2016年02月29日(月)

「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる」T列王記17:1




エリヤは主の命令で、アハブ王に「ここ、二,三年の間は露も雨も
降らないであろう」と告げた。これは信仰と勇気が要る事であった。
人を殺す事など何とも思わない王だ。即、打ち首かも知れない。身
の危険を感じたであろう。しかし、エリヤは主の御心に従った。す
ると次の指示が臨んだ。「ケリテ川のほとりに身を隠せ」と。

その水を飲み、カラスに「そこで」あなたを養うよう命じたと。主
は、アハブの追っ手からエリヤを守られ、主によりかくまわれた。
貪欲なカラスが食べ物など運ぶのだろうか。主の言葉に従う時、奇
跡が起きる。飢饉のまっただ中で、エリヤは養われた。「そこで」
は、重要だ。主に従い、主の御心の中にいるなら、必ず必要は満た
される。

日照りで川は枯れた。すると次の導きが臨んだ。ツァレファテへ行
け、やもめに養わせるようにしてあると。言われた通りに行くと、
何と絶望的な極貧のやもめであった。最後の食事をして死のうとし
ていると。エリヤは、その最後の食事をまず自分にくれるように言
た。そうするなら雨が降る日まで、その粉と油は無くならないと。

彼女はエリヤの言葉を信じ、そのようにした。すると奇跡が起きた。
来る日も来る日も粉と油は尽きなかった。エリヤは見える所でなく、
自分の思いでなく、神の言葉に従った。彼女も従った。その時に
「イスラエルの神、主は生きておられる」を体験した。今、示され
ている事に従おう。主がまさに生きておられる事がわかる。
-------------
ただ主のみを信じて待つことは難しく、まだ少し水のあるうちに何
かすることはないかと動いてしまう。そして生きて共におられる主
を知るチャンスを逃してしまう。主を信じ御言葉を握り一歩従おう。


2016年02月28日(日)

「あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、 その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさ い」ガラテヤ5:13 



自由は放縦と違う。放縦は、「肉の働く」とあるように、肉の思い
のままに、自分の好きなように、思い通りに生きることだ。「肉の
行ないは明白であって」不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵
意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、酩酊、遊
興・・と。自分を中心に生きて行くことが、肉の行ないとなる。

「自分が」「自分が」と自我が出て、自分の力で、自分の思いで生
きて行く。例えば、嫌いな相手がいると、敵意や、怒り、憎しみが
心に湧き上がる。肉は、放っておかれ、流されるままになると、更
に憎しみが増して行く。悪口や批判となって現れ出る。

つまり、肉の働く機会とする事になる。しかし、本当は憎むことは
不自由で、苦しい事だ。心は辛く、重苦しい。「自由を与えられる
ために召された」。本当の自由は、御霊に従うところにある。「愛
をもって互いに仕えなさい」、愛することが、実は自由だ。

肉の性質は、嫌いな相手は憎むことが自由だと思う。しかし、愛す
ることこそ自由になる道だ。愛し仕える事は、意志であり決意だ。
選び取ることだ。生まれつきの性質には無い。自分しか愛せない。
肉は流されたままの行ないだ。

しかし、愛する事は、祈り、決心し、選択し、御霊に明け渡して行
く時に、成し遂げられて行く。愛して行く時、自由と喜びを経験す
る。

・・・・・・・・・・・
自由とは好きな事をする事でなく、御霊に従うところにある。どん
なに肉が逆らおうと、御霊に従って一歩一歩を歩む時、心に主から
の平安を経験する。御霊の喜びを知る。従おうとする者を、御霊は
助けて下さる。選択の一歩一歩だ。


2016年02月27日(土)

「・・それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のう ちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来 て」ルツ2:3

「・・それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のう
ちであった。ちょうどその時、ボアズはベツレヘムからやって来
て」ルツ2:3

エリメレクとナオミは飢饉で、家族の幸せ求め、偶像の地モアブへ
移住した。しかしそこでの歳月で、ナオミは夫と息子二人を失った。
帰郷を決意し、二人の嫁にも実家に戻るよう勧める。しかし嫁ルツ
は、ナオミの背後の神を信じ、従いたいと堅く決心していた。

ナオミとルツが帰郷した時、丁度、大麦の刈り入れ時だった。食べ
て行かなくてはならない。ルツは落ち穂拾いをした。ハードな仕事
であり、異国人はいじめに会った。しかしルツは生計のために出か
けた。すると「はからずも」ボアズの畑であり、「ちょうどその
時」ボアズがやって来た。ボアズはルツに目を留め、親切と厚意で
接してくれた。

ナオミが、帰郷の決意をした時から、すでに主の祝福は備えられて
いた。神を信じるルツの同伴、どんなに心強かった事だろう。生計
のために、丁度、時ピッタリに大麦の刈り入れ時で、落ち穂が拾え
た。たまたま刈る人たちの後について拾うと、「はからずも」将来
結婚するボアズの畑だった。そこにピッタリに普段は来ない、所有
主であるボアズがやって来た。

私たちにも、主は配慮を持って導いて下さっている。生活の中で、
「ちょうど」「時ピッタリに」「はからずも」「ちょうどその時」
が必ずある。生活をよく点検してみよう。信仰者に偶然は一つも無
い。時と機会は、主から来ている。それは主のみわざであり、主の
ご愛だ。

・・・・・・・・・・・・・
この一日は、神のご愛に導かれている。世の人々にとってはどんな
に幸いな事があっても偶然であって、神を認める事はない。しかし
信仰者には、神のご配慮だ。そこに神を認めて行く。天と地ほどに
違って来る。


2016年02月26日(金)

「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」詩篇73:25






詩篇記者は、悪者が栄えるのを見て、落ち込んだ。彼らは楽しそう
で、豊かで肥え太っていて、何の苦しみもなさそうだ。悪者は安ら
かで、富を増している。それに引きかえ、信仰者である自分は惨め
で、苦しみばかりで、何のよい事もない。この足はたわみそうで、
歩みは滑るばかりだ。どうして神を信じない者が栄えるのかと。不
満で一杯だ。

私たちもどうだろう。世の人々の方が幸せそうに見えるだろうか。
罪に苦しまなくても良いし、好きなように生きて快適そうだ。だが、
その詩編記者は、神の聖所に入り、光が与えられた。実は彼の不満
や、妬み、愚痴や、様々な悩みの原因は、神の近くにいなかったこ
とによると悟ったのだ。

真の問題は、様々な事柄や状況ではなく、自分と神との関係だった。
それが信仰にとって根本的なことだ。私たちも同様だ。愚痴や不平
で一杯になる時、イライラ状態の時、本当の問題はその状況でなく、
自分と神との関係だ。神視点になく、神から離れているから、平安
無く、喜び無く、心が荒んでイライラしている。

それに反して、神と親しい交わりの中にいる時、状況がどんなに大
嵐であろうと、心は喜びと平安に守られる。心に余裕がある。主が
波風逆巻く小舟の中で、平安に熟睡しておられたように。神の近く
にいる事が幸せであり、その時、問題が問題でなくなる。今、神と
の関係はどうだろう。
----------
神との交わりの中にいれば、人が試練と呼ぶ中でも心はすっぽりと
守られる。今、神の前にしっかりと立っているだろうか。平安が無
いなら今の自分の状態を点検してみよう。


2016年02月25日(木)

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい」Tペテロ3:15




私たちが、苦しみや悲しみの中においても、信仰をもって、平安と
感謝をもって生活する時に、周囲の人々は、なぜそういう事ができ
るのか、と不思議に思う。パウロとシラスが鞭打たれた後、投獄さ
れ、劇痛の中で、賛美と感謝をしていた時に、囚人たちが聞き入っ
ていたように。この世では、そういう状況では、愚痴、不平不満、
失望、怒りが普通だ。人々は不思議に思い、なぜかとけげんに思う。

又、一マイル行く者と共に、二マイル行ったらどうだろう。一マイ
ル共に行く事も難しいのに、二マイル行くとなると、どうして?そ
んな事ができるのか?と聞きたくなる。その時に、希望を伝える事
ができるよう、福音を伝える事ができるように、準備しておくこと
は大切だ。そのチャンスはいつ来るかわからないからだ。

ある人は、離婚という辛く苦しい試練を通ったが、すべてを主に明
け渡し、主に拠りすがって通過した。涙の谷を通り、非常な苦しみ
の中で、世のものでは無い「主の平安」を経験した。状況は悲惨な
のに、主に在る平安に包まれた。感謝が湧いた。

それをじっと見守っていた未信者の父親が、まさに、希望について
の説明を求めて来た。父親は、主を信じ、救われた。聞かれた時、
説明ができるよう準備していよう。そのためにも日々御声を聞いて、
主との交わりの中を歩もう。
------------
どんな時にも主に頼り、主に従い、賛美できているだろうか。世と
何も変わらぬ反応をし、自分を誇って主の前に出てしまっていない
だろうか。世には無い平安と希望をいつも証していきたい。


2016年02月24日(水)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことが出来るために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11





サタンは策略を持ち、半分の真理に、半分の嘘を混ぜて来ると言わ
れている。半分は合っているだけに、識別しにくい。又、サタンの
誘惑は、自分の欲望にピッタリと合致してやって来るので、自分の
思いと一致しているので、しばしば気づかない。例えば、相手の辛
辣な言葉や悪い態度で、ひどく傷つけられる。

心は辛く、苦しい。相手に確かに非があるだけに、自分は被害者で、
相手に傷つけられたために苦しいとしか思えない。こんなに苦しい
のは相手が悪いと、更に相手を憎んでしまう。しかし実は自分が相
手を裁き、憎んでいるので苦しい。そこがサタンに隠されてしまう。
何があっても、神と自分の間が正しければ、平安なはずだ。誰も損
なうことができない。

又、泥酔やギャンブル、妬み憎しみのようなストレートな罪はわか
りやすいが、良い事で、誘惑して来る。趣味や、仕事、好きな事、
それらは決して悪くなく、むしろ良いものだ。一生懸命仕事をする
のは良い事、趣味は、生活をリフレッシュさせてくれる。しかし、
知らず〃、のめり込んでしまうと、時間が取られ過ぎて、秩序が狂
って来る。「すべてのことはしてもよい。

しかし、すべてのことが有益とはかぎらない」悪くなく、罪ではな
いが、有益でもない事で、ダラダラと時間を使ってしまい、主との
交わりの時間が圧迫されてしまう。それにより霊的食欲が減退する
ようなら、サタンの誘惑であって、要注意だ。誘惑を識別できるよ
う、祈っていよう。
-------------
毎日あらゆるサタンの誘惑と策略にさらされてる。もし御神からの
武具が無ければどうなっていただろう。本当の敵はサタンだ。体力
と同じように霊的な目でサタンを識別できるよう武具を備えよう。


2016年02月23日(火)

「彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした」使徒3:7




ペテロとヨハネが宮に上った時に「美しの門」で、生まれつき足の
きかない男性に出会った。彼は、毎日、門の前に「運ばれ」「置い
てもらった」。自分では何もできず、人にすがらなければならなか
った。人に依存した人生であった。人からの施しとお恵みで生きて
いた。辛さ、怒り、悲しみや寂しさは、諦めになっていたかも知れ
ない。

ペテロとヨハネを見た彼は、施しを求めた。「私を見なさい」と言
われ、お金がもらえるものと、二人に目を注いだ。すると、ペテロ
は「金銀は無い、しかし私にあるものがある。それを上げよう。イ
エス・キリストの名によって歩け」と言われた。生まれてから一度
も歩いた事が無いのに。だが、彼はその言葉を信じ、主にすがった。
すると、足とくるぶしが強くなり、おどり上がり、まっすぐに立ち、
歩き出した。

歩き出した彼は、神を賛美した。今まで、人に運ばれて、置いても
らっていたのが、自分の足で立ち、歩き出した。「イエスの御名が、
その御名を信じる信仰のゆえに、この人を強くした」。彼は主を信
じ、いやされた。私たちも、主を求めていると思いながら、実は、
他のものを求めているかも知れない。

名誉、地位、人からの賞賛、自己実現・・だろうか。しかし、それ
も同じく依存の人生だ。主は、御名を信じる信仰に立って歩めと言
われている。主を信じ、主にのみ拠り頼むことが、私たちの真の自
立だ。そして、そこにこそ本当の生きがいと喜びがある。
-------------
信仰を持ちながらも、人からの「お恵み施し」を求めて座り込んで
いるところを示される。主にのみ頼る生き方だろうか。すでに主に
頼れる祝福に預かっている。喜び賛美しながら主について行きたい。


2016年02月22日(月)

『イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた「よくなりたいか」』ヨハネ5:6



ベテスダの池で、病で38年伏せっている人に、主は目を留められ
た。そして「よくなりたいか」と問われた。長年になると、気力が
失せてしまい、よくなる事を諦めてしまう。又、38年も病気だっ
た人が、突然、健康体になったならどうだろう。今まで、人はやさ
しく同情してくれ、伏せったままで良かった。

しかし当然働いて、社会生活をして行かなくてはならない。仕事を
探し、住まいを探し、突然様々な責任が生じて来る。今まで伏せっ
ていた者にとって、大きな喜びの反面、非常に厳しい現実が待ち受
けている。私たちにも、主は「よくなりたいか」と問われる。今ま
で何度やってもダメだった。これからも失敗すると諦めているだろ
うか。

自分の内にそんな部分があるだろうか。よくなるために、自分の弱
さを直視したくない、惨めさを認めたくない。痛くて突き詰めたく
ない。あいまいにしていたい。従って行こうと決心するなら、払う
べき犠牲に気づいている。その犠牲は困る。そのため、よくなりた
くないのだろうか。このままでいたいのだろうか。

「よくなりたいか」は、あいまいな部分に光が当てられ、意志を探
られる。主は、今、問うておられる「よくなりたいか」。長年、引
きずっている心の重い問題、悩み、そのところを解決に導いて下さ
る。主に向き合い、自分に向き合う時、真の喜びを経験して行く。
-----------
決して満足はしていないが、どうせ駄目だろうと現状維持のままに
しているものがある。自分の内には力は無いが、「よくなりたいで
す」と主の前に差し出し、積極的な祈りの課題に変えていきたい。


2016年02月21日(日)

「さばいてはいけません。さばかれないためです」マタイ7:1


「さばいてはいけません」、人を裁くなと、主は言う。しかし、物
事を判断することは大切で、事実を正しく判断することと、さばく
こととは別物だ。「実によって彼らを見分けることができるので
す」と、識別するようにとも言われている。裁きと見分けることと
は別のことだ。

ちゃんとした批判的精神は必要だが、なかなか正しく批判できない。
なぜなら、心の状態に左右されてしまうからだ。相手が嫌いなら、
正しく批判することは難しい。感情が入ってしまう。心の底に主の
愛があれば、正しく批判する事ができて、更に良いものに建て上げ
ることができる。

心は外側から見えないが、心にあるものが、人の口から出ると、御
言葉は言う。内側を隠し、外側を繕っても、心の内の事が表に出て
しまう。心が、言葉になって、行動になって、外側に出る。だから、
心が何より大切だ。「外側から人に入ってくる物は、人を汚すこと
ができない」「人から出るもの、これが人を汚す」内側から出るも
のが問題だ。

心の内に、妬み、憎しみ、裁き、敵対心があるなら、それが梁にな
ってしまう。大きな梁によって、目がふさがれてしまい、何も見え
ない。内側にある悪いものを、たえず主の前に差し出し、赦し、き
よめていただこう。その梁を取りのけて行く時、はっきりと見える。
そして、正しい、御心にかなった判断をして行ける。

・・・・・・・・・・
心に苦いものがある時は、判断を間違ってしまう。正しい判断が不
可能だ。まず、心探られ、苦いものを、主の光に出していただき、
悔い改めて行こう。その時、はっきり見えて、主のために用いてい
ただける。


2016年02月20日(土)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れる ために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36


祈りには、すぐに答えを得て、聞かれる祈りがある。が、時間をか
けて、忍耐をもって祈り続けることが必要な祈りもある。まず第一
に、「求めること」が必要だ。まず祈らなければ、何も始まらない。
「あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからで
す」。まず「願え」と言われる。

だが、願い始めると、その祈りがなかなか叶えられない事を経験す
る。もしや悪い動機ではと、動機を探るが、特にとがめは無い。し
かし、しばしば祈り続ける事にうみ疲れてしまい、途中でやめてし
まう。神は、時に「待つ」ことを教えられる。私たちは、待つ事が
好きではない。苦手だ。すぐに結果が欲しい。

だが、聖書には何度も「主を待ち望め」と出て来る。すぐに祈りの
答えを得たなら、「信じて待つ」必要はない。逆に言えば、忍耐を
養われ培われる事がない。なぜ、神は待たせられるのか。一心に答
えを待つためには、信仰が必要だ。主への信仰があるから待つこと
ができる。求め続ける事ができる。

信仰の土台に御言葉がある。アブラハムは、満天の星を見せられ
「あなたの子孫はこのようになる」と神の約束を受けた。彼のから
だも、サラも胎が死んでいるのを認めても、神には約束を成し遂げ
る力があると信じた。

神の時に、神の言葉は実現する。今までも、経験して来たのではな
いだろうか。「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりま
せん。それは大きな報いをもたらす」。

・・・・・・・・・・・・
祈りは、忍耐を持って祈ることがどうしても必要だ。すぐに答えら
れる祈りがあり、長く祈り続けた先に答えられる祈りがある。祈り
にうみ疲れた時は、その事を主に告げよう。そして主の語りかけに
耳を傾けよう。祈りを励まし、指針を与え、心新たにされる。


2016年02月19日(金)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5




ある人が、対人関係で、非常に傷つく事態が起きた。相手が赦せず、
思い起こす度に、怒りが湧いた。自分はクリスチャン、赦さねばな
らないと思うのだが、心は裁きと憎しみが渦巻いた。しかしとがめ
があり、何とか赦そうと頑張るのだが、どうにもならなかった。
御言葉も知っているのに、思い出すと怒りに支配され、今度はでき
ない自分に自己嫌悪に陥り、惨めになった。

「赦せますように」と祈っているのだが、赦すことができない。
段々、「何で、あの相手のために、自分がこんなにも苦しまなけれ
ばならないのか」と、腹が立って来る。楽しい時も、その思いがよ
ぎった途端、楽しさも吹っ飛び、暗い重苦しい気持ちに落ち込む。
こんな人生は嫌だと、主と交わるべく、主の御前に出た。

「どうしてこんな事になっているのですか!」怒り、相手への敵対
心、憎しみ、自分の惨めさ、苦しみ、平安の無さ、虚しさ・・心の
底を延々、ハンナのように主にぶちまけた。するとどうなったのか
不思議だが、何だか心が落ち着いて来て、受け止められているとい
う、暖かい感覚が来た。主を感じたのだ。

そして祈っていると、赦せるように祈った端から、自分の力で何と
かしようとしていた事に気づかされた。一言祈った途端に、自分が
動き出す。だから出来ない。そして主に何もかも委ねることができ
た時、心の鉛が取れて、平安と安堵が来た。問題が問題で無くなっ
てしまった。
-----------
悶々とした悩みやどうしようもない感情は祈りを通して主に渡そう。
主が平安をくださる。ささげる祈りによって人の考えにまさる主の
平安が与えられるとの御約束は真実だ。


2016年02月18日(木)

「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」詩編119:71


ジグソーパズルがある。一つ一つのピースは、最初バラバラだが、
それをそれぞれの埋まるべき場所に埋めて行くと、素晴らしい作品
が完成する。一つ一つのピースだけを見ると、わけがわからない。
しかし、それぞれの場所にふさわしくはめ込んで行くと、見事な絵
が出来上がる。一つとして無駄なピースはない。一つ欠けても完成
しない。完成のために、全ピースが必要だ。

同様に、私達の日常に起こる一つ一つの出来事も、主にあって、一
つも無駄ななものは無い。「なぜ?」「どうして、こんな事が?」
と、目の前の事に、戸惑う事も多い。理解できず、わけがわからな
い。しかし、それら一つ一つの出来事に、神の計画と意図がある。
ピースが埋まって、少しづつ全体像が見えて来ると、どんな絵かが、
明らかになるように、時の経過と共に、主のお心が見えて来る。

一つ一つ出来事が、つなぎ合わされ、ピタリとはまって解き明かさ
れる事を経験する。全く理解できなかった事が、一つ一つがつなり、
主の言わんとしておられる事が見えて来る。一つとして無駄な出来
事は無い。神に無駄は一つも無い。今、試練の中だろうか。今、わ
からないが、それは主の御手から来ている。

一羽の雀さえ父のお許しなしには地に落ちない。御手の中だ。神の
なさる事は、時にかなって美しい。今はわからないが、信仰によっ
て受け入れよう。それがベストだったと、後でわかる。必ず感謝で
きるようになる。
----------
先の見えない試練であっても明日に希望を持てるということは何と
幸いなことだろう。試練の中でこそ神の御声も導きもさやかになる。
そして全ては益とされ必ず、感謝で終わる。


2016年02月17日(水)

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」詩篇46:10


この「やめよ」は、「手放す」「手を引く」「頑張りを止める」と
の意味だ。何か突発事態が起こると、私たちのとっさの反応は、ま
ず「何とかしなくては!」だ。思いは駆け巡り、すぐに解決しなけ
ればとバタバタと行動を起こし、動き回ってしまう。又、驚き、慌
てふためいて、パニックに陥るだろうか。

主は「やめよ」=「まず、静まれ」と言われる。目の前の状況に、
どうしても、即、「自分が出て」対応してしまう。しかし主は、
「動くな」と言われる。「手を出すな」「自分の手のわざを捨てよ」
と。そして「わたしこそ神であることを知れ」と。つまり、「わた
しがする」「わたしが動く」「わたしが成し遂げる」と。

だから「その問題を、わたしに委ね、任せよ」と。自分で動くこと
は、主を妨げることになってしまう。まず動くことではなく、まず
祈り、主の御心を求めて、知ることが大切だ。自分の思いに振り回
されることを「やめて」、主のお心に耳を傾けよう。エリヤが、ホ
レブの山で、「主の前に立て」と言われた時、激しい大風、地震、
火があったが、そこに主はおられず、火の後に「かすかな細い声」
があった。

主の御声は細い小さな声だ。しっかり耳を澄ませて、その御声を聞
こう。全主権は主にあり、時、時期、機会、すべては、主の支配
と御手の中にある。主が動かれる。目の前のその問題を、主に任せ
て、安心していよう。「万軍の主はわれらとともにおられる。ヤコ
ブの神はわれらのとりで」だ。こんなに力強い後ろ盾はない。
------------
何とかしなくては!と頭は勝手に動き始め、そこで静まることが難
しい。その思いを主に告げ助けを主に求めよう。先へ先へと焦る気
持ちが守られ、次の一歩が必ず示される。


2016年02月16日(火)

「あなたの父と母を敬え」出エジプト20:12




「あなたの父と母を敬え」は、十戒の5番目であり、対人関係の一
番最初に来ている。約束が伴っていて「あなたの神、主が与えよう
としておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」。どの親
も、子供のために良かれと思い、対応する。ある親は、絶えず叱り、
非常に厳しくしつけをする。

しかし、子供の側では辛く、親の心がわからず、自分は愛されてい
ないと思ってしまったりする。だが、子供の不幸を願う親などいな
い。親も親で、子供を思う気持ちと裏腹に、子供を思い通りにした
い過保護、過干渉、子供のためとの大義名分の陰に、自我に気づく
事は大切だ。自分が痛いから、子供を転ばせたくない。中心は自分
だ。

子供の側としては、親を敬う事は神の喜ばれる事だ。「良い」「立
派な」「尊敬できる」父と母なら敬えとは言っていない。条件は無
い。「あなたの」父と母だ。時に、口やかましい親、過干渉の親が
いるかも知れない。しかしもしその親を軽蔑し、憎むなら、神との
関係にひびが入ってしまい、自分も辛いことになる。神を畏れて、
敬うことができなくなってしまう。

「天の父なる神」と「自分の父」が重なってしまうのだ。親を否定
すると、自分自身を否定する事になり、自己矛盾を起こしてしまう。
親を敬う事は、取りも直さず、あなたの幸せのためだ。非常に難し
い場合もある。主はご存じだ。人にはできないが、主に不可能は無
い。主に祈り求めよう。主は祈りに答え、時間をかけながら一歩一
歩と導いて下さる。
------------
敬いたければ敬いなさい、ではなく神からの戒めとして受け取らな
ければいけない。親として、子として何とか最善の道を楽な方法で
と模索するが、そこにいつも神がおられるかを学ばされる。


2016年02月15日(月)

「やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです」Tヨハネ2:9 



光の中にとどまる人は、決してつまずくことがない。なぜなら光が
あるからだ。よく見えているのでつまずかない。人がつまずくのは、
光の中にとどまらず、闇の中にいるからだ。闇の中で、人は何も見
えずつまずく。「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者
は、今もなお、やみの中にいる」やみの中にいるしるしは、兄弟へ
の批判、非難、悪口、憎しみ、敵対心だ。

兄弟への敵対心、憎しみがあるなら、私たちはやみの中にいる。幾
ら、自分は光の中にいると言っても、御言葉がやみの中だと言う。
まず自分がやみの中にいる事を認める時に、それはすでに光の中だ。
兄弟を愛して行くなら、やみの中にはおらず、それは光の中におり、
つまずく事なく、真っ直ぐに歩んで行けると言っている。

霊的にダウンする時、相手や環境のせいだと思う。嫌な相手、嫌な
環境のために憂鬱で、自分に喜びがなく、落ち込んでいると。人や
状況さえ変われば、平安で幸せなのにと。しかしそれは原因ではな
く、自分と主との関係が原因だ。平安が無いのは、主との関係に問
題がある。心に憎しみがあるかも知れないし、人からの評価や賞賛
を求めているのかも知れない。

心が神以外のものに向いている時に、必ず喜びが失せ、不満、愚痴、
裁き、妬みが出て来る。問題が混乱してくる時、まず自分と主との
関係に焦点を置こう。まず主に向く時、光の中だ。どんな状況でも、
主を見上げる心は平安であり、物事が正しい位置に置かれて行く。
------------
徐々に目の前の問題が大きくなり、自分の気持ちしか見えていない
ときは、主との関係が崩れていないだろうか。御言葉を読む時、祈
りの時を保ち、光の中から自分を見ていこう。


2016年02月14日(日)

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進も うではありませんか」ガラテヤ5:25


新生した私たちには、御霊の内住を受け、新しい性質が生まれた。
それは神を喜び、罪を悲しみ、神に従おうとする性質だ。同時に、
古い性質もそのまま存在する。これはエデンの園でアダムが、神の
ようになりたいと、罪を選んだ結果、自分を神とし、自分の力で自
分の思い通りに歩もうとする性質だ。

この二つの性質がクリスチャンの内にあり、御霊は新しい性質を、
サタンは古い性質を引っ張る。私たちは常にどちらかを選択してい
る。それは自分の選択だ。古い性質の、妬み、悪意、敵対心、憎し
みを選ぶ時、その肉の実を結ぶ。反対に御霊に従い、自分を明け渡
して行く時、御霊の支配を受ける。その結ぶ実は愛、喜び、平安だ。

主に在る者の交わりにおいて、御霊に導かれ、双方の新しい性質で
交わる時、喜びがあり、双方で主を崇め、建て上げられ、心満たさ
れる。一人が新しい性質で、もう一人が肉の性質で交わる時、前者
が、後者を励まし、引き上げる事ができる。信仰的な方向に導く事
ができる。

肉と肉の交わりは、愚痴、批判、不満の交わりとなり、双方で足を
引っ張り合う事になる。自らが御霊に導かれるなら、周囲の人を励
まし、徳を建て上げて行く。内なる御霊がそうされるからだ。

自らの状態は自分だけでおさまらず、周囲にも影響を与えて行く。
新しい性質がすでに与えられている。御霊は内住されている。御霊
に従って行こう。それは喜びの歩みだ。

・・・・・・・・・・・
肉は根深くあり、サタンは、常に肉に誘惑して来る。日々、主との
交わりにより、肉の性質に気づかせられる。御霊の気づきが与えら
れる。そして御霊に従う時に、自分にも喜びがあり、周囲に温もり
と潤いを放って行く。今日も祈り心で歩もう。


2016年02月13日(土)

「マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げ てはいけません」ルカ10:42


大変よく知られているマルタとマリヤの姉妹の箇所だ。どちらも、
主を大歓迎し、もてなしたいと願った。姉のマルタは、居心地良い
場所を作るため、念を入れて掃除し、又、料理の献立も、主のため
にベストなものを考えた事だろう。強いられてでなく、喜んでした
事だった。

ところが、段々夕食の時刻も迫り、焦り、イライラして来た。喜ん
で始めた事がしんどくなって来る。マリヤを見ると、何もしていな
い。腹が立ち、主に文句を言う。だが、マリヤは怠けているのでは
なく、一心に主の言葉に聞き入っていた。一言も聞き漏らすまいと
の真剣さだった。

そして主は、マルタに、マリヤから御言葉を聞く事を取り上げては
いけない。マリヤは良い方を選んだと言われた。みことばに聞き入
るのは非常に重要な事だ。まず聞かない限り、従うことが出来ない。
どう従って良いかわからない。そのため聞く事は、主を愛すること
だ。しかし容易な事ではない。動く方が楽で、たやすい。

そのため、とにかく動く事で、奉仕で、神を愛していると思いたい。
だが、主は聞く事が、どうしても必要なただ一つの事と言われた。
「わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたし
の弟子」「わたしにとどまり、わたしのことばにとどまるなら・・叶
えられる」と。御言葉によって、奉仕する時、喜びと平安に守られ
る。

・・・・・・・・・・・・
「どうしても必要なことは、一つだけ」と言われた。必要な事は
色々あると言われなかった。一つと。あれもこれも必要なのでは無
い。一つだけだ。御言葉を聞くことは、自動的にはやって来ない。
マリヤは「選んだ」。選択が必要だ。


2016年02月12日(金)

「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう」マタイ12:7



パリサイ人や律法学者が出て来るが、当時の彼らは、律法を形式
的に懸命に守り、細かい戒めまで実行した。又、御言葉によらない、
人間による言い伝えも多く作り、それも守っていた。表面上守って、
自らを良しとしていた。だが動機はどうだろう。又、それを人にも
強いて、行なわない人々を、容赦なくさばいていた。

つまり、形式的な事では、心はどうにもならなかった。心の中に渦
巻く裁き、妬み、高慢、憎しみは、逆に更に増幅して行った。残念
ながらそこに愛も喜びも無かった。私たちもどうだろう。御言葉を
学び続けるのだが、自分の思い、考えが強いので、愛なる神の心を
知ることができない。正しいのだが、愛が無いという状況に陥る。

パリサイ人は、律法は主キリストによって成就されるという事が全
く見えず、主を拒み、否定し、十字架にまで追いやった。自分は正
しいと思っているが、大きな過ちを犯した。律法は、私たちの罪を
明らかにし、私たちをキリストへ導くための養育係とある。律法に
より、自分はダメな人間と知り、自分がいかに罪深いかを知り、主
が必要であることを認め、キリストを信じる信仰へと導かれる。

律法自体は聖で、正しく良いものだ。律法によって初めて罪がわか
る。問題は、律法ではなく、心にあった。頑なで、強情な心は、主
が見えない。人が神に認められる、唯一の道が、信仰によってだ。
ただただ神の恵みとあわれみによって受け入れられる。何という幸
いだろう。神のあわれみは満ち満ちている。
-------------
内にある弱さ醜さは、外側のように自分で整えられない。主のあわ
れみのみが罪を赦し、清くしてくださる。自分で清めているような
高ぶりがないか。気付かせてもらおう。


2016年02月11日(木)

「しかし私にとっては、神の近くにいることが、しあわせなのです」詩編73:28  


 

主は、私たち一人一人にご計画をお持ちだ。最高の道を用意してお
られる。だから、そのご計画の道を歩むことが、自分にとって最大
の平安と喜びの道になる。そのため御心を求め、御心を悟ることは
大切だ。だが、その主の導きを求めることにおいて、よく行き詰ま
ってしまう。祈ってはいるのだが、導きがわからない。

その時に、自らの内側を御霊に探っていただくことは必要だ。内側
には強い自分の思いがあり、どうしても自分の思い通りに進みたく
て、心はすでに定まっていたりする。これが無意識である事もある。
自分の強い思いが邪魔するので、主の導きがわからない。経験ある
だろうか。心探られる時に、御霊は気づかせて下さる。

又、うすうす導きがわかるのだが、受け入れ難い場合がある。敵を
愛しなさい、人を赦しなさい、和解しなさい等は、はっきりさせた
くない。従いたくないからだ。先延ばしにしたい。しかしそうなら、
何だか主との間が、ぼんやりし、遠く感じてしまう。自分が、本当
に求めている事は何なのだろう。不都合な事にはふたをする、平坦
な問題のない人生だろうか。

信仰者の心の奥は、何があっても、主と近く歩む人生、苦しみもあ
るが、その中で更に深く主を知って行く歩みではないだろうか。非
常に苦しい試練により、非常に真実な主、非常に深い平安を知って
行く。神の近くにいることこそ自分の幸せだ。
-------------
自分の思い通りが幸せではないと知っている。真に魂が喜び、平安
を得るのは、主の導きに従った時ではないだろうか。迷いやすく、
たわみそうな足だからこそ主の近くにいることが幸せだ。


2016年02月10日(水)

「さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」創世記11:7




よく知られているバベルの塔の箇所だ。最初、全地は一つの言葉だ
った。互いに交流でき、意思疎通もできていた。そんな頃、人々は
移住して来て、シヌアルという地に定住した。彼らは、神から、れ
んがを作る技術が与えられ、れんがと瀝青で建築物を作ることがで
きた。うまく対話もでき、肥沃な地に住み、建築技術も与えられ、
すべては神の素晴らしい恵みであった。

しかし「そのうちに彼らは」「天に届く塔を建て、名をあげよう」
と言い出した。主の恵みに感謝し、栄光を主に帰するのではなく、
自分の名をあげ、自分の栄光、自分の名誉、賞賛、「自分」が神の
位置に着くようになった。神に与えられた能力を、自分の栄光のた
めに使うようになった。自分が、自分の、自分のため・・。これが
アダムからの罪そのものだ。

「そのうちに」とある。最初は良かったのだが「その内に」向きが
狂って来た。神は言葉を乱し、意思疎通を不可能にした。その結果、
塔建築は出来なくなり、「彼らは建てるのを止めた」、失敗に終わ
った。神が介入され、阻止された。人々は全地に散らされた。原因
は「高慢」であった。

私たちもどうだろう。言葉が通じず、気持ちが通じない時、そこに
神を忘れ、「自分が、自分が」「自分の意見」「自分の思い」の
「高慢」がないだろうか。まず主の前にへりくだる時、必ずそこに
は御霊の一致がある。
------------
自分の思いだけで見ていくと物事は混乱し、みなバランスを失って
しまう。主の御思いは何処にあるのかと謙遜に主に尋ねて動きたい。
御心に従って歩もう。


2016年02月09日(火)

「サムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。『その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように』」Tサムエル3:18 



サムエルは、祭司エリのもとで、養育されていた。そのサムエルに、
突然、主からの御声が臨んだ。よくわからず、エリのもとに聞きに
行く。するとエリの指示により、その通りに「お話しください。し
もべは聞いております」と答えた。すると、その一番初めのメッセ
ージは、何とエリの家への裁きであった。

「彼の家を永遠にさばく。自分の息子たちが呪いを招くような事を
していながら戒めなかった罪による」と。自分の恩師であるエリに
伝え難い、厳しい言葉であった。サムエルはエリに語ることを恐れ
た。しかしエリにその通りに告げるよう言われ、主の言葉をそのま
ま伝えた。預言者とは、神から受けた言葉を、忠実にそのまま民に
語る人のことだ。

どんなに辛い、痛い言葉であろうと、その通りに語らねばならない。
預言者として立てられて行くサムエルへの最初のテストであったか
も知れない。私たちはどうだろう。口先では、「しもべは聞いてお
ります」、喜んで聞きますと言いつつ、しかし罪を指し示され、内
側の醜い姿を刺される痛い言葉、又、自分の願いや思いと異なる言
葉は聞きたくなくて、耳をふさぐだろうか。

心刺される痛い言葉こそ恵みの言葉だ。そこでこそ自分が変えられ
成長して行ける。痛い言葉にこそ耳を傾けよう。「愛している」
「いつも共にいる」「求めに答える」そいういう言葉を聞くときだ
けが、「恵まれた」と思っていないだろうか。
----------------
人間の自己中心な目で、自分の本当の姿をはっきりとらえる事は出
来ない。成長続けるためには、主よりの痛い示しを受けとめ変わっ
て行くことだ。示され、教えられることこそ恵みで祝福だ。


2016年02月08日(月)

「彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず・・神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」ローマ4:20



神を信じた、アブラハムの状況はどうだったのだろう。75歳で「生
まれ故郷を出て、わたしの示す地に行け」との召しを受け、カナン
に向けて出発した。そしてカナン人との闘いの日々だった。月日は
経るが、子どもができず、しもべエリエゼルを相続人にと考えてい
た。「子孫を下さらないので、家の奴隷が跡取りになる」と。

すると主は「その者ではない。あなた自身から生まれ出る者が継が
ねばならない」と。主は彼を外に連れ出し、天を見上げさせ、子孫
はこの星のようになると告げた。その時、「彼は主を信じた」。彼
は、神の約束を信じた。現に子供は持たず、全く見ていない事であ
り、見えるところでは、受け入れ難い事だった。しかし、アブラハ
ムは神ご自身を信じた。

状況でなく、神ご自身を見て信頼した。「彼は望みえない時に、望
みを抱いて信じた」。望み得ないときに望みを抱くからこそ、信仰
だ。目に見えないから「信仰」なのであって、目に見えたなら、信
仰は要らない。人間の五感による、実感などどこにもない。状況を
頼り、感覚を頼るなら、どこを見ても信仰など湧かない。目の前の
状況から出す結論は、「不可能」だ。

その望み得ない状況から、どうやって希望が湧き出るのか。それは
約束の御言葉だ。神が語られた言葉を、そのまま真っ直ぐ受け入れ
る時、「彼の義とみなされたと書いてあるのは、ただ彼のためだけ
でなく、また私たちのためです」。私たちも、アブラハムと同じ祝
福にあずかる。
-------------
神の御言葉を真っ直ぐに受け入れられたら、そのまま平安となり、
また次の神への信頼へと成長できる。状況に支配される不信仰を悔
い改め、砕かれながら信仰へと進んでいきたい。


2016年02月07日(日)

「主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、 魚の腹の中にいた」ヨナ1:17



有名なヨナの箇所だ。ヨナは、ニネベに行けとの主の命令が気に入
らず、「主の御顔を避けて」、渡りに船とばかりに、タルシシュ行
きの船に乗った。すると嵐になり、ヨナは自分のせいで嵐になった
ので、自分を海に投げ込むようにと。

その海の中で、大きな魚を備え、神はヨナを守られた。そこでヨナ
は祈り、魚の腹から出た後、今度は素直にニネベに行った。ところ
が、ヨナの言葉に人々は悔い改め、神は災いを思い直された。それ
がヨナには納得行かない。

町を出て、小屋を作り、その陰に座った。どうなるか、見てやろう
との態度だ。神はとうごまにより、日陰を作られたので、ヨナは喜
んだ。しかし翌日は、虫によりとうごまは枯れた。焼け付くような
太陽は照りつけ、衰え果て「死んだ方がまし」と死を願った。

苦い思いから、機嫌が良くなったかと思うと、又、ぐったり衰え、
死にたいと思う。私たちも、些細な事で一喜一憂し、信仰がグラグ
ラする。うまく行けば喜び、行き詰まれば落胆し、思い煩う。外的
状況に振り回される事が問題だ。

状況に関係無く、内側に、確固とした信仰、喜び、確信を持つ事が
大切だ。神はヨナを大きな愛で愛しておられる。御心をそれても、
決して見捨てず、見放さず、その愛は変わらない。忍耐をもって導
かれる。この同じ愛であなたも愛されている。状況でなく、神のこ
の変わらない愛に礎を置こう。

・・・・・・・・・・
主の御顔を避けて、御心に逆らい、反対方向へ逃げる。それで切り
捨てられるのでなく、主の愛は変わらず、主のあわれみは尽きず、
魚を備えて、導かれる。見捨てられず、見放されない。備えがずっ
とあった事に思い至る。


2016年02月06日(土)

「するとイエスは言われた。『それを、ここに持って来なさい』」 マタイ14:17


人は、どうしても悲観的な方に傾きがちだ。神を忘れると、無いも
のばかりに心が向き、無いものを数える。あれが無い、これが無い。
心が沈み、落ち込んで行ってしまう。無いものでなく、あるものを
数えるように、主は言われている。

田原米子さんは、自殺を図り、一命は取りとめたものの、片腕と両
足を失い、3本の指だけが残った。絶望した。生きて行けない。次
は確実に死ぬ事を計画した。そんな中、宣教師の訪問を通して、主
に出会った。主を受け入れた時に、突然、光が来て、「指が3本も
ある!」と思った。「無い」から「ある」へ発想転換が起きた。

星野富弘さんも、首から下が全く動かない身体になった時に、人生
に絶望した。これから先どうなるのか、真っ暗だった。持って行き
場の無い苦しみ、煩悶を母親にぶつけて当たっていたと。そして、
聖書に触れ、神に出会った時に、「首から下が動かない」から「首
から上は動く」に思いが行った。

そして主に導かれて、自分にできる事をして行った時に、多くの
人々の慰めと励ましのために、素晴らしく用いられて行った。私た
ちはどうだろう。無意識にも、無いものばかりに目が行ってないだ
ろうか。与えられているもの、あるものに目を向けよう。与えられ
ているものを感謝し、持てるものを主にお献げし、主のために用い
ていだこう。

・・・・・・・・・・・・
無いものを数えるのでなく、持てる僅かなものを、主のもとへ持っ
て行こう。主が受け取り、きよめて用いて下さる。人々の祝福の
ために用いられ、自分自身にも喜びが与えられる。そしてそこに神
の栄光が現わされる。


2016年02月05日(金)

「私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」詩篇32:5 



ある人が、成育過程で様々な事があり、母親をひどく憎んでいた。
幾ら頑張っても認めてもらえなかった。母親にほめてもらいたくて、
勉強も頑張りに頑張ったが、良い成績を取っても、一度もほめても
らえなかった。心を病んだ時期があり、憎しみは母親に向かった。
クリスチャンになったが、その後もどうしても赦すことができず、
悶々状態が続いた。

しかし、主に出会い、祈りに持って行けた。この苦しみを、絶えず
祈りに持って行った。そんなある時、御霊に示された。母親自身に
確かに問題があり、母親から深い傷も受けたが、それは母親の問題
であり、「赦せないこと」「憎んでいること」は、どれだけ言い訳
してもそれは自分の問題であり、自分の罪だと。自分の罪をはっき
り示された。

今まで、自分は被害者であり、自分は悪くないと、全く気づかなか
った。自分の側で、罪は、罪と認めて、告白し、神の御前に心から
悔い改めた。その時、心の中の重苦しい鉛が溶けて行った。いつも
苦しかった、あの苦しみから解放された。私たちは、苦しい問題が
起きた時に、自分の内側を見たくないので、誰かのせいにしてしま
う。確かに相手にも非があり、そうしている限り、自分を見なくて
済む。

しかしそこには何の解決もない。相手に非があったとしても、それ
は相手と神の関係であって、自分には関係が無い。相手が悪いから
苦しいとずっと思っていたが、そうでなく、自分が「憎しみ」「裁
き」の罪を犯していたから、平安が無かったことに気づかされた。
-----------
相手の罪は主が正しく裁かれる。向き合うのは被害者としての自分
の傷ではなく、憎み裁き続ける罪だと学ぼう。主はすべてをご存知
でいてくださる。真の平安を与えてくださる。


2016年02月04日(木)

「外側から人にはいって来る物は人を汚すことのできない、ということがわからないのですか」マルコ7:18



この世は「性善説」だ。内側は善いものだが、外側から悪いものが
入るので、人は汚れると思われている。だから神社では、おはらい
をする。そして、環境が、成育歴が、社会が悪いから、非行に走り、
犯罪を犯すと。環境が良くなれば、社会が良くなれば、人間は良く
なるのであり、悪いものを取り除くのが教育だと。しかし、聖書は
正反対のことを言う。

人は生まれながらの罪人であり、罪を犯したから罪人なのではなく、
罪人だから罪を犯すと。「義人はいない。ひとりもいない」外側で
はなく、環境でなく、人の内側から出て来るものが、人を汚すと。
「悪い考え、不品行、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚す」。
日常生活で出会う様々な問題、悩み、争い、それらは外側の問題で
はなく、それに関わる人々の心から出て来る問題だ。

悪い思いが心から出て来て、問題を引き起こす。外側でなく、心に
原因があり、心から出る「罪」が人を汚す。自分の内側の事がわか
っていても、それに向き合うのは痛い事、辛い事なので、逃げて避
ける。不平、愚痴で一杯の人は、まず、神が飛んで、自分を棚上げ
にし、周囲の人々の事ばかりを言う。周囲ではなく、問題は自分の
内側にある。

まずその事に気づき認めよう。そして祈ろう。その時、解決へと向
かう。その中で御心なら、主が離れるようにと言われる状況もある。
自分と主の関係が正しければ、どんな状況であれ、心に平安与え
導かれる。
------------
環境がどのように変わっても不平や愚痴は常に内から湧いてくる。
問題はどうにも対処できない自分の罪だ。律法学者のように外側
だけ清くしようとせず、主の前に罪を認めていこう。


2016年02月03日(水)

「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか」創世記3:11



エデンの園で、アダムとエバは罪を犯してしまった。しかし、主は
アダムに、「あなたは・・食べたのか」と問われた。それはアダム
に悔い改めの機会を与えるためであった。その時、アダムは「ごめ
んなさい。罪を犯しました」と言う事ができた。しかしアダムはそ
うせずに、エバのせい「この女が、くれたので、私は食べた」と。
更に「あなたが私のそばに置かれた」と神のせいにした。

人類最初の有名な責任転嫁だ。「あなたのせい、あの女のせい、置
かれたあなたが悪い」、そして自分は正しくて、被害者だ。私たち
もどうだろう。自分は被害者だろうか。「あの状況では、怒って当
然だ。自分を怒らすような事を言った相手が悪い。相手がそのよう
な言葉を発しないなら、私は怒っていない」、又、「私は疲れてい
たのだ。疲れていたのだから、悪い態度も仕方がないではないか」。

相手が何を言おうと、怒ったのは自分だ。疲れていたとしても、悪
い態度で相手を傷つけたのは、自分だ。言い訳せず、それを認めて、
主のもとに行く時に、いつも赦しといやしがある。心は平安にされ
る。自己正当化や自己弁護の世界と何と対極にある安堵、平安だろ
う。

ある家庭で、外出時間に追われ、皆がイライラし、内心「遅い!」
「早くして!」と責める思いに。その時、一人が「ごめんね!遅く
なってしまって」と言った途端、空気がパッと変わり「あ、いいん
よ」と、和やかな思いやりの雰囲気になってしまった。
-------------
罪を赦してくださる神の恵みを経験している。何度も失敗する者だ
がそこに希望の光がある。罪をごまかしたり、隠れたりする必要は
ないと学ぼう。


2016年02月02日(火)

「だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前ででラッパを吹いてはいけません」マタイ6:2 




施しをする時、又、祈る時には、偽善者のようであってはいけない
と言われた。「偽善者」とは、「役者、俳優」のことだ。偽善者=
俳優だ。つまり演技をする者のことだ。俳優とは何をするのだろう。
俳優は、脚本家が書いた脚本の通りに、その人物を演じる。脚本の
通りに、監督が指示し、監督が演技指導をし、俳優は、そこに描か
れた人物を、監督の思いに従って、忠実に演技する。

それをいかに巧くやるかで評価される。その人物にいかになりきる
かが勝負だ。それは全く別人だ。偽善者とは、自分ではない人物を
演技することだ。それは「彼らは、人に見られたくて」とあり、人
の賞賛、評価を得るためだ。エデンの園で、アダムが罪により、神
から離れた時から、人は、人の愛情を求めるようになった。

人に認められたくて、目に見えない神ではなく、目に見える人を求
めてしまう。誰もがその弱さを持っている。人に愛されたくて、良
い人を演じる。それは自分ではない別人だ。嫌われたくないので、
人に気に入られる事しか言えない。これが偽善だ。俳優はわかって
演じている。

しかし、私たちは演じると、最初はわかっていても演じ続けると、
どれが本当の自分かがわからなくなる。これが一番恐い事だ。神は
あるがままの、素の私を愛して下さっている。すでに愛されている。
まずこの神の愛に浸って行く時に、自分が変えられて行く。
----------
人の評価は誰でも気になるが、素の自分と主との交わりが満つであ
れば、そんな自分が嫌だと主に告げることも出来る。人の中でどう
見えているかが、最優先だろうか。


2016年02月01日(月)

「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」Tヨハネ3:19     


 

困難が起きた時に、まず頼るは主であり、避け所であり、切なる祈
りをもって主に近づきたい。何があっても、頼るべきお方、行ける
ところがあるとは、何と幸いな事だろう。しかし、自分が困った時
に、大胆に確信を持って祈ろうとするなら、普段から「神の命令を
守り、神に喜ばれることを行っている」ことが大切だ。

すなわち、他人の事を思いやり、他人が困っている時には、その必
要に仕えていなければならない。人が困っているのを見て、助ける
ことができるのに、憐れみの心を閉ざすなら、自分自身が困った時
に、どうして心が責められずに、大胆に主の御前に出る事が出来よ
うか。「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶとき
に答えられない。」

人の苦しみには耳を閉じ、自分が困っている時には求めるのは、自
らの心がとがめて、御霊によって祈る事が出来なくなる。心にとが
めがあるなら、それが妨げとなり、どれだけ祈ろうとしても確信も
って祈ることができない。祈りが妨げられないために、いつも大胆
に御前に出たい。

そのためにも普段の生活で、御霊に示される事に、一つ一つ従える
よう祈ろう。主は祈りに答えて助けて下さる。そうする時、とがめ
無く大胆に祈ることができて、「求めるものは何でも神から頂くこ
とができる」素晴らしい祝福にあずかる。
---------
御霊が与えてくださる思いに目をそらすこともできる。けれど従い
愛を示していくとき、その行いによって自分自身が主により豊に、
養われる事を経験する。いつも御前に安らかでいたい。