2016年08月31日(水)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」ヤコブ1:22



「主よ。お話しください。しもべは聞いております」と、サムエル
は真摯に主に向かった。「真に聞く」とは、「従う」事と一つだ。
心の耳で聞くなら、必ず従うという行動になって表れる。単に物理
的に聞こえている事と、心の耳でしっかり聞くのは、全く別のこと
だ。例えば、すぐ近くで「火事だー」との緊迫した声を聞いたなら、
即、何らかの行動を起こすのではないか。何もしなければ、命に関
わってしまう。

出エジブトの箇所で、モーセは主から語られる。エジプトに、今ま
でにない激しい雹を降らせるから、すべての野にあるものや家畜を
避難させるようにと。さもなければ、野にいる人も家畜もみな雹に
より死んでしまうと。その時に、主の言葉を恐れ、主の言葉を信じ
た家臣たちは、しもべと家畜たちを避難させた。

しかし主の言葉を恐れず、心に留めなかった家臣たちは、しもべや
家畜をそのまま野に残した。無視したのだ。そして主の言葉の通り、
極めて激しい雹がエジプト全土に渡り、雷や火も降った。人や獣に
至るまで、草も木も、野にあるすべてのものが打たれた。その通り
になってしまった。はっきり明暗が分かれた。

私たちも、主の言葉を恐れて心に留めるのか、心に留めず無視する
のか、どちらかの態度を取っている。御言葉に真剣に聞き、心に留
める事が大切だ。そうする時、行動へと進んで行く。
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良い聞き手でも問題に直面していなければ、すぐに忘れる聞き手で
はなかったか。従おう、従えるようにと御言葉を見つめて離れない
でいたい。従う時に生まれつきの自分も見せられ、主に頼らされる。


2016年08月30日(火)

「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです」ローマ4:5




御言葉は、神は不敬虔な者を義と認めて下さる方だと言う。普通の
考えなら、敬虔な者が義と認められる。敬虔というのは、信仰深い
ことであり、主を深く敬うことだ。主を深く敬い、品行方正な人が
義と認められるのは、何となく納得が行く。だが、不敬虔というの
は、罪深く、自分が醜く、汚れていて、良いものが何も無い状態だ。

それが義と認められるという。そんな事があるのだろうか。通常の
価値観なら、思いもよらぬ事だ。例えば雇用関係なら、時間と労力
を提供して、賃金という報酬を得る。労働力に見合う対価が支払わ
れる。しかし、何の労働もしない者が、賃金をもらえるなら、これ
は報酬でなく、プレゼントだ。

あのぶどう園の労務者の箇所でも、早朝の者は1デナリの契約を交
わし、1日働いた。そして1デナリの賃金をもらった。これは給料
であり報酬だ。しかし5時に雇われた者も、1時間働いただけで、
1日分もらった。もうほとんど片づけに入る時刻だ。主人は惜しげ
もなく与えた。主人の側の気前良さによることだった。

これは恵みであって、私たちも同様だ。罪しか犯せず、正しい事な
ど何一つ出来ない私たちを主を信じるなら、正しい者とみなし、認
めて下さるのだ。主十字架の贖いによることだ。失敗した時、サタ
ンの攻撃を受ける時、主が不敬虔な者を義と認めて下さる方であり、
信仰によって救いが与えられる事を覚えよう。
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信仰が義というと、それなら敬虔にならなくてはと思ってしまうが、
ただ主の与えてくださる恵みを信じ、心から感謝し受けることを主
は喜んでくださる。またそれしか出来ないと者と覚えていたい。


2016年08月29日(月)

「ある足のきかない人がすわっていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いたことがなかった。この人がパウロの話すことに耳を傾けていた」使徒14:8 



ルステラの野外での事だった。生まれて一度も歩いた事のない、足
なえの男性がいた。彼は、パウロが語る御言葉にじっと真剣に耳を
傾けていた。彼は生まれてこのかた、歩く事に関して、全くの無力
で、どうする事もできなかった。パウロは熱心に聞いている彼に、
「いやされる信仰」があるのを見て取った。

そのためパウロは「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。
彼が与えられていた信仰を用いて、従うように求めた。すると彼は
飛び上がって、歩き出した。何と、生まれて一度も歩いた事のない
人が、飛び上がって歩いた。自分に何の力が無くても、主の御声に
従う時、御霊が力を与えて、成し遂げさせて下さる。

ある時、主は片手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と言われた。
言われた通りに、今まで一度も動かした事のない手を伸ばすと、手
は直って、もう片方の手と同じようになった。信じないなら、はな
から手を伸ばそうとはしない。無意味だからだ。彼は信じたから手
を伸ばそうとした。その時に力が来て、奇跡が起きた。信仰を行動
に移した時だった。

彼らは、もういっさい何のすべもなかったから、主やパウロの言葉
を信じてすがりついた。完全無力のところに、主の奇跡が現れる。
私たちも今までどうにも出来なかったところに働いて下さる。赦す
ことか、和解か、不可能な分野か、主の御声を聞いて従う時、かつ
て経験した事がないみわざを見る。
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主にすがる思いで期待し、御声を聞き従おうとする信仰を主は決し
て見過ごされるようなことはない。その思いに目を留め、今、一番
必要な声をかけてくださる。御声を聞いたらなら立ち上がろう。


2016年08月28日(日)

「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには 時がある」伝道3:1 


万事において「神の時」がある。祈りが答えられる最善の時があり、
私たちのなすわざにも、最善の時がある。神の御心にかなった、神
が動かれる「時」がある。そうであれば、信仰人生において、神の
時を待つことが非常に重要だ。待つことも学びだ。私たちは、なか
なか待てない。じっと待つのが苦手だ。行動している方が安心でき
る。

ただ待つことは、不安や焦りとの戦いだ。アブラハムも待てないで、
失敗してしまった。神の約束を待てず、自分の力で、肉で、動いて
しまい、イシマエルを生み出してしまった。エリメレクとナオミも、
飢饉の時に、主を待つことをせずに、家族の幸せを求めて、偶像の
地モアブに移住してしまった。

しかし多くの苦しみを刈り取った。今、待つことが御心なら、「あ
なたがたの確信を投げ捨ててはならない。それは大きな報いをもた
らす」「神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために
必要なのは忍耐」だ。

そして反対に、神の時が来たなら、即、行動することが大切だ。ア
ブラハムがイサクを献げるよう言われた時に、「翌朝早く」すぐに
行動した。ぐずぐずしていると、肉の思いに妨げられ、御心が行な
えなくなってしまう。今、ぐずぐずしているなら、今すぐ踏み出そ
う。
又、神のなさることは、「すべて」時にかなって美しい。それは正
しいだけでなく、「美しい」と。神が、時にかなってなさる事には、
そこに感動がある。

・・・・・・・・・・・
主のなさる事はいつも時がピッタリだ。遅くも早くもなく、ジャス
トタイミングだ。自分で動けば、主がされた事がわからない。神を
仰ぎ、時を待つ時に、何より自分でなく、主がなされた事がわかる。
そこに信仰があり、喜びがあり、恵みがあり、そして主に栄光を帰
して行く。


2016年08月27日(土)

「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけで なく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」ピリピ1:29



私たちはともすれば、苦しみは経験せずに、祝福だけを賜わりたい
と願ってしまう。しかし、キリストを信じる信仰を与えられた時に、
キリストのための苦しみをも賜ったと言っている。信仰と苦しみは
セットだと。この世の宗教は、家内安全、交通安全、商売繁盛、無
病息災、五穀豊穣・・であり、良い事だけを受け、悪い事が起こらな
いための信心だ。

悪い事が起きるなら、信心の意味などない。しかし、主が私たちに
与えて下さる賜物は苦しみ、試練もあると言っている。そんな賜物
は避けたいと思うのが私たちかも知れない。しかし、キリストのた
めの苦しみがある、と言うことを最初から覚えておく事は有益だ。

家族からの迫害があり、学校や職場で嘲られたり、仲間はずれにな
る事があるかも知れない。迫害や苦しみは、悪なのではなく、神か
らの「贈り物」だと言っている。それは決して神からのバチや、怒
り、報復ではない。私たちは、苦しみは避けたいし、そこから逃が
れたい。しかし逃げて先送りにすると更に問題が大きくなる。

受け入れる事が最善だ。相手に贈り物をする時、どうだろう。相手
にとって良い物、ふさわしい物を選ぶ。試練は、神が私のために選
ばれた私に良い、ふさわしい「贈り物」だと言っている。生まれつ
きの価値観と何と違う事だろう。肉の価値観、物差しで見る時、苦
しみは忌むべきものでしかない。だが御言葉を通して、主の価値観
で見る時、それは平安と感謝とされる。

・・・・・・・・・・
この世では、順風満帆が善との価値観だ。悪い事が起これば、何の
ための信仰かになる。しかし、主はすべての事が感謝だと言われた。
無駄な事は一つとしてなく、目的と計画があり、意図がある。主の
愛に包まれている。どんな中も、この主を信じ、主と共に歩めるこ
とが幸せだ。


2016年08月26日(金)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」マタイ11:28 




主は、絶えず「わたしのもとに来よ」と招いて下さっている。その
ままで今すぐに「来よ」と。私たちは、このままでは行けないと思
ってしまう。まず人を訪ねる時は、どうだろう。みやげが・・と思
い、頂き物をすると、お返しが・・と考える。

主に顔向け出来ない事をしてしまうと、行けなくなり、ちょっとは
ましになって、少しは善い事をしてから、立ち直ってから、主のも
とへと思う。罪を犯すと、こんな自分はダメ、受け入れてもらえな
いと思い、ますます主から遠ざかる。どうだろう。御言葉は頭では
わかるのだが、良い子が受け入れられ、悪い子はダメという、根深
い価値観がないだろうか。

ある人が、子供が不登校になり、悩みに悩んだ。なだめたりすかし
たり、しかし何をしても行こうとしない。親として出来る事はしよ
うと、学校関係者との関わりに、時間と労力をかけ努力した。だが
何の変化も無い。心身共に疲労蓄積で、もう疲れ果てた。出来る事
は何もないとギブアップした時に、「疲れた人はわたしのもとに・
・休ませてあげます」の言葉が心に深くしみた。

それまでも祈っていたが、主のもとに行き、いっさいがっさいを告
げた。その時、自分が子供を受け入れていない事を示され、心から
悔い改めた。初めて真の平安と安堵に満たされた。主は真に休みを
下さった。今すぐに、主のもとに行こう。主は休ませて下さる。
------------
救われ主を知っている自分に疲れや重荷はないと思いたいが、いつ
でも素直にこの御言葉を受け取りたい。疲れています、委ねられま
せんと主に荷を預け、また立ち上がろう。


2016年08月25日(木)

「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自 分より先に向こう岸に行かせ・・」マタイ14:22


パンの奇跡の後、すぐに弟子たちは無理やり舟に乗せられた。主が
同伴されないので、弟子たちは気が進まなかったろうか。それで強
制的に行かせられた。主はその間、「祈るために、ひとりで山に登
られた」。その祈りは弟子たちのためだった。

私たちも、嫌だなあ、したくない、関わりたくない、動きたくな
い・・渋る時に、主は強いてさせられることがある。振り返ってどう
だろう。渋々従った、嫌だけれど従った、したくないが行なった・・
そこに大きな祝福を何度経験した事だろう。肉はいつも渋る。主が
強いてさせて下さる事は、実は恵みだ。

その時に、主は弟子たちにされたように、執り成して下さっている。
そして弟子たちは、その舟で嵐に見舞われる。ベテランで経験豊か
な弟子たちでさえ恐怖を感じた、暗闇の中での大嵐だった。このま
ま行けば転覆だ。丸ごと主が飛んで、パニックだ。彼らは信仰によ
らず、自力で奮闘していた。

恐怖のため、向こうから来る主を幽霊と間違える。「パンのことか
ら悟るところがなく、その心は固く閉じていた」からだった。主が
湖の上を歩くなどと思っていない。怯えて恐怖の叫び声を上げる弟
子たちに「わたしだ。恐れることはない」と。どんな時にもわたし
が共にいると。

主を迎え入れた時に、風は止んだ。彼らは驚き、主を拝んで、「確
かにあなたは神の子です」と言った。心が固く閉じている者に、強
いて舟に乗り込ませ、結果、生けるまことの神の子であることを現
わされた。

・・・・・・・・・・
振り返って、強いてであったが、祈って、従った時に、素晴らしい
祝福を何度も経験した。取り扱いを受けて、主を知って行った。人
生途上いつも、絶えず「しっかりしなさい。わたしだ。恐れること
はない」と共におられる。何と嬉しいことだろう。


2016年08月24日(水)

「蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食 べてしまった」マタイ13:4

 

道ばたの心なら、カラスが種を取って行ってしまう。カラスは賢い。
食物を見つけると、真っ直ぐ狙いを定めて確保する。ゴミ袋の中で
もピンポイントで捜し出す。敵であるサタンも同様だ。非常に狡猾
で、聞いた御言葉が心に受け入れられないままなら、即、奪い去る。

心に蒔かれた御言葉の種が、芽ぶいて、深く根ざし、実を結ぶこと
をさせない。実を結ぶならどんなに主の栄光を現して行くだろう。
そのため御言葉をどんどん奪って行く。聞かなかった事と同じにな
ってしまう。

御言葉を心に受け取る事は大切だ。土の薄い岩地は、薄い土がある
ので、一応種は落ちる。キリストは素晴らしい、聖書は真理だ、信
仰は良いことと喜ぶのだが、日が上ると焼けて、根が無いために枯
れてしまう。つまりは喜んで受け入れるが、しばらくの間だけで、
信仰のための困難や迫害が起こると離れ去ってしまう。

主に従って行くには犠牲が必要だ。何も無い時は良いが、その犠牲
が必要になると、身を引いてしまう。そこまでして従って行く気は
ない。つまり、自分に都合の良い間はいいが、自分を変えてまでと
は思わない。土中に根深い自我がある。

逆に、犠牲を払い、御言葉に従って行く時に、この自我が砕かれて
行く。そして、どんどん土中深く根ざし、豊かな実を結んで行く。
今、目の前に従うべき事を示されているだろうか。祈って従おう。

・・・・・・・・・・・
御言葉を聞いているので安心してしまうが、聞く時の態度が大切
だと言っている。自分に関係無いと聞くなら、どれだけ聞いても
心に入らない。すると御言葉を行ない、実を結ぶ事ができない。自
分の事として、御言葉に向き合って行く時に、主を知り実を結ぶ。


2016年08月23日(火)

「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります』」ヨハネ11:23



信仰とは何だろう。信じる事が大事なのだと、何でも良いから、信
じ込めば良いのではない。それなら「いわしの頭も信心から」にな
る。聖書のいう信仰は、主の御言葉に土台があり、その御言葉を信
じることだ。ラザロの箇所で、主が駆けつけた時に、マルタに「あ
なたの兄弟はよみがえります」と明言された。

しかし、マルタは教理的に理解し「終わりの日に、よみがえること
を知っています」と答えた。すると主は「わたしは、よみがえりで
す。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きる・・」「こ
のことを信じるか」と言われた。主ご自身がよみがえりでいのちな
ら、ラザロのよみがえりは可能ではないかと。

しかし、マルタもマリヤも、主の言葉とはいえ、ラザロは死んで、
更に4日にもなる。死んだ上に腐敗して来る。それがよみがえるな
どと、信じる事が難しい。病気ならば、主が治して下さると信じら
れる。しかし死んでしまっては・・。主が、よみがえりでいのちだ
としても・・。墓へ行き「その石をとりのけなさい」と言われた時
も、「もう臭くなっています」と。

しかし「もしあなたが信じるなら、神の栄光を見ると、言ったでは
ないか」と。私たちも、信仰人生で、非常に難しい状況に陥る事が
ある。もう不可能に見える事がある。しかし普通の状況では、現わ
し得ない神の栄光を、神が現わして下さる時だ。奇跡のわざをして
下さる。その時に語られる、神の言葉を信じて行こう。
-------------
病は癒されても、死んでしまった者が生き返るとは思えなかった。
私たちの理解には限界があるが信じるなら栄光を見るとの御約束は
真実だ。固定観念の重い石を取りのけよう。


2016年08月22日(月)

「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」ヨハネ15:5


ある宣教師が、遣わされた地で懸命に働いた。当初は、宣教への大
きな期待と喜びで一杯だった。数年間よく燃えて労したが、その内
に、目に見える成果が無いと、失望し落ち込んだ。又、全く自分の
思い通りでない状況に、焦り、イラ立ち、不安になり、思い煩った。
次々と様々な方法を試行錯誤するが、結果が無い。

年数の経過と共に、とうとう燃え尽き症候群に陥った。その落ち込
みのどん底で、責めず、さばかず、愛し慈しんで下さっている主に
出会った。そしてその時、自分の姿がはっきり見えた。今まで、主
のために一生懸命であったつもりが、実はそうではなく、自己満足
のためだったと。自分の充足感に突き動かされて、自分の力と自分
の方法で懸命に動き回っていた。

主のためと言いつつ、実は自分のためであったのだ。だから成果が
出たら喜ぶが、成果が無いと落ち込み、いつも平安が無い。絶えず
アップダウンはなはだしい。平安などほど遠い。悔い改めて、今一
度すべてを明け渡した。主は、再び、建て直して下さった。今度は、
外側は同じだが、神と共に、神の力によって働いて行った。

以前と、同じ事をしているのだが、そこには、内側に主と一つであ
る喜びがあり、結果に関係なく、左右されない、揺るぎない平安が
あった。成果が目的ではない。主と一つであることだ。
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弱いところは頼れても、自分に力があれば自分の意欲や力で動けて
しまう。それこそが弱点だと主は気付かせてくださる。全ての道に
主を認めて喜びをもって歩もう。


2016年08月21日(日)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私 の神であられますから」詩篇143:10



ヘロデ王は教会を迫害しヤコブを剣で殺した。それがユダヤ人の気
に入ったのを見て、次にはペテロに手を伸ばした。実際ペテロを捕
らえ、処刑しようとした。だがペテロは、御使いによって牢から救
い出された。奇跡が起きた。「教会は、彼のために神に熱心に祈り
続けていた」の答えだった。

教会ではヤコブの時も、ペテロの時も同じように熱心に祈った。し
かしヤコブは処刑され、ペテロは救出された。「なぜ?どう違うの
か?」と思う。これはヤコブにはヤコブの、ペテロにはペテロの、
神のご計画であり、召しだ。ヤコブは殉教により神の栄光を現わし、
ペテロは生きて、宣教の使命が与えられていて、それによって神の
栄光を現わす事となる。

ヘブル11章にも、ある人々は「ししの口をふさぎ、火の勢いを消し、
剣の刃を逃れ、強くされ、戦いの戦士となり、陣営を陥れた」と奇
跡、奇跡で、勝利して行った。そして又ある人々は「牢に入れられ、
石で打たれ、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、乏しくなり、苦
しめられ」と殉教した。結果的には正反対のどちらもが「信仰によ
って」歩んだ。

パウロは「生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめ
られること」を求めた。一人〃に与えられている神のご計画が全く
異なる。人は関係無く、神から自分に与えられた人生、自分への御
心を全うする事が、最大の喜びの道だ。神と自分の関係がすべてだ。

・・・・・・・・・・・・・
人と、自分への主の御心は全く異なる。境遇も賜物も異なる。「あ
なたは、わたしに従いなさい」の通り、横ではなく上を見て、一歩
一歩、自分への主の導きに従おう。御霊は一歩一歩を助けて成し遂
げさせて下さる。目の前の一歩に従おう。


2016年08月20日(土)

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありま せん。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」ガラ テヤ6:7


私たちは弱いので、罪を犯してしまう。しかし神は主イエスの十字
架のゆえに、完全に罪を赦し、二度と思い出さないと言われる。無
罪放免にして下さる。人はどうしても失敗してしまうが、主のあわ
れみは尽きず、それをも尚も益として行って下さる。罪も失敗も赦
され、もう一度やり直す事ができる。絶対に絶望は無い。

しかしだからと言って、少しぐらいと罪を甘く見てはならない。恵
みを放縦に変えてはいけない。どうせ赦してもらえるのだからと、
罪を犯してはいけない。それは違う。警察沙汰を起こした子供は、
施設で、厳しい矯正訓練を受ける。その親は、迷惑をかけた各方面
に謝罪し、金銭的弁償をし、頭を下げて、あらゆる償いをして回る。

法に違反した時、主の前に悔い改めるなら、完全に主は赦して下さ
る。しかし、この世界で法律上の刑罰は受ける。又、憎しみや妬み
で人を傷つけてしまったなら、悔い改めにより、主は赦して下さる。
しかし、一度壊れた信頼関係を、再度築き上げるのは、大変な努力
がいる。

罪のもたらす害毒は、思っている以上に大きい。罪の結果は自分だ
けでなく、家族や周囲をも巻き込み、傷を負わせてしまう。決して
罪を軽く見て、もてあそんではならない。飲み込まれてしまう。サ
タンは、あなたの弱点を的確に知っていて、執拗に誘惑して来る。
しかし、御霊の声のほうに耳を傾け、その導きに従おう。御霊は助
けて導いて下さる。

・・・・・・・・・
今、罪から守られているなら、ただただ主による。弱い者であり、
守られるよう祈っていよう。失敗してしまったなら、悔い改め、赦
されて赦されて歩もう。そして主と共に刈り取ろう。それをも、尚
も訓練とし、更なる祝福として下さる。主のあわれみは尽きない。


2016年08月19日(金)

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:26



怒り自体が、悪なのではない。感情も、神が与えて下さったものだ。
主も罪を怒られた。神の宮が商売に利用されている事に、ひどく怒
られた。正しい怒りがある。だが、肉なる人間にとって、怒りは非
常にサタンに機会を与えやすい。よく気をつける必要がある。罪に
至る怒りがある。

その怒りを根に持つと、恨みや憎しみへと増幅させて、悪魔に足場
を与えてしまう。復讐心へと発展して行く。肉はやり返したい。報
復したい。そのため「日が暮れるまで怒ったままでいないように」
と。ユダヤでは、日没から日没までが一日なので、怒りを持ったま
ま、日を越さないで解決するようにと。

怒りは制御されなければ、荒れ狂う。サタンに幾らでも足場を与え
て行く。サタンは、怒りに乗じて働いて来る。思い当たるだろうか。
怒りで感情的になり、心が乱され、売り言葉に買い言葉、取り返し
のつかない暴言や行動に出てしまう。相手を傷つけ、自分も傷つき、
人間関係を壊して行く。後でひどく後悔する。サタンだと気づく。

又、義憤と言うが、完全に正しい怒りは、主にしかない。私たちは
全部が見えているわけでなく、肉なる者だ。自我も働いて来る。道
をはずさないために、サタンをわきまえ、へりくだって、まずよく
祈る事が大切だ。又、怒りは我慢したり、抑え込むのでなく、正直
な気持ちを主に告白しよう。そして神に委ねよう。「自分で復讐し
てはいけません。神の怒りに任せなさい」と言われる。
-----------
背後のサタンに煽られコントロール不能になる前に、怒りの感情を
主に差しだそう。祈らずに怒りのままに発する言葉は、必ず後悔と
なる。昨日から持ち越している怒りは無いだろうか。


2016年08月18日(木)

「それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ」T列王17:5



エリヤは、主の命令により、アハブ王に、主が雨を止められる事を
告げた。即、打ち首になるかも知れず、信仰と勇気の要ったことだ
ろう。主に従った後、次に主はエリヤに「ケリテ川のほとに身を隠
せ」と命じられた。そこで主が烏に命じて養うと。アハブからかく
まうためだった。

そこで彼は「主のことばの通りにした」。エリヤは、ケリテ川のほ
とりに逃れた。一歩一歩を、自分の思いでなく、主の言葉通りに従
った。しかし、烏が養うなどと、そんな事があり得るのだろうか。
ゴミを狙い、食物を貪る貪欲な烏が、食物など運んで来るのか。し
かしそれは、主の主権のもと、主がエリヤを養うとの意味だった。

雨が降らず、どんどん枯れて行くケリテ川で、自分には何もどうに
も出来ない。出来る事は何もない。エリヤは自分の全面無力を知り、
神ご自身にすがり頼る信仰の訓練とされた。川の水も干上がって来
て、どんなに不安な事だろう。又、「ケリテ川のほとり」と特定さ
れていて、他へ勝手に移動する事もできない。水はかれて来た。こ
のままでは死だ。

しかし、エリヤは自分で動かず、主の次の言葉を待った。「すると、
彼に次のような主のことばがあった。シドンのツァレハテに行き・
・」ケリテ川がかれると、次の導きが臨んだ。必ず主の導きが来る。
「主のことばがあった」「主のことばの通りにした」。まず、主の
ことばに耳を澄まそう。そして示しが来たなら、行って、主のこと
ばのとおりにしよう。
---------
無力を知らされる状況の中は、真実な主を知る経験で、決してひと
りではないことを学ぶ。一歩一歩と導かれ次の展開を与えられる。
従って行こう。ケリテ川の経験は必ず祝福だ。


2016年08月17日(水)

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい」エペソ6:11



神は私たちに、語りかけ、御心へと導かれる。しかし、心に聞こえ
てくる声をすべてが神の声なのではない。神の声と、そうでない声
がある。サタンは神を真似て同じ事をするので、神は御声をもって
語りかけられるが、サタンも同じように語りかけてくる。サタンは
私たちが動揺する事、混乱する事、感情的になる事柄を熟知してい
て、的確に攻撃してくる。

どの一言で、悶々と悩み、落ち込むかを知っている。どの部分が弱
いかを知っている。思い煩いの強い人には心配事に、プライドの高
い人にはプライドに、妬みの強い人には、そのところに、そこに一
言の火矢を投げて来る。過去の出来事の中から、的確に掘り出して
来る。すると、サタンだと気づかずに、自分が思っているとしか思
わず、悶々状態に陥る。

又、肉からの自分の声も聞こえて来る。心の中は様々な声が行き交
い、混線状態だ。神からの御声は平安が伴う。時には非常に痛い指
摘があるが、しかし心の底に平安がある。そしてそこに愛がある。
愛から発せられる御声だからだ。そこには赦しがあり、静かな御声
だ。

神以外のものは、がなり立てて、責め立てて来るもの、又、急かし、
不安、混乱させるものだ。又、自分を誇らせる。それは、必ず御言
葉と合致する。御言葉に反するものであれば、神からではない。祈
りの中で、平安な御声をわからせて下さる。
------------
主の御心である平安や愛を取り去り、怒りや焦りを吹き込むサタン
の存在を常に認識していよう。コントロール不能な怒りや不安は、
ありのまま祈り、光にひき出すとすっと消えていく経験をする。


2016年08月16日(火)

「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え・・そのようにわたしの口から出るわたしのことばも・・必ず、わたしの望む事を成し遂げ」イザヤ55:10



私達は、祈ろうと思うが祈れない。又、良い習慣づけしようとする
が難しい。もっと意志さえ強ければ・・、意志が弱いからだめだと
思う。しかし人間の意志の力が物事を成し遂げるのではない。神が
語られた言葉は、神ご自身が実現させる、と。神の意志が物事を実
現させる。

そうであれば、神の御心が非常に大切だ。しばしば主が願っておら
れると自分が思う事を、神の御心と勘違いしてしまう。しかし成就
しないので、戸惑う。ある人が、これこそ御心と思い込んだが、全
くうまく行かなかったと証しした。後にそれは、神の望む事ではな
く、自分が、神のためにしたいと望む事だったと気づかされた。

神の「わたしの望む事」でなく、肉の「自分の望む事」であった。
自分にとって都合よく、自分が欲しい神の言葉でなく、神の口から
出た言葉だけが成就する。どうすればよいのか。まず自分自身の意
志を明け渡そう。自分の強い思いが、御心を知る事を妨げる。そし
て、神の言葉が臨んだなら、その言葉から目を離さず、握っていよ
う。

その約束はなかなか実現しない事がある。何年も祈り続ける事もあ
る。遠回りに見えて、忍耐が必要かも知れない。しかし、神の言葉
は「神の時」に「必ず」成就する。神が働かれ、その言葉の通りに
なる。だから約束はすでに手にしている事になる。目に見える形で
現れて来るのが、神の時だという事になる。
-------------
救われて主に頼る人生へと変えられたのに、いつしか全てを明け渡
さず自分の思いや自分が立てた信仰と御心が判別でない自分をみる。
約束の御言葉を握ろう。主は安らかに導いていてくださる。


2016年08月15日(月)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34。



主にあって明日のために備え、計画するのは良いことだ。思慮の無
い、無計画な能天気が良いのではない。主は、将来に備える事が無
用なのでなく、心配が無用と言っている。思い煩いは際限が無い。
今日は大丈夫でも、では明日は?来年は?老後は?それに自分がち
ゃんと心配しないで誰がすると、サタンのささやきに乗ってしまう。
心配が正当に思えて来る。

しかし「あなたがたの思い煩いを、いっさいゆだねよ。神があなた
がたのことを心配して下さるから」と言われる。神が心配して下さ
るから、心配無用なのだと。今日も明日も主にゆだねて、主を信頼
して生きよと。委ねられないので、思い煩いが消えない。不安と恐
れで一杯だ。神ではなく、自分を信じ、自分に頼っているからでは
ないか。

嵐の中で、小舟の弟子たちは「私たちがおぼれて死にそうでも、何
とも思われないのですか」と、眠っている主に詰め寄った。しかし
主は起きあがり「黙れ、静まれ」と一言葉で、湖を大なぎにされた。
そして「信仰が無いのは、どうしたことです」と。嵐の問題でなく、
信仰の問題だと言われた。

天においても、地においても、いっさいの権威を持っておられる主
が共におられるのだ。主を信頼するのでなく、自分で何とかしよう
とするので、恐れと不安しかない。「神があなたのことを心配して
下さる」そこに立っていよう。
-------------
心配がくる度に思い煩ってしまう悪循環は意識して断ち切ろう。主
を見ていなければ自分で心配し自分の不安に固執してしまう。委ね
られるよう、備えられている恵みに気付けるよう祈っていたい。


2016年08月14日(日)

「イエスは答えて、彼らに言われた『あなたがたは行って、自分た ちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい』」マタ イ11:4 


ヘロデ王が自分の妻を追い出し、弟の妻をめとった。バプテスマの
ヨハネは、そのヘロデの行為を、はっきりと不法だと、正しくない
と指摘した。そのためヨハネは投獄されてしまった。主は不義を裁
く方であり、ヘロデ王を制裁されるのではないのか。しかし全く何
も起こらない。ヨハネが思っていた主と、獄の中で、耳にする主の
姿が違っていた。

「・・殻を消えない火で焼き尽くされる」、正義の審判者であるメシ
ヤを思っていた。ところが裁き主ではなく、悲しむ人を慰め、寄り
添い、病人を癒し、罪を赦している。それでヨハネは弟子に、メシ
ヤはあなたか、それとも、別の方かと問わせた。主は、その弟子た
ちに「自分の聞いたり見たりしていることを報告せよ」、つまり目
の前の「事実」を伝えよと答えられた。

「盲人が見、足なえが歩き」これらはメシヤのしるしだ。そして
「わたしにつまずかない者は幸い」とヨハネに託された。つまりは
自分がメシヤだと言われた。そして、主はヨハネのことを、「預言
者よりもすぐれた者。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハ
ネよりすぐれた人は出ませんでした」と言われた。

主はヨハネを認め、評価し、愛し、慈しんでおられた。ある人々は
剣の刃を逃れ、奇跡的に救われ、ある人々は苦しめられ、殉教した。
そしてヨハネは後者だった。皆、違い、それぞれに託された使命と
御心がある。それぞれ違う形で、主の栄光を現して行く。

又、真摯な疑問は、直接、主に問えばよいことを教えられる。主は
その問いに答えて下さる。わからない事はそのまま祈りに持って行
こう。

・・・・・・・・・・・
信仰生活で、時に自分の期待通りや、自分の思い通りで無かったり
する事がある。しかし「わたしにつまずかない者は幸い」だと言わ
れた。拒んだり、心固くするのでなく、心開いて、更に主から学び、
主を信頼して行けるよう祈ろう。新たに主を知る時とされる。


2016年08月13日(土)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この 二つは対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思う ことをすることができない」ガラテヤ5:17 



主を信じて新しく生まれて以来、毎日の生活で、常に目の前に二つ
の反応がある事を経験する。御霊の反応と、肉の反応だ。御霊から
「〜をするように」との示しが来ると、肉は「したくない、自分に
は出来ない、その事はまた後で」と言う。例えば、御霊が「今、こ
の空いている時間に祈れ」と促される。肉は「祈ったらいいんだろ
うな」と思いつつ、ぐずぐずして、結局行動に移さない。

雑誌に手が伸びたり、テレビをつけてしまったり、せっかくの御霊
のチャンスをつぶしてしまう。何かを献げるように示されると、肉
は「無理しなくてよい」「誰かが献げる」「これぐらい献げても何
になる」と言う。そして無し崩しになる。

御霊は「思い煩うな」と言うが、肉は「自分で何とかしなければ、
どうする」と決して思い煩いを握って放さず、どんどん最悪のシナ
リオを描いて行く。批判されたらどうだろう。神は「まず祈れ」と
言われる。しかし肉は「やり返せ。言い返せばスッとする」と言う。

神は「すべての事について感謝しなさい」と言われ、肉は「この状
況で、どこが感謝だ」と不満で一杯だ。肉は御霊に逆らい、我を通
す。根深い肉の性質が、自分の内にあることをよく踏まえて、だか
らこそ絶えず御霊に拠り頼もう。
「わたしを呼べ」と言われる主にまず祈って行く時、御霊を選択し
て行くことができる。その一つ一つの選択を通して、信仰が培われ、
新しい人が培われ、成長させて下さる。

・・・・・・・・・・・
「肉は御霊に逆らい」の通り、絶えず逆らう。肉は自分の思いを通
したい。思い通りにしたい。しかし御霊に従った時の、平安と喜び
も知っている。何にも代えられない。自分では出来ないからこそ、
祈ろう。人に出来ない事が神には出来る。従えるよう助けが臨む。


2016年08月12日(金)

「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」Uサムエル7:12



ダビデは、主のためにと神殿建設を願った。しかし、その願いは退
けられ「あなたの身から出る世継ぎの子を起こし、彼の王国を確立
させる」、つまり彼の子が神殿建設を成し遂げると言われた。ダビ
デ自らが神殿建設をしたかったが、主からの答えは「ノー」だった。
時に、私たちも、このような状況に出会う。

自分の切なる願いが、「ノー」と言われた時どうだろう。二つの態
度が取れる。一つは、思い通りにならない状況に、失望落胆してし
まい、やる気を失い、又、いじけてしまう。もう一つは、「ノー」
を、主からのものと受け入れ、では、主の御心が成されるために、
自分はどう動けばよいのか、何をすべきで、何が出来るかを考える。

ダビデは、主からの「ノー」を受け入れ、息子ソロモンが建設に当
たるとの御心を知り、そのための準備に回った。これがダビデの信
仰で、素晴らしさであった。政治的、経済的安定がなければ、神殿
建設は不可能だ。ダビデは諸外国の敵と戦い、次々と勝利し、着実
に基盤を築いて行った。

「主は、行く先々で勝利を与えられた」御心に従うダビデに、主が
連勝を与えられた。そして膨大な金銀の戦勝品を、建設資金に献げ
た。自分の思う道が閉ざされた時、ダビデにならおう。へりくだっ
て、主の御心が成し遂げられるために、自分は何が出来るかを問お
う。主は用いて下さり、大きな祝福を下さる。
-----------
祈りの答えがノーであったなら、主の御心はどこにあるのか、へり
くだり悟れるように祈りたい。主のご計画を信じ希望を持って次の
導きを待とう。


2016年08月11日(木)

「それで神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。イスラエル人は編隊を組み、エジプトの国から離れた」出エジプト13:18 


神が民をエジプトから出された時に、約束の地に導くのに、近道で
あるペリシテ人の国には行かせず「荒野の道」へ向かわせられた。
「民が戦いを見て、心が変わりエジプトに引き返すといけない」か
らであり、そこに神の配慮があった。長年の奴隷生活で、戦いの訓
練も経験も全く無い民が、敵との戦いなど恐怖で怯えてしまい、引
き返してしまうだろう。

私たちの価値観の中に、楽な道、平らな道、順調を好み、近道、早
く到達する事が善との思いがないだろうか。苦しい事、難しい事は
避けて通りたい。しかし、神は、民を近道ではなく、あえて荒野の
困難な道を通された。神が苦しい道を通されるのだ。神に不可能は
なく、何でもできる。今すぐに、願っているものを与えて下されば
良いのにと思ってしまう。

時間がかかり、まさに遠回りさせられていると感じる状況がある。
自分の思いと全く違う道だ。しかし、そこを通ってこそ、忍耐や信
仰が培われ、神の深い愛や慈しみ、真実を経験する。委ねる事を学
ばせられる。そこを通らずしてあり得ない。そしてその通り道には、
雲の柱火の柱が伴い、進べき道が示される。

荒野での灼熱の太陽から雲の柱で守られ、夜の暗闇を火の柱が照ら
した。その導きは、道中決して「民の前から離れなかった」。今、
荒野にいるなら、神を信じ、神に従って歩もう。雲の柱、火の柱で、
片時も離れず共にいて、導いて下さる。
-----------
楽な道にしがみつく自我や無力を示されて通る道は痛いが、私達を
よく知っていてくださる主に無駄な工程は何ひとつない。先立たれ
る主に不安も不信仰も差しだしながら取り扱いを受け取って行こう。


2016年08月10日(水)

「このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた」士師17:5


エフライムにミカという人がいた。家は裕福で、家に宮を持ち、息
子を祭司にしていた。ミカの母親が、銀千百枚が盗まれた時、盗ん
だ者を呪った。しかし、息子のミカが犯人と知るや一転、息子を祝
福する。全く一貫性が無く、自分の都合次第で、何でもありだ。ミ
カが銀を返した時、母親は、その銀を聖別して主に献げると言った
が、二百枚を献げただけで、何とその銀で彫像と鋳像を作った。

それがミカの母親だった。ミカもミカで、自分の家に宮を作り、エ
ポデを作り、自分の息子の一人を任命して祭司にしていた。そこに
丁度レビ人が来たので、財力で、自分の家の祭司にした。レビ人も、
お金に目がくらみ、ミカの要請を受け入れた。王が無い時、このよ
うに混乱し、めいめいが自分の目に正しいと見えることをした。

偶像礼拝、秩序の乱れだ。「自分の目に正しいと見える」=「自分
に都合の良い」ということになる。正義も、神の御心も無く、ただ
自分の都合で、判断もその場〃で、コロコロ変えて行く。そうなる
のは、「王がない」ためだと。人は、王が無い時に、自分勝手に歩
んで行く。

私たちも、主を自分の王として、心の王座に来ていただかないなら、
同じ状態だ。イスラエルのように、口では「神」と言いつつも、自
分の都合のままに、自分の損得のままに動いて行く。主を心の王座
にお迎えし、自分の都合でなく、主の御声に耳を澄ませ、主の御心
に従おう。
------------
口では「神」と言いつつ感情、環境に大きく左右される信仰生活を
示される。自分の都合が第一となっている姿勢を悔い改めたい。不
動の主を心に据え、静まって御声を待ち、聞き従う日々でありたい。


2016年08月09日(火)

「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください」マタイ22:4


王が、王子の結婚の披露宴を主催した。しかし招待した客は「来た
がらなかった」。そこで再度、別の者を遣わし、尚も招いた。とこ
ろが「彼らは気にもかけず」、無視して、畑に、商売にと出て行っ
た。神の事、永遠の事より、今の地上での事柄が心を占め、目の前
の事に忙しい。王や祝宴などどうでもよい。大切なものが、畑、商
売であり、この世の事だ。

そこで、王は、彼らはふさわしくなかったので、通りで出会った者
を皆、ことごとく招くよう命じた。片っぱしから呼んで来たので、
会場は一杯になった。ところが、そこに礼服を着ていない客が一人
いた。すると、王は怒って外に放り出した。道で、突然声をかけら
れるわけで、誰も礼服など持っていない。この礼服は、すべて主催
者側で用意された。

だから放り出された人は、王の礼服を、故意に拒否した事になる。
彼は、通りで招かれ、招きは拒まずに来たのだが、王の前に出る「礼
服」は拒んだ。「招待される者は多いが、選ばれる者は少ない」こ
の客のようだろうか。王の礼服は不要で、自分の服で良い。自分の
功績、自分の力を捨てない。

自力で、自分の良い行ないで、義と認められようとする事だ。神よ
り、自分の考えを正しいとするなら、神を拒否し、礼服を拒む事だ。
王の礼服を着て、主と一つとなり従って行こう。「何もかも整いま
した。さあどうぞ」肉の力は不要だ。御霊が何もかも整え、力を与
えて下さる。その時、主の披露宴の大きな喜びと楽しみにあずかれ
る。
----------
主の新しい衣を与えられているのに、自分の衣も脱ぎ捨てられず、
自分を頼り汲々としてしまう。主から知恵も守りも赦しも与えら
れている。主の新しい衣を纏い、生き生きとした信仰生活を送ろう。


2016年08月08日(月)

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」ヤコブ1:14 



サタンは私たちの「思い」に攻撃して来る。「悪魔はすでにユダの
心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた」とあるが、イスカ
リオテのユダの心に、主を売る「思い」を入れたのは、悪魔だ。ユ
ダは、主を裏切る思いが「自分の思い」ではなく「サタンが入れた
思い」である事に気づかなかった。

サタンからの思いを受け入れてしまった。同意し、心の内で熟成さ
せてしまった。日ごとに、朝起きた瞬間から、サタンからの思い、
火矢はすべての人に、四六時中来るが、ユダは、サタンからの「思
い」を拒否せず、受け入れて行った。それを、心の中であたため、
「欲がはらむと罪を生み」の通りに妊娠させてしまった。

罪が熟すると死を生む。サタンが吹き込んで来る「思い」を受け入
れ、はらんではならない。サタンが吹き入れる様々な思い・・思い
煩い、心配、憎しみ、妬み、怒り、敵対心、それはサタンの火矢で
あり、自分の思いではないので、罪ではない。主も、石をパンに変
えて食べようかと思われた。しかし、それは主の思いでなく、サタ
ンからの誘惑だ。

主はそれを拒否された。そして主は「罪を犯されませんでしたが・
・試みに会われた」とあり、思う事は罪ではない。その思いを、拒
否せずに、同意し心の中に深く受け入れ、はらむなら罪となる。自
分が思っているとしか思わない、様々な「思い」が、実はサタンか
らの攻撃だと気づく時に、守られる。
----------
自分の思いがサタンから来ていると認識していくのは、サタンに勝
利する大きなポイントだ。誘惑に一致してしまうが、御心は、御言
葉はどうかと主の前に出し、サタンの思いを吹き消していこう。


2016年08月07日(日)

「蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った『・・と神はほんとうに言 われたのですか』」創世記3:1 


蛇のエバへの誘惑に、その狡猾さが見事に表われているが、あなた
にもこの誘惑が来ているだろうか。「ほんとうに?」との言葉だ。
神が言われたのはOKだが、「ほんとうに?」と。神や御言葉を否
定して来るわけでなく、でも、それ「ほんとう?」と言われた時に、
「ん?!ほんとうかな?」と、心が揺らぎ、疑いが湧いて来る。

「天国って本当にあるのか?」「神は本当にいるのか?」サタンは
狡猾だ。最初から、神や御言葉を否定して来るなら、心をガードし、
身構え、識別しながら聞く。無神論者や共産主義者の言葉は、それ
なりに聞く。しかし神はOKと認め、御言葉をも認めた上で、「で
も、ほんとう?」とは、サタンの罠だ。

ふっと考え始めると、どんどんサタンは説得して来て、ついには大
胆にも全面否定して来る。「あなたがたは決して死にません」。神
の言葉と正反対だ。正反対なのだから、わかりそうなのだが、サタ
ンに聞いて行ってしまうと、もうわからなくなる。これはサタンの
やり口だ。サタンの説得に乗って行ってしまうと、罪へと誘われて
しまう。

信仰により、御言葉の約束に立とうとすると、「本当に?実現する
の?」「信じているだけで大丈夫なんて、本当?」「そんな事、信
じられない」「思えない」と誘って行く。必要を満たす、と言われ
ると「本当に?そんなはずない」。進路を必ず導く、と言われると
「本当?」いつも信仰が揺れ動き、ぐらつく。自分が思っているの
でなく、サタンに吹き込まれている。祈っていよう。

・・・・・・・・・・・・
「本当に?」と御言葉を疑わせ、信仰を揺らがせるサタンが常に、
私たちを狙っている。いつも疑いを持って来るサタンの攻撃をわき
まえていよう。サタンだと気づかぬまま、同意してしまっている。
御霊の気づきが与えられるよう、祈っていよう。


2016年08月06日(土)

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与 える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」ヨハネ 4:13



人は、何が幸せだと思っているだろう。だいたいが、自分の願いが
叶うこと、自分の欲望が満たされる事ではないだろうか。欲しくて
たまらない物を手に入れたなら、満足し、喜びに溢れると思ってい
る。そのため、自らの欲望を満たそうと必死になる。幸せが欲しい
からだ。しかし残念ながら決してそうではない。肉の欲望を満たす
と、一瞬の快楽はあるが、その後、ますます心は渇く。

人々が心の満たしを求めて、次から次へと目新しいものを求めて、
さまようのはそのためだ。しかし、欲しいものを手に入れて、心は
やせ衰える。虚しくなる。サマリヤの女性は、5回の結婚と離婚を
繰り返し、同棲中だった。彼女は男性が自分を幸せにし、心を満た
してくれると信じていた。そのために結婚を繰り返した。

形は、皆、違うが、私たちもどうだろう。富が、愛する人が、名誉
が、地位が、仕事が・・自分を幸せにし、夢を実現し、心の満足を与
えてくれると思っているだろうか。私たちの心には、神のかたちを
した空洞があり、それは神のかたちであって、神以外の何を埋めて
も、心が埋まることは無い。だから真の満たしを得ることはない。

その空洞は、神のかたちであるため、自分自身を明け渡して、神を
心の王座にお迎えした時に初めて、心がピッタリと埋まり、喜びが
満ちることになる。私たちの幸せは、神から来る。それ以外の何も
のでもない。心が別のものに向いているなら、神に向き直そう。そ
して、神にますます近くいる事を求めて行こう。そこから真の幸せ
が来る。

・・・・・・・・・・・
次々と求める時には、その心の奥に満たされない思いがある。心の
虚しさがある。「渇く者は来なさい」と言われる主のもとに行こう。
欲望は満たされても、またすぐ渇く。心の奥が満たされる事はない。
主のもとへ行く時、渇きが止む。主の愛が渇きを止める。


2016年08月05日(金)

「この地にききんがあった。それで・・妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。その人の名はエリメレク・・」ルツ1;1 「こうしてナオミは、嫁のモアブの女ルツといっしょに、モアブの 野から帰って来て・・」ルツ1:22 



エリメレク・ナオミ夫妻は、飢饉になった時、糧を求めて異教の地
モアブへ移住した。約束の地にとどまる事なく、偶像礼拝の地に行
ってしまった。飢饉は大変苦しいが、信仰の試練だ。忍耐していた
なら、神は必ずまた豊作にして下った。しかし、家族の幸せのため
に、それを求めて、モアブに移ったはずが、現地で夫が死に、二人
の息子も死んでしまった。

異国の地で、ナオミの苦労はどんなものであったろう。飢饉は辛い
が、もっと苦しむ事になる選択をしてしまった。私達もどうだろう。
試練は苦しくて、とにかくそこから逃げて、楽になりたいと思う。
しかし別の選択をしても、結果的に更に苦しむ事になる。ナオミは
約束の地にとどまるべきだった。

私達も神からの試練を逃げず、避けず、受け入れる事が、実は一番
の平安の道だ。なぜならそれは私達の益のためのものだ。その時は、
痛く辛く悲しいが、必ず平安の実を結ぶ。私達を聖くするために懲
らしめられる。

ナオミは飢饉が去った事を耳にし、帰郷の決意をする。御心をそれ
て、苦しい刈り取りをしたが、しかし、尚も神は恵み深く、あわれ
みは尽きない。ナオミの背後にまことの神を見、信仰によってナオ
ミにつき従う、ルツという大きな慰めを与えられた。私達も失敗し
てしまうが、あわれみは尽きず、私にとっての「ルツ」が与えられ
ていた事を知る。
-------------
環境がどこから来ているか、苦しさや辛さ全てに意味があるとわか
っていても原因や解決策を求めて苦しむ。これは私には必要ですと
主を認めて行こう。そこから必ず主が多くを教えてくださる。


2016年08月04日(木)

「それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを 知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです」Tヨハネ3 :19 


対人関係から逃げる事は出来ないが、どうしても好きになれない相
手がいるだろうか。批判の矢を向けて来る人、いつも自慢ばかりす
る人、愚痴ばかりの人、悪口の多い人、高慢な人・・。好きになるの
は到底無理と思ってしまう。しかし、聖書は一言も相手を好きにな
れとは言っていない。「好きになれ」でなく「愛せよ」と言ってい
る。

好きにならなくとも、愛することはできる。「好き」は感情であり、
「愛する」は意志だ。聖書の中の「愛」はすべて「意志の愛」だ。
感情の愛ではない。愛するというと感情を連想するが、意志で愛す
る事だ。私たちの感情はコントロール不可能だ。そのように造られ
ている。しかし、意志はコントロール可能だ。だから愛することが
できる。

愛するとは、日常生活で、困っている兄弟がいるなら、自分に出来
る事をする事、持っているものを分け与えることだ。「世の富を持
ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすよ
うな者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」。自分に出
来ることをすればよい。出来る事しかできない。できる事をして平
安でおれる。

目の前の困っている人に、あわれみの心を閉ざさない事、自分に出
来ることをする事、それなら出来るのではないだろうか。祈り、御
霊の示しがあれば、実行しよう。神はとなり人を愛したと見て下さ
る。そして、神の御前に心を安らかにされる。平安に守られる。

・・・・・・・・・・・・
示された事を、実際に意志をもって行なってゆく時、心が平安にさ
れる。主からの平安だ。そして真理に属するものであることを知れ
る。それは何と嬉しい事だろう。何にも代えられない喜びだ。示し
に従えるよう祈ろう。


2016年08月03日(水)

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがを愛しました。 わたしの愛の中にとどまりなさい」ヨハネ15:9


農夫が、はさみで、実が実らない枝をせん定して行く。実を結ぶ枝
に養分が行き、より良い豊かな実を実らせるためだ。御父は信仰者
に同じようにされる。主は私たち一人一人に豊かな実を結ばせたい。
そのために刈り込みをされる。それはもっと多く実を結ばせるため
だ。はさみで刈り込まれるのは痛い。血が流れる。刈り込みは痛い
が、更に実を結ぶようにとの目的だ。

すでにきよいからこそ、もっと実を結ばせるために訓練して下さる。
今、刈り込みがなされているだろうか。痛い状況の中にあるだろう
か。痛いが受け止めて行こう。「わたしにとどまりなさい」の「と
どまる」は、「住む」「宿る」ことであり、一緒に住むことだ。主
にとどまっているので、受け止めて行ける。主を離れては何もでき
ないと。

又、「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら・・」、神の言葉
が私たちに宿る時、祈りが叶えられ、多くの実を結ぶと。少しばか
りの実でなく、「多くの」実だと。そこに御父の栄光が現れて行く。
そして、「わたしの愛の中にとどまりなさい」とは、「わたしの戒
めを守るなら、わたしの愛にとどまる」とある。

戒めを守ることが、主を愛することだと。「主はその愛する者を懲
らしめ・・」懲らしめは愛だ。反発や怒りでなく、刈り込みが愛であ
ることを信じて行く時、主にとどまり、主の愛にとどまることにな
る。平安の実を結んで行く。

・・・・・・・・・・・・
もうきよい者とされているので、更に多くの実を結ぶために、刈り
込みをされると。刈り込みは確かに痛い。しかし試練を通して、砕
かれて、成長させて下さる。愛、喜び、平安・・の実を、そして証し
の実を結ばせて下さる。


2016年08月02日(火)

「わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのこと ばにおののく者だ」イザヤ66:2 


ある人が信仰生活を振り返った時、御言葉を聞く姿勢が、ずっと間
違っていたと言った。「御言葉を聞くのは嫌でないので、聞くのだ
が、御言葉と同時に、自分の思いが必ず来る。そんな事していては、
世の中と合わない。生きて行けないとの思いが湧いて来る。そっち
の思いを受け入れ、御言葉をずっと捨ててしまっていた」と。

御言葉を聞くと、同時に肉の思いが湧き上がり、妨げられる。そう
いう事も、その時には全くわからず、肉の思いの方をずっと自分が
選択していた。だから、長い間、霊的な事柄がなかなかわからなか
ったと。御言葉を聞くと、「そんな事があるものか」「いや、そん
なはずはない。そうは思えない」「自分はこう思う」と、自分の思
いの方を正しいとするので、結局、御言葉を否定してしまっていた。

そして、そういう事にも全く気づかなかった。神の言葉として、自
らを下に置き、へりくだって「お従いします」の態度で聞くのでは
なく、有益なお話、良いお話ぐらいの気持ちで、傍観者的に聞いて
いた。それなら右から左へ流れるし、自分の都合の良い言葉だけを
聞き、都合の悪い言葉には耳をふさいでしまう。

結局、自我が固く中心にあって、変えられることがない。自分の思
いを捨てて、御言葉の方を選び、従って行く時に、砕かれて行く。
自分が変えられて行く。自分の聞く姿勢、態度を御霊に探っていた
だこう。豊かな実を結ぶために。土地=心は大切だ。

・・・・・・・・・・・・
御言葉を行なおうとする時に、自我とぶつかる。したくない強い
自我がある。だが祈る時に、御霊の実際の助けがあり、御霊によっ
て行なう事ができる。御言葉に従えるように、祈りつつ、従おう。
砕かれて造り変えられて行く。


2016年08月01日(月)

「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは 大きな報いをもたらすものなのです・・約束のものを手に入れるため に必要なのは忍耐です」ヘブル10:35


アブラハムが75歳の時、神の示しに従い、カランを出てカナンの
地に移り住んだ。しかし子が無く、エリエゼルを相続人にと考えて
いた。その時に神は、そうでなく、あなた自身から生まれ出る者が、
跡継ぎとなるとはっきり言われた。満天の星を見せられ、子孫はこ
のようになると。アブラハムは信じた。神はその信仰を彼の義と認
められた。

しかし約束は受けたのだが、ずっと子供は生まれず、妻サラの提案
により、女奴隷ハガルによりイシマエルを得た。86歳であった。
だが、それは肉による事であった。自分の思いで行なった事だった。
その後も、約束はあっても状況は何一つ動かない、何も見えない歳
月が続いた。厳しい忍耐の時であった。

それから13年後、99歳の時に、主が彼に再び現われ、子孫を与える
と語られた。そして100歳になって、とうとう約束の子イサクを得
た。アブラハムは常識的にはもう不可能だった中で、見えるところ
でなく、神ご自身を信じた。望みえない時に望みを抱いて信じた。
目に見えたなら信仰は必要ない。見えないものを信じるから信仰だ。

それは状況を見るのでなく、約束して下さった神を見続ける信仰だ
った。アブラハムには数々の失敗があったが、信仰の父と言われ、
神はその「信仰」を喜ばれた。あなたも今、厳しい状況だろうか。
「胎の死んでいることを認めても」、尚も神の約束の言葉に立てる
よう祈ろう。神の約束は真実だ。約束は必ず成就する。

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サラは出産不可能だった。全く望み得ない状況だった。何のすべも
無く、自分の力で、どうにも出来ない時にこそ、御言葉にすがれる。
御言葉しかないからだ。主の力にすがるしか、何も無い。そんな時
こそが恵みの時で、上からの信仰が来る事を経験する。