2016年03月31日(木) 「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』・・火のあとに、かすかな細い声があった」T列王19;11
「主は仰せられた。『外に出て、山の上で主の前に立て。』・・火のあとに、かすかな細い声があった」T列王19;11
エリヤは、バアルと熾烈な戦いをした後、イゼベルの殺害命令を聞 き、イゼベルの言葉を恐れて逃亡した。あの勇敢な信仰の人が「自 分の命を救うために立ち去った」。エリヤも私たちと同じ人間だ。 気持ちのアップダウンがあり、感情的になる弱さがあった。エリヤ は恐怖に陥った時に、主に向かわずに、主の前から逃げてしまった。 自らの使命からも逃げ出した。 しかし自分の命を救うために逃げたはずが、死を願うという結果に 陥った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と。 気力を喪失してしまった。そんなエリヤを、主は全く責めず、叱ら ず、十分な睡眠と食事をとらせた。まずしっかり休息を与えられた。 私たちも、心身弱っている時には、まず十分な休息が必要だ。正常 な思考も働かず、ネガティブにしか考えられない。私たちも、悩み と問題の時、どうしてよいかわからない。恐れと不安、落胆で、落 ち込んでしまう。休息を与えられたエリヤは、神の山ホレブに行く よう命じられた。そして山の上で主の前に立ち、御声を聞くように 示される。 「かずかな細い声」があり、主が語られた。私たちも、主の前に行 き、静まって、かすかな細い声を聞くことが回復の道だ。主と交わ り、御言葉によって新たな力が与えられる。霊の力が臨み、新しく され再び自分の場所に、自分の使命に返れる。自分の命を救おうと しているから、苦しい事に気づかせられる。 ------------ 心身が立ち上がれずにいるなら、そのままの状況で静かに主の語ら れるのを待ち望もう。問題から目がそらせずに心が騒いでいるのだ ろうか。それに気付けることも小さな回復とされる。
2016年03月30日(水) 「『アナニヤよ。』と言われたので、『主よ。ここにおります。』 と答えた」使徒9:10
「『アナニヤよ。』と言われたので、『主よ。ここにおります。』 と答えた」使徒9:10
主は、弟子アナニヤに、理解を越える示しを与えられた。サウロが 祈っているので、手を置いて見えるようにするようにと。しかしそ のサウロは、クリスチャン迫害の先頭に立つ極めて危険な人物だっ た。アナニヤは率直に答える。「この人物は聖徒たちにどんなにひ どい事をしたかを聞いています」と。だが、主は、「行きなさい。 彼は、わたしの選びの器」だと。 アナニヤの心はどうだったろう。本当にサウロは回心したのか、殺 害の意に燃えて弟子達を捕らえていた人物が、そんな事があり得る のだろうか。会いに行って、自分が殺されるかも知れない・・。しか しナニヤは「律法を重んじる敬虔な人で、そこに住むユダヤ人全体 の間で評判の良い人」だった。 平素から主の御声を聞き、主に従っている人だった。「アナニヤ よ」と呼ばれた時に、「主よ。ここにおります。」と、常に「主に お従いします」の姿勢のある人だった。アナニヤにとって、身に危 険が及ぶかも知れない事態だったが、しかし、異邦人、王たちに救 いを伝える器との神のご計画を知り、主の示しに従い、行動した。 出かけて行き、サウロに会い、彼の上に手を置いて、「兄弟サウ ロ」と言った。アナニヤの信仰と従順と勇気だった。すると、サウ ロは目からうろこのような物が落ちて、見えるようになった。アナ ニヤは用いられた。 ・・・・・・・・・・・ アナニヤは、最初どんなに戸惑った事だろう。だが、アナニヤは主 から選ばれて、信任受けて、大事な仕事を任された。私たちも小さ な事であれ、目の前の示しに従って行けるよう祈ろう。主が選んで、 信頼し、用いようとして下さっているのだから。
2016年03月29日(火) 「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、 あなたのからだが元どおりになってきよくなります」U列王5:1 0
「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、 あなたのからだが元どおりになってきよくなります」U列王5:1 0
将軍ナアマンは、らい病を患っていた。彼の妻に仕えていた、イス ラエルからの捕虜の娘が、らい病をいやす事のできる預言者がいる と伝えた。それでナアマンは王の許しを得て、いやしを求めて、エ リシャを訪れた。しかしエリシャは会う事もせず、使いの者に伝言 を託した。その扱いに、将軍であるナアマンはプライドをひどく傷 つけられた。 そして、手を置いて癒すのではなく、ヨルダン川で七回身を洗えと。 そんな事、とても受け入れられない。怒りが燃えた。神は、このナ アマンの高いプライドをご存じで、エリシャを通して、砕こうとさ れた。自分は主君から重んじられる将軍であり、名誉も地位も財も あり、皆からの尊敬も一身に受けている身だ。エリシャの態度にズ タズタに傷つき、帰ろうとする。 しかし、そのようにしてみてはとの、しもべの進言を受け、思いと どまる。プライドを捨て、エリシャの言葉の通りに、ヨルダン川に 7回身を浸すと、いやされた。奇跡が起きて、身体は元通りになっ た。人のプライドは、神の恵みと相容れるところが無い。 神はナアマンに、真の救いを与えるために、そのところをあえて通 された。彼の高いプライドが取り扱われる必要があった。難しい事 をせよと言われたなら、まだプライドが保てた。しかし、余りにも 簡単で、人の目にさらされる奇異な状況に、とてもプライドが許さ ない。あなたも今、問題はプライドだろうか。主の取り扱いだ。そ れを捨てて従う時、大きな祝福が待ち構えている。 ・・・・・・・・・・ 主は私たちを成長させようと、それを妨げているものに触れられる。 根深いプライド、無意識のプライド、優越感や劣等感の底にあるプ ライド、日常の様々な心のざらつきの中で、御霊が気づかせて下さ る。御霊の気づきに感謝で、主の取り扱いに感謝だ。
2016年03月28日(月) 「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」 マルコ4:27
「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」 マルコ4:27
よく経験するだろうか。御心を祈り求め、示されたと確信し、その 御心へと進む。しかし、逆風に次ぐ逆風で、四苦八苦する。一体ど うなっているのかと、驚きあやしむ。まず思うのは、「御心では無 かったのか?」「御心を誤ったのだろうか?」しかし振り返ると、 よく祈り、御心確信して進んだはず・・。 御心なら順調のはず、すべてがスムーズに進むはずとの思いがある。 御心をそれるなら、ギクシャクしてもわかるが、御心に従っている のに「何で?」「何で?」となる。しかし、主の示しに従って、舟 をこいだ弟子たちが大嵐に会ったように、御心に従う中で、試練は 臨む。主は愛する者を訓練され、練られ、成長へと導かれる。御心 に従う中で、固い自我が砕かれて行く。 ある人は、よく祈り、祈りに祈って導かれた進路に進んだ。しかし、 待ち受けていた辛い対人関係に、涙、涙の日々だった。こんなに苦 しい、御心ではなかったのか?間違ったのか?しかし、祈って与え られた先・・。ことごとく思いを祈る中で、自我が砕かれるため、主 に拠り頼むため、一つ一つの苦しみも、さじ加減ピッタリに自分の ために備えられた道だと、教えられて行った。 涙の絶えない苦しい歳月だったが、乗り越えた時に、心から感謝で きた。これが無ければ、自分は何もわからず、高慢なままの信仰者 であったと。今は苦しいが、後の日に、苦しみに会ったことは、し あわせでしたと、心から言えるようにされる。 ・・・・・・・・・・・ 御心を歩む中で、大嵐が臨む。肉は、問題の無いこと、平穏無事が 善との根深い培われた価値観がある。それなら平穏な時にも、恐れ がつきまとう。嵐を通ることで、状況がどうであれ、主が共におら れることが善、との価値観に少しづつ変えられて行く。
2016年03月27日(日) 「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者と なるでしょう」Tサムエル23:17
「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者と なるでしょう」Tサムエル23:17
サウル王には、素晴らしい息子のヨナタンがいた。サウルは、部下 のダビデが、勝利に次ぐ勝利を得て、民衆の大喝采を浴び、人気の 的であることをひどく嫉妬した。その妬みは、殺害願望にまで高じ て行った。しかしダビデは、サウル王に何一つ悪い事をしていない。 それどころか王のために犠牲的に戦う、忠実で、有能な部下だ。 それなのに、サウルの歪んだ目は、更にダビデを敵視し、殺害すべ く血まなこになる。しかし息子のヨナタンは、父サウルとは異なり、 信仰の目で、真っ直ぐ天を仰ぎ、神を通して真実を見、受け止めて いた。普通なら王の息子であるヨナタンが王位を継ぐところだが、 ヨナタンは何よりも「信仰」に立っていた。 だからダビデに「あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなた の次に立つ者となるでしょう」と言い、ダビデを認め、ダビデの王 位継承を受け入れていた。そして「私の父サウルもまた、そうなる ことを確かに知っている」と。サウルもダビデが王になることがわ かっていた。しかしサウルはそれを受け入れる事ができなかった。 サウルにとり、王位は命であり、すべてであり、失う事など耐えら れなかった。だからダビデを妬み、恐れ、抹殺しようとした。ヨナ タンも、勇気があり立派で、愛深い誠実な人物だ。王位にふさわし く見える。しかし大事な事は、王位を定めるのは神であり、神の主 権による。そこに神を認めて行く時、どんな場合も平安だ。 私たちも、もし自分が何かの場に立てられたなら、それは神から来 たものと受け止めよう。 ・・・・・・・・・・・・ サウルとヨナタン、王位について神を認めるかどうかで、天と地の 差が出る。神の秩序を認める時、どんな中でも喜びと平安もって歩 める。「行く所どこにおいても、主を認めよ」、主の主権と支配を 受け入れて、平安に歩めるよう祈ろう。
2016年03月26日(土) 「主はわたしのたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道 に導かれます」詩編23:3
「主はわたしのたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道 に導かれます」詩編23:3
ある人が、夫が会社員を辞して、神学校へ行きたいと打ち明けられ た。その時に、口では喜んで賛成したのだが、一方心の奥では、こ れから経済的にどうなるのだろうと、拠って立つ所を無くしたよう な、激しい不安に襲われた。それは心を暗くした。主は、経済的に も、環境的にも、行く道も守り、すべての必要を満たして下さるお 方ではないか。すべての主権を持つ、全能の主ではないか。 頭ではわかるが、しかし不安でたまらない。どうにもならない。ど んよりした心を主の前に注ぎ出し、心の内を探っていただき、祈っ た。長く祈り続けていた時に、心の内が照らされた。自分はクリス チャンで、主を信じ、主に頼っていると思っていた。 が、実は、心の底では、この世の富やこの世の地位、安定、人にど う見られるか、それが自分にとって大切なものであり、偶像である ことを見せられた。この世のものをしっかり握りしめて、放さない 姿を示され、悔い改めに導かれた。 その時、あんなに真っ暗で不安であった心が変えられた。恐れが取 り去られ、平安に満たされた。普通に、主を信頼しているつもり、 委ねているつもりなのだが、心のザラつきや、不安や、痛みを通し て、心にあるものを探られる。委ねている「つもり」なので、なか なか気づかない。 しかし、何か心に刺さる時、心がザラつく時、平安が失せる時、御 前に静まり、祈ろう。御霊は心の内を照らし、心の奥にあるものを 示し出される。真の自分の姿を知り、悔い改めたり、矯正されたり、 正されて、義の道、御心の道へと導かれる。何と幸いだろう。 ・・・・・・・・・・・ 「献げているつもり」「委ねているつもり」「信じているつもり」 なので、自分でも気づかない。でも心がざらついたり、平安が無か ったり、心重い時は、とにかくありのまま祈りに持って行こう。心 が光で照らされ、軌道修正され、義の道に導かれる。
2016年03月25日(金) 「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:35
「イエスは弟子たちに、『さあ、向こう岸へ渡ろう』と言われた」マルコ4:35
岸辺にいた弟子たちは、夕刻になって、主に「さあ、向こう岸に渡 ろう」と言われる。その御声に従い、岸辺を離れ、舟を漕ぎ出すと、 途上で嵐に会った。ベテラン漁師たちも、死ぬかと思うほどの嵐だ った。主のみこころに従って、大変な嵐に会った。試練であった。 しかし、嵐の中で、湖に「黙れ、静まれ」と主のひと言葉で、風が ピタリの止み、あの大嵐が静まった。 弟子たちは大きな恐怖に包まれて、「風や湖までもが言うことをき くとは、一体この方はどういう方だろう」と。心底驚いた。みここ ろに従わず、岸にとどまっておれば、安全ではあったが、この主が 神の子であること、自然界をも支配されていることを知ることはな かった。アブラハムも「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの 父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と言われた。 「そうすれば、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し・・」 と。あなたにも、「向こう岸へ」「あなたの父の家を出て、わたし が示す地へ行け」と言われているだろうか。快適な今の場所、安ら かな場、落ち着いた、安定した生活を捨てて、新しい御心へと導か れているだろうか。まだ見た事もない世界、不安や恐れがあるかも 知れない。 今の居心地の良い場を離れたくない。しかし主は、新しい世界に導 き出して下さり、信仰を試され、鍛錬し、ぐっと信仰の成長を与え て下さる。あなたの「向こう岸」、「わたしの示す地」は、新しい 働きか、誰かを赦す事か、和解か、信仰の一歩前進だろうか。 ------------- 風や波は必ず来るが、「さあ、向こう岸に渡ろう」との主の招きが 感謝だ。必ず祝福の地へ渡れる。主の励ましを信じて、今日も一歩 を漕ぎ出そう。
2016年03月24日(木) 「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」創世記32:24
「ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した」創世記32:24
兄と父を欺いて、祝福を奪ったヤコブは、兄の激怒で家におれなく なり、遠く伯父の家に身を寄せることに。更にうわ手で狡猾なラバ ンのもとで、訓練を受ける事になる。ラバンに欺かれ、愛するラケ ルと結婚するために14年の労働をした。騙したヤコブは騙されるこ とになる。 仕事の重責を負い、苦しく厳しい20年の歳月を過ごす。ついに神の 時が来て、「あなたの先祖の国に帰れ」と。帰郷となると、だまし た兄エサウに向き合う事になる。兄に殺されるので、家を出たわけ で、帰郷は大変な恐怖だ。一家皆殺しに会うかも知れない。莫大な 贈り物を準備し、再会に向けて備えるが、恐れと不安はどうにもな らない。 故郷に近づき、兄エサウが400人を連れて、こちらに向かっている と知る。これは報復だと思い、恐怖に震えた。家族をヤボクの渡し を渡らせ、自分はひとり、あとに残った。その時に「ある人が、夜 明けまで彼と格闘した」。その人は、ヤコブに勝てないのを見て、 ヤコブのもののつがいを打った。 つまりヤコブの最も頼みとしていたところ、自我が打たれた。ヤコ ブは打ち砕かれた。ラバンのもとで苦しく辛い日々を過ごすが、尚 も自我は強く、砕かれず、ここに来てついに主が触れられた。へり くだった新しいヤコブに変えられた。もはや兄への恐れも不安も消 えて、和解が果たせた。人生の大きな窮地での、砕きこそが大きな 祝福だ。 ------------ 主に明け渡す前に自分で安全な備えを怠らず、自我は試練の度に 強くなっていくだろうか。ヤコブのように身勝手な自分のままで、 何度も主にすがりつこう。主が砕いてくださる。
2016年03月23日(水) 「ダビデはナタンに・・『私は主に対して罪を犯した』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった』」Uサムエル12:13
「ダビデはナタンに・・『私は主に対して罪を犯した』ナタンはダビデに言った。『主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった』」Uサムエル12:13
「自分の罪を言い表わすなら・・神は、その罪を赦し」とあり、言 い表わすとは、自分が犯した罪を「その通りです」と認めることだ。 そうするなら、神は真実で正しい方ゆえ、その罪を赦して下さる。 しかし罪の性質は、その通りですと認めたくない。プライドによる。 認めることをプライドが許さない。言い訳で自分を正当化してしま う。 こんな罪を犯したのは、状況が悪かった、相手が悪いと思いたい。 罪を認めることは痛い。自我はどうあっても「ごめんなさい」だけ は言いたくない。そうなら赦しを受ける事ができない。赦される喜 びを知る事もない。あるがままで主の御前に行けばよい。「認めた くない」「自分が悪いと思えない」「でも、導いて下さい」その祈 りに主は答えられる。 悔い改める時、罪が赦される。苦しい心に、平安が戻り、喜びが戻 る。バテシバとの姦淫とウリヤ殺害の罪を犯したダビデは、「黙っ ていた時には、1日中うめいて、骨々は疲れ果て」「御手が昼も夜 も重くのしかかり、骨髄は夏のひでりのように乾ききった」苦しみ もだえた。しかし罪を主に告白した時、ダビデは赦された。 主との関係が回復されたダビデは「主にあって、喜び、楽しめ。喜 びの声をあげよ」と。今、言い訳と弁解に終始し、自分を正当化し ているなら、素直に自らの罪を認めよう。全き赦しが与えられ、喜 びと安堵、大きな祝福の中に入れられる。弱さのゆえに罪を犯して しまうが、赦されて、赦されて、歩める。 ----------- 自分は正しくそこそこ良い人間だと思いたいが、信仰人生の中で、 自分がどれほど罪人で罪が身近であるかを知って行く。けれど罪を 赦す権威を持っておられる方が赦してくださる、赦されて歩もう。
2016年03月22日(火) 「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」T列王17:16
「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった」T列王17:16
エリヤは、ケリテ川が枯れた時に、主から「ツァレファテのやもめ に命じて、あなたを養うようにしている」と言われた。そこに着く と、やもめに出会い「水を下さい」と言った。彼女がそうしようと した時に「一口のパンも下さい」と。その時、彼女は一握りの粉と 少しの油があるだけだった。普通なら「少ししか無いので、残念だ が上げられない」と言うだろうか。 それは母子の貴重な最後の食事で、あとは餓死するしかない状況だ った。しかしエリヤは「まず、私のためにそれで小さなパン菓子を 作り、私のところへ。それから後にあなたと子どものために作る」 ようにと言った。そうするなら「そのかめの粉は尽きず、そのつぼ の油はなくならない」と。やもめは、信仰を試された。 もしそうならなければ、息子に最後の食事をさせられないまま、餓 死させる事になる。しかしエリヤの言葉を信じて、言う通りにする と「エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽き ず、つぼの油は無くならなかった。まず自分が食べてから、残りを、 余り物を献げるのでなく、まず最初に、第一に主に献げるなら、必 ず必要が満たされる。 恐れず神第一にするなら、奇跡が起きて、飢饉のまっただ中で母子 は養われた。「恐れてはいけません」「しかし、まず私のために・ ・持って来なさい」。今、信仰を試されているだろうか。まず主を 第一に、主のもとへ持って行こう。すると「私の仕えている・・神、 主は生きておられる」を経験して行く。 ------------ 餓死寸前のやもめに何と言いにくいことか。しかし、一つ従うなら また一つ大きく信仰を成長させられる。もう神に頼るしかない状況 で神の奇跡を経験するから、絶対的な信頼を学べる。
2016年03月21日(月) 「さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で、素ばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた」使徒6:8
「さて、ステパノは恵みと力に満ち、人々の間で、素ばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた」使徒6:8
ステパノという人物がいる。12使徒を助けるために選ばれた人だっ た。信仰と聖霊に満ちていた彼は、不思議なわざとしるしを行なっ ていた。それが気に食わない律法学者たちは、議論するが対抗でき なかった。彼は「知恵と御霊によって語っていた」。そこで策略を 巡らし、人に偽証させ、神冒涜の罪で議会に引っ立てた。 ステパノはイスラエルの歴史を語る。民は事あるごとに偶像礼拝に 陥り、主は預言者を送り、立ち返らせようとするが、それも拒み、 とうとう最後にはキリストを殺してしまったと。すると人々は、激 しい怒りに燃えた。「聖霊に満たされていた」ステパノは、人々の 石打ちに「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言い、 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫び、息絶えた。 主の十字架上の言葉を思う。「主よ彼らをお赦しください」。ステ パノは、なぜ自分を殺す人々を赦す事ができたのか。まず彼は「聖 霊に満たされていた」とあり、主に従おうと、自分を全く明け渡し ていた人だった。自分の生涯に主の栄光が現される事だけを求めて いた。だから聖霊に満たされていた。そして、彼は主イエスをだけ 見つめていた。 「天が開けて・・人の子が・・見えます」一心にただただ主のみを 見ていた。私たちはどうだろう。赦せない相手のみを見つめ続けて いないか。ますます赦せなくなる。聖霊に導かれること、主を見つ め続けることを教えられる。 ------------ 主を見ず問題ばかりに目が行くと、思い煩い、自分で安心を求める 価値観に逆戻りしてしまう。ただ主を見つめ、全ての安心の土台を 主に置く明け渡した人生を歩みたい。
2016年03月20日(日) 「聞く耳のある者は聞きなさい」ルカ8:8
「聞く耳のある者は聞きなさい」ルカ8:8
「聞く耳のある者は聞きなさい」とあり、そして「聞いていること によく注意しなさい」とある。単に聞くだけでなく、よく注意して 聞くようにと。同じ御言葉を聞いても、ただ物理的に耳に入ってい るのと、聞いている事によく注意を向けるのは、結果が大きく違っ て来る。 自分の思いでいっぱいなら、聞く時、聞いているつもりでも、入っ ていない。又、聞きたい言葉がすでに決まっている時にも、主から の言葉は入って来ない。又、自分が語ろう、語りたいとの思いでい っぱいの時も、聞けないし、入らない。又、他の事を考えながら聞 くと、全く入っていない。心が定まらず、思いはあちこちと巡り、 聞けていない。 「お話ください。しもべは、聞いております」でなく、「しもべは、 語ります」「しもべは、願います」になっているだろうか。英訳で は「聞いたことを注意深く考えよ」となっていて、又「聞いたこと を必ず実行せよ」となっている。注意深く考えることが必要だ。 「聞いても悟らないと、悪い者が来て、心に蒔かれたものを奪って 行く」、しっかり受け取らないと、サタンが御言葉をどんどん奪っ て行く。 すると聞かなかった事と同じになって、結実することが無い。傍観 者でなく、「自分の事として」御言葉を聞く態度が大切だ。そして、 自分を欺いて、ただ聞くだけの人でなく、「御言葉を実行する人に なりなさい」その行ないによって祝福される。実を結んで行く。 ・・・・・・・・・・・・ よく聞いて、聞いた御言葉を実行する事が大切だ。でないと、すぐ に忘れてしまい、御言葉を聞かなかった事と同じになる。すると人 生で実を結ぶことがなくなってしまう。今、示されている事があれ ば、実行しよう。その事で実を結び、神の栄光が現される。
2016年03月19日(土) 「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれ が立ちはだかることができよう」箴言27:4
「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、ねたみの前にはだれ が立ちはだかることができよう」箴言27:4
妬みは誰しもが持つ罪だ。サウル王のダビデへの妬み、律法学者た ちの主への妬み、ラケルとレアの双方の妬み、ヨセフへの兄たちの 妬み・・枚挙にいとまがないが、私たちもどうだろう。職場で、同僚 が、後輩が、先に昇進したら?受験で友人は合格、自分は不合格な ら?職場や学校で、人気のある人がいたら?妬みが湧くだろうか。 海上歩行のペテロのように、主だけを見ているなら、自由だ。しか し主から目を離し、自分を見、人を見る時に、妬みが湧いて来る。 シーソーになり、相手が上がると自分が下がる。人がほめられると、 自分がけなされたと感じる。相手が下がると優越感を感じる。 なぜ傷つくのだろう。自我、プライドに触れて来る。自分の思い通 りにならない時、被害者意識になり、傷ついたと感じる。その結果 相手を傷つけて行ってしまう。弱さもある、あるがままの自分を認 める事ができないので、人への妬みに向かう。 主を妬む人々は、主を十字架につけた。ダビデを妬むサウルは、槍 で突き刺そうとした。兄たちはヨセフをエジプトに売り飛ばした。 この妬みはどうすればよいのか。主に解決がある。横から目を離し、 上を見上げる事が秘訣だ。 まずあるがままの自分が愛されている事、その愛をしっかり受け取 る事だ。主の愛をかみしめ、喜び、主の愛に生きる時、心に何にも 代えられない平安があるので、人とのどうのこうのが問題でなくな る。そこから離れた途端、比較に向かう。 ・・・・・・・・・・・ 主に愛されている事、無条件の愛で、犠牲の愛で、決して変わるこ とのない愛で愛されている、その事をいつも反すうし、目を離さず 一心に見つめていよう。そのために祈っていよう。目を離した途端、 ペテロのごとく「主よ」と即、助けを求めよう。つかんでいて下さ る。
2016年03月18日(金) 「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10
「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10
ハンナは辛い状況にいた。不妊の悲しみに加え、世間の迷信からの 冷たい目、夫の愛を受けるハンナへの妬みによるぺ二ンナの執拗な いじめ。夫の言葉は何の慰めにもならず、苦しみが頂点に達した時 に、ハンナは何をしたのか。彼女は、祈りのために「立ち上がった」。 誰にもわかってもらえない苦しみと悲しみ、辛さ、それを、祈りに もって行く決意をした。 御前で「激しく泣き・長く祈り・心を注ぎ出し・つのる憂いといら だち」を吐き出した。今まで悶々とし、自分に閉じこもっていたハ ンナが、主に心を開き、怒り、不満、思い煩い・・を主のもとに持 ち出した。祭司エリが酔ってているのではと思うほど、激しく、心 の底をすべてぶつけた。 ペニンナにいじめられたハンナにも、子を持つペニンナへの羨望、 妬み、又、いじめへの憎しみ、恨みがあったろう。それらを洗いざ らい告げた。そしてエリの「安心して行きなさい・・願いをかなえ て下さるように」の言葉を受けた。祈り、交わり、明け渡した後、 ハンナはすっきりした。「彼女の顔は、もはや以前のようではなか った」。 食事もとれなかったのに、帰宅して食事ができた。そして「ハンナ はみごもり、男の子を産んだ」。「主が彼女の胎を閉じておられた」。 胎を閉じていた主は、ハンナを祈りに追い込み、祈りを通して、胎 を開かれ、サムエルを産み出された。あなたも問題があれば、とに かく心の底を祈りに持って行ってみよう。 ----------- 初めはハンナも妬みや憎しみの祈りであったろうと思うと励まされ る。心の中の醜いことも余さず打ち明けることで、主が祈りの中で、 砕き、一番欲しいものをも献げる祈りへと取り扱ってくださる。
2016年03月17日(木) 「主は彼女に仰せられた『二つの国があなたの胎内にあり・・一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える』」創世記25:23
「主は彼女に仰せられた『二つの国があなたの胎内にあり・・一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える』」創世記25:23
イサクとリベカに双子が生まれたが、生まれる前に「兄が弟に仕え る」との御心が示されていた。だが、イサクはエサウを偏愛し、リ ベカはヤコブを溺愛した。ヤコブは自らの知恵で、エサウから長子 の権利をだまし奪う。しかしエサウもまた一杯のレンズ豆と交換し て「長子の権利を軽蔑した」。 エサウは、二人のヘテ人の妻をめとり、両親の悩みの種となってい た。又、親たちも主の御心にそむき、イサクは自分のお気に入りの エサウを祝福しようとする。するとリベカは夫イサクを欺いて、ヤ コブが祝福を受けるよう画策する。この祝福は変更がきかないもの であり、だまされたエサウは激怒し、弟ヤコブを殺そうする。 罪とは「的はずれ」だ。家族皆が、的をはずして行く。ヤコブは身 の危険に、家におれず逃亡。家庭崩壊だ。夫婦・親子・兄弟関係が 的をはずし、今で言う機能不全家族だ。ヤコブの家庭も同様だ。ヤ コブの二人の妻、レアとラケルは激しく嫉妬し合う。リベカから偏 愛されたヤコブは、ヨセフを偏愛し、その結果、当然のごとく兄達 はヨセフを激しく妬み、憎み、父をだまし、異国へ売り飛ばすとい う罪を犯してしまう。 しかし神は、彼らを導かれる。着実に祝福は成し遂げられて行く。 「地上のすべての民族はあなたとあなたの子孫によって祝福される」 とのアブラハムへの誓いを果たされる。ヨセフがエジプトで宰相に なり、飢饉の中一族を救う。自分の肉の知恵、思いで動いて行く時、 何もかも的をはずして行く。御心に従う時に、秩序と平安、喜びが あり、周囲にも主の栄光を現して行く。 ------------- 私たちはいつも的外れなことを一生懸命やってしまう。このような 者も救われ、ご誠実な神の導きの中に入れられていることを覚える とき、感謝しかない。謙遜に明け渡していきたい。
2016年03月16日(水) 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3
「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」エレミヤ33:3
神は私たちに「求めよ」「願え」と言われ、求めを喜んで下さる。 何でも自由に求めることができる。どんなに小さな祈りも聞いてい て下さるが、しかし、すべての祈りが自分の思い通りに叶うのでは ない。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその 願いを聞いてくださる」、御心にかなう願いが叶えられる。 しかし、祈りは学校と言われるが、祈りとは学んで行くものだ。祈 るからこそ、祈りの中でそんな事も理解して行ける。パウロは、痛 みを伴うとげを、取って欲しいと心からの願いを祈った。しかし、 主の答えは、取り去る事ではなく、とげはそのままで、そこに神の 力を現わすことであった。だが、祈ったからこそ、この更に深い神 のお心を知れた。 私たちはしばしば問題が解消する事が、祈りの答えだと思ってしま う。しかし、もし問題がそのままであっても、心に感謝と平安を満 たして下さるなら、問題が問題で無くなってしまう。ある人が病気 になり、いやしを祈りに祈っていた。なかなかいやされない。尚も 祈り続けたが、幾ら祈っても何の変化も無かった。それで祈りを変 えた。 「主よ。もし、この病がある事で、あなたの栄光が現れるなら、そ れでいいです。OKです。自分自身を明け渡します」。その時、少 しづつ癒されて行った。明け渡すことを求めておられた事がわかっ た。祈りの中で御心を学んで行く。祈りを軌道修正しつつ導いて下 さる。 ------------ 小さな喜びも御父からの慰めだとわかり、心は温かくなる。祈りの 答えは大小様々に豊に注がれている。それを知れることが嬉しい。 祈りによって遠い先も今日の一歩も確かに平安に導かれていく。
2016年03月15日(火) 「サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた」Tサムエル19:10
「サウルは槍でダビデを壁に突き刺そうとしたとき、ダビデはサウルから身を避けたので、サウルは槍を壁に打ちつけた」Tサムエル19:10
サウル王は、ダビデが連戦連勝で、民の人気を博して行く姿に心穏 やかではなかった。女たちが、笑いながらサウルとダビデを比較し、 ダビデを賞賛した時に、妬みが燃え上がった。その妬みは、憎しみ となり、相手を殺害したいほど激しいものとなって行った。そして、 サウルはダビデを殺す事を息子ヨナタンや家来に告げていた。 しかし、ヨナタンはダビデを非常に愛していた。そのためヨナタン は、ダビデの命を助けるように動いて行く。父サウルに、ダビデの 功績を告げ、どんなに王のために益となっているかを示し、懸命に とりなしをする。サウルは、息子の言う事を聞き入れ、ダビデを殺 さないと誓った。それでヨナタンはダビデをサウルのもとへ連れて 行き、再び、ダビデは以前のようにサウルに仕えた。 そんな中、ダビデが戦いで大勝利して帰還した時に、サウルに悪い 霊が臨んだ。何と、サウルは、ダビデに槍を投げつけ、壁に突き刺 し、殺そうとした。ダビデは身を避けたので、難を逃れた。息子の さとしを聞き入れたサウルだが、戦いに大勝利するダビデを見ると、 やはり妬みが燃え上がった。 どこまでも追い、殺そうとする。サウルは、ダビデが王位に立つ事 を知っていた。しかしサウルは、受け入れられず王位に執着した。 そうではなく、絶えず主を見上げ、主から来るものを感謝して受け 取り、満足するならどんなに平安で幸いだろう。 -------------- 陰険な罪はどこまでも追って来る。気づく度に悔い改めなければ、 サウルのように弱い私たちもすぐに支配されてしまう。内に湧い てくる苦い根は強い。主に渡して逃れよう。
2016年03月14日(月) 「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり・・』」エペソ6:2
「『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり・・』」エペソ6:2
ある人が、「若い時、頑張って〃一心に勉強しました。本当に精一 杯の頑張りでした。母にほめて欲しかったんです。でも、幾ら頑張 って良い成績を取っても、母は、更に高いレベルを求め、それは際 限無く、そのため一度もほめてもらえなかった。力尽きて、心の病 を患い、心療内科へ。母に認めて欲しかったんですねえ。 母に愛して欲しいと訴えても、更にトゲのある言葉が返るばかり。 でも病を通して、出会いがあり、主のもとへ導かれ救われました。母 にどんなに求めても、得られなかったものを、主が『それをわたしに 求めよ』と言って下さいました」。人は、親の愛を通して、愛という ものを知る。しかし人間の不完全さのゆえに、親も不完全で、残念な がら、愛をよく知ることができない。 天の親である御父は、その愛を、主の十字架において具体的に現わし て下さった。十字架により、本当の真実な愛を知ることができる。 彼女も、霊の親である御父から愛を受け取ることができた。一歩一歩 と主に手を取られて従って行った時に、時間はかかるが、親に対する 思いも変えられて行った。 主の愛に触れ、溶かされ、心がいやされて行った。人にはできない事 が、神にはできる。御霊の喜びを経験し、心が平安にされた。親も、 又、その親から傷を負っている。親への見方が変えられ、自分の心が 自由にされて行った。 ---------- 親として、また子として、不完全なままで互いを受けいれ愛すること ができる幸せは、神の完全な御愛を知っているからだ。神の子とされ、 ありのままを愛されていることの幸せを思う。 ある人が、「若い時、頑張って〃一心に勉強しました。本当に精一 杯の頑張りでした。母にほめて欲しかったんです。でも、幾ら頑張 って良い成績を取っても、母は、更に高いレベルを求め、それは際 限無く、そのため一度もほめてもらえなかった。力尽きて、心の病 を患い、心療内科へ。母に認めて欲しかったんですねえ。 母に愛して欲しいと訴えても、更にトゲのある言葉が返るばかり。 でも病を通して、出会いがあり、主のもとへ導かれ救われました。母 にどんなに求めても、得られなかったものを、主が『それをわたしに 求めよ』と言って下さいました」。人は、親の愛を通して、愛という ものを知る。しかし人間の不完全さのゆえに、親も不完全で、残念な がら、愛をよく知ることができない。 天の親である御父は、その愛を、主の十字架において具体的に現わし て下さった。十字架により、本当の真実な愛を知ることができる。 彼女も、霊の親である御父から愛を受け取ることができた。一歩一歩 と主に手を取られて従って行った時に、時間はかかるが、親に対する 思いも変えられて行った。 主の愛に触れ、溶かされ、心がいやされて行った。人にはできない事 が、神にはできる。御霊の喜びを経験し、心が平安にされた。親も、 又、その親から傷を負っている。親への見方が変えられ、自分の心が 自由にされて行った。 ---------- 親として、また子として、不完全なままで互いを受けいれ愛すること ができる幸せは、神の完全な御愛を知っているからだ。神の子とされ、 ありのままを愛されていることの幸せを思う。
2016年03月13日(日) 「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりして いるのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
「しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりして いるのは、知恵のないことなのです」Uコリント10:12
ある人が、家の職業が恥ずかしくて、嫌で、決して人に言わなかっ た。子供の頃から劣等感のかたまりだったと。決して恥ずかしい職 業でなく、立派な仕事なのに、人に知られなくなかった。絶対に友 達を家に呼びたくなく、対人関係にまで劣等感は影響をもたらした。 主に出会った時に、初めて心が変えられて、解放された。私たちも それぞれの形で劣等感を持ってしまう。劣等感はどこから来るのか。 人との比較から来ると言われている。劣等感と優越感は根は同じで、 劣等感があるから優越感を持とうとする。そして優越感を持とうと すると、劣等感に陥る。「高慢」を根にグルグル回る。 人と比較すると、競争心、張り合い、妬みが生まれる。妬みは、人 生を滅ぼしてしまう。サウルはダビデへの強烈な妬みが憎しみへと 増幅し、殺意にまで至った。妬みゆえの殺人は、昨今も様々なニ ュースで目にするところだ。「ねたみや敵対心のあるところには、 秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです」とある通り だ。 あるがまま主のもとに行こう。主は取り扱い、解放して下さる。真 に自由にして下さる。主から愛されていて、人と比較する必要がな いこと、自分に与えられているものに、しっかり目を留め、賜物を 用いて行くことをさせて下さる。そして「愛は・・人をねたみませ ん」、主の愛を更に知り、主にあって満ち足りることが秘訣だ。 ・・・・・・・・・・ 妬みや張り合いは、平安が失せ、心が辛い気持ちでいっぱいになる。 それらはいつも比較から来る。人との差異でしか自分を量る方法が 無いので、サタンの罠に陥ってしまう。ありのままを主に持って行 き、祈ろう。御霊の気づきと取り扱いが来て、平安へと導かれて行 く。
2016年03月12日(土) 「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨ ハネ10:4
「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨ ハネ10:4
神は、御声をかけて私たちを導かれる。御声を聞いて私たちは従う。 しかし私たちの心には、神の声と共に、他の「声」も聞こえて来る。 すべてが神の声ではないので、要注意だ。神の声、サタンの声、自 分の思いの声、世の価値観の声がある。それらが入り混じっている。 間違わないよう、どこからの声なのかを、よく判別する必要がある。 間違った声に従うと、御心と正反対の方向へ行ってしまう。まず、 その声が御言葉と合致しているか。主は御言葉に反する導きを決し てされない。又、目的は良いが手段が不正なら、神からの声ではな い。そして、神の声は愛なる声で、力強く且つ穏やかだ。落ち着い ていて、平安に満ちている。安心感がある。 サタンからの声は、恐れと不安でいっぱいになる、怒りが湧き、憎 しみや妬みが起きる。心が暗くなり、重苦しくなる。平安が失せる。 弱さを責め立てられ、又、逆に自分の力を誇らせるものだ。高ぶら せる。主の声は、悔い改めるべき点をはっきりと指し示し、サタン の声は漠然とした非難と責めで、明確な一点が無い。 主の声は具体的に示し導き、サタンの声は急かし、焦らせる。自分 の肉の欲からも、ああしたい、こうしようとの思いが内側からふつ ふつと湧き上がる。そして、サタンは神の声を真似る。「サタンさ え光の御使いに変装するのです」しかし御霊は助けて下さる。祈っ ていると御霊は聞き分けさせて下さる。 ・・・・・・・・・・・・ 羊は羊飼いの声を知っている。しかし例えば、周囲のよく知ってい る声があったとしても、もし嫌な相手ならついて行かない。しかし 御声の主は愛と慈しみに満ちた方だ。平安と慰めに満ちた声で、そ の声には力と明確な指針がある。この確かな御声に導かれて歩める 幸い。
2016年03月11日(金) 「・・心に植えつけられたみことばをすなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21
「・・心に植えつけられたみことばをすなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます」ヤコブ1:21
「み言葉は、あなたがたのたましいを救うことができる」。これは、 救われたクリスチャンに言われていて、私たちは、み言葉によって、 日々新たにされ、変えられ、成長して行く。しかし、「素直な」心 でなければ、みことばを受け取ることが出来ないと言っている。 素直な心が必要であり、大切だ。みことばが根差さない限り、何も 始まらない。 御言葉の種には、土地が必要で、地中で育まれる。それは素直な土 地である心に根差し、結実する。それで、素直な心にするために、 神は心を耕される。くわやすきで、掘り起こし、柔らかい土壌にさ れる。つまり、それは、神は私たちに試練を与えられるという事だ。 素直でない、頑固な、自我の強い心を砕かれる。又、私たちの価値 観は、根深くこの世の価値観で培われている。その価値観も変えて 下さる。 悩みや困難を通ることによって、頑なな部分が砕かれ、柔和にされ る。心素直にされて行く。一つ一つの訓練が益であり、私たちのた めであり、量って、与えられたものだ。石が除かれ、心が耕される ためと、焦点がはっきりしていれば、反抗も、不満もない。神の御 手からの訓練を、受け取って行くことが大きな祝福であり、成長だ。 あなたの前に今、悩みや問題があるだろうか。心が耕され、心素直 にされるためであり、みことばが根ざし、培われるためだ。 ------------ 頑なな自我は問題の度に更に強固になろうとするが、そこに流れず 主に信頼し、何があっても益としてくださる御約束を選び取ること ができる。主に耕された柔らかな心に変えられたい。
2016年03月10日(木) 「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5
「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」ルカ5:5
ペテロは、徹夜で漁をしたが、何と一匹もとれなかった。主が、群 衆に御言葉を話す間も、背を向け、網を洗っていた。一刻も早く帰 宅し、休息を取りたかったろう。そんなペテロに、主は、舟を陸か ら少し出すよう頼まれた。ペテロはそのようにした。主は舟から群 衆に話され、ペテロはそこにおらねばならず、御言葉が耳に入る。 その後、主はペテロに「深みに漕ぎ出して網をおろして魚をとりな さい」と言われた。プロ漁師が捕れなかったのに、素人に何がわか る。今の時刻に魚はいるはずがない。そんな事より早く家に帰って 休みたい。理解はできなかったが、「でも、おことばどおり」網を 下ろした。すると驚くべき大漁だった。 まず舟を少し出すように言われた時、その小さな一歩に従った。そ の次に、大きな一歩が来た。小さな事に忠実に従う事により、主は、 次々と従うべき事を示される。今、御霊により、小さな事でも示さ れているなら、示しに従おう。次の展開がある。「でもおことばど おり、網をおろしてみましょう」これが大切だ。 又、あなたにとっての「深みに漕ぎ出す」は何だろう。信仰の一歩 前進だろうか。何かの決心だろうか。浅瀬にとどまっていないで、 一歩、踏み出すよう示されているだろうか。又、今まで棚上げにし て来た、避けて来た、しかし薄々感じている、その問題の解決の事 だろうか。 ------------ 深みに漕ぎ出せないのは、日々の小さな導きを流して自分の浅い経 験で動きだすからではないかと問われているようだ。「でもおこと ばどおり」の従順さで、祈り、御言葉に向き合っていきたい。
2016年03月09日(水) 「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」ダニエル2:22
「神は、深くて測り知れないことも、隠されていることもあらわし、暗黒にあるものを知り、ご自身に光を宿す」ダニエル2:22
ある人が、子供が不登校になった。最初はなだめたり、すかしたり して何とか登校させようとした。ある時は厳しく叱りもし、ある時 は懇願もした。しかし、何をしても、どうやっても登校へとならな かった。母親として出来る事はすべてした。担任と密に連絡を取り、 横のつながりも大事と、保護者方との交流も図った。多大な時間と 労力を要した。 だが尚も子供は動かない。少し気配が見えたかと、期待するが、又 失望落胆してしまう。その繰り返しに、親の方が、もう疲れ果てて しまった。心は重く、苦しくてたまらない。主のもとへ行き、心の 内をことごとく打ち明け、御前に祈った。その時に御霊に心の奥を 照らされ、自分の底に潜む「プライド」を示された。 自分が苦しいのは、人に、どう思われるかを気にするから。子育て が、失敗と思われるのではないか。それなら、苦しんでいる子供で はなく、自分の事ではないか。心砕かれて、心底、主の御前に悔い 改めた。その時、あれほど苦しかった心が平安にされた。その時、 真に子供をあるがまま受け入れられるようにされた。 不登校の子供をどうしてでも登校させようとする。子供の一生がこ の先真っ暗に思えてしまうからだ。しかし実は、子供が不登校にな ると、自分の人生が真っ暗になると思っている。主は、私たちの心 の闇を照らし、正しい道へ、御心へ、平安へと導いて下さる。 ----------- 行き詰ったり、行き暮れた時、立ち止まり天の御父に全てを告げて いると不思議に心が軽く新しくされる。自分自身の本音の部分が光 の中に入れられる。素直にされへりくだらされる。
2016年03月08日(火) 「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3
「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか」ガラテヤ3:3
私たちは、救われるためには、何もしなかった。何も出来る事はな かった。十字架の贖いを知り、主を信じただけで、救いを受けた。 一方的な恵みによった。その恵みはよくわかるのだが、救われた途 端、行ないによって生きてしまう。救いは恵みだが、後は自分の力 で、どんどん歩んでしまい、善行に励もうとする。今まで生きて来 た根深い価値観があり、そして世は頑張りがすべての、行ないの価 値観だ。 そのため恵みは頭ではわかるのだが、培われた根深いものに動かさ れてしまう。ガラテヤのクリスチャンは、救われた後、割礼を受け なければならないというユダヤ教の教師のもとに戻ってしまう。 しかし「もし、割礼を受けるなら、キリストはあなたがたにとって 何の益もない」と。行ないによって義と認められようとするなら、 キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのだと。 行ないによる義は、今までそのように生きて来たので、身にしみつ いている。自分の頑張りに頼る。頑張って聖書を読み、祈らなけれ ば、良い行ないをしなければ〜と。段々、苦しくなって来る。しか し、聖書を読めず、祈れなくても、神の愛は変わらない。なぜなら 神のご性質が愛だから、又、神のご性質が不変だから。 その愛を知る時に、このまま愛されている事を知る時に、聖書を読 んで、祈りたいと自発的に思える。その時、恵みの下だ。自分の頑 張りでなく、御霊によって歩む時、絶えず恵みの中に置かれ、喜び と自由、平安がある。信仰生活が苦しく、しんどければ、立ち止ま って、祈ろう。 ------------- 愛されているからする行為と、愛されるためにする行為は見える所 は同じでも全く違う。主を見ず、事に仕え、人と比較しながら苦い 思いで頑張っているなら、主の愛が先行していることを覚えよう。
2016年03月07日(月) 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
私たちの多くは心配症かも知れない。将来がああなったら、こうな ったら、とまだ見ていない事を心配する。最悪のシナリオを描く。 突然病気になったら・・失業したら・・、事故に会うのでは・・あ れやこれやと不安に襲われる。思い煩ってしまう。「あなたがたの 思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい神が。 あなたがたのことを心配してくださるからです」とある。思い煩い を、「いっさい」「全部」委ねよと。主にはご計画があり、最善を 用意していて下さる。しかし、委ねることがなかなかできない。前 の節に「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだ りなさい」とある。 委ねるために、へりくだりが必要だ。自分の力に頼っているので、 へりくだる事ができない。自分の力が強く、自分の知恵、自分の思 い、判断で何とかしようとしている。そして、自分で出来ると思う。 主に頼らず、主を認めず、自分の力で生きて行くことが「高ぶり」 だ。だから、「御手の下にへりくだりなさい」と。 アダムからの罪は、自分を神とする事だ。自分の思い通りに、自分 の力で生きて行く。そのプライドは、主に委ねることをさせない。 そうであれば、自分の肩にすべてがかかるので、不安でたまらず、 思い煩いでいっぱいだ。高ぶりを認めて、へりくだる時、委ねるこ とができるようにされる。そして、平安へと導かれる。問題はある のだが、心は平安にされる。 ---------- 自分の判断は間違っていないとの思いから主に明け渡せないのかも しれない。思い煩いの中に隠れたプライドや高ぶりが隠れていない か。へりくだり主にお任せしよう。
2016年03月06日(日) 「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエス にあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ 5:18
「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエス にあって神があなたがたに望んでおられることです」Tテサロニケ 5:18
ある人が、物事がことごとく思い通りに行かなかった。道は閉ざさ れるは、壁にぶち当たるは、心は重く、沈んでいた。「何で?何 で?」祈りに答えられていないではないか。その日、導き手との祈 りで、「良い事が一つもない、今日は祈る気分ではない、祈れな い」と言った。 すると導き手が「ねえ、君。こんな賛美があるよ。“望みも消えゆ くまでに、世の嵐に悩む時、数えてみよ、主の恵み、なが心は安き をえん・・”恵みを数えてみない?恵みを数えてみようよ」と言い、 その人は、導かれるままにしぶしぶだが、しかし従った。 目の前の事から一つ一つ具体的に数えた。今、健康であることを感 謝します。今、住まい、食物が与えられていることを感謝します。 救われていること感謝です。イエス様の十字架に感謝します。家族、 友人、仕事がある事に感謝です・・言われるままに、目の前の一つ一 つを感謝して行った時に、不思議が起きた。 心が不平不満、愚痴でいっぱいで、うっとうしく、重苦しかったの に、感謝して行った時に、解き放たれたように、心が軽くなった。 すべての事は決して当然でなく、主の恵みによる事だと見せられて、 「大丈夫だ」と思えた。 主は、愛し、目を留めていて下さる。ご計画があり、良くして下さ る。十分だと思えた。心が平安に変えられた。自分視点だったのが、 感謝して行く時、神視点に方向が変わる。すると心が変えられる。 一歩従うことは、大きな祝福へと繋がる。 ・・・・・・・・・・・ 感謝する時、目が現状から神へと移る。目の前のゴタゴタから、目 を離し、天を見上げる。その時、神視点に変えられて、見方が変わ る。神の愛、真実、守り、数々の御言葉が思い出され、信仰的見方 へと変わって行く。
2016年03月05日(土) 「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下には いません」ガラテヤ5:18
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下には いません」ガラテヤ5:18
ある医師が、不眠症患者の治療をした。入院治療しても、どうやっ ても眠れず、どんなに頑張ってもだめだという患者に「では、どれ だけ眠らないでおれるか、記録をとって、新記録を作りましょう。 眠らないように頑張って下さい」と。すると、何と深夜見に行くと、 ぐっすり眠っていたのだ。「眠らねば〃」から解放されて、「眠ら なくてもよい」ことに安堵し、安心しきってしまった。 私たちも律法の「ねばならない」に、はまって行く時、やればやる ほどますます出来ない自分に、がんじがらめになる。あり地獄のよ うだ。もがけばもがくほど、ますます罪を意識するばかりで、泥沼 にはまって行く。自分を責め、罪意識にさいなまれ、落ち込むばか りだ。 しかし「律法は私たちをキリストへ導くための養育係となりまし た」つまり律法は私たちが、何一つ守れない事を私たちに示すため にあると。聖書の御言葉はすべて、私たちの内におられるキリスト が行ない、成し遂げて下さると。自分の力でするのではない。私が しなくてもよい。私に代わって、内に生きておられるキリストが成 し遂げて下さる。 では、私は、何をするのか。主が成し遂げて下さることを「信じ る」、ただ信じて行く。主を信頼して行く。これが信仰による歩み だ。重荷はすべて主の上にあり、自分の上には無いので、平安な歩 みだ。そして「あなたの信じたとおりになれ」の通り、信じている と、そのように成就されて行く。 ・・・・・・・・・・・・ 最初はどうしても律法を行なおうと、頑張りに頑張る。どこまでも 頑張ってしまう。しかし、どんなに頑張っても出来ない事を知り、 認める。ギブアップする。そして主に委ねた時に、律法を行なえて いる自分を発見し驚く。
2016年03月04日(金) 「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17
「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」イザヤ48:17
誰しも、目の前で、進路が閉ざされた経験があるだろう。前進しよ うとする時、進みたい、願っている道が、目の前で閉ざされる。入 学試験、就職試験の不合格をはじめ、様々な事で経験する。又、さ あ、これから仕事に就くという時に、病に倒れたりする。「なぜ? どうして?」悲しく辛い経験だ。 パウロもアジア州で、さあ、宣教しようとしたところ、御霊に止め られた。ビテニヤの方へ行こうとしたが、それも阻止された。御霊 の導きは、時に私たちには理解できない。しかし、それが理解でき なくても、又、どのようであっても、そこに神を認め、神の御心を 信じて行くこと、それが信仰によって生きるということだ。 結果的に、パウロはマケドニヤに渡るよう導かれた。そこには、ヨ ーロッパ宣教という大きな御心があった。進路を止められた事は、 導きを失った事ではない。迷子になったように感じ戸惑ってしまう が、御心が別にあるとの導きだ。ある人はこれから医師として立と うという時に、病が発覚した。 数年の入院生活に非常に落胆した。が、完治して実践の場に出た時 に、患者の人々の気持ちがわかるという、幸いな益を受けた。病を 感謝できた。ある人は、自分が思う最善の進路が閉ざされた。しか し、結果的に、別の道へ、自分の最善でなく、主の最善の道に導か れた。道が閉ざされたなら、導きを失ったのではない。御心が別に ある。祈って、主を待とう。 ---------------- 計画通りに行かなくても、これも主の導きと思えることは感謝だ。 信仰がなければ、ただ落ち込むだけだが、更に最善が備えられてい る、これはその途上だと明日を信じて待てる。
2016年03月03日(木) 「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36
「恐れないで、ただ信じていなさい」マルコ5:36
会堂管理者ヤイロが、死にかけている娘のために、主に求め、足も とにひれ伏し、必死に願った「どうかおいで下さって娘の上に手を 置いてやって下さい」。そこで主は、彼と一緒に出かけられた。ど んなに嬉しく、安堵した事だろう。主が来て下さるとは。もう大丈 夫だ。 しかし、その途中で妨害が入った。長血の女性が現われたのだ。主 は彼女をいやされ、そして取り扱われ、信仰を確かなものとされ、 帰された。その対応に時間が取られ、一時中断となった。一刻を争 うヤイロにとれば、焦って気が気ではなかったろう。するとそこに 使いがきて、娘の死を告げた。何という事だ。万事休すだ。 せっかく主が来て下さるのに、間に合わず、手遅れなどと。そのネ ガティブな状況の時に、主が間髪を入れず、彼に言葉をかけられた 「恐れないで、ただ信じていなさい」。御言葉と目の前の状況が相 反する。正反対だ。見える状況は、「もうダメだ」「手遅れだ」 「絶体絶命だ」。しかし主は、「恐れないで信じていなさい」と。 主にとって、遅れは何の問題でもない。主がおられるということが すべてだ。病気のラザロの箇所でも、あえて遅れて行かれ、死ぬま で待たれ、病気を治すのでなく、よみがえらせるという更に大きな 奇跡をされた。主の栄光を現わされた。目の前に、絶体絶命の状況 が広がっているだろうか。主はご計画をお持ちだ。「恐れないで、 ただ信じていなさい」。 ----------- 恐れや不安は一つ解決してもまたすぐにやって来るが、恐れないで、 ただ信じていなさい」の信仰さえあれば、どんな時にも望みを失わ ずにいられる。絶体絶命を信仰で超えた後にある平安を目指そう。
2016年03月02日(水) 「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22
聖書に賢い人と愚かな人が出て来る。賢い人は御言葉を聞き、愚か な人は御言葉を聞かなかったのでない。賢い人も愚かな人も、どち らも御言葉を聞いている。違いは、賢い人は、聞いた御言葉を実 したが、愚かな人は実行しなかった。聞いただけで、実行しないな ら、試練の時に、倒れてしまった。 「みことばを聞いても行なわない人がいるなら・・自分の顔を鏡で 見る人のよう」「ながめて立ちさると、どのようであったかを忘れ る」。御言葉を忘れてしまう、つまり聞かなかった事になってしま う。「自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」。 御言葉を聞くだけで、行なわないなら、自分を欺いている事になる と。 沢山の御言葉を聞けば、成長するのではない。幾ら、御言葉を学ん だとしても、それを実行しない限り、成長は無い。むしろ幾らでも 知識は増えるので、「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てる」 の通り、人を裁くために用いてしまう。自分は変わらない。どうす れば良いのか。 「自由の律法を一心に見つめて離れない人は、事を実行する人にな る」、御言葉を一心に見つめ続ける時、実行して行けると。そして その行ないによって祝福されると。目の前に示されている、小さな 事から、一歩から従うことを始めてみよう。「こういう人は、その 行ないによって祝福されます」自分にとって従うべき事を祈ろう。 ------------ 聞いた御言葉を実行しようと思えば、一日に何度もその御言葉を思 い起こさなければならない。忘れやすく流されてしまうからだ。今 朝、一つでも実際に従えるように祈ってみよう。
2016年03月01日(火) 「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします』」ルツ3:5
「ルツはしゅうとめに言った。『私におっしゃることはみないたします』」ルツ3:5
ナオミは、故郷を捨て、自分について来てくれたルツ、そして落ち 穂拾いをして、一日中、立ち働き生計を立てるルツのことを思い、 よく祈り、将来のことを真剣に考えた事だろう。仕事場での、ルツ へのボアズの親切を聞き、ナオミは、ルツに一つの提言をする。ボ アズが打ち場で寝る時に、その寝る所を見届けてから入って行き、 その足のところをまくって、そこに寝るようにと。彼がなすべき事 を教えてくれるからと。 するとルツは、ナオミの言葉に対し「私におっしゃることはみない たします」と、打ち場に下って行って、すべて命じられた通りにし た。ルツのナオミへの信頼の深さと従順を見る。自分みたいな者が、 結婚を申し込むなどと、一見、とんでも無い事で、もし拒絶された なら、人に知られたなら、笑いものになってしまう。自分も深く傷 つく。 ためらいや、拒否反応が出そうだが、ルツはそうしなかった。ナオ ミの言う通り、まさにその通りに従った。「あなたのおおいを広げ て、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利の ある親類ですから」と。ナオミが思った通りに、ボアズはこの事を 受け止めて誠実に対応、法に乗っとり正しく対処してくれた。 結果的に、ボアズとの結婚へと導かれた。私たちも同様に、御霊の 導きに「私におっしゃる事はみないたします」と、勇気をもって素 直に従おう。素晴らしい祝福にあずかる。 ------------ 故郷を捨てナオミを信頼し従って来たルツは、この提言にも尻込み せずに勇気を持って従っていった。この信仰に学ぼう。私のような 者が・・と自分を見るのではなく、主を頼り、導きに従おう。