2017年01月31日(火)

「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはいけません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです」創世記45:5



ヨセフは、事実、兄たちの悪意によって、エジプトに奴隷に売られ
た。「兄たちが」売った。売ったのは兄たちだ。しかしその事実に
ついて、別の見方をしている。「神が」自分をエジプトに遣わされ
たのだと。それは、ヨセフが先にエジプトへ行く事により、飢饉に
際してヤコブ一族の命を救うためだったと。だから心を痛めるなと。

すべては神のご計画だと。信仰により受け取り直している。「あな
たがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計
らいとなさいました」。「あなたがたは、私に悪を計った」とはっ
きり言っている。故意の悪意だと。「しかし神は」それを良いこと
とされた。

人の悪さえも、深いご計画、摂理のもと、すべてを働かせて益とさ
れる。今はわからなくても、後にその意味がわかる。あなたも人か
らの悪意によって傷つけられただろうか。不当な、理不尽な扱いを
受けただろうか。神はそれを神の愛の計画の実現にして行くと。人
の故意の悪意ですら、神があなたのために善い事とされるなら、恐
れる事は何もない。

それにより練られ、きよめられ、信仰が培われて行く。主の似姿へ
と変えられて行く。その悪意があったからこそ、今、この大きな祝
福があると、必ず言えるようにされる。「神が」を主語に置き換え
て、受け取り直そう。大きな平安に包まれる。
----------
人の悪意の向こうに神の導きがあるとは、今は思えない状況にある
かもしれない。神が、と受け取り直すことが出来るように祈ろう。
人の悪意も許せる神の深い摂理を悟れる日が来ることを信じて祈ろ
う。


2017年01月30日(月)

「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです」ルカ10:42


マルタとマリヤは、どちらも「喜んで」主を家にお迎えした。マル
タはもてなしのために、フル回転で動いた。片づけに、料理作りに
大忙しだった。マリヤは、「主の足もとに座って、みことばに聞き
入っていた」。段々、マルタは、余りの忙しさに、そんな妹を見て、
イライラし出した。

そして、何と主に、妹が私だけに台所仕事をさせているのを、何と
も思われないのか。妹に私を手伝うよう言ってくれと。マルタは、
主をおもてなしするために準備していたのが、主を批判し、非難す
ることになる。また、師である主に向かって、指図し、命令してい
る。自分が主人になっている。

「私の手伝いをするように、妹に言って欲しい」という事は、自分
のしている事の方が正しいとしている。しかし、マリヤは「みこと
ば」に聞き入ったいたのであり、つまり主はみことばを語っておら
れた。そして主は答えて「どうしても必要なことは、一つだけ」と
言われた。その事も、あの事も必要とは言っておられない。一つだ
けと。はっきりと言っておられる。御言葉に耳を傾けることだと。

マルタが、御言葉に耳を傾ける時、色々な事に気を遣い、心配する
思い煩いから解放される。「彼らが旅を続けているうち」伝道旅行
の途中であり、十字架も近づいていた。もう主のお言葉がいつ聞け
るかわからないと、マリヤは必死の思いで、「主の足もとにすわっ
て」=弟子入りのごとく、全身全霊で御言葉を聞いた。「いや、一
つだけ」を心に刻みたい。
-------------
忙しい時こそ主との交わりを守りそれから動きたい。平安を奪われ
てしまうマルタの失敗はそのまま自分の姿だ。次の必要も主は知っ
ていてくださっている。主の励ましと共に必ずやっていける。


2017年01月29日(日)

「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、およ び彼女の家族も、長い間それを食べた」T列王記17:15



エリヤは、まずアハブ王から守られるために、飢饉の中、ケリテ川
で養われた。川の水を飲み、カラスが食べ物を運んで来た。しかし
やがてそのケリテ川も枯れた。次に、ツァレファテのやもめのもと
へ行くようにとの、指示があった。主は、次、次と指示を与えて下
さる。一歩づつ示される。決して道に迷う事はない。

やもめのもとへ行った時、彼女は悲惨な状態にあった。食料は底を
つき、最後の一食分しか残っていない。これを食べて死ぬしかない
と。どん底だ。しかしエリヤはその最後の食事をまず自分にと求め
た。「恐れるな」と。そうするなら、「かめの粉は尽きず、そのつ
ぼの油はなくならない」と。エリヤも信仰に立った。

普通、この女性に対して常識ではとても言い出せない。しかしエリ
ヤはケリテ川で、奇跡を経験したばかりだ。神は奇跡を行われ、彼
女と子供を養われると信じた。また、彼女にとっても大変なチャレ
ンジであったろう。最後の僅かな持てる物、エリヤに献げるなら、
自分と息子の分は・・。しかし彼女は、エリヤの言葉を信じ、最後の
粉をまずエリヤに献げた。

すると主の言葉の通りに、人々が餓死する飢饉のまっただ中で、粉
は尽きず、つぼの油はなくならなかった。主の言葉に従ったエリヤ
は、結果的に母子を救う事になった。主の言葉は真実だ。苦しい状
況の中で、主を第一にして、御言葉に従おう。大きなみわざを見る。

・・・・・・・・・・・
信仰生活が「神第一」からはずれると、すぐに迷い込んでしまう。
再び「神第一」に戻る時、あるべき所に帰れて、平安と喜びが戻る。
今、秩序が狂っていたらなら、神第一に軌道修正しよう。この平安
は何にも代えられない。


2017年01月28日(土)

「ただ、私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げた いのです」マタイ20:14


天の御国は、ぶどう園で働く労務者を雇いに出る主人のようだと言
っている。主人は6時、9時、12時、3時、5時と雇いに出た。
早朝6時の者には、1デナリの契約をし、9時〜3時の者には相当
のものという契約をした。5時の者も雇った。「なぜ、働かないの
か?」と聞くと、怠けていたのでなく、誰も雇ってくれないと。

そして5時の者から順番に賃金が支払われた。全員が1デナリであ
った。1デナリは当時の1日分の給料だ。早朝の者は、5時の者が
1デナリなら自分たちは12デナリと算段し、期待したが1デナリ
だったので、期待は落胆、そして怒りに変わった。不平等、不公平
だと。しかし1デナリの契約はきちんと履行されている。正しく行
われている。

1日の必要分が1デナリで、主人は5時の者にも必要分を与えてや
りたかった。ここは、天の御国の事を言っている。天の御国は、こ
の世の原理と全く異なる世界だと言っている。恵みとあわれみが支
配する世界だ。あわれみが満ち満ちている。

5時の者は、体力無さそうであったのかも知れない。家族に今日の
糧を持って帰れない、不安、焦り、失望、主人はそれをあわれみ1
デナリが与えられた。どんなに大きな感謝と喜びに溢れたろう。一
方早朝の者は怒りと不満で一杯だ。この世では先の者は先、後の者
は後だが、神の世界では、このように後の者が先に、喜びと平安に
満ち満ちる。

・・・・・・・・・・・
これは現実には有り得ず、経験値にも無く、この世の価値観では、
天の御国の価値観は理解不能だ。この世では、労働に見合った報酬
を受ける。しかし神の国は、愛、あわれみによって動かされている。
その愛とあわれみが自分にも注がれているとは何と嬉しい事だろう。


2017年01月27日(金)

「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである」出エジプト3:12



何も無い荒野で、長年、羊を飼っていたモーセが、突然主から召し
を受ける。「わたしはあなたをパロのもとに遣わす」と。イスラエ
ルをエジプトから連れ出せと。モーセは、私が?なぜ?と思ったろ
う。「私はいったい何者なのでしょう。民をエジプトから連れ出さ
なければならないとは」と答える。

何で、一介の羊飼いの自分が、そんなとんでも無い大それた事をし
なければならないのか。モーセはもう80歳であり、又、以前王子で
あった時に、自分こそはと、自分がせずに誰がすると、民を救出し
ようとして失敗している。この老人に今さら何を?今の自分には何
の能力も無い。地位も力も人脈もない。

だが、主は、尻込みするモーセに「わたしはあなたとともにいる。
これがあなたのためのしるしである」と約束され、たたみ込むよう
に説得して行かれる。「わたしがあなたと共にいる」この事が「し
るし」だと。「しるし」とは、証拠であり、保証だ。これ以上の保
証などどこにあろう。これが現実であるとは、何と力強い事だろう。

モーセは、民をエジプトから救い出す事、これが彼の使命であり、
このためにモーセは生まれて来た。神はモーセを用いられた。私た
ちも同様だ。「わたしがあなたを遣わす」の通り、一人一人に神か
らの使命が与えられている。モーセと同じく、私は一体何者と思っ
てしまうが「わたしが共にいる」との保証がある。神が成し遂げて
下さる。遣わされた場で、神が用いて下さる。
------------
神によってここに置かれていると見ていくと、何も無いような一日
が意味を持って立ち上がってくる。神の恵みと支えの中で今日何が
できるかを祈りたい。


2017年01月26日(木)

「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した者は、いったいだれのものになるのか」ルカ12:20


ある金持ちが、豊作の時に言った。「倉を取りこわして、もっと大
きいのを建て、穀物をみなそこにしまっておこう」。これから先何
年分も貯められたから、安心して食べて飲んで楽しもう。しかし神
は「今夜、お前の命は取られる。お前が用意したものは、誰のもの
になるのか」と。

これから思う存分楽しもうとしていた金持ちは、その夜、亡くなっ
てしまった。金持ちの上に、更に豊作で、倉の上に更に大きな倉だ。
だが貧しい人々に分け与えようとの気持ちはいっさい無かった。ひ
たすら自分、自分、自分のみだった。すべて自分のもので、自分の
所有物であった。しかし、彼は自分がいつか死ぬこと、神の前に立
つ事を全く考えていなかった。

彼には、「神」も「死の備え」も無かった。そのため神は彼を「愚
か者」と言われた。富は宝だ。どう使うかによって、自分には本当
は何が大切で、何に価値を置いているかを表わす。自分は何が大事
なのだろう。命は神の御手の中に握られている。もし、神の御前に
生きていたなら、この豊作を与えて下さった神にまず感謝を献げた
ろう。

そして、神が与えて下さったこの豊かな作物を、どのように神のた
めに用いることが出来るかを祈ったろう。神の望まれる通りに、管
理し、用いて行く。そこに大きな喜びがあり、そしてそれが神の前
に富むということだ。又、富が無くとも「わたしは決してあなたを
離れず、あなたを捨てない」と言われる主が、常に共におられる。
-------------
明日の保障のためにお金は必要だが、お金に望みをかけてしまう貪
欲に警戒していなさいと主は言われた。むしろ、すべてのものを豊
に与え、楽しませてくださる神に望みを置くようにと。


2017年01月25日(水)

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」マタイ26:21


主は、一人一人に全く異なった賜物を与えておられる。能力も異な
る。「おのおのその能力に応じて」とある。五タラント、二タラン
ト、一タラントと画一ではない。皆、違っている。そして皆に必ず
タラントが与えられている。それぞれ能力に合った働きが備えられ
ている。自分に与えられたものをもって、主に仕えて行く時に、大
きな喜びと生きがいとなり、そして主の栄光が現わされて行く。

ここでよく陥る間違いが、自分に与えられたものと、人のものを比
較してしまう事だ。比較した途端、人のものが良く見えて、自分の
ものが色あせて見える。そうすると、迷路に入り込み、自分に与え
られている賜物の素晴らしさがわからなくなってしまう。人を羨み、
妬み、自分に与えられているものに感謝もなく、喜びも失せる。

磨いて行くどころか、不平不満、愚痴でいっぱいになる。そして主
人が戻り、彼らと「清算をした」。主が来られる時、清算をされる。
五タラントと二タラントもうけた者に全く同じ賞賛だ。五と二に何
の差も無い。そしてどちらも「わずかな物」に忠実だったと。五タ
ラントもわずかな物と。

額は関係無く、「忠実だった」ことを言っている。主が見られるの
は、ただただ「忠実」だ。「小さな事に忠実な人は、大きい事にも
忠実であり」、忠実は小さな事で量られる。誰も見ていない所での
忠実は、主に対する忠実だ。主は喜んで下さる。
-----------
主が結果だけを求めておられるのなら、失敗を恐れて手も足も出な
いだろう。主が与えてくださった自分の賜物を信じよう。土に埋め
たりせず、喜んで忠実に生きていこう。


2017年01月24日(火)

「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて待っていた」マタイ25:4


十人の娘が出て来る。花嫁の側の娘たちで、花嫁の家に、花婿が到
着するのを待っていた。だが花婿は思いのほか遅れて、夜中になっ
た。十人とも眠ってしまった。すると突然、花婿到着の知らせが来
た。五人は自分のともしびと一緒に予備の油を用意していた。とこ
ろが五人は用意していなかった。

もう今にも火が消えそうで、油を分けてくれと頼んだ。だが分ける
ほども無いので、店で買うようにと。急ぎ買いに走り、戻ると、も
う花婿到着で、祝宴の戸が閉じられ、入れなかった。明暗がはっき
り分かれてしまった。賢い五人と愚かな五人のどこが違ったのか。
どちらも、ともしびを持ち、どちらもウトウト眠っていた。賢い五
人は居眠りしなかったのではない。

違いは、予備の油を持っていたかどうかだった。花婿は再臨のキリ
スト、娘は私たち一人一人だ。油は聖霊で、その油は、上げたりも
らったりが出来ない。不可能だ。上げれば良いのにと思いがちだが、
聖霊を分け与える事など出来ない。大切な事は、今日の生活を天に
つなげたものとして、天に帰り、主にまみえる事を常に踏まえて生
きる事だ。

それはこの世にいる間、聖霊を求め、聖霊の満たしを求めて生きる
事であり、地道に日々主と交わり、主との関係を深めて行く事だ。
それが油を準備しておく事だ。自分と主との関係を、人からもらっ
たり上げたりなど不可能だ。普段の生活において、そこにしっかり
目を留めていよう。天に帰るまで、地道に一日一日、主と交わって
行こう。
------------
いつも張りつめていなくても、うとうとしていても霊の目は、主に
焦点の合った生き方をしていたい。足りない自分に気付くとそれが
感謝だ。日々主は豊に与えてくださる。


2017年01月23日(月)

「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」詩篇143:10



ある若い宣教師が、発展途上国の宣教地に赴任した。慣れない生活
習慣、言葉、気候、文化に大変な苦労をした。カルチャーショック
で落ち込み、母国を遠く離れた寂しさや孤独感にも襲われた。生活
習慣が全く異なり、無意識にも、身に培われた今までの価値観で量
るので、しょっ中イライラし、怒りすら出て来る。

自分の思い通りに事が運ばないので、傷ついている事にも気づかさ
れた。イラ立ち、怒り、失望、落胆、挫折感・・平安とはほど遠い
ありさまだった。落ち込んでしまう事が度々だった。しかし、目を
主に向け、神視点に立つ時、見方は全く変えられるのであった。こ
れら一つ一つの出来事は、自分の砕きのためだった。

どこまでも自分の思いは強く、宣教活動も、一つ一つの対応、対処
も、自分がベストと思う方法でやりたい。その「自分の」思い、
「自分の」方法が砕かれて行くのがわかった。何一つ自分の思い通
りにならなかった。主からの訓練であった。そんな中で、自分のし
たい事をするために、そこにいるのではなく、神のなさりたい事を
神がされるために、自分がそこにいる事に目が開かれた。

主に今一度、自分自身を明け渡した。その時に、自分の思い通りで
なくとも、主のみこころが成されて行く事、そのために自分が用い
られている事に喜びを感じる自分にされた。そこに立つ時、状況が
どうであれ、心平安に対応できるようにされて行った。
----------------
出口の無い苦しみの中で、主に呼び、主に訴え続けるダビデの姿に
幾度も慰め学ばされる。肉の思いやサタンの攻撃ですぐに目の前が
曇ってしまう。あなたこそ神であり、行く道を教えてくださいと朝
ごとに主に聞いていきたい。


2017年01月22日(日)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪 のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに 愛があるのです」Tヨハネ4:10


祭司長や律法学者たちは、常に人の前に生きていた。立派な良い行
ないをする事で、人々からの賞賛を得、認められ、評価される事を
求めていた。人からは認められたいのだが、自分の罪は認めず、主
が救い主である事も認めなかった。私たちもどうだろう。主に出会
う以前は、生まれて以来ずっと人との比較の中で生きて来た。

目に見える所でしか、量れないため、目に見える人との差異で、自
分を量って来た。それしか方法が無いからだ。そのため、比較の価
値観の中に生きて来た。救われてからも、培われた価値観は根深く、
主を知りながらも、比較の中に生きてしまう。そして、どうしても
目に見える人からの賞賛を求めてしまう。人から良く思われたい。
嫌われたくない。好かれたい。

しかしそれが強くなると、御言葉ではなく、ひたすら人から良く思
われたい、その一心で動いてしまう。人から認められて安堵する。
基準が御言葉でなく、人になってしまう。御心からずれてしまうの
で、平安は無く、ますます人からどう思われているかばかりが気に
なり、不安と思い煩でいっぱいになる。

「わたしはあなたを愛している」の通り、「神に愛されている」そ
の土台から離れず、そこを信じ、そこに立ち続ける事が大切だ。そ
こが不確かだと、人の愛を求めて、迷路をさまよってしまう。まず
神に愛されている事を受け取り、信じ、心を定めて行こう。

・・・・・・・・・・
神に愛されている事から目が離れると、人の愛を求め、人の評価を
求め、人に認められたいとさまよってしまう。さまよっている間も
神の愛は変わらない。私が神を愛したのでなく、神が愛して下さっ
ているからだ。この揺るがない土台にいつもとどまっておれるよう
に。


2017年01月21日(土)

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主は あなたの道をまっすぐにされる」箴言3:6



ある人が、職場で、責任ある大きなプロジェクトに取りかかってい
た。しかしミーティングを進める中で、議論が分かれ、自分の構想
と違う意見が出て来て、まさに正反対の意見だった。意見がぶつか
り合い、自分の意見こそはベストと思っているので、心の内には、
いら立ち、怒りが出て来る。

心は重く、平安が無く、帰宅した。すぐ主の御前に行き、祈った。
いら立つ心、自分が正しいと思う思い、人を責める心の内も告げて、
祈っていた時に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。す
べての事について感謝しなさい」と、よく知っている御言葉が心に
浮かんだ。主が語りかけておられる事がわかった。「すべての事に
ついて感謝しなさい」、反対する人々を感謝しなさいと。


「え!」と思うが、しかしとにかく主に従おうと、主の言われる通
りに、感謝しますと祈って行った。その時に、不思議だが心が落ち
着いて来て、いら立ちが消え、平安になった。結局、その企画は、
最も良い形に導かれ、大成功をおさめる事ができた。目の前に起こ
る出来事すべては、主の主権のもとにあり、すべての事は私たちの
ためであり、結果的に素晴らしく益とされる。私たちの成長のため
のものだ。

今、目の前に、思い通りにならず、自分にとって妨害としか思えな
い事態があるだろうか。しかし、それが素晴らしく益となり、自分
自身の成長となるように、主が働かせられる。それを信じて行く時
に、どのような難しい状況の中でも、心には平安を下さる。起こる
出来事すべてにおいて、主を認めて、感謝して行く時、心が変えら
れて行く。

・・・・・・・・・・・
「どこにおいても」主を認めよ。目の前の事態を、受け入れる事が
出来るように祈ろう。「受け入れられません」「受け入れたくあり
ません」から祈って行こう。主がそう出来るよう働かれる。その時、
環境は変わらずとも、心をまっすぐにされ、平安にされる。


2017年01月20日(金)

「王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった」マタイ22:3


主が、祭司長や長老たちに、たとえを持って話された。王が、王子
の結婚披露宴に人々を招く話だ。まず招待客を呼びにやると、客た
ちは来なかった。再度、別のしもべを送るが、客は皆、自分の事に
忙しく、断っただけでなく、しもべ達を殺害した。客は、宗教指導
者達でありイスラエルだ。

王は怒って兵を遣わし、彼らを殺し町を焼き払った。それで次に、
大通りに出て、出会った者を誰でも招くようにと。救いがイスラエ
ルから異邦人へと及んだ。すると会場は満員になった。道行く人が
礼服を持っているはずもなく、礼服は王により用意されていた。

しかし一人だけ礼服を着ない者がいた。王はその事を問うが、答え
ない。その者は暗闇に追い出された。礼服は、主の十字架による救
いの衣、義の衣だ。それが無代価で提供されているのに、拒むなら
どうしようもない。私たちもどうだろう。

主を求め、従って行くよりも「彼らは気にもかけず、畑に、商売に
行き」とあるように、自分のしたい事を第一にし、自分の思い通り
に生きて行く。主の判断や、御言葉の指針でなく、自分の感情、自
分の思いで判断し、選択して行く。主の御心など気にもかけない。

すると生活が、肉に、この世に流されてしまい、御霊の喜びや平安
から遠ざかってしまう。「彼らは気にもかけず」、好きな事がした
い肉に、流されてしまっていないか。真の心を満たす喜びは、主の
御心に従うことにある。その喜びを今年経験して行こう。
--------------
すでに主を身に着け、いつでも主と交わり御霊様の声を聞く恵みに
ありがら、つい目の前のことを優先してしまう。導きや招きの声が
わからなくなっていないだろうか。主の声を聞き分け応えていこう。


2017年01月19日(木)

「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできようか」伝道7:13 



ある人が、目に前に起きている状況は、自分的には良くないと思え、
懸命に状況を良きに変えよう、変えようと、必死に頑張った。祈り
つつ、懸命に努力した。しかしどうあがいても、状況は全く変わら
ず、やるべき事はやり尽くして、もう何の手立ても無かった。主と
交わろうと、あるがままの現状、そして心の内をことごとく祈り、
主の御前に静まっていた。

すると、ふっと全く違う見方ができたのだ。自分は、状況を変えよ
うとばかりしていたが、「神が曲げたものを誰がまっすぐにできよ
うか」とあり、神が曲げておられるのだと。その時、祈りが変えら
れた。状況を変えるのでなく、今の状況を受け入れる事ができるよ
うにと。

祈り続けていると、自分の心が変えられて、受け入れる事ができた。
その時に何と心に平安が満ち渡り、あんなに悪戦苦闘したのに、驚
くばかりだった。自分の思いばかりが強く、自分の願望に支配され
てしまい、神が見えなくなっていた。神に視点を置き、神を中心に
する時に秩序が正しくなり、その結果、平安と喜びに満たされる。

信仰人生には、突如色々な事が起こり、その時にはパニックになり、
動揺してしまう。しかし、その背後に、神のご計画がある。いつも
そこを見ていよう。神は常に最善をされる。「神が曲げたもの」を
受け入れて行く時に、私たちは必ず成長して行く。今、目の前に、
神が曲げたものがあるだろうか。まっすぐにしようと懸命だろうか。
受け入れられるよう祈ろう。
-------------
祈っても変わらない問題、状況が何も動かないとき、これは自分の
問題ではないかと気付かされる。すると問題の受け取り方、対処の
仕方が違って見える。問題の中で主の御心に従えるよう祈りたい。


2017年01月18日(水)

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」Tヨハネ1:9


サウルとダビデは共に王であった。しかし、二人の最後は大きくか
け離れたものとなった。どちらも罪を犯したのだが、サウルは神か
ら退けられ、ダビデは祝福へと進んだ。ダビデはバテシバとの姦淫
とウリヤ殺害の罪を犯し、サウルは祭司しか献げられないいけにえ
を、サムエルを待てないで献げ、また、アマレクを聖絶せよとの命
令に従わず、最も良いものを残しておいた。

ダビデはナタンから罪を指摘された時に「私は主に対して罪を犯し
た」と言い、サウルはサムエルから罪の指摘を受けた時に「私は罪
を犯しました」と言った。どちらも言葉にすれば同じだが、ダビデ
は、「主に対しての罪」だと、心底から悔い改めであったのに対し、
サウルは「しかし、私の面目を立てて下さい」と続き、「面目を立
てて」の方が本心であった。

サウルに悔い改めは無かった。ダビデは詩篇で「私の罪は、いつも
私の目の前にあります」「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
あなたの御目に悪であることを行ない」と言い、逃げたり隠れたり
しなかった。しかしサウルは罪に向き合う事もなく、自分の犯した
罪の言い訳に終始し、兵士たちや民のせいにした。

大事なのは自分のプライドであり、名誉回復であった。そこに神に
対する悔い改めは無かった。サウルの最期は悲惨なものであった。
ダビデは悔い改め、「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださっ
た」と罪が赦された。二人共、罪を犯したが、天と地ほどに違って
しまった。罪を犯した時こそ、主に向こう。
-----------
誰もが罪を犯す弱さを持っている。けれど主に愛されていると信じ
、いつも主に向かい赦しを乞うことができる人生はなんと幸いか。
罪の悔い改めから主への讃美へと変わる瞬間をダビデを通しいつも


2017年01月17日(火)

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10 


信仰生活において、私たちは弱いので失敗してしまう。その時、
自分の弱さや、過ちに、きちんと向き合うことが大切だ。だが、
これが非常に難しい。弱さは見たくないし、触れたくない。失敗
は余りにも辛くて、無かった事にしてしまいたい。考えたくない。
心の引き出しにしまい込んで、ふたをしておきたい。

しかし、認める事が信仰の前進のために、大変重要だ。主を裏切
ったユダとペテロが出て来る。どちらも裏切りという大罪を犯し
てしまった。ユダは銀貨30枚で主を売った。ペテロは裏切るつも
りは無かったが、呪いをかけてまで、主を知らないと否定した。
ペテロの弱さによる失敗だった。どちらも後悔した。しかし結末
が全く違った。

ユダは、罪に向き合うことをせず、主にも向かず、自ら命を絶っ
てしまった。だが、ペテロは逃げなかった。自分の弱さ、罪に向
き合った。合わせる顔の無い、主に向いた。苦しく、辛い思いを
抱えながら、主の指示に従い、ガリラヤに行った。従った。そこ
で、よみがえりの主に出会い、主の愛と赦しに包み込まれ、回復
させられた。

新たに主に出会い、立ち直る事ができた。そして、再度、主の働
きの任を与えられ、主の昇天後は、諸教会のリーダーとして立て
られた。私たちも失敗をしてしまうが、それで万事休すなのでは
ない。主に向き、過ちを認め、悔い改める事ができる。主はいつ
も再びチャンスを下さる。
-------------
三日待てばユダもよみがえりの主を見ることができたのに、主か
らも罪からも逃げてしまった。肉の後悔には希望がない。失敗し
落ち込んでも主のもとで時を過ごそう。主が赦しと慰めをくださ
り自分も事態も変わる。


2017年01月16日(月)

「ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを堀り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた」マタイ21:33


「ぶどう園と農夫」のたとえ話がある。主人がぶどう園を造って、
垣を巡らし、酒ぶねを堀り、やぐらを建てた。きちんと何もかも準
備し、それを農夫たちに貸し、旅に出た。収穫が近づき、主人は自
分の分を受け取ろうと、しもべ達を遣わした。ところが、農夫達は
しもべ達を袋叩きにし、殺し、石で打った。

主人は、尚も多くのしもべを遣わしたが、同様にした。主人は、自
分の息子なら敬うだろうと、息子を遣わしたところ、何と、農夫達
は財産を手に入れようと、その息子を殺害してしまった。この主人
は神で、息子はイエス・キリストで、農夫は祭司長律法学者たちで、
しもべは預言者たちだ。祭司長パリサイ人たちはこのたとえ話を聞
いた時、自分たちの事を言われている事に気づいた。

それで主を捕らえようとしたが、群衆を恐れた。肉の性質、罪の性
質はどうだろう。間違いを指摘された時に、へりくだってそれを認
め、悔い改めるのでなく、むしろ反対に、心頑なにし過ちを認めず、
怒りとなり、相手を攻撃して行く。彼らは激怒で、主を何とかしよ
うとしたが、群衆の反発を恐れて出来なかった。

肉は、過ちを認めたくない。認めると自分が崩壊してしまうように
感じる。赦しが信じられないからだ。だから自分を正当化し続ける。
自分を義としてしまう。しかし、そんな自分のための十字架であり、
厳然と赦しがある。赦しが頭だけで、受け取れていないなら、そう
できるよう祈ろう。祈りは必ず答えられる。
-----------
言い訳をしながら自分を正当化させて行く肉の方法から、主の方へ
向き十字架の赦しを経験しよう。主よそれは私のことですと過ちを
認める者でありたい。主に聖められ、いつでも新しく生まれ変われ
ることは感謝だ。


2017年01月15日(日)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさ せ、事を行わせてくださるのです」ピリピ2:13



「神は、私たちの心の内に働いて、志を与えて下さる」とある。神
が、心の思いに働いて、志を下さると。日常生活で、私達は、日々
朝起きてから夜寝るまで、様々な思いが次から次へと浮かぶ。しか
し、気をつけなければならない事は、すべてが神からのものではな
いということだ。

サタンからの思いも、次々と来るし、自分の肉からの思いも来る。
様々な思いが混線している。しかし、必ず神からの思いがある。ど
う判別して行けばよいのか。まず何よりも祈りが大切だ。サタンに
よる霊的な事柄の識別は、祈りによってしか不可能だ。祈りの中で、
御霊が働いて、御霊が教えて下さる。

その思いは御言葉に合致しているか。御言葉に反して導かれる事は
決して無い。その際、サタンは、光の御使いに変装するので、神の
かたちをとって来る。非常に紛らわしい。御言葉を間違った解釈で
持って来たり、御言葉を薄めたり、水増ししたりする。少しぐらい
大丈夫だと。

そして、結果オーライで、結果さえ良ければ、方法、手段は間違っ
ていても良いと思わせて来る。目的のためには手段は正当化される
と。しかし、主は、目的も手段も、動機も、聖い、正しい事をされ
る。そこに不正があるなら、神からではない。又、神からの志なら、
祈りの中で平安が与えられ、そして必ず環境が開かれて行く。

・・・・・・・・・・・・・
主からの志は、祈る中で平安がますます増し加えられ、志が変わら
ない。そして環境が開かれて行く。その主から来た志は、主からの
力が臨み、主が成し遂げて行かれる。神から発した事だけが、神に
よって成り、神に至る。主からの志には従おう。


2017年01月14日(土)

「母は手伝いの人たちに言った。『あの方が言われることを、何で もしてあげてください』」ヨハネ2:3 



当時、結婚式での、ぶどう酒は非常に重要なもので、なくてはなら
ぬものであった。それが、途中で無くなってしまうなどとは、あっ
てはならぬ大失態だ。花婿花嫁の面目まるつぶれだ。後々まで言い
継がれるような出来事だ。

同様に、私たちの信仰人生でも、時にぶどう酒が無くなるという事
態が生じる。ぶどう酒とは喜びの象徴だ。様々な失敗や過失を犯し
てしまうし、又、突然、病気やけが、難しい対人関係、経済的困窮、
離別・・喜びのぶどう酒が無くなってしまう。その時に、どうするだ
ろう。とにかく自分で何とかしようと、懸命にあがいてしまう。

まさに水からぶどう酒を作り出そうとする。焦り、悪戦苦闘し、し
かし、自分でぶどう酒など作れるはずもない。行き詰まり、疲れ果
ててしまう。私達のする事は、自分でぶどう酒を作ることではない。
マリヤのごとく、まず主に向かって、ぶどう酒がありませんと言う
ことだ。

そして、自分でどうこうするのではなく、「あの方が言われること
を」主が言われる事をまず聞き、言われた事に従うことだ。目を注
ぐのは、主にであって、目の前の状況ではない。その時に、主ご自
身が働かれる。主の言われる通りに従う事は、水かめに水をくむ事
だ。そうするなら、主が水をぶどう酒に変えて下さる。

奇蹟をして下さる。まず主に目を注ぎ、「あの方が言われること
を」実行しよう。その時、みわざを見る。今、「あの方が言われる
こと」があるなら、すぐに行なおう。

・・・・・・・・・・・・
目の前に厳しい状況が生じる。突如の問題、困難、困窮にパニック
になり飲み込まれてしまう。状況にしか目が行かない。状況を見て、
落ち込んでしまう。その中で主を呼び、主の御心、主のご計画に、
目を向ける時、我に返れて、心落ち着いて来る。まず主を呼び、主
に告げよう。


2017年01月13日(金)

「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった」民数記12:3 


指導者として、出エジプトを果たしたモーセは「地上のだれにもま
さって、謙遜であった」と記されていて、謙遜の代表のように言わ
れている。しかし、最初からそうなのではなかった。パロの娘に拾
われ、王女の息子となったモーセは、地位、名誉、財、力、あらゆ
るものを持っていた。

人々からちやほやされ、学問を身につけ、文武両道、非常に有能な
人物であった。自信に満ちていて、自分こそが同胞を救えると思い、
40歳の時に行動を起こしたが、同胞の理解は得られず、結局、ミ
デアンに逃亡する事となった。何も無い、見渡す限りの荒野で、モ
ーセは一介の羊飼いとして生活した。

王家の王子が、荒野でただの羊飼いとなった。人からの称賛、栄光、
プライド、輝かしき将来、何もかもをはぎ取られた。しかしモーセ
は、この荒野で砕きに砕かれ、時間をかけて、へりくだった、柔和
な者へと造り変えられて行った。神はモーセを偉大な器とするため
に、着々と取り扱われていた。

高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。モーセは荒
野で砕かれ、整えられ、40年後、今こそ、間に合う器として、民
をエジプトから救い出すという偉業のために用いられた。

神はへりくだった者を用いられる。神は、私たちを神の器として用
いるために、砕かれる。今、もし荒野にいるなら、訓練の時だ。砕
かれ、整えられ、主のために用いられる。へりくだって、今いる場
所で、神に従って行こう。
------------
荒野にいれば、いかにして脱出するかと心悩ませ思い煩うが、御父
の思いをそこで学びたい。何のためにここに置かれているのか、何
もわかっていない自分が問題なのではないのか考えさせられる。


2017年01月12日(木)

「主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます」詩篇23:3


ある人が、導かれて主の働きにあずかった。ジュニアクラスを任さ
れて、担当した。祈りつつ一生懸命に準備し、労した。だが日が経
つにつれ、壁にぶち当たってしまった。思春期の子供たちは難しく、
反抗的な子たちも、又、無気力な子たちもいて、どう対応して良い
かわからなかった。

彼らを何とか導きたいと思うのだが、かみ合わず、空回りするばか
りだった。あの手、この手と試してみるが、どうやってもうまく行
かず、落ち込むばかりだった。辛くて、自分はだめだと、心は重く
ふさがれ、どうにもできず、決心して主の御前に祈ろうとした。自
分の気持ち、思いの、何もかもを吐き出して、祈った。

子供たちは全く変わらず、反抗的で、対応ができないこと、自分の
無力感、自分は向いていないのではないか、導きは間違いだったの
では、思いのたけを主に告げた。そして静まっていた時に、「わた
しがあなたを選び、あなたを任命したのです」「それはあなたが行
って実を結び」「その実が残る・・」の御言葉が心に迫って来た。

自分はだめだとの思いに打ちひしがれていたが、主が選び、任命し
たと。そして必ず実を結び、実が残ると。自分が、自分が、と自分
の力で頑張っていた姿を見せられた。そうではなく、自分でなく、
主がされる、との信仰が与えられた。心が軽くなり、心新たに、主
と共に働きにあずかって行く者とされた。とにかく主のもとへ行こ
う。主は必ず導いて下さる。
-------------
羊のように目の前の草しか見えず自分の思い込みから出られない者
だが、主は義の道に導き返してくださる。自分の中で答えを求める
のではなくすべてを祈りにしよう。ふさがった心が生き返る。


2017年01月11日(水)

「それから残りの者は、板切れや、その他の、船にある物につかまって行くように命じた。こうして、彼らはみな、無事に陸に上がった」使徒27:44


イタリヤ行きの船に乗せられたパウロたちは、風のためになかなか
進む事ができず、良い港という所に着いた。パウロはもうこれ以上
の航海は危険だと主張したが、皆により、クレテの港まで行って冬
を過ごす事になった。それで出帆したところ、何日もの激しい暴風
で、船はほんろうされた。

積み荷を捨て、船具まで捨てた。太陽も星も見えない日々が続き、
事態は絶望的であった。身の危険に最後の望みも断たれようとして
いた。だがパウロは「命を失う者は一人もない。失われるのは船だ
け」と確信満ちて告げた。神は、信仰人生、失うものは何もないと
は言われない。ヤコブも「私も、失うときには、失うのだ」と言っ
た。

私達は信仰生活で、様々失うものがあるだろう。「主は与え、主は
取られる。主の御名はほむべきかな」と。「主は与え」ばかりが好
きで、「取られる」は好きでない。しかし、失う事はあっても、必
ず私達は御手の中に堅く守られ、信仰の生涯を全うできる。船を失
う事があるが、信仰人生は必ず守られ、確実に安全な島に打ち上げ
られることを覚えよう。

得る事は喜びだが、失う事は痛手だ。しかし、振り返る時、あの時、
この時の損失、それによって自分自身が練り鍛えられ、きよめられ、
信仰が成長させられ、今の自分があるのではないだろうか。あの損
失が無ければ、今の自分は無い。あの取り扱いによって、自分は成
長できた。損失は必ず通るが、思いを遙かに越えた大きな祝福に至
る。船を失うことがあるが、豊かな霊的祝福が与えられる。
-----------
祝福と同じように今年も試練は必ず来るだろう。平安は目に見える
ものの向こう、主にあると何度も経験させられる。失うときに、信
仰によって立ち上がりたい。


2017年01月10日(火)

「というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです」マタイ21:32  


主は二人の息子のたとえ話をされた。父親に「ぶどう園に行き、働
け」と言われ、兄は「行きます」と言ったが、行かなかった。弟は
「行きたくない」と断ったが、後から悪いと思い出かけた。「どち
らが父の願った通りにしたか」と祭司長や律法学者たちに問われた。
彼らは「後の者です」と答えた。

主を拒否している彼らであったが、そう言わずにおれなかった。主
は、弟息子は取税人や遊女のようだと言われた。彼らは律法に従わ
ず、罪を犯していたが、ヨハネの悔い改めの教えに聞き従い、ヨハ
ネがメシアだと指し示した主を受け入れた。

逆に、行くと言ったが、実際は行かなかった兄息子は、表向きは道
徳的で、立派な行ないをしているように見える。が、ヨハネを拒み、
彼の語る言葉を拒み、主を認めず、受け入れない、彼らの姿である
と言われた。私たちもどうだろう。クリスチャン生活が年数経ると、
外側、クリスチャン的な振る舞いをしているが、心は、主に入って
欲しくない、主を認めず拒んでいる領域があるだろうか。

「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」とあるが、信仰生活
どこにおいても「主を認める」のでなく、自分ばかりがあり、自分
の思いが強くなっているだろうか。であるなら、主が見えなくなっ
てしまう。自分が主を妨げていないか、照らされ、主の示しに従っ
て行こう。真の平安と喜びへと導かれる。
-----------
「行かない」と反抗しながらでも、主を心に据えている者は後で考
えてみることができ、行きたくないと祈ることもできる。表向きは
どうであれ、主と関わりなく過ごすことが最も不幸だ。


2017年01月09日(月)

「「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」マタイ21:27



主が宮で教えておられると、祭司長や民の長老たちが、「何の権威
によってこの事をするのか。誰がその権威を授けたのか」と詰め寄
った。そこで主は、「バプテスマのヨハネは、天から来たのか、そ
れとも人からか」と逆に問われた。

すると彼らは互いに論じ合い「神からと言うなら、ではなぜ、ヨハ
ネを信じないのか。更に彼が、救い主と示すイエスを信じないのか
という事になる。人からと言えば、ヨハネを神からの預言者として
認めている群衆の反発が恐い」。そこで彼らは、「天から」とも
「人から」とも答えず、「わかりません」と逃げた。

結局、彼らは真実から逃げて、突き詰める事をせず、主にも、自分
にも向き合わず、責任を取ることもせず、自分の思い通りに生きて
行った。その時、主は「わたしも、何の権威によってこれらのこと
をするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。

私たちもどうだろう。主を信じてはいるのだが、何が真実かでなく、
実は人の目を気にし、自分の思いに歩みたくて、主からの示しに従
いたくなくて、うやむやにしたり、自分をあいまいにして、ごまか
していたり、そんな部分があるだろうか。後回しにして、触れない
ようにしていたりする。しかし、それなら、主を知ることもなくな
ってしまう。

自分の中のあいまいにしている所、逃げている部分に気づくだろう
か。気づきを通して、ますます喜びと平安に満たされ、主の愛の高
さ広さ深さを知って行く恵みへと導かれて行ける。信仰人生は御霊
の気づきが何より感謝だ。
-------------
あいまいにする所に、今一度立ち止まり向き合ってみよう。自分の
本音が見えると、そこから祈りも与えられる。心の目が開かれ主と
深く関わり、一つずつ主を知る喜びに与りたい。


2017年01月08日(日)

「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くの か」創世記16:8


アブラムとサライは主の約束を待てずに、女奴隷ハガルにより子供
を得ようとした。しかしハガルはみごもった時、高慢になり、女主
人を見下げるようになった。それに激怒のサライは、ハガルをいじ
めたので、ハガルは余りにも辛く逃げ去った。一人寂しく、荒野の
泉のほとりにいた時に、主の使いが現われた。

「サライの女奴隷ハガル」と、明確にサライの奴隷である現実を見
せ「あなたはどこから来て。どこへ行くのか」と語りかけた。ハガ
ルは居場所を失い、自分を見失ない、行き詰まっていた。「女主人
から逃げている」と答えた。辛さから逃げたいばかりだった。

すると「あなたの女主人のもとに帰って、彼女のもとで身を低くせ
よ」と。ハガルはサライの奴隷なので、戻って、へりくだって、女
主人に仕えることが、ハガイのなすべき事だった。一番したくない、
嫌な事であるが、しかし実はハガイにとって、それが一番幸せで、
平安の道だ。

自分の遣わされた場所から逃げても、真の解放感はなく平安も無い。
私たちも自分を見失ない、行き詰まる時は、主と出会う事により自
分を取り戻せる。又どのような主人であれ、見下げることは、御心
ではない。私たちも、相手に関係なく、自分は、主との関係におい
て、御心に歩むなら、どのような状況であれ、心は平安だ。

主が平安を与えて下さるからだ。そして主はハガルをも心にかけ、
「あなたの子孫は、わたしが大いにふやすので、数えきれないほど
になる」と祝福を約束された。自分に語りかけられた神と出会い、
恵みを受けたハガルはサライのもとに戻った。

・・・・・・・・・・・・・
主の方からハガルを見つけられた。ハガルは主が、ハガルを愛し、
あわれんでいて下さる事がわかったから、女主人のもとへ帰れた。
自分を見失っていたハガルが、自分のおるべき場所がわかった。私
たちも自分を見失う時、主だけが、おるべき場所へと導いて下さる。


2017年01月07日(土)

「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。 労苦はその日その日に十分あります」マタイ6:34



私たちはどうだろう。先の事が不安だろうか。明日のこと、1ヶ月
先の事、来年の事、しいては老後の事が不安でたまらない。大丈夫
だと思おうとするが、不安は泉のごとく湧き上がって来る。不安で
眠れなかった経験があなたもあるだろうか。

神がおられるからと、すべての必要は備えられると励まされても、
どうしてもだめなのだ。教理上、頭ではわかっているが、先は目に
見えないので、恐れと不安がどうにもならない。明日の不安に押し
つぶされてしまって、今日の御心を行なう事ができなくなってしま
う。

その前の節に「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」
とある。神を第一にして行くならば、何を食べようか、何を飲もう
か、何を着ようかとの、生活の必要はすべて与えられると。そして
心も満ち足らわせて下さる。

しばしば逆をしている。「これらのもの」を第一にして、あくせく
走り回り、神が後回しになり、神を見失ってしまっている。その結
果、思い煩いと不安に支配されてしまう。「労苦はその日その日に
十分あります」その日になすべき御心が備えられている。それは必
ずあなたに出来る事だ。

心を集中して、今出来る事を行なって行く時、達成感、生きる喜び、
平安が与えられる。そのために、主を第一にする事が大切だ。もし
修正が必要なら、軌道修正して、従って行こう。

・・・・・・・・・・・
神第一に、どうしても必要な一つのものを第一にして行く時に、心
配や思い煩いから守られる。心が神視点に立つ時に、心配事を委ね
て行ける。そして今日一日だけを考え、集中し、精一杯今日の御心
を行なって行ける。その時、必要満たされ、感謝と喜びで今日を終
える。


2017年01月06日(金)

「私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう」詩編34:3



その前の節に、ダビデは「私はあらゆる時に、主をほめたたえる」
と言っていて、「あらゆる時」だ。つまり喜びの時、順境の時だけ
でなく、苦しみの時、悲しみの時も、「常に」「すべての時」だ。
実際、この時は、とんでもない苦しい悲惨な状況だった。サウル王
から一方的な妬みを受け、ダビデはサウルから命を狙われ、逃げ回
っていた。

そんな中、窮地の策で、サウルの敵であるガテ王アキシュのもとに
身を寄せた。しかしその家来たちがダビデの正体を知っていて、王
に告げた。恐れたダビデは追い詰められ、身の危険を感じ、何と気
違いの振りをした。気が狂った演技をし、ひげによだれをたらし、
屈辱的な、惨めで最悪の状態だ。

アキシュからも追い出され、ほら穴に逃げ込んだ。何という状況だ
ろう。その直後に、「私は主をほめたたえる」と言ったのだ。「私
の口には、いつも主への賛美がある」と。順境で喜びの時に、賛美
するのは、誰でもする。しかしそうではなく、恐怖で、惨めで、弱
く、窮地の、苦しみのまっただ中で、ダビデは賛美した。

このような状況では、落ち込み、無気力になり、愚痴と不満でいっ
ぱいが普通かも知れない。しかしダビデは主を信頼していた。主は
共におられる。最悪の状況の中で、主を仰いで行った。その時に、
主は答えて下さる。「この悩む者が呼ばわったとき、主は聞かれた」。
私たちも、主を呼ぶ時、主は答えられる。私は主を呼
び、主は答え
て下さる、この繰り返しの中で、主への信頼が深められて行く。
--------------
どんな苦しい現実であってもそこに主を見て行けたら勝利だ。何処で
あっても主にある自分を保つことができる。主に信頼し、主に感謝し
、賛美しよう。主が陣を張り助けてくださる。
--


2017年01月05日(木)

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え・・」エレミヤ33:3



ある人が、途中入社した。前からいた女性に、その人の仕事を引き
継ぐ事になり、教えてもらっていた。しばらくすると、テキパキと
仕事をこなせて、明るく社交的で、前向きな彼女は、社内でも、皆
に好感を持って見られるようになった。又、仕事もよく覚えて行っ
た。そんな中、前任者の態度が変わって来て、避けられているよう
に感じる。

仕事上必要な会話以外はいっさい無かった。最初は気にしなかった
が、挨拶しても返してもらえず、明らかに避けられている。何か自
分に落ち度があるのか。気に障るような事をしたのだろうか。心が
暗く重く沈み、主に打ち明けて祈っていた。祈っていると、自分が
来た事で仕事が移った事、自分が周囲から注目を浴びてしまう事、
彼女はそれが嫌だったのではと感じた。

対応に、主の助けを求めて祈り続けていた。そんなある日、声かけ
を無視されて、辛く、心で主に叫んだ。その時に、御霊に導かれ
「あなたにとても感謝している。大変わかりやすく、よく教えて下
さるから、私はこうやって仕事ができている」と感謝を伝えた。
それはへつらいでも何でもなく、本当の事だったから。

相手は明らかに動揺した。それ以後、相手のわだかまりは消えたよ
うで特に親しいわけではないが、普通に気持ち良く接する関係にさ
れた。どんな時にも、どんな事にも、主を呼べばよいこと、祈れば
よいことを教えられる。
------------
正解は主にあるのに問題をこじらせてしまう。祈りにより、ことごと
く主に告げ、尋ね、主と共に解決する習慣を身につけたい。次の展
開がある。主の答えを待とう。


2017年01月04日(水)

「主の山の上には備えがある」創世記22:14



アブラハムは、神からの示しを受けて、生まれ故郷を離れ、父の家
を出て、旅立った。その時は75歳で、25年待ち続けて息子イサ
クを授かった。アブラハム100歳、サラ90歳で与えられた子供はど
んなに可愛かった事だろう。目に入れても痛くないほどだったろう。

後は、自分の余生を穏やかに平安に過ごせると思っていたかも知れ
ない。そんな中、「神はアブラハムを試練に会わせられた」。はっ
きりと「試練」とある。イサクをモリヤの山で、全焼のいけにえと
して献げよというものだった。全焼のいけにえとは、動物を焼き尽
くして神に献げるものだ。

最愛のイサクを?アブラハムの思いも感情も、何も記されていない
が、神に従うために、「翌朝早く」モリヤへと出発したとある。神
が「アブラハムよ」と呼ばれた時、「はい、ここにおります」と答
えている。「はい、従うために、ここにおります」が、神とアブラ
ハムの関係だった。

アダムは神の呼びかけに、恐れて身を隠した。私たちは「はい、こ
こにおります」と答えよう。イサクが「いけにえの羊はどこに?」
と聞くと、「神ご自身が羊を備えて下さる」と答えた。アブラハム
の信仰だった。実際、刀を取ってほふろうとした瞬間に、主は止め
られ、そして代わりの羊が備えられていた。

試練は必ず来るが、試練の時には必ず、「主の備え」がある。「主
の山の上には備えがある」、今年も試練を受け止め、試練と共にあ
る「主の備え」を信じて歩もう。
----------
新年おめでとうございます。年末には多くの励ましのメールを有難
うございました。本年もどうぞよろしくお願いします。お一人お一
人に主の豊かな祝福がありますよう祈りを込めて今年も配信させて
いただきます。栄光在主。