2016年12月31日(土)
「あなたの神、主を心に据えなさい」申命記8:18
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ある人が、教員の働きに就いた。しかし受け持ったクラスは難しく、
一筋縄では行かなかった。反抗的な子供たちも多く、なかなかうま
く行かない。悩みながら、試行錯誤を重ねつつ、しかし日々は多忙
を極め、目の前の事をこなすのに精一杯な毎日だった。とうとう年
末には心身過労状態で、ダウンしてしまった。
めまいや頭痛、体調不良に、医者にしばらくの休養を言い渡された。
クラスが気になって仕方がないが、どうにもならず休暇を取った。
ひたすら眠り、数日を経ると、少し落ち着き、物が考えられるよう
になった。自分の至らなさ、失敗の数々が思い起こされた。自制で
きず、怒りをぶつけてしまったこと、子供たちを傷つけてしまった
あの事、この事、次々と思われ、胸がふさがれるようだった。
祈って、導かれて進んで来た道だが、御心を間違ったのか。自分は
向いていないのでは。様々な思いをありのまま主に打ち明け、祈っ
ていた。すると恵みも見えて来た。確かに信頼関係が築かれて来て
いること、心の交流のあったあの事、この事、沢山の祝福の場面が
思い起こされた。
そして「あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き
上げる力を与えられたのは・・」と語られ、この仕事を今まで導かれ
たのは主だと、改めて確信できた。主を心に据えて新年も歩めと。
私たちも数々の失敗があるが、今年1年も築き上げられたのは主だ。
その主を新年も心に据えて歩んで行こう。
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★今年一年も有難うございました。スタッフの都合で1/1〜3お
休みさせていただきます。新年を主に大いに期待し、また祈りを
込めて配信させていただきます。良いお年をお迎え下さい。祝福を
お祈り致してしております。
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2016年12月30日(金)
「しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません」ガラテヤ5:18
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有名な放蕩息子の箇所で、弟息子は、父親から財産の生前贈与を受
けて、遠国に行き、放蕩三昧の挙げ句、全財産を浪費し、しかし父
親のもとに立ち返ることができた。心身ボロボロの自分を怒らず、
責めず、裁かず、抱きしめてくれた父親に、無条件の愛がわかった。
しかしこの時、同時に兄息子の心の状態もあらわになった。普段は
心の底に隠れて、外側に表れることのなかった本音だった。兄には、
遊びほうけて、好き勝手をして戻る弟が赦せなかった。怒り心頭だ
った。それを迎え入れる父親にも怒りは向いた。「兄はおこって、
家に入ろうともしなかった」。
行方不明になっていた弟が無事に帰ってきたのだが、そこにあわれ
みの気持ちは全く無かった。自分は、はめをはずした事もなく、こ
れだけ辛い目をして日々重労働しているのに、腹が立つばかりだ。
私たちもどうだろう。御霊によらず、自分の力で懸命に汗水流して
いる時には、していない人を見ると、必ず腹を立てる。自分を正当
化して、裁く。恵みの下にいないからだ。
そして兄息子は父の愛がわからない。私たちも自分の力で生きてい
る時は、神の愛がわからない。頑な、赦せない思い、怒り・・こう
いうものに心が支配されている時は、御前に静まろう。御霊の支配
の中に、神の愛に、導き返して下さる。「いつも一緒にいる、私の
ものは全部お前のもの」と兄息子に大きな父の愛が注がれている。
恵みの下で、安らごう。主の愛がいかばかりかを知って行ける。
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責めず、裁かず抱きしめてくれる御父は誰にとっても変わらないの
に、自分に頼り人を裁いていく兄が自分の中にもいる。そのような
不信仰な者を愛し善しとして下さる御父にいつも感謝し賛美してい
たい。
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2016年12月29日(木)
「立って、あの陣営に攻め取れ。それをあなたの手に渡したから」士師記7:9
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ギデオンの当時、イスラエルはミデヤン人から絶えず侵略受け、苦
しい状況にあった。神はデオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせ
ようとされた。呼びかけに32,000人が集まった。しかし、相手は13
5,000人の大軍で、圧倒的不利で、勝ち目はない。だが、神は極めて
不思議な事をされた。
ギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じられ、最後
にはたった300人が残された。そしてその300人で戦った時に、何と
ギデオンの大勝利に終わった。この時、神はギデオンに兵士を減ら
す理由として「大人数だと自分の手で救ったと、自分を誇るから」
と言われた。この戦いの勝利が人間でなく、神の力によるものと明
確にするように、あえて兵士の数を減らされた。
戦われたのは、神ご自身だ。私たちは、自分がもっと強ければ、能
力があれば、あれを持っていれば、これがあれば、と思うだろうか。
しかしもし強ければ、神の栄光を奪い、自分を誇り、自分の誉れに
してしまう。この箇所で、肝心なのは、兵力でなく、人数でなく、
神の御心だと学べる。
私たちが、もし主からの何かの示しを受けるなら、自分の持てるも
の、能力、財、人脈でなく、主が、ご自身のわざをされる。弱くと
も、持てるものが微少であっても、問題無い。もし、御心を示され
たなら、そのままで従って行こう。私たちを用いられるのは主だ。
「それをあなたの手に渡した」、主が成し遂げられる。
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多くのものを持っていれば心強いのではなく、主が戦われるから心
強い。いつも自分を見て時を判断しようとしてしまうが、主に強め
られ主の時を信じ前進しよう。
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2016年12月28日(水)
「しかしダビデは言った『殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう』」Tサムエル26:9
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ダビデは、自分の主君サウルに命をつけ狙われていた。相手は王で
あり、全権を持ち、全兵をどのようにも動かせる。そんな中をダビ
デはひたすら逃げ回っていた。そんな折り、サウルがダビデ所在の
情報を受け、追った。それを知ったダビデは、夜にそのサウルの陣
営に向かった。
するとサウルと側近たちは皆、熟睡していた。今こそ反撃の格好の
チャンスだ。部下が、神が敵を渡されたのだから、殺させて下さい
と言った。しかしダビデは決して許さなかった。その理由は、サウ
ルが「主に油を注がれた王」であったから。だが、同時にダビデ殺
害を狙うサウルの行動は、主の御心に逆らうものである事も知って
いた。
その事について「主は、必ず彼を打たれる」と信じていたので、裁
きを主に委ねた。決して自分で復讐しようとはしなかった。そのし
るしに、サウルの枕元にある槍と水差しを持ち帰った。「主が彼ら
を深い眠りに陥れられた」ので、皆、眠りこけて全く気づかなかっ
た。すべての事は主の主権の下にあり、主は眠りすら支配される。
ダビデは、サウルと自分の関係性でなく、主と自分の関係で、事態
を見ていた。もし個人的利害関係で見ていたら、この好機を捕らえ
ないわけがない。ダビデとサウルの違いは、ダビデが主の御心を行
なう者であり、サウルは自分の心を行なう者であった。主と自分の
関係を培って行く時、どんな状況の中でも、主から力を受けて前進
して行ける。
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人間的に見ながら御心を行おうとすると考えが分かれて何をすれば
良いのか解らなくなってしまう。すべての真実なこと、正しいこと、
御心は何かを主に聞きながら主と共に対処していこう。
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2016年12月27日(火)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
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ある人の会社が倒産した。貯えも無く、たちまち生活に困る事とな
った。どうしてよいかわからず、とりあえず、親戚にたちまちの必
要を借りようと思った。その親しい親戚とは長年の信頼関係があり、
快く応じてくれるとわかっていた。その事を牧師に話すと「いや、
その方に借りる前に、まず主に祈りましょう!」と言われた。
神は、必ず必要は与えて下さるからと。牧師に従うべく、共に祈り、
そして「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、
それに加えて、これらのものはすべて与えられます」の御言葉に、
非常に力を得た。「主を信じましょう!」との励ましに、主を信じ
て立とうと思った。
そして祈り続けていると、何とずっと昔に知人に貸したお金が、突
然まとまって返って来たのだ。驚いた。余りにも昔で、自分も忘れ
てしまっていた。ずっと申し訳ないと、返済したかったが、余裕無
くできなかった。やっとめどがついたのでと。思ってもみない所か
ら備えられ、本当に驚かされ、主の御名を崇めた。
別の人もリストラになり、次の職が全然無く、しかし「何も思い煩
うな」との言葉を信じ、「いっさい神にゆだねなさい」に従い、主
に委ねた。すると貯えも無く、目の前真っ暗なはずなのに、心は平
安で満たされた。心に感謝が湧き上がった。
近隣の畑の野菜が届き、魚釣り人から魚が届き、あちこちから、ほ
んとにエリヤのごとくカラスにより運ばれて来た。主の不思議を体
験し、更に喜びに満ち、やがて職が与えられた。
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祈りのより所となる御約束だ。愛する私たちのいっさいを心配し、
すでに備えられているものを与えてくださる。あれこれと心配事が
浮かんでは消えるが大胆に主に求める信仰を持って歩もう。
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2016年12月26日(月)
「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった」マタイ11:17
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だいたい私たちが相手を裁くのは、つまりは相手が自分の思い通り
でないからだと言われている。自分の思いがあり、それが通らない
から相手を裁き、非難する。つまりは自己中心によるものだ。主は、
当時の人々を、遊びをしている子ども達に例えられた。
子ども達は、一緒に遊ぼうと他の子達に「呼びかけ」た。まず「結
婚式」の遊びをし、楽しげに笛を吹いたが、誰も踊らず、相手にし
なかった。それで次に「葬式」の遊びをした。これにも誰も乗って
こなかった。同様に当時の人々は、悔い改めのバプテスマを授けて
いるヨハネが、荒野でいなごと野蜜で生活していると「悪霊につか
れている」と言った。
そして、主が取税人や遊女の友となり、罪人と宴会の席についてい
ると、「食いしんぼうの大酒飲み」だと言い「罪人の仲間」だと言
った。結局、何をしても批判し非難した。つまりは、自分たちの思
いがあるばかりで、自分の正しさを誇っていた。相手を正しく見て、
受け入れようとの思いなどみじんも無かった。
その時に主は、「知恵の正しいことは、その行ないが証明します」
と言われた。必ず主の正しさは、その行ないによって証明されて行
くと。そして「そのすべての子どもたちが証明します」と。クリス
チャンたちが証明して行くと。私たちが悔い改めて、御言葉を聞き、
自分の思いでなく、御言葉に従って行く時に、私たちを通して、主
の正しさが証明されて行く。
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人の思いはどうであっても、昨日も今日も常に変わらない主に導か
れて生きるなら、私達も変わらぬ光となり闇の世で光を放てる。
内側を主に正されながら輝こう。
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2016年12月25日(日)
「イエスは彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。こ の人もアブラハムの子なのですから』」ルカ19:9
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ある人が、自分が嫌でたまらなかった。もっと能力があり、もっと
明るくて魅力的で、皆を楽しませる事ができれば・・周囲に愛される
のに、こんな自分だからダメなのだ。優しくない、素直でない、屈
折してしまう自分、自分が嫌いで、嫌な所ばかりが目についた。人
に好かれたい、愛されたい。自分で自分を何とかしようとするが、
どうにも出来ない。素直になれない、優しくなれない、ますます自
己嫌悪に陥る。
近づいてくれる人に、突っ張ってしまう。当然、相手は戸惑い、離
れて行ってしまう。本当は親しくなりたいのに、相手を傷つけ、自
分も傷つく。そんな堂々巡りの中にいたある時、「ザアカイ。急い
で降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まる」との御言葉が
自分に重なった。ザアカイの名を呼ばれ、孤独で寂しい虚しい心の
内を、知っておられた事、罪を犯しているザアカイを裁かず、責め
ず、「あなたの家に泊まる」と。
ザアカイは丸ごと受け入れられた事を知った。あなたの家に泊まる
とは、あるがまま受け入れているとの愛だ。主ご自身の愛に触れた
時に、ザアカイは悔い改めることができた。そして貧しい人に施し
たいとの愛が流れ出た。今まで貧しい人の事など思いもよらなかっ
たのに。ザアカイは全く変えられた。
あなた自身をまず無条件で受け入れて下さっている。主はあなたの
心の孤独、寂しさ、虚しさをすべて知り、心の渇きを知って、愛し
受け入れて下さっている。その主のもとに行こう。
・・・・・・・・・・・・
★クリスマスおめでとうございます。豊かな祝福ありますように!
主の方がすでにザアカイの名をご存じだった。渇いた、主を求める
心を知っておられる。そして満たして下さる。主のもとへ行こう。
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2016年12月24日(土)
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互い に人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」ピリピ2:3
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これは獄中書簡で、この時パウロは牢獄の中にいた。獄中から信徒
に手紙を送っている。ユウオデヤとスントケに、主に在って一致す
るようにとの勧めがなされているが、ピリピの教会の中は、様々な
トラブルがあった。そこに必要な事が、「自己中心や虚栄からする
ことなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思う
こと」だった。
「自己中心」は自分の事ばかりで、相手の事を考えない。「虚栄
心」は、自分の栄光を求めることだ。どこまでもただ自分だ。それ
は虚しいことだと。自己中心と虚栄心は、一致を壊して行く。「い
えいえ私などは」と腰を低くするが、もし本当に「そうですね。そ
の通りですね」と言われたらどうだろう。恐ろしい事になる。
表向きのへりくだりであり、実は、けんそんな人と見られたい虚栄
心であったりする。ある人が、仕事の成果で、同僚が褒められると、
どうしても自分がけなされたように感じてしまう。自分はだめだと、
又、もっと成果を出せと批判されているように感じる。自分は全く
関係ないし、けなされてもいないのに。しかし妬みが起きて、苦し
くてたまらない。祈っていると、自我、虚栄心を示された。
絶えず人と比較していて、人が基準になっている。人との差異で自
分を量っているから、何かあるとすぐに平安が、かき乱され、劣等
感や優越感となる。「自分」が、中心の高慢から来ていた。「へり
くだり」を祈りとして、まず祈りに持って行けることが感謝だった。
最近の、心を暗くするあの事、この事・・自己中心や虚栄心から来て
いないだろうか。気づきから始まる。
・・・・・・・・・・・・・
自分で、自分の姿はわからない。御霊の光に照らされて初めて、自
分の心の奥底が見える。光で照らし出されたものは、見えるので祈
りに持って行ける。祈りに持って行く時、主の取り扱いにあずかり、
みわざを見て行く。
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2016年12月23日(金)
「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ」マタイ13:8
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聖書を読んで祈ることを、デボーションを、いつも勧められるので、
聖書を読まなくてはと思う。そのため聖書を開くのだが、読みなが
らも、他の思いが入って来る。その内に、あれやこれやと思いはさ
まよい、結局、何を読んだのかわからない。時間ばかりが過ぎて行
く。背後にサタンが働いているが、自分の内側はどうだろう。
実は固い心がないだろうか。たいして頼らずとも、自分でやって行
けるので、そこまでの真剣さがない。又、神の言葉を聞きたくない
のかも知れない。自分の計画や強い思いがあって、どうしても手放
せない。違う御心を示されても困る。出エジプト時に、パロはイス
ラエルの解放を頑なに拒んだが、自分の内にもそのパロがいる。
ある人は忙しい日々に、時間が無くて聖書が読めないと思っていた、
時間さえあれば、時間が欲しいと。しかし突然の休暇が来た時に、
大喜びで行楽へと向かい、聖書など全く飛んでいた。時間の問題で
ない事を示され、自分の問題である事を認め、悔い改め、祈りに持
って行けた。
そして、いばらの地のごとく、世の思い煩いや、肉の思い、欲は、
御言葉をふさいでしまう。祈りと御言葉をことさらに嫌うサタンが
強く妨害して来る。心を御霊に探ってもらい、妨げているものを気
づかせられるよう祈ろう。御言葉が種なら、結実のためには、どう
しても種が蒔かれる事が必要だ。素直な地とされるよう、主は助け
て下さる。
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御言葉が生きて働くことを妨げるのはどの過程だろう。多くの御言
葉が今まで豊に与えられ、これからも備えらている。素直な開かれ
た心で向き合い慕い求め成長していこう。
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2016年12月22日(木)
「私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」Uコリント2:10
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ある人が、学生時代に友人たちと争いになり、中傷され、悪口を言
いふらされ、非常に悔しい思いをした。攻撃して来た子たちをずっ
と憎んで、恨んでいた。卒業後、彼らとは別々の道へ。それから自
分は人一倍努力して、頑張って〃生きて来たが、その動機といえば、
彼らを見返してやりたい一心だった。執念深く恨んでいた。
何かにつけて努力したが、そこに喜びは無かった。その対人関係が
目に見える形で無くなったとしても、会わなかったとしても、恨み
が残るなら、どんなに物理的に距離が離れていても、ずっと囚われ
の身だ。自分の人生が恨む相手にコントロールされてしまっている。
いつも思いに上り、心に影を落とす。
やがて教会に行くようになり、御言葉を学んで行く中で、確かに相
手は悪いが、しかし自分にも非があったと初めて気づかされた。そ
して今までの頑張りの動機が間違っていたこと、自分が相手を恨む
ことは、自分の問題であると知った。自分の憎しみや恨みが、自分
自身を苦しめていることも知らされた。絶対に何があっても赦した
くない自我だった。
光に照らされるように、自分の姿が見せられた。解放されたいと思
った。自分が相手を赦すことが解放だった。悔い改めて、赦します
と、意志を主に向けた。人を赦せない思いは、サタンのわなであり、
策略だと言っている。がんじがらめにされてしまう。主に助けを求
めて祈って行こう。
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サタンの策略を知らない訳ではないのに欺かれる。御霊に照らされ
示された罪は主に告げ、いつも主との正しい関係にいよう。主によ
らなければサタンに誘惑されている自分に気付けない。主に頼ろう。
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2016年12月21日(水)
「イエスは身を起こして言われた。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい』」ヨハネ8:7
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パリサイ人や律法学者達が、姦淫の場で捕えた女性を引きずり出
した。そしてその女性を利用して、主を罠にかけようと画策した。
愛のかけらもなく、何と冷淡な事だろう。「律法では石打ちの刑だ
が、あなたはどうするのか」と主に詰め寄った。
主は答えられず、だが彼らが問い続けて止めないので、「あなたが
たの内で、罪の無い者が、最初に石を投げよ」と言われた。すると、
一人また一人と、全員が出て行き、誰も石を投げる者がいなかった。
彼らは、自分の内側を見た。そして、罪を認めたのだ。
内側を照らされ、真実が現わされ出ようとしていた。チャンスだっ
た。自分の姿に正面から向き合う事ができた。しかし、又、逃げる
事もできた。その時、彼らは逃げ去った。主に導かれて、自分の罪
を見たのに、向き合おうとしなかった。だが、女性は逃げずに、そ
のままそこにいた。
裁きからも逃れようとせずに、今からどうなろうと、主のもとにと
どまった。周囲皆の冷ややかな、見下した裁きの中、主の愛を全身
に感じた。その主の愛に身を委ねた。その時「あなたを罪に定めな
い」との赦しを受け取った。主の十字架のゆえだった。私達はどう
だろう。
御霊に照らされた罪を認め、悔い改める時、赦される。真に救われ、
新しい歩みを始めて行ける。目をそらすなら、闇の中であって、ま
すます見えなくなる。罪がわかるなら、御霊の光による。悔い改め
て、新しい歩みに入ろう。
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本当の自分が見えていることが祝福なのに痛い所は目を逸らそうと
してしまう。主の御愛を受けとり、御霊に照らされたなら示された
罪を悔い改めよう。生涯変わり続けていきたい。
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2016年12月20日(火)
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」ヘブル12:11
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主は、私たち一人一人に訓練を与えて下さる。私たちの益のため、
成長のためだ。しかし、訓練として受け取らなければ、痛いだけで
何も学ぶ事ができない。逆に、心を屈折させ、ひねくれて受け取っ
てしまう。何度、試練を通っても、何も変わらない事があり得る。
それは、自我が砕かれていない事が原因だ。
この自我を取り扱われるために、嫌いな人、うまく行かない相手を
目の前に送られる。相手にも非があったりすると、相手が悪いとし
か見えない。相手が悪いから自分は苦しい立場にいると思い、ます
ます憎しみが増幅する。そして心の中で相手を責めて行く。しかし
自分の心に平安が無い。その苦しみも相手のせいだと思ってしまう。
この状況を去らせて下さいと、幾ら祈っても祈りが聞かれない。状
況も、自分も、相手も、何も変わらない。祈りが聞かれず、状況も
変わらない事を通して、段々と「もしかして、これは自分の問題?」
と気づき始める。相手でも、状況でもなく、自分の内に砕かれない
頑ななものがある。強い自我に気づく。
「相手ではなく、私を変えて下さい」の祈りにやっとたどり着く。
そして御心にかなった祈りは聞かれる通り、この祈りは聞かれる。
変わらなかった自分自身が、変えられて行く。苦しかった心に平安
が来て、休息が来る。解放される。成長へと導かれて行く。
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嫌な人との関わりは大きなストレスだ。なぜ非のある相手に自分が
懲らしめられる必要があるのか!と、まさに強い自我に気づかされ
る。主からのものと受け止めただけなのに心に安堵がきた。
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2016年12月19日(月)
「彼は・・その先頭に立って行きます。すると、羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます」ヨハネ10:4
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私たちは、日々、朝起きてから夜寝るまで、何らかの声を聞いて生
活している。常にまず、何らかの声を聞いて、自分の行動がなされ
ている。それは自分の内からの声だったり、人の声だったり、テレ
ビやラジオ、新聞からの声だったりする。怒り、妬み、憎しみ、泥
酔、ギャンブル・・ストレートな罪の思いやネガティブな思いなら
すぐわかるが、もっともらしい声だったりする。
「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道
である」。人の目にまっすぐに見えるからややこしい。仕事をする
事は御心であり、良い事だ。又、趣味も人生に楽しみと喜びを与え
てくれる。良い事だ。しかし、いつしかそれらに度を越えてのめり
込んでしまい、神から離れた人々も少なくない。
又、例えば人から攻撃されたり、非難中傷された時、こちらも相手
の非を反撃したくなる。肉の声に聞いてしまうと、それが正当に思
えてしまう。人に聞いても、そう答えるかも知れない。しかし、私
たちが聞くべき声は、神の御声だ。サタンは肉の声を、これでもか
〃と焚きつけて来る。強い影響力があり、神の言葉に立たなければ、
そちらに従ってしまいそうだ。
しかし「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりす
るため」だ。私たちを反対方向へ進ませ、神から離してしまう。指
摘が当たっていれば悔い改めれば良いし、当たっていなければ聞き
流せば良い。神の御心は敵をも愛することで、祝福を祈ることだ。
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正しいものとそうでないものを見分けるには本物に接していないと
わからない。わからない時はこの声は主からですかと御心を尋ねて
いこう。羊を豊に養うために日々導かれる主の声を聞き分けたい。
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2016年12月18日(日)
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6
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「私を変えて下さい」の祈りは聞かれると言われているが、信仰人
生で、だいたい「相手を変えて下さい」「環境を変えて下さい」の
祈りになることが多い。主は、私たちを変えるために、うまく行か
ない対人関係、嫌な人、ギクシャクする人、うまく対処できない状
況、厳しい環境を送られる。しかし、そんな時に、どうしても相手
が悪いとしか思えず、相手を責めて行く。
又、苦しい環境を変えて欲しいばかりで、相手を変えて下さい、環
境を変えて下さいとの祈りになる。そして相手を責め、環境のせい
にしていたら、自分を見なくて済む。しかし、その祈りを幾ら祈っ
ても、答えられない事に気づいて行く。ある時は余りに辛くて、自
分で環境を変えてしまうが、しかし、又、同じような事態が起きる。
嫌な人がいて、職場を変えて、ほっとするが、次の職場でも、やは
り嫌な人がいる。「あなたの行く所、どこにおいても主を認めよ」
すべてが主の御手からであり、主の支配であるなら、これは相手や
環境の問題ではなく、自分自身の問題では、と気づく。それで「主
よ。私を変えて下さい」と祈り始めると、その祈りは聞かれる。
まず状況を変えようでなく、受け入れることができるように、と
の祈りに変えられる。又、もし主が御心とされるなら、状況が変え
られる。とにかく「そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされ
る」。今いる場所で「主の平安」を心に与えてまっすぐにされる。
・・・・・・・・・・
今、目の前の事態が思い通りでなく、イラだっていたなら、まず
そこに主を認めよう。何かを教えるためであり、自分の内側も知る
ためで、成長へと導かれる。道をまっすぐにされるとは、御心なら
状況変えられ、又、変わらぬ状況の中で、心に平安を下さる事だ。
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2016年12月17日(土)
「心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい」ヤコ ブ1:21
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主から「〜こうしなさい」と示された時、どうだろう。自分の心の
反応はどうだろう。「いや、そのようにしたら、周囲とうまく行か
ない。変に思われる」「〜そうしたら、自分の立場が不利になる。
都合悪い」「犠牲が大き過ぎる。そんなに時間と労力がとられるの
は困る」。ああだ、こうだと、様々な思いが浮かぶだろうか。
その思いが強くなり、段々、「ほんとにそんな事、示されたのか?
思い違いではないのか?」。サタンがどんどん働いて来る。「自分
には無理、無理」と。結局、主から示された事を、行なわないまま
になってしまう。御言葉を捨ててしまうことになる。
御言葉を聞くのは嫌でなく。喜んで聞くし、学びもするのだが、神
の言葉よりも、常に自分の思いが優先されてしまうので、信仰生活
に御心が成し遂げられて行かない。そして御言葉は学ぶのだが、授
業を聞く感じで、頭ではわかるのだが、何だか神がよくわからず、
実感がないということになる。
どこが問題なのか。御霊の語りかけが来た時に、自分の肉の思いの
方を取って、それに従ってしまう。根深い価値観がある。エデンの
園で、善悪を知る木の実を食べた時に罪が入ったが、善悪を自分で
判断し、自分が正しいと思う価値観だ。自分の判断の方が常識に合
ってると思う。しかし、肉の思いの方を捨てて、御言葉に従う時に、
自分が変えられて行き、神がわかって行く。
・・・・・・・・・・・・
示された御言葉を、無理と流してしまうのでなく、そこで「無理で
す」と主に向かって祈ろう。自分の状態を認めて、助けを求めて行
く時に、次の展開へと導かれて行く。気づかずに、流していないか
よく心を見張ってみよう。
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2016年12月16日(金)
「イスラエル人に引き返すように言え・・あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない」出エジプト14:1
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モーセに導かれたイスラエルの民は、出エジプトを果たした。神の
大いなる奇跡であった。ところが、荒野の端に宿営した途端、神は
モーセに、民に「引き返す」ように言えと告げられた。引き返して、
海辺で宿営せよと。少しでもエジプトから遠ざからねばならないの
に、あえて「引き返せ」と。
なぜそんな事を?パロは彼らがあの地で迷子になったと思うだろう。
そしてパロが追跡すれば、パロの全軍を通して「わたしの栄光を現
わす」と。エジプトが「わたしが主であることを知る」と。そのた
めに神はわざとそうされた。民は従った。
するとパロは、えり抜きの戦車と全戦車、精鋭の部隊の最強軍団で
民を追跡した。そして何と彼らに追いついた。民は非常に恐れて、
主に向かって叫んだ。主に叫んだのはよいが、モーセを通して、主
の答えを待つのでなく、モーセを責め、文句をぶつけた。そのモー
セに主は導きを与え「恐れるな、主の救いを見よ、主が戦われる、
黙っていよ」と。
前は海、後ろは追軍の絶体絶命の事態に、奇跡をされた。目の前の
海を分け、道を造られた。私たちも、どうにも出来ない突然の苦し
みに会うかも知れない。しかしそれは神の栄光のためだ、あなたを
通して、神が栄光を現わされる。そして主がまことの神である事を
新たに知る。主にご計画がある事を信じ、栄光が現されることを信
じていよう。
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絶体絶命の事態に恐れ神の力を拝さず退くだけだろうか。あきらめ
ず気落ちせず祈ろう。「恐れるな、主の救いを見よ、主が戦われる」
と御霊の励ましを信じて前進しよう。神が働かれる。
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2016年12月15日(木)
「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」マタイ7:24
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ここに賢い人と愚かな人が出て来る。賢い人は御言葉を聞き、愚か
な人は御言葉を聞かない、ならわかりやすいが、どちらも御言葉を
聞いている。賢い人は「ことばを聞いて、それを行なう」。愚かな
人は「ことばを聞いて、それを行なわない」。このところの違いだ。
愚かな人も礼拝で御言葉を喜んで聞き、御言葉を学ぶ人だ。
御言葉を聞かなかったり、反発しているなら、自分でもわかるが、
喜んで聞いているので、気づかない。御言葉を聞いて、それで満足
してしまう。聞いて、わかった気になって、そこで終わる。聞くだ
けで行なわないなら、自分の生まれつきの顔を鏡で見るようだと。
自分をながめてから立ち去ると、すぐに見たものを忘れてしまう。
御言葉を聞いてすぐに忘れてしまい、何も無かったことになる。そ
れなら実になることが決してない。真理の言葉は行なう時に初めて、
実を結ぶ。良い御言葉を聞いて、満足して終わりだろうか。しかし、
それならすぐに忘れてしまうと言っている。そして、何も無い時は
よいが、試練が来た時に立ち行けず、倒れてしまう。「しかもそれ
はひどい倒れ方」だと。
御言葉を実行して行く時に、実となり、どんな試練が来ても倒れな
い。聞いた御言葉を一心に見つめて離れない人は、事を実行して行
く。今、必要な事は聞いた御言葉を実行することだろうか。実行で
きるよう助けを求めて祈ろう。
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御言葉を聞いても、とても実行できないことばかりだ。無理、無理
と御言葉を流すより出来ませんと祈ろう。流して立ち去れば、いつ
しか出来るような気になり何の問題もないと思えてしまう。
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2016年12月14日(水)
「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」ヨハネ7:17
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信仰生活を送る中で、教会に行っては、御言葉を学んでいる。しか
しその聞いた御言葉が、それはそれ、これはこれと、実生活とは別
物になってしまっている事が多い。聖書の言葉と、実際の生活がリ
ンクしない。切り分けられてしまっている。御言葉通りにするなど、
そんな事をしていたら、この世の中ではやって行けないと思ってい
る。
教会は教会、この世の中はこの世の中と、別々にそれぞれに合わせ
てやって行く。嘘も方便、故意にグレイにしておいた方がうまく行
く、摩擦さえなければ良い、すると、どんどん神の聖さや真実から
離れて行く。何が聖くて真実なのかもわからなくなってしまう。神
がわからない。御言葉と実生活が、別々になっていないだろうか。
その時、御言葉は、「はい、はい」と聞いているが、実際はこの世
の価値観でやりくりしている。しかし御言葉を聞くことは聞いてい
るので、それに気づかない。神が必要を与える、神に頼れと言われ
るが、現実にはお金が生活を、老後を保障してくれる。神と言って
も、お金が大事。弱さの中に神の力が現れる、弱さが恵み、と言っ
ても、現実は能力のある事、強い事、力のある事が良い事と思って
いる。
実は、御言葉とかけ離れた世の価値観で生きている。それはそれ、
これはこれと。そうしていると、神がわからない。御言葉を行なっ
て行く時、御言葉を生きて行く時に、初めて神を体験して行く。神
が、わかる。一歩御言葉に従ってみよう。
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感謝できない時にする感謝にどれ程守られ、真実な神の生きた力を
見るだろう。一つの御言葉を実践していく時に、この世の価値観で
は見えなかった御言葉の真理を知らされる。
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2016年12月13日(火)
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6
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思い煩い症、心配症の人は多い。まだ起こっていな事を、ああなっ
たら、こうなったらどうしようと、心配で心配でたまらない。自分
で描いたシナリオであり、妄想だ。主は現実の問題を助けて下さる
が、亡霊のごとき、まだ起きてもいない事柄をどうこうできない。
又、過去の事でも、くよくよと思い煩う。
あの時ああしていれば、この時こうしていれば・・そうすると又、
自分を責め、そして周囲を責め、堂々巡りとなる。「過去と他人は
変えられない」の言葉通り、過去はどうやっても変える事は不可能
だ。ラザロが死んでしまった、マリヤやマルタのように、「主よ。
もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう
に」と、あの時ああなら、とくよくよ悔やむ。
しかし、主はこの箇所で「もしあなたが信じるなら、あなたは栄光
を見る」と言われた。過去の事態を受け止め、益とされることを信
じて立つ時、みわざを見、栄光が現されると。又、目の前に困難な
状況があるなら、そこに「主を認め」て、信仰によって受け止めて
行く時に、主は道をまっすぐにして導くと。
つまり、御心なら困難な状況を取り除かれ、環境を変えられるし、
又、その状況を御心とされるなら、そのまっただ中で、心に平安を
与えて下さる。心が平安であるなら、問題は問題で無くなってしま
う。
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過去も未来も、今の自分にはどうしようもない。今の時を主と共に
生きよう。どんなことでも主に助けを求めながら、祈りながら歩ん
でいこう。頼りない歩みを主はまっすぐに導いてくださる。
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2016年12月12日(月)
「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」箴言16:3
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ある人が、お酒を断とうとしていた。酒屋に近づいた時に、「主よ、
もしお酒を買う事が御心でなければ、駐車場が空いていませんよう
に」と祈った。すると駐車場は空いていた。笑ってしまうが、私達
も同じような事をしているかも知れない。主よ、御心なしたまえと
求め、御心を、と祈るのだが、実は自分の内では、もうしっかりと
プランは定まっている。
主からの認め印が欲しい。もし心ですでに決まっているなら、自分
の計画にそぐわない御言葉は排除してしまう。そして自分に都合の
良い御言葉しか入らない。無意識にそうしてしまっていて、気づか
ない。間違った方向に進まないためには、自分の計画を一旦、主に
委ねるのが良い。主に明け渡すことだ。
その計画が御心なら、主によって返って来るし、更に揺るぎないも
のとして、確信が与えられ、そして主により成し遂げられて行く。
又、御心でないなら、成って行かない。いつも祈りは「主よ、こう
して下さい」「ああして下さい」「主よ、こっちへ来て下さい」
「あっちへ行って下さい」だろうか。
そうではなく、「私は」「私は」でなく、「主は」私に、何を願い、
どんな御心を持っておられるのか、主のみ思いはどうなのか、祈り
の中で問うてみよう。御心の計画は、必ずどんな紆余曲折を通ろう
とも、必ず成し遂げられる。
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日々いろいろなプランが心に浮かぶ。主からの志なのか、自分の強
い思いなのかをまず自分自身にも問いかけてみよう。私の思いでは
なく主の御心が成りますようにの姿勢になれるよう祈っていきたい。
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2016年12月11日(日)
「彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛した ベオルの子バラムの道に従ったのです」Uペテロ2:15
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ろばが、喋ったという有名な箇所だ。モアブ王バラクが、バラムに、
一緒に来てイスラエルの民を呪って欲しい、そうすれば我々は勝て
るとの依頼をする。しかしバラムは、神に聞き、示しを受け、民を
呪うことを断る。しかしバラクは諦めず、尚も使いを送る。すると
バラムは、神が他の事を言われるか、聞くと応対した。
御心が明確であるのに何を聞くことがあろう。それは自分に都合の
良いことを言って欲しい、思い通りに行動したいとの心だ。バラム
は一緒に行きたかった。物品や名誉の報酬が欲しかった。行こうと
した時に、ろばが進まないので3度も打った。だが主の使いが、抜
き身の剣を持って、立ちはだかっていた。神の怒りが燃え、敵対し
て立ちふさがったと。
正反対の道に向いていて、阻止したのは、主であった。主は、私た
ちが間違った方向へ進んでいる時、立ちはだかれ。阻まれる。今、
もしあなたの行く手が阻まれているなら、そこに主を認め、今一度
祈り、主のお心を求めよう。
バラムは最初は良かったが、最終的には「不義の報酬を愛したバラ
ム」「忌まわしいこと、利益のためバラムの迷いに陥り」「バラム
はバラクに教えて、人々の前につまづきの石を置き、偶像にささげ
た物を食べさせ、不品行を行わせた」と。名誉や物や、不義の報酬
を「愛した」ため、神から離れてしまった。
しかしあなたは、御霊によって祈り、神の愛の内に自分自身を保ち、
主キリストのあわれみを待ち望めと。ユダ20,21主のもとにとどまっ
て、主の御心を求めて祈ろう。
・・・・・・・・・・・
生まれつきの性質、肉は、しばしば主の御心と正反対の方向へ向か
う。自分の都合の良い方へ、楽な方へ、肉が心地良い方へと向かう。
だが、主は行く手を阻まれる。主の愛だ。軌道修正し、御心の道へ
と導かれる。
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2016年12月10日(土)
「また、御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい」エ ペソ6:17
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サタンに対抗するために、武具が記されている。「真理の帯」「正
義の胸当て」「足には平和の福音」「信仰の大盾」「救いのかぶ
と」・・これらはすべて防御のためのものだ。しかし、「御霊の与え
るつるぎである神のことば」は、刺す事ができて、且つ強く自分を
守る武器だ。敵と戦争する時に、帯と、胸当てと、足に備えと、盾
と、かぶと、もしこれらを身につけずに、戦争に出て行ったらどう
だろう。
無防備にふらふらと敵の前線に出て行くなら、すぐにやられてしま
う。日々の目に見えない敵、サタンとの戦いに、私たちはどうだろ
う。しっかり武具を帯びているだろうか。主は荒野で、サタンの誘
惑を受けられた時、御言葉の剣をもって戦われた。「・・と書いてあ
る」と、まさに御言葉によって、サタンに勝利された。サタンは退
散した。
御言葉は。御霊の与える剣だ。そのため御霊が、御言葉を与え、御
言葉を解き明かし、教えて下さる。「神のことばを受け取りなさ
い」と言われている。主に向き、周波数を合わせている必要がある。
心が主に向いていなければ、受け取ることができない。主は御言葉
を通し、御心を示される。
百人隊長のように「おことばをいただかせて下さい」と祈ろう。時
にかなった御言葉が与えられる。語られた言葉に立つ時、敵に打ち
勝てる。サタンは偽り、不義、混乱、不信仰へと誘惑し、攻撃して
来る。御霊の与えて下さる御言葉を受け取ろう。与えられるよう祈
ろう。
・・・・・・・・・・・
祈りにより、サタンに気づける。祈りに働き、御霊が気づきを与え
て下さる。御言葉は剣であり、力であり、いのちだ。自分の思いは
サタンに対して何の力も無い。御霊からの御言葉によって、サタン
に立ち向かう事ができる。打ち勝てる。
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2016年12月09日(金)
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」Tペテロ5:7
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ある人が、人一倍心配症だった。小さな事にも、くよくよと思い煩
ってしまう。子供のこと、経済的なこと、仕事のこと、対人関係、
思い煩いは絶えない。思い詰めると不安におおわれて、最悪のシナ
リオが頭を巡る。落ち込んで、心は暗く、重い。しかし、恐れや不
安の中で、祈っていた時、一つ一つの問題が来た時に、自分で何と
かしようとしている事に気づかされた。
自分が、自分が、と、それも自分の思い描くようにしたいと思って
いるので、焦りばかりが来る。しかし事は決して思うようにはなら
ず、苦しくてたまらなくなる。自分が、自分が、と思っているので、
主のもとに持って行かない。放せない。余計に握り締めてしまう。
重荷を自分で背負い込んでいる。荷は重く、しんどくてたまらない。
自分の願いと思いが強くて、主を見失っていることに気づく。こん
な時は、「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさ
い」だ。主が休ませて下さると。とにかく主のもとへ行くことだ。
不安でいっぱいな事、自分が、自分が、と思っている事、重荷を負
って疲れている事、ことごとく、洗いざらいを主に告げて行く時に、
信仰がよみがえって来る。
主が飛んでしまっている事に気づく。自分が、自分が、と主を信頼
しない不信仰を示され、悔い改めることができる。主に問題を渡す
ことができるようにと、祈ることができる。主がどんなに慈しんで
下さっているかを、知る時とされる。
-------------
私たちを心から愛してくださる方が心配してくださっている。しか
も問題だと思われることも神が良しとして送られていることだ。
あるがままの状態を受け入れ、主にお渡しできるよう祈ろう。
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2016年12月08日(木)
「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか』」マタイ14:31
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おぼれかけたペテロは、ベテラン漁師で、泳ぎは達者なはずだ。し
かし主から目を離した途端、大きく動揺して、沈みかけた。だが、
すぐに、主は彼をつかんで、助けられた。そして「信仰の薄い人だ
な。なぜ疑うのか」と。私たちも、すぐに疑ってしまうだろうか。
今、目の前の対人関係の問題、経済的必要、仕事の悩み、あの事、
この事・・主から目を離し、疑ってしまっているので平安が無い。
「なぜ疑うのか」との、主の御声を聞こう。目の前の状況に飲み込
まれてしまい、状況だけが見えて、主と、御言葉に立てなくなって
しまう。主を信頼することができなくなっているだろうか。
サタンの攻撃は凄まじく、すぐに世の価値観に流されてしまう。見
えるところしか、見えなくなってしまう。すると不安でたまらず、
思い煩いにさいなまれる事になる。しかし、ペテロが「主よ助けて
下さい」と叫んだ時に、「すぐに」手を伸ばし、つかんで下さった。
すぐに疑ってしまうが、信仰薄いが、あるがまま愛しているよと。
どんな時も、主は変わらない愛で、私たちを愛して下さっている。
そんな私たちの手を取りながら、主の似姿へと一歩一歩成長させて
行って下さる。今、信仰がダウンしているなら、「なぜ疑うのか」
と、「疑い」に気づくことができるまた。一歩成長の機会だ。しっ
かりつかんでいて下さる主を覚え、主への信頼を取り戻し、従って
行こう。
------------
目に見える現実はいつも主の祝福やご臨在から離そうとする。信仰
の一歩を踏み出しても、本当に大丈夫だろうかと御言葉の確信を疑
う心が出てくる。そんな弱さを覚えいつも主を心に向けていよう。
|
2016年12月07日(水)
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください」マタイ14:28
|
真っ暗闇の嵐で、弟子たちがパニック状況の中、主が来て下さっ
た。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と。こ
の「わたし」は、神がモーセに「『わたしはある』という者であ
る」と語られた、絶対的な全能の神ということだった。その時に、
ペテロが、主のもとに行きたいと願った。
それで「私に、水の上を歩いてここまで来いとお命じになってく
ださい」と言った。彼は「主の言葉」があればできる。御心でな
ければ不可能だが、主がお心とされるならできると信じた。大変
な、見上げた、驚くべき信仰だ。すると、主は「来なさい」と言
われた。主は、そのペテロの、突然の要望に応え、叶えて下さっ
た。受け入れて、良しとして下さった。
ペテロは主の言葉を信じて、一歩を踏み出した時に、水の上を歩
いた!しかし、主から目を離して、荒れる風を見た途端、ぶくぶ
くと沈んだ。こんな事があり得るはずがないとの、思いに恐くな
り、おぼれかけた。私たちもどうだろう。今、目の前の悩みや状
況に、目を奪われてしまっているだろうか。
その時、必ず主から目が離れている。主には問題なく、自分の
「信仰」が問題だ。今、目はどこに向いているだろう。御言葉が
与えられて、踏み出したが、右往左往しているなら、今一度、主
に向き直し、問題にでなく、御言葉に立とう。その時、前に進ん
で行ける。
-------------
御言葉から現実に目を向けたとたん、平安は失せて波風が迫
ってくる。御言葉を信じきれない不信仰を主に差しだし、くり返
し御言葉に立とう。主を信じようとする者を主は必ず守ってくだ
さる。
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2016年12月06日(火)
「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた」ヨシュア3:14
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約束の地カナンに入るために、目の前にとうとうと自分たちの背よ
りも深い、ヨルダン川が横たわっている。春先の雪解けの水で、最
も水量の多い時だ。橋も舟も無い。以前に偉大な紅海横断の奇跡を
見た人々は、ほとんど死に絶え、その時の子供たちが残っていた。
彼らが主の奇跡を目の当たりに見ることになる。主は具体的に一つ
一つなすべき事をヨシュアに示された。まず身をきよめるようにと。
渡れたら良いのでなく、主の御前に出ることが最も大切だ。整えら
れることが。そして祭司たちが契約の箱をかつぎ、先頭に立ち、水
際に来た時に、川の中に立つようにと。その時に水がせき止められ、
せきをなして立つようになると。
そしてその言葉の通りに従った時に、祭司たちの足が水に浸った時
に、水がせきをなして立った。祭司たちが、川の真ん中の乾いた地
に立つ内に、民全体が、乾いた地を渡ることができた。奇跡が起き
た。全員が橋も舟もない深い川を渡り終えた。
ここで学べる事は、奇跡が起きたのは、祭司たちの足が、とうとう
と流れる川の水際に浸った時だった。水がせき止められる前だった。
水がせき止められてから、渡ろうとするなら、決して奇跡を見るこ
とはない。何も起こらない。私たちはどうだろう。
御言葉だけでは心もとなく、不安で、保証が少しでも見えたなら、
渡るだろうか。それは信仰ではない。御言葉頼りに、すがり、一歩
踏み出そう。
-----------
雪解けで水かさの増した川は恐ろしく素直に踏み出せない、試練を
越えて行く前はいつもこの戦いがあるのではないだろうか。信じて
踏み出せない不信仰を主に告げ、まず一歩が踏み出せるように祈ろ
う。
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2016年12月05日(月)
「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ・・知るために、心の一新によって、自分を変えなさい」ローマ12:2
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主が、ペテロに「わたしをだれだと言うか」と問われた時に、「あ
なたは、生ける神の御子キリスト」と立派な答えをした。しかし、
その後、主が十字架と復活の事を話されると、何とペテロは主をい
さめた。「そんな事が、あなたに起こるはずがない」と。十字架を
「そんなこと」と言い、「起こるはずがない」と。
主は、それを「下がれ、サタン」と、サタンだと、主の邪魔をする
ものだと叱られた。十字架を否定し、挑んで来る敵を見破られた。
ペテロにすれば、良かれとの思いしかなく、主のためを思って言っ
た。しかし、それは人間的な思い、肉の価値観だ。そしてそれはサ
タンの思いであり、主の御思いと相反するものであった。ペテロに
はわからなかった。
だが、結果的にサタンに導かれていて、罪を犯すことになる。しか
し本人は正しいと思い込んでいる。「あなたは神のことを思わない
で、人のことを思っている」。肉の価値観、この世の価値観に目が
おおわれていると。ある人が、子供の進路が不安で〃たまらない。
思い煩い、恐れ、心配で落ち込んでしまい、御言葉も入らなくなっ
た。
しかし我に返った時に、世の価値観、肉の価値観に陥ってしまい、
流されていたと気づかされた。価値観が問題だ。世の価値観に捕ら
えられると、正反対の方向へ行ってしまう。そこにサタンが働いて
来る。もし平安が無いなら、今、自らの価値観を探ってみよう。
主の価値観に軌道修正する必要がある。
-----------
状況次第で変わる世の価値観を敏感に感じるが、主の価値観に視点
をあわすと焦りや恐れから心は守られ、希望を持って見ていくこと
が出来る。主に与えられた今日は感謝と喜びに溢れている。
|
2016年12月04日(日)
「さあ、行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言う べきことを教えよう」出エジプト4:12
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モーセが、荒野で羊を飼っている時に、神により召し出された。8
0歳だった。エジプトで苦役にあるイスラエルの民を救い出すよう
にと。しかしモーセは戸惑い、気後れした。昔40歳の時に、同胞を
救おうとして失敗していた。そのためミデヤンの地に逃げて来たの
だ。
以前失敗したのに、ましてや、この歳になって、何も持たない一介
の羊飼いの自分に、何ができると言うのか。到底、考えられない事
のように思える。しかし神は「わたしはあなたとともにいる。これ
があなたのためのしるしだ」と。そしてモーセの不安や問いに答え、
一つ一つ不安を埋め、説得して行かれる。
神ご自身が、あらゆる不思議でエジプトを打ち、民を去らせるよう
にすると。その通りに目の前で奇跡をされた。モーセの杖を蛇に変
え、ふところに入れた手をらい病にし、元に戻された。だが、尚も
モーセは、自分は言葉の人ではないと、尻込みする。するとわたし
が口にあって、言うべき事を教えると。そのままで良い。神ご自身
が成し遂げると。
結局、神はアロンを備えられた。自分の知恵と力で行くのではない。
神が「行け」と言われたからには、すべての知恵、判断、必要な力
を与えて下さる。神が常にともにおられ、神ご自身がみわざをする
と。もし、神があなたを何か新しい事柄に召しておられるなら、神
を信じて、一歩を踏み出そう。又、今の遣わされた場に、神は共に
おられ、あなたを用いて、みわざを成し遂げられる。
・・・・・・・・・・・
主に示されて、新しい事に、未知の事に進む時、尻込みしてしまう。
不安や恐れ、思い煩いに襲われる。しかし「さあ、行け」と言われ
る。必要な知恵、力、指針は、自分の内からではなく、主から来る
からだ。示しがあるなら、主に拠り頼んで、一歩を踏み出そう。
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2016年12月03日(土)
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してく ださる」詩篇55:22
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よく、ゆだねる事ができない、非常に難しいと耳にするが、どうだ
ろう。「ゆだねる」とは、石を転がすというような意味で、主の上
に、あなたの石である重荷を転がしてしまうことだ。石を転がすと、
その転がした石はどうなるのか。主の上にある。自分のもとにはも
うない。そのように、主にきっぱりと手放してしまうことだ。
すると思い煩いがきれいに消えてしまう。不安が無くなり、平安が
心に満ちる。経験した事があるだろうか。重荷が、心配事が、主の
手に渡ってしまうからだ。ところが、ゆだねたつもりでも、自分が
握っているなら、不安は消えない。平安にならない。どこまでも
「つもり」で、実は明け渡していない。
自分が手を放すと、どうなってしまうのかが不安でたまらず、どう
しても放す事ができない。信じることができない。自分が手放して
しまうと、すべてがだめになってしまうように思えるからだ。いつ
までも握り締めている。問題が「不信仰」にあるなら、その事を主
に打ち明け、助けを求めよう。
事が自分の思い通りでないと嫌だという時も、委ねられない。委ね
ると自分の思いが通らないからだ。委ねるとは、イエスでもノーで
も、どちらでもOKという事になるからだ。その事に、執着してい
るなら委ねられない。御霊に心を探ってもらい、主の助けを求めよ
う。
・・・・・・・・・・
主に委ねるとは、右でも左でも、白でも黒でも、御心のままでOKで
すの態度だ。底にどうしてもこうでなければ、との自分の思いがあ
ると、主に渡せない。「委ねられません」と祈って行こう。その時、
今まで気づかなかった、心の底の思いにも気づきが与えられる。
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2016年12月02日(金)
「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」ルカ22:32
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ペテロは失敗し、主を裏切ってしまった。その原因は何だったのだ
ろう。ペテロは一番弟子であり、自信満々だった。しかし過剰な自
信だった。自分が一番主を愛していると信じて疑わなかった。たと
い全部の者がつまずいても、私は決してつまずかないと。主に頼る
のではなく、自分を信じていた。つまり過信していた。自分がつま
ずくはずはないと。
又、主はペテロに、鶏が二度鳴く前に、あなたはわたしを三度知ら
ないと言うと、すでに告げておられた。サタンが、あなたがたを麦
のようにふるいにかけるとも。もし、主の言葉を真剣に受け止めて
いたならどうだろう。自分が主を裏切るということ、サタンの凄ま
じい働きがあるということに、こんなに重大な言葉を前に、まず心
を注ぎ出して切に祈ったのではないだろうか。
主はゲッセマネの園で、切なる祈りを献げられた。そして眠ってし
まっていた弟子たちに、「誘誘に陥らないように、目を覚まして、
祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」と言われ
た。主は切なる祈りによって、立ち上がって十字架へと向かわれた。
しかし失敗したペテロを主は回復させ、再び立ち上がらせて下さっ
た。失敗した時には、逃げずに、その事実を、自分自身を直視し、
向き合うことだ。悔い改めが与えられ、方向変換して、前進して行
ける。そして今度は、兄弟たちを力づけるために用いられて行く。
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失敗して無力を思い知らされた後の信仰を主は祈ってくださった。
すべて主は知っておられ、どこまでも憐れみ深く取り扱ってくださ
る。失敗の度に主の憐れみを求めて、へりくだる者に変えられたい。
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2016年12月01日(木)
「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」Tコリント10:11
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聖書の中には、信仰の偉人たちの失敗も、そのまま記されている。
世の一般書なら、都合悪い事実は隠すところだ。しかし赤裸々に書
かれている。アダムとエバは失敗して罪を選んだ。ノアは酔って失
敗し、アブラハムは自分の妻を妹だと嘘を言い、又、神の時を待て
ずに、自分でハガルによりイシマエルを産み出してしまい、重大な
失敗をした。
イサクも父と同じように嘘をつき、ヤコブは父と兄をだました。モ
ーセは40歳の時に人を殺して逃亡した。出エジプトの後には、怒り
で岩を打つ罪を犯し、約束の地カナンに入れなかった。アロンは金
の子牛の偶像を作るという罪を犯した。ダビデは姦淫の上に殺人の
罪を重ね、ペテロも弟子たちも主を裏切って逃げてしまった。
主はそれらを失敗をことごとく悔い改めに導き、赦され、尚も愛は
変わらず、愛し続けられた。どんな失敗をしたとしても、決して見
捨てられる事はない。アブラハム、イサク、ヤコブは祝福され、モ
ーセは出エジプトの大役を果たし、ダビデは詩篇を記し、ペテロは
諸教会のリーダーとして活躍した。
失敗した時は、問題の原因を考えてみよう。自分のどこに弱さがあ
り、自分の何に触れているのか。プライド、虚栄心、貪欲・・、繰
り返す事から守られる。失敗から学ぶ事が大切だ。いたずらに落胆
せず、主の赦しを受け取ろう。主はあわれんで下さる。どんな時も、
もう一度やり直すことができる。
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失敗し祈りの中で罪を言い表すときほど主を近く感じることはない。
聖書の偉人たちは、いつまでも失意に留まらず前進せよと語りかけ
てくれる。失敗から学ぼう。いつでもやり直せる。
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