2016年01月31日(日)

「しかし百人隊長は、パウロのことばよりも、航海士や船長のほう を信用した」使徒27:11



パウロは、主の御心であるローマへ向かう途上の船で、暴風に翻弄
された。その前にパウロは、この航海は危険であり、とどまるよう
忠告した。しかし百人隊長は、航海士や船長の判断を信用した。多
くの人々もここを出て、ピニクスまで行って冬を過ごしたいと願っ
た。丁度そこに穏やかな風が吹いたので、今だとばかり出帆した。

しかし案の定、暴風が吹き下ろし、ひどい嵐に遭遇した。吹き流さ
れるままになり、その暴風は幾日も続き、助かる最後の望みすら、
絶たれようとしていた。人々は不安と恐怖に打ちのめされた。結局
は、プロであり、経験豊かな航海士や船長の言葉は、当てにはなら
なかった。

私たちもどうだろう。主の御心をそれて、自分の思い、自分の判断
で進んだ結果、大きな問題にぶち当たった事があるだろうか。そん
な中、パウロは人々を励まし続け、最終的にはみな助かる事になる
と。人々は中途からパウロの言葉に耳を傾けて行った。暴風に会っ
た船は、積荷を捨て、船具までも投げ捨てるほどの瀬戸際だった。

私たちも人生の嵐に会う。暴風が吹き荒れる。そんな時、どうすれ
ば良いのか。自分の思いを捨てて、主の御声を聞く事が肝心だ。主
の御心を受け取り、その御声に従って行く時に、嵐の中で守られ、
出口へと導かれて行く。自分の思い、判断でなく、まずよく祈って、
主の言葉に従おう。

・・・・・・・・・・・・
問題が起きると、まず何とかしなければと思う。自分がしないで誰
がすると。あれやこれやの思いが先行し、思い煩いとなり、心が重
くなって行く。「わたしを呼べ」の通り、まず動かずに祈ろう。主
が先頭に立って、御声をかけながら事態を導いて下さる。


2016年01月30日(土)

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえを、その他 のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ、聞き従うことは、いけにえ にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル1 5:22



サウル王は、アマレクを聖絶せよとの、主の言葉に従わず、羊や牛
の最も良いものを惜しみ、つまらない、値打ちのないものだけを聖
絶した。そして「主に、いけにをささげるため」と言い訳し、弁解
した。しかしそれは御言葉をおろそかにし、捨ててしまう事であっ
た。

サムエルが「主の御声に聞き従わず・・主の目の前に悪を行なった」
と指摘した。自分の思いで、肉で動くことは、主に喜ばれない。ど
んなに自分が良かれと思ったとしても、受け入れられない。主が喜
ばれるのは、御声を聞いて、それに従うことだ。御声に聞き従う時
に、主のわざが成し遂げられて行く。神の栄光が現される。

ある人が職場で、どうしても愛せない相手がいた。嫌いで、どうに
もならない。幾ら愛そうと頑張っても出来ない。尚も頑張るが、嫌
でたまらず、心は重く苦しいばかりだった。自らの無力をあるがま
まを主に祈って行った時、御霊からの促しが来た。声をかけるよう
にと。

声などかけたくもない。自我は抵抗する。しかし従う事に決心し、
昼休みに声をかけた。すると何気ない話から、どんどん盛り上がり
互いの事に話が及んだ。不思議な平安な気持ちになった。以後、普
通に話すようになり、自分の心が変えられて行った。自分で何かを
するのでなく、どうにも出来ない事態に、ただ御声に聞き従う時に、
主が働かれ、みわざをなされる。

・・・・・・・・・・・
自分が良かれと思うことをするのでなく、御霊の導きに従う事が大
切だ。自分の良かれと思う事をすると、事態が空回りするばかりだ。
御霊の示しに一歩従うと、そこに御霊が働かれるので、不思議なみ
わざを見て行く。自分自身も主を知って行く。


2016年01月29日(金)

「父は彼に言った『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ』」ルカ15:31



放蕩した弟息子が、父のもとに帰り、宴会を開いていた。その時に、
兄息子が畑から戻った。音楽や踊りの音が聞こえ、何事かと、しも
べに聞いた。すると行方不明の弟が戻ったと。生死も不明の弟が戻
ったのだが、反応は喜びではなく「怒り」だった。家に入ろうとも
せず、父が出て来て、なだめたのであった。その父に、兄息子は溜
まった不満を爆発させる。

一度も言いつけを破った事もなく、ひたすら仕えて来た。それなの
に、友達と楽しむための子山羊一匹もくれたことがないこと。それ
が、身代を食いつぶした弟には、肥えた子牛をほふっている。どう
いうことかと。弟のことを「あなたの息子」と言い、自分の弟とは、
口が裂けても言いたくない。兄弟の関係を拒否している。

父に対する怒りと弟へのさげすみだ。戒めを守ることには、文句の
つけようがなく、熱心だ。しかしそれは、父の心を知って、喜んで
従っているのではなく、義務感で従っているだけだ。弟息子は失わ
れた者だったが、兄息子も同じで、失われた者だった。父と一緒に
いたが、心は遠く離れていた。父の愛がわからない。

父はそんな兄息子に、いつも一緒であり、私のものは全部お前のも
のだと言った。兄にも無条件の愛が注がれている。今、信仰生活に
喜びが無く、「ねばならない」の義務感しかなく、心に不満と怒り
があるなら、 兄息子を覚え、そのままの気持ちを御父に祈ろう。
御父は答えて下さり、今一度、御父の愛を経験する。
-----------
いくら仕えてもらっても、その子に愛されていないなら親はどれ程
さみしいだろう。熱心な奉仕を誇り、不満と義務感しかないなら、
もう一度、私たちも御父の元に帰ろう。


2016年01月28日(木)

「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6




あなたの行く所「どこにおいても」と言っている。「この所」なら
「あの所」なら、とは言っていない。又、大きな事態、小さな事柄
とも言っていない。私たちはよく、信仰人生の中で、非常事態は主
のもとへ持って行くが、あとは自分でやって行ってしまう。自分の
悟りに頼って生きてしまう。

しかし、物事の大小は無く、すべてにおいて、主を認めよと言って
いる。すぐ自分で解決しようとしていないだろうか。そこで主に拠
り頼むなら、そうすれば道をまっすぐにして導いて下さる。物事が
うまく行かなかった時、失敗してしまった時、どうだろう。自分の
悟りに頼った結果ではなかったか。目の前の一つ〃を祈りによって
対応しよう。

それが喜びであろうと、悲しみ、苦しみであろうと「主を認めよ」。
主が目の前に置かれている事を認めよう。苦しい事、辛い事、理不
尽な事等は非常に受け入れ難いが、そこに主を認める時に、心が守
られる。困難な状況の中にも平安が与えられ、そしてその事態が導
かれて行く。

続けて「自分を知恵のある者と思うな」とあり、自分の判断は正し
い、自分は物事をよく見極められる、なすべき事をする事ができる
と自己過信するなと。絶えず主に拠り頼み、祈れと。そうするなら、
主は、目の前の一歩一歩を確かに導いて下さる。
-----------
話す時、聞く時、また右に左にと多くの舵取りをしながら一日を生
きている。いつもの判断や対応は御心だろうか。迷いながらも祈ら
ずしていることの多さに気付く。


2016年01月27日(水)

「そこでイエスは・・『わたしに何をしてほしいのか』すると盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです』」マルコ10:51


バルテマイは「盲人のこじき」だった。道ばたに座って物乞いをし
ていた。それが生活の手段であり、悲惨な状況だった。しかし耳は
聞こえていて、主の噂を聞いていた。その主が、エリコに来られた
のだ。何という事だろう。千載一遇のチャンスだ。彼はこのチャン
スを決して逃さなかった。目が見えないが、口はきける。主が通ら
れる時に、彼は、精一杯「叫んだ」。彼にできることだった。

「ダビデの子、わたしをあわれんでください」。主がダビデの子で
あるメシアだと理解していた。周囲は黙らせようと、大勢でたしな
めたが、黙るどころか、ますます叫び立てた。決してひるまず、諦
めなかった。人生でまさに一度きりのチャンスかも知れない。必死
であった。主は、彼に目を留め、求めを受け取られ、「呼んで来な
さい」と。

彼はすぐに立ち上がり、主のもとに。「何をして欲しいのか」との
問いに、「目が見えるようになることです」と明確に答えた。彼に
は、主への信仰があった。主には必ずそれができると信じていた。
信じていなければ、叫び続ける事も無いし、求める事もしない。
「あなたの信仰があなたを救った」。

すぐさま彼は見えるようになった。みわざが成された。そして、い
やされた彼は喜んで世に出て行ったのではなく、感謝をもって主に
従って行った。主が崇められるための求めであった。チャンスは捕
らえよう。そして求めを明確にしよう。主は応えて下さる。
--------------
必要に迫ら何でも祈っているつもりでも、半ば諦めながら漫然と祈
っている課題もある。「何をして欲しいのか」と主がいつも向き合
ってくださっていることを覚え、信仰を持って主に答えたい。


2016年01月26日(火)

「・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28



ある男性が突如の事故に会った。相手の過失だったが、脊髄損傷の
大きな傷を負った。身体の自由がきかなくなってしまった。仕事も
家庭も、教会生活も、何もかもが何の問題も無く順調であった中、
目の前が真っ暗になったようだった。何もかもを失ったと感じた。
主は与え、主は取られるが、すべて取られたという感覚だった。

全く先が見えず、何をどうすれば良いのかもわからなかった。近隣
の心無い噂は辛く、それよりこれから先どうしたらいいのか、追い
詰められる人の気持ちがわかった。妻はクリスチャンであり、一羽
の雀さえ、御父の許しなければ、地に落ちることはない。頭の毛さ
えも、みな数えられている。すべての事態は主の許しの中で起きて
いる。

この事を許された主は、必ず善きに導いて下さると信じ、祈り続け
ていた。真っ暗な中、少し動く手先のリハビリを続け、厳しい試行
錯誤を繰り返す中で、作品制作に導かれた。光が射し込み、辛い厳
しい日々を経て、喜びを取り戻した。多くの困難の中で、引き替え
に多くの恵みを受け取った。それは困難にまさる恵みであった。

主の慈しみ、真実を、主を深く知る日々とされた。事故に会わなけ
れば、決して知ることのなかった御霊の喜びを知った。主の大きな
愛を体験できて、今は幸せと、心から言える恵みを与えられた。
------------
辛く苦しい試練はとても乗り越えられないと、状況にのみ込まれそ
うになる。感情はそうであっても、必ず益とされる。この御約束は
揺るがない。一切を主にお任せしたい。


2016年01月25日(月)

「イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。『よくなりたいか』」ヨハネ5:6



「よくなりたいか」との問いに、普通は「はい、よくなりたい」か
「いいえ、結構です」が答えだ。だが、この彼は、「イエス」でも
「ノー」でもなく、言い訳を述べる。自分には、介助者がいない。
だから、だめなのだ。介助者がいる、他の人が先に降りて行ってし
まう。どうにもならないと。38年もの長い歳月で、気力は失せて
しまい、諦めが支配してしまう。

自分が今こういう状態であるのは、人のせい、環境のせいになって
しまう。今、うまく行かないのは、親が悪い、生育歴が悪い、社会
が悪い、周囲の人が悪い・・となる。又、逆に、どこまでも自分を
責めて、あの時ああしていたら、こうしていたら・・こうなってい
ないと、くよくよ思い煩うばかりだ。

そんな私たちに、主は「よくなれるか」ではなく、「よくなりたい
か」と問われる。何度やってもダメだった、これからもダメだろう。
成長などできるのだろうか。諦めてしまっているだろうか。彼の3
8年もの長い歳月を主はご存じで、彼にことさらに目を留め、あわ
れんで下さった。

あなたにも「よくなりたいか」と目の前で問うて下さっている。
「はい」と主に応答しよう。「起きて、床を取り上げて歩きなさい」
との主の言葉に、彼は信じて、起きようとした。すると、奇跡が起
きて、彼はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。主の言葉を
信じ、従う時に、大きなみわざを見て行く。
-------------
いつの間にか現状維持に慣れてしまっているが、よくなりたい箇所
は示されている。主を信じて、すぐにこの場から立ち上がりたい。
「よくなりたいと」と主に応答したい。


2016年01月24日(日)

「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。 あたしがあなたを遣わすのではないか」士師6:14



ギデオンが、酒ぶねの中で小麦を打っていた時に、主の使いが現れ
て「勇士よ。主があなたといっしょにおられる」と言った。ギデオ
ンは、ミデヤン人を恐れて、酒ぶねに隠れていた。主は、そのギデ
オンに「勇士よ」と言われた。しかしギデオンには、「勇士よ」は
全く耳に留まらず、スルーして「主があなたといっしょにおられる
に心が捕らえられた。

それで「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、
なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでか」と、「主は私
たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡した」と応答した。彼は目に見
えるところだけに反応していた。見えるところがすべてなので、そ
れなら失望落胆しか無かった。

私たちもどうだろう。心がネガティブになってしまうと、すべてを
その方向に捕らえてしまう。悲観的にしか見えない。しかし恐れて
怯えているギデオンに、主は「勇士よ」と言われた。主が共におら
れると。「あなたのその力で行き、イスラエルを救え。わたしが遣
わす」のだと。

自分の能力では到底無理、時間が無い、財も無い・・。しかし主は、
「あなたのその力で」良いと言われる。今のままのあなたを、主が
力を与え、すべての必要を備え、用いると。どんな状態であれ、主
の示しがあるなら、即、従おう。主が成し遂げて下さる。

・・・・・・・・・・・
新たな導きがある時に、いつも自分の持てるものを見て無理だと思
ってしまう。能力、時間、体力、賜物、財力・・しかし主は「あなた
のその力で行き」と言われる。今のままで、そのままで行けtと。
必要な力も知恵も、物もすべて上から与えられる。そのまま行こう。


2016年01月23日(土)

「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼 らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなた がたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえ るようになります」Tペテロ2:12


ある人が職場で、辛い状況にあった。先輩が、どうも自分が気に入
らないようで、挨拶をしても、返してもらえなかった。無視されて
いるようで、しんどい状態だった。自分の何かが悪かったのかと考
えるが、思い当たらず、相手がしていた仕事を、上司が自分に任せ
たのが、嫌だったのかも知れない。

だが、自分はクリスチャン、相手にかかわらず、こちらは挨拶をし
続けた。これみよがしに、自分のそばの同僚には親しく話しかけ、
怒りが湧きそうになるが、祈りによって、何とか守られ接すること
ができた。辛い中、この事をずっと祈っていた。ある時、相手の仕
事の締め切りが迫り、どうにもならない時に、遅くまで残業を共に
して手伝った。御霊の強い促しによった。

瀬戸際であったその仕事はうまく行き、大変感謝された。相手は良
心のかしゃくを感じているようだった。自分も、入社時に手取り足
取り教えてくれたのが、その人であり、その事を素直に感謝できた。
その時、何かが変わり、その後、良い関係となった。祈りの答えだ
った。祈りに答えて主が働かれた。

問題が起きた時、とにかくまず祈ろう。祈りを積み、そして次に、
耳を澄ましていよう。御霊はなすべき事を示される。その時、御霊
の示しに従おう。従う時にみわざを見る。ここで従わないなら、心
は重いままだ。祈ること、御声に耳を澄ますこと、従うこと、この
原則に従う時、主が働かれ、主のわざを見る。

・・・・・・・・・・・・・
目の前に問題が来た時に、まず自分で動かず、主を呼び、祈ろう。
どうしても自分で何とかしようとしてしまう。そして続けて祈り、
主の御声に耳を澄まそう。そして示された事に従おう。そうする時
自分も平安で、周囲にも神の栄光が現れる。


2016年01月22日(金)

「『だれも雇ってくれないからです』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』」マタイ20:7



ぶどう園の収穫のため、労務者が早朝、9、12、3、5時と順次雇
われた。早朝の者だけ1日1デナリの契約がなされ、9時以降の者
は「相当のもの」と。そして労働終了時に、早朝でなく、5時の者
から順に、1デナリが支払われた。当時の1日分の給料だ。5時の
者たちはもう驚いたろう。5時など、もう片づけに入る時刻だ。

ほんの僅かの労働で、丸々1日分貰えた。何で?と。しかし早朝の
者は怒りがおさまらない。憤慨して、主人に文句をつけた。「1日
中労苦と暑さを辛抱した」と。それが同賃金とは不公平だと。主人
が早朝の者から支払えば何の問題も無かった。順次貰って去り、後
の者の事はわからない。しかしわざと、あえて最後の者から支払っ
た。何が言いたかったのか。

「天の御国」とあり、この地上の、世の価値観は成果主義だが、神
の価値観は異なる。早朝の者には、報酬の確約があった。1日働け
ば報酬がある安心感。5時の者はどうだろう。怠けていたのではな
く、働きたいが雇って貰えない。身体が弱かったのかも知れない。
夕刻迫るが糧は無い。家族の落胆を思い、不安、煩いで一杯だった
ろう。

そこに「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい」どんなに嬉しかっ
た事だろう。そして1日分の給料だ。何という驚き。有り得ない破
格の報酬だ。「最後の者にも同じだけ上げたい」「気前がいい」、
天の御国は、恵みとあわれみが支配する世界だ。労働を提供して与
えられるのが給料だ。労働が無いのに給料が与えられる、それが恵
みだ。私たちはこの量り知れない恵みの中に入れられている。
--------------
何の働きもない者に、御神はご愛とあわれみを注ごうと招いてくだ
さった。ただただ感謝するばかりだ。今日も十分に与えられている
恵みをしっかり受け取れますように。


2016年01月21日(木)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13




神は志を与え、神がその事を成し遂げて下さる。私達には様々な思
いが浮かぶ。しかし、気をつけなければならないのは、すべてが神
からのものでなく、サタンからの思い、自分の肉の思いもある。神
からの志を識別する必要がある。思いの中に、確かに神からの志が
あるからだ。どう判別すれば良いのか。判別の基準がある。

まずその志が、神の言葉にそっているか。神の言葉に反して導かれ
る事は決して無い。神のご性質や聖書全体のメッセージに合致して
いるか。それに反するなら、まず神からの志ではない。例えば、こ
こでは都合が良いから少しぐらいの不正は、などは神からではない。
目的のためには手段を選ばないものは神ではない。動機も方法も正
しい事をされる。

偽りが入るなら神からではない。心に平安があるか。不安があるな
ら、続けて祈った方が良い。それが御心にかなった志なら神がその
不安を解決される。何かをする事、人に謝罪する事、又、赦す事、
様々な志を与えて御心に導かれる。大きな事や重要な事なら、導き
手や他の人にも共に祈ってもらうと良い。

御心なら一致がある。神からの志は、決して消える事なく堅く立つ。
今、志があるなら祈ろう。主と一つである時、「せずにおれない」
主のお心が、自分の自発的な思いとなって、湧き上がる。
-----------
志は与えられても、確信を頂くまでじっくりと御言葉や祈りから吟
味する時を持っているだろうか。惑わされてすぐに動き出したり、
逆に尻込みしたりで、御心を真っ直ぐに行えずにいないだろうか。


2016年01月20日(水)

「もし、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9




信仰生活の中で、私たちは罪を犯したくないが、弱さゆえに、どう
しても罪を犯してしまう。すると平安が無くなり、落ち込んでしま
う。そんな時「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめま
す」の御言葉に立ち、「ごめんなさい」と主に悔い改めると、心が
すうっーと楽になり、再び平安が戻る。

自分の罪を認めると、不思議に心に安心感が来て、再び元気になる。
御霊が絶えず導いて下さっているので、そこに立ち返ると、喜びが
戻る。失敗した時に「同じ失敗ばかりして、成長が全く無い。自分
はだめだ、だめだ」と失望落胆が来るだろうか。攻撃して来るサタ
ンからの思いであり、そこに落ち込んでいるなら、肉にいるので、
その場で主を見上げればよい。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、御霊のあるところには自由があります」。
主に向く時、自分の力でやろうとしていた事に気づく。自分がする
ので、すべてが自分の肩にかかっている。委ねればよい事に気づく。
悶々が消え、喜びが来る。

主が心配して下さっている。何も、いっさい思い煩うな、と言われ
る。この主に委ねる時に、心が楽になり、平安が戻る。「御霊によ
って歩みなさい」。それが解決であり、「そうすれば、肉の欲望を
満足させることが無い」と。絶えず、御霊の助けを祈りながら歩む
時、確かな助けを経験する。
-----------
主が断罪しないと言われるのに、自分自身が赦せずに落ち込み、反
省しなくてはと思う。そして気が済むと主からも赦された気がする。
どこまでも的外れだ。御霊によって思考し、行動していきたい。


2016年01月19日(火)

「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」ヨハネ4:48



主のもとに、カペナウムから王室の役人が来た。王の宮廷官吏で、
地位も富もあった。しかし、その地位と富をもってしても、どうに
もならない事態が生じた。息子が病で死にかけていたのだ。財はあ
る。幾らでも医者にかかれる。だが、どの医者も直せなかった。絶
体絶命の中、噂を聞き、この方なら何とかして下さるのではと、最
後の望みを託して30キロの道のりを必死の思いでやって来た。

「来て息子をいやして下さい」と願うと、主は、行くとも、行かな
いとも言われず、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、
決して信じない」と答えられた。「あなたがたは」であり、彼だけ
でなく周囲の人々への言葉でもあった。奇跡を見なければ、主を受
け入れないと。見て信じる信仰だと。

役人は、続けて必死で「主よ」と、息子の癒しを願った。主は「帰
りなさい。あなたの息子は直っている」と言われた。すると、彼は、
ただ主の言葉を信じて、帰途についた。まだ見てはいないが、御言
葉を受け取り信じた。彼にとって、息子が直る事だけが唯一の関心
事であり、必死であり、「信仰」など、どうでも良いことだった。

しかし主は、主を信じる信仰へと彼を導かれた。御言葉に従い帰っ
て行くと、途中でしもべから息子が直った事を聞いた。御言葉を聞
いた「同時刻」である事を知り、彼も彼の家族も皆信じた。息子の
危機により、主は一家を主を信じる信仰へと導かれた。私たちも御
言葉に従う時に、みわざを見る。そしてその度に信仰が強められて
行く。示された言葉に従おう。
-------------
主の御言葉を信じて帰途につく、その信仰を主は与えてくださった。
一時的な癒し、人間的な解決も求めている自分を見る。主の御言葉
を信じ従う信仰を求めていこう。


2016年01月18日(月)

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」ヨシュア1:3



出エジプト後、40年間、荒野を旅をしたイスラエルの民は、とうと
う約束の地カナンを目前にする所まで来た。モーセの死後、主は、
新しい指導者ヨシュアを立てられた。そして「今、あなたとこのす
べての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしが・・与えよう
としている地に行け」と命じられた。「あなたがたが足の裏で踏む
所は・・モーセに約束したとおり、あなたがたに与えている」と。

主は、その地を民にすでに与えていると約束されたが、実際に自分
のものとするには、「足の裏で踏む」=具体的な行動が必要だった。
彼らは、その土地に進み入り、戦い、勝ち取って行かねばならなか
った。ただ待つだけで、祈るだけで、もし具体的行動が無ければ、
それを所有することは出来ない。

実際に入って行って、足の裏で踏む必要があった。これこそが「信
仰」であった。これは、私たちの信仰生活も同様だ。主は、私たち
に溢れるばかりの祝福を備えておられる。それを実際に、自分のも
のとするには、約束を受け取り、主を信じ、立ち上がって前進しな
くてはならない。行動が必要だ。その時、約束のものを手に入れる
事になる。

約束は与えられているのに、このところに欠けるために、多くのも
のを、まだ所有していないだろうか。あなたも、主が与えようとし
ている地に「今、立って、行け」と言われているだろうか。祈りの
座から立ち上がって、実際に行動を起こせと。信仰もって歩み出そ
う。主の約束が現実のものとされる。
---------------
主を信じ行動するうちに主から知恵をまた与えられる。御心なら、
祈りつつ実践しよう。御約束とそれに伴う行動により、私たちは
必ず成長する。


2016年01月17日(日)

「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけら れなかったからです」ヘブル4:2



私たちは、「神を信じている」と口では言い、そう思っているつも
りだが、ある部分において、本当に信じているかどうかわからない、
自分の内で、肉が強いところがある。例えば、「あなたは高価で尊
い、あなたを愛している」と言われ、「あなたは高価だ」「価値が
ある」と言われても、素直に受け取ることができないのが本音だろ
うか。

受け取っていないので、頭では、教理ではわかるのだが、もう一つ
神から愛されているという実感が無い。心の底の底を探ると、自分
が高価だなどと、愛されているなどと、信じられない。否定してい
る。信じていなかったりする。

神の言葉でなく、自分の思いの方を信じている。神の言葉を受け取
らない。信じようとしない。どこからそれが来るのか。生い立ちの
中で、親からずっと、お前はだめだと言われ続けたのかも知れない。
幾ら頑張っても頑張っても認めてもらえなかった過去があるかも知
れない。

それらは無意識の領域の中にあり、自分でも意識していないかも知
れない。もう一つ神がわからないと言う時、心の底はどうだろう。
そのままの気持ちを、その通りに祈ってみよう。わかっている振り
をせず、自分はだめだと落ち込むのでなく、そのままを主に告げよ
う。その時初めて、あるがままの自分が愛されていることがわかる。
主の愛を実感して行く。心が耕されながら、御言葉が根付いて行く。

・・・・・・・・・・・
神と距離感があり、実感が薄い時、信じているふりをせず、わかっ
ているふりをせず、そのままの思いを主に告げて、祈って行こう。
その時、自分の内のどこが問題で、どこが原因かを教え導いて下さ
る。


2016年01月16日(土)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、 あなたがたもそうしなさい」コロサイ3:13 



人を赦すことは難しい。ある人が、良かれと思い、犠牲を払ってし
た事を、別の人から批判された。それも、よく話す人であり、面と
向かっている時には、普通に話すのに、陰でこそこそ悪口を言われ
た事に、ひどく腹が立った。もう腹が立って、仕方が無かった。

殴りかかりたいほどだった。正直、ぼこぼこにしたかった。しかし、
その相手は、丁度、部署替えになり、顔を合わすことは無くなった。
だが、それから、祈りの時に、平安もって祈れなくなってしまった。
「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちの負いめの
ある人たちを赦しました」との御言葉を前に、先に進めなかった。

相手を憎み、赦せない強い思いがある事を示され、胸が苦しくなっ
た。しかし赦せない。だが、それなら、自分の負いめも赦されない
ことになってしまう。悶々状態となり、しかし、怒りと赦せない思
いが、どうにもならない。胸が苦しく、辛くてたまらない中、主に、
あるがままの心を打ち明けた、怒り、憎しみ、赦せない思い、何も
かもを吐き出した。

「赦せません。出来ません。でも助けて下さい」、御前に祈り続け
ていた。その時、目の前に主の十字架が迫り来た。じっと十字架を
見続けていた時に、不思議だが「赦そう」との思いが来た。不思議
だった。意志を向けて、「赦します」と祈った時に、心のつかえが
取て、平安になった。自分の力では、人を赦すことはできない。不
可能だ。しかし、助けを求めるなら、御霊の力によって、赦すこと
ができるようにされる。神の奇跡だ。

・・・・・・・・・・・
出来ない事を、したくない事を、あるがまま祈り続けていると、時
も導かれ、御霊の思いや、御言葉により、不思議に導かれる。心が
溶かされ、変えられて行く。みわざだ。神の力を経験する。まず祈
りに持って行こう。


2016年01月15日(金)

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります」詩篇119:67




信仰人生にも、様々な問題が起きる。問題や悩みは、誰しもいや
なものだ。できるだけ、痛い目には会いたくない。できれば、避
けて通りたいし、出来る限り順風満帆であって欲しい。平穏な日
々が、私たちの心からの望みだ。しかし、御言葉はそう言わない。
正反対のことを言う。

「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、
あなたのことばを守ります」「苦しみに会ったことは、私にとっ
てしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」。
一見、苦しみに会うと、あやまちを犯すふうに思う。だから、平
穏でいたい。しかし、逆で、苦しみに会う前は、あやまちを犯し
たと言っている。

つまり、苦しみを通ったからこそ、あやまちから守られ、御言葉
に従い、御言葉を守る者とされていると。そして、苦しみに会っ
たことが幸せだったと言っている。私たちは、苦しみに会うこと
は、不幸だと思っている。しかし、信仰人生で一番神に近かった
時は?との問いに、多くの人が「試練だった時」「苦しかった時」
と答える。あんなに主に近い時は無かったと。

これは苦しみにより、主に頼り、拠りすがる者とされるからだ。
真剣に、本気で、主に向かい、切に御心を問い、自らの本当の姿
を照らされる。普段順境の時には、決して知る事のない、自分の
不信仰や、エゴに気づかされる。悔い改めて、新たにされる。そ
して、主との交わりが深められて行く。これこそが一番の幸いだ。
------------
試練や苦労を極力避けられたら、世の人はラッキーだと言うが、
試練は神からのものと受け取るなら、辛くても不満はない。共に
おられる主との濃い交わりを日々経験するからだ。


2016年01月14日(木)

「人にはできないことが、神にはできるのです」ルカ18:27



ある人が、職場の対人関係で、辛い日々であった。直属の上司から
何かにつけて辛く当たられる。仕事がうまく行かないと上司がイラ
イラするのだ。物言いも横暴で、ひどく傷つく。上司の下での仕事
なので、逃げ場がない。うまく行かないいら立ちを自分にぶつけら
れている。上司であり、何も言えない。

余りのストレスが身体にも来て、体調も崩してしまった。上司が嫌
でたまらず、出勤が辛く、日に日に憎しみが募る。その憎しみや敵
対心で、平安も全く無く、苦しくてどうにもならず、ある日、帰宅
途上、教会に寄り、牧師に相談した。心の内を打ち明け、聞いても
らった。すると牧師が「相手の祝福を祈りましょう」と言った。と
んでも無い、相手の祝福などと、受け入れられなかった。全身で拒
否反応だ。

牧師に「今、一緒に祈りましょう」と言われ、心の内で「主よ。無
理です。できません。助けて下さい」と叫びつつ、しかし、状況的
に祈らざるを得なくなった。牧師が祈った後、自分の番だ。だが言
葉が出ない。沈黙状態の中、御霊の促しを強く感じる。ついに感情
は横において、意志を向けて、相手の祝福を祈った。

その時、不思議が起きて、心がふっと解き放たれ、平安になったの
だ。心の中の鉛が消えた。主の御心は「あなたの敵を愛しなさい」
だ。それは動く事がない。そうしたくない自我を認めて、主の助け
を求める時に、主が成し遂げて下さる。
--------------
もし信じるなら神の栄光を見ると主は約束してくださっている。
感情的には、状況的には「絶対無理」の思いはいつも来るが、信じ
抜き御言葉に立とう。


2016年01月13日(水)

「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」ヨハネ16:8



ある女性の証しだ。小さい時から頑張って勉強し、親に言われるま
まに塾にも通い、習い事もし、優等生で過ごして来た。周囲からも
常に褒められ、自分でも、何ごとにも真面目な良い子、勤勉で立派
な人間だと思っていた。ある時、友人に教会に誘われ、一緒に行っ
た。聖書から「罪」ということを教えられるが、一向にわからなか
った。

自分は良い子であり、周囲にもそう言われ、真面目に生活し、非行
になど走った事はない。しかし、友人との交流は楽しく、教会に続
けて通っていた。ある時、放蕩息子の箇所の学びだった。その時に、
その放蕩息子ではなく、兄息子が、自分の事を言っていて、そのま
ま自分に重なることに愕然とした。行方不明の弟を軽蔑し、見下し、
帰って来た弟を受け入れる父親に不満を爆発させる。誰にも見せな
い自分の姿だった。顔ではニコニコしつつ、実は出来ない子を見下
し、軽蔑していた。

自分は正しく、立派であり、心の中では不良たちを冷ややかに裁い
ていた。心の中は、常に満たされておらず、怒りや不平不満でいっ
ぱいだった。突然、御霊の強い光によって自分の姿があらわにされ
た。初めて罪がわかった。心底自分は罪人であった。聞いていた主
の十字架が、まさに自分のためであると迫り、心からの悔い改めが
与えられた。御霊が働かれ、罪につき、義につき、そして十字架の
意味をわかるように教えて下さる。
------------
御霊によらなければ、御言葉を知識として蓄えていても、自分の内
に生きてこない。自分で十字架を知ることはできない。主を喜び、
祈り、悔い改めることができるとは、なんという恵みだろう。


2016年01月12日(火)

「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています」ピレモン11 




ローマで、獄中にあったパウロが、ピレモンに宛てた書簡だ。オネ
シモは、主人ピレモンの奴隷であったが、主人のもとで盗みを働き
逃亡した。ローマにまで逃げたが、捕えられて投獄の身となった。
しかし、そのローマで、パウロに出会い、福音を聞いて回心した。
信仰者になったオネシモは、獄中でパウロに仕えていた。パウロは
「獄中で生んだ我が子」と言っている。

そして今や「役に立つ者」と。彼の悔い改めが本物であったようだ。
しかし主人ピレモンの奴隷なので、パウロは機会を見て、オネシモ
を主人ピレモンのもとへ返したいと思っていた。そこでパウロは、
へりくだって、ピレモンに、オネシモを赦して受け入れてくれるよ
う執り成している。弁償はすべて自分がするからと。

奴隷であるオネシモは取り返しのつかない罪を犯してしまった。本
来なら、逃亡奴隷は死刑だ。しかし神の側から見ると、全く違う見
方になる。そこに神の摂理があって「しばらくの間あなたから離さ
れたのは、あなたが彼を永久に取り戻すため」となる。

何という事だろう。赦しとあわれみは尽きない。何と希望があるこ
とだろう。愛なる主のもとで、人生が全く変わったものとなってし
まう。人の失望の時は、神のご計画の時と言われているが、すべて
が主の御手の中で益と、栄光と導かれて行く。
--------------
罪により死ぬしかなかった者が赦され新しい者として生きることが
できる。オネシモはどんなに感謝したことだろう。私たちにも主の
十字架による赦しの望みがいつも目の前にある。


2016年01月11日(月)

「あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます」詩編18:28



ある会社員が、職場と教会で、信仰者として主に仕えていた。そん
な時、上司から「昇進を強く推薦したのだが、残念だった」との言
葉を聞いた。その時、ひどく落胆して心が動揺した。普段、自分は
主のために生きたいと願い、出世など全く関心無いと思っていた。
しかしいざその場になると、自分の内に強い野心がある事を知り愕
然とした。何も無い時は、そんな欲は無いと思っていたが、本音で
は出世を求め、同僚よりも先んじたい、地位を求めている自分を知
った。

心の内を、主の御前に打ち広げ、打ち明け、悔い改め、今一度新た
に自分自身を献げた。その時に、主からの深い平安が臨んだ。それ
は何にも代えられない平安だった。自分はどうであれ自分の置かれ
た場所で、主を第一にして生きて行きたいと思った。するとその後、
突然昇進の命を受けた。何もかもご存じの主が、心の奥を照らし、
動機を聖めて下さったと感じた。

ある人は、熱心に教会で奉仕をしていた。主のためにと思っていた
が、ある時、御霊に動機を照らされ、主のためでも何でもなく、実
は人と比較し、張り合っている自分の姿を見せられた。負けたくな
い、先んじたい、自我によるものだった。心底悔い改めた。人の心
は深い。自分で自分を知らない。本心に気づかず御心をそれている
事がある。しかし気づきを与えて下さる。気づかせられる度に従お
う。
-----------------
御霊により示されるから謙遜になれ、真に悔い改めたい、変わりた
いと思える。御言葉に接し自分の本心を照らされるとき、御父の語
りかけに素直に従えるよう祈っていきたい。


2016年01月10日(日)

「そして彼女はみごもった。彼女は自分がみごもったのを知って、 自分の女主人を見下げるようになった」創世記16:4


主は、アブラハムに「あなた自身から生まれ出て来る者が、あなた
の跡を継がなければならない」「星を数えることができるなら、数
えなさい」「あなたの子孫はこのようになる」と言われた。しかし、
現実になかなか子供が与えられなかった。

そんな時にサラは考えた。これは自分ではなく、女奴隷によって子
供を持つ事が御心なのではと。主が言われたのは、そういう事なの
では。それで、当時行われていた風習により、女奴隷によって子供
を持つことを、アブラハムに提案した。アブラハムは、サラの申し
出という事で受け入れた。

その結果、ハガルはみごもった。しかし秩序が狂うと、必ず問題が
生じる。ハガルは、不妊の女主人を見下すようになり、サラは、そ
んなハガルに怒りを燃やし、敵対し、いじめた。ハガルは余りの辛
さに逃亡する。

だがそこに主が関与され、ハガルは従い、女主人のもとへ戻り、イ
シマエルを産んだ。アブラハムとサラは、主の約束を待てずに、自
分たちの思いで、イシマエルを産み出してしまった。サラは、主の
言葉をそのまま受け取らずに、自分の思いで解釈し行動した。そこ
で間違ってしまった。

自分の思いで、御言葉を読み取るなら、御心からそれてしまう。都
合の良い言葉を取り出し、都合の良い解釈をし、正反対の方向へ行
ってしまう。祈りをもって御霊に拠り頼みつつ、御声に耳を傾けよ
う。御霊は正しく導いて下さる。

・・・・・・・・・・・
肉で行なった事柄は、一見うまく行ったように、見たところ成功の
ように思うが、秩序が狂うので必ず問題が生じてくる。しかし尚も
主のあわれみは尽きず、痛い学びだが、御霊に従うこと、主に拠り
頼むことの大切さを身をもって知る。


2016年01月09日(土)

「それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうち であった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来て」 ルツ2:3



エリメレクとナオミ夫妻は、飢饉になった時に、祖国を離れ、偶像
の地モアブに移住した。家族の幸せを求めての事だったろう。しか
し、その地でエリメレクと二人の息子が亡くなってしまった。帰国
を決意した時に、嫁のルツがナオミに従った。ナオミの背後にまこ
との神を見ての事だった。

「丁度」帰郷が大麦の刈り入れの始まった頃だった。生計のために、
ルツが落ち穂拾いに出ると「はからずも」ボアズの畑で、「丁度こ
の時」ボアズが来合わせた。そして祈ったであろうナオミの指示に
ルツは従い、ルツはボアズとの結婚に導かれた。神のなさる事は、
時にかなって美しい。主のみわざはすべて時にかなっている。ピッ
タリ適合し、当てはまる。ジャストタイミングだ。

美しいとは、調和が取れていて、感動を与える様だ。主のみわざは
ジャストタイミングで、調和と秩序があり、そして感動する。ハマ
ンの策略により、ユダヤ人絶滅の危機に際しても、丁度そこに、王
宮にエステルがいた。エステルは、同族を救うべく命がけで、行動
した。

又、「丁度」そんな時、王は眠れずに年代記を読ませると、モルデ
カイの功績が見つかった。すべてがパズルが埋まるように、タイミ
ングピッタリに導かれ、ユダヤ民族は救われた。主は「すべて」時
にかなって、みわざをされる。ふさわしい時にふさわしい事をされ
る。主を信頼していよう。

・・・・・・・・・・・・
「すべての人が時と機会に出会うからだ」と、全主権を持ち、支配
しておられる主が、人生を導いていて下さるとは、何と平安だろう。
偶然でなく、運命でなく、時も状況も、確かな主の御手で動かされ
ている。時と機会に出会う時、新たに神に出会って行く。


2016年01月08日(金)

「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4



私たちは日々、何を喜びとして生活を送っているだろう?「何を喜
びとして」は、「何を求めて」に表れる。仕事が生きがい、趣味が
喜び、名誉、地位、人からの賞賛を求めるだろうか。家族や、愛す
る人が喜び、富、楽しい生活・・人によって様々だ。それぞれは、
それ自体が悪いのではない。優先順位の問題だ。

まず主ご自身を喜びとして、主を第一として行く時に、仕事も、趣
味も富も、生活の楽しみも正しい場所に置かれて行く。そして、主
を喜ぶ事に心を向け、主を第一として行く時に、心の願いを叶えて
下さると。主を第一にして行く時、主の栄光を求めて生きて行く時、
動機が変えられて行く。

ある宣教師は、懸命に力を尽くして宣教活動をし、人々が集まれば
喜び、人が来なければ、がっくり落胆した。成果があれば喜び、成
果が無ければひどく失望する。そして宣教は非常に困難であり、失
望の方が大きい。しかし、これなら宣教の成果に一喜一憂し、アッ
プダウンし、成果を喜びとしているのであり、主を喜びとしている
のでは無いことに気づかされた。

主ではなく、主が下さるものを喜びとしている。それなら、願い通
りにならない時、必ず失望するし、不満に思う。成果でなく、主が
与えて下さるものでなく、主ご自身を喜びとして行く時、状況や結
果がどうであれ、変わる事のない喜びがある。主以外のものを拠り
所としていないだろうか。
--------------
主が下さる自分にとっての良いものにより、主に感謝をしているこ
とに気付かされる。主が与えてくれる糧、評価、安定と。全て取ら
れてもヨブのように主を褒め讃えて行けるだろうか。


2016年01月07日(木)

「私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します」詩編6:6




ダビデは、サウルから追われていた。サウルの命を救い、忠実な部
下だったのに、サウルの激しい妬みに会い、命をつけ狙われた。い
つも死と隣り合わせの状態だった。いつ殺されるかも知れないなど
と、どんなに恐怖と不安、苦しい状況だろう。更にサウルだけでな
く、実子のアブシャロムからも歯向かわれ、狙われる。

その上、病気にもなり、もうボロボロで、ダビデは泣くしかなかっ
た。「嘆きで疲れ果て、涙で夜ごとに寝床を漂わせ」と、なすすべ
なく泣いて泣いて嘆いた。ダビデは信仰者であり、神の心にかなっ
た者と言われている。信仰すれば、悩みが無くなるのではない。主
は必ず試練を与えられる。私たちの信仰を試され、鍛えられる。

苦しみの時は、目の前の問題が無くなる事を願う。ただただ悩みが
去って欲しい。しかし苦しみの時こそ、神が神であられる事を、身
をもって知って行く時だ。ダビデはその嘆きをそのまま神に持って
行った。私たちも、そのまま心にあるものを主に持って行ける。主
は、ありのままを受け止め、心の内を聞いて下さる。

そして、言葉にならない言葉をも理解して下さっている。その叫び
や不安恐れの、その奥にあるものをもわかっていて下さる。主は一
番の理解者だ。主は泣く声を聞かれ、私たち自身を受け入れて下さ
る。心の内にあるものを、主に持って行こう。
-------------
自分の願いを祈る祈りより、辛さ苦しさの中で主に訴えている祈り
の方が、真に主を近くに感じる。主は聞いてくださる。主に語ろう。


2016年01月06日(水)

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべての中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」ローマ8:37


信仰生活で、試練に会う時、窮地に陥る時、何とか早く目の前の問
題をどうにかして欲しい一心となる。これをこうして、あれをああ
してと自分の思いがあり、祈る。願いを主に告げるのは良いが、目
の前に来る問題は、主の目的と意図がある。それゆえ、この問題を
通して、主ご自身を知り、更に深く主の愛を、知れるようにと祈ろ
う。

実際、神の愛に触れる時、どんなに苦しい中でも、どんなに困難な
状況でも勝利して行ける。ある人は、対人関係の悩みの時に、深く
取り扱われたと証しした。この問題は主から来ていて、自分のため
の取り扱いだと、模範的クリスチャンのように、建前は言いながら
も、心の奥では、怒りがおさまらず、受け入れられずに反抗してい
る自分。

自分には間違いが無い、自分は正しいと思っている。そのため心で
は相手を見下し、裁いている。そして自分を正当化し、相手のせい
にし、自分の義に立つ自分。しかしそれらに全く気づかなかった。
しかし祈り続ける中で、主はあわれみ、自らの本当の姿を見せられ
た。何と罪深い自分。

その時、「彼らは何をしているのかわからないのですから」と、主
の赦しの大きな愛に触れ、主の十字架の意味が新たに目の前に迫り
来た。一つ一つの目の前の悩み、問題、苦しみは、主の愛を新たに
知れる機会だ。今、目の前に悩みがあるなら、その事を通して、主
を愛を新たに知れるよう祈ろう。
-------------
年末には沢山のお励ましメールを有難うございました。おひとつ、
おひとつに大変励まされました。今年もどうぞよろしくお願いいた
します。祝福の祈りを込めて、配信させていただきます。


2016年01月05日(火)

「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか」ヘブル12:1




私たちは信仰人生を走り続ける。それはコースだ。マラソン競技を
する時にどうだろう。オーバーを着て、かさの高いブーツをはいて、
重い荷物を持って、走るならどうだろう。そんな人はいない。良い
競技をするために、「いっさいの重荷を捨てる」ことが必要だ。信
仰生活に邪魔になる。

「思い煩い」という重荷がある。思い煩いがあると、重い荷に押し
つぶされ、その場にしゃがみ込む状態になり、全く前に進めない。
心は煩いでいっぱいで、他の事が考えられず、どんどん落ち込み、
心は暗くなり、穴の中だ。又、「律法主義」は非常な重荷となる。
「ねばならない」に入り込み、信仰生活が義務になり辛く苦しい
ばかりになる。重荷でたまらない。自分の力で歩んでいたら、自力
を捨てて、主に拠り頼もう。恵みの下に。

又、「まつわりつく罪」がある。足元に何かがまとわり、からみつ
いたらどうだろう。走る事など出来ない。罪はまとわりついて、前
に進ませない。常にからまりついて、悩まされている罪があるだろ
うか。赦せない相手がいるだろうか。憎しみや妬みはどうだろう。
握りしめて決して放せないものはどうだろう。

神以外に愛してやまないものがあるだろうか。それらを「捨てて」
とあり、今年、足にまつわりつく罪を捨てて行けるよう祈ろう。主
が取り扱って、そのようにして下さる。そして前進して行こう。こ
の一年も御霊の助けのもと、歩を進めて行こう。
------------
新しい年が与えられ、また目の前に走るべき道があることは何と感
謝な事だろう。華々しい毎日ではないかもしれないが、からみつく
重荷を主に渡しながら軽やかに走っていこう。