2017年02月28日(火) 「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36
「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」ヘブル10:36
アブラハムは、主からの約束を与えられていた。外に連れ出され、 天を見上げよと。あなたの子孫はこの数え切れない星のようになる と。彼はその約束を信じた。しかし、その約束は、なかなか実現し ない。当時は、夫婦に子供が無い場合は、召使いに子供を産ませ、 その子を跡継ぎにすることが、通常であった。 それで、子供ができない中、この慣習にならい、サラが提案した。 主が産めないようにしておられるのだから、女奴隷によって子供を 持つのが良いのではと。アブラハムはサラからの申し出であり、当 時の習わしであり、女奴隷ハガルの所へ入った。しかし、重大な事 は、この時アブラハムは祈らず、主の御心を求めなかった事だ。 自分の思いで動いてしまった。 肉は、一見妥当な良い考えに思えるが、必ず問題を引き起こす。ハ ガルは、子供のないサラを見下すようになり、やがてハガルはイシ マエルを産んだ。イシマエルはアラブ人の先祖となり、現在のパレ スチナ紛争に至っている。アブラハムが肉の判断で、良かれと取っ た肉の行動は後々まで大トラブルとなった。 アブラハムが100歳の時に、人間的な力が完全に絶えた時に、イサ クが与えられた。今、あなたの状況はどうだろう。神の約束を待て ないで、しびれを切らして、自分で動こうとしているだろうか。肉 は、イシマエルを産み出してしまう。肉で動かず、神の約束を、忍 耐持ってじっと待とう。 --------------- 神の時があり何も無いように見えるときにも確かに導いてくださっ ている。そう解っていても焦り迷う。長く待たされるとはどういう 意味があるのか平安が無いとき自分の声ではなく主に聞いていきた い。
2017年02月27日(月) 「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと・・その地は・・主の園のように・・どこもよく潤っていた」創世記13:10
「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと・・その地は・・主の園のように・・どこもよく潤っていた」創世記13:10
アブラハムは主から御言葉を語られ、従うがために、生まれ故郷、 父の家を出て、主の示す地へと旅立った。しかし甥っ子ロトは祈る 事もなく、ただ伯父について行けば、何か良い事があるかと、つい て行った。信仰の人、アブラハムのゆえに、主は豊かに祝福され、 双方の持ち物がどんどん増した。 余りにも増えすぎて、しもべ間で争いが起こり、いよいよ同行困難 となった。平和を求めるアブラハムは別れる事を決断した。その時 に、すべてを主に明け渡しているアブラハムは、ロトにまず選ばせ た。そして残った地を自分が取った。ロトは主を仰ぐ事も、祈る事 もなく、肉の判断で、見た目に、より肥沃な地を選んだ。 しかしそれこそが、後に滅ぼされるべき地ソドムとゴモラであった。 不道徳な堕落した地であった。「ロトはソドムの近くまで天幕を張 った」とあり、最初はソドムの「近く」だった。誰しも自分は大丈 夫だと思う。近くなら、自分さえしっかりしていたら大丈夫だと。 しかしサタンの誘惑は強く、次には、ロトはソドムの門に座ってい た。門に座るのはその町の名士だ。ソドムの中に入り込んでいた。 自分は大丈夫との態度は、命取りになる。主に拠り頼まなくてはな らない。ソドムの町で、この世の地位と栄誉に生きていたロトは、 娘婿を滅びから救い出そうとした時に「冗談」だと思われた。妻さ えも、失ってしまった。目に見える所でなく、祈り、主に、御言葉 に、従って歩むところに、大いなる祝福がある。 ----------- 主に委ねているから例え見える所がどうであれ、ここが祝福の地と 信じ、主は共におられると思える。状況に魅かれているときこそ明 け渡しを祈ろう。自分だけで大きな選択をしているかも知れない。
2017年02月26日(日) 「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私 の目はいらだちで衰えてしまいました」詩篇31:9
「私をあわれんでください。主よ。私には苦しみがあるのです。私 の目はいらだちで衰えてしまいました」詩篇31:9
ダビデは「私には苦しみがある」「あわれんで下さい、主よ」と窮 状を祈っている。悲しみ、嘆きで心は尽き果てたと。「私の咎によ って弱まり骨々も衰えた」とダビデの犯した罪の事にも言及してい る。隣人からも敵対されと、親しい者からの裏切りにも会い、こわ れた器のようになったと。 敵に命をも狙われ、まさに非常な窮地に陥った。心が、もうぼろぼ ろで、壊れるばかりの苦しみ、悲しみ、嘆き、うめきにあるダビデ は、主のもとに行った。主に心の何もかもを告げ、主と交わって行 った時に、心が変えられた。 「しかし、主よ。私はあなたに信頼しています」「あなたこそ私の 神」と。信仰に立って行った。目に見える苦境を見ていた目が、目 に見えない神を仰いだ。主が、私の神であるなら、何も恐れる事は ない。そして「私の時は、御手の中にある」、その神に自分の行く 手が、人生が、握られている。そうなら何を心配する事があろう。 「ほむべきかな、主」と喜びと賛美に変えられる。包囲された町の 中で、奇跡のみわざをされる主だと。困難悩みに包囲されていたと しても、問題無い。その中でみわざをされる主だ。 最後は「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ」 で終わっている。問題解決にも、神の時があり、その時が御手の中 にあるなら、気落ちせず、へこたれず、待ち望んで行ける。「あな たこそ私の神です」と窮地の時にこそ告白しよう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ 信仰生活で、様々な問題が起きるが、それは、その問題を通して 「あなたこそ私の神です」と言えるためだ。一つ一つの試練を通し て、結果的に「あなたこそ私の神です」と経験し、知れるなら、幸 せだ
2017年02月25日(土) 「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテ モテ6:5
「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」Tテ モテ6:5
「敬虔を利得の手段」とするとは、神様のためにする行ないを、人 に評価され賞賛を得るためにすることだ。人からほめられたいがた めに、良い行ないをする。人から認められたい。反対に「満ち足り る心を伴う敬虔」とは、心が御霊によって満ち足りているので、人 によって満たされる必要がない。 私たちの心は、何によって満たされているだろう。人からの賞賛や 評価で心を満たそうとすると、絶え間のない紛争が生じると言って いる。つまり、人の目を気にし、自分が少しでも高く評価されよう とするので、そこに人との比較が入り込む。 自分が低められたと感じると、相手を許せずに、憎しみを抱く事に なる。人からどう見られているかが、すべてなので、気になって仕 方がなく、人に対して疑心暗鬼になってしまう。評価されているの か、いないのか、不安でたまらない。心に平安が無く、不安定で、 揺れ動く。そしてプライドが高いので、些細な事で傷つく。 自分が認められない原因を周囲のせいにする。しかし、そこには何 の解決もなく、満たされない思いばかりが残る。満ち足りる心は、 聖霊に満たされる事から来る。「自分、自分」に問題があり、自己 中心を認め、明け渡して行く時、主のみわざが起きる。御霊によっ て心が支配されて行く。その時、人にも、状況にも関係無く、自分 の心には、何ものにも代えられない満足と平安がある。 ・・・・・・・・・・・ 満ち足りる心は、御霊に導かれる事からのみ来る。人やこの世のも ので、心満たそうとすると、満たされるどころか、更に心渇く。神 のかたちに造られた心を、主だけが満たす事ができる。隅々まで奥 底まで、平安に満たして下さる。主に求めよう。
2017年02月24日(金) 「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主のようなものです」マタイ20:1
「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主のようなものです」マタイ20:1
ペテロが「何もかも捨てて従って来た。ついては何がいただけるか」 と言った事に、主が語られた箇所だ。早朝6時から3時間おきに、 次々と労務者が雇われ、最後は5時に雇われる。もう片づけに入る 頃だ。仕事が終わると「あとの者が先に」5時の者から順次賃金が 払われ、早朝の者も全員が1デナリだった。 が、彼らの反応は怒りだった。自分たちは暑さと労苦を辛抱したの にと。契約の1デナリではなく、5時の者と同額なのが納得行かな い。しかし早朝の者は1日1デナリの契約であり、主人は不当な事 はしていない。又、5時の者は怠けていたのでなく、働きたいが雇 ってもらえない。主人の心は5時の者にも同じだけ上げたかった。 労使の雇用関係である早朝の者は、この主人の恵み深さがわからな い。これは「天の御国は」と最初にあり、神の国の事を言っている。 この世で、これが起きるなら賃金体系が混乱してしまう。この世の 価値観では量れない世界だ。主人の心はあわれみと慈しみに満ちて いる。 当時の1日の給料が1デナリだ。家族も待っているであろう、その 1日分に必要な糧を、5時の者にも与えたかった。この世は利潤追 求だが、主人は余りにも豊かで、与えたいばかりだ。神の国は恵み が支配する世界だ。この世とは全く異なる、あわれみと慈しみの世 界だ。 そして、ペテロが、何もかも捨てて従って来る事ができたのも、実 は主の恵みのゆえだ。自分の力ではなく、恵みがあったからこそ、 そう出来た。誰も自分を誇ることは出来ない。「あとの者が先に」 恵みの世界は、神への感謝しかない。 --------- 救いも日々の悔い改めも、喜びも感謝も自分の力では出来てはいな い。五時からの者は私だ。主は早朝の者と同じあわれみを注いでく ださっている。ただ主の恵みによって生きている。
2017年02月23日(木) 「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩篇39:7
「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」詩篇39:7
ダビデは、苦しみの中で「なぜ、どうして、こんな目に会うのか」 との思いでいっぱいだった。しかし、舌で罪を犯さないように、口 に口輪をはめた。だが、黙っていると、痛みは激しくなって、爆発 しそうだった。そこで自分の舌で、人にでなく、神に思いを吐き出 した。気持ちの洗いざらいを告げた。 人生は、いかにはかなくて、虚しいかと。どんなに盛んであっても、 全く虚しいと。そんな虚しい人生で、何を待ち望み、何を望めばよ いのか。そして祈りの中で、見上げた時に、神を見い出した。「主 よ。私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです」と。 そして、ことごとくを祈りに持って行った後、「私は黙し、口を開 きません」と言っている。 それは罪を犯すから、口を開かないのでなく、「あなたがそうなさ ったからです」と、信仰に立っている。すべてに神の主権を認め、 神のご計画がある事を認め、それを受け入れている。人から受ける 苦しみも、信仰によって、神からのものと受け止めている。苦しみ の中にも、そこに神を認める時に、「あなたのむち」「あなたの手 に打たれ」と、神を見い出して行く。 するとそこには意味があり、むちも、打たれる事も、豊かな祝福へ と導かれて行く。今、起きている事を「あなたがそうなさった」と 受け止めて行こう。その時、「私の望み、それはあなたです」と主 に向かって行ける。そして祝福を見い出す。 ------------- 失敗の時も窮地の時もどんな時にも心から祈り、祈った後は主がさ れることに信頼してダビデのように晴れ晴れとしていたい。一つ一 つが訓練に、また神を知る時としていきたい。
2017年02月22日(水) 「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」ヨハネ17:16
「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません」ヨハネ17:16
私たちはこの世にあって、この世で生活しているが、この世の者で はない。天国人だ。しかし、世から抜け出し、世と断絶するのでは ない。又、世に流され、世にどっぷり浸かるのでもない。私たちは、 この世にあって、この世の人々と同じように生活する。しかし、そ の原理が異なっている。 私たちは「神の言葉」が、自分を動かす原理だ。この世の原理でな く、御言葉がどこまでも基準だ。御言葉の価値観で生きて行く。だ から、この世にいるが、世とは全く違っている。私たちは天を目指 し、天での報いを目指して生きるが、この世は地を目指し、この世 での栄光、賞賛、豊かさを目指す。全く逆方向だ。 主が祈られた。「真理によって彼らを聖め別って下さい。あなたの 御言葉は真理です」。御言葉が真理だ。常に、自分の内に根本的原 則が必要だ。確固たるものが無いと、容易に流される。特に日本人 である私たちは、周囲と同じである事が善であり、同じだと安心す る。カメレオンのように周囲に合わせてしまう。 御言葉に基づいて、思考し、判断し、行動しなければ、世に飲み込 まれてしまう。日本には米軍基地がある。日本国内だが、そこは本 国の法律下にある。同様に、私たちはこの世にいるが、御言葉が支 配する神の国の領域にいる。人々を愛し、人々に仕え、証しをして 行く。しかし飲み込まれてはならない。真理の言葉に従って行く時、 御霊が助け、正しく導いて下さる。 ------------- 周りの人や世の中の価値観に振り回され、なんと多くの人が疲れて いることだろう。この世にあって御言葉の指針、御霊の導きを聞き ながら歩める人生は幸いだ。押し流されることのない歩みをしよう。
2017年02月21日(火) 「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」ルカ19:6
「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」ルカ19:6
ある人が、ずっとネガティブ思考で生きて来た。こんな自分だから ダメなのだ。もっと能力があり、もっと性格が良かったら、明るくて、 皆を楽しませれば・・周囲に好かれ、愛されるのに。優しくない、素 直でない、暗い自分、自分が嫌いで、自分の嫌な所ばかりが目につい た。 人に好かれたくて、何とかしようとするが、うまく出来ない。突っ 張ってしまい、ますます自己嫌悪に陥る。せっかく近づいてくれる 人に、屈折した態度を取ってしまい、素直になれない。当然、相手 は戸惑い、離れ去ってしまう。本当は親しくなりたいのに、相手を 傷つけ、自分も傷つく。 そんな中にいたある時、友人に誘われて行った教会で、「ザアカイ。 急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まる」との言葉 を聞いた。ザアカイの名を呼ばれ、孤独で寂しい虚しい心の内を、 知っておられた事、ザアカイを決して裁かず、責めず、「あなたの 家に泊まる」とザアカイを受け入れられた事を知った。 あなたの家に泊まるとは、あるがまま受け入れているとの愛だ。主 ご自身の赦しの愛に触れた時、ザアカイは悔い改めた。そして、貧 しい人に施したいとの愛が流れ出た。今まで貧しい人の事など、思 いも及ばなかったのに。ザアカイは変えられた。 ザアカイと自分が重なり、生まれて初めて主の愛を知った。主はあ なたの、その心の内の何もかもをご存じで、あるがまま受け止め、 愛し慈しん下さっている。 ------------- 主は私たち一人一人をこよなく愛し自分で認めたくないところも祈 る前から知っておられる。ザアカイと名を呼び受け入れられた喜び はそのまま私たちの喜びだ。主よと応答したい。
2017年02月20日(月) 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28
ある人が、子供の頃から優等生だった。成績も良く、学校や親戚や 近所の人々からも、皆に、「良い子」と言われて育った。常に誰か らも良い子と言われるので、自分でも良い子だと思っていた。非行 に走るわけでなく、別段、悪い事もせず、人からの評判も良く、良 い人間だと思い、大きくなった。 ある時、友人に誘われて、教会へ行く機会があった。そこで話され た「罪」ということが、まるでわからなかった。自分は良い子であ ろうと、懸命に頑張って来た。人よりましで、良い人間だと信じて いたので、「あなたは罪人です」と言われた時に、ムッとなった。 そんな中で、受験を迎え、通ると思っていた志望校が不合格だった。 そして友人が合格した。 その時に、妬みがうずを巻いた。プライドがあり、表には出さない が、妬み、羨望で、絶対に喜ぶ者と共に喜ぶ事など出来ない。友人 を祝福できない自分を知った。心は苦いものでいっぱいで、悶々だ った。その時に、「罪」という事がわかり、紛れもなく、自分が罪 人であることがわかった。その時に主を信じ救われた。罪を悔い改 めた時に、苦しかった心に平安が来た。 次志望校に入学し、主の導きにより、そこで聖書研究会を開く事が できた。救われる人々が起こされて行き、すべてが主の導きである 事に思いが至り、感謝が溢れた。不合格が、結果的に大きな祝福と なり、万事益を見せられた。私たちの信仰人生も、一つ一つのピー スに意味と目的があり、主の御手により、ピースが埋められて行く。 ------------ 悔い改めのとき、また試練を抜けた時も背後で導かれた神を知って 深く感謝する。人も状況も全てを用いられるのは神であるから、例 え今は分からなくてもすべては良いことに進むと確信し励まされる。
2017年02月19日(日) 「ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に 七たび身を浸した・・するときよくなった」U列王5:14
「ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に 七たび身を浸した・・するときよくなった」U列王5:14
アラムの将軍ナアマンが、らい病にかかった。捕虜の若い娘が、預 言者エリシャなら、らい病を治せると、女主人に告げた。それを聞 いて、王の快い許しのもと、ナアマンは、馬と戦車を率いて、たい そうないで立ちで、エリシャを訪ねた。ところがエリシャは姿も見 せずに、使いの者を送り「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を 洗え」と。 この上ない礼節を尽くしているのに、何と無礼なと、そしてヨルダ ン川とは。もっときれいな川があると、ナアマンは怒りが爆発だ。 怒りで引き返そうとすると、しもべが進言する。難しい事ならした だろうに、簡単だからつまずいている。従ってみてはどうかと。ナ アマンは耳を傾け、我に返る。らい病が癒されたくて、ここにまで 来たのだ。このまま帰っても、待っているのは絶望ではないか。 そこでエリシャに言われた、その通りに従った。すると彼の身体は 元どおりになって、きよくなった。奇跡が起きた。私たちもしばし ばプライドが邪魔をする。素直に従えない。危険ならい病だ。簡単 な事なら自分を誇れない。難しい事なら、自分を大きく誇れる。 肉は、行ないによって自分を誇りたいし、賞賛を受けたい。しかし、 自分の方法でなく、自分の行ないでなく、ただ神の言葉に、神の方 法に従う時にみわざが成る。神の御心が、私たちを通して実現して 行く。思い通りでない時、主の示しのほうに従おう。 ・・・・・・・・・・・・ 自分の思いと神のみ思いがある。それらはしばしば正反対で衝突す る。その時に自分の思いを捨てて、神の御心を取るなら、神のみわ ざを見るが、なかなか難しい。自分の思いの方が良いと思えるから だ。従えるよう助けを求めて祈ろう。その祈りに答えて下さる。
2017年02月18日(土) 「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7
「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。 そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」ヤコブ4:7
サタンは、とにかく私たちを神から離そうと攻撃して来る。サタン のあの攻撃、この誘惑も、結局は神から私たちを離すためだ。エデ ンの園で、エバに来た「どんな木からも食べてはならない」のかと、 巧妙に語りかけて来る。神は「あなたはどの木からでも思いのまま 食べてよい」と言われた。正反対だ。 あれもダメ、これもダメ、サタンは私たちをネガティブ思考に引き 込む。そしてサタンは、「ほんとうに言われたのですか」と言った。 「ほんとうに?」と、常に疑いを引き起こして来る。私たちにも、 しょっ中、来ている。「本当に神に愛されているのか?」「本当に すべての必要が満たされるのか?」「本当にこの問題が導かれるの か?」「神を信じていて本当に大丈夫なのか?」・・ネガティブな思 いに囚われる。 御言葉に立っていなかったエバを巧く誘導して、「決して死にませ ん」と強く断定し、「神のようになり、善悪を知るようになる」と 誘惑した。神の言葉の全面否定なのだが、この時点ではもうわから ない。その言葉を聞いた上で、木を見ると、「良く、慕わしく、好 ましく」思われ、もう行動しかなかった。善悪を知る木の実を食べ た結果、霊が死に、神から離れてしまった。 サタンの言葉を受け入れて行くと、罪が、いかにも良いように、魅 力的に、好ましく見えてしまう。要警戒だ。ずるずると聞いて行っ てしまうと、サタンの偽りにやられてしまう。語りかけを受け入れ ず、拒否することだ。反対することだ。日々、御言葉に教えられ、 神に従って行く時に、サタンに勝利して行ける。日毎に主に拠り頼 んでいよう。 ・・・・・・・・・・・・・ 「子どもたちよ」と言われ「あなたがたは神から出た者」と。「そ して彼らに勝った」「あなたがたのうちにおられる方が、この世の うちにいる、あの者よりも力があるからです」と。内におられる方 に力があり打ち勝って行ける。拠り頼んで行こう。
2017年02月17日(金) 「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」イザヤ30:21
「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く」イザヤ30:21
その前節に「主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜っ ても、あなたの教師はもう隠れることなく・・」とある。ユダは、 攻略して来るアッシリヤの包囲によって、食料が乏しい状態に陥っ た。困窮の非常事態にあり、今、必要なのは、まず食料と思われる。 しかし何よりも第一に、神の言葉を聞いて行く時に、必ず神の助け と守りがあることに目が向いて行く。「幸いなことよ。主を待ち望 むすべての者は」とあり、私たちが主を待ち望むなら、後ろから主 のことばを聞くようになると。私たちも信仰生活で、主は「これが 道だ。これに歩め」と、導くと言っている。 よくよく祈って行く時、御言葉や、御霊の語りかけや、環境を通し て、歩むべき道が示されて行く。だが、急いている時はどうだろう。 祈っている場合ではない、とにかくまず目の前の事をしてしまわな ければ、との強い思いが来る。目の前の事が気になって仕方なく、 済まさなければ気が済まず、身体がどんどん動いてしまう。主が語 ろうとして下さっているのに、目の前の事しか見えていない。 まず聞いて導きを求めよう。又、私たちの耳に、聞こえて来るのは、 神の声だけではない。神の御声、サタンの声、自分や他人の、人の 声がある。そして神の御声を聞いた時にも、サタンが来て、「本当 に?」と、神の御声かとの疑いを起こさせる。紛らわしくややこし い。しかし、求める心に、必ず導きが与えられる。「これに歩め」 と御声をかけて導かれる。 ------------ 肉の声もサタンの声も、落ち着いている場合ではないと言う。瞬間 に誘導される声こそ「本当に?」と疑うことが大切だ。主の御声を 聞き分けられるよう、いつも識別を祈り、御言葉の身近にいよう。
2017年02月16日(木) 「ああ。反逆の子ら。―主の御告げ―彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず・・わたしの指示をあおごうとしない」イザヤ30:1
「ああ。反逆の子ら。―主の御告げ―彼らははかりごとをめぐらすが、わたしによらず・・わたしの指示をあおごうとしない」イザヤ30:1
強大なアッシリヤがユダ王国に攻めて来た。すでに北王国を滅ぼし、 ユダにまで攻め下って来て、エルサレムを包囲しようとしていた。 この危急の事態にどうすればよいのか。様々な「はかりごとを巡ら し」、エジプトに助けを求めようとした。神を仰がず、神に助けを 求めるのでなく、目に見える所で算段し、肉の思いと知恵で動いて 行った。 エジプトと同盟を結ぼうとする。しかし、神無しのはかりごとであ った。それは「罪に罪を増し加えるばかりだ」と。そしてその行為 を「反逆」だと。「わたしの言うことをないがしろにし、聞こうと しない」と。私たちにも、突如アッシリヤの強大な脅威が迫るかも 知れない。難しい対人関係の悩み、仕事上の困難、経済的困窮だろ うか。 その際、主に聞こうとせず、自分の知恵、自分の判断で、勝手に動 くなら、それは小さな事ではないと。何とかしなければと、焦って しまい、自分の知恵と力で、目に見えるところで動いてしまいがち だ。どうすれば良いのか。「立ち返って静かにすれば、救われ、落 ち着いて信頼すれば、力を得る」と。 まずは、静かにせよ。動き回るなと。動かずに、祈り、主を信頼せ よ。主を待ち望めと。そうすれば救われる。力を得る。ご自身に信 頼して欲しいと願っておられる。今、自分のプランで、神無しで動 こうとしていないだろうか。立ち止まって、主を仰ごう。 -------------- 危急の事態がくると即刻立ち上がる。心配で何かしなければと。ま ず祈り心を落ち着けよう。御霊様により主が共にいる平安と力がく る。することはまず静かに祈ることだ。
2017年02月15日(水) 「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」箴言12:15
「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる」箴言12:15
御言葉は「もし、誰かが過ちに陥ったなら、その人を正してあげな さい」と言う。その場合「柔和な心で」と。往々にして、すぐに肉 が反応してしまい、腹を立てて、正そうとしてしまう。その肉を正 義感と思ってしまう。または、密かに自分の方がましと、高ぶり、 心の中で裁くだけかも知れない。そして、他の箇所によると、その 人のところへ行って「ふたりだけのところで、責めなさい」と。 責めるとは過ちを示すことだ。それは「兄弟を得るため」と。兄弟 の回復のためで、裁くためでなく、建て上げるためと。「御霊の人 であるあなたがたは」とあり、人を正す時は、御霊に導かれる事が 大切だ。自分も過ちを犯す者である事を覚え、へりくだって、愛を 持っての対応せよと。 盲目的な愛は、単なる甘やかしになってしまう。「愛をもって真理 を語り」御霊の愛によって、はっきりと語るべき事を語り、御霊に 導かれる事が大事だ。ある人が、主に在る友に、間違っている事を 忠告するよう、御霊に示された。相手にとって急所で、突かれたく ない最も痛い所だ。 言うと関係が終わってしまうのではと思うが、幾ら祈っても御霊の 示しは変わらない。御霊に押し出され、愛をもってはっきりと語っ た。思った通り、相手は激怒した。しかし相手はずっとその事を考 え、悔い改めに導かれた。そして忠告を心から感謝して来た。御霊 の示しがあるなら、従おう。 ----------- 御霊の示しがあるなら愛する兄弟姉妹のための忠告は義務ではない だろうか。肉のあらゆる思いを吟味し捨てて主と共に果たそう。祈 りを重ねて語られる忠告は受ける方にも宝として受け取りたい。
2017年02月14日(火) 「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10
「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた」Tサムエル1:10
日々の生活で、次から次へと思い煩いが湧くがどうだろう。「何も 思い煩わないで」と言われても・・が現状だろうか。その問題を考 えたくなくて、考えまいとするだろうか。しかし考えたくないが、 思いに上っては心に影を落とす。心は落ち込む。又、問題をすぐに 解決して、悩みを無くしたいが、簡単に解決などつかず、ますます 思い煩う事になる。心は重く苦しい。 主の対処法は、感情も気持ちも、ことごとく主に告げよというもの だ。思い煩わず「願い事を主に知っていただけ」そうすれば、「人 のすべての考えにまさる神の平安」が約束されている。ハンナは、 悩み苦しみが頂点に達し、決意し祈りのために立ち上がった。 心を注ぎ出し、悲しみ、恐れ、怒り、いらだちを、あるがまま主に 告げた。感情も主にぶつけている。そして自分自身を委ねて行った。 ある人が「思い煩いを委ねます」と祈り、その時は落ち着くが、す ぐに心配が戻って来る。又、「委ねます」と祈り、楽になるが、又、 戻る。その繰り返しに、口先での委ねますの祈りだと気づかされた。 問題を放さず、決して委ねてなどいない。自分は委ねる事が出来な いと思い知らされ、その事を主に祈った時に、初めて変えられて行 った。試練は苦しいが、主に近づけられる。自分の姿が見せられ、 そして親しく主を知って行く。ハンナは、心すっきりして家に帰れ た。今、もやもやしているなら、そのまま主に告げて行こう。 ------------- どうしても欲しい結果があり、こんな自己中な悩みなどとても祈り には持っていけないと思う。目先の対処法を模索し、やがていき暮 れてしまう。問題を手放すためにも、ありのままの本音を主に話し てみよう。
2017年02月13日(月) 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4
「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」詩篇37:4
私達は何を喜んでいるだろう。神の与えて下さる祝福、神の与えて 下さるものを喜んでいるだろうか。「与えられるもの」に目を留め ているなら、もし、それが与えられない場合には、必ず大きな不満 に陥る。なぜ?どうして?与えられないのかと。自分の思い通り、 願い通りにならなければ、反抗するし、神を疑ってかかる。すぐに 不信仰に陥る。 今まで何度も経験あるだろうか。あなたがいつも目を留めているの は、神の下さるもの、祝福だろうか。どこまでも、下さるものを追 うばかりで、それはどれだけ与えられても、決して満足しない。心 満たされることはない。なぜならそれは与え主である神ご自身を求 めていないからだ。私達が喜ぶのは、祝福ではなく、祝福の与え主 である神ご自身だ。 私たちが、神ご自身を喜んで行くなら、自分の思い通りにならなく ても、又、もし願ったものが与えられなくても、失望する事は無い。 決して無い。あなたの信仰態度はどうだろう。弟息子のように、父 ではなく、父の財産を貰って喜んで、父のもとを離れて行くだろう か。 問題の解決を求める事も、良い求めに見えるが、問題解決を求めて いるのであって、神を求めているのではないことがある。解決すれ ば神を離れる。何を喜んでいるのだろう、御霊に心を探って頂こう。 そして主ご自身を喜びとして行けるよう祈って行こう。 ---------- 祝福され与えられた物に目が行き喜んだり悲しんだりしてしまうが、 どんな時にも信仰の目はまっすぐに主に向かいたい。与えてくださ る主ご自身を喜び知って行くことで主に栄光を帰す者になりたい。
2017年02月12日(日) 「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげ を与えられました」Uコリント12:7
「そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげ を与えられました」Uコリント12:7
私たちは様々な境遇に遭遇する。ある時は、技術や能力を必要とさ れる難しい仕事に直面する。自分に合っていないと思う。他の部署 だったら、他の分野だったら良かったのにと悩み、悶々の日々だ。 また、対人関係でも、何でこの人がという相手が目の前に置かれる。 苦手で全くうまく対応できない。この人さえいなければ、自分の人 生快適なのに、日々悩まされる。 ストレスが身体にも出て来て体調不良になって来る。パウロではな いが、「これを去らせて下さい」と祈りに祈る。しかし、取り除い て下さいの祈りは、幾ら祈っても聞かれない。その祈りの答えは 「ノー」なのだと知る。ちゃんと答えて下さっている。そこで祈り を変えて行く。 では、この状況で、教えようとされている事を教えて下さいと。現 状と、思いを、まず祈りに持って行ったからこそ、「ノー」の答え を得て、次の展開へと導かれる。何よりもまず、率直に主のもとに 持って行く事が大切だ。祈りが変えられて行くと、段々と見えて来 る。 自分の砕きのために、「これを」去らせて下さいと願った「この」 事こそが、必要であった事。いかに自分が強情で自我の強い者であ るか、自分の内側が照らされた事。この試練を通して、真剣に主に 拠り頼むことを身をもって経験できた事。もしこれが無ければ、自 分は高ぶったままであった事に行き着いて、後の日には心からの感 謝を献げることになる。 ・・・・・・・・・・ これまでを振り返った時に、これさえ無ければという、その事によ り、高ぶりから守られたと知る。高ぶらないためのとげであった事 を知る。主のみ思いは何と深い事だろう。いつの時も恵みは十分で あった事を知る。
2017年02月11日(土) 「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、 もう一人は取税人であった」ルカ18:10
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、 もう一人は取税人であった」ルカ18:10
パリサイ人も取税人も、どちらも宮に来た。どちらも神の御前に立 って、祈った。パリサイ人は神に感謝を献げたのであるが、じかし 実際は神の御前に立っていない。見ているのは神ではなく、「他の 人々」であり「取税人」であった。パリサイ人は、ゆする者でなく、 不正をせず、姦淫もしない、正しい人であった。しかし、外側立派 でも、心の中は誰しも罪だらけだ。 「他の罪深い人々のようではないことを感謝します」と、あの人よ り、この人より自分はましと、人を見て、人との比較に自分を置く 時、自分がどんなに罪深いかが見えなくなる。逆に優越感でいっぱ いになり、人を見下して行く。光である神の御前でない限り、罪は 見えない。光に照らされて初めて、自分の罪がわかる。 取税人は、目に見える、自他共に認める罪人であった。税金を不正 に取り立てていた。遠く離れて立ち、目を天に向けようともしなか った。人との比較など思いも及ばない。神の御前にいて、ただただ 自分の罪が見えて、自分の罪深さが見えるばかりだった。パリサイ 人も目に入らず、「こんな罪人の私をあわれんでください」と神に 祈った。 「こんな罪人の私」と、ただ神のあわれみを求めた。この取税人の 祈りが聞かれ、彼は罪が赦され、義と認められて、家に帰った。何 と平安と喜びに満たされた事だろう。私たちが正しく生きることが できるのは、主と共にあることによる ・・・・・・・・・・・ 自分で自分の姿はわからず、人との比較でもわからず、ただ主の御 前に立つ時、自分の本当の姿が照らされる。御霊の光のもとでは、 人など思いも及ばず、自分の罪だけが見える。その罪が赦され義と される喜びはいかばかりだろう。
2017年02月10日(金) 「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」Uコリント7:10
「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」がある。前者は 「悔い改め」に至り、後者はただの「後悔」だ。世の悲しみ=後悔 は、どこまでも自己中心だ。結果がまずい事を、悔いるだけで、自 分が悪いとは思っていない。悪いと思っていないので、同じ事を繰 り返す。そのためどんなに悔いても、そこに救いはない。 神の御心に添った悲しみは、まず神に向き、自分が悪かったと認め る。罪を犯したのは、あくまでも自分であって、人のせいでも、状 況のせいでもない。それを認め、神に悔い改める。その結果、罪は 赦され、新たにされる。犯罪を犯し、警察沙汰を起こした少年が、 少年院に入った事は嘆くが、それを犯した自分自身の罪を認め、悔 い改めていなければ、同じ事を繰り返してしまう。 悔い改めとは方向変換だ。神に向き、今までと反対方向へ向かうこ とだ。悔いは感情だけだが、悔い改めは感情と意思、行動が伴う。 これは神のわざであり、人が選択するなら、御霊は助けて下さる。 ユダは主を裏切って、悔いたが、悔い改めは無かった。主に向いた のでなく、律法学者のもとへ行った。それは死をもたらしてしまっ た。 悔い改めは、豊かな実を結ぶ。失敗をも益として下さり、失敗によ って、間違った方向へ向かっていた人生を取り戻させて下さる。何 という恵みだろう。そのまま行っていたなら、どうなっていた事か。 豊かな赦しを受け取って、前に進める。それは救いに至る悔い改め だ。 ------------ 実を結んでいく悔い改めが大切だ。悔し涙でも言い訳でもなくただ 神に向かって憐れんでくださいと祈れる。くり返す失敗の後悔は豊 かな実を結んでいるだろうか。
2017年02月09日(木) 「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」ローマ7:21
「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです」ローマ7:21
原理と言うのは法則の事だ。法則とはどんな時にも、例外なく当て はまるものだ。一つでも例外があれば、法則にならない。私たちの 中に原理があると言う。善をしたいのに、悪が宿っているという原 理だ。善をしたいのに、実行できない。敵を愛せよとあるが、愛せ ない。敵のためになど祈れない。傷つけられると決して赦せない。 何とかしようと頑張るが不可能だ。それは悪が宿っているからだと。 罪と死の原理の中にいる。それを徹底的に経験したパウロは「私は 惨めな人間、誰がこの死のからだから救い出してくれるのか」と叫 んだ。「誰が」と言い、自力では不可能だと行き着いた。そこで解 決を見た。 主は、「命の御霊の原理」の中に私たちを置かれ、罪と死の原理も 現存するが、そこから解放して下さったのだと。御霊に導かれる時、 悪が宿っている原理の中いはいない。そのため自力でなく、御霊の 力によって、御心を行なって行ける。人を赦したり、敵を愛する事 が御霊によって可能だ。ここに大きな希望と救いがある。そのため の主の十字架だ。 そしてこれらは、主が取り扱い、少しづつ少しづつ自分が変えられ て行くことを経験して行く。確かに変えられて行く。いつしか愛せ なかった相手を愛する事ができるようにされる。時間もかけながら、 主は導かれ、赦せなかった相手が赦せるようになって行く。神のみ わざにあずかって行く。 ------------- 御言葉に従おうとすれば、昨日はできても今日はしたくない自分に 気付く。それが例外の無い人の原理なら認めることは恥ずかしいこ とではない。何度でも主に助けを求め、そのつど聖霊様の導きに自 分を明け渡していこう。
2017年02月08日(水) 「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」箴言14:4
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる」箴言14:4
牛や馬を使って、農業をしていた頃は、牛や馬を飼育しなければな らない。牛舎や馬小屋は日々汚れる。常に掃除し、えさをやり、糞 を片付けなければならない。毎日、毎日、骨の折れる作業だ。重労 働であり、手がかかる。しかし、牛や馬は、農作物の収穫のために は、どうしても必要不可欠だ。それによって収穫ができる。 しばしば余りの大変さに、牛さえいなければと思う。きれいなまま だ。飼葉おけを汚したくなければ、牛や馬はいないほうが良い。し かし、「牛の力によって収穫は多くなる」。多くの収穫を得るため には、牛や馬は重要な存在だ。人の手だけでは、収穫に限りがある。 同様に、私たちは、何かを成し遂げようとするなら、犠牲が必要と される。手間ひまかかり、面倒で、煩雑なこともあり、様々な関わ りが出て来る。まさつが起き、問題も起きてくる。しかし、牛がい なければ、何の手間も、面倒なこともないが、収穫は全く期待でき ない。そのように、私たちも喜びや感動や成長がない。 人生、ひたすら問題の無い事、安穏無事だけを願うなら、飼葉おけ はきれいなままだが、収穫を得ることはない。喜びを味わう事もな い。今、何かすべき事が示されているか。骨が折れ、手間がかかる だろうか。あるいは、対人関係の関わりだろうか。困難があるかも 知れないが、しかし、豊かな収穫が備えられている。実を結んで行 く。目の前の、御心に従おう。従って良かったと必ず思う。 -------------- 平穏で乱されることの無い計画のなかでは傷つくことも無い代わり に喜びもまた少ないのではないか。主に示されたことは一見、犠牲 を伴うように思えても、ひるまず従おう。思いをはるかに越えた祝 福も共に来る。
2017年02月07日(火) 「そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである」マルコ14:40
「そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである」マルコ14:40
ペテロは、弟子たち皆が主を裏切っても自分だけは違う。自分は決 して裏切らないと豪語した。「私は」どこまでもついて行く。命を かけても、「私は」あなたを知らないなどと言わない。「私は」何 があっても大丈夫。ペテロは自分の弱さを知らなかった。自分に自 信があり、自信満々であった。 「自分は」他の弟子たちとは違う、そこに高慢が潜んでいた。「シ モン眠っているのか、まだ眠っているのか」との主の言葉の通り、 ゲッセマネで、主が祈りの苦闘中、眠り込んでいた。主はご自分の 姿を、心の内を弟子たちの前にさらけ出され「わたしは悲しみのあ まり死ぬほどです。ここを離れないで目をさましていなさい」と、 弟子たちが一緒に祈ることを願われた。 ご自分の弱さを認められ、御父に拠り頼み、祈りに持って行かれた。 弱さを認めた、祈りの苦闘の中で勝利され、「立ちなさい。さあ行 くのです」と、十字架に向かって真っ直ぐに歩み出された。主とペ テロの違いは、ペテロは自分の弱さを知らなかった。自覚がないた め、祈りが無かった。主は弱さを自覚され、切に祈られた。 眠気が問題なのでなく、「自らの弱さ」を知らない事が問題であり、 致命傷だった。弱さを認めなければ、祈りの必要が無い。自分の弱 さは見たくない、認めたくない。しかし、自らの弱さを認めて、初 めて祈ることができる。そしてその祈りは聞かれる。 ----------- 流してしまっている弱いところで何度も躓いている。主の苦悩と祈 りの姿を思うと、いかに弱さに鈍感で祈り求めることが少ない自分 であるか。弱さを見過ごさず少しでも高みを目指して祈り求めたい。
2017年02月06日(月) 神を愛する人々・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28
神を愛する人々・・神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」ローマ8:28
ある人の子供が、進路で挫折した時に、どんどん道をそれて行った。 問題行動を起こし、暴走族グループに入り、家を出た。やがて薬物 で、警察沙汰を起こし、逮捕された。親は、悩み、苦しみ、思い煩 い、そして、どうしてこんな事にと、心の内で子供を責めてしまう。 怒りも湧く。 又、自分も責めて、落ち込んで行く。体面もズタズタだった。非常 な苦しみと悲嘆の中で、主の御前に行き、心を打ち明け、祈りに祈 った。絶望、怒り、落胆、嘆き、悲しみ・・、混乱状態の心の内を、 あるがまま主に告げて行った。 祈り続けていた時に、「わたしはあなたがたのために立てている計 画をよく知っている・・それは災いではなくて、平安を与える計画 であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」と語られ、 この事も主のご計画の中にあり、平安と将来と希望のためのものと 信じることができた。 その信仰も与えられたもの、主からのものだった。その時、現状は ぐじゃぐじゃなのに、心が不思議に落ち着いて平安になった。主の 平安だった。そして受け入れられなかった現状を、子供自身を、あ るがまま受け入れることができた。 変えよう、変えようとしていた子供を、現状のまま受け入れる事が できた。自分自身も砕かれ、変えられた。自分でなく、神の力だっ た。それから子供は変わって行った。悔い改めて、立ち直ることが できて、新しい歩みに導かれた。主に在る時、万事益、御言葉の通 りに成った。 ------------ 神は目的を持ってご計画され支配され、必ず御自分の目的を成し遂 げられる。自分ではない。だから希望があり待ち望んでいける。不 安の中でも「私たちは知っています」と望みを持って言いたい。
2017年02月05日(日) 「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなた のために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たち を力づけてやりなさい」ルカ22:22
「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなた のために祈りました。だから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たち を力づけてやりなさい」ルカ22:22
ペテロは、鶏の声を聞いた時、以前、主に言われた言葉に思い至り、 主を否んだ罪を自覚し、心底悔いた。男泣きに泣いた。私たちは失 敗する。弱さのゆえにどうしても失敗してしまう。失敗しない人は いない。しかし、そこで、罪を認め、悔い改めるなら、大きく成長 して行く。 それで終わりなのではない。主のあわれみは尽きず、主は豊かに赦 し、尚も、その事をも益として下さる。失敗を通して、私たちはへ りくだる。へりくだらざるを得ない。高ぶっていることができない。 自分の愚かさに、恥ずかしく、ただただへりくだるのみだ。ペテロ は自分の弱さを知らなかった。主に、命をかけて従って行けると自 信満々だった。そう思っていた。 そのところを、主は取り扱われた。自分の強い思いと、自分の力だ った。ペテロはそこを砕かれた。自信は砕け散った。そしてその砕 かれたペテロが用いられた。ペテロは聖霊に満たされて、今度は自 分の力でなく、力強い聖霊の力によって、主の働きを成し遂げて行 った。 驚くばかりにペテロは変えられた。私たちも失敗してしまう。しか しそこで悔い改めるなら、その失敗は私たちを謙遜にする。失敗が 問題なのでなく、その後、どのように生きて行くかが問題だ。主は 罪赦し、再び立ち直らせて、立ち上がらせて下さる。私たちは、赦 されて赦されて生きて行く。 ・・・・・・・・・・・・・ 不注意なミス、良かれと思った事の失敗、気づかずにした過失、何 度も経験する。失敗してしまう。しかし悔い改めて、そこから学べ と言われる。主の愛は変わらずあわれみは尽きない。主に在るなら 失敗は終わりでなく、そこに多くの学びと恵みを見い出す事とされ る。
2017年02月04日(土) 「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、 『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた」使 徒2:40
「ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、 『この曲がった時代から救われなさい』と言って彼らに勧めた」使 徒2:40
私たちは、今、この世にいる。この世とは、ペテロが「この曲がっ た時代から救われよ」と言った世だ。そして主も「ああ、不信仰な、 曲がった世」と言われた。サタンが支配し、力をもった世界だ。見 える所だけを見るなら、不法、不義、不正、矛盾に満ちた罪の世界 だ。私たちは、闇の勢力の支配する世にいる事をよく認識し、よく 祈り、識別して行かなければならない。 背後にサタンの支配する「曲がった」この世は、常に私たちを誘惑 し、攻撃する。物事をまっすぐに、信仰的、肯定的、に見させない。 つまり、物の見方を曲げて来る。心を屈折させ、否定的に見せる。 ひがんだり、疑ったり、心を頑なにする。心を歪ませる。そしてつ ぶやきと不満ばかりを見せて来る。 今も、あなたの心にこのような思いがあるだろうか。いら立ち、つ ぶやき、疑心暗鬼・・サタンからの攻撃だ。不信仰へと誘って来る。 このような世だからこそ、御言葉に立った信仰的見方、態度が必要 であり、大切だ。 「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、 また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとな り」、いのちの言葉をしっかり握ることが大事だ。そうすれば世の 光として輝けると。「曲がった」に、心を留め、サタンの攻撃を識 別できるよう祈ろう。 ・・・・・・・・・・・・・ 偽り、自己中心、不真実へと心が曲がる時、まっすぐなもの、主と 御言葉があるから、曲がっていることがわかる。御言葉に照らされ なければ気づけない。御霊の気づきが与えられ、曲がっている事に 気づける事が感謝だ。いつも主と御言葉に向きを変え、従って行こ う。
2017年02月03日(金) 「しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ。』と言った」マタイ27:4
「しかし、彼らは、『私たちの知ったことか。自分で始末することだ。』と言った」マタイ27:4
ペテロもイスカリオテのユダも、どちらも主を裏切ってしまった。 しかもペテロは三度も主を否み、呪いをかけてまで。どちらも同じ ように裏切ったが、最後は大きく違った。ペテロは赦しを受け取り、 主により回復させられ、主の昇天後、諸教会のリーダーとして活躍 した。 片や、ユダは、主を銀貨三〇枚で売り、「罪のない人の血を売った」 と後悔し、祭司長、長老たちのもとへ行った。その銀貨を返したが、 「私たちの知ったことか」と言われて、首をつってしまった。ペテ ロとユダ、何と違ってしまった事だろう。ペテロは裏切った時に、 主に向き、主の言葉に向いた。その時、主の言葉に思い当たり、 号泣した。 マリヤの主の亡きがらが無いとの知らせに、走って墓まで行った。 ガリヤラへ行くようにとの主の指示に、合わせる顔もない中、しか しガリラヤへ行った。ユダは後悔した時に、主のもとへ行かず、律 法学者のもとへ行った。主を求めず、主に頼らず、自分で決着をつ けてしまった。「自分で始末することだ」これはサタンの攻撃であ り、誘惑だ。主に頼らせない。 私たちにも来る。自分で何とかしなければ・・。失敗してしまった 時に、自分で、自分の力で・・。その時、担いきれない重荷に押し つぶされてしまう。絶望感に襲われる。そうでなく「わたしのとこ ろに来なさい」と絶えず招いて下さっている主もとへ、まず行こう。 罪の赦しがあり、回復があり、解決がある。平安へと導かれる。 -------------- 失敗や挫折の中に主を見失ってしまえばどれ程の暗やみだろう。こ の世の悲しみは死をもたらすの通りだ。自分の小さなプライドを捨 て、心配しておられる主の元へ行こう。
2017年02月02日(木) 「私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください」Uコリント6:13
「私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください」Uコリント6:13
パウロが「心を広くしてください」と言っているが、コリントの人 々は自分で自分の心を狭くし、窮屈にしてしまっていた。人から制 約を受けているのではない。人から狭くされるのではなく、自分が そうしている。それは、自分の罪を認めなかったり、御霊の促しや 示しをきちんと受け止めず、無視したり、ないがしろにする場合だ。 又、自分の失敗を主の前に隠したり、認めようとしない時、自分が 心を閉ざしてしまう。段々主の御声も人の言葉も聞かなくなり、自 分で心を曲げて行ってしまう。心が頑なになり、屈折した思いや自 己憐憫に閉じこもる。失敗した時に、素直に認めて、悔い改めるの ではなく、自己正当化し、言い訳を重ねるなら、更に自分を窮屈に して行ってしまう。 経験があるだろうか。自分のした事に対しては、責任が伴う。責任 を取るとは、きちんと自分のした事を認め、悔い改める事だ。人に 罪を犯したなら、謝罪する事だ。その時、主から赦しを受け取り、 深い安堵と平安を得る。豊かに赦される。 主からの叱責、人からの忠告や助言を拒む事も、自分を窮屈にする。 叱責や厳しい忠告は痛いが、心を窮屈にする事から守られる。今、 「心を広くして下さい」と示されているだろうか。主の御声に、人 からの愛の助言に耳を傾けて行こう。 ------- 自分を絶対化し柔軟になれない不自由から主は解放してくださった はずなのに、すぐに自分中心に戻ってしまう。御霊様の示しに気付 いたら主に心を開き光を受けよう。そして広やかに歩んでいこう。
2017年02月01日(水) 「すべてのことが私には許されたことです。 しかし、 すべてが 益になるわけではありません。 私にはすべてのことが 許されています。 しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」Tコリント6:12
「すべてのことが私には許されたことです。 しかし、 すべてが 益になるわけではありません。 私にはすべてのことが 許されています。 しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」Tコリント6:12
ストレートな罪はわかるので問題ないが、一見罪ではない、むしろ 良いものが要注意だ。よく気をつけなければ、その良いものにより 神との間が隔てられてしまう。食物は私達に必要であり、糧となり、 体を健康に保ち、楽しみを与えてくれる。しかし食べ過ぎると暴飲 暴食になり、健康を害する。逆に身体を壊してしまう。 他のものも同様だ。仕事、音楽、スポーツ・・は良い事であり、娯 楽や余暇を楽しむ事は決して罪でない。神は楽しみを与えて下さっ ている。ただ、それが過ぎると要注意だ。趣味は、生活に活力を与 えてくれる良いものだが、のめり込み過ぎて、それに支配されてし まうと、神からそれてしまう。 神のための時間が無くなってしまうなら、本末転倒だ。それをする 事で、更に主に近づけるなら、良いものであり、反対に、霊的食欲 が減退して行くようなら、問題だ。人は、ある日突然神から離れる のではない。少しづつ少しづつ流されて行き、気づかない内にだ。 いつしか霊的食欲が全く失せ、他のもので心がいっぱいになってい る。 サタンが様々なものをもって誘惑して来る。ある人が、非常に高額 のバイトに飛びついたが、早朝から夜遅くまでの勤務に疲れ果て、 デボーションが全く持てなくなった。経済的には良くても、心は虚 しくなるばかりで、辞めた。選択を誤ると、元も子もなくなってし まう。今、霊的食欲はどうだろう。 ------------ 何気ないもので時間をとられたり、つい夢中になるものにコントロ ールされる弱さは常にある。だからいつも神に顔を向けていよう。 神から離そうとする誘惑には、神の助けでしか勝利できない。