2017年03月31日(金)

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」ガラテヤ5:6


福音を伝える時に、議論になってしまった経験があるだろうか。議
論になるや、平安が失せてしまう。議論になると、自分の正しさを
懸命に主張しようとしてしまう。肉は、何とか相手をねじ伏せ、自
分が正しい事を証明したい。すると攻撃的になってしまう。これが
また相手の攻撃性を触発してしまう。

いつしか神の正しさでなく、自分の正しさに立っての自己主張にな
ってしまい、それこそ福音でなくなってしまう。神から離れ、愛な
どとは、ほど遠いものになる。無意識に陥ってしまう。正しく、正
論なのだが、愛を全く感じないということになり、実は神から離れ
た自分の正義を振りかざす事になってしまっている。

ある人が郷里に帰り、自分の妹に熱心に福音を伝えた。救われて欲
しいという熱心なのだが、何とか妹を説得したいばかりで、威圧的
になり、うまく行かなかった。次に、数年後に、帰省した。その数
年間に、姉には様々な厳しい苦しい試練が臨み、心砕かれる日々だ
った。次の帰省では、しみじみと妹と交わっただけだった。

だが妹が言った。「以前のお姉ちゃんは嫌いだった。でも、今のお
姉ちゃんは嫌いじゃない。好きだよ。話を聞きたい」と。驚いた。
神の正しさを笠に着て、あたかも自分が正しいと勘違いしていた、
自分の姿を見せられた。方向を間違ってしまう。神の正しさは、常
に愛に基づいている。
-------------
自分が、自分がとの自己主張で逆にかけ離れた律法を伝道をしてい
た苦い経験がある。恐ろしい緊張感を伝えてしまう。自分の義にも
支配されない神から与えられた愛をいつも手放さずにいたい。


2017年03月30日(木)

「だれに対しても、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」ローマ12:17


悪に対して、悪をもって報いるな、とある。生まれつきの性質、肉
は、悪には、悪で立ち向かいたい。仕返しがしたい。それも何倍に
もして、やり返さなければ気が済まない。肉は、悪に、悪で返すと、
スカッとする。敵対され、傷つく事を言われると、こちらも言い返
したなら、その瞬間はスッとする。やられっぱなしで、なるものか
と思う。

しかし、平安が失せて行く。誰しも経験あるだろうか。肉で、怒り
にまかせて、やり返すと平安が無くなる。又、それは連鎖を生み出
して行く。相手も激高して来る。連鎖はとどまるところを知らない。
「復讐するな」と言われているが、復讐は、更に怒りを膨らませ、
憎しみへと増幅させる。報復は報復を生む。そこで主は復讐は、神
に任せよと。

「わたしが報いをする」と。敵が飢えたら、食べさせよ。そうする
なら、彼の頭に燃える炭火を積むことになる。相手は良心のかしゃ
くに耐えられず、恥じ入り、悔い改めに導かれる。善をもって悪に
打ち勝てと。すべての人に善を図れと。肉は怒りに燃え、絶対に復
讐したい。悪をもって悪に報いたい。人間にはできない事を言われ
ている。

しかし、人にできない事が、神にはできる。これは奇跡だ。自分に
はできない事を認め、神の助けを求めよう。出来ないところに、御
霊が働き、御霊の力によって自分が変えられ、不思議を経験する。
祈りに答えられる。
------------
復讐は神のすること、神の怒りに任せよと言われる。肉と肉の怒り
にならないよう神の介在により守っていただこう。悪に善は自分に
は出来ないが、ただ祈っていこう。


2017年03月29日(水)

「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」ガラテヤ2:21



    
  
人間には良心が与えられている。その良心は、罪を犯すととがめが
来る。責めを感じる。そのとがめは苦しいので、無くしてしてしま
いたいがために、善行をする。善い行ないで、チャラにして、無か
った事にしようとする。言葉で、態度で、人を傷つけた時に、良心
のとがめが来る。

そのままでは平安が無いので、親切な行いをして返す。プラスマイ
ナスゼロにする。これで良心のとがめを取り除いて、良しとする。
時々あるだろうか。しかし、これは極めて自己中心だ。自分の良心
のとがめを無くしたいだけで、神への愛や、相手への愛などまるで
無い。発想も無い。ある人は、犯した罪に対するとがめから、懸命
に奉仕したり献金している事に気づかされた。

神のために懸命に奉仕して、自分の良心をなだめ、罪滅ぼしをする。
そして自分の善行で、偽りの平安を得る。人は気づかずに、これを
繰り返している事がある。そうであれば、主の十字架は全く必要な
い事になる。無意味になってしまう。主の血潮によってのみ、罪は
赦され、良心はきよめられ、どんな時も恐れなく御前に行ける。た
だ主の血による。

主の血に頼っているだろうか、それとも自分のわざに頼っているだ
ろうか。義が自分の力によって得られるなら、キリストの死は無意
味になり、いたずらに死なれたことになる。神の恵みを無駄にする
事になる。罪を、善い行ないで、帳消しにするのでなく、常に主の
十字架のもとへ行こう。
---------------
失敗を悔やみそれを自分の行いで償おうとするなら、いつまでも自
分の行いの足りなさを嘆くばかりの信仰生活ではないだろうか。主
の十字架の恵みと確信を握っていよう。


2017年03月28日(火)

「主はこう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブにいて祈ったことを、わたしは聞いた」イザヤ37:21



ヒゼキヤの時代に、アッシリヤ王のセナケリブがユダの町々を攻め
取った。彼はラブシャケを送り、ヒゼキヤや人々を脅す。大軍の、
強力な軍隊を誇示し、ヒゼキヤは、主が救い出すというが、そんな
言葉にだまされるな、信じるなと、揺さぶって来る。この危機にヒ
ゼキヤはどうしたか。

彼は衣を裂き、荒布をまとって主の宮へ行き、祈った。イザヤにも
祈りを要請した。私達に挑む、サタンも同じで、絶えず揺さぶって
来る。経済的困難、難しい対人関係、仕事上の悩み、信仰ゆえの戦
い・・それらに対し自分の無力を見せつけて来る。祈っても無駄だ、
神を信じて何になる、何も変わりはしない・・。

信仰に立たないように、妥協して生きるように誘惑する。楽に生き
られるし、世の成功を手にできる。サタンの揺さぶりだ。こんな時
には、「祈り」が対抗手段だ。ヒゼキヤもイザヤも祈った。その時、
神は奇跡を行われた。「彼はもと来た道から引き返し、この町には
入らない」「わたしはこの町を守って、これを救う」と。

そして、主の使いを遣わし、185,000人を討ち取った。その結果、セ
ナケリブは立ち去った。祈りが聞かれた。信仰に揺さぶりをかけて
来るサタン、今も耳元にささやいているだろうか。「信じても無駄、
祈っても無駄、何も変わらない、解決などない・・」サタンの攻撃
だ。対抗は祈り、秘訣は祈りだ。「わたしは聞いた」、主は聞いて
いて下さる。
--------------
サタンの声は巧妙にやる気をそぎ消極的な信仰生活へと引き下げて
くる。サタンの声を聞いていないか肉の目で見ていないかネガティ
ブに向かうとき祈ろう。出来ないは主にあって出来るに変わる。


2017年03月27日(月)

「あなたがたが、わたしのことばにとどまるなら・・ほんとうにわたしの弟子です。そして・・真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」ヨハネ8:32


自由とは、何でもかんでも自分のしたい事をする事ではない。それ
は放縦だ。人には肉の性質があり、肉の思うがままに、好き勝手に
歩んでしまう。その瞬間の快楽はあるが、心は必ず虚しい。ある人
々は、自分の気持ちに正直に生きるのだと、不倫を肯定するが、そ
れは正直なのでなく、わがままであり、罪だ。

魚は水の中で初めて、自由に、生き生きと生活できる。私達は陸で
自由なように、自由には秩序がある。魚は水の中が不自由と感じる
だろうか。秩序の中の拘束こそが自由なのだ。オーケストラで演奏
する時、皆が譜面通りに演奏する。その時、自由に素晴らしい演奏
ができる。各自が好きなように演奏するなら、混乱で、雑音だ。

スポーツもルールを無視して、皆が好き勝手にしたらどうだろう。
プレーが成り立たない。しばしば生まれつきの思いは、すべての拘
束から解き放たれる事が自由だと勘違いする。そうではなく、拘束
を受け入れて、従うこと、御霊の導きに従うところに、真の自由が
ある。真の平安と喜びを経験し味わう。

私たちにはくびきが与えられている。くびきから逃れるのでなく、
くびきをしっかり負う事が解放され、自由の道だ。御心から逃げる
と、一瞬の解放感はあるが、すぐに平安を無くし惨めになる。一見、
嫌で負いたくないが、しかし負うと、喜びと平安が来る。今、示さ
れる事があるなら、受け入れて従おう。真の自由を味わおう。
----------------
主の御心に従うことが不自由に思えることがある。でも罪と放縦に
コントロールされていてどうして自由と言えるだろう。主にとどま
ることが不自由に思える時こそ弱さを覚えて主に助け祈ろう。


2017年03月26日(日)

「彼らの心中の驚きは非常なものであった・・その心は堅く閉じてい たからである」マルコ6:51


弟子たちは、主から舟に乗せられ、こぎ出でた。すると真夜中に激
しい嵐に見舞われ、悪戦苦闘していた。その時、湖上を歩いて来ら
れた主を「幽霊だと思い、叫び声をあげた」「みなイエスを見てお
びえてしまった」。主を幽霊だと思った。なぜ、主を幽霊だと思っ
たのだろう。「その心は堅く閉じていたから」とある。

心が閉じていたので、主を見ても、主だとわからなかった。心の問
題であった。なぜなら、まず、主が湖の上を歩くなどと、思いもよ
らない事だった。「彼らの心中の驚きは非常なものであった」。な
ぜ、そう思ったのか。弟子たちは、主は偉い先生だが、人間だとし
か思っていなかった。

「パンのことから悟るところがなく」すぐ前にあった五千人の給食
の奇跡だ。その奇跡から何を悟るべきだったのか。主が、人となら
れた神であるということだった。しかし主が神だとは理解できなか
った。主を正しく認識していなければ、助けようと来て下さっても、
受け入れる事ができない。そんな事ができると思わないからだ。

不信仰は、信仰の力を削いでしまう。主は罪を赦すと言われる。主
には出来ると信じるなら、失敗しても悔い改める時に、喜びと平安
で満たされる。だがもし信じなければ、ずっと恐れと不安の暗闇の
中だ。心が閉じているだろうか。今日も共に歩み、愛し、御声をか
け、助けようとして下さっている主に、心を開いて行くことが大切
だ。

・・・・・・・・・・・
まず主を信じられない自分、信じようとしていない自分を認める事
が大切だ。それが前に進む鍵だ。そして助けを求める時に、御霊の
助けにより信仰が与えられる。すべての面で、自分の内に「無い」
事を認めて行く時に初めて、上から与えられる事を経験して行く。


2017年03月25日(土)

「すると彼は言った。『いや、わたしは主の軍の将として、今、来 たのだ』」ヨシュア5:14 


イスラエルの民は、ヨシュアに導かれ、橋も舟もないヨルダン川を、
主によって渡り、約束の地に入った。しかしすぐに最初の困難に直
面する。これがエリコの戦いだ。目の前に、エリコのそびえ立つ堅
固な城壁が立ちはだかった。私たちの人生においても、様々な問題
や困難が立ちはだかる。ヨシュアは目前の困難に臨んでいた。

そんな時に、目を上げると一人の人が抜き身の剣を手に持ち、立っ
ていた。今にも戦おうとの姿勢だ。思わずヨシュアは「味方か敵
か」と聞いた。味方であって欲しい。しかし相手は、敵とも味方と
も答えず、「主の軍の将」と答えた。敵でないなら、味方ではと思
うが、ヨシュアの上に立つ導き手だと。

「あなたが将でなく、将はわたしだ」と。ヨシュアは地に伏し「〜
して下さい」とあれこれ願ったのでなく「何を告げられるのです
か」と、主の御心を問うた。すると、「足のはきものを脱げ」と言
われた。はきものを脱ぐとは、自分の思い、方法、力を「明け渡し
て」、主に従えとのことだ。

「あなたの立っている場所は聖なる所」と。主が共におられる場所
だ。「ヨシュアはそのようにした」。ヨシュアは、自分の思いや力
を明け渡して、主に従った。するとエリコの城壁は見事に崩れ落ち
た。今、苦しい、難しい、辛く、ストレスとなる状況にあるだろう
か。しかし主は、そこは、主が同伴の聖なる地と言われる。主の軍
の将が来ておられる。はき物は脱いで、主の示しに従おう。解決の
みわざを見る。

・・・・・・・・・・・・
どうしてよいかわからない難題が、目の前に立ちはだかった時には、
主の軍の将がおられる。導くためにそこにおられる。自分を明け渡
し、御心を問い、その示しにその通りに従おう。主のわざが成され
目の前で城壁が崩れるのを見る。


2017年03月24日(金)

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」ローマ8:9 


私たちは寒暖計だろうか。外気温が指し示す通りに、反応している
だろうか。人がやさしければ、やさしく反応し、礼儀正しければ、
礼儀正しく反応する。そして、人が冷淡であれば、冷淡に、不親切
であれば、不親切に、敵対されれば、こちらも敵対する。これなら、
自分の幸せ、不幸せが、外界によって、人によってコントロールさ
れている事になる。

相手次第という事であり、それならまるで自分が無い。ここ数日を
振り返ってみてどうだろう。他人のあの言葉、この態度で、自分が
アップダウンして、振り回されていないか。他人の言葉で一喜一憂
し、人にほんろうされてしまっている。まず人に反応して、人の目
を気にしている自分に気づこう。

人の目を気にし、人を見ている時、神を見ていない。人に反応する
のでなく、内におられる御霊に反応し、御霊の示しに従い、生きて
行く時、真の喜びと平安がある。寒暖計でなく、サーモスタットだ。
ある人が、自分に辛く当たる相手がいて、挨拶しても無視された。
しかし、人に反応するのでなく、御霊に従って生きる決心をしてい
たので、相手に関係無く、無視されても、自分は御霊に従い、挨拶
を続けていた。

ある時、仕事上で相手に助けられたので、感謝を告げた。すると相
手の表情が突然変わり、まさに良心のとがめを感じていたようだっ
た。その後、心通い合う間柄にされた。どんな時も御霊に従い、行
動して行く時、寒暖計の人生でなく、御霊の実を結んで行く。
------------
肉は敏感に反応するが、私たちには御霊の助けがある。主に祈り主
の見ておられるようにと行動を切り替えていこう。イエスも、ノー
も御心の対応に主が導いてくださる。


2017年03月23日(木)

「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」ルカ22:32


誰も皆、信仰生活の中で、失敗する。人間である限り、必ず失敗は
ある。ペテロは主が十字架にかかられる、一番大事な局面で裏切っ
てしまった。しかし、ペテロは裏切ろうと思っていたのではない。
自分は死んでも、主について行こうと思っていた。だから。兵士が
主を捕らえに来た時には、剣を抜いて雄々しく戦おうとした。

ユダは裏切ろうと画策していたが、ペテロはどこまでも従おうと思
っていた。しかし、ペテロは自分の弱さを知らなかった。そのため
失敗してしまった。そして、主は、ペテロが「失敗しないように」
ではなく、「信仰がなくならないように」と祈られた。失敗しない
ようにとも祈れたはずなのに、そうでなく、「信仰がなくならない
ように」だった。

つまり失敗した後、悔い改めて、赦しを受け取り、尚も立ち上がっ
て従って行けるようにと。裏切りはサタンのしわざで、強烈なふる
いだった。しかし主はサタンをも、ペテロを砕き、建て上げるため
に利用された。将来の諸教会のリーダーとして見据えておられた。
主は自分の力に頼るという、ペテロの一番の急所を突かれ、砕かれ
た。

そして、ペテロは主により回復させられ、御霊に満たされて、殉教
の最期まで働きを成し遂げた。あなたも失敗しただろうか。主は信
仰がなくならないように、祈って下さっている。悔い改めて、赦し
を受け取って、立ち上がって従って行こう。失敗をも益とされて、
主の器へと整えて行って下さる。
-------------
主に失敗しないようにと言われたなら誰が従えるだろう。十字架の
贖いゆえに失敗は完全に赦され、失敗した弱さのままを受け入れて
また尚も期待してくださる。何と幸いな人生だろう。


2017年03月22日(水)

「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから」士師記7:2 


当時、イスラエルは絶えず侵略受け、苦しい状況にあった。神はギ
デオンを立て、民を率いて、諸国と戦わせようとされた。呼びかけ
に32,000人が集まった。だが、相手は135,000人の大軍で、圧倒的
不利で、勝ち目はない。その時、神は極めて不思議な事をされた。
ギデオンに、兵士の数が多過ぎるので、減らすよう命じ、最後には
たった300人が残された。

そしてその300人で戦うと、ギデオンが大勝利した。この時、神は
兵士を減らす理由として「大人数だと自分の手で救ったと、自分を
誇るから」と言われた。この戦いの勝利が人間でなく、神の力によ
るものと明確にするように、あえて兵士の数を減らされた。私たち
は、自分がもっと強ければ、能力があればと思うだろうか。

しかしもし強ければ、神の働きを自分が奪い、自分を誇り、自分の
栄光にしてしまう。信仰的体験さえも、肉は誇る。パウロは、素晴
らしい啓示を受けた。第三の天にまで引き上げられるという、特別
のものだった。パウロも、自分を誇る弱さがあり、そのため余りに
も大きな特別な恵みに、高ぶる事がないように、とげが与えられた
と言っている。

苦しく辛いとげであったが、それによって高ぶりの罪から守られた。
高ぶりからの守りは、何と感謝な事だろう。そして更に素晴らしい
啓示を受けた。「わたしの力は弱さのうちに完全に現れる」と。こ
の世では誇れるのは強さだが、私たちは弱さを誇れるとは何という
恵みだろう。弱さの中にこそ、神の力が完全に現れる。
-----------
戦う力の源が神によらなければ、燃えるような戦意があっても真の
勝利とは言えない。圧倒的な数や力の前に今恐れがあるなら、この
弱さの器の中に、大いなる御神の力だけを頼り求めていこう。


2017年03月21日(火)

「肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのため・・自分がしたいと思うことをすることができない」ガラテヤ5:17 


私たちは新しく生まれた。御霊によって生まれ、霊の人とされた。
しかし、新しい人と同時に、肉もまだ私たちの内にある。御霊に従
おうとすると、肉が邪魔をする。その時に心に激しい葛藤が生じる。
日々経験する。いつも戦いがある。「肉に従う者は肉的なことをも
っぱら考え、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考える」
と、思考により、生き方が変わって来ると言っている。

日々の生活で、何を考えながら生きているだろう。自分の事、欲望
の事ばかり考えているだろうか。憎み、妬む相手、赦せない相手が
いて、その相手の事ばかり考えているだろうか。それとも、主のこ
とを考え、御心を絶えず求めているだろうか。まず思考があって、
行動があるので、その絶えず考えている事が、行動になって出てし
まう。

肉的な事を考えていると、肉に従ってしまう。普段、何を考えてい
るかは重大で、その人を形造る。肉に対抗する力があるのは、御霊
だけだ。御霊に明け渡して歩む時、自分の力ではなく、御言葉に従
えるようになる。御霊の助けがあるので、肉はそこに存在している
が、肉ではなく、御霊に導かれた歩みができる。

ある人が、相手の言葉にカチン!と来て、攻撃的な言葉が出そうな
瞬間「主よ、助けて下さい!」と心の内で全身で拠り頼んだ。穏や
かな言葉が口から出て来て、御霊の助けに感謝した。御霊が共にお
られる。いつも拠り頼もう。
---------
いつでも肉に敏感に反応するがその先が大切だ。その都度、主に明
け渡し御霊の助けに頼ろう。何度でも、助けてください。お委ねし
ますと主に明け渡し沸いてくる肉の声を途中で打ち切っていこう。


2017年03月20日(月)

「また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった」マタイ13:7


主と出会うまで、私達の心は、この世の見えるものに支配され、見
えるもので心を満たして来た。見えないものに目を注ぐことなどな
かった。見えるものとは、富や、人から来るものだ。人から評価さ
れたい、認められ、賞賛されたい、人に良く思われたい。それがす
べてなので、一心にその事を求めて、生きて来た。

絶えず人にどう思われるかが不安で、心を配る。それがこの世の心
づかいだ。なぜ私たちは、そんなにも富や人からの評価を求めるの
だろう。罪が入り、神との交わりが断たれた結果、被造物なので、
何かに頼らずには生きて行けない。神無しで生きると、人は何かに
必ず頼っている。人でなければ自分に頼っている。

人は目に見える富にしがみつく。富が人生を保障してくれると錯覚
する。富が夢を叶え、幸せをもたらしてくれると勘違いする。又、
神との交わりが断たれた結果、人からの愛を求めるようになり、人
の好意、人の賞賛を求める。それにより心を満たそうとする。「み
ことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふ
さぐため、実を結ばない・・」

御言葉が根づかないのは、世の心づかいと富の惑わしが、御言葉を
ふさぐからだと言っている。あなたの心の奥はどうだろう。富によ
って、人から良く思われることによって安心を得ようとしているだ
ろうか。まずそのいばらが、自分の内にあることに気づく事から始
まる。主は取り扱い、いばらを抜き、豊かな実を結ぶように助けて
下さる。
-----------
見えるものにすがっていた所から御言葉を信仰を持って聞く生活へ
と変えられたが、見えるところは強くいばらとの戦い、葛藤は続く。
気づいたらいばらを主に渡し豊かな結実の時を見つめていよう。


2017年03月19日(日)

「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはな い」ヘブル10:17


「他人と過去は変えることができない」との有名な言葉があるが、
変えられない過去の失敗を思い、くよくよと暗くなる事があるだろ
うか。普段は目の前の事に忙しく、忘れて生活しているが、何かが
あると、過去の過失、罪、傷が思い出されるだろうか。フラッシュ
バックし、心沈み、重苦しくなり、落ち込む事があるだろうか。

悔い改めたその事は、主の十字架の血潮によって、もうすでに完全
に赦されている。「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思
い出さない」と言われる。取り返しがつかないと思う失敗、又、ミ
スした選択、もしあの時、違う選択をしていたら、この時、違う対
処をしていたら、又、逃してしまったチャンス、あの時・・、この
時・・今、自分の人生は全く違った結果になっていたかもしれない・・
堂々巡りしては、くよくよと後悔するだろうか。

しかし、もし神が、あなたに違った道を歩ませたければ、その時、
そう出来なかっただろうか。心の奥にとがめや不安がある時、前進
が出来ない。感謝と喜びが奪われてしまう。過去のその所に神を認
めよう。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すこ
とはしない」と主は宣言して下さっている。

罪の全き赦しを受け止め、感謝しよう。赦された気がしないと、何
度も何度も同じ事を悔い改める度に、信仰が失せて行く。自分の感
覚と御言葉とどちらを信じているだろう。赦されたことの感謝を献
げて行こう。そして神の摂理と御心を認め、信仰もって受け入れよ
う。受け入れた時に、前に向かって進んで行ける。

・・・・・・・・・・・・
「彼らの罪を二度と思い出さない」と、悔い改めた罪を完全に赦し
て下さる。感情、感覚、感じがどうのでなく、御言葉のほうを選択
し、御言葉に立とう。十字架のゆえに、二度と思い出さないとは、
何という恵みだろう。何と嬉しい事だろう。


2017年03月18日(土)

「ペテロはイエスに言った。『主よ。あなたが、私の足を洗ってく ださるのですか』」ヨハネ13:6


ある時、主が手ぬぐいを取って、腰にまとわれ、一人一人と弟子た
ちの足を洗い、ふき始められた。ペテロの番になると、「主が私の
足を洗って下さるのですか」「決して洗わないで下さい」と、余り
にも畏れ多いと拒んだ。この時代は、今でいうサンダルのようなは
き物で、砂ぼこりで常に足が汚れた。彼はその自分の汚れた足を、
我が師に洗ってもらうなどと、とんでもないと思ったのだ。

常識ではそうかも知れないが、信仰的には違う。それは自分の汚い
部分を、人に決して見せたくないという事だ。私たちも醜い部分、
弱い部分はおおい隠したい。誰にも知られたくない。自分も見たく
ない。しかし、主はそこをあらわにし、主が洗わなければ、何の関
係も無くなると言われた。その部分でこそ、主との関係が深められ
ると。

私達は見栄えの良いところ、能力のあるところを見せたい。人に認
められたいし、評価されたい。しかし、主との関係ではそうではな
い。弱い、醜い、汚い部分をすべて主に広げ、明らかにする時に、
赦され、新たにされ、造り変えられて行く。主は弱さを受け入れ、
罪を赦し、傷をいやして下さる。

主に心を開き、真実を打ち明けて行くことだ。その事により主との
関係が親密にされて行く。この世の価値観は、弱さは悪で、強いこ
とが善だ。しかし、弱さの中にこそ、神の力が臨み、神により強く
されて行く。弱さや罪を認めずに、隠す事こそ、主との関係を妨げ
てしまう。「わたしが洗わなければ。あなたはわたしと何の関係も
ない」と。汚い足を洗って頂こう。

・・・・・・・・・・・
主が、ずっと足を洗い続けて下さるとは、何という恵みだろう。罪
を犯さないのでなく、日々犯す罪を、赦し続けて下さる。赦されて
赦されて生きて行ける。日ごとに足を洗っていただいて、ずっと主
と共に歩み続けられるとは、何と幸せだろう。


2017年03月17日(金)

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」詩篇139:24



ある働き人が、大きな特別イベントで、メッセージを頼まれた。重
大な働きだ。準備の時期になると、心を備え、整え、祈り始めた。
そしていよいよメッセージの準備にとりかかろうとするが、なかな
か上から与えられない。尚も祈り、準備をするが、どうしても与え
られない。その内、期日がどんどん迫って来て、焦りも生じる。

前々日になっても与えられずに、もうどうしてよいかわからない。
腹を決めて、祈りに徹した。自らの心を探られるよう、内側を照ら
されるようにと祈りに祈った。すると、心の奥が照らされた。数名
による非難と批判の言葉に、ひどく傷つき、赦せない思い、隠れた
強い憎しみが潜んでいた。

自分では決して認めたくない事なので、無いことにし、封印してし
まっていた。主の御前に、心底涙ながらに悔い改め、一人一人の
福を心から祈った。その時、心がすっきりして、平安におおわれた。
そして御言葉が与えられ、上からのメッセージが与えられた。大き
な喜びと共に、豊かに祝福されてそのイベントは終えた。

自分で自分の内にあるものはわからない。御霊の光に照らされた時
に初めて認識できる。「主よ。私を探り、私の心を知って下さい。
私を調べ、私の思いを知って下さい」が祈りだ。何か前に進めない
時、祈りが聞かれない時、何かしっくり来ない時、「心を探り、調
べて下さい」との祈りに持って行こう。確かな指針へと導かれる。
--------------
何気ない言葉で落ち込んだり、闇の中で光があたらない傷を抱えて
いないか。いつも喜び、感謝する生活でありたい。私を探り、私を
調べの祈りが日々、必要な者だ。


2017年03月16日(木)

「あなたのあわれみは大きい。主よ。あなたが決めておられるように、私を生かしてください」詩篇119:156


星野富弘さんは、脊椎損傷のため、首から下が全く動かない身体に
なってしまった。深い苦しみと悲しみ、絶望の中にいたが、聖書に
触れ、主の救いに入れられた。主と出会い、人生が一変した。ある
時、口は動くので、絵筆を口にくわえてみた。花の絵を描き、様々
な花の絵を描き続けた。

この絵と共に、心から湧き出る詩が、沢山の人々の心を捕らえ、深
い感動を与えている。多くの傷ついた人々の心を癒し、温めている。
彼は神を信じたからと言って、身体の奇跡的いやしがあったわけで
はない。状況は何一つ変わらない。神を信じても良い事はないのか。

いや、そうではなく、むしろ彼が不自由な身体という、主の御心を
しっかり受け止め、受け入れ、その中で感謝して生きているからこ
そ、人々を励まし、力づけ、引き上げて行く事が出来る。感動を与
える。私たちも一人一人の境遇はそれぞれ全く違う。ある人は難病
かも知れない。ある人は障がいを負い、また様々ななハンディがあ
るかも知れない。

しかし、それぞれが主から与えられた、境遇を受け入れて、そこで
生きて行く時に、神の御心を実現して行くことになる。与えられた
境遇、状況を受け入れる時、周囲にそれがどんなに大変に見えても、
本人には平安と御霊の喜びが来る。今、必要なのは、環境を受け入
れることだろうか。もし、出来なければ、そのまま祈り、そう出来
るよう助けを求めよう。御霊が働き、助けて下さる。
---------
受け入れられない現実を前にして、逃げられるものなら逃げてしま
いたいと思う。その心が変えられ、主のされることを完全に受け入
れ、更に讃美して生きていける姿に心が震える。主の決めておられ
るようにとの祈りは本当に難しい。


2017年03月15日(水)

「・・神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」エペソ4:32 



誰しも経験するところだが、人を赦すことは非常に難しい。なか
なかできない。ある人が善意で、精一杯の時間と労苦を注いで、
懸命にした事を、別の人から批判された。それも、自分に直接言
わずに、悪口のように陰で言われた事に、ひどく傷つき、怒りが
湧いた。その怒りは、もう殴りかかりたいほどだった。

心は乱れ、悶々状態だ。もう激怒で、デボーションの時に、祈れ
なくなってしまった。どうしても赦せない。腹が立つ。憎しみが
生じる。祈りの言葉も発せられないまま、しかし、御前にいた。
時間の経過と共に、このままで良いことはないと思う、もう一人
の自分もいて、言葉を発し始めた。

「赦さないといけないですよね」「御心は赦すことですよね」し
かし「絶対に赦したくない。これが本音です。これが私です」「で
も、心に全く平安がなく、苦しいです」気持ちをそのまま祈り始め、
心の内をあるがまま吐露していると、主の十字架が迫った。「のの
しられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず」

「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」「悪をも
って悪に報いず・・かえって祝福を与えなさい」。何だか心がじん
わり温かくなった。何もかもご存じで、包み込まれている感じがし
た。初めての経験だった。不思議に心が穏やかさで満ちて「赦そう」
と思えた。「赦します」と祈った時に平安でいっぱいになった。
-------------
赦せない心と一人で戦わず、主の御心へ明け渡せるよう祈ろう。赦
されている自分を発見するかもしれない。怒りを手放せるよう主が
時々に指針をくださる。祈りの交わりこそが平安と救いだ。


2017年03月14日(火)

「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」ガラテヤ5:16


ある人が主を信じた時に、今まで感じた事のない喜びが湧いた。最
初は、純粋に嬉しい日々を過ごした。しかし歳月の経過と共に、段
々心に葛藤が生まれ、以前よりも罪が意識されるようになり、辛く
感じた。そんな中、救われた時に新しい性質が与えられ、しかし古
い性質もそのまま残っていて、御霊によって歩む事が信仰生活なの
だと学んだ。

教会の中にいて、自分の強いプライドが頭をもたげて来ることがわ
かった。人にどう見られているかが気になって仕方がない自分。良
く見られたい、信仰深く、霊的な者に見られたい。プライドがむく
むくと出て来る。この世ではなく、信仰者の中において認められた
い、評価されたい、そんな自分に気づかされた。

まっすぐに主を見上げる心が、人からの賞賛、栄誉、人との比較に
向いてしまい、心がざらつき、当初の喜びや平安が遠いものになっ
た。しかしその中で、主にとどまること、祈りの重要性、御言葉の
力、自分の力でなく、御霊によって歩むことを教えられて行った。
行きつ戻りつを繰り返しているように感じてしまうが、確かに主が
成長を与えて下さっている。

すべての人に新しい性質と古い性質がある。それは正常だ。根深い
肉の性質もある。しかし古い性質と新しい性質の葛藤の中で成長し
て行く。砕かれ、学ばされて行く。自力で出来ないこと、委ねるこ
とを教えられて行く。主が成長を与えられる。御霊の気づきに感謝
し、学んで行くことが大切だ。御子のかたちへと変えられる過程だ。
-----------
どこまでも自分しか見られない肉にあって、新しい御霊の導きが与
えられていることは感謝だ。葛藤もまた祈れる。古い性質のまま流
されず選ぼう。瞬間、瞬間祈りながら御霊に歩もう。


2017年03月13日(月)

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」マタイ5:9



「平和をつくる者は幸いです」「義を結ばせる種は、平和をつくる
人によって平和のうちに蒔かれます」。義を結ばせる種は、平和の
うちに蒔かれる。争いや恐れ、混乱の内にではない。「平和のうち
に」だ。その平和をつくる人になるためには、まず自分自身が平和
を持っていなければならない。

自分の内側が、赦せない思いや憎しみ、敵対心、復讐心でいっぱい
なら、到底平和をつくり出すことはできない。又、思い煩いや不安、
恐怖でぐちゃぐちゃの混沌状態なら、とても人と人の間に、平和を
つくる事などできない。重要な事は、まず自分と神との平和を持つ
ことだ。神との関係が第一だ。自らの内にある問題を、神のもとに
持って行く時、神は取り扱って下さる。

神の御手に置く時に、その問題を一歩一歩導かれる。時間をかけな
がら、導かれる場合もある。しかし、神の御手に置かれた事で、心
は平安になる。神を避けたり、隠れたりでなく、神との関係が正し
くなるからだ。又、罪を犯した時、告白するなら、その罪は赦され
る。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。

主が罪を認めない人は幸いである」とあるように、主の十字架のゆ
えに、罪無しとされる。その時、神との和解があり、心は平安にさ
れる。罪の赦しを受け取り、一つ一つの問題を明け渡し、従う姿勢
でいる時に、状況に関係なく平安が与えられる。その時、御霊によ
って、平和をつくる者として用いられる。
------------
たましいに安らぎを持っていることが何よりの幸せだ。今、罪も重
荷も主に任せきって御前に幼子のように安心しきっているだろうか。
確かな主の愛に繋がっていよう。主の平和を人に与える者になろう。


2017年03月12日(日)

「門番は彼のための開き、羊はその声を聞き分けます」ヨハネ10 :3



主は、門だ。「わたしを通って入るなら救われる」と。安らかに出
入りし、牧草を見つけ、すべての面で守られ、豊かに養われる。と
ころが盗人も来る。門から入らないで、他の所を乗り越えて来る。

盗人は、盗み、殺し、滅ぼすために来る。脅し、痛めつけ、物を奪
い取って行く。盗人は嘘を言い、惑わし、だます。泥棒だ。羊飼い
なる主の御声を聞いてついて行くのと、この盗人の声に惑わされて
ついて行くのとでは、天と地ほどに違って来る。

豊かないのちにあずかるには、良き羊飼いの声をよく聞き取る必要
がある。私たちは毎日、何らかの声を聞いて生きている。まず思い
があって、行動が生まれるので、まず何らかの声を聞いて、それが
行動となって行く。それが盗人の声を聞いていたらどうだろう。神
の御心と、正反対の方向へ向かってしまう。

門から入らないで、他の所から乗り越えて来るのが盗人だ。唯一の
門、主、以外からの声だ。サタンの声、肉の欲望から湧き上がる声、
人の声、新聞、テレビ、マスコミから物凄い勢いで押し寄せる声が
ある。私たちに羊飼いが与えられている。祈り心で、常に羊飼いの
声に耳を澄ましていよう。

真の羊飼いの声は、平安で、信仰的で、確信を与えてくれる。「羊
は、彼の声を知っているので、彼について行く」。日々、地道に主
と交わりながら、時を重ねることにより、主の御声を親しく知って
行ける。今、どの声を聞いているのだろう。羊飼いに耳を傾けよう。

・・・・・・・・・・・・
サタンであり盗人の「お前はダメだ、ダメだ。失敗ばかりしている。
滅びだ」の声を聞くだろうか。「わたしがいる。罪は赦されている。
失敗から学べば良い」との声だろうか。いつも「主よ」と、仰ぐ時、
聞くべき御声を聞き分けるよう助けられ、羊飼いについて行ける。


2017年03月11日(土)

「だれでも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分 の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」マタイ16:2 4



主は、ペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするも
のだ」と言われた、そのすぐ後で、弟子たちにも言われた。「だれ
でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架
を負い、そしてわたしについて来なさい」と。弟子たちは主につい
て来ていたが、従うために、「自分を捨てること」と「自分の十字
架を負うこと」を言われた。

ペテロに「人のことを思っている」と言われたが、主に従うために
は、その自分の思い、肉の思いを、捨てる必要があると。「自分
が」良かれと思う思いと、「主が」良いと思われることが、しばし
ば違う。神の思いと人の思いが異なる。どうしても自分はこうした
いとの強い思い、強い主観がある時に、思い込みが強くて、それが
妨げとなり、見えなくなってしまう。経験あるだろうか。

主につき従うためには、その強い思いをまず明け渡す必要がある。
そして「十字架を負うこと」、これは自分の思いでなく、神の御心
に従うことだ。自分を神の御旨に従わせて行く。主も、神のあり方
を捨て、ご自身を捨て、十字架の死にまで従い尽くされた。「自分
の思いを捨て」「神の御旨を行って行く」この歩みをして行く時に、
神を真に知り、出会う体験をして行く。

例えば海外旅行はどうだろう。チケットを購入するなら実際に搭乗
できて、楽しい旅行を満喫できる。しかし購入しないなら乗れない。
同様に、もし御言葉を聞くだけでなく、実際に従うなら、大きな喜
びを経験する。示されるままに、一歩踏み出そう。

・・・・・・・・・・・
信仰人生は、自分の思いを捨てて行くことの歴史だ。自我が、強い
自分の思いを握り締め、放す事は不可能に見える。人に出来ない事
が神には出来る。助けを求める時、捨てる事が出来るように、御霊
が助けて下さる。そして手放すほどに御霊の喜びと平安が増し加わ
る。


2017年03月10日(金)

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」マタイ16:23


主が「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえる」と十字
架の贖いをはっきりと話された時に、ペテロは「そんな事が起こる
はずがありません」と主をいさめた。その時に、主は「下がれ。サ
タン」とペテロに向かって言われた。その前に、「あなたは生ける
神の御子キリストです」と信仰告白したばかりだった。この事を明
らかにしたのは、人間ではなく、天の父だと。

そのすぐ後で、今度はサタンの声に聞いている。ペテロがサタンが
らの思いを受け入れたのは、「神のことを思わないで、人のことを
思っていた」からだ。ローマ帝国の支配から解放してくれるはずの
主が、死ぬ、殺されるなどと有り得ないことだった。私たちも、思
いを吹きかけるサタンに欺かれてしまう時は、神のことが飛んでい
て、肉の思いにいる時だ。

その時は、決まって神が意識から飛んでいる。目に見える所しか見
ていない。サタンにだまされてしまう。肉の損得、ある時は肉の情
に支配され、神無しで判断してしまう。パウロは「今後、人間的な
標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリスト
を知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません」と
言った。

人間的な標準とは、肉の価値観だ。サタンは巧く肉の価値観、この
世の価値観に誘い、方向を誤らせ、道を間違わせてしまう。自分は
正しいと思い込むのでやっかいだ。御言葉、御霊の示し、主に祈り、
拠り頼んでいよう。御霊が気づきを与え、御心へと導かれる。
----------------
御言葉を聞いて満たされ立ち上がり、今度は健康第一、家内安全の
価値観で励ましたり慰めたりしてしまう。正しいこと良かれと思う
ことで堂々と主のご計画の邪魔をしてはいないか。弱さを覚えたい。


2017年03月09日(木)

「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を来たのです」コロサイ3:10


赦せない相手がいると、時間があれば、その相手の事を苦々しく思
っている。腹の立つ相手がいると、絶えず思いに上り、場面を思い
起こしては怒りを沸き立たせる。忙しくて、目の前の事に集中して
いる時は、忘れているが、ふと我に返ると、怒りが燃える。繰り返
し〃思いに上り、自分で怒りをモンスターにして行く。

又、傷つけられた相手に、仕返しをし、復讐をする、肉の狡猾さは
驚くばかりだと言われている。巧妙に、ずる賢く、わからないよう
に仕返しをする。“人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だ
れが、それを知ることができよう”と言っている。ある人が、姑に、
きつく当たられて辛い思いをしていた。涙もしばしばだった。

しかし彼女も言った。「私は罪人。しっかり巧く仕返しをしていて、
私も姑をいじめていた。ひどい罪人。悔い改めに導かれた」と。
“彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と
言っています。人の内側のものと心とは、深いものです”怒り、赦
せない思い、憎しみ、敵対心、これらをしたい放題にするなら、幾
らでも増長させて行ってしまう。

怒り、憤り、悪意を捨ててしまいなさい。悪い欲を殺してしまいな
さいと言っている。上にあるものを求めよ。天にあるものを思えと。
人に腹を立てる時間を、主を思い、主の麗しさを仰ぎ見、恵みを数
えて行くならどんなに良いだろう。悪意を捨てよ。「地上のものを
思わず、天にあるものを思いなさい」。御霊が助けて下さる。
----------
被害者が容易に加害者にすり替わる陰険な心を持っている。ダビデ
のように弱さ、嘆き、愚痴も主に告げ、その心のまま主よと天に向
けよう。脱ぎ捨てることができる。主が新しく満たしてくださる。


2017年03月08日(水)

「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい」ヤコブ1:16


試練と誘惑はどこが違うのだろう。試練は神から来るもので、私た
ちの成長のためのものだ。試練は良いもので、逃げず、避けず、受
け止めて行く時、私たちを更に主に近づける。試練を通して砕かれ、
御子のかたちへと変えられて行く。試練を通して、忍耐が生まれ、
その忍耐を働かせる時、成長を遂げて行く。

また、試練に耐える時、いのちの冠を受ける。試練はトンネルの中
だ。しかしこのトンネルは必ず出ると信じる事が忍耐だ。神は必ず
良くして下さると試練のまっただ中で信じることが忍耐だ。その時、
必ず信仰が成長して行く。練り、きよめられて行く。誘惑はサタン
からのものだ。神は決して悪に誘惑される事はない。誘惑は私たち
を神から離して行く。私たちを滅ぼそうとするものだ。

誘惑は忍耐するのではない。拒否すること、その場を去ること、逃
げること。避けること。近づかないことだ。罪には一瞬の快楽があ
るので、罪は魅力的だ。それは必ず甘い。苦いものが誘惑になどな
らない。必ず心地良いものだ。食べるに良く、目に慕わしく、好ま
しい。しかし「だまされるな」と続く。

すべての良い贈り物、完全な賜物は上から来ると。光を造られた父
から下る。サタンの誘惑に陥ってしまうのは、良いもの、完全な賜
物が上から来ると、主が与えて下さると信じられないからだと。だ
から自分で何とかしよう、自分で手に入れようとして罪を犯してし
まう。主は与えて下さる。信じて行こう。
------------
試練により更に主を知り乗り越える力を与えられるように、誘惑か
ら逃れ、御言葉と祈りにより拒否して行くとき主はまた力をくださ
る。誘惑の前には立ち止まらず逃げよう。


2017年03月07日(火)

「怒っても、罪を犯してはなりません・・悪魔に機会を与えないようにしなさい」エペソ4:26


「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」とあり、御言葉に
よると、「怒り」と「罪」を区別している。「怒れ」「しかし罪を
犯すな」と。私たちは、怒ること=罪 と思ってしまうので、どん
なに腹が立つ時も、怒ってはならない、怒ってはならないと、とに
かく怒りを抑え込もうとする。

しかし、「怒り」と「罪」を区別しなければ、しつける事や、きち
んと戒める事や、注意する事ができなくなってしまう。主は、宮に
入り、宮の中で売買する者たちを追い出し、両替人の台をひっくり
返し、鳩を売る者の腰掛けを倒された。祈りの家を強盗の巣にして
いると、激怒された。

主は激しく怒られたが、別の箇所で「私たちの大祭司は・・罪を犯
されませんでしたが・・」と、主は全く罪を犯されなかったとある。
怒り自体は罪ではない。しかし、気をつけなければ、怒りは非常に
罪へと誘われやすい。「日が暮れるまで憤ったままではいけません」
とあり、その次に「悪魔に機会を与えないようにしなさい」と。

怒りを、まずとにかく主のもとへ持って行くことだ。相手との解決
が必要なら、そのように導かれる。主のもとへ行かないなら、サタ
ンはその怒りを溜め込ませる。そして怒りに支配されてしまい、巧
妙に仕返しや復讐をしようとして行く。しかし、まず主を呼び、そ
れをも、主に任せて行くようにと。「わたしが報いをする」と。
--------------
日が暮れるまで怒り続けているとはどれ程の怒りだろうか。すでに
自分ではコントロール不能になっている。主はこの弱さをご存知で
サタンに一押しさせぬよう、わたしに預けよと言ってくださる。


2017年03月06日(月)

「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました」マルコ12:43


主が献金箱に向かって座り、金を投げ入れる様子を見ておられた。
金持ちたちが次々と大金を投げ入れていた。そこに貧しいやもめが
来て、レプタ二つを入れた。極めて僅かなお金だ。しかし主は、こ
の女性がどの金持ちよりも沢山献げたと言われた。皆は有り余る中
から献げたが、彼女はあるだけ全部を献げたからと。

彼女はレプタを二つ持っており、その内の一つを献げても良かった。
もう一つで何かを買えたかも知れない。しかし、彼女の溢れる出る
主への感謝は、すべてを献げる行為となった。献金とは献身だ。そ
れは自分自身のすべてを主に委ねることであり、主は明日からの必
要も与えて下さる事を信じたゆえだった。

主はその信仰を見られ、受け取られた。この世界では、まず自分が
第一だ。何より自分が大切で、しっかり自分を守り、自分のために
確保する。それだけでは心配なので偶像を信心する。自分を第一に
し、金持ちのように有り余る中から少しは献げる。しかし、私たち
も、同じこの世の価値観にあるかも知れない。

神第一と言われるが、まず第一は自分で、自分を守ろうとする。そ
のため、どこまで行っても不安は尽きず、常に思い煩いは絶えず、
平安がない。自分で何とかしようとするので、すべてが自分の肩に
かかり、重荷に思い煩うばかりだ。まず神を第一にして行く時、秩
序が正され、すべての必要は備えられ、そして心は思い煩いから守
られる。
------------
主の豊かな富も祝福もどれ程期待して献げているだろう。献げるお
方が全て支えてくださるとの信仰に立ちたい。レプタ一つを自分の
手に残す信仰ではないのか、明日のための思い煩いも主の手の中に
お渡ししたい。


2017年03月05日(日)

「私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思い を巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています」詩篇143 :5  

                       
  
ここでダビデは「霊が衰え果て、心は内でこわばった」と言ってい
る。そして「たましいは追い詰められ、暗い所に住まわせられ」と。
非常に追い詰められた状況だ。心がこわばるとは、固くなって動か
なくなることだ。余りにも苦しい状況に、くじけそうだと。心がぼ
ろぼろの状態だ。

私たちも、信仰人生の中で、打ちひしがれてしまう、身動きとれな
い、どうにもならない状況を経験する事がある。心も動かなくなっ
てしまうほどの、大きな苦しみに遭遇する。ここで、ダビデは霊が
衰え果てた時に、どうしたかが記されている。昔の日々を思い出し、
主がなさった一つ一つに思いを巡らし、主の御手のわざを静かに考
えたと。

深い落ち込みの中で、以前の祝福、奇跡のわざ、主がされた事を重
い起こした。主と向き合って、静かに考えることが大切だ。以前受
けた一つ一つの恵みに、必ず今一度、引き上げられて行く。この苦
しみさえも用いられて、ダビデと主との関係が、更に深められて行
くことになる。

苦しみの時、主の御前で、祈り、交わり、主のわざに思いを巡らし
「静かに考えよう」。以前に、何度も何度も窮地から、救い出して
下さった主は、これからも同じように救い出して下さる。私たちも
苦しみを通るが、何よりもそれにより、主との関係が深められて行
く。

・・・・・・・・・・
厳しい経済的苦境の方が、状況を見ると真っ暗だが、しかし心静め
て祈った時に、あの時もこの時も、何度も〃必ず満たして下さった。
それを思った時に、今回も大丈夫だと、与えられる前に心平安にさ
れたと。どんな中でも主と交わる時、主により心が平安にされる。


2017年03月04日(土)

「これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」マルコ7: 23 



御言葉は「人から出るもの、これが、人を汚す」「内側から、すな
わち、人の心から出るものは悪い考え、不品行、盗み、殺人・・」と、
外からでなく、内側から悪が出ると言っている。「外側から人に入
って来るものは、人を汚すことができない」と。

ところが、対人関係で問題が生じると、どうしても相手が悪いと思
ってしまう。自分に何かの原因があるとは思わず、相手に原因を探
す。相手のせいでこの苦しみが起きていると。相手次第で、問題は
解決すると思っている。相手が変わる事を願う。しかし、御言葉に
よると、外側の問題でなく、自分の内側から悪が出ていると。

敵対心を抱いていたり、裁いていたり、見下したり、憎んだり・・そ
れが罪となり、自分の心から平安を奪っている。「隣人を愛しなさ
い」との律法を行なっていないので、心が苦しくなっている。しか
し、自分の事はいっさい見えず、相手の問題だとしか思えない。そ
の前の箇所の「その心は、わたしから遠く離れている」と言われた
パリサイ人と同じになってしまう。なかなか自分の内側はわからな
い。

しかし、新たにされた私たちに、御霊は絶えず気づきを与えるよう
に働いておられる。心の闇を照らす光だ。そして主の十字架の血潮
により、邪悪な良心がきよめられている。主から目を離さず、主に
近づいて行く時に、御言葉が心に入り、まず内側から喜びで満たさ
れて行く。その時、御霊に導かれ、正しく見ることができて、与え
られた御心を行なってゆける。

・・・・・・・・・・・・
様々な事で心が辛い時に環境が悪いと思う。又、対人関係なら、相
手により自分が苦しいので相手が悪いと思う。だが、もしそこに主
を置くと見方が変わる。外側でなく内側の問題だと。自分と主との
間が平安であるように従って行く時、どんな中でも平安にされる。


2017年03月03日(金)

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」箴言4:23


普段、心を見張るという発想が無いかも知れない。しかし「力の限
り」自分の心を見張り、見守れと言っている。霊の敵も、あなたの
心に、敵の思いを吹きつけようと朝から晩までやっきになっている。
見張っていないなら、気づく事なく、サタンにほんろうされたまま
になる。

人間中心主義のこの世の価値観も凄まじい勢いで、攻撃して来る。
見張っていなければ、テレビや新聞、雑誌の、神無しの価値観に飲
み込まれてしまう。力の限り、見張り、心を守れと言っている。又、
思いが大切なのは、行動の前に、思いがあり、行動は思いから生ま
れて来る。思いが行動となり、行動が習慣を形造り、習慣は人格を
形造り、人格は人生を形造る。

一番の基が「思い、思考」だ。ネガティブな思いに支配されると、
ネガティブな行動が生まれ、ネガティブは人格が形成されて行く。
この思いの部分を「神の言葉」により、新たにされて行くなら、御
言葉に基づいた行動が生まれて来る。

自分の思いを意図的に、神の価値観、神のみ思いへと形造ることが
大切だ。御言葉によって一新されて行くなら、神の御心を知り、そ
のように生きる事ができるようになる。そのためにどうしても祈り
と御言葉が必要だ。神の言葉から決して離れないで、絶えず御言葉
を口ずさみながら、「力の限り」心を見張っていよう。そこからい
のちの泉が湧き上がるから。
-----------
「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではあ
りませんか」と御言葉は宣言してくださっている。心を御言葉で満
たし心を塞いでくる思いに気づけるよう祈っていよう。


2017年03月02日(木)

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも止まってはならない・・さもないと滅ぼされてしまう」創世記19:17


不道徳と堕落の町と化したソドムとゴモラを、主は滅ぼそうとされ
た。しかしアブラハムの執り成しにより、ロトと家族を救い出すた
めに、御使いが遣わされた。御使いは、ロトに家族を連れて逃げる
ようにと告げた。しかし、娘婿はこの世の栄華を楽しみ、この世に
どっぷり浸かったロトが、町が滅びると言っても冗談だと思い、信
じなかった。

一刻を争い、妻と娘たちを連れて逃げよと促され、その時に「うし
ろを振り返ってはいけない」と言われた。しかし、ロトの妻は振り
返った。そのため塩の柱になってしまった。振り返っただけで、何
で、塩の柱に?と思うかもしれない。しかしその事は、ロトの妻の
本性を明らかにした。

御使いは、はっきりと「うしろを振り返るな」と言った。しかし、
彼女は従わなかった。従う事を拒否した、神への不従順であった。
そして、彼女はこの世への未練があり、後ろ髪を強く引かれた。愛
情がこの世にあり、世のものに執着した。心がそこにあり、彼女の
宝があった。心がそこにあったので振り返った。

私たちはどうだろう。心では何を愛しているのだろう。又、過去の
失敗や、傷に執着していて、自己憐憫や不満で、赦せない思いで、
ぐずぐずと後ろを振り返るばかりだろうか。主がそこから前に進ま
せようとして下さっている。振り返らず、脱出し、主を見上げて前
に進もう。
------------
前進を妨げるものは何だろう。示されたなら一切関わらず、命がけ
で必死で逃げよと言われている。それ程に強いものが私たちを捕ら
える。意志も弱くくり返し失敗する者だが主が手を取ってくださる。


2017年03月01日(水)

「見よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」マタイ28:20


あなたも心配事があるだろうか。あの事、この事、明日の事、将来
の事・・不安が巡るだろうか。心配事に集中するなら、思いはその
事でいっぱいになってしまう。朝から晩まで気持ちは重苦しい。し
かし目を転じて、御言葉に目を向けるなら、何と違って来るだろう。
行き詰まった時にはどうだろう。

エジプトを出たモーセとイスラエルの民を、パロの精鋭部隊と全戦
車が追いかけた。どんどん追いついて、目の前は紅海、背後は追っ
手、前進も後退も出来ない。絶体絶命の事態だ。しかし神は海を分
けて乾いた地を通らせられた。何という事だろう。道なき所に道を
造られる。目の前の苦しい状況に、必ず「逃れの道」がある。

荒野では、岩から水を出し、天からマナを降らせ、うずらを降らせ、
食物を与え続けられた。道中、昼は雲の柱、夜は火の柱で、ご臨在
をもって導かれた。約束の地カナンに入る際には、春先で雪解けの
水が溢れる、舟も橋もないヨルダン川を、神がせき止め、民を渡ら
せられた。難攻不落の、そびえ立つエリコの城壁を、神が崩された。

神に不可能は一つもない。主が共におられる。主の同伴があるとは、
何と心強い保障だろう。問題が無い事が平安なのでなく、主が共に
おられる事が平安なのだ。「何も思い煩うな」「わたしがあなたと
共にいる」と。共におられる主を仰ぎ、覚える時に、心は平安にさ
れる。
---------
問題が無いようにと思えば明日は思い煩いばかりだ。想定外の問題
が来たら、その中で主と共に心配して行けばよいと今をありのまま
感謝していきたい。乗り越える道も問題と共に来るのだから。