2016年09月30日(金) 「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」マタイ11:28
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」マタイ11:28
口を開けば、愚痴、不満が出て来る人々がいるだろうか。周囲は、 いつも愚痴を聞く事になる。そんな人はどんな環境にいても、必ず 不満が出る。「あの人の顔を見るのも嫌だ」「あの上司さえいなけ れば」「家族がかまってくれない」「忙しくてうんざりだ」「時間 が無い」「相手が配慮してくれればよいのに」「身体が弱くて」・・ 不満を探し出してはつぶやく。 しかし、完璧な環境にいる人など一人もいない。生い立ちの不満は 多々あるが、しかし完全な親も一人もいない。状況だけを見ると、 それがどんどん膨らんで、不平不満でいっぱいになる。「何で自分 だけ」「自分ばかりが」・・、自分、自分になって、自分は可哀想 と、自己憐憫に陥る。 状況と自分を見ている時、神が飛んでいる。神が無いので、状況に 押しつぶされそうになる。心は落ち込み、暗く、沈む。すべてが自 分の肩にかかり、自分が何とかしなければと思うので、ますます苦 しくなる。「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに 来なさい」との言葉通り、主のもとに行く事が答えだ。まず、心の 内の何もかもを、あるがまま打ち明けて、祈ろう。 主と交わる時に、主に触れる時に、次の展開へと導かれる。悔い改 めに導かれたり、又、神視点で見るように変えられ、状況は変わら ずとも心に平安が来る。又、もし御心なら状況も変えられる。まず 主のもとへ行こう、「愚痴」も主に向けるなら「祈り」だ。その祈 りから、次の展開へと、一つ一つと教え導かれて行く。 ---------- 主につぶやくならそれは祈りとなり、御霊の促がしによって主のお 心に触れる。不思議に心は立ち上がる。その繰り返しだ。心の重荷 に気付いたら主と過ごそう。主にすがろう。
2016年09月29日(木) 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」ヨハネ6:26
主は、五つのパンと2匹の魚を用いて、驚くべき奇跡をされた。空 腹の大群衆が皆、満腹したのだ。それを見た群衆は、主を王として かつぎ上げようとした。しかし主は「あなたがたがわたしを捜して いるのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したか ら」、群衆が主をかつぎ上げるのは、パンのためだと言われた。 主の奇跡に、神の恵みを見て、この方こそ、生ける神、主キリスト だと信じたからでない。求めていたのは、ただただパンであり、今 後もパンが欲しい。自分の願望のために、つき従っていると。満腹 とは、自分の欲望が満たされる事であり、自己実現だ。肉の喜び、 肉の満足であって、そこに神である主や、神の恵みを見る事はない。 主は求めよと言われる。与えて下さる。しかし気をつけなければ、 私たちの祈りは、ひたすら自分の欲望を満たす手段となってしまう。 そして、願望が叶えられなければ、主のもとを去る。パンに満腹し た群衆はそうだった。主は、そんな私たちをあわれみ、正しく導く ために、時に、思い通りでない答えを与えられる。よく動機を探ら せ、省みさせて下さる。 「ノー」の答えがあり、すぐに叶えられない祈りがある。その中で 心を探り、取り扱い、御心に適った者へと変え、成長させて下さる。 思い通りにならない状況は実は大きな恵みだ。必ず成長へと導かれ る。 ------------- 高揚する御言葉を聞いたり、祈りが叶うと満たされたように思い、 耳の痛い御言葉やノーの祈りは、反発もしないが静かに受け流す。 そんな信仰生活に慣れていないだろうか。成長していきたい。
2016年09月28日(水) 「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる」箴言29:25
ある人が職場の付き合いで悩んだ。しょっ中、飲み会がある。した くて参加するなら良いが、自分は飲まないし、頻繁には苦痛でたま らず、もっと他の事に時間を使いたい。したい事が様々ある。しか し断れなくて、嫌々ながらズルズルと参加していた。深夜までの日 が続くと、心身共にしんどくてたまらない。それなら断ればと思う が、そこが自分の弱さだった。 断る事ができない。「ノー」が言えないのだ。人にどう思われるか が気になって仕方がない。ある日、祈りの中で、そんなズルズルべ ったりな自分の姿が見せられた。人を恐れている。主に従っていな い事に気づかされた。人の目ばかりが気になり、主も、信仰も、飛 んでしまっていた。 主ではなく、人に良く思われたいと思っている自分に気づかされた。 ことごとくを主に告げ、御前に切に祈った。「人を恐れるとわなに かかる。しかし、主に信頼する者は守られる」。「主に信頼する者 は守られる」との御言葉に励まされ、そうだ!と思えた。自分は自 分で良いとの思いが来た。 そして主の力によって、信仰によって、断る事ができた。そして主 に従う決心をした時に、仕事も対人関係も主が守られたのだ。 「ノー」が言えた事が、何よりも神のみわざで、信仰の前進であっ た。「弱さ」の中にこそ、御力を現して下さる。主のもとに行こう。 ----------- 自分には「ノー」が言えないが、そこが弱さだと気付いたなら、そ れを祈りとできる。目の前の人間関係は大きな影響力に見えるけれ ど、真に頼るべきお方が私たちを心配し、生きて働いてくださる。
2016年09月27日(火) 「あなたがたは、あすのために身をきよめなさい・・聖絶のものを、 あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない」 ヨシュア7:13
「あなたがたは、あすのために身をきよめなさい・・聖絶のものを、 あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない」 ヨシュア7:13
イスラエルは、エリコ陥落の大勝利後、アイを攻めようとした。ア イに偵察を送ると、二、三千人行けば大丈夫、というものだった。 それで、ヨシュアは、三千の兵を送った。主が共におられ、今まで のように大勝利のはずだった。ところが、何と敗北し逃げ帰った。 36人が敵に殺された。その結果「民の心はくじけ、水のようにな った」。 主の大いなる奇跡でヨルダン川を渡り、エリコの城壁が崩れ、奇跡 に継ぐ奇跡で進軍して来たのが、それが敗北とは。ヨシュアは衣服 を引き裂き、長老たちと共に、主の箱の前で夕方まで地にひれ伏し、 頭に塵をかぶった。負け知らずが、小さな町に敗北した。衝撃だっ た。まさに大いなる神が共にいるというので、周囲の部族も、イス ラエルを恐れていたが、この敗北で、これからどうなるのか。 それよりなぜ?神が共におられないなら、この先やって行けないで はないか。ヨシュアは叫び祈った。「ああ、神、主よ。どうしてヨ ルダン川を渡らせられたのか。何をなさろうとするのか」。すると 主は、イスラエルの中に罪がある事を示し、民をきよめるようにと。 敗北の原因は、罪によると答えられた。 アカンが罪を犯していた。ヨシュアは、示された通りに対処した後、 再びアイに攻め上った。その時、大勝利を与えらえれた。罪は小さ な事ではない。神の働きをしゃ断してしまう。赦しが備えられてい る。すぐに主のもとに行くなら、罪を赦し、すべての悪からきよめ て下さる。 ----------- たいした罪はないと思うときも、罪を認めようとしないときも要注 意だ。どちらも主の光が届いていない。いつか敗北で示される。謙 遜に罪に敏感になり認めて悔い改めよう。主の光の内を歩もう。
2016年09月26日(月) 「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創世記22:1
「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた」創世記22:1
アブラハムは長い忍耐の末に、神から約束の子イサクを与えられた。 どんなに愛情を注いだ事だろう。目に入れても痛く無い、最愛の我 が子だったろう。そのアブラハムに最大の試練が臨んだ。神からの 試練であった。その愛する息子イサクを全焼のいけにえとして献げ よというものだった。最愛の我が子を殺すより、もう充分生きて年 老いた自分が死ぬ方がどんなに楽だったろう。 それにイサクは約束の子だ。天の星のようになるとの、子孫の約束 はどうなるのか?自分の聞き間違いではないのか?様々な思いが駆 け巡ったろう。しかし、アブラハムは今までの神との深い培われた 交わりの中で、神の御声との確信があり、神への信頼があった。 「翌朝早く」、決断し、ぐずぐずせず、すぐに神に従った。 そして、御声に従い、刀を取って、自分の子をほふろうとした瞬間、 神が止められた。代わりのいけにえとして、雄羊が備えられていた。 神に従う道には、必ず「主の山に備えがある」。今まで何度も何度 も、この事実を経験して来た。 信仰人生には、時に理解できない事が起きる。わからない事がある。 しかし、そんな厳しい試練の中も、「主の山の上には備えがある」 と信じて従おう。自分を委ね、従う時、「あなたが、このことをな し、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたし は確かにあなたを祝福し・・」と、大きな祝福にあずかる。 ---------- 試練の中に必ず脱出の道も備えられている。大きな問題、乗り越え られそうもない場面で信仰に立ち祝福を経験していこう。いつもそ こに主の素晴らしい備えがあった。
2016年09月25日(日) 「彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの 夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された」ルツ 1:2
「彼らがモアブの野へ行き、そこにとどまっているとき、ナオミの 夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された」ルツ 1:2
ベツレヘムにいたエリメレクと妻ナオミに、飢饉が臨んだ。その際、 即、偶像礼拝のはびこる、異教の地モアブへ移住してしまった。し かし、神の約束の地を捨てて外国へ行くのは、神の約束を捨て去る 事であった。ましてや、偶像の地に行くべきではなかった。目の前 の問題に、パニックになってしまい、すぐ目先の安心を求めがちだ。 しかしこれが間違いであった。問題から逃げようとばかりすると、 問題が更に大きく見えて、問題がモンスターになり、神が見えなく なってしまう。そして御心からそれてしまう。私達が遭遇する困難 には、一つ一つに意味がある。神の深いご計画があり、みこころが ある。それを避けて、別の道を探すのでなく、受け止める事が大事 だ。 飢饉は厳しい試練であったが、主の御手の中のこと、忍耐するなら、 いずれは主が豊作にして下さる。耐えられない試練は与えられない。 主を信じて、とどまる事が大切だ。更なる祝福と成長につながる。 今、目の前に苦しいききんがあるだろうか。その問題の中に、神か らのメッセージがあり、神があなたに学ばせたい事がある。豊かな 祝福と成長が隠されている。 モアブへ逃れるのでなく、約束の地にとどまろう。問題を受け止め て、よく祈り、御霊の示しに一つ一つ従おう。その時、厳しい状況 の中でも、心は何にも代えられない主の平安に守られる。そして主 ご自身を知って行ける。 ・・・・・・・・・・ 問題を見る時に、問題だけを見るのと、問題が主の御手の中にある と見るのでは、大きく異なる。主がこの苦しみの中で、何を教えて おられるのか、主のメッセージは何なのか。それを祈って行く時、 教えられて、この世の平安ではない、主の平安を経験する。
2016年09月24日(土) 「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7
「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7:7
祈りは学校だと言われている。私達は自然に自動的に、よく祈れる ようになるのではない。オートマティックではない。祈りは実践に より、少しづつ〃学んで行く。最初の頃は、何でも、とにかく祈っ て行くことが大切だ。初心者の頃は、自分本位な祈りだが、主は聞 いて下さることを経験する。 祈りについても初心者なので、よくわからないし、最初からうまく 祈れるわけではない。でも自分の事なら祈れるので、そんな求めに も答えて下さる。とにかく主に向くこと、主を呼ぶことを身につけ させて下さる。 そして段々信仰に進むにつれ、祈りについても教えられて行き、動 機の部分を照らされる。答えられない祈りがある事を学んで行く。 「ノー」の答えを知る。肉の欲望のため、快楽のための祈りである 事を知る。そんな動機を軌道修正しながら、御心にかなう祈りへと 変えられ、導いて下さる。 又、時間をかけながら、祈りが教えられる。時々、気まぐれな祈り、 思いつきの祈りをするが、翌日にはもう祈らない。本当に求めてい るものではないからだ。真の求めは祈り続けることができる。どっ ちでも良いような祈りは続ける事ができない。時の経過で祈りが精 査されて行く。 祈りの中には、忍耐をもって、長い期間、祈り続ける祈りもある。 魂の救いもその内の一つだ。忍耐を学び、その中で信仰が培われて 行く。そして御心にかなった祈りが答えられるので、主が自分に何 を求め、何を御心としておられるのかを、主の視点を求めるように 自分が変えられて行く。 ・・・・・・・・・・・ 祈りの中で、祈りを教えられて行く。長期間の祈りが求められてい る時も、途上で主からの励ましが来る。的違いの祈りなら、祈りを 変えるように、修正して行くように、それも教えられる。祈りの答 えを見張り、御言葉にも目を留め、状況を見つつ、祈って行こう。
2016年09月23日(金) 「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:16
主が十字架にかかり、復活したにかかわらず、郷里エマオにとぼと ぼと向かう二人の弟子たち。心は失意落胆、挫折感と絶望状態だっ た。そこに主がかたわらを歩かれ、話しかけられるが、主が全く見 えない、わからない。なぜ見えないのか。主はその原因を「愚かな 人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」 と、信じないこと、「不信仰」によると言われた。 弟子たちは主の復活を信じていなかった。だから、主が見えなかっ た。しかし、そんな不信仰な弟子たちを、放っておかれず、主の方 から近づかれた。そして何をされたかと言うと、聖書全体の中で、 ご自分について書いてある事柄を解き明かされた。復活を信じる事 ができるのは、御言葉による。 「信仰は聞くことから始まり、聞く事は、キリストについての御言 葉による」。弟子たちは主が解き明かされる言葉をしっかり耳をそ ば立て聴き入った。すると段々、心が燃えて来たのだ。その内に、 別れ道に来たが、もっともっと聞きたくて、主に一緒に泊まって下 さいと、無理に願った。せがんだ。 すると主は、その求めに応じ、一緒に来て下さった。そして、彼ら の目が開かれ、主イエスだとわかった。同じように今も、私たちと 共に歩んで下さっている。そして語りかけ、御言葉を解き明かし、 不信仰を信仰に変えて行って下さる。 ---------- 自分の思いや期待の声ばかり聞きたく気がつくと目の前の状況にし がみついている。主の御声をくりかえし意識して聞きたい。想定を はるかに超えた主の御言葉は、再び信仰を熱くしてくださる。
2016年09月22日(木) 「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」詩篇139:23
「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください」詩篇139:23
主は「思い煩うな」「心配するな」と言われた。これは、不毛な思 い煩いの事であって、物事をきちんと考えることは大切だ、そして 主と相談しながら、様々な計画をちゃんと立てる事も大事だ。脳天 気が良いのではない。これは不必要な思い煩いのことを言っている。 実体の無い亡霊の心配事だ。ああなればどうしよう〜こうなればど うしよう〜、まだ現実に何も起きていないのに、亡霊に悩まされて 恐れと不安にさいなまれる。すると目の前の御心を行なう事ができ なくなる。勿論、喜びや平安も無い。人間は悲観的傾向があると言 われている。目の前の事態をどんどん膨らませ、最悪のシナリオを 描いて行く。 その結果は、架空のとんでもない事態になっている。経験あるだろ うか。亡霊の不安にがんじがらめだ。これはサタンの思うつぼだ。 サタンとの戦いだ。心の中の「思い」が戦場なので、サタンは自由 自在に働けて、思いがグルグルし、わけがわからなくなる。思いを 紙に書き出すとよい。主観の思いから客観になる。光に出す事にな る。 何を心配しているのか。何が不都合なのか。どのように不安で、ど うなる事を、何を恐れているのか。それは自分の内側の何に触れる のか?プライドか、虚栄心か、貪欲か、内側が照らされて、いろん な事が少しづつ見えて来る。するとなすべき事も見えて来る。御霊 が示して、導いて下さる。 ---------- 思い煩うと物事が現実的に見られなくなる。サタンにかき回された 亡霊を必要以上に心配しているのではと、意識し対処していこう。 亡霊の実態を知り手放せるよう祈ろう。解決は可能だ。
2016年09月21日(水) 「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世記16:9
「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」創世記16:9
ハガルは、余りにもひどいサライのいじめに、故郷エジプトへと逃 げ出した。ハガルにとっても理不尽だった。自分の意思で身ごもっ たのではない。自分の意志は無視され、奴隷の立場で選択の余地は 無かった。そんな彼女を主の使いが追いかけ、彼女を見つけた。 「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」と問われ「女主人のと ころから逃げている」と答える。この先どこへ向かえば良いのかわ からず、答えられない。すると「あなたの女主人の元に帰り、彼女 の元で身を低くせよ」と言われた。居場所を失ったハガルにとって、 何をどうすればよいのか、わからなかった。 混乱していた。そして「あなたの子孫を大いに増やす。その子を産 んでイシマエルと名付けよ」と言われ、ハガルは、この神よりの約 束を受けて、最も帰りたくないサライのもとだが、帰る決心をした。 私たちも、理不尽な事、辛い事、苦しい事からはとにかく逃げたい。 その状況から離れると楽になると思うからだ。 しかし逃げても、心の奥に主の平安が無い事を知る。状況が楽にな っても、平安を失うなら元も子もない。主は、そこから逃げるなと 言われる。そこにおいて、主の大きな祝福があるからだ。耐えられ ない試練はない。向き合って行く時に、苦しみの中で、主の愛、主 の真実を身をもって経験して行く。神ご自身が心配して下さってい る。 ---------- 避けていても何の平安もない経験をする。身を低く出来ない自分に 自己嫌悪だ。けれど主は逃げている傍にいて平安を取り去ることで 導いて下さっていた。御心の真ん中がいつも帰るべき所だ。主と共 に帰ろう。
2016年09月20日(火) 「『私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう』アブラムはサライの言うことを聞き入れた」創世記16:2
「『私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう』アブラムはサライの言うことを聞き入れた」創世記16:2
神はアブラムに子供を与えると約束された。満天の星を見せられ、 あなたの子孫はこのようになると。神は、約束を必ず成就されるお 方であり、しかしそれは、神の御心の時に、御心の方法において成 される。結果オーライなのではない。お心に適った方法でなされる。 約束はあったが、なかなか実現せず、夫婦には大変な忍耐の時であ った。そんな中、サライが女奴隷ハガルによって子供を得る事を提 案する。当時の風習では普通の事であった。アブラムは妻の側から の申し出であり、受け入れた。しかし、ここでアブラムは、神に祈 るべきであった。神に尋ね求め、お心を聞くべきであった。 だが、自分たちの考え、世の風習、常識、肉で誤った道に進んでし まった。その結果、ハガルは身ごもったが、高慢になり、子供を産 めないサライを見下すようになった。そんなハガルをサライはいじ め、苦しめた。神の秩序が狂うと、争いが産まれ、皆が平安を失っ て行く。サライは夫に、あなたのせいでこうなった。ハガルには我 慢できないと、文句を言い責める。 するとアブラムは「あなたの好きなようにしろ」と言う。アブラム はリーダーシップも、責任も取らずに、逃げる。するとサライはま すますハガルをいじめ、ハガルは余りの辛さに逃げ出す事になる。 御心をそれると、皆がそれぞれ心に傷を負い、混乱して行く。神を 待ち、御心に従う時、そこに秩序があり、周囲も平安で、神の栄光 を見て行く。自分の思いで進もうとしていたら、今一度神を見あげ、 待ち望もう。 ------------ 長く待たされて状況が開かれずにいると「たぶん・・」と人間的な 思いに強く惹かれてしまう。間違いに気付いたら主が導き返してく ださる。御心か肉の決断か良く悟れるよう祈っていこう。
2016年09月19日(月) 「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ・・」マタイ14:22
「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ・・」マタイ14:22
主は弟子たちを「強いて舟に乗せられた」とある。「強いて」無理 やりに、強制的に乗せられた。主は、しばしば強いられる。ある婦 人は、仕事もしていて非常に忙しく、子供の学校の役員になりたく なかった。しかしくじで当たってしまい、やむをえず引き受ける事 になった。全く自発的にではなく、主から強いてさせられた事だっ た。 しかしその中で、何と証しができて救われる人が起こされたのだ。 ある人は、祈って与えられたのが印刷会社のバイトだった。全然気 が進まなかったが、都合が合致するのがそれしか無かった。もっと 他のバイトだと良かったのにと思いつつ。しかし主に強いられて送 られた先だったが、教会に働きのために、その印刷のノウハウが大 いに役立てられた。 強いられた事の中に、主の大きな恵みが潜んでいる。あなたも今、 強いて舟に乗せられているだろうか。その事を通して、素晴らしい 恵みを知ることになる。幾ら奇跡を見ても、弟子たちは主がどんな お方かが、なかなかわからなかった。 しかし弟子たちは、この事を通して、自然界をも支配しておられる 主を見て、結果的に、「イエスを拝んで」「確かにあなたは神の子」 ですと告白するに至った。私たちもしばしば強いて事をさせられる。 が、その事によって、主がまことに生ける神であることを知ること になる。今、強いられていたら、従おう。 ----------- 自分中心の歩みの中で主が強いて置かれる環境がなければ、どれ程 傲慢になるだろう。今は理解できなくても置かれた場所に主を認め ていこう。注がれている恵みや祝福をしっかり受け取ろう。
2016年09月18日(日) 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。 あなたはわたしをあがめよう」詩篇50:15
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。 あなたはわたしをあがめよう」詩篇50:15
「苦しい時の神頼み」という諺がある。普段は神の助けなど必要な く、自分の力でやって行けると思い、神など思い浮かべる事すらな い。そのような者が、突然の災難に会った時に、急に神社に行き、 得体の知れない神々にひたすら拝み、解決を願う。商売繁栄、入試 合格、無病息災、家内安全、交通安全、様々な分野の神々がいる。 そして、どんなに祈ってもどうにもならないと、その神を捨て去る。 又、別の神に走るかもしれない。しかし、私たちは違う。常に共に いて下さる主が、苦難の日にはわたしを呼べと言われる。「あなた を助け出す」と。よくわからない得体の知れない神ではない。極み まで愛し、絶えず目を留め、その道筋に心を配り、慈しんでいて下 さる主だ。 この主が、苦難の中から、あなたを助け出すと。今、目の前に問題 があるなら、思い煩わず、沈み込むまず、恐れと不安にさいなまれ るのでなく、「わたしを呼び求めよ」と。なすべき事は、主に祈る ことだ。何もかもを打ち明けて、助けを仰ごう。そして、私たちが 助け出されることで、神の栄光が現れることになると。別訳で「苦 難の日、わたしをお前を救おう。その事によってお前はわたしの栄 光を輝かすであろう」。 問題も、悩みも、苦しみも、主を呼び、主は助け出して下さり、そ の事によって主の栄光が輝かされる。感謝なことだ。試練の中で、 練られ鍛えられて、主に似る者とされて行く。今、まず主を呼び求 めよう。助けが来る。 ・・・・・・・・・・・・・ 今、目の前にある、どうしようもない苦しい悩みが、主の御名を崇 める事になると言われる。そして助けられ、救い出されると。「わ たしを呼び求めよ」が答えだ。打ちひしがれて、どんなに小さく 細々とした求めでも構わない。主を呼ぼう。応えて下さる。
2016年09月17日(土) 「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます『ダビ デの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫び立てた」マ ルコ10:48
「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます『ダビ デの子のイエスさま。私をあわれんでください』と叫び立てた」マ ルコ10:48
バルテマイは、道ばたに座る、盲人のこじきだった。人々の哀れみ を請うて生活していた。日々の糧にも困窮する貧しい暮らしだった。 人生を諦めて、絶望してしまうような状況だ。「なぜ自分が?」 「生きる意味があるのか?」深く苦悩し、考えただろう。しかし彼 はこのどん底で、どん底だからこそ、神への信仰を持った。 神にしか、望みが何もなかった。目は見えないが、耳は聞こえ、主 イエスの噂をじっと聞いていた。愛深い方、みわざをされる方、ダ ビデの子孫として生まれると預言されたメシアだと確信した。その 主が来られると知ると、このチャンスを逃さなかった。普段からの 心の在り様がないと、こんな事はできない。 「私をあわれんで下さい」と主に叫んだ。なりふりかまわず、最後 の望みであり、必死に求めた。それが出来ない相手には、はなから 求めない。主にはそれが可能だと信じたから、すがりついた。大勢 が彼を黙らせようとしたが、屈せず、このチャンスを絶対に逃さず、 彼はますます叫び立てた。熱烈な、切なる、魂の叫びであり、主へ の信仰だった。 主は、彼を呼び、「わたしに何をしてほしいのか」と問われた。 「目が見えるようになること」、彼は願いを明確に、自分の言葉で 表した。私たちが心底叫ぶ時、主は足を止めて下さる。叫びに答え 最善をして下さる。主に向かって叫び、主に求めよう。愛して下さ っているので、答えて下さる。そしてその結果「イエスの行かれる 所について行った」。主に従う者とされる。 ・・・・・・・・・・ 何もできないバルテマイに、唯一できる事があった。「私をあわれ んで下さい」と主に叫ぶことだった。叫ぶことができた。主はその 叫びを受け止め、答えて下さった。私たちも、何のすべもない中、 主に向かって叫ぶ時に、主は必ずその叫びに答えて下さる。
2016年09月16日(金) 「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」ヨハネ4:14
一人の女性が、カンカン照りの日中に井戸に水汲みに来た。人を避 けての事だった。そこに主が話しかけられた。男性が女性に、又、 ユダヤ人がサマリヤ人に話しかける事など無く、驚いた。会話する 中で、主の「わたしが与える水を飲む者は決して渇く事がない」に、 彼女は「その水を下さい」と願った。 よく意味もわからなかったが、井戸から汲まなくてもよい水なら欲 しいと思った。その時に主は「あなたの夫を呼べ」と。水が、なぜ 夫なのか?彼女は、夫?ん?だったろう。だが、グサリ!とも来た だろう。最も触れて欲しくない部分だった。今いるのは夫でなく同 棲相手だった。「私には夫はありません」と何とか、かわした。 しかし主は尚も「その通り。夫が5人いたが、今いるのは夫ではな い」と。言い当てられて驚いた彼女は「あなたは預言者ですか」、 「ユダヤ人は礼拝する場所はエルサレムだと言うが、どうなのか」 と問うと、「誰でも、どこでも真の礼拝者たちが父を礼拝する、そ れが今来ている」との答え。彼女は「キリストが来られることを知 っている」と言うと「わたしががそれだ」と。 主を信じた彼女は、街の人々に「来て見て」と、主を紹介した。隠 れていた彼女は180度変えられた。主は、命の水に導くために、グサ リと核心を突かれる。私たちにも痛い部分があるだろうか。隠すの でなく、そこに来て頂こう。主の血潮ゆえに、赦し癒し、自由にし て下さる。平安と喜びへと導かれ、真の礼拝者として下さる。 -------------- 渇いた私たちにも主は会いに来てくださり救われた。けれど今も自 分自身で埋めようとしている痛みや苦しみはないだろうか。渇いて いるなら飲みなさいと言われる主の水をいつも求めていこう。
2016年09月15日(木) 「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」詩篇33:18
「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」詩篇33:18
「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いこと によっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その 大きな力も救いにはならない」とある。戦いにおいて、当時は、軍 馬をどれだけ所有するかが、力だった。数が勝負だ。多勢に無勢、 常識で考えると、戦いでは、軍馬や軍勢が多い方が、どう考えても 有利だ。多い方が勝つだろう。 しかしダビデは言う。勝利は、軍勢の多いことにはよらない。軍馬 も勝利の頼みにならないと。勝利は、軍馬、軍勢ではなく、ただた だ神によると。神のお心による。そのお心とは、「見よ。主の目は 主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に」だ。主の目は、 主を恐れる者=主を愛し、主を喜び、尊ぶ者、そしてその恵みを待 ち望む者に注がれ、その者から離れない。 罪を決して犯さない、品行方正な人の上でなく、罪を悔い改め赦さ れて、恵みを待ち望む者の上だ。そして「聖なる御名に信頼してい る」、主を信頼するところに勝利がある。私たちは何に信頼してい るだろう。富、所有物、地位、肩書き、能力、家族、人、健康、仕 事・・。そして、主は、あなたが依存しているものを取り扱い、気 づきを与えて下さる。 色々な出来事の中で、本音で自分が頼っているもの、力としている もの、支えとしているものを教えられる。偽りの拠り所に気づかせ られる。軌道修正により、主だけを頼るように導かれる。 --------- 自分自身の誇りや、またあれもこれも手元に置いておきたいと、主 以外の多くのものを頼みにしている。失ったときにそれと気付く。 失うことは感謝だ。明け渡し天から与えられるものを数えていこう。
2016年09月14日(水) 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」U歴代16:9
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」U歴代16:9
主と一つ心には、まず罪を悔い改める事が大切だ。罪を離れて、主 と正しい関係にされる事だ。罪は、主との関係をしゃ断してしまう。 だから罪を犯すと、平安が失せる。しかし大事な事は、この時も主 の愛は決して変わらない。全く変わらずに、愛し続けて下さってい る。罪を犯すと、平安が無くなるので、落胆し、神から嫌われたと 思ってしまう。 良い子が愛され、悪い子は嫌われるとの、この世の価値観による。 神の愛は全く変わらない。不変だ。その罪は悔い改めにより、主の 贖いにより完全に赦される。悔い改める時、主との関係が正される ので、平安が戻る。主と一つ心であるために、御霊によく心探られ て、罪は悔い改めよう。 ダビデは主の心にかなう者と言われた。だが、姦淫と殺人という大 罪を犯してしまった。しかし悔い改めた時に、完全に赦され回復さ せられた。心が全く一つとは、完璧でという事ではない。悔い改め 〃歩むことだ。そして、主のお心を求める時に、主と一つだ。逆に 言えば、信仰者であっても、主のお心を求めるのでなく、自分の思 いを遂げようとするなら、神の力は現わされない。 ある人が新しい働きを始める時に、不安と恐れで一杯だったが、主 の御心に従って行くなら、主と心一つであり、主が御力を現わして 下さると、励まされ前進できた。そしてその通りに主のみわざを見 せられて行った。 ----------- 罪を犯しても神は見捨てず共にいてくださるのに、罪を認めず背を 向けてしまいたい肉の思いがある。罪しか犯せない者に悔い改めが 備えられ、いつも神と堅く心一つにされているとは何という憐れみ だろう。
2016年09月13日(火) 「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9
「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」Uコリント12:9
サウル王は、ゴリアテと戦って大勝利したダビデを召しかかえる。 最初はサウルも良い部下を持って幸いだった。ところが忠実なダビ デは王に仕え、戦いで勝利に次ぐ勝利、連勝して行く。すると女た ちが、笑いながら繰り返し歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは 万を打った」。女たちに笑いながら比較されたこの事が、サウルの プライドをひどく傷つけた。 この時からサウルはダビデを疑いの目で見るようになり、激しい妬 みは憎悪となり、実際にダビデ殺害へと動いて行く。そこにサタン が働いた。ダビデはサウルに何の悪い事もしていない。歯向かった わけでも、裏切ったわけでもない。ただただ忠実に、誠実にサウル に仕えていた。それが、命を狙われ、絶えず死と隣合わせだ。 どんなに恐怖だったろう。なぜこういう事になるのか。この理不尽 は何なのか。しかしダビデは、これらすべてを「主に」持って行っ た。悩み、苦悩、嘆き、悲しみ、恐怖、不安・・主の前で、泣き、 怒り、思いも感情も吐き出し、注ぎ出した。「どうしてですか」 「いつまでですか」「見捨てられたのか」「苦しい」・・そのまま の気持ちを率直に訴えている。 その結果、詩篇のどの箇所も、最後には賛美に変えられ、平安へと 導かれている。日々に命をつけ狙われる弱さの極みで、ダビデは主 に心底すがりついた。それは信仰だった。何も無い時にはそれほど 真剣に頼れない。神の力は弱さの内に完全に現れる。ダビデは弱さ の中で、主への信頼がますます強められて行った。 ------------ 主の助け、備え、恵みはいつも傍にあるのに、全ては受け止めきれ てはいない。自分の弱さを認める時に、主よ!と一番強い方を呼び 主の後ろに安心して従っていける。弱さは祝福だ。
2016年09月12日(月) 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14:1
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」ヨハネ14:1
ある人の証しだ。母親が、朝突然、体調崩して倒れた。激しいめま いと嘔吐を繰り返し、病院へ連れて行こうとするが、本人は全く動 けない状態だった。すぐ救急車を呼んで、病院に付き添った。どっ と不安と恐れに襲われた。脳梗塞か、何か重大な病気では、生死に 関わるのでは・・不安は不安を呼び、祈りつつ病院に到着。 様々な検査の間も祈り、気持ちの動揺や、不安をそのまま主に告げ ながら、祈っていた。一通りの検査を終えて、医師に呼ばれ、行く と、「大丈夫です。心配ありません。単なる過労です。よく休めば 直ります」。どおっと心に安堵が広がり、肩の力が抜けた。なぜす べての不安が消えて、安堵できたのだろう。それは医師の言葉を信 じたからだった。 言葉を信頼したから、安心が来た。救われてまだ数年だった頃の、 印象深い出来事だった。主の言葉を信じる、御言葉を信頼して歩む という事を教えられた。御言葉を信じて歩む、その時に平安が与え られる。しんどい苦しい状況の中でも、御言葉を信じる時、心は平 安になる。 どんな苦しい中でも、御言葉に心を向け、集中して行く時、状況は 変わらなくとも、心に平安が来て、支えられる。今、目の前に困難 があるだろうか。「わたしはいつもあなたと共にいる。だから、心 を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信ぜよ」と語られている。 --------- 一つ一つの現実の中で主が傍にいて「大丈夫だ」と声をかけてくだ さるならどれ程安心だろう。すぐに見える所に影響され、不信仰は 露呈するが、御言葉に立ち変わらぬ平安を受けていこう。
2016年09月11日(日) 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信 頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信 頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15
ユダ王ヒゼキヤは、アッシリヤ軍のエルサレム包囲に対して、大国 エジプトに助けを求めようとした。「わたしによらず、わたしの霊 によらず、罪に罪を増し加えている」。わたしの指示を仰がず、パ ロの保護に身を避け、その陰に隠れようとすると。その結果は、侮 辱と恥とそしりだと。 救いの道は、人間の思いと方法で動く事を止めて、「主に立ち返り、 静かにすれば救われ、落ち着いて、信頼すれば力を得る」と。私た ちも全く同様だ。困難が起きた時に、何かに頼るのでなく、自分の 思いで動き回るのでなく、ただ落ち着いて、主に信頼し、主の導き を待ち望むことだ。その時、主は必ず導きを与えて下さる。 「恵もうと待っておられ、あわれもうと立ち上がる」方だ。主を待 ち望む者は幸いと。しかし私たちもどうだろう。急いで焦っている 時、祈る余裕も時間も無く、とにかくすぐに済ませてしまおう、ま ず対処してしまおうと、動いてないだろうか。気持ちが急いて、主 を仰がずに行動に走ってしまう。 しかし主を離れては私たちは何もする事ができない。実を結ぶこと はない。大切な事は、主に導かれることだ。右に行くにも左に行く にも、あなたの耳は後ろから、「これが道だ。これに歩め。」と言 う言葉を聞くと。人生の重大な進路だけでなく、右に行くにも左に 行くにも導かれると。どんな時にも、導きを求めよう。主はこれが 道だ、これに歩めと導いて下さる。 ・・・・・・・・・・・ 問題が起きるとパニックになり、とにかく何とかしなければと思っ てしまう。その時、主が見事に飛んで、焦って自分で動き回ってし まう。そして失敗してしまう。まず静かにして、主を見上げよう。 そして祈り、頼ろう。主は必ず導きを与え、道を示して下さる。
2016年09月10日(土) 「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人 があなたに信頼しているからです」イザヤ26:3
「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人 があなたに信頼しているからです」イザヤ26:3
私たちの信仰人生はどうだろう。大きな困難、小さな問題、次々と やって来る。天に帰るまで、この世にいる間は、問題が無くなるこ とは無い。振り返っても納得だ。そんな時、問題が解決すると安心 する。しかし、問題のさ中は不安で不安でたまらない。思い煩いと 恐れに支配され、解決して初めてほっと安堵する。それなら世の人 と同じだ。 問題は次々と起きる。私たちの主は、そのまっただ中で「平安」を 約束して下さっている。「わたしは、わたしの平安を与える。わた しが与えるのは、世が与えるのとは違う」と、世の安心とは全く違 う平安を与えて下さっている。問題の解決がまだ見えないまっただ 中で、主に委ねて祈って行く時に、主が共におられるから、思い通 りでなくても、どうであれ大丈夫だと思えて来る。 平安にされる。「志の堅固な者」は平安の内に守られるとある。そ れは、自分の目が、自分の思いが、主に向けられている者のことだ。 目が問題や自分に向いている時に、平安は無い。不安で一杯だ。又、 あれやこれや、この世を漂い、この世のものに心がある時、焦った り、イライラしたり、思い煩ったりと平安が無い。 今、悪い知らせに不安だろうか、経済的必要に思い煩っているか、 対人関係に悩んでいるだろうか。まず目を主に向けて、心を主にこ とごとく打ち明けよう。祈って一つ一つを委ねて行く時、不思議だ が、問題はそのままそこにあるのに、心が平安にされて行く。「主 の平安」を経験して行く。 ・・・・・・・・・・・ 自分の思いが強いと、思い通りにならないなら、いつも思い煩いと 不安、又、イラ立ちにさいなまれる。だが、主に目を向けて、主が 最善をされる事を信じ、委ねて行く時、心が落ち着いて行く事を 経験する。大丈夫だと思えて来るから不思議だ。
2016年09月09日(金) 「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」ガラテヤ5:25
「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて進もうではありませんか」ガラテヤ5:25
新生した時に、新しい性質が与えられ、神の性質を持つ。しかし古 い性質、生まれつきの性質、肉もそのまま残されている。これら二 つの性質が戦う事によって成長して行くようにとのご計画だ。古い 性質、肉は、神無しで生きて行こうとする性質だ。神に敵対し、自 分の力で、自分の賞賛、自分の栄光を求めて生きる。 一方新しい性質は、神に喜ばれる事を求め、神の栄光のために生き る事を願う。これら相反する二つの性質が内にあるのでややこしい。 「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らう。この二つは互 いに対立していて、そのため、自分のしたいと思うことをすること ができない」とあり、私たちは、どちらも内にあるので、どちらに も引っ張られて、したい事が出来ないと。 そのため、御霊に導かれ、御霊によって歩むことが必要だ。御霊に 導かれて行く時に、ローマ8章のパウロのように、肉に打ち勝って 行ける。肉に従うと、御心と正反対の的はずれな方向に進む。罪を 犯してしまう。だが御霊に拠り頼んで行く時、肉は増幅できない。 御霊が支配し、導かれる時に、肉の思いや行ないを捨てて行ける。 そして、御霊によって主の喜ばれる事、主の御心を行なうことがで きる。主は私たちが肉に歩む時、平安を取り去って教えて下さる。 何か心が重苦しく、沈み、暗く平安が無い時は、祈ろう。御霊の歩 みへと導き返して下さる。 --------- 肉のままに歩むのは楽しく思えても感情に振り回されている奴隷の ようだ。御霊の導きがあるということは何と感謝だろう、本当の自 由がある。御霊の歩みを祈っていこう。
2016年09月08日(木) 「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16
「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16
肉とは、自分の思い通りにしようとする欲だ。エデンの園で、「神 のようになり、善悪を知るようになる」とのサタンの誘惑に、そう なりたいと、アダムとエバは罪を犯してしまった。その原罪が私た ちにもあるが、その根は「神のようになり」つまり誰にも指図され ずに、邪魔されずに、自分の好きなようにしたい、思い通りに行き たいという自我だ。 この肉はずっとあって、事あるごとにムクムクと頭をもたげて来る。 批判して来る相手には、敵対心が湧き、反撃したい。失礼な相手に はムッとして怒りが湧く。敵対して来る相手は憎んでしまう。自分 が欲しいものを持つ相手には、羨望、妬みが湧く。又、主は繰り返 し、繰り返し、思い煩うな、祈れと言われるのに、祈らずに思い煩 ってしまう。これら肉に絶えず悩まされる。 これが抑えようとすればするほど、ますます暴れ、力を増す。憎ん ではいけないと思えば思うほど、憎しみは増す。律法は何が正しい かを教えてくれるが、それを行なう力は与えない。だからローマ7 章のパウロのようにがんじがらめになる。ではどうすれば良いのか。 「御霊によって歩め」と。「そうすれば肉の欲望を満足させること はない」と。行なう力を与えてくれるのが、御霊だ。自分の力で出 来ない事を認めて、御霊に拠り頼む時に、出来なかった事が出来る ようにされて行く。肉の欲はあるが、それを満足させる方に動くこ とから守られる。 ---------------- 自然に頭をもたげて来る肉を悲しみ、御霊の結実を喜ぶ者にすでに 変えられている事が感謝だ。くり返し失敗もするが主に頼り、御霊 の結実を祈ろう。主が実を実らせてくださる。
2016年09月07日(水) 「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:11
「そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた」ヨハネ6:11
主の「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」の 言葉に、ピリポは、すぐにお金の計算をした。そして「無理、不可 能」の答えを出した。これは主の試しであった。しかし、これが私 たちも大方の答えかも知れない。少しばかりの知恵があって、計算 すればするほど、リアルにダメとの答えが出る。 一方、アンデレは、何か持っている人はいないか、群衆の中を捜し 回った。すると一人の少年が小さなお弁当を持っていた。5つのパ ンと2匹の魚だった。だがアンデレも大勢の群衆を目にすると、 「しかし」となった。「こんなに大勢の人々では、それが何になり ましょう」。ダメだろうと。だが、これが何になるのかという、ご く僅かなもの、それが主の手に渡ると、奇跡が起きた。 どれだけ僅かであろうと、何の問題も無かった。それを主に献げる と、驚くべき世界が広がった。主は「感謝をささげてから」人々に 欲しいだけ分けられた。大勢がお腹いっぱい食べる事ができた。ど ちらの手にあるかが、重要だ。少年の手にあるなら、それは単に5 つのパンと2匹の魚のままだ。 しかし主の手に渡る時、大勢が満腹し、素晴らしい主の栄光が現わ された。「無理、不可能」が「可能」にされる。あなたの手にある ごく僅かなもの、それを感謝し、主に献げる時、主はそれを素晴ら しく用いられる。そしてそれは人々を満腹させて行く。 ---------- 主に渡したものが大きく祝福されて戻って来ることは、渡した者だ けが経験する祝福だ。こんなものがとの「無理、不可能」の声はい つも来るが、それを自分のものとせず主を信じてお献げしていきたい。
2016年09月06日(火) 「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇55:22
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる」詩篇55:22
信仰者であっても、重荷はある。重荷の無い人生はない。その重荷 はどうすれば良いのか。御言葉は「主にゆだねよ」と言っている。 ゆだねるとは、例えば、椅子に座る時に、椅子に身体を任せること だ。壊れないと信じているから座る。電車や飛行機に乗ると、必ず 目的地に到着すると信じ、身をあずけることだ。その時、自分にで きる事は何もない。ただ身を任せることだ。 そうするなら、希望通りの目的地に行ける。その時に、信頼して任 せきるなら、リラックスできる。「あなたの重荷を主にゆだねよ」 とあるが、ゆだねる事が難しいとよく言われる。自分が握りしめて いて、どうしても放せない。任せる事ができない。どこまでも、自 分が何とかしようとしているからで、自分の力で事を成し遂げよう とする。 自分が手を放すなら、すべてがだめになるように思ってしまう。だ から握りしめて放せない。しかし思うようにうまく事が進まない。 そのため、ますます思い煩いと不安でいっぱいになる。ゆだねるに は、自らは何もできない、何のすべもないと知り、へりくだること が必要だ。ギブアップだからこそ、ゆだねる事ができる。 「思い煩いをいっさいゆだねなさい」の前に「ですから、あなたが たは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」とある。自らの無 力を知り、へりくだる時に、神の御手がいかに力強いかを経験する。 そしてゆだねた心は平安に守られる。 ------------- 問題を主に渡さない限り平安も解決も来ないことを知っていても、 自分で思い煩う。思い煩う度にそれは大きな不信仰だと覚えよう。 へりくだり主に全てを託して主の祝福を待とう。
2016年09月05日(月) 「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である・・」ヨハネ3:28
「私はキリストではなく、その前に遣わされた者である・・」ヨハネ3:28
ユダヤ人たちが、祭司やレビ人を遣わし、ヨハネに「あなたはどな たか」と尋ねさせた。その時に、ヨハネは「私はキリストではあり ません」とはっきり答えた。「私のあとから来る人があり、その方 は私にまさる方」と。そして、自分はその方のくつのひもを解く値 打ちもないと。 徹底してへりくだり、自分はイザヤが言ったように“主の道をまっ すぐにせよと、荒野で叫ぶ者の声”だと、自分の使命をはっきりと 理解し、わきまえていた。当時のヨハネの聖い真っ直ぐな大胆な姿 に、もしかしてキリストかも知れないと思った人々もいたようだし。 しかし、ヨハネはきっぱりと違うと否定した。 人々から自分が良いように見られる時、誘惑があるものだが、ヨハ ネは真実であった。ヨハネの弟子たちが、皆が、自分の師から離れ て、主の方へ行ってしまうことに、寂しさとやっかみを感じていた。 「みなあの方のほうへ行きます」と。その時も、「人は、天から与 えられるのでなければ、何も受けることはできない」と。花婿が主 役で、自分はその花婿の友人であり、そして自分も喜びに満たされ ていると。 そして、「あの方は盛んになり私は衰えなければならない」と。 花婿に焦点を向け、自分の立場、使命を明確にわきまえていたので、 ネガティブな感情に流される事から守られた。ヨハネは信仰に立っ ていた。主もヨハネを認めておられた。自らの立場、使命を認め、 御心の中にいる時、心は平安と喜びに満たされる。 ------------- 神から与えられた自分の立場をわきまえ謙遜に歩み続けるのは難し い。横を見ればすぐにアップダウンだ。天から与えられるものでな ければ真の満足は無いと、とこしえに変わらない神と御言葉に留ま っていよう。
2016年09月04日(日) 「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしであ る」出エジプト3:12
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしであ る」出エジプト3:12
大きな厳しい難題を目の前にすると、私たちは恐れ、戸惑い、尻込 みする。モーセも、突然、大変な事を言われた。「あなたをパロの もとに遣わすから、イスラエルをエジプトから救い出せ」と。神か らの、思いもよらない申し出に、なんで自分がそんな、とんでもな い事をしなければならないのか、わけがわからない。 そんな事、今の自分に出来るわけがない。まるで絵空事だ。そして、 過去に大失敗している。若い王子であった時にイスラエルを救い出 そうとして、見事に失敗した。何を今さら、能力も、気力も、体力 も、財力も、人脈も何も無い。しかし「わたしはあなたとともにい る。これがしるし」だと。しるしとは保証だ。こんな確固とした揺 るぎない保証が与えられている。 だが、モーセは、自分は口下手だと尻込みする。すると主は「わた しがあなたの口とともにあって、言うべきことを教える」と約束さ れる。だが尚も「どうか他の人を」と。すると、兄のアロンを口の 代わりにすると。モーセの問題に、次々と答えられ、モーセは説得 され、この神の申し出を受け止めて行く。 私たちにも「わたしはあなたとともにいる」、主はこの保証を与え て下さっている。今、困難に出くわしているだろうか。新しい働き に導かれているだろうか。主が共にいるという保証のもと、「わた しがあなたを遣わすのだ」の言葉に立って踏み出そう。 ・・・・・・・・・・・・・ 「わたしがあなたとともにいる」これがすべてであり、何と言う保 証だろう。目が主以外のものに向き、この神視点から離れる時に必 ず、不安、恐れ、思い煩いに陥る。平安を失い、心が揺れ動く。平 安と喜びは「わたしがあなたとともにいる」にある。
2016年09月03日(土) 「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば・・悪 人呼ばわりしていても、そのりっぱな行ないを見て、おとずれの日 に神をほめたたえるようになります」Tペテロ2:12
「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば・・悪 人呼ばわりしていても、そのりっぱな行ないを見て、おとずれの日 に神をほめたたえるようになります」Tペテロ2:12
信仰者は必ず試練があり、苦しみを受ける。しかし自分の至らなさ や欠点ゆえ周囲に迷惑をかけ、問題を起こすならそれは迫害でない。 信仰ゆえの苦難ではなく、信仰以前の問題だ。誰でも、人に失礼な 態度や言動をするなら、非難される。だが個人の落ち度でなく、キ リストゆえに受ける苦しみがある。 今の私達なら、信仰ゆえに悪口を言われ、仲間はずれにされ、嘲笑 や無視の対象になり、理不尽な目に会う。しかし、キリストゆえの 苦しみなら恥じる事はない。かえって、その事のゆえに神を崇める ようにと。そして忍耐が必要だ。苦難の時は忍耐を培われる時だ。 忍耐とは我慢の意味でなく、どんな状況下でも、神が必ず良くして 下さると信じて行く事だ。 この忍耐を働かせる時に成長して行く。ある青年が家族の反対に会 った。余りに辛く、家を出て教会へやって来た。「人がもし、不当 な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみを こらえるなら、それは喜ばれることです。・・善を行なっていて苦し みを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは神に喜ばれることです。 あなたがたが召されたのは、実にそのためです・・」御言葉を共に読 むと、「帰ります」と主に励まされ帰って行った。 主のゆえのものであるなら受け取ろうと、信仰的、前向きに変えら れた。今、理不尽な中にあるなら、主は、立派に振る舞いなさいと 言われる。御霊の助けゆえに、そうできる。 ・・・・・・・・・・・・ 信仰のゆえに、不当な苦しみを受ける事がある。しかし、それをこ らえる時に、主は喜ばれる。普段の対人関係の中でも、理不尽な事 があるかも知れない。完全に正しい方が、十字架にかかられた事を じっと見つめる時、最大の理不尽であり、心が変えられて行く。
2016年09月02日(金) 「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15
「彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう」ピレモン15
オネシモは、ピレモンの奴隷だった。しかし、彼は、主人ピレモン の物を盗んでローマに逃亡していた。当時は、主人の物を盗んだ奴 隷は、死刑だった。だがオネシモは投獄された牢で、パウロと出会 った。そこでパウロにより、悔い改めに導かれ、神を信じる信仰者 となった。 そのオネシモのために、パウロは、彼の主人であるピレモンに手紙 を書いて執り成した。パウロにとって、オネシモは我が子のような 存在となっていた。以前は役に立たたない者だったが、救われたオ ネシモは、ピレモンにとってもパウロにとっても、役に立つ者と変 えられていた。 パウロは、オネシモに自分のもとで仕えてもらいたかったが、ピレ モンのもとに愛する兄弟として送り返すので、彼をパウロを迎える ように迎えて欲しいと。そして、オネシモがピレモンにかけた損害 をいっさい自分に請求して欲しいと。自分が償うと申し出た。その ように愛されたオネシモはどうだったろう。主人に心底謝罪し、ま すます仕える者となっただろう。御言葉は、オネシモ逃亡の背後に、 神の摂理があったと言っている。 人間的に見るなら、罪を犯して主人から逃亡したのだが、神視点に よると、「彼が、しばらくの間、あなたから離されたのは、あなた が彼を永久に取り戻すため」と。全く異なる見方になる。私たちの 人生も同様だ。すべての事柄の背後に神の摂理がある。どんなに失 望落胆しそうな出来事にも、神の素晴らしいご計画が隠されている。 ------------ なんという深い愛と慰めの満ちた執り成しの言葉だろう。罪人の中 にも無限の可能性を認め、永久に神のものへと育ててくださる。ど のような中にも背後で導いていてくださる神を見ていこう。
2016年09月01日(木) 「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」マタイ22:3
「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」マタイ22:3
父なる神である王が、子なるキリストである王子の結婚披露宴を催 し、お客を招くという話だ。予め招待していた招待客を呼びに、し もべたちを遣わしたが、彼らは来なかった。それでもう一度、別の しもべたちを遣わした。「どうぞ宴会におでかけ下さい」と。王が へりくだって、失礼な客たちを招いた。 しかし、彼らは気にもかけず、畑に商売にと、皆、「自分」「自分」 自分のことに忙しかった。招待を無視した。更に、何と王のしもべ を殺してしまった。王は怒り、兵を出し、その人殺しどもを滅ぼし、 彼らの町を焼き払った。神は、救いに必要なすべてのものを準備し て下さったのに、イスラエルはそれを足げにし、無視し、拒否した。 その後、王は、大通りに行って、出会った者を誰でも連れて来るよ うにと。招待が異邦人に移った。大通りの人々は資格があり、招待 されたのでなく、突然の事で驚いたろう。しかし王の前に出ること は、大きな恵みであった。披露宴に必要な礼服も、自分で準備する のでなく、王の側で用意されていた。救いのために何もかも整えら れていて、来るだけであった。 救われた私たちも信仰生活はどうだろう。デボーションに、良いわ ざにと、すべてを整えて、「さあおいでなさい」と招いて下さって いるのに、「仕事」「学業」「趣味」「経済活動」・・に忙しくて、 神のための時間が無いだろうか。肉は渋る。しかし王の大いなる恵 みに、招きにあずかろう。 -------------- 救われた後も神の備えてくださる恵みは計り知れない。自分の満足 によって、目に見える生活を優先し、更に御神の与えようとしてお られる最善の備えを知らずにいるのではないだろうか。
2016年09月27(火) 「あなたがたは、あすのために身をきよめなさい・・聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない」ヨシュア7:13
「あなたがたは、あすのために身をきよめなさい・・聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない」ヨシュア7:13