は人のたましいの値うちをはかられる」箴言16:2
「人は自分の行ないが純粋だと思う」が、残念ながら、私たちの心 は純粋ではない。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だ れが、それを知ることができよう」とあり、私たちの心は、根深く 陰険で、それは自分自身すら知ることができないと。そのため、ど れだけ懸命に練りに練って計画を立てたとしても、そこに肉の性質 が入ってしまう。 しかし自分では正しいと思い、自分の行ないは間違いがないと思っ ている。それこそが問題だ。自分が立てた計画が全てになっていな いだろうか。だが、その評価をされるのは神だ。自分の思いで計画 を立てると、知らない内に、自分中心な計画になってしまう。肉の 性質があるからだ。神抜きで、自分がしたい事になっていないか。 人は計画を立てるが、その結果は神から来る。人自体が不確かなの であれば、その計画も不確かだ。だからこそ、「あなたのしようと することを主にゆだねよ」。主にお任せすることが一番安心で安全 だ。「そうすれば、あなたの計画はゆるがない」その計画はうまく 行くと。主に委ねるなら、主が責任を持って成し遂げて下さる。 あなたも、今、計画を立てただろうか。それを一旦主に明け渡して、 委ねるのがよい。主に任せて、主の御手に置かれたなら、主が御心 のままに導いて下さる。もし、御心で無ければストップされる。そ れなら、止められた方がよい。明け渡す時、自分中心から神中心へ と導かれる。 ----------------- 私たちは自分の感情に依存しやすく、間違いやすい者だ。正しいと 思えばすぐに動きたい。一旦、計画を主に明け渡そう。御言葉に照 らし、祈ってみよう。
2015年12月13日(日) 「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6 :8
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のため に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」ガラテヤ6 :8
「思い違いをしてはいけません」とあり、思い違いをしてしまう。 人は蒔いたものを、必ず刈り取ると。これは法則であって、例外は 無い。あさがおの種を蒔いて、スミレの花が咲く事は有り得ない。 あさがおの種はあさがおの花だ。ナスはナス、キュウリはキュウリ だ。蒔く種は正しくその結実として現れ出る。 霊的な原則も同様だ。しかし、「時期が来て、刈り取る」なので、 即、その場で結果が出るのではない。だから思い違いをし、どうっ て事ないと、主を侮ってしまう。私たちは日々の生活で、絶 えず、御霊か肉に蒔いている。御霊に従って生きるか、肉の欲望に 従い、自分の思うように生きるかだ。 人へ愛と親切の種を蒔けば、喜びと主からの報いを刈り取り、自分 にも愛が返る。祈りの種を蒔けば、答えを刈り取り、宣教の種を蒔 けば、魂の救いを刈り取る。献げ物の種を蒔けば、豊かな物質的祝 福を刈り取る。又、肉に従い、悪意と憎しみの種を蒔けば、そのよ うに返る。 「善を行なうのに飽いてはいけない」「失望せずにいれば、時期が 来て、刈り取ることになる」と。善を幾ら行なっても結果が無いよ うに見え、時にうみ疲れるかもしれない。しかし神の時が来た時に、 必ず刈り取る。だから失望せずに、蒔き続けるようにと。主がはっ きりと言っておられる。必ず報いがある。 ・・・・・・・・・・・ 蒔かないものを、刈り取ることは決してない。御霊の導きに従い、 時間、労力、賜物、財、を用いて行く時に必ず豊かな報いを受ける。 すぐに目に見える結果が現れるのではないが、必ず神の時に刈り取 ると。御言葉は真理で、真実を経験して行く。
2015年12月12日(土) 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して 罪を犯してはなりません」ヨハネ8:11
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して 罪を犯してはなりません」ヨハネ8:11
姦淫の女性が、主の前に引き出されたが、これは律法学者パリサイ 人の悪意による罠だった。「それは、イエスを告発する理由を得る ためであった」。律法によると、姦淫は死罪だ。そして主は、ご自 身が愛の人であり、愛と赦しを説いていた。もし、主が律法通りに 「死罪」だと言うと、愛はどうなったとなる。 そして民衆は失望落胆し、主から離れるだろう。もし、「赦せ」と 言うなら、律法を破る者が神から来るはずがないとなる。律法学者 たちはどちらにせよ攻撃できた。「しかし」主は答えられないで、 身をかがめて、指で地面に書いておられた。その姿勢のままでおら れた中、彼らは尚も強く問い続けた。 彼らが止めないので、主は想定外の答えをされた。「罪の無い者が、 まず石を投げよ」と。すると一人〃と去り、誰もいなくなった。そ の女性は逃げずに「そのままそこにいた」。すると「わたしもあな たを罪に定めない」と。主が十字架で身代わりに受けて下さるから だ。そこに身代わりの死があるからだ。 私たちも、もし言い訳やごまかしで逃げるなら、主の赦しは受け取 れない。逃げずに、罪を認めて、主と向き合う事が大切だ。その時、 主の愛と赦しを受け取り、主の慈しみを経験する。又、「罪のな い者が、彼女に石を投げなさい」、私たちもどうだろう。すぐに人 に石を投げる者だろうか。彼らと同じように自分の罪は棚上げで、 人を裁き、欠点を責め、あら捜しをする。しかし自分の姿に気づく なら幸いだ。 ・・・・・・・・・・・・・ 女性は「そのままそこにいた」。私たちも、御霊が罪を気づかせよ うとして下さる時に、うすうす気づきながら、向き合いたくないの で、すり抜けてしまう。逃げずに、主のもとに、そこにいるなら、 罪が赦されて、主の愛を知り、新たにされて生きて行ける。
2015年12月11日(金) 「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」Tヨハネ3:19
「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」Tヨハネ3:19
信仰生活の中で、主に、力強く祈り求める必要が起きて来る。その 時に、大胆に確信を持って祈ろうとするなら、普段から「神の命令 を守り、神に喜ばれることを行っている」必要がある。すなわち、 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心 を閉ざすなら、自分が困った時にとがめなく大胆に御前に出ること ができない。 ことばや口先だけでなく、行ないと真実をもって愛して行く歩みが 大切だと。困っている人々のことを助け、思いやるようにと。その 時、心が平安にされる。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、 自分が呼ぶときに答えられない」。人の苦しみには耳を閉じ、自分 が困っている時には求めるのは、自らの心に責められ、御霊によっ て大胆に祈る事が出来ない。 心にとがめがあるなら、それが妨げとなり、どれだけ祈っても無駄 だ。祈りが妨げられないために、いつも大胆に御前に出られるよう に、普段の生活で御霊に示される事、御霊の導きに、従順に従うこ とが大切だ。一つ一つ御霊に従う生活は、とがめ無く祈れ、求める ものは何でも神からいただくことができると。 つまり、答えられる祈りの秘訣は、普段、一つ一つ御霊の示しに従 っていることだ。目の前の示しを無視せず、なおざりにせず、従お う。その時、力ある祈りができ、その祈りは答えられる。 ------------- 自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、 また求めるものは、何でもいただくことができると約束されている。 確信ある祈りを妨げるものは、自分のどの部分だろう。
2015年12月10日(木) 「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」ヨハネ4:14
「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」ヨハネ4:14
サマリヤの女性は、昼の暑い最中に、井戸に水を汲みに来た。普通 の人は夕方の涼しい時に来る。それは人と会いたくないゆえの行動 だった。実は、彼女は5回結婚し、5回離婚し、現在は同棲中だっ た。好奇の目で見られ、近隣の格好の噂の的だったろう。そのため 皆が集まる夕刻を避けていた。主は、そんな彼女のために、サマリ ヤへ行かれ、主の方から話しかけられた。 ユダヤ人とサマリヤ人は敵対関係だ。その男性が不思議な事を語っ た。生ける水を与えることができ、その水を飲むなら決して渇くこ となく、永遠の命への水が湧き上がると。彼女は戸惑いつつも井戸 水だと思い、汲む必要がないなら、その水を欲しいと願った。その 時に「あなたの夫を呼べ」と言われた。 一見会話がつながらない。しかし、それは彼女が決して触れられた くない核心だった。のどが渇くと水を飲む。そのように心が渇くと、 様々なもので潤そうとする。趣味、仕事、出世、地位、賞賛、人・ ・しかし幾ら飲んでも食べても、あれやこれや楽しい事をしても、 満たされない。更に渇く。 彼女は男性が心を満たしてくれると思った。しかしそこに救いはな かった。主は罪を示し、悔い改めに導き、彼女を真の喜びと満足へ と導かれた。私たちも、主は湧き上がる水を与えて下さっている。 それをふさいでいる罪があれば、悔い改めよう。その時、内側から 水が湧き上がる。心に喜びが溢れる。 ------------ 何に渇いているだろう。主との生きた交わりを通してサマリヤの 女のように主は、本音を照らして悔い改めに導いてくださる。 心の底にある渇きに、主の潤いが流れてくる。
2015年12月09日(水) 「しかし、主はすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」マタイ14:27
「しかし、主はすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない』と言われた」マタイ14:27
主は「強いて船に乗り込ませて」とあり、主が弟子たちに、突如、 強制的に行かせられた。夕方、弟子たちは沖へこぎ出した。だが、 その途上で、嵐となり湖は波と風で荒れれ狂った。何も見えない、 夜の真っ暗闇の中での嵐は、どんなにか恐怖であったことだろう。 信仰人生において、嵐は避けられない。雨も風も洪水も、又、日 照りも、飢饉もある。人生には順境と逆境があり、逆境は必ず来 る。それは世の人々と同じだ。しかし、どこが違うのか。その嵐 のまっただ中に来て下さる主がおられる。必ず嵐に会うが、「し っかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」との主が共にお られる。何と心強く、力強いことだろう。 私たちが、試練のまっただ中で、不安と恐れの中にいる時、又、 辛さと苦しみの中にいる時、孤独の中にいる時、「わたしだ。恐 れることはない」と言われる主がおられる。その主は、荒れ狂う 湖の上を平然と歩いておられる。私たちの問題や悩み、困難の上 を歩いておられる。 小さな女の子が、暗い二階におもちゃを取りに行くのが、恐くて 仕方が無かった。親に幾ら大丈夫だ、恐くないと言われても、恐 い。その時、父親が「じゃあ一緒に行こう」と言った時に、女の 子は全く恐く無くなった。私たちの平安は、問題が無い事ではな く、どんな悩みの時にも、主が共におられることだ。ここに全き 平安がある。 ------------- 平安な道、幸いな道は、状況ではなく主が共に居てくださると知 っている道だ。逆境の中でただ恐れて、不信仰になるが「わたし だ」との主の声に呼び返され、いつも謙遜にさせられる。 --
2015年12月08日(火) 「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18
私たちは新生した時に、二つの性質を持つ。御霊による新しい性質 と生まれつきの肉の性質だ。この二つの性質は、対抗し戦う。相容 れない。生まれつきの根深い肉の欲求が、欲望を刺激し、湧き立た せる。そのため御霊に従って歩めないようにする。肉の欲望に飲み 込まれてしまうと、肉に振り回され、どんどん御霊に従う事から離 れて行ってしまう。 新しい性質は御霊に従いたい。新しい性質は罪を悲しみ、主を喜ば せたいと願う。主の栄光が現れる事を喜ぶ。肉は、争い、妬み、憎 しみ、ギャンブル、泥酔のような不道徳な表われ方をする場合もあ るが、これはストレートでわかりやすい。だが、律法主義で表れる 場合もある。自分の力で律法を行なえると思い、行なおうと懸命に 頑張る。 又、神を喜ばせようと、自分の力で仕える。これも肉だ。自分の力 でやればやるほど、ますます高慢になってしまう。むしろ自我が太 ってしまう。主に仕える事で、妬みや裁きや競争が生じて来る。反 対方向へ向かってしまう。そして、この肉は御霊に逆らい、御霊は 肉に逆らう。二つが互いに対立していて、自分のしたい事をするこ とができないと。 どうすれば良いのか。「御霊によって歩め。そうすれば、決して肉 の欲望を満足させるようなことはない」と。自分の力では、真に従 う事が不可能と認めて、御霊に頼ることだ。自分を明け渡して、御 霊に拠り頼む時に、御霊によって主に従って行ける。そしてそこに は愛、喜び、平安があり、優しさや柔和さがある。 -------------- 肉の欲望丸出しで競いあい挑みあう世にあって、御霊様が与えられ ていることは感謝だ。足りない者でも御心へ歩みを向けたいと思う なら、必ず御霊様は導いてくださる。信頼し主にある自由を喜びた い。
2015年12月07日(月) 「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。、あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」ヨハネ6:68
「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。、あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます」ヨハネ6:68
私たちは、どんな動機で主を信じ、又、どんな期待で従っているだ ろう。主は、ご自身を求め、従って来る者を決して拒まれない。し かし、助けて欲しい、祈りを聞いて欲しい、救われたいとの強い思 いがあったとしても、それがどんなに熱心であったとしても、自分 の欲求を満たすためならどうだろう。 遅かれ早かれ、思い通りにならない時に、失望落胆して主のもとを 離れ去る。実は従っているのではなく、自分の利得のために、主を 利用していただけだった。「弟子たちのうちの多くの者が離れ去っ て行き、もはやイエスとともに歩かなかった」。利用価値が無いな ら離れ去ってしまう。 しかし、真に従いたいと思う人は、そこで、離れるのではなく、自 らの欲求を満たしたいがために、従っていた事に気づかされた事に 感謝する。悔い改めて、信仰のあり方を軌道修正される大きな恵み の機会だ。間違った方向に進む者を、御霊は示し、気づきを与え、 方向変換させて下さる。 彼らは、主の「肉を食べ、血を飲む・・」との言葉を、「ひどい言 葉」だと言った。絶対に受け入れられない拒否反応だ。不信となる。 自分が、主より上で、自分の知識を超えると、切り捨ててしまう。 理解できないのなら、へりくだって、主に教えてもらおうとは決し てしない。そんな時、ペテロは従って行きますと信仰告白をした。 信じ、従って行く時に、「この教えが神から出たものか」わかる。 ---------- 自分主体なら主を知る事は一生ないだろう。自分が熱心に祈ったか ら叶えられた、癒された・・という御利益信仰だ。主がもし見えな いなら、私の思い通りを変えて御思いを教えてくださいと祈りたい。
2015年12月06日(日) 「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありも しないことで悪口雑言言われたりするとき、あなたがたは幸いで す」マタイ5:11
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありも しないことで悪口雑言言われたりするとき、あなたがたは幸いで す」マタイ5:11
クリスチャンは、クリスチャンゆえの試練があり、苦しみを受ける。 しかし自分の至らなさゆえ、欠点ゆえに問題を起こし、周囲に迷惑 をかけ苦しみを招くなら、これは信仰ゆえの苦難ではない。信仰以 前の問題だ。誰でも、礼儀に反する事をするなら嫌われるし、問題 が起きる。 しかしそうでなく、クリスチャンという事で苦しみを受ける事があ る。迫害されたり、笑われたり、嘲られたり、不当な苦しみを受け る。「そしりと苦しみを受け、捕らえられ、財産が奪われ」・・今の 時代なら、信仰ゆえに悪口を言われ、辛く当たられ、馬鹿にされ、 村八分にされる。 「ありもしないことで」、身に覚えのない事でと言われる、それは 不当な、理不尽な苦しみだ。しかしそれがキリストゆえの苦しみな ら、恥じる事はない。むしろこの事のゆえに喜べと、そして神をあ がめるようにと。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてう ける報いは大きいのだから」と。 その人は、たとえ主のために迫害され、辱めを受け、攻撃されたと しても、主との個人的な関係があるので、幸せな人だ。迫害や苦し みの中にあっても喜びおどる人々だ。自分の内に喜びが与えられて いるからだ。どんなに自分が罪深いかを知り、その罪が完全に赦さ れている事を知っている。 どんな愛で愛されているかを知っていて、いかに苦しい時にも、共 におられることを知っている。そして、天において大きな報いがあ り、その大きな報いを期待せよと。それだから迫害の苦難に意気消 沈するのでなく、「喜び、喜びおどれ」と。 ・・・・・・・・・・・・ 自分の愚かさゆえでなく、確かに信仰ゆえにの苦しみがある。理不 尽な目に会ったり、悲しい思いをしたり・・。その時に、どうしても 陥ってしまうのが、心が沈むことだ。だから、主はそんな時こそ、 喜びおどれと。神視点に立てと。主と御言葉に浸ろう。
2015年12月05日(土) 「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨ま れていることをそこで思い出したなら、供え物は・・置いたままにし て、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨ま れていることをそこで思い出したなら、供え物は・・置いたままにし て、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」マタイ5:23
私たちは、自分の間違いを認めたくないものだ。うまく行かない相 手がいると、相手が謝りさえすれば、こちらも謝ってもよい。相手 が変われば、こちらも態度を変える気持ちはあると。自分から「私 が悪かった」とだけは言いたくない。 プライドが邪魔をする。出来るなら、謝らずにうやむやにうまく済 ませたい。問題に気づきつつ、向き合わずに、礼拝や奉仕が逃げに なり、それで埋め合わせにしようとする。だが、神に罪を犯してい るなら、自らの罪を告白し、人への罪ならその相手に謝まる必要が ある。先延ばしにしている和解や謝罪があるだろうか。 又、人を憎んだまま、神への献げ物は受け入れられない。礼拝への 途上でも、仲直りの方が大切だと。先にそれをしてから礼拝を献げ よと。謝罪や和解はプライドゆえ逃げたい。神は赦して下さる。だ が自分は赦しを受けながら、赦そうとしない相手がいないだろうか。 人との正しい関係を回復してこそ、神との正しい関係が築かれる。 そして「誰かに恨まれている」なら、自分から仲直りのために出て 行くようにと。恨まれているのであって、自分が恨んでいるのでは ない。しかし、自分の方から出て行くようにと御言葉が言っている。 自分は正しいに立ち、こじれが続くなら解決が無い。しかし少しも 非はないだろうか。実行したなら、後は主に委ねたらよい。 ・・・・・・・・・・・ ほとんどの問題が、対人関係と言われるだけあって、人間関係は 難しい。だからこそ、主が助けて下さる。何か御霊の示しがあるな ら、祈りに持って行こう。御霊がプロセスも導いて、具体的に助け て下さる。
2015年12月04日(金) 「私が何かを赦したのなら、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです」Tコリント2:10
「私が何かを赦したのなら、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです」Tコリント2:10
あなたも対人関係において、赦せない思いを経験した事があるだろ うか。傷つけられた相手に、怒りと恨み、憎しみ、敵対心で、心が、 がんじがらめになる。平安が無く、心は重く、苦しい。心に重い鉛 があるようだ。実際、苦しいのは傷つけた相手でなく、傷つけられ た自分なのだ。なぜ自分が苦しいのか。 相手には関係無く、自分が神に対して、怒り、憎しみ、恨みという 「罪」を犯しているからだ。「罪」から来る苦しみであり、心の辛 さだ。だが、明らかに非があるのは相手であり、自分は被害者、だ から相手が悪いから苦しいとしか思えない。ますます相手のせいに なり、相手を憎み、暗闇の中となる。 相手は悪いかも知れないが、相手を憎む自分は、「神に対して」罪 を犯している。その罪を悔い改めよう。その時、心が変えられて行 く。光の中だ。悔い改めにより、暗闇の牢獄から光へと出される。 ある人は、ひどく傷つけてくる相手が、嫌でたまらず憎しみで一杯 だった。しかし心は辛く苦しく悶々状態だった。平安は無く、苦し いばかりだった。 祈っていたある時、御霊により、結局自分はずっと憎む相手に縛ら れ、憎む相手にコントロールされているのだと気づかされた。苦し みから解放されたく、主に助けを求め、「赦します」と意志を向け、 決心した。赦す事を選び取った。その時、心が変えられ、平安が来 た。そして憎しみが失せて行った。心の重い鉛が消えた。 ---------- 相手が悪いから憎むのは当然の感情だと、憎み続けていることが、 当たり前だという思いにサタンが来ていないだろうか。確かに相手 は悪いが、私は罪を犯したくないとの立場にしっかり立とう。
2015年12月03日(木) 「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ5:18
「すべての事について感謝せよ」と主は言われる。ラッキーな事、 ハピーな事は感謝できる。受験に合格、畑が豊作、必要が満たされ た、仕事がうまく行った・・しかし、とてもじゃないが、感謝など と思えない事態、受験不合格、畑は不作、突然の経済的苦境、仕事 で失敗した・・こんな場合はどうだろう。しかしハピーな事は感謝 せよ、ではなく「すべての事に」だ。どうやって感謝できるのだろ う。 私たちの主は主権者だ。「万物の支配者がこう言われる。『わたし はアルファであり、オメガである』」。最初であり、最後である方 であり、「すべての事」は主の主権と支配の中にある。すべてが御 手の内にあり、主権の中にあるのであれば、マイナスの事態も、主 の御手の内の事であり、困難であっても、人生における神のご計画 だ。神のご計画であれば、必ず祝福に結果する。「神はすべてのこ とを働かせて益として下さる」からだ。 感情的には、悲しい、苦しい、辛い、腹の立つ時に、感謝など出来 ない。しかし、主は「感謝せよ」と言われる。まず感謝できないな ら、「感謝できません」と正直な心を祈ろう。「でも、従いたいの で、どうなっているのかもわかりませんが、感謝します」と祈って 行くと、不思議だが、心が変えられて行く。神視点に立てて、しよ うとされている事がある事、平安のための計画である事、愛されて いる事・・御言葉視点に立てる。 ------------- 全てのことに感謝をと神が望んでおられるなら、苦しみ悲しみの背 後には今はわからなくても必ず祝福が隠されているということ。目 の前の現状はきつくても、全てのことを感謝し受け入れていきたい。
2015年12月02日(水) 「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です・・神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです」Tヨハネ4:20
「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です・・神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです」Tヨハネ4:20
ある人が、対人関係で傷つき、相手に対し赦せない思いで一杯にな った。だが、自分はクリスチャン、赦さなくてはと思うのだが、顔 を見ると怒りが湧く。赦したいと思うのだが、思い出すと怒りがこ み上げる。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その 人は偽り者」とあり、現に相手を憎んでいる自分は、矛盾しており、 まさに偽り者だ。 しかしどうにも出来ず、主の御前に祈りに祈り続けた。「赦したく ありません」と正直に祈り、「赦せるよう助けて下さい」と祈った。 自分の無力を思い知らされ、主に拠りすがった。祈り続けて行った 時に、不思議が起きた。心が少しづつ〃変えられて行き、やがて怒 りが消えて行った。みわざであった。 「愛さない者は、死のうちにとどまっているのです」、愛さない者 は、闇の中にいると言われている。「愛のうちにいる者は神のうち におり、神もその人のうちにおられる」。「愛して行こうとするこ と」が、神の内にいるかどうかのしるしだと。ある人は、あっさり した性格で、嫌な事も忘れてしまう。傷つくが余り根に持たず、憎 しみで悶々という事も無かった。 しかし御言葉によると、兄弟を憎んでいなければ、それでいいので なく、積極的に「愛する」ことが大切であると示された。私たちも、 神を愛すると言いながら、愛せない相手がいるだろうか。ありのま まを主に告げて、拠り頼み、祈って行こう。「愛は神から出ている のです」。愛を与えて下さる。 ------------ 愛の無い自分をそのままにしていてはいけないと学べる。憎んだま ま、愛さないままの自分に平気でいるのではなく、愛せない自分を 自覚していたい。祈りに持っていける。
2015年12月01日(火) 「わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2
「わたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」創世記22:2
イサクは、アブラハムが25年も待って与えられた約束の子だ。目 に入れても痛くない、心から愛してやまない息子だ。祈りに祈って、 待ちに待って忍耐の末にやっと与えられた事を思う時、どんなに大 事な宝であったろう。アブラハムの命だったろう。そんな時、主か ら、そのイサクを、全焼のいけにえとして献げるように言われた。 「神はアブラハムを試練に会わせられた」とはっきりあるように、 彼にとっての厳しい「試練」であった。「あなたの子、あなたの愛 しているひとり子、イサク」と、アブラハムにとってどんなに大切 であり、かけがえの無いものかをご存じだった。なぜなら、最愛の 我が子であると同時に、神から与えられた約束の子であり、アブラ ハムの祝福の何もかもがこの子にかかっていた。 それが断ち切られてしまうのだろうか。約束はどうなるのだろう。 このイサクにすべてが、かかっている。しかし、神はそのイサクを 全焼のいけにえにせよと言われる。彼の思いの詳細は記されていな いが、「翌朝早く」すぐに、従うべく出かけた。ヘブル書に「彼は、 神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えた」 とある。 イサクをよみがえらせて下さると信じ、彼は献げた。一大決心であ り、自分自身を献げる事であった。あなたのイサクはどうだろう。 心の中にいる一番大事なイサクは何だろう。「イサクをわたしに献 げなさい」と言っておられるだろうか。 --------------- 今まで大切にしていたものや、今までの生活習慣、価値観を神を信 じ献げていけるかと日々試される。主の山に備えがあると、献げた 後の栄光を信じ、従うべく出かけよう。