2016年04月30日(土)

「私は苦しみの中に主を叫び求め、助けを求めてわが神に叫んだ。 主はその宮で私の声を聞かれ、御前に助けを求めた私の叫びは、御 耳に届いた」詩篇18:6


私たちの信仰人生では、「主は何と素晴らしい」と賛美できる時ば
かりではない。苦しくてたまらない時、悲しみのどん底の時、辛く
てしんどいばかりの時もある。主はどうして助けてくれないのか。
本当に愛してくれてるのか、主はちゃんと見守ってくれているのか、
苦しい状況は何も動かないし、何も変わらない、本当にわかってく
れているのか、そう思える時もあるかも知れない。

だが、主は、私たちのその苦しみ、悲しみのただ中に共におられる。
常に共におられる。詩篇記者は、そんな時、決してわかった振りや、
信仰深い振りをしていない。あるがままの気持ちをそのまま、主に
向かって心底叫び、訴えている。

「主よ、いつまでですか」「なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなの
ですか」「苦しみの時に、なぜ、身を隠されるのですか」「なぜ、
私をお忘れになったのか」「なぜ私を拒まれたのか」「私は嘆きで
疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ」「私のいのちは
悲しみで尽き果てました」「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく」
「私の霊は衰え果てる」「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の
苦しみを御前に言い表わします」と。

率直に、建前を振り払い、本音で、主に叫び、ぶつかって行ってい
る。そして、何もかもを訴えた後、詩篇の各箇所で、「あなたの救
いを喜びます」「主に歌を歌います」と、主への賛美に変わって行
く。心底の気持ちを受け止めてもらうからこそ、賛美へと変えられ
る。

・・・・・・・・・・・・
辛い時、悲しい時、苦しい時、我慢せず、心の底に抑え込まず、率
直に、「辛い」「悲しい」と主に告げよう。心の底のどろどろを主
に聞いていただく時、不思議だが心は平安になる。聞いていただい
た、受け止めていただいたことで、心に安堵が来る。


2016年04月29日(金)

「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました」Uコリント12:7



パウロは、第三の天にまで引き上げられるという、誰一人した事の
ない体験をした。人間には語ることを許されていない、口に出すこ
とも出来ないことばを聞いた。パウロにのみ許された、非常に特別
な体験だ。そんなパウロに、肉体に一つのとげが与えられた。それ
はサタンが打つとげを、パウロが高ぶることが無いようにと、神が
許されたものだった。

信仰生活において、最大の敵が高慢だ。肉の高慢は悔い改めること
ができるが、霊的高慢は、悔い改めることが難しい。どこまでも自
分は正しいと信じ込んでいるからだ。最も恐ろしいかも知れない。
この霊的高慢に陥らないために、そこから守られるように、パウロ
にとげが与えられた。それは神の愛だ。

パウロは余りの激痛に、これを去らせて下さるようにと三度祈った。
単なる三回でなく、全身全霊で徹底的に祈った。それほどのものだ
った。しかし、主の答えは「ノー」であり、これがある事により霊
的高慢から守られ、主に拠りすがる事ができて、更にキリストの力
におおわれると。弱さの中に常に主の臨在があり、臨在の中に生き
て行けると。

私たちも、パウロと形は違うが、とげが与えられているだろうか。
まず取り去られるよう祈る事は大切だ。パウロも祈ったからこそ、
主から答えられ、弱さの中に神の力が働くという、主の深いご計画
を知ることができた。とげにより、高ぶりから守られ、主に拠りす
がり、主の臨在の中に生きて行く者とされる。同じとげが全く違う
意味を持つものとなった。
--------------
全て整い全力疾走できるなら、どれほど高慢になることだろう。主
の力がどのようにあらわされたかを経験するのはいつも、弱さの中
だった。主にあって弱さを誇ることができる。感謝だ。


2016年04月28日(木)

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32




ある人が、対人関係で苦しんだ。近所から身に覚えのない誹謗、中
傷を受け、周囲に悪口を言いふらされた。気にすまいと思うが、色
々悪く言われている事が、耳に入って来る。自分はやましい事なく、
何を言われようと、主の御前に安んじていたらよいと思うのだが、
辛くてたまらない。何でこんな事にと、涙が出て来る。

友人たちからも悪い噂の連絡が入り、不安と恐れで押しつぶされそ
うだ。日常生活が立ちゆかず、主の御前に祈りに祈った。その時に
「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
休ませてあげます」の御言葉が心にすうっと入り、心の内を主に打
ち明け、告げて行った。その時、自分には人一倍、人が気になって
仕方がない弱さがある事を示された。

人に良く見られたい、良い人でいたい、嫌われたくない。「互いの
栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、ど
うして信じることができますか」。今までずっと、人の栄誉を求め
て生きて来た事、自分にはそれが命であった事に気づかされた。神
の栄誉より、目に見える人の栄誉が欲しいのが本音だった。

自分の姿に心が刺され、辛くてたまらなかったが、御前に心から悔
い改めて、自分自身と今の状況を何もかもを、主に明け渡した。礼
拝の招きに出て決心を言い表した。そしてしばらくした時に、心に
不思議が起きていた。人が気にならなくなっていた。奇跡だった。
心を変えて下さった。この辛い事態を心から感謝できた。心の闇を
照らし、認めさせ、自由にして下さった。主に従う時、自由に、自
由にされて行く。
-------------
平安を奪う様々な出来事を、逃げずにしっかり祈っていこう。状況
の裏にある本当の自分を見せられる。守っているつもりで縛られて
いたことも。真理により自分自身が自由にされる。


2016年04月27日(水)

「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください」詩編19:13



人間は、人の間違い、罪はよくわかって、よく見えるものだが、自
分の間違いや罪にはなかなか気づかない。自分が人の態度や言葉で、
深く傷ついたと感じても、その相手は全く悪意無く、傷つけた意識
も無い事がある。逆に、自分の方が、悪意なく、知らない内に人を
傷つける事もある。

私たちは人に対して、罪を犯すが、それはとりも直さず、神に対す
る罪だ。「どうか、隠れている罪をお赦しください」とダビデは自
分で知らずに犯した、気づかない罪の赦しを祈っている。又「傲慢
の罪」から守って下さいと。別訳では「故意の罪」となっている。
悪事とわかって犯す罪だ。故意の罪を続けていると、段々、麻痺し
てしまい、罪に罪を重ねて行き、やがて罪に支配されてしまう。

すると感覚が無くなり、悔い改める事ができなくなってしまう。最
も恐ろしい状態になってしまう。人の事はよく見えても、自分の事
は見えていないのが、私たちだ。自分の思い、自分の尺度で自分を
量っているなら、自分の姿は見えない。しかし、神の言葉が鏡とな
り、自分が照らされ、量られる時、私たちは自分の間違いや罪がわ
かる。

そして同じ神の言葉が、罪の赦しを告げる。「罪をお赦し下さい」
「全き者となり」「きよくなる」「わが贖い主、主よ」の通り、悔
い改めるなら、その罪はきれいに赦される。十字架の血潮により贖
われる。私たちが神に対して罪を犯した事を認める時、神は怒りで
はなく、愛と豊かな赦しをもって答えて下さる。何という幸いだろ
う。
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気付かない中にも多くの罪を犯してしまうが、一番恐いのは御言葉
より誘惑の声ばかり聞くうちに、赦しの御言葉さえ入らなくなる事
だ。御言葉で今の自分が示されることは、深い主のあわれみだ。


2016年04月26日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ」イザヤ66:2



種まきのたとえで、種は御言葉で、土地は私たちの心だ。種が机の
上に置かれても、決して芽吹くことはない。幾ら祈っても無理だ。
種が芽吹くためには、耕された土地が必要だ。種と土地が一つにな
る時に、種は根ざし、芽吹き、実になって行く。道ばたに落ちた種
は、鳥が来て食べてしまった。

道ばたは固いので、種をはじき返してしまう。するとサタンが来て、
種を持ち去ってしまう。私たちも礼拝や学びやデボーションで御言
葉を聞く時、どうだろう。御言葉があっても、土地である聞く態度
が問題だ。心が固いと御言葉が心に入らない。礼拝で、学びで、自
分で聖書を読み、御言葉を聞く時に、

「それは無理、私には無理」「そんな事、神様は本当にできるのだ
ろうか」「そんな事言ってたら、世の中でやって行けない」「本当
に?」「ああ、私には出来そうもない」との思いが湧いて来ないだ
ろうか。その思いの方を選択して行く時、御言葉を捨てている事に
なる。結局は、御言葉を聞かなかった事と同じになる。自分として
は聞いているつもりなので、欺かれてしまう。

御言葉が心に入らない限り、自分が変わる事も、成長も無くなって
しまう。自分がどういう態度で聞いているかは大変重要だ。御言葉
の上に立って、都合の良い御言葉を取捨選択しているだろうか。神
の下に、へりくだって御言葉を聞く時に、御言葉が心に入り、自分
が変えられて行く。
-----------
御言葉を真っ直ぐに聞いているのに、受け入る時に無意識に選り分
けてしまう。気をつけよう、大胆に祈れなくなる。想像をはるかに
超えた素晴らしい御神の栄光を遮ってしまわないよう。


2016年04月25日(月)

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあおがなかった」ヨシュア9:14





ギブオンの住人たちは、ヨシュアがエリコとアイにした事を聞いて、
イスラエルとの戦いを避けるために、計略を巡らし、変装してやっ
て来た。遠い国から旅をして来たかのように装い、、古びた袋、古
いはきもの、古い着物、ボロボロのパンを持って。遠い国から来た
ので、盟約を結んで欲しいと。

彼らの外観を見て、その策略にはまってしまい、だまされてしまっ
た。ヨシュアは彼らと和を講じ、生かしておくとの盟約を結んだ。
本来は見破れたはずなのに、その時に「主の指示をあおがなかっ
た」とある。盟約を結んで、三日後に、だまされたと知った。近く
の者で、自分たちの中に住んでいた。主に聞かず、肉の判断で、受
け入れてしまった。

ヨシュアは失敗したが、神の前での盟約は重大な事であった。その
結果、彼らは滅ぼされるべき民なのに、イスラエルの中に、居続け
る事になった。私たちはどうだろう。様々なプランを立てる。策を
練り、熟考し、人と相談し、良いものが出来たと思う。しかし、主
と相談しただろうか。私たちが、主が抜け落ちて、忘れている時に、
主は、時に失敗させられる。

主を仰がずに、人間的思いだけで進む時、ストップをかけられる。
しかしそれは主の愛で、私たちの益だ。そのまま進めば、それこそ
どうなるかわからない。大変な事になる。「主の指示をあおがなか
った」振り返ると思い出す数々があるかも知れない。今、目の前の
プランをまず主に持って行こう。その時その計画が確かなものとさ
れる。
-----------
祈らずにしようとしているあれこれが思い浮かぶ。今日のプランを
主に委ね、あずけて歩もう。感情のままに反応するとき、主を覚え
て祈りに持っていけますように。


2016年04月24日(日)

「神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御 顔を避けて園の木の間に身を隠した」創世記3:8


エデンで罪を犯したアダムとエバに、神は「あなたはどこにいるの
か」と、問われた。それは、神に従わなかったアダムとエバが、出
て来れるようにとの神の愛であり、配慮だった。悔い改めの機会を
与えられた。隠れていたアダムは見つかり、木の間から出て来た。

神の問いにアダムの答えは「私は裸なので、恐れて、隠れました」
であり、謝罪の言葉は一言も無い。神の命令に反した事よりも自分
が裸で恥で、恐れを感じている事の方が重大だった。アダムの心は、
罪が入り、変化が生じた。神ではなく、自分の事、自分のプライド、
体面、自分の思い、それらが何よりも重要になった。

神は、尚も悔い改めの機会を与えられた。神は、もう一度問う。
「あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたの
か」と。この問いの答えは「はい」か「いいえ」しかない。神は、
罪に正面から向き合い、認めるように、この問いをされた。しかし
アダムの答えは「あなたが私のそばに置かれたこの女が、私にくれ
たので、私は食べた」であった。

「ごめんなさい。私が食べました」と謝る事ができた。だが自分を
正当化し、エバに責任転嫁した。それだけでなく「あなたが私のそ
ばに置かれたこの女」と、こんな女を置かれたあなたが悪いと、神
にまで及んだ。罪を認めず、言い訳し、自己正当化し、周囲に責任
転嫁する。これが罪の結果だった。自分自身にある古い性質だ。

しかし神は、そのために十字架の赦しを用意された。悔い改めの機
会を与えて下さる。その神に向き合い、応答しよう。

・・・・・・・・・・
肉は、自分の罪を認めたくない。「ごめんなさい」を言わない頑な
な態度がある。言い訳は幾らでも出て来て、自分を正当化してしま
う。しかし、そうすると、どこまでも正反対の方向へ向かう。主の
声に耳を傾け、言い訳せずに悔い改めて行こう。


2016年04月23日(土)

「蛇が一番狡猾であった・・『あなたがたは、園のどんな木からも食 べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか』」創世記 3:1


「神は本当に言われたのですか」、サタンが私たちにしょっ中、吹
き込んで来る思いだ。エバに「どんな木からも食べてはならない、
と神は、本当に言われたのか」とエバに近づいて来た。サタンは非
常に狡猾だ。神の命令はアダムに与えられたので、エバはアダムか
ら聞いたが、また聞きで、直接神から聞いていない。

そのため蛇はエバに近づいた。いきなり神を否定して来るなら、エ
バも警戒する。又、神の言葉は嘘だと、最初から言うなら心をガー
ドする。だが、神も、神の言葉も認めている。その上で、神は「ど
の木からも思いのままに食べてよい」と言ったが、蛇は「どの木か
らも食べてはならない」と変えて来た。

「食べてよい」を「食べてはならない」にして、暗に神は心が狭く、
ケチだと、神の愛を疑わせようとした。その時に、「本当に?」と、
本当に神の言葉をそのまま信じて良いのか、自分で考えてみろと言
うのが誘惑だった。自分で判断すべきだと。御言葉に対する疑いを
起こして来る。

人間が神の言葉の上に立って、正しいか正しくないか、信じるに足
るかどうかを判定し、受け入れるべき言葉を取捨選択するようにと。
理性で考えるようにと。これが蛇の誘惑だ。肉の理性、価値観、経
験、感覚で判断するようにと。都合良い御言葉を取れば良いと。

「神のようになる」、自分が神になり、判断する、その誘惑をわき
まえて、へりくだって、御言葉の下に立ち、聞き従おう。その時サ
タンは何も出来ない。

・・・・・・・・・・・・
天に帰るまで、地上にいる間は、霊の戦いだ。狡猾なサタンが、腹
をすかせたライオンのごとく、私たちを虎視眈々と狙っている。そ
の事をよくわきまえ、祈っていよう。疑い、争い、分裂を起こして
来る背後のサタンを識別できるよう祈ろう。


2016年04月22日(金)

「・・わたしは主。あなたをいやす者である」出エジプト15:26 





ある人が、大人になった時、自分は同性の目上の人とうまく接する
事が出来ない事に気づいた。職場の上司や、得意先や親戚や、又、
学生時代も教師に対してそうだったと。極度に緊張し萎縮してしま
う。うまく話せない。不信感を持ち、距離を置いてしまう。大変な
ストレスで苦痛である事を自覚した。

その事を祈りに祈っていた時に、御霊は少しづつ、原因が自分と父
親との関係にあると教えられた。父親は大変しつけに厳しかった。
威圧的でワンマンであり、小さい頃から絶対服従だった。恐いばか
りで、暖かい情を感じた事はなく、コミュニケーションも無かった。
思い出しても、厳しく叱られた辛い場面しか浮かばない。目上の男
性に接する時、その父親と重なって、心が固くなってしまっていた。

しかし神に目を向けた。神の愛と恵みを更に知り、味わい浸ること、
親しく交わる事を実践して行った。ひたすら切に神を求めた。祈り
に祈った。御言葉を求めた。そんな歳月の中で、神が真の自分の父
親である事、その愛を御霊によって知り、経験させられて行った。
祈りの答えであった。

父なる神の愛に、十字架の愛に触れ、心溶かされ満たされて行った。
その中で心がいやされて行った。まず、気づきから始まる。心がザ
ラつく時、平安が失せる時、祈りに持って行こう。主との交わりの
中で、御霊は気づきを与えて、一つ一つ教えて行って下さる。そし
ていやして下さる。
-----------
状況の奥にある本当の問題は何か、主に尋ねていこう。目の前に来
る煩わしさを追い払ってばかりいるが、主に癒してもらいたい所は
どこだろう。


2016年04月21日(木)

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」箴言3:5





私たちは、日々起こる様々な事柄の中で、自分では「ああしよう」
「こうしよう」と自分の思い考えで必死に行動し、何とかしよう
とする。しかし、ああでもない、こうでもないと、どうにもなら
ず八方ふさがりだ。悶々状態になり、完全に行き詰まってしまう。
そんな時「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」
に、はっと我に返る。

自分の悟りだけに頼っているではないか。培われた世の価値観は、
自分で懸命に考え、今までの経験を頼りに、知恵を絞り、良策を
考えるべき、それが当然で良い事だ。だから主を見上げていなけ
れば、無意識にすぐそこに行ってしまう。懸命に策を練る。しか
し御言葉はそうは言っていない。「心を尽くして」考える、策を
練るのでなく、「主に拠り頼め」と。

自分の考え、経験をフル回転させるのでなく、それらに「たよる
な」と。正反対のことを言っている。そして「あなたの道を主に
ゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。その問題
を、「主が成し遂げる」と。自分が成し遂げるのではない。そし
てそのために「あなたの道を主にゆだねよ」。

まずは「ゆだねる」こと、そして「主に信頼せよ」、「主に」信
頼することが大切だ。私たちは、自分や「人」や「物、金銭」に
頼り、信頼を寄せてしまう。が、神以外のものに頼るなら、それ
は偶像であって、神がそこに働いて、みわざをされる事を妨げて
しまう。今、最も大切な事は、「心を尽くして主に拠り頼」む、
事だろうか。
------------
問題が深刻であればある程、間違った選択をしがちなのは経験ず
みだ。ああでもない、こうでもないでは主の導き分からなくなっ
てしまう。主に全権をお任せしよう。


2016年04月20日(水)

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで・・わきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい」ローマ12:2


私たちは、信仰を持つ以前の古い価値観が根深くある。又、この世
は御言葉の価値観と異なる。古い価値観があると、それを持って御
言葉を聞くと、なかなか御言葉が受け取れない。わからない。よく
耳にするが「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなた
を愛している」の御言葉も、古い価値観は「いいえ、そんな事はな
い」「私が高価で尊いなどあり得ない」「愛されているなど、何も
感じない」と否定してしまう。

又、「愛されているといいですねえ。でも私には無い」と傍観者で、
御言葉通りに、素直に受け取らない。「あなたの道を主にゆだねよ。
主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる」と聞くと、「いいえ、そん
な事があるか。信頼してるだけではどうにもならない」「自分がま
ず何とかしなければ」と御言葉を否定する。

古い価値観が根深く、強力だ。その時は受け入れたように思っても、
すぐ元の価値観に戻り、御言葉が消えて行く。つまり、聞かなかっ
た事になってしまう。御言葉を聞いた時に、同時に来る自分の思い、
古い価値観にまず気づく事が大切だ。どんな思いが来てるだろう。
そこから始まる。そこに気づかないなら、ずうっと御言葉を気づか
ないまま、捨てている事になる。すると信仰の前進、成長がない。

その思いを捕らえて、主に持って行く事だ。「御言葉が信じられま
せん」「受け取る事が難しいです」「そんな事を言っていたら、世
の中渡って行けないと思います」「無理です」そのままを主に告げ
よう。そこから展開があり、主が気づきを与え、受け取れるように
される。不思議に変えられて行く。主のみわざを経験して行く。
-------------
示された御言葉に従って歩もうとするとすぐに古い価値観、世の流
れにぶつかる。すでに神の口からでる一つ一つの言葉によって生き
るものとされているのだから、御心をわきまえ変えられて行きたい。


2016年04月19日(火)

「主に私は身を避ける」詩編11:1


ダビデは、彼に嫉妬したサウル王から命をつけ狙われ、実子アブシ
ャロムからも歯向かわれ、悲惨な命の危機にあった。その時に、
「どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか」の通り、友人
たちが忠告してくれた。「鳥のように、山に飛んで行け」と。悪者
どもが弓を張り、心の直ぐな人を射ぬこうとしていると。だから逃
げるようにと。

いつ殺されるかわからない、日々死と隣り合わせの状況だった。行
き詰まって、絶体絶命のどうにもならない状況だった。とにかくダ
ビデは逃げた。あれほど命を狙われ続けた、サウル王を殺害するチ
ャンスもあったが、神から油注がれた方をどうこう出来ないと、決
して手を出さなかった。神に委ねたのだった。

息子アブシャロムが攻撃して来た時も、息子に反撃せず、ダビデの
した事はひたすら逃げることだった。ダビデは、苦しみ、痛み、辛
さ、悲しみ、失意、落胆、すべてを主に持って行った。泣き叫び、
訴え、嘆き、心の内を神に吐き出した。「主に私は身を避ける」、
逃げるのだが、主のもとに逃げたのだ。

主に身を避けると、「直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る」となり、主に
逃げると、御顔を仰ぎ見ることになる。私たちも苦しみ、痛み、嘆
きがある時には、主に逃げ込もう。そしてことごとく主に気持ちを
訴え、告げて行こう。その時、御顔を仰ぎ見るようにされる。何と
いう恵みだろう。
-------------
主に身を避けまかせ切ったなら、先のことは解らなくても主が平安
をくださる。泣きながら山を登ったダビデのように、不安、悲しみ
辛さを主に叫ぼう。主の下こそまことの慰めがある。


2016年04月18日(月)

「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」マタイ6:12




ある人が、対人関係で、傷つけられた相手を赦せない思いでいっぱ
いになった。怒りが湧くし、憎しみにもなる。心苦しい状態になっ
た。しかし「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなた
がたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたが
たの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」との御言葉があり、
更に悶々状態に陥った。

赦さなければと思うが、思えば思うほど更に怒りが湧く。赦せない。
腹が立つ。だが、自分はクリスチャンなのだから、赦さなければと
思う。が、幾ら頑張っても出来ない。歯を食いしばって頑張るが出
来るはずがない。祈ろうとし、祈っているのだが、相手の事を思う
と祈りの中で腹が立ってしまう。どうにもならず、心の内をありの
まま主に告げて行った。

「出来ません」「赦せません」「相手のあの言動をご存じですよね」
「だいたいから何であの人と出会ったのか」と不満や愚痴を告げて
いると、段々心の中が見えて来て、赦せないのでなく、決して赦し
たくない、赦そうとなどしない頑なな自我にぶつかった。赦そうと
するが、赦せないのでなく、本当は絶対に赦したくない自分。しか
し、ずうっと祈っている中で、あるがまま主に受け入れられている
事を感じた。

「あなたの道を主にゆだねよ・・主が成し遂げて下さる」。赦せな
い自分を主に明け渡した。その時から少しづつ〃変えられて、いつ
しか赦せている自分を発見した。自分が頑張ったのでなく、主が成
し遂げて下さった。まさに恵みを経験した。あるがまま主のもとに
行こう。
------------
赦せない相手の上に立ち、心の中で裁き続けていたい思いはないだ
ろうか。その自分は主に受け入れられ、あるがままに愛されている。
主の導きに従えるように祈っていこう。


2016年04月17日(日)

「・・それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のう ちであった。ちょうどその時、ボアズは・・」ルツ2:3


ベツレヘムに飢饉があった時に、エリメレクとナオミは食物を求め
て、偶像の地モアブに移住した。本来は、信仰によってとどまるべ
きであったが、家庭の幸せを求めて、動いてしまった。ところがモ
アブで、エリメレクと二人の息子が亡くなってしまった。時を経て
ナオミは帰郷の決心をする。

その時に、ナオミは嫁のルツに実家に帰るように勧めたが、ルツは
ナオミについて行くと堅く決心していた。「あなたの民は私の民、
あなたの神は私の神です」と、ルツは信仰を言い表した。ナオミと
ルツは、ベツレヘムに戻り、ルツは祈りをもって、生計のために
「親切にして下さる方のあとをついて」落ち穂拾いをした。

それがはからずも、エリメレクの一族のボアズの畑だった。ボアズ
は有力者であり、裕福であった。そして、ちょうどその時、ボアズ
がやって来た。結果的にボアズはルツと結婚する事になる。帰郷が
ちょうど大麦の刈り入れの始まった時であった。それによって、年
老いたナオミとモアブの女であるルツの生計が成り立った。

すべては主の計らいであった。時と機会、ふさわしい時にふさわし
い場所にルツを導かれた。「あなたの神は私の神」とのルツの信仰
のゆえだった。私たちも問題があるし、難しい事態に、悩みに会う。
しかし、主を信じて従う時に、ふさわしい時に、ふさわしい場所で、
ふさわしい事をして下さる。

・・・・・・・・・・・・
ナオミとルツが信仰に立って、帰郷した時に、すべてがすでに備え
られていた。生計の手段、ルツの結婚、子孫の誕生・・パズルのピー
スが埋められて行くように、みわざが成された。今、見えなくても
信仰の一歩を踏み出すなら、同じ主がすべてを計らって下さる。


2016年04月16日(土)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきな さい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなた がたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリ ピ4:6


ある信仰者が「以前はもう心配症でした。思い煩い症でもあり、心
配で心配で不安で不安で、何か起こると最悪のシナリオを描いて、
更に不安になり、とどまるところ知らずでした」。しかし、主を信
じて歩む中で、段々、問題が起きた時に、主が何とかして下さると
思えるようになった。これは自分にとって奇跡だと。

苦しい事態が生じた時は、あるがままの気持ちを告げる。「苦しい
です。不安でたまらないです。どうしていいかわかりません。問題
を受け入れる事ができません・・でも、導いてほしいです」そのまま
心の内を正直に主に話して行くと、それが心が平安になって行った。

それを続けて行った時、目の前の問題がすぐにどうこうなるのでは
ないが、ああ、主がなんとかして下さる、大丈夫だと思えた。試練
はトンネルの中だ。トンネルの中は、暗闇で光が見えない。その渦
中では真っ暗だ。しかし、ことごとく主に告げて行くと、主が受け
止めて下さった、大丈夫だと思える。

特に、病の問題や介護の問題、又、子供の問題など先が見えない。
しかし必ず良くして下さる、目の前の自分に出来る事をして行こう
と思える。御言葉の通りに、何も、いっさい思い煩わず、主に心の
思いを告げ、願いを告げて行こう。そうするなら、問題はあるのだ
が、神からの平安に心が守られる。

・・・・・・・・・・・・
「何も思い煩うな」と言われている。「何も」だ。今、目の前にあ
る大きな問題も、思い煩わなくて良いと。ことごとく、神に持って
行けばよい。神に知っていただいている、という事で安堵が来る。
どうであれ、必ず最善をして下さる。安んじていたい。


2016年04月15日(金)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました」Tヨハネ4:10




「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とあるように、私たち
は皆、人の愛を求めている。人から愛されたい。しかし人の愛には
限界があり、人は見返りを求めてしまう。善い事をすれば感謝が欲
しい。感謝が無いのに善行を続ける事は難しい。私たちは報いを求
める。報いが無いなら疲れてしまい、ほとんど続ける事ができない。

しかし神の愛は無条件だ。与える愛であり、犠牲愛だ。神を基盤に
して、その神を間に置いて、人に対応して行くことが秘訣だ。まず
「初めに神」で、神との交わりにより、自分自身が喜びと平安に満
たされて、人に関わって行く。すると神の愛で、心が満たされてし
まうので、人からの見返りを求めなくなる。与える者とされる。

愛を求めて、人に依存し、人に執着することから守られる。人から
どうこう言われる事が気にならない。神を通して、人と関わること
が大切だ。「初めに人」としてしまうと、まず人からの愛を求める
と、心が決して満たさる事がなく、ますます渇く。そして逆に、妬
みやそねみ、敵対心と、様々な悩み、問題を起こして行く。喜びが
なく、平安がない。

「初めに人」になっていないだろうか。幾ら人に求めても、心の奥
底は決して満たされることはない。「私たちが神を愛したのではな
く、神が私たちを愛し」まず神が愛して下さった。その求めを神に
向けよう。神は求めに応えて下さり、真の喜びを得る。
-------------
何の見返りも求めずただ愛してくださる神を知っている。それを内
にもって人と向き合うなら、もっと自由に豊に人と関われるのでは
ないだろうか。まず神が愛してくださっている。


2016年04月14日(木)

「風や湖までは言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」マルコ4:41




「向こう岸へ渡ろう」との主の言葉によって、弟子たちは舟に乗り、
主をお連れした。主の言葉から、事は始まった。すると、激しい突
風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。私たちも、
信仰生活で、様々な嵐に会う。対人関係の悩み、仕事上の問題、家
庭の問題、経済的苦境・・、そのような問題は、弟子たちが嵐で試
されたように、私たちも試されている。信仰のテストだ。

弟子たちは突然の嵐にどうしたか。舟のとものほうで眠っておられ
る主を起こした。そして言った「私たちがおぼれて死にそうでも、
何とも思われないのですか」と。しかし、これは屈折した物言いだ。
へりくだって、主に拠り頼んでいるのでなく、いら立ちをぶつけて
いるだけだ。すると主は、起きあがり、風をしかりつけ、湖をひと
言葉で、大なぎにされた。弟子たちを窮地から救われた。

そして「信仰がないのは、どうしたことです」と言われた。「どう
してそんなにこわがるのです」、恐れや不安は、嵐から来たのでな
く、不信仰から来ていると。波や風の問題でなく、不信仰が問題だ
と。嵐に会いたくないし、試練に会いたくない。しかし、それを通
して、主が生けるまことの神であることを知った。

私たちも、問題の中でこそ、主の愛や真実を知る。そして、主の言
葉の通り、向こう岸へ渡れた。途上、どんな紆余曲折があろうとも、
主の言葉は100%成就する。私たちも今目の前の問題を乗り越えて、
向こう岸へ渡ることができる。
------------
問題を主と共に乗り越えたときの喜びは、また一歩、信仰へと進ま
せてくれる。次の雨や風の中ではしっかりと主を見て立っていられ
る。「恐れるな」の御言葉をにぎって今日も歩もう。


2016年04月13日(水)

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」詩編139:1



私たちが、人の言葉にカチン!と来て、怒りを感じる時がある。し
かしそれが知らない外国語ならどうだろう。意味がわからないので、
感じない。という事は相手というより、その言葉に反応する、自分
の内側に何かがあるという事になる。他人の言葉よって、自分の感
情がコントロールされていることになる。

その言葉が、自分の内の何に触れるのか、何に反応するのか、祈り
つつ御霊に探っていただこう。それは有益で、成長へとつながる。
自分のプライドに触れるのか、何かの恐れがあるのか、傷があるの
か、何らかの劣等感か。内側の何かに触れて、怒りが湧いたことに
なる。又、誰かがほめられた時に、自分がけなされたと感じたり、
落ち込むなら、比較の価値観が根にある。

人が上がれば、自分が下がり、人が不評なら、自分が上がる。シー
ソーだ。本来、その相手は自分と何の関係も無い。又、素の自分を
隠して良い人を繕ってしまう。なぜ良い人を演じるのだろう。そこ
に不安や恐れがある。人に良く思われたい、その底に人に愛された
い心がある。良い人でなければ愛されないのではとの価値観だ。

主の愛に立ち返る時だ。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わ
たしはあなたを愛している」ここに救いがある。「感謝します」と
主の愛を受け取り、十分味わうことだ。主の愛で満たされる時に、
人を気にする思いから解き放たれて行く。
------------
なぜ心配があるのか、いらつくのか、落ち込むのか、呼応する心を
よくみつめて、それを祈りに持っていこう。本当の自分を知ってお
られる方に心探られるとき、新しい祈りの課題も与えられる。


2016年04月12日(火)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩編37:5



ある人が主の働きにつくように導かれていると感じていた。しかし
主の導きを感じるのだが、心に何かとどめるものも感じる。何か心
にかげりがあり、そんな中途半端な状態がずっと続いていた。しか
し、きちんと祈ろうと決心して、主の前に祈りに持って行った。あ
るがままの心を祈ろうとした時に、初めてはっきりさせたくない気
持ちがある事に気づいた。

あいまいにしておきたい。自分が伝道者になると考える時に、どっ
と不安に襲われる。恐れが来る。そんな事が自分に出来るのだろう
か。将来は?経済的なことはどうなるのだろう。だが、私を強くし
て下さる方によってどんなことでもできるのではないか。主は栄光
の富をもって、必要をすべて満たして下さるのではないか。

祈りながら心の底を探る時、主を信じているつもりながら、信じき
れない自分を見せられた。信じきれないから、不安でたまらないの
だと。又、その事実にも向き合いたくなくて、認めたくなくて、あ
いまいにしておきたいのだと。御霊に見せられ、心から悔い改めて、
祈った。主に自分を明け渡すのでなく、自分で、自分の力でやろう
としていたから、恐れと不安しか無かった事も教えられた。

委ねて行った時に、自分が変えられ、決心が与えられた。私たちも
どうだろう。何か心がもやもやする時、平安が無い時、まず祈りに
持って行こう。心を打ち明ける中で、かげりの部分を御霊は指し示
して、御心へと導かれる。
------------
何もかも自分でやろうなどとは思っていないのに問題に直面すると
全てを委ねきれない自分に気付く。祈っても祈っても重苦しい日々
が続いているだろうか。そこに何があるのか示していただこう。


2016年04月11日(月)

「・・父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」ルカ15:20




弟息子は、父親のもとにいるのが窮屈で、自分の好きなように、自
分の思い通りに、生きたかった。父の財産の生前贈与を受けて、遠
国へ出て行ってしまった。父親の心を踏みにじる行為だ。息子を愛
する父はどんなに悲しみ、心痛めた事だろう。肉は、人の指図は受
けたくない、自分の思い通りに生きて行きたい。自分中心で、自分
が神だ。

父親は、息子がその結果どうなるかも、何もかもわかった上で、あ
えて息子の思い通りにさせてやる。自分でやってみて、失敗しない
とわからない。案の定、放蕩ざんまいで財産を湯水のごとく使い尽
くしてしまった。それと共に周囲の者も皆去ってしまった。死と隣
り合わせになった時に、初めて我に返り、パンを求めて父のもとへ
帰ろうと決心する。

ぼろぼろになって、帰還すると、父親のほうが「彼を見つけ、かわ
いそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。父親は、この
息子を「かわいそう」に思って、抱いた。神の「あわれみ」だ。神
は、決して私たちを見捨てられない。どのような状態であろうと、
受け止めて下さる。

「あわれみ」は、全く資格の無い者に与えられる愛顧だ。罪を犯し
た時も、恐れや思い煩い、不安で身動きが取れない時も、私たちは
どんなどん底でも祈ることができる。「主よ、私をあわれんで下さ
い」と。
-----------
悔い改める前から、御父はあわれみで追い続けてくださっているな
ら、弱さを持ったままで帰って良い場所だ。失敗や過去の罪をいつ
までも悔やむがその時にする事は御父に顔を向け戻って行くこと。


2016年04月10日(日)

「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れる ために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36


私たち誰しもにとって、非常に難しいのが「待つこと」だと言われ
ている。搭乗待ち、診察待ち、レジ待ち・・待つことは好きではない。
何にせよ、すぐに結果が欲しい。結果が見えないと、焦って、落ち
込んでしまう。祈りの答えがよく信号に例えられる。青=「はい」
赤=「いいえ」黄色=「待て」だ。

御心を祈り求めて、願い通りに答えられ、御言葉与えられ、平安あ
り、道が開かれる場合がある。青のゴーサインだ。その時は、進ん
で行けばよい。様々な問題があったとしても、神が解決して行って
下さる。平安もって前進すればよい。又、祈りの答えが「いいえ」
の場合がある。赤のストップだ。自分はその方向に進みたいのに、
御心でない場合がある。

目の前で門が閉じられてしまう。諸事情で、進もうとしても進めな
い。その場合は、更にふさわしい別の道が備えられている。思いと
反し、心は痛いが、しかし必ず最善に導かれる事を信じることがで
きる。青と赤はわかりやすいが、黄色が難しい。与えるが、「時」
が今ではない。「待て」「祈りを続けよ」とのサインだが、いつま
で待てばよいのか、いつまで祈り続けるのか、わからない。待つと
は必ず時間が必要だ。時間の経過を伴う。

しかし忍耐は非常に難しく、「まだか、まだか」と、心が疲れて来
る。しかし大事な事は、黄色信号を出しておられるのは、神だ。神
からの示しであるなら、待つことは、主への期待であり信仰だ。
「待つこと」を通して、大切な信仰が培われる。待つことにより信
仰が培われて行く。

・・・・・・・・・・
約束を手にするのに、必要なのは「忍耐」だ。途中で確信を投げ捨
てるな、もうすぐ答えは来る、信じているようにとある。長い祈り
が必要な時も、途上、所々で、祈り続けられるよう、励ましがある
ことに気づく。主に支えられ、助けられて、待つことができる。


2016年04月09日(土)

「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけ ないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょう か」ルカ18:7



この人は裁判官であり、神を恐れず、人を人とも思わない人物だ。
裁判官だという事は法律にそって裁くという事だ。しかし人格的に
はこういう人なので、コネも富も持たないやもめは、決して退かぬ、
並々ならぬ決意で、執拗に裁判を願った。余りにひっきりなしにや
って来て、うるさくて仕方ないので裁判をする事にした。

正義のためや、仕事熱心や人道上からではない。ただ自分の平穏の
ためだ。こういう人でも、うるさいからの理由で腰を上げ、裁判を
するのであれば、ましてや完全な愛と完全な義をお持ちの神が、正
しい裁きをつけずに、放っておかれるわけがないと。つまりこんな
人格の裁判官でもそうするのだから「ましてや神は」という事を言
っている。

動いて下さらないわけがないと。神はうるさいから、祈りに答えら
れるのではない。愛していて下さるからだ。完全な愛と配慮を施し
て下さり、常に私達の最善を考えて下さっているお方だ。だから失
望はあり得ないと。祈る相手が、どんなお方かが何よりも重要だ。

神はすみやかに彼らのために正しいさばきをして下さる。祈りに答
えて下さる。御子を賜うほどに愛し、最善をして下さる神に、諦め
ず、失望する事なく信頼し続けよう。信仰を献げよう。御心通りに
叶えられて行く。そしてその祈り自体をも導いて行って下さる。

・・・・・・・・・・
常に心に留め、極みまで愛し、配慮し、最善を成して下さるお方に
呼び求めている。夜昼、必死に呼び求めるたましいを、放っておか
れるわけがない。長らく祈り続けている、あの祈り、この祈り、い
つか神の時が満ちると、非常に励まされる。


2016年04月08日(金)

「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」ルカ24:15




エルサレムから、郷里エマオに向かう二人の弟子たち。彼らは、主
が十字架で死なれた事を知っていて、女たちから、主のお墓が空に
なっていた事も聞いていた。それ以前に主は、あらかじめ弟子たち
に、十字架の死とよみがえりを語っておられた。しかし彼らは理解
できていなかった。非常な落胆と失望で、話し合ったり、論じ合っ
たりしながら、「暗い顔つき」で郷里への途上だった。

するとそこに主が来られ、かたわらを歩かれた。しかし、彼らには
それが主イエスだとわからない。「目がさえぎられていて」と。
「話し合っているのは、何のことか」と主が声をかけられた。する
と主に向かって、「イエスのことです」と、語り出した。この方こ
そ贖って下さるはずなのに、なぜ十字架で死んだのか、主のみから
だが無いとは、どういう事なのか。

主は、そんな彼らを「信じない、心の鈍い人たち」と、原因は「不
信仰」だと言われた。そして「信仰」を与えようと、主の方から近
づかれた。そのために御言葉を語られた。この事について聖書全体
から解き明かされた。彼らは聞く姿勢を持ち、熱心に耳を傾けた時
に、不思議に心が燃えて行った。

更に聞きたくて、別れ道に来た時に、無理に願って主を引き止めた。
するとその食卓で、目が開かれて、主だとわかった。主の方から弟
子たちに近づき、御言葉を語られた。私たちにも近づかれ、御言葉
を語って下さる。耳を傾けよう。そこから目が開かれ、信仰へと変
えられて行く。
------------
目の前の期待や思い込みですぐに主が見えなくなり目が塞がれる自
分の姿だ。死から勝利し復活の主が共におられる。聞く耳を持って
尋ねるなら主から学べ、心は新たに熱くされる。


2016年04月07日(木)

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」マタイ26:39



時に、神の御心と自分の意志がかみ合わない時がある。しばしば経
験する。神の御心が何となくわかるのだが、自分はその方向へ進み
たくない。又、自分はこの事がどうしてもしたいのだが、道が開か
れず、どうも神の御心ではないようだ。しかしどうしても成し遂げ
たい。しばしばこのような状況に陥る。葛藤と苦しみが生じる。

このような時には、どうすればよいのか。まず、よく祈ることが必
要で、大切だ。主は十字架にかかる前に、ゲッセマネの祈りで、気
持ちを率直に祈られた。「できますならば、この杯をわたしから過
ぎ去らせてください」、十字架を回避させて欲しいと。ずっと弟子
たちにも、これから十字架にかかり・・と言い続けて来られた十字
架だ。

どんな御心にも、黙って、勇敢に従って行くのが霊的で、立派な信
仰者なのではないのか。私たちにはそんな思いが無いだろうか。し
かし、主は弟子たちに、一緒にいて欲しいと弱さをあるがまま表さ
れ、又、主の計り知れない深いみ思いがあり、繕わずに、隠さずに、
ありのまま十字架を回避させて欲しいと、御父に祈られている。こ
れが真の祈りだと見せられる。

そして、祈りの中で、御父の御心に、ご自身を明け渡して行かれた。
「あなたのみこころのように」と。私たちの肉が求めるのは、どこ
までも自分の意志の実現だ。「自分の心が成りますように」だ。強
い自我があり、そこに「自分を捨てる」「自分に死ぬ」苦しい戦い
がある。だが主はその苦しみも、戦いも理解して下さっている。主
が共におられ、すでに勝利して下さっている。
------------
あくまで自分の正しさを訴えているのか、弱さを認められず苦しい
のか混沌としているままを飾ることなく御父に訴えよう。祈りの中
で示されてくる。砕けた心で御心を祈れるようになりたい。


2016年04月06日(水)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14 




有名な出エジプトの箇所だ。イスラエルの民は男子で60万人、皆で
200万人の人々かと言われているが、大変な事だ。又、エジプトに
とっても、労働力が突如として消失するわけで一大事だ。約束の地
を目指し、出発したが、すぐに難題発生だ。何と、後ろからエジプ
ト軍の精鋭部隊が追いかけて来るではないか。前は海で、絶体絶命
だ。

民は手の平を返したような態度を取る。モーセをののしり、「こん
な荒野に連れて来て、死なせるのか。何という事をしてくれたのか。
エジプトにいた方が良かった」。問題が起きる時、試練の時、人の
本性が現れ出る。祈っていたであろうモーセは民に言った。「恐れ
るな」「しっかり立て」「あなたがたのために行なわれる主の救い
を見よ」。

私たちはすぐに恐れる者だ。不安でいっぱいになり、大きく動揺す
る。神が飛んでしまい、目の前の状況に飲み込まれる事が問題だ。
思いはどんどん飛躍して、最悪のシナリオを作り上げる。その時に、
神も、御言葉も抜け落ちている。まず「恐れてはならない」の御言
葉に立って、状況を見る時に、飲み込まれていた状況が違って見え
る。

そして「しっかり立て」自分で動き回らずに、自分で何とかしよう
とせずに、主が動かれる事を信じて立とう。「主が戦われる」と。
今、目の前に難題があるだろうか。まず「恐れるな」心配するなと
言われる。自分で動かず、主の導きを求めよう。「主が戦われる」。
-----------
不安からジタバタすると誤った決断をしてしまいがちだ。何故、ど
うしてのつぶやきを祈りにして静かに御言葉に向かおう。自分にと
っての問題は何んなのか、導きを求めよう。


2016年04月05日(火)

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた」エレミヤ31:3



人間には、良い人に見られたい、嫌われたくないという根深い思い
がある。主に出会う前は、それだけで生きて来た。人前を繕って、
良い人の演技をする。なぜ演技するのだろう。本当の自分を出せば、
嫌われる、人が離れて行くと思っている。私たちの心の奥底は、誰
しも愛されたい。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」の通
り、愛を求めている。

エデンで、アダムとエバは罪を犯した結果、霊的に死に、神から離
れてしまった。神との交わりが失せたため、目に見える人の愛を求
めるようになった。新生したクリスチャンもまた、根深い肉の性質
があるため、人に愛されたい、受け入れられたい思いが強く、人前
を繕ってしまう。

しかし主は、私たちをあるがまま、丸ごと受け入れて下さっている。
神ではなく、この世を求め、自分の力を誇り、自分勝手・・しかし
何もかもすべてわかった上での愛だ。だがこの愛を信じようとしな
いなら、主の前にも距離を作る。主にすら本当の自分を隠して繕っ
てしまう。主を避けて、隠れる事になる。十字架の血潮でなく、自
分で少しはましになって御前に出ようとする。

主がアダムに「あなたはどこにいるのか」との通り、その立ち位置
が間違っている。「わたしはあなたを愛している」。問題はこの神
の愛を信じられない事だ。だから繕う。その心は寂しい。感じよう
と感じまいと、まず御言葉を信じて行こう。「感謝します」と受け
取って行こう。
------------
御神の永遠の愛の全てを知ることはできない。それゆえただ、ただ
感謝して信じていくだけだ。主のもとに愛がある。ありのままを愛
してくださり、疲れても失敗しても再び建て直してくださる。


2016年04月04日(月)

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」ヨハネ3:30




ヨハネの弟子たちは、主がバプテスマを授けると、人々が皆、主の
方に行くと報告した。弟子たちは心寂しく、面白くなかった。それ
を聞いて、ヨハネは、心がザラつく事もできた。しかし、彼はそう
ではなかった。なぜなら、その事は神から来ていると受け入れ、
「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」と、神の御心
が成されている事を喜んだ。

なぜ、ヨハネはこのような聖い態度が取れたのか。まず「見よ、世
の罪を取り除く神の小羊」と主が救い主であると告白していた。そ
して自分はキリストではないと明言した。「私はキリストではなく、
その前に遣わされた者・・」と。ヨハネは自分に与えられた立場と
使命を理解していた。主が花婿で、自分は花婿の友人であり、人々
に花婿を紹介し、伝える事が自分に与えられた使命だと。

花婿が重要なのであって、自分ではないし、自分の影響力ではない。
主が現われる事が重要なのだと。ヨハネは自分の使命に忠実に生き、
満ち足りていた。私たちも、自分を越えて、周囲の人が能力を発揮
し、賞賛を浴び、人気者になる時にどうだろう。内にあるものの真
価が試される時だ。順調な時でなく、衰える時こそが試しの時だ。

健康が衰え、病気になる時、物事が自分の思い通りにならず、うま
く行かない時・・そんな時に真の自分が出て来る。その時こそ自我
が砕かれて、内なる主が盛んになる。ますます主が盛んになり、主
の栄光が現されて行く。
------------
状況が良ければ主を賛美していても、何事か起こればすぐに主を見
失い、慌しく私が、私がと自我が起き上がってくる。心の王座に主
はおられるだろうか。どんな時も主を見つめて歩んでいこう。


2016年04月03日(日)

「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、 互いに赦し合いなさい」コロサイ3:13


人を赦す事を拒む心には、恨み、苦々しさ、怒りがある。人を赦さ
ない事は、自分自身が神の赦しを本当には経験していない、という
ことになる。主が私の罪を何もかも赦して下さるという、驚くべき
あわれみを思うと、 私たちが人を赦すのは当然だと思える。

人には言えないような、様々なひどい醜い罪が赦された事を思う時、
他の人の罪を赦さずにはおれないのではないだろうか。しかし現実
には、これほどのあわれみを受けているのに、なかなか人の罪を赦
すことができない。執念深く、人のした悪を数え、恨み続けている。

だが、人を赦すことは主からの命令だ。なぜなら、人を恨み、憎み、
赦さない事によって傷つくのは相手でなく、自分自身だ自分自身を
自分が傷つけている事になる。人を憎み、赦せない心ほど苦しいも
のはない。憎む相手がいると、常に心に重い鉛を抱える事になる。

楽しい時にも、心の鉛は影を落とす。ふっと思う時に心は沈み暗く
なる。人を憎むなら、自分から牢獄に入る事になる。いつも縛られ、
苦しく、がんじがらめだ。主は私たちを牢獄から解放したい。自由
にしたいと思っておられる。主に助けを求めよう。人にできない事
が主にはできる。

主に不可能は一つもないからだ。「赦したくありません」と正直な
気持ちを主に祈って行こう。そして助けを求めよう。祈りから始め
よう。そこに御霊が働かれ、必ず助けられる。心の重い鉛が消えて
自由にされる。

・・・・・・・・・・
主の血潮ゆえに、罪が帳消しにされる。そして、二度と思い出さな
いと言われる。何という驚くべき、測り知れないあわれみだろう。
まず自らの緋のような罪が真っ白にされている事実を、受け取ろう。
主の愛にとどまろう。主に満たされる時、赦して行ける。


2016年04月02日(土)

「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、 さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまで も取り上げられるからです」ルカ8:18


聞き方に注意せよと言われている。どのように聞くかは非常に重要
だと。その聞き方次第で更に与えられ、又、反対に、持っていると
思うものまで取り上げられると。何を聞くのか。聖霊によって語り
かけられる「御言葉」だ。素直に、注意して御言葉を聞いて行く時
に、真理を知り、主ご自身を知って行く。

そして御言葉は鏡なので、自分自身の姿も照らし出される。その自
分が取り扱われ成長して行ける。つまり更に与えられて行く。だが
御霊による語りかけに注意を払わず、御言葉を聞こうとしないなら、
何も始まらないどころか、ますます耳が鈍くなり、聞こえなくなっ
てしまう。そして持っていると思っているものまで取り上げられる
と。

豊かな実を結ぶためには、種である御言葉が必要不可欠だ。「種」
が無いのに、実が成る事はあり得ない。そして「土壌」は、私たち
の心だ。よく耕された土壌に「種」が植えられると豊かに結実する。
だから「聞き方」は非常に重要だ。

私たちの聞き方はどうだろう。心素直に「教えて下さい、信じて従
います」とへりくだった態度で、御言葉に聴いて行く時に、更に教
えられ、実を結んで行く。そして御言葉をしっかりと心に据えて行
く時に「あかりをつけてから、それを器で隠したり・・する者はな
い」「燭台の上に置く、入って来る人々にその光が見えるため」の
通り、主の光を輝かせて行く。聞き方により、主の言葉が無駄にな
ったり、結実したりする。聞き方にかかっている。

・・・・・・・・・
御言葉をすぐに忘れてしまう。この世の影響力は凄まじく、流され
てしまい、朝に聞いた御言葉が飛んでしまう。祈り心で、御言葉を
反すうしよう。何度も〃反すうする時、御言葉から力が来て、行な
ってゆける。


2016年04月01日(金)

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」ガラテヤ5:13




キリストの十字架によって、私たちには自由が与えられた。自由に
生きる者とされた。しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせ
られないようにと。奴隷のくびきとは、行ないによって受け入れら
れようとする事だ。「その自由を肉の働く機会としないで」とあり、
私たちに与えられている「自由」を、「肉の働く機会」にしてしま
う事があると。自分の欲望のために、自己中心に使ってしまう。

私たちが罪の奴隷から自由にされているとは、律法に縛られて生き
ていた者から、キリストの愛に動かされて生きる者へと変えられた
事だ。このキリストの愛が重要だ。これが抜けると「自由」は、肉
の欲望のまま、「放縦」「気まま」になってしまい、つまり自己中
心な肉の働く機会になる。恵みから落ちてしまう。

私たちの一つ一つの行動は、義務でなく、「ねばならない」でなく、
強制ではない。又、単に自分が好きだから、楽しいからするのでは
ない。それも自己満足で、肉の喜びによるものだ。「愛によって仕
えなさい」とあるように、キリストの愛が原動力であり、その愛は、
「自由」を土台としている。

自由の中からしか出て来ない。強いられて愛する事は出来ない。愛
とは自由で自発的なものだ。主は、この「自由」を与えて下さった。
そしてこの自由は必ず隣人を愛して行く。隣人に仕えて行く。そし
てこの自由があるから、私たちは生き方を選択する事ができる。
------------------
愛さねばならないのは本当に苦痛だ。世間体や見栄のための肉の奴
隷だと痛感する。せっかく主が命を掛けて解放してくださったのだ
から肉から自由にされ、喜びを持って愛する歩みに進みたい。