2016年10月31日(月)

「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように」ルツ2:12



飢饉のため、エリメレクとナオミはベツレヘムを離れ、偶像の地モ
アブへ移る。そこでエリメレクと二人の息子は亡くなってしまう。
異邦の地で、ナオミと二人の嫁が残された。そして故郷に豊作の便
りを聞き、最初、二人の嫁と一緒に故郷へと帰りかけたが、途中で、
二人にそれぞれの実家に帰るようにと勧める。

初めは「いいえ、一緒に」と言っていたが、何度も勧める内に、嫁
のオルパは実家に帰ることを決めた。だが、ルツはどれだけ言って
も、姑と一緒に行く決心が変わらなかった。「あなたの神は私の神」
と、ただ情的なものでなく、信仰による事だった。夫と息子を失っ
たナオミだったが、独りではなく、嫁ルツと二人で帰郷する事にな
る。

辛い悲しみの帰郷であったが、悲しみで終わらず、大きな喜びが備
えられていた。ルツは、生計のための落ち穂拾いで、ボアズと出会
う。それがたまたま拾った場所がボアズの畑で、たまたまボアズが
やって来る。すべては神のご計画であった。ナオミの祈りと計らい
もあり、ナオミはボアズとの結婚へと導かれる。

どんな時にも、何があっても、主の翼の下に避け所を求めて来る者
を、主は豊かに祝福して下さる。異国の地に、私の神と主を求めて
来たルツは豊かに報いられた。又、満ち足りて出て行ったが、素手
で帰ったというナオミだったが、その手に孫を抱く事になった。
------------
帰国しても試練は待っているだろうが全てを神の導きに委ねてモア
ブを出たナオミとルツの信仰と愛の深さを思う。先はわからなくて
も主の御翼の下には、主の豊かな養いが備えられている。


2016年10月30日(日)

「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、 ご自分の栄光を現された」ヨハネ2:11



カナの結婚式でのこと、途中でぶどう酒が無くなった。それを知っ
たマリヤは、無い!大変だ!と騒ぐでなく、慌てて、しもべに買い
に行かせるでなく、自分で動き回らずに、又、思い煩わずに、まず
主に「ぶどう酒がありません」と告げた。主に告げさえすれば、主
がこの窮状を解決する事ができると信じていた。

その時、主は「わたしの時はまだ来ていません」と答えられた。そ
れは、わたしの時とわたしの方法がありますから、ということだ。
マリヤは、主が必ず事態を良きに収められると信じたので、手伝い
の者たちに、あの方の言われることを何でもするようにと伝えた。

すると主は「水がめに水を満たしなさい」と言われた。水がめに、
水を?必要なものはぶどう酒だが??しかし彼らは、主の言われる
通りに従った。大きな水がめ6つ、大変な作業だ。すると「さあ、
今くみなさい」との指示。そして宴会の世話役に持って行けと。

主の言われる通りに持って行くと、上等のぶどう酒に変わっていた。
主は、ご自分の栄光を現され、弟子たちは主を信じた。ここで、学
ぶ事ができる。問題が来た時は、まず「イエスに向かって」祈るこ
と、そして主の示しを待ち、自分の思いと違っても、示された通り
に従う事、そうするなら神の栄光を見る。

聖書で、ぶどう酒は喜びの象徴だ。そのぶどう酒が無くなってしま
った。しかし、主の言われる通りに従う時、味けない水が、喜びの
芳香のぶどう酒に変えられる。言われる通りに、従ってみよう。
みわざが成され、御霊の喜びを経験して行く。

・・・・・・・・・・・
窮状の時は、自分で動かず、思い煩わず、まず主に祈り、主の導き
を待ち、示された事を行なって行くことを教えられる。どうしても
肉は自分で何とかしなければと、動こうとし、思い煩いにはまる。
「まず主に」持って行く時、みわざを見て行く。


2016年10月29日(土)

「・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」 ルカ24:15 


エマオ途上の二人の弟子tたち、郷里に向かっていたが、どんな心
持ちだったろう。「暗い顔つき」とあり、心は暗く、沈み、喜びも
平安も無く、足も重く、失望と落胆にあったろう。主に「望みをか
けていた」がだめだったとの、絶望的な、空虚な心だったろう。

現実には、死が打ち破られ、主の復活が起きて、罪も死も勝利に飲
まれ、素晴らしい主の栄光が光輝いている。何という勝利で喜びだ
ろう。それが実際なのに、彼らは絶望し、落胆し、空虚な暗闇の中
にいた。私達の姿だろうか。よみがえりの勝利の主が、私達のかた
わらにおられるというのに、失望、思い煩い、不安の不信仰の中に
いるだろうか。

「目がさえぎられていて、イエスだとわからない」、それは御言葉
を信じない、不信仰によることだと言われた。主のよみがえりを信
じない、その目には、主が見えない。しかし、主はその弟子たちを
助け、引き上げようと、かたわらにおられ、私たちにも同様に、か
たわらにおられる。

そのために、主は、御言葉を説き明かされた。二人が、その御言葉
に耳を傾けた時、暗い、沈んだ心が「うちに燃えた」。落胆や思い
煩いにある時、御言葉に耳を傾ける事が大切だ。御言葉から信仰が
湧き上がる。振り返る時どうだろう。何度もダウンしたが、主が語
られる御言葉によって、もう一度息を吹き返した。ダウンした弟子
たちに主の方から近づかれた。その御声に耳を傾けよう。

・・・・・・・・・・・
失望落胆し、落ち込んでいる弟子たちに、主の方から近づいて下さ
る。何をされるのかと思うと、御言葉を語られた。その御言葉で、
弟子たちの心は、生き生きとし、喜びと力が湧いた。私たちにも今、
主がかたわらにおられる。御声にしっかり耳を傾けよう。


2016年10月28日(金)

「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた」マルコ9:32 



主が「人の子は殺されて、三日の後によみがえります」と言われた
が、弟子たちはこの言葉を理解できなかった。わからないのなら、
その事を質問して、理解しようとすれば良いのだが、そうする事を
しなかった。「尋ねるのを恐れた」とあり、知ろうとすること、そ
の事について考えたり、悩んだりする事を拒否してしまっていた。

「恐れた」とは、何か受け入れがたい事を言われるのが恐い。不安
で、真実を知りたくない。面と向き合うのが嫌だ、恐い。人は自分
にとって、都合の悪いことは拒んでしまう。シャットアウトしてし
まう。弟子たちにとって、栄光のメシヤであって、御国を打ち立て、
王として支配する事を信じていた。

そのため極悪人がかる十字架で、無惨な死を遂げるなど、受け入れ
られず、認められないことだった。人々の手に渡され、殺されてし
まうなど、考えたくない、恐い事だった。だから理解のしようが無
かった。理解できないままの状態で、主の十字架と復活に遭遇した。

私たちもどうだろう。自分の思いが強い時、御言葉がわからない。
又、うすうす何か感じているあれやこれやがあるが、直面したくな
い。拒否してしまっているだろうか。主は十字架へと御顔をまっす
ぐ向けられた。わたしは今日も明日も次の日も、進んで行かねばな
らないと、十字架に向かわれた。直面することを恐れている事をそ
のまま告げて、まず祈ろう。
----------
自分の思いに流れ、都合の良い期待で主を仰いでしまう私たちの姿
ではないだろうか。見えていると思っていてもほんの一部だ。昨日
も今日も変わらず導かれる主に、明け渡した心で向かいたい。


2016年10月27日(木)

「へりくだる者は主によっていよいよ喜び、貧しい人はイスラエル の聖なる方によって楽しむ」イザヤ29:19


へりくだりが良いこと、しんがりになる事が良いこと、皆に仕える
ことが良いこと・・そのような事を聞くと、へりくだらなくてはと、
そのようにしようとする。しかし、その心に、へりくだっている自
分は素晴らしい、又、偉いと言われるために、物腰を低くしようと
してしまう。

周囲に賞賛され、けんそんな人と言われたいがために、そのように
する。外側を作り、見えるところに生きてしまう。決して上座には
行かず、常に下座でうろうろする。「いえいえ、私などは・・」と、
「つまらない者です」と、後ろに退き、一見けんそんな言い回しを
する。人々が集まる中では、靴やスリッパをそろえ、あれやこれや
と世話をする。

しかし心の中では、自分が一番けんそんで、皆に仕える者だと、し
んがりの者だと、誇っていたならどうだろう。そのけんそんは、高
慢の裏返しになってしまう。又、この世の宗教では、偉くなって行
くための階級があり、今は下働きをして仕えるが、階級が上がる度
に、下の者から仕えられるようになる。それを目指して、仕える。
いつかは自分も偉くなると。

しかし主が言っておられるのは、そういう事ではない。自分の力で
へりくだる事は出来ない。単に腰を低くするだけだ。御霊によって
与えられるものだ。すでに古い人が、主と共に十字架につけられた
事を信じ、自分を捨てて行く事、砕かれる事によって、与えられる
へりくだりだ。砕かれて行く時に、自らの貧しさを知り、主を喜ぶ
者とされて行く。

・・・・・・・・・・・・
自分で、けんそんになろうとしても、肉でやろうとするなら、高ぶ
りになってしまう。自分では出来ない。主を仰ぎ、主に一歩一歩と
従って行く時に、主がけんそんな者にして下さる。主が砕き、練り、
きよめて行って下さる。主の御手のわざだ。


2016年10月26日(水)

「彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである」マルコ9:34


エデンの園で、サタンからの誘惑が「あなたがたが神のようになり」
だった。自分が従うのではなく、自分が上に立ち、主になることだ。
神のようになる、つまり偉くなることだ。アダムとエバが罪を選ん
だ時から、この「偉くなりたい」との欲求が、誰しもの内にある。
弟子たちにもあった。

弟子たちは、自分たちの内で、誰が一番偉いかと論じ合っていた。
又、ゼベタイの子たちの母親は、二人の息子を主の御国で、一人は
右に、一人は左に座れるようにして欲しいと、主のもとに願いに来
た。そして他の十人は、この兄弟のことを聞いて腹を立てた。つま
りは、他の弟子たちも同じ思いであった。

しかし主は、偉くなりたいと思うなら、皆のしんがりになり、仕え
る者になれと言われた。誰が一番偉いかの、張り合いは、比較から
来る。偉くなりたい欲望が内にあるので、どうしても他人と比較し
てしまう。人との差異でしか自分を量れないからだ。

比較すると、自分より能力がある人、好かれる人が出て来る。する
と劣等感に陥ってしまう。又、反対に自分の方が上手くできる場合、
優越感を持つ。優越感と劣等感は一つで裏表なので、優越感だけで
生きる事はできない。必ず劣等感に陥る事になる。これらの結果、
妬み、争い、高ぶりが生じて来る。

偉くなりたい肉、比較する肉に気づいて、まず祈ろう。御霊が更に
気づきを与え、一歩一歩導いて下さる。神のあり方を捨てて、自分
を卑しくし、十字架の死にまで従われた主をいつも見上げていよう。
------------
自分は徹頭徹尾、主に愛され赦された者であることを思うとき、劣
等感も優越感もなく謙遜にさせられる。人との比較の世にあっても、
今日も心守られ自由に柔軟に歩みたい。


2016年10月25日(火)

「祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は・・せきとめられ、せきをなして立つようになる」ヨシュア3:13 



目の前にヨルダン川が、とうとうと流れている。又、春先で、雪解
けの水が溢れ、最も水かさの増す時期だった。自分たちの背よりも
高い川で、舟も橋も無い。大きな試練を前に、ヨシュアは祭司たち
に命じた。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡れ。ヨルダン
川の水際に来た時に、川の中に立て」と。

祭司たちの足の裏が、水の中にとどまると、ヨルダン川の水がせき
止められ、せきをなして立つようになると。祭司たちは、契約の箱
をかついで、川に足を踏み入れた。一体どうなるのか。目に見える
何の保証もなく、ヨシュアの言葉だけだった。一歩踏み出すと水が
せきとめられると言う。

先にせきとめられてから、渡るなら簡単だ。しかし、まだ川の水が
岸一杯に溢れている時に、足を水の中に入れる事は、勇気が要る。
信仰が必要だ。目に見えるところでなく、目に見えない御言葉に従
うことが信仰だ。しかし信仰もって一歩従う時、いつも神のみわざ
を見る。確かに主の働きを経験する。

私たちは、不安と恐れがあり、ちょっとでも見えたなら従おうと思
う。しかし見えたなら信仰は必要ない。見ているものを信じる必要
がない。先に水がせき止められたのでなく、足を踏み入れた後に、
せき止められた。見たなら従おうとするなら、従えないまま一生が
終わる。今、従うよう示されているなら、御言葉だけを頼りに、踏
み出そう。
-------------
状況と自分を見て判断すれば不安と試練の連続だ。けれど約束の御
言葉を信じて委ねることができたら、毎日は主の備えておられる新
たな祝福を経験していける。一歩信仰を働かせよう。


2016年10月24日(月)

「あなたがたは罪によって・・死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し・・」コロサイ2:13 



「私たちのすべての罪を赦し」、罪の赦しのための十字架であった。
妬みから、主を十字架につけて行った祭司長や律法学者たち。その
彼らから、たきつけられ、群集心理により、バラバでなくキリスト
を十字架につけよと、ピラトに迫った群衆たち。

証言も一致せず、主に罪が無いことがわかっていたのに、保身のた
め、みすみす十字架に送っていたピラト・・彼らは自分が何をして
いるのか、全く知らなかったわけでなく、ずる賢いやり方で、主を
殺そうとしたことをわかっていただろう。主を消し去ってしまいた
かった。

だが、真の意味で、彼らは自分たちがどんなに恐ろしい事をしてい
るのか、知らなかった。神の子を抹殺しようとしていたのだから。
しかし、そんな彼らのために、主は十字架上で、赦しを祈られた。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で
わからないのです」と。

ある人が、不用意な言葉で、人を傷つけてしまった。悪気は無かっ
たと弁解したが、しかし、自分の心は知っていた。相手が嫌いだっ
たので、傷つけたくてそうした事を。私たちも、数知れない罪を犯
して来た。狡猾な罪、恥ずかしい罪、陰険な罪、それらを赦すため
の十字架だ。

しかし、尚も自分でも気づいていない罪、罪の恐ろしさがわからな
い罪・・「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」、
そんな罪をも赦されている。「すべての罪を赦し」、恵みを今一度
覚えよう。
-------------
私たちは多くの罪を犯すが主が罪に勝利してくださった。十字架を
見上げ、罪赦されたことに感謝したい。罪の誘惑は生涯の戦いだが、
主により新しくされた者として主に導かれ歩める者でありたい。


2016年10月23日(日)

「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちで す」ヨハネ6:63


ある人が、特別厳しい試練に会った。辛く苦しいものだった。何を
していても、その問題がずっしりと迫って来て、押しつぶされそう
だった。心は暗く、重く、沈んでいた。先が無いように思えるほど
だった。楽しいはずの時も、全く楽しくなかった。

心は打ち沈むばかりだが、そんな中、聖書の学びの中で、御言葉に
立つよう教えられた。それに従って、御言葉を思い起こして行った。
「神は愛」「万事益とされる」「ご計画がある」「耐えられない試
練はない」「脱出の道がある」「試練をこの上もない喜びとせよ」

「後に平安の実を結ぶ」「主はしようとしていることを知っておら
れる」「災いではなく、平安と将来と希望のためのもの」・・様々な
御言葉が次々と浮かび、御言葉に思いを馳せ、御言葉に浸った。す
ると不思議が起きて、心が引き上げられて行った。

御言葉を思い巡らしていた時に、主から与えられた試練であり、必
ず良くして下さるから、受け止めようと思えた。御言葉を反すうし
ていると、その御言葉から平安が流れ出て来ることを感じた。信仰
が起きて来るのだ。大丈夫だと思え、主を信じて行こうと思えた。

あんなに押しつぶされそうだった心が変えられている事に驚いた。
結果、厳しい試練であったが、解決が来た。しかし、新たに主を知
り、主に出会えて、その試練を心から感謝できた。

・・・・・・・・・・・
御言葉に導かれる事は、御霊に導かれる事であり、御言葉を心素直
に受け入れて、御言葉を信じて行く時に、心が解き放たれて行く。
自分の頑張りでなく、心が変えられる事を経験する。そこに御霊が
働かれるからだ。何より神の愛に触れて行く。


2016年10月22日(土)

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もな い喜びと思いなさい」ヤコブ1:2


「信仰がためされると忍耐が生じる」とあり、信仰の試し=試練 
の時にこそ、忍耐が培われる。忍耐とは、神は、必ず良くして下さ
ると信じることだ。それは順境の時には、意味をなさず、逆境の中
で、培われるものだ。その、神は必ず良くして下さるという忍耐を
働かせて行く時に、成長すると言っている。

「そうすれば、あなたがたは・・成長を遂げた、完全な者となる」。
試練における祝福とは、必ずしも状況が変化することではない。環
境が変わり、苦しい状況が無くなることではない。神の御心なら、
苦しい環境を取り除かれる事もあるが、そうならないこともある。
祝福とは、私たちが成長を遂げていくことだ。

試練の中で、神を信頼じ、神を待ち望むことにより、神は私たちを
練られ、鍛えられ、きよめられる。だから、忍耐が、練られた品性
を生み出すことになる。試練の時には、どうしても、この苦しみを
取り去って欲しいと思う。すぐに解決して欲しい、この状況を変え
て欲しいと。

しかし、ただいたずらに嘆くのでなく、逃げてしまうのでなく、押
しつぶされるがままでなく、受け止めて行けるように祈ろう。苦し
みが無くなることではなく、私たちが成長する事が、祝福なのだか
ら。試練を通して、間に合う器に造り変えて行って下さる。だから
こそ、試練をこの上もない喜びと思いなさいと。

・・・・・・・・・・
平穏無事がこの世の幸せだ。家内安全、交通安全、商売繁盛・・、肉
は平穏無事を求め、ひたすら問題悩みの無いことを願う。しかし試
練の中でこそ、主を知り、主の真実、ご愛、あわれみを知れる。砕
かれて、この世の喜びではない、御霊の真の喜びを知って行ける。


2016年10月21日(金)

「彼は・・その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハネ10:4 



人生の重大な事に関しては、よく祈って、神の御心を求める事が大
切だ。自分の思いがあり、神の御心がある。サタンからの思いもあ
る。それらを間違わないように進む事が大切だ。御心を知るための、
原則的な方法があるが、まず神の御心を求める者に、神は喜んで御
心を知らしめ、神の喜ばれる道へ導かれることを知ることは大切だ。

そして御心に従おうとする者に、御心を示される。従う気がまるで
無いのに、聖なる御旨を知らされる事はない。そのためまず「どう
であれ従います」との態度は重要だ。右でも左でも、御旨のままに
との姿勢が必要だ。まず自分の意志を委ねないと、御心はわからな
い。自分の意志が妨げるので、なかなか御心を知ることができない。

自分のしたい事があるものだ。自分の思いがすでに決まっていて、
神の認め印が欲しい。そんな事も多々あるのだが、神に従いたいと
思うなら、御言葉と祈りと環境から、御霊に導かれて判断して行く
とよい。それらが一致する時、御心を確信して進めばよい。もし一
つでも不安なら、進まずに続けて祈った方がよい。神は必ず示され
る。

前後の文脈を無視して、一つの御言葉だけを取る事も危険だ。慎重
によく祈り、全き平安が来るまで祈るとよい。早急に事を進めない
事だ。サタンは神と同じ事をする。敵も声をかけて来る。調和があ
るか、平安があるか、よく見極めよう。急く事はない。御心なら、
確信が強められ、目の前の門が開かれて行く。
-------------
まずしたい事があり「主よその時は?良い時を。」と祈ってしまう
が、確信が無いのでなおも不安になる。なんと思い込みやすく迷う
羊だろう。主はそんな羊の声を知り導かれる。主の御声を聞こう。


2016年10月20日(木)

「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」ピリピ2:14



神は、私たちの心の内に働いて、ああしよう、こうしようとの志を
与えられる。それは御心にかなった事だ。そして、神がそれを行わ
せて下さる。つまり、それを成し遂げられるのは、自分ではなく、
神であると。勿論、実際、自分自身が行なうのであるが、それを成
し遂げる力は、神から来る。

だから、もし主から何かの示しを受けるなら、自分には能力がない、
知恵がない、時間がない、財がない・・と悩む必要はない。神が語
られた事は、神が実現する力を下さる。例えば、水泳を習得する時、
泳ぎ方のレクチャーを受け、ノウハウを学び、それだけで、泳げる
ようになるのではない。実際にそれを用いて練習しなければ不可能
だ。練習を積み重ねて行く時、いつか泳げるようになる。

祈りは大切だが、ただ祈っているだけでは、習得できない。祈りと、
地道な実際の練習が必要だ。同様に、私たちも、何かを語られ、示
された時には、祈りと共に、実行が大切だ。導きを受けているが、
一歩踏み出す勇気がなく、不安と恐れがあり、いつまでも祈り状態
だろうか。祈りが隠れみのだろうか。

そうであれば、祈りの座から立ち上がり、一歩踏み出そう。前に進
もう。その時、いのちの言葉をしっかり握って、彼らの間で世の光
として輝くことができる。証しとされて行く。そして自分の努力し
たことがむだでなく、苦労したことも無駄でなかったことが、かの
日に誇れる。何と幸いだろう。
--------------
成し遂げてくださるのは神であることを忘れると、足りない自分ば
かりが見えて来る。神が用いようと志しをくださったのだから必ず
よき証ができる。明け渡しあずかって行こう。


2016年10月19日(水)

「それで、彼は行って、主のことばのとおりにした」T列王17:5 




エリヤは、主から示しを受け、あの極悪王アハブ王のもとへ行き、
ここ2,3年は雨が降らないと告げた。大変な勇気が要ったろう。
有名な悪王であり、その場で打ち首になっても、普通のことであ
った。エリヤの信仰による行動だった。そして、主に言われた通
りに従うと、次の導きが来た。「ケリテ川のほとに身を隠せ」と。

川の水を飲むように。食物はカラスが運んで来るからと。何とも
頼りなげな状況だ。ゴミ箱をあさるカラスをよく見るが、鋭く、
貪欲だ。そんなカラスが食物を運ぶのか。自分が食べるではない
か。しかし、彼は前回と同じように、主の言葉に従った。すると、
言葉の通りに、朝と夕にカラスが肉とパンを運んで来て、それを
食べた。

まことに主の言葉の通りであった。奇跡だった。それはアハブ王
から、身を隠させるためでもあった。「わたしは烏に、そこであ
なたを養うように命じた」、「そこで」とあり、主の語られた、
御心の場所にいるなら、どんな状況でも、奇跡をもって養われる。
いつも「そこ」御心の中にいることが大切だ。主が責任を持たれ
る。

ケリテ川が枯れた時、また次の導きが臨んだ。シドンのツァレフ
ァテへ行けと。主は、次々と必ず次の道を示し、導かれる。「主
のことばがあった」「主のことばの通りにした」、日々の生活の
中で、主の言葉が与えられ、その通りに従うことが大切だ。主の
愛や真実、みわざを経験して行く。
-------------
主の備えはいつも想定外で奇跡をもって養われる。みわざを拝す
る度に自分の枠内で思い煩っていた不信仰を悔いる。今日まず一
歩を主に信頼し、従いたい。


2016年10月18日(火)

「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」詩篇55:16




ダビデは、「私は苦しんで、心にうめき、泣きわめいています」と
言っている。敵の叫びと悪者の迫害のためと。激しい怒りで自分に
恨みを抱いていると。死の恐怖に襲われ、恐れ、おののき、戦慄の
中にあると。そして、それが敵ならまだ忍べたが、なんと自分の同
輩、友、親友が、自分を襲って来ると。仲良く語り合い、神の家に
一緒に歩いて行ったのにと。

喜びも苦しみも共有した、親友の裏切りに会い、それが自分を攻撃
して来るという、何とも言えない苦しみ、痛みを経験した。鳩のよ
うに翼があれば、飛び去って、遠くへ逃れたい、この苦しみから逃
げてしまいたいと言っている。このような厳しい苦悩にある時に、
ダビデはどうしただろう。

自分で立って動き回るのでなく、自分で何とかしようとするのでな
く、まず、辛く苦しい、不安と恐れ、恐怖・・その心の内を、その
まま主に打ち開けている。率直な、正直な気持ちを告げている。
「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると主は私の声を聞いてく
ださる」と。嘆き、うめきをそのまま受け止めて下さると。

そして、私のたましいを、敵から平和の内に贖い出して下さると。
今、辛い状況にあるなら、今の気持ちそのままをまず主に聞いてい
ただこう。主に呼ばわろう。祈って行く時に、不思議だが心が変え
られて行く。心が落ち着いて行くのだ。主が心を落ち着かせ、平安
にして下さる。そして、「あなたの重荷を主にゆだねよ」、その重
荷を委ねるように導いて行って下さる。
------------
主は私たちを愛し、祈る前から全ての必要を知っていてくださって
いる。その主の愛の中で、弱音や辛さを打ち明けていこう。全ての
問題の中で、祈りが与えられていることは、何と幸いなことか。


2016年10月17日(月)

「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます」エペソ6:16




サタンは、神と同じ事をしてくる。主が御声をかけて導かれると、
サタンも声をかけ、耳元でささやいて来る。朝起きた時から、夜寝
るまで、ずうっとサタンの攻撃にさらされている。無防備でいると、
ずうっとサタンの声に引きずられて行くことになる。朝起きるや、
サタンはその日の心配事、不安材料、思い煩いを見せて来る。

あの事・・、この事・・、途端に心は暗くなる。気持ちは沈む。サ
タンだと気づかなければ、サタンの思いのまま、落ち込ませられ、
意気消沈させられ、思い煩いでいっぱいにされる。主と共に、主を
喜んで、生き生きと御心を行なうはずの一日が、どよ〜んと沈んだ
ままだ。絶えず、来ていることに心していよう。「力の限り、見張
って、あなたの心を見守れ」、心を見守れと言っている。

それも力の限りと。自分の心を見張る人など、なかなかいない。自
分の心をしっかり見張ることを始めよう。サタンが様々な思いを吹
っかけて来ることに気づく。人により傷ついた言葉や態度、自分の
過去の痛い失敗、恥ずかしい罪、様々投げつけて来て、心を乱す。

ある人は、ある状況で、突然30年前の似た事が思い出され、傷つけ
られた怒りと恨みがよみがえった。しかしサタンだと気づき、その
思いを拒否し受け入れなかった。すると心が全き平安に守られた事
を経験した。絶えずサタンの火の矢が飛んで来る。心を見張ってい
よう。
----------
サタンが立てる波風でストレスが加速されていないか、本当の敵を
しっかり認識していよう。主の御声かサタンからの声かを気付ける
よう朝から祈って出て行こう。


2016年10月16日(日)

「『・・主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。』しかし、彼の 婿たちには、それは冗談のように思われた」創世記19:14 


アブラハムは神の御声に従い、慣れ親しんだ土地を出て、約束の地
へと立つが、甥のロトも一緒に旅立った。神の祝福により、段々家
畜も増し加えられ、所有物も増え、双方の使用人同士でもめ事が起
きた。もうこれ以上一緒に暮らす事は困難となった。そこでアブラ
ハムはロトに別れる事を提案した。

選択権はロトに与え、ロトは、よく潤っていたソドムとゴモラを選
んだ。祈る事もなく、見えるところ最良の地を選んだ。アブラハム
はカナンに住んだ。ロトは「ソドムの近くまで」天幕を張った。ソ
ドムの人々はよこしまで、非常な罪人であった。ロトは、最初は近
くまで行った。しかし次にはソドムの門に座っていた。門に座ると
は、町の有力者ということだ。いつしか町に入り、地位を得ていた。

そして、その町は余りの罪深さに滅ぼされる事になる。ロトは祈っ
たのでもなく、おじと同行するのが得策と、おじについて行った。
別れる時の選択も、神を仰ぐ事なく、どこが自分により有利かで決
めた。不道徳なソドムの近くに行ったのも、自分は大丈夫と思った
からだった。

しかし大丈夫ではなく、段々と、いつしかソドムに入り込んでしま
った。この世での評判、名誉を得た。たっぷりこの世に浸り、この
世の富、楽しみ、地位を手にしているロトに、この地が滅びると言
われても、娘婿は冗談にしか思えなかった。結局、娘婿も妻も救う
ことができなかった。主を仰ぎ、御声を聞き、従う歩みの幸いを見
せられる。

・・・・・・・・・・・
ロトは自分は大丈夫と思い、世の美味しいところ取りをしながら、
少しづつ〃流されて行った。世に流されている事に気づかぬままに。
証しの力も失せ、娘婿は滅びを冗談だと思った。逆に地道に少しづ
つ〃主と交わりを培って行くなら、どんなに揺るぎない歩みだろう。


2016年10月15日(土)

「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります』」 ヨハネ11:23

  

主は、マルタ、マリヤ、ラザロの兄弟を愛しておられた。それが彼
らにもわかっていたので、ラザロが危篤の時に、使いを送り、主に
伝えた。伝えさえすれば、何とかして下さると信じることができた。
「あなたが愛しておられる者が病気です」と。すると主は「この病
気は死で終わるだけのものでなく、神の栄光のためもの」と言われ
た。

そしてはっきりと「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛してお
られた」とある。しかし主は動かれず、そこにとどまられた。そし
てラザロが死ぬのを待って、ユダヤに行こうと立ち上がられた。主
はラザロの死を通して、神の栄光を現わすという御心を持っておら
れた。つまり、病気を治すことではなく、死からよみがえらせると
いうご計画だった。

しかし「あなたの兄弟はよみがえります」との主の言葉をマルタも
マリヤも人々も信じなかった。墓で石を取りのけるように、主が言
うと、マルタは、いやもう腐っていると。目の前で、今、よみがえ
るなどと不可能だ、信じられない。常識、自分の思い、今までの経
験・・見えるところを信じ、主の言葉の方を退けてしまう。

私たちもどうだろう。時に理解を越えた主の言葉と、目の前の現実、
常識、自分の思いがある時、どちらを選んでいるだろう。主の言葉
を退けていないだろうか。御言葉に立ち、御言葉を選べるよう、助
けを求めて祈ろう。主の言葉に立つ時、神の栄光を拝する。

・・・・・・・・・・・・・
根深い自分の思い、生まれつきの価値観、今までの経験値、この世
界の常識、それらのものと、御言葉が合わない時がある。ペテロが
魚のいない時間帯に網を下ろせと言われたように。しかし御言葉は
常識を超越する。御言葉の方を選び取ろう。それを祈ろう。


2016年10月14日(金)

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」詩篇37:5



ある人に、打ちひしがれるような試練が臨んだ。辛くて苦しくてた
まらない。教会で御言葉を学んでいると、その試練の中で、自分が
握っているものがわかり、それを主に委ねるようにと。その事が示
されているとわかった。しかし、どうしても委ねられないのだ。

委ねようとするが、委ねられない。自分が固く握っている。どうし
ても放せない。自分が手放すと、何もかもが崩れ落ちて、だめにな
るように思えてしまう。そのところで主を信じることができていな
い事も照らされた。そして自分の思い通りにしたいと思っている。
握り締めているものは、自分にとって、いのちとなっている。

しかし現実は苦しくてたまらない。委ねられないからずっと苦しい。
委ねようとするのだが、心の芯では握り締めている。もうどうにも
ならず、委ねられないこと、どうしても出来ないこと、握って放せ
ないこと、でも苦しくて助けて欲しいこと、そんな事を何もかも吐
き出して祈った。

心底ギブアップ状態になった時、不思議だが委ねることができた。
御霊の働きであり、祈りの答えであり、みわざだった。その時、そ
の問題に解決が来て、心平安にされた。

私たちも委ねようとするが、自我が強く、握り締めていて、委ねら
れない、主に明け渡せない事を経験する。人にできない事が神には
できる。ありのままを主に祈ろう。助けを求めよう。主が働かれる。
------------
主の御心にかなった祈りは必ず聞かれる。何度も何度もありのまま
を祈っていこう。強い自我を放す日はくる。主の御わざだ。違う角
度から状況を見られたり、主の御心に従いたいと心から思える。


2016年10月13日(木)

「あなたは次のことによって、わたしが主であることを知るようになる」出エジプト7:17



エジプトで、モーセを通して、奇跡のわざが次々となされた。ナイ
ル川が血に変わり、かえるが全土に満ちた。呪法師たちも同じこと
をした。サタンも万能ではないが、奇跡を行なう。神と同じ事をし
た。しかし次に、地のちりが全土で、ぶよとなった。そして呪法師
も同じ事をしようと、彼らの秘術を使ったが出来なかった。ぶよは
人や獣についた。

そこで呪法師たちは言った「これは神の指です」と。どうしてもで
きず、神以外の何者でもないとわかった。しかし、神のわざだと理
解したからといって信じるわけではない。パロも、ますます心をか
たくなにした。彼らの言う事を聞き入れなかった。

次に、あぶが全土に満ち、地は荒れ果てた。行き詰まったパロは、
民を出て行かせると言った。しかし「決して遠くに行ってはならな
い」と。サタンは、私たちにも「遠くに行ってはならない」と言う。
信仰もそこそこでよい。すべてを献げるなど行き過ぎだ。罪から全
面的に離れるなど、出来っこない。肉から、罪から離れさせたくな
い。成長させたくない。

今も誘惑が来ているだろうか。神は「わたしが主であることを知る
ようになる」との目的をもって十の災害を下された。しかし、パロ
はみわざを見るが、神を拒み、その結果どんどん強情になり、頑な
になって行った。私たちはそうではなく、辛い苦しい出来事の中で、
神が主であることを知り、認め、ますます成長して行ける。
------------
様々な誘惑や災いを通りながら、体験として「わたしが主である」
と、御神を認めさせられる過程は、辛い試練の中の唯一の宝で祝福
だ。力も愛も憐れみも経験する。成長していこう。



2016年10月12日(水)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」ヨハネ15:5


どうだろう。日常生活で、祈る時も、考える暇もないほど忙しくて、
次々と目の前の事柄に追われる時があるだろうか。そんな時、動き
回っているが、何かが、ちぐはぐになっていて、心は満たされてお
らず、結局、骨折り損のくたびれもうけみたいになってしまう・・。

そんな時、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中
にとどまります・・わたしにとどまっていなければ、実を結ぶこと
ができません」との主の言葉が響いて来る。主にとどまること、そ
の時、今日の一日が、豊かに実のなる一日とされる。

主や、主の言葉が飛んで、祈りもなく、ただ走り回り、目の前の事
柄をこなす時、心の虚しさを経験する。外側は動き回っているが、
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」との
御言葉通りだ。大事な事は、誰と共にいるかだ。

「世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」との主を
意識し、主と共にこの一日を生きる時、心は満ちて来る。喜びが湧
いて来る。主を求め、御心を求めて行く時、虚しい一日とは決して
ならない。主の愛は永遠に変わらず、常に愛して下さっている。祈
りつつ歩もう。

主はどんな小さな祈りも聞いておられる。こちらも主に向き、周波
数を合わせる時、主の御声が聞こえて来る。その示しに従おう。主
に向くことが大切だ。主にとどまる日々は、豊かに実を結んで行く。
-------------
忙しく心が枯れそうな時は、小さな祈りでも主から養分を受けるこ
とができ、少しの時間でも御言葉を開けば心はまたあたたかく燃や
される。どんな時でも主に繋がっていよう。


2016年10月11日(火)

「律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです」ガラテヤ5:4 


 

当時のユダヤ人たちは、律法を忠実に守り、神に認められようと必
死だった。懸命に律法を守ろうとした。しかしそこには喜びも、自
由も無かった。なぜ喜びがなかったのだろう。律法を懸命に守るこ
とによって、神に認められようとしていたからだった。

律法自体は良いものであり、主は「わたしが来たのは律法を廃棄す
るためでなく、成就するため」と言われた。大事なことは、「自分
が」でなく、「主が」成就して下さるということだ。自分が成し遂
げようとすると、“文字は殺し、御霊は生かす”の通り、出来ない
自分にぶつかり、律法は良いものなのに、どんどん苦しくなり、が
んじがらめになる事を経験する。

しかし、ここに主の救いがある。人が神に受け入れられるのは、努
力や頑張りによるのでなく、罪人のまま、まず受け入れ愛して下さ
った神の愛による。私たちが神を愛する前に、愛して下さった大き
な愛だ。そこが原点だ。<神に愛されている>。そこから喜びと平
安が来て、その愛に応えたいがために、主に仕え、人に仕えて行く。
そこに真の喜びと平安がある。

律法を自分の力で行なうと、もし出来たなら、必ず出来ていない人
を裁く。自分は辛いのに、頑張っているのに、そうしていない人に
怒りが湧く。だが自分の無力を認めて、主に頼るなら、人の評価や
人の目からも自由にされる。段々人が気にならなくなる。
---------
神に愛され支えられているので、自由に主を愛していける。奴隷で
なく主体的に神の愛に応答して歩める。自分の力ではないと、いつ
も恵みに感謝していたい。


2016年10月10日(月)

「別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった」マルコ4:8



種蒔きのたとえの中で、4つの土地に蒔かれている。種は御言葉で、
土地は私たちの心だ。それぞれ、私たちの心に語られた御言葉の状
態を示している。ここでは種ではなく、土地の問題、聞く心の状態
が問題だ。聞く態度が良ければ、種は芽吹いて、どんどん実を結ん
で行く。聞く心の状態が悪ければ、全く実を結ばないとある。

どのように聞くかは重要だ。種が土地に植わらなければ、実の結び
ようがないように、御言葉が心に根ざさなければ、実の結びようが
ない。サタンは私たちの心の中を見ていて、御言葉をどのように聞
いているかを知り、「悟らない」と、心に蒔かれたものを奪い去っ
てしまう。

幾ら自分は聞いていると思っても、聞かなかった事と同じになる。
サタンが絶えず御言葉を奪い、祈りを奪い、デボーションを奪う事
を覚えていよう。又、聖書を読み、礼拝で説教を聞くが、私たちの
心には、まだいばらがあるので、「世の心づかい、富の惑わし、そ
の他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐ」。

色々な肉の欲が湧いて来る。その時に、このいばらを捨てること、
献げること、委ねることを繰り返して行こう。祈りは力だ。肉の欲
が出て来るたびに、まず祈って、取り扱っていただこう。信仰人生
に、実を結ぶか結ばないかは、私たちの聞く心の状態にかかってい
る。
-----------
実を結ばせるために何が欠けているのだろう。心の状態を省みてみ
たい。命ある種を信じて従おうとするときに何にぶつかるだろう。
また実を結ばせようとして聞いているだろうか。


2016年10月09日(日)

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」 Uコリント3:17


ある人が、けいこ事の中で、いじめに会った。敵対して来る相手が
いた。言葉を返してもらえなかったり、あからさまに批判されたり、
身に覚えのない事で中傷された。辛くて、悲しくて、帰宅しては涙
が出た。そんなに辛いなら、そのけいこ事を辞めればよいのだが、
その事自体は好きで、尊敬できる良い師に巡り合え、またとない機
会で、辞めたくはない。

そして自分はクリスチャン、人を愛さなければならないと、日々、
「愛せますように」「〃」と祈り続けていた。ところが幾ら祈って
も、祈りが全く聞かれない。相手は変わらず、自分の苦しみ、辛さ
も変わらず、状況も、全く何一つ変わらない。これだけ祈っている
のに、どうして?? その事を率直に主に問うて祈った。なぜ祈り
が聞かれないのか。

すると、心の奥を御霊に探られ、「愛せますように」が建前で、口
先だけの事で、心の奥は全く違った。愛したいなどと思っていない。
辛く当たられて、怒っているし、嫌でたまらず憎んでいる。しかし
そんな自分を認めたくない。良い人でありたい。だが御霊の示しに、
まさにそれが自分である事を正直に認め、告白した。

すると色々な場面が浮かび、相手は、いつも自分が皆から賞賛され
るのが嫌だったのではと、思い当たる節が様々あった。相手も、自
分の事が嫌で辛いんだなと思えて、自分の心が変えられた瞬間だっ
た。気がつくと相手の祝福を祈っていた。自分ではなく、御霊の働
きだった。

・・・・・・・・・・・
自分では何の問題もない、OKと思っているのだが、何かすっき
りしない、祈りが答えられない、事が滞ったままの事がある。そ
のまま率直に主に向かおう。「教えて下さい」と祈ろう。建前、き
れい事で、本当の自分に気づいていなかったりする。主は教え、導
いて下さる。


2016年10月08日(土)

「そこで人々は、彼らの食料のいくらかを取ったが、主の指示をあ おがなかった」ヨシュア9:14 


自分の思いで事を始めて、失敗してしまった経験があるだろうか。
ある人は、目の前に来た高賃金のバイトに乗ってしまい、大変な目
に会った。確かに高収入だが、仕事はハードで、体調を崩してしま
い、辞めてしまった。祈らないで飛びついてしまった結果だった。

又、別の人も、高額に惹かれて始めたバイトだったが、高額だけあ
って、非常にきつい作業だった。日々消耗しきって、デボーション
も出来ない状況に、心身疲れて果てて、結局辞めた。やはり祈らな
いで始めてしまったと。ある人も、これは絶対に成功すると練りに
練って始めた企画が、見事失敗に終わった。主に指示を仰いでいな
かった事に気づかされた。

ある時、ギブオンの住民達は自分たちが滅ぼされるのを恐れて、ヨ
シュアをだまして盟約を結ぼうとした。古びた着物に古いはきもの、
パンは乾いてボロボロ、遠くから来たように巧く変装した。それで
ヨシュアたちはだまされ盟約を結んだ。「主の指示をあおがなかっ
た」とある。ここが間違いであった。肉の判断をしてしまう。

実は、近くの者で、自分たちの中に住む者であった。その結果、滅
ぼされるべき民が、ずっとイスラエルの中に居続ける事になる。祈
らないで、主に指示を仰がないで、事をすると失敗してしまう。刈
り取る事になる。まず主の指示をあおぐことが大切だ。よく祈って、
主に相談して、事を始めよう。

・・・・・・・・・・・・
自分の思いで事を行なうと失敗してしまう。良かれと思っても、主
を仰がずにするなら、肉の思い、肉の力による事だ。神から発した
事が、神によって成り、神に至る。自分から発するなら、そうなら
ない。目の前の事も、今一度、祈りに持って行こう。主と一つに行
なえる。


2016年10月07日(金)

「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから」T列王19:4 



エリヤはバアルとの対決で、大勝利を遂げた。しかし、怒ったイゼ
ベルはエリヤ殺害の命令を出す。するとエリヤは恐怖に襲われ逃げ
出し、死を願った。エリヤは、あれほどの熾烈な戦いに大勝利した
のに、なぜ怯えるのか?と思うが、霊の敵との激しい戦いに心身消
耗しきっていた。又、霊的勝利の後は、特に気をつける必要がある
と言われている。

勝利に喜び、安堵し、油断しきっている所へ、サタンが牙をむく。
腹をすかせたライオンが襲いかかって来る。成功の後こそ、身を引
き締め、へりくだって、更に主に頼る必要がある。又、あの勇敢な
エリヤが、怯えた原因は、イゼベルの言葉だった。主の言葉でなく、
イゼベルの言葉の方を受け入れてしまった。

受け入れるべき言葉と、聞き流し、拒否すべき言葉がある。私たち
は、言葉によって、動かされてしまう。どの言葉に聞いているだろ
う。神の言葉か、サタンの言葉か。神はエリヤを責められず、叱責
もされず、休息させられた。深く眠らせ、食事を与え、十分休ませ
られた。心身疲れ消耗しきっている時は、まず休息が大切だ。

十分な睡眠と食べ物で、回復したエリヤは、ホレブの山に行き、ほ
ら穴にいた。主は、山の上で主の前に立つように命じられた。かす
かな細い声に耳を傾けて行くと、神はエリヤの、もう自分一人にな
ってしまったとの思い込みを正し、まだ7千人がいると。そして新
たな使命を与えられた。再び、神の使命を果たすために立ち上がる
事ができた。
-----------
霊的な勝利の後にサタンにかき回された経験があるだろう。霊肉と
もに落ち込んでしまう。御神がエリヤと同じように私たちにも回復
を与えて自分らしくまた立たせてくださる。


2016年10月06日(木)

「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」イザヤ30:15 


ある男性が、大事なプロジェクトを抱え、早朝出勤深夜帰宅で、も
うヘトヘトの日々だった。体力も限界寸前だ。そんな時、予定外の
休暇が与えられた。嬉しくて大喜びした。仕事から解放され、しば
しの休養に感謝した。ところが休暇の何とその日に、バッグを紛失
してしまった。

幾ら考えても思い当たらず、行った先をたどって、捜し回った。そ
れぞれの落とし物係に問い合わせるが無い。心がどんより重くなる。
カード類はすべて差し止め連絡をした。免許証はどうしても必要で
困るので、すぐ再発行に出かけた。結局、バッグは見つからず、ぐ
ったり疲れ果ててしまった。せっかくの休暇が何という事だ。更に
疲れてしまったではないか。

ちょっと心を静め、主の御前に祈りの時を持った。その時、どんな
に物理的に休暇があったとしても、主の平安がなければ、全く休ま
らない事を思い知らされた。又、心騒ぎ、まず走り回ってしまった
事、そうでなくまず祈るべきであった事を示された。慌ててしまい、
すぐに何とかしなければと、焦って自分で動き回った事、だから心
身疲れ果ててしまったこと。

まず祈り、主と一緒に捜せばよかったこと、そうするなら平安に行
動できたこと、様々な事に気づかされた。バッグは無くしたが、今
一度主に立ち返れて、ハードな目の前の仕事も、祈りつつ主と共に
成し遂げ、乗り越える事ができた。大きな感謝であった。目の前の
事を主と一緒に成して行く時、喜びが来る。
----------
主に信頼して主を呼ぶときに、いらいらとする焦りや恐れから目が
離れ、荒ぶる思いが謙遜にさせられる。なかなか静まれない者だが
静まって御声を聞くことが力の源だ。


2016年10月05日(水)

「『安心して行きなさい・・十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう」ヤコブ2:16 



「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶ時に答えら
れない」 ともある。貧しい人が何かを求めて来た時に、面倒で関
わりたくないと思ってしまう。時間を取られるのは辛い、何かを提
供するのはしんどい、金銭的な犠牲を払いたくない。肉は自分を守
り、損得勘定なので、得るものが無い事はしたくない。

「耳を閉じる者は」とあるが、人は自分が聞きたい事だけを聞いて
いて、聞きたくない事は聞かない。だから聞こえない。そして、耳
を閉じて、聞かなかった事にすれば、自分を正当化できて、悩まず
に済むし、責任も感じなくて済む。しかし、困っている人々の必要
を無視してしまうと、自分が呼ぶ時に答えられない、とある。

自分の祈りが聞かれなくなってしまう。「ことばと口先だけで愛す
ることをせず、行ないと真実をもって愛そう」「それによって、神
の御前に心を安らかにされる」「大胆に神の御前に出ることができ」
「求めるものは何でも神からいただける」。行ないと真実をもって
愛する時、自らの祈りが主に受け入れられ聞かれて行くと。

そして、主との間に妨げがないので、御霊の喜びと平安に満たされ
る。又、神は、私たちが、すべてのことに満ち足りて、すべての良
いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに
与えて下さる。大きな喜びを刈り取る。それは御霊の喜びだ。
----------
人のことはそこそこ無関心でいる方がお互い心地よいと、心の耳も
閉ざしがちだ。だから自分が受けることばかりの祈りになっている
ことに気づく。主の御思いと大きく離れていた。


2016年10月04日(火)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6 



信仰生活で、様々な状況が生じるし、目の前に色々な出来事が起こ
る。私たちにとって偶然は無く、運命ではない。身に起こることは、
主の主権によるものだ。「あなたの行く所どこにおいても、主を認
めよ」の通り、主の御手から来ている。

しばしば対人関係で、問題が起きて、悩む。目に見えるのは、相手
なので、相手が悪い、相手のせいでこうなっている。相手から苦し
められていると思ってしまう。しかし、問題は相手ではない。人と
状況しか見えていなければ、方向を間違ってしまう。その背後にお
られる「主を認めよ」。環境は主から来ている。

信仰の目を持って見て行く時、主が見えて来る。主の意図とご計画
がある。訓練があり、学びがある。その時、正しく対応できる。自
分の問題であり、私を砕こうとされ、教えようとされている。私の
思いと神の思いは、しばしば異なり、戸惑い、理解できない事もあ
る。しかし、置かれた状況の中で、そこに主を認めて、つぶやかず
に、神に従って行く事が大切だ。

その時、砕かれ、練られて、御言葉を通し、御霊により、肉の思い
から、神の思いへと変えられて行く。神の視点を与えられ、その状
況の中で、そこにある神のみ思いを悟って行く。その時、神と思い
を一つにされて行く。主は道をまっすぐにして、平安に導かれる。
------------
道は主がまっすぐにしてくださる。問題解決のために祈るが、進む
方向が間違っているかもしれない。自分の感覚にかたよっていない
か主に尋ねてみよう。主は教えてくださる。


2016年10月03日(月)

「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」エペソ5:20



ジョニーという女性の証しがある。彼女は、水泳の飛び込みに失敗
する。脊髄を傷めたが、九死に一生を得、何とか命は取りとめた。
しかし一生身体は動かないと宣告された。その時に絶望のどん底で
死を願った。「鏡に映る姿はとても人間ではない。窪んで落ち込み、
血走ってどんよりした2つの眼球。

36キロの身体は、黄疸になり黄色い皮膚に覆われた骸骨だ。太った
頭は不気味であり、話をする時、見える歯も薬物治療のため黒くな
っている。とても生きて行けない」。しかし、少しづつ周囲に励ま
されて行く。「神がどう見ておられるかが大切。人がどう見るかは
問題ではない。人の基準で自分を見ると負け犬にしかならない。神
からの価値だけを考えよう」と。

その時、自分が、神の似姿に造られた事に目が向いた。自分のこの
身体、格好、能力、出来る事、出来ない事、自分で自分がどう見え
たとしても、信仰に立ち、自分の事を神に感謝する事にした。する
と感謝を献げ続けて行くと、パズルが埋まるように、すべてのもの
をふさわしい所に置くよう助けられた。

そして、より良く神に仕え、より幸せになれるように、神がこの身
体を与えられたと理解できた。こうでなければ人生最後まで、何も
わからず自己中心に生きていたであろうと。神が特別に自分に干渉
して下さった事に心から感謝した。

今、心に喜びがあり、幸せそのもので、自分を他のものに変えたい
とは全く思わない。感謝する事は、つまり今の状況に神を認める事
だ。その時、神は自由に働かれ、感謝が湧く。
-----------
いつでも、すべてのことに感謝することなど到底できない。だから、
いつでも祈りなさいということではないだろうか。主はその時々に
ふさわしい方法で導いてくださる。主の恵みの中に歩みたい。


2016年10月02日(日)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなけれ ばならない」出エジプト14:14


信仰の偉人たちが、信仰の戦いを戦ったが、その方法は人間的には
想定外のものだった。民の出エジプトを果たしたモーセは、エジプ
ト軍の追っ手に、前は紅海、後ろは精鋭軍隊だ。進む事も退く事も
出来ない、絶体絶命だ。しかし主はモーセに、前進せよと命じられ
た。これは主の戦いであり、主が戦うと。モーセが、エジプト軍と
戦ったのではない。

又、目の前に立ちはだかった難攻不落のエリコの城壁。主はヨシュ
アに町の周りを回るよう命じられた。6日間町の周囲を1度周り、
7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。不思議
な方法でエリコの城壁は崩された。城壁をどうにかしたのでは無か
った。

又、ダビデは、勝ち目のない巨人ゴリアテ相手に、石を打ち、倒し
た。彼らが戦いに勝利したのは、自分の方法や自分の力でなく、神
の御声に耳を傾け、神の方法に従ったゆえであった。人間的考えで
は、そんな事をして何になるとの不思議な方法だった。しかし、主
の命令通りに従った時に、神の大きな奇跡が現わされた。「主があ
なたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦いであっ
た。

私たちも時々理解不能な事がある。しかし、主を信じて従う時、神
のみわざを見る。御霊は窮地で導かれる。心底拠り頼む時に、主が
働かれる事を見せられる。今、具体的に示されている事があるなら、
信仰によって一歩踏み出そう。とにかく神の方法に従うなら、主が
戦って下さる。

・・・・・・・・・・・
「主が戦われる」、主が戦って下さるとは、何と肩から荷が下りる
ことだろう。自分が戦うのではない。主がされる、主が成し遂げて
下さる。目の前の一つ一つに、言われる通りに従い、そして主を信
じておれるように。


2016年10月01日(土)

「たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死 ななければならないのでしたら、死にます」エステル4:16


エステルは、両親と死別し、おじのモルデカイに引き取られた。そ
のエステルが、ワシュテイの代わりに王妃と選ばれた。そんな時、
ハマンは、うまく王に取り入り、ユダヤ民族根絶やし計画が実行に
移された。ハマンの悪巧みであった。モルデカイは、このユダヤ人
の非常事態に際し、王にあわれみを求めるよう、エステルに告げた。

エステルは、召されずに王のもとに行く者は死刑であり、自分は王
のもとには召されていないと答えた。しかし、「この王国に来たの
は、もしかすると、この時のため」とのモルデカイの言葉により、
エステルは、3日3晩の断食の祈りを要請し「私は、死ななければ
ならないのでしたら、死にます」と命をかけて、王にユダヤ民族の
救いを求めた。

それは王に聞き入れられ、ユダヤ民族は絶滅から救われた。エステ
ルがこの時期に王妃にされたのも、この危機の備えでは。これは王
妃であるエステルにしか出来ない事であり、その地位と立場も、神
の配剤だ。私達も皆、それぞれの場がどのようであれ、神の摂理で
あり、ご計画のもとにいる。

今、困難な現実であっても、神の御心があり、ご計画がある。そこ
であなたの使命がある。エステルは自分自身を神に明け渡した。委
ねた。危急の状況の中で、私たちは解決策を探し回る。しかし、方
法でなく、全く明け渡した人を通して、神がご自身のみわざをされ、
栄光を現される。神に委ねる時、用いて下さる。

・・・・・・・・・・・・
私たちは一人一人、境遇も、背景も、現在の立ち位置も、何もかも
が違う。しかし、すべては主のご計画の中にあり、今いる場、境遇、
は主からのものだ。今の境遇で、主を認め、主を見上げ、従って行
く時に御霊の喜びと平安が与えられ、主のわざを見て行く。