2016年11月30日(水)

「しもべたちはもう一つの井戸を掘った。ところがそれについても彼らが争った・・そこから移ってほかの井戸を掘った」創世記26:21



イサクが次々と井戸を掘る箇所が出て来る。ペリシテ人が、イサク
が家畜の群れ、多くのしもべを持つ事に妬んで、父アブラハムの時
代にしもべが掘った井戸をふさいでしまった。そして出て行けと言
われた。イサクはその事でペリシテと争わずに、そこを去り、ゲラ
ルの谷間に住み、そこで井戸を掘った。すると湧き水が出た。

ところが、そこでもゲラルの羊飼いたちが、この井戸は自分たちの
ものだと言い張って来た。そこでもイサクは争わず、別の所に移動
して井戸を掘った。するとそこでも争って来たので、また、別の場
所い移動した。そこで井戸を掘った時に、初めて争いがなく、今や
主は広い所を与えて、この地で増えるようにして下さったと言った。

イサクは、理不尽な目に会い、父が掘った井戸を土で埋められても、
また、自分たちが掘った井戸を奪われても、開いてから争いを仕掛
けられても、場所を変えては井戸を掘り続けた。「ののしられても、
ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばか
れる方にお任せになった」まさに主の姿であった。

イサクはへりくだっていた。井戸を下に下に掘ることは、私たちも
へりくだることだ。井戸を掘り、へりくだって行く時に湧き水が湧
く。彼らを追い出したアビメレクは、彼らが豊かに祝福される様を
見て「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見
たのです」と言った。従って行く時、敵が、主が私と共におられる
ことを見る。
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何処であっても主が必ず祝福してくださるとの信仰が、あえて争わ
ない柔和なへりくだった態度を守り続けることが出来た。正しさを
主張したくなるとき、背後の主に祈りながら、委ねていたい。


2016年11月29日(火)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」エペソ6:12



ある人に突然、かなりの高給を約束された仕事が舞い込んだ。能力
のある人だった。しかしその職場は遠方で、転居の必要があり、ど
うすべきか悩んだ。周囲は反対した。指導者も反対した。今は、今
の場所で、霊的にもっと養われた方が良いと。うすうす自分自身も
今の場で、養いを受けた方が良い、それが御心なのではと思えた。

信仰生活を考えた時に、現在の生活基盤を大事にし、今は動くべき
でないと。しかし目の前の誘惑は大きかった。収入よりも、自分の
能力が生かせる事が一番の魅力だった。まさに願っていた仕事だっ
た。それが目の前に来て、誘惑に勝てず、新しい仕事を選び、引っ
越した。

その結果、高給だが、仕事は高度で、且つ時間的にも非常にハード
なものだった。深夜に及ぶ事もあり、段々心身ヘトヘトに消耗する
日々となった。その内、教会へ行けなくなってしまった。心も主か
ら離れて行った。しかしその後、主は見放されず、刈り取りと共に、
主に立ち返らせて下さった。

私たちも一人一人にピッタリの誘惑が来る。苦いものなど誘惑にな
らない。魅力的で、心に甘くて、願望に合致していて、強く心惹か
れ、抗することなど出来ないように思えてしまう。サタンの狡猾、
巧妙な攻撃をよく踏まえて、御霊の識別が与えられるよう祈ろう。
特に自分の弱い部分をよくわきまえ、そのところを祈っていよう。
----------
一日の初めにサタンを識別できるよう祈ろう。そう思っていても
すぐに忘れてしまう。それこそサタンの思うつぼだ。主からの御
声かサタンの誘惑かわからないことは多い。すぐ主に尋ねよう。


2016年11月28日(月)

「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」ルカ・・でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網が破れそうになった」ルカ5:6 


主はペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」
と言われた。しかしこんな朝に、通常、魚はいないのだ。またその
前夜はどんなに頑張っても一匹もとれなかった。怠けていたのでな
く、懸命に働いた。しかし収穫はなかった。朝になどいるはずもな
い。「わたしたちは、夜通し働きましたが、何もとれませんでした」、
心は落胆し、期待感も失せ、ぐったり心身消耗し、疲労感のみだ。

しかし、主は、今一度、沖へ漕ぎ出して、網をおろせと言われる。
魚などとれるはずがない。だがペテロは「でも、おことばどおり、
網をおろしてみましょう」と、状況的には、何の期待も持てない中
だが、主が言われるので、網をおろした。すると、何と大漁に驚い
た。みわざだった。

「でも、おことばどおり」とあるが、御言葉が、自分の思いと合わ
ない時どうだろう。自分の思いの方を通し、御言葉を捨ててしまっ
ていないだろうか。無意識にそうしていて気づかないかも知れない。
主が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとれ」と言われたなら、
主が、そこに魚を備えておられる。

ペテロは、あり得ない状況の中で、しかし御言葉に従った時に、大
漁を見た。二そうの舟いっぱいで沈みそうなほどの。私たちも経験
あるのではないか。見える所は、状況的には不可能のように思えて
も、御言葉に従った時に、奇跡を見せられた。今、御言葉を与えら
れながらも、ちゅうちょしているなら、一歩を踏み出そう。
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とれるはずは無いという価値観からなかなか出られない者を、しぶ
しぶでも漕ぎ出せる方法で導いてくださる。何と感謝だろうか。そ
して主は魚も備えて待っておられる。呼びかけに応答しよう。


2016年11月27日(日)

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」マタイ 6:21



「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい」とあるが、自分に
とって大切なもの、価値あるもの、これが無くては生きて行けない、
それが、その人の「宝」だ。それは金品とは限らない。ある人にと
れば、名誉や社会的地位、才能や仕事、趣味、又、子供や愛する人
かも知れない。プライドだったりする。自分が非常に執着している
もの。しかしそれは死後、持って行くことができない。

「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って
出ることもできない」。その前の箇所のパリサイ人は、人々の賞賛
を得るために、人に見せるために人前で、自分の力で善行をしてい
た。人によく見られるがためであり、天は全くなく、地上に宝を貯
えるためだった。それをやめなさいとある。

そして「自分の宝は天にたくわえよ」と。「天に宝をたくわえる」
とは、神を信じ、自分の力でなく、神の恵みによって生きることだ。
それは日々、神の喜ばれる事、神の御心を尋ね求めて、御心を行な
って生きることであり、今日の日を天に繋げて生きることだ。「目
が健全なら全身は明るい」、目が健全とは、二心でなく、あれもこ
れもと目移りせず、一心に一つのものを、天を見つめること。

もし目が濁っていれば、あちこちと目移りし、天には向かず、全身
は暗いままと。地で執着するものがあれば、目が天に向いて行かな
い。自分の宝は何だろう。

・・・・・・・・・・・・
私たちが宝とするものに、そこに心があると言っている。自分の宝
は何で、心はどこを向いているのだろう。有形無形の拠り所となっ
ているもの、依存しているもの・・御霊に心を探っていただこう。取
り扱い、目が天に向くようにして下さる。


2016年11月26日(土)

「けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明ら かにされます。明らかにされたものはみな、光だからです」エペソ 5:13 


光は、私たちの心の中を照らし出す。その時、心の中には、真っ暗
な闇があることがわかる。闇の中で、闇は、闇であることがわから
ない。光があって初めて闇が認識できる。誰にも言えない心の内に
ある悩み、人には知られなくない事柄、心の中の罪、妬みや憎しみ、
触れられたくない過去・・それらを人に知られなくないので、隠すし、
自分自身もおおっておきたい。

見たくないので、目を閉じている、そのため、普段は見えない。し
かし、それらは何かの時に噴出する。心に闇があるなら、喜びをも
って生きることができない。普段、何かの度に心がザラつき、見え
隠れしているのだが、気に留めないので気づかない。主はその闇を
示し、取り扱い、心を新たにして下さる。

触れたくない、知られたくない事柄にはそこに痛みがある。それが
光に出されると苦痛を伴う。自分の醜い、汚れだ。ある人は、友人
がほめられたり、良い成績を出した時に、心にザラつきを感じてい
た。しかし、友人であり、普段仲良くしていて、気づかなかった。
認めたくなかった。ある時、相手が皆の前で賞賛された時に、心が
苦しくなるのをはっきり感じ、帰宅するや戸を閉じて、一人になり
主の御前に祈った。

心を照らされた時、底に強い妬みがある事がわかった。相手と張り
合っている。実は最も負けたくない競争相手であった。しかし決し
て認めたくなかったことがわかった。心から悔い改めた時、赦され
て、心がすっきり平安にされた。光により闇が明らかにされる時、
解決が来る。「わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがな
く」の通りに。

・・・・・・・・・・・・
普段は意識しないが、何かあると重苦しくザラつく部分、本当は見
たくなくて、認めたくない部分かも知れない。心にある闇の部分に、
光である主は介入して下さる。素直に認めて行く時に、自由に、自
由にされて行く。主の光は恵みの光だ。


2016年11月25日(金)

「しかし主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられます」詩篇86:15


ある人が、対人関係で、ちょっとした事でひっかかり、議論からけ
んかになった。自分は正しいとしか思えず、納得が行かず、腹立た
しくて仕方がない。気まずく、互いに相手を避けるようになった。
考えるほど怒りが湧き、裁く思いが強くなる。相手が間違っている
としか思えない。

しかし、教会学校の奉仕の準備を始めようとすると、心が乱れてい
て、とてもこんな状態で出来ない。平安も全くない。どうしようも
なく、あるがままの気持ちを祈って行った。自分は正しく、相手が
悪いと思っていること、腹立ちがおさまらないこと、相手を裁いて
いるし、責めていること、心の内をことごとく告げて、静まってい
た。その時に、主の十字架が浮かんで来た。

完全に正しい方が、自分の代わりに罪となって下さった。神のあり
方を捨てられ、ご自分を無にして仕えられ、どこまでもへりくだら
れた。自分と言えば、自分、自分しかない自我の姿、愛など全く無
い自分が映し出され、心から悔い改めた。そして電話で相手にも謝
った。和解の喜びが来て、心に平安が戻り、奉仕の準備のために祈
ることができた。

主のあわれみを心に感じ、祈りつつ準備していると、どうしても、
次の教会学校に新しい子供が来ると思えて仕方がなかった。すると
本当に次の日曜に新しい子供が来て、自分が主のあわれみに包まれ
た。主はあわれみ深いお方だ。
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不完全な自分を知らされて主の前に行くとき、十字架のあわれみが
臨んで来る。素直に罪を認められることも主のあわれみだ。落ち込
みからあわれみを受けた者として立ち上がらされる。


2016年11月24日(木)

「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」ルカ11:42 




余りにも多忙な日が続き、座る時間さえなく、デボーションがなか
なか持てずに、心がざわざわする事があるだろうか。又、聖書を読
もう、祈ろうと思うのだが、気分が乗らずに、ぐずぐすしてしまい、
先延ばしにしてしまう。とうとう読めないまま終わってしまう。

朝はバタバタと忙しく過ぎる。職場へ、学校へと急がねばならない。
主婦は、山となす家事に、買い物に、次々と目の前の事に追われて
いると、あっという間に夕方だ。夜は、テレビで過ごしてしまう。
ああ、今日も聖書を読む時間が、祈る時間が無かった・・と、日が
過ぎる。「ベスト」の一番の敵が「ベター」だと言われている。

第一のものを飛ばし、第二のものに忙殺される。「神の国とその義
とをまず第一に求めなさい」そうすればすべての事が導かれて行く。
しかし神が、いつしか後回しになっている。又、第二のものが悪い
ものでなく、むしろ良いものであることもその原因だ。実際、目の
前にしなければならない事が山とある。どんどん、こなさなければ
ならないと思えてしまう。なすべき事をしなくてはと。

だが、優先順位が狂うと、虚しくなって来たり、心に余裕が無くな
りイライラして、周囲を責めて行ってしまう。マルタは何もしない
マリヤと、それを許している主を責めた。しかし、主はマリヤは良
い方を選択したと言われた。どうしても必要な一つだけのものは、
選ぶ必要がある。流されている事に、御霊は気づきを与えられる。
主の前に静まる時を持とう。
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神の前に低く静まり、祈り、御言葉を読む時を持とう。絶対的な神
の前に、自分のこだわりや思い込みを明け渡せる大切な時間を得て、
始める一日は幸いだ。


2016年11月23日(水)

「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」エペソ4:32



あなたも身に覚えのない批判や、理不尽な扱いを受けたり、悪口を
言われたり、攻撃されたりした事があるだろうか。そんな時、どう
すればよいのか。御言葉によると、「赦しなさい」と言われている。
「もし、人の罪を赦すなら、父もあなたの罪を赦してくださる」

「互いに忍び合い、他の人に不満を抱くことがあっても、互いに赦
し合いなさい」「主が赦して下さったように、あなたもそうせよ」
と。なぜ、傷つけられた人を赦すのか。主が、私たちを赦して下さ
ったからだと。あなたがまず赦されているからと。頭ではわかるの
だが、しかし、肉の性質があり、赦すことほど難しいことはない。

自我は決して赦したくない、むしろ憎んでいたい。赦せない思いで
いっぱいだ。敵をも愛せと言われているので、心の中は大葛藤だ。
しかし、神は私たちの罪という罪を赦し続けて下さっている。もし、
自分の犯した罪を、根に持たれ、赦してもらえなかったなら、どう
だろう。「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪を
お赦しになりません」。

神の大きなあわれみを知り、自らの罪の赦しを受け取っているなら、
必然的に他者の罪を赦して行くはずなので、自分が罪の赦しを知ら
ないという事になってしまう。まずそのまま祈って行こう。「赦せ
ません、赦したくありません」、そして御霊の助けを求めて行く時、
みわざにより赦せるようにして下さる。
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感情で赦せるまで憎むなら、どれほど憎み続けるのだろうか。救わ
れた時に赦された罪は、過去もこれから犯すであろう罪までもだ。
赦せないとき、主のあわれみと恵みを覚え祈っていこう。


2016年11月22日(火)

「まして、わたしはこの大きな町ニネベを惜しまないでいられようか・・右も左もわきまえない十二万以上の人間と数多くの家畜がいるではないか」ヨナ4:11


ヨナは、「ニネベに行き、これに向かって叫べ」と主から命令を受
けたが、敵国であるニネベに行きたくない。神に敵対するひどい民
は滅びて当然ではないのか。それで「主の御顔を避けて」タルシシ
ュへ逃げようと、ヨッパに行った。すると、丁度、渡りに船とばか
りに、タルシシュ行きの船があり、「主の御顔を避けて」それに乗
り込んだ。

私たちもどうだろう。時に、あるだろうか。御心がわかっているが、
従いたくなくて、渋っている時、それがまた丁度、具合良く反対方
向の船があるものだ。ヨナは、神の命令に従わず、反対方向の船に
乗った。私達も経験する。御心がわかっているが、それがどうして
も嫌で、したくない時どうだろう。何とか逃れたいと思う。

だが、御心から逃げる事は、「主の御顔を避け」ることだと言って
いる。ヨナは嵐に会い、海に投げ込まれたが、大きな魚が備えられ
ていた。その魚の腹の中で、主に向き、切実な祈りを献げる。する
と主がヨナを出された。再び、主の示しが臨み「ニネベに行き、わ
たしのことばを伝えよ」と。主のあわれみは尽きず、尚もヨナを用
いようとされる。

ニネベに行き、ことばを伝えると、人々は神を信じ、何と王が悔い
改めた。それを見た神はあわれみ、裁きを止められた。悪を裁くの
が神ではないのか。納得行かず、不機嫌なヨナを、神は愛をもって
説得されて行く。神はヨナを愛し、人々を愛しておられる。神のご
性質は愛だ。
------------
あんな罪人は・・と神の恵みが届くことに拒絶反応を感じることが
あるが、神のご愛は私に注がれたように人知を超えて変わらない。
そのために用いられることは感謝だ。今、従いたくない所へ導かれ
ているだろうか。


2016年11月21日(月)

「『きょう、もし御声を聞くならば、御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない』」と言われているからです」ヘブル3:15



ある人が、礼拝出席を止めてしまった。世に心が向いてしまい、徐
々に足が遠のいてしまっていた。その内に、行かなくなってしまい、
日が過ぎた。しかし、全く心に神や聖書のことが無くなったわけで
なく、何かの折りには、以前聞いた聖書が思い浮かんだりした。だ
が、世に浸かりながら、日々を送っていた。

そんな中でも、様々な状況の中で、虚しい時、苦しい時、ふと以前
聞いた御言葉が、思い出されるのだった。そんなある日、「今日」
との促しを感じた。背中を押されるように、今日、教会に行くよう
にとの促しだった。その声に従い、行くことができた。自分でも、
なぜかわからないが、素直に行こうと思えたのだった。

その日以来、不思議に行けるようになった。御霊の働きだった。私
たちも、生活の中で、御霊の促しや、勧めや、様々な導きを
感じる時がある。御言葉を通して語られたり、又、祈っている時に、
ふと、あの事はああしたらよい、この事はこうしたらよいとの、思
いが浮かぶ。みこころのままに志が与えられる。

その時に、従うことが大切だ。御霊の促しに従う時、そこに御霊の
助けがあり、みわざが成される。しかし、ないがしろにしたり、拒
んだり、又、ぐずぐずしていると、従わないまま祝福を逃してしま
う。今、もし御霊の示しを受けているなら、すぐに従おう。大きな
祝福にあずかる。
-----------
明日、明後日ではなく、御霊の導きを聞いたらなら今すぐ一歩踏み
だそうとの励ましだ。時を置かず行動するべき導きが聞こえるだろ
うか。主が成し遂げさせてくださる。踏み出せるよう祈ろう。


2016年11月20日(日)

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる 祈りと願いによって、あなたがたがの願い事を神に知っていただき なさい」ピリピ4:6


私たちは、思い煩いによく襲われる。なぜ思い煩ってしまうのだろ
う。そんな時は、自分が、自分の力で何とかしようと思っている。
そうなら、何もかもが自分の肩にかかってくる。それは負いきれず、
どうにもできないので、思い煩うことになる。この目の前の問題、
あの対人関係、仕事の事、経済的な事、将来の事・・自分の能力を遙
かに越えている。そのために思い煩う。

そして思い煩うと、最悪のシナリオを描いて行く。こうなって、あ
あなってと、どんどん悲観的な方向に思いが傾く。そこにサタンも
働いて来る。心は、重く暗く沈む。その時、主も、御言葉も飛んで
しまい、目の前の状況に飲み込まれてしまっている。落ち込んでし
まうが、そんな時、その状態を自分で何とかしようとせず、そのま
まを祈って行こう。

「心が沈んでいます」「落ち込んでいます」とありのままを主に告
げて行く時に、心が変えられて行くから不思議だ。とにかくどんな
時も、祈りにもって行くことだ。祈れない時は「祈れません」と告
げて行けばよい。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り
除かれるのです」

主に向きさえすれば、導かれて行く。祈りとは、主に向くことだ。
主に向く時、我に返る。ご計画があること、益とされること、愛さ
れていること、災いではなく平安と将来と希望のためのものである
こと、今一度、御言葉に立てて行く。その時、視点が変えられる。

・・・・・・・・・・・・
思い煩っている時は、主が飛んで、自分が何とかしようと思ってい
る。荷は、ずっしりと重く沈み込んでしまう。「神に知っていただ
きなさい」状況も気持ちも、ありのままを告げよう。すると、とに
かく、神に知っていただいたとの平安と安堵が拡がる。


2016年11月19日(土)

「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを 成功させてくださるのを見た」創世記39;3



人には、様々な思いがある。あれをしよう、これをしよう、思いが
湧き、予定を立てる。だが「人の心には多くの計画がある。しかし
主のはかりごとだけが成る」とあるように、主の御心だけが成就す
る。自分の思いはあるが、神のみ思いだけが成し遂げられて行く。

ヨセフは、兄達たちに妬まれ、隊商に売られ、そのまま見知らぬ異
国へ。ヨセフはどんなに不安で、恐れに襲われた事だろう。しかし
異国の地で、売られた主人に忠実に仕えた。「主がヨセフとともに
おられた」とあり、主の計らいにより、主人に信頼を寄せられ、全
財産を任せられた。まさに主による事であった。

しかし次には、主人の妻の悪意により、無実の罪で投獄の身に。そ
こでも「主が共におられ」、監獄長の心にかない、全囚人の管理を
任された。主の働きであった。献酌官長を通してすぐにも出獄かと
思うと、尚も2年が過ぎた。神の時は長い。結果的には2年だが、
その渦中では、どんなに試された事だろう。

主の計画は大きく、最終的に総理大臣となり、飢饉からヤコブ一族
を救う事になる。命を救うための神の計画であったことがわかる。
ヨセフにも自分のプランがあったろう。しかし、神の計画を受け入
れ、そこで砕かれ、練られ、信仰の成長と共に使命を全うできた。

私たちも、常に主が共におられる。何があっても、主から来ている。
そこに主を認め、従って行こう。その時、主の御心が成し遂げられ
て行く。それは、私たちの一番の喜びでもあるはずだ。

・・・・・・・・・・・
ヨセフは奴隷、囚人となったが、どんな境遇になろうと「主が共に
おられ」た。ここが大切だ。そして兄達の悪意で、エジプトに売ら
れたが「私をここに遣わしたのはあなたがたではなく、実に、神」
と言った。この神視点で、目の前の問題をとらえられるよう祈ろう。


2016年11月18日(金)

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3




私たちは、将来のこと、また明日のこと、様々なプランを立てる。
よく練ったプランなら尚さらだが、どうしても「自分が」立てたプ
ランに固執してしまうところがある。それがベストだと思うので、
そのプランを主にゆだねよと、言われた時にゆだねられない。手放
すことができない。どうしてもできない。自分がしっかり握り締め
ている。

また、プランもそうだが、自分の宝としているものも、握り締めて
しまう。主、以外に「力とするもの、栄えに満ちた喜び、愛するも
の、心に慕うもの」は、何だろう。心がそこにあるなら、いのちそ
のものとなっていて、明け渡すことができない。自分のプランを、
自分の将来を、自分の力とするものを明け渡すと、それがだめにな
ってしまうと思う。

自分の将来を委ねてしまうと、将来がだめになってしまうと。自分
を明け渡すと、自分が崩れ去ってしまうと思ってしまう。だからま
すます握り締めて放さない。ますます主以外のものが、自分のいの
ちになって行く。いのちとなっているものを、明け渡す事は到底、
人間にはできない。

しかし、人にできない事が神にはできる。「ゆだねる事が出来ませ
ん」と認め、「助けて下さい」と現状をありのまま祈って行こう。
祈りに答え、御霊が働かれ、御霊の力によって、成し遂げられて行
く。
-----------
良い宝も選択肢も出来るだけたくさん持っていたい心の底を示され
る。富も時間も健康も主によって最善をに与えられ守られている平
安に感謝し、明け渡せない自分を祈って行きたい。


2016年11月17日(木)

「主はこの卑しいはしために、目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう」ルカ1:48



ある時、突然、御使いがマリヤのいる部屋に入って来て、「おめで
とう。恵まれた方、主があなたとともにおられます」と言った。マ
リヤはこの言葉に、「ひどくとまどって」とあり、何の挨拶かと考
え込んだ。マリヤは「この言葉に」とまどったと。「おめでとう。
恵まれた方」なぜ自分に?どういう意味なのか?と。

神の民であるマリヤは、小さな時から、御言葉をよく教え込まれ、
学んでいたので、御使いのことを知り、メシヤが来る事も知ってい
ただろう。続けて、御使いは、マリヤがみごもって男児を産むこと、
名をイエスとつけるよう、その子はダビデの王位が与えられると。
そこでマリヤは率直な思いを告げる。

どうしてそんな事があり得るのか、男の人を知らないのにと。する
と、聖霊によるとの答え。聖霊が臨み、いと高き方の力がおおうと。
エリサベツにも奇跡が起きていて、神に不可能はないと説明される。
マリヤの率直な思い、素直な言葉に、答えられて行く。その結果、
マリヤは自分を明け渡して行く、「おことばどおりこの身になりま
すように」と自分を献げる。

マリヤは、拒む事も受け入れる事もできた。ヨセフはどうなるのか、
婚約は壊れるだろう。周囲の目は?姦淫は死刑だ。が、彼女は受け
入れた。マリヤの信仰だった。主に用いられる事を選び取った。
-----------
神の約束と大きく異なる現実にぶつかると私達も恐れや不安で、ひ
どく戸惑う。けれどマリアは現実よりも確かな「おめでとう。恵ま
れた方」の御約束を信じ歩んだ。主が守り用いてくださる。


2016年11月16日(水)

「もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」ガラテヤ6:1 


過ちを犯した人を見る時、いら立ってしまったり、そのようにすれ
ば、そうなる、自業自得だと裁いてしまったり、受け入れ難くなっ
てしまいがちだ。自分にも罪の性質、肉の性質があるからだ。しか
しこの箇所によると、もし過ちを犯した人がいるなら、そのままに
しておかずに、その人を正してあげなさいと、ある。

「御霊の人であるあなたがたは」とあり、まず自分が問題で、自分
自身が御霊に導かれている必要がある。自分の心もよく探られ、ま
ず自分の罪を悔い改め、よくよく祈り、御霊からの言葉、導きを受
け取ることが大切だ。その時、自分の思いや自分の力でなく、御霊
がこの対応を導かれるとの平安が来る。

そして自分自身がよく整えられ、「柔和な心で」が大切だ。ただ真
理の言葉で責めるのではなく、「愛をもって真理を語」れと。その
人の立場に立つ時、自分も罪を犯すかも知れない。ただ責めるので
なく、自分も弱い者であり、相手を思いやる気持ちで接する時、御
霊が働かれて、相手の心に届く。御霊が、相手に罪を示し、悔い改
めへと導かれる。

ナタンは神から示され、罪を犯したダビデに対応した。ストレート
に責め立てたのでなく、例え話を用いて、ダビデに考えさせた。御
霊は働き、罪を指し示された。そしてダビデは悔い改めへと導かれ
た。ナタンは用いられた。もし御霊の示しがあるなら、従おう。主
が働かれる。
------------
人の過ちに気付くと遠くから裁いてしまいがちだがそれも大きな罪
だ。人の罪を指し示すのは御霊に導かれた祈りと犠牲が伴う。主に
そのように示されたなら御霊によく整えられて柔和な心で向かおう。


2016年11月15日(火)

「その名はシムイといってゲラの子で、盛んにのろいのことばを吐きながら出て来た。そして・・石を投げつけた」Uサムエル16:5 


ダビデに向かって、シムイが、バテシバの夫ウリヤ殺害の事で罵声
を浴びせ、石を投げつけた。「血まみれの男、よこしまな者」と、
ダビデを呪った。部下がダビデに「首をはねさせて下さい」と言っ
たが、ダビデは「放っておけ、呪わせよ」と、部下に報復を許さな
かった。主が命じられたのだからと。

ダビデは、その罵りを神から来たものと受けとめた。神からの懲ら
しめ、訓練と受け止め、へりくだって甘んじて受けた。「私の身か
ら出た私の子さえ、私の命を狙っている」と。シムイどころか、実
子のアブシャロムすら自分に歯向かい、攻撃して来る。シムイの呪
いも、神から出たものと受け入れた。

敵対して来る、目の前のシムイを見るのでなく、彼を置いておられ
る、神とその主権を認めた。そして、その下に身を低くした。何と
へりくだった心と態度だろう。その敵対と呪いをも、神に委ねた。
「今日の呪いに代えて、幸せを報いて下さる」、どんな悲惨な中で
も、状況を変えようともがくのでなく、神の前に、正しい心でいる
なら、その事態をも主が良い事のために計って下さる。

ヨセフの「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良い
ことのための計らい」とされた通りだ。相手の悪意すらも、あなた
のために祝福と変えて下さる。状況に、感情で反応せず、神を見て、
状況を見る時、神の介在のもと、御心の対応ができる。神のお心に
そって行く時、どんな苦しい状況でも、心を主の平安で守って下さ
る。
-----------
いつか遠い先が最善ではなく今も神は最善をしてくださっていると
、この現実の中で神を認めるなら、焦らずあきらめず希望を持って
祈れるのではないか。今日取るべき御心の対応を祈り求めたい。


2016年11月14日(月)

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」マタイ11:30 



救われた私たちは、主に喜ばれるように歩みたいと思う。嫌な相手
がいれば、「愛さなくては」「受け入れなくては」と思う。敵対心
を持ったり、憎むと、すぐに平安が失せる。だから余計に愛さなく
てはと、頑張る。しかし幾ら頑張っても愛せない。何とか愛そうと
するのだが、憎しみと敵対心は消えない。どうやっても無くならな
い。平安も無い。

そんな中で、肉の力で頑張っていると気づかせられる。気づくのだ
が、また自分の力で頑張ってしまう。肉はどこまでも根深い。何度
も繰り返す。自分の力でやれば、やるほど失敗する。やがて、疲れ
果ててしまう。そんな私たちに、主は「疲れた人は、わたしのとこ
ろに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」と。

幾ら頑張っても、何をどうやっても出来ませんと、主の前に認める
時に、肩の力が抜けて、心に安堵が来る。自分が頑張るのは、自分
には出来ると思うからで、心の底では何とか出来ると思っている。
出来ない自分を認める時、不思議な平安が来る。主のもとに行く時、
「休ませてあげます」の通り、肩の荷を下ろして軽くなり、心に平
安が広がって行く。

そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と。主
が共に負って下さっているので、苦しくないし辛くない。主と共に、
御言葉を行なって行ける。そこには御霊の喜びがある。しんどい歩
みをして疲れているなら、主のもとへ行こう。まず、ありのままを
告げることから始めよう。
----------
主は疲れていないかと招いてくださる。過剰な期待は自分自身から
も来て、それは辛く苦しいくびきとなってしまう。幼子のように素
直に主の元に行き告げてみよう。正しい立ち位置に戻してもらおう。


2016年11月13日(日)

「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくさ れる。主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至 る」詩篇33:10 


虚しくされるはかり事や、虚しくされる計画がある。神から出たも
のでないはかり事で、自分から出た、自分の力と自分の思いで立て
た計画だ。「神から発し、神によって成り、神に至る」とあるよう
に、神から発したものだけが、成就し、神に至り、神に栄光が帰さ
れる。

自分から発したものが、神によって成り、神に至る事はない。祈ら
ないで、自分の思いつきで行動を起こしてしまい、自分の力で進め
ている内に、様々な障害が起きて、行き詰まってしまう。祈りによ
って始めなかった事に気づかされる。

ある人は、好きな趣味の教室に通い始めた途端、申し込んでいた仕
事の空きができて、結局、趣味の方は断念となり、前払いの多額の
授業料は契約により、返って来なかった。全く祈りが無かった事に
気づかされた。

ヨシュアがギブオンの住民たちにだまされて、盟約を結んでしまっ
た時も「主の指示を仰がなかった」ことが原因だった。実は近くの
者たちだったのに、遠方からと変装により欺かれてしまった。主に
頼らないで、自分の力や自分の判断に頼ると失敗してしまう。

主に祈り、頼る時に、御心を示して下さる。その主のご計画に従っ
て行く時、それは成就し、自分にも周囲にも大きな祝福となる。豊
かな実を結ぶ。主のはかり事はとこしえに立ち、御心の計画は代々
に至る。

・・・・・・・・・・・
祈らないで、動き回り、失敗してしまう。よく教えられる。自分の
思いで、肉で行動した結果、ギクシャクしてしまい、平安と喜びの
実に至らない。悪い実を結んでしまう。御霊に導かれた事は、必ず
平安な実を結ぶ。まず祈って、行動に移ろう。


2016年11月12日(土)

「寄るべのない者の叫びに耳を閉じる者は、自分が呼ぶときに答え られない」箴言21:13


困難の中にある人が、助けを求めて来た時に、心を閉じてしまうだ
ろうか。自分の時間や労力、経済的な犠牲を払いたくない。面倒で
関わりたくない。「耳を閉じる者は」とある。人は、自分が聞きたい
事だけを聞いていて、聞く事柄を選んでいると言われている。聞き
たくない事は、耳をふさいで聞かない。自分が聞かないので聞こえ
ない。

耳をふさいで、聞かなかった事にすれば、自分を正当化できて、悩
まずに済むし、責任も感じなくて済む。逃げてしまう。しかし、困
っている人々の求めを無視すると、自分が呼ぶ時に、神に答えられ
ない、とある。祈りが聞かれなくなってしまう。これは重大な事だ。

「ことばと口先だけでなく、行ないと真実をもって愛そう」「それ
によって、神の御前に心を安らかにされる」「自分の心に責められ
なければ、大胆に神の御前に出ることができ」「求めるものは何で
も神からいただける」。実際の行ないと真実をもって愛する時、今
度は神から自分の祈りが聞かれると。

そして、主との間に妨げがないので、喜びと平安に満たされる。又、
神は、私たちが、すべてのことに満ち足りて、すべての良いわざに
あふれる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかりに与えて下
さる。大きな喜びを刈り取る。与えて行くなら、神は更に与える事
ができるよう、与え続けて下さる。

・・・・・・・・・・・・・
自分が必要に応えられるのに、心を閉じてしまっていないか、又、
ないがしろにしていないか、御霊の導きに耳を傾けよう。自分自身
が御霊の導きに従って行く時に、祈りについても確信が持てる。そ
して何より心に御霊の喜びと平安が与えられる。


2016年11月11日(金)

「人の歩みは主によって定められる。人間はどうして自分の道を理解できようか」箴言20:24 



私たちの人生は、「主によって定められる」と御言葉にある。決し
て自分の思い通りになるわけではない。いや、思い通りにならない
方が多い。 「人間はどうして自分の道を理解できようか」とのよ
うに、突然、思いもよらない事が起きる。全くの想定外の事態だ。
私たちは、現在が見えるだけで、将来は全く見えない。

しかし、今、自分には見えないが、歩みを定めておられる、主がお
られると信じるなら、私たちはどんなに平安に人生を送れるだろう。
何もかもが、自分の思い通りになるわけではないが、しかし、自分
の願いや気持ちを知っていただける。それを受け止めてもらえて、
自分の思い通りではないが、最善を成して下さる主だ。だからこそ、
信頼してお委ねできる。何と平安だろう。

アブラハムも主の示しに従い、どこへ行くかを知らずに、出て行っ
た。先の事は全くわからなかった。しかし、一歩、一歩と示されて
歩んで行った。アブラハムの生涯には、色々な出来事があった。時
には手痛い失敗もあった。しかし、先は見えないが、目の前の一歩
を主に従い、導かれ、祝福され、大いなる者とされ、ヘブル11章の
信仰の人々にその名を連ねている。信仰の生涯を全うし、主に喜ば
れた。

私たちには、目の前にいつも二つの道がある。自分の好きな、思い
通りに歩む道と、主の御心の道だ。アブラハムのように、御心の道
に歩むには、自分を捨てる必要がある。しかし、それは主に喜ばれ
る、信仰によって歩む道だ。そしてどんな想定外の事が起きようと、
平安のある道だ。自分主導でなく、主によって導かれているのだか
ら。
-----------
思い通りを願うので、こんなはずではと抗い落ち込む。なかなか明
け渡せない。だから明け渡せたときには主に全てをお任せして従っ
て行く全き自由を経験する。主にある自由、平安の中を歩んでいた
い。


2016年11月10日(木)

「しゅうとめは言った。『娘よ。このことがどうおさまるわかるまで待っていなさい。」』ルツ3:18



飢饉の際にベツレヘムから、異教の地モアブに移り、ナオミは、そ
こで夫と息子たちを亡くした。故郷に帰ろうとしたナオミに、息子
の嫁ルツがついて来た。ルツにとっては、誰も知る人のいない異国
の地だ。ナオミは、そんなルツの将来の事を思い、祈っていた事だ
ろう。ナオミとの生計のために、ルツが落ち穂拾いに出かけた時、
丁度その場所がボアズの所有だった。

又、普段いないボアズが丁度そこにいた。ルツに目を留め、親切に
してくれた。ボアズは遠い親戚であり、その人柄は、ルツを託すの
に、ピッタリだ。こんなに良い相手はいない。ナオミはルツに指示
を与え、ルツはナオミに従った。ルツは、ボアズに買い戻しを願い、
ボアズの足もとに寝た。どんなに勇気が要ったろう。

するとボアズはその願いを受け入れ、しかし更に近い親類がいるた
め、その人が権利を放棄するなら自分が買い戻すと答えた。ナオミ
は、どうであれ、必ずボアズがルツを買い戻す事、それが御心であ
り、成就する事を信じていた。それで「この事がどうおさまるかわ
かるまで待て」と、ルツに確信を持って言えた。

ルツは自分のすべき事はした。そして待った。自分で動かず、又、
思い煩う事もせず、ただじっと安息して待つことだ。私達にはこれ
が難しい。肉は必ず自分で動こうとする。動く方が安心できて、楽
なのだ。目に見えない神を、ただじっと待ち望む事は難しい。あな
たにも、なすべ事をし、そして「神を待て」と言っておられるだろ
うか。
------------
全てが神の摂理の内を歩んでいるとルツ記から学べる。私たちに対
する神のご愛と最善は必ず備えられているとわかっているのに、な
ぜ動きまわるのだろう。今するべき事が悟れるよう祈り、神を時を


2016年11月09日(水)

「受けるよりも与えるほうが幸いである」使徒20:35



パウロは「受けるより、与える方が幸いである」と言った。パウロ
は宣教しながら、テント作りもして、収入を得ながら、苦労して自
分の手で働いていた。自分の生活のため、また共にいた人々を助け
るために働いた。人は、どんな事が嬉しくて、どんな事に幸せを感
じるだろう。

ほとんどの場合は、願いが叶って、欲しかったものを得た時、また、
もらった時ではないだろうか。誕生日プレゼントや、不意の贈り物
や、人からの好意を受けた時、また、感謝された時かも知れない。
生まれつきの性質は、欲望が叶うこと、得ること、受けることに喜
びを感じるものだ。得たものは、放したくない。ずっと握りしめて
いたい。損をするのは嫌で、得をしたい。

しかし、御言葉はそうではなく、受けるより、与える方が幸せだと
言う。この世とは正反対の、全く新しい価値観だ。愛するには、時
間と労力を、持てるものを、犠牲を献げる必要がある。犠牲無くし
て愛することはできない。与えるとは、自分自身を与えることにな
る。

主の一生がまさにそれであった。与え尽くして下さった。与えて行
く時、この世への執着、物への執着、また、貪欲から自分自身が守
られる。天に視点を置く生き方とされる。少し自分の時間を家族に、
労力を周囲の人々に与えられるだろうか。祈って行こう。自分のし
たい事を少し脇に置く時、与えることの幸いを、大きな喜びを経験
して行ける。

・・・・・・・・・・
愛するとは、犠牲を払うこと。労力、時間、富・・犠牲を払わずして
愛することはできない。肉は犠牲を払う事をいとう。主が血の最後
の一滴まで注ぎ出し、何もかも与え尽くして下さった事を見る時、
自分が変えられて行き、御霊が献げる者にして下さる。


2016年11月08日(火)

「人から出るもの、これが人を汚すのです」マルコ7:20



「外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない。という
ことがわからないのですか」と御言葉が言っている。外側からのも
のは、私たちをどうこう出来ないと。「人から出るもの、これが人
を汚すのです」と。自分から出るものによって、平安が無くなり、
苦しくなる。外側のものによって平安を奪われ、苦しめられるので
はない。

自分の心から、内側から「悪い考え、不品行、妬み、殺人、姦淫、
貪欲、よこしま、欺き・・」が出て来て、人を汚すと。例えば、偉そ
うな上司に腹が立つ。怒りと裁く思いが込み上げて来る。その上司
がいると、イライラして情緒不安定になり、平安が無くなる。偉そ
うな上司が悪いと思うし、そう見える。しかし、外側のものは関係
がない、自分をどうこう出来ないと言っている。

偉そうな上司は、自分の平安を奪うことはできない。だが、自分に
は、実際平安が無い。つまり自分を苦しめているのは、上司ではな
く、自分の心の底に潜む裁く思い、憎しみ、怒りだと言っている。
心が辛い、本当の原因は自分の罪によることになる。

「上司が悪い、同僚が悪い、近隣のあの人、この人が悪い」と人を
責め、周囲を裁いて行く時、全く解決が無い。ずっと同じ事を繰り
返し、自らの心には平安も喜びもない。主のもとへ行こう。主は平
安のありかを示し、平安の道筋へと導いて下さる。自分と神様の関
係が正しければ、環境に関係なく平安であり、また御心ならその状
況を変えて下さる。

・・・・・・・・・・
相手に非がある時、どう見ても、相手が悪いとしか見えない。しか
し相手の事は、それは相手の問題であり、自分には関係がない。だ
のに自分に平安がない。それは自分が裁いたり、又、思い煩ったり、
自分の内側から出ているものが問題だ。主のもとへ持って行こう。


2016年11月07日(月)

「『あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい』と言われた」マルコ2:11




中風の人が、四人の人にかつがれて、主のみもとに連れて来られた。
大勢の群衆のために戸口から入ることができず、彼らは何と主がお
られるあたりの屋根をはがして、寝かせたままその床をつり下ろし
た。すると、主はこの中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されま
した」と、まず罪の赦しを与え、その後、中風をいやされた。私た
ちはどうだろう。

人間的には、とにかく病気は治して欲しいし、経済的必要は与えて
欲しい。受験は合格で、畑は豊作にしてもらいたい。現実の目の前
の生活が、うまく行けばそれで良い。順調に行くこと、問題の無い
ことが心からの願いだ。目に見えない罪の赦しなど関心が無い。ど
うでもよい。家内安全、商売繁盛、無病息災、五穀豊穣、それが欲
しい。

求めている事は、この世での快適な生活だ。しかし、病気はいやさ
れても、また病気になる。そしていつか必ず死ぬ。最も大事な事は、
罪が赦されて、神との交わりに生きることだ。そしてそれこそが最
大の喜びだ。律法学者が心の内で、神以外に、誰が罪を赦す事など
出来ようと、つぶやいた。

罪が赦される事は目に見えない。しかし中風の癒しは目に見える。
確固としたものだ。主は、中風の人を癒す事によって、その癒しを
通して、主こそが罪を赦す権威を持っていること、メシヤであるこ
とを明らかにされた。
-----------
降りかかるいろいろな災いが良くなることに望みをかけるが、たと
え思い通りでなくても罪を赦す権威を持っておられる方により頼ん
で生きる信仰を与えられた。死を超えた希望を与えられた。


2016年11月06日(日)

「ダビデはアビガイルに言った『きょう、あなたを私に会わせるた めに送ってくださったイスラエルの神、主がほめたたえられますよ うに』」Tサムエル25:32


サウルは、執拗にダビデをつけ狙い、ダビデは逃亡生活を強いられ
ていた。だが、それにもかかわらず、ダビデのもとには、貧しい
人々や王に不満を持つ人たちが寄り集まり、総勢600人にもなった。
そんな状況下で、荒野にいた時、富裕なナバルに、使いを遣わし食
糧を頼んだ。というのも、ナバルの家畜をダビデ達が守っていて、
それを顧みての親切を求めた。

ところが愚か者のナバルは、ダビデを非難し、拒否した。そのため
ダビデは400人の部下と剣を身につけ、報復に向かった。これをし
もべが、ナバルの妻アビガイルに告げた。ダビデの使者が挨拶に来
たのに、ナバルは彼らを罵ったこと、彼らは実際良くしてくれたこ
と、このままでは主人や一家が皆殺しにされると。

その時、聡明なアビガイルの的確な判断と機転で、事なきを得た。
ダビデに、すぐさま溢れる食料を贈り、復讐しないよう、へりくだ
って、知恵をもって進言した。ダビデは、アビガイルによりナバル
討伐を思いとどまった。ダビデは、アビガイルの行動が無ければ、
肉で復讐していただろう。ダビデは、アビガイルを遣わした、神を
見た。

彼女を通して「今日、あなたを私に会わせるために送って下さった
神」、「悪を行なうのを引き止めて下さった主」と。神がとどめて
下さったので、自分は罪から守られたと。私たちも、御霊が進言し、
肉の思いをとどめて下さる。そのために、御霊は私たちに語り、促
し、又、人を通して御心を示される。御霊の進言に従おう。

・・・・・・・・・・・・・・
肉の思いで、感情が噴出しそうな時、又、自分の思いで行動しそう
な時、阻止する御霊の促しが来る。違和感や、不安、何かとどめる
ものが臨む。御霊は平安与え、取り去り、又、人からの忠告、御
言葉により、私たちを御心へと導かれる。その導きに従おう。


2016年11月05日(土)

「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたこ とです」マルコ4:40


主は小舟で、弟子たちと共にガリラヤ湖に乗り出された。主は、疲
労の余り、舟に乗り込むや熟睡された。そんな中、嵐に会う。荒れ
狂う湖で、弟子たちは悪戦苦闘だ。舟は波をかぶり、水でいっぱい
になった。このままなら転覆してしまう。ベテラン漁師の彼らが、
溺れて死にそうと、恐怖を感じるほどの嵐だった。

彼らは主を起こし、「私たちが溺れて死んでもよいのか」というふ
うな言い方で主に詰め寄った。しかし、舟には主がおられるのだ。
だいたい、主が乗っている舟が沈むことなどあり得ない。そしてそ
の前に「向こう岸へ渡ろう」と言われた。主の言葉は絶対だ。100
%向こう岸に着く。

私たちも、目の前に波風逆巻く状況に遭遇する時、主が飛んでしま
い、御言葉が飛んでしまう。状況に飲み込まれてしまうだろうか。
しかし、舟が水でいっぱいになったとしても、身の危険を感じるほ
どであっても、必ず向こう岸に着く。「信仰がないのは、どうした
ことです」と、嵐の問題でなく、信仰の問題だよと言われている。
信仰を働かせよと。

目の前で、波風逆巻いていても、どんなに厳しい状況であっても、
「恐れないで、ただ信じていなさい」、主を信じて、御言葉に立っ
ていよう。そうできるよう、御霊の助けを求めて祈ろう。その時、
主が生けるまことの神であることを、見せられて行く。

・・・・・・・・・・・・
目の前に、突発事態が生じると、大きく揺れ動いて、主も御言葉も
吹っ飛んでしまう。目の前の状況しか見えなくなる。「向こう岸へ
渡ろう」との主の言葉があること、今、主が同じ舟におられること、
そこに目を転じよう。


2016年11月04日(金)

「会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し『・・娘が直って助かるようにしてください』」マルコ5:22 



ヤイロの娘が危篤だ。ヤイロは、主イエスが来て下されば、必ずい
やして下さる。そう信じたので、遠距離をやって来た。主の足もと
にひれ伏して、必死に願った。「娘が死にかけています。娘の上に
手を置いて、娘が助かるようにして下さい」と。もう一刻をも争う
状況だ。早く主に来ていただきたい。

そんな時に、妨害が入った。長血の女性が癒しを求めて来たのだ。
主は、その女性を受け止め、対応され、手間取ることになる。どん
どん時が過ぎる。ヤイロはどんなに心が急いたことだろう。すると
そんな時に、決定的な事態が起きた。家から人が来て、娘は亡くな
ったと告げた。絶望的な状況だ。死んでしまったのだ。

病気なら治るが、死だけはどうにも出来ない。取り返しがつかない。
何もかもが決定的に断ち切られてしまう。しかしこのような状況で、
主は、ヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」と。「信じな
さい」と。主は、そのどうにも出来ない死をくつがえされ、死をい
のちに、絶望を希望に変えられる。

ヤイロの家に入り、娘の手を取って「少女よ。起きなさい」と言わ
れた。娘はすぐに起き上がって、歩き出した。死がいのちに飲み込
まれる。主はまことの生ける神だ。死もいのちも御手の中であり、
どんな絶望的状況であっても、「恐れないで、ただ信じていなさい」
、その信仰を求めておられる。主の主権と力により、死がいのちに
飲み込まれ、神のみわざが現れる。
-----------
主イエスが救い主であると信じて、死の恐怖からも解放されたが、
時が経つと災難も病も死もやはり恐れてつぶやいてしまう。主に、
早く来てくださったならと。恐れに惑わされずただ信じていよう。


2016年11月03日(木)

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。」詩篇32:1



ダビデは、全軍を戦いに出して、自らはエルサレムにとどまって
いた。家来たちは命がけで戦っている中、自分は夕暮れに起きる
という怠惰な生活だった。そこに誘惑が来る。ダビデは起きて王
宮の屋上を歩いていると、女が、身体を洗っているのが見えた。
彼女がバテシバだった。

ダビデは姦淫の罪を犯してしまったが、その時にすぐ悔い改めれ
ばよかった。が、彼女は妊娠してしまい、その罪を隠ぺいしよう
と画策する。夫のウリヤを戦場から戻し、家に帰らせようとする
が、忠実なウリヤは家に帰らない。するとダビデはウリヤを最前
線に出して、戦死させるよう計画する。

罪を隠そうとすると、更に罪を重ねて行く。罪を認めることが大切
だ。主のあわれみにより、預言者ナタンが遣わされ、ダビデの罪を
たとえ話を用いて指摘する。指摘された時に、ダビデは初めて自ら
の罪を認めた。その瞬間、ナタンにより、赦しが宣言された。赦し
を受け取るためには、自らの罪をありのまま認める事が必要だ。

主の十字架の血潮により、豊かな赦しが備えられている。日常の中
で、御霊は罪を示される。御言葉により、又、気づきを与え、また
人からの指摘を通して。示された罪を認めよう。肉は認めたくない
し、直視したくなくて逃げたい。しかし罪を悔い改める時、平安が
戻る。赦されることの平安を経験して行ける。この平安は何ものに
も代えられない。
----------
罪の気付きは感謝だ。罪を赦される十字架が感謝だ。主を知らなけ
れば罪を隠し認めようともしなかっただろう。完全に赦されて、自
己中心から主の元で自由にされる。


2016年11月02日(水)

「私は漁に行く・・彼らは出かけて小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった」ヨハネ21:3 



ペテロは主を否み、裏切るという取り返しのつかない罪を犯してし
まい、この時の心情はどんなものであったろう。主からガリラヤに
行くよう言われ、故郷に戻ったペテロや弟子たち。どんな顔をして
会えばよいのか。合わせる顔がない。自分は弟子失格で、心は重く、
暗く、喜びも平安もなく、空虚だったろう。

なすすべなく自分に出来ることは漁、ペテロがその漁に出ると、他
の弟子たちも一緒に出る。魚は一匹も捕れない。しかし、魚が捕れ
ようが捕れまいが、ペテロの心は暗かったろう。自分の人生の汚点、
大失敗が脳裏から離れない。思いはそこにだけあった事だろう。主
を裏切り、主を捨てた自分。しかしそんな彼らに「夜が明けそめた
時、イエスは岸べに立たれた」。

虚しい心で、疲労こんぱいの弟子たちに「右側に網をおろせ」と。
それを主とは知らずに、言われる通りにすると、大漁だった。以前
にあった同じ光景が重なり、「主です!」と気づいた。ペテロが主
に召されて従ったあの原点だ。ペテロは一刻も早く主のもとへと、
湖に飛び込んだ。

主は、三度否んだペテロ、そして主を捨てて逃げ去った弟子たち、
その心の挫折、後悔、悲しみ、傷みをご存じであった。主は弟子た
ちに朝の食事を用意し、ペテロを回復させられた。もう一度新たに
立ち上がらせられた。私たちの信仰生活のどんな真っ暗な中でも、
「夜が明けそめた時、イエスは岸べに」立っておられる。
------------
信仰生活、失敗から多くを学んだ。失敗もまた主は省みてくださる。
何と感謝なことだろう。失意のままで主を仰ごう。夜明けの岸に主
を見出し、虚しい漁を終えよう。


2016年11月01日(火)

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り・・」エレミヤ1:5



「あなたが腹を出る前から、あなたを国々へと預言者と定めていた」
とあり、神は、エレミヤが生まれる以前から、エレミヤを選んでい
た。「神は私たちを世界の基のおかれる前からキリストにあって選
び、御前で聖く、傷のない者にしよう とされた」ともあり、天地創
造以前にすでに選ばれている。

モーセやイザヤやパウロもそうであったが、私たち一人一人も同様
だ。生まれる前から選んで下さっている。神の意志と選びによって、
今ここにいる。偶然生まれて来たのでなく、神のご計画によって生
まれて来た。

若いエレミヤは恐れて、自分みたいなものが、「まだ若くて、どう
語ってよいかわからない」と尻込みしたが、主が遣わす所へ行き、
主が命じた言葉を語れと。そして彼らを恐れるな、「わたしはあな
たとともにいて、あなたを救い出すから」と。「わたしがともにい
る」との保証は何と力強いものだろう。

エレミヤに、彼にしか出来ない働きが与えられていたように、私た
ち一人一人にも、使命があり、それぞれに違った能力、賜物が与え
られている。長い歴史の中のこの時に、この国で、今の場で、生を
与えられたのは、神によるのであり、ご計画により、神から遣わさ
れている。

たまたま今の場所にいるのではない。神から選ばれて遣わされてい
ると受け取る時、全く別の視点に立つ。それをも生まれる前から、
定められていた。それはこれから先の事も、ご計画の中だ。いつも
御言葉視点に立っていよう。
------------
今の時に神の子とされ恵みの時に生かされている。こんなはずでは
ないと思うから悩んでしまうが、神によりこの場所に遣わされてい
ると覚え、いかに今を生きるかを見ていこう。