2002年06月30日(日) 「あすのための心配は無用です。あすのことは明日が心配します」(マタイ6:34)
「あすのための心配は無用です。あすのことは明日が心配します」(マタイ6:34)
一人の婦人が転んで、足を骨折して しまった。高齢のため完治には、かなり の日数がかかると予想された。 彼女は医師に、どれくらい長くかかるの かと質問した。 医師は答えた「一日ですよ!一日一日頑張 って行きましょうや」と答えた。 主は言われた。明日の心配は無用。 その日一日生きれば良いのだと。 どんな境遇の中でも、一日なら生きる事が 出来る。私達のほとんどは起こりもしない 事を心配し、思い煩い神経をすり減らす。 無駄なだけでなく有害だ。ある婦人は夜勤 のあるフルタイムの仕事の中、病に倒れた 母親を引き取る事になった。 時間的に体力的に不可能に思えた。 しかし、環境はどうにもならない。 彼女は祈り、み言葉に従って、一日だけ! 生きる事を実行した。今日一日だけ生きれば 良いのだ。主に頼り、祈りつつ一日を生きた。 すると、周囲から思いがけない助けがあり、 母親の回復まで全面的に守られた。
2002年06月29日(土) 「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚され・・」(Uコリント11:3)
「蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚され・・」(Uコリント11:3)
「なぜ、このような事が・・」との罪に陥って 行く人々を見る時、他人から見れば、それ を避けるのに、そんなに困難に思えなか ったりする。つまり、サタンはそれほど巧 妙だということだ。エバをだました蛇が 「・・の内で一番狡猾であった」と記されて いる。サタンは変装して現われる。サタン のなりをしてはやって来ない。「お前の 人生を目茶苦茶にしてやる」などと言って 来はしない。友人の顔をして近づいて くる。光の御使いに偽装し、正義の振り をして現われる。私達の罪深い欲望に 餌を近づけ、釣り上げる。誘惑は私達 の願望に合致するので、簡単にだまさ れてしまう。サタンの偽りを見抜くのは 祈りだ。祈りの生活、主と親しく交わる 生活をしているなら、サタンを見破る 事ができる。絶えず嘘を、又、真実に 偽りを混ぜて語りかけてくる。これが 見分けにくい。聖霊が気づかせて下 さるよう祈れ。
2002年06月28日(金) 「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:5)
「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい」(ヘブル13:5)
金銭を持つ事は罪ではないが、金銭を 愛する事は問題だ。金銭に執着すると、 容易に偶像になりうる。この世では、富 みイコール幸福だ。世間では、金持ちに なれば幸せになれると信じられている。 しかし、そうではない事は言うまでも無 い。富を持つと満足するのではなく、持 てば持つほど更に貪欲になるようだ。 ザアカイは富が幸福をもたらしてくれる と信じていた。しかし、その心は全く満 たされる事無く、虚しさと孤独、寂しさ に暗く沈んでいた。そこから救い出し、 真の喜びと平安を与えてくれたのはイエ スであった。 心が満ち溢れる喜びであった。 ザアカイはもう富の執着から見事に開放 された。富は何も与えてはくれなかった 人はこの世のあらゆる物を手に入れたと しても主を持たなければ、無駄。 真に心を満たすのは主。心の喜びと平安 はお金で手に入れることは出来ない。 あなたは主の愛に満たされているか。
2002年06月27日(木) 「もし、からし種ほどの信仰があったら・・どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(マタイ17:20)
「もし、からし種ほどの信仰があったら・・どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(マタイ17:20)
ドライバーが「この車ブレーキが故障 してねえ、でも、絶対に大丈夫なんだ」 と言ったら、その車に同乗するだろうか きっとうまく断るに違いない。 いくら運転手が確信を持っていても信じ るに足るものを信じないと意味が無い。 いくら強い確信があっても無意味だ。 主も、私達にからし種ほどの信仰があれ ば、と言われた。 からし種を見た事があるだろうか。 驚くほど小さくてほとんどシミか黒点に しか見えないほどだ。こんなに小さな、 か細い祈りを神は聞きとって下さるのだ 自分の信仰がどんなに小さく思えても、 神は受け取ってくださっている。祈り続 けよう。信仰がどんなに小さくても、常 に問題はその対象であり、どなたを信仰 しているかだ。大波のように揺れ動く人 生の中で、決して動じる事の無い岩なる お方こそ信頼に足る全能なる方。
2002年06月26日(水) 「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり・・御霊による心の割礼こそ割礼・・その誉れは人からではなく、神から来る」(ローマ2:28)
「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり・・御霊による心の割礼こそ割礼・・その誉れは人からではなく、神から来る」(ローマ2:28)
子供が小さい時、手かせ足かせに 感じ、何も出来ないとイラ立つ。又、 自らが高齢になったり、親を介護 するかも知れない。自分が病気に なるかも知れない。家から出られ ないと、神に奉仕する場が無いか のように感じ、孤独になってしまう。 しかし、神に仕えているのに、行 動範囲は問題ではない。むしろ、 その中で豊かに祝福し、成長さ せて下さる。実は、外に出られな い制限は良いものだ。私達の肉 の欲望を断ち切ってくれる。 人に見られたい、人の賞賛が 欲しい。人に良く思われたい、 根深く巣くう、そういう肉欲が断 たれ、神のみを意識した隠れ た奉仕が出来るようになる。 隠れて祈るのだ。沢山の執り 成しの祈りができる。その 隠れた一つ一つを神は見られ、 報いて下さる。神はあなたを 変えようとしておられる。 人前でなく、神の御前に生き るように根本的に変えて下さ る。隠れた奉仕をせよ。
2002年06月25日(火) 「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた」(出エジプト16:21)
「彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた」(出エジプト16:21)
神は何も食べる物の無い荒野を行く イスラエルの民に毎朝、天からマナを 降らせられた。朝毎に集め、それらが 彼等の一日の食料になった。昼に出て 行ってもマナはもう無かった。 必ず朝に集めなければならなかった。 もし、朝早く拾わなければ、厳しい荒 野を行く一日の体力は持たなかった。 私達は毎日朝に天からの糧を得ている だろうか。朝に食料が無いなら力が無 く、潤い無く、喜びが無く流されてし まう。あるバレリーナ-は「練習を一日 休むと自分にわかり二日休むと周囲に わかり三日休むと観客にわかる」と言 った。毎日の絶える事の無い糧はどう しても必要だ。 欠くべからざるものだ。そして、朝の 食糧と共に、一日中神との絶え間無い 交わりに生きる事だ。絶えず祈りなさ いとあるように、一日を交わりの真っ 只中で祈り心で生活して行く事だ。 潤いと喜びがこころにある事に気づく。
2002年06月24日(月) 「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかを・・」(ローマ12:2)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかを・・」(ローマ12:2)
神のみこころを知りたい時どうすれ ばよいのか。まず神の導きは神が示される どんな事にでも従う用意のある人にだけ示 される。従う気もないのに、示しても無駄 だからだ。それゆえ意思を神に明け渡して いるならすでに九割まで達している。 聖書にはっきりと原則が記されている事柄 はそれに従うべき。それ以上の導きはない 聖書がはっきりと言っていない事はどうか どの音楽を聴くか。どのテレビ番組を見る か。何を買うのが良いか。原則を適用して 行く事によって判別して行く。 神は理性を与えてくださっているので、良 く考えて聖書と照らし合わせる。 霊的指導者の助言を聞く。人生には極めて 重大な事と枝葉の事がある。 その区別も必要。紅茶かコーヒ-で迷って も別に人生が変わってしまう事はない。 しかし、結婚や進路等大切な事柄は慎重に 良く祈って明確な御旨を求めるべき。
2002年06月23日(日) 「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」(マタイ25:16)
「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた」(マタイ25:16)
神は一人一人のクリスチャンに御霊 の賜物を与えて下さっている。これ は一人の例外もない。神の与えて下 さった賜物で神に仕えて行く時、ク リスチャン生活が生き生きしたもの になる。自分の賜物をよく知り、 それを用いる責任がある。もし、ま だ自分の賜物がわからなければ、 第一によく祈ることだ。神は機会 に光を照らし、その賜物を教えて 下さる。発見する機会も与えら れる。その賜物を使って行く時、 自らも喜びがあり、また、必ず 周囲が祝福され、周囲の徳を高 めて行く。バイオリンの製作者 で有名なストラディバリウスは 言った「神はアントニオ無しに アントニオ・ストラディバリウス をお作りになる事はできなかった」 神はあなたを用いられる。あな たにしか出来ないことがある。 神はあなたを用いてそれをされ そして、すべての栄光は神に 帰されるのだ。
2002年06月22日(土) 「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」(エレミヤ45:5)
「あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな」(エレミヤ45:5)
誰しも自己顕示欲がある。自己中心を押し 通して行くと、自分が人に認められたい、 場の中心でないと気がすまない、主役に なりたいとの思いが高じて行く。人の話 は聞かず、自分ばかりが喋る。脇役より 主役になりたいのだ。しかし、神は全く 違う。自分を捨てること、自分に死ぬこ とで正反対だ。人からの評価は神から 来るものだ。神が責任を取って下さる。 神に自分自身をすべて任せているので 平安だ。人からの評価に動揺すること はない。人が自分より認められても 動じない。神が最善をされることを知 っているし、信じているからだ。 人の成功を共に喜ぶことができる。 人と同様に、自分にも神は良くして 下さることを知っている。不当な 扱いを受けても、謙遜を学ぶための 神からの取り扱いと受け止めること ができる。主イエスは全くご自分を 守ろうとされなかった。御父にすべて を完全に委ねて平安でおられた。 これが平安の秘訣だ。
2002年06月21日(金) 「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5)
「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」(詩篇30:5)
一人の婦人が集会で恵まれ神の示し を受けて献身の決心をした。 喜んでいたその一週間後だった。不況 の折り夫の会社が倒産したのだ。 なぜ、どうしてとは思わなかった。大 きな試練を不安の内に受け止める事が 出来た。そして、献身したのになんで、 ではなく、神はあらかじめこの試練を ご存知で、しっかり受け止めるよう、 献身の恵みを下さったと思えた。 家族を抱え、次の職はなかなか見つか らなかった。しかし、平安与えられ神 は必ず好くして下さると信じれた。 少しばかりの貯えでつないだ。 貯えも底をついた頃、今まで必要与え られ、健康も神に感謝し、現在の状況 について神に祈った。すると、奇跡的 にその後すぐに仕事が与えられたのだ 神はいつも備えていて下さる。 何も見えない時も信じよう。あの何も ない荒野でイスラエルの民にマナを降 らせて下さった神だ。必要与えられる。
2002年06月20日(木) 「その後もやもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」(ルカ2:37)
「その後もやもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた」(ルカ2:37)
ある婦人は、老後の実母を引き取り 介護していた。外出はままならず、 教会の様々な行事への参加も制限され た。その制限も少しづつ増し、失望落 胆に襲われそうになった。 現在の状況、自分の気持ちを神の前に 広げ、打ち明け、どうすればよいか、 何が出来るのかを神に祈った。その時 に、神はアンナが祈りを持って神に仕 えていた事を示して下さった。祈りで 神に仕えるなどと考えた事もなかった 朝昼夜、いつでも祈りで神に仕える事 が出来るのだ。彼女は喜びに溢れ、今 祈りで仕えている。神は私達にも祈り の奉仕を与えておられる。 祈りで仕える事が出来るのだ。これは どのような境遇の人にも可能だ。 あなたも祈りで奉仕が出来る。これは 神に栄光を帰し、祈り手本人にも、祈 られた人達にも、大きな祝福となる。
2002年06月19日(水) 「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)
「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブル13:5)
海外留学をしていたある学生。家族、 友人達と離れた異国の地で一人暮らし だった。ある時、深い孤独感に襲われ た。ホームシックにかかり、一人ぼ っちに感じられた。毎日毎日多忙な スケジュールに流されていた。突然 心にぽっかり穴があいたような虚し さに襲われた。将来に対する不安と 共に、自分がなぜここにいるのかが わからなくなりそうだった。窓の外 は霧が立ち込めていたが、ふと目を やると、明るい太陽の光線が差し込 んで来た。ふっと神を思い、神が共 におられることを感じさせられた。 忙しさにかまけて、神との交わり をおろそかにしていた事に、気づ かせられた。不安と虚しさはそこ から来ていたのだ。神との時間を 取り、神と交わった。豊かに報われ みこころに従って、今の場所にいる 事、将来も御手の中であるこ事を 思い起こさせられ、平安が戻って 来た。神との交わりから離れる時、 霧の中にさまよう。
2002年06月18日(火) 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)
あなたはどうだろうか。神がありのままの、 そのままのあなたを愛して下さっている事を 信じているか。ある人々はひときわ自分を責 める。いつも罪意識にさいなまれる。 まるで父なる神よりも罪意識の方が親しい道 連れのようだ。こんな自分が神に受け入れら れるはずがないと思う。もっとましな人間に なるなら、もっと霊的に成長するなら神は愛 して下さるに違いないと、無意識に思ってい る。ある時、いつものように自分を責めてい ると、御声が聞こえて来た。「まだ罪人であっ た時、キリストが死んで下さったことにより 神は私達に対する愛を示された」 立派な者、霊的に成長した者のためでなく罪 人のために死んで下さった。 「わたしのもとへ来て憩え」神の御腕の中で安 全に安らいでいてよいと言われる。 私達は完全に愛されているのだ。
2002年06月17日(月) 「風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)
「風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震のあとに火があったが火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった」(T列王19:12)
学生の頃の休み時間に、覚えがあるだろう あちこちグループにわかれ、三々五々お喋り に花が咲いている光景を。教室の端から端の 友達に声をかけようとするなら大きな声で叫 ばなくてはならない。様々な声が飛び交って いるので、真剣に聞こうとするなら耳を澄ま して聞き取らねばならない。更に真剣に聞く には、外へ出て静かな場所に行かねばならな い。身体中を耳にして話を聞こうと注意を集 中したように、神のみ声に耳を傾けなければ ならない。神が大声で話して下さったらよい と思うが神のみ声は細い細い小さな声だ。 他の事柄に気を取られていると、聞こえない 心を神に向ける事、また、静かな場所へ行け ば邪魔されずに、心を集中させ神と語る事が 出来る。み声を聞いて従おうとの心の態度が 重要だ。
2002年06月16日(日) 「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」(詩篇102:17)
「窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです」(詩篇102:17)
ある人が仕事で海外に赴任した時に、 旅行が好きで、赴任先であちこち旅行 していた。それもよく遠出をした。ある 時、山中で日が暮れてしまった。飢え をしのぐ食べ物と休む場所のために 祈った。勿論、購入できる店などない。 山中に明かりが見え、幾軒かの家が 見えた。祈り続けていると一軒の家 に、特に心がひかれ、戸を叩いた。 事情を話すと、その家の夫妻は 喜んで迎え入れてくれた。夫人は 夕食準備の真っ最中、美味しそうな 匂いが漂っていた。素晴らしい夕食 と交わりのひと時であった。そして、 何と彼らは同じ神を信じるクリスチ ャンだったのだ。夫妻を通しての 御父の愛と心遣いに身を浸し、 霊肉共に潤いと恵みに満たされた のであった。御父は常に良きもの を与えて下さる。その配慮は生活 全般に豊かに及んでいる。
2002年06月15日(土) 「主が「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた」(Tサムエル3:13)
「主が「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた」(Tサムエル3:13)
サムエルは主から呼ばれた。しかし、エリが 呼んでいると思った。エリに「しもべは聞きま す。主よ、お話くださいと言いなさい」と言わ れた。サムエルのように私達も神からの呼び かけに気づかない事がある。又、モーセは 神からの明確な導きを受けたが、自分には 出来ないと尻込みした。神は私達に語って おられる。しかし、私達の側で周波数が 合っていない。私達の関心が世の事に向 いているなら、神の呼びかけは聞こえない。 又、モーセのように、神の御声を聞いて、 言い訳をするかも知れない。私達は神に 従わないための多くの言い訳を考え出す ものだ。聖霊様は毎日の生活の中で促 される。あなたも心に促しを受けているか。 それは小さな事柄かも知れない。しかし、 神からの促しだ。
2002年06月14日(金) 「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:8)
「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています」(ヤコブ3:8)
ある会合で、欠席した人達への非難と 悪口がささやかれた。その話はここだけ という事になっていたが、軽率な人が外 部に漏らした。すると、またたく間にそ れが広がり、欠席した人々がその非難を 知るところとなり、怒りと敵対心が芽生 えた。思いやりのない言葉は、大きな火 事を起こす。 「あのように小さい火があのように大き い森を燃やす」とある通りだ。 私達も同様だ。思いやりのない言葉を口 から出してはならない。重大な損害と被 害を及ぼす火事を起こしてしまう。 あなたは以前に口で失敗した経験がある か。間違った時は悔い改めるべきだ。 そして、聖霊の満たしを求めて、あなた の口を聖霊にコントロールしてもらうべ きだ。聖霊のコントロールに委ねる時、 御霊の実が言葉に現われて来る。 愛の言葉、喜びの言葉、平安、寛容、親 切の言葉・・そして自制ができる。
2002年06月13日(木) 「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の得を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の得を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)
日常会話において、指針となる三つの 事柄がある。「愛をもって真理を語り」 とあるように、今から話しそうとしてい る事は「真実か」「必要な時」とあるよ うに、「今、必要か」人の得を養うとあ るように「思いやりがあるか」。 往々にして、まったく言う必要のない事 で、人の得を建てない。 「むだなことば」は、さばきの日に罪に 定められる。あなたが話そうとする時、 聖霊が何度か、とどめられなかったか。 それは言うべきではないと。真実かもし れないが、言う必要のない事だと。 事実であり、真実であっても、言う必要 のない事は多い。人の得を建てず、聞く 人の益にならないからだ。あなたの口を 聖霊に支配していただく事だ。 心から溢れる事を口が語る。心が聖霊に 満たされている事だ。おのずと人を建て 人に恵みを与える言葉が口からついて出 る。
2002年06月12日(水) 「私はいったい何者なのでしょう・・イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは・・わたしはあなたとともにいる」(出エジプト3:11)
「私はいったい何者なのでしょう・・イスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは・・わたしはあなたとともにいる」(出エジプト3:11)
モーセは神から「行け。わたし の民をエジプトから連れ出せ」 と命令を受けた。以前のモーセ は自分は救う力があると思って いた。しかし、民はモーセを 拒否し、一人の男を殺して、 モーセは逃げた。荒野へ逃れ、 羊を飼い何年も過ごした。そん な自分に、もう何の力も見い出 せなかった。自分には荷が重過 ぎた。自分の能力では不可能に 思えた。しかし、神はモーセの 力を要求されたのではなかった。 モーセには不可能だが、神には できる。神には不可能が一つも ない。私達も自分の力と能力、 弱さを見る時、不安になる。 神は「わたしはあなたと共に いる」と言われる。私達は自 らの力ではなく、神の中に力 を見るのだ。あなたは何か困 難な事に導かれているか。 それなら、神はあなたの能力 でなく、あなたが神を信頼す る事、そして、従う事を求め ておられる。神に不可能は無 い。
2002年06月11日(火) 「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ」(詩篇34:9)
「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ」(詩篇34:9)
あなたの恐れは何だろうか。人は様々なもの を恐れながら生きている。 経済的な恐れ、対人関係の恐れ、仕事がうまく 行くだろうかの恐れ、老後の恐れ、健康を損な う恐れ・・。ダビデはどうだったろう。 いつも命をつけ狙われていた。命に係る事なの で、恐れて当然だった。しかし、ダビデは恐れ に対処する方法を知っていた。恐れと戦う時に は恐れを用いるのだ。神を恐れるのだ。 神を恐れるなら、全ての恐れから開放される。 神を恐れる人は、人を恐れない。 神を恐れて神のみこころに従う時、神のみここ ろの中心にいる時が一番安全なのだ。 この世に安全はない。不安だらけのこの世界で 確かなもの、確かな安全が欲しいなら、神を畏 れ、神に従う事だ。どんな逆巻く不安の中でも 心は平安だ。主はあなたの必要を必ず満たして くださる。喜びを持って主に仕えよ。
2002年06月10日(月) 「わたしの枝で実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨハネ15:2)
「わたしの枝で実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨハネ15:2)
葉が茂り過ぎると必要な養分が実に 行かないので、剪定がなされる。 ハサミが入れられ刈り込まれるのは痛い。 私達の霊的生活にこの事が行われる。 もっと多くの実を結ぶための刈り込みは、 神からの懲らしめかも知れない。 不従順のゆえの矯正かもしれない。 しかし、痛みにばかり目が行き、神の目的 を誤解し受け取り損ねる事がある。 自己憐憫に陥り、いじけてしまう。そうで なく、祈りを待って霊的生活を点検してみ よう。不従順はないか。なおざりにしてい る、無視しているみこころはないか。 た私達をもっと霊的に成長させようとして おられる事を見るべきだ。 私達が多くの実を結び神に栄光を帰する事 は神の喜ばれる事だ。苦しみ、悲しみ試練 によって、多くを学ぶ。私達の痛みに、神 は目的を持っておられる。試練は成長し、 もっと実を結ぶ良い機会だ。
2002年06月09日(日) 「主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに私の祈りはあなたのところに届きます。主よ。なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠されるのですか」(詩篇88:13)
「主よ。この私は、あなたに叫んでいます。朝明けに私の祈りはあなたのところに届きます。主よ。なぜ、私のたましいを拒み、私に御顔を隠されるのですか」(詩篇88:13)
詩篇には、試練にある人々が嘆き の気持ちをそのまま言い表してい る箇所がよく出てくる。私達も詩篇 記者のように、正直に神に向かう のがよい。ありのあままの気持ち を神に告げよ。神はその気持ち をしっかりと受け止めて下さる。 私達は自分の「気持ち」を受け 止めてもらえたと感じる時、ほ とんど癒されるものだ。問題や 困難は良い事だ。逆説的だが それによって、結局、神に近づ けるのだ。悩みと苦しみによ って、私達は多くの事を教え られる。いつも問題のある度 に、神が何を学ばせたいの か、よく悟れるように祈る必 要がある。私達は真実でな くとも、神は常に真実だ。 ある人が言った「試練に 会わなければ、ご自分の民 を決して見捨てられない 神の真実を賛美できない」 試練の時、心の内を神に ことごとく告げて、御言葉の 真理に立とう。
2002年06月08日(土) 「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペソ5:21)
「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペソ5:21)
現代社会では、離婚が大変な勢いで 増加している。しかし、マラキ書で は、神は「わたしは、離婚を憎む」 と言っておられる。又「あなたの 若い時の妻を裏切ってはならない」 とも言っておられる。単に時間そ のものが不幸な結婚を幸福なもの に変える事はない。二人の間で 神の与えて下さった結婚を建て 上げる努力が必要だ。それは祈 りであり忍耐や自制、寛容、親 切が必要だ。又、周囲の励まし や霊的指導者からの賢明な 助言も必要だ。もう離婚だ! との結論に行きそうな時、 神と御言葉に帰れ。壊すのは 簡単だ。しかし、神のみここ ろは建て上げることだ。それ には、まず自分自身が神に 従い、そして互いに従い 合うことだ。他の対人関係 も同様だ。どちらか一方 が変われば、その関係は 変えられて行く。そのため に、自分自身がまず変えら れること。変わろうとして いる人には必ず神の御言葉 がわかり、御声が聞こえる。 心砕かれているからだ。 あなたはまず自分が変わろ うとしているだろうか。
2002年06月07日(金) 「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(ピリピ1:29)
「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです」(ピリピ1:29)
近年沢山の人々が海外旅行するように なった。ある旅行会社がOL達に、なぜ 海外旅行へ行くのかのアンケートをした 事があった。すると、その回答の多くに 煩わしい日常、又、同じ事の繰り返しの 日々から逃れて、ひととき楽しく過ごし たい、というものだった。 この世界の多くの人は、クリスチャンは 現実逃避しており、信仰とは弱い人がす るものと考えている。問題や現実に立ち 向かって行けない人が逃避するものと思 っている。しかし、信仰とは精神安定剤 の薬のようなものではない。 なぜなら、迫害に耐え、罪と戦い、多く の人々が命を捨てた。世界中の宣教師が キリストに従う事は苦難や困難が必ずあ ると明言している。 現在は殉教するというような迫害に会う 事はないかもしれないが、苦難や試練は 必ずある。逃避ではなく、信仰とは立ち 向かうものだ。その力が与えられる圧倒 的な勝利者だから。
2002年06月06日(木) 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ:15)
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ:15)
悔い改めとは、罪に背を向けて、180度 方向変換をして、神に向かう事だ。 救いは悔い改めから始まる「罪」に対する考 え方の変化だ。今までに慣れ親しんで来た罪 を、悪とし、言い表し、拒絶する事だ。 それがイエス・キリストを信じ、罪赦される事 救いへと結びつく。 信じた時だけでなく、天国へ行くまでクリス チャンは罪を犯すたびに、告白し、赦され、罪 を捨てなければならない。 悔い改めは一生涯継続される罪に対する態度な のだ。罪に対する見方が変わり、神が見ておら れるように、罪を見るようになるのだ。 神の目で罪を見て、それが悪であり、それを犯 したのが紛れもなく自分である事を認め続けな ければならない。その時、十字架の血潮による 救いが自分のものとなる。神は義であり罪を裁 かれるが、同時に、神の憐れみは尽きる事なく、 注がれている。ただキリストの犠牲のゆえに、 あなたの罪は無代価で赦される。
2002年06月05日(水) 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの父を慕い求めなさい。それによって成長するためです」(Tペテロ2:2)
「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの父を慕い求めなさい。それによって成長するためです」(Tペテロ2:2)
よその子供を久し振りに見る と、その成長が早いのに驚か される事があるだろう。「え、 もうこんなに大きくなって」 子供はぐんぐん成長する。す ぐに服が着れなくなる。すくす く成長して健全だ。もし、赤ん 坊がいつまでも大きくならず、 ずっと赤ん坊のままだったら どうだろう。異常でおかしな事 だ。しかし、時折りいつまでた っても、赤ん坊のままのクリス チャンもいる。10年20年経て も信じた時のまま、赤ん坊の ままだ。自我が砕かれておら ず、自分の思い通りにならな いと、泣きわめく。自己中心 でわがまま。周囲を自分の思 い通りに動かそうとし、思う ようにならないと、すねる、い じける、心を屈折させる。 あなたはどうだろう。神のみ こころは皆が成長する事だ。 霊的子供から大人へと必ず 成長させて下さる。それは 御言葉の乳によって。神との 交わりによって成長する。 御言葉を聞け。
2002年06月04日(火) 「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)
「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)
あるバイブルクラスで、「赦し」について 語り合いの時を持った。7度を70倍するま で許す事、主が赦して下さったように赦す事 を学び、自分達の経験から色々な思いを語り 合った。ある人が自分の見解を語ると、別の 人が違う見解を語った。 すると、反発が起こり議論になってしまった それぞれの考え方があり、互いに譲れず何と 言い争いになったのだ。集会は終わったが、 皆が後味の悪い思いで帰って行った。 神は実際的な事で試され取り扱われた。 赦しについて学び、語り合いながら、互いに 裁き合っていたのだ。自分達の姿を露呈して しまったのだ。口では神の愛、互いに愛する 事、赦し合う事を言いながら、実際の行いで は、そうではない事をさらけ出す。 神は私達の本当の姿を見ておられるが、自分 が知らない。神が見ておられるように見れる ように。
2002年06月03日(月) 「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27)
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27)
一人の男性が自分の妻に癌が発覚した 病院ではチーム編成され綿密な治療計画 が練られた。治療の計画が立って行った 妻の介護のため、仕事の調整を考えなけ ればならなかった。今後の事を考えた。 また、妻の闘病生活を思った。これから 絶えなければならない痛み苦しみを思っ た。自分達夫婦にとって、どんなに厳し い困難な時期になるかを思い涙が出てき た。余りの重荷の大きさに圧倒されそう だった。その時、突然、空に見事な素晴 らしく綺麗な虹が出ているのを見た。 余りの素晴らしさに見取れ、その時、そ の自然を通し神を感じた。 神の慰め、慈しみ、愛に包まれる感じを 抱いた。その虹に神を見た。 恐れと不安、思い煩いは消え、暖かい温 もりと平安に心が包まれた。これから厳 しい事態が待っているが、同時に神が共 におられ、尽きる事のない愛と慈しみを 注いでくださる事を知った。 神が共におられる。
2002年06月02日(日) 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4)
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:4)
神は御子イエス・キリストをこの世 に送って下さった。その御子の内 に「いのち」があり、このいのちは 人の光であった。すべての人を照 らすまことの光であった。この光は 私達のせ界を、そして私達の心を 照らし出している。この光は良い人 の上にも悪い人の上にも、太陽を 上らせ、正しい人にも正しくない人 にも雨を降らせて下さるごとくに 輝いている。同じように光を受けて それに気づくか気づかないかで、 永遠の行き先が分かれてしまう。 光によって足元が照らされ、暗闇 の道を歩くことができる。主の御 言葉により人生を間違いなく進む ことができる。暗闇では見えない ほこりや汚れが太陽の光で、は っきり見える。私達の罪は聖霊 の光で、はっきり見える。光に より見えると、対応が出来る。 十字架の血潮により新しくされ きよめられて新しく造り変えら れて行く。照らし出す光、いのち の光、主と共に常に歩め。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 主は光。心の暗闇を照らし出して下さる。まず、 自分の本当の姿が見えない限り、変わりようが 無い。見える罪はきよめられて行く。光に従おう。
2002年06月01日(土) 「私は見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(ハバクク2:1)
「私は見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう」(ハバクク2:1)
モーセが神の山ホレブにやって 来た時、柴の中に炎を見た。よ く見ると、火で燃えているのに、 柴は燃えつかなかった。彼は 不思議に思い、この炎をしっか り見定めようと近づいた。モー セがその光景をじっと見てい ると「あなたはやっとわたしに 注意を向けたか」と言われた かのようだった。神は「モーセ モーセ」と語りかけられた。 神は同様に、私達にも語り かけておられる。ところが、あ なたの注意はどこに向いて いるか。この世の事で一杯か。 注意散漫で神のことに集中し ていないか。神は色々な燃え る柴で語られる。礼拝メッセ ージかも知れないし、友人の 忠告や助言かも知れない、 聖書学び会の中かも知れ ない。気に留めないで聞き 逃したか。あなたの注意を 引こうと待っておられる。 もっとよく見ようと近寄る時、 主の御声が聞こえる。あな たは神に近づく必要がある のではないか。