2016年05月31日(火)

「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18


律法主義は、外面的行ないゆえ、外側を懸命にうまく繕おうとする。
外側ばかりを気にすると、どうしても良い人を繕ってしまう。人の
目にどう映るかばかりが、気になって仕方がない。本当の自分では
なく、人の目に映る自分に注意が行く。良い人に、良い人に、見ら
れようと繕って行くと、段々、人に見せている自分が自分だと勘違
いして行く。本当の自分がわからなくなる。

実は、内側は罪でいっぱいだ。高ぶり、妬み、そねみ、憎しみ、偽
り・・、しかし外側を良く見せていると、その内側が見えなくなっ
て行く。自分は本気で良い人だと思ってしまう。御霊がそうでない
と示しても、受け入れなくなる。そうなると悔い改めもできない、
最も恐ろしい状態になる。

だが、御霊に導かれる歩みは、内側から変えられて行く。御霊は内
面を照らし出し、気づきを与える。「生まれつきの顔を鏡で見る」
とあるが、御言葉は内側を照らす「鏡」だ。鏡が無ければ、顔の汚
れはわからないように、御言葉の鏡により心の内の汚れが見せられ
る。見せられた一つ一つの罪は、悔い改めによって、赦される。

そのために主は十字架で死んで、よみがえられた。完全に赦される。
そして御霊によって歩んで行くなら、肉の欲望を満足させることが
ないと。肉の本能が無くなる事ではなく、依然として本能はあるが、
それを満たさない。絶えず御霊の導きを求め、御霊に助けられて歩
んで行ける。
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平安が無いのは人を羨み、妬んでいるからだと示されると主に悔い
改める。すると今の恵みに目が開かれ感謝がくる。羨ましさは消え、
祝福を祈れるようになる。いつでも外ではなく内からの恵みに生き
ている。


2016年05月30日(月)

「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」創世記50:20



ヨセフは凄まじい苦難の人生だった。兄たちの妬みにより、エジプ
トに奴隷として売られた。しかしそこで主人に忠実に仕え、厚意と
信任を受けた。だがそんな時、主人の妻の悪意により投獄され囚人
の身に。えん罪だった。そこでも忠実に仕え、模範囚に。すると囚
人を委ねられ、そこでのすべての管理を任された。

そんな時、献酌官長の夢を解き明かし、パロに自分の事を話してく
れるよう頼んだ。すぐにも出られると期待したが、忘れられてしま
い、尚2年が過ぎた。やがてパロの夢を解き明かし、宰相とされる。
少し順調に行けば、どん底に、その繰り返しだった。その中で、ヨ
セフは絶望せず、落胆せず、投げやりにならず、その時、その時を、
苦しい中であるが、主に忠実に生きて行った。

それはヨセフが「摂理」を信じていたからだった。目の前の事態、
状況、境遇は、偶然ではなく、運命でもなく、サタンに振り回され
ているのでもなく、神から来ていると受け止めていた。目の前のそ
の事態に、神のご計画があり、意図があり、御心がある事を信じて
いた。だから、誰もヨセフを損なう事はできなかった。

兄たちの悪意でエジプトに売られた事は、神が命を救うために、皆
より先に、自分をエジプトへ遣わされたのだと。「兄たちが」でな
く「神が」に、視点を置き換える時、大きな神のみわざが見えて来
る。あなたのその苦しみも、そのように置き換えてみよう。
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ヨセフの生涯と変わらず、私たちの直面する問題もみな、神の摂理
の中だ。人が、環境が、自分が、といたずらに迷い苦しんでしまう
が「神が」を中心に、そこからの導きを祈っていこう。


2016年05月29日(日)

「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の 妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。―主の彼に対するあわれみ による。そして彼らが連れ出し」創世記19:16



ソドムに住むロトに、二人の御使いが来て、主から遣わされ町を滅
ぼすと告げた。婿や息子、娘、身内の者を皆、この所から連れ出す
ようにと。それでロトは、娘婿たちに主がこの場所を滅ぼされるの
で、出るようにと言うが、娘婿たちは冗談だと思った。ロト自身が
ためらっていて、ぐずぐずしていた。

娘婿たちは動こうとしないので、夜明け頃、御使いはロトに促した。
妻と二人の娘を連れて逃げるようにと。滅ぼされてしまうからと。
尚も、ぐずぐずしているロトに、御使いたちが、ロトの手、妻の手、
二人の娘の手をつかんで、町の外に連れ出した。それは「主のあわ
れみによる」と。

ロトも突如の事に、信じられず、そして自らの築き上げた地位、名
誉、財産を手放す事をためらった。肉の思いが、神に従う事をため
らわせる。私たちも同じだ。御心に従おうとする時に、いつも肉の
思いがまとわりついて足を引っ張る。自分の地位、自分の所有物、
自分への賞賛・・執着して手放せない。

彼の妻は「後ろを振り返るな」との言葉に従わず、振り返って塩の
柱になってしまった。置いて来た有形無形の財産、宝に、後ろ髪を
引かれただろうか。人生、肉の思いを優先して生きたロト、「肉の
人」の型と言われているが、尚も「主のあわれみ」があった。

つかんで強制的に連れ出された。主の尽きる事のないあわれみだ。
私たちも、あの時、この時、主のあわれみを見い出す。

・・・・・・・・・・・
信仰生活、いつも目の前に二つの選択がある。御霊と肉の選択だ。
肉の求める自分の栄光、御霊の導く主の栄光、常に正反対だ。そこ
に主のあわれみがあり、従えない者を、手を取って助けて下さる。
そんな主に従って行きたいと思う。


2016年05月28日(土)

「アブラハムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町町に住んで、 ソドムの近くまで天幕を張った」創世記13:12



よくアブラハムとロトが対比される。アブラハムは主の召しを受け
て、主の示す地へ行こうとした時に、甥のロトも一緒に出かけた。
アブラハムは「主がお告げになったとおりに」従った。だがロトは
導きを求める事もなく、ついて行った。肉の出発であった。

そして大いに祝福され双方の所有物が増え、収拾つかず、同行困難
で別れる事に。その時アブラハムは祈りと信仰により、全所有権を
主に明け渡し、ロトに土地を選ばせた。ロトは主を仰ぐ事もなく、
目に見える最も肥沃そうな低地を選んだ。肉の判断だった。

しかしそこは不道徳で混迷を極める地であった。「人々はよこしま
で非常な罪人であった」。ロトは罪には関わりたくないので、「ソ
ドムの近く」に天幕を張った。近くなら、関わらなければ大丈夫と
の誤算だ。私たちも自分は大丈夫と思ってしまう。

だが、次の章では「ロトはソドムに住んでいた」となっていて、少
しづつ〃の誘惑には勝てない。次には「ロトはソドムの門の所に座
っていた」とあり、その町の名士が門の所に座るので、ロトは町で
地位を築き有力者になっていた。世を求めて生きた。

アブラハムはエジプトに下った失敗、イシマエルを生み出した失
敗・・様々な失敗を通して肉の思いが砕かれ、御霊の人へと変えられ
て行った。まず祈りがあれば、どんなに違っていただろう。信仰生
活の節目〃にも、祈って導きを求める事ができる。目の前の判断に、
主を仰ごう。

・・・・・・・・・・・・
祈りがなく、肉の思い、肉の判断で歩むと、御心からそれて正反対
の方向へ行ってしまう。そして自分は大丈夫と思ってしまう。神視
点、祈りが抜け落ちている時、要注意だ。祈りの祭壇をいつも新た
にし、どんな時にも、まず祈りを大切にして行こう。


2016年05月27日(金)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6




今、対人関係の問題があるだろうか。職場でも、仕事自体より多く
が対人関係の悩みだと言われている。職場や近隣に、うまく行かな
い相手がいて辛い状態だろうか。目の前のその問題は、相手と遭遇
してしまった不運なのではなく、又、サタンにほんろうされている
のではなく、神から来ている。取り扱いだ。

不運を嘆くのではなく、状況さえ変われば、ではなくこの問題に神
を認めよう。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」とあ
り「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」と。神が、
目の前にその相手を置かれている。それはあなたの益のためだ。主
は目的と計画と意図をもって、あなたの前にその人を置かれた。
沢山の事を学ばせて、成長させて下さる。砕いて、自分自身を変え
て下さる。

ある人は、非常にお節介な隣人が嫌でたまらなかった。頼みもしな
いのに世話を焼かれる。そう思う自分にも心が狭いのではと、自己
嫌悪に陥る。その事をずっと祈り続けていた。ある時、とうとう爆
発寸前になり、心で「神様!」と叫んだ。その時、口から言葉が出
た。「いつも有難うございます」。

自分が自分に驚いた。祈っていたから、肉の言葉から守られたのだ
と、心から感謝した。何と相手と良い関係になってしまい、祈りの
力を経験させられた。目の前の事に、主の取り扱いを認めて、まず
祈りに持って行こう。
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問題の原因や解決法を必死でさぐるが、問題から少し離れ主に祈ろ
う。曲りくねった思考回路も、硬い心も主が整えてくださる。全ての道
で主が助けてくださったと感謝する時を迎えたい。


2016年05月26日(木)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」マタイ6:34




先の事の思い煩いで一杯になるだろうか。明日の事、一週間先の事、
一年先、果ては老後の事・・。しかし、主は一日単位で生きるよう
にと言われた。別訳では「一日の苦労は一日にて足れリ」だ。一日
一日の積み重ねが一生になっている。なかなか気づかないが、今日
のこの一日しか生きる事ができない。

しかし長い人生、明日生きる事ができるように思ってしまう。まだ
来ていない明日の思い煩いで、この一日をつぶしてしまうなら、ず
っと御心が行なえない。架空の亡霊だ。この一日を大切に、精一杯
生きて、今日の御心を行なって行く事が主の喜ばれることだ。

ある人がチーフとしてプロジェクトを抱えたが、それは非常に困難
を極めた。時間も労力も不足の中、日々深夜勤務となった。しんど
くなり、どうにも身動きとれない状態で、主の御前に静まった。焦
り、いら立ち、不安、思い煩いの何もかもを告げ、祈りの時を持っ
た。自分は、先、先と考え、思い煩い、不安や恐れ、焦りにさいな
まれていた事に気づかされた。

まず主に委ねるように導かれ、先を思い煩わず、「その日一日だけ」
を考え、その日一日に心身傾けるよう示された。従って行くと不思
議が起きた。計画通りにその日の仕事を精一杯して行くと、平安が
心を支配し思い煩いが消えていた。

自分が平安なものだから、周囲もピリピリが消えて、良い関係の中
で集中して準備が出来て、そのイベントは素晴らしい成功を見た。
明日を主の手に置いて、今、この一日なすべき事をして行けるよう
に祈ろう。
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山場を越えた後で、あの心配は何だったのかと思う。思い煩った日
々も主に与えられた大切な一日だった。亡霊に襲われるとき、先の
心配を主に預け不安を信仰で埋めよう。今日御心を精一杯生きよう。


2016年05月25日(水)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない」出エジプト14:14





モーセにより、出エジプトを果たしたイスラエルの民を、神は荒野
の端にあるエタムに宿営するよう導かれた。ところが、神は「引き
返すよう」に言われ、そして海辺で宿営するように命じられた。追
っ手が来るやも知れず、一刻も早く少しでも遠ざからなければなら
ない中で、神はあえて引き返させられた。

その通りに従ったが、エジプトの王パロはすぐに戦車を整え、自分
で軍勢と全戦車を率いた。どんどん追い上げ、海辺に宿営している
民に追いついた。せっかくエジプトを出たのに、パロに追いつかれ
てしまった民は、どんな思いだったろう。「臆することなく」出て
行った民だったが、「非常に恐れて、主に向かって叫んだ」。

大変な恐怖に襲われた。なぜ神は、少しでも先に行くべきところを、
あえて引き返させられたのか。「パロとその全軍勢を通してわたし
は栄光を現わし・・」と理由が告げられている。試練、問題、苦し
みを通して、栄光を現わされる。主の栄光のためだ。「恐れるな、
立って、主の救いを見よ、黙っていよ」、黙って、主の救いを見よ
と。

立ち向かえ、交戦せよとは言っていない。主が戦われると。今、目
の前に、困難が立ちはだかっているだろうか。その問題を通して、
主は栄光を現わされる。信じて立とう。主がどのようにみわざをさ
れるのか、立って、主の救いを見よう。
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海の水が分かれるなどと、想像も理解もはるかに超えた主のご計画
が次の展開にはある。私の計画、私の考えでなく主の御心がなりま
すようにと、自分の不信仰と日々戦いたい。


2016年05月24日(火)

「イエスは・・収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、『わたしについて来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。」マタイ9:9




マタイは取税人であった。当時、ユダヤはローマ帝国に支配されて
いた。ローマに代わり税金の取り立てをしていたのが取税人だった。
つまり同胞から不当に余分にお金を取り立てて、ふところにも入れ
ていた。ローマ帝国の手先と忌み嫌われていて、裏切り者と憎まれ、
罪を犯しているので、自己嫌悪にも陥っていたかも知れない。

富はあったが、決して幸せではなかった。罪人として、人から蔑ま
れ、拒絶され、心に闇を抱え、寂しさと虚しさの中にいただろう。
生きる意味も見い出せなかったのではないか。そんな時に、主イエ
スがマタイを「ご覧になって」「わたしについて来なさい」と声を
かけられた。「すると彼は立ち上がって、イエスに従った」。

主がそんなマタイをご存じで選ばれた。マタイはすぐに招きに応じ
ている。迷いが無い。大変な覚悟だが、マタイは、聖い方が自分の
ような者を招いて下さった事にどんなに驚いた事だろう。そして嬉
しかった事だろう。彼は、主に従い通して、マタイの福音書を書く
栄誉にあずかった。マタイは自分の事を「取税人マタイ」と言い、
どんなところから救われたかを全く隠さず、むしろ人前に明らかに
した。

闇から光に入れられた、その恵みの大きさを、主の愛の深さを味わ
い知った。私たちも主が「ご覧になって」呼んで下さったから、今
がある。どんな所から救われたのか、救われていなかったなら、ど
うなっていたのか、今一度、感謝を献げよう。
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主が追いかけてくださり、主に出会う恵みに与れたから、順境にも
逆境にも主と共に歩める人生へと変えられた。何という幸いだろう。
今朝のひと時、主から受けた恵みの数々を思い起こしてみたい。


2016年05月23日(月)

「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません」マタイ8:10



主のもとに、一人の百人隊長が、中風のしもべのいやしを求めて来
た。この隊長は異邦人であり、しもべとは当時は奴隷であって、奴
隷のために心を砕き、配慮するとは、神を畏れる愛情深い人物であ
った。自分の家に来てもらう資格もないので、ただお言葉を下さい
と。そうすればしもべは直りますからと。へりくだった態度であり、
そして彼は、神の言葉は必ず成就すると確信し、信頼しきっていた。

主は、彼の信仰に驚き、感心し「このような信仰を見たことがない」
と言われた。彼も権威の下にあるので、神の権威がよく理解できた。
例えば、警官は車を誘導し、止めたり、動かしたりする事ができる。
運転手はそれに従う。それは、警官に権威が与えられているからだ。

そして百人隊長は、更に最たる神の権威を認めていた。だから、そ
の神の言葉の権威をも認める事ができた。主は「さあ行きなさい。
あなたの信じたとおりになるように」との言葉を与えられた。する
と、丁度その時、しもべはいやされた。神の言葉には、力と権威が
ある。霊でありいのちだ。神の言葉はすべて必ずその通りに成る。

私たちは、その権威と力のある神の言葉をどのように聞いているだ
ろう。うわの空で聞いて、適当な受け止め方だろうか。神の言葉を
祈りをもって真剣に聞き、語られた言葉に、信仰をもって応答する
事が大切だ。今、語られていたなら、信じて従おう。
------------
目の前で奇跡を行われる主にのみ期待し、押し寄せている群衆とこ
の百人隊長の対比に学ばされる。主の御言葉の権威を信じ、畏れを
もって一つ一つに謙遜に応答しているだろうか。


2016年05月22日(日)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるという のですか」ガラテヤ3:3


この世の価値観、肉の価値観は、行ないに価値を置く。良い行ない
をするのが良い子で、悪い行ないをするのが悪い子だ。クリスチャ
ンになっても、生まれつきの価値観が根深くしみついている。行な
いではなく、何の行ないも無いものが信じただけで、救いを受けた。
救いは信仰によった。神の一方的な恵みだった。

しかし、根強い価値観は、信仰によって救われた後の信仰生活は、
自分の力で、行ないで行こうとする。品行方正なのがクリスチャン
と思っている。善行をしなければと思う。人には親切にし、困って
いる人を助け、聖書を読み、祈り、良い行ないに励もうとする。

しかし、しばらくは自分の力で出来ても、やがて行き詰まる。自分
の力で行なうので、油切れ状態になる。機械のオイルが切れたなら、
きしんでうまく回らないように。尚も、自力で頑張ろうとするが、
自分で機械を回しているように、信仰生活が背負い切れず、重くな
り、苦しくなって来る。何とも辛くなる。

きしむ車を、自分が引いて、坂を上るような絵になる。そして又、
主を助手席において、自分が運転席の状態だ。自分が主をお連れす
る。主に運転席に座って頂いて、自分は助手席だ。すると苦しくな
く、重くなく、軽やかで平安だ。「自分が」「自分が」になってい
るなら、立ち返って主にお委ねしよう。御霊に導かれる信仰生活は、
決して重荷とはならない。主とひとつであり、そこには平安がある。

・・・・・・・・・・・
主から目を離すと、すぐ肉が出て来て、肉によって完成しようとし
てしまう。自分でやろうとしてしまう。途端、オイル切れのように
きしみ、潤いも平安も失せる。主に向く時、立ち返れて、憩いに戻
れる。御霊の気づきに感謝だ。


2016年05月21日(土)

「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方 なのだろう」マルコ4:41


「向こう岸へ渡ろう」との主の指示で、舟を漕ぎ出した中で、弟子
たちは死にそうなほどの嵐に会った。向こう岸に渡らないで、岸に
とどまっていれば、会わなかった。つまり、御心に従う中で、主に
従う中で、嵐に遭遇する事がある。

そして、弟子たちは大嵐の中で、悪戦苦闘し、舟は波をかぶり水で
一杯になった。転覆してしまう。必死な弟子たちは、ともの方で熟
睡の主を起こし「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われな
いのか」と。助けを求めているというより、不満をぶつけているよ
うだ。屈折したような言い方だ。しかし、主はそんな弟子たちを顧
みて、起き上がって、風をしかりつけられた。

湖に「黙れ、静まれ」と言われると、風はやみ、大なぎになった。
風のほうを叱りつけ、そんな弟子たちを大嵐から救って下さった。
そして「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どう
したことです」と、嵐ではなく、不信仰が問題だと教えられた。

私たちも、嵐により信仰が試される。しかしどのようであれ、弟子
たちを助け出されたように、私たちも救い出して下さる。弟子たち
は大きな恐怖に包まれた。風や湖まで支配される、自然界をも支配
される方であることに驚いた。嵐に会った事で、主が神であること
を、目の当たりに見せられた。私たちも主に従う中で、嵐に会うが、
嵐を通しての大きな恵みが備えられている。

・・・・・・・・・・・
主のひと言葉で、荒れ狂う嵐が、大なぎになってしまった。私たち
の心の思い煩い、恐れ、不安の嵐も、主の言葉で、なぎになる。嵐
には会いたくないが、嵐を通して自分の内側があらわにされ、又、
主がまことの神であることを経験して行く。


2016年05月20日(金)

「何も思い煩わないで・・あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が・・心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」ピリピ4:6



私達は、ああでもない、こうでもないと、くよくよと思い煩い、平
安に喜んで過ごす時を無駄にしていないだろうか。だが思い煩いの
中にいると、なかなか気づけない。先の事を思い煩うだろうか。思
い煩いは亡霊だ。現実では無い将来の事で、ただただ堂々巡りし、
何も生み出さず、不毛の時間だ。心は暗く落ち込む。

又、「思い煩い」は「心を分割する」との意味がある。マルタが主
をもてなすために、あれもこれもと心が分割しイライラした。何も
しないでいるマリヤに腹を立て、それを許している主まで責めた。
自分で何とかしようとする時、思い煩う。自分の力でするなら、自
分の肩にすべてがかかるので、どうにも対処出来ず、いら立つ。主
に頼らず、自分でする時に思い煩いに支配される。

又私たちは、どうしても人が気になる。あっちにもこっちにも良く
思われたい。誰からも嫌われたくない。主の目でなく、人の目を気
にする時に、どう思われているかが気になって仕方が無い。人のあ
の言葉、この態度と思い煩う事になる。

とにかく思い煩いが起こると、それを主に告げることだ。ありのま
まの思い、思い煩いの原因や気持ち、心の悶々をそのまま主に告げ
よと。心の分割を主に告げて行くと、主が受け止めて下さったと信
じることができ、主がまとめて行って下さる。そして心を平安にし
て下さる。
------------
ああでもない、こうでもない、ではどうしたいのか。出口の無い思
いを巡らしている事に早く気づこう。そして祈りに変えて天に上げ
よう。明日を知っておられる主と語ろう。


2016年05月19日(木)

「しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください」Tサムエル15:30



イスラエルが外敵から圧迫されていた頃、民は、周囲の国々のよう
に強い王を望んだ。主がサムエルにより、その弊害を伝えても、尚
も民は王を求めた。どうしてもという民の強い欲求に、主は王を与
えられた。それがサウルであり、初代の王だった。彼はサムエルか
ら油注ぎを受け、30歳で王位についた。

最初は、自分のような家柄の者がとの思いだったが、段々、自分に
もうまくやれると思うと、主から離れて行った。高慢になり、自分
にも出来ると思ってしまう。主から離れると、必ず人を恐れるよう
になる。「人を恐れるとわなにかかる」の通りに。

ペリシテとの戦いの時に、民は、自分たちが危険な状況になった。
サムエルが全焼のいけにえを献げる事になっていたが、7日待って
も来なかった。民が、自分から離れて行こうとしているのを見て、
サウルは自分でいけにえを献げた。民が離れる事を恐れたためだっ
た。アマレクとの戦いの時も、すべて聖絶せよとの主の命に従わず、
値打ちの無いものだけを聖絶した。

サムエルに不従順の罪を指摘された時も、主の前に罪を悔い改める
のでなく、民の前に面目を立てて欲しいと願った。神よりも優先し
ていたのは人だった。私たちも人を気にし、人の評価や、人からの
賞賛に心が向く時、要注意だ。道をそれてしまう。今、一度、神の
国と神の義、神第一に心を据え、主を見上げて行こう。
------------
人の評価や人の前の自分を気にして思い煩っていないだろうか。人
を恐れ、失敗を恐れるより、主の御言葉をどう聞いているか吟味し
たい。主の力を信じて歩もう。


2016年05月18日(水)

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり・・」エレミヤ29:11



ある人が、子供の頃からの夢の実現と思っていた進路が、不合格で
閉ざされてしまった。夢が破れてしまった。勉強も頑張り、やれる
だけやって、合格を信じていた。それは受け止める事が非常に辛く、
苦しいものだった。しかし、そんな挫折の時に、友人の誘いで教会
へ行く機会が与えられ、主イエスを信じ、救いを受けた。

そして御言葉の学びが進む中で、神には「計画」があり、自分の人
生にも「計画」を持っておられる事を知った。その時、主にあって
新たな希望を持つ事ができた。そして、今度は自らの進路に、主の
御心を祈り求めて行った。その祈りの中で、以前とは異なる道に導
かれた。翌年、合格が与えられ、そして卒業時には資格が与えられ
た。

その後、牧師になるよう召され、仕事を辞して神学校へ導かれた。
卒業後、結婚して、開拓伝道に従事した。それは経済的に非常に苦
しいものだった。子供が次々と生まれ、経済的苦境に立たされた。
その時にその資格が大変役に立ち、バイトによって生活の糧を得る
事ができた。

振り返る時、御言葉通りに、すべての事が神のご計画の中にあり、
挫折によって主に出会う事ができ、委ねて新たな進路を求めた時、
資格が取れる道に導かれ、そして主の働きへと召し出された。挫折
の苦悶の時に、すでにこのご計画が備えられていた。
------------
今のことしか目に入らなく、失望したりつぶやきが出る時、この御
言葉を思い起こしたい。主が既によく知っていて、与えてくださる
将来と希望の途上に今も歩んでいる。喜びをもって歩もう。


2016年05月17日(火)

「イエスは・・シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた」ルカ5:3




ベテラン漁師であったペテロが、前夜不漁であったにもかかわらず、
「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」との主の言葉
を信じ、網をおろした。朝に魚などいるわけはない。そして更に、
昨夜は一匹たりとも捕れなかった。「でも、おことばどおり、網を
おろしてみましょう」と、常識に反してでも、主のその言葉に従っ
た。

なぜ、網をおろすことができたのだろう。まず、漁から戻ったペテ
ロは、舟から降りて網を洗っていた。しかし、その時、群衆は押し
迫るようにして、主から神の言葉を聞いていた。群衆が押し合いへ
し合いでどうにか聞こうとしているのに、ペテロは背を向けて、聞
いていなかった。徹夜の漁で更に獲物もなく、心身疲れ果てて、早
く帰って休みたかったろう。聞く気もなかった。

そんな時、主が舟を少し漕ぎ出すよう頼まれた。舟から群衆を教え
られた。ごった返していた群衆に、主の声もよく通り、聞けた事だ
ろう。そして、ペテロは、自分の舟なので、主が御言葉を語られる
間、仕方なく舟の中にいた。しかし、その主の言葉を聞かざるを得
ない状況で、目の前で御言葉を聞いたこと、それが、「でも、おこ
とばどおり」網を下ろすことに至った。

ペテロが、生ける言葉を聞いた時に変えられたように、私たちも生
ける神の言葉を聞く時に変えられる。そしてペテロに機会が与えら
れたように、私たちにも機会が与えられる。その時に心して耳を傾
けよう。そこからみわざが成されて行く。
------------
聞いていると思っていても、実は主の深いあわれみによって与えら
ている機会だ。「それは初めからわたしがあなたがたに話そうとし
ていることです」日々新たに御言葉に向き合おう。


2016年05月16日(月)

「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった」創世記25:21


私たちの信仰人生には、「なぜ、どうして」と思うことが様々起こ
る。平穏に生活している中で、突如の試練が臨む事もある。余りの
苦しみに、主が見えないように感じる時もあるかも知れない。祝福
して下さるのではないのか、なぜ、こんな苦しみが臨むのか。経済
的苦境、対人関係の苦しみ、仕事の悩み、病気・・様々な問題を通
る。

イサクとリベカ夫婦にも試練があった。40歳の時にイサクはリベ
カをめとったが、リベカは20年間の不妊の苦しみを通ったのだっ
た。不妊は当時、神に呪われているという迷信があり、人々から何
かあるからだと後ろ指を指され、社会的にも辛い状況だった。その
ために、「イサクは自分の妻のために、主に祈願した」とある。

辛い状況にある妻のために切に祈った。主はイサクのその切なる祈
りに答えられた。主は窮する者の祈りに答えて下さる。リベカは双
子を妊娠した。どんなに喜びだった事だろう。ところが、双子の兄
弟がお腹の中でぶつかり合い、争うという悩みが襲って来た。あん
なに求めた子供なのに、リベカは不安でたまらず、そんなリベカが
した事は「そして主のみこころを求めに行った」とある。

私たちも、喜びの日々から、突然わけのわからない不安な状況に陥
ったり、理解不能の事態に遭遇する事がある。そんな時はリベカの
ごとく、主のみこころを求めに行こう。主は祈りに答えて、主のお
心を示して下さる。
-----------
どこでも祈れる、思い迷うとき、思い煩うとき、幼子のように祈ろ
う。御心を求めて祈りながら、思いは静まっていく。固執している
自分の考えから主のお心へと整えられていく。


2016年05月15日(日)

「神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑な さることもありません」ヤコブ1:13


「試み」という言葉は「試練」と「誘惑」のどちらにも使われてい
る。しかし「試練」は神からであり、「誘惑」はサタンからだ。源
が違う。神は、誰をも決して断固、罪に誘惑される事はない。「人
はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるので
す」。

「試練」は神より与えられるものであり、忍耐すべきものだ。そう
する時、必ず一段階成長して行く。試練は成長のためのものだ。
「試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」それは
成長を遂げた完全な者にされるためと。反対に、サタンからの「誘
惑」は、決して受け入れてはならない。断固拒否し、立ち向かうべ
きものだ。それを受け入れるなら罪を犯してしまう。

だから、主が「主の祈り」で言われたように、「私たちを試みに会
わせないで、悪からお救いください」と祈る事は大切だ。誘惑から
守られるように祈る必要がある。サタンの誘惑の巧妙さは、物事が
うまく行っている時に来る事だ。試練の時は、むしろ真剣に主を求
め主に拠りすがる。

平穏な時に人は油断する。順調なので神に頼る必要が無い。物事は
うまく進み、祈りを怠る。自分でやって行けると思ってしまう。こ
こに高慢が来る。誘惑の目的は神から離すことだ。試練は、私たち
を練りきよめ鍛え、神に近づけ成長させるためのものだ。誘惑は拒
絶し、試練は受け入れられるように祈ろう。

・・・・・・・・・・・・・・
人は自分の欲におびき寄せられ、誘惑される来る。その欲にサタン
がつけ込んで来る。しかし、自分で奪い取るのでなく、すべての良
い贈り物は上から来る。光を造られた父から下る。何と平安な感謝
な事だろう。


2016年05月14日(土)

「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この 一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに 前のものに向かって進み・・神の栄冠を得るために、目標を目ざして 一心に走っているのです」ピリピ3:13



「後ろのものを忘れ」とあるが、私たちは覚えるべき恵みを忘れ、
忘れるべき過去を覚えて縛られてしまう。過去の失敗にくよくよし
ているだろうか。思い出しては後悔し、嘆き、あの時はああで、こ
の時はこうでと、繰り返し思い悩む。

又、過去の良かったこと、過去の栄光が忘れられない。今が惨めで
仕方がない。過去のあの時に、この時に戻れたらと、これもくよく
よ考える。思い悩み、煩うなら、「今」「現在」を生きることがで
きない。大切な「今」を流して、捨ててしまう事になる。過去の罪、
恨み、つらみを捨て去るなら、現在を生きる事ができる。

又、パウロには「人間的なもの」きっすいのヘブル人で、熱心なパ
リサイ人・・地位、血筋、家柄それらも後ろのものだった。パウロは、
神の栄冠を得るために、目標目指して、ひたすら走っていると。パ
ウロの目標は、私の主であるキリスト・イエスを更に知ることだ。

信仰人生は、マラソン競技のようで、マラソンはひたすらゴールを
目指して走る。後ろを振り返り〃していたら、一心に前に向かって
走れない。ややもすれば、もう十分と、多くの恵みを頂いたと、そ
こで止まってしまう。しかし、パウロはどれだけ恵まれても、更に
主を知りたいと、主の姿に造り変えられたと願った。どこまでも成
長の途上だと。御霊によって、御霊に導かれて、更に主を知り、成
長へと向かおう。

・・・・・・・・・・・
「それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえて下さっ
た」とあり、主が捕らえていて下さっているから、どんな中でも歩
んで行ける。今、後ろを見ていたら、赦されたのであり、目を前に
向けて歩もう。


2016年05月13日(金)

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません」詩篇51:17




カインもアベルもどちらも、主に献げ物を持って来た。カインは地
の作物から持って来て、アベルは、最良の初子の羊を、自分自身で
持って来た。すると、アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献
げ物は受け入れられなかった。神のえこひいきだったのか。しかし
私たちの神、主にはえこひいきはないと御言葉にある。

受け入れられなかったカインはひどく怒り、顔を伏せた。そのカイ
ンに、主は「なぜ憤っているのか、顔を伏せているのか。あなたが
正しく行なったのであれば受け入れられる」と。正しく行なってい
たなら、顔を上げられるではないかと。

カインが顔を伏せていたのは、正しく行なっていなかったからだっ
た。それをカイン自身もわかっていたから、顔を上げられなかった。
ここで心砕き、悔い改めて、献げ直せば良かった。しかしカインは
心を固くし、その激しい怒りは妬みとなり、何と神に受け入れられ
たアベルに向かった。そしてアベルを殺害してしまった。罪は更な
る罪へと向かう。

ダビデもバテシバとの姦淫で、悔い改めれば良かったが、罪は罪を
生み、ウリヤ殺害へと至る。人は失敗する。しかし悔い改めること
が出来る。神は砕かれた、悔いた心を受け入れて、全き赦しが与え
られる。罪赦されるとは何と幸いな事だろう。赦しが備えられてい
る。心頑なにせず、立ち止まって、悔い改めよう。でなければ更な
る罪に向かってしまう。
-------------
主の十字架によって再び御神の前で顔を上げることができる。何と
感謝なことか。罪を示されたなら自分を正当化するより、赦しを受
けとる平安を選びたい。いつも神の前に顔を上げていよう。


2016年05月12日(木)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩篇55:22


私たちは、何か突如の苦境、困難な事態が起きた時、どうだろう。
パニックになり、不安と恐れに襲われる。そこで主は「恐れるな」
と御声をかけて下さるのだが、不安でたまらず思い煩ってしまう。
あれやこれやと思い煩い、ああでもない、こうでもないと思い煩う。
そして勝手にシナリオをどんどん描き、最悪の結果を予想し、ドー
ンと落ち込む事になる。

「思い煩うな」との御言葉を何度も何度も聞き、よく知っている。
それで思い煩ってはいけないと頑張る。が、思い煩わないようにし
ようと、すればするほど、ますます思い煩いに落ち込んで行く。幾
ら頑張っても出来ない。自分の信仰はどうなっているのかと不安に
なる。御言葉は、あなたの思い煩いを神にゆだねよと言っている。
自分で何とかしようとするのでなく、神に明け渡せと。

今度は、この不安と思い煩いを委ねようとするが、委ねられない。
「委ねた〃」と思い込もうとするが、不安と恐れはすぐに戻る。幾
ら頑張っても委ねられない。自分が握っている。「主は、あなたの
ことを心配していて下さる」、主の愛に、主の真実、主の配慮に、
思いを馳せよう。

今までどんなに真実に関わり、愛し続けて下さっただろう。あの時
も、この時も。しっかり思い起こしてみよう。そして委ねる事がで
きない事を主にありのまま告げて、祈って行こう。主は必ず助けて
下さる。
----------
不信仰でいつも見えるところで動揺する弱い者であっても、主を知
り、主がしてくださったことを経験によって知っている者だ。思い
煩う古い自分を頼らず、はるか主を仰ぎ祈ろう。


2016年05月11日(水)

「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え」出エジプト14:15





モーセに導かれて、イスラエルの民は、出エジプトを果たした。し
かし、又、頑なになったパロは、自ら軍勢を率い、えり抜きの戦車
600とエジプトの全戦車を率いて、民を追跡した。追いついて、どん
どん近づいた。民は、迫り来る軍勢に恐れ、主に叫んだ。そしてモ
ーセにかみついた。

なぜエジプトから連れ出したのか、荒野で死なせるためか、エジプ
トにいた方が良かったと。その時にモーセは、「しっかり立って、
きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」と言っ
た。「主があなたがたのために戦われる」と。その時に主はモーセ
に言われた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエ
ル人に前進するように言え」と。

モーセは、ずっと主に向かって、叫び祈っていた。目に見えるとこ
ろと、人間的思いでは、前進するなら、海に溺れて死んでしまうこ
とになる。しかし、主の言葉に従って、信仰によって前進しようと
した時に、海が分かれた。従おうとする前ではなかった。追跡して
来た軍勢は海に飲み込まれた。

その結果、民は、主がエジプトに行なわれた御力を見、主を恐れ、
主とモーセを信じた。従って行く時に、主の御力を経験し、更に信
じて行ける。そして主の栄光を拝する。見えるところが、自分の思
いがどうであろうと、主の導きに従う時、主を経験して行く。
-----------
祈り求めている約束のものは目の前の安心だけだろうか。現実のど
んな状況の中にも主を見て、主から励まし慰めを受け取る信仰を与
えられたい。主は与えてくださる。


2016年05月10日(火)

「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」詩篇55:22 



あなたには、今、心配、重荷があるだろうか。主に委ねよと言われ
ている。主は、私たちが全てを委ねる事を願っておられるが、無理
やりに従わせられない。私たちが、自らの自由意志で、自分自身と
自分の人生を委ねるように招いておられる。人は誰しも、結局のと
ころ、もし主に献げなければ、誰かにコントロールされ、何かに支
配される事になる。

主以外の、他のものに支配を任せることになる。主を礼拝しないな
ら、必ず代わりの何かを礼拝する。それは富であったり、人や自分
自身であったり、自分の考えやプライド、又、野心や肉の欲望であ
ったりする。そして、その支配されるものに縛られる事になる。罪
にも一瞬の快楽がある。しかし、主以外のもので、心を満たそうと
しても、決して満たされる事はない。

何かに心を囚われるなら、ますます心は渇き欲求不満になる。そこ
には虚しさと失望だ。主に委ねる事はいつでも祝福だ。問題が起き
た時に、主に委ねるなら、平安と交換される。委ねるなら必ず平安
だ。なぜなら問題を主に渡すので、問題を手放す事になる。手放す
ので、主は自由に働かれ、主が御心を成される。

その時、自分で何とかする必要がない。自分の考えを押し通したり、
人を思い通りに動かす事もない。思い煩う必要もなく、何と平安だ
ろう。そして委ねた事は、主が成し遂げて下さる。私たちは更に主
への信頼が増す。
--------------
重荷を手放せないのは何故か。主が祈りを聞かれたとの確信や背後
で主が働かれることへの信頼が見えなくなっているからだろうか。
それでも主は心配してくださっている。


2016年05月09日(月)

「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」Tサムエル15:22

サウル王は、祭司しか献げる事のできないいけにえを、自分で勝手
に献げてしまった。又、アマレクを打ち、すべてのものを聖絶せよ
との命令にかかわらず、最も良いものを惜しみ、値打ちの無いもの
だけを聖絶した。そしてアマレクに勝利した事で、自分のための記
念碑も建てた。しかしサウルのした事は、罪だった。占いの罪、偶
像礼拝の罪であり、主の御前に大きな罪であった。

人間的に見れば、7日間も遅れたサムエルも悪いのではないか。ま
して民が離れて行こうとしている中、すぐにいけにえを献げた方が
良いのではないか。むしろサウルは立派な事をしたのではないかと、
思えてしまう。サウル自身、良い事をしたとの自覚しかなかったろ
う。しかし、主が言われた事を行なう事が大切で、重要な事だ。

自分が良いと思うこと、又、主が喜ばれるであろうと、「自分が」
思う事をするのではない。主の示しより、自分の考えの方が良いよ
うに思える。が、それが、「主のことばを退けた」、主のことばを
捨てた事になってしまう。私たちもどうだろう。主が喜ばれるであ
ろうと、「自分が」思う事を行なってるだろうか。

主が一番喜ばれる事は、御声に聞き従うことであり、そのためにま
ず祈り、御声を聞く事が必要だ。御霊が助けて下さる。主が告げら
れた事に従って行く時、それも御霊が助けて下さる。大きな祝福が
備えられている。
----------
主に対する聖い畏れがなければ、いつの間にか自分が主の前に立ち、
自分の都合を優先してしまう。主は結果よりも動機を見ていてく
ださる、主を信頼する心、主を愛する心で御言葉に従おう。


2016年05月08日(日)

「それであなたがたもまた、今晩ここにとどまりなさい。主が私に 何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう」民数記2 2:19


預言者バラムは、モアブのバラク王から、イスラエルを呪うように
と頼まれた。その時に、主から、「彼らと一緒に行ってはならない。
イスラエルを呪ってはならない。」との示しを受けた。主の御心は、
はっきりしていた。しかしバラムの心の奥に、金銀への欲望があっ
た。それを捨てる気もなかった。

それで尚も頼まれた時に、「主が私に何かほかのことをお告げにな
るかどうか確かめましょう。」と言った。主の御心がはっきりして
いるのに、他の何を確かめる事があるだろう。御心に従うことがあ
るだけだ。しかし、バラムは建前は主の御心で、本音は自分の欲望
充足だった。その足場が捕えられ、ずるずると誘惑にはまって行っ
てしまう。

主はバラムが行くと言うので、モアブへ行く事を許されたが、関与
された。主の使いが抜き身の剣を手に持って、道に立ちふさがった。
ろばはうずくまってしまい、その時主がバラムの目のおおいを取ら
れた。彼は主の使いが剣を持って、立っているのを見て、ひれ伏し
て拝んだ。「あなたの道がわたしとは反対に向いていた」と。

結局、バラムは主に従って、イスラエルを祝福した。しかし後にイ
スラエルに殺されてしまう。バラムは、心の奥に金銀への欲望があ
ることを、主に隠さず、本音を認めて祈ればよかった。そうするな
ら、主は必ず正しい道へ導いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
時に、自分の思いが強く、御心と反対方向に進んでしまう。主がそ
れに立ちふさがって下さるのは、あわれみだ。御心と言いつつ、欲
を遂げようとしている事に、気づかせて下さるのは、大きなあわれ
みだ。


2016年05月07日(土)

「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はそ の信仰によって生きる」ハバクク2:4


「高慢」とは、外見の尊大な偉そうな態度と思いがちだが、神では
なく、自分自身を絶対とする態度のことだ。神ではなく、信じるの
は自分だけだ。自分の価値観、自分の考え、自分の感覚を信じてい
る。自分が神となり、自分以外のものは信じない。そうであれば、
自分が変わらなければなどとは、全く思っていない。

多くの人は、自分は有能だが、周囲が認めてくれない、環境が悪い
から成果が上がらないと思っている。環境が悪い、自分を認めない
周囲が悪いとなる。「心のまっすぐでない」とは、心が屈折してい
る、曲がっていることだ。物事を悪く、ネガティブに受け取り、心
を腐らせてしまう。

主と御言葉を見続けることを捨てて、現状でのみ判断し、ひねくれ
たり、又、失望して行く。そうするなら信仰が働かない。すると自
分の感情に飲み込まれ、ますます屈折する。反対の方向へ向かって
しまう。主は、そこで信仰に立てと言われる。すぐに主のもとへ行
こう。

落胆した時は、沈んでしまうのでなく、そのままの状態を、まず主
に告げよう。「わたしを呼べ」と言われる通りに、主を呼ぼう。
「落胆しています」「信仰持てません」「主が見えません」と告げ
よう。それは主に向く事なので、そこに主が働かれる。すると心が
変わって来るから不思議だ。

続けて「助けて下さい」と祈ると、信仰が与えられる。ご計画があ
る事、災いはなく、平安と将来と希望のためである事、万事益とさ
れる事、愛されている事・・思い起こされて来る。大丈夫だと思えて
来る。信仰もって状況に対応できる。

・・・・・・・・・・
自分で動こうとする途端、すべての荷は自分の肩にかかり、何とか
しなければと重荷に暗く沈み込んでしまう。思い煩いでいっぱいに
なる。主が飛んでしまっている。原因は自分でしようとしていると
ころにある。「神様」とまず主を呼ぼう。


2016年05月06日(金)

「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」ハバクク2:3



ハバククは懸命に祈る。「いつまで聞いて下さらないのか。救って
下さらないのか。ながめておられるのか」、闘争があり、裁きが曲
げられていると。その背景はユダのヨシヤ王は主に従おうと、偶像
礼拝を断ち切り、次々宗教改革を行なった。イスラエルはすでにア
ッシリヤに滅ぼされ、南ユダはアッシリアとエジプトに挟まれてい
た。

そんな時、エジプトがアッシリアに戦いを挑むが、ユダを通らねば
ならない。ユダとは戦う気は無かったが、ヨシヤ王はエジプトを迎
撃し、戦死してしまう。あれほどの信仰深い王が、あえなく死んだ
事に、なぜ、どうしてとハバククは混乱し大きく動揺する。そして
主は、強暴なバビロンを起こすと言われる。

ハバククは、悪者が正しい者を飲み込む時、なぜ黙っておられるの
かと訴える。彼は真剣に問い祈り続けた。「私は見張り所に立ち・
・主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」と。主は
答えられた。「おそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅
れることはない」。神の時は、私たちの時と違う。

私たちは、遅い、何も動かない、いつまで待つのかと焦る。しかし
神にとっては、遅れていない。それは必ず神のタイミングで来る。
だから待てと。そして「正しい人はその信仰によって生きる」。
見えるところではなく「信仰によって生きよ。わたしを信じてつい
て来よ」と。

私たちもそうだろうか。目の前の問題に「いつまでですか」との問
いに「おそくなっても待て。必ず来る。遅れることはない」「信仰
によって生きよ」と言われている。
-------------
動かない事態の前では、行き詰まり、やがて諦めとなるが、つぶや
かず主の時を待てるよう、信仰が弱らぬよう祈ろう。今は見えない
その時を「しかし、私は主にあって喜び勇み」待とう。


2016年05月05日(木)

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています」使徒27:25




船でイタリヤへ行く事が決まった時、パウロたち囚人は、百人隊長
に引き渡された。途中で季節的に、航海は危険になり、パウロは中
止を忠告した。しかし、百人隊長はパウロの言葉よりも、航海士や
船長の方を信じ出航した。パウロの言った通りに、暴風が吹き荒れ、
どうにもならず流されるままになった。

激しく翻弄される中で、人々は身の危険に、不安と恐れに襲われ、
最後の望みも絶たれようとしていた。パウロは人々を励まし、命を
失う者は一人もないと、神の言葉を告げる。紆余曲折ありながら、
パウロの言った「頭から髪一筋も失われることはない」の通りにな
った。最後は「みな、無事に陸に上がった」。神の言葉の通りに成
就した。

パウロは絶体絶命に見える瀬戸際の中で、目に見える状況ではなく、
神の言葉の方を信じた。信仰により、人々に告げる事ができた。
主が、湖上の小舟で熟睡中、嵐にほんろうされる弟子たちの箇所が
ある。主の「黙れ、静まれ」の一言で、大なぎになった。その時に
「信仰がないのは、どうしたことです」と言われた。

私たちも人生の嵐に会うと、パニックになり怯え、恐れに飲み込ま
れてしまう。その恐れと不安から逃れられない。主への信仰だけが
恐れと不安を消し去る。神の言葉を信じていないところに原因があ
り、そこを認めて、助けられるよう祈ろう。御言葉を信じる時に、
平安が臨む。
------------
日々遭遇する小さな波や風の中でも、すぐに平安は失われ不信仰を
知らされる。悔い改め、砕かれ主への信頼を手にしていく。目の前
のピンチに平安であり、他者をも励ます力は御言葉への確信だ。


2016年05月04日(水)

「また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった」マタイ13:7




種蒔きのたとえで、種が道ばたと岩地と、いばらの中と良い地に落
ちた。良い地に落ちた種だけが豊かに実を結んだ。いばらの中に落
ちた種は、いばらが伸びて、ふさいでしまい、実を結ぶ事がなかっ
た。つまり、「この世の心遣い」と「富の惑わし」が御言葉をふさ
いでしまうと。

心が満たされない時、「この世」を握り締め、この世にしがみつく。
人に良く見られたい、認められたい、評価されたい、良い人であろ
うとして、人にしがみつく。又、満たされないので、心を満たそう
と富を握りしめる。富が幸せを与え、夢を実現させてくれ、生活を
保障してくれると思ってしまう。心の満たしを求めて、ますます目
に見えるものに固執して、放さない。そうしていて気づかない。

自分にとっては命なので、手放す事などとても出来ない。しかし、
神はあわれんで下さる。あわれみの主だ。神は見捨てられずに、導
かれる。試練を与えられる。愛する者を懲らしめられる。懲らしめ
は神の愛だ。辛く苦しい状況の中で、初めて真剣に主を求め、御心
を求め、自らの状態も探り考える。

自分は、神以外の何に固執し、握り締めて放さないのか、普段はほ
とんど気づかずにいる。試練によって、主に真に向き合い、自分の
姿に気づかされ、明け渡して行けるようにされる。懲らしめは、神
の方へ心を向ける愛だとわかる。
---------
痛い、苦しい中で主に訊ね求める時は大切だ。自分の中の発芽を妨
げるいばらを認めることで、日々主に頼って歩むしかないとわかる。
主は新たな御言葉で励ましてくださる。耕された者へと進もう。


2016年05月03日(火)

「弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、『あれは幽霊だ』と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり叫び声を上げた」マタイ14:26





主は、弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、先に向こう岸へ向かわ
せられた。すると弟子たちは、深夜の真っ暗闇の中で、向かい風で、
波に悩まされた。漕ぎあぐね、悪戦苦闘する中で、突然向こうの方
から、ぼおっ〜と人影みたいなものがこちらに向かって来る。弟子
たちはびっくり仰天し、「幽霊だ!!」との恐怖に襲われた。

今、私たちを苦しめる波や風があるだろうか。今、試練や問題、悩
みがあるなら、それは、主からのものだ。又、目の前に、苦しい対
人関係があるだろうか。又、親しい友の裏切りがあっただろうか。
それは主からのものだ。主は環境を支配しておられる。又、経済的
苦境があるだろうか。それも主からのものだ。病はどうだろう。又、
突然の難しい問題に出くわす。それらも主からのものだ。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。すべての
状況に「しっかりしなさい。わたしだ」と言われる主を見て行く時、
主に視点を置く時に、「恐れることはない」との御声が聞こえて来
る。状況だけを見ているなら、その問題は、恐ろしい幽霊に見える。
ただただ不安と恐れ、思い煩いで、うずくまってしまう。

しかし状況から目を離し、主を見上げ、「わたしだ」との御声を聞
く時に、心が変わる。状況や相手の問題でなく、主からのものであ
れば、主が導かれる。主に自分自身と状況を明けけ渡して行く時、
風がやむ。まず心の波風を平安にし、導いて行って下さる。
------------
問題の中に主を見ることができるなら、苦しみ辛さの中でも前を向
いていられる。この状況で何を学ばされているのでしょうかと祈れ
るからだ。そして「恐れることはない」の主の声を聞ける。


2016年05月02日(月)

「耳のある者は聞きなさい」マタイ13:9



「道ばたに落ちた種があった」と出て来るが、種である神の言葉が、
耕地でなく、道ばたに落ちた。もし大切な種なら、道ばたに落ちた
まま放っておくだろうか。もしバッグや、貴重品、大切な物が道ば
たに落ちたら、どうだろう。道ばたにそのまま放置するだろうか。
そんな事はしない。もし放っておくなら、それは捨ててもよい物、
どうでもいい物という事になる。

道ばたの心は、神の言葉をそんなに大事なものとは思っていない事
になる。気に留めていない。関心が無い。だから「悪い者が来て、
その人の心に蒔かれたものを奪って行く」と。悪魔が来て、信じて
救われることがないように、心から御言葉を持ち去ってしまう。心
に入らないという事は聞かなかった事になってしまう。きれいに忘
れ去ってしまう。実を結ぶ事がなく、自分が変えられて行く事もな
い。

主がエジプトの奇跡で、激しい雹を降らせるから、今すぐ野にある
すべてのものを避難させよ、死んでしまうからと言われた。その時、
主の言葉を恐れた者は、しもべ達や家畜を家に避難させた。しかし、
主の言葉を心に留めなかった者は、しもべ達や家畜をそのまま野に
残した。主の言葉を畏れるなら、必ず言葉を受け取り、行ないが生
まれる。

私たちの心の態度はどうだろう。御言葉を軽んじているだろうか。
神の言葉には力がある。愛があり、真実があり、御言葉は、神のわ
ざを成し遂げて行く。祈って、御霊に助けられて、御言葉を受け取
ろう。
-----------
御言葉の価値をサタン程に知っているだろうか。御言葉を受け入れ
従うときに結ぶ実の素晴らしさを知りつつ歩もう。いのちある種、
かけがえのない宝を私たちは持っている。


2016年05月01日(日)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくだ さる」詩編37:5


ある人が、対人関係で、非常に傷つく事態が起きた。相手が赦せず、
思い起こす度に、怒りが湧いた。自分はクリスチャン、赦さねばな
らないと思うのだが、心は裁きと憎しみが渦巻いた。しかしとがめ
があり、何とか赦そうとし、赦そう、赦そうと頑張るのだが、どう
にもならなかった。

「赦しなさい」との数々の御言葉もわかっているのに、思い出すと
腹が立ち、そして、今度はできない自分を責め、自己嫌悪に陥り、
惨めになった。「赦せますように」と祈っているが、赦すことがで
きない。段々、「何で、あの相手のために、自分がこんなにも苦し
まなければならないのか」と、別の怒りまで湧いて来る。

楽しい時も、その思いがよぎった途端、重苦しい気持ちになる。こ
んな毎日は嫌だと、主の御前に出て、「どうしてこんな事になって
いるのですか!」と自らの怒り、相手への恨み、自分の惨めさ、辛
さ、平安の無さ・・心の底を延々、ハンナのように主にぶちまけた。

すると不思議に、心がすう〜っと落ち着き、主に受け止められてい
るという、暖かい感覚が来た。主を感じた。そして祈っていると、
祈りは祈り、赦しは赦しと、別もので、自分の力でしようとしてい
た事に気づかされた。祈った端から自分が動き出していた。

主にそんな自分を明け渡す事ができた時、初めて心に安堵が来て、
主が成し遂げられると信じることができた。

・・・・・・・・・・・・
祈って、御心を行なおうとするのだが、自分の力でしようとしいて、
なかなか気づかない。祈っているだけに気づかない。しかし、壁に
ぶち当たり、気づかせられる。幾ら頑張っても出来ないところを通
らせられる。そして明け渡しへと導かれる。